遠い昔に、とても大切な友達を持っていた気がする。いや、持っていたに違いないのだが、その名前も、声も性別も形も種族も思い出せはしない。
ボーっとしていると、突然に日が沈んでしまう。雲の流れに見とれていると、ふとした瞬間に月日が流れてしまっている。
ある時、視界の隅に、ちいさな、小さな白い花がぽつりと咲いていた。私はその花の顔がよく見たくて、視線を落とす。すでに花は茶色くしぼんでいて、手を差し伸べる前に花弁は塵となっていった。
ああ。
また今日が終わる。
今日の友達は、私がまばたきを終えるまで生きていてくれるだろうか。
◇
「もこーっ!もこー?」
耳元での声に驚かされ、私は深い眠りの中から自らの意識を掬い上げる。光に慣れぬ虹彩と、涙でぼやけた視界の中で、白い花が目の前でひらりひらりと舞う。やがてそれは友人の小さな掌だったと気づく。
「……んだ、けーねか」
「なんだじゃないだろ!なんでこんなところで寝てるんだ、死なないから死なないからって、おまえは少し不用心がすぎるぞ!」
彼女は私の手を掴むと、グイーっとひき上げてくれる。周りを見ると、そこは竹林の中で、私は手ごろな竹を枕にして昼寝(のつもりだった)をしていたようだ。つい寝込んでしまったようで、彼女がこの道を通るということは、夜になってかなりの時間がたっていたことを示している。
昨日はとうとう、何年も前から暮らしていた家が倒壊しかけ、私はそれを直そうと二日間寝ずっぱりで働いていた。
「わーった、家に帰るよ……」
「お、妹紅、家は直せたのか」
「どうせ倒れても死なないし大丈夫でしょ」
スパコンと小気味良い音を鳴らして、彼女は私の頭をげんこつで打った。我ながらいい音を鳴らす頭だと思う。
「痛いなー、何するんだよ」
「馬鹿なこと言うんじゃない!お前はいつもそうやって。いいから私の家に泊まらせてやるから、あんまり自分の体を危険に曝すんじゃない!」
「へいへーい」
毎度毎度、別に私が死んで何が減るわけでもないのに、よくお小言を言う気になるな、と思う。
げんこつを食らった部分を擦りながら彼女の顔を見る。以外にも、本気で怒っている顔に見える。めんどくさい奴だな、とは思いつつも、あんな顔で叱られてしまっては。
「けいねー、明日寺子屋休みだろ?」
「ん、そうだけど、何かあるのか?」
二人で竹林のけもの道を歩いているとき、私はすとんと思いつきが降りてきて、彼女に尋ねる。
「ちょっと待ってな」と彼女を引きとめ、しばらく藪をかき分けて崩れた我が家に戻る。幸いにも、炭などを売ってせこせこ稼いだ金で買った酒は潰されていなかったのだ。
「じゃーん、さけー」
両手に瓶を持って彼女の元に戻る。やれやれといった顔で見つめられるが、私は彼女が人一倍酒好きなのを知っているのだ。
「まーたすぐお前は酒とヤニばっかじゃないか!」
「酒で体が壊れないのは不死身になって唯一の得した点かな」
ため息を漏らす彼女の横でニヤニヤと笑う。
竹林の道すがらにある彼女の家まで、つるつるとした肌寒い空気を感じながら歩いていく。
私は彼女のことが好きだ。本当に。
この他愛もない、二人で居れる時間のことを、まるで世界の真理か何かのように美しいものだと信じていた。
◇
「だっはぁ~。ホントにあそこの奥さん嫌いだぁ!」
「はははは、やっぱあるあるなんだなー」
彼女は例にもれず、どっぷりと酔っぱらって愚痴り始めていた。大勢の子供たちを相手にしていれば鬱憤も溜まるに決まっている。だがしかし、彼女はそのかっちりした性格もあって、そうしたストレスを発散するのが苦手だ。だからこうやって、たまに酒を飲ませては聞き出してやる。
「それでなぁ……えーっとだれだっけか、名前が出てこない……」
彼女は日記を開いて名前を探しているようだ。
彼女はいつもこの日記を書いているようで、大体私が聞いている彼女の愚痴は、ここに書き綴られている。正直、私のようなものぐさ太郎には日記などする力はないし、正直な所、つけていて何が楽しいのか分からない。どうせ数百年で紙も腐り、そうした記憶は忘却の彼方へと追いやられていってしまうのだから。
「うわ。日記付けれるのか。すごいな、私なんて三日といわず二日でやめちゃうよ」
「ははは、妹紅らしいな」
彼女は日記に目を走らせながら言う。ちらと見ると、彼女の日記の中には押し花や絵が挟まっているのが見える。
「なあ、日記なんてつけてて楽しいのか?」
「んー、楽しいっていうか……私はその日その時起こったことを忘れたくないんだ。楽しかったことも、嫌だったことも、目を離した隙にみんないなくなっていってしまうからな。だからさ、こうしておけば、絶対に思い出せる」
「フーン」私は間の抜けた返事で答える。
ふと彼女はあるページで手を止めて、ピタンと額を叩きながら言った。
「そうだ、甘味屋のところの!最近物忘れが多くてさあ、おばあちゃんになってきたかな、あはは」
「はは……」
「おばあちゃんになってきた」という言葉を聞いて、私は常に背負わされていた、いつの間にかその重みを忘れていた罰を思い出す。そうすると私の顔から、酒にのぼせた暑さも引いていくような思いがした。
気まずい沈黙が頭上でとぐろを巻く。沈黙に耐えられずか、何とはなしに彼女が酒を注いでくれた。
「ねえ、けーねはどの位生きてたいとか、考えたことある?」
「……私?私は……」
数秒、わたしは何でそんなことを訪ねたのか、訳が分からなくなる。酔っているせいでついて出た言葉ではない。リンゴが落ちるように、すとんとその問いが私の頭に降りてきてしまった。その一瞬を後悔する。
「ごめん、忘れて。変なこと言った。さ、のものも」
答えを聞くのも怖くて、私は無理くり彼女に酒を勧めた。
「妹紅」
彼女が私の名前を呼ぶ。なんでか、少し力が入ったような声で。
「私は……私はお前が死ぬまで生きていたい」
彼女は盃を置いた。中からきらきらとした液体が彼女の顔を映す。
私は呆気に取られて、ポカンと彼女の顔を数秒見つめる。
「ご、ごめん。忘れてくれ」
急に臭い台詞を吐いたかと思ったら、今度は赤面してしまった。なんだかその様子がおかしくて堪らなくなり、私は腹を抱えて笑う。
「な、なんだよ笑うな!ちょっと飲みすぎて頭がおかしくなってきただけだ!」
あまりの恥ずかしさからか、彼女は涙ぐんでいるように見える。
私もあまりの面白さからか、涙が出てくる。
「ああ、はぁ、こりゃ傑作だよ、けーね」
ぼやけてきた視界を拭う。
そこは床板の腐った、真っ暗なボロボロの家だった。
盃も、酒も、つまんでいた肴もそこにはない。何を食べたのかすら思い出せない。
どうやらすべて夢だったようだ。
―――自分はなぜここにいる?
こんな時間に、私はこのぼろ屋敷で寝てしまっていたようだ。
私は家が壊れてしまったので、ずっと昔から誰も住んでいないこの空き家から、使える部品か何かが出てこないかと探しに来ていたんだった。
誰の家だったか知っている気がする。しかしどうでもいいことだ。その誰かはとっくに死んでいるだろう。
私はおもむろに立ち上がる。
ふと近くの棚を見ると、その上に一冊の本が置かれていた。なんだか無性に気になって、その本を手に取ってパラパラとめくってみる。黴臭い香りが鼻を突き、思わず顔をしかめた。
なんのことはない。ただの日記のようだ。
裏表紙を見る。
「かみしらさわ……けいね?」
妙に聞き覚えのあるような音列だった。
なんでか、突然、瞼が熱くなるのを感じる。
あの時、あの人の頬に走った二つの線が、今も私を呼んでいるような気がする。
あの時、何千回使い古したかわからない愛を、私はこの人にきっと向けていた。
私はそう確信する。
「けいね……けいね……名前は、けいね……」
私は、遠い昔に愛すべき友人を持っていた。今では声も性別も形も種族も思い出せはしない。
ただ、その名前が『慧音』であることを、私は今ようやく知れた。
私はその名前を抱きしめる。
「また思いだして見せるからな、けいね」
私は、自分の日記に彼女の名前を記した。
ああ。
また今日が終わる。
いつかの友達を、私は明日も思い出して生きていく。
ボーっとしていると、突然に日が沈んでしまう。雲の流れに見とれていると、ふとした瞬間に月日が流れてしまっている。
ある時、視界の隅に、ちいさな、小さな白い花がぽつりと咲いていた。私はその花の顔がよく見たくて、視線を落とす。すでに花は茶色くしぼんでいて、手を差し伸べる前に花弁は塵となっていった。
ああ。
また今日が終わる。
今日の友達は、私がまばたきを終えるまで生きていてくれるだろうか。
◇
「もこーっ!もこー?」
耳元での声に驚かされ、私は深い眠りの中から自らの意識を掬い上げる。光に慣れぬ虹彩と、涙でぼやけた視界の中で、白い花が目の前でひらりひらりと舞う。やがてそれは友人の小さな掌だったと気づく。
「……んだ、けーねか」
「なんだじゃないだろ!なんでこんなところで寝てるんだ、死なないから死なないからって、おまえは少し不用心がすぎるぞ!」
彼女は私の手を掴むと、グイーっとひき上げてくれる。周りを見ると、そこは竹林の中で、私は手ごろな竹を枕にして昼寝(のつもりだった)をしていたようだ。つい寝込んでしまったようで、彼女がこの道を通るということは、夜になってかなりの時間がたっていたことを示している。
昨日はとうとう、何年も前から暮らしていた家が倒壊しかけ、私はそれを直そうと二日間寝ずっぱりで働いていた。
「わーった、家に帰るよ……」
「お、妹紅、家は直せたのか」
「どうせ倒れても死なないし大丈夫でしょ」
スパコンと小気味良い音を鳴らして、彼女は私の頭をげんこつで打った。我ながらいい音を鳴らす頭だと思う。
「痛いなー、何するんだよ」
「馬鹿なこと言うんじゃない!お前はいつもそうやって。いいから私の家に泊まらせてやるから、あんまり自分の体を危険に曝すんじゃない!」
「へいへーい」
毎度毎度、別に私が死んで何が減るわけでもないのに、よくお小言を言う気になるな、と思う。
げんこつを食らった部分を擦りながら彼女の顔を見る。以外にも、本気で怒っている顔に見える。めんどくさい奴だな、とは思いつつも、あんな顔で叱られてしまっては。
「けいねー、明日寺子屋休みだろ?」
「ん、そうだけど、何かあるのか?」
二人で竹林のけもの道を歩いているとき、私はすとんと思いつきが降りてきて、彼女に尋ねる。
「ちょっと待ってな」と彼女を引きとめ、しばらく藪をかき分けて崩れた我が家に戻る。幸いにも、炭などを売ってせこせこ稼いだ金で買った酒は潰されていなかったのだ。
「じゃーん、さけー」
両手に瓶を持って彼女の元に戻る。やれやれといった顔で見つめられるが、私は彼女が人一倍酒好きなのを知っているのだ。
「まーたすぐお前は酒とヤニばっかじゃないか!」
「酒で体が壊れないのは不死身になって唯一の得した点かな」
ため息を漏らす彼女の横でニヤニヤと笑う。
竹林の道すがらにある彼女の家まで、つるつるとした肌寒い空気を感じながら歩いていく。
私は彼女のことが好きだ。本当に。
この他愛もない、二人で居れる時間のことを、まるで世界の真理か何かのように美しいものだと信じていた。
◇
「だっはぁ~。ホントにあそこの奥さん嫌いだぁ!」
「はははは、やっぱあるあるなんだなー」
彼女は例にもれず、どっぷりと酔っぱらって愚痴り始めていた。大勢の子供たちを相手にしていれば鬱憤も溜まるに決まっている。だがしかし、彼女はそのかっちりした性格もあって、そうしたストレスを発散するのが苦手だ。だからこうやって、たまに酒を飲ませては聞き出してやる。
「それでなぁ……えーっとだれだっけか、名前が出てこない……」
彼女は日記を開いて名前を探しているようだ。
彼女はいつもこの日記を書いているようで、大体私が聞いている彼女の愚痴は、ここに書き綴られている。正直、私のようなものぐさ太郎には日記などする力はないし、正直な所、つけていて何が楽しいのか分からない。どうせ数百年で紙も腐り、そうした記憶は忘却の彼方へと追いやられていってしまうのだから。
「うわ。日記付けれるのか。すごいな、私なんて三日といわず二日でやめちゃうよ」
「ははは、妹紅らしいな」
彼女は日記に目を走らせながら言う。ちらと見ると、彼女の日記の中には押し花や絵が挟まっているのが見える。
「なあ、日記なんてつけてて楽しいのか?」
「んー、楽しいっていうか……私はその日その時起こったことを忘れたくないんだ。楽しかったことも、嫌だったことも、目を離した隙にみんないなくなっていってしまうからな。だからさ、こうしておけば、絶対に思い出せる」
「フーン」私は間の抜けた返事で答える。
ふと彼女はあるページで手を止めて、ピタンと額を叩きながら言った。
「そうだ、甘味屋のところの!最近物忘れが多くてさあ、おばあちゃんになってきたかな、あはは」
「はは……」
「おばあちゃんになってきた」という言葉を聞いて、私は常に背負わされていた、いつの間にかその重みを忘れていた罰を思い出す。そうすると私の顔から、酒にのぼせた暑さも引いていくような思いがした。
気まずい沈黙が頭上でとぐろを巻く。沈黙に耐えられずか、何とはなしに彼女が酒を注いでくれた。
「ねえ、けーねはどの位生きてたいとか、考えたことある?」
「……私?私は……」
数秒、わたしは何でそんなことを訪ねたのか、訳が分からなくなる。酔っているせいでついて出た言葉ではない。リンゴが落ちるように、すとんとその問いが私の頭に降りてきてしまった。その一瞬を後悔する。
「ごめん、忘れて。変なこと言った。さ、のものも」
答えを聞くのも怖くて、私は無理くり彼女に酒を勧めた。
「妹紅」
彼女が私の名前を呼ぶ。なんでか、少し力が入ったような声で。
「私は……私はお前が死ぬまで生きていたい」
彼女は盃を置いた。中からきらきらとした液体が彼女の顔を映す。
私は呆気に取られて、ポカンと彼女の顔を数秒見つめる。
「ご、ごめん。忘れてくれ」
急に臭い台詞を吐いたかと思ったら、今度は赤面してしまった。なんだかその様子がおかしくて堪らなくなり、私は腹を抱えて笑う。
「な、なんだよ笑うな!ちょっと飲みすぎて頭がおかしくなってきただけだ!」
あまりの恥ずかしさからか、彼女は涙ぐんでいるように見える。
私もあまりの面白さからか、涙が出てくる。
「ああ、はぁ、こりゃ傑作だよ、けーね」
ぼやけてきた視界を拭う。
そこは床板の腐った、真っ暗なボロボロの家だった。
盃も、酒も、つまんでいた肴もそこにはない。何を食べたのかすら思い出せない。
どうやらすべて夢だったようだ。
―――自分はなぜここにいる?
こんな時間に、私はこのぼろ屋敷で寝てしまっていたようだ。
私は家が壊れてしまったので、ずっと昔から誰も住んでいないこの空き家から、使える部品か何かが出てこないかと探しに来ていたんだった。
誰の家だったか知っている気がする。しかしどうでもいいことだ。その誰かはとっくに死んでいるだろう。
私はおもむろに立ち上がる。
ふと近くの棚を見ると、その上に一冊の本が置かれていた。なんだか無性に気になって、その本を手に取ってパラパラとめくってみる。黴臭い香りが鼻を突き、思わず顔をしかめた。
なんのことはない。ただの日記のようだ。
裏表紙を見る。
「かみしらさわ……けいね?」
妙に聞き覚えのあるような音列だった。
なんでか、突然、瞼が熱くなるのを感じる。
あの時、あの人の頬に走った二つの線が、今も私を呼んでいるような気がする。
あの時、何千回使い古したかわからない愛を、私はこの人にきっと向けていた。
私はそう確信する。
「けいね……けいね……名前は、けいね……」
私は、遠い昔に愛すべき友人を持っていた。今では声も性別も形も種族も思い出せはしない。
ただ、その名前が『慧音』であることを、私は今ようやく知れた。
私はその名前を抱きしめる。
「また思いだして見せるからな、けいね」
私は、自分の日記に彼女の名前を記した。
ああ。
また今日が終わる。
いつかの友達を、私は明日も思い出して生きていく。
酔っぱらってぶっちゃける慧音がかわいらしかったです
もう記憶が磨耗して思い出せなくなってきていても、なんとか保とうとしている姿が印象的でした。
面白かったです、ありがとうございます。