私たちにとっての地底というのは、何百年経っても減刑のない留置所であった。
「ぬえ、何か言った?」
横合いから声。
金色の髪をした、赤くて鋭い瞳が、私の顔をのぞいている。
何を考えてるのかも知れねえ、底抜けの暗い笑みだ。
私はフランの視線に射られて、思わず笑っちまった。
「さて、独り言でも出たかな。
考え事をしてたんだよ。
これからどうやって地上に逃げ戻ろうかって」
「あら、らしくないわ。
あなたが弱音を吐くなんて」
「あの場所で八百年も過ごしていたら、いやでもそうなる」
岩の壁が私たちの周りを、下から上へと流れていった。
ここは私の「使い魔」の上。
私たちはこいつにまたがり、一刻近く下へ下へと降り続けているというわけだ。
「注意はしたが、もう一度言うよ。
旧都に入ったら、くれぐれも気を抜かないように。
道すがら網を張ってた土蜘蛛を見たなら、わかってると思うが」
「穏便に帰ってもらったけどね」
「あそこには、あれよりタチの悪いのが、わんさといる」
そこで私の頭上に、影が覆いかぶさってきた。
いやが応にも、思い出す。
乗客が三人だったことを。
ベージュ色の袖が、私の首に巻き付いてくる。
土臭い匂いが、鼻を突いた。
「ねえねえ、内緒話? 私も混ぜてよー」
私は片手を頭の上にやって、こいしの頬を探り当てた。
つきたての餅みたいな感触のそれを、つまみ上げる。
「内緒話っていうのは、当事者のいないところでやるもんだ。
増して、どこで聞いてるかわからんやつの陰口なんてな」
「ひどーい、私が悪者みたい」
「お、自覚がないか?
元々、お前がフランを地底に攫おうとしたんだぞ」
私の隣で、誘拐未遂の被害者はくすくすと笑っている。
「いいのよ。
私も少しは興味があったもの。
ぬえが恐れおののく場所というなら、ますます見てみたくなったわ」
「まあ、いくら行くなと言ったところで、体験してみないとわからんこともあるからね。
今のうちに言っとくが、自分の身は自分で守ってくれよ」
「あら、守ってくれるんじゃなくって?
そうでもなければ、こんな所まで着いてこないわよねえ」
「聖が功徳を積んでこいって言うからだよ。
お目付役を仰せつかってる手前、いやとは言えまい」
洞穴の傾斜が、緩やかになった。
終点ではないが、そいつに近づいている合図なのには間違いなかった。
§
円盤から降り立つなり、こいしは私とフランの手首をつかんで走り出した。
足元の石ころがブーツに引っかかって、カラカラと乾いた反響音を暗闇に響かせる。
「ほら、ここまで来たらあともう少しで地霊殿だよ」
「そりゃわかってるから。
そう引っ張るなって」
この無意識女ときたら、人の話を聞きやしない。
フランはフランで、笑いながらこいしに引っ張られるがままになっている。
そうこうしているうちに、洞穴の空間が上下左右に広がった。
その向こうに見えるのは、旧地獄と現世を隔てる川である。
川には一脚の橋が架かっていて、旧都に続いている。
このままこいしのされるがままは、いささかまずいか。
橋には一人番人がいて、通行人にちょっかいをかけてくるのだ。
案の定、そいつは橋の真ん中あたりで欄干にもたれかかっていた。
私らはその目の前を、三人揃って通り抜けた。
後ろを見る。
橋姫はただぼんやりと、岩天井を見上げるばかりだった。
続いて、前を見る。
こいしは依然、私らの手を引き続けている。
使ったか、この女。
自分の無意識に私らを巻き込んだのか。
「便利よね、無意識って。
どんな場所でも顔パスなんだから」
フランがそんな感想を述べる。
無邪気なもんだ。
「そうは言うがな、フラン。
使い手が気まぐれすぎるのが問題だ。
今だって、このまま地霊殿にすんなり着けるかどうか」
道すがらに、由緒正しい佇まいの屋敷が見える。
ほんのり明かりが灯り、生活の気配すら見える。
そう、いよいよ旧都だ。
道をゆく鬼の姿が、ちらほら見えるようになった。
地霊殿にたどり着くには、どう進んだところで旧都を横切るしかない。
よって、住人どもにはいやでも出くわす。
しかもこいしときたら、何の考えもなしに中央の繁華街へと突っ込みやがった。
年がら年中鬼が宴を繰り広げる、賑やかすぎる場所だ。
店ん中だけじゃ飽き足らず、路上にまで卓を置いて、飲んだくれる鬼が大勢いる。
不意に手首から、牽引の感触が失せた。
慣性にまかせて、二三歩たたらを踏む。
こいしはその場で反転して、私らに向け両腕を広げた。
「ようこそ、旧都へ!」
煌びやかな旧都の明かりを背景に、大の字を作ったこいしを見て、私らは凍りついた。
そんな中、私はどうにか、言葉を絞り出す。
「いや、知っとるが」
「ええー、ノリ悪いー。
せっかく写真映えする景色なのに」
「カメラ持っとらんだろ。
そんなことより」
首を動かさずに周囲へ注意を向ける。
周りは多くの鬼が行き来しており、賑やかだ。
だがしかし、そんな中でも、ああ、何人かの注意がこっちの方に向いているのがわかる。
私はすかさず、フランの手を取った。
「急いでここを抜けるぞ。
こいしが無意識モードを切りやがった」
「そんなに慌てなくても良くない?
私たち、誰にも迷惑をかけてないわ」
「そういう道理はここでは通じないんだ。
ただ目についた、ここではそれだけの理由で」
私はほぼ反射的に、空いた方の腕を持ち上げた。
次の瞬間、挙げた手のひらに豪速球がぶち当たる。
風圧と衝撃に、手がビリビリと震えた。
「喧嘩を売りにくる脳筋が、しこたま控えてる」
「おいこら、てめえ」
人垣もとい、鬼垣が割れた。
一際体格のいい鬼が、こちらへ一直線にやって来る。
他の連中は、慣れたもんで。
いっせいに卓を片付け、円陣を作り、念入りにその鬼と、私らとを取り囲む。
逃がさん気満々だ。
「俺の酒を盗っていこうたぁ、いい度胸だ」
「何言ってやがる。
手前から投げつけてきたくせに」
私は片手で、受け止めた酒徳利をもてあそんだ。
「くだらん言い訳にゃ聞く耳持たねえ。
いつの間に戻って来やがった、この鵺公め」
「面会だよ。
地霊殿に用があって来た」
「地霊殿だと」
鬼はそいつを聞いて、ゲラゲラ笑う。
周りの連中も、つられて笑う。
不愉快な笑いのドームが、私を包み込んだ。
「出まかせもたいがいにしやがれ、詐欺師が。
あの嫌われ者の館に手前から行きたがるやつがいるものか」
「それが大真面目なんだがなあ。
ちゃんとアポも取ってあるし。
妹のほうだってこの通りここに、って」
こいしの姿は、忽然と消え失せていた。
逃げたか。
それとも別のものに興味が移ったか。
どっちにしろふざけんな馬鹿、だ。
「ともあれ、下らんいさかいに時間を取りたくないね。
大人しく引き下がってくれれば、恥ずかしい思いをせずに済むぞ」
「あいにく、こちらはたっぷり時間があるんでね。
地上 に逃げた軟弱者が、どんだけ意気がれるか見てやろうじゃねえか」
「やれやれ、伊吹が聞いてたら本当にただじゃ済まんぞ」
フランの手を解いて、徳利を預ける。
「私をご指名だ。
しばらく下がってな。
周りの鬼どもに攫われないように、気をつけろ」
「あなただったら、避けられたんじゃない?
この瓶」
「避けたら避けたで、別の理由で因縁をつけられるだけさ」
フランから距離を取る。
鬼がやる気十分に拳を鳴らしている。
私はとっとと覚悟を決めて、そいつと相対した。
§
この旧都では住人の全員が全員、永劫の囚人であり、刑吏なのだ。
罪状の重さと罰は、各々が好きに決める。
その身勝手なルールをもとに、やつらは喧嘩の売り買いをする。
ルーチンワークみたいに、平然とな。
私や命蓮寺の連中は、やつらにとっては新参者、永遠の下っ端囚人だった。
しょっちゅう難癖をふっかけられたし、負ければ容赦なく連れ去られた。
そうなるとやつらが飽きるまで奴隷としてこき使われるか、酒盛りに付き合わされるかのどっちかだ。
私はやつらと戦ったり、攫われた連中を助け出したりしながら、自由への道を模索し続けていた。
地霊殿との同盟、裏切りに騙し討ち、生き延びるためならどんな手でも使った。
正直、油断のならない刑期だった。
§
喧嘩がどうなったかって?
そこいらの仔細を語っていたら、私の喉が枯れちまう。
だから、今の光景を見て、察してくれ。
私は血の混じった唾を路傍に吐き捨てる。
尻餅をついたモブ鬼野郎に、三叉の槍を突きつけた。
「さて、満足したか?
私が勝ったんだから、鬼のしきたりは守ってもらうぞ」
「ちぇっ、仕方ねえ」
鬼は懐から何か取り出し、私に投げ渡した。
猪口の類いと見られる、小さな器だ。
これでも妖力の籠った、鬼の宝具の一種。
まあ、伊吹瓢や星熊盃には遠く及ばんだろうが。
おまけに命蓮寺じゃ、大っぴらに使えないときた。
まあ、ぜいたくは言うまい。
打ち出の小槌クラスのスーパー宝具を持ってる鬼なんて、今どきいやしねえ。
私はフランの姿を探して、首を巡らせた。
「待たせたな、次のやつに絡まれる前にとっとと行こうか。
どこだい、フラン」
「ずいぶんと手間取っていたじゃないの」
声のしたほうに顔を向けたところで、脱力しそうになった。
ギャラリー席じみて、鬼垣の片隅に卓があつらえられている。
フランはその一席に腰掛け、私に向け手を振っていた。
赤ら顔で。
「攫われるな、つってんのに」
「別に連れ去られたりはしちゃいないわー」
私は有無を言わさずフランを立たせた。
お前も一杯やってけよー、などと言う鬼どもの誘いを丁重に無視して、歩き出す。
「こんな所に長居してたら、命と肝臓がいくつあっても足りゃしないぞ」
「こいしがいないけれど、どうするの」
「放っときゃいいさ。
どうせそのうち戻って来る」
§
「それで、命からがらここまでたどり着いたということですか」
「だって、あいつらフランもいるのに私ばっかり狙ってくるから」
さとりは執務席についたまま、私の姿を眺め回した。
私の姿を正体不明に覆い隠す、自慢の一張羅はもうボロボロだ。
「単純に恨みを買いすぎではないかしら」
「至極真っ当に生きてきたんだがな」
「鬼たちとあなたの真っ当は意味が違いますよ。
もうご存知でしょうに」
そうにらむなっての。
好きで阿漕をやってきたわけでもなし。
「まあ、さて置きましょうか。
今回はいつまで、地霊殿 へご滞在に?」
「明日かも知れんし、一カ月後、一年後かもわからん」
「案内役を途中で放り出した誰かさんの、胸先三寸ということね」
「そういうこと。
あいつが新しい玩具を見つけたなら、期間が詰まりもするだろう」
「あの子の手癖の悪さには、困ったものです」
さとりの胸元にさがる『第三の眼』が、私を眺める。
「そう。
あの子の部屋を見ておきたいのですか。
戻ってくるのを待ったほうが、よくないかしら」
「むしろいないうちが、面倒がなくて助かる」
「否定はできないわね」
さとりは立ち上がり、私たちを手招きした。
フランとも連れ立って、部屋を出る。
獣くささの立ち込めた廊下だ。
そこかしこにうごめいているのは、犬猫ばかりにとどまらん。
図体のでかい虎やら狼やら、怪獣みたいななりの爬虫類まで我が物顔に振る舞っている。
道すがら、フランが声をかけてきた。
「ひょっとして、こいしの玩具って私のことかしら?」
「『たち』かもしれんぞ。
不愉快かね?」
「全然。
むしろ、ますます興味が深くなったわ。
吸血鬼を恐れないどころか、自分のものにしようとするなんて」
ふふ、という含み笑いと共に、さとりが肩を揺らした。
「本気でそうお考えのようで。
あなたもなかなか奇矯なお方ですわ」
「四九五年もの間文字でしか知識を得ていないと、どんなものにも興味が湧くものよ」
「あなたの場合、それだけではないですよね。
あの紅い館でお目にかかったときから、わかっていましたが」
扉の一つで、さとりは足を止める。
軽く、二三度扉を小突く。
乾いた音だけが、虚しく響いた。
続いて、ドアノブに手をかけた。
肝心の扉が動かない。
さとりは私らのほうを見て、渋い笑みを浮かべる。
「今日はきちんと、戸締まりをしていったようですわ」
そこでフランが扉の前に進み出た。
「見せて」
「修理はそう安くないので、あまり派手に壊さないでくださいね?
少し待っていただければ、合鍵を持って来られますし」
「むしろまるまる無くしちゃったほうが、楽に直せるのではないかしら?」
おいおいやる気か。
滅多なことではないが、やると決めたらこいつは容赦ないね。
さとりに代わって、フランがドアノブをひねる。
ゴリゴリ、という不吉な音がして、扉はあっさりと開け放たれた。
フランは中を一目見ると、あきれ声を上げた。
「ここはこのお屋敷の、物置か何かなのかしら?」
「お恥ずかしい限りですわ。
掃除も満足にさせてくれないことが多いのですよ。
あの子ったら」
どうやらお察しだな。
私はフランとさとりの後ろから、こいしの部屋をのぞき込んだ。
フランの形容にふさわしい、がらくた置き場のような部屋だった。
柄もサイズもまちまちな服や装飾。
掛け軸や壺などの調度品。
果てはどこから剥いできたかもわからん看板やら彫像みたいなでかぶつまで、部屋を無造作に埋め尽くしている。
私は足の踏み場を探しながら、部屋に入り込んだ。
「またいっそう、物が増えたんじゃないか?」
「地上に出られるようになってからは、ペースに拍車がかかりましたね」
「命蓮寺 からくすね取ったものも、紛れちゃいないだろうな?
寅丸星 にも宝塔を奪われんよう、言っとかんとなあ」
私は中央のテーブルに目を留めた。
部屋の中で唯一、洋館の内装から脱線しない調度品だった。
私はその上に乗ったものを拾い上げ、フランにも見せてやる。
一つは、木彫りの能面。
穏やかな笑顔を浮かべた幼子のような造形。
もう一つは、薄くて小さいのに重量感のある金属の板。
紫色をして、びっしりと幾何学模様が描かれている。
「見なよ、フラン。
この面は、地上の面霊気から奪ったやつだよ。
こいつのせいで、幻想郷中に宗教戦争が巻き起こった。
こっちは、外界から来た超能力者から取り上げた携帯電話とかいうやつだね。
どっちも持ち主に返す気はないと見える」
「全部盗品ってことね?
私もあの子のコレクションに加えられちゃうのかしら」
「生き物はまともにお世話できたためしがないので、頃合いを見て片付けていますがね」
さとりが口を挟んできた。
「こいしはずっと、泥棒を続けてきたの?」
「気の遠くなるくらい昔から、この調子ですよ。
そうね、あの子が心を読む力を捨ててからは、ずっとそう。
まったく何がしたいのやら。
あの子の心は読めないから、今も意図は謎のままですわ」
やれやれ、心の読めない相手となりゃ、究極反則探偵も形なしだな。
「当て推量で、間違った判断を下すつもりがないだけですよ。
あなたなら正体不明な無意識を理解する術をお持ちだとでも?」
「素でナレーションに突っ込みを入れてくるのは、さすがだと思うが」
私は腕を組んで、がらくたの中で思いを巡らせた。
「私はあんたほどじゃないが、あいつとの付き合いはそこそこ長い。
その見地からすると、あいつは足りないもんを埋めたがってるように見えるね」
「気取って言うなら『心の穴』とでも言うべきもの、ですか」
「サトリ妖怪を捨てて出来損ないになっちまったからな、あいつは。
妖怪になりきれない手前を嘆いて、妖怪との差を埋め合わせるものを探し求めてたっておかしくはあるまいよ」
「ナンセンスです。
妖怪に戻る手段なんて、あの子にはたった一つしかありませんもの」
探偵は私の推理を鼻で笑い飛ばす。
左手で、第三の眼をもてあそびながら。
「そいつを選べないから、あいつは何百年経っても出来損ないのままなんだと思うがね。
お前はそれがわからんほど、節穴ってわけでもあるまい」
「確証が取れないだけですわ。
心が読めませんから」
「二人ともお止めなさいな。
あんまり言い争ってたら、日が暮れちゃうわ」
今度はフランがやり取りを遮る番になったってわけだ。
「詰めが甘いんじゃないの、探偵さん。
そんなだから怨霊をみすみす取り逃がすのよ。
推理が終わったら、次にやることは一つでしょうに」
さとりが凍りついた。
フランが両手のひらを天井に向けている。
そんな手の上に、群れた蛍のような光が現れた。
無数に。
それを見るさとりの顔は青い。
いつも血色が悪いが、今はそいつを越えている。
「確かにやったことはありません。
ありませんが、それが証拠になるかどうかは、とても」
「やったことがなかったのは、これまでが無理だったからでしょう?
でも心配はいらないわ。
私なら、できるもの。
そのために私がここに連れて来られたのだとしたら、素敵じゃない?」
そこで私は気がついた。
光の正体がなんなのか。
でもって、フランが何をやらかそうとしているのか。
気づいたところで、私はフランを止められやしなかったし、止める気もなかったが。
フランが両手を握りしめる。
同時に、部屋の中にあったがらくたがまとめて弾け飛んだ。
飾り物も、置物も、大看板も、余すことなく。
泡が割れるような音を残して、粉々になった。
こいしの部屋は、わずかな家具を残して綺麗に片付いた。
私とさとりは無言で様変わりした部屋を見回す。
「あら、ずいぶんお部屋が広くなったわ」
こいしの声が聞こえてきた。
いつだって、こいつの登場は唐突だ。
振り向くと、やつぁ両手に何かを抱えていやがった。
あの面霊気の面と、超能力者の携帯電話だ。
気がついたら、私の手ん中から失せている。
本当、油断も隙もありゃしねえ。
フランは振り返った。
ほんの一瞬、こいしの手の中にあるものを見る。
私は知らず、寒気を覚えた。
「あなたの部屋はひどく散らかっていたから、私が片付けておいたわ。
また散らかるようだったら、いつでも読んでちょうだい。
メイドよりも確実に、綺麗さっぱり片付けてあげるから」
対するこいしは何回か瞬きした。
例の面と携帯電話を抱えた姿勢のままで。
それから変わらぬ笑顔で、フランに応えた。
「うん、ありがとう」
感謝、ときたか。
詰まるところ、この部屋のものの大半はこいしと妖怪との差分を埋めるには至っていなかった。
そういうことなのだろう。
それでは、それならば。
こいしが無意識に守ったあの二つのオブジェ。
あれは、こいしにとっての何なのだろう。
私はさとりに目配せをした。
やつは私の疑問に答える代わりに、こいしへ向き直った。
「こいし、お客様をきちんと案内しないと駄目じゃないの。
今度はちゃんとお客様をお風呂場にお連れして、それからあなたも汚れを落としていらっしゃい。
その間にお夕飯を用意してあげるから、お願いね?」
「はーい」
さとりはいそいそと、部屋を後にした。
ちぇっ、都合よく心を読む程度の能力を放棄しやがって。
§
薄く目を開けると、暗い天井が見えた。
ひどく体が重い。
そのくせ、体を包む毛布がやたら柔らかい。
二度寝の衝動を覚える。
まあ、旧都での連戦がたたったのだろう。
ここなら村紗や白蓮に叩き起こされる心配もないし。
だが、渦巻く不安がそいつを許しちゃくれなかった。
やけに、静かだ。
ただそれだけの事象が、私の心を泡立たせた。
痛みの残る体に、鞭を打った。
どうにか毛布を跳ね除け、傍らに畳まれたワンピースを掴み取る。
やたらと修繕が早いな。
昔、ここに残してったやつでもあつらえたか。
ともあれ、着替えを終えて寝室を出る。
地霊殿の廊下は、相変わらずの動物園だ。
私は、その中に、なんとなくフランとこいしの姿を探した。
あてもなく歩いていると、反対側から主人がやって来るのが見えた。
私の姿を見るなり、やつは私にこう言ったのだ。
「あら。
私と同じことをお考えですわ」
「なるほど。
あの二人、見当たらんのだな?」
「庭園を散歩しているのかと思ったのですが。
焦熱地獄に入った形跡もありませんし」
「と、なると、だ」
遠くから、爆音じみた音が聞こえてきた。
私はその瞬間に、もう走り出していた。
玄関扉を開けると、音の正体は一目瞭然だった。
旧都のほうから、もうもうと煙が上がっている。
私はそれだけでもう、こいしが再びやらかしたことを確信していた。
再びフランを旧都に連れ込んだのだ。
そして今度は、フランが鬼どもに喧嘩を売られた。
そんなところだろう。
昨日の掃除の仕返しだろうか。
深く考えるのはやめ。
私は地霊殿の正門に向けて、走り出そうとした。
背中から、さとりの声が追いかけてきた。
「行くのですか。
また連中に喧嘩を売られること必定ですが」
「ああ、功徳を積まにゃならんからな。
無事にフランを地上 まで帰してやらにゃ、聖にどんな顔されるかわからん」
「本当はそれだけじゃないでしょうに」
続くさとりの言葉を、私は無視した。
わかってるさ。
わかってるとも。
昨日、私はフランの顔を見た。
面と携帯電話を抱えたこいしの姿を見つけたときの、あの顔だ。
いつも、いつも至上の娯楽を期待して薄笑いを浮かべた、あいつの顔が。
あの時、ほんの一瞬だけ、真顔に変わりやがった。
フランを橋姫に引き合わせとけば、さぞや面白いことになったろう。
放っておけるわけがなかろうが。
フランも、こいしも。
あいつらが私で遊ぼうってんなら、私もあいつらで遊ぶ権利がある。
あんな面白い素材に比べたら、鬼と喧嘩するくらい屁みたいなもんさ。
私は旧都から上がる爆炎に向けて、大きく飛んだ。
煙の向こうから、甲高い笑い声が聞こえてきたような気がした。
「ぬえ、何か言った?」
横合いから声。
金色の髪をした、赤くて鋭い瞳が、私の顔をのぞいている。
何を考えてるのかも知れねえ、底抜けの暗い笑みだ。
私はフランの視線に射られて、思わず笑っちまった。
「さて、独り言でも出たかな。
考え事をしてたんだよ。
これからどうやって地上に逃げ戻ろうかって」
「あら、らしくないわ。
あなたが弱音を吐くなんて」
「あの場所で八百年も過ごしていたら、いやでもそうなる」
岩の壁が私たちの周りを、下から上へと流れていった。
ここは私の「使い魔」の上。
私たちはこいつにまたがり、一刻近く下へ下へと降り続けているというわけだ。
「注意はしたが、もう一度言うよ。
旧都に入ったら、くれぐれも気を抜かないように。
道すがら網を張ってた土蜘蛛を見たなら、わかってると思うが」
「穏便に帰ってもらったけどね」
「あそこには、あれよりタチの悪いのが、わんさといる」
そこで私の頭上に、影が覆いかぶさってきた。
いやが応にも、思い出す。
乗客が三人だったことを。
ベージュ色の袖が、私の首に巻き付いてくる。
土臭い匂いが、鼻を突いた。
「ねえねえ、内緒話? 私も混ぜてよー」
私は片手を頭の上にやって、こいしの頬を探り当てた。
つきたての餅みたいな感触のそれを、つまみ上げる。
「内緒話っていうのは、当事者のいないところでやるもんだ。
増して、どこで聞いてるかわからんやつの陰口なんてな」
「ひどーい、私が悪者みたい」
「お、自覚がないか?
元々、お前がフランを地底に攫おうとしたんだぞ」
私の隣で、誘拐未遂の被害者はくすくすと笑っている。
「いいのよ。
私も少しは興味があったもの。
ぬえが恐れおののく場所というなら、ますます見てみたくなったわ」
「まあ、いくら行くなと言ったところで、体験してみないとわからんこともあるからね。
今のうちに言っとくが、自分の身は自分で守ってくれよ」
「あら、守ってくれるんじゃなくって?
そうでもなければ、こんな所まで着いてこないわよねえ」
「聖が功徳を積んでこいって言うからだよ。
お目付役を仰せつかってる手前、いやとは言えまい」
洞穴の傾斜が、緩やかになった。
終点ではないが、そいつに近づいている合図なのには間違いなかった。
§
円盤から降り立つなり、こいしは私とフランの手首をつかんで走り出した。
足元の石ころがブーツに引っかかって、カラカラと乾いた反響音を暗闇に響かせる。
「ほら、ここまで来たらあともう少しで地霊殿だよ」
「そりゃわかってるから。
そう引っ張るなって」
この無意識女ときたら、人の話を聞きやしない。
フランはフランで、笑いながらこいしに引っ張られるがままになっている。
そうこうしているうちに、洞穴の空間が上下左右に広がった。
その向こうに見えるのは、旧地獄と現世を隔てる川である。
川には一脚の橋が架かっていて、旧都に続いている。
このままこいしのされるがままは、いささかまずいか。
橋には一人番人がいて、通行人にちょっかいをかけてくるのだ。
案の定、そいつは橋の真ん中あたりで欄干にもたれかかっていた。
私らはその目の前を、三人揃って通り抜けた。
後ろを見る。
橋姫はただぼんやりと、岩天井を見上げるばかりだった。
続いて、前を見る。
こいしは依然、私らの手を引き続けている。
使ったか、この女。
自分の無意識に私らを巻き込んだのか。
「便利よね、無意識って。
どんな場所でも顔パスなんだから」
フランがそんな感想を述べる。
無邪気なもんだ。
「そうは言うがな、フラン。
使い手が気まぐれすぎるのが問題だ。
今だって、このまま地霊殿にすんなり着けるかどうか」
道すがらに、由緒正しい佇まいの屋敷が見える。
ほんのり明かりが灯り、生活の気配すら見える。
そう、いよいよ旧都だ。
道をゆく鬼の姿が、ちらほら見えるようになった。
地霊殿にたどり着くには、どう進んだところで旧都を横切るしかない。
よって、住人どもにはいやでも出くわす。
しかもこいしときたら、何の考えもなしに中央の繁華街へと突っ込みやがった。
年がら年中鬼が宴を繰り広げる、賑やかすぎる場所だ。
店ん中だけじゃ飽き足らず、路上にまで卓を置いて、飲んだくれる鬼が大勢いる。
不意に手首から、牽引の感触が失せた。
慣性にまかせて、二三歩たたらを踏む。
こいしはその場で反転して、私らに向け両腕を広げた。
「ようこそ、旧都へ!」
煌びやかな旧都の明かりを背景に、大の字を作ったこいしを見て、私らは凍りついた。
そんな中、私はどうにか、言葉を絞り出す。
「いや、知っとるが」
「ええー、ノリ悪いー。
せっかく写真映えする景色なのに」
「カメラ持っとらんだろ。
そんなことより」
首を動かさずに周囲へ注意を向ける。
周りは多くの鬼が行き来しており、賑やかだ。
だがしかし、そんな中でも、ああ、何人かの注意がこっちの方に向いているのがわかる。
私はすかさず、フランの手を取った。
「急いでここを抜けるぞ。
こいしが無意識モードを切りやがった」
「そんなに慌てなくても良くない?
私たち、誰にも迷惑をかけてないわ」
「そういう道理はここでは通じないんだ。
ただ目についた、ここではそれだけの理由で」
私はほぼ反射的に、空いた方の腕を持ち上げた。
次の瞬間、挙げた手のひらに豪速球がぶち当たる。
風圧と衝撃に、手がビリビリと震えた。
「喧嘩を売りにくる脳筋が、しこたま控えてる」
「おいこら、てめえ」
人垣もとい、鬼垣が割れた。
一際体格のいい鬼が、こちらへ一直線にやって来る。
他の連中は、慣れたもんで。
いっせいに卓を片付け、円陣を作り、念入りにその鬼と、私らとを取り囲む。
逃がさん気満々だ。
「俺の酒を盗っていこうたぁ、いい度胸だ」
「何言ってやがる。
手前から投げつけてきたくせに」
私は片手で、受け止めた酒徳利をもてあそんだ。
「くだらん言い訳にゃ聞く耳持たねえ。
いつの間に戻って来やがった、この鵺公め」
「面会だよ。
地霊殿に用があって来た」
「地霊殿だと」
鬼はそいつを聞いて、ゲラゲラ笑う。
周りの連中も、つられて笑う。
不愉快な笑いのドームが、私を包み込んだ。
「出まかせもたいがいにしやがれ、詐欺師が。
あの嫌われ者の館に手前から行きたがるやつがいるものか」
「それが大真面目なんだがなあ。
ちゃんとアポも取ってあるし。
妹のほうだってこの通りここに、って」
こいしの姿は、忽然と消え失せていた。
逃げたか。
それとも別のものに興味が移ったか。
どっちにしろふざけんな馬鹿、だ。
「ともあれ、下らんいさかいに時間を取りたくないね。
大人しく引き下がってくれれば、恥ずかしい思いをせずに済むぞ」
「あいにく、こちらはたっぷり時間があるんでね。
「やれやれ、伊吹が聞いてたら本当にただじゃ済まんぞ」
フランの手を解いて、徳利を預ける。
「私をご指名だ。
しばらく下がってな。
周りの鬼どもに攫われないように、気をつけろ」
「あなただったら、避けられたんじゃない?
この瓶」
「避けたら避けたで、別の理由で因縁をつけられるだけさ」
フランから距離を取る。
鬼がやる気十分に拳を鳴らしている。
私はとっとと覚悟を決めて、そいつと相対した。
§
この旧都では住人の全員が全員、永劫の囚人であり、刑吏なのだ。
罪状の重さと罰は、各々が好きに決める。
その身勝手なルールをもとに、やつらは喧嘩の売り買いをする。
ルーチンワークみたいに、平然とな。
私や命蓮寺の連中は、やつらにとっては新参者、永遠の下っ端囚人だった。
しょっちゅう難癖をふっかけられたし、負ければ容赦なく連れ去られた。
そうなるとやつらが飽きるまで奴隷としてこき使われるか、酒盛りに付き合わされるかのどっちかだ。
私はやつらと戦ったり、攫われた連中を助け出したりしながら、自由への道を模索し続けていた。
地霊殿との同盟、裏切りに騙し討ち、生き延びるためならどんな手でも使った。
正直、油断のならない刑期だった。
§
喧嘩がどうなったかって?
そこいらの仔細を語っていたら、私の喉が枯れちまう。
だから、今の光景を見て、察してくれ。
私は血の混じった唾を路傍に吐き捨てる。
尻餅をついたモブ鬼野郎に、三叉の槍を突きつけた。
「さて、満足したか?
私が勝ったんだから、鬼のしきたりは守ってもらうぞ」
「ちぇっ、仕方ねえ」
鬼は懐から何か取り出し、私に投げ渡した。
猪口の類いと見られる、小さな器だ。
これでも妖力の籠った、鬼の宝具の一種。
まあ、伊吹瓢や星熊盃には遠く及ばんだろうが。
おまけに命蓮寺じゃ、大っぴらに使えないときた。
まあ、ぜいたくは言うまい。
打ち出の小槌クラスのスーパー宝具を持ってる鬼なんて、今どきいやしねえ。
私はフランの姿を探して、首を巡らせた。
「待たせたな、次のやつに絡まれる前にとっとと行こうか。
どこだい、フラン」
「ずいぶんと手間取っていたじゃないの」
声のしたほうに顔を向けたところで、脱力しそうになった。
ギャラリー席じみて、鬼垣の片隅に卓があつらえられている。
フランはその一席に腰掛け、私に向け手を振っていた。
赤ら顔で。
「攫われるな、つってんのに」
「別に連れ去られたりはしちゃいないわー」
私は有無を言わさずフランを立たせた。
お前も一杯やってけよー、などと言う鬼どもの誘いを丁重に無視して、歩き出す。
「こんな所に長居してたら、命と肝臓がいくつあっても足りゃしないぞ」
「こいしがいないけれど、どうするの」
「放っときゃいいさ。
どうせそのうち戻って来る」
§
「それで、命からがらここまでたどり着いたということですか」
「だって、あいつらフランもいるのに私ばっかり狙ってくるから」
さとりは執務席についたまま、私の姿を眺め回した。
私の姿を正体不明に覆い隠す、自慢の一張羅はもうボロボロだ。
「単純に恨みを買いすぎではないかしら」
「至極真っ当に生きてきたんだがな」
「鬼たちとあなたの真っ当は意味が違いますよ。
もうご存知でしょうに」
そうにらむなっての。
好きで阿漕をやってきたわけでもなし。
「まあ、さて置きましょうか。
今回はいつまで、
「明日かも知れんし、一カ月後、一年後かもわからん」
「案内役を途中で放り出した誰かさんの、胸先三寸ということね」
「そういうこと。
あいつが新しい玩具を見つけたなら、期間が詰まりもするだろう」
「あの子の手癖の悪さには、困ったものです」
さとりの胸元にさがる『第三の眼』が、私を眺める。
「そう。
あの子の部屋を見ておきたいのですか。
戻ってくるのを待ったほうが、よくないかしら」
「むしろいないうちが、面倒がなくて助かる」
「否定はできないわね」
さとりは立ち上がり、私たちを手招きした。
フランとも連れ立って、部屋を出る。
獣くささの立ち込めた廊下だ。
そこかしこにうごめいているのは、犬猫ばかりにとどまらん。
図体のでかい虎やら狼やら、怪獣みたいななりの爬虫類まで我が物顔に振る舞っている。
道すがら、フランが声をかけてきた。
「ひょっとして、こいしの玩具って私のことかしら?」
「『たち』かもしれんぞ。
不愉快かね?」
「全然。
むしろ、ますます興味が深くなったわ。
吸血鬼を恐れないどころか、自分のものにしようとするなんて」
ふふ、という含み笑いと共に、さとりが肩を揺らした。
「本気でそうお考えのようで。
あなたもなかなか奇矯なお方ですわ」
「四九五年もの間文字でしか知識を得ていないと、どんなものにも興味が湧くものよ」
「あなたの場合、それだけではないですよね。
あの紅い館でお目にかかったときから、わかっていましたが」
扉の一つで、さとりは足を止める。
軽く、二三度扉を小突く。
乾いた音だけが、虚しく響いた。
続いて、ドアノブに手をかけた。
肝心の扉が動かない。
さとりは私らのほうを見て、渋い笑みを浮かべる。
「今日はきちんと、戸締まりをしていったようですわ」
そこでフランが扉の前に進み出た。
「見せて」
「修理はそう安くないので、あまり派手に壊さないでくださいね?
少し待っていただければ、合鍵を持って来られますし」
「むしろまるまる無くしちゃったほうが、楽に直せるのではないかしら?」
おいおいやる気か。
滅多なことではないが、やると決めたらこいつは容赦ないね。
さとりに代わって、フランがドアノブをひねる。
ゴリゴリ、という不吉な音がして、扉はあっさりと開け放たれた。
フランは中を一目見ると、あきれ声を上げた。
「ここはこのお屋敷の、物置か何かなのかしら?」
「お恥ずかしい限りですわ。
掃除も満足にさせてくれないことが多いのですよ。
あの子ったら」
どうやらお察しだな。
私はフランとさとりの後ろから、こいしの部屋をのぞき込んだ。
フランの形容にふさわしい、がらくた置き場のような部屋だった。
柄もサイズもまちまちな服や装飾。
掛け軸や壺などの調度品。
果てはどこから剥いできたかもわからん看板やら彫像みたいなでかぶつまで、部屋を無造作に埋め尽くしている。
私は足の踏み場を探しながら、部屋に入り込んだ。
「またいっそう、物が増えたんじゃないか?」
「地上に出られるようになってからは、ペースに拍車がかかりましたね」
「
私は中央のテーブルに目を留めた。
部屋の中で唯一、洋館の内装から脱線しない調度品だった。
私はその上に乗ったものを拾い上げ、フランにも見せてやる。
一つは、木彫りの能面。
穏やかな笑顔を浮かべた幼子のような造形。
もう一つは、薄くて小さいのに重量感のある金属の板。
紫色をして、びっしりと幾何学模様が描かれている。
「見なよ、フラン。
この面は、地上の面霊気から奪ったやつだよ。
こいつのせいで、幻想郷中に宗教戦争が巻き起こった。
こっちは、外界から来た超能力者から取り上げた携帯電話とかいうやつだね。
どっちも持ち主に返す気はないと見える」
「全部盗品ってことね?
私もあの子のコレクションに加えられちゃうのかしら」
「生き物はまともにお世話できたためしがないので、頃合いを見て片付けていますがね」
さとりが口を挟んできた。
「こいしはずっと、泥棒を続けてきたの?」
「気の遠くなるくらい昔から、この調子ですよ。
そうね、あの子が心を読む力を捨ててからは、ずっとそう。
まったく何がしたいのやら。
あの子の心は読めないから、今も意図は謎のままですわ」
やれやれ、心の読めない相手となりゃ、究極反則探偵も形なしだな。
「当て推量で、間違った判断を下すつもりがないだけですよ。
あなたなら正体不明な無意識を理解する術をお持ちだとでも?」
「素でナレーションに突っ込みを入れてくるのは、さすがだと思うが」
私は腕を組んで、がらくたの中で思いを巡らせた。
「私はあんたほどじゃないが、あいつとの付き合いはそこそこ長い。
その見地からすると、あいつは足りないもんを埋めたがってるように見えるね」
「気取って言うなら『心の穴』とでも言うべきもの、ですか」
「サトリ妖怪を捨てて出来損ないになっちまったからな、あいつは。
妖怪になりきれない手前を嘆いて、妖怪との差を埋め合わせるものを探し求めてたっておかしくはあるまいよ」
「ナンセンスです。
妖怪に戻る手段なんて、あの子にはたった一つしかありませんもの」
探偵は私の推理を鼻で笑い飛ばす。
左手で、第三の眼をもてあそびながら。
「そいつを選べないから、あいつは何百年経っても出来損ないのままなんだと思うがね。
お前はそれがわからんほど、節穴ってわけでもあるまい」
「確証が取れないだけですわ。
心が読めませんから」
「二人ともお止めなさいな。
あんまり言い争ってたら、日が暮れちゃうわ」
今度はフランがやり取りを遮る番になったってわけだ。
「詰めが甘いんじゃないの、探偵さん。
そんなだから怨霊をみすみす取り逃がすのよ。
推理が終わったら、次にやることは一つでしょうに」
さとりが凍りついた。
フランが両手のひらを天井に向けている。
そんな手の上に、群れた蛍のような光が現れた。
無数に。
それを見るさとりの顔は青い。
いつも血色が悪いが、今はそいつを越えている。
「確かにやったことはありません。
ありませんが、それが証拠になるかどうかは、とても」
「やったことがなかったのは、これまでが無理だったからでしょう?
でも心配はいらないわ。
私なら、できるもの。
そのために私がここに連れて来られたのだとしたら、素敵じゃない?」
そこで私は気がついた。
光の正体がなんなのか。
でもって、フランが何をやらかそうとしているのか。
気づいたところで、私はフランを止められやしなかったし、止める気もなかったが。
フランが両手を握りしめる。
同時に、部屋の中にあったがらくたがまとめて弾け飛んだ。
飾り物も、置物も、大看板も、余すことなく。
泡が割れるような音を残して、粉々になった。
こいしの部屋は、わずかな家具を残して綺麗に片付いた。
私とさとりは無言で様変わりした部屋を見回す。
「あら、ずいぶんお部屋が広くなったわ」
こいしの声が聞こえてきた。
いつだって、こいつの登場は唐突だ。
振り向くと、やつぁ両手に何かを抱えていやがった。
あの面霊気の面と、超能力者の携帯電話だ。
気がついたら、私の手ん中から失せている。
本当、油断も隙もありゃしねえ。
フランは振り返った。
ほんの一瞬、こいしの手の中にあるものを見る。
私は知らず、寒気を覚えた。
「あなたの部屋はひどく散らかっていたから、私が片付けておいたわ。
また散らかるようだったら、いつでも読んでちょうだい。
メイドよりも確実に、綺麗さっぱり片付けてあげるから」
対するこいしは何回か瞬きした。
例の面と携帯電話を抱えた姿勢のままで。
それから変わらぬ笑顔で、フランに応えた。
「うん、ありがとう」
感謝、ときたか。
詰まるところ、この部屋のものの大半はこいしと妖怪との差分を埋めるには至っていなかった。
そういうことなのだろう。
それでは、それならば。
こいしが無意識に守ったあの二つのオブジェ。
あれは、こいしにとっての何なのだろう。
私はさとりに目配せをした。
やつは私の疑問に答える代わりに、こいしへ向き直った。
「こいし、お客様をきちんと案内しないと駄目じゃないの。
今度はちゃんとお客様をお風呂場にお連れして、それからあなたも汚れを落としていらっしゃい。
その間にお夕飯を用意してあげるから、お願いね?」
「はーい」
さとりはいそいそと、部屋を後にした。
ちぇっ、都合よく心を読む程度の能力を放棄しやがって。
§
薄く目を開けると、暗い天井が見えた。
ひどく体が重い。
そのくせ、体を包む毛布がやたら柔らかい。
二度寝の衝動を覚える。
まあ、旧都での連戦がたたったのだろう。
ここなら村紗や白蓮に叩き起こされる心配もないし。
だが、渦巻く不安がそいつを許しちゃくれなかった。
やけに、静かだ。
ただそれだけの事象が、私の心を泡立たせた。
痛みの残る体に、鞭を打った。
どうにか毛布を跳ね除け、傍らに畳まれたワンピースを掴み取る。
やたらと修繕が早いな。
昔、ここに残してったやつでもあつらえたか。
ともあれ、着替えを終えて寝室を出る。
地霊殿の廊下は、相変わらずの動物園だ。
私は、その中に、なんとなくフランとこいしの姿を探した。
あてもなく歩いていると、反対側から主人がやって来るのが見えた。
私の姿を見るなり、やつは私にこう言ったのだ。
「あら。
私と同じことをお考えですわ」
「なるほど。
あの二人、見当たらんのだな?」
「庭園を散歩しているのかと思ったのですが。
焦熱地獄に入った形跡もありませんし」
「と、なると、だ」
遠くから、爆音じみた音が聞こえてきた。
私はその瞬間に、もう走り出していた。
玄関扉を開けると、音の正体は一目瞭然だった。
旧都のほうから、もうもうと煙が上がっている。
私はそれだけでもう、こいしが再びやらかしたことを確信していた。
再びフランを旧都に連れ込んだのだ。
そして今度は、フランが鬼どもに喧嘩を売られた。
そんなところだろう。
昨日の掃除の仕返しだろうか。
深く考えるのはやめ。
私は地霊殿の正門に向けて、走り出そうとした。
背中から、さとりの声が追いかけてきた。
「行くのですか。
また連中に喧嘩を売られること必定ですが」
「ああ、功徳を積まにゃならんからな。
無事にフランを
「本当はそれだけじゃないでしょうに」
続くさとりの言葉を、私は無視した。
わかってるさ。
わかってるとも。
昨日、私はフランの顔を見た。
面と携帯電話を抱えたこいしの姿を見つけたときの、あの顔だ。
いつも、いつも至上の娯楽を期待して薄笑いを浮かべた、あいつの顔が。
あの時、ほんの一瞬だけ、真顔に変わりやがった。
フランを橋姫に引き合わせとけば、さぞや面白いことになったろう。
放っておけるわけがなかろうが。
フランも、こいしも。
あいつらが私で遊ぼうってんなら、私もあいつらで遊ぶ権利がある。
あんな面白い素材に比べたら、鬼と喧嘩するくらい屁みたいなもんさ。
私は旧都から上がる爆炎に向けて、大きく飛んだ。
煙の向こうから、甲高い笑い声が聞こえてきたような気がした。
(こいしは差取れない 完)
面白かったです。
ずっと酒飲んでてほしい。
ぬえが妙に律儀でおもしろかったです