Coolier - 新生・東方創想話

公道を水のように、廉直を川のように

2020/10/26 01:21:49
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公道を水のように、廉直を川のように(Greed Incarnation Ghost)




『姉さんへ』

ともに雪の地平線を歩いてくれた……肉親にすべての空想を奉納する




『妹へ』

神話に於いて
神さまは……神さまを産みだすことができる
妹にこの言葉を奉納する




第一部 苦悩の卵




【現実世間】




 強欲の化身の悪霊(Greed Incarnation Ghost)と言うやつがいる。それは絶対に比喩や形而上の存在ではない。
 それは『依神女苑』の中で生きている。なんのために悪霊はいるのか。少なくとも彼女をたのしませるためではない。昔はそうだったのかもしれないが、彼女が生きかたを変えるためには、もう共生は不可能になった。それなら体を去ってもらうよりほかはない。

「女苑にできるのは何かを奪うことだけです。それなら奪ってきなさい。そして勝ってきなさい、これからの自分を導くために。それまで待っていますから」

 雪の降る日、ある姉妹が、幻想郷を去った。
 三ヶ月も続いた、豪雪が降りやんだ直後だった。
 人間の失踪なら、それほど珍しいわけではない。人間が村八分にされると人里を出て、妖怪に喰らわれることもあるし、子供の失踪などは神さまや天狗に見そめられ、連れさられてしまうのが事件の真相であると言う。
 だが今回の場合は事情がちがう。姉妹は神さまだったのである。
 人間ならまだしも、神さまの失踪など、聞いたことがない。
 神さまの失踪となると、信奉者が発見に奔走しそうに思われるが、そう言うことにもならなかった。姉妹がきらわれていたからである。
 姉のほうはいるだけで不幸の種をばらまいたし、妹のほうは何かを奪わずにはいられないと言う、醜悪な体質を持っていたのだった。だから姉妹の行方が別に気にされるわけはなく、むしろ失踪をよろこばれたはずである。
 そして……やがて時が経ってしまえば、大勢の記憶からも忘れられて、歴史のかなたに消えてしまうのだろう。



 ……ふたりで、座った。対面座席で、向かいあって。
 電車が動きだすまえに右目をとざし、静かに出発を待ちうける。電車が動きだすころ、また右目をひらく。
 『貧乏草』はすでに女苑に買ってもらった、牛肉弁当に喰らいついていた。食べものがあるときの彼女は、行動が普段の何十倍も早いのだ。
 上手に割れなかった、割りばしの逆端。上部に割れそこないの、奇形が引っついている。黄色の歯は米と肉を一心に掻きこむ。
 見ているだけで、食欲がうせてくる。
 ……“欲”がうせるか。自嘲してしまう。随分と甘くなってしまった。

「みっともないわ」
「今さら……」

 貧乏草が口にする。弁当ではなく、言葉をである。わるびれもしない。
 それもそうだ。どうでもよい。窓の外でも眺めよう。
 雪景色だ。画家に捨てられた、まっしろのキャンバス。それが外の風景。電信柱は立っているが、遠くに山も見つからない。白一色の地平線が女苑の感想を拒んでいる。
 雪について調べると、こう言うふうに書いてある。

一ミリ未満……霧雪
一ミリ以上……“雪”

 雪の重さは一立方メートルで百五十キログラムにもなると言う。根雪になれば、五百キログラム。水が一立方メートルで一トンになるところの半分である。
 雪が降りつづけるのなら、すべての者物が圧殺されるのも、避けがたいのかもしれない。
 雪は絶対に休まない。しんしんと音もなく、ゆっくりと堅実に、世間を滅ぼしてゆく。もはや線路に沿って、草の芽も出ないのだ。
 これは、感想ではない。
 それは、ただの事実である。

「女苑はどこに行きたいの」
「分からない……空白の瓶を満たしたいとは思うよ」
「寺を巡礼でもしようか?」
「ふん」

 つい鼻を鳴らしてしまう。

「馬鹿々々しい。私は神さまなんだから。もう二度と……寺の世話にはなれないよ」

 かたわらのギターを掴む。ケースもない、剥きだしのギター。右足を膝に乗せ、それを土台にして、ギターをかまえる。

「ひなたぼっこでも していきませんか
 そこにまあ 座って
 御茶でも飲んで おはなしを
 どんなはなしを 喋りましょうか
 日のいずる 国の あしたのことでも」

 電車の中でギターを弾くなど、無駄な注目をきらっている、女苑らしくもないのだ。だが、それは周りに乗客が一人もいないからこそだ。作業的に切符を見にくる、車掌の影も見つからない。
 窓の外でガスを尻から噴きだす、中古のBMWの動きも。雪の海であゆみを進める、孤独な巡礼者の姿さえも。
 何もない。世間にふたりぼっちだ。
 手を止めた。ギターの音が急に止まる。

「駅で降りたら、線路に沿おうよ。果てへ歩こう」
「別にどこでも行くよ、女苑が一緒なら」
「……ありがとう」

 つかれた。駅につくまで、眠っていよう。
 夢の中でこれまでのことを追想しようか。
 本当に……すこしだけ。




【第一の空想】




 雪の勢いは弱まらず、それでも日は暮れてゆく。冬の暮れは早い。曇っているならなおさらだ。
 空を見ると鼻の上に雪が乗った。
 切りがない。手を止める。スコップを屋根の上の雪に刺す。

「つかれた」

 愚痴のついでにスコップを手ばなした。

「痛い々いと思ったら……」

 ナズーリンの手は肉刺だらけだ。
 穴を開けて、水を抜くか、迷ってしまう。だが肉刺と言うやつが、どう対処するのが最善なのか、別に詳しいわけでもない。水は抜かないでおくべきだろうか? ……。
 溜息を吐き、雪に座った。
 巾着袋にはいっている、煙草と燐寸を取りだした。燐寸は湿って、火がにぶかった。四本も無駄にして、ようやく火が噴いた。聖火でも扱うようにゆっくりと煙草の先端をいぶしてやる。
 煙を肺に入れると舌がしびれ、頭の裏で快楽の幕が垂れた。本当に久しぶりの煙草だった。

「さぼってます?」

 煙の海を漂流していると、急に氷のような声で囁かれた。いつの間にか村紗水蜜がうしろにいた。屋根をつたってきたのだろう。幽霊と言うやつは本当に気配が希薄すぎる。

「休憩だよ」

 いたずらに煙を吹きかけてみるが、身じろぎさえもされなかった。幽霊に肉体的ないやがらせは無駄らしい。

「この手を見てくれ、肉刺がひどいよ。私は頭脳労働が仕事なのに、どうして雪を掻いているんだ?」
「自慢の頭脳で大雪も止めたらどうです」
「向こうの屋根は終わったのか」
「当然」

 ナズーリンは自分の細腕がふがいなくなる。
 ……不意に水蜜が、屋根の下を見た。視線の先で子供たちが、玄関の雪を掻いていた。その姿は無防備だ。自分の視線が鋭いあまり、その首筋に穴が開きそうだと思う。あたかも毒蛇が牙で穿つように。

「目が据わっているぞ」

 だが声をかけられると、心の毒蛇も逃げてゆく。水蜜はごまかすように頭の雪を手で落とした。

「ごめんなさい……」
「大丈夫?」
「私よりも心配なのは星よね。今日は満月……何ごともなく、済んでほしい」
「うちの御主人さまは信用がないな」
「してはいるよ。でも宿命は簡単に飼いならせない」

 宿命。
 ナズーリンは急に“宿命”の意味を辞書で調べたくなった。彼女の宿命は寅丸星に仕えることだが、そこには特に苦労を感じられなかった。それは恵まれていると言えるだろう。
 空が曇っているとしても、彼女の生活は肩の荷が少なく、晴れやかなほうなのかもしれない。
 だが宿命を苦痛に思う。そんな連中はどう言うふうに過ごせばよいのだ?

「つかれた。帰ろうか……ムラサ」
「ウィ」

 ふたりが屋根を跳びおりた。



 ひたむきに歩きながら、雪の勢いでひるみそうになる。
 豪雪が幻想郷を蝕んでいた。新暦の師走にそれは降りだし、如月の中途の今の々まで、一日も雪が降りやまない。つまり七十日も幻想郷は雪に囚われているのだった。
 これでは無縁塚に独りで暮らせるはずがなく、命蓮寺の厄介になるしかないわけだ。放置されたナズーリンの住処の屋根は、すでに雪の魔の手で潰されてるにちがいない。おかげで寺の慈善事業の一環として、人里で雪を相手にスコップを振りまわすことになってしまったが、雪に埋もれるよりは有情だった。

「こんな異変もあったかな」
「異変?」
「白玉楼の亡霊が春を奪ったのはおぼえていないか」
「知らない。まだ地底にいたかも」
「そうだっけ? 君たちがいないころを、随分と昔のように感じるよ」
「いないほうがよかったでしょう。私が……きらいでしたから」
「苦手なだけだ」
「冗談よ……」
「そこまで薄情じゃない。君とちがってね」

 煙草を雪の上に投げすてる。
 この大雪だ。火事の危険はない。油でも撒かなければ、とても炎上しないだろう。
 それに雪は不道徳を埋めてくれる。煙草のひとつくらい、捨てたところでわけはない。

「吸ってましたっけ?」
「別に……ただ雪ばかりだから、拠りどころが欲しくてさ」

 雪は人間と非人の区別なく、すべてを嘲笑しているようだった。確実なのはスコップを手ばなせば、何もかもがまっしろの地平線に飲みこまれると言うことだけである。スコップが与えてくれるのが、無価値な労働だとしても、その事実だけは受けいれるほかない。
 さすがに人力だけでは対処しきれないらしく、特例で天狗が人里の上を飛んでいた。一晩中でも屋根の雪を風で落とすにちがいない。
 奇妙な共生関係なのは、ナズーリンにもよく分かっていた。

「これも異変?」
「どうだろう……異変ってのは大抵、誰でも節度を守ってやる。これが異変ならあまりにやりすぎているよ。始末されてもおかしくない」
「じつは天罰とか」

 ナズーリンは冷笑した。

「なるほど。巻きぞえだ、君の天罰の!」
「そうかもね。申しわけないけど、死んでもらいましょう」

 だが大雪が天罰でないことはあきらかだ。
 天は、我々に興味がない。
 天は、道徳と不道徳を考慮できない。
 それが在るのは、我々が気にするからである。

「雪の相手は飽き々きだ。誰かに代わってもらいたいよ」
「代わりねえ」

 水蜜は遠くの故郷を懐かしむように言う。

「それなら女苑でもいればよかったねえ」
「……誰?」
「会ってないっけ。二年くらいまえに聖が飼ってたフダツキよ。異変が終わると連れこまれてきて……すぐに去ってしまった。最近は噂も聞かないけど」
「噂?」
「わるいほうのね。あいつは悪党だったから」

 貧乏草と『鉄道草』が異変を起こしたころは、誰もがふたりを話題にした。だが噂の風化は早い。時の緩やかな幻想郷でさえそうなのだ。そして今は噂どころか、すべての者物が雪に圧殺されようとしている……しばらく歩いているとふたりの耳に、消えいりそうなギターの音が聞こえはじめる。




【第二の空想】




『すべてを奪いとらなければならない』

 それを鉄道草が直感したのは、最初に財を巻きあげたときだ。
 窃盗は最初の悪行だった。まだ非力で他者をたぶらかせない。そのための苦肉の策だった。
 だが盗むところまではよかったが、銭巾着を自分のふところに収めるのを見られてしまい、三人の男たちに囲まれてしまったのだ。背後では非力な貧乏草が怯えている。世に産まれて、最初の危機だ。
 それでも鉄道草は舌なめずりをする、屈強な男たちを目前にして、意外と落ちついていたのである……確信があったのだ。自分が腕っぷしで負けはしない。
 そのとおりになった。細腕のどこにそんな腕力が眠っているのか……男の一人の鳩尾を殴り、地に這いつくばらせてやる。
 男がもだえる。うるさい、黙ってろ。隣の男にも拳を浴びせ、顎の骨を砕いてやる。そして残りの一人の股ぐらを蹴りあげ、鉄道草はこの世に産まれおちてから、十八分で人間の睾丸を潰したのである。



 自分はどう言うふうに産まれたのだろう。
  誰も自分の始まりを知らず。
   誰も自分の終わりを知らない。



 だが一生が始まり。
  一生は終わる。
   始まりは一生ではないし。
    一生は終わりではない。



 それでも鉄道草は世間にいる。
 鉄道草は打ちふるえる。

『私はいる。すべてを奪うために産まれたのだ』

 自分が最も強いのだ。自分が最も偉いのだ。

『世間よ、この手に、搾取されろ。
 その魂を、支配させろ。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ』



一九四五年 八月六日 七時四十八分



 その時間帯のわりに、太陽光線は針のように鋭かった。目にはいりそうな汗を手でぬぐう。ひどい体力の損失だ。
 それでも畑を掘りつづけた。今日も薩摩芋を食べなければならないのは、うんざりとさせられる。だが飢えるよりは有情だろうと、自分を納得させるしかない。
 芋を掘りだし、麻袋に入れた。
 貧乏草を連れてくるべきだったのだろうか……すぐに頭を振り、汗を吹きちらす……あの細腕が芋をすぐに堀りだせるとは思えないし、この現場を見られたとき、逃げようにも足手まといだ……。
 もちろん畑は鉄道草の土地ではない。彼女は盗みを働いていたのだ。
 現場を見られる。その状況は思ったよりもすぐにやってきた。急に隣家の戸が開いて、人間の兄妹が出てきたのだ。
 まだ子供だ。すぐに兄のほうと視線が合う。それでも落ちつきはらって、舐めくさるように第一声。

「どうも!」

 はじかれたように兄妹が鉄道草のほうに走りだす。裸足でさえもいとわない。もちろん彼女も立ちどまっているわけではない。麻袋を肩に担いで、町の東へ駆けだすのだ。
 芋のはいった、麻袋は重かった。
 子供が相手のわりに、彼我の距離は一定に保たれる。食料を賭けた、闘争なのだ。
 走りながらも振りかえると、兄の目が血ばしっている。別に見えたわけではないが、そう言うふうに分かったのだ。その必死な走りかたは、狂犬のたぐいに見えた。
 だが努力もむなしい。奪いさることに特化した、鉄道草の足の筋肉が冴え、徐々に距離はひらきはじめる……百メートル。二百メートル。三百メートル。四百メートル……ついにうしろから、負けおしみが聞こえた。それがさらに彼女を愉快にさせるのだ。
 鉄道草は振りかえる。

「どうした! 追いかけろよ。病気の母親のために、それとも父親に頼ってみるか!」

 今の鉄道草は物を盗むとき、つねに奸計を怠らないようにしていた。兄弟の家に大人は病気の母親しかいない。父親はすでに死んでいたし、長男は戦争に行ってしまった。
 だから兄弟の家の畑を選んだのである。
 きびすを返して、また駆けだした。
 斜面を一気に登ると、町の外の丘に辿りつく。
 一本の杉が植わっている。そこで貧乏草と待ちあわせていたのだった。彼女は貧弱な笑顔で鉄道草を迎えてくれた。



「どうだった?」
「芋しかなかった。ほかに植えようとは思わないのかなあ?」
「私は食べられるならなんでもかまわない」
「貼りだしを見かけたよ。畑を荒らす、娘に注意! ……はあ」

 杉の根本に腰を落ちつける。
 芋を取りだし、かじりつく。
 土と砂の味がする。

「この町に長くいすぎたわ」

 ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカと争っていた。鉄道草がではなく、この国がである。彼女が芋を盗んでいるのもそのためだ。馬鹿々々しいが、この国ではもう、財を奪えなかった。誰の金庫の中身もない。人間の世間で生きるなら、こう言うことも起こりうる。それは仕方がない。
 だが収奪物が減るのは迷惑だった。世間の物は自分の物なのに、馬の骨がそれを壊してゆく。
 馬の骨とは、空襲のことだ。

「次はどこへ行こうか?」

 貧乏草が言う。枯尾花のように首をかしげる。

「また南下するしかないのかな」

 丘から見える、トタンの屋根。町の全体に群れている。空襲と修理の競争だ。死が降りそそぎ、落ちつきのない、地上の白蟻たち。
 こんな田舎を爆撃するからには、財を持ちぐされているだろう。あるいは徹底的にやらなければ、気が済まないだけなのかもしれない。最近は珍しいことに、空襲がこないでいるのだが……。



「……ふん?」

 そのときだ。
 丘の下から、誰かくる。
 走ってくる。言うまでもない、あの兄弟なのだ。
 なるほど……意外と根性はあるらしい。

「なんだよ」
 
 返せよう……その芋はうちのなんだよう!
 言われたわけではなかったが、近場にくると目が語っていた。妹のほうは兄のうしろで子鹿のように怯えている。
 その微妙な空気の中でも、鉄道草はさわやかに笑うのだ。兄のほうへ芋をほうりなげる。そして寛容に言ってあげるのだ。

「根性あるじゃん。それに免じて、ひとつやるよ……私の芋から」

 兄は怒りに震えた。
 どの口が言う! ……“私の芋”だと。数十分前に盗んだくせに……だが憤りのわりに声が出ない。こわかった。
 嘲笑するわけでもなく、平然と芋を投げわたしてくる、鉄道草の気楽さが怖ろしかった。その態度は直感的に怖ろしかった。
 目のまえの生きものは、芋が自分の所有物であることを、微塵も疑っていないのだ。だから平然と施すように、上司が部下へ奢るように、芋を投げわたしたのである。
 ありえない、それにしても、ありえない。
 数十分前に盗んだくせに、元の所有者を前にして、本気で所有権を主張できるわけがない。あまりに思考が破綻している。だが目のまえの生きものは、それをやってのけている。
 分からない。怖ろしい。逃げだしたい。あまりに残酷すぎている。それでも芋を取りかえさず、引きさがるわけにはいかない。
 自棄になり、飛びかかる。歳上に見えるが意外と小柄な娘ではないか。こんなやつに打ちかてず、これから生きていかれようか。



 だが兄の拳は相手が座っているにもかかわらず、頭をひねるだけで避けられてしまうのだ。そして“おかえし”とばかりに鳩尾へ、鉄道草の拳が砲丸のように飛んでくる。
 胃液をぶちまけた。はらわたが万力で潰されるように痛み、猿叫で苦痛をうったえる。蚯蚓のように土の上をのたうつしかない。 

「やさしくしたのに、つけあがりやがって」

 鉄道草が服の襟を掴んで、兄を片手で持ちあげる。
 殺される! ……ようやく敵に回してはならなかったと気がつかされるのだ。

「交渉は苦手か? なあ……私は譲歩したよね、芋を恵んだよね。なのに殴ってくるなんて、どう言うことなのかな? 学校で教育は受けているのか?
 私はこんなにも親切なのに、義理を果たさずに済ますのか!」

 これは嘲笑などではない。この生きものは本気で言っているのだ。なんて押しつけがましいのだろう。あまりにも奇怪だし、あまりにも異常だ。
 逃げてくれえ! ……いつの間にかみっともなく、大声で妹に呼びかけていた。
 かまわなかった。妹が無事に帰れるならそれで充分だった。

「待った」

 だが妹はふるえあがり、腰を抜かしていた。
 その隙に目のまえの乱暴者よりも貧相な、もうひとりの陰気な娘に、妹は拘束されてしまう。
 追いかけてきたのを後悔した。アメリカと戦争をするよりも失策だ。

「ごめんねえ。すこし待ってねえ、処遇は女苑が決めるからねえ」

 貧乏草は判決を催促する。

「どうする?」
「そうだな……それの毛根を引きちぎれ!」
「嫁に行けなくなるよ」
「だからだろ!」

 妹がすぐに暴れだす。逃げようとしても、すでに遅すぎた。貧乏草に首を掴まれ、土の上に縫いつけられる。

「ごめんねえ、ごめんねえ。女苑が決めたことだからねえ」

 妹の悲鳴を聞いて、兄は声も出ないのだ。
 兄さあん、々さあん! ……助けを求めていた。耳を塞いだ。鉄道草は無表情だ。貧乏草の手が、妹の前髪を引っこぬいた。呆然とかいわれの採取と似ていると思った。
 戦争は終わる。すべてが幸福になる。みんなが言っている……本当にそうなのだろうか? なら目のまえで繰りひろげられる、この地上の地獄はなんなのだろう……。
 不意に目のまえの生きものに、兄は“障らずの神さま”と名前をつけた。




【第三の空想】




 聴こえている。楽器の音が。
 孤独なブルースに釣られて、水蜜とナズーリンは路地を見る。小柄な娘が藁蓑に包まれ、楽器を孤独に弾いていた。
 異国の言葉で歌っている。水蜜には分からない。

『清らかな 心を持って いなくても
 女はどう言うふうに
 男を支配するか 学べるのさ
 夫を支配する 方法もね
 見すぼらしい 髪をしていても
 すこし腰が曲がっていてもうまくやれるよ
 君の個性が素敵ならね』

 だが、おぼえのある声ではあった。

「ムラサ?」

 娘にあゆみよる。ナズーリンの静止もかまわない。その声を他者に興味のない、水蜜でさえもおぼえている。忘れようがないだろう。欲望に忠実。呆れるほどに勝手な性格。
 強烈な個性を持つ……神さま。
 藁蓑を剥ぎとる。楽器の音色が止まった。

「何をしているの」
「舟幽霊……」

 時が錆びついたように沈黙した。降る雪の音が、聞こえそうだ。
 次の間に。
 ばねのように立ちあがり、鉄道草は逃げようとする。だが悪霊の姑息な腕に、肩を掴まれてしまうのだ。

「手を放せ……悪霊」
「それは無理です。ナズーリン! すこし待ってね」

 様子を路地で伺っていた、ナズーリンに釘を刺し、もちろん肩は離さない。
 幽霊のくせに力が強く、獣に噛まれているようだ。指が喰らいついてくる。

「痛いってば!」
「村紗」
「はあ?」
「悪霊じゃない、私の名前は村紗」

 悪霊と呼んだのを根に持っているらしい。こんなときに訂正を求める、その神経は理解しがたい。幽霊なりの拘りでもあるのかもしれない。

「分かったよ。ムラサね、けっこう?」
「はい」

 肩を離される。左手で軽く、肩を揉んだ。
 もう逃げようとはしなかった。

「なんの用?」
「用は……ない、けど」

 鉄道草の全身を見る。
 随分と見すぼらしかった。
 風呂にはいっていないのか、飴色の髪がくすんでいる。服は土と埃にまみれ、帽子は穴が開いていた。サングラスの亀裂は鋭い。八本の指を飾っていた、宝石たちが減っている。金色のメッキの腕輪ばかりが、以前の面影を残している。

「笑えよ」
「アハハハ」
「本当に笑うやつがあるか!」
「慰められるなんてきらいでしょう?」

 水蜜は率直な言葉を向けてきたが、却ってやりやすくもあった。
 鉄道草は観念した。わけを話した。

「何もかも雪がわるいのよ。どいつもこいつも家を潰されないように必死でさ……小娘の誘惑なんて、気にもできない。ついでに寺の連中や天狗がうろついていて、窃盗も簡単にできないしね」
「その寺の連中の前でよくもまあ……」
「いくらでも言えるわ」
「それが理由でしみったれの琵琶法師をやっていたわけですか」
「ギターよ」
「どうして逃げようとしたんです」
「寺に連れていかれるかもしれないでしょう」
「そのつもりです」
「私は誰にもたよらない」

 水蜜は冷笑的な微笑を浮かべた。
 笑いやがって。田舎者はこれだから。
 そう思ったとき、肩へ腕を回された。
 熱を奪われ、ぞっとする。温度がないと言うのは、じつに気味がわるかった。

「触れるな」
「私もあなたに来てほしくはないですけどね。聖の掟がありますから」

 その名前を耳にしたくもない。

「命蓮寺は門弟を絶対に見かぎってはならないの。それが“元”であってもね。それが聖の掟なのよ」

 行きたくはなかった。
 だが肩に回されている、奇蛇のようにまっしろの腕は、首を締めあげかけている。なんとしても連れていくつもりだ。
 従うよりほかに、なさそうだった。



 ……天界も侘びしい、冬の風に晒されていた。こんな現象は例がない。比那名居天子は貧乏草のとなりで考える。
 天界と言うやつは気温が一年を通して、安定しているはずなのだ。天人に変化がないように、天界も不変なのである。
 いつでも穏やかな、春の気候に近い。
 それは時間が止まっている、退屈な空間のはずなのだ。それが今は、揺らいでいた。
 寒かった……。
 だが天子は別に騒がない。ほかの天人たちは冷気を恐れて、家に引きこもっているのだが、退屈がきらいな彼女は刺激を容易に受けいれる。それが作意であっても現象であっても、どちらでもかまわないのである。

「何を見てるのさ?」

 貧乏草に話しかける。
 雪をのがれるついでに連れてきてやったと言うのに、貧乏草が天界へ興味を示さないのは驚かされた。さまざまな快楽があるこの土地に、彼女は無関心でいたのである。まるで彼女らしくない。
 その代わりに天界の崖から、地上を喰いつくように見つめている。
 だが天界の下は地上を隠す、巨大な雪雲に覆われている。何がそんなに気になるのだろう? ……貧乏草に天眼通を使えるとは思えないが。

「何を見ている?」
「妹ですよ」
「ふん? 見えるのか」
「見える。と言うか……分かる」
「以心伝心?」
「姉妹ですから」

 それは理屈になっていないのに、貧乏草は声に確信を込めていた。天子には理解しがたい。彼女は家人がきらいだから。
 愛情のようでもあるし、呪いのようでもある。

「女苑が連れこまれてしまいました。また……よくないところに」
「よくないところ?」
「寺ですよ」

 分かるはずだ。
 そんな経験があるはずだ。
 肉親と離れることはできる。
 だが肉親の血を洗いながすことはできない。
 天子は貧乏草と一緒にいるから、妹のほうも気にならないわけではない。機会があればしたしくなってやるつもりだった。
 だが貧乏草はついに妹の逸話を話さなかった。
 聞こうとしても、はぐらかすのだ。
 それは何百年も一緒にいた、ふたりだけの物語だ。そして幸福な物語でもないのだろう。天子のほうでも無理に鍵を、こじあけるつもりはないのだが……今日は珍しく、錠がゆるいのか……不意に貧乏草のほうから、砂のような微声でほのめかしてきた。

「私たちは歩きましたよ。幻想郷にくるまでは……歩いて、々いて……本当につかれてしまいました」
「ふん?」
「でも雪が降りつづけるならば、幻想郷にいるべきでしょうか? 我々は眠っているあいだに、雪の下にいるかもしれないのに」
「おまえ……幻想郷に飽きたのか?」
「飽きるとかではないんです、同じところにいられないんです。それが私たちの宿命なんです」
「私は歩くのが好きだけど」
「そうですか」

 そうですか? ……妙に噛みあわないと思う。そんな会話に貧乏草は、いやらしくも微笑するのだ。
 仮に貧乏草のように、不幸を呼んでしまうなら、定住を幸福と言えるのだろうか? 尤もそれを自分に当てはめるには、あまりに高貴すぎていて、考えさえも及ばなかった。
 妙な当てこすりだ……貧乏草にその気はないのだろうが、立場を比較されているように感じてしまう。つきなみに不愉快だった。
 気まぐれに、近くの木から、桃をもぎとる。表面を撫であげて、かじりついてやった。

「……うえっ」

 途端に桃を吐きだしてしまった。白いはずの桃の中心が、腐れてしまっていた。ありえないことだった。ありえないことばかりだ。天界がひえるのも、桃が腐るのも……貧乏草がいやに反抗的なことも含めて。

「どうしました」
「腐ってる。信じられない……何が起こっているのだろう?」
「私が食べますよ」
「こんなの食べられないわ」

 桃を投げすてる。
 そんな天子を横目に見ながら、貧乏草がくすくすと笑った。

「それが私たちとあなたの境界線です」




【第四の空想】




 命蓮寺へ連れこまれると、すぐに風呂へぶちこまれた。

「鼻が曲がるよ。君は“どぶ”の鼠のようだ」

 否定もできなかったが、鼠に言われるのは腹が立った。
 頭を洗って、垢をこすり、湯に浸かる。毛穴に四十度の針がはいりこみ、つい身ぶるいしてしまった。

「女苑」

 不意に脱衣所のほうから、空色の声が聞こえてくる。湯気まみれの風呂場へ通ってくる。

「一輪? 久しぶり」
「村紗に拾われたんですってね」
「頼んでもないのに」
「そう言わないでよ!」

 快活な笑いは旅館の女将のようだった。

「風呂の邪魔はしないわ。女苑が出たら、夕餉にするからさ。そのときに話そうよ」
「分かった」
「それと……聖さまは葬式の仕事で、今日はいないから」

 そう結ぶと、一輪が去る。
 たしかに今日はどこかで棺桶が、はこばれていたかもしれない。この寒さだ。老人や子供が死ぬのは呆気がない。冬は死の友達。囲炉裏の火が消えてしまえば、すぐにでも死神を連れてくる。糊のように雪は吸いつく。
 これほど困窮したのは久々だ。他者の収入が自分の収入に直結するとしても、あまりにみっともなさすぎる。泡が割れてしまったような不景気だ。

「……白蓮」

 聖がいないと教えられて、安心していた。何がそうさせるのかも分からない。認めたくないだけなのかもしれない。
 本当の聖者など、どこにもいない。周りの信奉者が祀りあげた、虚構の山なのだ。尤も虚構の山でもなかったら、生活は粘土のように崩れてしまう。だから寺の連中も無意味を承知で、聖を信じているはずなのである。
 風呂に浸かりすぎて、頭が茹だってきた。
 立ちあがって、風呂を出た。



 寺の世話になっていたのもなつかしい。異変に身を任せた、二年前の追想だ。よい生活ではなかったが、わるい生活とも言いがたい。鉄道草の体内時計の早さにくらべて、寺の生活はあまりに穏やかすぎていた。
 その生活をいとおしくは思わなかった……そう言ってしまうと嘘になる。だが相性がわるかったのだ。
 聖は水滴を眺めるような生活を尊ぶ。
 鉄道草は火中を駆けまわるような生活を尊ぶ。そんなちがいが自分を抜けださせたのだろう。
 寺を抜けだしたくせに連中と顔を合わせるのは億劫だった。

「女苑さん!」

 だが鉄道草の不安に対して、連中の反応は思ったよりも素直だった。記憶をたよりに広間へ向かうと、幽谷響子に抱きつかれてしまったのだ。その喜びを表現するように、犬耳がぴくぴくと動いている。

「二年もどこに行っていたんですか! 久しぶりで……本当に寂しかったんですよ。急にいなくなってしまうから」

 響子の体温にうろたえる。
 こんな経験がないこともない。鉄道草は手駒を増やすのが得意だった。いやに厳格なほかの連中にくらべると、響子はあまりにかわいらしかったし、つい気を許していたおぼえがある。寺にいるころはこっそりと小銭や駄菓子を恵んでいたはずだ。自分は随分と彼女に慕われているらしかった。
 急に広間の畳の香りが、二年前を思いださせる。

「おかえりなさい」

 そこに一輪が加わった。ぬくもりの輪の感傷が、胸の奥に広がっている。

「感動の再会でわるいけど、私はもう夕餉にしたいね。腹が減っているんだよ」

 鼠が輪をぶちこわしてくれたので、みんなで机を囲うことにした。
 食事は貧相だった。山ほどの白米と薄味の味噌汁。つけあわせに干物とたくあん。鉄道草は質素な食事が苦手だが、ふしぎと気分は快かった。

「でも本当によかった」

 直前の言葉もないのに何が“でも”なのだろう。食事のさなかに、茶で唇を湿したあと、一輪が言った。

「村紗が言うには寂しそうに、路地で震えていたらしいからねえ」
「そんな脚色を信じてるの?」
「寺に来てよかったじゃない。死んでいたかも……凍えてさ」
「凍えるんですか? 神さまって」

 響子が恐れるように言う。

「どうだろう。神さまが凍死するなんて、聞いたこともない」

 凍土に神さまが迷いこんでも、絶対に凍死はしないだろう。死にきることもできず、永久に大地をさまようのだ。場の空気が壊れないなら、肉親のみじめな逸話でも、語ってやりたいくらいである。
 冬の街。都会の迷路。
 いつものパーカーで徘徊していた。どれだけ寒さが勢いづいても、ついに死にはしなかった。
 鉄道草は雪がきらいだ。雪は醜いことを隠してしまう。醜いばかりの自分が埋没してしまうのは怖ろしい。彼女はごまかすように話題を変えた。

「星さんがいないね? あの大食が夕餉を忘れたりはしないと思うけど……どこかに出かけているのかな」

 次の間に。
 連中の箸の動きが止まった。空気がぎしぎしと、金属のような音を立てた。鉄道草は欺瞞の中で生きてきたから、他者の欺瞞にも敏感だった。繊細な話題に触れてしまったらしい。
 星がいないのは何か理由があるのだろう。舟幽霊が食事をしないので、二年前のように広間へ現れていないことに比べれば、よほど緊張感があるのも分かってしまう。
 嗅ぎとれてしまう。欺瞞の臭いを。

「御主人さまは具合がわるくてね……横になっているよ」
「そう。顔が見たかったわ」
「会えるよ。満月が過ぎたら」

 事情はあるのだろうが、自分が寺にいるのなら、いつまでも隠せるわけがない。いずれは知ることになるのだ。秘密を共有して馴れあうのは気が進まない。だが鉄道草は“障らずの神さま”である。面倒と縁を切ることはできないのだ。




【第五の空想】




 相も変わらず、雪が降っていた。
 寒さがこたえたらしい。夕餉のあとで連中は早々と布団に潜ってしまった。だが鉄道草が眠るには早すぎる。彼女は夜行性だった。金にがめつければ、人間だろうと非人だろうと、夜を生業にするのである。
 貧乏寺で夜の遊びも何もなかったが、目だけはいやに冴えていた。
 本堂の縁側で雪を眺めていた。夜も灯っている、本堂の明かりに照らされて、雪の絨毯が幻想的だ。煙草とオイル・ライターを取りだし、煙草の先を火であぶる。油の泥色の匂いがした。

「どうするかねえ……」

 別にいつまでも寺の世話にはならないつもりだった。もちろん飯代くらいは払ってゆくつもりではある。だが一日や二日で去るのも忍びない。寺の方針なのだろうが、思ったよりも歓迎されていた。あまりに警戒心がなさすぎる。疫病神を連れこんでいると言うのに、見くびられているのだろうか……。
 鉄道草は誰も信用していなかった。別に寺の連中にはかぎらない。すべての者を信用していないと言うだけである。信頼は隙となり、弱さを助長する。親切はのちの“うらぎり”の布石でしかない。
 恋人をうらぎり、鉄道草に貢いでいる、男のだらしなさ……自分に信頼されていると思いこむ、うらぎりを忘れたその純情さ……心のすべてが残酷だと、言いきるつもりはすこしもない。ニヒリスティックに考えるようにも、あまりに思春期が遠すぎた。言いわけをしようと、うらぎりをほのめかしたのは、自分だったのだから。
 悪行に罪悪を感じはする。だが立ちむかうことはできない。鉄道草は自制心が致命的に欠けているのだ。
 冬夜の淵。一緒に連れてきた、ギターを弾いた。
 音楽はすべてを慰めてくれる。音色にだけは自己憐憫の欺瞞がない。それだけは真実。
 ……足音がした。音に釣られたのか、一輪の花が縁側に、迷いこんできた。彼女の顔は赤らんでいた。右手に持っている、焼酎の瓶の中身が、たゆたっていた。聖がいないのをよしとして、蓋を開けてしまったらしい。これもかわいげのある、寺の欺瞞のひとつでる。

「飲む?」
「……おう」

 一輪が鉄道草のとなりに座った。
 瓶に口をつけた。消毒液を傷口へひたしたように喉がひりついた。胃がぐちゃぐちゃになり、頭が熱くなってくる。

「あらためて……久しぶりね」
「二年か。長いのか、短いのか」
「どこで何をしていたの?」
「いつもどおりよ。貢がせたり、博打をしたり」
「飽きないねえ」
「私の行動の規範だからね」

 収奪。
 同じことの繰りかえし。
 奪うこと、食べること、眠ること、交ること。
 自分は本当に富が好きなのだろうか。
 それとも奪いとると言う、過程のほうに愛情を感じているのだろうか。
 肉親に言わせれば、過程のえりごのみほど、くだらないことはない。彼女は飢えているのだから、そんな余裕もないわけだ。余裕は水の流れと似ている。上からは流れてくるとしても、下からは流れてこないのである。滝を逆流させようとするのは、無駄な努力でしかない。

「誰かを苦しめるのが、そんなにたのしいの?」
「説教は聞かないよ」
「聞いて」

 貫くような視線に、射すくめられた。
 燃えているようでも、沈んでいるようでもある。急にどうしたと言うのだろう?

「私はこれでも千年は生きている。よくされたり、騙されたり、誉められたり、貶されたりしてきた……何度もね。それで分かるのよ。
 あんたは何か……なんだろう。焦っているように見える」

 経験が他者の心中を見すかすと? ……おとぎばなしだ。

「焦っている?」
「あんたは二年前も焦っていて、今はさらに焦っている。理由は教えてくれないと分からないけどね」

 何を根拠に。噛みつきたくなる。
 なんの事情も知らないくせに。

「あなたは空白の瓶のようね」

 一輪のように善良でさえ、最後は自分を見かぎると決まっているのに。
 空白の瓶とは、うまいことを言う。



 瓶に穴が開いていた。
 すぐに中身は満ちるのに、底に穴が開いているから、入れたばかりの幸福が、ぽたぽたと抜けだしてゆく。穴を塞ぐことはできない。鉄道草は疫病の神さまだから、瓶がそんなふうにできていた。
 すべての幸福が抜けおちたときは、瓶に黒色の液体が満たされる。
 一輪が言うところの“焦り”だった。
 あるいは不満。
 世間の幸福への無条件な復讐心。
 それが情熱的な幸福の窃盗に駆りたてるのだ。
 焦燥感に揺さぶられて、それを何百年も続けてきた。情熱に突きうごかされたと言うよりは、情熱に焼きつくされないために、走りまわっていたのだと言ってよい。
 瓶の中身を満たすために、奪わなければならない。硝子製の輪郭が残っているうちに。

「私の毒牙に噛みつかれたやつからすれば、滑稽な自己憐憫に思えるだろうさ」

 焼酎で舌を焼き、つい口を滑らせる。

「謝罪も言いわけもするつもりはない。奪うことがすべての規範で、それが生涯の使命でもある。私は誰にもたよらないけど、代わりに誰にも謝らない。空白の瓶か、きびしいわ」
「今のあんたは寺にたよってるじゃない」
「私は無理に連れてこられた。頼んだわけじゃない。神さまは誰にもたよらない。そんなことはしないし……できないんだ」
「助けて」

 一輪が悲痛に言った。

「ひとこと…一言でかまわない。あんたが“助けて”と頼んだら、聖さまは絶対に……」
「できない。したくない」

 鉄道草は“ごめんなさい”と言葉を繋げてやりたかった。それなのに声が、餅のように喉で突っかえる。こう言うときは自己嫌悪に陥るのが最も危険なのだ。瓶の破損を喰いとめるために、目のまえの不用心な女を、唐突に殴ることさえできるだろう。

「一輪は私を罰したいの?」
「神さまを罰することはできない。女苑は神さまだから……それはあなたが決めてください」
「白蓮にも、できない?」
「聖さまは罰したりしないわ。それに許しもしない。それは神さまの領域だから、いつも助けてくれるだけ。それしかやらないし、それしかできない」

 一輪は“それしか”と言ってのける。貶しているわけではないのだろう。その顔に尊敬を浮かべている。神さまの領域に踏みこみかけていなければ、誰かをまことに助けることはできないのだ。

「……あんたも助けられたの」
「みんながそうよ。ナズーリンだけは、ちがうと思うけど」

 一輪のまなざし。ひたむきに聖の背中を追っている。こんなふうにはなれない。望みどおりに奪っているのに、腐ってゆくばかりだ。

「昔は随分と暴力にたよってた」
「……今もでしょう」
「痛いわね……昔は凶暴だったの。入道を飼うような悪童だからね。増長してもいたし、悲観してもいた。これは神さまには理解できないだろうけど。
 元は人間だったのに……人間と妖怪の狭間をうろつくのは大変よ。人間にも妖怪にもなりきれないのなら、自分は何者なんだろうって」

 分かるような気がした。鉄道草も道徳と悪徳の狭間で同じことを悩んでいた。何百年もそればかりを考えているのだ。迷路に落ちているのかも分からない、公道と廉直を証明してくれる、心の中のまっしろな真珠。探しまわるのは気が遠くなる。見つけたことは、これまでない。
 自分で妖怪になったのだろうが、その後悔は責められない。後悔の権利は平等にあるのだ。

「生涯で最大の幸運は、聖さまに巡りあえたことよ。初対面は最低だったなあ。坊主はきらいだったから、殴りころそうと思ったのに」
「ふん。逆に殴られた?」
「いや……聖さまは身じろぎせずに、何時間も私の拳を受けきったのよ。殴られるよりも怖ろしかったわ」
「人間業じゃないわ。いや……人間ではなかったっけ」
「人間だった」

 一輪の声がつめたさを帯びた。視線が合った。背筋がひえる。寒さのためであってほしい。心臓をまさぐられているようだ。

「あのころの聖さまは人間だったよ」
「できるわけない!」
「別に信じなくてもかまわない。それはあんたが独りで決めて」
「……私は信じない」
「信じることは力よ」

 一輪が笑った。口元がやさしい。子供をあやしているようだ。彼女が遙かに年輩であると思いしらされる。

「誰かに助けられたことがあるのなら、誰かを助けなければならない。大丈夫……あなたにも分かるときがくる。世の中はそんなふうに巡っているの」

 視線が癪だった。
 慰めているつもりだろうか? ……腹が立つのとも、不愉快ともちがう。頭に“ぐるぐる”と“もやもや”が立ちこめ、胃の具合もわるくなってしまいそうだ。
 已めてくれ。何も聞かせないでほしい。行ってしまいたい。雪のないところへ。ほだされてしまいそうになる。慈しみで満ちている、寺の連中の瓶の色に。
 分かっている。自分は焦っている。近ごろはさらに焦っている。それが破裂しそうなことも、すでに知っていたのである。




【第六の空想】




 そのときだ。
 一輪の言葉に反論するため、口を開こうとしたとき、音に声を喰いとめられた。本堂の裏で建築物が、重機で破壊されるような音がする。
 音はぎしぎしと、腹のほうまで響いてくる。

「何?」
「雲山!」

 鉄道草がほうけているうちに、一輪はすでに本堂の上に漂っている、相棒の雲山を呼びつけていた。電光石火の勢いで、彼女が寺の裏手に走りさる。わけが分からず、追いかけるしかない。

「女苑はこないで!」

 そうは言われても、あきらかに異常だ。警告も疎かについてゆく。
 裏手についた。
 本堂の裏手にある、倉の屋根が爆ぜていた。二年前に埃にまみれ、響子と掃除をしたおぼえがある。屋根の無事な部分から、瓦がいやな音を立て、地面に飛びちる。
 屋根に何かいる。目を凝らした。雲を突きぬけてくる、わずかな満月の光に照らされた、毛むくじゃらの獣がそこにいた。その獣がふたりのところまで聞こえてくる、鈍色の息を吐いている。
 硬直した。あれはなんだろう……番犬には見えないが、この寺は怪物を匿っているのかな? ……そう思ったとき、獣と目が合った。
 鳥肌が立ち、背筋が凍る。不吉な予感がした。そして次の間に獣が目前へ迫っていた。あまりにすばやく、動きを捉えられなかった。



 だが走馬燈が閃くまえに、一輪があいだに割ってはいる。彼女の右手に白色の牙が喰いこんだ。右手から、血が舞った。そして血の濁流の隙間から、鉄道草は獣の顔を見るのだった。

「星……さん……?」
「殴れ!」

 呆気に取られていると、一輪にどなられた。

「早くしろ!」

 ちくしょう! ……何が起こっているのだろう。はっきりとしているのは、目のまえの獣が星と似ていて、それを止めなければならないことだ。腕の筋肉を叱責する。何も恐れてなどいない。恐怖を掻きけし、拳を握った。溶鉄を流したように、右手の奥が熱くなる。
 前方に飛びだし、獣を雲山と殴りつける。
 鼻っぱしらに拳を打ちすえてやる。鼻の柱とその周辺で、枝が割れるような、いやに不快な音が鳴る。すると相手が一輪の手を離し、うしろに飛びのいた。
 うまくいった! ……だが獣は体を揺すり、まだ警戒に余念がない。
 なるほど……簡単にはくたばってくれないらしい……瞳に火花がちらついている。あれは飢餓に襲われている、肉親の目にそっくりだ……獣は四肢で地面を踏みしめ、体をこごめている……不良品のスプリングの動きで、今にも飛びこんできそうだ……緊張感のためか、舌に金属の味がした。脇の毛穴から、汗が噴きだす……神経が尖る……周りの景色が切りとられる……。

「おい」

 それから背後で、誰かの声がした。緊張の糸が引きちぎられ、眩暈がしそうになる。うしろに気を取られかけ、それでも獣に注意をはらった。

「猫助……聖がいないときに暴れやがって」

 声の正体は水蜜だった。騒ぎに気がついてくれたらしい。つかつかと歩いてきて、今度は彼女が前に立ち、一輪を庇うように、獣に立ちふさがっている。鉄道草は彼女の乱暴な口調を、聞いたおぼえがなかったので、場ちがいにも萎縮してしまう。冷酷なほうだとは思っていたが、意外な一面だった。彼女は身長ほどもある、黒色の錨を肩に担いでいる。
 水蜜が一輪のほうを見る。ちらりと見たのは、傷のほうかもしれない。
 獣へ向きなおると水蜜は憤る。

「反省させてやるよ」

 急にどこかで、氷が割れた。音がしたのは、裏手の井戸からだった。そこから蛇のようにうねうねと、水流が這いだしてくる。その水流が一瞬だけ、舐めずるように宙空で止まり、そのあと一気に獣へ殺到した。あまりに急でさすがに対応できないらしい。奔流に飲まれ、息もできずに、四肢を水中で踊らせる。

「宿命の調伏を成すのは理性のみ。水で溺れて、反省しなさい」

 あとは一方的な争いだった。水蜜も水流に飛びこむと、獣に錨を打ちすえる。水が赤色に染まってゆく。悪霊の領土に連れこまれ、牙も腕も役に立たない。それでも体力だけはあったらしい。したたかに六十回は錨に殴られ、ようやく気を失ってくれるのだ。
 水が地に落とされ、しぶきが舞った。
 水蜜は立っていて、星は倒れている。溜息を吐く。それですべてが終わったと分かった。

「大丈夫でした?」
「そんなことより、何がなんなのか……この期に及んで、隠そうとはしないでしょう?」

 錨を担ぎなおし、頭を掻いてから、水蜜が言う。

「……困った」

 血まみれの星のほうが、余計に困っているにちがいない。
 返事に感情が乗っていない。水蜜が身内を打ちすえたばかりなので、獣の凶行よりもぞっとさせられた。



 黙りこむ、寺の連中。鎖で縛られた、毘沙門天の代理。それを中心に広間を囲う、あまりに奇怪な光景に、息が詰まってしまう。鉛のような沈黙が広がっている。
 騒ぎで起きてしまったのだろう。響子は一輪にしがみつき、怯えてしまっている。ナズーリンの眉はいかめしい。水蜜は仮面のように、いつわりの慈しみを、その相貌に揺らしている。
 その感情の渦たちの中で、鉄道草だけが浮いている。都会の路上の死体、無関係の死を眺めている、そんなせわしなさ。
 口の“ひらき”を我慢して、誰かの一声を静かに待った。

「妖獣が寺で暮らすのは大変だよ」

 しばらく無言で耐えて、ようやく沈黙が破られた。ナズーリンは自分を諭しているのだろう。何も知らない、無知な自分に。
 冷静に語っているつもりらしいが、彼女は話すだけでも苦痛そうだ。酔ってしまったように、惰性的に言葉を繋げる。

「普段は兎の肉でやりすごせるのに……」
「つまり……あれは野生の本能? どうなるの。星さんは」
「雪の始末に追われて、肉を集められなくてさ。御主人さまは肉を食べずに生きられるような体じゃない。虎の妖怪だからね」
「最初は誰かも分からなかった」
「本能は押さえつけすぎると、姿まで変貌させるのさ」
「変貌ですって? あれが……」

 本来のかたちだろう……言ってやりたくなってしまう。
 たしかに星は、怖ろしかった。あれは人前にだせないだろう。檀家の人間を喰らいかねない。
 だが、あの姿こそが星の真実でもあるのだ。
 本来の獣は殺生を拒みはしない。そんな姿勢は異常すぎる。
 ナズーリンも鉄道草の“含み”を察したらしい。溜息を吐いてから、沼でも這うように、だるそうな声で言う。

「君の言わんとすることは理解できる。でも寺は荒野じゃない。御主人さまは仏道を選んだ。荒野の掟は持ちこめない。それが仏門の道なんだ。言っていることの意味が分かるだろう?」

 理解はできるが、納得はできない。苦しみを感じてまで、野生にさからうなど、あまりに無意味だ。それに奇怪だ。坊主が野生に従うのは、たしかに欺瞞であるかもしれない。だが我慢が与えてくれる、あの不当な自己満足も、その欺瞞と似たりよったりだ。

「それにしても大変なことになりましたね?」

 水蜜が促すように言った。

「倉に戻しますか? 屋根に穴が開いているけど」
「暴れまわったから、落ちついたと思うがね。満月が過ぎれば、弱まるだろうし」
「危険だと思いますけどね……野生を制御できないやつは」
「……なんだと」
「御主人さまに甘いんじゃないの? ナズーリン」

 水蜜とナズーリンのあいだで火花が散った。
 鉄道草はそのやりとりを、すでにひとごとのように眺めていた。
 さすがに起こりは急だったが、ようするにこれは寺の問題に、巻きこまれてしまったと言うだけだ。こんな珍事に首を突っこむわけもない……酒の席で首を揃えても、ひとりは無関心だろうと、誰も気にはしないのだ。
 何をしているのだろう。縁側にいたときと打ってかわって、今日はすでに眠りたかった。異様な不快感に耐えられず、ごまかすように星を見ると、首元の痣が痛ましかった。あの錨はよほど痛烈らしい。鼻に包帯も巻かれている。あれは自分が殴ったところだ……見ていられなくなった。
 自分のことながら、薄情すぎると思う。それでも皮肉を飛ばさないだけ、自制しているほうなのだと、分かってほしいのだが……自分が寺の世話へなっているなりに、協力しようとしているのだと言うことを……。




【第七の空想】




「私が星を見ておくから、みんなはもう眠ったら?」

 最後は結局、水蜜のそんな提案で、集まりも終わった。文殊の知恵が何かを解決したわけでもない。集まらせていたのは解決への意思力ではなく、単に当事者たちの義務感のようでさえある。記者会見で薄らざむい、口だけの弁解をするのと一緒だ。彼女はそれを分かっていて、集まりを早々と切りあげたのかもしれない。
 鉄道草は当てがわれた、部屋の布団の奥底で、急速なまどろみを感じる。
 だが意外にもまどろみは、津波のように襲ってくるくせに、誘眠作用は思ったよりも低かった……腹が立っていた。野生に抵抗しようとしている、星の姿勢に嫉妬しているのだろうか? ……自分がそれに倣えと命令されてもいないのに……本当に妙な当てこすりだ。



 不意に三文記事を思いだす。
 エベレストの登頂をめざして、途中で凍死したどこかの登山者が、英雄的に褒めそやされている。そんな記事だった。しろがねの山……奈落の崖……雪の崩落……それが宿命であると言いたげに、巡礼者たちを飲みこんでゆく。
 自分が悪徳に逆らえば、そこにあるのは栄光ではなく、神経の崩落に過ぎない。できるのは悪徳に媚びているように見せかけて、それを利用してやることだけである。
 星が野生を我慢しているからと言って、それがなんだと言うのだろう。産まれながらに頭へ響く、強欲の化身の悪霊の声に従って、欲望に忠実でいるべきなのだ。
 星のように産まれながらの持病にあらがってみろ……獣になるのは自分のほうだ! ……絶えまない、思考の渦。
 どろどろと瓶に石油が垂れる。
 いつの間にか、眠ってしまい、夢を見ていた。



 貧乏草に毛根を抜かれた、妹のみじめな頭。むきだしの皮膚に、紫外線のナイフが突きささる。
 何度も見ている、千九四五年の悪夢。
 あの熱月にあの涅日に。
 空から……地獄が降ってきた。



 兄の背中を妹のほうに押してやる。彼はなんと声をかけるべきか分からない。頭の毛を抜かれるのは痛いのだろうが、気を失ってしまうほどでもない。痛みが治まってくると、毛をむしられたと言う、悲惨な事実だけが妹に去来する。

「けらけら……」

 声がした。

「けらけらけらけら、けらけらけらけら、けらけらけらけらけら、けらけらけらけら!」

 鉄道草が狂ったように笑いだす。だが兄妹を嘲笑しているわけではなさそうだ。勝利を祝っているような感じだった。瓶に何かを満たせたときの会心の笑い。
 風は怖ろしくも波濤の勢いで去ってゆく。妹の表情から、魂が抜けていた。拳を握り、何もできない。
 負けたのだ。兄はそれと分かった。
 兄は妹を背に乗せて、どこかに去っていった。どこにだろう……家に? どこに去ろうと敗者の目的地は、荒野か雪原に変貌すると決まっているのに。



 鉄道草もふたりをさらに痛ぶろうとはしなかった。結末はすでに争いの化身に委ねられた。すべてが終わってしまうと、これが現実などではなく、過去の追想でしかないように思えてくる。
 貧乏草の足元で散らばる、黒色の毛の山にぞっとする。何もかもがむなしくなった。兄妹の背が見えなくなったころ、むなしさに耐えきれなくなった。
 地に跪き、涙が出る。
 別に悲しくはなかった。三文芝居で時間を無駄にしたとき、金を返せと受けつけで憤るような感じだった。三文芝居を演じていたのは自分のほうかもしれない。
 滑稽に思った。
 自分の生きかたを。

「女苑はわるくないよ」
「見せかけでやさしくするな!」

 恭しくも肩をさすって、貧乏草は甘言を吐いてくる。すげなくしても、彼女は憤らない。ただ瞳の中に見せかけの慈悲をつやめかせている。
 鉄道草をなんて甘ったるく、堕落させてくるのだろう……彼女は抱きつき、貧乏草に泣きすがる。

「あんなことをしたいわけじゃなかった!」
「うん」
「でも駄目なんだ。目のまえに敵が立ちふさがると、それが自分よりも弱くても、私は凶暴になってしまう……どうして? 分からない。怖ろしい。逃げだしたい! 教えてよ。この感情の正体を!」
「女苑は何も我慢しないで。おまえはこんなにも弱いから、すべてを滅茶苦茶にしてもかまわない。おまえにはその権利がある。私がそれを肯定してあげる。それで充分でしょう?」

 ちがうんだ。分かっているくせに。
 本当は叱責してほしいのだ。貧乏草だけは鉄道草と、対等に話すことができる。だからきびしくしてくれるべきなのだ! ……自分はどうしようもないのだと。なのに甘やかす……自分が遠くへ行かないように。
 あるいは貧乏草が鉄道草の、望みの言葉を紡がないと言うだけでも、この世に真実の善良さがないことの、絶望的な証拠なのかもしれない……公道と廉直。おまえが檻を出ないなら、なんのために心の端へ、水飴のように張りつくのだ。

「おまえは本当にやさしい」

 貧乏草に頭を撫でられた。自分はまことに凶悪で、疫病の神さまらしいはずだ。
 そう信じて、誇っている。
 それなのに不満が消えもしない。奪うために産まれたのに、それに罪悪感をおぼえるなら、なんのために生きているのだ?

「食べようよ、戦利品を」

 自己憐憫も喉を過ぎると滑稽だった。
 戦利品とはうまいことを言う。
 また杉の根本に座り、ふたりで芋にかじりつく。相も変わらず、砂の味がする。芋は沢山だ。中華料理を食べたくなる。
 皿でも洗うように頭の回路は清められない。罪悪に気がつくだけでも有情なほうだ。
 いつからだろう。奪うことにそれを感じはじめたのは。罪悪感が心臓に根を張り、それでも花がひらいていないころは、万事がうまくいっていたのに。それが今では針になり……画鋲になり、蛇毒になり……魂を自家中毒でばらばらに引きさこうと躍起になっている。進化の過程とは思えないし、退化ともちがっているようだ。前進も後退もしていない、単に“変化”と呼ぶべきか。道徳の反発。善良さを気にするあまり、善良さを憎まずにはいられないのだ。

「女苑。あれを見て」

 急に貧乏草が町のほうに指を向けた。アメリカ軍の鉄の蜻蛉が、町の上を飛んでいる。飽きずによくやる……すでに罪悪感が麻痺し、家屋を壊したその数を、競っているにちがいない。そうでもなければ、やっていられない。感情にそれくらいの給付を与えても、誰も不満は言わないだろう。
 空襲を“おかず”に芋を食べられるのは気が利いている。戦争が終わったあとに、この光景を切手にでもしてみようか……杉の木に寄りそい、空襲を見ながら、芋をひたむきに貪っている、ふたりの神さま……感傷と哀愁を誘うだろう……それにしても爆弾を落とさない。新参の飛行士が躊躇しているのかな? ……やるならやれよ。平穏な日常に流れる、音楽のように受けいれてやる。



 だが思考は、そこで吹きとぶ。
 航空機がついに、爆弾を落とした。
 その直後に、光の塊が、瞳に飛びこむ。
 なんだ、これは! ……鉄道草はうろたえ、目を丸くした……驚愕が心臓を締めあげる……あまりに急で、理解ができない。空に逆円錐の煙の花束が咲いている! ……町は吹きとぶ。
 あの熱月にあの涅日に。
 空から……地獄が降ってきた。
 その地獄は光と爆発がもたらした。
 もう何十年も前のことだ。




【第八の空想】




 目を覚ました。布団を剥ぎとり、起きあがる。
 上半身の寝汗がひどかった。しばらく朝の冷気に身をゆだねていたが、それから悪夢の中身を思いだしてしまう。あの光が瞼の裏へ、甦ってくるようだ。
 頭が重い。気ばらしにギターでも弾いてみようか……部屋を見まわすと、ギターの不在に気がつかされる。昨日の騒ぎで本堂の縁側に起きわすれていたのだ。取りに向かうのが億劫で、たちまち指が萎えてしまう。また寝ころんで、たっぷりと十分もそうしたあと、ついに腰をせきたてた。
 部屋を出た。恐ろしいほどの冷えこみに足がすくむ。毛皮のジャケットが欲しくなる。歩いていると広間の前を通りかかった……水蜜はまだいるのだろうか?
 好奇心に任せて、ゆっくりと戸を開けた。
 鎖をはずされて、星は安静にしていた。それに正座で彼女を眺めている、水蜜の背中が見えた。

「おはよう」

 鉄道草はひょこひょこと近くに寄った。

「おはようございます」
「一晩も正座でいたの?」
「はい」
「……痛くない?」
「暇で心が痛いです」

 水蜜の冗談は分かりづらい。あるいは本気なのだろうか。口調が平坦すぎている。昨日の夜は怒りに任せ、心の通路をひらいていたのに。別にその通路に惹かれたわけではなかったが、彼女の冷淡なその調子は、幽体の奥底の感情を、やたらと突きまわしたくなるような衝動を与えてくる。尤も藪の蛇であるのも理解していた。
 不意に水蜜が、鉄道草のほうを向いた。

「星を見ていてくれませんか」
「はい?」
「朝の鐘を鳴らしてこないと、それに仕事の用意もね」
「襲われたらどうするの」
「墓くらいは建てます」

 神さまの墓とは気が利いている。それから水蜜は早々に広間を出ていった。
 すでに星が安全なのは分かっていた。尨犬のように見すぼらしい、全身の毛は抜けていたし、寝顔も非常に安らかだ。暴れそうには見えないが、それにしても傷がひどい。
 自分の宿命と争うのは深刻な苦痛を伴うのだ。そこから完璧な勝利を得るために、どれだけ自分に鞭を打つのだろう……。

「何を悩んでいるのです」

 いつの間にか、星の瞳がひらいている。
 額と鼻のあいだ、包帯と包帯のあいだの目。鉄道草は穏やかに言葉を返す。

「そんなふうに見える?」
「久しぶりに会いましたね」
「昨日のことはおぼえてる?」
「すこしだけ。だから女苑がいるのもおどろかない」

 星が自嘲的な笑顔で言う。

「迷惑をかけてしまいましたね」

 寺の鐘が、鳴っていた。



 星は布団を剥ぎとり、上半身を起こした。苦痛で美貌がゆがんでいる。鉄道草はそれを傷だらけの宝石のようだと思う。

「痛いなあ……自業自得とは言え」
「あの悪霊もよくやるわ」
「一輪に噛みついたのは、よくなかったかしら……」
「意外と平気そうね。普通は自己嫌悪にまみれるところじゃない?」 
「後悔はありますが……それをしても仕方がないでしょう。自分を甘やかしてしまうだけです。自己嫌悪は自分を許すための、甘美な蜜なのですからね」

 唇を噛んだ。星の冷静さに、腹を立てた。
 何をそんなに怯えているのだ? せわしない、駄場の足。駄馬のうなり。どうして“やらかし”をしたのにそんなに落ちついているのだ。
 そうとも……偶然にもふたりきり。この機会に是非とも、野生との争いと言う、無駄な努力の荒波から、脱却させてやるべきだ。

「どうかな? 私は我慢を美徳にする、仏門のやりかたは、どうにも欺瞞を感じるけどね……」

 声に悪意と皮肉をまぶしてしまう。

「なんです……欺瞞?」
「つまり欲望を飼いならすと言う、不可能な幻への探求について……そこに興味が尽きないわけだけど」
「分かりますよ。宿命を克服するのは大変ですからねえ」
「そうじゃない……!」

 つい大声をだしかける。自分は星のやりかたに共感しているわけじゃない……そんな口ぶりは已めてもらいたい! ……どう教えてやるべきか、自分でも分からずにいる。おかげで言葉を繋ぎあわせるのも苦労した。

「私が星さんに言いたいのは、欲望に身をゆだねろってことよ。そうしてしまえば、なんの苦痛もないわけだから……」
「あら……そう言うこと」

 合点が言ったのか、星がほほえんだ。
 耳の辺りが熱を持った。たぶらかそうとしたのを、見すかされたかもしれない。だが彼女のほうでは顔にやさしさを滲ませているのみだ。

「破滅主義者なんだなあ……女苑は」

 急に妙なことを言われる。
 
「破滅主義者って……生きものは野生に従うのが、本来のありかたのはずだけどね」
「たしかに野生に従うのは甘美です。でも全員がそうしたら、互いを信用できなくなり、みんなが独りになってしまう」
「それの何がわるい?」
「孤独は怖ろしいですよ。私は独りにならないためなら、どんな我慢もいといません。
 正直なところですね。別に自分の獣に抵抗するのは、高邁に仏門を志すためだけではないのです。私はみんなが好きだから、みんなと一緒にいたいから、そのために自分を制御したい。ほかの何を諦めても、みんなと一緒に笑っていたい……」

 そのときだ。
 星の腹がごろごろと鳴った。雷がうめくような音だった。彼女が腹を押さえつけ、顔をゆがめる。

「いまいましい……腹!」

 自分に対する、むきだしの怒り。なんて惨めな誠実さだろう……これからも星が報われないとしたら、あまりにも不平等ではないだろうか……これこそが天の意思が我々に興味がないことの証拠なのだ。
 ……図らずも、心を惹かれた。どうすればこのように振るまえるだろう。独房にとじこめられ、百年の拷問を受け、大便だけを食料にされたら、すこしは真似もできるかもしれない。

「怖ろしい……こんなにも我慢しているのに、どうして報われないのでしょう。満月の日はどうにも獣が高ぶるの。駄目なんです……みんなが肉の塊に見えてしまう。みんなの肉を食べたくなる。どうして私は虎の妖怪に産まれたのでしょう」

 そんなふうに星が弱音を吐いたときだった。

「御主人さま!」

 急に第三者の声がした。ナズーリンだった。
 星の様子を見に広間へ来たのだろう。押しつぶされそうな、彼女の表情におどろいたのか、尻尾の動きがせわしない。近くへくると、彼女の手をにぎり、焦りに任せてまくしたてる。

「どうしたんだ。体が痛むのか、腹が減ったのか。それとも昨日のことを悔いているのか……それともこいつに何かされたのか?」
「おい……」

 冤罪に呆れてしまったが、星が心配なのは伝わってきた。
 昨日も星を“御主人さま”と言っていたと思いだす。ふたりは特別な信頼があるらしい。尤もそれに興味はなかったが、ナズーリンが来たことで、奸計の失敗だけはあきらかだ。

「大丈夫ですよ。女苑はそう……相談に乗ってくれたのです」
「相談?」
「そうですね。私“たち”の宿命との、つきあいかたについて」

 星が“たち”と言うので、舌を巻いてしまった。たぶらかそうとしたのを分かっていたらしい。意外と喰えないやつだ。

「一輪には申しわけないけど、ナズーリンが無事でよかった」
「私は何もできなかった。腕っぷしがないばかりに」
「適材適所ですよ。今は傍にいてください。私の手を握れるのはナズーリンだけでしょう」
「……はい」

 ふたりだけの空間だ。急に背筋は痒くなる。食塩を広間へ撒くよりも、早々に部屋を離れるべきた。
 立ちあがる。
 踵を返して、外に向かった。
 ギターを取りに行かなければ。

「独りでは」

 鉄道草の背中へ向けて、星は諭すように言う。

「魂がばらばらになってしまう。私たちでは力不足ですか? あなたの魂はこの寺のどこにもいないのですか?」
「神さまを虎の尺度で語らないで。私は寂しくなんてない」
「失礼しました。でも……私たちはしつこいですよ」
「ふん」

 ひとりぼっちだ。何百年も。
 あの無様な肉親にやさしさがあれば、自分も変われていたのだろうか? 歯車をはめなおすのも、今となっては不可能に近い……。




【第九の空想】




「倉の屋根の修理をするから、朝食のあとで来てくださいね。こないと溺殺刑ですよ」

 水蜜は戻ってくると、鉄道草に命令した。昨日の振るまいを考慮すると、溺殺刑も笑えない。
 腹を満たすと倉に向かった。ほかの連中は寺の屋根の雪を掃いたり、人里のほうへ駆りだされていた。
 修理と言っても別に本格的ではない。大穴の開いたところに木材でいくつかの橋を架け、あとは荒布をかぶせるだけである。雪を倉へ浸食させないための応急措置だ。屋根の頂点と端側に材木を渡らせると、釘を槌で打ちつけた。釘の声が冬の静寂に鼓を打った。
 作業は思うように進まなかった。何本も釘を曲げ、腐らせてしまう。

「慣れないうちは、持つところを短くして、垂直に打ってください。時間を使いますが、それで確実でしょう」

 言われたとおりに釘を打つ。
 うまくいった……作業の速度が増すと、かじかみかけの手も熱を持つ。水蜜との仕事は、あまりに黙々と、素朴に尽きた。
 水蜜は薄着で釘を打っている。見ているだけで、寒くなりそうだ……幻想郷の素朴さは取りもなおさず、県境の田舎の素朴さだ。地方よりもさらに、工業化と無縁の世間……消防団への、入隊を求める、含みわらい……学生に煙草を売りわたす、煙草屋の主人の倫理観……十七時三十分の、爆音のサイレン……トロイ・メライ……。
 鉄道草は収奪に忌避はないつもりでいた。だが極限状態でもなければ、田舎者からの窃盗と言うのは、どうにも気が重くなる。回転寿司でカレーだけを、食べるような失礼さだ。神聖な略奪行為を、矮小化することだ。
 そうとも……何百年もしていれば、何を奪うべきなのか、何を奪わないべきなのか、それもおのずと分かってくる……幻想郷が外の世間から、必死に守ろうとしているのは、あの廃遊園地の素朴さなのだ。
 すべての材木を打ちつけると水蜜が静かに言った。

「休憩にでもしましょうか?」



 屋根を降りると油と木屑で火を熾こし、水蜜がやかんで茶を入れてくれた。だが鉄道草は茶の濃さに、つい顔をしかめてしまう。

「まずい」
「ごめんなさい。味覚がにぶくて、調理はどうにも」

 そう言われては責めづらい。茶を飲むために湯を継ぎたした。
 不意に水蜜と目を合わせた。不思議と気まずくはなかった。まるで互いを俯瞰しているように思った。
 それは彼女が死んでいるからかもしれない。空白が単に現世へ実体を残している。だから彼女を見つめても、視線は皮膚を通りぬける。
 その苔色の光彩は取りもなおさず、死の側面に属している。これまでに自分が見てきた、暴力的な死の一面とは、またちがっているようだ。
 それはつめたく、穏やかに凪いでいた。
 尤も星と話していなかったら、水蜜の仮面のような微笑も、馬鹿にされているのだと思って、仕事をほうりだしたかもしれない。
 今は妙な共感をおぼえている。すべてを失ったあとの投げやりさ。後悔と無気力の共生関係。廃墟の魂。
 おどろくほどの気軽さで、鉄道草は水蜜に言った。

「あんた……殺人が趣味でしょう」
「過去のことです」
「昨日の振るまいでそれが分かった。なのに星さんと同じ、やりたいことを我慢している。どうして?」
「それが私の宿命だから」
「宿命?」
「聖は残酷なことに、私に自制を説いたのよ。それを一度でも知ってしまえば、気にしないわけにはいかないでしょう……つまり溺殺癖とのつきあい。世間とのつきあい。そして自分とのつきあい。それが今の宿命と言うわけ」
「ふん。昨日は……そうは見えなかったけどね」
「一輪と雲山は特別なの。千年の仲ですから、傷物にされたら、憤りもする。殺されたくないのなら、ふたりに手をださないでね」
「別にそんなこと……」
「そう。よかった」
「意外と友情を大切にするんだな」
「知らないの? 憑きものは惚れっぽいのよ」

 水蜜が笑った。何を笑っているのかは分からない。だが共犯者になったような、不思議な安心をおぼえてしまう。沢山の悪徳を働いてきたと言うことだけでも、自分たちは似ているのかもしれなかった。
 水蜜に自分をさらけだしてみるべきだろうか? 別に相談するわけじゃない。池の魚にでも、聞かせるつもりで。
 そうとも。夢を見ていた。叶わない、闇莫の夢を。
 なんと言うのか……自分は悪徳を成し、それを誇っているつもりでいた……だが本当はちがっていて、自分は罪の生産工場として、悪徳に飼われているだけだったのである……つまり……自分が悪徳を成したのは、道徳をけなすためなのに、最後に手にはいったのは結局のところ、静謐に生きるほうが正解なのだと言う、当たりまえの真実だったのだと……尤もそれくらいの後悔は世間に溢れている……笑えるのは愚物の感傷が、つねに自己欺瞞で満ちていると言うことだ。
 仕方がないだろう。愚物にできるのは空想に耽って、叶わないはずの夢を見るくらいだ。
 そのときだ。
 水蜜が本堂の右端を見た。

「おや……」
「どうしたの?」
「帰ってきた。聖がね」

 たしかに本堂の陰から、聖が倉のほうへ歩いてくる。雪で見えづらい、彼女の表情。
 この長きにわたる、妄執の迷路を通りぬけ、ついに聖者が現れたのだ。



 今……ついに別れのときがやってきた。
 貧乏草が天子の寝顔を眺めている。彼女は桃の木に寄りかかり、寒さを気にすることもなく、豪胆に眠りを貪っている。その姿勢を羨ましくは思っても、絶対に憧れはしなかった。
 手にはいらないことに、憧れたりするのが、何よりも危ないのだ。魂の安全は崖の向こうの憧れに、手を伸ばさないことだけが保証する。
 天子の傍を離れて、天界の端に歩いてゆく。そこで下界を覗きみる。冬の雲が満ちている。肉親はもちろんのこと、下界の影も見えないのだ。
 それでも……澱みではちきれそうな、貧乏草の青色の瓶。どこかに中身をぶちまけろと、怪物のように叫んでいる。鉄道草を尊重して、二年も同じところにいたが、ついに限界が来たらしい。
 幻想郷は雪で潰れる。そして圧死の寸前に厄介者を住ませていたと気がつくのだ。
 おそらく豪雪の原因にも、近いうちに気がつくだろう。そうなるまえに去らなければ。むざむざと殺されてやるつもりはない。
 貧乏草。除草剤に耐性がある。在来の植物と競合し、すべてを自分の領域にする。侵略的外来種の、ハルジオンの花の蔑称。
 下の世間へ飛びおりる……そのまえに一呼吸……。

「行くのか」

 だが貧乏草は、光のような声に、話しかけられてしまう。彼女は振りむかなかった。背後の声に、無限の友情と、断絶を感じる。

「残念ね……おまえといると、それなりに遊べたのに」
「私もです。でも幻想郷は不幸の器として、あまりに土地が狭すぎる。言ったでしょう、同じところにいられないと。二年も耐えたのは奇跡です。さすがは幻想の国ですね」
「それで冬が終わらないのか」

 そのときだ。

「けらけらけらけら、けらけらけらけら!」

 急に貧乏草が狂ったように笑いだす。

「ふざけるな!」
「けらけらけらけら……あなたは本当に賢い」
「ついでに滅ぼしていったらどう? 私はそれを許してやる。笑ってやる。みんなにも黙っておいてやる」
「私が何かをしなくても、永遠に栄えることなどない。幻想郷を離れても、貧乏神がどこかにいれば、どんなところもいずれは滅びる。あたかも砂の上の王国が埋まりゆくように。厄介者が姉妹なら、なおさらですよ」
「我々の幻想郷はそんなに脆くない! この土地を馬鹿にするんじゃない! おまえたちはこの土地にいてもかまわない!」
「あなたは本当にやさしい」

 それは受けいれるための言葉ではなかった。声の調子は突きはなしている。それは“近くに寄るな”と言っている。貧乏草はさらに崖へあゆみよった。転落するにはあと一歩に過ぎない。

「行くんだな。本当に……後悔するぞ。幻想郷よりも美しいところはどこにもない」
「私たちが行くところは荒野に成りはてる。場所の醜美はたいしたことではないのですよ」
「私はおまえに沢山の娯楽を与えてきた。その礼のひとつも言わずに去ってしまうのか?」
「知らないのですか? 神さまは偉いから、まことの礼など、しないのです」

 それは“できない”のではない。
 貧乏草はそれを“しない”のである。
 それが貧乏草の残酷なところだ。

「そう……分かったよ。ありがとう。たのしかった……二度と私の前に現れるな」
「さようなら。そんなことを言わないで、いつか私に会ってください。まともな生きものに産まれなおしたときにでも」

 貧乏草は鉄道草を助けに下界へ降りるわけではない。
 貧乏草は鉄道草を滅ぼすのだ。
 鉄道草に奪うことしかできないように、貧乏草は滅ぼすことしかできないのだ。それしかできない。それしか知らない。貧乏神がもたらすのは、肉親であろうと不幸のみ。
 そして貧乏草は飛びおりた。
 ふたりは……それから二度と会わなかった。

「産まれなおしたらか……今の紫苑を疎んだことなど、一度もなかったと言うのにな。
 かまわない。好きにしろ。ひとりの友達として、おまえの道を祝福してやる。それが冬の終わりならば」

 冬の終わりが迫っている……。




第二部 J・Yの犯罪




【第十の空想】




「おかえりなさい。遅かったね」

 水蜜が聖に言った。

「ごめんなさい。埋葬の相談が長くなってしまったわ」
「今日じゃないの?」
「檀家さんも雪の始末にいそがしくてねえ」
「そう。ふん……この寒さなら、遺体もすこしは大丈夫ね。どうして人間はそうも埋葬に拘るのか」
「土の底は静かですから」
「私は生きながらの海葬だからなあ。それに地底はうるさかったよ」

 いくらか水蜜と言葉を交えると、それから聖が鉄道草のほうを見た。口の中に唾がにじむ。それを飲みこむと耳の辺りで、罅がはいるような音がした。
 聖は“最高”だ。鉄道草は心中で言う。含みを込めて。
 鉄道草は聖のことを、正反対の生きものだと思う。だから余計に受けいれられない。
 聖者を前にしてしまえば、悪党はみじめに笑うしかない。聖者は大勢の尊敬を受け、いつか安らかに死んでゆくのに、悪党のほうは輪にはいれず、永遠に許しを得られずに、無間地獄をさまようのだ。そして悪党は自虐の果てに、永久凍土の虜囚に成りさがる。
 鉄道草は不思議でたまらない。どうして神さまの自分が悪徳に跪いていて、どうして妖怪の聖が道徳に跪いているのだ?
 だから鉄道草は頭の中で、聖のことをこう“あざな”した。

すべての悪徳の敵

 それを聖の正体とした。
 聖が笑う。鉄道草に話しかける。

「おかえりなさい」

 その表情にはまことの慈しみが込められていた。鉄道草が二年前に出奔したのを、責めさえしていないのだ……“ありえない”……生きものはこうも善良になれるのか? その可能性がないわけではない。
 だが鉄道草の立腹も、単に聖の善良さへの、いらだちではないようだ。聖者と愚物……道徳と悪徳の対義に基づく、陳腐な憎悪ではなくて、さらに深遠で底の知れない……。

「ふん」

 聖の挨拶に対しても、鼻を鳴らすくらいの抵抗。それでも彼女はいやがりさえしない。
 その様子を見ると水蜜は思いついたように言った。

「屋根の修理はやっておくから、聖と話してきたらどうですか」
「はあ?」
「そう言えば」

 聖が倉の上部を見る。

「屋根がどうかしたのですか?」
「猫助よ。聖がいないのに暴れてさ……安心して。私が止めたよ」

 聖はそれを聞いてもおどろいていないらしかった。こんなことも一度や二度ではないのだろう。あるいは寺の連中に対する、信頼の証と言えるかもしれない。

「ありがとう。ムラサ」
「またあとで」

 水蜜は修理のための荒布を担ぐと、屋根の上に早々と戻ってしまった。
 あとはふたりだけが残された。
 一対一。西部劇。
 そうとも……これは西部劇の決闘だ。
 辺りには、雪しかない。
 だが荒野の荒廃と、雪の荒廃は似ているはずだ。砂も雪も休まない。それは争いを囃しているのだ。これが本当に決闘で、標的がまさに聖なら、自分は思うことだろう。
 聖なら……自分をついに終わらせてくれるのか? 
 今に小銃へ手をかける。
          十。
         九。
        八。
       七。
      六。
     五。
    四。
   三。
  二。
 一。
 互いにかまえる。
 自分は殺されるために、指を動かさないだろう。そのときを何百年も待っている。



 聖は別に完璧ではない。夢の彼女がそうではないと、自分の異変で知っている。彼女にもそれなりに欲望はある。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 それは聖の公道と廉直に無関係だ。それは別の領域にある。重箱の隅を突いたところで、彼女の道徳は崩せないのだ。
 鉄道草はそれを確信している。
 手段が欲しい。悪徳は道徳にまさっている。それを証明したかった。それが真実でないのなら、自分はなんのために悪徳と、何百年も共生しているのだろう? ……道徳の影にはなりたくない。いつでも道徳の光でありたい。不道徳が地をあゆんで、道徳は影に押しこめる。それをまことにしてみせる。
 嗚呼……どうして自分は執拗に道徳を拒むのだ。何が自分をそうさせるのだ。それを望むことさえも悪徳のほうは拒むだろう。そんなふうに怯えて、道徳を頑なに拒んでいる、自分の両腕に……聖の手を取らせようとすることが、不誠実になるのかもしれないが。

「聞かないの」
「何をです?」
「寺にいる……理由とか」

 聖は“きょとん”とする。

「聞かれたいのですか?」

 本音を言うまで、一億秒前……。
 大蒜の臭いを吐きかけてやりたい。
 自分の過去の悪行を聞け。
 鼓膜の破裂に備えていろ。
 殺人。
 教唆。
 詐欺。
 恐喝。
 窃盗。
 密造。
 器物損壊。
 無銭飲食。
 云々……。
 過去。
 おこなった。
 現在。
 おこなう。
 未来。
 おこなわれる。
 言うのだ!

「別に」
「そうですか……?」

 喉で声は萎えてしまう。ふがいない。
 鉄道草は頭を掻くと、話題を擦りかえる。

「星さんは我慢に苦しんでいた」
「はい」
「あんたが強要しているのか?」
「星は自分で選んでいます。勝手にやっているだけです」

 聖はつめたいわけではない。それは理解していた。突きはなすようなその言葉は、星の選択を尊重しているだけなのだ。
 甘やかしているわけでも、無関心なわけでもないだろう。連中は彼女の“セラピー”の虜になっているから、それを“寛容”と呼ぶはずだ。
 だが星や水蜜が人間に何かをしでかせば、非難の目に晒されるのは聖のほうだ。ふところが広いと言うべきか、考えが甘いと言うべきか……。
 尤もそれがしでかされてもいないのに、脅迫するつもりはすこしもない。時間を無駄にするだけだ。自分はすでに“起こったこと”で話している。
 つまりは理性と野生の激突について。

「女苑は星のやりかたが不満ですか?」
「不満だね。いや……星さんに言っているわけじゃない……ただ私は宿命を鎖で飼おうとする、仏門の迷信が気に入らないのよ……分からないかなあ?」
「私はできると信じています」
「誰も成しとげていないでしょうが」
「そうですね。だから私たちが道を最初に示します」

 聖が当然のように言う。
 鉄道草が鼻を鳴らす。

「夢物語だね。よろしい……それなら私の好きな映画の話しをしよう。映画ってのは、小説の親戚とでも思ってほしい。
 あるところに、二重人格の漢がいた。漢は善人と悪人の、ふたつの精神に分裂した……それでも最初はうまくやっていたけど、やがて互いの精神がうとましくなり、頭の中で殺しあうようになってしまい……結局は両方の人格がひとつの体を、争いのために使いはたして、自滅してしまうわけなんだ……」

 この語りにどれだけの皮肉が込められているか、さすがに分からないはずはない。鉄道草はちらちらと聖の反応を窺った。

「それから?」

 だが反撃は純朴だった。無知な子供が目をきらきらとさせながら、大人に質問を返しているようだ。つい言葉に詰まってしまい、鉄道草はまごつきながら、ようやく返事をしぼりだす。

「それから? それで終わりよ。悪人格は犯罪者だったから、地獄にでも行ったかもね」
「人格が別々なら……別々に輪廻を巡るのでしょうか?」
「作者でもあるまいし、そんなの知らないよ!」
「作者も二人のように善悪の彼岸で悩んだのでしょうねえ」
 
 聖が困ったように微笑を浮かべる。
 やりづらい。当てこすりをされているのに、そんなふうに笑っているのは、あまりにふざけすぎている……どうして亀虫を見つけたように、表情をゆがめもしないのだ。

「あなたは本当にやさしいのですね」

 急に言われた。
 何十年も前に杉の木の下で、貧乏草からも言われたことがあった。その日を如実に思いだす。だが彼女の場合は嘘の愛撫に過ぎなかったが、聖の場合は本心で言っているらしいのだ。
 前者は枷、後者は鍵。
 互いに別の含みを持っている。
 やさしいだと? ……鉄道草はうたぐりながら、刑事に取りしらべを受けている、冤罪者の気分になった。

「私はやさしくなんてない。善人を何人も喰いものにしてきた。
 やさしさは敗北を連れてくる。私はそれを知っていたから、善人を喰いものにできたんだ」
「過去のことです。それにあなたは今よりも、さらにやさしくなれるはずです」
「白蓮は……なんだよ……私に苦しんでほしいのか? 星さんがそうしているように」
「難しいことは言っていません。私たちはすべてを持って、この世に産まれてくるのです。あなたは外に探すのではない、やさしさは自分の内にある。あなたはそれを産まれたときから、手にしているはずなのですよ」
「私が奪うのを已めてしまえば、今度は誰かに奪われる。現実は空想のようにならないわ」
「私があなたを守ります」

 目を丸くして、叫んでしまう。

「ふざけるな!」

 アトピーの患者は自殺する。
 爬虫類は鳥に喰いちぎられる。
 癌の患者は衰弱する。
 蜘蛛は子に腹を破られる。
 疑問に思うだろう。どうして自分が生きのこれなかったのだ? ……。

「私の何を知っている」
「女苑が」

 聖が紡ぐ。

「苦しそうなことを……私は知っています。そこに見えているのです」

 答えはひとつ。
 それは生きているうちに、聖者と巡りあわなかったからだ。

「女苑……私とあなたは似ていますね」




【第十一の空想】




 十日後……。
 日は代わりばえもせずに過ぎてゆく。
 大勢が大地の色を待ちわびても、雪の勢いは止まらなかった。
 雪が我々の苦しみを考慮してくれるはずもない。春の息吹は、声を潜める。四季は空想の産物でしかなく、じつは冬だけが最初から、世間を支配していたのかもしれない。
 田舎者なのに珍しく、その楽器を知っているらしい。鉄道草は日の暮れどき、響子に演奏をせがまれて、ギターを弾いてやった。
 鉄道草は舶来の歌を奏でた。

『足を空に 頭は地面に
 そんな夢を見て 回っているんだ
 頭が壊れそう
 私は自分に問いかける
 私の心はどこにある
 水の中へ逃げたのだろう
 ほら 泳いでいるよ』

 別にギターが得意なわけではなかった。鉄道草ではラリー・カールトンにはなれない。だが一度でも都会の荒波に揉まれてしまえば、ギターに憧れをいだかないわけにはいかない。誰もが路上の素人に、尊敬と侮蔑をいだくのだ。それを馬鹿にしながら、褒めるのはたやすい。彼女がなけなしの金をはたき、森前の古道具店でギターを買ったのも、その程度の感傷なのだろう。
 それでも久々のギターは、思ったよりも手になじんだ。左手はギターの喉元に吸いつき、右手は馬の尻を打つように弦を掻く。もし機会があれば、ギターを担いで、流浪の旅でもしたかった。
 鉄道草が弾きおわると、歌詞も分かっていないだろうに、響子は盛大に拍手する。

「すばらしかったです!」
「昔の杵柄に過ぎないけどね」

 鉄道草は頑固だったが、十日も経てばすこしはゆるむ。また寺の生活に慣れはじめていた。何事もない。万事がうまくいっている。
 だが……冬の空を見ると、稀に正体不明の悪寒に襲われた。風邪でも患ったのだろうか? ……神さまが病を患うなど、聞いたおぼえもない。
 それでも冬の闇の淵へ、連想的に思いついたのは、貧乏草の髪の色……どうして急に思いつくのだろう。
 貧乏草は二年前に、鉄道草の傍を離れた。異変のあとで天人へ懐いてしまったのだ。別に非難するつもりはない。これまでに何度も離れ々れになったことはあったし、内心では彼女を疎んでいないわけでもなかったのだ。
 鉄道草の微妙な気分は買いつけの安物弁当が、買えなくなったときと酷似していた。特に好きでもなかったのに、あまりに生活と近しかったので、喪失感をおぼえずにはいられないのだ。
 それでも貧乏草に対しては、責任感を持ちたくもない。今は独りで生きているし、それでうまくいっている。彼女に頭の中までも、わずらわされるのは不当だろう。

「広間に集まってくれませんか?」

 不意にひょっこりと聖が来た。

「何?」
「みんなに話すことがありまして」

 そう言われたので連中と広間に集まった。
 そこで聖がまた、妙な提案をする。

「みんなで祭に行ってきたらどうですか?」
「祭?」

 一輪が鸚鵡を返した。

「雪祭ですよ。人里へ行ったときに聞いたんです。なんでも三日前に急に決まったとかで」
「へえ? なんでまた」
「冬の鬱憤を晴らしたいのだろう」

 ナズーリンが得意そうに言う。

「雪国の流儀ってやつさ」

 鉄道草も納得していた。東北地方に行けば、冬の祭は珍しくない。冬が厳しいからこそ、冬にはしゃぎまわるのだ。貧乏県のほうが大祭もそれなりに残っている。
 幻想郷は雪国でもないのに、雪祭などをするとなると、よほど人里も降雪に飽きているのだ。
 話しあったあと、聖と星と雲山を残して、人里へ向かった。
 聖と雲山は星の具合を見るために残るらしい。彼女は残念そうにしていたが、腹を鳴らしているのだから、人里へ行けるわけもない。



 人里は久々に活気づいていた。提灯で通りがほのあかるい。不細工な即席の雪像まである。仏師たちが雪をこねたらしい。
 雪は降っているが今は豪雪と言うほどでもなかった。

「どうする?」

 通りの隅で一輪がみんなに聞いた。

「私は独りで見てくるよ」

 悪霊は空気も読めないらしかった。

「そんなことできるわけがないだろう。幽霊に独りでうろつかれたら、人間たちは怯えてしまうぞ」
「それなら一緒に来てくださいよ」
「……仕方がないなあ」

 そんなふうに水蜜とナズーリン、鉄道草と一輪と響子で別れた。
 ふたりがどこかへ消えてしまうと、鉄道草は一輪に聞いてみる。

「あのふたりは友達なの?」
「そう、かも?」
「別にしたしくは見えないけど」
「ふたりとも静かだから、気が合うんじゃないの!」

 一輪がおかしそうに笑った。

「たしかに……笑えるわ」
「おかしいです!」

 鉄道草が笑うと響子も笑った。笑いが波のように広がっていた。
 何がおかしいのだろう。友情のあいだに発生しやすい、内輪の笑いかもしれない。馴れあいにも限度がある。だが別に不愉快ではなかった。
 屋台は貧弱だった。冬場なので当然である。それでも酒と川魚くらいはたのしめそうだ。
 酒の屋台に並んだ。店前にくると一輪にねだられる。

「奢ってよ」
「金が少ないんだけど?」
「響子の前なんだから、恰好つけなさいよ」
「あんたは年上でしょうが!」
「そうだっけ? おぼえてない」

 最後は結局、酒を買わされた。酒は瓢箪にはいっていた。瓢箪の中身は熱燗だった。こう言うのもわるくない。
 路地へ向かい、民家を背にして、酒を飲んだ。
 通りを人間たちが跋扈している。あからさまに妖怪もいるようだ。無礼講なのだろう。みんなが雪で困っているのだから……。

「どう?」

 一輪が思わせぶりに聞いてきた。

「何が」
「だから。そう……寺よ」

 曖昧に言われた。分かっている。
 それは寺の“生活”のことを聞いている。それが分かった。
 鉄道草は酒を呷って、まっしろの息を吐いた。彼女は逡巡して、顔を逸らした。

「わるくない」
「……よかった」
「いつまでも」

 これは勇気か。これは甘えか。
 冷気で唇が裂けそうだ。不純な血がそこから、流れてほしかった。
 無数の悪徳をかさねてきた、鉄道草の手のひら……だが罪悪感も今の気分を、戒めはしなかった……奪うこと。食べること。眠ること。交わること……しあわせになること。

「私は寺にいてもかまわないの?」
「行くんですか? どこかに!」

 肩が跳ねた。叫んだのは響子だった。酔っぱらったのか頬を染め、瞳は有情の潤みで溢れていた。

「ちょっと……」
「そんなのいやだ!」

 響子が鉄道草に泣きついた。体を押しても離れない。尤も本気で押していないし、押せるわけがなかった。おろおろと挙動不審になるほかない。

「しばらくはどこにも行けないんじゃない?」
「……らしいわ」

 唇を噛んだ。自分も泣いてしまいそうになる。
 この感激の正体は……これが他者に許容されることなのだ。これが誰かの手のひらに、受けいれられると言うことなのだ。

「通りのほうで聞いたんだけど、あとで花火もするらしいわよ」

 一輪がふたりを見て、微笑していた。



 みんなで花火を待った。
 それから周囲が静まったとき、空に黄色の花が散った。花は際限もなく、空へ帰りざく。そして色を変えてゆく。
 辺りに歓声が満ちた。響子が拍手をする。一輪が笑う。鉄道草が目を細める。水蜜と鼠もどこかで見ているのだろう。
 曇天に願っていた。しあわせが終わらないでいてくれと。神さまは祈らない。それでも願いくらいは雲の上の、星々に託してもよいはずだ。
 ……だが花火の途中、顔をさげたとき、幸福はとだえた。
 通りを抜けてゆく、群青色の髪を、目で追ってしまった……心臓がふるえあがり、同時に牙をむいた……どうして今になって、視界に現れるのだ!

「先に帰って!」
「女苑」

 鉄道草はすでに通りへ駆けだしていた。

「女苑!」

 一輪の制止も聞こえない。
 鉄道草が走った。
 追いかけて、々いかけた。
 寒いはずなのに、はらわたが煮えていた。

「紫苑!」

 叫んでいた。路上の人間たちが訝しむ……知ったことか! ……こわごわと、辺りを見る。また人群のはざまに髪がなびいた。しっかりと見つめて、追いかけるのだ!
 だが貧乏草は簡単に捕まらなかった。まるで芸者が客をいなすように、手を擦りぬけてしまうのだ。鉄道草はいらだち、焦りはじめる。
 それでも十分も追いかけて、ようやく人里の端の路地に封じこめた。だが貧乏草が十字路を右に逸れ、自分もそこを曲がってみると、彼女は姿をけしてしまうのだ。
 辺りは塵が散乱していた。人里の中でも乞食の団地か、管理の不始末なところなのだろう……どこに消えてしまったのだ?
 そんなことを考えていると次の間に、自分の甘さに気がつかされるのだ。塵山がうごめいた。そこから貧乏草が跳びついてきた。二年も会っていないうちに、彼女の習性を忘れていたらしい。
 もつれあい、腹に乗られた。両手首も貧乏草の手のひらに、がっちりと押さえつけられる。手首はぎりぎりと痛み、万力で挟まれているようだ。
 貧乏草は顔面を寄せてくる。息が臭かった。
 こんなときでもなければ、すぐに歯を磨いてこいと、言ってやるところである。

「女苑」
「姉さん……」

 貧乏草の前髪が、触手のように垂れ、顔に押しよせてくる。口にはいってしまいそうだ。

「弱くなったね。女苑」

 貧乏草が珍しく、瞳をまことの悲しみで、淀ませていた。
 声はひっそりとしていたが、言葉には怖ろしいほどの、確信が込められていた。

「女苑は弱くなった」
「意味の分からない、ことを言うんじゃない……!」

 気がいやに焦って、声がもつれるのだ。
 反論もできない。する理由もなかった。だが頭は反駁を考えてしまう。本当に弁解が必要であるように。

「時期が来た。幻想郷を出る」

 それを聞いて、肩が震えた。
 これ以上はないほどの、絶望感に囚われてしまう。

「どう言うことか、分かるでしょう? 二年も同じところにいた。不幸は世間に押しよせる」
「……雪は姉さんが」
「うん」

 鉄道草は脱力した。
 無力感が押しよせる。絶望感よりも無力感のほうが、意外と残酷かもしれなかった。絶望とは反骨精神で争えても、無力はどうしようもないのだ。

「……やっぱりか」

 分かっていた。貧乏草とのつきあいは長い。この雪はどうしようもなく、不幸の腐臭で淀んでいる。水のようにどこかへ流されていかなければ、不幸の汚れは溜まるばかりだ。そして世間を亡ぼすのが、肉親の宿命なのである。

「待ってくれ!」

 気がつくと、喚いていた。

「私はしあわせになれそうなんだ。奪うんじゃないの! みんなと一緒にいる、そのしあわせが……それが目の前に来ているんだよ! それなのに姉さんは、幻想郷を去れと言うの……?」
「女苑はしあわせを求めるけど、あとで悲しみを知るだけだ。幸せがふえるほどに失われたときの悲しみもふえる。おまえの幸福は悔恨を呼ぶ。それを求めてはならないのよ」
「姉さんがいるからだろ! おまえがわるい。おまえが!」
「私を独りにするの?」

 鉄道草は言葉に詰まる。

「いやよ……独りはこわい。独りになんて、なりたくないよ」

 なんと言う……卑怯な言葉だろう。
 貧乏草が涙を溢れさせた。それは顔に垂れてきた。涙はあまりに嘘っぽい。だが世間で独りの肉親の、涙であるのも真実なのだ。
 拳を握った。寺の連中の親切よりも胸が痛んだ。

「私を独りにしないで……」

 ちくしょう! あまりに卑怯すぎている……ことわれるはずがない。それはあまりに外道すぎる……殺人よりも、収奪よりも……肉親のまことの頼みを蔑ろにするのが、何よりも犯罪的な行為なのだ! どれほどに悪徳をかさねても、自分はそれをついにできない……それを分かっていて、嘘っぱちの涙を流すのだ……。
 自分と一緒だ。夢を見ている。
 しあわせになりたい。独りが怖ろしい。その願望は何も変わらない。
 あまりに純情で無垢なだけだ。

「私たちはしあわせになれない。それでも一緒には、いられるでしょう?」

 そうとも……そんな資格がないことも十六万人を、姉の不幸の“巻きぞえ”にして、知っていたはずだろう。
 自分はそれを忘れていたらしいのだ。

「私に何をしてほしいの?」
「わるいことをしてほしい。あの寺の連中にきらわれてほしい。完膚なきまでに! 女苑に私と不幸になってほしい……。
 女苑は私の妹だから、独りでしあわせになるのは、絶対に許せない……。
 これまでのように……苦しんでほしい」
「……分かった」

 何かを諦めるなど、自分らしくもない。
 自分の被害者たちが見れば、おそらく目を丸くするだろう。
 疫病神でさえも、肉親のためならば、すべてを捨てられる。それが鉄道草にも備わっている、生来のやさしさなのかもしれない。

「幻想郷を去るまえに、やりたいことがある」

 だが鉄道草にも譲れないことがあるのだ。

「やりたいこと?」
「待っていて。私がそれに失敗したときは、姉さんと一緒に幻想郷を去る」

 自暴自棄の憤りが、芽をだしていた。
 何事もうまくいかないなら、他者に暴力をぶっつけるのが一番だ。
 友情も要らない。今は悪徳が魂を支配している。
 そうとも……力が湧いてくる。この感じだ。
 奪いたければ、自分がすべてを奪うのだ。
 亡ぼしたければ、自分がすべてを亡ぼすのだ。
 強欲の化身の悪霊。
 力を与えろ。勝利へ導け。



「女苑!」

 路地を出るために歩いていると、都合のよいことに一輪が来た。
 自分を探していたのだろう。

「どうしたの?」
「私の台詞よ! 急に走りだしたから、追いかけてきたのよ。こんな路地にいたら、見つからないはずだわ」
「そうなの」
「大丈夫? 酔っぱらったのかしら」

 一輪は肩を貸そうとしたが、鉄道草はそれを拒否する。

「別に平気よ」

 たしかに目の焦点は合っているし、足がふらついているわけでもない。戯けてもよかった。
 その様子に一輪も安堵させられる。

「そう。なら戻ろう、響子が待ってる。急にいなくなるから、泣いているかもよ」
「それは困るわ」
「本当にね」
「ところで一輪」
「何?」
「さよなら」

 鉄道草は右の拳を、一輪の鳩尾にぶっつけた。吹きそこないの笛のような声を漏らし、彼女が路上に崩れおちた。体がしびれ、眩暈がして、動けい。
 だが意識を飛ばすほど、軟弱でもなかった。拳のわけも分からないが、反骨精神で顎をあげて、鉄道草の目をにらむ。涎も気にせず、口をひらいた。

「あんた……!」
「頑丈なやつ」

 鉄道草は不満そうに言うと、一輪の顔面を靴で蹴りあげ、さらに彼女を弱らせてやる。次に力を込めて、右足を踏みつぶす。
 一輪が叫んだ。ミキサーで全身をなぶられたら、声帯を切りとられている、愛玩用のみじめな小動物でも、これくらいの声はだすかもしれない。
 入念に体を踏みにじった。そのたびに声が小さくなってゆく。叫びは雪に吸収され、さらに人里の隅となれば、声は誰にも聞こえない
 ……すでに後退はできなくなった。
 あとは悪徳の優位性を、道徳に見せつけられるかどうかだ。

「白蓮……おまえに私を、殺させてやる」

 そのときに道徳の地位は失われる。
 一輪の意識がとだえる。




【第十二の空想】




 ムラサさん。ナズーリンさん! ……響子? どうしたんだい……ふたりがどこかに、行ってしまいました! ……なんだって? ……一緒に花火を見ていたのに! ……困ったな……ふたりとも酔っぱらいなんだ! ……ムラサ。どうする?



 ふたりとも酒癖がわるいですからねえ。今もどこかで飲んでいるんじゃないですか? ……聖の折檻が必要だな……帰りましょうか? ……そうしようか。そのうち戻ってくるだろうさ……そうしましょう……それにしてもひえてきた。風呂にはいりたいね……幽霊なので分かりません……幽霊は皮肉の密売が好きなのかい?……まさか! 鼠の口のうまさには勝てませんよ。



 祭が終われば、人妖たちが去るのも、すみやかだった。屋台を解体してしまうと、各々の敷地へ帰ってゆく。
 鉄道草は一輪を担ぎ、闇と雪のはざまで、息を殺していた。
 雲のあいだをつらぬいて、稀に雪上へ舞いおりてくる、月の寂光がまぶしい。やがて雪の勢いが増し、辺りが死んだように、静まりかえった。鉄道草は路上の無人を直感した。
 ……歩きだそう。
 意外にも不用心に路地ではなく、通りの中心を歩いていった。自棄になったわけではない。やるべきことをやっているから、自分は堂々とすればよいと思えた。表彰台へ向かうくらいの気軽さで……そしてトロフィーは寺にある。硝子の中でぎらぎらと、血だらけのトロフィー……考えるだけで、涎が出そうだ。
 意外と距離がある。雪で前が見えづらい……それなりに歩いたつもりが、まだ人里を抜けられない……自分は寺と反対方向にいたらしい……待て! 人影がこちらに、迫ってきている! ……。
 人影が急に、吹雪の中へ、浮かびあがった……ちくしょう! どうして家に帰っていないのだ。友達の家にでもいたのかな? ……豪雪の時は無闇に歩きまわるなと、ニュースも言っているだろう! ……忘れていた。幻想郷にテレビなどない。この土地は頭のわるい、田舎者が集まっているのだ。
 人影との距離が狭まる。そして横を通られても、意外と気がつかれない。吹雪で一輪の顔の打撲痕が、しっかりと見えなかったのだ。酔っぱらいが誰かに担がれているだけなら、人里では珍しいことではない。
 自分が相手を影と見たなら、相手が自分を影と見る。それが当然なのだろう。堂々と振るまうと言う、自分の大胆な判断に、まちがいはなかったようだ。それに雪が醜さを隠すと言う、あの自意識過剰的な理屈も、味方をしていたにちがいない。
 珍しい! ……非常に“ついて”いる! ……やがて人里を出た。あとは寺への道を歩くだけだ。
 道はさらに静寂を深め、鉄道草にまとわりつく。本当に静かだ……嵐の前……すべてを忘れてしまうように。
 ……もはや世間の有象無象に、自分を裁くことはできないと、信じきっているのかもしれない……まだ原初の時代の血脈の、まことの神さまが生きてさえいれば、自分のような三流の神さまでも、他者にありったけの嫉妬を感じながらに、裁きを受けいれられたと思う。
 だが自分は……どうしても他者のあゆみと生きられない。どうしても他者のあゆみを感じとれない。どうしても他者のあゆみを信じられない。そう言うふうに産まれてきた。
 別に哺乳動物ではなかったが、親の性病を胎児のころに移されたような、産まれながらの宿命だった。
 そうとも……自分は疫病神だ。
 人間と妖怪を越えている。
 夜も怖れて、背を向ける。
 自分は混沌の死者として、ありったけの呪詛を吐ききらしてやる。ありったけの迷惑で歴史に爪痕を刻んでやる。この悲鳴を受けいれないなら、無理にでも自分を裁かせてやる。
 強欲の化身の悪霊の声を聞け。
 自分は悪党だ。
 自分は有罪だ。
 自分はすべての生命の敵なのだ。
 それがいやだと言うのなら、この肉体を亡ぼしてみせろ。
 亡ぼして……。



 寺へ辿りついた。山門の不細工な仁王像に、鉄道草はにらまれる。それを無視すると、山門と総門を通り、本堂の前に出た。
 一輪を雪へ寝かせて、書院の台所へ向かった。書院では連中が呑気に眠っているはずだ。
 音を立てず、隠者のように、歩いてゆく。
 おそらく眠っていないだろう、悪霊のけわいに気を使うのも忘れない。みんなが眠っているのに、夜に独りで起きているのは、どんな気分なのだろう。おそらく苛酷でみじめにちがいない。
 台所へ忍びいり、棚を漁りまわった。油壺は下の辺りにあったはずだ……見つからない……奥をさぐる……たっぷりと二分も経って、ようやく見つかった。緊張のためなのだろうが、いやに冗長な時間だった。
 壷と刃物を持つと今度は本堂の中へはいる。中央で壷の中身をぶちまけた。
 呑気に眠っていろ……今に燃えさかる、鶏の鶏冠で起こしてやる。



 だが、そのまえに気になることがある。
 それは自分が聖をきらっている、道徳への忌避よりもさらに深遠な理由を、いまだに見つけていないことだった。

女苑……私とあなたは似ていますね

 そう聖は言っていた。あれはなんだったのだろう? ……それが政治屋の言葉なら、票を集めるための甘言と、割りきれるのだろうが……だが彼女はいまわしくも、簡単に嘘を言ったりはしない。なら発言のまことの意図は? 自分は彼女と間逆の生きものだ。精神に於いても、肉体に於いても……少なくとも自分はそのように信じているのだが……もうどうでもよいことかもしれない。
 すでに火蓋は切られている。さらに運が自分に向けば、答えは決着のときに出るはずだ。
 ライターを取りだす。火を灯した。場ちがいにも火の光を美しいと思った。自分を破滅へ導くための光だった。
 ライターを、油の中に、投げ入れた。



 本堂の前に戻った。風が切るようにつめたかった。鉄道草はそこに放置していた、一輪の首に刃物を突きつけ、無理に立ちあがらせると、彼女の背後へ隠れた。犯罪者が追いこまれ、弱者を盾にする、あの軽薄な姿勢だ。三流映画で彼女は何度も見たおぼえがある。
 一輪もすこしは目を覚ましはじめたらしい。言葉にはならなかったが、朦朧と呟きを漏らしている……後頭部を蹴りすぎたのかな? 脳に障害が残っているなら、意識を絶ってやるのが有情かもしれない。
 本堂がぱちぱちと燃えだして、辺りが朝方のようにあかるくなると、ついに連中も気がついたのか、足音が聞こえはじめる。
 最初に来たのは水蜜だった。鉄道草たちを見ると呆然とし、それも一瞬だけで次の間には、憤怒の形相でにらみつけてくる。
 千年も現世にいるだけはあり、威圧感が針のように鋭かった。
 自分も負けずに威嚇する。

「動くな! こいつの首を斬りおとすぞ!」

 水蜜が硬直した。表情は憤ったり、怯えを見せたり、色をさまがえる。なるほど……聖を相手にするつもりが、意外とおもしろくなりそうだ。
 次々と連中が集まってくる。最初は誰しも本堂に目を奪われたが、すぐに鉄道草を見つけると、意識を本堂へ向けられなくなる。
 混乱しているのは星と響子。
 怒りに満ち々ちているのは水蜜と雲山。
 冷静に分析しようとしているのはナズーリン。
 そんな具合だろうか……。
 そして聖だけは相も変わらず、純粋な目でこちらを見ていた。
 気丈に振るまえるのも今だけだ……内心では舌を焼いているくせに……すぐに皮を剥がしてやるぞ……刃物を一輪の首に喰いこませてやる。血がにじみでた。連中が吐息を漏らす。空気がぴりぴりとしびれていた。

「聖を残して、裏手に回れ! 井戸の水を本堂にぶちまけろ!」

 急にナズーリンが怒声を発した。目を覚ましたように星と響子が裏手に走る。適材適所……さすがに馬鹿の集まりではないらしい。

「ムラサと雲山もだ!」
「いやだ!」
「消火には君が必要だ!」
「あいつの首を引きちぎってやる!」

 悪霊が怒りくるっていた。これが素顔なのだろう。本性をむきださせるのは本当におもしろい。ふたりとも梃子でも動かなそうだ。ナズーリンが舌を打ちすえる。
 鉄道草は笑ってしまいそうだ。他者を手玉に取るその感じは、どれだけ味わってもたまらない。それが生物の最大の味覚なのだ。鯱や熊や猿などでも、獲物の虐待が癖になると言う。
 痛ぶって、骨の髄まで、弄ぶのだ。

「おもしろい」
「何がおもしろい!」

 鉄道草の呟きへ水蜜はすぐに噛みついた。

「他者が苦しむのを見るのはたのしく、苦しめるのはさらにたのしい。あんたも悪霊なら、それが分かるでしょう?」
「何がしたいんだ! なんのために……おまえの魂胆が分からない! 一輪を放せ……殺すぞ!」
「あんたに私は殺させない」
「殺させないだと?」
「ふん」

 悪霊と話すつもりもなかった。水蜜を相手にするべきではない。鉄道草は聖と決闘がしたいのだ。悪意を込めて、彼女をにらむ。

「聖……おまえが憎い!」
「私の何が憎いのです」

 背景は炎。ようやく聖が口をひらいた。
 それを聞くだけで、墜落感に襲われた。臆病風に吹かれたのではない。自分はまさに、気分だけでも、死にかけている……それが墜落の高揚を連れてきた……聖の声は決闘の合図だ。すぐに終わりがくる。自分は銃殺されようとしている。
 頭の中で、聖に願う……動いてほしい、望みどおりに!



 ナズーリンはすでに姿をけしていた。水蜜と雲山の説得を諦めて、消化へ向かったのだろう。知的な判断である。本堂のほうから、消化の音がする。瓦が落ちる。柱が倒れる。それも気にならない。何も自分を咎めていない。

「何が憎いって? おまえがすべての悪徳の敵だからだ! おまえは私がこれまでに見てきた、数々の生きものたちの中で、最も善良な生きものだ。
 疫病神はすべての道徳の敵だから、おまえがいると自分のすべてが! ……否定されるように感じたんだ。おまえが生きているだけで、私の悪徳は栄えてくれない。
 おまえがきらいだ。間逆の生きもの、道徳の化身!」
「買いかぶりです。私とあなたは……」
「その態度を已めろ! 冷静なつもりをよそおうな! そう言うのがいらだつんだよ……でも次の間も同じように、澄ましていられるのかな?」

 鉄道草は不敵に言った。一輪の首もとから、刃物を放した。連中が表情を困惑に染める。

「一輪の腹を裂く」

 刃物を逆手に持った。刃が炎でつやめいている。水蜜が驚愕で表情を歪めた。

「白蓮。許してみろ」
「已めろ!」

 水蜜が叫んだ。

「私の空白の瓶を血で満たせ!」

 振りかぶり、一輪へ刃物を、突きさした。



 苛烈な叫びが、辺りへ轟く。一輪の声だ。朦朧としながらも、体は痛みに正直らしい。目玉がひんむかれる。泡を吐きだし、腕がびくつく。
 鉄道草の瓶に他者の絶望感が貯まってゆく。彼女は狂喜し、鳥肌を立て、打ちふるえた。
 ……そのときだ。
 聖の態度が変化した。額に青筋を何本も浮かべ、あまりに歯を喰いしばりすぎたのか、唇を血が汚してゆく。それだけでも苦しみが、報われたように思う。ついに聖者のはらわたから、悪感情を引きだしたのだ。
 あとは聖に自分を殺させられるかどうかだ。
 そのときに彼女の公道も廉直も失われる! ……そのときに道徳は悪徳にひれふす! ……そのときに瓶の穴が塞がるかもしれない! ……自分の魂へ張りついている、強欲の化身の悪霊が満足して、どこかに去ってくれるかもしれない! ……この充足感。どんな苛烈な性交も、これには適わない。
 刃物で一輪の、はらわたを掻きまぜ、連中を煽った。また雲を切りさくような、悲鳴が辺りに広がった。
 血が雪を汚した。わずかに“なわ”がはみだした。刃物を横に動かしたら、どんな絵が雪上をえがくのだろう?

「聖!」

 水蜜がどなりつけた。

「もう我慢ができない、あのフダツキを殺すわ! 眼球をえぐりださせろ、子宮を引きずりださせろ、全身の骨をへしおらせろ、腸を振りまわさせろ! ……ふウーー。ふウーー……殺すぞ! 殺してやる!」
「落ちつきなさい。ムラサが動くと“女苑に”腹が裂かれる。それに妖怪は簡単に死にません」
「邪魔をするな!」
「……水蜜」

 聖が冷酷に言う。

「黙れ」

 “しん”となった。鉄道草は目を丸くしてしまう。聖が命令的な口調で言うのを、これまで見たことがなかったのだ。おそらく水蜜と雲山さえもだ。ふたりも呆然としている。
 聖の視線は蛇の目のように水蜜を貫く。目は怒りに満ち々ちていた。
 怖ろしかった。水蜜はつきなみに……死んでいるのに、死にそうだった。自分が亡ぼされるのだと信じてしまった。鉄道草に向けていた、あの怒気も消えてしまい、彼女はぶざまに震えながら、萎縮してしまっている。

「ごめん、なさい」
「火をけしてきなさい。雲山も」

 ふたりは奴隷のように従順だった。裏手へすごすごと去ってゆく。
 鉄道草は眩暈がした。汗がにじみ、雪へ落ちた。額から、首から、脇から、腹から……滝のように流れだしてくる。神経が締めあげられ、兎のように怯えている。
 どうして自分に怒りを向けなかったのだ? ……別に庇うつもりはないが、水蜜の怒りには正当性があったはずだ……意味が分からない……どう考えてみても、矛を向けるべきなのは、自分のほうだろう……。

「聖さま……」

 そのときだ。
 疲労で朦朧としながらも腹部の痛みで、さすがに意識が冴えてきたのか、一輪が声を発したのである。鉄道草は優位性を保つように、刃物をしっかりと握りながらも、彼女の発言を止められないでいた。
 数分前の熱狂も嘘に思えた。冷水でも浴びたように冷めてしまった。まるで対岸の火事を眺めているように、景色がまばらに切りとられてしまう。

「一輪。なんて……みっともない」
「申しわけありません」

 申しわけありません? ……何を謝っているのだ。血液を流しすぎて、頭が麻痺したのかな? 加害者は自分のほうなのだ。殴られているはずなのに、自分をわるいと思うのは、頻繁に虐待を受けている、無力な子供の思考回路だ。
 分からない。自分は何を見せられているのだ。
 どうして? 分からない。怖ろしい。逃げだしたい。
 直感的に怖ろしいことが、迫っていると分かってしまう。時間が複写の々々の々々の々々のように、何重にも折りかさなっている……。



 鉄道草は気がついていなかったが、この場で最も事態を動かせるのは彼女でも聖でもなかった。その権利を握っているのは一輪だった。
 一輪は不明瞭な視界の中で、きびしげな聖の瞳を捉えた。それは何かを命令していた。それは“助けろ”と言っていた。かつて自分を助けてくれたときも、彼女はそんなふうに目をぎらつかせていた。
 一輪は自分の役目を理解した。鉢が回ってきたのだと思った。密着しているためなのか、鉄道草の怯えが背中に伝わる。
 怒りはなかった。自分も昔はそんなふうに、振るまっていたのだから。新参の門弟に道を示さなければならない。まだ力が残っているうちに……。

「大丈夫」

 一輪は骨をぎしらせながら、即座に刃物を奪いとった。だが腹からは抜かない。それが鉄道草を困惑させた。

「私は女苑を助ける。あなたに罪悪は積ませない」
「何を……」
「誰かに助けられたことがあるのなら、誰かを助けなければならない。大丈夫……あなたにも分かるときがくる。世の中はそんなふうに巡っているの」

 腕に力を込めた。一輪が刃物をすべらせて、自分の腹を横一文字に斬りさいた。




【第十三の空想】




 腰を抜かした。一輪ではなく、鉄道草のほうが。無理もない。頼みの盾が自分の腹を斬ったのである。
 一輪が膝を突いた。うしろからなので見えづらいが、腹から“なわ”がぶらさがっている。
 血が雪を染め、地獄をえがく。赤と白のコントラストが、いやに対比的だった。
 あまりに常軌をはずれている。被害者が自分で腹を裂くなど、あってよいのだろうか? ……信じられない。これは夢かもしれない。そうに決まっている。
 聖がこちらへ、にじりよってきた。
 鉄道草は尻を這わせて、うしろにさがるほかない。深刻な恐怖の虜になる。聖が息も絶え々えの、一輪の前で立ちどまる。そして言ってのけるのだ。

「はらわたが見えている」
「はい……」

 一輪の声は細かった。今にも魂が抜けだしそうだ。
 それでも聖は残酷だった。有刺鉄線のように鋭く、一輪へ勅命を投げわたす。

「腹に戻せ」
「……はい」

 一輪は従うらしかった。鉄道草は彼女がなわを腹に押しこむさまを、呆然とうしろで眺めるしかない。嗚咽が聞こえた。くちゃくちゃと“もつなべ”を混ぜるような音がして、それがなわを腹に戻すときの音だと知った。
 耳を塞いで、急に叫んだ。特に意味はない。ただ目のまえの光景が、あまりに理解を越えているので、力の限りに喚くのである。
 一輪はなわを腹に戻すと、力が尽きてしまったのか、血の絨毯へ倒れこんだ。
 今度こそ……聖が鉄道草のまえに立ちふさがった。彼女は“ずっしり”と立ちふさがった。
 動けなかった。蛇に見つかった、蛙のありさまだ。
 だが次の間に聖はしゃがむと、鉄道草に手を差しのべるのだ。理解ができない。頭に空白ができてしまう。

「戻りましょう」

 絶句した……頭がおかしいのだろうか?

「おまえは? ……何を考えているんだ。一輪の腹を裂いたんだぞ!」
「女苑は何もしていません」

 そのときだ。
 頭に血が溜まった。ようやく聖の魂胆に、気がつかされるのだ。

「一輪が勝手にやったことです。女苑に罪はありません」
「ふざけるな!」

 馬鹿にしている! ……つまり聖は鉄道草に、一輪の腹を裂いたと言う、罪悪を積ませないためだけに、彼女に自分で腹を裂かせたのだ。
 聖がどう言うふうに命令したのか、そこまでは分からなかった。だが彼女に決まっている。そうでないはずがない。雄弁に瞳が言っている。それを実行に移すためなら、呪術だろうと念力だろうと、なんでも好きに使ってみせる。そんな意志が見えかくれしていた。

「おまえは……狂ってる」
「一輪はあなたの魂を守ったのです。罪悪の魔の手から」
「私は寺まで燃やしたんだぞ!」
「材木の集まりに過ぎません」
「一輪の腹を刺してやった!」
「妖怪はそれくらいどうともない」
「……みんなを弄んだ」
「私が許す。納得させる」

 どうして? ……どうして聖はそんなふうに、自分を頑なに許そうとするのだ?
 鉄道草は会話の文脈から、聖を好きになれなかった、本当の理由を嗅ぎとった。それが見えはじめていた。認めたくはなかったが、疑いようもないらしい。
 自分と同じだ。つまり聖はエゴイスティックな生きものなのだ。それも限りなく。

自分が誰よりも善良なのだ
自分がすべてを助けられるのだ

 言葉の節々に、それを感じた。
 聖の圧倒的な自信の源泉。自分の道徳への過信。巨大な自尊心。それが鉄道草と似ているのだ。
 同族、嫌悪。

女苑……私とあなたは似ていますね

 ついに意味を理解した。
 あまりにエゴイスティックなことに於いて、ふたりはまさに鏡なのである。
 一方は道徳へ、一方は悪徳へ。
 互いにそれに邁進している。互いにそれを崇拝している。互いにそれに狂っている。
 だが聖の道徳は自分よりも頑強すぎる。とても崩せない。細部を石膏で塗りかため、どこにも穴が見えないのだ。彼女に自分は殺させられない。それほどまでに追いつめられない。
 それを認めて……鉄道草は負けたのだった。
 息ができない……“ぶる”ってしまって……筋肉が動かせなかった。それでも無理やり、声を押しだし、もう涙を浮かべて、ついに聖へ懇願する。

「殺してくれ!」

 ぼたぼたとぶざまに、涙が雪を濡らしてゆく。
 恥も外聞もない。ただ一心に叫ぶのだ。
 本心だけで。

「頼むよ……もう死にたい……産まれたときから、苦しんでいるんだ……苦しい。々しい。死にたい……もう誰かを苦しめながら、何百年も生きたくない……。
 どうして? ……ほかの神さまは誰かを救うために産まれるのに、疫病神と貧乏神だけが誰かを苦しめなければならない……そんな咎を結びつけられて、あまりにひどすぎるじゃないか……そのうえで罪悪感まで、おぼえなければならないのも……白蓮なら……私を終わらせてくれると思ったのに……」

 本堂の辺りで水流が踊る。火は消えかけている。
 事態が収束に向かっていた。
 聖は鉄道草を抱擁する。

「大丈夫……女苑がそんなふうに悩めるだけで、あなたの命には意味がある。私があなたの道徳を肯定する。
 私はいつでも女苑を助ける。本当に、本当に……何百年も、何百年も耐えましたね」

 もう我慢が効かなかった。泣きじゃくった。聖の胸に埋もれながら、自分はこの世に産まれてきても、よかったのだと信じられた。

「聖……私を……助けて」
「必ず」

 産まれてはじめてだ。
 神さまの掟にそむいて、他者の手にたよった。 一度でも言ってしまえば、こんなに簡単だったとは……どうして自分はそんなこともできなかったのだろう?
 道がひらけた。そこをいつまでも歩いていたい。だが今はつかれきってしまっていた。
 春の息吹を待ちながら、ゆっくりと眠っていたい。



 鉄道草の寝息が聞こえはじめると、聖は一気に脱力してしまう。さきほどまでの気丈な態度はどこへ行ったのか、風船のように気が抜けてしまった。

「はあ……あーーあ……つかれた」
「終わったか」

 うしろで水音がした。振りかえるとナズーリンが、一輪の傷に薬液をぶちまけていた。

「消火に行ったのでは?」
「任せられるわけがない、君は無鉄砲すぎるからな。念のために目をひからせて、隠れていたんだよ。先に薬を取りにいっておいてよかった」
「一輪はどうです?」
「軟弱じゃないさ、君の弟子だろう」
「……はい」

 聖は空を見た。曇天と雪が支配している。
 あまりにも不快だし、あまりにも不当だ。聖は天に憤っている。
 どうして鉄道草に苛酷な宿命をしいるのだ? ……天は答えない。
 天は、我々に興味などない。
 天は、道徳と不道徳を考慮できない。
 それが在るのは、我々が気にするからである。
 天が気にせずとも、宇宙が気にせずとも、冬が気にせずとも、他者が気にせずとも……自分が気にする。
 周りのことなど関係ない。自分が道徳だ。自分が公道と廉直だ。すべての生命を助けるのだ。
 だが道は途方もない……本当に終着点があるのだろうか?



あっかんべえ



 聖は心中で天に言った。そして鉄道草の髪を撫でる。

「ナズーリン。善悪ってなんです?」
「幼稚な質問をするな。それが分かっていれば、仏門は要らないよ」
「……そうかもね」
「君の生涯の敵だ、寿命は有効に使え」
「我々のでしょう?」
「私には無理だ。君のようにも女苑のようにも、真剣にはなれない……昔はそれに悩んだが、すでにつかれてしまったよ。老いさらばえたくはないな」
「仏の道か……きびしいわ」

 聖が微笑する。

「でもナズーリン。私は空海の上を行きますよ」
「……はあ」
「なんです?」
「傲慢で不遜。本当に女苑は君の鏡だな」

 聖は嬉しそうに言う。

「そうでしょう?」




第三部 自己破壊(FIGHT CLUB)




【第十四の空想】




 閃光。
 衝撃。
 熱風。
 粉塵。
 悲劇が町に降りかかる。
 地獄が町に舞いおりる。
 眠りが千九四五年の悪夢を連れてくる。
 体が痛かった。意識が戻ると全身の皮膚が“ぴらぴら”になっていた。もうれつな痛みに絶叫し、虫けらのようにのたうった。
 あの爆発の熱波が原因だ。あれが自分をこんなふうにしたのだ。

「……姉……さん!」

 隣で貧乏草がぐったりと、同じように皮膚を焼かれ、杉の木へ体をあずけていた。
 体を揺すると、虫の息が聞こえた。

「ふウーー……ふウーー……う、お、お、お!」

 怪物のように吠えたてる。何が起こったのかは理解できない。分からないからこそ、不条理に腹を立てるのだ。
 体をぎしらせ、貧乏草を担ぎ、丘をあとにする。



 町へ降りた。どうして降りたのかは、自分でも分からない。また爆発がくるかもしれないのに……それでも向かわずにいられようか…この光景を見ろ……町が粉砕されている。すべてに炎は絡みつき、即席の地獄を創っている。焼死体もある……あれは、なんだ……川が人間たちで埋まっている。重度の火傷にまみれながらも、まだ生きているやつが、川へ飛びこんだのだ……魚の渋滞のようになっている。
 歩いていると、子供の声がした。
 声にはおぼえがあった。髪をむしった、あの妹だった。頭を瓦礫に押しつぶされた、兄の前で泣いていた。彼女の火傷もひどく、すぐに死んでしまうだろう。それでも動けているのは、悲しみで脳が麻痺しているためなのだろうか……。
 理不尽の化身の吐息が、町に充満していた。
 鉄道草の傷は、徐々にふさがる。彼女が人間ではないからだ。別に死にはしないだろう。神様さまは別に、被曝も火傷も致死にはならない。
 同情でも皮肉でもなく、本当にふしぎだった。どうして悪党の自分が生きていて、人間たちが死んでいるのだ? ……天はこんなにも不平等でよいのだろうか?

「私を!」

 鉄道草は妹へ急に叫んだ。まるで彼女が人間の代表だとでも言いたげに。
 妹は鉄道草に気がつくと、過剰なまでにすくみあがる……虫けらの顔……非力で無力な顔……その態度がさらに自分を、いやな気分にさせるのだ……どうして悪徳に立ちむかおうとしないのだ!

「私を殺せよ!
 私を……いるだろうが! 人間の敵が、おまえたちの前に!
 私がそれだ!
 それなのに……どうして人間と々々で争うんだよ! 私を見ろよ!
 人間の敵なんて、私だけで充分なんだよ!
 それが私の役目なんだよ……それなのに、それなのに……どうして私を殺して、道徳の優位性を証明してくれない! 何百年も待たせるなよ! 飽きるだろうが!
 証明してよ……道徳は悪徳にまさるって……私がいつまでも、やさしくなるための……勇気を持てないだろうが!」

 あゆみよる。
 貧乏草を地に投げだし、妹の顔面を殴りつけた。彼女は……抵抗してくれなかった。生きることへの意思がなかった。
 奪え。葛藤。
 已めろ。自制。
 楽にしてやれ。欺瞞。
 鼓舞してやれ。虚言。
 鉄道草は妹を撲殺した。
 道徳は一度も自分を理解してくれない。
 いつも自分を蔑んでいる。
 犬畜生を見るように。
 道徳を屈辱の底へ沈めてやりたい。
 納得させてくれ! ……おまえがいつまでも現れず、自分のような悪党をのさばらせる、その本当の目的を。



「迂遠な比喩に酔っぱらっていないでさ」

 そのときだ。
 うしろから、声がした。
 振りかえる。
 投げだしたはずの、貧乏草が立っていた。
 地獄の町を背景に、貧乏草は語りかける。

「言ってしまえよ。それをもたらしたのは“原子爆弾”だって。それがもたらされたのは“広島市”だって。そして何より……自分の肉親が不幸をそこへ連れてきたから、十六万人が無残に死んでしまったのだと」

 これは対話ではない。
 言葉は火薬。喉は撃鉄。声はひきがね。
 これは決闘の一種なのだ。
 すべての戦争は言葉で始まる。

「それは証明できない! それは“かもしれない”だけだ!」

 鉄道草は擁護する。
 火傷がまだ、痛んでいる。神経にからしを塗りこまれているようだ。
 肉親が十六万人を不幸の巻きぞえにしたなど、絶対に認められるはずがない。だが貧乏草は鉄道草にすげないのだ。

「それを本心で信じられるの? あの狂気の時代……世間が血みどろの火あそびに浮かれていたころ、できたての凶器を持てあましていたころ…不幸は世間に満ち々ちて、私の力は強まっていた。これまでにないほど!
 そんな私がいたばかりに、広島市が最大の不幸に巻きこまれた。その可能性はあるよねえ?」
「私は認めない!」

 よくもそんなふうに言える……どれほど広島市へ来たのを、自分が後悔してきたか……こんなことが起こると知っていれば、貧乏草と海の果てへでも行ったのに……おかげで何度も千九五四年の悪夢を見るのだ……死体の山。風前の町……自責のナイフ……がむしゃらに走って、逃げだすしかない。

「そう思うなら、どうして笑うの?」

 笑うだと……急に何を言っているのだ?

「自分の口をなぞってみろ」

 鉄道草は口角をなぞった。
 ぞっとした。口角が上に裂けていた。
 自分はあのとき……十六万人の死を、喜んでいたのだ。

「私は……どうして?」
「当然でしょう。おまえは疫病神だ、人間たちの苦しみを、笑わないはずがない。おまえは善良になりたくても、絶対にそれを成せない。その笑顔がその証拠だ!」

 そのとおりだ。あのときの自分は……貧乏草がこの光景を連れてきたのかもしれない……そう考えると、高ぶっていた! ……血が熱かった!
 自分はそう言うふうにできている。
 そんなことは分かっていたのに。
 うなだれる。そんな鉄道草を貧乏草は甘やかす。抱擁しながら、耳元で言うのだ。

「おまえは何もわるくない」

 言葉は甘く、からみついた。鉄道草はその甘さにすべてを委ねたくなってしまう。
 だが鉄道草は急に貧乏草を押しのけた。

「絶対に……いやだ!」

 そして距離を取ると、ありたけの声で、布告してやるのだ。

「私は聖に助けを求めた。
 私は悪徳と決別する。
 私はこれまでと別の生きかたをする!」

 貧乏草は表情を歪めた。怒りにおののき、唇をふるわせる。

「おまえにそんなことはできないんだ! おまえなんて“ごみ”なんだよ! “あくた”なんだよ! どうして分かってくれないんだよ!」
「なんだって?」

 貧乏草が“はっ”としたように口をとざした。
 その失言のために。
 鉄道草は……なんと言うのか……違和感で胸がむかついた。貧乏草が自分に暴言を吐いたのが、どうにも信じられなかった。
 いつでも貧乏草は鉄道草を甘やかした。
 甘やかして、陥れるのだ。なのに“ごみ”だと……“あくた”だと?

「おまえ……誰?」
『……世間よ、この手に、搾取されろ。
 その魂を、支配させろ。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ』

 急に貧乏草の声が、鉄道草の声に変化した。



 強欲の悪霊の化身(Greed Incarnation Ghost)と言うやつがいる。それは絶対に比喩や、形而上の存在ではない。
 それは鉄道草の中で生きている。なんのために悪霊はいるのか。少なくとも彼女をたのしませるためではない。昔はそうだったのかもしれないが、彼女が生きかたを変えるためには、もう共生は不可能になった。それなら体を去ってもらうよりほかはない。

「おい! おまえは誰だよ!」

 鉄道草は貧乏草の胸ぐらに掴みかかる。
 すると貧乏草の体が崩れてゆく。皮が剥がれ、肉が腐り、その内部が現れる。彼女の中身は宝石だった。そして貨幣と紙幣。この世の欲望の集積物。鉄道草の悪徳の化身なのだ。

「悪霊」

 直感した。
 これを殺さなければならない。
 そうでなければ、何も変われない……どうすればよいのか? それはまちがいなく、自分の中にいるのだ……だが、それには実体がない……それは自分の一部であり、自分の歴史でしかないのだ……だからと言って、諦めるのは、ごめんこうむる……。
 そのときだ。
 急に悪夢は溶けだしてゆく。ばらばらの砂粒になる。雪になる。ライターの炎になる。
 ちくしょう! 悪夢がとじる……なんの手段も思いついていないのに……。

『世間よ、この手に、搾取されろ。
 その魂を、支配させろ。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ』

 だが夢で終わらせると思うなよ……絶対に悪霊を現実の土俵へ引きずりだしてやる……自分は神さまだ。人間でもない。妖怪でもない。幽霊でもない! ……絶対に何か……神さまなりのやりかたがあるはずなのだ。




【第十五の空想】




 目を、覚ました。
 天井が見える。寺の天井。布団の感触。
 覚醒しはじめると、急に起きあがった。
 眠るまえの状況を追想したのだ。
 
「一輪!」
「いないよ。誰だっけ? それ」

 隣で声がした。貧乏草だった。

「……本物?」
「何が?」
「いや……」

 無気力なふぬけの目。本物だった。
 そんなところで確信するのは、すこしなさけなかったが。

「どうして寺に?」
「人里で噂を聞いたの。寺が焼けたって」
「私がやった」
「でしょうね。だから来た」

 溜息を吐く。とんでもないことをしてしまった。謝らなければ……謝る? その選択肢が浮かぶだけでも、大層な変わりようだ。まるで虫が脱皮をしたようだ。

「……失敗したよ」
「焼いたのに?」
「そう言うことじゃないの」

 鉄道草は首を振る。

「私は聖者の善性に負けたんだ」
「そのわりに悔しくなさそうね」
「うん……清々しいくらい。私は負けたけど、何かを得たんだ。それが敗北の空白を埋めている」
「何があったの?」
「私は……」

 だが言葉を止めた。自分の失敗を話すよりも、さらに大事なことはあるのだ。語らなければならない。自分の目的と、自分のこれからを。
 鉄道草は神妙に言う。

「私は道徳が欲しい。それを許して、それを認めて」

 貧乏草が目を丸めた。そして次の間には捨犬のように、悲しみで表情を歪ませた。だが悪霊のように自分を否定しはしなかった。
 これが肉親だ。貧乏草は馬鹿だったし、愚かでもあったが、それでも肉親なのだ。ふしぎな安堵を感じてしまう。

「女苑は……私の妹に産まれるべきではなかった」

 生涯で最大の、悲痛な発言だった。貧乏草は頭を垂れて、自分が肉親であるのを詫びた。
 そして泣いた。

「私の最大の不幸は、疫病神に産まれたこと」

 貧乏草の肩が震えた。

「そして私の最大の幸福は、姉さんの妹に産まれたこと」

 胸ぐらをつかみ、にらみつけてやる。

「自分の不幸は自分で決める、そんなことを二度と言うな! ぶんなぐるぞ!」

 手を離した。貧乏草はまだ、めそめそと泣く。
 鉄道草も鼻をすすった。

「ごめんなさい……けしかけて」
「最初からやるなっての」
「だって……こわかった。女苑が幻想郷へ残ると、言ってしまうと思った」

 貧乏草は微笑した。生涯で一番のやさしげな微笑。

「待っていて。決着をつけてくるよ」

 それにしても妙だった。
 貧乏草は十六万人を巻きぞえにしたかもしれないのに。彼女はそれを反省したこともない。
 幻想郷を去る……それをせかしてくるなんて、意外と貧乏草もこの土地を、気にいっていたりするのだろうか?



 貧乏草と別れて、聖を捜した。
 聖はすぐに見つかった。ナズーリンと広間にいたのだ。
 つい身がまえた。自分のしでかしを追想すると、とても声をだせないのだ。

「おはようございます」
「おはよう」

 だが、ふたりは簡潔に言うだけだ。嫌味もない。聖のほうは昔の友達へ話しかけるくらいに気軽だった。

「姉には会ったか?」
「……ふたりも会ったの?」
「私が質問している」
「うん」
「すこしね、話したよ……次に会うときは体を洗っておいてほしいね」
「叱っておく」
「そうしてくれ」

 ふたりの傍に腰を落ちつけた。
 するとナズーリンの表情が急に険しくなった。

「女苑。じつは……一輪は死んだ。治らなかった」



 絶句した。
 時が凍ったような感覚に襲われる。絶望的な気分に陥った。

「嘘だけどね」
「はあ!、!、?、? おまえ……已めろよ。それは……“まじ”でさ!」
「気分がほぐれたろう?」
「笑えないだろ!」
「一輪は無事だよ。あれが非人でよかったな」

 そこで聖が口を挟む。

「冗談もそれくらいにして、本題にはいりましょうよ。女苑が起きたのは丁度よかった。あなたについて、話していたから」
「私の何を?」
「女苑の助けかたについて」

 また緊張してしまう。聖の屈託のなさに眩暈がしそうだ。あれだけのことをしたのに、彼女は本気でそうするつもりだ。

「女苑と向きあって、私は分かりました。
 私とあなたは似ていますが、逆のところもあります。我々は悪徳に不快感をおぼえますが、あなたは道徳に不快感をおぼえる。それがあなたの定めだし、それがあなたの正常」

 聖は率直だった。それは非難のようにも聞こえるが、にごされるよりはありがたい。尤もそんなことは知っていので、それは単に事実を確認したに過ぎない。
 その先の言葉が欲しかった。自分は如何に“助かる”のだ?

「私はどうするべきなの」
「あなたの悪徳を殺す、それしかないでしょう」
「それは……星さんのように葛藤しろと?」

 そこでナズーリンが口を挟む。

「それとはちがう。人間には々々の、妖怪には々々の、幽霊には々々の、助けかたがある。
 神さまなりのやりかたが必要なんだ。そして私たちはそれを知った」

 “知った”とは……どう言うことなのだろう?

「先に行っておくとそのやりかたは“ぶっとんで”いるし、君は死ぬかもしれないぞ。それでも聞くかい?」

 唾を飲んだ。死ぬかもしれないとは、中々に物騒なことを言う。
 だが、もちろん退きさがりはしない。
 覚悟はすでにできていた。

「奪うのは飽きた」
「教えよう」

 そしてナズーリンはそれを伝えた。

「神話に於いて。神さまは……神さまを産みだすことができる」




《私は妹のためにそれをふたりに打ちあけたのだ》




「ところで聖さんとナズーリンさんは神話を知っていますか? あれには神さまが……神さまを産みだす。そんな場面が頻繁に書かれているんです。
 どうして急にそんなことを言うのかって? 私は別にふざけていない。大切な妹のこれからについて、話しているのだから……。
 神話で天照大神と須佐男神が争うときにやっているでしょう。神さまは自分の持ちものからでさえ、神さまを産みだせるのですよ。ほかにも顔面を洗うときとかね……。
 それで……私は思うんです。神さまがそんな御業を使えるのは、孤独が怖ろしかったからじゃないかと。そうでしょう? 最初の神さまは周りに誰もいないから、孤独だったはずですよ。
 孤独は怖ろしい。孤独の中で時の流れは遅くなる。一秒が百秒にも千秒にも引きのばされる。退屈にも耐えがたい。地平線が見えないような、無気力とせつなさ。神経は身内を求めて、体を這いだす。私のようにきらわれていても、独りはなおも怖ろしい。
 神さまはアメーバの親戚なのかもね……アメーバってのは、外の生きものです……分裂して、増えてゆく……でも神さまはアメーバよりも上等な生きものですよ。分裂の過程でさまざまなことができるでしょう……例を挙げるなら、自分の不要なところを、押しつけたりすることも……須佐男が泣きむしだったのも、そんな部分を押しつけられたからでしょうねえ……」




【第十六の空想】




 鉄道草は言葉を返せない。
 それぞれの言葉の意味は分かるのだが、文章の意図が理解できないのだ。
 また冗談だろうか? ……表情にからかいはない。ナズーリンは真剣に自分を見つめている。

「それは……どう言う?」
「君は神さまだ。神話と同じことができるなら、その御業で君の中の悪徳を引きずりだし、殺すことができるかもしれない。形而上のことではなく、物理的に徹底的に」
「待ってよ! それは本当に、意味が分からない……」
「私は“まじ”で言ってる……本気だ!」

 焦ってしまう。なるほど……たしかに“ぶっとんで”いる……地球の裏側へ飛べるくらい。あまりに突拍子もなさすぎる。
 鉄道草は言いよどむ。

「その……」
「うじうじとするな! できないとは言わせないぞ、一輪の腹を刺しておいて!」

 その激昂におどろかされる。ナズーリンの無愛想な皮下にある、仲間意識が露出したのだ。誰もが聖のように寛容なわけがない。冷静に見えて、内心では憤っていたのだ。

「変わりたいんだろ、やさしくなるんだろ! なら意地でもやれ。君も神さまのはしくれなら、それを我々に見せてみろ! 自分の一部でも殺しつくしてみせろ!」
「……ごめん」

 今度はナズーリンがおどろかされた。鉄道草が素直に謝るとは、思ってもいなかったのである。

「君は……謝れるのか」
「今は」

 鉄道草は改めて、考えなおしてみるのだった。
 そしてナズーリンの提案を……できると思った。一見すると滅茶苦茶な理屈に聞こえるのだが、ふしぎとできないとは思えないのだ。その行為はおそらく、鳥が空を飛ぶように、当たりまえにできるだろう。
 それと分かった。
 それは、理屈ではない。
 それは、神さまだからである。
 聖が言う。

「女苑にできるのは何かを奪うことだけです。それなら奪ってきなさい。そして勝ってきなさい、これからの自分を導くために。それまで待っていますから」

 自分は神さまだ。
 だが若造で、中途半端だ。
 だから……正直にやろう……正直に。

「すぐにやろう」
「みんなと話してからにしませんか?」
「……とても顔を会わせられない」



 ナズーリンと外に出て、倉へ向かった。
 雪は“もうれつ”だった。前が見えない。まるで自分の行くさきを暗示しているようだ。おそらく大勢にとって、その暗示どおりに、自分はどこかに消えるべきなのだ。それが大勢の最良になる。
 それでも生きることだけは、もう譲れなくなってしまった。都合がよすぎるのも分かっている。大勢を陥れてきた、疫病神の分際で……だが他者を苦しめ、搾取してきたとして、それでも生きたい……もちろん地獄には行ってやるから……生きることだけは、望ませてほしいのだ。
 倉についた。風はすさまじい。屋根の上でばたつく、荒布の音。あれは修理のときのやつだ。しっかりと張りつけたのだろうに、今にも吹きとばされてしまいそうだ。旗のようだと思う。戦争の合図に、旗はひらめく。

「私が倉にはいったら、鍵をしてほしいの。がっちりと」
「正気か?」
「もういやなの、逃げるのは」

 鉄道草は宣言すると、倉の中へ消えてゆく。
 倉がとじられたあと、ナズーリンは呟いた。

「神さまは……神さまを産みだすことができる。
 それを君の姉が教えてくれたと……君が知ったら、どう思うかな?」



 倉には闇が充満していた。
 啖呵を切ったが正直なところ、不安がつのる。
 神話をまねる……それで悪霊がこの身を這いだしてくれるのか? ……弱気になっている。心の土台が崩れはじめたとき、敗北が忍びよってくるのだ。長年の経験で知っている。
 外で金属の音がした。おそらく鎖か何かで、扉を縛ったのだ。完璧な鍵。臭気に蓋。
 足音が去ると、ついに独りだ……。
 星をとじこめるために整理していたのか、倉の中はいやに物が少なかった。中心の辺りなど、よくひらけている。ボクシングにでもおあつらえだ。
 ……それにしても妙な感じだ……自分の一部を殺すとは……まず抵抗してくるだろう。少なくとも自分はそうする。
 比喩に於いてなら、自分との争いは、珍しくもない。内的葛藤は誰にでもある。だが自分の一部と殺しあうのは、幻想世間の文脈なのだ。幻想郷だからできること。自分はそのためにこの土地へ導かれてきたのだろうか?
 これから演じるのは、観客なしの孤独な芝居だ。第三者が見ていれば、笑えるにちがいない。笑いたければそうしていろ。そこで笑わないやつにだけ、勝利が手を差しのべるのだ。ポーカーで札が期待できるとき、にやつくやつがどこにいる。
 これから自分を再定義する。強欲の化身の悪霊を殺し、別の生きものに変わるのだ。
 鉄道草は指に残る、いくつかの指輪を、自分の悪徳の象徴とした。それを口にほうりこむと、宝石はふしぎと、飴細工のように砕けた。
 噛みつづけた。しばらく……。
 すると……自分を失ってから……自分の存在を再確認するような、強烈な印象に胸を打たれた。それから体の力が抜け、次の間には蠕動した。むせかえる……嘔吐感。安酒を飲みすぎたあとの気分に襲われる。そして大量の宝石と紙幣と硬貨を吐きだした。この世の強欲の集積物。それを山のように吐きだした。
 そして……それは生きていた。生きていて、意志があった。苦しそうに床で跳びはね、虫のようにのたうったあと、ずるずると一カ所に集まって、自分の似姿になった。まるで宝石と紙幣と貨幣で自分がふちどられているようだ。
 直感した。これが悪霊だ。自分の醜い、悪徳の塊。今の自分の敵対観念。これを殺すのは、自分の生涯と、逆を行くことだ。自分の歴史を殺すことだ。
 どこから話しているのか、悪霊が声をふるわせた。

『世間よ、この手に、搾取されろ。
 その魂を、支配させろ。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ』

 自分の声だった。

「夢の中で会ったやつだろ?」

 終わらせる。

「おまえに勝つ。私は道徳を得る」

 これが最後の決闘だ。




【第十七の空想】




 だが好戦的な態度のわりに、決闘の起こりは不利だった。
 先に殴ってやろうとしたのだが、急に虚脱感に襲われて、拳が動かなかった。その隙に悪霊が先に飛びかかってきて、顔面をぶちのめされてしまう。宝石でふちどられた、悪霊の拳に頬が打たれて、皿を砕くような音をたてた。
 自分の中に備わっていた、あのがつがつとした、渇きと野心が失われていた。悪徳は曲がりなりにも自分の生涯であり、それが自分の腕っぷしの証明でもある。それが失われることの意味に、ようやく気がつかされた。今の自分は悪辣でもなかったが、同時に何者でもなかった。からっぽで、ちっぽけな、歴史の抜けがら……絞りきった、檸檬の皮……自分はこんなにも弱かったのだ! ……それを思いしってしまうのだ。

「う、お、お、お!」

 悪霊が急にしがみついてきて、必死の声が漏れてしまう。相手は急に女苑の口内へ、そのぎらぎらの手を突っこんできた。
 まちがいない……悪霊は自分の中へ戻ろうとしている! ……子供がいたずらをしすぎて、家の外に叩きだされ、そして鍵までされたとき、懸命に戸を叩くように。

『世間よ、この手に、搾取されろ!
 その魂を、支配させろ!
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ!』

 悪霊は言う。
 それだけを言う。
 強欲な泥色の詩。
 声の調子は罵声に近く、同時に悲痛でもあった。それはうらぎりを告発していた。
 無理もない。これまで悪霊は自分の想いに水を差す、一方的な加害者に過ぎなかった。だが相手にしてみれば、相手は女苑の悪徳として、何百年も生涯を支えたのに、あまりに個神敵な理由のため、一方的にすべての罪悪を押しつけられ、捨てられようとしているのだ。それにどれほどの憎悪があることか……そんなふうには考えたこともなかった。
 急に悲しみがこみあげてくる……だが素直に悪霊を体に戻すのは、もちろん受けいれられるわけがない……自分も相手には何百年も、煩わされてきたのだ! ……負けじと相手の手に噛みついてひるませる。
 だが次の間には首根を掴まれ、うしろの壁にぶんなげられた。背中を強打し、空気を吐きだす。
 どうしたことだ? どうするのだ! どうするべきか? 
 疑問が答えを得ようとして、過去と現在と未来の壁をぶちやぶり、頭へ流れこんでくる……争いにならない。これは処刑なのだ。うらぎりへの正当な報復なのだ。

「ちくしょう! 私を殺してしまったら……困るのはおまえのほうなんだぞ!」
『世間よ、この手に、搾取されろ!
 その魂を、支配させろ!
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ!』

 追撃が来た。髪を掴まれて、したたかに顔面を、何度も床に叩きつけられる。
 痛すぎる! ……知らなかった、々らなかった! 誰かに本気で殴られると、こんなにも痛く、苦しかったのだ。そんなことも知らず、誰かを弄んできた。過去が自分に、牙を向いている! ……必死の思いで、体を回転させ、髪をねじきり、手をのがれた。だが悪霊の手が追いすがってくる。その手が左目に突きささり、眼球をかっさらっていった。



 もぎりとられた、一粒の葡萄。
 左の空洞がだくだくと血を涙する。
 耳の裏側で、血流がうるさく、馬鹿のわめき。死のざわめき、地獄のにぎわい。まだ右目が残っているのに、視界がいやにせばまってくる。
 向かいの悪霊が足もとに眼球を投げてきた。

『世間よ、この手に、搾取されろ。
 その魂を、支配させろ。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ』

 挑発された。
 激昂する。自分の眼球を踏みつぶす。
 音。する。水風船の。

「この……できそこないの……黒歴史が!」

 反撃の合図に吠えたてる。
 鏡の格闘。ミラー・マッチ。
 拳が飛びかう。空気がやぶれる。
 だが女苑は劣勢におちいる。また力がはいらない。神経障害の民兵のように、悪霊を前にすると拳が萎えてしまうのだ。
 見ろ。つるぎの歪みや火薬の湿りを、つねにうたがっているような確信のなさ……臆病……猜疑心……弱腰……不安の証拠……ちくしょう! なんのための拳なのだ! ……こう言うときに勝たせるのが、拳の役割だろう……昨日や明日に勝ちたいのではない……まさに今日、この一瞬に……自分は勝ちたい……これからは負けてもかまわない……何度だって、負けてやる……負けるために争うやつがどこにいる……そんなのはあまりに八百長すぎる……。
 何分が経ったのか……次第に殴られるだけの、砂袋になりさがる。全身を這いまわる、血のぬくもり……苦痛が時を引きのばし、静寂は度を超える。
 倒された、起こされた、殴られた。
 倒される、起こされる、殴られる。
 倒されるだろう、起こされるだろう、殴られるだろう。
 同じことの繰りかえし。
 この静寂を敗北と結びつけるのはいやだった。それはあまりに残酷すぎる。だが本当は知っていた。これが報いなのだ。無限に殴られることが報いなのではない。
 今に分かった。悪党に対する、最大級の罰は、道徳の資格を、剥奪することなのだ……それが終身刑と呼ばれるのだ……それが無間地獄の目的なのだ……絶望的な気分になる。
 暗い。
 つめたい。
 かろうじて、幼稚な感想。
 諦念の俯瞰。強がり。
 どうやら瓶の空白を最大の恐怖と位置づけた、自分の感性にまちがいはなかったらしい。
 森羅万象が崩れてゆく。



「女苑……」

 そのときだ。
 声がした。
 誰の声? ……ついに幻聴までする。
 やさしげだ。自分の身を案じている。
 まだ心配してくれるのか……何もかもを奪ってきた、こんな自分を……。



「女苑」

 また聞こえる。
 ……こう言うときは、なんと言うべきなんだっけ?
 挨拶。ちがう。
 自己紹介。ちがう。
 相槌。ちがう。
 一輪が言っていたのは……。



「女苑!」
「……“助けて”くれ!」

 その一声で、倉の扉がぶちやぶられた。
 一輪。水蜜。星。響子。雲山。
 寺のみんなが一斉になだれこんでくる。
 一輪が叫ぶ。

「命蓮寺は門弟を、絶対に見かぎらない!」

 それが聖の掟だった。




【第十八の空想】




 破竹の勢いで、みんなが悪霊に飛びついた。鳥葬でもするように。
 その隙に一輪だけは女苑に駆けより、血まみれの女苑を抱きおこす。
 血がごぼごぼと喉にからんだ。

「一……輪……怪我……」
「自分の心配をしなさいよ!」
「ごめん……私……ごめんねえ……ごめんねえ」

 安堵感。安心感。頭が滅茶苦茶になる。
 泣いてしまう。かまわない。暖かい。触れられているところに春がくる。

「ナズーリンが話してくれたの。どうして話さなかったのよ!」
「みんなを……弄んだから……」
「何よそれ! 馬鹿! 馬鹿、々々、々々、々々! あんたは本当に最低の馬鹿だわ! これまでの悪行で最低!」

 妙な会話に、気がゆるむ。
 落ちついてくると、みんなのほうを見た。
 そこで一方的な虐殺が、繰りひろげられていた。
 水蜜と雲山は複雑そうに、星は怒りも心頭に。
 そして響子までもが、得意ではないだろうに、鬼のような目をしながら、足を繰りだしていた。
 みんなの心中はさまざまだろうが、その力は自分のためだけに使われている。自分のために手を汚している。
 つきなみに、嬉しかった。
 悪霊をふちどっている、宝石や硬貨や紙幣が剥がれ、床でからからと音を鳴らした。
 道徳の奇跡。勧善懲悪。
 もちろん悪霊の死体など、残るはずがないのだから、死亡診断書は必要ない。葬儀をしたところで、好かれていないのだから、誰も席を埋めないのだ。

「……これが悪徳の末路なの?」

 自分の発言が侮辱的なのは理解していた。同情をすることに愛情はあっても、同情をされることには憎悪がある。

「あの末路はあんたの“もしかしたら”よ……なりたいの?」
「そう言うわけじゃない。でも……あれでも自分の歴史なのよ」
「陳腐な言葉だけど」

 一輪は諭す。

「歴史は勝者が創ると言うわ。あんたはあれにすべての罪悪を押しつけて、別の歴史を創りなさい」
「許される?」
「許させる……身内には、甘くてさ」

 やがて蹂躙が終わった。呆気ない。
 自分の悪徳の末路は、多勢無勢になぶりごろされる。そんな単純な結末を向かえたのだ。悪党の結末など、いずれはその程度なのだろう。
 だが誰も示しあわせたように、悪霊を殺しきりはしなかった。みんなの動きが止まり、そして女苑のほうを見た。

「女苑」
「分かってる」

 一輪に催促され、ふらふらと立ち、悪霊へあゆみよる。
 悪霊は床に倒れこみ、それでも未練がましく、拳を握ろうともがくのだ。産まれてはじめて、自分の汚点を尊敬した。その姿勢だけでも価値がある。

『世間よ、この手に、搾取されろ……。
 その魂を、支配させろ……。
 すべての祝日と、日曜日を譲りわたせ……』
「私はおまえに謝らない。
 私のために死んでくれ」

 みんなに頼む。

「墓を……造ってあげてほしい」
「死体は残らない」

 水蜜は幽霊の論法で言った。

「それでもよ」

 悪霊の首を締めあげる。息の有無はどうでもよかった。これはそう言う、儀式なのである。
 女苑は“それ”を殺し、そして歴史を失った。
 今の彼女は何者でもない。何もないのだ。
 すでにからっぽの、悪徳の抜けがら……だが皮肉にも空白を埋めなおす、その義務が女苑を歩かせるだろう。
 自分は今、魂のあるじ。もう誰にも煩わされない。手を打ちならし、快活に布告しろ。すべての悪徳の対極に辿りついたのだ。
 女苑はもう、悪党ではない。
 疫病神はすべてを奪うために産まれてくる。それをできなくなったのなら……自分はどこへ向かってゆくのだろう?

「みんな……ありがとう。さよなら!」



 雪の降る日、ある姉妹が、幻想郷を去った。
 三ヶ月も続いた、豪雪が降りやんだ直後だった。
 人間の失踪なら、それほど珍しいわけではない。人間が村八分にされると人里を出て、妖怪に喰らわれることもあるし、子供の失踪などは神さまや天狗に見そめられ、連れさられてしまうのが事件の真相であると言う。
 しかし今回の場合は事情がちがう。姉妹は神さまだったのである。
 人間ならまだしも、神さまの失踪など、聞いたことがない。
 神さまの失踪となると、信奉者が発見に奔走しそうに思われるが、そう言うことにもならなかった。姉妹がきらわれていたからである。
 姉のほうはいるだけで不幸の種をばらまいたし、妹のほうは何かを奪わずにはいられないと言う、醜悪な体質を持っていたのだった。だから姉妹の行方が別に気にされるわけはなく、むしろ失踪をよろこばれたはずである。
 そして……やがて時が経ってしまえば、大勢の記憶からも忘れられて、歴史のかなたに消えてしまうのだろう。




第四部 モラル・ノートの脱稿




【現実世間】




       誰も自分の始まりを知ってくれない。
      誰も自分の終わりを知ってくれない。
     だが旅が始まり。
    夢は終わる。
   旅は一生ではないし。
 一生は夢ではない。



「おはよう」

 まだ見えている、右目を覚ました。
 迂遠な道を右へ左へねじまがり、ついに電車が終着駅へ来たようだ。やはり外は雪景色。すべてが虚無の地平線。

「夢を見ていた」

 まだ夢の中にいるような浮遊感。これは本当に現実なのだろうか? だが過去はあとずさり、頭をひやかしてくる。
 この場所は幻想郷ではない。

「しあわせな……長い、夢を」

 みんな……今ごろ……どうしているのだろう。

「幻想郷はたのしいところだった……みんな……やさしかったなあ」

 まだ間にあう。席に座っていろ。やりすごすのだ。電車は帰ってくれるはずだ。
 自分は寺に戻るだろう。みんなは呆れながらも受けいれてくれる。
 大輪と雲に酒を振るまい、幽霊と鼠に皮肉で挑もう。
 虎にはおみやげに肉でも勝ってかえろうか。
 そう言えば……山彦にギターもせがまれていたっけ。
 聖者はどんなふうに自分を迎えてくれるだろう。

「おまえは帰れ」

 貧乏草は言う。彼女は弱い。女苑のように宿命には立ちむかえない。
 だから独りにはできないのだ。

「誰かに助けられたのなら、誰かを助けなければならない。私たちはいつまでも一緒」
「おまえは変わらないね」

 そうとも……自分は何も変わっていない。
 産まれてきた。すべてを持って。

「行こう」

 駅を出ると“歩行者用”の線路が伸びていた。
 線路は雪原の果てに向かっている。
 歩きだした。ふたりぼっちで。
 いそげ。雪は絶対に止まってはくれない。
 それは別に残酷ではない。美景は生命を考慮しない。それが冬の誠実さだ。死の領域であることを、恥じていないだけなのだ。
 だが自分たちは別に死にたくて、果てへ歩いているのではない。
 貧乏草はふるえていた。
 自分もそうだ。
 こわかった。



 歩いた。稀に泣いていた。歩い
 た。稀に癇癪を起こし、貧乏草
 を蔑んだ。歩いた。罪悪感で泣
 いた。歩いた。ギターを引きな
 がら。歩いた。手の感覚がなく
 なって。歩いた。ギターは捨て
 ない。歩いた。足の感覚がなく
 なって。歩いた。ギターを口で
 引き。歩いた。時の感覚がなく
 なって。倒れた。果てにいた。



 空は曇天。災害は雪。動けない。
 雪が体を埋めてゆく。
 天は、我々に興味などない。
 天は、道徳と不道徳を考慮しない。
 天は、黙々と降るだけである。

「見たい……」

 女苑は呟く。

「腕輪……同じ……色」

 まっくらの中、きらきらの星、メッキの光を。
 目の前にかざしてくれた。
 宝石よりも美しい。姉妹のつながり。そんな気がする。それで充分。
 終わりぎわにひとつの疑問が、自分の頭の中に浮かんだ。

「神話に於いて」

 鉄道草。ヒメジョオンの花の蔑称。

「神さまは……神さまを産みだすことができる」

 北アメリカに原種がある。
 明治時代の初頭に移入。

「私を……創ったのは……」

 要注意外来生物。

「いや……かまわない。産まれとか……意味とか……そう言うのは」

 帰化植物。
 日光をこのむ。

「私と一緒なら……何も寂しくないでしょう?」

 線路の周りに群生する。

「あーーあ……フフ……つかれた」

 多種を征服する。
 頑丈でしぶとい。

「満足した。
 もう……なーーんにも要らないや」

 だが納得できないこともある。
 天は、我々に興味などない。
 天は、道徳と不道徳に興味などない。
 もちろん天に義務はない。それでも不条理に思うのだ。どうして天は何もしないくせに、我々を見おろしているのだろう。
 あまりにも不条理だし、あまりにも不当だ。



 だから……これだけは……言わせて……くれ……。



 女苑は今ごろ、どうしてるかな? ……私と同じで幽霊にでもなっているんじゃない? ……縁起でもない……幽霊ですから……雲山も言ってやってよ……。



 星さんはギターを知っていますか……ギター? ……おしゃれなかたちの琵琶ってことにしておきましょうか……ふん? ……女苑さんが聴かせてくれたんです。音楽はすばらしいんですよ……私も何かしてみようかしら ……女苑さんが戻ってきたら、バンドでもやりますか? ……“ばんど”? ……そこからですか……。



 あれが戻ってくると思うかい? ……思いますよ……どうして? ……私がそのように決めたからです ……君は本当に滅茶苦茶だな……のたれじんでいたら、心臓をぶんなぐって、起こしてやりますよ……笑える……何も心配は要りませんよ。ほら……。

「こんなところに冬にも負けない、ヒメジョオンの花が咲いている」

 聖“たち”は天を見る。
 不適に笑え。
 気ちがいのように言ってやるのだ。



あっかんべえーーだ!




公道を水のように、廉直を川のように(Greed Incarnation Ghost)
アモス書 第五章 二十四節
公道を水のように、廉直を川のように流れさせよ
ドクター・ヴィオラ
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コメント



0.280簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白く楽しめました
2.100めそふらん削除
本当に、読み終わった後に生まれる余韻がもの悲しくてそれでいて心地良くて、兎に角読み応えがあって小説を読んだんだっていう感情に満たされてます。
この作品で主に取り上げられていたのは善と悪に揺れ動く女苑の葛藤でした。生まれついての自分の一部が何百年の間彼女を疫病神として成り立たせていて、彼女はそれを受け入れていた。それでも女苑は悪そのものでは無かった訳ですから、悪党であっても罪悪感を感じてしまう程に悪に染まっていた訳ではなかった。愉悦と後悔と諦観等を一身に引き受ける女苑の姿、この描写が本当に心を打たれました。
そんな妹と対称的に姉が持つ芯は揺れ動く事がないほどに強かったのが印象的でした。自らは変われない、変わる事はできないからと諦観、決意の様なものを持っていて、それでも孤独には耐えられないからこそ妹を求める紫苑の姿に悲痛な思いをせざるを得ませんでした。
そんな姉妹の愛というか形容し難い絆の様なものが今作では本当に複雑なものとして書かれていたのが良かったです。一方では悪徳への道連れとして、また一方では暖かみを感じされるものとして、この変わり様に深く感動しました。
本当に面白く素晴らしいお話でした。有難う御座います。
4.100名前が無い程度の能力削除
悪徳は悪徳なりに善性と戦っているのだと、女苑の葛藤が伝わってきました。憐憫に浸らないよう、決別を図る姿が勇ましかったです。それと、聖の善性に此処まで恐怖を覚えたのは初めてでした。最初から最後まで面白かったです。
6.100転箸 笑削除
もう、ひたすら面白く、感動しました。
7.100水十九石削除
作中の女苑は不義理でも不道徳でもなく、ただ孤独に慣れすぎただけの様に描かれていた気がしました。
鉄火場でギラギラした瞳を覗かせようが悪行を行おうが、悪徳を悪と断じずにはいられないそれが彼女にはあって。恩を作ればしっかり返すが、肉親を除く他人との距離感が構築できていないだけ。響子を手懐けた舎弟の様に扱い一輪を善良と評してなお、彼女達に気を許す事すらままならず。そんな彼女には命蓮寺のアットホームさはさぞ滑稽な馴れ合いに映ったのかもしれません。
ただ、これは回想で語られた戦時中の道徳すらも欠如したかの様な姿とは全然違う風にも思わされます。自制心の効かない収奪への焦り、自己嫌悪、それらを知ってしまって悩み傷付き諦観に走ってしまったのか。本来であれば疫病神然としていたその器が欠けて、その本質が零れ出ていってしまったのか。
全てを投げ打って『助けて』の一言さえ出せば良いのに、未だに自らの内で燃え盛る悪徳と後悔が邪魔をする様はただただ辛い。これこそがニヒリズムでアンチノミーで、この物語での女苑の本質の様に感じてしまいます。

本来の姿。それは一つのキーワードであったのでしょう。星の野生と仏門、水蜜の本能と宿命、引っ剥がそうとした聖の本性。では女苑の本来の姿とは如何程なのか。憑依華本編で語られた金銭の収奪への欲求か、質素な生活への渇望か。
欲望に身を委ねるのを厭わない破滅主義を嚮導しようとする様。星にそれを見透かされて宥められ感情の行き場を失う様。激情に身を駆られて妖獣の鼻っ端を殴り飛ばした自分への後悔を抱ける優しさもあるのに、彼女もまた本能に逆らえない。
本能に逆らっていないと強気でせせら笑って悪徳で道徳に敵愾心を向けても、裏では自分の感情に整理を付けれていない様は一貫して痛々しく描かれていてまたそこが良く。彼女の孤独であろうとする口惜しさはその感情描写や雪に対する感情や薄ら寒さも相まって、一周回って美徳だったのかもと思えさえします。
寧ろこの葛藤が無事終わってくれと願っても、最大の敵は一番距離感の近い肉親もとい悪徳であったというのが実に皮肉。何をしても報われない、それを知っても止められない、これが本当の疫病神と貧乏神の関係性とでも言いたげに。
最大の悪徳に身を委ねている最中に『ツイている』なんて言うのもおかしな話で、でも結局報われないのが疫病神の宿命であるならばと考えると女苑へのやり場の無い悲しみに埋もれそうでした。

『何が憎いって? おまえがすべての悪徳の敵だからだ!』から始まる聖への啖呵切り。この大きな山場が、今まで逡巡してきた女苑の地の文を見てきたからこそ、とても虚勢にしか見えないというのは残酷な話です。
悪徳に身を委ねても、今の彼女では決して戦時中のソレには到底成り得ないのだと読者視点では知ってしまっている。だからこそ、聖の見せた激怒とは別方面の本性に身が竦まされるこの構成には、女苑の夢描いた三文芝居以上の素晴らしさがありました。
聖こそが今宵一番飄逸で一番エゴイストだと言わんばかりのその聖者面ときたら!
臓腑を腹に戻せと命令する様も根底全てが女苑を助ける事に終始一貫している、そんな力強さ。道徳こそが悪徳の光だと思わせんばかりの、同族嫌悪とはこれこの事だと主張させてくる姿にグッと惹かれます。
『本当に女苑は君の鏡だな』『そうでしょう?』の流れ。大好き。
だからこその女苑の変化は仮に彼女の全てが失われようとも手放しで喜んでしまえる程でした。なんかもうズルいですよ。『助けて』の一言で全てが変われると、手を差し延べてくれる善性に身を委ねられると、そう思える様になった姿。聖の一点の曇りの無い廉直さも全てはこの為にあったのだと思えるぐらいに。女苑を助けてくれる存在がこれだけ居たのだと当の本人に突き付ける様は爽快の一言でしょう。
それに、如何に強欲の悪霊の化身を引き剥がそうと疫病神と貧乏神の関係性は唯一の肉親以上の物で、命蓮寺の面々とはまた違った距離感がある。そこも良い。

第一節の『雪は不道徳を埋めてくれる』第四節の『雪は醜いことを隠してしまう』といった積もる雪への描写も、これからを歩んでいく二人にはとてもお似合いで、後々になってそういった将来性全てに期待が持てるようになる感触がありました。
自分の身の丈に似合わない程の葛藤を経て成長する女苑の姿には愛、それも人肌ぐらいの温もりがあって欲しいもの。だから雪を延々と降らせ続ける空や天にはあっかんべえと言ってやるのがお似合いなのでしょう。大好き。
全ての悪徳にてけらけらと笑い飛ばして欲しい、そんな読後感が後を支配する構成は女苑が疫病神という憑き物を落として幸せになれるのかなとさえ思わせてくれます。悪徳と愛が複雑怪奇に絡み合いながらも最終的に落とし処を得れたのだから、きっとそうなのでしょうと。
純粋に悩み悩む様をどうにかして解決してくれるこの話は感情の起伏が絶えず表れていて読み応えがありました。長くとも決してブレない面白さ。ありがとうございました。
8.100名前が無い程度の能力削除
かなり攻めた内容でした
多分救われたんですかね
10.100れどうど(レッドウッド)削除
悪徳の権化として生まれた女苑が善性を得てしまった時点で、副題の悪霊が好まれざるエゴとして吐き出されるのは決まっていて、結局はもっと強烈なエゴに助けを求められるようになるまでの問題だったのだろうなと感じました。

貧乏草が降らせる雪もきっといつか、本来咲くべき春を迎えるのだと信じます。
11.100疾楓迅蕾削除
女苑と寺の面子の関わり方がよかったです。
星の、飢えると暴れてしまう性と、それを承知の上で付き合っている皆という構図が(納得行っていないムラサ含め)、とてもやさしく描かれているなと感じました。
地の文のテンポがよく、会話も写実的で、映画的な光景を思い浮かべながら楽しく読めました。濃密であっというまの時間でした。よかったです。
14.100ヘンプ削除
ひとつ、救われるための話でした。女苑がしたことは消えないけどいつか、寺の人たちと過ごせば変われるんだろうなと思いました。