オルレアン人形が初めて一人で身を起こした夜に、彼女がまず思い出したのは一様に深い霧と多くの雪の立ちこめる長い冬の光景だった。
あのときと同じように辺りがひどく静まりかえっていたので、オルレアンはもしかすると自分はまだ目覚めていないのかもしれないと考えたが、まもなくして暗闇の中にわずかに浮き立つ闇色の瞳を見つけた。
「西蔵」と彼女はそれを呼んだ。しかし西蔵は答えてはくれなかった。
「まあ、人形は普通喋らないものよねえ……」
オルレアンはため息をついて、周囲に物言わぬ人形たちの他に誰もいないことを確かめてから家を出た。森の湿った大地が彼女の一歩を受け止めてほんの少しだけ沈み、瘴気を吐き出しながら戻っていったが、物質的にも霊的にも防腐の行き届いた人形にはいっさい関係の無いことだった。そうして彼女は家のまわりをひと巡りした後、方角を定めてしとしとと歩きだした――家の裏手のほど近くに湖があったはずだ。小さな人形の初めての散歩道とするには、空を覆う数々の樹木や毒々しい見た目をした菌類の立ち並ぶ他の方角はいくらか威圧的すぎた。そういえば雪は降っていないな、と彼女はふと思った。
人形が湖のほとりにたどり着くと、そこには幾重にも重なる小さな星々の軌道が浮かんでいた。それらの回転の中心へ目を向けてみれば、深い青と黒のワンピースドレスに身を包んだ魔法使いが一人立っている。霧雨魔理沙、という名前をオルレアンはちゃんと覚えていた。星の引力に惹かれて人形が踏み出すと、がさりと茂みが鳴いて魔理沙に知らせた。
「アリスか……? っと、人形か」
星の光が真っすぐに人形を照らす。彼女は頷きを返した。
「オルレアン人形、だな」と魔理沙は人形の瞳をじっくり観察してから言い当てて、思い出したように「もしかして一人で来たのか? 完全自律人形……?」と問うた。
「たぶんね。魔理沙にそう見えているんなら、そうだと思うわ」
「そんな曖昧な。自分のことだろ?」
「自分のことだからよ。首の後ろに糸が付いていたって見えないでしょう」
反論に魔理沙は深く息を吸ってから「……そうか」と吐き出した。「だったら長生きした甲斐があったのかもしれないな」
「誰が? 魔理沙が?」
「うん」
人形は魔理沙の表情を仰いだ。
「私は自分のことしか分からないからさ」
それからしばらくのあいだ、彼女は魔理沙をひたすら観察しつづけていた。魔理沙は湖の直径とほとんど同じくらい巨大な膜を広げて透明な球体を作っているようだった。その行為が非常に繊細な魔法によって成り立っていることはオルレアンにも一目で理解できたが、行為の意味や目的の推測はできなかった。彼女が遺伝的に引き継いだ物は、他の親子においてもそうであるように、類稀なる魔法の才覚と人形然とした容姿だけだった。だから彼女は母のようには魔理沙のことを知らない。当然、魔理沙以外のことも。彼女の知識や記憶は、かつて一介の人形として操られていた時々に獲得された断片のみで構成されていた。
「アリスから聞いてきた、ってわけでも無さそうだな」と魔理沙は訊いた。
「私がこうして動けることだってアリスは知らないわよ」とオルレアンは答える。
「家出には早すぎるんじゃないか」
「魔法使いと人形の時間感覚は違うのよ」
「残念、今のは人間感覚だ」
「そう。で、集中しなくていいの?」
「ここまで来れば楽勝なんだよ。魔法使いの感覚で言わせてもらうとな」
魔理沙の言った通り、球体は先ほどよりもはるかに安定した様子で湖の真上に鎮座していた。彼女は別の膜をいくつか用意すると、球体の中に新たな球体を作りはじめた。そうしてそれぞれへ星々が流しこまれていくのを眺めながら、オルレアンは頬のあたりにくすぐったい感触を思い出していた。はめ込まれたばかりの真新しい眼球で初めて認めたのだろう、こちらへふりかかるアリスの髪のまぼろしを。それから彼女の傍らで光を浴びてくったりと眠る蜂蜜酒の瓶のことを。こうした記憶がまったくの作り話ならば光はもちろん朝日であるべきなのだが、いまのオルレアンにとってそれは光と言う以上に適切な呼び名が無かった。
「今朝、魔理沙は何か食べた?」
「食べたぜ」
「何を食べたか聞いてるのに」
「いや、すごい会話っぽい話題だったから、つい」
「会話っぽい、って?」
「話すための話。黙ってるのが気まずいときの」
「人形は、黙っているときの方が多いかもね」
「まあ、喋る方が多いやつなんていない気もするけど」
「ねえ、アリスはこういう話をする?」
「するタイプだと思うけど、しないかな」
そう言って顔を上げる魔理沙の輪郭をオルレアンは目でなぞった。耳、頬、首筋から顎にかけてを巡ってそのまま視線を空に投げ出してみると、そこにはいつの間にかずいぶんと数を増した天体の連鎖が展開されていた。霧の深い森の中ということを差し引いても、その規模は優に実際の夜空を上回って見える。橙や空色の星々、深紫の星雲などを彼女は興味深く眺めていたが、とりわけ惹かれたのはある美しい黄金の星だった。
「そうだ」と魔理沙は思いついて口を開いた。「オルレアンの星を作ろう」
「どういうこと?」とオルレアンは尋ねた。
「まあ、誕生祝いみたいな物だよ」と魔理沙は言った。といっても、厳密な意味で人形として誕生したのは別の日なのではないか、とオルレアンは思ったけれども、もちろん口には出さなかった。代わりに「星になるのは死んでからじゃないかしら」という言葉が呟かれたが。魔理沙はそれを否定も肯定もしなかった。
魔理沙の両手のあいだの空間だけが急激に熱されて、魔法の森の霧がそこだけ透明になった。そうしてその空隙に星が生まれるのを人形は見た。深く鋭い輝きの、小さな青い星だった。ちょうどそこにだけ本当の夜が来たみたいだと彼女は思った。
「よし。どこがいい? いまならご希望の天球を案内できるぜ」
「じゃあ、あっち」
オルレアンが指差したのは比較的小規模な球だったが、彼女はその点には頓着していなかった。ただ、彼女にとって最も美しい黄金の星があればそれでよかったから。
「さすがお嬢さま、お目が高い」と魔理沙は冗談めかしたカーテシーを一つくれて、生まれたばかりの星をただちに送り届けた。その正確な軌道の残す、ごく短い尾をオルレアンの目は追った。実際に自分の身からは何一つ失われていないにもかかわらずときおりどうしようもなく感じられてしまう、あの越権的な寂しさを彼女も抱いてしまっていた。あるいは魔理沙さえも。
哀悼者たちはそのままじっと立ちつくしていた。彼方に行ってしまったオルレアンの星が三度彼女たちに光を投げかけても。
結局、魔理沙の肩を何者かがつついてはじめて、二人はようやく目を覚ますことができた。二人は振り向いた。アリス、とオルレアンが先にその者の名を答えた。
「オルレアン?」とアリスは首を傾げる。
「オルレアンだな」と魔理沙は当の彼女を抱きかかげながら頷いた。
「えっ、嘘。私が最初に見たかったのに……」
「いや、びっくりしたよ。オルレアンが一人で現れたときは」
「驚いてたよ。良かったね、アリス」とオルレアンも口を開いた。
「まあ、遅刻すると良いことは無いってことだな」
「私の仕事はこれからだから、別にいいでしょう」とアリスは腕を持ち上げる。それに従って魔理沙と揃いの青と黒のケープが揺れて、隠れていた彼女の肌を一瞬だけあらわにした。寒そうだ、なんて思う暇もなく、たったそれだけの所作で彼女が無数の星々の軌道をことごとく掌握したということがオルレアンにもよく理解できた。魔理沙の球体や宇宙はいわば劇場で、そこで踊る演者たちの指揮を執るのはアリスの役目だった。掴みがたく思えた複数の球体、無数の星々の運行も、いまや一つの意志を持った生物の模倣に思えてきて人形はあやうく星座の起源を直感しかけていたので、その傍らで魔理沙がアリスに何やら耳打ちをしていたのには気付かなかった。アリスはすぐに頷くとオルレアンの右手を取り、その指にそっと触れた。
そうして人形はアリスから一本の糸を引き継いだ。あのオルレアンの星に繋がる糸を。星は遥か彼方にごく小さく認められるばかりなのに、糸の端からは途方もない重力が感じられて彼女はひそかに緊張しはじめていた。
「大丈夫」とアリスは人形に視線を合わせて屈んだ。「星は一つで動いているわけではないから」
既に法則の一部となっていたので、オルレアンはアリスの言葉を、そしてこの宇宙の魔法の意味することを理解できた。湖に浮かべられた宇宙の巨大なレプリカはある種の占星術のためのツールだった。とはいえ、普通の占星術ではなかったが。つまり、普通は星の運行を見て地上の未来を占うのに対し、魔理沙とアリスによる魔法は、複製された星の運行自体を操って地上へ自由な帰結をもたらそうという仕掛けだった。
ほとんどクーデターだ、とその片棒を担がされながらオルレアンはおののいたが、糸を握る手の力はかえって強くなっていた。それはもちろんアリスや魔理沙の抱いているかもしれない理想に殉じようなどという意思による作用ではなかった。生まれたての彼女はきっとエゴとミクロな倫理しか持ちあわせていない。だからそれはせめて託された星を留めておきたいという勝手な希望と正義にすぎず、あるいは彼女の捧げた哀悼も、おそらく多くはそうした理由によっていたのかもしれない……。
重力に慣れると、オルレアンはようやく手元から視線を起こすことができた。強く張られた糸が、まさにかつて星が残した尾をなぞっているのを彼女は見た。しかし、あのときと違っていまは天体の配置がかなり整然として見える。アリスの指先から伸びる無数の糸の交差がつぎつぎに星々を反射して、きれぎれの光がいくつも湖の上を滑った。
「それじゃあ、行くか」と魔理沙がおもむろに口を開いた。どこへ、とオルレアンが尋ねる間も無く、天球たちは湖の中へ潜りはじめて、三人もそれに続いた。
しばらく沈んでから目を開くと、オルレアンは天球たちを仰ぎ見ることができた。気だるい浮遊感の中で宇宙の複製を見上げること、そしてその一部の手綱を握っているという事実、これらは彼女を奇妙な気分にさせたが、けっして嫌な感じでは無かった。唯一気掛かりなのは防水面だけだったが、人形の身はいっさい濡れていなかった。彼女たちは魔理沙の球体によって水から隔てられていた。それは翻って、彼女たち自身もいまや星々の一つとして身を投じているということでもあった。三人はうまく漂ってふたたび身を寄せ合った。
「演目の注文はある?」とアリスが訊いた。
「グランドクロスをやるのもさすがにもう芸が無いよなあ」と魔理沙が唸った。
「去年のうちに全宇宙グランドクロスなんてやるからいけないのよ」
「最終的な実行犯はアリスじゃないか」
「どうだか。天体の設定から怪しかった気もするけれど。簡単すぎたし」
「じゃあこうしよう」と魔理沙は話題を逸らして「オルレアンに合わせるっていうのはどうだ、宇宙が」とひどく軽い調子で提案した。
「まあ、妥当なところね」とアリスもたやすく同意した。
信じられない! とオルレアンは思わず叫びそうになる。驚き、怒り、呆れ、反論の取り掛かりといった数多の感情や理性が勢いに任せて瞬時に彼女の思考を駆けめぐったが、それらが受肉するよりも早く宇宙の天辺が罅割れるのを彼女は見てしまった。だから彼女はじっとそこを指した。割れた水面の向こう側から、紅白の遊星が三人の方を目がけて高速で落ちてくる――。
そこで初めて人形は気付いた。この宇宙はけっして完全な複製ではなかったということに。レプリカは今に至るまで、紅白の二色だけを欠いた不完全な宇宙だったということに。
「やっぱりあんたたちの仕業だったのね」と遊星あるいは巫女が叫ぶ。
「今年は早いな」と魔理沙は帽子を被りなおして「一緒にやるか、オルレアン」とどこか高揚した声で言った。
人形は曖昧に頷きながらも、巫女からは視線を逸らさずに「ねえ」と魔理沙に呼びかけた。「そういえば、どうしてオルレアンって分かったの」
「簡単な話だ。オルレアン人形は瞳の底が最も青いから」と魔理沙は答えた。
オルレアンは自身の目蓋に手をやって魔理沙の言葉を確かめようとした。当然、自分の瞳の色なんてそれで分かるはずも無いのだが、灼けるような使命にも似た反射がそうさせた。そうしてオルレアンは糸を手放してしまった。
ひとたび糸の切れた星は、紅白の重力に引かれているのかみるみる水面へと遠ざかっていった。それに続くようにして他のすべての星々の軌道もすぐにばらばらに水面を目指していったので、彼女は彼女の星を二度と見つけられなくなった。結局、宇宙には紅白の勝利だけが残された。けれども、それであの星が投げかけた光が宇宙からまったく失われたわけではなかった。少なくとも、彼女にとってはそうだった。
それからオルレアンは青い光を夜空の中によく見つけるようになったという。
あのときと同じように辺りがひどく静まりかえっていたので、オルレアンはもしかすると自分はまだ目覚めていないのかもしれないと考えたが、まもなくして暗闇の中にわずかに浮き立つ闇色の瞳を見つけた。
「西蔵」と彼女はそれを呼んだ。しかし西蔵は答えてはくれなかった。
「まあ、人形は普通喋らないものよねえ……」
オルレアンはため息をついて、周囲に物言わぬ人形たちの他に誰もいないことを確かめてから家を出た。森の湿った大地が彼女の一歩を受け止めてほんの少しだけ沈み、瘴気を吐き出しながら戻っていったが、物質的にも霊的にも防腐の行き届いた人形にはいっさい関係の無いことだった。そうして彼女は家のまわりをひと巡りした後、方角を定めてしとしとと歩きだした――家の裏手のほど近くに湖があったはずだ。小さな人形の初めての散歩道とするには、空を覆う数々の樹木や毒々しい見た目をした菌類の立ち並ぶ他の方角はいくらか威圧的すぎた。そういえば雪は降っていないな、と彼女はふと思った。
人形が湖のほとりにたどり着くと、そこには幾重にも重なる小さな星々の軌道が浮かんでいた。それらの回転の中心へ目を向けてみれば、深い青と黒のワンピースドレスに身を包んだ魔法使いが一人立っている。霧雨魔理沙、という名前をオルレアンはちゃんと覚えていた。星の引力に惹かれて人形が踏み出すと、がさりと茂みが鳴いて魔理沙に知らせた。
「アリスか……? っと、人形か」
星の光が真っすぐに人形を照らす。彼女は頷きを返した。
「オルレアン人形、だな」と魔理沙は人形の瞳をじっくり観察してから言い当てて、思い出したように「もしかして一人で来たのか? 完全自律人形……?」と問うた。
「たぶんね。魔理沙にそう見えているんなら、そうだと思うわ」
「そんな曖昧な。自分のことだろ?」
「自分のことだからよ。首の後ろに糸が付いていたって見えないでしょう」
反論に魔理沙は深く息を吸ってから「……そうか」と吐き出した。「だったら長生きした甲斐があったのかもしれないな」
「誰が? 魔理沙が?」
「うん」
人形は魔理沙の表情を仰いだ。
「私は自分のことしか分からないからさ」
それからしばらくのあいだ、彼女は魔理沙をひたすら観察しつづけていた。魔理沙は湖の直径とほとんど同じくらい巨大な膜を広げて透明な球体を作っているようだった。その行為が非常に繊細な魔法によって成り立っていることはオルレアンにも一目で理解できたが、行為の意味や目的の推測はできなかった。彼女が遺伝的に引き継いだ物は、他の親子においてもそうであるように、類稀なる魔法の才覚と人形然とした容姿だけだった。だから彼女は母のようには魔理沙のことを知らない。当然、魔理沙以外のことも。彼女の知識や記憶は、かつて一介の人形として操られていた時々に獲得された断片のみで構成されていた。
「アリスから聞いてきた、ってわけでも無さそうだな」と魔理沙は訊いた。
「私がこうして動けることだってアリスは知らないわよ」とオルレアンは答える。
「家出には早すぎるんじゃないか」
「魔法使いと人形の時間感覚は違うのよ」
「残念、今のは人間感覚だ」
「そう。で、集中しなくていいの?」
「ここまで来れば楽勝なんだよ。魔法使いの感覚で言わせてもらうとな」
魔理沙の言った通り、球体は先ほどよりもはるかに安定した様子で湖の真上に鎮座していた。彼女は別の膜をいくつか用意すると、球体の中に新たな球体を作りはじめた。そうしてそれぞれへ星々が流しこまれていくのを眺めながら、オルレアンは頬のあたりにくすぐったい感触を思い出していた。はめ込まれたばかりの真新しい眼球で初めて認めたのだろう、こちらへふりかかるアリスの髪のまぼろしを。それから彼女の傍らで光を浴びてくったりと眠る蜂蜜酒の瓶のことを。こうした記憶がまったくの作り話ならば光はもちろん朝日であるべきなのだが、いまのオルレアンにとってそれは光と言う以上に適切な呼び名が無かった。
「今朝、魔理沙は何か食べた?」
「食べたぜ」
「何を食べたか聞いてるのに」
「いや、すごい会話っぽい話題だったから、つい」
「会話っぽい、って?」
「話すための話。黙ってるのが気まずいときの」
「人形は、黙っているときの方が多いかもね」
「まあ、喋る方が多いやつなんていない気もするけど」
「ねえ、アリスはこういう話をする?」
「するタイプだと思うけど、しないかな」
そう言って顔を上げる魔理沙の輪郭をオルレアンは目でなぞった。耳、頬、首筋から顎にかけてを巡ってそのまま視線を空に投げ出してみると、そこにはいつの間にかずいぶんと数を増した天体の連鎖が展開されていた。霧の深い森の中ということを差し引いても、その規模は優に実際の夜空を上回って見える。橙や空色の星々、深紫の星雲などを彼女は興味深く眺めていたが、とりわけ惹かれたのはある美しい黄金の星だった。
「そうだ」と魔理沙は思いついて口を開いた。「オルレアンの星を作ろう」
「どういうこと?」とオルレアンは尋ねた。
「まあ、誕生祝いみたいな物だよ」と魔理沙は言った。といっても、厳密な意味で人形として誕生したのは別の日なのではないか、とオルレアンは思ったけれども、もちろん口には出さなかった。代わりに「星になるのは死んでからじゃないかしら」という言葉が呟かれたが。魔理沙はそれを否定も肯定もしなかった。
魔理沙の両手のあいだの空間だけが急激に熱されて、魔法の森の霧がそこだけ透明になった。そうしてその空隙に星が生まれるのを人形は見た。深く鋭い輝きの、小さな青い星だった。ちょうどそこにだけ本当の夜が来たみたいだと彼女は思った。
「よし。どこがいい? いまならご希望の天球を案内できるぜ」
「じゃあ、あっち」
オルレアンが指差したのは比較的小規模な球だったが、彼女はその点には頓着していなかった。ただ、彼女にとって最も美しい黄金の星があればそれでよかったから。
「さすがお嬢さま、お目が高い」と魔理沙は冗談めかしたカーテシーを一つくれて、生まれたばかりの星をただちに送り届けた。その正確な軌道の残す、ごく短い尾をオルレアンの目は追った。実際に自分の身からは何一つ失われていないにもかかわらずときおりどうしようもなく感じられてしまう、あの越権的な寂しさを彼女も抱いてしまっていた。あるいは魔理沙さえも。
哀悼者たちはそのままじっと立ちつくしていた。彼方に行ってしまったオルレアンの星が三度彼女たちに光を投げかけても。
結局、魔理沙の肩を何者かがつついてはじめて、二人はようやく目を覚ますことができた。二人は振り向いた。アリス、とオルレアンが先にその者の名を答えた。
「オルレアン?」とアリスは首を傾げる。
「オルレアンだな」と魔理沙は当の彼女を抱きかかげながら頷いた。
「えっ、嘘。私が最初に見たかったのに……」
「いや、びっくりしたよ。オルレアンが一人で現れたときは」
「驚いてたよ。良かったね、アリス」とオルレアンも口を開いた。
「まあ、遅刻すると良いことは無いってことだな」
「私の仕事はこれからだから、別にいいでしょう」とアリスは腕を持ち上げる。それに従って魔理沙と揃いの青と黒のケープが揺れて、隠れていた彼女の肌を一瞬だけあらわにした。寒そうだ、なんて思う暇もなく、たったそれだけの所作で彼女が無数の星々の軌道をことごとく掌握したということがオルレアンにもよく理解できた。魔理沙の球体や宇宙はいわば劇場で、そこで踊る演者たちの指揮を執るのはアリスの役目だった。掴みがたく思えた複数の球体、無数の星々の運行も、いまや一つの意志を持った生物の模倣に思えてきて人形はあやうく星座の起源を直感しかけていたので、その傍らで魔理沙がアリスに何やら耳打ちをしていたのには気付かなかった。アリスはすぐに頷くとオルレアンの右手を取り、その指にそっと触れた。
そうして人形はアリスから一本の糸を引き継いだ。あのオルレアンの星に繋がる糸を。星は遥か彼方にごく小さく認められるばかりなのに、糸の端からは途方もない重力が感じられて彼女はひそかに緊張しはじめていた。
「大丈夫」とアリスは人形に視線を合わせて屈んだ。「星は一つで動いているわけではないから」
既に法則の一部となっていたので、オルレアンはアリスの言葉を、そしてこの宇宙の魔法の意味することを理解できた。湖に浮かべられた宇宙の巨大なレプリカはある種の占星術のためのツールだった。とはいえ、普通の占星術ではなかったが。つまり、普通は星の運行を見て地上の未来を占うのに対し、魔理沙とアリスによる魔法は、複製された星の運行自体を操って地上へ自由な帰結をもたらそうという仕掛けだった。
ほとんどクーデターだ、とその片棒を担がされながらオルレアンはおののいたが、糸を握る手の力はかえって強くなっていた。それはもちろんアリスや魔理沙の抱いているかもしれない理想に殉じようなどという意思による作用ではなかった。生まれたての彼女はきっとエゴとミクロな倫理しか持ちあわせていない。だからそれはせめて託された星を留めておきたいという勝手な希望と正義にすぎず、あるいは彼女の捧げた哀悼も、おそらく多くはそうした理由によっていたのかもしれない……。
重力に慣れると、オルレアンはようやく手元から視線を起こすことができた。強く張られた糸が、まさにかつて星が残した尾をなぞっているのを彼女は見た。しかし、あのときと違っていまは天体の配置がかなり整然として見える。アリスの指先から伸びる無数の糸の交差がつぎつぎに星々を反射して、きれぎれの光がいくつも湖の上を滑った。
「それじゃあ、行くか」と魔理沙がおもむろに口を開いた。どこへ、とオルレアンが尋ねる間も無く、天球たちは湖の中へ潜りはじめて、三人もそれに続いた。
しばらく沈んでから目を開くと、オルレアンは天球たちを仰ぎ見ることができた。気だるい浮遊感の中で宇宙の複製を見上げること、そしてその一部の手綱を握っているという事実、これらは彼女を奇妙な気分にさせたが、けっして嫌な感じでは無かった。唯一気掛かりなのは防水面だけだったが、人形の身はいっさい濡れていなかった。彼女たちは魔理沙の球体によって水から隔てられていた。それは翻って、彼女たち自身もいまや星々の一つとして身を投じているということでもあった。三人はうまく漂ってふたたび身を寄せ合った。
「演目の注文はある?」とアリスが訊いた。
「グランドクロスをやるのもさすがにもう芸が無いよなあ」と魔理沙が唸った。
「去年のうちに全宇宙グランドクロスなんてやるからいけないのよ」
「最終的な実行犯はアリスじゃないか」
「どうだか。天体の設定から怪しかった気もするけれど。簡単すぎたし」
「じゃあこうしよう」と魔理沙は話題を逸らして「オルレアンに合わせるっていうのはどうだ、宇宙が」とひどく軽い調子で提案した。
「まあ、妥当なところね」とアリスもたやすく同意した。
信じられない! とオルレアンは思わず叫びそうになる。驚き、怒り、呆れ、反論の取り掛かりといった数多の感情や理性が勢いに任せて瞬時に彼女の思考を駆けめぐったが、それらが受肉するよりも早く宇宙の天辺が罅割れるのを彼女は見てしまった。だから彼女はじっとそこを指した。割れた水面の向こう側から、紅白の遊星が三人の方を目がけて高速で落ちてくる――。
そこで初めて人形は気付いた。この宇宙はけっして完全な複製ではなかったということに。レプリカは今に至るまで、紅白の二色だけを欠いた不完全な宇宙だったということに。
「やっぱりあんたたちの仕業だったのね」と遊星あるいは巫女が叫ぶ。
「今年は早いな」と魔理沙は帽子を被りなおして「一緒にやるか、オルレアン」とどこか高揚した声で言った。
人形は曖昧に頷きながらも、巫女からは視線を逸らさずに「ねえ」と魔理沙に呼びかけた。「そういえば、どうしてオルレアンって分かったの」
「簡単な話だ。オルレアン人形は瞳の底が最も青いから」と魔理沙は答えた。
オルレアンは自身の目蓋に手をやって魔理沙の言葉を確かめようとした。当然、自分の瞳の色なんてそれで分かるはずも無いのだが、灼けるような使命にも似た反射がそうさせた。そうしてオルレアンは糸を手放してしまった。
ひとたび糸の切れた星は、紅白の重力に引かれているのかみるみる水面へと遠ざかっていった。それに続くようにして他のすべての星々の軌道もすぐにばらばらに水面を目指していったので、彼女は彼女の星を二度と見つけられなくなった。結局、宇宙には紅白の勝利だけが残された。けれども、それであの星が投げかけた光が宇宙からまったく失われたわけではなかった。少なくとも、彼女にとってはそうだった。
それからオルレアンは青い光を夜空の中によく見つけるようになったという。
読んでいるうちにいつの間にか、オルレアンと同じ幼子の心地になっていました。
素晴らしいお話を読ませていただきました。ありがとうございました。
おしゃれで素敵な話でした
よかったです