古明地こいしの死を最初に語ったのはさとり様だった。きっかけはさとり様の部屋に置いてあった一枚の写真だった。写真の少女はカメラの方を向き、いたずらっぽく笑っていた。黄色いリボンのついた黒い帽子をかぶっており、その下からは緩くカールした緑の髪が重力に従って伸びていた。そして彼女の体の周りにはさとり様と同じようにサードアイがまとわりついていた。古い写真なので色は後から付け足されたものらしいが、職人の仕事だというのだから少女の姿は実際とさほど変わりは無いのだろう。あたいはその少女のことが気になり、さとり様にその写真について尋ねた。そして、さとり様はすぐにこの少女が死んでしまった妹であることを明かしたのである。普通、身内の死を語るときはあまり良い顔をしないものだと思っていたが、さとり様は違った。終始穏やかな顔で、全てを話してみせたのである。こいしが、覚り妖怪として未熟だった彼女が他人と触れ合い、忌避され、自死するまで。それら全てを語り終えても、さとり様は顔色一つ変えなかった。
嫌われた理由を、こいしはまず自身の読心能力のせいにしたらしい。自身の考えていることが相手に筒抜けなのにいい気がしないのも当然だろう。彼女の考えはおかしくなかった。しかし、その行動には明らかに問題があった。彼女は、サードアイを潰すという決断をした。とても正気の沙汰とは思えない。さらにサードアイを潰し終えた彼女はすぐさま昔の友人のところに赴き、傷ついたそれを差し出すとこう言ったらしい。“これでもう大丈夫でしょう?”相手の嫌悪の感情は、読心能力を失ったこいしでも容易に感じ取れただろう。それからこいしが自室で首を吊るまでは一週間とかからなかったらしい。これが今からおおよそ百年前のベルリンという外の街での出来事である。
なぜ今さらそんな昔の話をしたのかというと、つい最近ある問題が発生したからである。あの日、ちょっとしたトラブル(と言っても解決までまるまる三日はかかったが)を処理し終えたあたいはさとり様に報告するために書斎へ向かっていた。五日間の徹夜での仕事と二日間の休暇のあとに起こった事件だったので、さとり様に会うのは十日ぶりだった。
部屋の前に立ち、ノックをしようと手を扉に近づけたが、どうやらすでに読まれていたらしく、「入りなさい」という声が中から聞こえてきた。あたいは上げた手を下ろし、ドアを開けた。
「十日ぶりの主の声はいかがだったかしら」
ドアが開くとともにさとり様が話しかけてきた。
「それはもう、懐かしさで涙が出てきましたよ」
「私にはその涙があくびから来ているようにも見えるけど」
あたいがその言葉に苦笑いすると、さとり様もニッコリと笑った。
「お疲れさま」
それからさとり様は紅茶を勧めてきたので、あたいは棚からティーカップを取り出し、ポットの中身を注いだ。淹れてから幾らか時間がたっているらしく紅茶は少し冷めていたが、猫舌には丁度いい温度だった。
「脱走した怨霊を捕まえるのは大変だったでしょう」
「はい。それにドアが壊れているときましたからね。怨霊たちの中に少しとはいえ物分りの良いのがいて助かりましたよ」
「でも、良いこともあったようね」
振り向くとさとり様のサードアイがじっとこちらを見つめていた。
「読みましたね?」
「えぇ。それに私達覚りは目を向けなくても大体は分かるのよ」
「なるほど。とすると、さとり様も人が悪いですね」
「と言うと?」
「見えてるんだったら聞く必要もないでしょう?あたいが喋る手間がかからないじゃないですか」
「確かにそれもそうだけど……」
さとり様はカップに残っていた紅茶を一気に飲んでフゥと息を吐いた。それから
「けど、喋ってもらったほうが分かりやすいのよ。さっきも言ったけど、ちゃんと見ないと深くまでは分からないし、相手が思っていることをどこまで話すかで、相手の精神状態も分かったりするものなのよ」
「そうですか。ではあたいは今精神状態が非常によろしいので全て話させていただきますが、あたいは今の話を聞いてさとり様が飼い主で良かったと心から喜んでおります」
「どうもありがとう」
言ってしまったあとで、あたいは脳髄の奥底からこちらの様子をうかがっている恥ずかしさをなんとか押し戻すため、紅茶を一気にあおいだ。一息ついて目を下ろすとさとり様がこちらを向いてニヤニヤしていた。
「やっぱり後悔しているかもしれません」
カップを机に置きながら言った。
「それで、良いことっていうのは?」
「おそらく読めてるでしょうが、先程の話からすると喋らなければならないようですね」
「そのとおり」
「では、さとり様が知らないということにして話させていただきます。良いこと、と言っても些細だしなんというか気恥ずかしいことなんですが、あたいは我が家で休めるのが楽しみなんですよ。やはり、ここの方が落ち着くんです」
「良いことね。なにも恥ずかしがる必要はないわ」
「えぇ、何しろすでにバレてるわけですからね」
苦笑いのような微笑みのような、そんな笑みをさとり様は浮かべていた。
「そういえば、私にもあったのよ」
「良いことがですか?」
さとり様は静かに頷いた。この時点で、あたいは無邪気な期待を胸に抱いていたのを覚えている。そして、さとり様が次のように話したこともまた、しっかりと覚えているのである。
「実はね、あなたが私に会いに来れなかった間に、こいしが帰ってきたのよ」
神に誓って言うが、その時のあたいは精神状態は非常に良好であり、薬物はもちろんアルコールの一滴も口に含んでいなかった。確かに言ったのである。"こいしが帰ってきた"と。カップを机に置いておいたのはファインプレーと言えるだろう。
あたいは動揺が表面に現れないようゆっくりと、静かに深呼吸し、さとり様の方を向いた。無論、その時あたいの中を目まぐるしく飛び回っていた感情は全てさとり様に筒抜けだっただろうが、きっとあたいの仕草から精神状態を汲み取ってくれただろう。
「へぇ、こいし様が。それは良かったですね」
そのあと、あたいはさとり様と二、三言葉を交わすとできるだけ落ち着いて、しかし足早に部屋を出ていった。部屋に戻ったあたいは混乱と疲れを盾にしてシャワーも浴びずにベッドに飛び込み、できるだけ何も考えないよう努めながら眠りに落ちた。
翌朝シャワー室に向かって廊下を歩いていると、向こう側から若干小柄な女性が歩いてきた。あたいの親友、霊烏路空である。見た目の割に名前が難しいため、仲間内ではお空という可愛らしい愛称で呼ばれている。
「あ、お燐!おはよう!」
「あぁおはよう」
駆け寄ってきたお空を柔らかくキャッチし、頭を彼女の長い髪に沿って撫でた。すると気持ち良さそうに息を吐くので非常に愛らしい。と、突然お空が顔を上げてこちらを見てきた。どうしたものかと思ったが答えは案外早く見つかってしまった。
「……臭うかい、お空?」
「ちょっぴり」
「すまないねぇ、昨日はシャワーを浴びるのを忘れていたもんだから……」
「お燐も疲れてたんでしょ?なら仕方ないよ。それに最初の方は私のせいだったし……」
最初の方、というのは前に述べた五日間の徹夜の理由である事故のことだ。その事故を自分が引き起こしてしまったとお空は言っているのである。しかし、実際は彼女の同僚が原因だった。小柄な上に力がないお空は一部の同僚から執拗な嫌がらせを受けており、その時は重い荷物を運んでいたお空になんと足をかけたのである。その後の連鎖的に発生した大惨事については省略するとして、彼らには計三つの大きなたんこぶと相応の罰が与えられた。しかし厄介なことに彼らは何があっても面白い遊び道具のためなら絶対に諦めず、永久的な処分を下そうとしても他に行き場所がないためにどうしようもないのである。そのため状況は一向に良くならず、お空は口癖のように力がほしいと言っていた。
「気にすることはないさ。悪いのはアイツらだよ」
「うん……でも私にもうちょっと力があったらなぁ」
「お空は今のままでも大丈夫。困ったときはあたいが助けるよ」
「でも私がこんなだからお燐はシャワーも浴びれないほど疲れてしまうんでしょ?」
「あ、いや、疲れてたってだけでもないんだけどね」
「そうなの?」
「実はちょっとばかし厄介なことがあってね」
とここでこれをお空に話しても良いのか不安になり言うのをためらったが、お空の顔を見るとまぁ真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていたので話さざるを得なかった。
「さとり様が自分の妹に合ったとかなんとか言っててね」
「あ、こいし様のことでしょ?」
「知ってるのかい?」
「うん、さとり様がね、この前、お燐が居なかったときかな、そのときにこいし様が帰ってきたって。でも今は地底を歩き回ってるみたいだけどね」
この様子だとさとり様は地霊殿内のあらゆる人物にこの話をしているのだろう。一晩眠ってあれは冗談だったのではという考えも浮かんでいたが、それは違うらしい。さとり様は一体どうしてしまったのか。
「それで、こいし様のことがどうかしたの?」
「……いや、急に聞かされてびっくりしたってだけさ」
「ふぅん」
お空は腑に落ちないというような顔をしていたが、あたいは半ば強引ながらも時間を理由にお空と別れた。その後予定通りシャワーを浴びたが、気持ちはよかったものの心が落ち着くことは無かった。
その後一週間は特に何事もなく過ごすことができ、こいしのことについても忘れかけていたのだが、そんなときにまたこいしの話題があがることとなった。実際にこいしと遭遇した人物が存在する。そう話したのはお空だった。
「それは本当かい?」
「うん、友達が言ってたよ。嘘をつくような子じゃないし、多分本当だと思うけどなぁ」
もしもこのことが本当であるというのならば、事態はより一層深刻なものとなる。つまり、あたいがこいしを個人であると勝手に思い込んでいた狂人ということになってしまうのである。しかし、だとすると不思議な点もある。この百年間のこいしの行方である。こいしが生きていたのならば、はたして彼女は今までどこで何をしていたのか。あたいはさとり様から話を聞くまでこいしの存在そのものを知らなかった。地底だけでなく地上にもよく赴いていたのに一度たりとも姿を見たり、話を聞いたりしたことがなかったのだ。やはりこれは不思議なことである。いやしかしあたいが変になってしまったというのならこれも説明がつくし、待てよそれでも他の人は――。
「ねぇ、どうしたの?」
突然お空の声が聞こえ、そこでようやく自分がお空と話していたことを思い出した。
「お燐、やっぱり変だよ。何か悩み事があるんでしょ?」
「厶……でもこれはデリケートな問題だから……」
「お燐だって壊れかけじゃない。話なよ。大丈夫、私これで口は硬いんだから」
正直、お空のこの言葉には不安しかなかった。あたいの経験上、自身のことを口が硬いと威張って実際にそのとおりである人はまずいない。しかしこのまま黙っておいてお空を変に心配させてしまうのもいかがなものかと思えたので、とうとう本当のことを話すことにした。
「え、こいし様が!?死んじゃってたの!?」
一通り話し終えるとお空はやはり大声を出して驚いた。
「そんな大声出さないでおくれよ、色々とむつかしい話なんだからさ」
お空は慌てて口を手で覆い、息を止めたままコクコクと二度頷いた。それからゆっくりと手をはなしニ、三回静かに呼吸すると再び喋りだした。
「そ、それじゃあみんなが見たって言ってるのは?さとり様はどうして帰ってきたって?」
「それが分からないから困ってるんだよねぇ」
「……お燐が聞き間違えたとか?」
「何をどう聞き間違えるんだい」
「えーと、例えばさ、死んだってところが実は居なくなっちゃった、だったとか。記憶ってよく変わるでしょ。お燐もきっとそうなんだよ」
お空にだけは言われたくないことを言われてしまった。がしかし、その可能性も捨てきれないだろう。
「そうかもしれないけど……なんだかそれはそれで嫌だね」
一連の出来事のおかげであたいは仕事では特にトラブルもないのにも関わらず、ひどく疲れていた。というわけでその疲れを癒すため、自室を忍び出し、行きつけの居酒屋へ向かった。
店の前に立つと、懐かしさと喜びの混じった感情が湧き上がってきた。それもそのはず、実のところあたいがこの店に来るのはおおよそ二ヶ月ぶりなのである。暖簾をくぐるとこれもまた懐かしい大将の元気な声が聞こえてきた。
「へい、ィラッシャイ……おぉ、お燐ちゃんじゃないか!いやァよく来たね」
「久しぶり、大将」
あたいは挨拶しながら手前から三番目のカウンターについた。
「はい、お冷とおしぼり。取り敢えずいつものでいいか?」
「うん、頼むよ」
あたいは手を拭いてからお冷に少しだけ口をつけた。それから一息ついていると、二分もしないうちに鮎の塩焼きと冷酒が出てきた。
「さすが大将、作るのが早いね」
「何年この包丁を握ってると思ってんだ。俺ァいわばベテランってやつだよ。それに今日は先に下ごしらえをしておいたからな」
「先に?あたいが来るって知ってたのかい?」
「うんにゃ。だがね、俺のここんところ――」
大将は人差し指でトントンと自分の頭をこつきながらいった。
「ここにいる灰色クンがな、来るんじゃねェのかって言ってたんだよ。まァ直感っつうのかな。そんなとこだ」
「へぇ、不思議なこともあるんだねえ」
しかしこう長く生きているとこういう超自然的なことに遭遇するのも珍しくはないだろう。そもそもあたいだって外に行けばその“超自然”そのものになる。そう考えながら徳利の中身をおちょこに注ぎ、一気にあおいだ。
「しかし、最近来れなかったのはどうしてだい。忙しかったってだけでもないだろ」
「ウン、ちょっとばかし疲れてたのさ。心身ともに、疲労困憊。ここんとこ仕事の量が多いし、お空へのいじめはますます酷くなるし。まぁ、ここに来たのも疲れてるからなんだけどね」
「疲れてたってことはやっぱりアレのこともあるんだろ、あの例の古明地なにがしって娘の噂」
一瞬、なぜ大将がそのことを知っているのかと驚いたがすぐにこの噂が広まっているということを思い出した。
「ん、こいし様のことかい?そりゃ、身内の問題でもあるしね。それに状況がよく掴めてないっていうのもあるし」
「そうだろうな。おかげさまで街のモンはいくつも仮説を作ってはそいつらを戦わせてるよ」
「仮説?」
大将はコクンと大きく頷いた。
「少し前までは良かったんだけどねェ、一ヶ月くらい前かな、そんくらいんときに“こいしは死んでいるとさとり様が言っていたらしい”なんて噂が広まりだしてね」
「そんな噂まで出てきたのかい、驚いたね」
「あァ、もっともだ」
広めたのはお空か、もしくはあの話を聞いていた誰かだろう。お空の声は大きかったから誰かの耳に入ってもおかしくはない。まぁ、過ぎたものはしょうがないだろう。
「で、どんなのがあるんだい?」
「これがな、大きく三つに分かれてんだ。うち二つは鏡みたいなモンでね、さとり様に関する噂が本当かどうかってことで争ってんだ。で、残りの一つが変わっててね、さとり様の噂は本当だって言ってるんだがね、同時にこいしは生きてるとも言ってんだよ」
「てことは、そいつらはさとり様は乱心だと思ってるのかい?」
「うんにゃ、それが違うらしくてね、奴ら素っ頓狂な説を立ててんだ。そいつらが言うにはこいしは死んだんじゃなくて失踪したってェらしい。その原因がこいしが心を閉ざしたことにあるって話だ。」
「っていうと?」
「こいしは嫌われすぎて心を閉ざし、自我が無くなって他人から認識されなくなったんだとよ。俺ァあんまし頭が良くねェからなんで心を閉ざしたらそうなるのかが良く分からねェんだけどよ、そいつらは真面目な顔して力説してやがったよ。ま、一通り話すと満足した感じでとっとと帰ってったけどな」
「じゃあどうしてさとり様はあんなことを言ったことになってるんだい?」
「そこらへんはなにか事情があったんだろうとしか言ってなかったね。まったく、都合の良い奴らだよ」
「なるほどねぇ……」
あたいはそう呟きながら魚の骨をいじくって残った魚肉をつまみ、徳利をおちょこの上で逆さまにし、それを今度は口の上でひっくり返した。おちょこを机に置くとともに勢いよく息を吐いたが、いつものような開放感は得られなかった。
「おや、食べきったのか。他に何か食べるか?この前新しく"骨酒"ってェのを始めてな、焼いた骨を酒ン中に入れてそいつを飲むんだがこれが旨くてなァ。ほら、おリンちゃんとこのその骨、それで作れるんだけど、飲んでみるかい?」
「そうだねぇ……」
曖昧な返事をしながらこのまま呑んでいたら止まらなくなって悪酔いしてしまうだろうな、などとぼんやり考えていた。しかし、理性の皮をかぶった欲望がここは悪酔いするべきだと内側から小突いてくるので、あたいは先に明日の自分に謝ってから注文した。
「そうだ大将、"川魚の干物"を二つくらい袋に入れてくれないかい?」
「はいよ。帰ってからも呑むつもりかい?」
「いや、これは……まぁ免罪符みたいなものさ」
「なるほどね。じゃァ心置きなく呑んでいきな」
骨酒は予想以上に美味しかった。ずっと抜け殻のようなものだと思っていた骨からこんなにも旨い出汁がとれるとは。しかし、骨に残っていたその旨味までも吸い出してしまったわけだから、残ったものはやはり抜け殻になった。その日の帰りは丑の正刻頃になり、翌朝は昨日の自分に悪態をつきながら干物にしゃぶりついていた。
さて、荒唐無稽な噂までもが地底中を闊歩するようになってしまった今回の騒動だが、とうとう終わりを迎えることとなる。この騒動は真相がわかることによって、つまりあたいがさとり様に真相を聞くことで終わらせることができるのであるが、今まではそこへの一歩が踏み出せなかった。実のところ、あたいは自分の記憶にかなりの自信を持っており、ゆえにさとり様が嘘をついているか、最悪の場合狂ってしまったとしか考えられなかったのである。だから聞きに行く勇気が出なかったのだ。しかし、今や状況は一変してしまった。だから、これからあたいが語るのはこの話のクライマックスである。
お空がいじめられているということは何度か話題に上げただろう。そのいじめがまただんだんと大げさになってきたことも話したはずだ。いつもならあたいが相談役になれるのだが、そのときはあたいも自分のことで精一杯だった。そのせいでお空のメンタルは最悪の状態になっていた。そのため、最初いじめてる奴らが三人とも大怪我を負ったと聞いたときは、お空がとうとうやってしまったのかと思った。だがそれはどうも違うらしかった。そいつらは帽子の少女にやられたと口を揃えて喚いたというのである。その少女の容貌を聞いてみるとこいしのそれとぴったり合致したというのだが、不思議なことに三人はこいしに関する噂を全く知らなかった。それどころか、噂にも含まれていなかった特徴――髪の具合やリボンの結び方――についても証言し、それらは確かに正しい、つまりあたいが見た写真のこいしと完全に一致していたのである。これの意味するところとは、すなわち――古明地こいしは生きているのである。
とするとこの前居酒屋で聞いたあの話は案外正しかったりするのかもしれない。ニ、三疑問点はあるが、最も安全で平和的な説であったため、あたいはそれを信じることにした。何より、これ以上疲れたくなかったのである。これで一件落着とも思えたが、あたいは馬鹿なことに、さとり様が嘘をついた理由を知りたいと思ってしまったのである。もちろんこの安定が崩れてしまう危険があるということも感じ取っていたが、結局それも偉大なる好奇心の前にはなすすべが無かったのである。好奇心は身を滅ぼす。使い古されてしまったこの言葉だが、どうやら正しいから使い古されたようだ。さとり様の部屋へと向かうあたいの足どりは軽く、ある意味で滑稽だった。
「あらお燐じゃない、入りなさい」
いつも通りの手順を済ませてあたいはドアを開けた。
「私用で来るのは久しぶりね」
「えぇ、今日はちょっと聞きたいことがあって」
そこで流石に一瞬質問するのをためらったが、好奇心にまけてしまい
「さとり様は前にこいし様が死んでしまったと話しましたよね?」
ドキドキしながらさとり様の答えを待とうとしたが、その暇もなくすぐに答えが返ってきた。
「えぇ」
驚くほどの即答であり、これはあたいに安心感のようなものを与えた。やはりあたいは狂ってしまってなどいなかったのである。
「しかしそのこいし様が帰ってきたのも事実ですよね。ではなぜあんな嘘をついたんです?」
沈黙。ここにきて、予想外の沈黙である。さとり様は若干うつむいてしまい、なにかを深く考えているようだった。最初は理由を今になって考えているのかと思ったが、その様子はどちらかというと重大な決断、判断のために慎重な審議を行っているようだった。そして、数分の後、とうとう結論にたどり着いたようだった。
「お燐、あなたはこいしは死んでおらず、失踪していたという噂を信じているのよね?」
「そうですが……」
「こいしは死んでいるわ。というより、一度死んだのよ」
衝撃はほんの一瞬、ちょうど雷が雲から地上へと落ちてくるように身体、というよりも脳髄を突き抜けていった。そしてこれも同じく雷のように“しびれ”は長くとどまった。死んだ。死んでいた。しかし一度。一度?どういうことか。古明地こいしは二度死ぬというのか。
「説明するわ」
あたいが考えをまとめるよりも早くさとり様が喋りだした。
「お燐は妖怪がどのようにして存在できているか知っているかしら?」
「どうやってと言われましても……あたいはここにいますよ?」
「えぇあなたはそこにいる。でも、それは自己の認識でしかないでしょう。ヒトにとって自己の認識は大切かもしれないけれど、我々妖怪にとって最も大切なのは他からの認識の方よ。その認識が、私達の身体を作るのよ」
「つまり、他人から認識されることで、妖怪は初めて存在することができるというわけですか?」
「そういうこと」
「でもそうだとしたら存在の前に認識がきてしまいますよ?存在のないものをどう認識しろって言うんです」
「そこは、類稀なる想像力が仕事をしてくれるわ」
そこでさとり様は考えをまとめるためか少し間を置いた。
「その昔、人間は――幻想郷ができるよりももっと昔の人間たちは無知だった。だから、なぜ雷が落ちるのか、なぜ風が吹くのか、なぜ病が流行するのかが分からなかった。そこで妖怪や神様が生まれ、その存在が広く認知されることによってそれらは実体を得ることができたのよ」
「それで、骨組みとなる噂を流して、それを地底の人々の認知で肉付けしたのですね」
「飲み込みが良くて助かるわ」
ここで再び沈黙が訪れたので、あたいは考えを整理することにした。さとり様が流した噂を地底の住人たちが拡散し、多くの住人が認知する。そしてその認知を受けることで、古明地こいしは再び生まれる。とすると、しかし気になることがある。
「こいし様が死んでしまったことは事実なんですよね。では、我々の想像力によって生まれてくるのは古明地こいしに似た何かではないのですか?彼女はもう……この世には存在しないわけですし」
「それは"身体"の問題でしょう?魂はまだ残ってる。だから、私はただそれのために入れ物を造っただけなのよ。私達の認識がこいしの精神に影響しないか?その点は大丈夫よ。精神への影響は微々たるもの。心配はいらないわ。身体は少し変わるかもしれないけど、入れ物として機能すれば大丈夫よ」
「だとしても……」
ふとさとり様から視線を外すと、隣のサードアイが少し動いた気がした。
「心配なの?」
「不安なんですよ」
サードアイの瞳孔が収縮した。
「そのようね」
「こいし様は、自殺したんですよね」
「えぇ」
「愛されないと知ったから、それで生きているのが嫌になったから」
「そうよ」
「では、彼女は生き返りたいと思っているのですか?」
「知らないわ」
即答だった。悪びれる様子も見せなかった。
「ならなぜ生き返らせようとするんです?また同じような苦しみを味わうかもしれないじゃないですか。それを押しのけてまでそうする理由が?」
体が火照ってきているのが自分でも分かった。声も、なんとか落ち着かせようとしているものの震え始めていた。さとり様の方はというと、表情どころか眉一つ動かす様子もなかった。さんな様子があたいの心をさらに揺さぶった。
「理由がと訊いているんです、訊いているんですよ!」
「そんなに声を荒らげなくてもちゃんと聞こえてるわよ」
「荒らげないと気がすまない状態なんです分からないんですか!?さとり様が噂を流したおかげで、こいし様はまた百年前と同じ苦しみを、死にたくなるほどの苦痛を味わうかもしれないんですよ?それでもこいし様を生き返らせる、ごもっともな、閻魔様でも唸らせられるような理由があるんですか?」
「……あるわ」
「なんです」
「こいしに謝るためよ」
その時感じたのは納得でも怒りでもなく、脱力感だった。
「こいしがあんなことになってしまったのは私の責任でもある。私が、覚りとしての誇りを捨てられなかったから私はこいしを助けることができなかった。だから、こいしには幸せになってもらう。私が幸せにして見せる」
「そんなの……ただの、さとり様のエゴじゃないですか……結局は自分が気持ちよく眠りたいからだからじゃないですか……!」
「いいえ、こいしのためよ。こいしは愛されることを願った。でも愛されなかった。そしてあろうことか姉である私はそれを放置した。こいしの苦しみは分かっていたはずなのよ。でも見捨てた。”誇り”にばかり気を取られていたせいで、それ以上に大事なものを壊させてしまった。でも今度は壊させない。こいしは二度目の人生を、自身の夢のために生きるのよ」
「そんな綺麗なこと言ったって、本人がどう思ってるかなんてわからないじゃないですか」
「じゃあ、訊いてみる?」
そう言いながらさとり様はゆらりと手を動かし、あたいの後ろの方に注意を促した。まさかと思いつつ振り向くと、一人の少女が静かに立っていた。黄色いリボンのついた大きな黒い帽子。青みがかった緑の髪の毛。薔薇模様のスカート。そして――紫色のサードアイ。その瞳は閉じていたが、確かにサードアイだった。彼女は、こいしは静かに微笑んでいた。そして、一粒の涙が彼女の頬を滑り落ちていき、音もなく落下していった。ゆっくりと視線をさとり様の方へと移すと、やはり微笑んでいた。そんな二人に挟まれたあたいは、場違いにも気味の悪さと恐怖を感じ、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。そして、突然囁くような声が聞こえてきた。
「ただいま」
それが彼女の最初の言葉だった。こいしの声が聞けてさとり様はさぞご満悦だろうと思い振り返ったが、そこには信じられないという顔をしたさとり様が立っていた。
「どうしたんですか、感動の再会ですよ。もっと喜ばないんですか?」
話しかけてみたがハッキリとした反応は得られず、ただあえぐような声で
「無い」
と何度も繰り返していた。
「無い?何が無いって言うんですか?」
「こころが……こころが、無い……」
さとり様は過ちを犯してしまっていた。認識が精神に影響しないなどということは決してなく、むしろ大きく変えてしまったのである。こいしの心は大衆が信じたとおり、閉ざされてしまっていた。そしてその認識の強固さは、こいしの心の復元が不可能であるということを明らかに示していた。そのことを最初に理解し、語ったのはさとり様だった。
嫌われた理由を、こいしはまず自身の読心能力のせいにしたらしい。自身の考えていることが相手に筒抜けなのにいい気がしないのも当然だろう。彼女の考えはおかしくなかった。しかし、その行動には明らかに問題があった。彼女は、サードアイを潰すという決断をした。とても正気の沙汰とは思えない。さらにサードアイを潰し終えた彼女はすぐさま昔の友人のところに赴き、傷ついたそれを差し出すとこう言ったらしい。“これでもう大丈夫でしょう?”相手の嫌悪の感情は、読心能力を失ったこいしでも容易に感じ取れただろう。それからこいしが自室で首を吊るまでは一週間とかからなかったらしい。これが今からおおよそ百年前のベルリンという外の街での出来事である。
なぜ今さらそんな昔の話をしたのかというと、つい最近ある問題が発生したからである。あの日、ちょっとしたトラブル(と言っても解決までまるまる三日はかかったが)を処理し終えたあたいはさとり様に報告するために書斎へ向かっていた。五日間の徹夜での仕事と二日間の休暇のあとに起こった事件だったので、さとり様に会うのは十日ぶりだった。
部屋の前に立ち、ノックをしようと手を扉に近づけたが、どうやらすでに読まれていたらしく、「入りなさい」という声が中から聞こえてきた。あたいは上げた手を下ろし、ドアを開けた。
「十日ぶりの主の声はいかがだったかしら」
ドアが開くとともにさとり様が話しかけてきた。
「それはもう、懐かしさで涙が出てきましたよ」
「私にはその涙があくびから来ているようにも見えるけど」
あたいがその言葉に苦笑いすると、さとり様もニッコリと笑った。
「お疲れさま」
それからさとり様は紅茶を勧めてきたので、あたいは棚からティーカップを取り出し、ポットの中身を注いだ。淹れてから幾らか時間がたっているらしく紅茶は少し冷めていたが、猫舌には丁度いい温度だった。
「脱走した怨霊を捕まえるのは大変だったでしょう」
「はい。それにドアが壊れているときましたからね。怨霊たちの中に少しとはいえ物分りの良いのがいて助かりましたよ」
「でも、良いこともあったようね」
振り向くとさとり様のサードアイがじっとこちらを見つめていた。
「読みましたね?」
「えぇ。それに私達覚りは目を向けなくても大体は分かるのよ」
「なるほど。とすると、さとり様も人が悪いですね」
「と言うと?」
「見えてるんだったら聞く必要もないでしょう?あたいが喋る手間がかからないじゃないですか」
「確かにそれもそうだけど……」
さとり様はカップに残っていた紅茶を一気に飲んでフゥと息を吐いた。それから
「けど、喋ってもらったほうが分かりやすいのよ。さっきも言ったけど、ちゃんと見ないと深くまでは分からないし、相手が思っていることをどこまで話すかで、相手の精神状態も分かったりするものなのよ」
「そうですか。ではあたいは今精神状態が非常によろしいので全て話させていただきますが、あたいは今の話を聞いてさとり様が飼い主で良かったと心から喜んでおります」
「どうもありがとう」
言ってしまったあとで、あたいは脳髄の奥底からこちらの様子をうかがっている恥ずかしさをなんとか押し戻すため、紅茶を一気にあおいだ。一息ついて目を下ろすとさとり様がこちらを向いてニヤニヤしていた。
「やっぱり後悔しているかもしれません」
カップを机に置きながら言った。
「それで、良いことっていうのは?」
「おそらく読めてるでしょうが、先程の話からすると喋らなければならないようですね」
「そのとおり」
「では、さとり様が知らないということにして話させていただきます。良いこと、と言っても些細だしなんというか気恥ずかしいことなんですが、あたいは我が家で休めるのが楽しみなんですよ。やはり、ここの方が落ち着くんです」
「良いことね。なにも恥ずかしがる必要はないわ」
「えぇ、何しろすでにバレてるわけですからね」
苦笑いのような微笑みのような、そんな笑みをさとり様は浮かべていた。
「そういえば、私にもあったのよ」
「良いことがですか?」
さとり様は静かに頷いた。この時点で、あたいは無邪気な期待を胸に抱いていたのを覚えている。そして、さとり様が次のように話したこともまた、しっかりと覚えているのである。
「実はね、あなたが私に会いに来れなかった間に、こいしが帰ってきたのよ」
神に誓って言うが、その時のあたいは精神状態は非常に良好であり、薬物はもちろんアルコールの一滴も口に含んでいなかった。確かに言ったのである。"こいしが帰ってきた"と。カップを机に置いておいたのはファインプレーと言えるだろう。
あたいは動揺が表面に現れないようゆっくりと、静かに深呼吸し、さとり様の方を向いた。無論、その時あたいの中を目まぐるしく飛び回っていた感情は全てさとり様に筒抜けだっただろうが、きっとあたいの仕草から精神状態を汲み取ってくれただろう。
「へぇ、こいし様が。それは良かったですね」
そのあと、あたいはさとり様と二、三言葉を交わすとできるだけ落ち着いて、しかし足早に部屋を出ていった。部屋に戻ったあたいは混乱と疲れを盾にしてシャワーも浴びずにベッドに飛び込み、できるだけ何も考えないよう努めながら眠りに落ちた。
翌朝シャワー室に向かって廊下を歩いていると、向こう側から若干小柄な女性が歩いてきた。あたいの親友、霊烏路空である。見た目の割に名前が難しいため、仲間内ではお空という可愛らしい愛称で呼ばれている。
「あ、お燐!おはよう!」
「あぁおはよう」
駆け寄ってきたお空を柔らかくキャッチし、頭を彼女の長い髪に沿って撫でた。すると気持ち良さそうに息を吐くので非常に愛らしい。と、突然お空が顔を上げてこちらを見てきた。どうしたものかと思ったが答えは案外早く見つかってしまった。
「……臭うかい、お空?」
「ちょっぴり」
「すまないねぇ、昨日はシャワーを浴びるのを忘れていたもんだから……」
「お燐も疲れてたんでしょ?なら仕方ないよ。それに最初の方は私のせいだったし……」
最初の方、というのは前に述べた五日間の徹夜の理由である事故のことだ。その事故を自分が引き起こしてしまったとお空は言っているのである。しかし、実際は彼女の同僚が原因だった。小柄な上に力がないお空は一部の同僚から執拗な嫌がらせを受けており、その時は重い荷物を運んでいたお空になんと足をかけたのである。その後の連鎖的に発生した大惨事については省略するとして、彼らには計三つの大きなたんこぶと相応の罰が与えられた。しかし厄介なことに彼らは何があっても面白い遊び道具のためなら絶対に諦めず、永久的な処分を下そうとしても他に行き場所がないためにどうしようもないのである。そのため状況は一向に良くならず、お空は口癖のように力がほしいと言っていた。
「気にすることはないさ。悪いのはアイツらだよ」
「うん……でも私にもうちょっと力があったらなぁ」
「お空は今のままでも大丈夫。困ったときはあたいが助けるよ」
「でも私がこんなだからお燐はシャワーも浴びれないほど疲れてしまうんでしょ?」
「あ、いや、疲れてたってだけでもないんだけどね」
「そうなの?」
「実はちょっとばかし厄介なことがあってね」
とここでこれをお空に話しても良いのか不安になり言うのをためらったが、お空の顔を見るとまぁ真っ直ぐな眼差しをこちらに向けていたので話さざるを得なかった。
「さとり様が自分の妹に合ったとかなんとか言っててね」
「あ、こいし様のことでしょ?」
「知ってるのかい?」
「うん、さとり様がね、この前、お燐が居なかったときかな、そのときにこいし様が帰ってきたって。でも今は地底を歩き回ってるみたいだけどね」
この様子だとさとり様は地霊殿内のあらゆる人物にこの話をしているのだろう。一晩眠ってあれは冗談だったのではという考えも浮かんでいたが、それは違うらしい。さとり様は一体どうしてしまったのか。
「それで、こいし様のことがどうかしたの?」
「……いや、急に聞かされてびっくりしたってだけさ」
「ふぅん」
お空は腑に落ちないというような顔をしていたが、あたいは半ば強引ながらも時間を理由にお空と別れた。その後予定通りシャワーを浴びたが、気持ちはよかったものの心が落ち着くことは無かった。
その後一週間は特に何事もなく過ごすことができ、こいしのことについても忘れかけていたのだが、そんなときにまたこいしの話題があがることとなった。実際にこいしと遭遇した人物が存在する。そう話したのはお空だった。
「それは本当かい?」
「うん、友達が言ってたよ。嘘をつくような子じゃないし、多分本当だと思うけどなぁ」
もしもこのことが本当であるというのならば、事態はより一層深刻なものとなる。つまり、あたいがこいしを個人であると勝手に思い込んでいた狂人ということになってしまうのである。しかし、だとすると不思議な点もある。この百年間のこいしの行方である。こいしが生きていたのならば、はたして彼女は今までどこで何をしていたのか。あたいはさとり様から話を聞くまでこいしの存在そのものを知らなかった。地底だけでなく地上にもよく赴いていたのに一度たりとも姿を見たり、話を聞いたりしたことがなかったのだ。やはりこれは不思議なことである。いやしかしあたいが変になってしまったというのならこれも説明がつくし、待てよそれでも他の人は――。
「ねぇ、どうしたの?」
突然お空の声が聞こえ、そこでようやく自分がお空と話していたことを思い出した。
「お燐、やっぱり変だよ。何か悩み事があるんでしょ?」
「厶……でもこれはデリケートな問題だから……」
「お燐だって壊れかけじゃない。話なよ。大丈夫、私これで口は硬いんだから」
正直、お空のこの言葉には不安しかなかった。あたいの経験上、自身のことを口が硬いと威張って実際にそのとおりである人はまずいない。しかしこのまま黙っておいてお空を変に心配させてしまうのもいかがなものかと思えたので、とうとう本当のことを話すことにした。
「え、こいし様が!?死んじゃってたの!?」
一通り話し終えるとお空はやはり大声を出して驚いた。
「そんな大声出さないでおくれよ、色々とむつかしい話なんだからさ」
お空は慌てて口を手で覆い、息を止めたままコクコクと二度頷いた。それからゆっくりと手をはなしニ、三回静かに呼吸すると再び喋りだした。
「そ、それじゃあみんなが見たって言ってるのは?さとり様はどうして帰ってきたって?」
「それが分からないから困ってるんだよねぇ」
「……お燐が聞き間違えたとか?」
「何をどう聞き間違えるんだい」
「えーと、例えばさ、死んだってところが実は居なくなっちゃった、だったとか。記憶ってよく変わるでしょ。お燐もきっとそうなんだよ」
お空にだけは言われたくないことを言われてしまった。がしかし、その可能性も捨てきれないだろう。
「そうかもしれないけど……なんだかそれはそれで嫌だね」
一連の出来事のおかげであたいは仕事では特にトラブルもないのにも関わらず、ひどく疲れていた。というわけでその疲れを癒すため、自室を忍び出し、行きつけの居酒屋へ向かった。
店の前に立つと、懐かしさと喜びの混じった感情が湧き上がってきた。それもそのはず、実のところあたいがこの店に来るのはおおよそ二ヶ月ぶりなのである。暖簾をくぐるとこれもまた懐かしい大将の元気な声が聞こえてきた。
「へい、ィラッシャイ……おぉ、お燐ちゃんじゃないか!いやァよく来たね」
「久しぶり、大将」
あたいは挨拶しながら手前から三番目のカウンターについた。
「はい、お冷とおしぼり。取り敢えずいつものでいいか?」
「うん、頼むよ」
あたいは手を拭いてからお冷に少しだけ口をつけた。それから一息ついていると、二分もしないうちに鮎の塩焼きと冷酒が出てきた。
「さすが大将、作るのが早いね」
「何年この包丁を握ってると思ってんだ。俺ァいわばベテランってやつだよ。それに今日は先に下ごしらえをしておいたからな」
「先に?あたいが来るって知ってたのかい?」
「うんにゃ。だがね、俺のここんところ――」
大将は人差し指でトントンと自分の頭をこつきながらいった。
「ここにいる灰色クンがな、来るんじゃねェのかって言ってたんだよ。まァ直感っつうのかな。そんなとこだ」
「へぇ、不思議なこともあるんだねえ」
しかしこう長く生きているとこういう超自然的なことに遭遇するのも珍しくはないだろう。そもそもあたいだって外に行けばその“超自然”そのものになる。そう考えながら徳利の中身をおちょこに注ぎ、一気にあおいだ。
「しかし、最近来れなかったのはどうしてだい。忙しかったってだけでもないだろ」
「ウン、ちょっとばかし疲れてたのさ。心身ともに、疲労困憊。ここんとこ仕事の量が多いし、お空へのいじめはますます酷くなるし。まぁ、ここに来たのも疲れてるからなんだけどね」
「疲れてたってことはやっぱりアレのこともあるんだろ、あの例の古明地なにがしって娘の噂」
一瞬、なぜ大将がそのことを知っているのかと驚いたがすぐにこの噂が広まっているということを思い出した。
「ん、こいし様のことかい?そりゃ、身内の問題でもあるしね。それに状況がよく掴めてないっていうのもあるし」
「そうだろうな。おかげさまで街のモンはいくつも仮説を作ってはそいつらを戦わせてるよ」
「仮説?」
大将はコクンと大きく頷いた。
「少し前までは良かったんだけどねェ、一ヶ月くらい前かな、そんくらいんときに“こいしは死んでいるとさとり様が言っていたらしい”なんて噂が広まりだしてね」
「そんな噂まで出てきたのかい、驚いたね」
「あァ、もっともだ」
広めたのはお空か、もしくはあの話を聞いていた誰かだろう。お空の声は大きかったから誰かの耳に入ってもおかしくはない。まぁ、過ぎたものはしょうがないだろう。
「で、どんなのがあるんだい?」
「これがな、大きく三つに分かれてんだ。うち二つは鏡みたいなモンでね、さとり様に関する噂が本当かどうかってことで争ってんだ。で、残りの一つが変わっててね、さとり様の噂は本当だって言ってるんだがね、同時にこいしは生きてるとも言ってんだよ」
「てことは、そいつらはさとり様は乱心だと思ってるのかい?」
「うんにゃ、それが違うらしくてね、奴ら素っ頓狂な説を立ててんだ。そいつらが言うにはこいしは死んだんじゃなくて失踪したってェらしい。その原因がこいしが心を閉ざしたことにあるって話だ。」
「っていうと?」
「こいしは嫌われすぎて心を閉ざし、自我が無くなって他人から認識されなくなったんだとよ。俺ァあんまし頭が良くねェからなんで心を閉ざしたらそうなるのかが良く分からねェんだけどよ、そいつらは真面目な顔して力説してやがったよ。ま、一通り話すと満足した感じでとっとと帰ってったけどな」
「じゃあどうしてさとり様はあんなことを言ったことになってるんだい?」
「そこらへんはなにか事情があったんだろうとしか言ってなかったね。まったく、都合の良い奴らだよ」
「なるほどねぇ……」
あたいはそう呟きながら魚の骨をいじくって残った魚肉をつまみ、徳利をおちょこの上で逆さまにし、それを今度は口の上でひっくり返した。おちょこを机に置くとともに勢いよく息を吐いたが、いつものような開放感は得られなかった。
「おや、食べきったのか。他に何か食べるか?この前新しく"骨酒"ってェのを始めてな、焼いた骨を酒ン中に入れてそいつを飲むんだがこれが旨くてなァ。ほら、おリンちゃんとこのその骨、それで作れるんだけど、飲んでみるかい?」
「そうだねぇ……」
曖昧な返事をしながらこのまま呑んでいたら止まらなくなって悪酔いしてしまうだろうな、などとぼんやり考えていた。しかし、理性の皮をかぶった欲望がここは悪酔いするべきだと内側から小突いてくるので、あたいは先に明日の自分に謝ってから注文した。
「そうだ大将、"川魚の干物"を二つくらい袋に入れてくれないかい?」
「はいよ。帰ってからも呑むつもりかい?」
「いや、これは……まぁ免罪符みたいなものさ」
「なるほどね。じゃァ心置きなく呑んでいきな」
骨酒は予想以上に美味しかった。ずっと抜け殻のようなものだと思っていた骨からこんなにも旨い出汁がとれるとは。しかし、骨に残っていたその旨味までも吸い出してしまったわけだから、残ったものはやはり抜け殻になった。その日の帰りは丑の正刻頃になり、翌朝は昨日の自分に悪態をつきながら干物にしゃぶりついていた。
さて、荒唐無稽な噂までもが地底中を闊歩するようになってしまった今回の騒動だが、とうとう終わりを迎えることとなる。この騒動は真相がわかることによって、つまりあたいがさとり様に真相を聞くことで終わらせることができるのであるが、今まではそこへの一歩が踏み出せなかった。実のところ、あたいは自分の記憶にかなりの自信を持っており、ゆえにさとり様が嘘をついているか、最悪の場合狂ってしまったとしか考えられなかったのである。だから聞きに行く勇気が出なかったのだ。しかし、今や状況は一変してしまった。だから、これからあたいが語るのはこの話のクライマックスである。
お空がいじめられているということは何度か話題に上げただろう。そのいじめがまただんだんと大げさになってきたことも話したはずだ。いつもならあたいが相談役になれるのだが、そのときはあたいも自分のことで精一杯だった。そのせいでお空のメンタルは最悪の状態になっていた。そのため、最初いじめてる奴らが三人とも大怪我を負ったと聞いたときは、お空がとうとうやってしまったのかと思った。だがそれはどうも違うらしかった。そいつらは帽子の少女にやられたと口を揃えて喚いたというのである。その少女の容貌を聞いてみるとこいしのそれとぴったり合致したというのだが、不思議なことに三人はこいしに関する噂を全く知らなかった。それどころか、噂にも含まれていなかった特徴――髪の具合やリボンの結び方――についても証言し、それらは確かに正しい、つまりあたいが見た写真のこいしと完全に一致していたのである。これの意味するところとは、すなわち――古明地こいしは生きているのである。
とするとこの前居酒屋で聞いたあの話は案外正しかったりするのかもしれない。ニ、三疑問点はあるが、最も安全で平和的な説であったため、あたいはそれを信じることにした。何より、これ以上疲れたくなかったのである。これで一件落着とも思えたが、あたいは馬鹿なことに、さとり様が嘘をついた理由を知りたいと思ってしまったのである。もちろんこの安定が崩れてしまう危険があるということも感じ取っていたが、結局それも偉大なる好奇心の前にはなすすべが無かったのである。好奇心は身を滅ぼす。使い古されてしまったこの言葉だが、どうやら正しいから使い古されたようだ。さとり様の部屋へと向かうあたいの足どりは軽く、ある意味で滑稽だった。
「あらお燐じゃない、入りなさい」
いつも通りの手順を済ませてあたいはドアを開けた。
「私用で来るのは久しぶりね」
「えぇ、今日はちょっと聞きたいことがあって」
そこで流石に一瞬質問するのをためらったが、好奇心にまけてしまい
「さとり様は前にこいし様が死んでしまったと話しましたよね?」
ドキドキしながらさとり様の答えを待とうとしたが、その暇もなくすぐに答えが返ってきた。
「えぇ」
驚くほどの即答であり、これはあたいに安心感のようなものを与えた。やはりあたいは狂ってしまってなどいなかったのである。
「しかしそのこいし様が帰ってきたのも事実ですよね。ではなぜあんな嘘をついたんです?」
沈黙。ここにきて、予想外の沈黙である。さとり様は若干うつむいてしまい、なにかを深く考えているようだった。最初は理由を今になって考えているのかと思ったが、その様子はどちらかというと重大な決断、判断のために慎重な審議を行っているようだった。そして、数分の後、とうとう結論にたどり着いたようだった。
「お燐、あなたはこいしは死んでおらず、失踪していたという噂を信じているのよね?」
「そうですが……」
「こいしは死んでいるわ。というより、一度死んだのよ」
衝撃はほんの一瞬、ちょうど雷が雲から地上へと落ちてくるように身体、というよりも脳髄を突き抜けていった。そしてこれも同じく雷のように“しびれ”は長くとどまった。死んだ。死んでいた。しかし一度。一度?どういうことか。古明地こいしは二度死ぬというのか。
「説明するわ」
あたいが考えをまとめるよりも早くさとり様が喋りだした。
「お燐は妖怪がどのようにして存在できているか知っているかしら?」
「どうやってと言われましても……あたいはここにいますよ?」
「えぇあなたはそこにいる。でも、それは自己の認識でしかないでしょう。ヒトにとって自己の認識は大切かもしれないけれど、我々妖怪にとって最も大切なのは他からの認識の方よ。その認識が、私達の身体を作るのよ」
「つまり、他人から認識されることで、妖怪は初めて存在することができるというわけですか?」
「そういうこと」
「でもそうだとしたら存在の前に認識がきてしまいますよ?存在のないものをどう認識しろって言うんです」
「そこは、類稀なる想像力が仕事をしてくれるわ」
そこでさとり様は考えをまとめるためか少し間を置いた。
「その昔、人間は――幻想郷ができるよりももっと昔の人間たちは無知だった。だから、なぜ雷が落ちるのか、なぜ風が吹くのか、なぜ病が流行するのかが分からなかった。そこで妖怪や神様が生まれ、その存在が広く認知されることによってそれらは実体を得ることができたのよ」
「それで、骨組みとなる噂を流して、それを地底の人々の認知で肉付けしたのですね」
「飲み込みが良くて助かるわ」
ここで再び沈黙が訪れたので、あたいは考えを整理することにした。さとり様が流した噂を地底の住人たちが拡散し、多くの住人が認知する。そしてその認知を受けることで、古明地こいしは再び生まれる。とすると、しかし気になることがある。
「こいし様が死んでしまったことは事実なんですよね。では、我々の想像力によって生まれてくるのは古明地こいしに似た何かではないのですか?彼女はもう……この世には存在しないわけですし」
「それは"身体"の問題でしょう?魂はまだ残ってる。だから、私はただそれのために入れ物を造っただけなのよ。私達の認識がこいしの精神に影響しないか?その点は大丈夫よ。精神への影響は微々たるもの。心配はいらないわ。身体は少し変わるかもしれないけど、入れ物として機能すれば大丈夫よ」
「だとしても……」
ふとさとり様から視線を外すと、隣のサードアイが少し動いた気がした。
「心配なの?」
「不安なんですよ」
サードアイの瞳孔が収縮した。
「そのようね」
「こいし様は、自殺したんですよね」
「えぇ」
「愛されないと知ったから、それで生きているのが嫌になったから」
「そうよ」
「では、彼女は生き返りたいと思っているのですか?」
「知らないわ」
即答だった。悪びれる様子も見せなかった。
「ならなぜ生き返らせようとするんです?また同じような苦しみを味わうかもしれないじゃないですか。それを押しのけてまでそうする理由が?」
体が火照ってきているのが自分でも分かった。声も、なんとか落ち着かせようとしているものの震え始めていた。さとり様の方はというと、表情どころか眉一つ動かす様子もなかった。さんな様子があたいの心をさらに揺さぶった。
「理由がと訊いているんです、訊いているんですよ!」
「そんなに声を荒らげなくてもちゃんと聞こえてるわよ」
「荒らげないと気がすまない状態なんです分からないんですか!?さとり様が噂を流したおかげで、こいし様はまた百年前と同じ苦しみを、死にたくなるほどの苦痛を味わうかもしれないんですよ?それでもこいし様を生き返らせる、ごもっともな、閻魔様でも唸らせられるような理由があるんですか?」
「……あるわ」
「なんです」
「こいしに謝るためよ」
その時感じたのは納得でも怒りでもなく、脱力感だった。
「こいしがあんなことになってしまったのは私の責任でもある。私が、覚りとしての誇りを捨てられなかったから私はこいしを助けることができなかった。だから、こいしには幸せになってもらう。私が幸せにして見せる」
「そんなの……ただの、さとり様のエゴじゃないですか……結局は自分が気持ちよく眠りたいからだからじゃないですか……!」
「いいえ、こいしのためよ。こいしは愛されることを願った。でも愛されなかった。そしてあろうことか姉である私はそれを放置した。こいしの苦しみは分かっていたはずなのよ。でも見捨てた。”誇り”にばかり気を取られていたせいで、それ以上に大事なものを壊させてしまった。でも今度は壊させない。こいしは二度目の人生を、自身の夢のために生きるのよ」
「そんな綺麗なこと言ったって、本人がどう思ってるかなんてわからないじゃないですか」
「じゃあ、訊いてみる?」
そう言いながらさとり様はゆらりと手を動かし、あたいの後ろの方に注意を促した。まさかと思いつつ振り向くと、一人の少女が静かに立っていた。黄色いリボンのついた大きな黒い帽子。青みがかった緑の髪の毛。薔薇模様のスカート。そして――紫色のサードアイ。その瞳は閉じていたが、確かにサードアイだった。彼女は、こいしは静かに微笑んでいた。そして、一粒の涙が彼女の頬を滑り落ちていき、音もなく落下していった。ゆっくりと視線をさとり様の方へと移すと、やはり微笑んでいた。そんな二人に挟まれたあたいは、場違いにも気味の悪さと恐怖を感じ、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。そして、突然囁くような声が聞こえてきた。
「ただいま」
それが彼女の最初の言葉だった。こいしの声が聞けてさとり様はさぞご満悦だろうと思い振り返ったが、そこには信じられないという顔をしたさとり様が立っていた。
「どうしたんですか、感動の再会ですよ。もっと喜ばないんですか?」
話しかけてみたがハッキリとした反応は得られず、ただあえぐような声で
「無い」
と何度も繰り返していた。
「無い?何が無いって言うんですか?」
「こころが……こころが、無い……」
さとり様は過ちを犯してしまっていた。認識が精神に影響しないなどということは決してなく、むしろ大きく変えてしまったのである。こいしの心は大衆が信じたとおり、閉ざされてしまっていた。そしてその認識の強固さは、こいしの心の復元が不可能であるということを明らかに示していた。そのことを最初に理解し、語ったのはさとり様だった。