ぶっと藍様が噴き出した。
先ほど私が湯呑に注いだのは、お茶ではない。それは匂いや温度までお茶のソレと同じにした、酢だ。藍様は湯呑を持ったまま、私を静かに見据える。
「…橙」
「はーい!何でしょう?」
「この莫迦!」
そんなわけで、今日もまた叱られた。というより自分から叱られにいった。イタズラ成功だ。いえーい。
———
マヨヒガ、その中の廃墟の、さらにその一室にそれは住んでいる。というより私が匿っている。
「ちゃんと一泡ふかせたか?」
「酢を噴かせてきました!」
「よし!」
そう言って正邪は私にヘッドロックをかまし、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でる。これが正邪なりの“よしよし”なのだ。
どうして私と正邪との距離がこんなに近くなったか。その理由はちょっと前に遡る。
輝針城と呼ばれる城が顕われて、付喪神やら下級妖怪やらが調子に乗った異変があった。そこにはとある小槌の力が関係してたらしいが、重要なのはその小槌を使わせた者で、使った者はそいつに唆されていたらしい。
いわく、鬼人正邪。天邪鬼。
それを捕まえるために幻想郷総出で追跡した。見つかるには見つかるのだが、どうにも逃げられる。そんなことが十日続き、皆が飽きてきたところでそれとなくお開きになったらしい。らしいというのは、私はずっと正邪を追い続けていて、他の奴らのことなど視界に入っていなかったからである。
走って々って、ようやくその姿が目に入ったとき、私はさらに加速して正邪の真ッ正面に立ちふさがった。
「お前、なんでそんな事してんだ」
開口一番、正邪はそう言った。
「そんな事って、何の事」
「そのままの意味だよ」
「意味が解らん。おとなしく捕まれ」
やれやれ、と言いたげに正邪は首を振った。畜生のくせにな、とも言った。小声で言ったつもりだったんだろうけど、猫の耳には届く。
「畜生だからなんだと言うんだ」
「気に入らない。畜生のくせして御高くとまってるような奴はな」
いったい何を言ってるんだこいつは。御高くとまってる?私がか。
「畜生なんてテキトーに生きてりゃいいんだよ。式神なんてのは、タダの飼い殺しだろうが」
「何を物知らぬことを。式神になったからこそ、今の私がある」
「あーあー、聞きたくない。いま言ったろ、畜生に論理はいらねぇんだよ」
私を舐めているのか。頑なに畜生呼ばわりしやがって。化け猫を下に見る、天邪鬼風情が。そんな汚い言葉が、私の頭を満たしていく。
だが、舌先三寸で転がされるほど、私は丸くない。冷静にいなそう。コイツはただ、私を挑発して逃げおおせようとしているだけだ。
「そういう事にしてやるよ。で、もう捕まえていいか?」
「別に。捕まえるな、なんて言っちゃいない」
飛び掛かる。てっきり抵抗するかと思っていたのに、正邪は何もしなかった。あっけなく取り押さえる。
「どうせだ。イイ事教えてやるよ」
「言ってみろ」
「式神ってのは、長く続けると自我が無くなるらしいぜ?」
動きが止まる。一瞬思考が止まる。
自我が無くなる?
「……どういう事だ」
「あの狐、可愛そうにな。元はあんなじゃなかったらしいが…まぁ、私の知った事じゃない」
藍様が、前は違った?
どういう事だろう。この天邪鬼は、いったい何を言っているのだろう。
「お前は、どうしてそうも式神を知ってる?」
「頭いいからな」
腹が立つ。いや待て、冷静になれ。何を巫山戯たことを吹いている。どうせ嘘をついているだけだ。考えが分離し、相反する。コイツの言っていることを鵜呑みにするのか。どうせデマだろうに。だが、本当だったら。その先は。
「何を悩んでる。お前のやる事は一つだろうが」
うるさい、黙ってろ。今考えてるんだ。
「私を解放しろ。そしたら、お前を助けてやれる」
うるさい。黙れ黙れ黙れ。
———
「廃屋じゃねぇか。いや、レトロ風か」
「うるさい」
「うわ、柱腐ってらぁ。建て直せよ」
「触るな」
マヨヒガの一室に入れる。もしかしたら、正邪を匿うなんて事はすぐにバレるかもしれない。でも、私にとってはどうでもいいことだ。
重要なのは、正邪の言う式神についてだ。自我を失うのは嫌だった。そうならないために、私は何をしたらいい。
「単純だ。イタズラだよ」
「…はぁ?」
「冗談じゃないぞ。式神ってのは使役されるもんだから、イタズラなんてのはしないのさ」
極端な話、奴隷が主にイタズラをすれば、それは反抗心の象徴だということに他ならないと、正邪はそう言った。
続けて、式神はその主従関係というものをもっとも単純に表したもので、従う理由すらも式神にはない。だからこそ反抗すればあっさり崩れる関係なのさと、そう結んだ。
はっきり言って信用ならなかった。そも、正邪の言うことをあっさり信じる気にはならなかった。それでも私は試してみる事にした。別に信じたわけじゃない。まぁしてやってもいいか、くらいの事だったからするだけだ。
それから、私はずっとイタズラを続けている。いや、続けていた。
付け焼刃の反抗心がいつまでも続くなんて事はなかったのだ。その内にイタズラをする気持ちも掠れてきて、どうしてイタズラをし始めたのかすら忘れていった。
そして、私は本格的に妖術の勉強を始めた。立派な式神になるために。
妖術修行に没頭すると、当然正邪とは不仲になっていった。別に悪口を言い合うとか、そんな感じではなかった。ただ、お互いに近づかなくなった。私は正邪と話さなくなったし、正邪も私と話さなくなった。ならマヨヒガを出ればいいのに、と思ったけど、なぜか正邪はそうしなかった。
このままズルズルいくと本当に亀裂が入りそうで、少し怖くなった。まだ取り持てると高をくくっていると、手遅れになりそうだと予感した。私はマヨヒガに向かった。
正邪は、子猫と遊んでいた。
———
―ふあぁ。
夢を見てたよ。随分昔の事。
ねぇ、正邪。最初、私達が逢ったときのこと覚えてる?私はよく覚えてるんだけど。
覚えてない?まぁ、そりゃそうだろうね。その方が正邪っぽいよ。
ほら、私がアンタを追ってたでしょうが。お尋ね者をひっ捕らえろ、って言われてたから。
そんで初めて私と逢った時、アンタが言ったじゃん。
「お前、なんでそんな事してんだ」って。
そりゃ困惑したさ。だって、何の脈絡もなく言われたからね。しかも初対面で。詳しく聞いてみたら、式神なんて、一方的に扱われるだけの生き方で何が面白いんだ、なんて。あん時に言いくるめられたの、今でも悔しいよ。
そっから下らんイタズラばっかしてたもんねぇ。その度に怒られたけど、怒らせるのが目的だったし、逆によっしゃ、ってなってたよ。そうそう、いったい誰に似たんだろうね、って怒り文句ね。心の中で「正邪に似たんだ」、ってずっと言ってたよ。あのイタズラ、紫様や藍様に吠え面かかす為に私にさせたんだろう?まぁ、いいけどさ。私が口車に乗せられただけだし。
で、私が妖術の勉強を始めると、アンタとあんまり逢えなくなって。悪いと思ってるよ、勿論。でも、さ。わかってよ。私だって成長しないとなんだから。それに、やり直そうと思ったらやり直せたのに。あぁ、アンタが悪いみたいな言い方しちゃったね。ごめんごめん。全部私が悪いのに。
あの子猫、私の代わりだったんだろう?妬いたなぁ。だってアンタ、情けない顔してたよ?あんなに素直になれたんだね。何が天邪鬼だか。あはは、ごめんって。せめて憎まれ口くらい聞いてよ。
お前と話すことなんてない?
…そうだろうね。全部、口車に乗った私が、アンタを許せなかった私が、醜い私が悪いんだから。ちゃんと背負うよ。これからも、心を痛めていくさ。
じゃないと、私が殺したアンタに悪いからね。
え?独り言なら一々話しかけるなって?いいじゃん、私だって天邪鬼なんだから。
先ほど私が湯呑に注いだのは、お茶ではない。それは匂いや温度までお茶のソレと同じにした、酢だ。藍様は湯呑を持ったまま、私を静かに見据える。
「…橙」
「はーい!何でしょう?」
「この莫迦!」
そんなわけで、今日もまた叱られた。というより自分から叱られにいった。イタズラ成功だ。いえーい。
———
マヨヒガ、その中の廃墟の、さらにその一室にそれは住んでいる。というより私が匿っている。
「ちゃんと一泡ふかせたか?」
「酢を噴かせてきました!」
「よし!」
そう言って正邪は私にヘッドロックをかまし、わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でる。これが正邪なりの“よしよし”なのだ。
どうして私と正邪との距離がこんなに近くなったか。その理由はちょっと前に遡る。
輝針城と呼ばれる城が顕われて、付喪神やら下級妖怪やらが調子に乗った異変があった。そこにはとある小槌の力が関係してたらしいが、重要なのはその小槌を使わせた者で、使った者はそいつに唆されていたらしい。
いわく、鬼人正邪。天邪鬼。
それを捕まえるために幻想郷総出で追跡した。見つかるには見つかるのだが、どうにも逃げられる。そんなことが十日続き、皆が飽きてきたところでそれとなくお開きになったらしい。らしいというのは、私はずっと正邪を追い続けていて、他の奴らのことなど視界に入っていなかったからである。
走って々って、ようやくその姿が目に入ったとき、私はさらに加速して正邪の真ッ正面に立ちふさがった。
「お前、なんでそんな事してんだ」
開口一番、正邪はそう言った。
「そんな事って、何の事」
「そのままの意味だよ」
「意味が解らん。おとなしく捕まれ」
やれやれ、と言いたげに正邪は首を振った。畜生のくせにな、とも言った。小声で言ったつもりだったんだろうけど、猫の耳には届く。
「畜生だからなんだと言うんだ」
「気に入らない。畜生のくせして御高くとまってるような奴はな」
いったい何を言ってるんだこいつは。御高くとまってる?私がか。
「畜生なんてテキトーに生きてりゃいいんだよ。式神なんてのは、タダの飼い殺しだろうが」
「何を物知らぬことを。式神になったからこそ、今の私がある」
「あーあー、聞きたくない。いま言ったろ、畜生に論理はいらねぇんだよ」
私を舐めているのか。頑なに畜生呼ばわりしやがって。化け猫を下に見る、天邪鬼風情が。そんな汚い言葉が、私の頭を満たしていく。
だが、舌先三寸で転がされるほど、私は丸くない。冷静にいなそう。コイツはただ、私を挑発して逃げおおせようとしているだけだ。
「そういう事にしてやるよ。で、もう捕まえていいか?」
「別に。捕まえるな、なんて言っちゃいない」
飛び掛かる。てっきり抵抗するかと思っていたのに、正邪は何もしなかった。あっけなく取り押さえる。
「どうせだ。イイ事教えてやるよ」
「言ってみろ」
「式神ってのは、長く続けると自我が無くなるらしいぜ?」
動きが止まる。一瞬思考が止まる。
自我が無くなる?
「……どういう事だ」
「あの狐、可愛そうにな。元はあんなじゃなかったらしいが…まぁ、私の知った事じゃない」
藍様が、前は違った?
どういう事だろう。この天邪鬼は、いったい何を言っているのだろう。
「お前は、どうしてそうも式神を知ってる?」
「頭いいからな」
腹が立つ。いや待て、冷静になれ。何を巫山戯たことを吹いている。どうせ嘘をついているだけだ。考えが分離し、相反する。コイツの言っていることを鵜呑みにするのか。どうせデマだろうに。だが、本当だったら。その先は。
「何を悩んでる。お前のやる事は一つだろうが」
うるさい、黙ってろ。今考えてるんだ。
「私を解放しろ。そしたら、お前を助けてやれる」
うるさい。黙れ黙れ黙れ。
———
「廃屋じゃねぇか。いや、レトロ風か」
「うるさい」
「うわ、柱腐ってらぁ。建て直せよ」
「触るな」
マヨヒガの一室に入れる。もしかしたら、正邪を匿うなんて事はすぐにバレるかもしれない。でも、私にとってはどうでもいいことだ。
重要なのは、正邪の言う式神についてだ。自我を失うのは嫌だった。そうならないために、私は何をしたらいい。
「単純だ。イタズラだよ」
「…はぁ?」
「冗談じゃないぞ。式神ってのは使役されるもんだから、イタズラなんてのはしないのさ」
極端な話、奴隷が主にイタズラをすれば、それは反抗心の象徴だということに他ならないと、正邪はそう言った。
続けて、式神はその主従関係というものをもっとも単純に表したもので、従う理由すらも式神にはない。だからこそ反抗すればあっさり崩れる関係なのさと、そう結んだ。
はっきり言って信用ならなかった。そも、正邪の言うことをあっさり信じる気にはならなかった。それでも私は試してみる事にした。別に信じたわけじゃない。まぁしてやってもいいか、くらいの事だったからするだけだ。
それから、私はずっとイタズラを続けている。いや、続けていた。
付け焼刃の反抗心がいつまでも続くなんて事はなかったのだ。その内にイタズラをする気持ちも掠れてきて、どうしてイタズラをし始めたのかすら忘れていった。
そして、私は本格的に妖術の勉強を始めた。立派な式神になるために。
妖術修行に没頭すると、当然正邪とは不仲になっていった。別に悪口を言い合うとか、そんな感じではなかった。ただ、お互いに近づかなくなった。私は正邪と話さなくなったし、正邪も私と話さなくなった。ならマヨヒガを出ればいいのに、と思ったけど、なぜか正邪はそうしなかった。
このままズルズルいくと本当に亀裂が入りそうで、少し怖くなった。まだ取り持てると高をくくっていると、手遅れになりそうだと予感した。私はマヨヒガに向かった。
正邪は、子猫と遊んでいた。
———
―ふあぁ。
夢を見てたよ。随分昔の事。
ねぇ、正邪。最初、私達が逢ったときのこと覚えてる?私はよく覚えてるんだけど。
覚えてない?まぁ、そりゃそうだろうね。その方が正邪っぽいよ。
ほら、私がアンタを追ってたでしょうが。お尋ね者をひっ捕らえろ、って言われてたから。
そんで初めて私と逢った時、アンタが言ったじゃん。
「お前、なんでそんな事してんだ」って。
そりゃ困惑したさ。だって、何の脈絡もなく言われたからね。しかも初対面で。詳しく聞いてみたら、式神なんて、一方的に扱われるだけの生き方で何が面白いんだ、なんて。あん時に言いくるめられたの、今でも悔しいよ。
そっから下らんイタズラばっかしてたもんねぇ。その度に怒られたけど、怒らせるのが目的だったし、逆によっしゃ、ってなってたよ。そうそう、いったい誰に似たんだろうね、って怒り文句ね。心の中で「正邪に似たんだ」、ってずっと言ってたよ。あのイタズラ、紫様や藍様に吠え面かかす為に私にさせたんだろう?まぁ、いいけどさ。私が口車に乗せられただけだし。
で、私が妖術の勉強を始めると、アンタとあんまり逢えなくなって。悪いと思ってるよ、勿論。でも、さ。わかってよ。私だって成長しないとなんだから。それに、やり直そうと思ったらやり直せたのに。あぁ、アンタが悪いみたいな言い方しちゃったね。ごめんごめん。全部私が悪いのに。
あの子猫、私の代わりだったんだろう?妬いたなぁ。だってアンタ、情けない顔してたよ?あんなに素直になれたんだね。何が天邪鬼だか。あはは、ごめんって。せめて憎まれ口くらい聞いてよ。
お前と話すことなんてない?
…そうだろうね。全部、口車に乗った私が、アンタを許せなかった私が、醜い私が悪いんだから。ちゃんと背負うよ。これからも、心を痛めていくさ。
じゃないと、私が殺したアンタに悪いからね。
え?独り言なら一々話しかけるなって?いいじゃん、私だって天邪鬼なんだから。
っていうか正邪は殺されてしまった……?
素直になっても天邪鬼でしたね。
楽しませて頂きました。面白かったです。
橙の心にさらっとくさびを打ち込む正邪の話術も、子猫に嫉妬してしまう橙も素晴らしかったです
と思いきや一転してダークなお話に、意外な展開が面白い掌編でした。