最悪の気分だった。
目を覚ました場所は悪臭のする掃き溜めで、とにかく頭痛がする。
身体のあちこちに擦り傷が見られたし、何箇所かは殴られた後の様な腫れが出来ていた。
覚醒した途端にこんな状況なものだから未だ働く事を拒もうとしている頭を抱える他無かった。
どうして私はこんな所で寝ているのか。
自分が周囲のゴミと同じ様にして捨てられているのなら、大抵の者がこんな風に思う筈だ。
無論、それは私も例外では無く、今自らが置かれた状況に困惑をしている。
恐らく昨日の自分が何かやらかしたのだろう。
私は痛む頭に鞭を打って、前日の出来事の想起を始める事にした。
「あーそういやそうだったな」
まず第一に思い出した事は、昨日は無性に苛立っていたという事だ。
目に付いたゴミを蹴り飛ばし、唾を吐きかけたりして私は漫ろに歩き続けていたのだ。
大抵はそのくらいで気が紛れるのだが、その日は何故か特別気が立っていたのでどうにも収まりがつかない。
そこで、私は珍しく酒の力を頼ることにしたのだ。
酒を呑む事はあまり無い。
お尋ね者であるが故にそんな悠長な事をしている余裕が無いし、酔うと足取りが覚束無くなって逃げられなくなるからだ。
だからと言って酒が嫌いという訳ではない。
寧ろ酒自体は好んで呑む方である。
ただ呑める程の余裕が無い、それだけなのだ。
しかし、この日の私はそんな事を気にしてはいられなかった。
直ぐにでも酒を呑みに行こうと、私は人里の屋台に行く意を固める。
私は妖怪だと悟られない様に変装をし、夜の人里へと躍り出た。
そうして酒を呑み始めてからの記憶は靄がかかっている様で、中々思い出せなかった。
目覚めから続いている頭痛を考えるに、相当な量を呑んだのだろう。
前日の自分に悪態をつきながら私は記憶の想起を続けた。
数分間粘りに粘ってようやく思い出した記憶は、予想はしていたが余り良い物では無かった。
断片的にしか思い出せなかったが、如何やら無銭飲食を図ったらしい。
当然だろう。追われる身だし、雇ってくれる様な店も無い。
私は働く気など毛頭無かったし、普段の生活は盗みなどをして繋いでいた訳だから、この日も何時もと何ら変わらず食った後に逃げるつもりだったのだ。
逃げる事には自信がある。
普段の私なら人間の足程度に追い付かれる訳も無い。
無いのではあるが、本当に無かったのならば今こんな状況にはなっていないだろう。
何時もの私ではなかった理由、それは頻繁に呑む訳でも無い酒をましてや大量呑んでいたという事だ。
幾ら人間程度と言っても千鳥足で逃げ切る事など出来る筈も無く、かくして私は無様に捕まったのだ。
そこからは、まぁ暴力の嵐だった。
そうしてそれが、酒によってもはや確然としなかった意識に止めを刺す切っ掛けとなった。
「はぁ……」
思い出したくもない事を思い出した。
私の気分は悪くなり続ける一方で、惨めな自分に対しての嫌悪感が私を心を一杯にしていた。
憫然さという大海に引き摺られ、その中から浮き出る種々雑多な感情が枷となって私を縛り付ける。
こうなると、酷く無気力になって動く事を拒みたくなるのだ。
そうは言っても、ずっとこの掃き溜めで寝ている訳にもいかない。
動かなければこのままずっと無様な格好なのだ。
私はふらふらと立ち上がり、身体に纏わりついていた汚れを払う。
早々に立ち去ろうとして、ふと目線を足元に下ろした。
猫の死骸が、其処にあった。
そして、その死骸に寄り添う様にして一匹の薄汚れた子猫が鳴いていた。
恐らく親子なのだろう。
親猫の方は外傷が酷く、子猫の方も軽く傷を負っていた。
大方、親猫が子供を庇ったとかで死んだとかなのだろう。
どうしてこうも親という奴は自己を殺してでも子供を守ろうとするのか。
母親の無性の愛という奴だろうか。何にせよ私が一生理解出来ない感情で、一生理解したいとは思わない感情だという事に間違い無かった。
子猫の鳴き声が頭に響く。
煩い、兎に角煩い。
母親を失った慟哭など私には知った事では無いのだ。
一刻も早くこの場から逃げ出したくて、未だ在る痛みを無視して駆け出した。
どういう訳か、子猫の声がもう消え入る頃になっても私の中には鬱陶しさが残り続けていた。
次の日、何気なく昨日の子猫の許へと行く事にした。
別に心配になった訳では無い。
私を不快にさせたあいつが如何しているのか見てやろうと思っただけである。
死んでいれば私を不快にさせた罰だと笑ってやれば良いし、しぶとく生きているのであれば痛い目に合わせて、二度と私に近付かない様にしてやろうとそう思っての行動だった。
あの掃き溜めに着いて真っ先に目に付いたのは親猫の死骸だった。
まだ一日しか経ってないのに、もう蛆が湧き始めている。
そしてあいつはやはりと言うかその死骸に寄り添い続けていた。
呆れたもんだ、死んだ母親などさっさと捨てれば良いのに。
こいつには生きる気が無いのかとそんな事を思った。
まぁいい、私の目的はこいつにちょっかいをかけてやる事なのだ。
猫が嫌いな水でもぶっかけてやるか、それとも尻尾でも思いっ切り握ってやろうか。
そうして私があれこれ悩んだりしている内に、数羽の烏がやって来たのが目に映った。
あいつも招かれざる客達が来た事に気付いた様で毛を逆立てて威嚇を始める。
その烏達は子猫の方を見つめており、獲物として捉えている様だった。
それに気付いた時、私は自分の獲物が烏達に奪われる様な気がして堪らなくなった。
烏達が今にも飛び掛かろうする瞬間に、私は一気に走り出した。
怒声と罵声を交互に叫びながら、私は一匹の烏を蹴り上げた。
蹴られた烏が、掠れた声を吐き出しながら退き始める。
烏達は不意の攻撃と仲間に被害が出た事に慄いたのか、次々と飛び去って行った。
少しして蹴られた烏も飛び立てる程に回復した様で仲間の後を追って行った。
さて、これで邪魔者は居なくなった。
何も気にせずにあの忌々しい子猫を虐め倒す事が出来る。
早速始めてやろうと嬉々として視線を移すと、あいつと目が合った。
「にゃあ」
あいつはあの不愉快極まりない声を発したと思うと、私に近づいて来たのだ。
それには何ら警戒心を含まれておらず、まるで私に気を許した様な行動だった。
一瞬理解が出来なかった。
これから虐めてやろうとしている相手から懐かれようとしているだと?
冗談じゃない!
何を勘違いしたのかは知らんが、あいつは私を外敵から守ってくれた正義の味方的存在だと思ったいるらしい。
本当に反吐が出そうだった。
私は天邪鬼で正義の味方なんかでは絶対に無いし、そんな風に見られるなんてのも尚更御免だった。
「あーくそ! なんなんだこいつは!」
もう相手にする気も失せてしまった。
私は悪態をつきながら、二度とこの場所には近付かないと心に決め踵を返す事にした。
だが、これであの煩わしい子猫とは会わなくて済むという私の期待は叶ってはくれなかった。
今度のあいつは付いてくるのだ、私の後を。
首根っこを掴んで放り投げてやろうとも思ったが、此処はまだ人里の中で人目についてしまうからそんな真似は出来ない、と言うより猫が付いてくる時点で充分人目についてしまっていて、何も行動を起こせなかった。
周囲の人間達からは物珍しそうな視線が送られてくる。
私はそれに耐えかねてより一層足並みを速くする。
それでもあいつは振り切れない。
それがまた周囲の人間の興味を集めていくのだ。
これ以上下手な真似は出来ないと本当に仕方無く、猫を連れた変人という自らの状態を一時的に受け入れる事にした。
もう少しで里を抜ける頃だった。
人目を気にしなくて良くなったらどうこいつを引き剥がそうかと思っていると、不意に背後から声を掛けられた。
「おい、あんた。そう! そこの猫連れたあんただよ」
一瞬私の事とは分からなかったが、猫を連れて歩いている者など私しか居ない事に気付き、そう呼ばれる事に苛立ちながら後ろを振り返る。
どういう訳か私は魚を手渡されていた。
「えっと、これは?」
「いやあ、猫をお供にして外を歩いてるなんて随分面白いもんを見させて貰ったからさ。お礼みたいなもんだよ」
「はぁ……まぁどうも」
「ほら、そこの子猫にも鱈腹食わせてやりなよ?」
私に声を掛けてきたのは如何やら魚屋の店主で、店の商品から適当な物を私に渡したそうだ。
猫に此処まで好かれている奴など見た事が無い、そう言って私を笑った。
其処からは店主の雑談が続き、私は良い加減店主をぶん殴ってでも帰りたかったが、此処で騒ぎを起こす訳にもいかない。
身体はまだ完全に回復していないし、また巫女にでも目を付けられたら堪ったもんじゃない。
それにしても、私があいつを連れている事が余程可笑しく映った様で、今でもじろじろと私とあいつを見つめている。
私はその視線から逃げる様にして渡された魚を見た。
乞食をしているつもりは無かったし、施された様で気には食わなかったが、貰える物は貰っておこう。
私は大人しく受け取る事にして、店主の話に隙が生まれたと見ると、直ぐ様礼を挟んで逃げ出した。
私が魚屋の拘束から脱出した後もあいつは律儀に付いて来ていた。
そして私の手には更に荷物が増えていた。
魚屋の店主と同様に、私に何かしら渡してくる奴が数人程居たのだ。
それでも今の私はそれらの事など既にどうでも良くなっていて、早く里から出たいという事しか考えていなかった。
漸く里を抜けた。
その事実に実感が伴った瞬間、どっと疲れに襲われた。
自分でも気付かない内にかなり神経を使っていたらしい。
「さて、後はこいつをどう引き剥がしてやるかだ」
もう人目を気にする必要も無い。
貰った物は全部私の物にするとして、一刻も早く厄介極まりないこの猫から離れたかった。
「なんだ、空飛べば良いじゃないか」
放り投げるにしては私の力では限界があるし、未だ全力で走れる様な体力まで回復はしていない。
ならば空を飛べば良い。
こいつは何処からどう見てもただの猫であって、空は飛べない筈だ。
そうと決まれば話は早い。
私は勢い良く飛び上がろうとして足を浮かせた。
「にゃあ」
そのまま一気に加速しようと上昇した時、背後からあいつの鳴き声がした。
勢いで振り向くと、またあいつと目が合った。
私は咄嗟に目を逸らす。
あいつの瞳は何かを訴えかけている様で酷く潤んで見えた。
一瞬私に迷いが生じる。
このままあいつを置いていって良いのか。
そんな天邪鬼たる私らしくはない迷いが。
「ちっ!」
私はそんな自分に無性に腹が立った。
怪我のせいで調子が悪いだけだと自分に言い訳をして、私は無理矢理怒りを抑え込める。
私はあいつが訴えてくる全てを無視して、逃げる様にして飛び上がった。
見る見る内に地上から離れていき、空が近づいて来る。
私はようやっと解放された様な気分になったが、何処かほんの少しの蟠りの様なものが残っていた。
私はその途中でもう一度だけ後ろを見た。
あいつはまだ、あの場に立ち続けていた。
私は何を想ったのだろう。
気が付くと私はあいつの方へと戻っていた。
自分でも理解出来なかった。
どうして私は戻っているのか、あいつを置いていくんじゃなかったのか。
私の頭は思考と行動の不一致にかき混ぜられていて、もう何もかもが分からなくなっていた。
あいつの目の前に着いたや否や、私は大声で捲し立てた。
「いいか!? 私がお前を連れて行くのは決してお前が可哀想だからとかいう理由じゃあないからな! お前が居れば勝手に飯が手に入るってだけなんだからな!」
それらしい理由をたかが猫相手に叫び続けた。
猫相手に無駄だと分かっているのに、それでも私は止まらなかった、否止められなかった。
当然、初めからこんな理由を考えていた訳では無い。
尤もらしい理由を付けて、私はどうにかして私を納得させようとしただけなのだ。
自分の行為を正当化しようと必死こいて猫に叫び続けたのだ。
その間こいつは黙って私の瞳を見続けていた。
暫くして叫び疲れた頃、私は最後に振り絞る様にして、わかったなと脅す様にして言い聞かせた。
こいつは返事をしたつもりだったのだろうか、にゃあと一声鳴いて満足そうな表情を浮かべていた。
猫を川で洗うことにした。
汚れた状態で一緒に過ごされるのは嫌だったし、何より小綺麗な方が里の人間どもに好かれ易くなると思ったからだ。
あの時は勢いに任せて言っただけだったが、よくよく考えてみると、こいつが居たおかげで今日の食事に困らないというのは事実である。
だから私は、こいつを利用出来るだけ利用してやる事にしたのだ。
洗ってみるとこいつは真っ白な毛を携えた白猫だった。
洗う前からは想像も付かなかったので、少し意外だった。
濡れた毛を乾かそうと躍起なって身体を舐めているあいつを横目に、私は里で貰った魚の調理を始めた。
あいつに餓死でもされたら困るので、私は猫が食べる程度に魚を切り取ってやった。
いざ私も食べようとしたら、あいつが足りないと騒ぎ始めた。
どんなに怒っても鳴くのを止めなかったので、私はとうとう勘弁してもう少しだけ魚を分け与えた。
あいつはあの時の様に満足そうな顔をしていて、私は何処か負けた様に感じた。
癪に触ったので、分けてやった魚を取り返そうとしたら、思いっきり噛まれた。
指から滲んでくる血を見て萎えてしまったので、もうそれきりにした。
それからの生活はこいつが付いてきた日と殆ど変わらなかった。
貰い物が尽きたら里に行った。
大抵は、誰かしらがこの猫を面白がって色々渡してきたりするのでやはり食事に困る事は無くなった。
食べ物じゃ無い物は基本的に必要無かったし、質に入れたり何だりして金を得た。
得た金で顔が知れてる店へと買いに行ってやれば猫サービスとの事でいつもおまけが付いてきた。
何週間かするとあいつの方が川から魚を取って来る様になった。
私もそれに倣うようにして魚を取った。
初めは上手くいかなくて苛立ったが、今では、1日であいつと合わせて数匹は取れるようになっていた。
そうしてくると、里へ出向く頻度が落ちてくる。
暫く時間が空いて里に赴くと、皆待っていましたと言わんばかりの顔で私達に話しかけてくる。
そしてまた色々とおまけ等を貰って帰るのだ。
その繰り返しだった。
その様にして私達は日々の飢えを凌いできた。
魚を取れるようになって日々の生活は安定してきたし、盗む必要も無くなったので里で騒ぎを起こす危険も無くなった。
あいつはこの生活がすっかり気に入った様だった。
かくいう私もこの生活に自然と順応していた。
たまに遊んでやったり、一緒に寝てやったりする、この刺激の無い生活に。
そんな中、久し振りに里へ出向いた時だった。
私達はいつしかあの場所に立っていた。
もう二度と近づくまいと誓った場所、こいつと初めて会った場所、この生活の全てが始まった場所だった。
もう既にあの親猫の死骸は無くなっていた。
誰かが埋めてやったのか、それとも烏や蛆虫にでも食べられたのか。
それすら分からない程、この猫の親は影も形も無くなっていた。
気付くと、あいつが、かつて親が死んでいた場所で立ち尽くしていた。
何を想っているのかは分からなかった。
何を感じ、何をしようとしてこの場に立ち続けているのか、私にはさっぱりだったけど、酷く辛いものに思えた。
あいつに釣られていたのか、私もあいつを見続けていたらしい。
邪魔をしようとは思わなかった。
今だけは、そっとしておいてやろうと思った。
時間にしては数分程度だったのだろうが、それでもその時間は、数時間にも数年にも果ては永遠にでも感じられた。
そう想わせる程、あいつは永く永く立ち続けていた。
暫くして、あいつが動き出した。
あいつは私の目を見つめていた。
私はどうにも居た堪れなくなったので、あいつとは目を合わせなかった。
「帰るぞ」
あいつに向かって一言そう言うと、あいつは黙って私に付いて来始めた。
その日の夜、あいつは何時もより飯を食べなくて、直ぐに眠りについていた。
私も早めに寝ようとしたが、どうした訳か寝付きが悪くて中々眠れなかった。
何時迄も、あの場所の事が頭から離れなかった。
いつの間にか寝ていたらしい。
まだ重い目蓋を擦って、私は辺りを見回した。
あいつは珍しくまだ寝ている様だった。
普段は早起きで私の事を起こしてきたりするのに、今日に限っては私の方が早起きだった。
ちょっかいでもかけて起こしてやろうかとも思ったが、不意に昨日の事を思い出したのでそのまま寝かせておく事にした。
顔を洗うついでに魚でも取ってきてやろうかなと、私は川へと向かった。
私が川で捕まえた魚を持って帰ろうとしている頃、シャーという猫が威嚇している声が聞こえた。
私は持っていた魚を川に放り投げて駆け出した。
この辺にあいつ以外の猫が居るのは見たことが無かった。
つまりあの威嚇はあいつのものなのだ。
私は不安で押し潰されそうになるのを堪えながら、あいつの許へと急いだ。
鳴き声がした方へ辿り着くと、あいつが血を流して倒れていた。
周りには三匹の狼の様な妖怪が居て、私がやって来た事に気付いて此方を睨んでいる。
状況から見るに、あいつを食べてる訳では無い様だった。
原型を留めているし、何より外傷がまだ小さい。
この妖怪達は食べようと思えばすぐにでもあいつを食べる事が出来た筈なのに。
つまり、奴等はあいつを嬲り、甚振る事を楽しんでいたのだ。
恐怖で歪むあいつの顔を見て、こいつらは笑っていたのだ。
その事に気付いた時、全身に寒気が襲ってきて、私の理性が消失した。
「この……糞野郎共がぁぁ!!」
私に力が有ればどんなに良かっただろう。
昔から、何度も何度も思った事だった。
力の無い私は、たかが雑魚妖怪三匹を相手にするだけでボロボロだった。
私の身体の至る所からは血液が逃走を図っていて、辛うじて保っている意識も、もう殆ど限界に等しい。
私の横には一匹の妖怪の死骸があって、そしてあいつが私に向かって鳴き続けている。
残りの二匹は仲間が死んだのを見て逃げ出していた。
馬鹿な奴らだ、あのまま二匹で私に噛み付いてでもすれば私は直ぐにでも死んだだろうに。
私はそんな事を思いながら、奴等の臆病さを嘲笑った。
「……ぐっ……はぁ……煩い、なぁ……私は……こんなんじゃ死なないって……」
嘘を言った。
あいつを少しでも安心させてやろうとして咄嗟に出たものだった。
それでも、あいつは鳴く事を止まなかった。
凄く頭に響いてくる。
それはまるで、あの日のあいつの様だと思った。
ただ、どういう訳なのか、あの日の様にその声を聞いても不快にはならなかった。
寧ろ、安堵すら覚えてくる。
不意に、あの日死んでいた親猫を思い出した。
そう、今の私の様にあいつを庇って、そして死んだあの猫。
あの親猫も、今の私と同じ気持ちだったのかなぁ。
これから死にゆく筈なのに恐怖は感じない。
守れたという安堵に満たされながら意識が消えていくのを待つ、そんな不思議な気持ち。
足音が聞こえた。
何者かは分からないが少なくともさっき追い払った奴らでは無さそうだった。
どんどん此方に近づいて来る。
隣で鳴き続けているあいつに直ぐに逃げるように伝える。
それでもあいつは動かない、私から離れようとしない。
私は苛立って、鉄の匂いがする液を吐きながら語気を強めて言った。
「……はやく、逃げ……ろ、っ! 何の……為に助けて、やったと……思ってるんだ……!」
そうこうしている間に、足音の持ち主が私の前へ辿り着いた。
私の視界は殆どが暗くなっていて、最早どんな奴が目の前に居るかは分からなかった。
それでも、私達に近付いてきたというのなら、何らかの目的が有るに違い無いのだ。
私はあいつが逃げる時間を稼ごうと、文字通りの死力を尽くそうと全身を動かそうとした。
ただ、そんなものは私には残されていなかった。
私の意思とは反対に、身体は全く動いてくれなかった。
既に私の身体は死んでいて、残っているのはもう意識だけだった。
私の目の前に居る誰かが、あいつを持ち上げたのが分かった。
「……ひど……けが……はやく……手当……してやら……いと……」
奴が何かを言っていたが、私の耳もやはり死の淵に立っている様でまともには聞き取れなかった。
あいつが奴の腕で私に向かって鳴き続けている。
早く取り返さなくてはいけない、そうしないといけない筈なのに、私の身体は言う事を聞いてはくれない。
あいつを取り返したいのに、何も出来ない自分が本当に悔しかった。
力が無くて動かずにいる弱い自分が本当に恨めしかった。
私からあいつを奪おうとする奴が本当に憎かった。
そんな感情がごちゃ混ぜになって、私の目頭が熱くなってきて、そうして色んな物が溢れていった。
「連れて行かないでくれ! そいつは、私の大事な、大事な──」
言わなくてはいけないと思った。
これまで何百年も生きてきて築き上げた私のアイデンティティを崩壊させてでも言わなくちゃいけないと思ったんだ。
私の大事な家族なんだって。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、私は叫んだ。
叫んだと思った同時に意識を失ったので、本当に叫べていたかは定かではないけれど、私は叫んだんだ。
愛する家族を返してくれと。
知らない場所で、目を覚ました。
暫くの間、茫然としていた。
此処が三途の川でも地獄でも何でもない事に気付いて、私はゆっくりと身体起こした。
身体を見ると、服が脱がされていて包帯が巻かれている。
何者かが私を手当てをしたらしい。
そう言えばと、私はあいつの事を思い出した。
あいつ、あいつはどうなったんだ。
私は周りを見回して、必死にあいつを探した。
そしたら隣で寝ていやがった。
一気に身体の力が抜けた。
こいつが死んでいなかった事に、心の底から安心した。
「あれ、起きたんだ」
突然、部屋の襖を開けて、猫耳と尻尾生やした少女が入ってきた。
「びっくりしたのよ? 同胞の声が聞こえたと思ったら、あんたが血塗れで倒れてたんだから」
「……お前が私をここまで運んで来たのか?」
「そうそう。あんたの隣で寝てるその子がさぁ、あんたを助けてくれってずっと言ってたからね。運ばない訳にはいかなかったのよ」
「……余計なお世話だよ」
「え? あんな涙で顔面ぐしゃぐしゃだったのに?」
「あー! あー! うるさい!」
頼むから蒸し返さないで欲しい。
赤子の様に泣きながら、小っ恥ずかしい事を口走ったあれは今思い出しても悶絶ものなのだ。
「いだっ!」
「あー大声出しちゃ駄目だって。あんたの怪我はこの子の比にならないくらい酷かったんだから」
「やっぱり結構やばかったのか……?」
「そりゃもう。この子が、また私の家族が死んじゃうってずっと言ってて、あんたから離れなかったんだから」
「……そうか」
今私の横で寝ているこいつは、如何やら私の事を家族として認めていたらしい。
私が一方的に想っていただけじゃなかったというのが、何より嬉しかった。
いつしか視界が潤んで、油断すると涙が溢れそうになっていた。
人前で泣くのは嫌なので、如何にかして堪えたものの、何というか自分が弱くなってる感じがした。
もう私は、こいつ無しで生きていける自信が無い。
あの長閑な生活が気に入っていて、一緒にいる幸せを知ってしまった。
そう、私は弱くなった。もう一人が耐えられない位に。
悪い気はしなかった。する筈も無かった。
下克上を叶えるのが私の夢だった。
強者を踏み躙ってやるのが、私の最大の娯楽だった。
でも、今はそうじゃない。
勿論、人の役に立ってやろうとか強者に従って生きようなんて気は毛頭無い。
妖精に悪戯をするのを止める気は無いし、イベントは台無しにしてぶっ壊してやりたい。
ただ、幻想郷をひっくり返してやる様な下克上はもう止めようと思った。
折角、私が体を張って助けたこいつをまた危険に晒したくは無いし、こいつを奪われでもしたらと思うと恐ろしくなった。
「ね、あんた名前なんて言うの?」
猫耳妖怪から声を掛けられた。
「名前? へっ誰が言うもんか」
「ほら、そんなんいいからさ」
「うげっ!?」
猫耳妖怪が私の傷痕を突っついたきた。
まだ塞がっていない傷口に衝撃が与えられて、激痛が走った。
「おい、てめぇ!」
「ほらほら、早く言わないとまた突っついちゃうよ」
「くそっ……鬼人正邪」
「鬼人……正邪……。あ、あの追っかけられてた天邪鬼か。あぁ別に心配しないで、別に私はあんたを狙ったりはしてないから」
猫耳妖怪はそう言って笑った。
嘘ではない様だった。
「そう言うお前はなんて名前なんだよ」
「私? 私は橙。八雲の式よ」
「八雲? あぁ、あいつか」
八雲紫。幻想郷創設に携わった賢者の一人。
幻想郷の秩序を保つ為に動いている、巫女同様に厄介な奴。
とんでもない奴に弱みを握られたなと私は自嘲気味に笑った。
まぁ、今はそんな事どうでも良い。
相当な騒ぎを起こさなければ、奴が動く事は無いし、そんな騒ぎを起こすつもりは今の所は無い。
こいつに危険が及ばなければ、別に弱みを握られようが私には関係無かった。
「そういえば、この子の名前はなんて言うのよ」
橙が、あいつを撫でながら私に聞いてきた。
名前、そういえばそれらしき物は決めた覚えがなかった。
一緒にいて数ヶ月、殆どはあいつとだけ過ごしていたわけだから、お前とかそんな適当な呼び方で済ませていた。
「……名前か。そういや決めてなかったな」
「えー。そりゃ可哀想だよ。私には橙って立派な名前があるけど、この子には何も無い訳でしょ?」
「お前の名前が立派かどうかは知らんが、まぁ名前がないのは事実だな」
橙の奴がまた私の傷口を突っついてきた。
私は暫しの間痛みに苦しむ事となった。
「んで、名前どうするの?」
「……」
「色に因んだのが良いんじゃない? 私みたいにさ」
色。
こいつを川で洗ってやった時、何も混じらない真っ白な毛を持っていた事に初めて気付いたのが、今でも印象に残ってる。
そう、こいつは白猫だった。
「……クロ」
「はぁ? クロ? 白猫なのに?」
「あぁそうだよ! 天邪鬼の私がそんな順当な名前なんて付けてやるもんか! こいつの名前はクロだ!」
「にゃあ」
私がそう捲し立てた後、何処からか返事がした。
下を見ると、私達が気付かない内に起きていた様で、そしてあの時の様に私を見つめていた。
いや、あの時よりももっと嬉しそうな瞳を私に向けていた。
何故だか分からないけど、それを見て一粒だけ涙が溢れた。
「そう、お前の名前はクロ。分かったな!」
「にゃあ!」
一際大きな返事が返ってきた。
私もこれ以上無いくらいの満面の笑みを返してやった。
そう、こいつはクロ。
私の、大事な家族なんだ。
目を覚ました場所は悪臭のする掃き溜めで、とにかく頭痛がする。
身体のあちこちに擦り傷が見られたし、何箇所かは殴られた後の様な腫れが出来ていた。
覚醒した途端にこんな状況なものだから未だ働く事を拒もうとしている頭を抱える他無かった。
どうして私はこんな所で寝ているのか。
自分が周囲のゴミと同じ様にして捨てられているのなら、大抵の者がこんな風に思う筈だ。
無論、それは私も例外では無く、今自らが置かれた状況に困惑をしている。
恐らく昨日の自分が何かやらかしたのだろう。
私は痛む頭に鞭を打って、前日の出来事の想起を始める事にした。
「あーそういやそうだったな」
まず第一に思い出した事は、昨日は無性に苛立っていたという事だ。
目に付いたゴミを蹴り飛ばし、唾を吐きかけたりして私は漫ろに歩き続けていたのだ。
大抵はそのくらいで気が紛れるのだが、その日は何故か特別気が立っていたのでどうにも収まりがつかない。
そこで、私は珍しく酒の力を頼ることにしたのだ。
酒を呑む事はあまり無い。
お尋ね者であるが故にそんな悠長な事をしている余裕が無いし、酔うと足取りが覚束無くなって逃げられなくなるからだ。
だからと言って酒が嫌いという訳ではない。
寧ろ酒自体は好んで呑む方である。
ただ呑める程の余裕が無い、それだけなのだ。
しかし、この日の私はそんな事を気にしてはいられなかった。
直ぐにでも酒を呑みに行こうと、私は人里の屋台に行く意を固める。
私は妖怪だと悟られない様に変装をし、夜の人里へと躍り出た。
そうして酒を呑み始めてからの記憶は靄がかかっている様で、中々思い出せなかった。
目覚めから続いている頭痛を考えるに、相当な量を呑んだのだろう。
前日の自分に悪態をつきながら私は記憶の想起を続けた。
数分間粘りに粘ってようやく思い出した記憶は、予想はしていたが余り良い物では無かった。
断片的にしか思い出せなかったが、如何やら無銭飲食を図ったらしい。
当然だろう。追われる身だし、雇ってくれる様な店も無い。
私は働く気など毛頭無かったし、普段の生活は盗みなどをして繋いでいた訳だから、この日も何時もと何ら変わらず食った後に逃げるつもりだったのだ。
逃げる事には自信がある。
普段の私なら人間の足程度に追い付かれる訳も無い。
無いのではあるが、本当に無かったのならば今こんな状況にはなっていないだろう。
何時もの私ではなかった理由、それは頻繁に呑む訳でも無い酒をましてや大量呑んでいたという事だ。
幾ら人間程度と言っても千鳥足で逃げ切る事など出来る筈も無く、かくして私は無様に捕まったのだ。
そこからは、まぁ暴力の嵐だった。
そうしてそれが、酒によってもはや確然としなかった意識に止めを刺す切っ掛けとなった。
「はぁ……」
思い出したくもない事を思い出した。
私の気分は悪くなり続ける一方で、惨めな自分に対しての嫌悪感が私を心を一杯にしていた。
憫然さという大海に引き摺られ、その中から浮き出る種々雑多な感情が枷となって私を縛り付ける。
こうなると、酷く無気力になって動く事を拒みたくなるのだ。
そうは言っても、ずっとこの掃き溜めで寝ている訳にもいかない。
動かなければこのままずっと無様な格好なのだ。
私はふらふらと立ち上がり、身体に纏わりついていた汚れを払う。
早々に立ち去ろうとして、ふと目線を足元に下ろした。
猫の死骸が、其処にあった。
そして、その死骸に寄り添う様にして一匹の薄汚れた子猫が鳴いていた。
恐らく親子なのだろう。
親猫の方は外傷が酷く、子猫の方も軽く傷を負っていた。
大方、親猫が子供を庇ったとかで死んだとかなのだろう。
どうしてこうも親という奴は自己を殺してでも子供を守ろうとするのか。
母親の無性の愛という奴だろうか。何にせよ私が一生理解出来ない感情で、一生理解したいとは思わない感情だという事に間違い無かった。
子猫の鳴き声が頭に響く。
煩い、兎に角煩い。
母親を失った慟哭など私には知った事では無いのだ。
一刻も早くこの場から逃げ出したくて、未だ在る痛みを無視して駆け出した。
どういう訳か、子猫の声がもう消え入る頃になっても私の中には鬱陶しさが残り続けていた。
次の日、何気なく昨日の子猫の許へと行く事にした。
別に心配になった訳では無い。
私を不快にさせたあいつが如何しているのか見てやろうと思っただけである。
死んでいれば私を不快にさせた罰だと笑ってやれば良いし、しぶとく生きているのであれば痛い目に合わせて、二度と私に近付かない様にしてやろうとそう思っての行動だった。
あの掃き溜めに着いて真っ先に目に付いたのは親猫の死骸だった。
まだ一日しか経ってないのに、もう蛆が湧き始めている。
そしてあいつはやはりと言うかその死骸に寄り添い続けていた。
呆れたもんだ、死んだ母親などさっさと捨てれば良いのに。
こいつには生きる気が無いのかとそんな事を思った。
まぁいい、私の目的はこいつにちょっかいをかけてやる事なのだ。
猫が嫌いな水でもぶっかけてやるか、それとも尻尾でも思いっ切り握ってやろうか。
そうして私があれこれ悩んだりしている内に、数羽の烏がやって来たのが目に映った。
あいつも招かれざる客達が来た事に気付いた様で毛を逆立てて威嚇を始める。
その烏達は子猫の方を見つめており、獲物として捉えている様だった。
それに気付いた時、私は自分の獲物が烏達に奪われる様な気がして堪らなくなった。
烏達が今にも飛び掛かろうする瞬間に、私は一気に走り出した。
怒声と罵声を交互に叫びながら、私は一匹の烏を蹴り上げた。
蹴られた烏が、掠れた声を吐き出しながら退き始める。
烏達は不意の攻撃と仲間に被害が出た事に慄いたのか、次々と飛び去って行った。
少しして蹴られた烏も飛び立てる程に回復した様で仲間の後を追って行った。
さて、これで邪魔者は居なくなった。
何も気にせずにあの忌々しい子猫を虐め倒す事が出来る。
早速始めてやろうと嬉々として視線を移すと、あいつと目が合った。
「にゃあ」
あいつはあの不愉快極まりない声を発したと思うと、私に近づいて来たのだ。
それには何ら警戒心を含まれておらず、まるで私に気を許した様な行動だった。
一瞬理解が出来なかった。
これから虐めてやろうとしている相手から懐かれようとしているだと?
冗談じゃない!
何を勘違いしたのかは知らんが、あいつは私を外敵から守ってくれた正義の味方的存在だと思ったいるらしい。
本当に反吐が出そうだった。
私は天邪鬼で正義の味方なんかでは絶対に無いし、そんな風に見られるなんてのも尚更御免だった。
「あーくそ! なんなんだこいつは!」
もう相手にする気も失せてしまった。
私は悪態をつきながら、二度とこの場所には近付かないと心に決め踵を返す事にした。
だが、これであの煩わしい子猫とは会わなくて済むという私の期待は叶ってはくれなかった。
今度のあいつは付いてくるのだ、私の後を。
首根っこを掴んで放り投げてやろうとも思ったが、此処はまだ人里の中で人目についてしまうからそんな真似は出来ない、と言うより猫が付いてくる時点で充分人目についてしまっていて、何も行動を起こせなかった。
周囲の人間達からは物珍しそうな視線が送られてくる。
私はそれに耐えかねてより一層足並みを速くする。
それでもあいつは振り切れない。
それがまた周囲の人間の興味を集めていくのだ。
これ以上下手な真似は出来ないと本当に仕方無く、猫を連れた変人という自らの状態を一時的に受け入れる事にした。
もう少しで里を抜ける頃だった。
人目を気にしなくて良くなったらどうこいつを引き剥がそうかと思っていると、不意に背後から声を掛けられた。
「おい、あんた。そう! そこの猫連れたあんただよ」
一瞬私の事とは分からなかったが、猫を連れて歩いている者など私しか居ない事に気付き、そう呼ばれる事に苛立ちながら後ろを振り返る。
どういう訳か私は魚を手渡されていた。
「えっと、これは?」
「いやあ、猫をお供にして外を歩いてるなんて随分面白いもんを見させて貰ったからさ。お礼みたいなもんだよ」
「はぁ……まぁどうも」
「ほら、そこの子猫にも鱈腹食わせてやりなよ?」
私に声を掛けてきたのは如何やら魚屋の店主で、店の商品から適当な物を私に渡したそうだ。
猫に此処まで好かれている奴など見た事が無い、そう言って私を笑った。
其処からは店主の雑談が続き、私は良い加減店主をぶん殴ってでも帰りたかったが、此処で騒ぎを起こす訳にもいかない。
身体はまだ完全に回復していないし、また巫女にでも目を付けられたら堪ったもんじゃない。
それにしても、私があいつを連れている事が余程可笑しく映った様で、今でもじろじろと私とあいつを見つめている。
私はその視線から逃げる様にして渡された魚を見た。
乞食をしているつもりは無かったし、施された様で気には食わなかったが、貰える物は貰っておこう。
私は大人しく受け取る事にして、店主の話に隙が生まれたと見ると、直ぐ様礼を挟んで逃げ出した。
私が魚屋の拘束から脱出した後もあいつは律儀に付いて来ていた。
そして私の手には更に荷物が増えていた。
魚屋の店主と同様に、私に何かしら渡してくる奴が数人程居たのだ。
それでも今の私はそれらの事など既にどうでも良くなっていて、早く里から出たいという事しか考えていなかった。
漸く里を抜けた。
その事実に実感が伴った瞬間、どっと疲れに襲われた。
自分でも気付かない内にかなり神経を使っていたらしい。
「さて、後はこいつをどう引き剥がしてやるかだ」
もう人目を気にする必要も無い。
貰った物は全部私の物にするとして、一刻も早く厄介極まりないこの猫から離れたかった。
「なんだ、空飛べば良いじゃないか」
放り投げるにしては私の力では限界があるし、未だ全力で走れる様な体力まで回復はしていない。
ならば空を飛べば良い。
こいつは何処からどう見てもただの猫であって、空は飛べない筈だ。
そうと決まれば話は早い。
私は勢い良く飛び上がろうとして足を浮かせた。
「にゃあ」
そのまま一気に加速しようと上昇した時、背後からあいつの鳴き声がした。
勢いで振り向くと、またあいつと目が合った。
私は咄嗟に目を逸らす。
あいつの瞳は何かを訴えかけている様で酷く潤んで見えた。
一瞬私に迷いが生じる。
このままあいつを置いていって良いのか。
そんな天邪鬼たる私らしくはない迷いが。
「ちっ!」
私はそんな自分に無性に腹が立った。
怪我のせいで調子が悪いだけだと自分に言い訳をして、私は無理矢理怒りを抑え込める。
私はあいつが訴えてくる全てを無視して、逃げる様にして飛び上がった。
見る見る内に地上から離れていき、空が近づいて来る。
私はようやっと解放された様な気分になったが、何処かほんの少しの蟠りの様なものが残っていた。
私はその途中でもう一度だけ後ろを見た。
あいつはまだ、あの場に立ち続けていた。
私は何を想ったのだろう。
気が付くと私はあいつの方へと戻っていた。
自分でも理解出来なかった。
どうして私は戻っているのか、あいつを置いていくんじゃなかったのか。
私の頭は思考と行動の不一致にかき混ぜられていて、もう何もかもが分からなくなっていた。
あいつの目の前に着いたや否や、私は大声で捲し立てた。
「いいか!? 私がお前を連れて行くのは決してお前が可哀想だからとかいう理由じゃあないからな! お前が居れば勝手に飯が手に入るってだけなんだからな!」
それらしい理由をたかが猫相手に叫び続けた。
猫相手に無駄だと分かっているのに、それでも私は止まらなかった、否止められなかった。
当然、初めからこんな理由を考えていた訳では無い。
尤もらしい理由を付けて、私はどうにかして私を納得させようとしただけなのだ。
自分の行為を正当化しようと必死こいて猫に叫び続けたのだ。
その間こいつは黙って私の瞳を見続けていた。
暫くして叫び疲れた頃、私は最後に振り絞る様にして、わかったなと脅す様にして言い聞かせた。
こいつは返事をしたつもりだったのだろうか、にゃあと一声鳴いて満足そうな表情を浮かべていた。
猫を川で洗うことにした。
汚れた状態で一緒に過ごされるのは嫌だったし、何より小綺麗な方が里の人間どもに好かれ易くなると思ったからだ。
あの時は勢いに任せて言っただけだったが、よくよく考えてみると、こいつが居たおかげで今日の食事に困らないというのは事実である。
だから私は、こいつを利用出来るだけ利用してやる事にしたのだ。
洗ってみるとこいつは真っ白な毛を携えた白猫だった。
洗う前からは想像も付かなかったので、少し意外だった。
濡れた毛を乾かそうと躍起なって身体を舐めているあいつを横目に、私は里で貰った魚の調理を始めた。
あいつに餓死でもされたら困るので、私は猫が食べる程度に魚を切り取ってやった。
いざ私も食べようとしたら、あいつが足りないと騒ぎ始めた。
どんなに怒っても鳴くのを止めなかったので、私はとうとう勘弁してもう少しだけ魚を分け与えた。
あいつはあの時の様に満足そうな顔をしていて、私は何処か負けた様に感じた。
癪に触ったので、分けてやった魚を取り返そうとしたら、思いっきり噛まれた。
指から滲んでくる血を見て萎えてしまったので、もうそれきりにした。
それからの生活はこいつが付いてきた日と殆ど変わらなかった。
貰い物が尽きたら里に行った。
大抵は、誰かしらがこの猫を面白がって色々渡してきたりするのでやはり食事に困る事は無くなった。
食べ物じゃ無い物は基本的に必要無かったし、質に入れたり何だりして金を得た。
得た金で顔が知れてる店へと買いに行ってやれば猫サービスとの事でいつもおまけが付いてきた。
何週間かするとあいつの方が川から魚を取って来る様になった。
私もそれに倣うようにして魚を取った。
初めは上手くいかなくて苛立ったが、今では、1日であいつと合わせて数匹は取れるようになっていた。
そうしてくると、里へ出向く頻度が落ちてくる。
暫く時間が空いて里に赴くと、皆待っていましたと言わんばかりの顔で私達に話しかけてくる。
そしてまた色々とおまけ等を貰って帰るのだ。
その繰り返しだった。
その様にして私達は日々の飢えを凌いできた。
魚を取れるようになって日々の生活は安定してきたし、盗む必要も無くなったので里で騒ぎを起こす危険も無くなった。
あいつはこの生活がすっかり気に入った様だった。
かくいう私もこの生活に自然と順応していた。
たまに遊んでやったり、一緒に寝てやったりする、この刺激の無い生活に。
そんな中、久し振りに里へ出向いた時だった。
私達はいつしかあの場所に立っていた。
もう二度と近づくまいと誓った場所、こいつと初めて会った場所、この生活の全てが始まった場所だった。
もう既にあの親猫の死骸は無くなっていた。
誰かが埋めてやったのか、それとも烏や蛆虫にでも食べられたのか。
それすら分からない程、この猫の親は影も形も無くなっていた。
気付くと、あいつが、かつて親が死んでいた場所で立ち尽くしていた。
何を想っているのかは分からなかった。
何を感じ、何をしようとしてこの場に立ち続けているのか、私にはさっぱりだったけど、酷く辛いものに思えた。
あいつに釣られていたのか、私もあいつを見続けていたらしい。
邪魔をしようとは思わなかった。
今だけは、そっとしておいてやろうと思った。
時間にしては数分程度だったのだろうが、それでもその時間は、数時間にも数年にも果ては永遠にでも感じられた。
そう想わせる程、あいつは永く永く立ち続けていた。
暫くして、あいつが動き出した。
あいつは私の目を見つめていた。
私はどうにも居た堪れなくなったので、あいつとは目を合わせなかった。
「帰るぞ」
あいつに向かって一言そう言うと、あいつは黙って私に付いて来始めた。
その日の夜、あいつは何時もより飯を食べなくて、直ぐに眠りについていた。
私も早めに寝ようとしたが、どうした訳か寝付きが悪くて中々眠れなかった。
何時迄も、あの場所の事が頭から離れなかった。
いつの間にか寝ていたらしい。
まだ重い目蓋を擦って、私は辺りを見回した。
あいつは珍しくまだ寝ている様だった。
普段は早起きで私の事を起こしてきたりするのに、今日に限っては私の方が早起きだった。
ちょっかいでもかけて起こしてやろうかとも思ったが、不意に昨日の事を思い出したのでそのまま寝かせておく事にした。
顔を洗うついでに魚でも取ってきてやろうかなと、私は川へと向かった。
私が川で捕まえた魚を持って帰ろうとしている頃、シャーという猫が威嚇している声が聞こえた。
私は持っていた魚を川に放り投げて駆け出した。
この辺にあいつ以外の猫が居るのは見たことが無かった。
つまりあの威嚇はあいつのものなのだ。
私は不安で押し潰されそうになるのを堪えながら、あいつの許へと急いだ。
鳴き声がした方へ辿り着くと、あいつが血を流して倒れていた。
周りには三匹の狼の様な妖怪が居て、私がやって来た事に気付いて此方を睨んでいる。
状況から見るに、あいつを食べてる訳では無い様だった。
原型を留めているし、何より外傷がまだ小さい。
この妖怪達は食べようと思えばすぐにでもあいつを食べる事が出来た筈なのに。
つまり、奴等はあいつを嬲り、甚振る事を楽しんでいたのだ。
恐怖で歪むあいつの顔を見て、こいつらは笑っていたのだ。
その事に気付いた時、全身に寒気が襲ってきて、私の理性が消失した。
「この……糞野郎共がぁぁ!!」
私に力が有ればどんなに良かっただろう。
昔から、何度も何度も思った事だった。
力の無い私は、たかが雑魚妖怪三匹を相手にするだけでボロボロだった。
私の身体の至る所からは血液が逃走を図っていて、辛うじて保っている意識も、もう殆ど限界に等しい。
私の横には一匹の妖怪の死骸があって、そしてあいつが私に向かって鳴き続けている。
残りの二匹は仲間が死んだのを見て逃げ出していた。
馬鹿な奴らだ、あのまま二匹で私に噛み付いてでもすれば私は直ぐにでも死んだだろうに。
私はそんな事を思いながら、奴等の臆病さを嘲笑った。
「……ぐっ……はぁ……煩い、なぁ……私は……こんなんじゃ死なないって……」
嘘を言った。
あいつを少しでも安心させてやろうとして咄嗟に出たものだった。
それでも、あいつは鳴く事を止まなかった。
凄く頭に響いてくる。
それはまるで、あの日のあいつの様だと思った。
ただ、どういう訳なのか、あの日の様にその声を聞いても不快にはならなかった。
寧ろ、安堵すら覚えてくる。
不意に、あの日死んでいた親猫を思い出した。
そう、今の私の様にあいつを庇って、そして死んだあの猫。
あの親猫も、今の私と同じ気持ちだったのかなぁ。
これから死にゆく筈なのに恐怖は感じない。
守れたという安堵に満たされながら意識が消えていくのを待つ、そんな不思議な気持ち。
足音が聞こえた。
何者かは分からないが少なくともさっき追い払った奴らでは無さそうだった。
どんどん此方に近づいて来る。
隣で鳴き続けているあいつに直ぐに逃げるように伝える。
それでもあいつは動かない、私から離れようとしない。
私は苛立って、鉄の匂いがする液を吐きながら語気を強めて言った。
「……はやく、逃げ……ろ、っ! 何の……為に助けて、やったと……思ってるんだ……!」
そうこうしている間に、足音の持ち主が私の前へ辿り着いた。
私の視界は殆どが暗くなっていて、最早どんな奴が目の前に居るかは分からなかった。
それでも、私達に近付いてきたというのなら、何らかの目的が有るに違い無いのだ。
私はあいつが逃げる時間を稼ごうと、文字通りの死力を尽くそうと全身を動かそうとした。
ただ、そんなものは私には残されていなかった。
私の意思とは反対に、身体は全く動いてくれなかった。
既に私の身体は死んでいて、残っているのはもう意識だけだった。
私の目の前に居る誰かが、あいつを持ち上げたのが分かった。
「……ひど……けが……はやく……手当……してやら……いと……」
奴が何かを言っていたが、私の耳もやはり死の淵に立っている様でまともには聞き取れなかった。
あいつが奴の腕で私に向かって鳴き続けている。
早く取り返さなくてはいけない、そうしないといけない筈なのに、私の身体は言う事を聞いてはくれない。
あいつを取り返したいのに、何も出来ない自分が本当に悔しかった。
力が無くて動かずにいる弱い自分が本当に恨めしかった。
私からあいつを奪おうとする奴が本当に憎かった。
そんな感情がごちゃ混ぜになって、私の目頭が熱くなってきて、そうして色んな物が溢れていった。
「連れて行かないでくれ! そいつは、私の大事な、大事な──」
言わなくてはいけないと思った。
これまで何百年も生きてきて築き上げた私のアイデンティティを崩壊させてでも言わなくちゃいけないと思ったんだ。
私の大事な家族なんだって。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、私は叫んだ。
叫んだと思った同時に意識を失ったので、本当に叫べていたかは定かではないけれど、私は叫んだんだ。
愛する家族を返してくれと。
知らない場所で、目を覚ました。
暫くの間、茫然としていた。
此処が三途の川でも地獄でも何でもない事に気付いて、私はゆっくりと身体起こした。
身体を見ると、服が脱がされていて包帯が巻かれている。
何者かが私を手当てをしたらしい。
そう言えばと、私はあいつの事を思い出した。
あいつ、あいつはどうなったんだ。
私は周りを見回して、必死にあいつを探した。
そしたら隣で寝ていやがった。
一気に身体の力が抜けた。
こいつが死んでいなかった事に、心の底から安心した。
「あれ、起きたんだ」
突然、部屋の襖を開けて、猫耳と尻尾生やした少女が入ってきた。
「びっくりしたのよ? 同胞の声が聞こえたと思ったら、あんたが血塗れで倒れてたんだから」
「……お前が私をここまで運んで来たのか?」
「そうそう。あんたの隣で寝てるその子がさぁ、あんたを助けてくれってずっと言ってたからね。運ばない訳にはいかなかったのよ」
「……余計なお世話だよ」
「え? あんな涙で顔面ぐしゃぐしゃだったのに?」
「あー! あー! うるさい!」
頼むから蒸し返さないで欲しい。
赤子の様に泣きながら、小っ恥ずかしい事を口走ったあれは今思い出しても悶絶ものなのだ。
「いだっ!」
「あー大声出しちゃ駄目だって。あんたの怪我はこの子の比にならないくらい酷かったんだから」
「やっぱり結構やばかったのか……?」
「そりゃもう。この子が、また私の家族が死んじゃうってずっと言ってて、あんたから離れなかったんだから」
「……そうか」
今私の横で寝ているこいつは、如何やら私の事を家族として認めていたらしい。
私が一方的に想っていただけじゃなかったというのが、何より嬉しかった。
いつしか視界が潤んで、油断すると涙が溢れそうになっていた。
人前で泣くのは嫌なので、如何にかして堪えたものの、何というか自分が弱くなってる感じがした。
もう私は、こいつ無しで生きていける自信が無い。
あの長閑な生活が気に入っていて、一緒にいる幸せを知ってしまった。
そう、私は弱くなった。もう一人が耐えられない位に。
悪い気はしなかった。する筈も無かった。
下克上を叶えるのが私の夢だった。
強者を踏み躙ってやるのが、私の最大の娯楽だった。
でも、今はそうじゃない。
勿論、人の役に立ってやろうとか強者に従って生きようなんて気は毛頭無い。
妖精に悪戯をするのを止める気は無いし、イベントは台無しにしてぶっ壊してやりたい。
ただ、幻想郷をひっくり返してやる様な下克上はもう止めようと思った。
折角、私が体を張って助けたこいつをまた危険に晒したくは無いし、こいつを奪われでもしたらと思うと恐ろしくなった。
「ね、あんた名前なんて言うの?」
猫耳妖怪から声を掛けられた。
「名前? へっ誰が言うもんか」
「ほら、そんなんいいからさ」
「うげっ!?」
猫耳妖怪が私の傷痕を突っついたきた。
まだ塞がっていない傷口に衝撃が与えられて、激痛が走った。
「おい、てめぇ!」
「ほらほら、早く言わないとまた突っついちゃうよ」
「くそっ……鬼人正邪」
「鬼人……正邪……。あ、あの追っかけられてた天邪鬼か。あぁ別に心配しないで、別に私はあんたを狙ったりはしてないから」
猫耳妖怪はそう言って笑った。
嘘ではない様だった。
「そう言うお前はなんて名前なんだよ」
「私? 私は橙。八雲の式よ」
「八雲? あぁ、あいつか」
八雲紫。幻想郷創設に携わった賢者の一人。
幻想郷の秩序を保つ為に動いている、巫女同様に厄介な奴。
とんでもない奴に弱みを握られたなと私は自嘲気味に笑った。
まぁ、今はそんな事どうでも良い。
相当な騒ぎを起こさなければ、奴が動く事は無いし、そんな騒ぎを起こすつもりは今の所は無い。
こいつに危険が及ばなければ、別に弱みを握られようが私には関係無かった。
「そういえば、この子の名前はなんて言うのよ」
橙が、あいつを撫でながら私に聞いてきた。
名前、そういえばそれらしき物は決めた覚えがなかった。
一緒にいて数ヶ月、殆どはあいつとだけ過ごしていたわけだから、お前とかそんな適当な呼び方で済ませていた。
「……名前か。そういや決めてなかったな」
「えー。そりゃ可哀想だよ。私には橙って立派な名前があるけど、この子には何も無い訳でしょ?」
「お前の名前が立派かどうかは知らんが、まぁ名前がないのは事実だな」
橙の奴がまた私の傷口を突っついてきた。
私は暫しの間痛みに苦しむ事となった。
「んで、名前どうするの?」
「……」
「色に因んだのが良いんじゃない? 私みたいにさ」
色。
こいつを川で洗ってやった時、何も混じらない真っ白な毛を持っていた事に初めて気付いたのが、今でも印象に残ってる。
そう、こいつは白猫だった。
「……クロ」
「はぁ? クロ? 白猫なのに?」
「あぁそうだよ! 天邪鬼の私がそんな順当な名前なんて付けてやるもんか! こいつの名前はクロだ!」
「にゃあ」
私がそう捲し立てた後、何処からか返事がした。
下を見ると、私達が気付かない内に起きていた様で、そしてあの時の様に私を見つめていた。
いや、あの時よりももっと嬉しそうな瞳を私に向けていた。
何故だか分からないけど、それを見て一粒だけ涙が溢れた。
「そう、お前の名前はクロ。分かったな!」
「にゃあ!」
一際大きな返事が返ってきた。
私もこれ以上無いくらいの満面の笑みを返してやった。
そう、こいつはクロ。
私の、大事な家族なんだ。
苦しんでる正邪って本当に素敵ですよね
その果てに得られたものも素晴らしいものだったと思いました
それにしても猫狂いが多すぎる里だぜ!
猫によって正邪の壁がぐずぐずに溶けていくのが実に良いですねぇ。楽しませて頂きました。