一、
『メッセンジャーろくろ首、始めました。』
そう書かれたプラカードを掲げて、霧の湖のほとりをゆっくりと練り歩く友人の姿に、わたしは狂気を見ました。
きっと赤蛮奇ちゃんはおかしくなってしまったのです。それで、真夏の真昼間っからあんな無表情で淡々と、甲子園の入場に使うみたいなデカいプラカードを掲げて湖のほとりを行ったり来たりしているのです。それを狂気の沙汰と呼ばずなんと呼びましょうか。
いいえ、でもわかっています。彼女がそうなってしまった原因はきっとわたし、わかさぎ姫にある。そうに違いないのです。だからわたしは、彼女を笑うこともできず、ただ茫然と、湖のたゆたう波間からそっと顔をのぞかせて、遠巻きに彼女の様子をうかがうことしかできませんでした。
やがて、わたしはそうやって覗き見することすら耐えられなくなって、手で顔を覆いました。
――ああ、わたしが昨日の草の根妖怪ネットワーク懇親会をドタキャンしたばかりにっ!
悔やんでも悔やみきれません。
こないだ新しく結成された木端妖怪どもの集い・草の根妖怪ネットワーク、その栄えある第一回懇親会が行われたのが、つい昨日のこと。それをわたしは、あろうことか直前になって「やっぱり行かない」と言って断ってしまったのです。
草の根妖怪ネットワークは、現状わたしを含め三人しか名を連ねていないような弱小陰キャ妖怪サークルです。ということはつまり蛮奇ちゃんは、わたしがドタキャンしたその日、わたしを除いたメンバーふたりっきりでテーブルを挟んでお酒を酌み交わしたのです。
そう、それはもう懇親会でも何でもなく、単なるサシ飲みでしかないのです。
その二人っきりの飲み会の奏でる空しさと切なさのハーモニーは、蛮奇ちゃんの心を壊してしまった。そうに違いありません。だから、白昼堂々、わけのわからぬ奇行にその身を投じているのです。きっとそうなのです。
そう、すべてはわたしのせい。でも、仕方ないじゃない! だって――。
「わかさぎ姫」
「ぴちちっ!?」
びくっと身をすくめて、尾ひれをぱしゃっとやります。
伏せていた顔を慌ててあげると、いつの間にか目の前に、蛮奇ちゃんの顔がありました。
彼女の目はじっと、わたしの目を覗き込んでおりました。
わたしは慌てます。あれだけのことをしておいて、わたしには蛮奇ちゃんに合わせる顔がないのです。
焦るわたしの目は面白いように泳ぎだします。人魚渾身のバタフライです。泳ぎなら任せろーばしゃばしゃ。
そうやってひとしきり慌てふためいてから、わたしは大きく頭を下げました。
「蛮奇ちゃんっ! 昨日は、その、ごめんなさい!」平身低頭。こうなったら謝り倒すしかありません。蛮奇ちゃんが何か言葉を発する前に、わたしは矢継ぎ早に言い訳を並べ立てます。「えっとその実は急に叔父のニゴイ大臣が持病の痛風で右足の親指の付け根が――」
「ん」
ずい、と。
慌てふためくわたしの申し開きを切り裂いて、目の前に差し出されるのは、くだんの真っ白いプラカード。夏の日差しを受けて眩しくきらめく表面、そこに書かれているのは――。
『メッセンジャーろくろ首、始めました。』
そう、あの謎めいた文言です。
ぽかんと口を開けて沈黙することしばし。わたしは、どう反応すべきか迷いました。その、謎めいた文言に対して何か言葉を投げなければいけない、とも思いましたし、それよりも先に、昨日の無礼に対するお詫びの言葉を続けるのが先じゃないか、とも思いました。
わたしの頭の中にさまざまな思いが、ぶくぶくと水泡のように浮かんでは消えていきます。
しかしその思いはついぞわたしの口から飛び出すことはありませんでした。
わたしが何も言えないでいると、埒が明かないと思ったのでしょうか、赤蛮奇ちゃんは、怒るでも笑うでもなく、淡々と無表情で語りかけてきます。
「メッセンジャーろくろ首。利用する気、ない?」
わたしはぽかんと、餌を待つ鯉みたいに口を開ける他にありません。
* * *
少し、お時間を頂戴して。
ここでわたしたち草の根妖怪ネットワークについてお話させてください。
といっても、先程申しました通り、歴史も浅いクソ雑魚妖怪の集いに過ぎませんので、大した規模の集まりでもなく、語ることもそんなにありません。
始まりは、ついこないだ。わたしが、ここ、霧の湖を遊泳していたときのこと。
ろくろ首である赤蛮奇ちゃんが、霧の湖のほとりで、熱弁を奮っているところに通りかかりました。「弱小妖怪は弱小妖怪なりに、お互いの手を取って暮らしていくべきなのよ」。口角に泡を飛ばし、腕を振り上げて訴えかけるその様は、まさに名スピーチとしか言いようのない力強さと説得力に溢れていました。
わたしは、それまで蛮奇ちゃんのことは全く知りましたが、その名調子に心を打たれ、思わず涙をほろほろ流しました。そして、彼女がスピーチを終え頭を下げると、居ても立ってもいられなくなり、思わず駆け寄り――いえ、駆け寄ろうとしましたが、あえなく浅瀬に乗り上げてしまいその勢いで陸に打ち上げられ、のたうちまわって、それでも這いずり回って何とか彼女に近づくと、彼女の、初競りのマグロでも見るような目も気にせず、その手を両手で強く握って「ええそう思うわ! わたしもそう思う!」と鼻息荒くぶんぶんと振り回しました。
その後、すぐにわたしたちは意気投合し、誘われるままに、わたしははぐれ妖怪たちの集い、通称草の根妖怪ネットワークへ加入していたのです。
それから、蛮奇ちゃんに聞くところによると、何でもその前日は迷いの竹林の方でも同じように演説をぶっていたらしく、そこでも狼の妖怪が演説に感銘を受け、草の根妖怪ネットワークに入った、とのこと。
狼の妖怪。
わたしは箱入り娘ならぬ湖入り姫ですので、湖の外の世界のことにはとんと疎く。だから、なんとなく思い描くしかできませんが、狼というくらいなのだから、とても恐ろしく怖い妖怪なのだろうな、とぼんやり思いました。
切れ長の目、大きく開く口、鋭く尖れた鋭利な牙。わたしは力の弱い人魚ですので、ともすれば食べられてしまいそうなパワーバランス。
そんな人と仲良くなれるかしら――?
一抹の不安を覚えながらも、なんやかんやこうしてわたしたち三人の木端妖怪の寄りあいは発足したのでした。
* * *
「メッセンジャーろくろ首、とはいったいなんでしょうか……?」
わたしはおずおずと手を上げます。
蛮奇ちゃんは、よくぞ聞いてくれた、とばかりに満足げにふふんと鼻を鳴らすと、説明を始めました。
「ろくろ首によるメッセージ交換システムです」
「なるほど分かりません」
蛮奇ちゃんは、中二病的なカッコよさを優先するあまり、理解しがたい語彙をチョイスする傾向があります。
蛮奇ちゃんは思案顔であごに手を当てました。
「じゃあ、そうだね……姫は、糸電話って知ってる?」
「あ、それなら知ってます」
いきなり身近な例に飛んだので驚きましたが、知ってるワードが出てきたのでちょっとホッとしました。
糸電話。
懐かしいです、わたしも稚魚のころはよくお父さんとよく遊んだっけ。なんどやっても全然声が聞こえなくって、何が楽しいのかよく分からないまま、けらけら笑ってはしゃいでました。でもよく考えたら水中なので上手く音が伝わるわけはないですね。気づけ、幼いころのわたし。そしてお父さん。
「あれの糸がないバージョンみたいなもん」
「それはただの電話では?」
「電話って何?」
「えっとそれは……」
なんだろ。言ってみたものの、そんな道具、見たことも聞いたこともありませんでした。
仕切り直すみたいにして、ごほんと咳をする蛮奇ちゃん。
「まあとにかく、離れたところにいる人たち同士の声を届けるよ、っていうサービス。それがメッセンジャーろくろ首。本来は有料サービスだけど、お試しってことも兼ねて、同じ草の根妖怪ネットワーク仲間のよしみでタダで使わせてあげる」
「何かよく分からないけど、ありがとうございます。えっと……」
どうすればいいのかわからずわたわたしていると、蛮奇ちゃんはどこからかバスケットボールみたいな大きさの丸い物体を手に持つと、それをわたしに差し出しました。
わたしはその球体を両の手でうやうやしく受け取ります。蛮奇ちゃんの手を離れると、それはずっしりとした重さをわたしに感じさせました。
これが、メッセンジャーとやらに使う器具なのでしょう。きっと糸電話で言うところの、コップ部分のはずです。
手の中でくるくる回しながら、わたしはそれを観察します。
赤みがかった髪のようなものが生えていて、目のようなものがふたつ、鼻のようなものがひとつ、口のようなものがひとつ。まるで、そう、ちょうど人の頭のように見え――。
「って蛮奇ちゃんの頭だコレー!?」
「そうだよ」
「そうだよって!」
「だから、言ってるじゃん。メッセンジャーろくろ首。離れた人同士でも無線ワイヤレスヘッズがやり取りして、声を届けるよ」
「なんとぉ」
なんと体を張った商売なのでしょう。
確かに、赤蛮奇ちゃんは、いつも八つも九つもある頭を自由自在に飛ばし、コントロールしているように見えます。それを糸なし糸電話に使おう、というのはできなくはない話に聞こえました。
「ほらほら。わかさぎ姫の声、幻想郷中どこでも届けてあげるよ」
頭を抱えた(物理)わたしの両手を、ぐいぐいと胸元に押し付けてきます。
受け取ってしまった手前、逃げるという選択肢はありません。しかし、かといって急に声を届けたい相手というのもすぐには思いつかないのでした。だって、わたし湖入り姫ですもん。湖の外の世界に知り合いいませんし。
「さあささ」
「そうは言ってもですね。相手がいません」
「そんなことないだろ。いるはずだ。姫にはちゃんと話をしないといけない相手が」
穏やかだった蛮奇ちゃんの口調が、急に厳しめになりました。
なんだか妙に断定口調です。どことなく、蛮奇ちゃんは気が立っているように見えました。
「話をしないといけない、と言われても……」
蛮奇ちゃんの方にちらと視線を向けます。
思い出すのは、やっぱり昨日のこと。突然のドタキャン、首をキリンみたいに長くして待っていたであろう、待ちぼうけろくろ首の赤蛮奇ちゃん。
気が立っているように見えるのは、やっぱり、いまだに私が謝罪の言葉をちゃんと口にできていないから、とかだったりするのかしら。
うん、そうよね。じゃあ、でも、うん。
思い悩むこと十数秒、やっとのことでわたしが謝罪の言葉を口にしようとすると、蛮奇ちゃんはそれを手で制しました。
「私のことはいいよ。それよりも、他に、いるでしょ」
まるで、私の気持ちを読んでいるかのよう。
先ほどのまでの気が立ったような様子からは打って変わって、噛み砕いて言い聞かせるように、優しく言う蛮奇ちゃん。出来の悪い教え子にするみたいな、優しい瞳をしていました。
でも、そう言われても。わたしは、困ってしまいました。
「でも、蛮奇ちゃん以外に、話をしなくちゃいけない人なんて……」
言いかけて、思い出しました。
ドタキャンで迷惑を被った人は、もう一人いるのでした。今目の前にいる蛮奇ちゃんと、もう一人。
ああ! なんで忘れていたのでしょう。
いや、忘れたふりをしていただけでしょうか。わたしは、彼女のことを考えないようにしていたのかもしれません。
わたしは、そっと目をつむり、それから、まだちゃんと顔を会わせたことのないもう一人の草の根妖怪ネットワークのメンバーの顔を思い浮かべます。
「声を届けなければいけない相手。思い浮かんだ?」蛮奇ちゃんの穏やかな声が、目を閉じた私の暗闇世界に降ってきます。わたしは、こくんとうなづきました。
「じゃ、そのまま、目を閉じたまま。声を届けたい相手のことを強く念じて。頭に思い描いて」
相手のことを強く思え、だなんて。それで、相手と通じ合えるなんて。素敵。ファンタジック。
ろくろ首の頭間の通信って、そんなスピリチュアルな感じなんでしょうか。不思議ですね。
わたしは、言われるがまま、頭の中で、強く思い描きます。草の根妖怪ネットワークのもう一人の少女。
――今泉影狼さんのことを。
思い出すのは、満月の竹林。
一度だけ遠目に見た、彼女の立ち姿。
蛮奇ちゃんに抱きかかえられて、影狼さんとの初顔合わせに連れて行かれたときのことでした。
満月の夜、竹林に足を踏み入れ、ざざざと波打つ竹藪をかき分けかき分け進んでいくと、ぽっかりと開けた場所にたどり着きました。そこは影狼さんのお気に入りの場所で、よくそこに彼女がいるのだと、そう蛮奇ちゃんは教えてくれました。
そうして、そこで見ました。
すっとまっすぐに立ち、夜空に浮かぶ真円をはかなげに見つめる横顔。その神秘的な姿と、凛々しく整った顔立ちに、わたしは思わず息をのんで、見とれてしまいました。
遠目に見る彼女の立ち姿は、世間を知らないわたしの目には、とてもカッコよく、それでいてとても強そうに映りました。
わたしは、彼女に声をかけようとしました。
でも、声は出ませんでした。
まるで魔法にかかったみたいに、声は奪われ、ただ茫然と彼女の姿に見入っていました。手に入れた足と引き換えに声を奪われたわけでもないのに、わたしはそのとき本当に、声という情報伝達手段を、忘れてしまっていたのでした。
ざざざ、と風が吹いて、竹林が大きく揺れて。影狼さんは鬱陶しそうに、前髪を手で押さえました。そんな所作さえ、わたしには神々しい絵画のように見えました。それを見ているうちに、心の中に何かがあふれて来て。それを抑えるかのように、きゅっと胸のところを両手で押さえつけました。
――ごめん、もう、かえろ。
わたしは、気づけばそう口にしていました。蛮奇ちゃんは不思議そうな顔をしていましたが、わがままを言って、そこから離れさせてもらいました。
影狼さんはなんだか、遠い人、隔てられた壁の向こう側の人のような気がして。
わたしには触れられない、触れてはいけない、そんな存在に思えて。
わたしは、そこから逃げ出したのでした。
そう、そして昨日だって。彼女に会ってきちんと話をする、それだけのことがとてつもない難題に思えて。
どうしても彼女のいる集まりに参加するという勇気が出なかったのでした。
でも――。
「思い描いた?」
優しく鼓膜を揺らす、蛮奇ちゃんの声。
こくり。わたしはうなづきます。
でも――今度は、大丈夫でしょうか。
声。声くらいなら届けても、罰は当たらないでしょうか。
わたしは目を開きます。
「じゃ、姫。ここの、耳に口を近づけて。届けたい思いを、ささやいてみて」
わたしは言われるまま、恐る恐る口を蛮奇ちゃんの頭に近づけて。
そうして始まりの言葉をささやくのでした。
「――もしもし?」
二、
みんなにはわかるだろうか。
朝起きて、顔を洗って服を着替えて、さて日課の散歩に行こうかしら、と一歩家の外に出たときに、最初に目に飛び込んできたのが、草むらに転がる友人の生首だった狼女の気持ちが。
「ヒィッ! 生首!」
「おはよう、影狼」
「しかもしゃべった!」
怖いわー。全身の毛がぶわああって逆立つわー。
でも、よくよく考えたら彼女はろくろ首の赤蛮奇。首が本体を離れて活動するのなんて日常茶飯事、朝飯前だった。
だとしても、朝一番の思考が鈍っているときにやられるとビックリするのでやめてほしい。
そもそも、友人とは言うものの、私と赤蛮奇は知り合ってまだそんなに経っていない。こないだ草の根妖怪ネットワークとやらに勧誘されたときに初めて出会ったばかりの仲だ。そりゃ、慣れないよ。
深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。何とか平静を保って、話しかけた。
「で、何の用? てか、本体はどうしたの?」
「本体は、ちょっと野暮用で」
「ふぅん?」
露骨に目線をそらす生首。
何か、隠しているらしいことは、まだ親交の浅い私でも手に取るように分かった。
私は、さらなる追求を重ねようとして――でも、やめた。
それよりも大事なことを、たった今思い出したのだ。
そう、昨日の私の失態。
いや、忘れていたわけじゃない。あまりに展開が唐突過ぎて流されそうになっただけだ。
鮮明に覚えている。私のしでかしたこと。そして、それを考えれば彼女の訪問の理由にもおのずと答えは出る。
彼女は、私の失態、それを叱りに来たのだ。
そう、赤蛮奇は――私が、昨日の草の根妖怪ネットワーク懇親会をドタキャンしたことを、たいそう怒っているのだ!
そりゃそうだ。つい先日結成された弱小妖怪たちの憩いの場・草の根妖怪ネットワーク。その初めての懇親会が行われたのが、つい昨日のこと。それを私は、あろうことか直前になって「ごめんやっぱ無理」と言って断ってしまったのだ。私のいない、二人っきりの飲み会はさぞかし寂しかったことだろう。
しかし、しかしだ。こちらにもそうせざるを得ない理由があったのだ。
「影狼――」
「ごめんなさい!」
両手のひらを合わせて、高く掲げ、頭を深々と下げる。平謝りのポーズだ。
理由があったとは言え、悪いのは私だ。疑いようもなく。そんな私にできることは、相手に許してもらえるまで謝り倒すことのみ。
「蛮奇、その昨日はごめんなさい! 言い訳はしないわ、私が全面的に悪かった! 犬の真似でも何でもするから、また今度埋め合わせをさせて――」
「ん」
ひらり。
頭を下げた私の目の前に、何か書かれた紙が差し出された。
見れば、蛮奇の頭が、口に紙をくわえてふよふよと浮かんでいる。足元に転がる頭とは、また別の頭だ。恐る恐る、私はその紙を手に取り、書かれているポップな書体のクソデカフォントサイズ文字をまじまじと見つめた。そこには――。
『メッセンジャーろくろ首、始めました。』
うん。
なるほど。
うん、なにこれ。
うん?
なにこれ?
「えーと?」
私は、謝ることも忘れ、首をひねる。訳が分からない。
「ごめん、蛮奇。これ、なに?」
「メッセンジャーろくろ首の宣伝広告」
「メッセンジャーろくろ首とは?」
「ろくろ首によるメッセージ交換システムです」
「ごめん、何一つ伝わらない」
蛮奇は、頭は良いのだけれど、変なところで説明が下手なのが玉にキズだ。
結局、なんやかんやあって蛮奇から聞き出した話を総合すると、最大で九つある蛮奇ちゃんヘッドのうちの二つを使って、離れた相手同士で双方向に音声をやり取りするサービス、それがメッセンジャーろくろ首なのだということだ。
さすが蛮奇、人里に溶け込んで暮らす妖怪少女。商売に対する嗅覚に優れている。
「今ならお試しサービスってことでただで使わせたげる。友達のよしみで」
「お試しサービスなのか友達のよしみなのか分からないけど、ありがとう?」
首をひねる私の元に、また新たな蛮奇'sヘッドとは別のヘッドが、ふよふよ飛んできて私の胸にぽすんとぶつかった。
私はそれを優しく抱き留める。腕の中で、赤い瞳と目が合った。
どうやら、これを所有する者同士で、やり取りするらしい。
「それ、貸してあげる。しばらくは携帯していて。着信があったら、それが勝手にしゃべりだすから」
「ふぅん。餌とか水とかいる?」
「私の頭をなんだと思ってるの?」
「いや、ごめん」
「直射日光を避けて風通りの良いところで保管して」
「蛮奇の頭は常温保存の食料か何かなの?」
閑話休題。
「で、こっちから声を届けたい場合はどうするの?」
「声を届けたい相手を強く思い浮かべて、十秒待つ。そしたらなんか繋がった気配がし始めるので、『もしもし』って話始めるの」
「なんかふわっふわしてる説明ね……」
「いいから。ほら声を届けたい相手を思い浮かべて」
「そんな急に言われてもさあ」
私は、眉根を寄せる。
声を届けたい相手なんて、私にはいなかった。私は端にも棒にもかからない程度の妖怪で、あまり見た目にも自信がなかったから、積極的に他人とかかわるのを避け続けて来たし。
目の前の蛮奇以外に、話したい相手なんていない。声を届ける権利なんて、私にはない。
でも――。
声を聞きたい相手なら、いる。
目をつむる。瞼の裏に思い描くのは、いつか見た光景。
今でも鮮明に覚えている。あれはとある満月の晩のこと。煌々と照らす月がいつにもまして明るく感じられて。それに呼応するように、私の体中に黒い毛がわさっと生えてきて、熱いマグマのような煮えたぎった衝動が体の奥から吹き出してきて。私はいても立ってもいられなくなって、家を飛び出して、ぐるぐると深夜の竹林を徘徊していた。
満月により呼び覚まされた自分の妖怪としての本能と、毛深く醜悪になった姿に対する嫌悪感で、頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、歩いて歩いて、ずっと歩いていると、遠くの方から何かが聞こえてきた。
立ち止まって、耳を澄ます。歌声だった。
私はそこで、一度我に返ってあたりを見回した。気づけばそこは竹林ではなく、うっそうとした森の中だった。気づかないうちに、こんなところまで来ていたなんて。
そして、歌声は、木々の茂みのずっと向こう、ほの明るくなっているところから流れてきているようだった。
きっと、あっちが森の出口に違いない。
私は導かれるようにして、その歌を頼りにして歩を進めていった。
歩いていくにつれて、徐々に鮮明にその旋律は聞こえてくるようになった。その歌声を、なんと例えればいいだろう。乾いた大地に水を垂らしたような、カラッカラに乾いた喉を冷たい泉の水で潤したときのような。
私の体の隅々までしみ込んで、私の不浄なものをすべて洗い流してしまうような、そんな不思議な力に満ちた歌声だった。
そうしてその歌を辿りながら森を抜けると、そこは湖のほとりだった。風はなく、透き通った湖面にはいつにもまして明るい満月がくっきり映りこんでいた。
私は立ち止まり、歌声の主を探して、視線を巡らせた。そして、見つけた。
魔性の歌声を響かせる、人魚姫を。
湖のほとり、ごつごつした岩場の、突き出した岩に人魚が一人、腰をかけていた。目を閉じ、右手を胸に当て、気持ちよさそうに歌を紡いでいた。
私はそれに聴き入った。彼女の歌は、私の薄汚い狼女の後ろ暗い衝動を、綺麗に押し流して、体中を清涼感で満たしていった。
私は彼女の歌う顔に見つめた。月は明るく光を投げかけ、彼女のあどけなくも美しい顔立ちを夜闇から浮かび上がらせている。気づけば私は、どきどきと胸を高ぶらせていた。声に聞きほれ、その神秘的な顔立ちに見とれていた。
彼女は何なんだろう。知りたい。もっと顔を見たい。もっと声を聞きたい。私の耳元で、その美しい声で語りかけて欲しい。
がさり。
知らず、私は足を動かしていたらしい。足元で蹴散らされた夏草たちが、思った以上に大きな音を立てた。はっ、として足を止めた。
その音は彼女にも聞こえたらしい。歌うのをやめると、きょとんとした顔であたりを見回す。私はとっさに、逃げなきゃ、と思った。なぜ逃げる必要があったのか、自分でもわからなかったが、彼女に見つかってはいけない気がした。彼女の幻想的なステージの中で、ただ私だけが無粋な存在に思えた。
森の中に逃げ帰って、茂みに体をうずめた。
そうして、さっきの気持ちを冷静に反芻する。
私はさっき、何を考えた? もっと声を聞きたい? 耳元で語りかけて欲しい?
――なんておこがましい。
私は自分の手をまじまじと見つめた。真夏の長袖から、黒い毛皮がわさりと顔を出している。腕だけじゃない。私の服の下には、私が化け狼である証左がひしめき合っている。私は、私の体を抱きしめた。そうして呪った。己の生まれを。
――誰か、そこにいるの?
茂みに隠れている私の頭に、声が降ってきた。
彼女の歌声。その声は、歌声から想像した通りの可愛らしく鈴を転がすような涼やかな声で。
振り向きそうになって、ぐっと我慢して。
私は断腸の思いで、彼女に見つからないように姿勢を低くしたまま、森に逃げ帰ったのだった。
彼女がわかさぎ姫という名前で、蛮奇の勧誘によって草の根妖怪ネットワークに加入した、という話を受けたのは、それからわずか一週間後のことだった。
「思い浮かんだかしら」
蛮奇の声が、回想に沈んだ私の意識をぐいっと引っ張り上げる。
はっと目を開けると、蛮奇の赤黒い瞳と目があった。なんとなく居心地が悪くて、目を逸らす。
「そ、そうね。特別そういう相手がいるわけではないけど、強いていうなら一人、ちょっと話したいかな、って相手がいないでもない、かしら」
「じゃ、その人魚のことを頭の中で思い浮かべて」
「なぜ人魚限定!?」
「うるせえいいから思い浮かべろ」
蛮奇ヘッドに急かされるまま、私は端末ヘッドを抱えて、じっと念じる。
わかさぎ姫。
あどけない顔から紡ぎ出される美しい歌声。私の淀みを溶かしていくような清涼感に満ちた旋律。
今何してるんだろ。今日もまた、湖のほとりで歌を歌っているのだろうか。それとも湖を優雅に泳いでいるのかな。
わかさぎ姫。
私は、彼女のことを強く念じた。
念じて、念じて。その瞬間、ふと「つながった」感覚があった。なんと言えばいいのか、端末を通した向こう側に彼女がいる、その気配を今、強く感じたのだった。
どぎまぎする。なんて声をかけよう。あれ、最初なんて声をかけるんだったっけ? こんにちは? もしもし?
戸惑って声が出ない私に代わり、隔てられた空間の向こうで、息を吸い込んだような気配があった。
やがて。端末から紡がれた音声が、私の耳朶を打った。
『――もしもし?』
三、
そうして、人魚姫と狼女の、奇妙奇天烈前代未聞のろくろ首文通が始まったのでした。
仲良くしたいのに素直になれないクソ雑魚メンタル妖怪二人。最初はおっかなびっくりで接していたその二人も、徐々にお互い言葉を重ね感情を交換しあい、仲を深めて、氷を溶かすようにぎくしゃくした関係もほぐれていったのでした。
類まれなる画期的な双方向遠距離通信は、そうやって二人の生活を実りあるものへと変えたのです。
そうして草の根妖怪ネットワークとして発足したはぐれ物妖怪三人の仲は未来永劫続きましたとさ。めでたしめでたし。
と思うじゃん?
でも実際はそうなりませんでした。ならなかったんだよ。
なんだよ、せっかくこの赤蛮奇様が人肌脱いでやったってのにさ!
「あー」
というわけで。
どうも、メッセンジャーろくろ首の影狼側に貸し出された端末こと蛮奇ヘッドその七です。いえい。
ここは影狼の家。
端末として借りられ、最初にここに連れられてきたときは、人並みに緊張したものだ。単なる道具として持ち込まれただけとはいえ、ついこないだ知り合ったばかりの友達の家への初訪問だもん。
だけど、一ヶ月も経った今は、勝手知ったるなんとやら、ここでの生活も慣れ、だいぶ自然体でいられるようになってきた。
「うー」
今となっては、もう見慣れてしまった影狼の部屋。
影狼は片付けが苦手らしく、特別小綺麗にしてあるわけではないが、基本的に物を溜め込まない彼女の主義のおかげで汚くは感じない。質素ではあるが、温かみのある部屋だ。家具も必要最低限の物しか置いてない。タンスだったり、ベッドだったり、テーブルだったり、抜け殻のように落ちている毛の塊だったり。
「あー」
その黒い毛の塊がさっきから呻き声を上げていた。
無視するのも面倒だから構ってやるか。
「なんだよさっきから。モップの真似?」
「モップは呻かないもん」
ごろん、と毛の塊が横に転がり、顔を覗かせた。黒い毛の塊もとい家主の狼女今泉影狼は半ベソをかいてこちらを恨めしげに見る。てか、モップみたいな見た目である自覚はあるのか。
「いいから、汚いから床に転がるなよな」
「だってえ」
のそのそと起き上がる影狼。それに連動して彼女の、毛の塊と形容するより他のない毛量の多いもっさりとした髪の毛が重々しく持ち上がった。
どうやら月齢によって体毛の濃さが大きく変わるらしい。今はだんだん満月が近づいている頃だから余計にひどい、とは本人の弁。
「話が違うんだもんっ!」
ずびーっと鼻をかみながら、影狼が糾弾する。
私は頭をかこうとして――やめた。手がなかったわ。
影狼は椅子に座って、テーブルに身を突き出すようにして、私を睨みつけた。
やれやれ。
「何のことさ」
「わかさぎ姫の声が聞こえないじゃない!」
「……そりゃそうだろ」
確かに、私は言った。二つの蛮奇ヘッドを使って、離れた場所にいる二人が双方向にお話できるシステムだと。
だけどさあ、常識的に考えてみ? あくまで片方の私が聞いた話を、もう片方の私が反復して喋るだけだよ? 電波とか赤外線とか飛ばしてやりとりしてるわけでもなし。てなりゃさあ当然、わかさぎ姫が喋った言葉を私が復唱しているのだから、影狼には私の声しか聞こえないに決まってる。逆もまたしかり。
まあ、勘違いしてそうなのをあえて黙ってた私も悪いけど。
「騙されたー詐欺だー!」
わーん、と大袈裟にテーブルに突っ伏して声を上げる影狼。
私はため息を吐いた。
「人聞きの悪いことを。幻想郷中どこでも声を届けるよ、って言ったじゃん。その宣言通りにわかさぎ姫に影狼の声を届けてるし、わかさぎ姫の声も影狼に届けてるよ」
「蛮奇の声に変換してね!? 生声じゃないと意味がないのよー私はわかさぎ姫の声が聞きたいのに!」
「じゃあ直接会えばいいんじゃん? やる? 第二回草の根懇親会。セッティングするよ?」
影狼はその言葉を聞くと、ピタッと泣き止んで、おずおずと恥ずかしげに顔を上げる。
それから、すっ、と静止するように掌をこちらに見せた。
「いやそういうのはちょっと……まだ早いっていうか……もうちょっとお互いのことを知ってからの方が……」
めんどくせえなコイツ。
悪態が口をついて出そうになったが、すんでのところでぐっと飲み込む。
「でもさ、そうやってたらいつまで経っても愛しの人魚姫に出会えないよ?」
「いや愛しのとかそんなんじゃなくて……別にそういうのじゃないし……」
くねくねと身を捩らせて、両人差し指をつんつんする影狼。
完全に恋する乙女のそれじゃねーか。腹立つんでやめてもらっていいですかね。
「わかさぎ姫の生声、一生聞けなくってもいいの?」
「そ、それは……」
うつむいて葛藤する影狼。流石にそこは肯定しないか。
長い間頭を捻っていた影狼が、やっと口を開いたと思ったら、ひとこと。
「私ごときがわかさぎ姫に釣り合うわけないし……別にそれでいいかなって……」
「めんどくせえなコイツ!」
ついに口から迸る悪態。仕方ないね。
もともと自分に自信がない彼女だけど、ここまでネガティブな奴だったっけ。満月が近いとメンタル不安定になるらしいからそのせいかも。
このままだと、ほんとに一生草の根妖怪ネットワークメンバー一度に介する機会訪れんぞ。
仕方ない。かくなる上は。
「影狼、そろそろ夕ご飯にしよう」
「あ、もうこんな時間か。待ってて準備するから。今日はね、川魚の煮物にしようかなって」
「わぁい煮魚。蛮奇、煮魚大好き」
思考停止である。大丈夫、私の頭、九つもいるんだもん。
一つくらい頭がうまいこと解決してくれるさ。頼んだよみんな。
四、
「巨星墜つ……か」
「? どうしたの蛮奇ちゃん」
「いや、なんでも」
ところ変わって、ここはわかさぎ姫の膝の上。不甲斐ない蛮奇ヘッドその七に代わりここからは私、蛮奇ヘッドその三がお送りします。いえい。
ここは湖の中にぽっかり空いた洞窟。湖中の壁面に彫られたトンネルを潜っていくことで辿り着けるそこは、ちゃんと空気があり、肺呼吸の私でも生活できた。てっきり人魚だから水の中で暮らしてるんだと思ってたから、びっくりした。
最初にここに来たとき、私がそう言うと、わかさぎ姫はきょとんとした後でからからと笑った。
「それだと、家財道具とかみんな水浸しになっちゃうじゃないですか」
それから一週間。
影狼宅の七番ヘッドから得た情報から察するあっちの惨状に比べれば、こちらは和やかなものだった。
「よっほっ」
「おーすごいすごい」
「えへへ、そうでしょ?」
今日もほのぼの、わかさぎ姫と一緒にお手玉の練習。最近は四つの石を操るのもだいぶ安定してきた。湖のそこから、姫が拾ってきた光る石が、今日も薄暗い洞窟に舞う。
「元からお手玉好きだったんだけど、あまり見てくれる人がいないから張り合いなくってやめちゃってたの。蛮奇ちゃんがきてくれて嬉しいな」
えへへ、とはにかんだ笑みを浮かべる姫。
こないだまで敬語だった口調もだいぶ砕けて和やかになってきた。メッセンジャーろくろ首はコミュ障二人のためにでっち上げたサービスだったんだけど、こうやってみると、私とわかさぎ姫、私と影狼それぞれの仲がぐんと深まった気がして、我ながら妙案だったなあなんて思う。
だが、そこで満足してはいけない。当初の目的は二人をなんとか外に連れ出し引き合わせることなのだから。
だけど。
「えい、えいっ。ほらほら蛮奇ちゃん見てみて! 五つもいけるよ!」
わかさぎ姫はにこやかに嬉しそうな笑みを浮かべて、石を放り投げてはキャッチしていく。
人懐っこいその笑みには、かつて萎縮していた面影はなく。
うん。
影狼側が無理でも、うまいことわかさぎ姫をけしかければ影狼とわかさぎ姫の対面も上手くいくんじゃないか?
へたれた影狼だって、わかさぎ姫がぐいぐい押していけば最終的に折れて、会ってくれそうな気がするし。嫌い合ってるわけではないんだしね。
第七蛮奇ヘッドがこっちに問題を丸投げするのもわかる気がする。私が影狼に貸し出された端末だったら、影狼のあの態度を見て絶対さじ投げるもん。
よし。
「お手玉、上手くなったね」
「でしょー?」
わかさぎ姫はお手玉をきれいに全部キャッチしてから、自慢げに胸をそらして、耳のひれをぱたぱたさせた。
今日の彼女は機嫌がいい。これなら押せ押せでいけそうだ。
「そういえば、そろそろ第二回草の根妖怪ネットワーク懇親会を始めようと思ってさ」
「え」
「せっかくだからそこで余興としてやってみようよ。きっと影狼も褒めてくれるよ」
「え」
表情を凍りつかせるわかさぎ姫。
それから露骨に焦り始める。
「あ、いやちょっとその日は外せない用事が」
「まだ日程決めてないのに?」
「ああえっといやまあその」
面白いように目がざぶざぶ泳ぎ始める姫。嘘つくの下手だなコイツ。
私は、はあっと露骨にため息をついて見せた。ぴょんと姫の膝から飛び降りて、わかさぎ姫と向き合う。
「なんでいやなのさ。あんなに影狼影狼騒いでたじゃない。影狼に会いたくないの?」
「会いたくない、わけではないんだけど……」
そうなのだ。
わかさぎ姫の声が聞けなくてしょげてしまった影狼と違い、わかさぎ姫は影狼と話ができるだけで大はしゃぎだった。お互いの日々の小さな出来事を話し合っては、毎日嬉しそうにしていたのだ。
そうして、通話が終わるたびに私に聞かせてくれた。
影狼さんがね、竹の子狩りに行ったら竹の子十本も採れたんだって。
影狼さんがね、耳と尻尾隠して人里にお肉を買いに行ったんだって。
影狼さんがね、影狼さんがね。
毎日のように姫が私に聞かせる影狼情報を、私は「今日の影狼」コーナーと密かに心の中で呼んでいた。というか、知ってるわその情報。私を介して会話してるじゃねーか全部。それどころか影狼側の端末とも意識共有してるから、実はほんとは竹の子一本も見つからなかったのも、人里行こうとしたけど直前でビビって引き返してきて野うさぎ狩ってたのも知ってるわ。
プライベート情報だから話さないし、姫が嬉しそうだから別にいいけどさ。
とにかく、そんなもんだから、わかさぎ姫は懇親会にノリノリで参加してくれると思っていたのに。先の返答は意外だった。
わかさぎ姫は、いじいじと指先で光る石を弄びながら言いづらそうにしていたが、やがて口を開いた。
「あの、だって……。怖いし……」
「怖い?」
私がオウム返しに訊くと、こくんとうなずく。
「なんかね、怖いの。確かに影狼さんには会いたいわ。会ってそのお姿を見たい。おしゃべりしたい。でも……でもね。考えちゃうの。わたしは影狼さんに……釣り合うのかなって」
「釣り合うって」考えが重いこじらせ女子かよ。影狼もだけど、こいつらめんどくさすぎるでしょ。
わかさぎ姫は、目を閉じる。
次に口にする言葉を自分の中から探しているみたいに見えた。私は待った。
私たちが喋るのを止めると、洞窟のもっと奥の方から、ぴちょん、ぴちょんと水滴のしたたる音が響いてきた。
そのぴちょん、をたぶん三十回くらい聴いたとき、わかさぎ姫がゆっくり目を開けて、喋り始めた。
「何だかね、わたしと影狼さんの間には、目に見えない膜のようなものが張っちゃってる気がするの。影狼さんはその膜の中にいて、わたしは外にいて。生きてる世界が違うって感じで。その膜に触っちゃったら、ぱちん、って弾けてその世界ごと壊れてしまいそうな、薄い膜。その膜に、わたしが触れていいのかなって思っちゃって。確かに蛮奇ちゃんのおかげで前よりももっと話せるようになったわ。でも直接あっちゃったら、その膜がはじけて、何もかも終わってしまう気がして」
わかさぎ姫は、視線を自分の手元に落とした。
彼女に悟られないように、小さくため息。ほんとにもう。この二人は。
ほんっとーにめんどくさいな!
勘違いしてる。影狼も、わかさぎ姫も。
私たちはちっぽけな一妖怪でしかない。大妖怪としてぶいぶい言わせてるような連中にしてみればちっぽけな取るに足らない妖怪たち。私も影狼もわかさぎ姫も、大した存在じゃないんだ。そんなたいそうなこと、考える必要ないんだよ。
もちろん相手を敬うことは大切だし、尊く思うあまり踏み込みづらいこともあるだろう。
でも、だからと言って、仲良くなりたい相手と勝手に壁をつくるなんて、そんなの間違ってる。
もっと気軽に私たちは繋がっていいはずなんだ。
さて、どう言葉をかけていいものやら。
今度は私が言葉を探す番だった。目を閉じる。集中していたせいで何回ぴちょんが鳴ったのか数えてないが、そこそこの時間をかけて考えた。
それから目を開いて話し始める。
「あのさ、姫。じゃあ私はどうなのさ。影狼も私も、姫と知り合った時期は同じでしょ。私には気兼ねなく顔を合わせられて、影狼にはなんで躊躇しちゃうのさ」
「うーんそれは……なんとなくかな。蛮奇ちゃんだと話しやすくて。気が置けない感じ。お話ししやすいし」
「じゃ、影狼は話しにくくて、話してると疲れるんだ」
「そんなことないわ! 話してると楽しい。でも、大切に思いすぎちゃうというか……」
「じゃ、私のことは大切に思ってないわけだ?」ちょっと意地悪な言い方。でも仕方ない。これはわかさぎ姫が自分の心を整理するための問答でもあるのだから。
「そんなことない! 蛮奇ちゃんも大切よ! 大切なお友達だもん!」
「じゃあさ、私と影狼、どっちが好き? どっちが大切?」
「そんなの……!」
わかさぎ姫は口ごもる。
選べないだろうな。うん、知ってる。私は知ってて質問してる。わかさぎ姫はそういう性格だもんな。
そうなんだよ。どっちが好きとか大切とかそんなんじゃなくて。どっちも天秤にはかけられないんだよな。だけどさ、同じ大切な友達たちなのに、そうやってそれぞれで態度を変えられたら相手たちはどう思う?
うん。問答をつづけても姫ならここで詰まるっていうのは、わかってた結果だけど。わかさぎ姫の回答を聞いて改めて確信した。
だめだこのままじゃ。
彼女たちには転機が必要だ。
メッセンジャーろくろ首が失策だったとは思わないけど。
こうやって距離をごまかしてたら、いつまで経っても縮まらないもんな。
「ごめん、残念なお知らせなんだけど」
「え?」
「メッセンジャーろくろ首サービス終了のお知らせです」
「唐突すぎない!?」
そりゃ今決めたからね。
「そんなの聞いてないわ!」
「利用規約に書いてあったでしょ。『本サービスは提供側の都合により、予告なく終了させていただく場合がございます』」
「利用規約なんてあったの!?」
慌てるわかさぎ姫を尻目に、私はふわふわと飛んで洞窟の出口に向かっていく。
タイミングがタイミングだけに喧嘩別れみたいになっちゃうのが心残りだけど。
ま、いいでしょ。また次会ったときに、謝ればさ。私たちにはそれができるんだから。それができるような私たちにならなきゃ駄目なんだから。
「待ってよ。じゃあ蛮奇ちゃんとお話ししたい時はどうすれば」
「またわかさぎ姫に会いに湖まで来るよ」
「でもでも! あの、じゃあ、影狼さんと話したいときは!?」
「私がまた竹林に運んであげるよ。わかさぎ姫さえ、よければね」
私の背後で、あうあうと声にならない声をあげている。
わかさぎ姫と同じ空間で過ごした一ヶ月間は楽しかったから、名残惜しくないと言えば嘘になる。でも、私たちのこれからのために。私はここを去る。
影狼宅の蛮奇ヘッドその七も、同時に影狼の家を去る準備を始めている。サービス終了だ。短い間のご愛顧、誠にありがとうございました。
別れの言葉もそこそこに洞窟出口に向かっていく。
止める言葉ももう思いつかないのか、わかさぎ姫は背後で押し黙ってしまった。
あ、でも、最後に。これだけは言っておかなくては。
私はくるりと振り返る。
「もし、姫が他人との間に貼られた膜を感じているのなら。それはきっといつだって、自分の心が生み出してるものだからね」
自分に勇気がないのを、相手の所為にしちゃ駄目だからね。
五、
「わかさぎ姫、今頃どうしてるかな。元気にしてるかな。メッセンジャーろくろ首やってた時は、この時間になったら、通信が来てたっけ。話せないの寂しいなあ」
六、
「影狼さん元気かな。お手玉、練習してるけど、見てくれる相手いなくなっちゃったからつまらないな。こないだまでは蛮奇ちゃんに見てもらったり、成果を影狼さんに報告したり、色々張り合いがあったのにな。寂しいわ」
七、
「「会って話がしたいな……」」
八、
「かんぱーい」
「……」
「……」
深夜の人里のとある居酒屋。
御座敷にてテーブルを囲んでグラスを合わせる影が三つあった。ここは普段は人間相手に和食とお酒を提供している普通のお店だが、人が寝静まった深夜にだけ、ひっそりと妖怪のためだけに店が開かれることがあるという。
人里に身を潜めて暮らす赤蛮奇はその噂を聞きつけ、第二回草の根妖怪ネットワーク懇親会の場をここを借りて設けることにしたのだった。
「いやー堂々と妖怪が集まれる場所が人里にあってよかったね。なんでも看板娘が妖怪なんだってよ、感謝しなくちゃね。名前は忘れたけど」
朗らかに笑いながら、蛮奇はぐいっとお酒を煽る。
しかし、他二人、わかさぎ姫と影狼はかちこちに固まったまま動かないでいる。それを見て蛮奇はため息を吐く。
頃合いを見て第二回草の根妖怪ネットワーク懇親会を打診したのは赤蛮奇だ。そろそろ話し相手ロスが深刻になりつつあるかな、ってタイミングだったが、思った以上に影狼もわかさぎ姫も食いついてきた。これなら今度こそ大丈夫だろうと高をくくっていたのだけど、実際にはこのありさまだった。
まだまだ打ち解けるには時間がかかるみたいだ。
でもまあ。
蛮奇はテーブルを挟んで座る二人を見比べる。
影狼は、座布団の上に正座して、うつむきがちにしている。だけどわかさぎ姫の方が気になって仕方ないらしく、ことあるごとに視線を姫の方に向けている。
一方のわかさぎ姫はと言えば、店内の内装が気になるらしく、ウェーブがかかった髪の毛をしきりに指で弄りながら、キョロキョロと周りを見ていた。お店に無理を言って用意してもらった、わかさぎ姫がすっぽり入る大きさのタライの中で、下半身の魚部分を所在なくチャプチャプやる音が響く。そしてこちらもやっぱり影狼のことが気になっているらしく、ときどきちらりと横目で影狼を見ていた。
あ、視線がぶつかった。
と思いきや、両者ものすごい勢いで首をひねって目線を逸らしてしまった。
なんだこの初々しい反応。こいつら童貞か? 赤蛮奇は呆れながら、ねぎま串をかじる。
でもまあ。いいんじゃない?
二人が同じ場にちゃんと出てきたってだけで大きな進歩だ。成長だ。蛮奇はそう思うことにした。
「あのっ」
「ぎゃあっ」
意を決したように口を開いたのは、わかさぎ姫だった。
話しかけられた影狼は、とても女子とは思えない驚きの声を上げて両手を膝の上に置いて、居住まいを正して正面を見る。
だけど、そこでまた沈黙。わかさぎ姫は黙ってじっと影狼の方を見る。ひたすら沈黙。向こうで、賑やかに誰かの笑う声がする。
「影狼さんは、その、狼女なんですよね?」
「はい! ごめんなさい!」
なぜ謝る、と思った赤蛮奇だったが、特にツッコミは入れず、煮物をつまんで食べる。
完全に観戦モードに突入していた。煮物は美味しかった。
「やっぱり満月の日は狼に変身したりするんですか?」
「いや、変身まではしないけど……ちょっと毛深くなるかな」
自信なさげにもじもじする影狼。それから視線を落とすと、しまった、という顔をしてから、長袖の袖口をぐいっと引っ張った。あと三日くらいで次の満月だ。服の中では相当毛が生えてきているに違いない。
気にすることないと思うけどなー、と赤蛮奇はサラダのヤングコーンをかじって、グラスを傾けた。
「ごめん、ちょっと見苦しいよね。あはは」
乾いた声で笑う影狼。それを、首が千切れんばかりに横にふってわかさぎ姫が否定する。
「そんなことないわ! すごいワイルドでかっこいい! こう、狼の妖怪ってだけでめっちゃかっこいい! ザ・妖怪って感じ! その上、ケモ耳も尻尾ももふもふで可愛いし……すごいいいと思う!」
鼻息荒く、わかさぎ姫。
身を乗り出さんばかりの勢いに、影狼はきょとんとした。わかさぎ姫は、我に返ったらしく身を縮こませた。
めんどくさいオタクかよ、と思いながら赤蛮奇は鳥軟骨の唐揚げをつついた。
「ごめんなさい、急に。わたし、あこがれの影狼さんに会えて舞い上がってしまって……はしたないですね」
わかさぎ姫は赤面しながら、しゅんとしてしまった。
それを見て、影狼も何かを決心したらしい。握りこぶしを作ると、今度は彼女の方が身を乗り出した。
「あの、こちらこそ、わかさぎ姫に会えて嬉しいわ! そのっ! 声も可愛いし、見た目も可憐で……」
こちらも負けず劣らず鼻息の荒い影狼。
努めて真剣な表情をしているつもりらしいが、よく見ると口角が上がっていて、結果として不気味なにやけ面になってしまっている。
めんどくさいオタクじゃねえか、と再び思いながら、赤蛮奇は鳥軟骨を奥歯でこりこりした。
「まあ、これから仲良くして行こうね、ってことでしょ」
流石にそろそろ出番かな、と赤蛮奇が二人の間をとりなす。
こくこく、と影狼とわかさぎ姫がうなづいた。やっと草の根妖怪ネットワークが本格始動する。歯車が回り始めた音を、蛮奇は確かに聞いた。
「じゃ、早速だけど。週一で定例ミーティングを開こうと思うのよ。議題は『下っ端妖怪の地位向上について』。三日後、とりあえず私の家集合でいい?」
赤蛮奇が切り出す。
すると。
「……三日後?」
「週一で……?」
おや? 二人の様子が……!
赤蛮奇は嫌な予感がした。
目線をさまよわせながら、影狼が掌を赤蛮奇の方に突き出した。
「あの……ちょっとそういうの私たちには早いっていうか……お互いのこともっと知ってからの方が……」
おや? どこかで聞いたセリフだぞ?
赤蛮奇は顔を引きつらせた。
一方、わかさぎ姫は、その両の目を、暴れる鯉みたくばちゃちゃ泳がせながらわたわたし始める。
「あのっ三日後はちょっと……実はその、叔父のニゴイ大臣が持病の痛風が悪化して……お通夜が……」
おやおや? どこかで聞いた言い訳が聞こえるぞ?
赤蛮奇は眉間を指で抑えた。さっき歯車が回り始める音がした、って言ったな。あれは嘘だ。してねーわガッチガチに錆び付いて一ミリも動いてねーわ。
こいつらめんどくせー! と叫び出したい気持ちを必死で抑えつつ、頭の中で考える。
私はクールなろくろ首。どんな時でも冷静に的確に、状況を打破する妙案を思いつくクレバーな妖怪。考えろ、この二人の仲を確実に深めて草の根妖怪ネットワークの絆をより強固にする案。
まあ、そうなると。
あれしかないわな。
赤蛮奇はおもむろに立ち上がる。何事かと彼女を見上げるクソめんどくさコミュ障妖怪どもを見下ろしながら、大きく吸い込み、声高に宣言した。
「メッセンジャーろくろ首、再開しました!」
<おわれ>
くそ面倒くせえ友人のために一肌もふた肌も脱ぐ世話焼きろくろ首の頑張りが報われる日、遠そうですねぇ……
わかかげ!
二人のために頑張る蛮奇ちゃんえらい。
めんどくさい2人のために蛮奇はこれからも頑張って欲しいですね。
難しそうだけどがんばれ!
どいつもこいつもコミュニケーション能力が悪い方向にこじれて、それがまたキャラの魅力となって引き立たせている。こんなにも軽くて可愛らしい40kBは初めてです。
最初から最後までニヤニヤが止まらず一気に読み切ってしまいました。素敵でした。
三者三様、ボケとツッコミのテンポがとても良い、なにげにわかさぎ姫と影狼で赤蛮奇ちゃんのキャラが一致していたり、糸電話の下りや、わかさぎ姫と影狼の面倒くささと赤蛮奇ヘッドのツッコミなど、最初から最後までずっと笑ってました。
一線を超えられない2人とそれをなんとかしようとする赤蛮奇、3人のやり取りがとても面白かったです。
わかさぎ姫と影狼の二人にやきもきさせられました
かわいらしくてよかったです
非常に面白かったです!
あとやっぱり一人称の地の文にも草の根それぞれのユーモアが現れていて読むのが楽しかったですね。だからこそ蛮奇の飛頭蛮を最大限活かした狂気の沙汰の裏が微妙に訳分かんなくなってまたそこで華があって、これじゃあ誰だって最後に『おわれ』って言いたくなります。いい加減お二人さんは早くくっついた方が良いですよねぇ!?もう読んでて応援したくなりますよその恋路。そのキューピッドの矢を放つ手段が常識の埒外なのが笑えてしょうがないのですが…。
本当にサイズ数以上に読みやすくって笑える中編でした。やっぱり地の文のユーモアセンスもそうですが、登場人物が三人だとボケツッコミ緩衝材が二転三転しながら何度も楽しませてくれる点も良かったです。面白く楽しい物語をありがとうございました、ご馳走様です。
こいつらメンドくせえけど可愛い