妹紅が糖尿病になった。糖尿病は所謂生活習慣病であることを知っていた慧音は、妹紅が蓬莱人の特性にかまけて、日ごろから不摂生な生活を営んでいたことが原因だと推測し、大層悲しんだ。友人の身を心配しているのもあるが、それ以前に、教育者としての意識が強い彼女は、あるべき人の道から不可抗力で外れてしまい、長い年月のうちにその体質に慣れて、己が身を杜撰に扱うようになっていた妹紅が、それでもなお人間らしい生活を送れるよう、自分が正しく導いてやらなければならなかった、という自責の念に駆られていたのだ。
「ごめんな、気づいてあげられなくて」
「心配しないでよ」
顔色はやや紫がかり、足は大根のようにむくみ、食欲もない。心配するなと言う方が無理があり、慧音はひたすら温もりを分けようとさすっていたが、妹紅本人はその感触すらなく、さらには慧音の悲しそうな表情すら、彼女の眼では霞みがかって読み取れなかった。
くぐもった後悔を吐き出すような悲し気な声色だけは、はっきりと聞き取れたから、妹紅は諭すように優しくこう伝えた。
「たぶんさ、死ねば治るんだよ。なんたって蓬莱人だからね。でもさ、自決しないのはなぜだかわかる? それは、生の実感があるからなのよ。病気って一見、宿敵のようだけど、いざ侵されると健康のありがたみがわかるというか、身近なものが尊く思えてくるのよ。苦しみが生の証なんて、嘘だと思うけど、でも苦しみも悪いものじゃないよ。きっと」
「うん、うん」
慧音は頷くしかなかった。この瞬間を人間らしく生きようとする、健気な彼女を、無力を噛み締めながら全力で肯定した。
ぎこちない笑みは、優しさの証だった。涙を堪えながら抱きしめる慧音の胸の中で、妹紅は一度死んだ。そしてすぐに生き返った。不死鳥は顔を赤らめて、こう言った。
「なんだか恥ずかしいね」
余韻も、風情もない。蓬莱人の必然が訪れただけである。しかし、慧音は安堵した。可能性と言う無限が、蓬莱人の永久と言う特性を打ち破ることだってあり得ると、衰弱していく妹紅を見ていくうちに、そんな考えがよぎったのだ。ため息を一つ吐いて、今度は自然な笑みを浮かべた。
「……馬鹿者」
「茶番ね」
ことの顛末を診療室の陰から聞いていた輝夜は、ひょっこりと顔をのぞかせてそう吐き捨てた。冷静になっていた妹紅はその通りだと思ったが、同意するのは癪なので、ふざけんなと返した。すぐに喧嘩になった。二人は診療室を飛び出して、竹林の中で、火花を散らして戦い始めた。兎消防隊が鎮火に勤しんでいる傍ら、血液の採取や空腹時血糖の測定を終え、検査データを見た永琳はわなわなしながら、慧音に診断結果を伝えていた。
「間違いなく、糖尿病ね」
「やはりそうでしたか」
慧音は特に驚かなかった。里の診療所でも同じように診断され、インスリンを処方されたが効かず、妹紅の希望もあって、延命処置を取らないことに決めたのだ。人と関わらず、家でひっそりと衰弱する、その茶番に慧音だけが付き合った。尤も、慧音は達観などできなかったのだが、生き返ってピンピンしている妹紅を見てからは、もどかしさをを感じつつも何とか割り切れていた。蓬莱の薬を作った張本人に報告したほうが良いだろうと思い、今日は嫌がる妹紅を引き連れて永遠亭に来たのだが、眼の色を変えた永琳が検査を始めたので、思わぬセカンドオピニオンになってしまった。
慧音は落ち着いていたが、狼狽したのは永琳のほうだった。穏やかに振舞おうとしていたが、膝は震え、何度も頭を搔き、言いたいことを飲み込んで、事実だけを述べていた。
「蓬莱人も糖尿になるんですね」
「ええ、そうですね。糖尿病です。ヘモグロビンA1cも既定値を越えてますし、はい、検査結果は糖尿と出ています」
「死なないとわかっていても、あんなに衰弱していると不安が出てきますね。少し調べたんですけど、はじめは神経が侵されて、次に網膜、最後は腎臓に影響が出ると」
「そうでしたか、不安ですか、眠れていますか。とりあえず眠剤でも出しておきますね。そうですね、腎臓に影響が出る、その通りだと思います」
会話の歯車が若干かみ合っていなかった。永琳は完全に取り乱していた。彼女のプライドは、子供に蹴飛ばされた積み木のように崩れ落ちていた。蓬莱の薬は彼女の最高傑作であり、忌まわしき業であり、誇りでもあった。永遠と言う彼女や彼女が溺愛する輝夜以外はたどり着けない神聖な領域をありふれた病魔に侵されてしまった事実、それは叡智の結晶たる彼女を困惑させ、自尊心を奪うには十分過ぎた。
服が破けた妹紅が戻ってきたので、慧音は腰を上げた。
「あー疲れた」
「また喧嘩して、今日は診察に来ただけだというのに」
「仕方ないでしょう、輝夜が悪いのよ」
「はぁ、では八意先生、また伺います」
「ええ、お大事に」
妹紅たちと入れ違いで、輝夜が焦げた服の煤を払いながら戻ってきた。
「あー疲れた。それに熱かったから咽渇いたわ」
「そうですか、糖尿病ですね」
「え?」
真顔でカルテを見ながらブツブツ呟いている永琳を見て、輝夜はなんとなく嫌な予感がした。
それから永琳は調剤室にこもった。
「ありえない、ありえない、だって意味わかんない、え、だって、糖尿って、どういうこと、私にわからないことなんてない、いや、あった、ありえないことはわからない――」
蓬莱の薬が与える不死性は、服用した時点での肉体の情報を魂に記憶させ、肉と魂を一体化させることにある。これにより、魂が異常を認識した時、その記憶をもとに肉体を再生してしまうのだ。だが変化を拒むとはいえ、腹は減るし、怪我をすれば痛みを感じる。そもそも肉体を完全に固定してしまえば筋肉は可動せず、金剛石よりも硬質になり、如何なる力を加えようとも傷一つ付かないはずなのだ。だから不死の原理とは固定ではなく、流動による強固さと言っても良い。
万能薬に最も近い蓬莱の薬だが、効能についてはいまだ不明瞭なところが多い。本人の意思はどこまで干渉できるのか、何をもってして異常と認識するのか、それは調合した張本人さえわからないのだ。不老不死を完璧に証明するためには理屈を重ねた論文ではなく、永遠の時が必要である。
内包しているいくつかの可能性の中でも、アナフィラキシーなら永琳も考えないではなかった。無限の快楽を与えれば、蓬莱の薬がそれを打ち消そうとして、結果魂が耐え切れなくなる、と言う思考実験をしたことはあった。しかし、それはあくまで机上の空論でしかなく、無限の快楽を生む物体など、この世のどこにもなかった。彼女の叡智が知る限りの快楽物質を、最適なバランスで調合しても、無限には至らなかった。輝夜の力を借りてもそれは叶わなかった。その結果を経て、蓬莱の薬はやはり最高傑作なのだと、永琳は確信していたのだ。しかし、糖尿病と言う一介の病気風情が、その自信を殺してしまった。
ブツブツと念仏のようなうわごとを唱え続け、三か月以上飲まず食わずで引きこもり、輝夜が泣きじゃくりながら嘆願して、ようやく調剤室から出てきたころには身体が衰弱しきっていた。それでも頬がこける程度のもので、本来蓬莱人は容易く変化などしないのだ。
しかし、妹紅は違った。普段はなんともない、健康そのものだが、約半年間死に至る出来事がなければ、死相が滲み出てくる。ここしばらくは輝夜と喧嘩をせずに過ごしていたので、偶々発症したのだが、普段の妹紅の生活は死に溢れており、半年も死なないことは稀だった。今までにも何回か、同じような死に方をしたが、慧音が気づいて里の医者に受診させるまでは、妹紅はその死に様を餓死だと思い込んでおり、気にも留めていなかった。だから発見が遅れたのだ。
今回の事例について永琳は仮説を立てた。妹紅の糖尿病は原因不明の一型糖尿病であり、蓬莱の薬を服薬する前にすでに発症していたこと。そして蓬莱の薬はその因子を異常だと認識しなかったこと。後者は想定していないバグのようなものだが、こう考えれば筋は通る。薬剤師として、生みの親として、永琳は妹紅の糖尿病を治す必要があった。それは盲目の執念であり、永琳が自我を保つためには、唯一失ってはいけない境界線だった。
永琳は妹紅が診察に来た時に、立てた仮説について説明し、こう宣言した。
「絶対治してみせます」
それは現時点では治す手段がないから、未来に託すという告白でもあった。すぐには治らないことを悟った妹紅は小さく「よろしく」と言った。だが、付き添いで来ていた慧音は安堵したようだった。
「良かったな妹紅」
「そうだな、八意先生がそう言ってくれるなら何も心配ない」
若干の皮肉の混じったその言葉を、今日に限っては茶化す者はなかった。
診察の帰り足、満月の浮かぶ竹林を、手を頭にやり、口笛を吹きながら月を眺めて歩く妹紅に対し、慧音はうつむきながら歩を進めていた。
「どうしたの、慧音」
「いや……」
なぜあの場で安堵したのか。説明を受けた時、責任から解放された気がしたのだ。一型糖尿病は生活習慣が原因ではなく、遺伝的なもので、いわば神の領域である。できることは寄り添うこと、責任を負う必要はない。そう考えてしまった自分に嫌悪感を抱いていた。そんなことを知る由もない妹紅は、自分の抱いている闘病生活への不安を慧音に見透かされたのだと思い、できるだけ陽気に言った。
「まあ気にしてないよ、私は。治る治らないが大事じゃない。病気だって私の一部だし、きっと長い付き合いになるだろうから、受け入れる準備だけは済ませているよ。だから慧音は何も心配しなくていい」
「……ああ」
妹紅の住処であるあばら家が見えてきた。背の高い竹に隠れて、ひっそりと佇む質素な家だが、夜は月明かりに照らされて神秘的に見える。あばら家の玄関を開けて中に入ろうとした時、思い出したかのように妹紅は振り向いた。
「あ、でもちょっと寂しくなるかもだから、偶に話してくれると良いな。まあいつも通りにね」
「ああ。ああ」
とうとう己の感情を吐露できず、慧音は何度もため息を吐きながら里へと帰った。
かくして妹紅の闘病生活が始まった。とはいえ定期的に輝夜と喧嘩するから大した変化はなく、変わったことと言えば週に二回、永琳から治療を施されるようになったくらいである。むしろその分輝夜と定期的に殺し合うものだから、糖尿病の末期に至ることは少なかった。
かつて藤原道長も罹患したと言われる糖尿病という病、これそのものは直接死を呼び込むわけではないが、不可逆的であり、長い間放置すると様々な合併症が生じて、結果腎臓の機能が悪化し、毒素が排出できなくなる。それでも放置すると最終的には死んでしまうのだが、たとえ末期でも透析を行い、体中に巡る血液から毒素を排出させれば、生きながらえることは可能で、ある意味では死に至らない病である。
ただし、妹紅の場合は治療の効果がなかった。血糖を下げるインスリンは投与しても蓬莱の薬が代謝してしまった。ならば透析だと、永琳はそのために必要なシャント造設手術を、ものの四十五分という恐るべきとんでもないほどすごい速度で完了させる技術を持っていたが、いざ手術に踏み切ると、妹紅の腕はメスで切った傍から再生していくので、造設は不可能だった。
思い悩んで三日間、ある方法を思いついたので永琳は実施した。それは一度腕を切り離し、手術を終えてから、再生した腕を切断して付け替えるというものだった。無論、蓬莱人に麻酔が効くはずもなく、黙って腕を切られるほど妹紅は潔くなかったので、手術は難航したが、いくつかの手術道具を犠牲に何とかやり遂げた。
その後はしばらくは、呑む酒も美味かったが、ある二日酔いの朝、泥酔した兎にまみれた暖かな空間の中で、永琳はふと気づいてしまった。透析は完治ではない、あくまで対処療法であり、むしろ延命措置は死ぬことのない彼女には無駄である。やはり薬しかなかった。特効薬を調合するしかない。永琳はまた調剤室にこもりがちになった。
小火騒ぎが起きようが、輝夜が悲鳴をあげようが、兎たちが小鳥のようにさえずろうが、調剤室の扉は固く閉ざされていた。ひたすら調合を繰り返す日々は、砂を積み上げて城を作るかのように果てがなく、ひゅうと吹く風で飛ばされるほど脆いものだった。どの薬も妹紅の糖尿病には効果がなかった。蓬莱の薬を打ち消すことができないとわかってからは、穴を見つけようと躍起になっていたが、容易く見つかるはずはなく、不完全なものばかりができあがった。しかし、不完全とは言え永琳が調合した数々の薬は、使い方によっては優れた効能を発揮した。虱潰しに調合しまくっていたため、ありとあらゆる病魔に適応した薬が副産物として生み出され、それは幻想郷の病魔を片っ端から消し去っていった。まずはじめに抗生物質が進化し、コレラやペストと言った病原菌の類が死滅した。マイコプラズマやクラミジアなどのウイルスも、菌よりは足掻いたが、それでも後を追うように死滅した。また免疫活性化薬が誕生してからはたとえ新種のウイルスが現れても、増殖する前にマクロファージたちに喰われてしまった。次にその異常に活性化した免疫を、人間の平均値まで戻す薬が完成し、花粉症や食物アレルギーが消えた。なんと原因不明かつ治療不可能である難病のリウマチや全身性エリテマトーデスすら完治させてしまった。さらには人間にしてみれば忌まわしき同居人である、末期のがん細胞ですら薬によって身体から追いやられ、住処を失った。
これらの薬はあくまで妹紅の糖尿病を治すためだけに作られたもので、効能はすべて副作用に過ぎないのだ。これにより病気を拠り所とする妖怪や、病魔が形をとった怪異の類はすべて地底に追いやられた。わずか半年間の出来事である。
頭を痛めたのは妖怪の賢者だった。人間に影響が出ていない以上、博麗は動かない。しかし、数多の妖怪の共存を願う紫にとっては、一刻も早く対処するべき事例だった。普段通り緻密に練り上げた搦手を用ようと、再度月に攻め込む旨を綴った手紙を送りつけたりもしたのだが、一切の手ごたえが見られず、徒に時が経つばかりだったので、結局自ら赴くことにした。
座標を永遠亭の調剤室に合わせたスキマを開き、いつも通り上半身だけをのぞかせた。永琳は机に向かって、無我の境地で一心不乱に薬を調合しており、人間なら寒気がするほど妖怪らしい紫の気配に気づかなかった。紫は口元に扇子を当てて、厳かに口を開いた。
「バベルの塔を、まあ貴女はご存じでしょうが、偉大なる建築家になりたいのでしょうか。いつの時代でも勇気と無知にはまったく敬服しますわ」
無視された。紫は不敵に笑ってみせた
「有象無象がひしめく幻想の中にも秩序はあります。それは自粛と言う形で、私はなるべく放任していますが、あなたはついに、こめかみに当てた拳銃の引き金を引いてしまった」
「え、何、忙しいの! 後にして!」
紫は唇をかみしめて、わなわなと震えていた。
「単刀直入に言いますが、これ以上幻想郷の病魔を退こうとするのは、共存共栄の精神に反するので、ほどほどにしていただきたいのです」
「うっさい馬鹿! んなことどうでもいいのよ!」
紫は黙り込んだ。ちょっと涙目になっていた。初めて見るタイプの狂気だった。怒りはなく、むしろ悲しみのほうが強かった。「馬鹿」と言うありきたりな罵倒ではあるが、そこには皮肉も嘲笑も込められておらず、諸刃の刃を玩具のように振り回す純粋さがあった。なるほど、叡智の結晶たる彼女にしてみれば、紫も含めたすべての生物は馬鹿なのかもしれない。しかし、天才と囃される者は決して馬鹿に対して馬鹿とは言わず、遠回りな皮肉でわからないように伝えるか、もしくは一切の興味を示さないものだと、紫は認識していたから、あまりにも愚直で遊びのない言葉にたじろぐしかなかった。説得は不可能だった。確信犯的思想が永琳を突き動かしており、他のすべては雑音にしかならず、力づくで止めることも不可能だった。なぜなら紫は、戦う前からすでに負けた気分になっていたからだ。
「馬鹿って言ったほうが馬鹿なのよ……」
小さく溢して、紫はスキマの中に消えていった。その後、紫は地底に病魔の箱庭を作り、地底の土蜘蛛に頭を下げて管理を頼んだ。共存のためにはこれしかなかった。もともと人に疎まれる性質である病魔たちは、思いのほか地底のじめじめとした空間に馴染んだ。
永琳の件は放っておくことにした。あれだけの情熱を止めることは野暮なようにも思えてきて、案外あれで楽しんでいるのかもしれないと、紫は無理やりに自分を納得させた。狂気は消耗品である。蓬莱人とは言え、いずれは疲れて、冷静さを取り戻すだろう。その時生きていれば、もう一度声をかければ良いやと、そう思うことにした。
ありとあらゆる病気が無くなってもなお、妹紅の糖尿病だけは治らなかった。
慧音の足取りは重かった。今日こそは伝えよう、あの時感じた罪悪感を清算しよう、そう誓っていた。慧音はあの日の後悔を半年近く引きずっていた。安堵してしまったこと、純粋に心配していなかったこと、頭の固い慧音は心の臓を締め付けるような罪悪感をどうしても忘れられなかった。かといって時が洗い流すまで待つことはできなかった。歴史を重んじる彼女は、たとえ胸の内側にしまい込んだ独りよがりな感情だとしても、事実を闇に屠ることは許せなかった。
あばら家の扉を叩くと、奥からのんきな声が聞こえてきた。静かに家に上がり、居間へ行くと、妹紅は壁にもたれかかって天井を仰いでいた。
「気分が悪いのか」
「いや、大丈夫だよ」
「そうか」
すぐには言い出せず、きょろきょろと辺りを見回した。
居間に大したものはない。慧音が片付けているのもあるが、そもそも妹紅はあまりものを持たない。あるものはちゃぶ台と、ボロボロの箪笥だけである。姿見や時計すらなかった。五尺ほどの小さなちゃぶ台は慧音が持ち込んだもので、せめて食卓を一緒に囲みたいという、ささやかな我儘を乗せるものだった。だが、そのちゃぶ台の上には丸めた大量の紙と、炭のように黒い何かがその紙に埋まるように放置されていた。
眼を向ける先が何もないことを悟ると、慧音は意を決して口を開いた。
「なあ妹紅、私はあの時、私は、お前のことを、その聞いて、私は安心してしまったんだ。すまない、すまない。蓬莱の薬でも、防げないことを聞いて、私は、仕方ないと思ってしまったんだ」
来る途中何度も考えたというのに、口は思うように動かなかった。
「すまない」
深く頭を下げる慧音を見て、妹紅はキョトンとしていた。謝る理由がわからなかった。心配してくれた事実と、孤独に付き添ってくれた愛情以外に何が重要だと言うのか。その時の感情の揺らぎなど、全く問題にならない。口を閉ざしてしまえば、後は時が洗い流してくれることを妹紅はよく理解していた。
「あのさ」
謝る必要などないと伝えようとしたところで、妹紅ははっと気づいた。慧音は苦しみから解放されたがっているのだ。病気と同じでそれは自分自身の一部だが、誰かと共有することで痛みは多少なりとも和らぐ。妹紅もそうだった。衰弱していく中、傍に居てくれただけで、「辛いな、苦しいな」と声をかけてくれただけで、手を握ってくれただけで、どれほど満たされただろうか。慧音は自身の痛みを知らないというのに、理解してくれようと、必死になっていた。だから嬉しかった。慧音も似たようなものだった。堅物だから勝手に痛みを感じていて、それが苦しくて、だけれど自己完結するべき問題なのはわかっていたから胸の内にしまい込んでいた。辛くて、耐え切れなくなって、半年も経ってようやく助けを求めに来てくれたのだ。だから友人として妹紅は答えた。
「許してあげる。だけどそう言うことはもっと早く言ってよ」
「すまない、すまない」
しばしの間を置いて、妹紅は未知と遭遇した旅の思い出を話すように、無邪気な発見を語りはじめた。
「慧音、考えたんだ。薬なんかじゃ治らない病気はたくさんある。永琳があれだけ病気を撲滅しても、すべての苦痛が無くなるわけじゃない。皆、苦しみと共に生きている。隣人との諍い、将来への不安、夜への恐怖、劣等感とか自尊心もそう。誰しもちょっとは病んでいて、それは仕方がないんだよ。きっと苦しみを分かち合うことが万能薬なんだ。だから私はこの闘病生活を記録して、広めたいと思ったのよ。症状だけでなくその時の感情とか、苦しみもね。だけど、私は生憎学がないから、文章にしたためるのは苦手で……でも慧音は得意でしょう、歴史を作っているんだっけ。だから、ちょっと協力してほしいのよ」
妹紅は恥ずかしそうにちゃぶ台を指さした。慧音は教育者のような、それでいてどこまでもやさしい友人のような笑みを浮かべて、こう言った。
「ああ、まずは片付けからだな」
「ごめんな、気づいてあげられなくて」
「心配しないでよ」
顔色はやや紫がかり、足は大根のようにむくみ、食欲もない。心配するなと言う方が無理があり、慧音はひたすら温もりを分けようとさすっていたが、妹紅本人はその感触すらなく、さらには慧音の悲しそうな表情すら、彼女の眼では霞みがかって読み取れなかった。
くぐもった後悔を吐き出すような悲し気な声色だけは、はっきりと聞き取れたから、妹紅は諭すように優しくこう伝えた。
「たぶんさ、死ねば治るんだよ。なんたって蓬莱人だからね。でもさ、自決しないのはなぜだかわかる? それは、生の実感があるからなのよ。病気って一見、宿敵のようだけど、いざ侵されると健康のありがたみがわかるというか、身近なものが尊く思えてくるのよ。苦しみが生の証なんて、嘘だと思うけど、でも苦しみも悪いものじゃないよ。きっと」
「うん、うん」
慧音は頷くしかなかった。この瞬間を人間らしく生きようとする、健気な彼女を、無力を噛み締めながら全力で肯定した。
ぎこちない笑みは、優しさの証だった。涙を堪えながら抱きしめる慧音の胸の中で、妹紅は一度死んだ。そしてすぐに生き返った。不死鳥は顔を赤らめて、こう言った。
「なんだか恥ずかしいね」
余韻も、風情もない。蓬莱人の必然が訪れただけである。しかし、慧音は安堵した。可能性と言う無限が、蓬莱人の永久と言う特性を打ち破ることだってあり得ると、衰弱していく妹紅を見ていくうちに、そんな考えがよぎったのだ。ため息を一つ吐いて、今度は自然な笑みを浮かべた。
「……馬鹿者」
「茶番ね」
ことの顛末を診療室の陰から聞いていた輝夜は、ひょっこりと顔をのぞかせてそう吐き捨てた。冷静になっていた妹紅はその通りだと思ったが、同意するのは癪なので、ふざけんなと返した。すぐに喧嘩になった。二人は診療室を飛び出して、竹林の中で、火花を散らして戦い始めた。兎消防隊が鎮火に勤しんでいる傍ら、血液の採取や空腹時血糖の測定を終え、検査データを見た永琳はわなわなしながら、慧音に診断結果を伝えていた。
「間違いなく、糖尿病ね」
「やはりそうでしたか」
慧音は特に驚かなかった。里の診療所でも同じように診断され、インスリンを処方されたが効かず、妹紅の希望もあって、延命処置を取らないことに決めたのだ。人と関わらず、家でひっそりと衰弱する、その茶番に慧音だけが付き合った。尤も、慧音は達観などできなかったのだが、生き返ってピンピンしている妹紅を見てからは、もどかしさをを感じつつも何とか割り切れていた。蓬莱の薬を作った張本人に報告したほうが良いだろうと思い、今日は嫌がる妹紅を引き連れて永遠亭に来たのだが、眼の色を変えた永琳が検査を始めたので、思わぬセカンドオピニオンになってしまった。
慧音は落ち着いていたが、狼狽したのは永琳のほうだった。穏やかに振舞おうとしていたが、膝は震え、何度も頭を搔き、言いたいことを飲み込んで、事実だけを述べていた。
「蓬莱人も糖尿になるんですね」
「ええ、そうですね。糖尿病です。ヘモグロビンA1cも既定値を越えてますし、はい、検査結果は糖尿と出ています」
「死なないとわかっていても、あんなに衰弱していると不安が出てきますね。少し調べたんですけど、はじめは神経が侵されて、次に網膜、最後は腎臓に影響が出ると」
「そうでしたか、不安ですか、眠れていますか。とりあえず眠剤でも出しておきますね。そうですね、腎臓に影響が出る、その通りだと思います」
会話の歯車が若干かみ合っていなかった。永琳は完全に取り乱していた。彼女のプライドは、子供に蹴飛ばされた積み木のように崩れ落ちていた。蓬莱の薬は彼女の最高傑作であり、忌まわしき業であり、誇りでもあった。永遠と言う彼女や彼女が溺愛する輝夜以外はたどり着けない神聖な領域をありふれた病魔に侵されてしまった事実、それは叡智の結晶たる彼女を困惑させ、自尊心を奪うには十分過ぎた。
服が破けた妹紅が戻ってきたので、慧音は腰を上げた。
「あー疲れた」
「また喧嘩して、今日は診察に来ただけだというのに」
「仕方ないでしょう、輝夜が悪いのよ」
「はぁ、では八意先生、また伺います」
「ええ、お大事に」
妹紅たちと入れ違いで、輝夜が焦げた服の煤を払いながら戻ってきた。
「あー疲れた。それに熱かったから咽渇いたわ」
「そうですか、糖尿病ですね」
「え?」
真顔でカルテを見ながらブツブツ呟いている永琳を見て、輝夜はなんとなく嫌な予感がした。
それから永琳は調剤室にこもった。
「ありえない、ありえない、だって意味わかんない、え、だって、糖尿って、どういうこと、私にわからないことなんてない、いや、あった、ありえないことはわからない――」
蓬莱の薬が与える不死性は、服用した時点での肉体の情報を魂に記憶させ、肉と魂を一体化させることにある。これにより、魂が異常を認識した時、その記憶をもとに肉体を再生してしまうのだ。だが変化を拒むとはいえ、腹は減るし、怪我をすれば痛みを感じる。そもそも肉体を完全に固定してしまえば筋肉は可動せず、金剛石よりも硬質になり、如何なる力を加えようとも傷一つ付かないはずなのだ。だから不死の原理とは固定ではなく、流動による強固さと言っても良い。
万能薬に最も近い蓬莱の薬だが、効能についてはいまだ不明瞭なところが多い。本人の意思はどこまで干渉できるのか、何をもってして異常と認識するのか、それは調合した張本人さえわからないのだ。不老不死を完璧に証明するためには理屈を重ねた論文ではなく、永遠の時が必要である。
内包しているいくつかの可能性の中でも、アナフィラキシーなら永琳も考えないではなかった。無限の快楽を与えれば、蓬莱の薬がそれを打ち消そうとして、結果魂が耐え切れなくなる、と言う思考実験をしたことはあった。しかし、それはあくまで机上の空論でしかなく、無限の快楽を生む物体など、この世のどこにもなかった。彼女の叡智が知る限りの快楽物質を、最適なバランスで調合しても、無限には至らなかった。輝夜の力を借りてもそれは叶わなかった。その結果を経て、蓬莱の薬はやはり最高傑作なのだと、永琳は確信していたのだ。しかし、糖尿病と言う一介の病気風情が、その自信を殺してしまった。
ブツブツと念仏のようなうわごとを唱え続け、三か月以上飲まず食わずで引きこもり、輝夜が泣きじゃくりながら嘆願して、ようやく調剤室から出てきたころには身体が衰弱しきっていた。それでも頬がこける程度のもので、本来蓬莱人は容易く変化などしないのだ。
しかし、妹紅は違った。普段はなんともない、健康そのものだが、約半年間死に至る出来事がなければ、死相が滲み出てくる。ここしばらくは輝夜と喧嘩をせずに過ごしていたので、偶々発症したのだが、普段の妹紅の生活は死に溢れており、半年も死なないことは稀だった。今までにも何回か、同じような死に方をしたが、慧音が気づいて里の医者に受診させるまでは、妹紅はその死に様を餓死だと思い込んでおり、気にも留めていなかった。だから発見が遅れたのだ。
今回の事例について永琳は仮説を立てた。妹紅の糖尿病は原因不明の一型糖尿病であり、蓬莱の薬を服薬する前にすでに発症していたこと。そして蓬莱の薬はその因子を異常だと認識しなかったこと。後者は想定していないバグのようなものだが、こう考えれば筋は通る。薬剤師として、生みの親として、永琳は妹紅の糖尿病を治す必要があった。それは盲目の執念であり、永琳が自我を保つためには、唯一失ってはいけない境界線だった。
永琳は妹紅が診察に来た時に、立てた仮説について説明し、こう宣言した。
「絶対治してみせます」
それは現時点では治す手段がないから、未来に託すという告白でもあった。すぐには治らないことを悟った妹紅は小さく「よろしく」と言った。だが、付き添いで来ていた慧音は安堵したようだった。
「良かったな妹紅」
「そうだな、八意先生がそう言ってくれるなら何も心配ない」
若干の皮肉の混じったその言葉を、今日に限っては茶化す者はなかった。
診察の帰り足、満月の浮かぶ竹林を、手を頭にやり、口笛を吹きながら月を眺めて歩く妹紅に対し、慧音はうつむきながら歩を進めていた。
「どうしたの、慧音」
「いや……」
なぜあの場で安堵したのか。説明を受けた時、責任から解放された気がしたのだ。一型糖尿病は生活習慣が原因ではなく、遺伝的なもので、いわば神の領域である。できることは寄り添うこと、責任を負う必要はない。そう考えてしまった自分に嫌悪感を抱いていた。そんなことを知る由もない妹紅は、自分の抱いている闘病生活への不安を慧音に見透かされたのだと思い、できるだけ陽気に言った。
「まあ気にしてないよ、私は。治る治らないが大事じゃない。病気だって私の一部だし、きっと長い付き合いになるだろうから、受け入れる準備だけは済ませているよ。だから慧音は何も心配しなくていい」
「……ああ」
妹紅の住処であるあばら家が見えてきた。背の高い竹に隠れて、ひっそりと佇む質素な家だが、夜は月明かりに照らされて神秘的に見える。あばら家の玄関を開けて中に入ろうとした時、思い出したかのように妹紅は振り向いた。
「あ、でもちょっと寂しくなるかもだから、偶に話してくれると良いな。まあいつも通りにね」
「ああ。ああ」
とうとう己の感情を吐露できず、慧音は何度もため息を吐きながら里へと帰った。
かくして妹紅の闘病生活が始まった。とはいえ定期的に輝夜と喧嘩するから大した変化はなく、変わったことと言えば週に二回、永琳から治療を施されるようになったくらいである。むしろその分輝夜と定期的に殺し合うものだから、糖尿病の末期に至ることは少なかった。
かつて藤原道長も罹患したと言われる糖尿病という病、これそのものは直接死を呼び込むわけではないが、不可逆的であり、長い間放置すると様々な合併症が生じて、結果腎臓の機能が悪化し、毒素が排出できなくなる。それでも放置すると最終的には死んでしまうのだが、たとえ末期でも透析を行い、体中に巡る血液から毒素を排出させれば、生きながらえることは可能で、ある意味では死に至らない病である。
ただし、妹紅の場合は治療の効果がなかった。血糖を下げるインスリンは投与しても蓬莱の薬が代謝してしまった。ならば透析だと、永琳はそのために必要なシャント造設手術を、ものの四十五分という恐るべきとんでもないほどすごい速度で完了させる技術を持っていたが、いざ手術に踏み切ると、妹紅の腕はメスで切った傍から再生していくので、造設は不可能だった。
思い悩んで三日間、ある方法を思いついたので永琳は実施した。それは一度腕を切り離し、手術を終えてから、再生した腕を切断して付け替えるというものだった。無論、蓬莱人に麻酔が効くはずもなく、黙って腕を切られるほど妹紅は潔くなかったので、手術は難航したが、いくつかの手術道具を犠牲に何とかやり遂げた。
その後はしばらくは、呑む酒も美味かったが、ある二日酔いの朝、泥酔した兎にまみれた暖かな空間の中で、永琳はふと気づいてしまった。透析は完治ではない、あくまで対処療法であり、むしろ延命措置は死ぬことのない彼女には無駄である。やはり薬しかなかった。特効薬を調合するしかない。永琳はまた調剤室にこもりがちになった。
小火騒ぎが起きようが、輝夜が悲鳴をあげようが、兎たちが小鳥のようにさえずろうが、調剤室の扉は固く閉ざされていた。ひたすら調合を繰り返す日々は、砂を積み上げて城を作るかのように果てがなく、ひゅうと吹く風で飛ばされるほど脆いものだった。どの薬も妹紅の糖尿病には効果がなかった。蓬莱の薬を打ち消すことができないとわかってからは、穴を見つけようと躍起になっていたが、容易く見つかるはずはなく、不完全なものばかりができあがった。しかし、不完全とは言え永琳が調合した数々の薬は、使い方によっては優れた効能を発揮した。虱潰しに調合しまくっていたため、ありとあらゆる病魔に適応した薬が副産物として生み出され、それは幻想郷の病魔を片っ端から消し去っていった。まずはじめに抗生物質が進化し、コレラやペストと言った病原菌の類が死滅した。マイコプラズマやクラミジアなどのウイルスも、菌よりは足掻いたが、それでも後を追うように死滅した。また免疫活性化薬が誕生してからはたとえ新種のウイルスが現れても、増殖する前にマクロファージたちに喰われてしまった。次にその異常に活性化した免疫を、人間の平均値まで戻す薬が完成し、花粉症や食物アレルギーが消えた。なんと原因不明かつ治療不可能である難病のリウマチや全身性エリテマトーデスすら完治させてしまった。さらには人間にしてみれば忌まわしき同居人である、末期のがん細胞ですら薬によって身体から追いやられ、住処を失った。
これらの薬はあくまで妹紅の糖尿病を治すためだけに作られたもので、効能はすべて副作用に過ぎないのだ。これにより病気を拠り所とする妖怪や、病魔が形をとった怪異の類はすべて地底に追いやられた。わずか半年間の出来事である。
頭を痛めたのは妖怪の賢者だった。人間に影響が出ていない以上、博麗は動かない。しかし、数多の妖怪の共存を願う紫にとっては、一刻も早く対処するべき事例だった。普段通り緻密に練り上げた搦手を用ようと、再度月に攻め込む旨を綴った手紙を送りつけたりもしたのだが、一切の手ごたえが見られず、徒に時が経つばかりだったので、結局自ら赴くことにした。
座標を永遠亭の調剤室に合わせたスキマを開き、いつも通り上半身だけをのぞかせた。永琳は机に向かって、無我の境地で一心不乱に薬を調合しており、人間なら寒気がするほど妖怪らしい紫の気配に気づかなかった。紫は口元に扇子を当てて、厳かに口を開いた。
「バベルの塔を、まあ貴女はご存じでしょうが、偉大なる建築家になりたいのでしょうか。いつの時代でも勇気と無知にはまったく敬服しますわ」
無視された。紫は不敵に笑ってみせた
「有象無象がひしめく幻想の中にも秩序はあります。それは自粛と言う形で、私はなるべく放任していますが、あなたはついに、こめかみに当てた拳銃の引き金を引いてしまった」
「え、何、忙しいの! 後にして!」
紫は唇をかみしめて、わなわなと震えていた。
「単刀直入に言いますが、これ以上幻想郷の病魔を退こうとするのは、共存共栄の精神に反するので、ほどほどにしていただきたいのです」
「うっさい馬鹿! んなことどうでもいいのよ!」
紫は黙り込んだ。ちょっと涙目になっていた。初めて見るタイプの狂気だった。怒りはなく、むしろ悲しみのほうが強かった。「馬鹿」と言うありきたりな罵倒ではあるが、そこには皮肉も嘲笑も込められておらず、諸刃の刃を玩具のように振り回す純粋さがあった。なるほど、叡智の結晶たる彼女にしてみれば、紫も含めたすべての生物は馬鹿なのかもしれない。しかし、天才と囃される者は決して馬鹿に対して馬鹿とは言わず、遠回りな皮肉でわからないように伝えるか、もしくは一切の興味を示さないものだと、紫は認識していたから、あまりにも愚直で遊びのない言葉にたじろぐしかなかった。説得は不可能だった。確信犯的思想が永琳を突き動かしており、他のすべては雑音にしかならず、力づくで止めることも不可能だった。なぜなら紫は、戦う前からすでに負けた気分になっていたからだ。
「馬鹿って言ったほうが馬鹿なのよ……」
小さく溢して、紫はスキマの中に消えていった。その後、紫は地底に病魔の箱庭を作り、地底の土蜘蛛に頭を下げて管理を頼んだ。共存のためにはこれしかなかった。もともと人に疎まれる性質である病魔たちは、思いのほか地底のじめじめとした空間に馴染んだ。
永琳の件は放っておくことにした。あれだけの情熱を止めることは野暮なようにも思えてきて、案外あれで楽しんでいるのかもしれないと、紫は無理やりに自分を納得させた。狂気は消耗品である。蓬莱人とは言え、いずれは疲れて、冷静さを取り戻すだろう。その時生きていれば、もう一度声をかければ良いやと、そう思うことにした。
ありとあらゆる病気が無くなってもなお、妹紅の糖尿病だけは治らなかった。
慧音の足取りは重かった。今日こそは伝えよう、あの時感じた罪悪感を清算しよう、そう誓っていた。慧音はあの日の後悔を半年近く引きずっていた。安堵してしまったこと、純粋に心配していなかったこと、頭の固い慧音は心の臓を締め付けるような罪悪感をどうしても忘れられなかった。かといって時が洗い流すまで待つことはできなかった。歴史を重んじる彼女は、たとえ胸の内側にしまい込んだ独りよがりな感情だとしても、事実を闇に屠ることは許せなかった。
あばら家の扉を叩くと、奥からのんきな声が聞こえてきた。静かに家に上がり、居間へ行くと、妹紅は壁にもたれかかって天井を仰いでいた。
「気分が悪いのか」
「いや、大丈夫だよ」
「そうか」
すぐには言い出せず、きょろきょろと辺りを見回した。
居間に大したものはない。慧音が片付けているのもあるが、そもそも妹紅はあまりものを持たない。あるものはちゃぶ台と、ボロボロの箪笥だけである。姿見や時計すらなかった。五尺ほどの小さなちゃぶ台は慧音が持ち込んだもので、せめて食卓を一緒に囲みたいという、ささやかな我儘を乗せるものだった。だが、そのちゃぶ台の上には丸めた大量の紙と、炭のように黒い何かがその紙に埋まるように放置されていた。
眼を向ける先が何もないことを悟ると、慧音は意を決して口を開いた。
「なあ妹紅、私はあの時、私は、お前のことを、その聞いて、私は安心してしまったんだ。すまない、すまない。蓬莱の薬でも、防げないことを聞いて、私は、仕方ないと思ってしまったんだ」
来る途中何度も考えたというのに、口は思うように動かなかった。
「すまない」
深く頭を下げる慧音を見て、妹紅はキョトンとしていた。謝る理由がわからなかった。心配してくれた事実と、孤独に付き添ってくれた愛情以外に何が重要だと言うのか。その時の感情の揺らぎなど、全く問題にならない。口を閉ざしてしまえば、後は時が洗い流してくれることを妹紅はよく理解していた。
「あのさ」
謝る必要などないと伝えようとしたところで、妹紅ははっと気づいた。慧音は苦しみから解放されたがっているのだ。病気と同じでそれは自分自身の一部だが、誰かと共有することで痛みは多少なりとも和らぐ。妹紅もそうだった。衰弱していく中、傍に居てくれただけで、「辛いな、苦しいな」と声をかけてくれただけで、手を握ってくれただけで、どれほど満たされただろうか。慧音は自身の痛みを知らないというのに、理解してくれようと、必死になっていた。だから嬉しかった。慧音も似たようなものだった。堅物だから勝手に痛みを感じていて、それが苦しくて、だけれど自己完結するべき問題なのはわかっていたから胸の内にしまい込んでいた。辛くて、耐え切れなくなって、半年も経ってようやく助けを求めに来てくれたのだ。だから友人として妹紅は答えた。
「許してあげる。だけどそう言うことはもっと早く言ってよ」
「すまない、すまない」
しばしの間を置いて、妹紅は未知と遭遇した旅の思い出を話すように、無邪気な発見を語りはじめた。
「慧音、考えたんだ。薬なんかじゃ治らない病気はたくさんある。永琳があれだけ病気を撲滅しても、すべての苦痛が無くなるわけじゃない。皆、苦しみと共に生きている。隣人との諍い、将来への不安、夜への恐怖、劣等感とか自尊心もそう。誰しもちょっとは病んでいて、それは仕方がないんだよ。きっと苦しみを分かち合うことが万能薬なんだ。だから私はこの闘病生活を記録して、広めたいと思ったのよ。症状だけでなくその時の感情とか、苦しみもね。だけど、私は生憎学がないから、文章にしたためるのは苦手で……でも慧音は得意でしょう、歴史を作っているんだっけ。だから、ちょっと協力してほしいのよ」
妹紅は恥ずかしそうにちゃぶ台を指さした。慧音は教育者のような、それでいてどこまでもやさしい友人のような笑みを浮かべて、こう言った。
「ああ、まずは片付けからだな」
タイトルの『死に至らない病』もコレ死んでも蘇るだけの妹紅の糖尿病と言うよりもどっちかと言うと永琳の妄執の方に掛かっていそうな気がしてきますね…。
面白おかしい作品だったと言わざるを得ません、ありがとうございます。
プライドを取り戻そうと躍起になるあまり言動が粗野になる永琳と慧音を気遣って言葉を選ぶ妹紅がすきポイントです
永琳が相当参ってる様子凄く可愛らしくて大変良かったです。
最後は良い話みたいな終わり方でしたけどよく考えたら永遠亭崩壊の危機に向かっているような…
ギャグとシリアス?? のバランスが良くて好きでした。
ゆかりんがかわいそうでかわいかったです。
有難う御座いました。
暴走する永琳ってどうしてこうも笑いを誘うのでしょうね
場所場所でクスリとできました
ギャグだと思って読んだのですが、あってるのかはちょっとちょっと自信がないかも。
ですが作者さんの描写が相変わらず面白いので楽しく読めました。
紫様泣いちゃった。