かつ、かつ。見事な月夜に、足音が添えられた。蒼白の光は冷たく命蓮寺のシルエットを炙り出し、役には立たない、遠すぎる光のみを標とする星々より遥かにしっかりと夜闇を切り裂いて幾分か蒼くなった景色を写し出す。冷たき寂寥の風がひゅうと吹き、柳がごうと無機の唸りを上げ、元々肌寒い空気を殊更に冷却した。数多の卒塔婆が古代天竺の文字を剥き、整然と並んだ墓石が、土中に眠る者の年季によって、つややかにてらてらと輝いたり、或いは枯れ果てたでこぼこの岩肌にのっぺりと月光を受けたり、はたまた粗く削り出された目に不規則な影の文様を刻んでいたり、一様に見えて個性的に月光に沈黙する。冷気にも負けず劣らず湿り気が差し、墓石に露を覗かせ、土には若干の有機的な柔らかさを与える。
ここまで長々と風景を描写したが、此処において最も重要なのは、それが不気味である、という事であった。
足音の主が見えた。二十歳そこそこの男である。冷気の為に吐息は白く、足取りには慄えが見て取れる。その慄えの元は、寒さか又は恐ろしさ故か。夜の墓なぞと言うものは、昔っから幽玄なる風情と死に対する不謹慎な不気味さのみを纏っているものと相場が決まっている。その者が如何な意思を以ってこの場所に現れたのかは到底与り知れた事では無い。墓参りならばお天道の見守っている内に行うがよかろう。肝試しにしても全くの意識外なのではないかと思われる程、気張りや過度の恐れと言うものの無い、精々夜盗追い剥ぎ程度に対する警戒程度の表情のみを湛えていた。町は寝静まり草木も寝に就こうと言う時間帯なので、買い物帰りの可能性など有りはしない。浮浪の者にしても身なりは綺麗であったし、そもそも浮浪がこの様な獣も凍える寒さの中で歩く筈は無かった。
石畳の道はその材質にも関わらず微塵も硬質さを感じさせず、土には蚯蚓などのさぞ住みやすかろうと思われる柔らかさが、冷気とは矛盾した暖かさをもって纏わる。線香も持たず、供えも持たず、男はただ墓石の摩天楼の間を切り通す様に、静寂の中を歩いている。
かつ、かつ、かつ、かつ、ひた、ひた。
俄に、足音に男のそれとは異なるものが混ざった。その者は蟀谷に若干の汗を浮かべ、気持ち足早に歩き始めた。
ひたり、ひたり、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
犠牲者の足取りが速くなれば、その足音も、それに追随する様に早く、近くに移動する。男はとうとうそれに耐え兼ね、歩くのを止めて走り出した。足音は男が走るより早くひたりひたりと迫り来る。
男はもっと早く走った。足音はそれにも追随する所か、更に早くなり、遂には足音は男の真後ろにまで迫っていた。
男はもう到底逃げ切れないと悟ったのか、今度は歩みをめっきり途絶えさせ、その場に立ち止まった。恐怖の為に息は荒く、収まる気配は無い。男が止まったと同時、足音も又ぴったりと止まった。男は如何なる物音をも聞き逃さぬ様に耳を澄ませたものの、しかしその鼓膜には、男以外は呼吸の音すら震う事は無かった。
先程までとても恐ろしく、真に迫る存在感を放っていた異様な足音の主は、今や瞬時にして風に吹かれる空気よりもその物理的存在感を無くしていた。しかし男にとっては連続する記憶があるのでその限りでは無い。周囲を見回す。男の心臓は早鐘を打ち、眼の蓋は殆ど全開になっている。右。唯十か百かまで並んだ墓石のみが、数多の影に満たされた、彫の文字を男に向けているのみだ。左。化け物の恐ろしく鋭く長い爪が生えた腕の様な、葉の一つも無く、全てが茶で構成されている木が佇んでいるだけだ。そこで男は寒さを思い出した何の様に、だが寒さだけが原因では無く、ひとしきり身体を震わせた。最後。足音が迫って来た、そして今は男の真後ろで止まっているだろう、後方を見やろうとする。だが男は怖気付き、先ずは地面に映る影を見た。だが、月は正面にて、丸くなり男を見ている。影を確認する事は出来ない。
男は唾を飲みこむ。心拍はこれまでに無い程まで活発に動き続け、顔色にも段々と蒼白の影が差して来る。暫くは男も動かず、ただ様子を覗うのみであった。沈黙。怪奇はそれのみを返した。男にはそれがよもや永久かに感じ取れた。
ばさり、ばさり、かあ、かあ。
唐突に、烏の群れが、騒がしい羽音と鳴き声を上げて月の反対の方面へと飛び立って行った。極度に緊張していた男はそれに過剰に反応し、更に心中を占拠する恐怖を強めた。次に、風に吹かれて木の梢がぶつかり合い、かっかっかと嘲笑する。足元を見れば、蚯蚓が男の足に這い登らんと身を起こしていた。静寂の中では、如何に小さな物音をもが嫌に耳に障った。
男は有りっ丈の勇気を振り絞り、思い切って蚯蚓を振り払い乍ら振り向いた。そこには――――
――――男がここまでに歩いて来た道のりのみが、暗く長く伸びていた。月明かりは道を、まるで道から落ちたら奈落へ落ちるかに思われる程、それのみを青白く照らしていた。空には、未だに烏が此方に尾羽を向けて飛翔している。男は溜め息をつき、安堵した様に胸を撫で下ろした。
――――ひた、ひた、ひた、ひた。
足音が聞こえた。今度は前方、否、今は男は後方を向いているので、男の背後と言った方が正しい。男の背後からである。
再び男は、背後に怪異の居る恐怖に苛まれた。しかも、先程よりも遥かに実体感を伴って。
先とは違い、確かに背後には何者かの気配が漂い、凡そ人間のそれでは無いシルエットが月光に照らし出されている。
一度決心して覚悟が固まった今となっては、振り返る事に躊躇は無かった。
逢魔が時には魔に逢うが当然か。それは居た。男の六間程先に。月が逆光となって大まかな姿形しか見えはしなかったが、それは男を恐怖に陥れるのには十分な異形であった。
背丈は六尺程。傘状に広がった頭部と思わしき部位、それより異様に細い頸部に近い部位、そして四尺に満つか満たぬか位の、比較的に細い體。
赤い眼光が頭部と體に一つずつ光り、頭部からは液体を溢れんばかりに纏い垂らし、ぬらぬらと湿った光沢を纏う肉の器官が垂れ、その眼光を以ってして男を見定め、一分の動きも許さず監視していた。
べろり。ぐちゃ。じゅるじゅる。
顏面に不快な何かが触れた。粘性のある液体、人肌よりも少し暖かい温度。ざらざらとした、されど柔らかい感触が、六間の距離をものともせずに男の顔を舐め回した。恐らくあの肉の器官であろうが、男にはそんな冷静な判断をする余裕は無く、その恐ろしさから急激なる接近、接触に、最早心の平穏は荒波を立て、男は恐怖して一声上げた切り、一目散に逃げ出して行った。
タッタッタッタッタッタッタッタ…
男が去った後。男が居ようが居まいが自然は委細頓着する事無く、相も変わらず月はまんまるに浮かび、墓石は建ち並び、びゅうびゅうと寒風が吹き、垂れ枝の木が揺れ、地虫共がうねる。先程までその全ての中心にしてそれを演出に、恐怖の存在を演じていた妖は、傘を降ろして、枯れ尾花の正体を、誰とも知られず顕した。
「へくちっ!」
秋神がそろそろ一年の隠遁を始める程度の寒さは、何の区別も無く妖にも襲い掛かるようであった。腹を膨らませたオッドアイの少女、多々良小傘は、傘を畳み、暖を求めて走り去った。
今の少女はどう足掻いても少女でしか無く、人を恐怖に陥れる事などとても出来ないだろう。しかしどうだろうか。少女は、枯れ尾花は、墓場と言う空間の昏さに溶けて、月光の恐ろしさを借りて、正体を暴かせぬ闇に潜んで、オソロシキ幽霊の異形を演じきったではないか。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。それは、恐ろしい幽霊も、枯れ尾花と言う正体を暴かれれば、最早何も怖くなどは無い、と言う意味であるが、今までの一部始終を誰にも悟られず見ていた××××にして見れば、何の変哲も無い枯れ尾花も、状況によって、不明によって、時に人々の視界には恐ろしい幽霊の幻像を見せる、と言う意味も持って居るのだろうと思えた。
自分で考えている事が自画自賛に思えて自分で気恥ずかしくなり、正体不明の××も又帰って行った。
ひょうひょう、ひょうひょう。人が居なけりゃ妖の時間も意味は無い、妖の時間に踏み込んでくる酔狂者が居ればこその逢魔が時である。わたしもかえろ、おうちにかえろ。月夜が跳梁する一つの影を映した。
ここまで長々と風景を描写したが、此処において最も重要なのは、それが不気味である、という事であった。
足音の主が見えた。二十歳そこそこの男である。冷気の為に吐息は白く、足取りには慄えが見て取れる。その慄えの元は、寒さか又は恐ろしさ故か。夜の墓なぞと言うものは、昔っから幽玄なる風情と死に対する不謹慎な不気味さのみを纏っているものと相場が決まっている。その者が如何な意思を以ってこの場所に現れたのかは到底与り知れた事では無い。墓参りならばお天道の見守っている内に行うがよかろう。肝試しにしても全くの意識外なのではないかと思われる程、気張りや過度の恐れと言うものの無い、精々夜盗追い剥ぎ程度に対する警戒程度の表情のみを湛えていた。町は寝静まり草木も寝に就こうと言う時間帯なので、買い物帰りの可能性など有りはしない。浮浪の者にしても身なりは綺麗であったし、そもそも浮浪がこの様な獣も凍える寒さの中で歩く筈は無かった。
石畳の道はその材質にも関わらず微塵も硬質さを感じさせず、土には蚯蚓などのさぞ住みやすかろうと思われる柔らかさが、冷気とは矛盾した暖かさをもって纏わる。線香も持たず、供えも持たず、男はただ墓石の摩天楼の間を切り通す様に、静寂の中を歩いている。
かつ、かつ、かつ、かつ、ひた、ひた。
俄に、足音に男のそれとは異なるものが混ざった。その者は蟀谷に若干の汗を浮かべ、気持ち足早に歩き始めた。
ひたり、ひたり、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた、ひた。
犠牲者の足取りが速くなれば、その足音も、それに追随する様に早く、近くに移動する。男はとうとうそれに耐え兼ね、歩くのを止めて走り出した。足音は男が走るより早くひたりひたりと迫り来る。
男はもっと早く走った。足音はそれにも追随する所か、更に早くなり、遂には足音は男の真後ろにまで迫っていた。
男はもう到底逃げ切れないと悟ったのか、今度は歩みをめっきり途絶えさせ、その場に立ち止まった。恐怖の為に息は荒く、収まる気配は無い。男が止まったと同時、足音も又ぴったりと止まった。男は如何なる物音をも聞き逃さぬ様に耳を澄ませたものの、しかしその鼓膜には、男以外は呼吸の音すら震う事は無かった。
先程までとても恐ろしく、真に迫る存在感を放っていた異様な足音の主は、今や瞬時にして風に吹かれる空気よりもその物理的存在感を無くしていた。しかし男にとっては連続する記憶があるのでその限りでは無い。周囲を見回す。男の心臓は早鐘を打ち、眼の蓋は殆ど全開になっている。右。唯十か百かまで並んだ墓石のみが、数多の影に満たされた、彫の文字を男に向けているのみだ。左。化け物の恐ろしく鋭く長い爪が生えた腕の様な、葉の一つも無く、全てが茶で構成されている木が佇んでいるだけだ。そこで男は寒さを思い出した何の様に、だが寒さだけが原因では無く、ひとしきり身体を震わせた。最後。足音が迫って来た、そして今は男の真後ろで止まっているだろう、後方を見やろうとする。だが男は怖気付き、先ずは地面に映る影を見た。だが、月は正面にて、丸くなり男を見ている。影を確認する事は出来ない。
男は唾を飲みこむ。心拍はこれまでに無い程まで活発に動き続け、顔色にも段々と蒼白の影が差して来る。暫くは男も動かず、ただ様子を覗うのみであった。沈黙。怪奇はそれのみを返した。男にはそれがよもや永久かに感じ取れた。
ばさり、ばさり、かあ、かあ。
唐突に、烏の群れが、騒がしい羽音と鳴き声を上げて月の反対の方面へと飛び立って行った。極度に緊張していた男はそれに過剰に反応し、更に心中を占拠する恐怖を強めた。次に、風に吹かれて木の梢がぶつかり合い、かっかっかと嘲笑する。足元を見れば、蚯蚓が男の足に這い登らんと身を起こしていた。静寂の中では、如何に小さな物音をもが嫌に耳に障った。
男は有りっ丈の勇気を振り絞り、思い切って蚯蚓を振り払い乍ら振り向いた。そこには――――
――――男がここまでに歩いて来た道のりのみが、暗く長く伸びていた。月明かりは道を、まるで道から落ちたら奈落へ落ちるかに思われる程、それのみを青白く照らしていた。空には、未だに烏が此方に尾羽を向けて飛翔している。男は溜め息をつき、安堵した様に胸を撫で下ろした。
――――ひた、ひた、ひた、ひた。
足音が聞こえた。今度は前方、否、今は男は後方を向いているので、男の背後と言った方が正しい。男の背後からである。
再び男は、背後に怪異の居る恐怖に苛まれた。しかも、先程よりも遥かに実体感を伴って。
先とは違い、確かに背後には何者かの気配が漂い、凡そ人間のそれでは無いシルエットが月光に照らし出されている。
一度決心して覚悟が固まった今となっては、振り返る事に躊躇は無かった。
逢魔が時には魔に逢うが当然か。それは居た。男の六間程先に。月が逆光となって大まかな姿形しか見えはしなかったが、それは男を恐怖に陥れるのには十分な異形であった。
背丈は六尺程。傘状に広がった頭部と思わしき部位、それより異様に細い頸部に近い部位、そして四尺に満つか満たぬか位の、比較的に細い體。
赤い眼光が頭部と體に一つずつ光り、頭部からは液体を溢れんばかりに纏い垂らし、ぬらぬらと湿った光沢を纏う肉の器官が垂れ、その眼光を以ってして男を見定め、一分の動きも許さず監視していた。
べろり。ぐちゃ。じゅるじゅる。
顏面に不快な何かが触れた。粘性のある液体、人肌よりも少し暖かい温度。ざらざらとした、されど柔らかい感触が、六間の距離をものともせずに男の顔を舐め回した。恐らくあの肉の器官であろうが、男にはそんな冷静な判断をする余裕は無く、その恐ろしさから急激なる接近、接触に、最早心の平穏は荒波を立て、男は恐怖して一声上げた切り、一目散に逃げ出して行った。
タッタッタッタッタッタッタッタ…
男が去った後。男が居ようが居まいが自然は委細頓着する事無く、相も変わらず月はまんまるに浮かび、墓石は建ち並び、びゅうびゅうと寒風が吹き、垂れ枝の木が揺れ、地虫共がうねる。先程までその全ての中心にしてそれを演出に、恐怖の存在を演じていた妖は、傘を降ろして、枯れ尾花の正体を、誰とも知られず顕した。
「へくちっ!」
秋神がそろそろ一年の隠遁を始める程度の寒さは、何の区別も無く妖にも襲い掛かるようであった。腹を膨らませたオッドアイの少女、多々良小傘は、傘を畳み、暖を求めて走り去った。
今の少女はどう足掻いても少女でしか無く、人を恐怖に陥れる事などとても出来ないだろう。しかしどうだろうか。少女は、枯れ尾花は、墓場と言う空間の昏さに溶けて、月光の恐ろしさを借りて、正体を暴かせぬ闇に潜んで、オソロシキ幽霊の異形を演じきったではないか。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。それは、恐ろしい幽霊も、枯れ尾花と言う正体を暴かれれば、最早何も怖くなどは無い、と言う意味であるが、今までの一部始終を誰にも悟られず見ていた××××にして見れば、何の変哲も無い枯れ尾花も、状況によって、不明によって、時に人々の視界には恐ろしい幽霊の幻像を見せる、と言う意味も持って居るのだろうと思えた。
自分で考えている事が自画自賛に思えて自分で気恥ずかしくなり、正体不明の××も又帰って行った。
ひょうひょう、ひょうひょう。人が居なけりゃ妖の時間も意味は無い、妖の時間に踏み込んでくる酔狂者が居ればこその逢魔が時である。わたしもかえろ、おうちにかえろ。月夜が跳梁する一つの影を映した。
小傘もお腹が膨れてよかったです
じっとりした文体だからこそ、小傘からのこの展開に説得力と面白さを感じました。かわいいかよ。
とても好きです。
小傘ちゃん頑張った