私には、過去の思い出というものがあまりない。記憶と言ってもいいかもしれない。
小学、中学、高校。特筆するような記憶もなく、ただ座って教壇を見ながら過ごし、家と往復していた日々。
どこかこの世界は、空虚で、退屈で、色が無い。そう見えていた。結界だか境界だかが見えるなんて気持ち悪い目を持っていたからなのかもしれない。あるいは、勉学という面で苦労するようなことが無かったからか、それとも。
そんなまま、自分の中で動機も理由も分からず京都の大学に通うことになった春。
そこで、私は見つけたのだ。
人の壁に囲まれた、一人の学生を。
無味乾燥の灰色の世界で、どうしてだろうか、彼女だけが色を持っていた。彼女だけが、色鮮やかだった。カクテルパーティー効果というものは視覚にも作用するものだっただろうか。
それが、私、マエリベリー・ハーンという存在が有する記憶の始まりだった。
私は、その色に引き寄せられるように彼女に手を伸ばし、その手を掴んだ。
「こっちよ」
最初は、何も考えていなかった。ただ、彼女に触れたい、話したい。それだけだった。誘蛾灯に引き寄せられる蛾と同じ。それが、人の壁の隙間から手を伸ばして彼女の手を掴んで、ようやく面識も何もない人の手を掴むなんて自分がとんでもないことをしていることに気付いて顔が赤くなる。咄嗟に『彼女をクラブ勧誘の取り巻きから引き離すため』という理由を思いついて、掴んだその手を引いて走り出せたのは私の機転が利くから……なんて考えるのはいささか図々しいとは自分でも思い、走りながらそんなことを考えている事実にまた顔が赤くなる。
勧誘から逃げる為か、赤くなった顔を冷ますためか、自分でも理由が分からないままに暫く大学構内を走り、体力の限界と共にようやく足を止める。
ぜいぜいと年頃の女性とは思えないくらい息を荒げる私の背中に、声が投げられる。
「ありがと、助かったわ。私は宇佐見蓮子。……貴方は?」
宇佐見蓮子。
初めて聞くはずの、彼女のその名前。それなのに、どこか懐かしさを感じる、不思議な響きだった。
遅れて、自分が名前を問われていることにようやく気が付く。慌てる気持ちをどうにか抑え、急に体を動かしたことによる興奮と彼女の声から感じる謎の高揚を出さないよう、努めて冷静に名乗る。彼女に、これ以上変な奴だと思われたくなかった。
「……マエリベリー・ハーン」
言い終えてから、その言い方がぶっきらぼうじゃなかったか、こちらからも何か話題を振るべきだったのかと心配になる。宇佐見蓮子と名乗った目の前の学生が、まじまじとこちらを見ているのも相まって、居心地悪く視線を逸らせてしまう。
「しっかし、まさかあんなに強引な勧誘をしてくるだなんて、びっくりだわ。えっと……ハーンさん、だっけ? 貴方も盛大に歓迎されたクチ?」
「……まあ、そんなところ」
本当のことを言えば、そんなのは嘘だ。勧誘どころか、大学に来てからろくに話しも話し掛けられすらもされていないけど、余裕の無い私は彼女の言葉を曖昧に肯定するのが精いっぱいだった。
「ハーンさんは、どこかのサークルには入らないの?」
「まだ、何も……。貴方は?」
「私も、大学のホームページで見たクラブ一覧からはピンと来るものがなくてね。ホームページにも載ってないような小規模のサークルや同好会ならあるいは、とも思ったんだけど、今更あそこに戻って探すのもちょっとね……」
「そ、そうなんだ……」
心臓が、早鐘のように鳴り響く。軽く胸に置いた腕にも伝わってくるほどの、強い鼓動。
どうしてだろうか。彼女といると、落ち着かない。けれどこの高ぶりは決して不快なものではなく、むしろ消したくないと、もっと彼女と居たいと、そう張り裂けそうな心臓が訴えているのが分かる。
それと同時に、ふと思いついた言葉。目の前の彼女ともっと一緒にいたい。その望みを叶える提案。
だが、初対面の人間にそれを言うのは些か無礼ではないだろうか。彼女にそれを断られたら。拒絶されたら。そう考えるだけで口は痙攣しますます言葉を紡げなくなる。
そうやって俯いてどうこう考えている間にも、時は進んでいく。
「それじゃ。私はこれで。助けてくれてありがとうね。機会があれば、また会いましょう」
その言葉を聞いて、はっと顔を上げる。彼女は既にこちらに背を向けて立ち去ろうとしている。しびれを切らしたのも当然か。何も言わず、ただ俯いているだけの人間の相手など、一体誰が出来ようものか。
彼女のその背中を見ていると、どうしてだろうか。これが今生の別れだと、そう言われているような気がしてならなかった。同じ大学に通う者同士、どこかで出会っても不思議ではないのに。私から離れていくその背中を、もう一秒だって見たくなかった。
「ま……待って!」
だから彼女を止めた。声を掛け、手を掴んだ。彼女と別れたくない、それ以上の理由なんて無かった。
彼女の足が止まり、こちらを向く。それにどこか安心しながらも、私は次の言葉を探していた。
いや、次の言葉はもう見つかっている。後は、それを口に出す勇気だけ。
私が彼女を引き留めたのだ。私がそれを言わなければならない。
大きく深呼吸し、呼吸を整えて。胸に置いていた手をぎゅっと強く握って。私の準備を辛抱強く待ってくれている彼女へ向けて、告げる。
「じゃあ、……もし宇佐見さんが良ければ、私たちで作らない?」
一秒、二秒……私の心臓の音だけが流れる時間が、永遠とも感じられるほど続く。
やっぱり、初対面の人間がこんなことを言っても、ダメだっただろうか。
ごめんなさい、変なことを言って。忘れて下さい。そう言おうと口を開きかけた時だった。
「もちろん!」
ニカっと。太陽のように笑う彼女が、そこにいた。
これが、私と宇佐見さん……いや、蓮子との、秘封倶楽部の始まり。
その言葉はナンセンスかもしれないし、恥ずかしくて絶対に蓮子には言えないけれど、奇跡のように出会い、運命のように一緒になった。初めて、私の世界に色が塗られたのだ。
私の
秘封ですね