寒さという寒さが背伸びをして忍び寄る秋の暮れ。その季節の変容に関しては、妖怪の山の頂に座す守矢神社も例外ではない。
本殿を包み隠すように覆う杉の木々こそ今も青々と茂って淋漓なものだが、それらの脇に聳え乱立する落葉樹たちは既に葉を落とし黒とも茶とも似付かぬ痩せた枝を野晒しにしていた。
そして拝殿へと真っ直ぐ伸びる均整な石畳の参道も、今ではその落葉の痕跡ばかりが色濃く。石の白色が覗く場所など無いと言わんばかりの光彩で、大地全てが鮮やかに塗りたくられて。
空が抱く快晴の青が境内の雰囲気と対比されて、この一帯だけが他の場所から切り取られたかのように寂しさばかりで満ちている。
だが、決して神社自体が寂れているという訳では無い。
妖怪の山という排他社会の峰に座した建物でありながらも、その手練手管で艱難の壁を次々と乗り越えられる程に有り余る神力。
それこそがこの神社の最大の武器であったが故に、参拝者のニーズや変遷に力強く対応し。かつその努力を信徒に悟らせまいと地道に思考を積み重ね。
結実した成果の待ちに待ったその味は、途轍もなく甘美な物として確かに存在していたのだから。
ただ、幾ら神域に大層な社を持って霊験灼かに振舞ったところで、自然現象の栄枯盛衰だけは不変。
神徳を得た神ですらその理に完全に逆らう事など叶いやしない。
これはたったそれだけの単純な話なのだ。
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守矢神社の裏手。本殿に背を向けて少し歩けば視界に広がる一面の湖も、また参道と同じく静けさを保っている。
そもそもこの昼下がりの良い時間帯だと言うのにも関わらず、架空索道はおろか守矢神社の境内に人も妖怪も居ないというのは珍しい話であった。
いつもならば聞こえるはずの妖精の歓笑も、信仰に身を委ねる敬虔な信徒の二拍も、上空を飛び回る天狗の風切り音も、今日となっては何もかもが聞こえやしない。
地面に乱雑に散りばめられた朽葉が人の足で踏み締められる音を抜き出して拝観者の人数を把握する事ですら、この状況では容易いものだろう。
聴覚に訴え掛ける不必要な情報を選別する手間も無く、ただただ青々とした空と湖がその天地を埋め尽くすのみ。
けれどもそれは、ただただ情緒に身を任せられるありきたりな日常風景とは到底なり得ない。
静けさで支配された湖畔の中で対峙しているたった二人のその姿。たった二人、されど二柱。
妖怪の山では見慣れた存在であろうその二人が、見慣れる事など出来やしない程に尋常で無い気配を纏って。
互いを互いの双眸で見据えたまま眼光を絶えず送り続け、不動を貫いたまま自らの威圧感で場を掌握しようと互いに仁王立ちをして退きやせず。
自らの名を冠した社を背にして、その痩躯とは裏腹に両の脚を地の底へと突き刺している坤の神・洩矢諏訪子。
自らの名を冠した湖を背にして、その高身長を風に揺蕩わせて天の上へ昇らんとしている乾の神・八坂神奈子。
無言で進行している時の中、粗暴さの欠片も無くただ一心で親友という敵を凝視するのみ。
どちらもが相手を喰わんが為に相手の視線を掴んで離さない。
「諏訪子オ~~?そっから退いて貰おうかァ~~?」
先に水を差したのは神奈子。語調の荒々しさはまさに荒御魂の咆哮か。
一瞬で上昇したボルテージによって、場の空気が先程に増して震え上がる。その神徳を以て、威圧という名の神風が諏訪子を薙ぎ倒さんと。
同心円をギュっと細めたかの様に鋭利な眼光が棘針になって、諏訪子を居竦まらせてその場から動かさない。
差された水は水眼の如く苛烈に。睨まれた蛙は、諏訪子。
「神奈子ォ~~!全部説明して貰おうかァ~~!」
だが諏訪子もまた猛り吼える。負け惜しみとは程遠く、相手を値踏みするかの如く。
乾神の一擲で支配された場の空気が、坤神の一撃によって塗り替えられる。その神徳を以て、土着の全てが異物である神奈子を排除せんと。
睨み付けていたハズの神奈子が、蛙の鳴き声に文字通り目を借られたかのように睨み返され、その場で硬直せざるを得ない。
蛙の目借りは最早狩りの如くに。睨まれた蛞蝓は、神奈子。
蛇の道は蛇。それを両者共に分かっているからこそ成り立つ正攻法の張り合いだった。
赤口白蛇の形を取って神威を振るう祟り神と、注連縄という蜷局で相手を締め付ける山の神。
その市女笠の冠を自らのアトリビュートとして誇示し続ける蛙と、外の世界という殻を脱ぎ捨てて別の貝になろうとした蛞蝓。
両者共に捕食者の眼光を見せれば、食物連鎖のピラミッドを破綻させてしまうに等しく。
三竦みの関係性も今やどちらがどちらを飲み込まんとしているのかすら曖昧で。
蛇に睨まれた蛙か、蛙に睨まれた蛞蝓か、蛞蝓に溶かされるしかない蛇か、それとも共食いを虎視眈々と狙う蛇同士か。
二人が共に捕食者で被食者という下克上も甚だしい最悪な対戦カード。平衡点はいつしか消え失せ、等傾斜線は目まぐるしくその傾きを変動させ。
一歩も動かず研ぎ澄まされた互いの神光だけをして、その地は人外魔境へと相成る他に道は無い。
守矢神社を中心とした領域に乾神と坤神の二柱しか居ないというのは、あくまでも客観的な事実の一端でしか無かった。
日常の光景では有り得ない何かの予感とそこから発せられた比類無き圧力が何人たりとて立ち入ってはいけないという直感となって、二人しか居られない場所を作り上げていたに過ぎない。その瞬間から、この一帯は入山禁制の霊山と呼ぶに相応しくなった。
それ程までに、周囲を取り巻く環境も交錯する視線も思考もが際限無しに激化し続けていたのだから。
「あの時の決着を着けようって言うのかい、今この時この場所で!」
神奈子の語調がまた一段と釣り上がる。一度は押し返された場の掌握を、再びその手へと戻さんとばかりに。
この二人の間柄において、『あの時』という単語は一つの意味しか示さない固有名詞。
――即ち、諏訪大戦。
嘗て一国を治め強靭無比な権威を恣放に轟かせた洩矢諏訪子が、大和から推参した八坂神奈子に完膚無きまでに敗北を舐めさせられた戦い。
今となっては笑い飛ばせる過去の思い出だと二人は自認している。酒の席や日常の痴話喧嘩で互いがノる為に使うお決まりの説話でもあった。
けれども、この期においてその語はもう笑い話では済まないというのは誰から見ても明らかで。
これは挑発。洩矢諏訪子が敗北した事実のみを蒸し返して、弱肉強食の理はいつまで経っても覆せないという事実を暗に宣言している。
これは高揚。本領を発揮した諏訪子と行う事になるであろう、文字通りの太古の大戦の再来に胸が躍らない八坂神奈子ではない。
これは犠牲。立ちはだかる障害を退けてこそ、次の段階に進めるのだという決心を抱いて。
全ての感情を風に合い混ぜて、対峙するもう一柱へと投げかけたのだ。
「やっぱ神奈子、アンタが今は本当に許せないよ」
対する諏訪子の声は酷く凍てついて。ともすれば自分を律すれないかもしれないという危うさが、今の彼女を占める全てだった。
下手すれば血という血がが沸騰してしましそうな激情に、滾りをどこか感じさせる血流。
祟神にして土着神である諏訪子の本質が精神を覆い隠してしまうとでも言いたげに。
怒りの言葉を眼前の神奈子に矢継ぎ早に繰り出す事も搾り出す事も出来ず。湖を流れる土砂のように、その血の中に感情だけが堆積し続けている。
洩矢諏訪子と八坂神奈子の連れ添った年月は、旧知の仲以上の表現が可能な程には並大抵の物では無かった。
お互いの選り好みも性根も力量も戦術も全て知り尽くしていた。幻想郷に移るなんて荒事を勝手に進行させた時も、互いに裏では分かりあっていた。
血で見れば他人ではあったものの、相手の思考は数語交わせばそれとなく理解出来る程の仲。
意味深長を容易く把握出来るぐらいに懐に入り込んでくれていた相棒。
いつの時代になったって、掛け替えの無い最高の間柄。
だからこそ、諏訪子は神奈子の行わんとしている事が分かってしまえた。でなければこの場所でかち合うなんて偶然の様な行動は出来やしない。
だからこそ、諏訪子は神奈子の考えている事がが理解出来なかった。でなければ神奈子と対峙しようだなんてわざわざ思えやしない。
諏訪子だって本当は自分自身の行いを恨めしく思っていた。
八坂神奈子という女は最大の障壁で、決して拭えない相性の差が明確に顕在しているのは変えようが無い事実なのだ。
宿命付けられた蛙と蛇の力量の差を覆そうとするならば、睨みを利かすだけでなく自らが蛇になるか相手を蛞蝓に無理矢理引き摺り下ろしてやるしかない。
だが、神奈子は無理矢理を通せる程甘くない相手だという事実もまた、誰よりも何よりもよく知っている。勝って叩きのめすには余りにも高い壁。
それでも諏訪子はやるしかないのだ。
この場において神奈子の存在は、この地において有象無象をゆうに超える程の憎悪の対象と相成った。
赤の他人だったならばまだ冷静だったのだろうか、気の置ける友人だからこそ逆に容赦出来ないという自認すらも感じられて。
『頭を冷やせ』『考え直せ』なんて叫びは誰にも届かない。言葉で砲煙弾雨にしてやる必要も無い。
「早苗を殺すだなんてよくもまぁ馬鹿げた事を考えたなァーー!!!!」
鬨の声、ここに極まれり。
波動が空気を穿たんとする開始のゴングとなって、木々を騒めかせ湖面に波を立たせたなら、もうそこは既に神々の独壇場だった。
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八坂の湖にて勃発した神と神の意地の衝突は、一瞬にして荘厳かつ規格外な応酬へと変貌していた。
ともすれば架空索道のレールからも見えてしまいかねない程の二人の戦いは、誰がどう見たって誰にも止められやしないという畏怖にしかならないだろう。
それ程までの後光に神威に凶刃に暴風に瘴気に守矢神社は包まれて、二人は否応無しに後戻りの効かない道程を進まされていた。
神奈子は全てを凪ぐかのように諏訪子を見据えながらその強大な神力に身を委ね、信仰を赤色の弾という実体にしては間髪入れずに多方向から撃ち続ける。
拍子抜けするぐらいに薄い密度で放たれるそれらだったが、そんな弾幕に厄介なカラクリが存在しているのは言わずと知れた事実で。
ある程度進んだ瞬間に弾が膨張し破裂して諏訪子の逃げ道を容赦無く塞ぐその形状は、これぞまさに威光と呼ぶに相応しかろう。
けれども、諏訪子にその弾幕は決して届かない。
速度の緩急も一歩先を読んだ弾の布陣もお構い無し、神奈子の気心を読み切った彼女の軽業がそれを容易に避けさせる。
大地を如何に飛び跳ねたところで、土着神という彼女を支える力は十全に。道を譲れはしないという強い意志が神奈子の目前で山のように聳え立つ。
諏訪子も全てを押し流さんと両掌を合わせながらその膨大な霊力を大地に流し込み、湖を満たす水という水に方向性を与えて絶えず前方へと撃ち続ける。
明確なパターンすらも存在しない物量攻撃ではあるものの、神力を纏った水滴という不定形ながらも威力の高い弾は雫一滴のみでも傷が残るとさえ。
神徳で天候を司る神に対して見せ付けられた、不規則に捻じ曲がり意識を惑わすその弾痕はある意味風雨を制してやろうという意趣返しですらもあった。
けれども、神奈子にその弾幕は決して届かない。
諏訪子の粗暴そうに見えて強かな面から来る癖を見切っていた彼女からしてみれば、密度が薄くなってしまう場所を神風で打破するのは造作も無い事。
風雨はやはり八坂神奈子と共にあり。眼前の障害物全てを吹き飛ばさんとする無慈悲な力で、諏訪子すらも引き剥がさんと荒れ狂う。
力量による二つの弾はどちらも、幻想郷においての金科玉条に半ば倣っていた。
片や「神の御威光」、片や土着神「ケロちゃん風雨に負けず」。優雅さと熾烈さを兼ね備えた、まさしく神らしいとも言えるスペルカード。
だが時と場所を変えさえすればれば命名決闘法の下で放たれるそれらも、今この場においては形を似せただけの別物。鉄則は五割すらも機能していない。
そもそも命名決闘法であるならば当然存在しているはずのスペルカード名を今に至るまで一切読み上げていないという事実。
互いの思考こそ飛び交い介在すれど、ただただ己の力任せに放たれ続ける弾の集合体を弾幕と呼称するだなんて不遜にも程があろう。
郷全域において絶対視され、不殺を貫く為に考案された詔勅に倣わないだなんて、最早理由は一つに絞られる。
眼前の仇敵への殺意故。
太古からの海千山千の仲だったとしても、今の彼女たちを取り巻く環境は劇的に変化していた。
相手の事を知り尽くしていたハズだったのに、ある一点を境に気付けばすれ違ってしまった蛇と蛙が二柱。
世界に敷かれた暗黙の了解を破っても抑えきれない憤怒と殺意を原動力に己の体を駆動させ、その相手を弑さんとばかりに。
「お前は早苗を!家族の命をどういう了見で奪おうだなんて!」
「……ああ、尤もだとも。けれども私はやらなくちゃならない」
諏訪子は合間合間で鉄輪を生成しては感情を乗せ力一杯に投げ付ける。
けれども、如何にそれらを速く投げても、如何にその軌道が穹窿形を描いても、神奈子一人を揺るがすには至れない。
それどころか神奈子の声はぴいんと張った糸のように真っ直ぐで。空気に涵養に染み渡るトーンも殺意を往なす佇まいもまるで風。
ただ、友の殺意を全て受容した上でその上を行かんとするその姿は、不退転の覚悟を以て諏訪子と向き合ってやらねばならぬという自戒でもあった。
地に根を張る土着神のその手が三次元的に動き続ける風を掴めるように、敢えて地に足を着けて同じ土俵に立っている。
「だったら何故っ!!」
諏訪子の叫喚と同時に、鉄輪と赤色弾が衝突して爆ぜる。
その感情の乗った一言が諏訪子の本心で、神の心を巣食う慟哭で。
血で血を争うやり取りの果てにある結末ではなく、ちゃんと話した上での帰結点という納得の行ける回答が欲しかったという本音の顕れ。
幾ら殺意に塗れようとしたところで、やはり家族は家族。殺意の矛を収められるものなら今すぐにでも収めたいという気持ちは避けられなかった。
そしてそれは、神奈子も同様。
「あの子が苦しむ姿は見たくないのよ」
その表情は諏訪子を真剣な眼差しで捉えながらも、自嘲気味な笑みを隠せてはいなかった。
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ここで一つの事実を述懐すると、東風谷早苗は衰弱していた。
本殿に敷かれた布団の上で寝息を立て、二人の激突も露知らずに、神域のただ一人の傍観者にすらならず。
しかし彼女の顔には苦悶が見て取れて夢見心地とはとても言い難く。かと言って体力や霊力の単純な消耗と同列に語れるシロモノでも無い。
その原因が今現在神々が放っている瘴気と殺意のみに由来していたならばどれ程までに良かった事だろうか。
けれどもそうは成り得ない。数日で回復するような憔悴でありさえすれば、そもそもこんな殺意のやり取りは発生しなかった。
それは刻一刻と常に針が進んで迫り来る、人間誰しもに降り掛かる自然の摂理。
逃れるには相応の対価を支払わなければならぬ、定められた死期が足音を掻き鳴らしてじわじわと彼女の体を蝕んでいたのだ。
最初に諏訪子がその事実を知った時、胸を貫かれたかのような錯覚さえも覚えたものだった。
寿命、死、別離。それらの単語の意味を脳内で確認しながら廻り廻らせ、それでもなお理解できるような皮相浅薄な神ではない。
脳の細胞の一つ一つが震え、二の次に出る言葉さえも遮断され。事実を受け容れる機能全てがシャットダウンされ雲散霧消。
だが決して決定された事実は変えられも覆りなどもしない。現実は非情なまでに、ただそこに座すのみ。
幻想郷に移ってからの、ヒトの身からすれば長すぎる時の流れも、確かに神という尺度から見てすれば物語の一幕ぐらいでしか無い。
早苗の見た目が神力で若々しく保たれていたというイレギュラーもあって、年月の経過を敏感に感じ取るには余りにも実感が薄く。
大切な子であり、外の世界で生き続けるには余りにも奇御魂に愛された出自の巫女。幻想郷に移り住んでからずっと協力し合った家族の一員。
今まで仕えていたどんな風祝よりも群を抜いて神力を持ち、過去一番に人からも神からも愛された少女。東風谷早苗はそういう人間だった。
だから油断していた。幻想郷という土地柄もあって、永遠が存在すると錯覚させられていた。
自らもそうだし、神奈子だって、早苗と三人でやってきた僅か数十年も、ずっと続くとさえ思っていた。
けれども瑕疵は水面下で溜まり続けて。目に見えるまでにそれが膨れ上がった頃には、既に手遅れの様相しか呈していなかった。
人間という定命の存在には、寿命という名の歩み寄る明白な死の概念は途轍も無く酷な話。弾幕ごっこのように避ける事さえ許されない不可能の壁。
ヘイフリック限界を越える為の技術も力も、先端医療が持ち合わせる事は今の今でも叶わないのだ。
であれば人外に身を窶させようとしてでも我が子と一緒に居たいと思うのが親心。
早苗は現人神で人であると同時に神でもあったから、神として祀れるだけの信仰を以てすれば簡単なハズだった、のに。
――ごめんなさい、それは出来ません。もう、充分ですから。
病床の中で告げられたその言葉は二度と忘れられる訳が無い。返しの付いた針が記憶野に刺さって、抜かれるのを全力で拒否しているかのよう。
哀威だけが心の中で先走りして続く何故の二文字すらも声にならずに消えたのが今でもありありと想起される。
早苗が贄を喰む事で畏れを喰らい神に登る、たったそれだけ叶いさえすれば描けた未来予想図はあの一言だけで容易く霧散してしまった。
守りたい物や願いを掌上に掬っても、指と指の隙間から収まり切らなかった物がひたひた溢れていく。
娘一人生かせなくて、土着神の頂点だなんて名乗る資格も無い。
三人で歩いてきた道程は最早二柱分の幅しか残っていなかったのだ。
であると言うのに、目の前で神奈子はただ悲しそうに笑うだけで。その早苗を殺そうとするだなんて。
家族では無かったのかとも、なんでそんな歪みを抱えてしまったんだとも、直接聞こうとしても口は一寸も動いてくれやしない。
早苗から友人や家族を奪ったのは私たちなんだから、と考えてそれ以上思考が纏まりさえしない。
隔靴掻痒とすら言い表せぬ程に、悔しいという感情が既に脳裏を通り越していた。
そもそも暗々裏にそんな事を抱えられて、独りだけ違う道を選ばれで、それを説明しないで勝手に行動されて。
剰えそれが早苗の為になるかのような言い振りをされても、何がなんだか分からない。理解し合っていたハズの仲なのに肝心な所だけが抜け落ちている。
殺意の応酬を続けながらも、やはり中心で核を為していた感情は怒り。
何遍でも殺して痛みつけてやろうという激情に駆られても、それを越えた瞋恚の炎こそが諏訪子の推進力の最たる元になっていた。
ここまで膨れ上がった感情を制御するのは無理だと言わんばかりに、力任せで弾を飛ばして体術を駆使してそれらを発散してしまおうと無我夢中。
だから、今のたった数瞬の視線のやり取りだけで、心の内で燃え盛る赤色が一層激しくなったのは至極当然の出来事だったのだろう。
体から漏れ出るドス黒い瘴気を隠せない諏訪子と、大戦の再来と意気込んで相対する神奈子。
両者の感情も感傷も盛んにして際限を感じさせずに溢れ出し、まるで間欠泉かのように勢い未だ止まず。
「いつから早苗に自分の考えを押し付けるようになったぁあぁぁあぁ!!!」
「いつからだろうねぇ。でも……早苗にはこんな神の姿見せたくも無いよなァ!」
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先刻に増して加速していく神と神の衝突は、生半可な物では済まされないという程度すらゆうに超越しきっている。
神代まで遡ってしまえば大蛇の脈動ですら大地の形を変える程の力を持っていたし、ましては神同士であればその覇道は天上の威光さえ伴っていた。
それがこの幻想郷ではどうだ。土地柄も理由の一つだったが、長年に渡る信仰集めに起因する二柱の神力は今や太古のそれすらも上回るぐらいに潤沢で。
観客誰一人居らず、味方は独りよがりの孤独な闘諍でも、遠方にまで威圧を感じさせるその戦いぶりは諏訪大戦もかくやという勢い。
両者共に譲らずに競り続け、気付けばリングは八坂の湖そのものを舞台装置にして。
背に腹は変えられぬという覚悟もそうだったが、激情の先に見出したのは『コイツだけは許せない』という敵愾心。
諏訪子だって神奈子だって、互いが互いの瑣末に対して怒っていた。相手が間違っているという事実をその顔面に叩き付けてやらねばならなかった。
だからその果てに起こった闘争本能は、謂わば相手に正当性を言い渡す為に躍起になって血眼になっている神々の、どうしようもない固執劇。
二柱が明くる日の決着へと歩を進めるのは決定事項と化していた。
水面より上にて飄々と構えるのは八坂神奈子。水面より下から四方八方に攻撃を加えるのは洩矢諏訪子。
諏訪子は湖の中を巧みに泳ぎ回り、水上にて佇む神奈子を飛沫で攪乱しながら神力を込めた鉄輪や石礫、蹴りで奇襲する。
神奈子は御神渡りの要領で華麗に水面に立ち、水中から来る諏訪子の攻撃を迎撃しつつも、その癖のある動きを読み切っては魚雷のように御柱を乱射する。
二人共その心にこびり付いた情に身を任せて苛烈な攻撃を加えているものの、やはり互いの手を知り尽くしているが故に一撃を与える事すら出来ていない。
何があろうとも蛇の道は蛇で、二人の抱く早苗への情が今は別の物だったとしても、二人は相手の事を自分以上に理解していたのだろう。
藤蔓だけで決着が付いてしまった過去のそれとは何もかもが違うのだとでも言いたげに、その戦いぶりは拮抗していた。
刎頚の交わりだと思っていたからこそ、二人の間で殺意が流れていても完全に殺すとなるとどこか後ろめたさがあって。
神奈子が軍神として持ち得た必勝の神徳も、諏訪子が祟神として持ち得た憎悪の感情も、どちらも引き出すのに躊躇している様は人に絆された甘さ故。
威勢良く鬨の声を鳴らしたは良いが、根底にある家族としての記憶が奔流となって殺意を邪魔してしまうのだ。
その友誼故に、相手は頸を落とさせてくれないとはなんたる矛盾か。
しかし、神域は二柱と共に戦場と化したのだ。両者の関係性は今や決死圏に突入しようとしている。
水面より上、凪いだ大気全てが八坂神奈子の領域。水面より下、湖の潮流全てが洩矢諏訪子の独壇場。
ならば、緩衝地帯である水面スレスレで激戦が勃発するのは道理。
戦場として湖というフィールドが選ばれたのと同時に、その一帯は二人の血で染まる事が確定していたのだ。
「諏訪子、やっぱりアンタの考えに私は賛同出来ないね」
「お前こそ気を違えたんだろう?早苗を殺すだァ?そんな物が愛だなんて私は認めない……!」
「別にどうもしてないさ。ただ親心故に、守りたい物であるが故に苦痛を祓う。ただそれだけの事よ」
「それはお前の詭弁だ!!」
弾と弾の応酬、体術と体術の鬩ぎ合い、神と神の荒れ舞台。
諏訪子と神奈子はそのどちらもが相手に一口で喰われかねない予感を犇々と抱えながら、一触即発の嚆矢を延々と放ち続けていた。
それでも自らの意思を罵倒と非難に変形させて喉から放っているのが、自分の優位性を示したいのか相手に折れて欲しいのか、彼女たちには分からない。
際を攻めるだけの言葉も、大切な家族への愛情が注げば注ぐ程弱点になって、いつしかド真ん中を攻めてしまっている事にすら気付けない。
「じゃあそれとも何、アンタは長い昏睡状態の繰り返しに陥って早苗が苦しむ様を是とするのかい?」
だからこの時放たれた神奈子の心の底の一欠片は、諏訪子の脳を酷く抉り、穿通した。
互いが互いの深い愛の形に触れてしまえば、一瞬で瓦解する砂上の楼閣。高く築き上げても所詮は砂、今までの信頼の重さ故に自重で自滅するのが定めで。
どう感情の発露を言動で修飾して着飾ろうとも、最終的には愛情と悲憤の二つに帰結する事に変わりはなかったのだ。
故に諏訪子は刹那的に理解してしまった。神奈子の先程までの理解できなかった部分の殆んどに辻褄が合ってしまった。
早苗を殺さんとするその意気。自らに向けられた怒りと殺意。神々しくも悲しさを僅かに感じさせた不退転の形相。
形は違えど、歪みを湛えても、愛は愛。
――分かっていなかったのは私の方、か。
諏訪子の自戒の念は声に出すよりも先に、風に溶けて消えてしまって。
今まで逸っていたあらゆる気持ちが急激に逆流を始めて、自らの臓腑に舞い戻ってきていた。
表情筋がややグチャグチャになっている事にすら否応無しに気付かされ、沸騰していた血液の廻りも収縮していく。
代わりに体を余す所無く満たそうとしていくのは、神奈子に対して薄情な気持ちを抱いてしまった自分自身への恨めしさ。
事の大きさに動転して、あるべき姿を見失って、愛を無くした軽薄な行動だと勘違いして。蓋を開ければ単純明快な事だったと言うのに。
「だからどきな、元からアンタのそれに義は無いのさ」
けれども。撃鉄がカチリと軋みを上げた。
その瞬間。諏訪子への引導を呟き終わった神奈子の脳髄に、水晶体から視覚神経を抜けた眼前の新たな情報が一瞬で走る。
水面から上空へと突き抜けるように姿を現した白蛇の巨躯。祟神の真骨頂が何体も、神奈子の体目掛けてのたうち暴れ注連縄ごと締め付けんとばかりに。
洩矢諏訪子の本領発揮を示す神力が実体を以て顕現するが如く。彼女が統べ使役する御赤口神が、その白磁めいた鱗一枚一枚に殺意を込めて放たれた。
神奈子は咄嗟の判断で風に身を委ね難を逃れるも、跳ねた水飛沫までもを回避出来る程の距離を置く事までは叶わない。
まさに間一髪。耳を裂かんとするばかりにグレイズ音がけたたましく響く程の、紙一重の神回避。
「義が無いだと……!早苗の為だとしてもお前のソレは外法だろう……!」
「そうね、それでもアンタの手段を私は絶対に認めない」
神奈子とて、諏訪子の反撃を予想していなかった訳では無い。しかし、洩矢諏訪子という蛇の本質を少々見誤っていた。
一瞬揺れた諏訪子の戦意を、もうひと押しすれば崩れ落ちる風前の灯火だと思っていた。諏訪子が相手なら御せると少なからず思ってしまったのだ。
ある意味それは信頼の裏返し。崩れる事はないだろうという宙吊りの期待で存続していたに過ぎず、それ故に軽い失策に至ったのはやはり家族だからこそ。
家族の絆を深め、幻想郷へと馴染み、太古に抱いた覇気は愛を育む度に風に攫われ。昔と比べて牙を抜かれ毒気を失っていたのは神奈子の方。
今の諏訪子がそうであったように、神奈子もまた自分自身へと恨めしさを抱いていたのは皮肉な事実でもあった。
今からどれだけ諏訪子と拳を交わそうとも、今から如何にして早苗の元へと向かっても、家族殺しの宿業は烙印のように消せない傷痕として残るのだ。
自分の行為をどんなに美化しても正当化の理由に過ぎない。結局殺人という尺度で見ればそれ以上それ以下の何物でもない。
けれども、親が子に出来る最後の愛の形がそれであったとするならば、面罵されようと爾汝の交わりを棄てようと、その道を進むしかないという信念で。
それこそが家族の愛であり親の役目であるという確信めいた強い意思。諏訪子への怒りがあろうと、根底の原動力は間違いなくそれであった。
「ああ、私だってお前の事を認めないし、許さない」
そして諏訪子も早苗を想っているからこそ、神奈子とは手段の違いという一点によって相容れる為の道が閉ざされていた。
早苗へと愛を一心不乱に注いだのは同じでも、その愛の行く末が二人とも違って、二人とも自分の愛こそが正義だと信じている。
だから、互いに相手の首根っこに対して『お前のその行為は愛じゃない』と突き付けたくて。『お前は親失格だ』と言ってやりたくてたまらない。
諏訪子の冷めようとしていた怒りが不意に引き上げられてしまったのも、とどのつまりはその思いに起因していた。
神奈子の本心を分かっていなかった自分自身を責め立てたところで、自分の抱いた正義をよりによってその神奈子に非難されるのはお門違い。
それが早苗の為を思っての行為だと漸く知らされて引いた殺意は、そっくりそのまま血潮となって神奈子の正当性の欠如を叫喚する事となったのだ。
この二人の諍いは、この時点で新たなステージに至ったと言い換えても良い。
最初に抱いていた神奈子から諏訪子への怒りと諏訪子から神奈子への怒りは指し示す中身が別方向を指していたが、今や全くの同じ矛先。
後に残す物への心配以上にその勢力を強くした殺意と覚悟と使命感は、互いの心臓を抉る必殺の槍となって両者の手元に収まった。
早苗への愛を口に出すよりも先に、相手への罵倒が放たれてしまうと思わんがばかりの重い感情の戦い。
家族故の甘さをドブに捨てて同じ感情を引っ提げ、己が意志の強さが折れるまでの死合舞台。文字通りの刎頚の交わり。
「徹底的にやらなきゃ気が済まない、なァ諏訪子!!」
「難儀なもんだよ、自分が何しようとしてんのか水底で考えな神奈子!!」
大地が響めき湖面は割れ、二柱の醸す神光が再び暴力的なまでの瘴気を保って周囲一帯を満たしゆく。
地を揺るがし山谷を創成する神々に水を差すなんてあべこべな存在が居る訳が無いと言わんばかりに、二人だけの世界が構築されようとしている。
諏訪大戦の時以上に滾る二柱の神力と、あの時のような国と国との大義名分を捨ててまで決着に走らせる二人の愛が、神域の中で一際煌めいて。
神々しさ全開に展開された御柱の乱立に、怨嗟を剥き出しにし今にも噛み付きそうな御赤口の重牙。
今一度目の前の相手を屠らんと両眼ではっきりと睨み合い。
そして、風神の領域にそよ風が吹く。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
諏訪子は、最初何が起きたのかをはっきりと理解できなかった。
今から迫り出そうとしていたその運動エネルギーを、強制的に殺されたのかと思いたくなるぐらいの力によって空中で何かに釘付けにされたのだ。
その身動きが取れない原因が、両腕の周りで循環する風に袖が絡め取られたのだと気付くのにそう時間は要さなかったけれども。
かと言ってそれを力任せに解ける程の腕力は諏訪子には無く、ただただその攻撃を食らったままで空中に居続けたままになってしまう。
偶然では有り得ないその挙動に対し、いきなりの神奈子の搦手かとも逡巡し前方を見渡しても、居るのは同じく袖を絡め取られた風神のみ。
神奈子の仕業でも無い事は火を見るよりも明らかで、神奈子ですら食らう程に不意を突いた攻撃。
けれどもその突然の謎の恣意的な風に対して、諏訪子は小さな違和感を抱かざるを得ない。
神域全体へと届く土着神のレーダーに天狗はおろか野良妖怪の反応すらも無く、発生源は不明のまま。
懐かしさ、外の世界への郷愁、肌に伝わった風を切る感触。どれもが惜しいようで何かが違うと直感が告げているのに、惜しい部分はピンと来ず。
けれども心の奥から感じる血流の迸りが、これは大切な何かだと諏訪子の電気信号に訴えかけている。早く思い出せと喉の奥が叫んでいる。
燻り続ける疑念と、あともう少しで回答を出せそうな思考回路が、取っ組み合いをしたままピクリとも動かない。
風。
懐かしい風。
どこかで感じた、忘れられないその揺らめきとそれは同じ。
風。
外に居た頃の風。
違う。もっと最近の、神の息吹が根強いチカラ。
風。
暖かい風。
ただ自らの威厳を示す為の物でなく、もっと誰かの為を想った優しさ。
そう、これは。
間違い無く、早苗の起こす、奇跡の風だった。
瞳から悲哀を湛えた涙が啖呵を切って流れそうになる。全身の血潮が段々と元の木阿弥に収まりつつある事に気付かされる。
袖を絡め取っている風が次第に緩くなっている事も自ずと分かっていたのに、それでも御赤口を操る意思も涙腺も緩んでしまって。
神奈子との戦闘の最中、これが切った張ったの大一番だという事は頭ではしっかりと理解している。
それでも家族の一員として、遠い先祖として、感傷を抱かずには居られない。
流れる血脈は想像し得る以上に、余りにも濃すぎた。
その体に流れる血という名の因縁は、時として命取りになる。感情の変化が悪手だというのは戦場の基本だったと言うのに。
けれども、親という立場から来る感情など自制しようにも出来る訳が無い。人の子に絆された身で、戦いなんぞにかまけては居られない。
ああ、早苗のこの風は――
腹に力が込もる。
それこそ突然の挙動だった。
下から突き上げてくる何かによって全身が中空へと押し上げられて。御赤口を這わせて威力を殺す事も出来ずに無抵抗で攻撃を受け。
気付いた時には既に攻撃を食らっている真っ最中。水飛沫も予備動作も見えなかったというのは結果論、愚かだったのは自分自身。
攻撃の主は神奈子で、衝撃の主は御柱。物理的に顕現し直立した御柱の先端が、体を重力から支えて無様な醜態を晒させている。
力を入れて退避しようにも、全身から感じる痛みが腹に押し当てられた目処梃子によって増幅され動けない。
ビチョッ、という鈍い音が静寂を破ると共に、赤色の雫が青々と広がる水面に染みを作った。
原因は余りにも明白だった。油断というたったそれだけの心理的な波紋が、湖全体に波打ったのだ。
「さては諏訪子、アンタも気が緩んだのかい?」
諏訪子は何も答えられない。身に起こった全ての所作と感情の落差で気を失って、ただ腕をだらんと下げている。
そう気絶でもしなければ、今までの事これからの事に整理を付けれなかった。家族という楔が彼女に牙を向けて腹を抉ろうとしていた。
それでも神奈子はお構い無しに、次の言葉を紡ぐ。
「早苗が私たちを止めようとしてるんじゃないかって思ったんだろう?」
対する神奈子の表情は、それこそ歓喜と悲哀が合い混ざった複雑なモノで。ただ立ち位置の差だけが勝者と敗者を明瞭に決定付けている。
負けて身を引かざるを得なくなったのは諏訪子。そして、勝って先に進もうとするのは神奈子。いつかの時と変わらない関係が二人の間で流れていた。
「でも、やっぱり私には無理さ。あの子を神に祀ろうだなんて口が裂けても思えない」
自嘲のように、言葉を捻り出す。諏訪子が気絶してこの言葉を聞いていないと分かっていても、それを口に出さざるを得ない。
戦っている最中は怒りの心情を諏訪大戦の再来への高揚と何度かすり替えようかと思ったが、それでも納得の為に言葉にせざるを得ない。
何故なら。諏訪子が神奈子の行動しようとしていた事を許せなかったのと同じく、神奈子だって諏訪子が行動しようとしていた事を許せなかったのだから。
神奈子は外の世界で痛感した信仰の喪失と、それによる神の存在意義の喪失に対して焦燥感を抱く自分自身が嫌いだった。
信仰の減衰に伴って神力を失っていくのが自然の摂理だったとは言え、それでも信仰を注いでくれる敬虔な信徒の事が好きだったのは確かである。
それでも、神力を失うというのは神徳の効力が薄まるのと同義。
尽くしてくれる信徒に対して恩を返す事も出来ないなら神が居る意味が無いではないかと考える日々もあった。
神という大きな存在の掌からすら溢れてしまうモノ、神なのに叶えられない願い。
それらが存在している事実を容認出来る程、神奈子は厳しくはなれなかった。
幻想郷へ至って信仰と神力が回復しても、どうしてもその憂いは蜷局のように巻き付いて消えなかった。
それだと言うのに、早苗を神にするという事はあの子自身が縋られ、信仰と共に生きる存在となるという事と同義で。
今まで以上に人の痛烈な叫びに耳を傾けて人の暗部に目を向けて、今までと違って神の不甲斐無さをその身でしかと受け止めざるを得なくなる。
そして外の世界での私たちのように、信仰を失って自分の無力さを痛感し続ける毎日を、いずれ訪れてしまうかもしれない未来を、純朴で真っ直ぐなあの子に送って欲しいとは絶対に思えなかった。そんな重荷を早苗に背負わせる事は出来る訳がない。
苦しませたくないと諏訪子に面と向かって言ったのも、昏睡状態のソレ以上に神としての苦悩を味わって欲しくなかったが故。
あの子にはただ、神に尽くす風祝としてあり続けて欲しかったのだ。
だから嬉しかった。諏訪子共々争っているのを早苗が止めようとしてくれたのが、親心としてただただ心に沁み入った。
だから決着を付けられた。暴風は神奈子の権威だからこそ、その主が早苗だったからこそ、その拘束を脱却して諏訪子に会心の一撃を与える事が出来た。
「それに、アンタとやっていく日々は楽しかったんだよ。馬鹿やって酒呑んで喧嘩して早苗と三人で暮らして……。
なのに諏訪子はさぁ。事が終わったら早苗一柱置いてどっか行くだなんて私が許すとでも思ったのかい?」
そしてもう一点、神奈子は諏訪子が具体的にどうやって早苗を神の座に上げるのかという事にもとっくに気付いていた。
自らへ流れる信仰のパスを強制的に早苗に移し替えて、その畏れの向かう先を全て早苗に集中させる神の御技にして、洩矢諏訪子という正真正銘の地の繋がった遥か昔の親だからこそ出来る継承の儀式。それはつまるところ、諏訪子への信仰が枯渇し祀ろわぬ神となってしまう事でもあり。
あろう事か諏訪子は自己犠牲によってそれを為そうとしていたのだ。
早苗が居なくなるという事に親としてケジメは付けられても、諏訪子が居なくなるという事はその事実もその手段も含めて家族としては到底許せない。
八坂神奈子の視点から見た昨今の洩矢諏訪子は、どうしても理解出来ない存在だったのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
荘厳な佇まいの鳥居を潜り、本殿へと一直線に伸びる参道を歩く。
石畳の上を踏む度にガサ、と水気を失った朽葉が乾いた音を響かせる。赤色の漆の可憐さや朽葉に混じる紅葉の赤が今は血の色だけを想像させる。
あの子が倒れてから落葉を掃除する機会が何一つ無くなってしまったという事実を今一度痛感する事になって。
本殿までの数十メートルの直線も、今だけは一歩足を前に進める度にあの子の性格のそれを丁寧に一つ一つ思い返されるかのようで。
不意に見上げた空の青さだって、一人ではこんなに遠く手の届かない場所だったろうかとも考えさせられるのだ。
けれども、風神・八坂神奈子にとっては、鳥居から中央線を堂々と通って本殿に向かっているこの時から既に儀式の一貫。
注連縄の下を通り早苗へと相対し、何を告げどう苦痛を感じさせずにその命を祓うか。
その一連の流れによって、早苗を殺す行いを儀として丁重に弔おうと。
諏訪子と血戦を繰り広げる前段階から既に一通りシュミレートし終わった身。諏訪子と執念をぶつけ合って勝ち残った身。そこに露一つ後悔は出来ない。
こうして到達した本殿は、目前にして酷く大きく感じられた。自らを奉る為の社をそう思うのは信仰が減りに減った時以来だったか。
それでもなお先に進む。今更変えられない自然の理に神が口を挟める余裕は無い。伽藍の堂に詰め込まれた空気の重さも感じている暇すら無い。
「早苗」
強い声で、普段は見せない威厳さを前面に出して。愛しの娘へと呼び掛ける。
返答と共に辿る二の句を奥に控えさせ、ただ神として勇壮に足の裏で畳を撫でる。
今はただ早苗との間に聳える襖一枚の厚さすら頼もしい。
だが続く言葉は無く。
風が、聞こえない。
頭の中であの子の名前を反芻する。
あの子の笑顔。あの子の髪。あの子の声。仕草。髪飾り。足取り。瞳。
全ての光景が頭の中に鮮明に。どんな過去であろうと決して色褪せずに瞳の裏で再生出来る。
けれども、その残滓が、あの子の立てる風が何一つ、聞こえない。
違う。これは寝息を立てないぐらいの静けさで。
だから私の声に反応しなかっただけで。
そうじゃなきゃ。
「さな、え」
襖の先。湖が一望出来る早苗の一室で、障子が開け放たれて。
東風谷早苗は、静かに息を引き取っていた。
――冗談でしょ?
――体を起こすのがやっとの状態で、神力を行使させたから?
――私が諏訪子と争って全てを決そうと思ったから?
――諏訪子に対して並々ならぬ感情を抱いてしまったから?
疑問符の対象も遂に浮かばず、喉元から放つ事さえも叶わず。
口に出そうとしても自分が息を吸う為の気道を確保するだけで精一杯。
けれども耳に早苗の心拍の音は入ってこない。
「なん、で……」
やっと声になったのは三文字だけ。
張り詰めた空気に自らの発した声だけがやけに響いて。
家族への愛は部外者には不可侵であれと願っていたはずなのに。
早苗を愛していたからこそ、手に掛けるのが正義だと信じていたのに。
それでもこんな引き金なんて望んでいなかった。
私たちを止めようとしてその命を散らしたのなら、これ以上親として失格な事は無い。
蛇の道は、どうしようもなく蛇だった。
早苗への愛を再確認した時に、私も諏訪子もお互いの事を考えられなかったのだ。
自分と早苗がこうあれば良いという信念の元、長年の相方を蔑ろにしていた事に自分自身が一番気付いていなかった。
そうしてあの子の事すら見なくなった瞬間に、考えているのは自分の事だけになって。
早苗への愛を投げ捨ててしまっていた事すら自覚せず、一心不乱に我を通そうとして。
それで掴み取ってしまった結末は、誰の為にもならなかった。
亡骸を抱きしめようと動く事すら出来ずに、体勢が膝から崩れ。
全身から抜けた力が風のように空へと散っていく。
目の前で上体を起こし下半身を布団に預けたまま、空と湖の美しさを眺めた状態で鼓動を止めたその姿。
崩れ落ちた今の足では早苗の元に寄ってやる事すら出来ない。
体の上に乗っただけの頭では早苗の顔を覗く事もままならない。
白い着物の後ろ姿を、私はただ視界に入れる事しか許されないのだ。
無風の中で何より無力な風神の姿が、ただそこにあった。
本殿を包み隠すように覆う杉の木々こそ今も青々と茂って淋漓なものだが、それらの脇に聳え乱立する落葉樹たちは既に葉を落とし黒とも茶とも似付かぬ痩せた枝を野晒しにしていた。
そして拝殿へと真っ直ぐ伸びる均整な石畳の参道も、今ではその落葉の痕跡ばかりが色濃く。石の白色が覗く場所など無いと言わんばかりの光彩で、大地全てが鮮やかに塗りたくられて。
空が抱く快晴の青が境内の雰囲気と対比されて、この一帯だけが他の場所から切り取られたかのように寂しさばかりで満ちている。
だが、決して神社自体が寂れているという訳では無い。
妖怪の山という排他社会の峰に座した建物でありながらも、その手練手管で艱難の壁を次々と乗り越えられる程に有り余る神力。
それこそがこの神社の最大の武器であったが故に、参拝者のニーズや変遷に力強く対応し。かつその努力を信徒に悟らせまいと地道に思考を積み重ね。
結実した成果の待ちに待ったその味は、途轍もなく甘美な物として確かに存在していたのだから。
ただ、幾ら神域に大層な社を持って霊験灼かに振舞ったところで、自然現象の栄枯盛衰だけは不変。
神徳を得た神ですらその理に完全に逆らう事など叶いやしない。
これはたったそれだけの単純な話なのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
守矢神社の裏手。本殿に背を向けて少し歩けば視界に広がる一面の湖も、また参道と同じく静けさを保っている。
そもそもこの昼下がりの良い時間帯だと言うのにも関わらず、架空索道はおろか守矢神社の境内に人も妖怪も居ないというのは珍しい話であった。
いつもならば聞こえるはずの妖精の歓笑も、信仰に身を委ねる敬虔な信徒の二拍も、上空を飛び回る天狗の風切り音も、今日となっては何もかもが聞こえやしない。
地面に乱雑に散りばめられた朽葉が人の足で踏み締められる音を抜き出して拝観者の人数を把握する事ですら、この状況では容易いものだろう。
聴覚に訴え掛ける不必要な情報を選別する手間も無く、ただただ青々とした空と湖がその天地を埋め尽くすのみ。
けれどもそれは、ただただ情緒に身を任せられるありきたりな日常風景とは到底なり得ない。
静けさで支配された湖畔の中で対峙しているたった二人のその姿。たった二人、されど二柱。
妖怪の山では見慣れた存在であろうその二人が、見慣れる事など出来やしない程に尋常で無い気配を纏って。
互いを互いの双眸で見据えたまま眼光を絶えず送り続け、不動を貫いたまま自らの威圧感で場を掌握しようと互いに仁王立ちをして退きやせず。
自らの名を冠した社を背にして、その痩躯とは裏腹に両の脚を地の底へと突き刺している坤の神・洩矢諏訪子。
自らの名を冠した湖を背にして、その高身長を風に揺蕩わせて天の上へ昇らんとしている乾の神・八坂神奈子。
無言で進行している時の中、粗暴さの欠片も無くただ一心で親友という敵を凝視するのみ。
どちらもが相手を喰わんが為に相手の視線を掴んで離さない。
「諏訪子オ~~?そっから退いて貰おうかァ~~?」
先に水を差したのは神奈子。語調の荒々しさはまさに荒御魂の咆哮か。
一瞬で上昇したボルテージによって、場の空気が先程に増して震え上がる。その神徳を以て、威圧という名の神風が諏訪子を薙ぎ倒さんと。
同心円をギュっと細めたかの様に鋭利な眼光が棘針になって、諏訪子を居竦まらせてその場から動かさない。
差された水は水眼の如く苛烈に。睨まれた蛙は、諏訪子。
「神奈子ォ~~!全部説明して貰おうかァ~~!」
だが諏訪子もまた猛り吼える。負け惜しみとは程遠く、相手を値踏みするかの如く。
乾神の一擲で支配された場の空気が、坤神の一撃によって塗り替えられる。その神徳を以て、土着の全てが異物である神奈子を排除せんと。
睨み付けていたハズの神奈子が、蛙の鳴き声に文字通り目を借られたかのように睨み返され、その場で硬直せざるを得ない。
蛙の目借りは最早狩りの如くに。睨まれた蛞蝓は、神奈子。
蛇の道は蛇。それを両者共に分かっているからこそ成り立つ正攻法の張り合いだった。
赤口白蛇の形を取って神威を振るう祟り神と、注連縄という蜷局で相手を締め付ける山の神。
その市女笠の冠を自らのアトリビュートとして誇示し続ける蛙と、外の世界という殻を脱ぎ捨てて別の貝になろうとした蛞蝓。
両者共に捕食者の眼光を見せれば、食物連鎖のピラミッドを破綻させてしまうに等しく。
三竦みの関係性も今やどちらがどちらを飲み込まんとしているのかすら曖昧で。
蛇に睨まれた蛙か、蛙に睨まれた蛞蝓か、蛞蝓に溶かされるしかない蛇か、それとも共食いを虎視眈々と狙う蛇同士か。
二人が共に捕食者で被食者という下克上も甚だしい最悪な対戦カード。平衡点はいつしか消え失せ、等傾斜線は目まぐるしくその傾きを変動させ。
一歩も動かず研ぎ澄まされた互いの神光だけをして、その地は人外魔境へと相成る他に道は無い。
守矢神社を中心とした領域に乾神と坤神の二柱しか居ないというのは、あくまでも客観的な事実の一端でしか無かった。
日常の光景では有り得ない何かの予感とそこから発せられた比類無き圧力が何人たりとて立ち入ってはいけないという直感となって、二人しか居られない場所を作り上げていたに過ぎない。その瞬間から、この一帯は入山禁制の霊山と呼ぶに相応しくなった。
それ程までに、周囲を取り巻く環境も交錯する視線も思考もが際限無しに激化し続けていたのだから。
「あの時の決着を着けようって言うのかい、今この時この場所で!」
神奈子の語調がまた一段と釣り上がる。一度は押し返された場の掌握を、再びその手へと戻さんとばかりに。
この二人の間柄において、『あの時』という単語は一つの意味しか示さない固有名詞。
――即ち、諏訪大戦。
嘗て一国を治め強靭無比な権威を恣放に轟かせた洩矢諏訪子が、大和から推参した八坂神奈子に完膚無きまでに敗北を舐めさせられた戦い。
今となっては笑い飛ばせる過去の思い出だと二人は自認している。酒の席や日常の痴話喧嘩で互いがノる為に使うお決まりの説話でもあった。
けれども、この期においてその語はもう笑い話では済まないというのは誰から見ても明らかで。
これは挑発。洩矢諏訪子が敗北した事実のみを蒸し返して、弱肉強食の理はいつまで経っても覆せないという事実を暗に宣言している。
これは高揚。本領を発揮した諏訪子と行う事になるであろう、文字通りの太古の大戦の再来に胸が躍らない八坂神奈子ではない。
これは犠牲。立ちはだかる障害を退けてこそ、次の段階に進めるのだという決心を抱いて。
全ての感情を風に合い混ぜて、対峙するもう一柱へと投げかけたのだ。
「やっぱ神奈子、アンタが今は本当に許せないよ」
対する諏訪子の声は酷く凍てついて。ともすれば自分を律すれないかもしれないという危うさが、今の彼女を占める全てだった。
下手すれば血という血がが沸騰してしましそうな激情に、滾りをどこか感じさせる血流。
祟神にして土着神である諏訪子の本質が精神を覆い隠してしまうとでも言いたげに。
怒りの言葉を眼前の神奈子に矢継ぎ早に繰り出す事も搾り出す事も出来ず。湖を流れる土砂のように、その血の中に感情だけが堆積し続けている。
洩矢諏訪子と八坂神奈子の連れ添った年月は、旧知の仲以上の表現が可能な程には並大抵の物では無かった。
お互いの選り好みも性根も力量も戦術も全て知り尽くしていた。幻想郷に移るなんて荒事を勝手に進行させた時も、互いに裏では分かりあっていた。
血で見れば他人ではあったものの、相手の思考は数語交わせばそれとなく理解出来る程の仲。
意味深長を容易く把握出来るぐらいに懐に入り込んでくれていた相棒。
いつの時代になったって、掛け替えの無い最高の間柄。
だからこそ、諏訪子は神奈子の行わんとしている事が分かってしまえた。でなければこの場所でかち合うなんて偶然の様な行動は出来やしない。
だからこそ、諏訪子は神奈子の考えている事がが理解出来なかった。でなければ神奈子と対峙しようだなんてわざわざ思えやしない。
諏訪子だって本当は自分自身の行いを恨めしく思っていた。
八坂神奈子という女は最大の障壁で、決して拭えない相性の差が明確に顕在しているのは変えようが無い事実なのだ。
宿命付けられた蛙と蛇の力量の差を覆そうとするならば、睨みを利かすだけでなく自らが蛇になるか相手を蛞蝓に無理矢理引き摺り下ろしてやるしかない。
だが、神奈子は無理矢理を通せる程甘くない相手だという事実もまた、誰よりも何よりもよく知っている。勝って叩きのめすには余りにも高い壁。
それでも諏訪子はやるしかないのだ。
この場において神奈子の存在は、この地において有象無象をゆうに超える程の憎悪の対象と相成った。
赤の他人だったならばまだ冷静だったのだろうか、気の置ける友人だからこそ逆に容赦出来ないという自認すらも感じられて。
『頭を冷やせ』『考え直せ』なんて叫びは誰にも届かない。言葉で砲煙弾雨にしてやる必要も無い。
「早苗を殺すだなんてよくもまぁ馬鹿げた事を考えたなァーー!!!!」
鬨の声、ここに極まれり。
波動が空気を穿たんとする開始のゴングとなって、木々を騒めかせ湖面に波を立たせたなら、もうそこは既に神々の独壇場だった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
八坂の湖にて勃発した神と神の意地の衝突は、一瞬にして荘厳かつ規格外な応酬へと変貌していた。
ともすれば架空索道のレールからも見えてしまいかねない程の二人の戦いは、誰がどう見たって誰にも止められやしないという畏怖にしかならないだろう。
それ程までの後光に神威に凶刃に暴風に瘴気に守矢神社は包まれて、二人は否応無しに後戻りの効かない道程を進まされていた。
神奈子は全てを凪ぐかのように諏訪子を見据えながらその強大な神力に身を委ね、信仰を赤色の弾という実体にしては間髪入れずに多方向から撃ち続ける。
拍子抜けするぐらいに薄い密度で放たれるそれらだったが、そんな弾幕に厄介なカラクリが存在しているのは言わずと知れた事実で。
ある程度進んだ瞬間に弾が膨張し破裂して諏訪子の逃げ道を容赦無く塞ぐその形状は、これぞまさに威光と呼ぶに相応しかろう。
けれども、諏訪子にその弾幕は決して届かない。
速度の緩急も一歩先を読んだ弾の布陣もお構い無し、神奈子の気心を読み切った彼女の軽業がそれを容易に避けさせる。
大地を如何に飛び跳ねたところで、土着神という彼女を支える力は十全に。道を譲れはしないという強い意志が神奈子の目前で山のように聳え立つ。
諏訪子も全てを押し流さんと両掌を合わせながらその膨大な霊力を大地に流し込み、湖を満たす水という水に方向性を与えて絶えず前方へと撃ち続ける。
明確なパターンすらも存在しない物量攻撃ではあるものの、神力を纏った水滴という不定形ながらも威力の高い弾は雫一滴のみでも傷が残るとさえ。
神徳で天候を司る神に対して見せ付けられた、不規則に捻じ曲がり意識を惑わすその弾痕はある意味風雨を制してやろうという意趣返しですらもあった。
けれども、神奈子にその弾幕は決して届かない。
諏訪子の粗暴そうに見えて強かな面から来る癖を見切っていた彼女からしてみれば、密度が薄くなってしまう場所を神風で打破するのは造作も無い事。
風雨はやはり八坂神奈子と共にあり。眼前の障害物全てを吹き飛ばさんとする無慈悲な力で、諏訪子すらも引き剥がさんと荒れ狂う。
力量による二つの弾はどちらも、幻想郷においての金科玉条に半ば倣っていた。
片や「神の御威光」、片や土着神「ケロちゃん風雨に負けず」。優雅さと熾烈さを兼ね備えた、まさしく神らしいとも言えるスペルカード。
だが時と場所を変えさえすればれば命名決闘法の下で放たれるそれらも、今この場においては形を似せただけの別物。鉄則は五割すらも機能していない。
そもそも命名決闘法であるならば当然存在しているはずのスペルカード名を今に至るまで一切読み上げていないという事実。
互いの思考こそ飛び交い介在すれど、ただただ己の力任せに放たれ続ける弾の集合体を弾幕と呼称するだなんて不遜にも程があろう。
郷全域において絶対視され、不殺を貫く為に考案された詔勅に倣わないだなんて、最早理由は一つに絞られる。
眼前の仇敵への殺意故。
太古からの海千山千の仲だったとしても、今の彼女たちを取り巻く環境は劇的に変化していた。
相手の事を知り尽くしていたハズだったのに、ある一点を境に気付けばすれ違ってしまった蛇と蛙が二柱。
世界に敷かれた暗黙の了解を破っても抑えきれない憤怒と殺意を原動力に己の体を駆動させ、その相手を弑さんとばかりに。
「お前は早苗を!家族の命をどういう了見で奪おうだなんて!」
「……ああ、尤もだとも。けれども私はやらなくちゃならない」
諏訪子は合間合間で鉄輪を生成しては感情を乗せ力一杯に投げ付ける。
けれども、如何にそれらを速く投げても、如何にその軌道が穹窿形を描いても、神奈子一人を揺るがすには至れない。
それどころか神奈子の声はぴいんと張った糸のように真っ直ぐで。空気に涵養に染み渡るトーンも殺意を往なす佇まいもまるで風。
ただ、友の殺意を全て受容した上でその上を行かんとするその姿は、不退転の覚悟を以て諏訪子と向き合ってやらねばならぬという自戒でもあった。
地に根を張る土着神のその手が三次元的に動き続ける風を掴めるように、敢えて地に足を着けて同じ土俵に立っている。
「だったら何故っ!!」
諏訪子の叫喚と同時に、鉄輪と赤色弾が衝突して爆ぜる。
その感情の乗った一言が諏訪子の本心で、神の心を巣食う慟哭で。
血で血を争うやり取りの果てにある結末ではなく、ちゃんと話した上での帰結点という納得の行ける回答が欲しかったという本音の顕れ。
幾ら殺意に塗れようとしたところで、やはり家族は家族。殺意の矛を収められるものなら今すぐにでも収めたいという気持ちは避けられなかった。
そしてそれは、神奈子も同様。
「あの子が苦しむ姿は見たくないのよ」
その表情は諏訪子を真剣な眼差しで捉えながらも、自嘲気味な笑みを隠せてはいなかった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
ここで一つの事実を述懐すると、東風谷早苗は衰弱していた。
本殿に敷かれた布団の上で寝息を立て、二人の激突も露知らずに、神域のただ一人の傍観者にすらならず。
しかし彼女の顔には苦悶が見て取れて夢見心地とはとても言い難く。かと言って体力や霊力の単純な消耗と同列に語れるシロモノでも無い。
その原因が今現在神々が放っている瘴気と殺意のみに由来していたならばどれ程までに良かった事だろうか。
けれどもそうは成り得ない。数日で回復するような憔悴でありさえすれば、そもそもこんな殺意のやり取りは発生しなかった。
それは刻一刻と常に針が進んで迫り来る、人間誰しもに降り掛かる自然の摂理。
逃れるには相応の対価を支払わなければならぬ、定められた死期が足音を掻き鳴らしてじわじわと彼女の体を蝕んでいたのだ。
最初に諏訪子がその事実を知った時、胸を貫かれたかのような錯覚さえも覚えたものだった。
寿命、死、別離。それらの単語の意味を脳内で確認しながら廻り廻らせ、それでもなお理解できるような皮相浅薄な神ではない。
脳の細胞の一つ一つが震え、二の次に出る言葉さえも遮断され。事実を受け容れる機能全てがシャットダウンされ雲散霧消。
だが決して決定された事実は変えられも覆りなどもしない。現実は非情なまでに、ただそこに座すのみ。
幻想郷に移ってからの、ヒトの身からすれば長すぎる時の流れも、確かに神という尺度から見てすれば物語の一幕ぐらいでしか無い。
早苗の見た目が神力で若々しく保たれていたというイレギュラーもあって、年月の経過を敏感に感じ取るには余りにも実感が薄く。
大切な子であり、外の世界で生き続けるには余りにも奇御魂に愛された出自の巫女。幻想郷に移り住んでからずっと協力し合った家族の一員。
今まで仕えていたどんな風祝よりも群を抜いて神力を持ち、過去一番に人からも神からも愛された少女。東風谷早苗はそういう人間だった。
だから油断していた。幻想郷という土地柄もあって、永遠が存在すると錯覚させられていた。
自らもそうだし、神奈子だって、早苗と三人でやってきた僅か数十年も、ずっと続くとさえ思っていた。
けれども瑕疵は水面下で溜まり続けて。目に見えるまでにそれが膨れ上がった頃には、既に手遅れの様相しか呈していなかった。
人間という定命の存在には、寿命という名の歩み寄る明白な死の概念は途轍も無く酷な話。弾幕ごっこのように避ける事さえ許されない不可能の壁。
ヘイフリック限界を越える為の技術も力も、先端医療が持ち合わせる事は今の今でも叶わないのだ。
であれば人外に身を窶させようとしてでも我が子と一緒に居たいと思うのが親心。
早苗は現人神で人であると同時に神でもあったから、神として祀れるだけの信仰を以てすれば簡単なハズだった、のに。
――ごめんなさい、それは出来ません。もう、充分ですから。
病床の中で告げられたその言葉は二度と忘れられる訳が無い。返しの付いた針が記憶野に刺さって、抜かれるのを全力で拒否しているかのよう。
哀威だけが心の中で先走りして続く何故の二文字すらも声にならずに消えたのが今でもありありと想起される。
早苗が贄を喰む事で畏れを喰らい神に登る、たったそれだけ叶いさえすれば描けた未来予想図はあの一言だけで容易く霧散してしまった。
守りたい物や願いを掌上に掬っても、指と指の隙間から収まり切らなかった物がひたひた溢れていく。
娘一人生かせなくて、土着神の頂点だなんて名乗る資格も無い。
三人で歩いてきた道程は最早二柱分の幅しか残っていなかったのだ。
であると言うのに、目の前で神奈子はただ悲しそうに笑うだけで。その早苗を殺そうとするだなんて。
家族では無かったのかとも、なんでそんな歪みを抱えてしまったんだとも、直接聞こうとしても口は一寸も動いてくれやしない。
早苗から友人や家族を奪ったのは私たちなんだから、と考えてそれ以上思考が纏まりさえしない。
隔靴掻痒とすら言い表せぬ程に、悔しいという感情が既に脳裏を通り越していた。
そもそも暗々裏にそんな事を抱えられて、独りだけ違う道を選ばれで、それを説明しないで勝手に行動されて。
剰えそれが早苗の為になるかのような言い振りをされても、何がなんだか分からない。理解し合っていたハズの仲なのに肝心な所だけが抜け落ちている。
殺意の応酬を続けながらも、やはり中心で核を為していた感情は怒り。
何遍でも殺して痛みつけてやろうという激情に駆られても、それを越えた瞋恚の炎こそが諏訪子の推進力の最たる元になっていた。
ここまで膨れ上がった感情を制御するのは無理だと言わんばかりに、力任せで弾を飛ばして体術を駆使してそれらを発散してしまおうと無我夢中。
だから、今のたった数瞬の視線のやり取りだけで、心の内で燃え盛る赤色が一層激しくなったのは至極当然の出来事だったのだろう。
体から漏れ出るドス黒い瘴気を隠せない諏訪子と、大戦の再来と意気込んで相対する神奈子。
両者の感情も感傷も盛んにして際限を感じさせずに溢れ出し、まるで間欠泉かのように勢い未だ止まず。
「いつから早苗に自分の考えを押し付けるようになったぁあぁぁあぁ!!!」
「いつからだろうねぇ。でも……早苗にはこんな神の姿見せたくも無いよなァ!」
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
先刻に増して加速していく神と神の衝突は、生半可な物では済まされないという程度すらゆうに超越しきっている。
神代まで遡ってしまえば大蛇の脈動ですら大地の形を変える程の力を持っていたし、ましては神同士であればその覇道は天上の威光さえ伴っていた。
それがこの幻想郷ではどうだ。土地柄も理由の一つだったが、長年に渡る信仰集めに起因する二柱の神力は今や太古のそれすらも上回るぐらいに潤沢で。
観客誰一人居らず、味方は独りよがりの孤独な闘諍でも、遠方にまで威圧を感じさせるその戦いぶりは諏訪大戦もかくやという勢い。
両者共に譲らずに競り続け、気付けばリングは八坂の湖そのものを舞台装置にして。
背に腹は変えられぬという覚悟もそうだったが、激情の先に見出したのは『コイツだけは許せない』という敵愾心。
諏訪子だって神奈子だって、互いが互いの瑣末に対して怒っていた。相手が間違っているという事実をその顔面に叩き付けてやらねばならなかった。
だからその果てに起こった闘争本能は、謂わば相手に正当性を言い渡す為に躍起になって血眼になっている神々の、どうしようもない固執劇。
二柱が明くる日の決着へと歩を進めるのは決定事項と化していた。
水面より上にて飄々と構えるのは八坂神奈子。水面より下から四方八方に攻撃を加えるのは洩矢諏訪子。
諏訪子は湖の中を巧みに泳ぎ回り、水上にて佇む神奈子を飛沫で攪乱しながら神力を込めた鉄輪や石礫、蹴りで奇襲する。
神奈子は御神渡りの要領で華麗に水面に立ち、水中から来る諏訪子の攻撃を迎撃しつつも、その癖のある動きを読み切っては魚雷のように御柱を乱射する。
二人共その心にこびり付いた情に身を任せて苛烈な攻撃を加えているものの、やはり互いの手を知り尽くしているが故に一撃を与える事すら出来ていない。
何があろうとも蛇の道は蛇で、二人の抱く早苗への情が今は別の物だったとしても、二人は相手の事を自分以上に理解していたのだろう。
藤蔓だけで決着が付いてしまった過去のそれとは何もかもが違うのだとでも言いたげに、その戦いぶりは拮抗していた。
刎頚の交わりだと思っていたからこそ、二人の間で殺意が流れていても完全に殺すとなるとどこか後ろめたさがあって。
神奈子が軍神として持ち得た必勝の神徳も、諏訪子が祟神として持ち得た憎悪の感情も、どちらも引き出すのに躊躇している様は人に絆された甘さ故。
威勢良く鬨の声を鳴らしたは良いが、根底にある家族としての記憶が奔流となって殺意を邪魔してしまうのだ。
その友誼故に、相手は頸を落とさせてくれないとはなんたる矛盾か。
しかし、神域は二柱と共に戦場と化したのだ。両者の関係性は今や決死圏に突入しようとしている。
水面より上、凪いだ大気全てが八坂神奈子の領域。水面より下、湖の潮流全てが洩矢諏訪子の独壇場。
ならば、緩衝地帯である水面スレスレで激戦が勃発するのは道理。
戦場として湖というフィールドが選ばれたのと同時に、その一帯は二人の血で染まる事が確定していたのだ。
「諏訪子、やっぱりアンタの考えに私は賛同出来ないね」
「お前こそ気を違えたんだろう?早苗を殺すだァ?そんな物が愛だなんて私は認めない……!」
「別にどうもしてないさ。ただ親心故に、守りたい物であるが故に苦痛を祓う。ただそれだけの事よ」
「それはお前の詭弁だ!!」
弾と弾の応酬、体術と体術の鬩ぎ合い、神と神の荒れ舞台。
諏訪子と神奈子はそのどちらもが相手に一口で喰われかねない予感を犇々と抱えながら、一触即発の嚆矢を延々と放ち続けていた。
それでも自らの意思を罵倒と非難に変形させて喉から放っているのが、自分の優位性を示したいのか相手に折れて欲しいのか、彼女たちには分からない。
際を攻めるだけの言葉も、大切な家族への愛情が注げば注ぐ程弱点になって、いつしかド真ん中を攻めてしまっている事にすら気付けない。
「じゃあそれとも何、アンタは長い昏睡状態の繰り返しに陥って早苗が苦しむ様を是とするのかい?」
だからこの時放たれた神奈子の心の底の一欠片は、諏訪子の脳を酷く抉り、穿通した。
互いが互いの深い愛の形に触れてしまえば、一瞬で瓦解する砂上の楼閣。高く築き上げても所詮は砂、今までの信頼の重さ故に自重で自滅するのが定めで。
どう感情の発露を言動で修飾して着飾ろうとも、最終的には愛情と悲憤の二つに帰結する事に変わりはなかったのだ。
故に諏訪子は刹那的に理解してしまった。神奈子の先程までの理解できなかった部分の殆んどに辻褄が合ってしまった。
早苗を殺さんとするその意気。自らに向けられた怒りと殺意。神々しくも悲しさを僅かに感じさせた不退転の形相。
形は違えど、歪みを湛えても、愛は愛。
――分かっていなかったのは私の方、か。
諏訪子の自戒の念は声に出すよりも先に、風に溶けて消えてしまって。
今まで逸っていたあらゆる気持ちが急激に逆流を始めて、自らの臓腑に舞い戻ってきていた。
表情筋がややグチャグチャになっている事にすら否応無しに気付かされ、沸騰していた血液の廻りも収縮していく。
代わりに体を余す所無く満たそうとしていくのは、神奈子に対して薄情な気持ちを抱いてしまった自分自身への恨めしさ。
事の大きさに動転して、あるべき姿を見失って、愛を無くした軽薄な行動だと勘違いして。蓋を開ければ単純明快な事だったと言うのに。
「だからどきな、元からアンタのそれに義は無いのさ」
けれども。撃鉄がカチリと軋みを上げた。
その瞬間。諏訪子への引導を呟き終わった神奈子の脳髄に、水晶体から視覚神経を抜けた眼前の新たな情報が一瞬で走る。
水面から上空へと突き抜けるように姿を現した白蛇の巨躯。祟神の真骨頂が何体も、神奈子の体目掛けてのたうち暴れ注連縄ごと締め付けんとばかりに。
洩矢諏訪子の本領発揮を示す神力が実体を以て顕現するが如く。彼女が統べ使役する御赤口神が、その白磁めいた鱗一枚一枚に殺意を込めて放たれた。
神奈子は咄嗟の判断で風に身を委ね難を逃れるも、跳ねた水飛沫までもを回避出来る程の距離を置く事までは叶わない。
まさに間一髪。耳を裂かんとするばかりにグレイズ音がけたたましく響く程の、紙一重の神回避。
「義が無いだと……!早苗の為だとしてもお前のソレは外法だろう……!」
「そうね、それでもアンタの手段を私は絶対に認めない」
神奈子とて、諏訪子の反撃を予想していなかった訳では無い。しかし、洩矢諏訪子という蛇の本質を少々見誤っていた。
一瞬揺れた諏訪子の戦意を、もうひと押しすれば崩れ落ちる風前の灯火だと思っていた。諏訪子が相手なら御せると少なからず思ってしまったのだ。
ある意味それは信頼の裏返し。崩れる事はないだろうという宙吊りの期待で存続していたに過ぎず、それ故に軽い失策に至ったのはやはり家族だからこそ。
家族の絆を深め、幻想郷へと馴染み、太古に抱いた覇気は愛を育む度に風に攫われ。昔と比べて牙を抜かれ毒気を失っていたのは神奈子の方。
今の諏訪子がそうであったように、神奈子もまた自分自身へと恨めしさを抱いていたのは皮肉な事実でもあった。
今からどれだけ諏訪子と拳を交わそうとも、今から如何にして早苗の元へと向かっても、家族殺しの宿業は烙印のように消せない傷痕として残るのだ。
自分の行為をどんなに美化しても正当化の理由に過ぎない。結局殺人という尺度で見ればそれ以上それ以下の何物でもない。
けれども、親が子に出来る最後の愛の形がそれであったとするならば、面罵されようと爾汝の交わりを棄てようと、その道を進むしかないという信念で。
それこそが家族の愛であり親の役目であるという確信めいた強い意思。諏訪子への怒りがあろうと、根底の原動力は間違いなくそれであった。
「ああ、私だってお前の事を認めないし、許さない」
そして諏訪子も早苗を想っているからこそ、神奈子とは手段の違いという一点によって相容れる為の道が閉ざされていた。
早苗へと愛を一心不乱に注いだのは同じでも、その愛の行く末が二人とも違って、二人とも自分の愛こそが正義だと信じている。
だから、互いに相手の首根っこに対して『お前のその行為は愛じゃない』と突き付けたくて。『お前は親失格だ』と言ってやりたくてたまらない。
諏訪子の冷めようとしていた怒りが不意に引き上げられてしまったのも、とどのつまりはその思いに起因していた。
神奈子の本心を分かっていなかった自分自身を責め立てたところで、自分の抱いた正義をよりによってその神奈子に非難されるのはお門違い。
それが早苗の為を思っての行為だと漸く知らされて引いた殺意は、そっくりそのまま血潮となって神奈子の正当性の欠如を叫喚する事となったのだ。
この二人の諍いは、この時点で新たなステージに至ったと言い換えても良い。
最初に抱いていた神奈子から諏訪子への怒りと諏訪子から神奈子への怒りは指し示す中身が別方向を指していたが、今や全くの同じ矛先。
後に残す物への心配以上にその勢力を強くした殺意と覚悟と使命感は、互いの心臓を抉る必殺の槍となって両者の手元に収まった。
早苗への愛を口に出すよりも先に、相手への罵倒が放たれてしまうと思わんがばかりの重い感情の戦い。
家族故の甘さをドブに捨てて同じ感情を引っ提げ、己が意志の強さが折れるまでの死合舞台。文字通りの刎頚の交わり。
「徹底的にやらなきゃ気が済まない、なァ諏訪子!!」
「難儀なもんだよ、自分が何しようとしてんのか水底で考えな神奈子!!」
大地が響めき湖面は割れ、二柱の醸す神光が再び暴力的なまでの瘴気を保って周囲一帯を満たしゆく。
地を揺るがし山谷を創成する神々に水を差すなんてあべこべな存在が居る訳が無いと言わんばかりに、二人だけの世界が構築されようとしている。
諏訪大戦の時以上に滾る二柱の神力と、あの時のような国と国との大義名分を捨ててまで決着に走らせる二人の愛が、神域の中で一際煌めいて。
神々しさ全開に展開された御柱の乱立に、怨嗟を剥き出しにし今にも噛み付きそうな御赤口の重牙。
今一度目の前の相手を屠らんと両眼ではっきりと睨み合い。
そして、風神の領域にそよ風が吹く。
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諏訪子は、最初何が起きたのかをはっきりと理解できなかった。
今から迫り出そうとしていたその運動エネルギーを、強制的に殺されたのかと思いたくなるぐらいの力によって空中で何かに釘付けにされたのだ。
その身動きが取れない原因が、両腕の周りで循環する風に袖が絡め取られたのだと気付くのにそう時間は要さなかったけれども。
かと言ってそれを力任せに解ける程の腕力は諏訪子には無く、ただただその攻撃を食らったままで空中に居続けたままになってしまう。
偶然では有り得ないその挙動に対し、いきなりの神奈子の搦手かとも逡巡し前方を見渡しても、居るのは同じく袖を絡め取られた風神のみ。
神奈子の仕業でも無い事は火を見るよりも明らかで、神奈子ですら食らう程に不意を突いた攻撃。
けれどもその突然の謎の恣意的な風に対して、諏訪子は小さな違和感を抱かざるを得ない。
神域全体へと届く土着神のレーダーに天狗はおろか野良妖怪の反応すらも無く、発生源は不明のまま。
懐かしさ、外の世界への郷愁、肌に伝わった風を切る感触。どれもが惜しいようで何かが違うと直感が告げているのに、惜しい部分はピンと来ず。
けれども心の奥から感じる血流の迸りが、これは大切な何かだと諏訪子の電気信号に訴えかけている。早く思い出せと喉の奥が叫んでいる。
燻り続ける疑念と、あともう少しで回答を出せそうな思考回路が、取っ組み合いをしたままピクリとも動かない。
風。
懐かしい風。
どこかで感じた、忘れられないその揺らめきとそれは同じ。
風。
外に居た頃の風。
違う。もっと最近の、神の息吹が根強いチカラ。
風。
暖かい風。
ただ自らの威厳を示す為の物でなく、もっと誰かの為を想った優しさ。
そう、これは。
間違い無く、早苗の起こす、奇跡の風だった。
瞳から悲哀を湛えた涙が啖呵を切って流れそうになる。全身の血潮が段々と元の木阿弥に収まりつつある事に気付かされる。
袖を絡め取っている風が次第に緩くなっている事も自ずと分かっていたのに、それでも御赤口を操る意思も涙腺も緩んでしまって。
神奈子との戦闘の最中、これが切った張ったの大一番だという事は頭ではしっかりと理解している。
それでも家族の一員として、遠い先祖として、感傷を抱かずには居られない。
流れる血脈は想像し得る以上に、余りにも濃すぎた。
その体に流れる血という名の因縁は、時として命取りになる。感情の変化が悪手だというのは戦場の基本だったと言うのに。
けれども、親という立場から来る感情など自制しようにも出来る訳が無い。人の子に絆された身で、戦いなんぞにかまけては居られない。
ああ、早苗のこの風は――
腹に力が込もる。
それこそ突然の挙動だった。
下から突き上げてくる何かによって全身が中空へと押し上げられて。御赤口を這わせて威力を殺す事も出来ずに無抵抗で攻撃を受け。
気付いた時には既に攻撃を食らっている真っ最中。水飛沫も予備動作も見えなかったというのは結果論、愚かだったのは自分自身。
攻撃の主は神奈子で、衝撃の主は御柱。物理的に顕現し直立した御柱の先端が、体を重力から支えて無様な醜態を晒させている。
力を入れて退避しようにも、全身から感じる痛みが腹に押し当てられた目処梃子によって増幅され動けない。
ビチョッ、という鈍い音が静寂を破ると共に、赤色の雫が青々と広がる水面に染みを作った。
原因は余りにも明白だった。油断というたったそれだけの心理的な波紋が、湖全体に波打ったのだ。
「さては諏訪子、アンタも気が緩んだのかい?」
諏訪子は何も答えられない。身に起こった全ての所作と感情の落差で気を失って、ただ腕をだらんと下げている。
そう気絶でもしなければ、今までの事これからの事に整理を付けれなかった。家族という楔が彼女に牙を向けて腹を抉ろうとしていた。
それでも神奈子はお構い無しに、次の言葉を紡ぐ。
「早苗が私たちを止めようとしてるんじゃないかって思ったんだろう?」
対する神奈子の表情は、それこそ歓喜と悲哀が合い混ざった複雑なモノで。ただ立ち位置の差だけが勝者と敗者を明瞭に決定付けている。
負けて身を引かざるを得なくなったのは諏訪子。そして、勝って先に進もうとするのは神奈子。いつかの時と変わらない関係が二人の間で流れていた。
「でも、やっぱり私には無理さ。あの子を神に祀ろうだなんて口が裂けても思えない」
自嘲のように、言葉を捻り出す。諏訪子が気絶してこの言葉を聞いていないと分かっていても、それを口に出さざるを得ない。
戦っている最中は怒りの心情を諏訪大戦の再来への高揚と何度かすり替えようかと思ったが、それでも納得の為に言葉にせざるを得ない。
何故なら。諏訪子が神奈子の行動しようとしていた事を許せなかったのと同じく、神奈子だって諏訪子が行動しようとしていた事を許せなかったのだから。
神奈子は外の世界で痛感した信仰の喪失と、それによる神の存在意義の喪失に対して焦燥感を抱く自分自身が嫌いだった。
信仰の減衰に伴って神力を失っていくのが自然の摂理だったとは言え、それでも信仰を注いでくれる敬虔な信徒の事が好きだったのは確かである。
それでも、神力を失うというのは神徳の効力が薄まるのと同義。
尽くしてくれる信徒に対して恩を返す事も出来ないなら神が居る意味が無いではないかと考える日々もあった。
神という大きな存在の掌からすら溢れてしまうモノ、神なのに叶えられない願い。
それらが存在している事実を容認出来る程、神奈子は厳しくはなれなかった。
幻想郷へ至って信仰と神力が回復しても、どうしてもその憂いは蜷局のように巻き付いて消えなかった。
それだと言うのに、早苗を神にするという事はあの子自身が縋られ、信仰と共に生きる存在となるという事と同義で。
今まで以上に人の痛烈な叫びに耳を傾けて人の暗部に目を向けて、今までと違って神の不甲斐無さをその身でしかと受け止めざるを得なくなる。
そして外の世界での私たちのように、信仰を失って自分の無力さを痛感し続ける毎日を、いずれ訪れてしまうかもしれない未来を、純朴で真っ直ぐなあの子に送って欲しいとは絶対に思えなかった。そんな重荷を早苗に背負わせる事は出来る訳がない。
苦しませたくないと諏訪子に面と向かって言ったのも、昏睡状態のソレ以上に神としての苦悩を味わって欲しくなかったが故。
あの子にはただ、神に尽くす風祝としてあり続けて欲しかったのだ。
だから嬉しかった。諏訪子共々争っているのを早苗が止めようとしてくれたのが、親心としてただただ心に沁み入った。
だから決着を付けられた。暴風は神奈子の権威だからこそ、その主が早苗だったからこそ、その拘束を脱却して諏訪子に会心の一撃を与える事が出来た。
「それに、アンタとやっていく日々は楽しかったんだよ。馬鹿やって酒呑んで喧嘩して早苗と三人で暮らして……。
なのに諏訪子はさぁ。事が終わったら早苗一柱置いてどっか行くだなんて私が許すとでも思ったのかい?」
そしてもう一点、神奈子は諏訪子が具体的にどうやって早苗を神の座に上げるのかという事にもとっくに気付いていた。
自らへ流れる信仰のパスを強制的に早苗に移し替えて、その畏れの向かう先を全て早苗に集中させる神の御技にして、洩矢諏訪子という正真正銘の地の繋がった遥か昔の親だからこそ出来る継承の儀式。それはつまるところ、諏訪子への信仰が枯渇し祀ろわぬ神となってしまう事でもあり。
あろう事か諏訪子は自己犠牲によってそれを為そうとしていたのだ。
早苗が居なくなるという事に親としてケジメは付けられても、諏訪子が居なくなるという事はその事実もその手段も含めて家族としては到底許せない。
八坂神奈子の視点から見た昨今の洩矢諏訪子は、どうしても理解出来ない存在だったのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
荘厳な佇まいの鳥居を潜り、本殿へと一直線に伸びる参道を歩く。
石畳の上を踏む度にガサ、と水気を失った朽葉が乾いた音を響かせる。赤色の漆の可憐さや朽葉に混じる紅葉の赤が今は血の色だけを想像させる。
あの子が倒れてから落葉を掃除する機会が何一つ無くなってしまったという事実を今一度痛感する事になって。
本殿までの数十メートルの直線も、今だけは一歩足を前に進める度にあの子の性格のそれを丁寧に一つ一つ思い返されるかのようで。
不意に見上げた空の青さだって、一人ではこんなに遠く手の届かない場所だったろうかとも考えさせられるのだ。
けれども、風神・八坂神奈子にとっては、鳥居から中央線を堂々と通って本殿に向かっているこの時から既に儀式の一貫。
注連縄の下を通り早苗へと相対し、何を告げどう苦痛を感じさせずにその命を祓うか。
その一連の流れによって、早苗を殺す行いを儀として丁重に弔おうと。
諏訪子と血戦を繰り広げる前段階から既に一通りシュミレートし終わった身。諏訪子と執念をぶつけ合って勝ち残った身。そこに露一つ後悔は出来ない。
こうして到達した本殿は、目前にして酷く大きく感じられた。自らを奉る為の社をそう思うのは信仰が減りに減った時以来だったか。
それでもなお先に進む。今更変えられない自然の理に神が口を挟める余裕は無い。伽藍の堂に詰め込まれた空気の重さも感じている暇すら無い。
「早苗」
強い声で、普段は見せない威厳さを前面に出して。愛しの娘へと呼び掛ける。
返答と共に辿る二の句を奥に控えさせ、ただ神として勇壮に足の裏で畳を撫でる。
今はただ早苗との間に聳える襖一枚の厚さすら頼もしい。
だが続く言葉は無く。
風が、聞こえない。
頭の中であの子の名前を反芻する。
あの子の笑顔。あの子の髪。あの子の声。仕草。髪飾り。足取り。瞳。
全ての光景が頭の中に鮮明に。どんな過去であろうと決して色褪せずに瞳の裏で再生出来る。
けれども、その残滓が、あの子の立てる風が何一つ、聞こえない。
違う。これは寝息を立てないぐらいの静けさで。
だから私の声に反応しなかっただけで。
そうじゃなきゃ。
「さな、え」
襖の先。湖が一望出来る早苗の一室で、障子が開け放たれて。
東風谷早苗は、静かに息を引き取っていた。
――冗談でしょ?
――体を起こすのがやっとの状態で、神力を行使させたから?
――私が諏訪子と争って全てを決そうと思ったから?
――諏訪子に対して並々ならぬ感情を抱いてしまったから?
疑問符の対象も遂に浮かばず、喉元から放つ事さえも叶わず。
口に出そうとしても自分が息を吸う為の気道を確保するだけで精一杯。
けれども耳に早苗の心拍の音は入ってこない。
「なん、で……」
やっと声になったのは三文字だけ。
張り詰めた空気に自らの発した声だけがやけに響いて。
家族への愛は部外者には不可侵であれと願っていたはずなのに。
早苗を愛していたからこそ、手に掛けるのが正義だと信じていたのに。
それでもこんな引き金なんて望んでいなかった。
私たちを止めようとしてその命を散らしたのなら、これ以上親として失格な事は無い。
蛇の道は、どうしようもなく蛇だった。
早苗への愛を再確認した時に、私も諏訪子もお互いの事を考えられなかったのだ。
自分と早苗がこうあれば良いという信念の元、長年の相方を蔑ろにしていた事に自分自身が一番気付いていなかった。
そうしてあの子の事すら見なくなった瞬間に、考えているのは自分の事だけになって。
早苗への愛を投げ捨ててしまっていた事すら自覚せず、一心不乱に我を通そうとして。
それで掴み取ってしまった結末は、誰の為にもならなかった。
亡骸を抱きしめようと動く事すら出来ずに、体勢が膝から崩れ。
全身から抜けた力が風のように空へと散っていく。
目の前で上体を起こし下半身を布団に預けたまま、空と湖の美しさを眺めた状態で鼓動を止めたその姿。
崩れ落ちた今の足では早苗の元に寄ってやる事すら出来ない。
体の上に乗っただけの頭では早苗の顔を覗く事もままならない。
白い着物の後ろ姿を、私はただ視界に入れる事しか許されないのだ。
無風の中で何より無力な風神の姿が、ただそこにあった。
結局どちらの我も通せる事無く自分達が原因で最愛の家族を失ってしまうという皮肉めいた結末はかなり人を選ぶものだと思いますが、私個人としては大変好みでした
早苗さんは最期に何を想いながら旅立って行ったのでしょうね!
どちらも決して譲りたく想いがあって、それをお互いにぶつけ合って、その結果として最も求めていない結果にたどり着いてしまう。辛くもありましたが楽しませて頂きました。
情報が順々に開示されていく構成も、美しい文章も素敵でした。
早苗に対する二人の思いが大きかったからこそ、その意見の違いが顕著に現れていて、二人の悲痛な思いが本当にしんどかったです。
早苗は最期に何を思って逝ったのだろう、ニ柱の救われない戦いを感じながら、何を思って風を起こしたのだろう。
それが気になって堪りません。
本当にしんどい。