世の中には、光速と音速なるものがある。
読んで字の如く光と音の速さな訳だが、こいつらにはどうも、べらぼうな差があるらしい。
分かりやすく感じられるところでいえば、雷が見えた後の雷鳴とか、花火が弾けた後の破裂音とか、ああったものだ。
そう、花火。
そもそも、なんでこんな講釈を垂れているのかというと、その花火が原因だ。
特におかしなところはなかったと思う。
一発目のつかみというわけでも、最終局面の盛大なやつというわけでもなかった。
観客の注意が花火より出店に傾く、中盤に差し掛かる頃合いだったろうか。
人里での用事を終えて帰り道、日が沈んで少し経った頃、徒歩で店へと帰る。
これまた平々凡々とした帰路だった。
変わったことといえば、それこそ祭りの人混みにただ揉まれるのが癪で、どうせならと祭り料金の焼き鳥を買ったことか。
それとも、会場から少し離れた土手に、ちょっとだけと腰かけたことか。
ともあれ、折角だから今夜上がるうち何分の一かの花火を見ようと視線を上げた。
一発目、花火が好きでなくとも聞き馴染みはあるだろう笛のような音の後に、破裂音。
二発目、同じく。
三発目、甲高い音を聞いて、大輪が開いて数瞬の後、破裂音が
くしゅん!
来なかった。
そして本来ならすぐに枯れ落ちる筈の大輪が十数秒前と変わらず夜空に浮かんでいる。
おまけに何故か僕の視点も元の位置より随分高いところに上がり、下に体を置いてけぼりにしていた。
そして現在に至る、わけだ。
いや、「わけだ。」などと締めたところで一切この状況の意味は分かっていないのだけれども。
とにかく理解できたのは花火が弾けた瞬間、僕に音が届くまでの間に、どうも、どこぞのメイドよろしく時間が止まって、魂のようなものが体から追い出されたということだけだった。
くしゃみは古来魂を削るものだと信じられていたらしいが、こんなことってあるだろうか。
川の水は流れていないし、肌に感じる風は体を動かしても、何故だか強さも向きも変わらないままで少し気持ちが悪い。
辺りにちらほら居る、僕と同じく遠巻きに花火を眺めていた人達も精巧な人形のように固まっている。
纏めると、そういうことらしい。
もうあとは対処しようもなく、動く度胸もなく、ひたすら花火を見つめているしかなかった。
ただ、あんまりにも変わり映えがない光景が続くと多少冷静になるらしく
『現実に静止した「花火」を見る機会など、これ以後ありえるだろうか』
などと、現状に対してえらく呑気な疑問が頭に湧いてくる。
写真とはまた違う、「花火」そのものを留めた瞬間。
それを前にして我儘にも、味気ないなぁ、と感じた。
花火に限らず、写真を美しいと思うのはそれらがただ一瞬を切り抜いたものだからというのが大きいというのが僕の持論だ。
だからこう、眼前にこれ見よがしに一時停止されても間延びするというか、無粋というか。
誰にともなく失礼な感想を抱いていると、突然鼻がむず痒くなった。
勿論ホコリやらゴミやらが入った訳ではない。見えはしないがそれらも空中で止まっている筈ではあるし、そもそもこの状態で物理的な影響があるかも怪しい。
---くしゅ『パァン』
……いや。
爆発的なくしゃみをした訳ではなく。
凡そ二十分前には聞く筈だった破裂音が耳に届き、瞬きから目を開くと、さっきまでしつこく主張していた花火が綺麗さっぱり消えていた。
その後なんの変哲も無い四発目、五発目、そして小休憩。
なんだったのだろう。
何かこう、この幻想郷においても超常的な存在がいて、疲れていた僕にゆっくり花火を眺める機会をくれたのに、無粋だなんだと言い出したから機嫌を損ねたのだろうか。
とりあえず、周りを見回して、自然な動きを確認して安堵する。
しばらく観察も兼ねて居座っていたのだが、あれ以降はなんともなく、またいつも通りの帰路につくことになった。
僕のくしゃみに何か不思議な力でも宿ったのだろうか。普段の生活に支障が出るぞ。
モヤモヤしながらも、風呂に入り、仕入れ品の整理をし、寝床に入る。
目覚まし時計のカチリカチリという音を聞きつつ、折角なら花火の周りをぐるっと回ってみればよかったなぁ、と馬鹿みたいな後悔をしていると、また鼻がむず痒くなる。
花火が止まったとき、そして動き始めたときを思い出す。これは、もしや
カチリ、カチくしゅん。
カチリ、カチリ、カチリ。
結局時間は止められず、線香花火の玉のようにぽとりと洟水が垂れるだけだった。
読んで字の如く光と音の速さな訳だが、こいつらにはどうも、べらぼうな差があるらしい。
分かりやすく感じられるところでいえば、雷が見えた後の雷鳴とか、花火が弾けた後の破裂音とか、ああったものだ。
そう、花火。
そもそも、なんでこんな講釈を垂れているのかというと、その花火が原因だ。
特におかしなところはなかったと思う。
一発目のつかみというわけでも、最終局面の盛大なやつというわけでもなかった。
観客の注意が花火より出店に傾く、中盤に差し掛かる頃合いだったろうか。
人里での用事を終えて帰り道、日が沈んで少し経った頃、徒歩で店へと帰る。
これまた平々凡々とした帰路だった。
変わったことといえば、それこそ祭りの人混みにただ揉まれるのが癪で、どうせならと祭り料金の焼き鳥を買ったことか。
それとも、会場から少し離れた土手に、ちょっとだけと腰かけたことか。
ともあれ、折角だから今夜上がるうち何分の一かの花火を見ようと視線を上げた。
一発目、花火が好きでなくとも聞き馴染みはあるだろう笛のような音の後に、破裂音。
二発目、同じく。
三発目、甲高い音を聞いて、大輪が開いて数瞬の後、破裂音が
くしゅん!
来なかった。
そして本来ならすぐに枯れ落ちる筈の大輪が十数秒前と変わらず夜空に浮かんでいる。
おまけに何故か僕の視点も元の位置より随分高いところに上がり、下に体を置いてけぼりにしていた。
そして現在に至る、わけだ。
いや、「わけだ。」などと締めたところで一切この状況の意味は分かっていないのだけれども。
とにかく理解できたのは花火が弾けた瞬間、僕に音が届くまでの間に、どうも、どこぞのメイドよろしく時間が止まって、魂のようなものが体から追い出されたということだけだった。
くしゃみは古来魂を削るものだと信じられていたらしいが、こんなことってあるだろうか。
川の水は流れていないし、肌に感じる風は体を動かしても、何故だか強さも向きも変わらないままで少し気持ちが悪い。
辺りにちらほら居る、僕と同じく遠巻きに花火を眺めていた人達も精巧な人形のように固まっている。
纏めると、そういうことらしい。
もうあとは対処しようもなく、動く度胸もなく、ひたすら花火を見つめているしかなかった。
ただ、あんまりにも変わり映えがない光景が続くと多少冷静になるらしく
『現実に静止した「花火」を見る機会など、これ以後ありえるだろうか』
などと、現状に対してえらく呑気な疑問が頭に湧いてくる。
写真とはまた違う、「花火」そのものを留めた瞬間。
それを前にして我儘にも、味気ないなぁ、と感じた。
花火に限らず、写真を美しいと思うのはそれらがただ一瞬を切り抜いたものだからというのが大きいというのが僕の持論だ。
だからこう、眼前にこれ見よがしに一時停止されても間延びするというか、無粋というか。
誰にともなく失礼な感想を抱いていると、突然鼻がむず痒くなった。
勿論ホコリやらゴミやらが入った訳ではない。見えはしないがそれらも空中で止まっている筈ではあるし、そもそもこの状態で物理的な影響があるかも怪しい。
---くしゅ『パァン』
……いや。
爆発的なくしゃみをした訳ではなく。
凡そ二十分前には聞く筈だった破裂音が耳に届き、瞬きから目を開くと、さっきまでしつこく主張していた花火が綺麗さっぱり消えていた。
その後なんの変哲も無い四発目、五発目、そして小休憩。
なんだったのだろう。
何かこう、この幻想郷においても超常的な存在がいて、疲れていた僕にゆっくり花火を眺める機会をくれたのに、無粋だなんだと言い出したから機嫌を損ねたのだろうか。
とりあえず、周りを見回して、自然な動きを確認して安堵する。
しばらく観察も兼ねて居座っていたのだが、あれ以降はなんともなく、またいつも通りの帰路につくことになった。
僕のくしゃみに何か不思議な力でも宿ったのだろうか。普段の生活に支障が出るぞ。
モヤモヤしながらも、風呂に入り、仕入れ品の整理をし、寝床に入る。
目覚まし時計のカチリカチリという音を聞きつつ、折角なら花火の周りをぐるっと回ってみればよかったなぁ、と馬鹿みたいな後悔をしていると、また鼻がむず痒くなる。
花火が止まったとき、そして動き始めたときを思い出す。これは、もしや
カチリ、カチくしゅん。
カチリ、カチリ、カチリ。
結局時間は止められず、線香花火の玉のようにぽとりと洟水が垂れるだけだった。
くしゃみで時が止まるってホントなんなんだ……
すこし不思議なお話でした
霖之助が体験したことも、過ぎ去ってみてあれは何だったんだろうと思わせる素敵なものに思えました
くしゃみで時間を止められるって何なんだ…