師走も大詰めを迎える、大晦日。いよいよ新年があと数時間でやってくる夜分。
国へ帰り家族水入らずで過ごす者、年越しライブに参加する者、家で大人しくしている者、ディスプレイの前で歌合戦を観戦する者……。様々な過ごし方があるのは、いつの時代も変わらない。
かく言う私は、今年は本国へは帰らなかった。懐事情もあるが、両親が旅行に出掛けているのだ。どちらかというと、行く年来る年を静かに迎えたい私は、親と肩を並べたり誰も居ない実家に戻るより、日本の下宿先に留まることを選択した。
年の瀬とは所詮、日付と月とついでに年が変わるくらいしか、他の月末と相違は見られない。故に、特段騒ぐほどでも無い。通常時にこのタイミングで帰省しているのは、好都合なだけである。その予定が無くなった以上、過ごし方を帰るつもりはなく、今日も明日も、何事も無ければ家から出ないつもりで居た。
予定の無い日常と同じように、端末で小説を読みながら、夜を過ごす。普段よりしんと静まりかえっているように感じるのは、他の部屋の住民が、みな実家に帰っているからだろうか。
そんな静寂を、唐突なコール音が切り裂いた。直後、別の画面がポップアップする。電話だ。折角の気分と集中力を唐突に台無しにされた私は、眉間に皺を寄せつつ、応答ボタンをタップした。
「やっほー。メリー、今何してた?」
普段にも増して快活な声。宇佐見蓮子だ。
「優雅に本を嗜んでいたところよ」
「つまり、普段通り、暇を持て余していたということね」
彼女は何でもかんでも自分に都合の良い方向へと物事を解釈する。まあ、普段通りというのは図星なのだが。
こう決めつけたならば、次に出てくる言葉は、容易に想像がつく。
「これから出掛けない?」
溜め息を吐き出す。案の定だった。蓮子はいつもそう誘って、夜の京都へと私を引っ張り出すのだ。
想定内の誘いを聞き流しつつ、立ち上がり、カーテンを開ける。なんと、雪が降り積もっていた。今時の京都にしては珍しい。どうりで、雑音が聞こえないわけだ。
「雪が降ってるんだけど。こんな天気で外に出たら、凍死しちゃうわ」
「安心して。メリーが寝そうになったら、私がビンタで叩き起こしてあげるから」
「痛いのはもっと勘弁して欲しいわ。そもそも、今何時だと思ってるの?」
「そろそろ二十三時。秘封倶楽部の活動時間としては、むしろこれからが始まりじゃない!」
「大晦日に、深夜の街をほっつき歩くのは、非常識でしょう?」
途端、画面の向こうから、鼻先で笑うような声が聞こえた。
「普段通りという私の指摘に対して、貴女は反論しなかった。つまり、今回の大晦日を特別視していないということ。にもかかわらず、12/31であることを理由に出掛けることを拒むのは、筋が通っていないんじゃあないかしら?」
「ぐ……」
痛いところを突かれてしまった。仕方が無いので、反論せず、逡巡する。
大晦日。外は雪。絶対に寒い。帰りは年明け、それどころか、日の出を見に行こうと言い出して、遠出させられる羽目になるかも知れない。
起こりえる状況を天秤の皿に積み重ね、自身に問う。そんなことをするために、寒空の下、外へ出る価値はあるのか、と。
――天秤は、元々既に傾いているのだが。
「……缶コーヒー、勿論ホット」
「肉まんも付けるわ」
さて、防寒対策をしっかりしなければ。
「いつもの駅前?」
「さっすが! 話が分かってる! じゃあ三十分後に集合で!」
こうして、私は雪が降る大晦日の深夜に、外出することとなった。
◆
雪はその勢いを衰えることも強くなることもなく、しんしんと舞い落ち、道路や塀、河川敷に積もっている。ブーツの靴底が、平気で隠れてしまうほどに。
深夜という時間帯、そして大晦日という節目では、当然とばかりに、駅前の人通りは少ない。その誰も彼もが、白い息を吐き出しつつ、傘を差して雪から身を守っていた。それは至極当たり前な光景だった。雪だって解ければ水、雨と殆ど変わらない。服に付着すれば湿る、濡れる。濡れることを、普通の人間は忌避する。雪だろうが雨だろうが、傘を差さずに肩で風を切る人間は、傘そのものを忘れたうっかりさんか、濡れることを厭わない自由人ぐらいだ。
そして私は忘れていた。宇佐見蓮子は自由人なのだと。
「いやー、寒いね!」
帽子や肩に白く冷たい結晶をちりばめている彼女は、私の姿を認めると、ピーコートのポケットに突っ込んでいた手を挙げて振り、開口一番に笑って見せた。生まれて初めて雪を見た子犬のように、元気そうな自由人だ。よく見ると、耳が赤くなっている。
「風邪ひくわよ」
私はというと、勿論、マフラーを巻き、ダッフルコートを着込み、手袋をはめ、傘を差している。防寒対策はバッチリだ。
「寝正月は嫌だなぁ、色々と。看病してくれる?」
「丁重にお断りさせて頂きます」
代わりに、傘を傾け、彼女の体から雪を守ることにした。看病よりは簡単だ。
「ありがと。これはお礼の缶コーヒー」
「どうも」
渡された缶コーヒーをポケットに入れていると、蓮子は付着した雪を叩いて払い、私の隣に並んだ。そして、どちらからともなく、駅前から離れる方向へと歩き出す。
「で、何するのよ。今年と来年の境界をジャンプで越えるの? それとも、縁起を担ぐために二年参り?」
私の問いに、はにかみながら彼女は答える。
「雪が降ってたら、テンション上がって外に出たくならない? 理由はそれだけ」
「やっぱり犬だったわね」
「メリーはさしずめ、猫?」
「はいはい、私は暖房の効いた部屋で丸くなってたわよ」
「マエリベリー・ニャーンの家に炬燵は無いの?」
「人の名前で遊ばないで頂戴。炬燵機能付き座卓は無いわ。貴女、何回家に来てると思ってるの。……そういえば、実際に見たことも入ってみたことも無いかも」
「炬燵の魔力は尋常じゃないわ。その魔力に取り憑かれたら最後、二度と外には出られないという……」
「最早妖怪の類いじゃない、それ」
「そんな妖怪が実家に居るんだけど、折角だし、年明けは東京にでも行く? 炬燵の境界を暴きに」
「魅力的ね。ついでにお年玉もいただいちゃおうかしら」
「中々図々しいわね」
「勿論、蓮子から貰うつもりだけど」
「同い年相手に何たかろうとしてるのよ」
クスクス笑い合う。いつにも増して軽々しい冗談を重ねていたら、明日以降の予定が出来てしまった。そうして歩いていると、遠くから鐘の音が響いている。除夜の鐘だろう。
「今は何回目なのかしらね」
「流石に一回だけじゃ、分からないわよ」
「二回聞いたら当てられるの?」
「突く総数が一〇八回だとして、丁度一〇八回目と同時に年が明けるとするなら、だけど。鐘の音の間隔と、現在時刻が分かれば、あとは小学生でも暗算できる」
「あー、確かに」
またもや鳴った。音が先程より大きく、どことなく溌剌さを感じる。きっと、元気いっぱいな近所の小学生が撞いたのだろう。
蓮子は、端末で時間を確認してから、数字をぶつぶつと呟いている。夜空が雲で覆われている以上、彼女の眼はごく平凡な眼球と大差ない。
「……蓮子は、この一年で溜まった煩悩を払ってみたい?」
除夜の鐘を撞きに行かないか、そんなニュアンスで放った言葉だった。
私達の足音と、何気ない問いかけは、閑静な住宅街に響き渡る前に、積もった雪に吸い込まれる。どこか弱々しく、数も少ない街灯は、舞う雪を静かに照らし、空中をきらきらと輝かせていた。
「人間、生きてたらいくらでも欲を掻くからねぇ。私の場合、知識欲は底知れないし、一〇八回じゃ到底足らないよ。それに……」
白い息を吐き出して、彼女は言葉を続ける。
「払ってなかったことにしても、確かにそこにあったという事実までは、消えないからさ」
首を傾げる。
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。分かりやすく言うなら、手に持っているAという物体を投げ捨てたって、私がそれまでAを持っていたという情報までは無くならないってこと。情報は、蓄積していく一方なのよ」
「確かにそうね。でも、その事実だって、いつか忘れ去られる、つまり消えてしまうじゃないかしら? 記憶なんて、最たる例だと思うけど」
「それは、無くなったんじゃなくて、他の記憶に埋もれて、簡単には参照できなくなったってこと。だから言ったでしょう、情報は蓄積していく一方だって」
「理屈は分かったけど、つまり何が言いたいの?」
傘の下に、はらりと粉雪が迷い込む。蓮子が手袋を脱いだ手で受け止める。雪は彼女の体温で解け、水となる。でも、彼女の掌に雪があったという事実は――。
「無かったことには出来ない。無視できない。にもかかわらず、安易に消そうとする、無かったことにする。それは即ち、過去を軽んじることに他ならない。過去とはつまり、今までの積み重ね、今に連綿と繋がっているもの。それを軽んじることは、今の自分を、そして、今の自分に関わる人を蔑ろにする行為なのだと、私は思うのよ」
ちらりと目線を私の方へ向けて、彼女は微笑んだ。その笑みは、ポケットの中でホッカイロ代わりになっている缶コーヒーより、暖かなものなのだと、なんとなく思った。
「だから私は、煩悩も、過去の失敗も、普通の日々も、落とした単位も、遅刻も、有耶無耶にするんじゃ無くて、全てを真正面から受け止めた上で、新しい何かを積み重ねていきたい。そう考えているわ」
「……良い心がけなんじゃ無い? 遅刻は積み重ねるんじゃ無くて、改善して欲しいけれど」
「えへへ」
確かに、彼女の言うとおりだ。
時間が流れる限り、何もかもが積み重なっていく。出来事も、交流も、特別な日々から、何気ない日々まで。
そんな軌跡が、集合体が、私や彼女、そして世界を作っている。
楽しいトピックだけならまだしも、中には、手痛い失敗や、思い出したくも無い過ちもある。
けれど、こうして宇佐見蓮子と出逢い、彼女の隣を歩いているという今に繋がっているのだとしたら、成功は勿論、失敗も含めて、今までの全ての積み重ねに意味を見いだせるし、全てを愛おしく思える。それは、安直なことだろうか。蓮子もまた、そう感じているのだろうか。
考え事をしていると、遠くから鐘の音と喜びの声が響いてきた。端末を確認すると、今年の上に、来年が現れていた。
「あけましておめでとう、メリー」
「今年もよろしく、蓮子」
年が変わっても、変わらず雪は降り、積もる。これからも積もる。私達の傘の上にも、私達の足跡にも、私達の道にも。だが、いつしか解けていく。しかし、記憶は積み重なる。私達が忘れても、決して消えること無く。それらは、私達を何処へ連れて行くのだろうか。
国へ帰り家族水入らずで過ごす者、年越しライブに参加する者、家で大人しくしている者、ディスプレイの前で歌合戦を観戦する者……。様々な過ごし方があるのは、いつの時代も変わらない。
かく言う私は、今年は本国へは帰らなかった。懐事情もあるが、両親が旅行に出掛けているのだ。どちらかというと、行く年来る年を静かに迎えたい私は、親と肩を並べたり誰も居ない実家に戻るより、日本の下宿先に留まることを選択した。
年の瀬とは所詮、日付と月とついでに年が変わるくらいしか、他の月末と相違は見られない。故に、特段騒ぐほどでも無い。通常時にこのタイミングで帰省しているのは、好都合なだけである。その予定が無くなった以上、過ごし方を帰るつもりはなく、今日も明日も、何事も無ければ家から出ないつもりで居た。
予定の無い日常と同じように、端末で小説を読みながら、夜を過ごす。普段よりしんと静まりかえっているように感じるのは、他の部屋の住民が、みな実家に帰っているからだろうか。
そんな静寂を、唐突なコール音が切り裂いた。直後、別の画面がポップアップする。電話だ。折角の気分と集中力を唐突に台無しにされた私は、眉間に皺を寄せつつ、応答ボタンをタップした。
「やっほー。メリー、今何してた?」
普段にも増して快活な声。宇佐見蓮子だ。
「優雅に本を嗜んでいたところよ」
「つまり、普段通り、暇を持て余していたということね」
彼女は何でもかんでも自分に都合の良い方向へと物事を解釈する。まあ、普段通りというのは図星なのだが。
こう決めつけたならば、次に出てくる言葉は、容易に想像がつく。
「これから出掛けない?」
溜め息を吐き出す。案の定だった。蓮子はいつもそう誘って、夜の京都へと私を引っ張り出すのだ。
想定内の誘いを聞き流しつつ、立ち上がり、カーテンを開ける。なんと、雪が降り積もっていた。今時の京都にしては珍しい。どうりで、雑音が聞こえないわけだ。
「雪が降ってるんだけど。こんな天気で外に出たら、凍死しちゃうわ」
「安心して。メリーが寝そうになったら、私がビンタで叩き起こしてあげるから」
「痛いのはもっと勘弁して欲しいわ。そもそも、今何時だと思ってるの?」
「そろそろ二十三時。秘封倶楽部の活動時間としては、むしろこれからが始まりじゃない!」
「大晦日に、深夜の街をほっつき歩くのは、非常識でしょう?」
途端、画面の向こうから、鼻先で笑うような声が聞こえた。
「普段通りという私の指摘に対して、貴女は反論しなかった。つまり、今回の大晦日を特別視していないということ。にもかかわらず、12/31であることを理由に出掛けることを拒むのは、筋が通っていないんじゃあないかしら?」
「ぐ……」
痛いところを突かれてしまった。仕方が無いので、反論せず、逡巡する。
大晦日。外は雪。絶対に寒い。帰りは年明け、それどころか、日の出を見に行こうと言い出して、遠出させられる羽目になるかも知れない。
起こりえる状況を天秤の皿に積み重ね、自身に問う。そんなことをするために、寒空の下、外へ出る価値はあるのか、と。
――天秤は、元々既に傾いているのだが。
「……缶コーヒー、勿論ホット」
「肉まんも付けるわ」
さて、防寒対策をしっかりしなければ。
「いつもの駅前?」
「さっすが! 話が分かってる! じゃあ三十分後に集合で!」
こうして、私は雪が降る大晦日の深夜に、外出することとなった。
◆
雪はその勢いを衰えることも強くなることもなく、しんしんと舞い落ち、道路や塀、河川敷に積もっている。ブーツの靴底が、平気で隠れてしまうほどに。
深夜という時間帯、そして大晦日という節目では、当然とばかりに、駅前の人通りは少ない。その誰も彼もが、白い息を吐き出しつつ、傘を差して雪から身を守っていた。それは至極当たり前な光景だった。雪だって解ければ水、雨と殆ど変わらない。服に付着すれば湿る、濡れる。濡れることを、普通の人間は忌避する。雪だろうが雨だろうが、傘を差さずに肩で風を切る人間は、傘そのものを忘れたうっかりさんか、濡れることを厭わない自由人ぐらいだ。
そして私は忘れていた。宇佐見蓮子は自由人なのだと。
「いやー、寒いね!」
帽子や肩に白く冷たい結晶をちりばめている彼女は、私の姿を認めると、ピーコートのポケットに突っ込んでいた手を挙げて振り、開口一番に笑って見せた。生まれて初めて雪を見た子犬のように、元気そうな自由人だ。よく見ると、耳が赤くなっている。
「風邪ひくわよ」
私はというと、勿論、マフラーを巻き、ダッフルコートを着込み、手袋をはめ、傘を差している。防寒対策はバッチリだ。
「寝正月は嫌だなぁ、色々と。看病してくれる?」
「丁重にお断りさせて頂きます」
代わりに、傘を傾け、彼女の体から雪を守ることにした。看病よりは簡単だ。
「ありがと。これはお礼の缶コーヒー」
「どうも」
渡された缶コーヒーをポケットに入れていると、蓮子は付着した雪を叩いて払い、私の隣に並んだ。そして、どちらからともなく、駅前から離れる方向へと歩き出す。
「で、何するのよ。今年と来年の境界をジャンプで越えるの? それとも、縁起を担ぐために二年参り?」
私の問いに、はにかみながら彼女は答える。
「雪が降ってたら、テンション上がって外に出たくならない? 理由はそれだけ」
「やっぱり犬だったわね」
「メリーはさしずめ、猫?」
「はいはい、私は暖房の効いた部屋で丸くなってたわよ」
「マエリベリー・ニャーンの家に炬燵は無いの?」
「人の名前で遊ばないで頂戴。炬燵機能付き座卓は無いわ。貴女、何回家に来てると思ってるの。……そういえば、実際に見たことも入ってみたことも無いかも」
「炬燵の魔力は尋常じゃないわ。その魔力に取り憑かれたら最後、二度と外には出られないという……」
「最早妖怪の類いじゃない、それ」
「そんな妖怪が実家に居るんだけど、折角だし、年明けは東京にでも行く? 炬燵の境界を暴きに」
「魅力的ね。ついでにお年玉もいただいちゃおうかしら」
「中々図々しいわね」
「勿論、蓮子から貰うつもりだけど」
「同い年相手に何たかろうとしてるのよ」
クスクス笑い合う。いつにも増して軽々しい冗談を重ねていたら、明日以降の予定が出来てしまった。そうして歩いていると、遠くから鐘の音が響いている。除夜の鐘だろう。
「今は何回目なのかしらね」
「流石に一回だけじゃ、分からないわよ」
「二回聞いたら当てられるの?」
「突く総数が一〇八回だとして、丁度一〇八回目と同時に年が明けるとするなら、だけど。鐘の音の間隔と、現在時刻が分かれば、あとは小学生でも暗算できる」
「あー、確かに」
またもや鳴った。音が先程より大きく、どことなく溌剌さを感じる。きっと、元気いっぱいな近所の小学生が撞いたのだろう。
蓮子は、端末で時間を確認してから、数字をぶつぶつと呟いている。夜空が雲で覆われている以上、彼女の眼はごく平凡な眼球と大差ない。
「……蓮子は、この一年で溜まった煩悩を払ってみたい?」
除夜の鐘を撞きに行かないか、そんなニュアンスで放った言葉だった。
私達の足音と、何気ない問いかけは、閑静な住宅街に響き渡る前に、積もった雪に吸い込まれる。どこか弱々しく、数も少ない街灯は、舞う雪を静かに照らし、空中をきらきらと輝かせていた。
「人間、生きてたらいくらでも欲を掻くからねぇ。私の場合、知識欲は底知れないし、一〇八回じゃ到底足らないよ。それに……」
白い息を吐き出して、彼女は言葉を続ける。
「払ってなかったことにしても、確かにそこにあったという事実までは、消えないからさ」
首を傾げる。
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。分かりやすく言うなら、手に持っているAという物体を投げ捨てたって、私がそれまでAを持っていたという情報までは無くならないってこと。情報は、蓄積していく一方なのよ」
「確かにそうね。でも、その事実だって、いつか忘れ去られる、つまり消えてしまうじゃないかしら? 記憶なんて、最たる例だと思うけど」
「それは、無くなったんじゃなくて、他の記憶に埋もれて、簡単には参照できなくなったってこと。だから言ったでしょう、情報は蓄積していく一方だって」
「理屈は分かったけど、つまり何が言いたいの?」
傘の下に、はらりと粉雪が迷い込む。蓮子が手袋を脱いだ手で受け止める。雪は彼女の体温で解け、水となる。でも、彼女の掌に雪があったという事実は――。
「無かったことには出来ない。無視できない。にもかかわらず、安易に消そうとする、無かったことにする。それは即ち、過去を軽んじることに他ならない。過去とはつまり、今までの積み重ね、今に連綿と繋がっているもの。それを軽んじることは、今の自分を、そして、今の自分に関わる人を蔑ろにする行為なのだと、私は思うのよ」
ちらりと目線を私の方へ向けて、彼女は微笑んだ。その笑みは、ポケットの中でホッカイロ代わりになっている缶コーヒーより、暖かなものなのだと、なんとなく思った。
「だから私は、煩悩も、過去の失敗も、普通の日々も、落とした単位も、遅刻も、有耶無耶にするんじゃ無くて、全てを真正面から受け止めた上で、新しい何かを積み重ねていきたい。そう考えているわ」
「……良い心がけなんじゃ無い? 遅刻は積み重ねるんじゃ無くて、改善して欲しいけれど」
「えへへ」
確かに、彼女の言うとおりだ。
時間が流れる限り、何もかもが積み重なっていく。出来事も、交流も、特別な日々から、何気ない日々まで。
そんな軌跡が、集合体が、私や彼女、そして世界を作っている。
楽しいトピックだけならまだしも、中には、手痛い失敗や、思い出したくも無い過ちもある。
けれど、こうして宇佐見蓮子と出逢い、彼女の隣を歩いているという今に繋がっているのだとしたら、成功は勿論、失敗も含めて、今までの全ての積み重ねに意味を見いだせるし、全てを愛おしく思える。それは、安直なことだろうか。蓮子もまた、そう感じているのだろうか。
考え事をしていると、遠くから鐘の音と喜びの声が響いてきた。端末を確認すると、今年の上に、来年が現れていた。
「あけましておめでとう、メリー」
「今年もよろしく、蓮子」
年が変わっても、変わらず雪は降り、積もる。これからも積もる。私達の傘の上にも、私達の足跡にも、私達の道にも。だが、いつしか解けていく。しかし、記憶は積み重なる。私達が忘れても、決して消えること無く。それらは、私達を何処へ連れて行くのだろうか。
年末の空気を取り戻すことができました。
有難う御座いました。
年末特有の透き通った空気を思い出しました