Coolier - 新生・東方創想話

薄氷に頬染め、雪渓に血抜き

2020/11/20 21:40:02
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「死体は、御入用かな?」

「新聞よりは、使うかもしんねェな」



 囲炉裏にくべた、大分湿気を吸った薪がぱちりと跳ねて、木灰の紋様を上書きした。火炎の中には何条かの紅線が直上し、煤けた梁に刺さった。

 幾度繰り返したか分からない、冬の始まりの底冷えする寒い夜だった。その恐ろしい程の冷気の中で、山姥はチロチロと散る黄色い火を見ながら、室内を包み込もうとする眠気に抗っていた。

「けど、うちは別に山の芥場という訳じゃあない。そン所、おめェ分かってんだろうな?」

「分かってる。分かってるわ、勿論」

 言いながら、女は何が可笑しいのか、くす、と笑っていた。口を綻ばせて肩を揺らす度に、形を保った雪の結晶が、ゴザに降り落ちて、かんらかんらと散らばった。

「でも、見て頂戴よ。ほら、この立派な胸板。天日干しに最適だと思わない?」

「……まぁ、たしかに良いあんべェだが。だがね、なしてうちに持ち込む必要がある?」

「人から受け取った暖かな善意は黙って飲み込むもの。意味なんて求めてるうちに冷えきってしまって、喉を痛めるよ」

「ああ、まったく。三国峠の雲より強く押し付けとう、その善意は」

 隙間から吹き込む風はより一層強さを増し、重い音を立てながら山肌を駆け回っていた。小屋の周りを彩っていた、美しく霜に焼けた落ち葉も。全て吹き返してしまえ、とでも言うように。

「でも。そうね、あえて、理由を探すなら……久々に会いたくなったから、かもね」

「そう言って許されるのは男にだけだべ」

「あら、じゃああんたが男性だったら今も許してくれたの?」

「そういう話はしとらんだろうが」

 不機嫌そうに囲炉裏に追加の木炭を突っ込んだ山姥と対称的に、女はより楽しそうに、芝居がかった拍子で、

「そろそろ此方の男も待ち切れずに怒ってしまうかもしれないわ。ああ、こわい、こわい。折角新鮮なうちに連れてきてあげたのに、ねぇ?」

 と言った。

 戸に当たる雪音が絶えないほどに吹雪が強まり、茅葺の上から降ろしてくる風が、ミシミシと破風を軋ませた。



「火、絶やすんじゃねェぞ。吹き込みの風ですーぐ消えっから、気ぃつけろ」

 分かった分かった、とでも言うように、戸の隙間から、女が手をひらひら振っていた。

「……ったく、外に出た途端にこれだべ」

 山姥は、舌打ちと共にそう吐き捨てた。

 先程まで山姥の小屋を組み伏せようと唸っていた風雪は、空が覗ける程の穏やかな暗雲に変わっていた。

「山の天気は変わりやすいわね」

「白々しいんじゃ、こんハラグロが」

 女が辿ってきたであろう足跡も、引き摺ってきたであろう溝も、ふんわりと先程までの雪に覆われて、もう殆ど見えなくなってしまっていた。それでも、男の身体を覆い隠す程ではなく、雪とは明らかに異なる白色が浮かび上がっていた。

「布切れ一枚も羽織らんで。こんな冷たい布団だけじゃ、さぞかし寒かろ」

 寝息こそ立ててはいなかったが、男は真っ白な布団に包まれて、穏やかな寝顔を見せていた。

「これじゃあんまりにも侘しいべ。おい、服とかは無かったんか」

「ええ、最初から。一目見た時から素っぱで……準備万端といういでたちだったわ」

「……死因はそこか。こん冷たさじゃ、もうあっためても駄目だべ」

 山姥は男から雪を落とし、丁寧に全身を調べていった。傷一つ無い、綺麗な身体だった。ただ、雪も溶かせない暖かさしか残っていないだけで。今にも眼を開けそうな、五体満足の立派な身体だった。



 山姥は、鉈を両手でしっかりと握りしめ、軽く揺らして刃の雪と水滴を落とした。鉈の大きさに比べれば、人間の首は大根のように小さかった。

 上段に振り上げた鉈が一気に振り下ろされると、周囲の雪と共に、首はざくりと切断された。丁度断面を流れていた血が、行き場を無くして雪面にぴぃ、と撒き散らされた。そこまでは男はなんの抵抗もせず、無防備な夢の旅人であった。

 しかし、頸動脈が途切れたことを知った身体は一気に緊張し、四肢に向けて出鱈目な指令を送り始めた。首からどくりどくりと外界に向けて血が溢れ出ると共に、びくり、と全身が飛び上がっていた。

 山姥は、鉈と首を一旦横へ放ると、男に馬乗りになり、胴体を挟み込む。太腿でしっかりと下半身を留め、無くなった首の後ろに手を回して、肩を抱き止めた。

 冷え冷えする凍える世界に晒された断面からは、生命の源が流れていた。あと数十年弱を燃えるはずの蝋燭が急に太く短く成型され、紅い豪炎をあげていた。それは熊さえも屈服させてしまいそうな暴れ方であったが、山姥は重い胸でしっかりと男の肩を押さえ込んだ。

 脳が離れ、操る力を失った肉の塊。滅茶苦茶に放たれた電気信号は、統合という機構を一切に消失していた。そこにはただ、原始に返った人間がいるだけだった。

 山姥は、ただひたすらに、赤子をあやすように、よし、よし、と男を抱き締めていた。



 流れ出る血の勢いが弱くなり、次第に産声は途切れ途切れとなって、遂には眠りに付いてしまった。山姥の上半身は、溢れ出た血に塗れていた。

「辛かったなぁ。寒かったなぁ。うちがいるから、もう、大丈夫だぁ。安心してくんろ」

 結果だけを言ってしまえば、先程まで五体満足だった人間は、ただただ首の無い死体に変わっただけだった。しかし、そこにはどうしようも無く、死の匂いが纏わりついていた。



「いつ見ても凄いわねぇ。私、あんなに情熱的に動かれたら人間相手でも負けちゃうかも」

 ぱちぱち、と、場違いな拍手が戸の内側から響いた。

「暴れられると血が回って身が焼けちまうからなぁ。そうなっと不味くなっから」

 山姥は軒下から持ってきた甕を死体の脇に置き、傷を付けないように丁寧に内臓を取り出していった。甕には一通りの臓腑が収まり、塩と石と共に床下の暗所に封じられた。ここ数日は何も食べていなかったのだろうか、臭いも内容物も少ない綺麗な内臓だった。

「そういえば、人間相手だと血抜きもモツ抜きも沢へ行かずに家でするのね。どうして?」

「流水がありゃあ確かに楽だし肉質も上がるが。人間だと下流の妖怪を煽っちまうからなぁ。鹿や猪で熊が寄ってくるのはまだいいが、妖怪相手だと色々問題でな」

「あぁ、そういうこと。あんたでも気遣いじみたことするのね」

「でも、は余計だべ」

「というよりも、関わるのが面倒なだけか」

「一言余計だべ」



 下処理が終わった死体は、小屋裏で、雪をかけられて一晩を過ごすこととなった。山姥は一仕事を終えた弛緩に誘われ、くぁ、と大きな欠伸を出した。

「良いもの見させて貰ったわ。お疲れ様。それじゃ、お風呂にする?ご飯にする?それとも……」

「こんな血塗れの山姥、一緒に飯食っても抱いても楽しくなかろ」

 女に誘われることなく、相変わらず低い山姥の声が言葉を遮った。

「私は構わないけどね。じゃあ、一緒に風呂に入りましょうか」

「うちらが一緒に入ったら、お湯が残らんだろうが」



 結局、風呂から出た後も眠気が覚めず、女を追い出す前に山姥は眠ってしまった。

 山姥は、この、まるで何もかも怖くないような、何もかもを受け入れてしまいそうな。寝起きの女が苦手だった。



 翌朝。小屋の中から女は雪のように溶け消えており、良く冷えた死体と暖かい味噌汁だけが残されていた。

 味噌汁の中には、贅沢にも屋根裏に干していたキノコが全て入れられており、エノキとシメジの味がよく染みていた。






 厳冬期と比べると沢水の刺激は少しだけ優しくなった。山姥も冬の間は膝まで川に浸かることを避けているが、川での血抜きに挑戦してしまうくらいの、春が近づいた良い天気だった。

 猪の胸骨を両断し、腹を裂いていると、雪渓の向こうから、かぷかぷと籠のようなものが流れてきた。

 流水に揉まれて近づいてくるうちに、籠の隙間に色鮮やかな黄緑の芽が見えた。山姥は濡れたフキノトウ達を掬い上げ、誰かの落とし物だろうか、それとも上流で人間が沢に落ちたか考えた。

「おおい」

 上流に向かって、岩をも震わすような低い叫びが放たれた。しかし、その声に反応する者は誰もいない。

「ォおうい!」

 獣や鳥が逃げ出し、山彦のみが応える掛け声からは、少なくとも声の届く範囲には誰も居ないという事が読み取れた。その事実に、普段なら喜ぶ筈の山姥の心は弾まなかった。

「……うちのだなぁ」

 ぴんと芯が通っていて、天麩羅にしたらいかにも美味そうな。そんな苦味の少なそうなフキノトウだった。

「んだなぁ。ずうッ……と前から……この沢周りは、うちん縄張り、か」

 山姥は、昔、この沢筋に迷い込んだ人間に、フキノトウがどっさり取れる岩場があることを教えたのを思い出した。

 蕨取りに来て迷っていたらしいその男と山姥は、呑み比べで一夜を明かし、酒の勢いで山菜の穴場を教え合った。

 里側から稜線を辿ってくれば、さほど危険箇所を渡らずにたどり着ける岩場。山姥の小屋から稜線に出るなら、大きな回り道になる、ずうっと奥まった上流にある、高い岩壁に囲まれた岩場。

 この沢には上に上がれる道は少ない。仮に、人間が岩場から沢に転落していたとしたら、手負では脱出は不可能であった。

 フキノトウは、濡れてくたびれてはいたが、今朝方取れたくらいの瑞々しさを保っていた。それを幾つか懐に入れると、山姥は猪をその場に捨て置き、小屋に戻る道を辿っていた。



 木綿の靴下の中にタカノツメを入れ、油紙でその周囲をぐるぐると何重にも覆う。草鞋底を噛ませた革長靴を履き、靴と靴下の隙間を烏が置いていった新聞紙で詰める。

 妖が悪戯で人から奪ったフキノトウを沢に捨てていったか。それとも、ただ単に、採った後に籠を不手際で沢に落としてしまったのか。

 どうか、そんな笑い話で済んでいて欲しい。この先向かう沢の向こうに、人間なぞ居なければいい。そう願いながら、山姥は装備を整えた。

 そうしてこの季節にはやや暑いくらいの二重の毛皮を着込み、山姥は沢へと入り込んでいった。



 暫くは山姥が猪を処理していた河原と変わらず、やわい沢だった。うっすらと化粧する程度の雪被りになっていたのは、まだ幸いだった。

「誰か、居らんかぁ」

 上流に顔を向けてゆらゆらと早瀬を泳いでいた鱒が、山姥の声を聞いて対岸の岩陰へと移動していった。

 枯れかけの苔むした岩は、滑る可能性が高く、山姥はなんとか草鞋の筋を岩に引っ掛けて進んでいった。水に落ちれば自身も危険なのは言うまでもないが、何よりも今の山姥は、救出時に使う毛皮を濡らしたくなかった。

 岸の断面が赤茶けた土に変わると、山姥の背丈よりも大きな滝が、此処より上部の集水域全てを支配した顔で威張っていた。浅層の雪溶けも混じっているのか、人間ならアッサリと押し流されてしまう位の強い奔流だった。

 横の枯藪跡を高巻いていくのはまだ簡単だったが、辿る道は徐々に厳しくなっていった。



 視界に占める空が、出発地点よりも半分程に狭くなった。水量は目に見えて少なくなってきたが、その勢いは反比例して増し、枝沢の滝から飛び散る飛沫が山姥を濡らした。

 大きな岩を一段登ったその先に見えたのは、高巻きし難い急峻な谷に挟まれた地形だった。岸は両方とも雪に覆われた灌木で深く包まれており、避ける道筋は見当たらなかった。

 運の悪い事に沢も滑りやすいナメ床になっており、浸水覚悟で水中へ突入するしかないものの、山姥は此処でかなりの時間を浪費した。歩きやすい岸を見つけるまで、滑らずに沢底を歩き続けるのはとにかく神経の削れる行程だった。



「なァしてこういう時に限って、烏が来ん?」

 漸くたどり着いた砂が溜まった広い平瀬の縁で、濡れた靴を一度脱ぎ、手持ちの新聞紙を新しく詰め直した。もはやどうにもならない苛立ちを、烏にぶつけるしかなかった。

「どうでも良い時に来くさって。なしてこん時に……」

 新聞名の隣には、鹿を解体しているときにやって来て、人がまだ作業中なのに『カメラ写りが悪いので、もうちょい血を拭ってくれませんか』と吐き捨てた失礼な烏の名前が刻まれていた。

「……っ。駄目だなこりゃ。笠も被ってくりゃ良かったべ」

 かいていた胡座の上に乗せておいた、交換用の新聞の文字が滲んでいた。勿論、それは下を流れる沢によるものではなく、空から降って来た雪によるものだった。

「まーだ、寝てねェんかあいつは」



 ますます両岸壁上の森林が近づき、空を覆う面積が増した。この辺りからは山姥でも崖上に登ることは困難なので、現状で一つも人間らしき踏み跡を見つけられていないのは致命的であった。

「朝方に沢に落ちてたとすんば、御陀仏だべなこりゃ」

 架空の遭難者に残る、死以外の可能性としては、この先に降りることが不可能な大滝があるか、それとも怪我で下る事さえできない状態なのか。恐らくどちらにしても、絶望の色が濃かった。

 沢の底は上流から下って来た転石ではなく、両岸とも繋がっているであろう岩盤質の岩に変わっていた。強まる雪と共に、山姥の踏み出す一歩はいよいよ狭まっていった。

「こりゃあ烏も飛ばねェなぁ……」

 寒ィ、寒ィ。何度も何度も、魘されるように山姥は言った。繰り返される水中散歩によって、交換用の手持ちの詰紙はとうに尽き、靴下に巻いていた油紙もふやけてしまっていた。それでもまだ、目的地と想定されるフキノトウの崖下までは距離があった。

 水に晒される冷たい脚と、二重の毛皮に覆われた暖かい身体は、山姥に病で寝込んでいる時の布団の中を思い起こさせた。



 現れる滝が当たり前に山姥の背の数倍をゆうに越すようになった。まともな高巻きの道形も見えず、一旦来た道を降って、取り付けそうな脇に生える灌木を掴み、木の根の上を渡っていくしかなかった。悉く谷筋へと角度を付けて成長している灌木達は、かえしのように進行を妨げ、山姥の顔に幾筋もの切り傷を付けた。

 そうやって灌木達の根を足場に、枝葉を潜り抜け踏み越した先が降りられない深い淵になっていたりと。木々が導く藪の緩い箇所が、必ずしも正解に辿り着くとも限らない。山姥は行き止まりに当たっては灌木の拍手を受けに戻り、ようやく視界の開けた岩の上に降りた。

「おうい……おうい!……誰か居らんか。誰か……くそッ」

 そこからもやはり人と思しき踏み跡は確認できず。穴無しか、早起きな熊が倒木に付けた爪痕しか見つからなかった。



 連続する滝が見えなければ、もはや沢中を強引に歩き続けた方が良いのは山姥も承知していた。しかし、岸に緩斜面を見つけると、山姥の脚はどうしてもそちらに向かってしまっていた。ひゃっけェ、ひゃっけェと、雪と冷水を食べた膝が笑うものだから、その反射に抗う術は無かった。

 沢中から先を覗いた時に見当を付けた、灌木のラインを辿る為に、邪魔な枝葉を鉈で切り払い、時には木ごと切り倒して沢底に降りる足掛かりとした。



 何本の滝を越えた後か、山姥はもう数える事も出来ていなかったが。大小の倒木が折り重なって構成された、自然の堰に行手を遮られた。元々存在していたであろう水の道筋は見えず、通り過ぎてきた後方の土砂の隙間からこんこんと、膨大な量の水が湧き出ていた。

 木々を乗り越えていくことは然程難しいことでは無かったが、いよいよ脚の震えが限界に達していたので、山姥は此処で倒木を腰掛けとして小休憩を取ることにした。

「こいつは久々に……こええ道だべ」

 二重に羽織って来た毛皮のうち、外側の毛皮を使って脚の水滴を拭った。毛皮自体も既に雪に濡れていたが、何もしないよりはマシだった。

「うちが小屋を出て来たのが、だいたい昼前。しかし、こん空じゃ……」

 山姥が見上げた空は、灰色の地が白斑に覆われており、太陽の位置は掴めなかった。

「分からん、が……まだ夕刻にはなってないはずだべ。まだ先に……」

 先に進める。たしかに、そうであった。山姥一人ならば目的地まで行って折り返してくるのも、訳ないであろう。しかし、遭難者が同伴で、と条件が付くと、話は変わっていた。



 今から助けに行って間に合うのだろうか。

 どうせ、死んでいる。

 死体に会ってどうするつもりだ。

 誰も気付いていない。

 自分以外の、誰も知らない。

 助ける義務が。助ける義理が。本当にあるのだろうか。

 あの、一夜を呑み明かした男の子孫でも関係者でもない。脅した、強請った穴場を使う、密猟者かもしれないじゃないか。

 そもそも、本当に。本当に、この先に遭難者が居るかだって、ハッキリしないじゃあ、ないか。



 一度身体を止めると、衣に染みた汗の冷たさが山姥の全身を包んだ。それと共に生まれた、様々な寒い感情が心をよぎった。

「そだなァ。確かに、そうだ」

 臆病な風が、ひゅうひゅうと。

「……」

 山姥の頰を撫ぜて、先程付いた切り傷が泣いていた。

「……でもな」

 寒ィな、ひやっけぇな、と。まだまだ脚は騒いでいた。

「一度世話は焼いちまった。それだけは、自分に誤魔化せねェべ」

 山姥は、懐に入れていたフキノトウを生のまま齧った。味はしないが、シャキジャキとした新鮮な繊維の感触が舌に残った。硬い芯の部分を吐き捨てると、山姥は上流を向いて立ち上がった。

 目の前のこの倒木も、いつかの異常気象で倒れたりしたのだろうか。いつの日か、この堰を起点に運搬堆積していく土砂で、フキノトウの崖も埋もれてしまうだろうか。そうやって視点を変えてみると、山姥の心は少し軽くなった。

「……あの崖を下から見上げようなんて、気でも狂っとらんと思い付かんからな。珍しい機会には違いねえ」

 足指の先から伝わる、熱を乞う震えを、武者震いだと決め付けて。あと一息だと鼓舞して。

 雪が斜めから降り掛かり、眼に当たっては体温を奪う。再び前進が始まった。



 連瀑地帯を抜けたのか、目に見えて直登出来なそうな滝はもう現れなかった。左岸に右岸に小高巻きを繰り返し、包囲の薄い灌木の合間を縫って行く。地形的にはここまでの難所よりずっと楽で、幾分か時間を節約出来た。

 樹林帯が遥か見上げた先になり、沢底と森の距離を随分と稼がれたところで、両岸の根元が大きく削られた地形に変わった。元々の地盤線を水の作用により深々と抉られているようで、崖上からなら、きっと怪しい雪庇の上にいるように見えるであろう。

 そして、この地形には山姥も見覚えがあった。視点は異なるが、いつもいつも通った小径の道中で見下ろした光景だった。

 着実に、山姥の終着点は近づいていた。



 滝を登り、回廊状の沢を右左岸に渡り、と、先を見通せなかった立体的な沢を映していた山姥の視界に。突然、U字に近い断面の広い沢が現れた。

 やや大きな沢の出合も前方に見え、いかにも等高線が密そうな崖が四方を囲んでいる。

 この先であった。

 雪を被った崖上のフキノトウが。間もなく目に入る筈だった。

「居る……か」

「……居らんか」



 ちゃぷ。ちゃぷ。

 既に、山姥には道も沢も違いは無かった。全ては沢底と岩間に平等に存在し、混沌と混ざり合っていた。

 ぢゃぷ。ぢゃぷ。ぢゃぷ。

 濡れた脚が、止まらぬ前に。凍えてしまう前に。前に踏み出す。

 じゃぽ。じゃぽ。

 脚を止めれば、そのまま時が止まってしまいそうな。それ位に寒かった。

 ジャボジャボジャボジャポ。

 魚を踏みつけようが苔で滑ろうがお構い無しに、無茶苦茶に脚を動かして。

「誰か!!居らんかァ!!!」

 山姥は、水流を真正面から受け止めながら進んでいく。精神的にも肉体的にも、もはや待つことは不可能だった。

「助けに、来たぞォ!!!」



 合流する瀑布の音に掻き消されながらも、見通しの良い谷に山姥の叫びは良く響いた。

 そうして暫く山彦と話していると、雪の乗った風の音の中に、子供の声が微かに混じって聴こえていた。



 その声は一回しか聴こえなかった。広い岩陰に横たえられていた裸の少年の姿を見つけると、山姥もすぐにそういう状態なのだ、と分かってしまった。

「頑張った。頑張ったなぁ、ほんによう、頑張った。もう、大丈夫だぁ。うちがいるから、うちがいるから……」

 だから、安心してくんろ、と。届いているかは分からないが、山姥は優しい声色で語りかけた。



 少年に覆い被さった雪を払い除けて、濡れた毛皮を岩と自身の間に掛けて簡易の覆いを作る。そして、ここまで守り通して来た二枚目の毛皮で、少年の濡れた肌を拭いた。あちこちに擦り傷や内出血が見え、川に沈んでいた棒切れと何ら変わりない感触は、生を感じさせるものでは無かった。

「……遅れて、申し訳ねェべ」

 山姥は衣をはだけて、素肌のまま腕と胸の間に少年をひしと抱き締めた。常温を生きている生物である山姥の心の臓腑に、酷く冷たい針が突き刺さった。

「ごめんな、ごめんなァ……」

 ここまで沢を登って来たことで、早鐘のように胸は鳴っている筈なのに。どくどく、トクトクと、まるで雪渓に血が抜けていくかのように、山姥の体温は下がっていった。



 少年は恐らく家族であろう誰かの名を微かに呟くと、びくり、と震えた。

 山姥の胸の中で、それきり少年は動かなくなった。

 初冬に首を切った男よりも、ずっとずっと冷たい身体だった。



「くろまく〜」

 少年を抱きしめて座り込んだ山姥の背後。枝沢にある、凍りついた滝から飛び散る氷柱の上に、女は座っていた。

「やっぱり子供って保温力が低いのよね。肉厚というものは偉大だわ」

 ふわり、と、女が岩場に飛び降りると、周囲を散る雪の結晶が一回り大きくなった。

「……やっぱ、おめェ。まだ起きてたんだな」

「ええ。共に眠ってくれる好奇な旅人を探してて」

 山姥は、振り向かなかった。女はそれを気にも留めず、上流左岸側の崖上を指した。

「その子。朝からずうっと、あそこのフキノトウの崖の……下の方にある灌木に掴まっていたのよ。助けを待っていたのかしら。一人で来たのか、既に同伴者も死んでるのか分からないけど。限界だったのか、とうとうずり落ちてしまって」

 女が沢中へと一歩脚を進めると、その足元から八角形の氷床が形成され、忽ち周辺の流水が不動の足場へと変貌した。

「昼間の好天で溶けちゃったから、今はもう見えなくなってるけど。朝方は、こういう風に沢の淀みに薄氷が貼ってたのよ」

 女の真下で揺らいでいたウグイが半身を氷に閉じ込められ、尾ひれを必死に震わせていた。

「氷の下が見えないから……此方の岩場まで渡渉出来ると思ったんでしょうね。でも、そうはならなかった。子供さえ支えることの出来ない薄ら氷を踏み抜いて、冷たい冷たい沢へと落ちてしまった」

 びち、ぴち、とウグイが水を掻く力は徐々に弱まり、冷気に包まれた頭部から順々に仮死状態へと移行していった。

「その時に、もう。助からないと思ったから。私、あの子を掬い上げたの。私の手に温度が逆に残るくらい、脇腹が冷たくなっていたわ」

 そうしてまた、女はもう片方の脚を上げて、対岸に向けて、とん、とん、と飛んだ。

「暫く膝の上に寝かせていたら。身体を掻きむしって、衣を引きちぎり出して。いつもの皆と、おんなじ。だから、私。あの子を抱いたの。皮膚より下の深部の体温が伝わってきて、とても心地よかった」

 水切りの平石のように、女の爪先は軽く水を切った。飛沫は一瞬にして氷の礫に変わり、水中の微生物を押し潰した。

「でも……あんたが来てしまった。来てしまったから。私が居なければ、私が抱かなければ。間に合っていた筈だから。助かる筈だったから」

 女は、沢を舞台に、吹雪のカーテンの向こうで、少しだけ申し訳無さそうな顔で、

「だから、本当に……今日という日は。私が黒幕なの」

 と、言った。

 女が既に忘れてしまった氷の下で、カゲロウの幼虫が、ウグイをつんつんと摘んでいた。山姥はただただ俯いて、少年の顔を眺めていた。



「泣いてるの?」

「……いんや?」

「冬山で流す涙なんて、身体を冷やす効果しかない。せっかく端正な顔立ちをしているんだから、そうやって、切り傷の上から腫れさせるのはよくないよ」

「はっ。清水峠の隧道より冗長な世話だ、そりゃ」

 山姥の肩は3種類の震えが混ぜられて、少年の凍って脆くなった髪の毛を、ぱさぱさ揺らした。

「こういう思いをするのは初めて?」

「いん、や?……でも、まぁ。こんな稚児を巻き込んだのは……初めてかもしんねェな」

 女は沢から上がり、山姥の背後に立ち、定位置が決まらない肩をぽふぽふと叩いた。

「まぁ、でも。今回は私の『お陰』で良かったわ。あんたって、狡いし。ちょっといい気味、見てもらうって事で」

「……狡い?」

「ええ」

「狡い、か。うちが」

「そう……狡いのよ、ほんと」

 女は沢を横目に氷を探すと、先程乗っていた薄氷が遥か下流の早瀬に呑み込まれている姿を見つけた。

「"こほりわたれる、うすらびの"」

 詠うような調子で、女は言葉を発した。何かの詩の一節だろうか、山姥は分からなかった。

「冬山に生きる私たちはいつだって。下が見えない薄ら氷の上に立っている。上から下へは落ちることが出来るけど、深い冷たい沢の水からは決して這い上がることは出来ない、一方通行。共に氷を歩もうとすれば、忽ちその薄ら氷は重さに耐えきれず砕け散ってしまい、ただ一緒に落ちるだけ」

 水中に漂うウグイの半身は、浮遊砂と虫の双方に侵食され、その身をさらに半分に擦り減らしていた。

「冬から次の冬へ。前の季節には戻れない。抱いたら凍りついてしまって。血の通った身体には戻らない。遭難してしまったら。雪庇を踏み抜いてしまったら。雪渓に落ちてしまったら。人間は家に戻れない」

 女は顎を山姥の頭上に乗せて、ふう、と白い息を吐いた。

「だと言うのに、あんたは。山の四季をゆっくり味わえるし。雪渓をものともせず登って来るし。会った人間の子孫にまた会えるし。狡い、狡いわ。あんたは狡い。なんて自由なんでしょう!」



 山姥は、ようやく顔を空に向けて、目元を雪で腫らしながら言った。

「たしかにおまえよりは自由かもしんねェな。でも、こう見えてうちだって困ってんだべ」

「嘘。嘘よ、そんなの」

「まず。うちは時間に縛られてる。どんなに過去を後悔しても、河の流れが遡ることはねえべ」

「そんなの当たり前じゃない」

「うちは土地に縛られてる。おめェは人里に降りてるが、うちは山を降りることはねえ」

「山姥だから当たり前じゃない」

「そして何より。うちは……うち自身に縛られている」

「何を言っているの?」

「耳をかっぽじって、よぉく聞け。ここだけはおまえに否定できねぇ」

「待って。耳に雪が入ったわ」

「うちがなんで、本当に人里離れた山奥に聖域を作って閉じ籠らずに、こんな所で暮らしているのか。それは、うちが、人間に縛られてるからだ」

「あんたが?」

「あぁ」

「人間に?」

「あぁ!」

「縛られてる、って具体的に言ってどういう意味?」

「……」

 山姥は、ズズッと鼻を啜って、赤く染まった顔を俯けた。その目先には、青白い顔をした少年の顔があるだけだった。

「……あぁ。あ、はは」

 ころころ、からからと。

「あはは、ははは!!」

 曇のない氷が、冷たいグラスの中で揺さぶられた。

「あはは、そっか。私と同じか!……やっと、分かった。あんたって、結構可愛いのね。綺麗な外見に似合わず!」

「だから、言葉が多いんだべ、おめェさん」

「そう、そっか……長い間不思議に思っていたけど、やっと気付いたよ。なんで、あんたが人間を食べるのか」

「山小屋に人間を留めてはいけねぇ。助けた人間には2度と会ってはいけねぇ。おめえに想像できるか?」

 谷底に溜まっていた冬の気配が、女の笑い声に合わせて払われていった。

「なんて単純なことだったのかしら。私と違って、一方通行だから……だから、辛いんだ。だから、一緒なんだ。ふふ、可哀想」

「……お前さんも……いや。あんたもな」

 からんころん、という氷の転がる音に耳を傾けていたのは、いま、この谷底で。山姥と少年だけだった。



 女が山姥から離れると、先ほどまで吹雪いていた空が嘘のように晴れ晴れして、谷筋は稜線よりも一足早い夕方が訪れていた。

「もう、行くんか?」

「うん。もう眠たいから。この子はあんたに任せて、今年は独りぼっちで寝ることにするよ」

「眠りに入る時だけなら、うちが一緒に寝てやってもいいべ」

 女は、山姥のその言葉を聞いて仰天した。

「ちょっと、辞めてよそんなこと言うのは。いくらなんでも弱らせ過ぎたかしら」

「……らしくねェか?」

「ええ、気持ち悪いから本当に辞めて頂戴。あのね、そもそも……今のあんたは私のタイプじゃないのよ」

 さり、さり。雪を踏みしめて、一歩ずつ、名残惜しそうに、女は山姥から離れていった。

「私のお眼鏡に叶うのは、そうだなぁ、あんたなら……真冬に大きな湖の上に行ってご覧なさい。ワカサギ釣りの穴から冷たい大穴に落ちてご覧なさい。そうしてずぶ濡れになって、大声で醜く助けを呼び散らかしてご覧なさい」

 女が登る先が、枯沢なのか、ただの凍りついた滝なのか。暗くて、山姥の目からは判断出来なかった。ただ、水の無い沢だけがそこにあった。

「誰も来ない?……半径五里に人影が無い?……私しか頼る人が居ない?……だったら私を呼んでもいいわ。先約だって無視しちゃって。吹雪に乗って、あんたの元に飛んできて、抱いてあげる」

 女の声は、段々と掠れ始めて、

「強く強く、抱き締めてあげる」

 その言葉を最後に、去年の冬はもう、山姥の前に現れることは無かった。



「あぁ、ひゃっこいひゃっこい。だから、ああいう手合いは苦手なんだべ」

 汗と雪で濡れた身体は、いよいよ夜の闇に包まれれば、いかに山姥とも言えども冬を呼び起こす羽目になるだろう。

「寒ィな」

 堰にも止まらず。氷でも固まらず。沢は、これから3つの季節を越えることを確信させるように、さらさらと流れていた。

「あんなこと言っちまったのも。こんなこと言っちまったのも。皆、みーんな。寒さのせいだ。ったく、長過ぎるんだべ、この沢は」

 鉈に付いていた枝葉やヤニを沢で綺麗に洗い流し、下段から頭上まで一振りすると、水滴は対岸にまで到達した。

「……今回はうちに食う資格は無え。この沢に任せるべ。河の向こうで、また、生きてくんろ」



 タァン、と雪渓に響いた音は、近付いた春に呼応して強まった、瀑布の轟音に消え失せて。

 紅いまだら模様の中に、フキノトウがぽちゃりと落ちた。


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コメント



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2.100水十九石削除
序盤のレティとネムノのどことなくぎこちない、妖怪然とした姿のその拙い関係性が終盤の会話ではっきりと明確な線を持って知らされる物語の構成が良かったです。山姥としての人間への情も人喰いとしての凶暴さも兼ね備えているからこそ両方に線引きをしてかつ縛られるネムノと、ただただ雪女としてそこにあって季節にしか縛られないレティでは成程そうなる訳だとも。だからこそ両者の魅せる優しさは厳冬の中での紅のように映えていました。
そして何よりもネムノの視点から描かれた冬の寒煙迷離の大自然の美しさたるや。山々の中に存在する色々な情景は色彩も漫ろとは言えど、水源と山肌の豊かな表情が丁寧に描かれている様子は妖怪の山であるにも関わらず実物に足を踏み入れているかの様にさえ思わせてくる程でした。
キャラクターの立て方と風景描写が巧みな構成で、こんな秋真っ只中だと言うのに冬の厳しさと春の訪れを同時に感じさせてくれる良さがありました。面白かったです、ご馳走様でした。
3.100夏後冬前削除
生活感と自然の厳しさが伝わってくるようで非常に良かったです。
4.100ヘンプ削除
最高でした
5.100名前が無い程度の能力削除
愛が重い……妖怪々々している二人が素敵でした。
山の生活感も出ていて見事の一言です。
6.100KoCyan64削除
レティとネムノのやり取り、生活感や自然描写に文章がとても綺麗でぐいぐい読めました。
また冬の厳しさ、人間、ネムノさんの叫びなど、最初から最後で面白かったです。
7.100めそふらん削除
大自然の美しさと残酷さを同時に表現した描写が本当に凄かったです。
妖怪と人間の関係、生と死というテーマを何処までも壮大に感じさせられました。
最高です、ありがとうございました。
8.100Actadust削除
人の生き死にが、妖怪二人の視点で生々しく描かれている、そのリアリティさに惹かれました。まるで自分がそこにいて肉を裁き雪山を歩いているような、リアルで美しい地の文もよりこの作品のリアリティさを引き出しているように感じます。
どこか割り切れずにある種人間のように苦悩する二人が素敵でした。楽しませて頂きました。
9.100南条削除
とても面白かったです
恐ろしくも美しいお話でした
ネムノさんが沢に向かおうとするときに装備をひとつひとつ身に着けていくシーンが素晴らしかったです
12.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
13.100ユウマズメ削除
山の二人がよかった。