着信音が響く。机に伏せた体を起こし、片手で受話器を象った。
『ねぇ蓮子、今日出かけない?』
親指を耳に当てれば、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「……こんなにも空が青いから」
日も傾きかけた午後。瞼をこすると、よだれに濡れたレポート用紙が目に入る。どうやらやってしまったようだ。紙のことは早々に諦め、空いた手で口元を拭った。
「出かけるって……今から? 倶楽部活動じゃなくて?」
『良いじゃない。ちょっと文学的な気分になったのよ』
「何それ」
耳の向こうで零れる溜息。
「もう。日本人の心情は察しと思いやりじゃなかったの?」
逡巡。しかし思い至ることは無かった。不貞寝でぼやけた思考には、彼女のハイコンテクストな言葉を解釈しきれない。
「……この感受性おばけ。あなたが日本に順応しすぎなのよ」
彼女は笑った。まるで何かを企む無邪気な少女の様に。
「そんなおばけは今、あなたの家の前に居るわ」
「えっうそ……このおばけ!」
私は三十秒で支度する羽目になった。
***
「御覧なさい、蓮子、あの文学的な川を」
「いやどういうことよ」
目の前を流れているのは、どう見てもただの鴨川だ。 彼女は何を以てそれを文学的と言っているのだろう。ひょっとして、真夏の暑さで私の頭は弱っているのだろうか。そのせいでメリーの意図を理解しかねているのだろうか。考えてはみたが、しかし……やっぱりそれは見慣れた只の鴨川だった。
「ほらよく見て。とくにあの辺り。とても文学的でしょう?」
メリーは少し上流の方を指した。出町橋がかかっており、その下で川が合流している。東から高野川、西から賀茂川。二つ合わせて鴨川になる。
ゆく川の流れは絶えずして……。そういえば鴨長明は、ちょうど向こうに見える下賀茂神社の生まれだ。彼が見た「川」もきっと鴨川だっただろう。その意味で「文学的」と言っているのだろうか。
「私たちもあれになりましょうよ」
メリーは私の手を引いた。川端通からスロープを降りていき、川の水面に近付いた。目の前には飛び石があり、合流前の二本の川に挟まれた逆三角の場所――デルタ――まで続いている。
「するの? これ」
「うん!」
屈託のない笑顔。
「今日は一段と電波ね」
「こういうの、蓮子の方が得意でしょう?」
それは運動神経のことを言っているのだろうか。それとも遊び心の有無について言っているのだろうか。後者だというなら、今のメリーの方が当てはまっていると思う。
「ほらはやく」
彼女は一つ目の石に飛び乗った。はしゃいで止まない子供を仕方なく遊ばせる親のような心持で、私はメリーに続いた。
「川には全てがあるわ」
かこん、かこんと石に靴音を響かせながら、急に飛び出した強い主張。彼女の足取りは軽い。
「憎しみも。愛も。真実も……」
言って、振り返るメリー。私は答えた。
「……私たちも?」
「よく分かってるじゃない」
突如、メリーは私の手首を掴んだ。勢いよく引っ張られた私は、そのまま足場のない方へ一歩を踏み出してしまう。
「いやちょっ」
ぱっしゃり。水飛沫が上がる。気づけば私の片足は高野川の川底を踏んでいた。抗議の声を上げようと顔を上げる。しかしデルタを挟んだ反対側、賀茂川に向けて、メリーは空高く飛びあがっていた。
「は?」
ばっしゃり。ひときわ大きな水飛沫が上がる。喉まで上がっていた文句は今の一瞬で消え失せ、開いた口は開いたままになった。
「私がこっちの川。あなたはそっちの川。二つは合流して一つになる。とても文学的だわ」
私は周りの目線を感じて、片足を引き上げデルタに渡った。靴下と靴の間でぐしょぐしょと、音が立つのが気持ち悪かった。
私が歩み寄ると、メリーは飛び石の一つに腰かけた。その石は亀の形をしていた。鴨川ではよくあることだ。
「どういうつもりなの?」
彼女は目を背けた。私が今の出来事を冗談として受け止め切れていないことを察したのだろうか。だがすぐに笑顔に戻った。
「まぁまぁ。このかわいい亀の頭に免じて赦してよ」
彼女は亀の甲羅に座り、亀の頭を撫でていた。メリーが上げた水飛沫のおかげで亀の頭は濡れていて、夏の日差しに輝いていた。
「どう? これもなかなか文学的でしょう?」
はて、亀にまつわる文学にはどんなものがあっただろう。初めに思い浮かんだのは浦島太郎だった。自分に呆れながら、私は無言でメリーを陸に引っ張り上げた。
デルタに上がり、その先端に腰かける。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、日の当たるところに放り出す。お尻の下の焼き石のような熱さも、濡れた後では気にならなかった。
正面を向けば、鴨川が遠く南へ流れていくのが見える。その流れに沿うように、私は足を投げ出した。ちょっと開放的な気分になった。メリーはそんな私の濡れた素足をまじまじと見つめて、こう言った。
「あなたの脚、とても文学的ね」
「どういう意味よ」
「……まったく、鈍いんだから」
***
「文学的な丘だわ」
――どこがだ。ここは将軍塚。文と武で言えば間違いなく「武」の側のスポットだ。京都盆地を見下ろせるこの場所には、かつて武士の像があり、当時の都を見守っていた。今は芝生に覆われた丘があり、その頂点に小さな石碑が立っている。石碑に何が刻まれているのかと気になって目を凝らしたが、距離がありすぎて読み取れなかった。
一方、メリーは一歩引いた場所から丘全体を見回している。
「あともう一つあれば、もっと文学的だったのに」
二つの丘に象徴されるような文学、そんなものあっただろうか。己の文学力に限界を覚え、私は適当に言葉を返した。
「不満そうね」
「ふふっ」
その言葉を待っていたかのように、彼女は笑った。
「その分今日は満足させてもらうわ。文学的にね」
振り返った彼女の背中で、真夏の太陽が沈んでいた。
私は考えていた。今日一日、彼女に会ってから、ずっと考えていたことを今も考えていた。辺りが暗くなるにつれ、メリーの輪郭がぼやけていくの眺めながら。
文学的、とはどういうことなのだろう。何を以て文学的と言い、あるいは言っていないのだろう。彼女は今日、数々のものを指して文学的と言った。そこにどんな共通点があるというのだろう。確かに文学においてテーマになりがちな対象もいくつかあった。だが、文学に対する感性は私よりもメリーの方が格段に優れている。私の想像が及ばないだけで、そこには何か高尚な観念があるのかもしれない。
私の知らない、文学的、という観念が。
私たちは闇に沈む京都を見下ろした。行き過ぎた景観条例のおかげで、夜景と言えるほどの明かりもない。
「ねぇ蓮子」
鴨川の少し向こうに目を向けながら、メリーは言った。
「文学的なものを食べに行かない?」
「これすごい! 天然ものの海産物じゃない!」
メリーに連れられて入った店は、木屋町通の路地裏の地下にあった。とても初めてでは辿り着けないような場所だ。今の時代、海のない京都で、合成でない魚介類にありつける店があるとは思わなかった。
向かい合って座った私たちの前に、山盛りの食材が運ばれる。天然の魚の艶に目を奪われていると、私の視界の端で、何か重いものがズドンと設置された。
「えっ」
それは赤熱する炭をたらふく抱えた七輪だった。
「さぁ、文学的なものを食べるわよ」
どうやら今日、私にツッコミの暇はないようだ。メリーはトングでアワビを掴み、七輪にかけた。白子の刺身をつまみながら待っていると、それはやがて塩を吹きながらぐつぐつと煮え始めた。
「とっても文学的ね」
「おいしそうだわ」
二人の言葉が重なる。
そして私は思った。文学的、というのはただの「おいしそう」の言い換えなのではないか。これまでと一貫性が無いけれど、それこそが結論なのではないか。美味しいものを前にして、私は少し投げやりになっていた。これまでだって、美しいものや、かわいらしいものを指してわざわざ「文学的」と言っていただけなのではないか。共通点があるのではなく、様々な感情の沸き上がりを全て「文学的」の一言で無理やり表していた。そこに初めから一貫性など無かったのではないか?
そうだ。きっとそうだろう。私たちの会話は普段からハイコンテクストになりがちだけれど、ネタ晴らしをすれば大したことじゃないことが殆どだ。今のような下らない言葉遊びなら私だってよくやる。メリーの様子がおかしかったのも、私に謎解きをやらせて遊んでいただけなのだ。私が答えを口にすれば、メリーは元に戻る。数の子をこりこりと噛み砕きながら。私は徐々に自分の結論に満足していった。
まだ日中の熱気が冷めない夜の京都。お腹の膨れた私たちは木屋町から歩いて帰ることにした。
「ありがとう。久しぶりに良いもの食べた」
何故か今日はメリーの奢りだった。
「文学的になるためなら、お金は惜しまないわ」
「……それもそうね」
今の「文学的になる」はきっと「幸せになる」の言い換えなのだろう。私はすっかり今日のメリーの言動を消化できるようになっていた。
「次の機会には私が貴方を文学的にしてあげようかしら」
その言葉を聞いて、メリーは嬉しそうな顔をした。驚いたようでもあり、そして少し恥ずかしがるようでもあった。私が謎の答えに辿り着いたことに喜び、驚き、そして自分の言葉遊びを言葉遊びで返されたのに少し照れているのだろう。
三条で川を東に渡った。このまま北に鴨川を遡れば私やメリーの家は近い。しかし。
「メリー? どこ行くのよ」
彼女は向きを変えずに真っすぐ川端通を渡り、東へと進んでいった。信号が赤に変わりそうになり、私も急いでその後を追った。
「どこって……文学的な建物よ」
「建物……?」
今の「文学的」はどういう意味で使われたのだろう。メリーが歩みを止めるまで、私は再び吟味する羽目になった。どんな建物を指してメリーは文学的と言っているのか、実際のその建物を見てみるまで分からない。
十分ほど歩き、岡崎に差し掛かった辺りでメリーは立ち止まった。頭上に目をやると、建物の二階から三階にわたって看板が掲げられていた。文字を妖しく照らすピンク色の光を見て、私はその建物が何であるかを理解した。が、「文学的」の意味の謎は寧ろ深まるばかりだった。
「私を、文学的にしてくれるんでしょう?」
***
肌に触れるシーツの感触。身体に残る甘い充足感。目を開けると、視線の先で、カーテンの隙間から薄明かりが零れていた。目をこすり、上体を起こす。見渡してもメリーの姿は無い。シーツに埋もれながら身支度をして、私はベッドを降りた。裸足のまま窓の前に立ち、カーテンを開ける。
窓の向こうは東山。日はまだ昇っていないが、山の端が徐々に白くなっていた。夏でもあけぼのじゃないか、と私は思った。
かなかなかなかな。
ひぐらしが鳴いている。そこ声が岡崎に儚く響いていく。寝坊助が多いこの街で、人々が目を覚ます頃には、彼らは鳴くのを止めてしまう。まるで初めからそこに居なかったかのように。
メリーもそうして、ときどき居なくなることがある。ふっと、気付かぬうちに、手から零れ落ちる砂のように。そのとき感じる不安、喪失感、そして恐怖が私は大嫌いだった。だからこうして、確かめなければならないんだ。彼女が今、確かにここに居るということを。
顔を上げる。二十八日目の月が浮かんでいる。消え入りそうなほど、細い細い月だ。太陽が顔を出せば、たちまちその眩しさに飲まれてしまうだろう。深い藍色だった空は青く、そして空色に変わっていく。月の輪郭は見えなくなっていく。夜更かしの私が普段は目にしない朝方の月。それが今はとても愛おしく思えた。ボタンを掛け違えたシャツ。襟の固い感触。ふやけた指と、下腹部の僅かな痺れ。満たされる心地。手に握るカーテン。喉を満たす朝の空気。その全てが、月をいっそう美しく見せていた。
「月が……綺麗ね」
思わず零したその言葉。はっとして、振り返る。
そこにはバスローブに身を包んだメリーが立っていた。
「やっと、あなたも文学的になってくれたわね」
私は「文学的」に一貫した意味があったことに気づいた。
『ねぇ蓮子、今日出かけない?』
親指を耳に当てれば、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「……こんなにも空が青いから」
日も傾きかけた午後。瞼をこすると、よだれに濡れたレポート用紙が目に入る。どうやらやってしまったようだ。紙のことは早々に諦め、空いた手で口元を拭った。
「出かけるって……今から? 倶楽部活動じゃなくて?」
『良いじゃない。ちょっと文学的な気分になったのよ』
「何それ」
耳の向こうで零れる溜息。
「もう。日本人の心情は察しと思いやりじゃなかったの?」
逡巡。しかし思い至ることは無かった。不貞寝でぼやけた思考には、彼女のハイコンテクストな言葉を解釈しきれない。
「……この感受性おばけ。あなたが日本に順応しすぎなのよ」
彼女は笑った。まるで何かを企む無邪気な少女の様に。
「そんなおばけは今、あなたの家の前に居るわ」
「えっうそ……このおばけ!」
私は三十秒で支度する羽目になった。
***
「御覧なさい、蓮子、あの文学的な川を」
「いやどういうことよ」
目の前を流れているのは、どう見てもただの鴨川だ。 彼女は何を以てそれを文学的と言っているのだろう。ひょっとして、真夏の暑さで私の頭は弱っているのだろうか。そのせいでメリーの意図を理解しかねているのだろうか。考えてはみたが、しかし……やっぱりそれは見慣れた只の鴨川だった。
「ほらよく見て。とくにあの辺り。とても文学的でしょう?」
メリーは少し上流の方を指した。出町橋がかかっており、その下で川が合流している。東から高野川、西から賀茂川。二つ合わせて鴨川になる。
ゆく川の流れは絶えずして……。そういえば鴨長明は、ちょうど向こうに見える下賀茂神社の生まれだ。彼が見た「川」もきっと鴨川だっただろう。その意味で「文学的」と言っているのだろうか。
「私たちもあれになりましょうよ」
メリーは私の手を引いた。川端通からスロープを降りていき、川の水面に近付いた。目の前には飛び石があり、合流前の二本の川に挟まれた逆三角の場所――デルタ――まで続いている。
「するの? これ」
「うん!」
屈託のない笑顔。
「今日は一段と電波ね」
「こういうの、蓮子の方が得意でしょう?」
それは運動神経のことを言っているのだろうか。それとも遊び心の有無について言っているのだろうか。後者だというなら、今のメリーの方が当てはまっていると思う。
「ほらはやく」
彼女は一つ目の石に飛び乗った。はしゃいで止まない子供を仕方なく遊ばせる親のような心持で、私はメリーに続いた。
「川には全てがあるわ」
かこん、かこんと石に靴音を響かせながら、急に飛び出した強い主張。彼女の足取りは軽い。
「憎しみも。愛も。真実も……」
言って、振り返るメリー。私は答えた。
「……私たちも?」
「よく分かってるじゃない」
突如、メリーは私の手首を掴んだ。勢いよく引っ張られた私は、そのまま足場のない方へ一歩を踏み出してしまう。
「いやちょっ」
ぱっしゃり。水飛沫が上がる。気づけば私の片足は高野川の川底を踏んでいた。抗議の声を上げようと顔を上げる。しかしデルタを挟んだ反対側、賀茂川に向けて、メリーは空高く飛びあがっていた。
「は?」
ばっしゃり。ひときわ大きな水飛沫が上がる。喉まで上がっていた文句は今の一瞬で消え失せ、開いた口は開いたままになった。
「私がこっちの川。あなたはそっちの川。二つは合流して一つになる。とても文学的だわ」
私は周りの目線を感じて、片足を引き上げデルタに渡った。靴下と靴の間でぐしょぐしょと、音が立つのが気持ち悪かった。
私が歩み寄ると、メリーは飛び石の一つに腰かけた。その石は亀の形をしていた。鴨川ではよくあることだ。
「どういうつもりなの?」
彼女は目を背けた。私が今の出来事を冗談として受け止め切れていないことを察したのだろうか。だがすぐに笑顔に戻った。
「まぁまぁ。このかわいい亀の頭に免じて赦してよ」
彼女は亀の甲羅に座り、亀の頭を撫でていた。メリーが上げた水飛沫のおかげで亀の頭は濡れていて、夏の日差しに輝いていた。
「どう? これもなかなか文学的でしょう?」
はて、亀にまつわる文学にはどんなものがあっただろう。初めに思い浮かんだのは浦島太郎だった。自分に呆れながら、私は無言でメリーを陸に引っ張り上げた。
デルタに上がり、その先端に腰かける。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、日の当たるところに放り出す。お尻の下の焼き石のような熱さも、濡れた後では気にならなかった。
正面を向けば、鴨川が遠く南へ流れていくのが見える。その流れに沿うように、私は足を投げ出した。ちょっと開放的な気分になった。メリーはそんな私の濡れた素足をまじまじと見つめて、こう言った。
「あなたの脚、とても文学的ね」
「どういう意味よ」
「……まったく、鈍いんだから」
***
「文学的な丘だわ」
――どこがだ。ここは将軍塚。文と武で言えば間違いなく「武」の側のスポットだ。京都盆地を見下ろせるこの場所には、かつて武士の像があり、当時の都を見守っていた。今は芝生に覆われた丘があり、その頂点に小さな石碑が立っている。石碑に何が刻まれているのかと気になって目を凝らしたが、距離がありすぎて読み取れなかった。
一方、メリーは一歩引いた場所から丘全体を見回している。
「あともう一つあれば、もっと文学的だったのに」
二つの丘に象徴されるような文学、そんなものあっただろうか。己の文学力に限界を覚え、私は適当に言葉を返した。
「不満そうね」
「ふふっ」
その言葉を待っていたかのように、彼女は笑った。
「その分今日は満足させてもらうわ。文学的にね」
振り返った彼女の背中で、真夏の太陽が沈んでいた。
私は考えていた。今日一日、彼女に会ってから、ずっと考えていたことを今も考えていた。辺りが暗くなるにつれ、メリーの輪郭がぼやけていくの眺めながら。
文学的、とはどういうことなのだろう。何を以て文学的と言い、あるいは言っていないのだろう。彼女は今日、数々のものを指して文学的と言った。そこにどんな共通点があるというのだろう。確かに文学においてテーマになりがちな対象もいくつかあった。だが、文学に対する感性は私よりもメリーの方が格段に優れている。私の想像が及ばないだけで、そこには何か高尚な観念があるのかもしれない。
私の知らない、文学的、という観念が。
私たちは闇に沈む京都を見下ろした。行き過ぎた景観条例のおかげで、夜景と言えるほどの明かりもない。
「ねぇ蓮子」
鴨川の少し向こうに目を向けながら、メリーは言った。
「文学的なものを食べに行かない?」
「これすごい! 天然ものの海産物じゃない!」
メリーに連れられて入った店は、木屋町通の路地裏の地下にあった。とても初めてでは辿り着けないような場所だ。今の時代、海のない京都で、合成でない魚介類にありつける店があるとは思わなかった。
向かい合って座った私たちの前に、山盛りの食材が運ばれる。天然の魚の艶に目を奪われていると、私の視界の端で、何か重いものがズドンと設置された。
「えっ」
それは赤熱する炭をたらふく抱えた七輪だった。
「さぁ、文学的なものを食べるわよ」
どうやら今日、私にツッコミの暇はないようだ。メリーはトングでアワビを掴み、七輪にかけた。白子の刺身をつまみながら待っていると、それはやがて塩を吹きながらぐつぐつと煮え始めた。
「とっても文学的ね」
「おいしそうだわ」
二人の言葉が重なる。
そして私は思った。文学的、というのはただの「おいしそう」の言い換えなのではないか。これまでと一貫性が無いけれど、それこそが結論なのではないか。美味しいものを前にして、私は少し投げやりになっていた。これまでだって、美しいものや、かわいらしいものを指してわざわざ「文学的」と言っていただけなのではないか。共通点があるのではなく、様々な感情の沸き上がりを全て「文学的」の一言で無理やり表していた。そこに初めから一貫性など無かったのではないか?
そうだ。きっとそうだろう。私たちの会話は普段からハイコンテクストになりがちだけれど、ネタ晴らしをすれば大したことじゃないことが殆どだ。今のような下らない言葉遊びなら私だってよくやる。メリーの様子がおかしかったのも、私に謎解きをやらせて遊んでいただけなのだ。私が答えを口にすれば、メリーは元に戻る。数の子をこりこりと噛み砕きながら。私は徐々に自分の結論に満足していった。
まだ日中の熱気が冷めない夜の京都。お腹の膨れた私たちは木屋町から歩いて帰ることにした。
「ありがとう。久しぶりに良いもの食べた」
何故か今日はメリーの奢りだった。
「文学的になるためなら、お金は惜しまないわ」
「……それもそうね」
今の「文学的になる」はきっと「幸せになる」の言い換えなのだろう。私はすっかり今日のメリーの言動を消化できるようになっていた。
「次の機会には私が貴方を文学的にしてあげようかしら」
その言葉を聞いて、メリーは嬉しそうな顔をした。驚いたようでもあり、そして少し恥ずかしがるようでもあった。私が謎の答えに辿り着いたことに喜び、驚き、そして自分の言葉遊びを言葉遊びで返されたのに少し照れているのだろう。
三条で川を東に渡った。このまま北に鴨川を遡れば私やメリーの家は近い。しかし。
「メリー? どこ行くのよ」
彼女は向きを変えずに真っすぐ川端通を渡り、東へと進んでいった。信号が赤に変わりそうになり、私も急いでその後を追った。
「どこって……文学的な建物よ」
「建物……?」
今の「文学的」はどういう意味で使われたのだろう。メリーが歩みを止めるまで、私は再び吟味する羽目になった。どんな建物を指してメリーは文学的と言っているのか、実際のその建物を見てみるまで分からない。
十分ほど歩き、岡崎に差し掛かった辺りでメリーは立ち止まった。頭上に目をやると、建物の二階から三階にわたって看板が掲げられていた。文字を妖しく照らすピンク色の光を見て、私はその建物が何であるかを理解した。が、「文学的」の意味の謎は寧ろ深まるばかりだった。
「私を、文学的にしてくれるんでしょう?」
***
肌に触れるシーツの感触。身体に残る甘い充足感。目を開けると、視線の先で、カーテンの隙間から薄明かりが零れていた。目をこすり、上体を起こす。見渡してもメリーの姿は無い。シーツに埋もれながら身支度をして、私はベッドを降りた。裸足のまま窓の前に立ち、カーテンを開ける。
窓の向こうは東山。日はまだ昇っていないが、山の端が徐々に白くなっていた。夏でもあけぼのじゃないか、と私は思った。
かなかなかなかな。
ひぐらしが鳴いている。そこ声が岡崎に儚く響いていく。寝坊助が多いこの街で、人々が目を覚ます頃には、彼らは鳴くのを止めてしまう。まるで初めからそこに居なかったかのように。
メリーもそうして、ときどき居なくなることがある。ふっと、気付かぬうちに、手から零れ落ちる砂のように。そのとき感じる不安、喪失感、そして恐怖が私は大嫌いだった。だからこうして、確かめなければならないんだ。彼女が今、確かにここに居るということを。
顔を上げる。二十八日目の月が浮かんでいる。消え入りそうなほど、細い細い月だ。太陽が顔を出せば、たちまちその眩しさに飲まれてしまうだろう。深い藍色だった空は青く、そして空色に変わっていく。月の輪郭は見えなくなっていく。夜更かしの私が普段は目にしない朝方の月。それが今はとても愛おしく思えた。ボタンを掛け違えたシャツ。襟の固い感触。ふやけた指と、下腹部の僅かな痺れ。満たされる心地。手に握るカーテン。喉を満たす朝の空気。その全てが、月をいっそう美しく見せていた。
「月が……綺麗ね」
思わず零したその言葉。はっとして、振り返る。
そこにはバスローブに身を包んだメリーが立っていた。
「やっと、あなたも文学的になってくれたわね」
私は「文学的」に一貫した意味があったことに気づいた。
女性的なものにも男性的なものにも文学を感じるメリーはバイ。
おれは評価した
文学的って素晴らしいですね
あまりに文学的でした
文学的すぎてどうにかなりそうでした