雪、雪が降っている。
みたいな感覚センスの風雨の日だった。
ぬかるんだ道を歩くスニーカーの濡れ感がなんだか深い初雪を踏みしめる感じ。
雨がまるで雪のように空から降っている。
雨粒は雪の粉みたいに冷たくて、ほっぺたで、溶けるよ。
進行方向からは斜めに強い風が吹き付けて、それに乗ってたくさんの雨粒が飛んでくる。
なんだかそれは吹雪みたいだったのだ。
夜に、雨が吹雪いてた。
時の頃は、夜半の前の前、空を覆った厚い雲が不思議に切り裂かれ、雲間からは月が見えた。
満月だった。
月の光が森を満たして、冷たい雪の色に染めている。
あたり一面は銀世界のようでいて、煙のように立ち込める霧は鼠の色に吹雪いて視界を奪い、地に木々に跳ね返る細かい水の飛沫の色は白、そして、それらすべてが雪のかけらなのだった。
わたしは雨の吹雪のなかをレインコートを頭まですっぽり羽織り、片っぽの手でその襟口のところをぎゅっと握りあわせて、もう片方の手で空に傘を遊ばせている。
傘は進行方向に向かって、ちょうど45度のあたり。
ふら、ふら、ふらふらふら、まるで台風に交信するみたいに、揺れていた。
その傘の上を下を、すり抜けて、雨粒は、わたしのレインコートを浸した。
それは雪のように、レインコートの表面に硬く触れたと思ったら、溶け出して液状になって流れ出して……忍びこむ、浸していく、わたしのしゃんしゃん鳴る襟元を過ぎて……首筋に、胸の上に、おへその下に。
わたしはとても寒い。
震えていた。
みすちーの家を目指して歩いてた。
台風のなかで冷たい身体を抱えて歩くわたしはまるで投げ出されて雪山に遭難者みたいで、森の暗がりに見えたみすちーの部屋の小さな明かりは、吹雪にたったひとつの熱源、あの雪山に唯一灯る明かりのようだった。
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雪、雪が降っている。
あるいは、空から降り注ぐ白色の弾幕。
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みすちーの家の前、扉。
震える指先で押し、開き、みすちーの家の扉をあけると、みすちーはいる。
ほとんど裸のような格好でだらしなく毛布に包まっていた。
みすちーは、なんだか結末のようなふうだった。
布団の周りは脱ぎ散らかされた服とか菓子パンの袋であふれて、部屋中すべてのものが皺立って重なっていた。
その状況は、この布団の中心にいるみすちーが怠惰でいることで生じた結果というよりは、先にしわくちゃの衣類や生活ごみが集まってなにやら不思議な過程で結合し、やがてそこから布団に包まった怠惰なみすちーが生えてきたかのように見えた。
部屋の中はひどく荒れていた。
それこそあの台風がちょうどこの部屋にやってきて今さっき過ぎ去ったよな感じ。
みすちーの部屋に続く小さな廊下には台所とそのシンクがあって、締め切らない蛇口から水がぽたぽたぽたと流れている。
シンクの中に溜まった汚れた皿やボウルの上で飛沫いていた。
コンロにかけられた沸騰したやかんが、沸騰したまま、ぱちぱちぱちぱち鳴っている。
網戸を通して風雨が入り込み、下のところで、ちょっと水溜まっている。
わたしはみすちーに言う。
「うぇえ。なんだか大事件だねえ」
「あ、響子。来たんだ」
「そうだよ?」
「ね、響子、響子」
「うん?」
「わたしは響子のことを待ってたんだよ」
「うん」
「待ってる間、響子ってどんな顔だったっけってこと考えてね、でも思い出せなかったんだ。わたし、あんま、人の顔とか覚えられなくて、それこそ三歩歩けば忘れちゃうって感じでねえ」
少し遠いところで、沸騰したやかんが、ぱちぱちぱちぱちぱち鳴っている。
「でも、響子の顔はわたしの大好きな顔だった。どんな顔かはわからなかったけど、それはわかったんだ。だから今度はわたしが大好きな顔ってどんな類の顔だったろうって想像してみて、それが響子だった」
「うん」
「わたしいったいどうすればよかったんだろう?」
「ほら、これがわたしだよー、ってさ」
「かわいい……」
「やめてよ」
すぐ近いところで、シンクの上に、ぽたぽたぽたぽたと水滴が垂れている。
近いところで、沸騰したやかんが、ぱちぱちぱちぱち鳴っている。
遠いところで、網戸の間から雨が、ばたばたばたばたと入り込んでくる。
わたしは玄関から少し歩いて蛇口を締めてそれからコンロのスイッチをひねり、やかんにかかる火を消して、少し歩いて開けっ放しの戸を閉める。
みすちーはわたしがひとつずつそうするのを、ひとつずつ見つめていた。
「お湯……」
「えっ?」
「お湯さあ」
「うん、なぁに?」
「おゆ、お湯つくろうと、思って、わたし……」
「うん」
「お湯、お湯、お湯つくろうと、ああ……お湯つくるなんて言い方すごく傲慢かな? 響子はわたしのこと嫌いになる?」
「どうして?」
「だって、まるでわたしは何か作り出したみたいな、お湯をそこに顕現させたみたいな風な言い方……。水をお湯に至らせるのに……その熱とかわたし与えたわけじゃないし、わたしってなにかしてあげたわけじゃないのに」
「でも、ほら、ガス代とか水道料金とか、公共料金払ってないわけじゃないでしょう?」
「どうかなあ……」
「払いなよ」
「響子が来たら響子は寒いだろうと思って飲み物を用意しようと思ったんだ。でも、響子のことを思ったら、響子のことが大好きすぎて、結局何も手につかなくなっちゃうな」
「でもこうしてあったかいお湯があるのは嬉しいよ」
「え、お湯をそのまま飲むの?」
「それはなにかあるならそっちの方が嬉しいけど……」
「コーヒーとかあったと思うな」
そこ、とみすちーが指差すそこがわたしにはわからない。
いろいろ探しているとシンクの上の小さな戸棚のなかにコーヒーの粉があった。流しにたまった食器からふたつマグカップを取って水で簡単にすすいだらそこにコーヒーの粉を入れてやかんのお湯を注ぐ。それから砂糖をみすちーのやつに少し、わたしのやつにはたくさん混ぜる。スプーンが見当たらなかったからフォークで砂糖を掬った。隙間から、はらはらと雪のように白くこぼれるのだった。
熱いマグカップをふたつ分。
みすちーのところまで持ってちょっと歩いた。
足の裏にファスナーの、冷たい金属の感じ。
マグカップをみすちーにふたつとも手渡すと、布団の中からにゅと手が伸びてきて、あついあついと言う。
「ね、タオル、ないかな?」
「ぶんぶん首を振りなよ、犬はそうする」
「いやだ」
でも、ぶんぶんと首を振ってみる。
あはは、とみすちーは笑っていた。
「きれいなやつがどっかにあったよ」
「どこに?」
「忘れちゃったな。響子のことでね、頭がいっぱいでね、なんもかも忘れちゃうよ」
しかたないからそのへんに落ちていたタオルで頭を拭いた。
ここはとても寒い。
布団の上に座り込み、みすちーのやつ、みすちーの怠惰なやつ、その包まるゴールデン・レトリーバの色をした毛布のなかにわたしも忍び込んだ。
毛布の下でコーヒーをみすちーが手渡してくれた。
それを飲むと、苦かった。
きっとみすちーはわたしがみすちー用につくったコーヒーとわたし用につくったコーヒーを取り違えてしまったのだ。
ということはみすちーの飲んでるやつはわたしのよりずっと甘いやつだった。
みすちーはわたしがみすちーよりもずっとたくさんコーヒーに砂糖を入れることを知ってはいるけれど、自分のひどく甘いコーヒーに口をつけてもほんのちょっと眉をひそめるくらいでそのあとはなんでもないふうにふうふう息で冷ましながらそれを飲んでいるっていうのもさきほどわたしの入れた砂糖の絶対量をみすちーは知らないからで、わたしという生き物はそもそもたくさんコーヒーに砂糖を入れるものだから、わたしの飲んでいるこのちょっと苦いコーヒーを、みすちーは、きっとみすちーの飲んでいるものすごく甘いコーヒーよりもさらにずっと甘いコーヒーだと思っているんだろう。
みすちーの頭の中にしか存在しないその、ものすごく甘いコーヒーを、わたしは飲んでみたいと思う。
そんなことを考えているうちに、みすちーが別の話をしたので、取り違えたコーヒーのことは結局、最後までそのままになってしまった。
だから、そのコーヒーはいまでもみすちーの頭の中にだけ残っていて、このままわたしたちが死なずに生きていれば、いつか、それをふたりで飲むことができるんだろうか?
みすちーの別の話とは、こんな話である。
「そういや、PVを撮ろうと思ったんだよ」
「ほんとに?」
「カメラも買ったよ」
「それすごいじゃん」
「まあね」
「もしかして、この部屋の感じもそのためだったりする……?」
「どゆこと?」
「そういうのあるじゃん、汚い部屋とか映すの! せーかつって感じ? なんかロック系っぽいよね、ちょっと怠惰……怠惰?なふうな感じの」
「いや、それはちがうんだけどさ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、どういうのにするの?」
「うーん……どうゆうのにしようかなって思ってさ、いろいろ考えたの」
「うん」
「やっぱ一発目のPVとかって大事じゃん」
「まーねえ」
「やっぱそれバズったりしたらわたしたち有名にだってなっちゃうし」
「そしたら毎日いちばん高いドッグフードが食べられるね」
「ドッグフードは食べないよ!!」
「あ、そう?」
「そう……。そうだよ」
「で、どうしたの?」
「まあ、いろいろ考えたんだけどね、結果ね……」
「うん」
「響子のことだけを撮ることにした」
「へえっ?!」
「だって、わたし、響子のことが好きすぎて、響子のことしか考えられないもん」
「そうなの?」
「そうだよ。歌ってる響子がずっと映ってるPVがいいな」
「いや、そういうのあるけどさあ……。メンバーが演奏してるところを映してるみたいな。それならみすちーも映せばいいじゃん」
「わたしはいいよ。わたし、わたしが映ってるビデオなんて見たくないもん」
「わたしだってそうだよ。それにさ、ほら、わたしもさー、みすちーのことが? 見たいな? ……なーんて」
「いや、響子の意見はどうでもいいの」
「なんでさ!」
「わたしは響子が好きなんだよ。響子のこと好きすぎてそれが好きとしてもうあまりに最大限だから響子がわたしのことを嫌いでも好きでも響子が何をしてても笑っても泣いててもどんな顔をしてても一緒にいてもいなくてもたとえ死んじゃっても生きてても好きっていう度合いが変わらないの。だからね、わたし響子が具体的に何を考えてるとかどうでもよくなっちゃうの。どうでもよくなるっていうか、そもそもどうでもいいし、興味ない。べつに会いたくもないしね」
「それっておかしくない!?」
「わたしね、本当に響子のことが好きなんだ。この前は響子の歌をつくった! きょうこーきょうこーきょうこきょうこー幽谷きょうこーかへーせーどーはいしだーっていう……」
「主義主張が、もう」
「てか、歌とかはなくてもいっか。PVの間ずっと響子がインタビューされてて生い立ちとか好きな食べ物とか話しててほしいよ」
「なにそれ」
「そんでもってすべての性感帯に穴が空いたジャージとか響子が着るんだよ?」
「それもうジャンルちがうじゃん……」
「でも、やっぱ撮るのやめたな」
「え? やめたの?」
「だってさ、わたしだけの響子だよ」
ふふ、と嬉しそうにみすちーは笑った。
みすちーは毛布に包まったまま、わたしに肩寄せて。
わたしはひとつあくびをした。
それからコーヒーを飲む。
やっぱり苦い。
わたしはみすちーに言う。
「ねえ、今年もフェスタがやってくるね」
「うん」
「やっぱり今年の注目はプリズムリバー三姉妹 with Hかなあ。あのプリズムリバー三姉妹の新しい門出って感じだもんね。解散騒動からの復活も散々騒がれたもんねえ」
「うん」
「九十九姉妹の話は聞いた? 今度博霊の周年祭でメインやるらしいよ。今じゃ雑誌でもフェスでもどこでも見るもんね。去年のフェスタでやばかったじゃん。それ以来ほんと人気すごいもん」
「うん」
「ねー、やっぱ姉妹とか兄弟っていうのは音楽的な成功しやすいのかな。結構見るよねー。やっぱ音楽性の一致? もしも姉妹がほんとに似通うならひとつのことを二倍のパワーでやるって感じしない?」
「うん」
「わたしたちもさ、がんばらなきゃだね」
「うん」
興味があるのかないのかみすちーは曖昧な返事をするばかりだった。
壁に立て掛けられたみすちーのギターは無造作に脱ぎ捨てられた衣服たちに覆われてほとんど見えなくなってしまっている。
今年のフェスタの季節はすぐそこまで迫っている。
フェスタが近い。
もうじきフェスタがやってくる。
フェスタがやってくると、みすちーはいつもどうしようもなくだめになってしまう。
その季節が近づくとだんだん何も手につかなくなり、音楽に関することだけではなくて、ご飯を食べたりお風呂に入ったり服を洗ったり、身の回りのことさえ上手にできなくなってしまう。
「ねー。新曲……できた?」
「んー」
「わたし、わたしさ、歌詞さ、つくってみたよ」
「どういうの?」
「え、あ……えーと、えとね……」
「なに?」
「いや、いまここで言うのは恥ずかしいっていうか」
「恥ずかしい歌詞なんだ。えっちなやつだね」
「ふふ。いや、ちがうって。えっちじゃないし」
「そうなの?」
「うん。ほんとにいろいろ考えながら書いてみたんだけど結局アイデアもすごく単純な感じになっちゃった。ずっと同じことを繰り返すぅ……みたいなやつでさ」
「ふむむ」
「でも、でも、もちろん意図はあるんだよ。ほらわたしは山彦でしょ? ルーツっていうかさあ、やっぱこう、繰り返す、ってことには思い入れがあるんだよね。表現として。そういうアイデアはよく見るし、すごく……たぶん他の人よりも、気にしちゃうんだけど、それも愛憎あってね。まあアイデア的には使い古されてるけどパンク・ロック的だしさあ。まあ曲の方向性的にはさ、ギターリフを聞かせる感じで……って、ってそれじゃああれだね、結局みすちー頼りなわけだけど……」
「響子のはじめて書いた歌詞だもん。わたしも音つくるのがんばっちゃおうかな」
「ほんとに? でも、はじめてだし、ほら、書けたっていう事実が嬉しくて、バイアス? バイアスぅ……っていうか、なんか、こう、テンション上がっちゃって、なんかすごくよく見えちゃってるんだけど、ほんとはめっちゃだめかも」
「でも、まー、最終的にはどっちでもいいかな。響子の歌詞がよくてもだめでも」
「ひどくない!?」
「だってわたし響子が歌ってるならなんだっていいのよ。まあ、歌ってなくてもいっか……。響子が元気で生きていてくれればそれでいいよ」
「母親の心境じゃん」
「え、響子にもお母さんがいるんだ?」
「いる、いる、そりゃいるじゃん。いるよ、もう……」
「怒られた?」
「なにが?」
「怒られたこととかあるの?」
「まあ、それはね。それは、たまには、そう……」
「それできれたんだ?」
「いや、きれないよ!」
「うるせえよ、ばばあ、だれが生んでくれってたのんだんだよ、とか言ったんだ響子、ふふ」
「言わないって」
「かわいい」
「なんなのもう……」
フェスタがやってくると、どうしてだろう、みすちーはわたしのことが大好きでたまらなくなる。
なんだかこっちが恥ずかしいくらいわたしのことが好きになって、そのことばかり喋るようになる。
普段はわたしのことをそんなには好きじゃない。
わたしの歌とかつくんないし、わたしのこと好きとか言わない,
そういうの普段のみすちーに言うと、みすちーは、あー、って言う。
あー、そうだっけ。
あー、そうだね。
あー、そう。
あー、そ。
あー、いや、響子がそうしてほしいって言うんなら、するけど?
べつに、そういうのしてほしいってわけじゃないんだけど、ほんとに、ほんとに、そうじゃないけど、でもわたしはいつも心配だよ。
なんだか、みすちーはそのまま消えてなくなってしまいそうだったから。
身の回りのことさえちゃんとできないほどだらしなくなってしまうのもそうだし、わたしのことを急にこんなにかまったりするのだってなんかまるで死期を悟った人間が急に悔悟して周りの人間に懺悔して回ったりするみたいじゃん。
みすちーがわたしのことを好き好き言ったりするのは、みすちーの告解なのだ。
普段はわたしにぜんぜん優しくしないから今さらやっと心が痛いのだろう。
なーむ。
みすちーのことを多少知る人たちはみすちーがこんなふうになってしまうのはフェスタのせいだって言う。
フェスタが近づくとみすちーはそれに向けた高まりやプレッシャーによって少し変になってしまうのだと。
わたしもそう思うときがある。
フェスタが近づくと、みすちーはどうしようもなくなる。わたしのことが大好きでたまらなくなる。
「フェスタのはじまりは紅魔の館で行われた身内向けのパーティーである」
「なに?」
「音楽雑誌に書いてあったよ。フェスタの沿革の話だよ。知ってた? フェスタの始まりは紅魔館で行われたあの吸血鬼の長い長い誕生日パーティーのなかのちょっとした催し物だったんだって。外から高名なバンドを二、三、呼んできて演奏させたの。それがはじまり。その季節になるとこの幻想郷で最もホットなバンドがそこに呼ばれたの。毎年、毎年、有名どころが集まるしそこに話題のバンドも加わるから、いつしかバンドマンたちの間ではそこに呼ばれることがひとつの誉れになったんだ。ギャランティーもよかったらしいしね。そんなふうにしてその誕生日のパーティーの催し物が少しずつ大きくなって外でも話題になるようになって、もともとの誕生日パーティーからは離れて期日も移して日をまたいでやるようになって今のフェスタになったんだって」
「それ前にもみすちーから聞いた気がするけど」
「そうだっけ? でもこの前雑誌で読んだんだよ。そこにはこんなこと書いてあった。『今やフェスタは三日間の巨大な音楽的アーキテクチャである。それは幻想郷中のありとあらゆる音楽好きにとってのアカシックレコードであり、アーティストたちにとってフェスタでの成功はそのままキャリアの成功を意味し、フェスタでの失敗は字義通り致命傷になる。フェスタで成功を収めた多くのバンドはClassicになり、多くのバンドがフェスタを目指し夢を散らし、全てを手に入れたアーティストたちがフェスタの場を最期の場所として選ぶ。フェスタが貴方に忘れられない思い出を残すように、フェスタを通じて貴方が新しい音楽の世界を知るように、フェスタでのたったひとつの演奏が貴方にギターを握らせるように、フェスタは時にアーティストたちの人生を変えてしまう。九十九姉妹のあの奇跡的な31分と今も続く栄光の記録は記憶に真新しい。そう、今年もフェスタが来る !フェスタがやって来る! あなたはもうフェスタのことしか考えられない!』」
「ふーん」
「これって、さいてーだよね?」
「そうかな?」
「たとえばさ、なんだかさ、雑誌のさ、ぺーじ、ぺーじ……ページ。……ページさあ、猥雑なやつだよ。かわいい響子が想像もできないようなやつ。かわいい響子がはぶられるやつね。みんながゆーやつだよ。かわいいきょーこには秘密にしとこうぜって。かわいい、かわいい、響子……。かわいい響子は泣いちゃうでしょ。泣いちゃってお母さんに言いつけて、こう……ねーねーみんながわたしのことをいじめるの、”秘密の花園”ってやつで……それってなあに、って聞いてもかわいい響子はそんなの知らなくていいのよって言われちゃうやつ。響子が泣いちゃうやつだよ。この世界で響子だけが知らないの。みんながかわいい響子に見せずに閉まっておく雑誌……。そこには股を開いた裸の女の子がいて笑ってるんだ。そして横に赤いゴシック体でこんなことが書かれているんだよ。フェスタが来る!フェスタがやって来る!フェスタがやってくれば、あなたはもうフェスタのことしか考えられない! うぇえええ、まじで吐きそう……」
「え、大丈夫?」
「わたしもうだめだよ」
フェスタが近づくと、みすちーはどうしようもなくなる。
でも、本当は、フェスタがこの土地に根付くずっと前から、この季節になればみすちーはいつもこんなふうになってしまっていた。
わたしたちは、昔はそれを雨のせいにしていたと思う。
あーみすちーはこの時期こんなもんだよ、雨がいっぱい降るからじゃない? 気持ちはわかるね。わたしだってなんかこの時期ゆーうつだもん。みすちーなんかは余計さ、きっと思うように気持ちよく空も飛べずにストレス溜まるんじゃないの?
フェスタは誰かの人生を決定的に変えてしまう。
知り合いにはフェスタに行ったことがきっかけでバンドをはじめた子もたくさんいるし、フェスタでの失敗が原因で仲違いし解散したバンドもよく見たし、フェスタでの成功を夢見て全てを失ってしまった人も見た。
『フェスタがやってくればもう貴方はフェスタのことしか思えない!』
あるときフェスタはこの土地にやってきて、雨に塞ぎ込むみすちーの憂鬱を、いつのまにかフェスタ前の神経症に変えてしまった。
でも、ほんとは、みすちーが変わったわけじゃないのかもしれないね。
みんなのほうがいつしかフェスタを通してしかみすちーの憂鬱を眺めることができなくなってしまったというだけで。
とにかく、わたしにわかるのは、フェスタのの季節が近づくとみすちーはどうしようもなくだめになるってことだけ。
ひぃぁあああ、とわたしはまたあくびをしてしまう。
みすちーはわたしに肩寄せたまま、わたしの肩のところで歌ってた。
「きょーこーはなんだかーまるで粉のようー、きょーこはまるーでー、ふくろいっぱいの粉のよー、こむぎこ、はくりき、きょうりきこ? あるいはー、しろーい、ゆきのこなー、はさみで切ったら粉がでるー」
そのまま肩からわたしの膝の上へとしなだれかかる。
空っぽのマグカップがみすちー手から離れて布団を転がった。
少し遠いところでは、ぴし、ぴし、ぴし、ってひび割れるよな音……それは雨の、雨のね、雨の音、雨音……わたしは耳をそばだてながら、みすちーの体温のわたしの膝元に馴染んでいくことを感じて、なんだかいつもこんなふうだな。
みすちーに話そうと思ってずっと考えてたことはいつも結局喋らずに終わってしまう。
今日だって、久しぶりにみすちー会えるからわたしはずっと楽しみにしてて、お寺の修行の合間にも今度みすちーに会ったらこんなこと話そう、こんなこと言ったらみすちーはああ言うかな、とか考えて、ひとりで頭の中のみすちーとたくさん会話して、言いたいこともたくさんあるから今度はそのうちどれを話そうかここに来るまでにいっぱい迷ってたのに……
あーあ。
ねえ、みすちーわたしはやさしいうたが好きだよ。お寺のみんなは、わたしがパンク・ロックなんかやることを引き合いにだして、やっぱ不満も募るんだねえなんて笑うけれど、でも、わたしはやさしいうたが好きなんだよ。やさしさっていつも表現形式には規定されないから、だってたとえば子を叱る親の怒声のなかにもやさしさはあるでしょ、だからわたしがパンクをやるからってぜんぶがぜんぶ体制打破!とかそういうわけじゃないもんね、表現形式にはその表現形式に至るべつの道理があり、表現されるものは単に総体として字義通り"表現されるもの”にすぎない。表現形式はたしかに表現内容を規定するように思えるし、みんなは表現形式によって表意を読み解こうとするけれど、ほんとはそれってまったくべつのものだったらいいなってわたしは思うんだよ。表現形式を着る服で喩えるなら、巫女が巫女服を着るように、ドレス・コードってやつがあって表現形式は立場によって限定されてしまうけど、もしもある表現内容に適した完璧な表現形式があるとするなら、同じことを言う人がみんな同じ服を着るみたいなもので、それってはじめから何も言ってないのとおんなじだよね、とか……新曲の歌詞を書きながらわたしはそういうの考えてみてみすちーだったらなんて言うかなって思って、でもいまは言わないでおいて、みすちーの髪に触れるとみすちーはわたしのことを見上げる……
笑った。
「あ、響子がいる。かわいい」
わたしはわざと苦い顔をしてみせる。
でも、わたしもみすちーのことは好きだよ。
だけどさ、今さらそんなこと言ってみたって、みすちーがまるで冗談のようにあんなにわたしのこと言ったあとじゃなんだかそれも一緒になってふざけているみたいだし、あるいは単なる意趣返しのようでしかなくなっちゃうから、わたしは言えない。この季節にはみすちーのわたしへの愛が大きすぎてわたしの持ってるやつはなんだかちょっとした付属品みたいに思える。
フェスタが風雨に先行するように、みすちーの愛がわたしのこの思いに先行にするように、事物には速度がある。
フェスタは風雨よりもみんなの関心を集めるから、むかし雨に憂鬱だったみすちーの季節はいつのまにかフェスタの季節になってしまうし、みすちーがわたしのことをこんなに好きだとか言うからわたしが言うやつは単にそのおかえしみたいな感じがする。
実際わたしは歩く速度だってあんまりはやくないのだ。
だから歩くときはいつもみんなのいちばん後ろをついて歩くし、山彦として生まれたせいでみんな言ったことを誰かがそう言った後で繰り返して言う癖がついてしまっている。
わたしは表現形式としてパンクを選んだけれど、それはとっても単純なことで、みんなが「おはよう!」って言う前に「おはよう!」って言いたいなってわたしは思うのだ。わたしのいつかみんなに先行したいという思いが、かき鳴らす音楽のBPMの速度を規定して、反体制という形式を選ばせて、わたしは歌うけど、でもわたしいつも朝は眠い。お寺の誰よりもはやく起きるから眠いのだ。境内の掃除とか洗濯とか、やらなきゃいけない雑事がたくさんある。寝ぼけ眼で向こうから歩いてくるのが、聖なのか、星なのか、どのくらいまで近づいたらおはようって言おうかって考えてるうちに、先に向こうが、おはよう! って。
『あ、おはよーございまーす…!』
ほんとは、べー、と心のなかでは舌だって出しちゃうな。
いつかみんなに先行したいっていうわたしの思いがパンク・ロックという表現形式をわたしに選ばせたわけだけど、でも、みすちー、わたしはやさしいうたが好きだよ。表現形式は表意内容を規定しない。みすちーの髪はわたしの指の中で溶け出したりしない。みすちーがわたしに先行したってそうじゃないとしたって、わたしはみすちーのことが好きだよ。
もちろん、そんなことは言えないし言えないから言わずに黙ってみすちーの髪に指を入れて梳いている。
この季節特有のみすちーのだらしない生活が、指先で少し絡んだ。
みすちーは上目遣いでわたしを見上げてた。
「ねえ、響子、わたしさ、響子の膝の上に住みたいなあ。ローン組んで一軒家建ててさあ、4LDK和室つきでね、でも事故物件だからきっと土地は安いよ。地盤に安定性ないし、犬くさいもん」
ふふふふ、とひとりで笑う。
フェスタがやって来ると、みすちーはどうしようもなくなってしまう。
あるいは、わたしのことが大好きでたまらなくなるのだった。
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わたしだって本当にみすちーのことが好きなんだよ。
みすちーの望むことはできるだけしてあげたいな。 ほんとだよ。
全部を愛してるんだもん。
たとえばみすちーがいつも地中海風のあの店で買っては屠る
ロータス・カラメルビスコフの一枚一枚だって好きなんだ。
その口の中で溶け出してざらざらと舌を撫でる触感の。
そのビスケットは内容量が多いでしょ。
それだからみんなはみすちーの部屋の片隅の籠の中の個装のされた
そいつを何気なく手にとっては口の中で溶かして亡くしてしまって。
みんなが帰ったあとで
みすちーの夜にはほとんど残ってないし
わたしだって何も言わずに持ち帰ったりさえするけれど。
みすちーが望むならわたしは
みすちーのロータス・カラメルビスコフを一枚だって
誰にも奪われないよう全部守ってあげる。
人間の里にある全部の小洒落た雑貨屋に押し入って。
輸入品のお菓子が並べられたコーナーで
すべてのロータス・カラメルビスコフを占拠したら。
買い物かごいっぱいのビスケットと夜。
みすちーの小さな家の鍵穴にはわたしの二本の鉄製の細い爪。
(そうだよ。それは実際わたしの身体の延長だったんだよ。
みすちーのアパートの鍵をこじ開けるっていう機能付きのさあ……!)
それを鍵穴に差し込んで。
穴の奥で。
音を立てて。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱち。
ぱち。
ぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
「あ。」
ぱちん……
押し開けたみすちーの玄関から部屋の中に。
忍びこんで。
籠の中のビスケットの一群の失われた空隙に新しいそれをそっと差し込んで補充するの。
朝になるたびになくなったはずのビスケットが蘇る!
まるでゾンビーみたいに。
ちょっとした悪夢みたいに。
何度も何度も何度も何度も何度も。
蘇る。
悪夢を見せてあげたいな
みすちーに。
暗い夜じゃなくて 朝に。
わたしはみすちーの悪夢にだってなりたいんだよ。
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ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
嵐は未だ続いている。
立て付けの悪い窓が激しい風に耐えかねて、きいきいと震えている。
この森のみすちーの小さな家は空き家だった場所をいつかみすちーが見つけて勝手に移り住み屋台の常連さんの河童かなにかに詳しいやつがいたから直してもらって今は住んでいるとみすちーが前に言っていたと思う。
傾ぐ家、とみすちーは言ってた。
それは屋台のことを動く家と言うからだったけれど、たしかにその小さな家は玄関のほうに向かって少し傾き、部屋に入ると丸いものとかころころころころころ転がるのでそれがもっとよくわかる。わたしが好きでよく読んでる雑誌『人と生きる妖怪のための節約生活』のvol.19の大見出しが、『素敵な家をつくろう!』なこのハンドメイド超時代に傾いた家なんてたいして珍しくもないけれど、わたしのまた別の好きな本に空き家を見つけてふたりで住み着いて映画とか見ながらだらだら暮らす妖怪たちの話がありわたしはそれに憧れたりもしたから、そういうのもあってわたしはその家のことが好きだったけれど、みすちーは別に思い入れはないみたいで、てか今度一緒に別のところに移り住もうよみたいなこと言って、あ、いいよね、バンドで成功したら豪邸とか建てちゃってさあ、あ、あ、でも二人で小さな家つくってそこに暮らすみたいなのもわたしそれはそれで好きだな、って言えば、みすちーはため息。未来の話はいいのよ、わたしたちは妖怪なんだからそのへんで寝ればいいじゃん、別にここにふたりで住んでもいいけど、そうやって響子は結論を先延ばしにするよねえ、お寺に入ってるのとか、禁欲? わたしのこと愛さないようにいろいろ努力してるわけ?って……。
わたしはみすちーのこと好きだけど、わたしはみすちーの望むことをなんでもしてあげたいけど、ほんとにそうしたらわたしはみすちーみたいにいろいろできるわけじゃないしタフでもないからその日暮らしの生活なんかしたらきっとそのまま死んでしまうな。
なーむ。
いや、まあ、そんなのはどうだっていいんだけどさ。
締めたはずの窓の隙間から鋭い空気が入り込み、少し飛沫いてる。
外では雪が降っていた、ってわたしは思い出す。
でも、それはこうして窓ガラスに打ちつけるその音を聞く限りは雨のようだった。
そうだった、それは、雨だったんだ。
外では雨が降っていた。
ここは冷えている。
なんだか眠くなる。
みすちーが言った。
「ねえ、今日はいつまでいれるの?」
「そんなにはいれないよ」
「なんで」
「明日も朝からお寺の修行とかあるし」
「だめだよ」
「だめじゃないって」
「いつもだって来るの大変なんだよ」
「大変じゃないー」
「なんでみすちーがわかるのさ」
「わたしは響子のことが好きだから響子のことはなんでもわかる」
「わたしもみすちーのために努力してるよ。今日も来るの大変だったもん」
「それも知ってるわ」
「嘘。今日は来るの簡単だった」
「はー?」
「今日は不思議な日だったの」
今日は不思議とみんなの機嫌がとてもよい日だった。
聖は簡単に外出を許してくれたし一輪がお酒を飲んでたのを見かけても怒らなかった。そもそも一輪なんかはお酒だっていつも隠れて飲んでるのに今日は明らかに上機嫌で境内に座って酒盛りしてたし村紗もお風呂場でおもちゃの船を浮かべては沈めてひとりでにへらにへらと笑ってた。星は何もかもをなくしまくるしみんながはえーそれもねえなどと驚いてるところについでもっとずっとたくさんの何もかもをすでになくしまくっていることを言葉を発することによって明らかにしてナズーリンは星と一緒にそれをひとつ残らず探しに行っても怒らない。いつもなんかいらいらふらふらしてる女苑だってわざわざ修行に顔を出して誰彼かまわずみんなを捕まえてはこんなこと語っていたし「わたし日記をつけはじめたのよ。日記ぃ……っていうか家計簿か。この前拾ったの。悪いとは思ったけど悪気もなくそれ見てたらその人のことなんも知らないけどぜんぶがわかる気がした。なににはまっててどんな食べ物が好きでどんな女がいてしっかりしてるんだろうけど自分に甘いんだなとか。それがおもしろくてねわたしもつけてみようと思ってつけてもう二週間もやってるよ。それで姉さんにもさあ、つけろよって言ってつけさせてさあ、姉さん馬鹿だからさあ、いやわたしそもそもお金ないし……みたいなこと言ってさあ、いやいや逆じゃん! 家計簿つけないからお金とかたまんないじゃん、ねえ? それであとでちゃんと姉さんがつけてんのかチェックしに行ってさ、まあつけてたんだけど、あんな姉さんでもまったく金入ってこないなんてことないのよ。入ったらすぐに使ってなくなって。出たり入ったり出たり入ったり出たり入ったり……それ見て……ちょっと考えて……あーつまりねわたしとおんなじなのよ。スケール感がちがうだけでさ。わたしも入った金とかすぐ入るからと思ってすぐ全部使っちゃうね。それ見て……ちょっとばかし考えてね……つまり家計簿ってバイオリズムなんだわ。それが生命のリズムなのよ。わたしたちって姉妹だから同じ血と同じタンパク質でできてるからやっぱに似るんだなあって思って姉さんに言ったら、姉さんはこんなこと言ってた。出たり入ったりするのはみんなそうじゃん……って。その意味わたし考えてみて、みんながみんな同じ生命のリズムで生きてるから似てるのよ、全人類がみんなね。それなら。全人類姉妹じゃん。うちは家計簿とかつけてんの? 絶対つけたほうがいいって。坊主とかみんな生臭なんだから、あいつみんなに節制!みたいなこと言っててほんとはなんに金使ってんのかわかったもんじゃないわよ。わたし生まれはロサンゼルスだけど向こうじゃみんな家計簿つけてたよ。あんたはつけてるの? いまどき家計簿とかつけてないのまじだっせえって……」そういや、さとり妖怪のあの子約束守ってたことなんかなかったけど今日はちゃんと約束の時間に現れて言ってた。「はろー」。そういうわけで今日の命蓮寺はいつも修行してないやつばかり修行に回っていつものメンツはサボりに回るという具合でそれはそれでどうだろうと思ったけれど、とにかく今日はお寺のみんなだけじゃなくて会う人会う人みんながすごく上機嫌で楽しそうだったし参拝のお客さんも募金とか賽銭とかずいぶんしていたみたいだし托鉢に回ってもいろんなものがもらえた。
そういう日はある。
誰かになにかいいことがあってとっても上機嫌になって、その気分によってやさしくなったり普段なら恥ずかしくてできいようなことをするからそれがまた周りの人に移って、その人もまた別の人に出会って、それがまた別の出会った人、別の人、別の人、人……というように、よい気分がまるで歯車がかちっとはまるみたいに噛み合って伝播して人と人の間でくるくると回るような日が。
だから今日はみすちーもとてもいい気分でいると思ったけれど。
たしかに今日のみすちーはいつもとちがう不思議なテンションだったけど、でも、それは単にフェスタのせいなので。
フェスタの季節にはみすちーはどうしようもなくなってしまう。
たとえ他のみんなが一人残らず上機嫌なこんな日にさえ。
「じゃあ、いいじゃない。今日は帰らなくても怒られないよ」
「きっと明日になったらまたいつもの日々が戻るよ」
「いつも日だって遅くまでうちにいていいのよ」
「だめだよ」
「どうして」
「朝早く起きてやることたくさんあるもの」
「たとえば、なに?」
「境内の掃除とか」
「はあ、お寺なんかさあ……やめちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかないんだって。わたしは立派な妖怪になるんだよ」
「響子は立派な妖怪になんかなれないよ」
「なんで」
「だって、響子ってもうそこそこまっとうじゃん。神様や聖人は真面目な人間を愛さないものだよ、家なき子や悪人たちと比べてね」
「どうして?」
「同族嫌悪だよ。生態系のなかでニッチを獲得するための衝動よ。生命体ならみんなするでしょ」
「聖はそんなことしないよ」
「はー。むかつく」
「でもみすちーはわたしに会うとかどうでもいいんじゃないっけ?」
「そうだけど、でも響子はわたしにいつでも会いたいでしょ? わたしは響子のことが大好きだから響子の願いができるだけ叶ったらいいなって思ってるんだよ」
「わ、わたしだって……みすちーに会いたくないみたいな日はある……かも」
「そうなの? それは寂しいな、わたしはいつでも響子と一緒にいたいのに」
さみしい、さみしい、さみしい、と呟きながら、みすちーが腕を伸ばして腰のあたりにまとわりついてくるので、引っ剥がして、わたしは立ち上がり、みすちーのギターのところまで歩いて取った。集まった衣類たちが外灯に集った蛾のようにいっせいに舞う。洗剤を水に溶かした霧吹きを吹きかけたみたいに、ぼた、ぼた、ぼた、と力なく羽ばたいて落ちていくのだ。ギターを持って戻ると、みすちーは布団のなか、座り込んで、包まって、遠い目で見つめてた。わたしはみすちーの隣にギターをそっと置いて、ほら練習しようよ、そろそろちゃんとやんないと……って、言った。
みすちーは肯いた。
「そうね。フェスタも近いしね」
「うん」
「あー、でも、困ったな……」
「なぁに?」
みすちーはギターを取り上げてみせて、ちょっと微笑んだ。
わたし、コードをぜんぶ落としちゃったの。響子のことが大好きでね、響子のことばっか考えてたら、ギターの弾き方を忘れちゃった。
それからギターを構えて、おぼつかない指先で弦を押さえて、右手を振った。
じぃいいん、と奇妙な音が鳴った。
笑った。
「ほらね」
わたしはため息。
「もう、またそんなこと言ってさ」
「ほんとだよ。てか響子のせいだよ。響子がこんなにわたしに大好きにさせるから」
「じゃあ、わたしが全部教えてあげるから。それなら、いいでしょ?」
「やったー。好きな子にギターの弾き方を教えてもらうシチュエーションとかなんだかとってもいいよね。えへへ。忘れて得したね」
「ばっかじゃないの」
でも、驚くべきことに、みすちーは本当にギターの弾き方を忘れていた。
コードを押さえる手の形も、弦を爪弾く指の形も、なにひとつみすちーのなかにたしかな形として残ってはいなかった。
かたないから、わたしはひとつずつ教えるしかなかった。
みすちーの背中の方から腕を差し込んで、わたしはみすちーの手に手を重ねて、コードを形作り、それがみすちーの記憶のどこかにある形にぴったりと当てはまるように少しずつ指を動かしながら、探した。
「ほら、これがFコード、思い出す?」
「んー。なんかしっくりこないわ。間違ってるんじゃない?」
「間違ってないもん」
「いや、絶対ちがうって。あ、わかった、響子もほんとはあんまりよくわからずに弾いてるんだ!」
「ああ、いた、いたい。ごめん、ごめんって。てか、こんなの無理だって」
「つい昔までできたんだよ?」
「いや、そんなの……ああ、だめ、だめ。っていうか、わたしって、こう見えてもけっこう理論派だから、もっとコード理論の起源からその発展まで体系的に論理的に学術的に教えてほしいわ」
「文句言わない。そもそも昔もそんなの知らなかったじゃん」
「あ、もしかしてFコードって響子が発明したの?」
「ちがうよ」
「わたしの響子が好きだから響子のやつが覚えたい」
「わたしのコードとかないよ」
「じゃあ響子の曲とかやりたい」
「わたし曲とか作れないもん」
「ふふ、ほんとに? じゃあまた作ってから教えに来てね。さよなら」
「ばか」
「いた、いたい、いた、いた……指、ゆびぃ……引っ張らないで」
「指を引っ張って関節を伸ばせば弦が抑えやすくなるよ」
「そんなあほなの誰が言ってたの」
「みすちーじゃん」
「いたいいたいいた、あれ嘘だって!」
「知ってるよ」
それでも、少しやれば、わたしよりもずっと上手に弾けるようになる。
そもそもちょっと前までちゃんとできたことなのだ。
コードをひとつ思い出してしまえば、連想して、すぐに全部が出揃う。
「すごくない? わたしって天才だわ。いや、ちがうな。あたいったら、天才ね」
「はいはい」
でも、みすちーはギターの弾き方を思い出したことですっかり満足してしまったようで、それからは例のわたしに関するしょうもない歌(わたしがまるで粉だとか貨幣制度がどうとかすべての飼われる犬がわたしならどうだとかわたしがペットショップにいて値段をついてるからこうだとかシャングリ・ラを探して旅してたら結局わたしのそばがそれだったとか)ばかり、ぽろぽろと弾いて歌って、それはもう練習どころではなかった。
なんだか眠いな……。
あくび、メロディーライン、少し遠いところでは水飛沫。
みすちーはギターを弾いてた。歌っていた。
わたしの知らないコード進行、溶けるような不協和音、どこから拾ってきたのかも知らないそれを並べては奏でて、みすちーはすぐに忘れてしまう。
たとえばこんな雨降りの季節にはみすちーは覚えたコードをまるきり落としてしまうから、フェスタやライブのために用意するみすちーの音楽はすべてわたしの覚えておけるやつばっかりだった。
みんなが知らないことで、たぶん知る必要もないことだったんだろうが、わたしと出会う前、みすちーの歌う曲はいつでも全部即興だったのだ。
みすちーには特別な音楽の才能があったようにわたしには思えるけれど、みんながそれをよく知らないのは、みすちーには再演性がちっともなかったからじゃないだろうか。大好きな曲は何度も聞く。何度も歌う。そうして覚える。記憶のなかで大切な位置をしめる。それがやがてClassicになる。たとえ誰かがみすちーの曲で大好きになるものがあったとして、それをみすちーはもう二度と歌うことができない。そしてそのうちにそんな曲があったことさえ忘れてしまう。
その意味で、今のわたしはみすちーの楽譜のようなものだけれど、みすちーの歌をすべて記すには、わたしという楽譜の適用範囲はあまりにも狭すぎて、それにすでにごちゃごちゃといろんな別のもので溢れて余白がない。たとえわたしがみすちーの歌をうたっても同じようにはできない。わたしの覚えることのできるやつは、わたしの理解することのできる、覚えることのできる、単純な構造のものだけだった。こんな日にみすちーの口ずさむたくさんのその歌を、あとになって、わたしは歌えない。それはもちろんみすちーにしてもおんなじことだ。
そのことを、みすちーは、いいんだよわたしの歌はぜんぶ響子の聞いてもらうためだけの歌だもん、とか言う?
わたしは寂しい。悲しい。みすちーの複雑な音楽をちゃんとわたしが記憶して再演奏できるのならバンドとしてもっとよいパフォーマンスができるんだろう。フェスタでだって有名になれるかもしれない。みすちーはわたしのために、わたしたちのバンドの音楽をわたしにも歌うことのできる演奏するのことできる単純なもののみに留める。みすちーは本当はバンドのこともフェスタのこともどうだっていいいんじゃないかって思うときがある。みすちーは、いま、今日のことにしか興味がない。
わたしは、明日は、って思うよ。
明日はきっともっと難しいリフを弾けるようになりたいし、明日も明後日も明明後日もみすちーに会いたいって思う。
Recordになれないみすちーの音楽……。
再演性のないみすちーとの今日にわたしはみすちーほどに浸りこむことができない。
なんだかみすちーは消えてしまうそうだっていつもわたしは思ってるから。
外では雨が降っている。
たとえばその雨の中をみすちーとわたしが歩いていたとしたらどうだろう。
わたしはみすちーの少し後ろを歩いている。雨は地を濡らし、黒く色づける。みすちーは黒く濁った地のなかから雨粒を拾い上げることができる。あるいは、それを音に変えることができる。そして、三歩歩いてそれを捨ててしまう。わたしはそれをまた拾い上げようとして見つけることができない。わたしにとっては水溜まりに浮かんだ水はすべてが水で、そこから雨粒を見分けることがもうできない。わたしがみんなの後を着いて歩き、言ったことを繰り返してしまうばかりなのは単なる精神の傾向性の問題だけれど、わたしがみすちーの後ろを歩くのにはたしかな理由がある。
だけど、たとえみすちーの落としたコードをひとつひとつ拾い集めても、みすちーの歌になるわけじゃない。
みすちーは歌っている。
「あぁああーーきょーこーはなんだかーまるで粉のようー、きょーこはまるーでー、ふくろいっぱいの粉のよぉー」
それは、わたしの知らないかたちのコード、わたしの知らないわたしのこと。
だから、きっとわたしはすぐに忘れてしまうんだろう。
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みすちーの歌うこと。
喋ること。
思考すること。
それらにちっとも再演性がないことはまるで雪のようだった。
雪の日みたいだった。
みすちーはわたしに歌ったこと喋ったこと 考えたことを
すぐに忘れてしまう。
そこには微妙な何重の層的な因果がある。
みすちーが鳥の妖怪であること。
風雨。 フェスタ。
みすちーの粗雑なローテク風の態度。
妖怪は存在が出自に深く結びつき来歴とそのイメージによって性質が固着してしまうから
鳥の妖怪として生まれたみすちーは記憶力においても鳥のようだった。
鳥が本当に鳥頭って言われるみたいに何でも簡単に忘れてしまうのかとか
そんなんはもうわたしはぜんぜん知らんけど
人間たちの想像力によって形づくられた妖怪のみすちーはそのイメージを引き継ぎ
やっぱり物事を簡単に忘れてしまう。
それにそもそもみすちーはみすちーの個人的な性質として思いつきのてきとーを言いがちだし
風雨/フェスタの季節が近付けばその傾向はよりひどくなる。
だからみすちーの音楽や思考や発声はすべてが雪のようで
それは記憶としてみすちーのなかに積もるんだろうけど(あるいは地面に落ちた途端に
その熱によってすぐに溶けてしまうのかも)
積もったところで
いつか溶けてなくなってしまう。
みすちーの頭のなかには雪が降っている
ってわたしは思う。
みすちーは喋り また 喋り
喋り 喋ることによって
喋ったそのことを喋ったその次の日には忘れてしまう。 ときがある。
まるで雪の上の足跡が
降り積もる雪によって覆われて見えなくなってしまうみたいに。
みすちーの言葉は
また別のみすちーの言葉によって
覆い隠されて見えなくなり 辿って来た道さえわからなくなってしまう。
その意味で みすちーは今も深い雪の積もる山の中にひとりでいて 残してきた足跡も
行く先の道標も 見えず 今日 今日 今日のことだけを
歌う。
そこでは雪が降っている。。。
(そうかな?)
「たぶん そう。」
「やっぱ ちがうかも。」
そういえばみすちーが自分について話してるのをわたしはあんまり聞いたことがない。
屋台でもみすちーは人の話を聞いて肯いたり相槌をうったり
他愛のない 世間話やよくわからないことなら いくらでも喋るけど
みすちー自身のことについて何かを言うことはほとんどない。
(ねえ。だって
わたしの聞いたみすちーの歌は
全部がわたしのことを歌ったものだったよ。)
ここには閉じられた再帰的な証明があってみすちーが自分の思い出について語らないことが
みすちーが自分の思い出を語れないことを裏付けている。
それはたとえば重力と肯くことの間にも言える論理的不十分の証明で
たとえばわたしたちは重力を肯定しようと思ったそのときに肯くのだけれど
首を振るという動作が頭蓋の重さによって首が上から下へと垂れ下がることから成っているように
肯くことは重力に支えられている。
だから重力は正しい力であり
正しい力によって
みすちーの頭の中で雪は降る。
あるいは
この星のわたしたちに平等な力によって
わたしはみすちーの言うことに肯くことができるのかもしれない。
「あ。雪。 雪が降ってるよ!」
それを そうだよ。 って 言うことかできる。
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「は? え、ね、もぉ、帰る、の」
って、みすちーは、言った。
しばらく経ったあとで。
「じゃないよ……」
逆回せば、小さな疼きがある。
喉の奥に。
さっき入れてもうぬるくなってしまったコーヒーを押し流しても、妙に苦いばかりで、余計に乾くし張りつくしで、雨降りの日はどうしてだろうかえってなんだか喉も渇くしなあとか考えて、みすちーを見ると、やっぱり歌っていて、よくもまああれだけ歌い続けられるものだと思って見ていると、みすちーはわたしを見て笑った。アンコール? わたしは、べー、って舌を出す。
やっぱ喉のつくりとかそのへんがちがうのかな、叫ぶことならわたしにも分があるからそれは機能構造の問題なんだろうな、とか、わたしも隣でいっしょに歌おうか、いややっぱりそんなのすごくばかっぽくてやだなあ、水でも飲もっかな歌えばきっと乾くだろうからみすちーのぶんもまた持っていってあげようって思って、立つと、もう帰るの、とみすちーは咎めるような口調で言うんだった。
「そうじゃないよ。水でも飲もうって思って」
「だめ、だめ、だめ」
「だめじゃないよ」
「だめだってば~~~」
でも、わたしは水を飲む。
わたしがシンクのとこで水を飲んでいると、水を飲んでいるわたしのところにみすちーがやってきて、わたしが水を飲んでいるのを見てた。
なんだか気まずく思ってわたしは水を飲むのをやめて、なぁに、とみすちーを見ると、みすちーは言った。
「遊びに行こうよ」
「え、どこに?」
「どこがいい?」
「もう時間も遅いし、それに雨だってすごく降ってるよ」
「だめなの?」
「だめ……とかじゃないけど。雨」
「傘差してけばいいよ」
「どこに行くの?」
「どこ行きたい?」
「どこ……うーん」
「人里は?」
「こんな天気だと人も来ないし店とか閉まってると思うな」
「じゃあ、どこ?」
「みすちーの行きたいところでいいんじゃない?」
「わたしはどこでもいいよ。わたしは響子のことが好きだから響子の行きたいところに行きたいな」
「わたしも特にないけど……」
「たまには響子もアイデア出してよ。こうゆうときいつもわたしばっか決めてるもん」
「じゃあ、公園……とか」
「公園? ふふ、公園、公園って、公園なんか存在しないわ」
「公園はあるじゃん」
「ない、ない、ないって。ないから、どこ?」
「えー? わかんないよ。わたし、いつもお寺の修行ばっかで遊びに行くとかあんまないし……」
「じゃあランドリーでいっか」
「ランドリー?」
「コインランドリー」
「こんな天気なのに?」
「そうだよ。わたしずいぶん洗濯物たまっちゃってさ、それだって響子のせいだよ、響子のこと考えてたら洗濯も手に着かないって具合でね、だからたまるんだけど、いまは響子もいるし、今日のうちに全部洗濯しちゃいたいなって思うの、ごめんね、一緒にきてもらっていい?」
「べつにいいけど」
「やったーありがとね。あ、でも、そもそもは響子のせいなんだからね?」
「はいはい」
それで、わたしたちはコインランドリーに行くことになった。
コインランドリーはこの幻想郷に各地に全部で八箇所、たとえばみすちーの家からいちばん近いところなら、妖精たちの住む森の奥にひとつある。それらは河童たちの手によって建設され、そのサービスは、この地に住むものすべて、それが妖怪でも人間でも妖精でもどんな種族に対しても無料で提供されている。
そもそもコインランドリーの発生と歴史は、住宅用洗剤/アーケードゲーム間の短い戦いの物語に深く結びついていると言われている。
その物語は竹林の病院に住む月の兎たちが発明した住宅用洗剤からはじまる。
それがどのような理由によって発明するに至ったかということはわたしには知るよしもないけれど、想像してみるに、やってくる患者たちの衛生環境を気にしたとかあるいはもっと単純にそこで働く兎たちがまいにちの洗濯の面倒さに不平不満を漏らしてわーわーと喚いた結果とかそんなところだろう。とにかく住宅用洗剤というのは穢れを落とすためのものなのだ。話によれば月の人々は穢れというものを恐れるらしいし、月のお医者さんはどんな薬だってつくることができるようだから、服の汚れを簡単に落とすことのできる薬くらい簡単に発明することができたんだろう。そうして発明された住宅用洗剤はすぐにこの幻想郷中に広まった。すごく便利だったから。わたしもよく使った。お寺のみんなの服を洗濯するのはわたしの仕事だったから、ずいぶん助けられたものだった。今までは洗濯板を衣服にこすりあわせて時間をかけてごしごしと汚れを落としていたのが、洗剤につけておいてから洗い始めるとものの数十秒で綺麗になってしまう。だからみんな使った。それはそれでよかったのだけれど、やっぱりこういうよかったよかったの話になると、それではよくない人たちもでてきて、それが河童たちだった。河童たちは、洗剤のせいで水が汚れる、と言うのだった。わたしなんかはあの洗剤のおかげであんなに服が綺麗になってしまうんだから、水だって綺麗になるんじゃないかって思うのだけれど、どうもそういうわけにはいかないみたいで、水質とかその手の問題らしい。ぬえのやつなんかは河童たちは心が汚いから洗剤のせいで浄化されてしまうから痛いんだよ、と言っていて聖に頭を叩かれた。なーむ。とはいっても、河童たちが洗剤に対してあれこれ文句をつけたところで、それはすでにみんなに広まってしまっているし、いまさら洗剤なしで洗濯もなあ……という感じで、事態はいっこうに変わらないのだった。
それで河童たちはどうしたか。
憂さ晴らしすることにしたのである。
具体的にはゲームをつくった。『ムーン・インベーダー』と河童たちの間で呼ばれていたそのシューティング・ゲームは、今ではみんな人里で遊ぶことのできるあのアーケード・ゲームの元祖的な存在だけれど、当時は河童たちの間でだけ遊ばれていたという。グラフィックも今のものに比べたらすごくシンプルで、ゲーム性だって、画面の奥に並んだ敵キャラが飛ばしてくるまっすぐにしか飛ばない弾を水平方向にしか動けない自機でよけながらのろい弾を飛ばして画面奥の敵に当てるという単純なものだった。ただ、敵のキャラクターはすべてのあの月人たちと兎たちということになっていて、それをひたすらやっつけ続けることで、河童たちは川を汚す洗剤に対する怒りを発散していたのだ。そして、やっぱりその詳しい経緯はわたしにはよくわからないけれど、あるとき河童の知り合いの誰かがそれを見つけてためしに遊んでみたところ、これはとてもおもしろいぜひともみんなにもやってもらおうよ、ということになって、『ムーン・インベーダー1』が人里にも設置された。それは人里のみんな休憩場所や待ち合わせに使う甘味処に置かれて、里の人々やあるいは紛れ込んだ妖怪たちや妖精たちの暇つぶしとして、そこそこ流行った。
その流行に気をよくしたのかいい儲け話だと思ったのか知らないけど、河童たちはその改良版というか続編というか、とにかく新しいヴァージョンを開発した。
もちろん、それこそが、わたしたちのよく知る『ムーン・インベーダー2』である。
それはものすごく流行った。みんなやってた。どこにでもあった。一輪なんかは大好きなお酒を手に入れるために聖からずっと隠しておいたコインをすべてそのゲームに注ぎ込んだ。すぐに飽きちゃったけど、実はわたしもちょっとやった。それは、人里にも妖精たちの森の中にも霧の湖のそばにも守矢神社の境内にも地獄にも天界にも光の差さない地底の奥にも、この地のどこにだって偏在し、誰も触れない夜には暗闇のなかで唯一ぴこぴこと光ってプレイヤーがやってくるのを待っていた。こんなふうに鳴りながら……。
コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね……。
そうだ、コイン。
あの頃のみんなにとってそれはとても大切なものだった。みんなは袋いっぱいにコインをつめてその『ムーン・インベーダー2』のもとに集った。その頃、コインには、ゲームを一回プレイする、という以上に重要な役割があった。『ムーン・インベーダー2』は『ムーン・インベーダー1』のあらゆる意味で改良版であり、そのゲーム性においても大きな進化がある。たとえば、初代『ムーン・インベーダー』では自機は横に動くだけで敵の弾もまっすぐ飛ぶだけだったけれど、それが2になると、自機は画面中どこでも動くことができるようになっていたし、敵もいたるところから現れて多種多様な弾幕を飛ばすようになった。画面は常に前方向に向かって前進し、その歩みの先にはボスがいた。『ムーン・インベーダー2』には進行があり、つまりそれは物語があるということだった。物語は単にゲーム性に留まらず、テキストの形でもわたしたちに提示された。その内容自体は初代にあったものと大きな変化はない。それはつまり正義の河童たちが川を汚す月の兎やお医者さんたちをやっつけていくという物語である。河童たちは月の刺客をつぎつぎと懲らしめながら、その間にだんだんと月の地球に対する悪しき陰謀も明らかになってきて最後には河童たちが月まで行ってそれを滅ぼしということになっている。らしい。
らしいっていうのは、最終ステージまで辿りつけた子がわたしの周りに誰もいなかったので、それが本当のシナリオなのかどうなのかか実はわたしにはわからないのだ。このゲームはステージを進むごとに難易度が冪乗的に増えていくんだけれど、それに加えてそもそも開始時に選択する難易度がいちばん難しいやつじゃないと最後のストーリーが見れないようになっていた。いちばん難しい難易度に関しては、わたしのまわりでは一面ですらクリアできた人はいなかった。だからかえってみんなはその秘匿されたストーリーをなんとかして見ようとした。そうすると、必然的にコインが必要になるのだった。この『ムーン・インベーダー2』の初代になかった追加要素として、コンティニューがある。ふつーは自機がやられちゃうと最初からやり直しになるんだけれど、コインいっこ入れることで、そのステージからもう一度遊ぶことができたのだ。だから、コインは、それを最後までクリアしたかったみんなにとって、とても大切なものだった。
とにかく、そんなふうにして、『ムーン・インベーダー2』は子どもから大人まで妖精から吸血鬼までみんなが繰り返しコンティニューしてやまないゲームになったのだけれど、すると、ここで河童と住宅用洗剤の対立が再び浮上してくる。というのも、みんなは『ムーン・インベーダー2』を愛して幾度もコンティニューしてやったので、何度も繰り替えし再生されたそのシナリオは、いつしかみんなにとって自分のシナリオのようになってしまった。月からやってきたあの住民たちは川を汚し地球を滅ぼそうとする悪しき侵略者であり、川を守ろうとする河童たちの主張は本当は正しかったんだと信じ込んだ。もちろんそれは単なるフィクションで、あるいは物事の一面で、月からやってきたあの人たちが侵略者だっていうのはまったくの事実無根だったんだけれど、当時のわたしたちはそれくらいあのゲームに熱中してしまっていたのだ。
それからの経緯はやっぱりわたしにはわからないけれど、あの月人と河童たちの(架空の)宇宙戦争は最終的に、コインランドリーを建設する、という形で収まったのだと思う。アイディアと資金的な援助は月の住民から。技術的課題の解決はもちろん多くを河童たちが担っている。コインランドリーの主要な部分、つまりそれはあの洗濯機械たちのことだけれど――は月の生活器具を雛形にして作られているという。効率的に穢れを払うために月の民が発明した最適化された魔術――回転運動は河童たちの技術によって大きな箱型の機械に落とし込まれ、そして、人々は、四角い機械に洗濯物を放り込むだけで、洗剤を使わなくても、時間をかけて水に浸した衣類を一枚一枚こすらなくても、服の汚れを綺麗に洗い上げることができるようになった。
今ではこの幻想郷には17のコインランドリーがあり、それらすべては月人の資金的な支援と河童たちの定期的な整備によって維持されて、この土地に住む全ての人々が無料で利用できるようになっている。
にも関わらずそれがコインランドリーと呼ばれているのには、やはり月人と河童たちの間の本当は起こりもしなかった小さな戦争に由縁がある。つまりはこの土地の誰もが一度はやったことのある『ムーン・インベーダー2』とそのゲーム・システムに。つまり、それは、コインランドリーの存在を宣伝するために各地に配られたビラや天狗新聞の記事やちんどん屋さんの言葉たちの中でも必ず一緒に謳われていたその文句にもあったように『貴方の衣類がまるでコインいっこのように簡単にコンティニュー!』ということなのだ。
それにしても彼らの月からの住人の寛容さと忍耐の強さには驚くべきものがある。彼らは悪意によって事を起こしたわけじゃないのだし、にも関わらず、最終的には河童たちの融和に大きく譲歩している。実際、月からの住人たちの度量には河童側からも敬を表して、この幻想郷のある17つのコインランドリーには月の海の名前が付けられている。
だから、みすちーの家から『静かの海』までは、歩けば、ほんの二十分くらい。
で、すぐ着く。
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『ムーン・インベーダー2』を一度だけわたしがプレイしたときの話。
ある夜にわたしはお寺を抜け出してぬえと子傘の三人で
命蓮寺のそばの森の中でそのゲームをやった。
森には土を固めて舗装された道があった。 それを辿って少し行く先に三叉路があって
そこにそのゲームの筐体はあるという話だった。
わたしたちはそこを目指して三人で歩いていた。
深い夜のことだった。
曇り空の夜だったっけ。
月は厚い雲に覆い隠されて森の中は暗闇だった。
かすかな風に木々の葉のこすれて揺れる小さな音が聞こえた。
はさはさはさはさ。
はさはさ。
はさはさはさはさ。
って。
懐中電灯はぬえが持っていたと思う。 意気揚々と一番前を早足に歩く小傘と
少し後ろから着いて懐中電灯の明かりで少し前の道を照らして歩くぬえ。
わたしはいちばん後ろから追いかけてた。
お寺を抜け出してきたってこともあったから。
みんなどこか緊張してた
がさがさ。
って小さな動物たち茂みを揺らす音にさえ ぴくり。 と震えた。
小傘が言うことのにぬえが答えた。
「あ。たぬきかな……?」
「まさか。」
「じゃあ。なんなのさ?」
「さあねえ。」
「てか。まだたどり着かないのかな。」
「小傘って暗いとか怖いわけ?」
「なんで。わちきは妖怪だよ。」
「みんなそうじゃん。ねえ響子。」 「うん 。 。」
わたしたちはなんだか奇妙に浮き足立って
噂に聞くゲームのことを
ああでもないこうでもないとか話し合いながら歩き続けた。
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やがて遠いところから音が聞こえてきた。
ぴこぴこ。
ぴこ。
ぴこ。。 ぴこぴこぴこ。。 。
ぴこ。
ぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこ。
ぴこぴこ。。 。
閑静な夜の森に妙に響く電子音。
近づくにつれて少しずつ電子音が声に変わっていった。
ぴこぴこ。
ぴこ。。 。
ぴこ。 ぴこぴ こいんを。
ぴこ。 。 こいんを。 こいんを。
いれてね。
コインを。 いれてね。
コインをいれてね。
コインをいれてね。。 。 。
コインをいれてね。
コインをいれてね。 コインをいれてね。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれて
ね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。。 。 。
わたしたちは見つけた。
白 色 の
四 角 形
の 灯 り
暗闇の中でそこだけが
別の世界に通じる扉のように明るく光ってた。
わたしたちはすぐに駆け出した。
そこに『ムーン・インベーダー2』はあったのだ。
まるで近未来の案内看板のようにそいつは Y字になった三叉路の真ん中にぽつんと立っていた。
闇に画面が光り
筐体が夜露に少し濡れていた。
小傘が言った。
「なんでこんなところに。」
わたしが応えた。
「森にいる妖怪にもやって欲しいんじゃないかな?」
「とにかくやろうよ。」
ちりん。
ぬえが最初にコインをいれた。
すぐに画面が切り替わる。
画面の奥側にはカクカクした描写の月の兎たち。
手前に機械みたいなのに乗った河童が現れる。
(その頃のわたしたちは知らなかったけど難易度選択はコインを入れる前にしなきゃいけないらしかった。)svegliando
やがて画面の奥の方から弾幕が花びらのように広がって飛んでくる。
ぬえがスティックで操作する河童はすぐに弾にぶつかって破裂してしまった。
残機が減る。
また河童が画面に現れる。 弾にぶつかる。 残機が減る。
河童が現れる。
破裂する。 残機が減る。
現れる。 破裂する。 残機が減る。
『ゲームオーバ』
ゲーム機からはさっきと同じ電子音声が流れ出した。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。
画面にはこんな文字が現れている。
『コンティニュー? 10』
『コンティニュー? 9』
『コンティニュー? 8』
『コンティニュー? 7』
ぬえがまたコインを入れた。
わたしたちは三人でその筐体を囲むようにして画面に見入っていた。
ぬえのプレイする河童自機はさっきよりは進んだところまで行ってまたゲームオーバになってしまう。
今度は小傘に変わって続きからゲームをはじめた。
わたしたちはやられるたびにコンティニューしながら順繰りにプレイを続けた。
一面のボスをなんとか倒して二面のボスである月兎の薬売りとの対決まで行ったところで三人で持ち寄ったコインはもうほとんど残ってなかった。
うどんげ・鈴仙・イナバ(わたしたちは一応その子のことを知っていたからボス戦前に出てきて川を汚してこの星の環境を悪くして地球を滅ぼしてるやるみたいなことを言ってるのがなんか面白かったんだけど)がとにかくめちゃくちゃ強かった。
わたしたち三人は誰もあの子と話したことはなかったけれど
なんかもう嫌いになっちゃいそうだねって言って笑った。
そもそも初代『ムーン・インベーダー』は
河童たちが自分たちの憂さ晴らしのためにつくったゲームだ。
開発中にもたくさんプレイしただろうし開発したあとも何度も自分たちでプレイしていたはずだ。
だからゲームクリエイター河童たちはそもそもこのシューティングゲームがとても上手くなっている。
そのせいで『ムーン・インベーダー2』の難易度調整はノーマルでさえかなり難しいものになっているらしい。
「いや、これ無理じゃない?」
「不可能弾幕は反則だよね。」
「まじでそう。これつくった人弾幕ごっことかしたことなさそう。」
「あーあ。
ほんとの弾幕ごっこならやっつけられるのに」
「いやあんたじゃ無理でしょ。」
「なんでなんでなんでさ。」
「弱いもん。」
「はー? じゃあここで勝負する?」
「しないよ。」
「あ。ぬえってインベーダーの末裔でしょ。」
「え。ちがうよ。」
「弱点とかわかるんじゃない?ねえ?」
「たしかに。」
「知らない。」
「侵略者なのに?」
「ちがうって。」
「でも、そりゃちがうって言うじゃん。
侵略者は隠すもだから」
「うん。うん。たしかに。」
「ちがうもん。」
「まあ。そうゆーよねえ?」 「まあねえ。」
「あーもーいいからもっとやろうよ。
次誰だっけ。」
「ぬえ?」
「あ そうだっけ。
よし 任せときなよ。
ぱ ぱ ってクリアしてやるからな。
えへへわたしはインベーダーだからねー。」
「言ってること真逆じゃん。」
「ちがうね。これから”なる”んだよ。
星ひとつまるまるゲトってね」
「ストーリー的には侵略者追い払う感じだけどね。」
「うるさいなあ。見てなって。
わたしはスペースインベーダーだよ。」
でも結局ぬえは鈴仙にぜんぜん勝てなかった。
ぬえは筐体を脚で蹴って。
それから
こんなゲームやるやつは馬鹿だね。
って言った。
子傘とわたしは笑った。
それで帰ることにした。
帰り道。
三叉路から遠ざかるときにもやっぱりそれは鳴っていた……。
コインをいれてね。
コインをいれてね。
コインをいれてね。。 。 。
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コインランドリーに行くためにはまずみすちーの部屋中の洗濯物をまとめるところからはじめなければならなかった。
言い出したくせにみすちーはあんまり動かないし、どれが着たやつとかそんなのもわたしぜんぜん知らないから分別するのに困ったし、迷ったあげくにこれもあれもと散財するようなやけぱちな気分で、服を重ねていったら、いつしかカラーフルな一山になってた。
これだけあると運ぶのに困るね、と、わたしが言うと、みすちーは肯いて言った。
うん、こまったねこまった。
あんまり困っていないな、と思って見ていると、みすちーは家を出て少し後で戻ってきた。
びしょ濡れだった。
いや、思ったより降ってるねえ洗う服が一枚増えちゃったな、って、みすちーは小さな手押し台車リアカーを玄関から土足で部屋に引っ張ってきた。
「これに乗せていけばいいよ」
「それ、どうしたの」
「もってるの。私有してるんだよ? 変?」
「べつに変ではないけどさ……」
「ほんとは屋台を引っ張っていってもいいかなって思ったけど、それはしんどいしね、いつも屋台を持ってうろつくわけじゃないのよわたしさ、盗まれるとか考えることもあるけど、てかあんなの盗ってもすぐばれるしね、まあでも結局は土地に対する信頼かな、この子は置きっぱなしの屋台に食材運ぶときとか使うんだよ。仕込みに買い物行くときとかもか?」
「ふーん」
みすちーの手押し車は真っ赤だ。
まるで今さっき塗装したっていうふうに、借り物みたいに、ぴかぴか光る赤色だった。
手入れしてるんだねえ、と少し驚きを持って触れれば、好きなんだ、って、手押し車が?
たぶん、赤色が、だろう。
べつに聞かなかったけど。
洗濯物なら手押し車のかごの部分に放り込んだ。
ブルーシートをその上にかけて、太い紐でぐるぐる巻きにした。
そのあとで、思い出したようにみすちーがCameraを持ってきて、一度縄をほどき、洗濯物たちのなかにそれを押し込んだ。
「もしかして、それ買ったカメラ?」
「そうそ」
「いいやつそうだねぇ」
「あ、わかる?」
「まあ、わかるよ。ぜんぜんわからんけど」
「これでPVを撮ろうって思ってさ」
「わたしだけが映るやつでしょ?」
「いや、いや、いや、メーンはもっと美人な子に頼むつもりよ。だってさ、響子だけじゃ”ヒキ”足んないでしょ」
「はー?」
わたしは心のなかでわんわんと泣く。
そんなわたしに構わずみすちーはひとりで先に外に出てしまう。
わたしはあとを追いかけた。
外には激しい雨が降っている。
ざあざあと降りしきり、ぴちゃぴちゃと跳ね回り、ぱちぱちぱちと弾けて飛ぶ。
白めく。
光線のような雨だった。
もしもそれがほんとに光なら、あたり一面が、祝福!って感じ。
実際のところは、雨は強い風に乗って高速で降り注ぎ、少し先のこともわからない。
みすちーはおもちゃ風の赤いレインコートを着てた。
わたしは透明なビニル。
邪魔にならないようにほんの少し後ろを行きながら、手押し車を両手で押して歩くみすちーを斜め上から覆い隠して傘をかけてた。
雨は前降り。
だから向かう先にはいつも風が吹き溜まり、地には轍つものがあるから、風雨にかちゃかちゃと鳴るわたしたちは車輪仕掛けの機械みたいだった。
手押し車の覆うビニールシートの上で雨が跳ね、水溜まる。
溜まった水を押し出そうとビニールシートに触れると、それは柔らかかった。
なんだかこうしてふたりで死体でも運んでるみたいだなってわたしは思って、みすちーに言うと、どうして死体なの?とみすちーは言った。
「え、いや、べつにどうしてとかはないんだけど」
「死体はないでしょ、死体は。ふふ、死体って。死体は運んでないよ。死体運ぶの? 運び屋か? 響子は?」
「だって、だって、ほら、さっき、触ったら妙に柔らかかったから不思議な気持ちがして……」
「それならべつに泥とかでもいいじゃない。っていうか、そっちのほうが、ふつーだし。手押し車で運ぶのって泥とかよくあるよ」
「それは、そう……かも、だけど。でも、なんか、こうやって、洗濯物をリアカーに乗せて運ぶってわたしあんまり経験ないっていうか珍しいっていうかなんだか妙だから、そう思ったのかも……。それに、気分……みすちーと一緒にいると今でもたまにどきどきするときあるから、それが、いまで、それが、まるで、死体運んでる緊張感っていうかどきどき感とつながって? 重なって? みたいな? そういう……そういう比喩みたいな……」
「それなら最初からそう言ってくれればいいのに」
「まあ、そうだけど。恥ずかしいじゃん、やっぱ」
「でも、わたしは、響子といても全然ドキドキはしないな。だって映画ならドキドキするのはB級でしょ。大きな音や緊張感のある音楽でとりあえずドキドキさせるのは。響子はA級だもん。芸術品だ! オートクチュール! いちばんかわいい! 正直、え、なんかしょうもなくない?とか思ったりするし、つまらないなあと思っても教養だから愛するよ」
「褒めてるのかけなしてるのかよくわかんないよう」
「大好きってことだよ、もう。言わせないでね」
「いや、そう言われればなんでも納得するわけじゃないよ!」
「あはは、そ? 響子ってみんながすごいってってるやつとか何でもありがたがるタイプだと思ってた」
「まあ、そういう節はあるかも、だけど……」
「じゃあ、いいよね」
なにがじゃあいいよねなのかぜんぜんわからないけれど、とにかくわたしたちは歩いた。
森の風景はすべてが森の風景で、雨の日の景色はすべてが雨の景色だから、どこまでいっても代わり映えせず、すぐにわたしは歩くことに退屈してしまう。
濡れてゆるんだ地面を踏んで歩きながら、すでに濡れて汚れたスニーカーと靴下が足先にへばりつくのが、うざい。
なんだかわたしはすごく疲れちゃうな。
少し先で、ぬかるんだ場所で、わたしは足を半分取られて、ほんの少し立ち止まった。
まるで降雪の昼下がり泥に溶け出した灰色の雪に歩みを奪われるように雨にぬかるんだ泥の中で丁寧に歩くわたしを後ろにおいて、みすちーはそんなことをちっとも気にせずにどんどん進んでいってしまう。
わたしは積もった雪とか水たまりとかで足が濡れたりするのがすっごく嫌なのだ。
我慢ができないよ。
それを、みすちはー、響子は犬なんだから阿呆みたいに駆ければいいのよ、って言うだろうか、言うんだろうな、言われるとうざいけど、言わなかったらちょっとやだな。
いつもみすちーはわたしのことをああこう決めつける。
だけど、それは、ぜんぶ間違ってる。
響子は犬じゃんだからほんとは穴とか掘りたいんでしょそれって響子の性欲なの?響子はこの里でいちばんかわいいよね響子はもう修行とかしなくてもいいと思うよだってすでに本質を嗅ぎ分けることができるもの犬だし昨日映画見てたら人質にされた女がいてさ上手いことやって犯人から拳銃を奪ってね逆にそれを突きつけるんだけどさ結局撃たないのそれで拳銃を取り返されちゃってなんだかんだ殺されちゃうんだよそいつがじゃなくてそいつの夫がねあーあー馬鹿じゃんってわたし思って登場人物がじゃないよ脚本がねでも後でもしその女の人が響子だったらはらやっぱり絶対絶対絶対撃てなかったなって思い直して好きになったのいや脚本がじゃないよだけど登場人物のことでもなくてさ響子のことがね、とか……みすちーはフェスタの季節もそうじゃない季節も、季節によってベクトルは違っても、いつもわたしについてあれこれ言うんだけれど、実際のところそれはみんな見当違いで、だからわたしだって反論したくなるし、たとえばお寺のみんなが時々わたしについて言うことなら彼らの見識によってあまりに正確だからそのときはなんだか恥ずかしくなってそれはそうですよねえ……って半端に笑うしかできないのに、それに比してみすちーのわたしに言うことはこんなにも粗雑だから、そうじゃないじゃんってわたしはいつも首をふりたくなる。
すると、あはは、ほんと?ってみすちーはいつも笑うのだった。
みすちーが笑うと、わたしは嬉しい。
わたしはみすちーが雨に濡れないように、手押し車を押すみすちーを追いかけるようにして、傘をさしながら、みすちーの後ろを歩いていた。
そういえば、雪国には歩行のルールがある、とみすちーはいつか言ってた。
雪国じゃ一族は列なして歩くのだ。
雪国の一族はひとつなぎの長いロープを腰から腰に巻きつけて、隊列を組んで、吹雪のなか雪の深く積もった厳しい道を歩く。
隊列の並び順には特有のルールがあり、最も屈強で勇敢な若い者たちがいちばん前を歩き、その後ろを最もよく雪国を知る者たちが続く。屈強な男たちは吹雪く風を受ける盾となって足跡ひとつない真白の大地に轍を切り開き、最も雪国を知る者たちはルートに対する知見と判断を与える。次には雪国を歩くのには脆弱するぎ者たち、つまり老人や病人や子どもたちが一塊となって前を行く者たちが踏み固めた雪の上に足跡を重ね、その後ろを二番目に屈強な者たちが重い荷を背負って続く。そして、三番目の者たち、つまり、それほどまでには屈強でなくそれほどまでには雪国も知らず、しかしひとりで雪国を歩くことができないほど力がないというわけでもない者たちは、しんがりを歩く。
三番目の者たちの役割は見ることだとみすちーは言う。
彼らはいちばん後方から隊列を単に見つめ続け、その異変を嗅ぎつけて、誰か歩けなくなるもの、崩れ落ちるものがいれば、大声で一族にそれを告げる。
彼らの経験によって積み上げられた才能は大声をだすことにある。
まるで響子みたいだね、って、みすちーは笑う。
そのときの癖で今も響子はいつでもみんなのいちばん後ろを歩くんだよね、って。
でも、べつにわたしは雪国生まれの犬じゃない。
みすちーと同じように、このへんで生まれたし、この土地は雪国どころか雪が積もることも稀だし、最近はあんまり雪も降らない。
みすちーがわたしのことを雪国生まれの犬だって言うのは、わたしがよくもふもふの服を着ているからだった。
わたしはふさふさもふもふした服が好きなのだ。
温かいし、なんか高級感もあるし、着込むと嵩張ってずっしりと重みがあって自分が大きくなったような気分がして嬉しい。
なによりさわり心地がいいもんね。
ふわふわしているのに、触れってみるとなぜだかすべすべとしているその生地を、わたしはいつまでも撫でていられるような気がする。
わたしがふわふわな服を着ることを、犬ぶってるとかみすちーはよく言って、イヌイヌイヌイヌイヌいつもわたしのことを揶揄するくせに、わたしはほんとは犬じゃなくて山彦なのに、まあわたしは見た目も犬っぽいしそれはべつにいいけど、そんなこと言うくせにこんなときばっか犬ぶってるとか言うから、だってわたしは犬だもんって反論すればいや響子は犬じゃないよ、って……でもわたしは犬だよ。
みすちーが思うよりずっとさ。
たとえば冬にはみすちーはわたしの偽物の毛を撫でる。
冬にわたしたちみすちーの家の小さな暖炉の前で丸まって肩寄せながら時間を過ごす。
ときどきみすちーはわたしの指に触れそれからわたしの着ている毛皮のコートを撫でる。
わたしの纏った毛皮は、経済的にも倫理的にもいつでもフェイクだけれど、みすちーの指の下で、それはわたしのたしかな延長になる。
みすちーが冗談でそれを引っ張るとき、わたしはなんだか痛い気持ちがする。
わたしが顔をしかめると、みすちーは笑った。
変なの。
それから、わたしの偽物の毛を指で梳きながら、みすちーは、変なの、変な服、雪国生まれの犬だね、ってわたしのことを言った。
窓の外では雪が降っていたと思う。
それは、数年ぶりに幻想郷に雪が降った季節の思い出だった。
みすちーはこんなことを言っていた気がする。
「雪、雪が降ってるよ。響子は懐かしいでしょ?」
「まあねえ、この前降ったのけっこう前だもんねえ」
「じゃなくて、じゃなくてさ、響子の生まれ故郷の雪国を思い出すんじゃないかなあって」
「はー? わたしは雪国生まれの犬じゃないよ」
「あ、そっか。きょーこは犬ぶってるだけだっけ」
「犬だけど! ……生まれはここだから」
「犬なの?」
「そうだよ」
「たしかに犬だよねえ」
「わたしは犬じゃないもん」
「あはは、どっちよ。」
窓の外では雪が降っている。
それは数年ぶりに降った雪。
粉めいた白い粒がひらりひらりと剥がれ落ちるように、落ちる。
この前の雪の降った季節にわたしはみすちーのことをまだ知らなかった。
みすちーに出会う前の雪の季節にわたしはなにをしていただろう、それがうまく思い出せなくて、こうして記憶の中で降る雪はちっとも雨のようではなくて、わたしの偽物の毛皮、それはわたしのどこにも繋がっていなくて、みすちーが触れるとわたしはくすぐったいような気がしてたとそのときは思ったのに、こうして思い出す限りではやっぱりその毛皮はわたしのものではなくて、だからわたしは犬じゃない。
でも、今こうしてみすちーとわたしが歩くこの場所に線のように鋭く降りしきる雨は雪みたいだよ。
その比喩上の雪はわたしの見たこともない触れたことも種類の雪だ。
そうだ、わたしが雨を喩えて言う雪は、みすちーの話を聞いてわたしが想像するだけの雪国に降る、吹雪のような、鋭い雪に似ている。
昔、わたしは雪国で暮らしていて、雪国では一族は列なして歩く。
わたしはそのいちばん後ろを歩いている。
厳しい吹雪に背を丸くして少し俯きながら一歩一歩足跡を前に前にと刻んでいく。
だから二人きりだとしても、こんな吹雪のような嵐の日には、わたしはこうしてみすちーの少し後ろを歩く。
みすちーが言うことにわたしがなにかを言うと、時折みすちーは振り返って、笑う。
わたしたちの間を強い雨がカーテンのように裂いていた。
それはあんまりに大粒ではやい速度で落ちるから、雨粒のひとつひとつが形に、たしかな線形になって、視線によって捉えることができるから、視神経のなかで雨粒が固着して、まるで雪みたい……。
わたしはみすちーの背中に向かって叫ぶ。
雪、雪が降ってるよ!
みすちーは灰色の夜空を少し仰いで、振り返り、首を傾げた。
「?」
それから笑った。
なに、それ。
みすちーはわたしにあんなにたくさん言ったことも季節が巡ればいつか忘れてしまうから、この雪のイメージは今ではわたしだけのものだ。
だからわたしにとって雨とは、みすちーのじゃない、わたしたちのじゃない、わたしの故郷の雪に似ていて、いつもなんだか懐かしい。
そんなふうなやり方で、わたしが身体中に纏った小さなもふもふからはじめて、いつからだったんだろう、みすちーはわたしを雪国生まれの犬に変えてしまった。
もちろん、それは偽物の故郷、仮初の記憶、存在しないRecord……。
だから、わたしは、本当は犬じゃない。
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みすちーに出会う前のわたしについて話そう。
みすちーに出会うずっと前わたしは運び屋(Messenger)だった。
やりたくてやっていた仕事じゃない。
まあ稼ぎはよかったと思う。
「おいしい仕事があるんだ。楽な仕事さあ。
思うんだけどこの世界は馬鹿ばっかだよ。
もっと楽に生きる方法がたくさんあるって言うのにみんな退屈に縛られてる。
慣れちゃってんだね。きょーこには特別に教えてあげるね。」
その仕事をわたしに紹介してくれたのは
山彦の先輩だった。
なんか怪しげなその仕事をわたしはやりたくなかった。
でも先輩には日頃からよくしてもらったから上手に断りきれずに
気づいたらわたしは運び屋だった。
たしかに難しい仕事じゃなかった。
運ぶのは言葉。
誰かの言葉(メッセージ)。 運び屋。
足を使う仕事。
誰かに伝えたいけれどいろんな理由によって伝えることができない言葉たちを。
あるいは誰かがどうしても忘れたくなくて少しの間保存しておきたい言葉を。
わたしは運んだ。
山彦の性質を利用してね。
誰かの喋ることをわたしはじっと聞いてそれを
反響させずにひととき自分の中に留めておいて
わたしは運んだ。
そのまま別の誰かのところまで行って
ときには少し経ったあとで依頼人のところに戻って
その言葉をそっくりそのまま吐き出すのだ。
わたしたちはその性質によって
やろうと思えば彼らの言った内容だけじゃなくて喋り方
や息遣いや声の調子や模倣することができた。
わたしたちはpafectry archiveだった。
重要なのは記憶処理だ。
もちろんそんなふうまでにして運びたい言葉って秘密や機密や他の人に聞かれたく
ないことばかりだったから
わたしは喋ったあとでそれをすっかり忘れてしまう必要があった。
薬液があった。 作用があった。
わたしはそれを飲むことで忘れるふりをすることができた。
どこまでも曖昧になることができた。
でも本当に忘れてしまうことができるわけじゃない。
実際のところのその薬剤はアルコールをずっと強烈にしたような作用を持っていて
記憶が不確かになるほどに酩酊してしまうというだけのことだった。
わたしはある種の保証としてその薬剤を依頼人の前で必ず飲むことにしていたけれど
それは わたしが彼らにわたしがたしかに忘れてしまうことを忘れられずに彼らに
信じさせる必要があったからだ。
そうだ。
それが肝要で、いちばん難しいところだった。
でも重要なのは
”粗雑に思われてるなら繊細にやり、
繊細に思われてるなら粗雑にやる。”ってことだよ。
わたしは何度かの苦い失敗を得てひとつの態度を会得していた。
だから依頼人の前でその薬を飲むときは
薬剤の説明をしたあとに
いつも同じような演説をぶつようにしてた。
「これは悲しみですよう……実際。この薬はハッピーに対してクリティカルでさぁ……。しばらく後遺症が続くんです。胃と頭に効くひどいやつ。忘れるってつまりそういうことじゃないですかあ。なんだって、はい、忘れた、って言って忘れられたら苦労はしませんよ。お客さんにだって忘れたくて忘れられない思い出のひとつやふたつあるんじゃないですか。こんなとこに来る人は特にそうですよう。ねえ? えへへへ。いやごめんなさい。これ飲むときじゃどうしてもこのあとの痛苦想像して皮肉っぽくなっちゃっていけないなあ。でもそれくらいきついんですって。つまりね忘れるってことは簡単じゃないってことです。はい忘れてましたでそこがぽっかり空いたままになるみたいなことってないから。記憶ってそういう仕組みになってないんですよ。その代わりに何かを挿入しなきゃいけない。トレードオフってやつかな。なんだってそうですね。ものを買うにはお金を払わなきゃいけないし愛するためには時間を使わなきゃいけない。忘れるためにはそれを忘れるくらいの強烈な衝撃が必要ってことです。あー昔は実際忘れるために自分の頭を鈍器で殴った犬もいたらしいですよ。まあ聞いた話ですけどね。えへへ。ああそうだ。記憶といえば人は死ぬような危機に走馬灯を見るって言うじゃないですか。あれってこれから死ぬから今までの人生を懐かしんで思い出してるって言われるけどわたしの個人的な意見じゃあれ今ここで起きてる痛み苦しみを忘れるために別の記憶を挿入しようとする身体の動きなんじゃないかと思ってるんですよう。まあその記憶ももともと記憶として頭の中にあるものだから忘れることはできないんでしょうけどぉ。でもそういう身体の動きってあると思いますよ。だからきっと幸せに死んでいく人は死ぬ時に何も見ないんです。ただ暗闇で死んでいく。。。だって今が楽しい人って過去のこと思い出したりしないじゃないですか。今が楽しいんだから。昔のこととかいらないし。だから今つらくて憂鬱な人は別の思い出を掘り起こして今を忘れようとするんです。それが悲しい思い出とか楽しい思い出とか関係なくね。その意味じゃ思い出って全部がブルーですよう。あーごめんなさい。なにが言いたいかっていうとこの薬はその逆ヴァージョンってことですね。苦しみを忘れるために思い出を挿入するんじゃなくて思い出を忘れるために憂鬱を挿入するんです。はあ。」
(ブルーの液。眼前で揺れてた。。。一気に飲み干せば苦い味。胃の不調。しばらくはFD風の。わたしは言う。)
「お前らみんなが死んじゃえばいいのに!」
それが功を奏したのかとかは知らないけれど とにかくわたしは安全に通り抜けた。
その不穏な香りに満ちた季節を。
そんなふうにして数年を過ごした。
やりたくてやっていた仕事じゃないけれどたいていの仕事がそんなものなんだろう。
そんなふうにして数年を過ごした。
みすちーに出会う前の話。
(つづく。)
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吹雪のような嵐のなか、歩き疲れてわたしは言う。
「やっぱ戻らない……?」
「なんで?」
「だって、雨思ったより降ってるし」
「そんなのはなからわかってたことよ。それよりさ、犯人を考えようよ」
「犯人?」
「かわいい響子ちゃんの言うことには、この運んでるやつは死体なんでしょ? だったらそれを殺したやつがいるはずだもん」
「そう、見えるよねー、って話なだけで……」
「やっぱまずは動機よね。てか、この死体は誰なの?」
「知らないよ」
「え、隠すの。てことはやましいことがあるんだ。怪しいなあ」
「いや、いや」
「もうさあ確っちゃったね。ぜったい響子が犯人じゃん。よく考えれば死体を運ぶのはたいてい犯人だし。ということはこの死体は和尚のものね。日々の修行のストレスから反抗に及んだってことね。あ、もしかして、それってわたしのせいか? 修行ばっかでわたしにも会わせてもらえないからとうとう手にかけたってわけか……。まあ典型ね。愛ゆえに……っやつ。響子はわたしに毎日会いたいから和尚を殺しちゃったんだね」
「みすちーってばかじゃないの」
「うん、うん。申し開きがあれば聞くけど?」
「だってさ、わたしにそんなことできるわけないじゃん!」
「あ、たしかにね」
「てか、それなら、みすちーがいちばん怪しいよね」
「なんで?」
「だってみすちーが言ったんだよ。死体を運ぶのは犯人だ、わたしたちは死体を運んでる、でもわたしは犯人じゃない、だったら、みすちーが犯人じゃん」
「むむむ。動機は?」
「同じ理由だよ」
「どゆこと?」
「……みすちーは、わ、わたしのことが好きだから」
「あはは、ばかじゃないの?」
振り返ったみすちーの表情。
泥のついた靴。
濡れていた。
サイダーのようにじうと染み出して靴の中を浸した。
ぬかるむね。
そりゃぬかるむよ。
ぬかるむ、ぬかるむ。
ぬかるみに手押し車の三つの車輪は真っ直ぐな轍をつくり、足跡でそれを汚した。
怠い歩き方をしていたせいか、不意にぬかるんだ地面に足を取られて、わたしは前につんのめり、あわててみすちーの濡れたかしゃかしゃの袖を掴むと振り向いたみすちーがわたしの腕を引っ張った。
傘が跳ねた。
手押し車が斜めに傾いた。
泥。
みすちーがわたしの手を取って上に引くその力があんまりに強くてわたしはびっくりしてしまう。
「はあ、危なかった……ありがと」
「うん。でも転んじゃっても大丈夫だったかもね。服が汚れてもコインランドリーで洗えばいいんだしね」
「待ってる間何を着ればいいのさ」
「裸でいればいい」
「やだよ。恥晒しじゃん。古典時代なら刑罰だよそんなの」
「でも原始時代なら生活だわ。そもそもわたしは犬に服を着せるのとか反対派だよ。ああいうのって飼い主のエゴだと思うの。似合わないフリフリの服を窮屈そうに着た犬たちの惨めなこと」
「いや、それこそ人間のエゴだね。全犬類を代表して言わせてもらうけど、犬だってかわいい服を着たいよ!」
「響子はほんとは犬じゃないくせに……」
「うるさい」
わたしたちは字義通り分岐路に立っている。
比喩じゃなくて、(フィジカルな)たしかな意味で、そこにいる。
看板の名残がある。
掠れて読めなくなった文字。
矢印を模した木の板が、ふたつ、左右に互ってるやつ……。
みすちーは立ち止まり、見つめ、ため息をついた。
振り返ってこんなこと言った。
「またひとつ忘れちゃった。コインランドリーってどっちの道だっけ?」
「本当に?」
みすちーはちょっと笑って首を振った。
でも、そのあとで、その笑みのなかに困ったみすちーの顔を見つけてしまうから、みすちーはきっとほんとに忘れてしまったんだろう。
わたしたちの間には雨が降っている。
掴んだみすちーの手、わたしの指の中で、みすちーの手に汗が滲んでいる。
わたしは傘を拾ったほうの腕をひらひらと振った。
「こっちだよ」
「右?」
「うん」
「そうね」
みすちーはまだ立ち止まったままだ。
雨が降っている。
雨脚はさらにはやくなったように思う。
ぱちぱちぱちぱち。
鳴ってる……。
降る雨が、森の木々や葉々や、わたしたちの傘にレインコートに、手押し車の上のブルーシートに、打ち付けてぱちぱちと音をたてていた。
ぱちぱちぱちぱち、ぱちぱち。
鳴っている。
まるで拍手の音みたいだった。
それもやっぱり祝福!って感じ……。
みすちーはわたしの手を強く強く握っているから、わたしはちょっとだけ痛いな。
「どうしたの?」
「みぎ……みぎ、みぎか」
「わたしが先を歩こうか?」
「んんー……それもいいな。たしかに」
「もしかして不安になった?」
「いや……」
いつものことだよ、とわたしは思うのです。
それって、これまでも何度も繰り返されてきたしこれからもずっと続くことだよ。
みすちーはこの季節になれば、いつも色んなことを忘れてしまう。
今回はいつもよりも深い感じだし季節を重ねるごとにみすちーの物忘れはひどくなっているように思えるけれど、それを言うならもっとひどいときだってあったし、逆にそのあとでぜんぜんだったときもあって、それは音楽記号ならクレッシェンドのようにだんだんと強くなっていくというよりは、ひどくなったりさらにひどくなったりそうでもなくなったりまたひどくなりそうでもなくなって、まるで伸縮するように…… あ……! いま思いついたこと全部言いたいな。
「これからさきどんどん悪くなっていくと思うの? そんなことないって。みすちーの物忘れは、覚えて忘れて、ひどくなってそうでもなくなってさ、まるで肺が何度も伸縮するように、今じゃみすちーの呼吸みたいなものじゃん。」とか……。
「てか忘れちゃってもぜんぜんいいじゃん。べつにみすちーが何かを忘れてしまうならそのたびにそれをわたしは教えてあげるし、そのためにちゃんと言葉が反響して残っていられるようにわたしはこんなにも空っぽなんだよ。」とか……。
「もしかしてわたしがいなくなっちゃうとか思うの、それなら大丈夫だよ、いつもフラれるのはわたしのほうだもん。」とか……。
それを言おうかな、でも喋ったら消えちゃうかなあ、運び屋だったときの癖、生き延びるために覚えた術、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、数えて、やっぱだめだなあ、そのときに身体で覚えたことって……こう……喋ったことは忘れちゃうよ、言ったらなくなっちゃうね、話したら消えちゃうもんな、だから、わたし、言わずにみすちーの手を握った。
強く、強く。
握った。
わたしたちの間を裂く雨。
雨合羽をはためかす風。
肌を滑り落ちる水滴。
掌を通し鳴る脈拍。
絡まる手の痛み。
かすかな吐息。
きしむ指先。
汗ばむ手。
汗腺/痛覚で、わたしたちは繋がっている。
わたしが言わないでいる間はいつもみすちーが言う。
「ねえ、きょーこ」
「うん」
「ごめんね」
「ううん」
「でも、わたしがこうなっちゃうのは響子のせいなんだよ?」
「うん?」
「だってさ、響子がいるから、わたしが忘れたことも響子が教えちゃうから、わたしは安心して忘れてしまえる、だからほんとに忘れちゃうんだよ、そうは思わない?」
「ううん……」
「響子はわたしの太陽だよ。こんなにもわたしをだめにしちゃうのに、本当に困った時わたしは響子を頼るしかないんだよ。太陽だってそうだよね。古い時代は太陽はその熱によって人々を焼き、着ているもの身に付けているものを奪い取ってしまったのに人々はそれでも裸のまま太陽を目印にして歩き続けるしかなかったんだよ。そう考えると太陽って独占欲がすごいよねえ」
みすちーは笑った。
「ねえ、響子も、そう?」
なーむ。
さっきの話、きっとわたしのためにみすちーは聖を殺してしまったんだろう。
そして、いつものみすちー風のやり方で、それを忘れてしまったのだ。
愛のために、あるいは何かを手に入れるために、罪を犯す人たちのことがわたしにはわからない。
そうまでして手に入れたいものも守りたいもののわたしにはない。
愛することは怒り憎しみだと思う。
わたしとあなたを隔てる全てのものに対する怒り。
たとえば、こうして手を繋ぐなら、この手のひらの薄い皮二枚がどうしようもなく憎らしい。
でも、わたしはみすちーのことをみすちーがわたしに思うほど大好きになれるわけでもない。
愛することが怒り憎しみなら、わたしのみすちーへの思いは、憂いに近い。
居ても立っても居られないなんてほどではちっともないけれど、どこかやりきれない思いがあり、時折ぼーっとする。
それは、熱のない風邪のような、風のない台風のような、そんな気持ち。
愛することがわたしとあなたを隔てる全てのものを殺してしまいたい衝動なら、わたしは単にここで死にたいな、と思う。
やがてわたしたちはまた歩きだす。
みすちーはそのうちこんな歌うたってた。
「あやーめまーしたー、あやーめまーしたー、わたしはーひーとーをあやめましたー」
わたしは少し後ろで傘をさしながらみすちーが歌うのを聞いてた。
あとでもう一度みすちーがまた同じ歌をうたえるように、その歌をなんとかして覚えておきたくて、わたしはみすちーが歌うときはじっとみすちーの歌に耳をすませている。
どうせうまくいかないことは知っているけれど。
でも、そうする。
そしたら、もう歌しか聞こえない。
びゅうびゅうと鳴る風の音もざあざあと震える木々の声も、もちろん、ぱちぱちぱちぱちと鳴る雨の音もわからない。
みすちーが歌うとき、その間だけ、わたしたちは祝福から遠い場所にいることができる。
祝福は旅路の終わりにある。
太陽に向かってオアシスを求めて砂漠を歩き続けた昔の子。
やがて彼女は砂漠の真ん中で膝をつき、すべてを等しく焼く太陽の下、熱中症と脱水症状の合間に神様の姿を見つける。
彼女は祝福される。
こんなにも満たされて少し笑って肯く。
それが、単に、痛みに対して身体が分泌した快楽物質の力によるものだとしても。
祝福の喜びと開放の安堵感から彼女はもう二度と歩き出すことは叶わない。
でも、未だ祝福から逃れているわたしはみすちーのことを疑うことができる。
あるいは同じようにわたしのことを疑うみすちーに釈明することができる。
わたしは、みすちーの言うことに、そうじゃないもん、って首をふることができる。
祝福されたら終わるから、めでたしめでたしのあとには何も残らないから。
だから、わたしたちはまだ、ここでふたり歩き続けることができる。
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雪は言葉を抱えている。
降る雪の結晶の一粒一粒に。
たしかな言葉がある。
ある明るい昼間どきの雪の日に。
窓から外をじっと見つめていれば
それが。
こうして降る雪の結晶が。
ほんとは降る読点だってことがよくわかると思う。
その白くて 丸いような 降るたくさんのものは。。。
すべて小さな おしまい。 で。
その小さな 。 に向かう短いあるいは長い言葉を抱えている。
降り積もった雪が時間とともにやがて黒ずんでしまうこと。
それは積もった雪を人々が泥のついた靴によって踏みしめるからじゃない。
それは言葉を踏み固めるからなのだ。
人々が。 靴によって。
雪の抱える言葉たちを。
まるで紙の上で。 インクが滲むように?。 。。
優れた音楽がいつしか小さな蛙の子供たちになって
楽譜の上で姿を変わるときを待つように。。 ?。
積雪はやがて黒い塊になる。
わたしは みすちーのことを書くとき喋るときに歌うときに
それを雪とともに降る言葉のようにできたらいいのに。
って思う。
だけど。
わたしは犬じゃない ように。
わたしの書く言葉は 雪の抱える言葉じゃない。
それは消えたりしない。
(そうだよ。)
大丈夫。わたしやみんなの言葉は消えたりしない。 永遠に残り続ける。
誰もそれを本当の意味で忘れることなどできない。
まあ少なくとも。。。 しばらくは。 そう。
肯くことが重力に支えられているように
同じ正しさによって
言葉は重力によって支えられている。
わたしたちは 紙の上にインクを”垂らす”。
楽譜の上に音符を”落とす”。
書き記されるものは重力によって支えられている。
みんながいいこと言ってるとか心に残ることを書くからじゃなくて
単に 書く。 という形式によって それはそこに残る。
残り続ける。
でも。。
みすちーの言葉はちがう。
みすちーの頭の中には雪国がある。
深い深い雪の積もった国だ。
そこではあまりに雪が降るからたとえ足跡で雪を踏み固めようとしたところで
その場所は次々に降る雪によってまたしみのひとつない白くて広大な大地に戻ってしまう。
わたしが降る雪のような言葉で文章を書きたいと思うのはみすちーの頭の中にある
雪国をみんなにも見せたいからだよ。
それはとても美しい雪景色だと思うから。
(少なくともそうじゃなきゃ それってすごくすごく寂しいものね。)
わたしは雪のような言葉を愛するように
それを踏み固めて汚してしまう 靴を憎む。
歩るくことを嫌う。
まるで足跡が連なって地面を踏み固めてやがてそれが道になるように
言葉は集まって文章になって繋がり合い意味をもって人々をどこかに連れて行こうとする。
みすちーのin the air風の(大気中でしか生きることのできない)言葉たち。
あるいは歌。
それはどこにも行けないから。
それでもみすちーは雪国を歩いてる。
たぶん。ひとりで。
みすちーはそもそもどこを目指しているわけでもないし
もちろんどこかに辿り着けるわけもない。
それってただみすちーがそこで生きているってことだよ。
いつかわたしもそこに行きたいな。
みすちーの暮らす雪国に。
結局のところみすちー風の言葉を使って語るならその言葉の性質によって
わたしはそこに行くことはできないのかもしれないけど。
少なくとも今日は
わたし みすちーとふたりで。
まだ歩いている。
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そういえば、はじめて会ったときにもみすちーは似たような歌をうたってた。
それもちょうど今日のような日だ。
雨が降っていたわけじゃない。
なんだかみんなが不思議と上機嫌で、すべてがうまくいくんだって信じるような日。
だから、その数日は、この世界のその他すべての起転結と同じように、唐突に起こりはじまってすぐに移り変わり気づいたときには終わってしまい、結局それがなんでどうしてなんだったのか、わたしにはいつもわからないまま、とにかくそのときはみんながなんだかとても上機嫌で、それはつきめぐりのせいかな、あるいは惑星直列の奇跡的な瞬間のような日に、みんながとても幸福な気分だったからかえって山彦のわたしはみんなの言うよい言葉を真似して吐き出し続けて、身体のなかに憂鬱やを溜め込んだまま、気づいたときには、ほとんど死にかけていた夜のことだった。
なんだかお寺にもいづらくてあたりをふらふらふら、ふら、と歩いていたら屋台を見つけた。
森の外れでぼんやりと光っていた。
屋台では平安再構築的(へーあんりゔぁいゔる!)な格好した女が酒を飲んでいて、そのカウンター越しには鳥の妖怪の女の子がいた。
みすちーはわたしのことをすでに知っていたみたいだった。
「あれ、お客さん、お寺の人でしょう?」
「え、はい。よくご存知で」
「知ってますよ、この辺のことはよく。仕事柄いろいろ話を聞くからね」
「むむ」
「あ、でも、いいんですか。お寺で修行してる子がこんなところにきちゃって」
「いいんですよ。いや、よくないですけど……。でも今日は特別じゃないですか」
「特別?」
「ここのところ不思議とみんながすっごく気分がいいみたいなんですよ。べつになにかあるってわけじゃないけど。お寺の妖怪たちも参拝や修行に来る人たちもなんだかみんな機嫌がよくて、うちの一輪って修行僧なんかもお酒飲んだのバレたのにお咎めなしですよ。そういう日なんです。だからわたしもさ……」
「ふーん。あ、でも、たしかに、うちもそうですね。来るお客さんお客さんみんないいことでもあったんじゃないかっていうテンションでね。でも聞いてみると別になにもなくて、ただ今日は気分がいいんだ、って。ま、おかげで商売繁盛ですよ。たくさんお客さんは来るわ、いいお酒も入るしね。まあ、あんまりいいお酒とか置いてないんですけどね、ほら、うちの人ってみんな安酒しか飲まないから、ねえ、妹紅さん」
「なんだよ」
みすちーはからからと笑った。
「いいんですよ。こういうのって趣味みたいなものだから」
「この子は趣味に熱中して身を滅ぼすタイプだよ」
「そう、そう」
こういう常連さんと店主さんしかわからない特有の空気みたいのってある。
わたしはそういのうやだ。めっちゃやだけど。
わたしにはアイディアがある。
規格化された飲食店にまつわる考えが。
等しい看板のたくさんの飲食店。
そこはメニューも内装も外装も全部同じだからどこに入ってもだいたい似たような気分でいられるし、店員も店長も一定期間雇われているだけだからすぐに移り変わって、常連とかそういうのもあんまりない。
わたしはこの土地にある個人経営の飲食店を駆逐してやりたいよ。(そういうのみすちーに言うと笑いながら、え、それ、なに、響子がわたしのこと養ってくれるってこと? 甲斐性あるう、って言う)
みすちーのわたしの顔をまじまじと見つめながら、でも……って言った。
「でも、お客さんはなんだかあんまりいい調子じゃないみたいですけど」
「あ、やっぱりわかっちゃうんですか?」
「仕事柄人はたくさん見るからですね。そういうの隠したって出るんですよ。実際、お客さんさっきからずっと前で手を組んでるでしょう」
「あ、なんか、そういうのって憂鬱の気分のサインだったりするんですか?」
「いや、知らないですね。なんとなく気になっただけ」
「はあ。どういうことなんですか」
「まあまあ。いいじゃないですか。座って座って。なんかやなこととかあったんです? 話くらいは聞きますよ」
わたしが先客からひとつ席を開けて屋台に座るとみすちーはどこからともなく作り置きしてあった煮物を出してきた。
ことん、とわたしの前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……。あ、おいしい」
「で、どうしたの? 恋人にフラれたりしたんですか?」
「別になにがあったってわけじゃないですけど」
「でもなんとなく気分が落ち込んでって感じ?」
「いや、でも、ほら、わたしって山彦なんですよ」
「うん」
「だから、こう……人の言うこととか繰り返して言うの癖になってて、癖っていうか性質なんですけど、このところみんないい気分だからいいことばっかり言うじゃないですか。内容だけじゃなくて、喋り方とか声色とかもそうで……そういうのもこだまするから……。だからわたしもそればっかり言うんですけど、そうするとむしろ身体の中には暗い気分がたまるって感じで」
「はあねえ。でもなんかいいことばっかり言ってたら気分も良くなる!って感じもしますけど」
「あ、そういうのうちの和尚もよく言いますよう。言ったことはいつか全部ほんとになる、だから、いいことを言いなさい。自分のことを悪く言ったりしてはだめですよ、って。そーゆー説法があるんです。自己暗示で人は変わる、何十の方法……みたいな。なんか、それだけ聞くと胡散臭い啓発書みたいですよねえ。いや、ほんと、有難がってるんですよ、わたしぃ……まじで。皮肉じゃなくてぇ、でも、いいじゃないですかぁ、今日は言わせてくださいよ」
わたしと話している間にもみすちーは隣の客のグラスが空くのを見てすぐにお酒をついであげていた。
もうしばらくアルコールなんて飲んでいないけど今日くらい……と思ってわたしはみすちーに言った。
「あ、わたしにもおなじの一杯ください」
でも意外なことに首を振ったのだ。
「だめです」
「え、なんでですか」
「だってお客さん修行僧でしょう。それならお酒なんて飲むべきじゃないと思いますよ」
「いいじゃないですか今日くらい」
「だめですね」
「なんでですかぁ」
「だめなものはだめなんです。今日くらいとか、今回だけとか、そういうのってないですね」
「いいじゃないですかぁ。売上だって上がりますよう」
「うちは土地の信頼で成り立ってるんですよ」
「それ、ほんとですかぁ」
「そうですね。だめですよ」
「えぇー」
「でも、まあ、仕方ないからいいでしょう」
「いいんですか……」
「あ、そのかわりわたしにも一杯奢ってくださいね。口止め料ですよ」
「店主さん商売上手ですねえ」
「いや、いや、お客さん犬でよかったよ。鳥なら鴨ですよ」
「え、もう、酔っ払ってるんですか?」
そこで隣の客が口を挟んできた。
「この子はいつもそうだよ、この季節になると決まってこうなんだ」
「ふうん」
「わたしはそろそろ帰ろうかな」
「あ、もう行っちゃうんです?」
「この子がいればミスティアも暇しないでしょ。あ、なあ、一本もらえる? 輝夜と飲もうかって思ってて」
「へえ、珍しいですね」
「なんだか今日はいい気分なんだ。さっき話してたみたいだけど、今日はみんなそうでしょ? けーねもそうだけど、だめなんだ。あいつ、調子よすぎてさ、ここ数日ずっと寺子屋の子供たちのことばっか話してる。もう何をしててもずっとだよ。あの子がこんなことをしたとかこの子がああしたとか……この子はこうだからきっとこうなれるよとかあの子はああだけどほんとはこうみたいなやつさ。しょーじきうんざりするよ。ああいうのって、なんていうかな、マタニティ・ハイみたいな感じ? いや、むしろ、その逆だね。わたしたちに子どもができないから里の子どもたちをまるで自分の子供みたいに愛するんだよ。そういうのってすっごく短絡的だし、だってさもしもわたしたちに子供にできたとしたらあいつそれをめちゃくちゃ溺愛するだろう。そんでもってさこの子は勉強はできないんだけどきっと特別なものがあると思うんだ、みたいなことをあいつ言うんだよ。でも今のあいつに言わせればうちの子供たちはそれぞれみんないいところがあるんだよって、つまりあいつの子供たちに対する全感覚的な愛って自分が持ってないからそうできるってだけのやつだろ。別に子供はわたしも嫌いじゃないよ。わたしが男だったらって思うときも、そう……たまにはあるし。子供ができたら他の夫婦みたいにさ、キャッチボールとかして……いや、やめよう。子どもっていやぜんぶがけーねの隠し子みたいなものだろ。だからわたしは子どもはみんな嫌いだね。嫉妬してるんだよ。子供じゃない。あいつの欲しかった暮らしをあいつに与えることのできる別の誰かあいつが愛したかもしれない男にさ。でも、わたしもあいつの子どもたちを愛してあげるべきだよね。わたしだって……。頭ではわかってるつもりなんだよ、でも、心の納得ができなくて、そもそも論を言えば、わたしは誰々の子どもみたいなやつも嫌だな。子どもだって、物心つけば大人だよ。誰の子とかそういうじゃなくて、でも、実際、一族っていうのはつきまとい、ある意味じゃ選べない生まれた家にわたしたちは暮らし続ける……でも長く生きすぎたわたしにはそれがわかんないんだよ。いや、わかるかもね。慧音ってわたしのこともすぐ子供扱いするけど、あいつに子供扱いされるのってそんなに嫌じゃないんだよ。わたしが輝夜を憎み続けるのもあいつがわたしの肉親を酷い目にあわせたからだろう。ほんとはみんな家族に生まれそこからいつか出ていくのに、わたしだけが死なないから年をとらないからずっとまだ子供のままなんだ。そういう意味じゃすべてが繋がってるんだな。慧音の子どもを愛することができれば、あるいはけーねのこと嫌いになれたら……、わたしのこの憎しみも消えるのかなあ。ねえ、わたし、どうしたらいいかな?」
「子どもって、べつに慧音さんの子どもじゃないじゃないですか」
「まあ、それは、そうだけど……」
そのお客さんは喋るだけ喋ったあとで酒瓶を受け取りお金を置いて去ってしまった。
そして屋台にはみすちーとわたしだけが取り残される。
夜に。
月明かりの他には切れかけた屋台の電灯だけがおぼろげに光り、揺れてた。
ポリ塩化ビニルの短い黒いコードが光から垂れ下がり……。
擦れて少し白っぽくなって。
何か食べる?とみすちーが言った。
こんなところに来てしまったことをわたしは後悔しはじめていた。
鳥か、虫か、何か鳴くやつが、いつも鳴くようにあたりそこらじゅうで鳴いてた。
わたしは少し考えて、あったかいやつ……え、なぁに? おでんとか……って、言った。
悪夢のような長くてひどい夏が急速に過ぎ去ってここ数日は激しい雨が降り夜は冷たくなりはじめた季節のことだった。
「おでん?」
「うん」
「惜しいですね」
「え、なにがですか?」
「この前やめちゃったんです」
「へ?」
「おでん」
「ああ。そうなんですか」
代わりに何か焼きますよ、とみすちーは言い、火をかけて網の上で魚の身を焼き出した。
わたしはお酒に口をつける。
それは辛口の日本酒か何かで甘いやつにすればよかったなとわたしは思った。
「なんですかそれ」
「うなぎですよ」
「へえ、なんていうか、珍しいですね」
「そうですか?」
鰻を焼きながらみすちーは歌をうたってた。
あー、やーめまーしたー、あー、やーめまーしたーやめました、おでんやめました、げーんかーたかいしーね! こーれかーらはー、すーうどーんーはじめます。
見ると屋台の後ろの椅子の上にアコースティック・ギターが置いてあった。
歌とかも歌うそういうお店なのかなと思って、そういうお店を知らなくてそういうお店がどういうお店なのかぜんぜんわからないことを思って、考えるのをやめた。
わたしはお酒にまた口をつける。
少しずつアルコールが回ってほのかな酩酊感を覚える。
嫌なこと思い出す。
やがて鰻の焼ける香ばしい匂いが漂いはじめる。
みすちーはたれを塗って裏返し、再びたれを塗って刷毛を置いた。
少し甘い香り。
みすちーはいつものみすちー風のやつを(つまりてきとーを)言ってた。
ねえ、お客さんは知ってる、昔なんかの本の読んだんだよ、才能のある人間はみんな匂いフェチなんだって。
「きっとお客さんにも誰にも負けない才能があるよ」
「どうしてわかるんです」
「だって、お客さんは犬でしょう」
「犬は嗅覚に優れてるだけで別に匂いフェチってわけじゃないでしょう」
「そうなんですか?」
「知らないですけど」
「ふふ。知らないんですね」
みすちーは少し笑った。
わたしは山彦だから犬じゃなくて、犬のことなんか知らないし、わからない。
それを言うのも怠くて、そもそも匂いフェチには才能がある、みたいな言い分もわけわからんし、それを深く聞くほど興味もなかったし、なんだか肌寒くて熱っぽいし風邪でも引いたかなと思って、帰ることばかり考えてた。
みすちーは焼き網から鰻を箸でつまみあげお皿にあげて、別のお箸と一緒にわたしの前に、ことん、と置いた。
どうぞ。
お酒を飲んでもあんまり味がわからない。
そういえば、みすちーはさっきと少し人が変わってしまったみたいだ。
なんだかさっきのざっくばらんだけどあったかい感じから、少し冷たいような、何か緊張したような感じが伺える。
常連さんがいなくなったからだろうか。
でも、屋台の見た目にも長くやってそうな女将が初対面の相手だからと言って緊張するようなことがあるのかな。
まあ、そんなことはどうでもいっか。
絶対に風邪をひいたと思う。
鰻を食べた。
たれが甘いからおいしい。
「ねえ、お客さん、お客さん」
「はい?」
「お客さんって音楽とかやってるんですか?」
「いや。どうしてですか?」
「だってさっきギターを見てたから」
「それはなんか珍しかったから」
「ふうん……」
みすちーは少し考えて。
「ねえ、お客さん、音楽をはじめたらどうですか?」
「え? わたしが?」
「そうですよう」
「いやあ」
「でもさっきの話、お客さんにはすごい才能があるから、きっと音楽の才能があると思うな」
「でも、わたし普段音楽とか聞かないし、わたしあんま歌とかもうまくないから、ないですよ、そんなの」
「いや、絶対あるって。わたしそーゆーのわかるんです」
「いろんな人を見てきたから?」
「そうそ」
「むむ。でもぉ……」
「そうだ、一緒にやりましょうよ」
「一緒に?」
「うん。バンド組んでね、お客さん才能あるしすっごく有名になれちゃうな」
「いや、いや。なんなんですかその勧誘。怪しいし、てか意味わかんないですよ」
「でも、ほんともったいないもん……」
「なんで?」
「才能あるから」
「ないですって」
「だって、だってさあ、犬のくせにさあ」
もう帰ろうとわたしは思った。
今日はみんなにはとてもいい日かもしれないけど、やっぱりわたしにとってはあんまりよくない日だ。
こんなにも気だるい。
なんだか眠い。
立ち上がろうと思ったところで、みすちーが言った。
「そうだ。さっき一杯奢ってくれるって言ってましたよね、いいですか?」
「あ、まあ……」
それは言ってしまった約束だったから、仕方なく肯いて、みすちーがわたしと同じお酒をコップについでるところを眺めてた。
とっーとぅーとーてーてーってみすちーは歌を口ずさみながら、淡い時折ちらつく電飾の下で。
「ね、そっちに行ってもいいですか?」
「え?」
「せっかくだから一緒にやりましょうよ」
「いい、ですけど」
ぐるりと屋台を回ってみすちーはわたしのすぐ隣に座った。
それからわたしのグラスいっぱいに、あふれそうなくらいに、お酒を注いだ。
「かんぱい」
みすちーの持ち上げたグラスにわたしはグラスを傾けて当てて、こつん、という小さな音がするのを聞いた。
わたしは少し飲み、みすちーは半分ほどを一気に飲み込んだ。
「んー。おいしい。やっぱり仕事中に飲むのがいちばん幸せですよ」
「そもそも趣味でやってるってさっき言ってなかったですっけ?」
「えへへ。まあ、そうね。でもやっぱ仕事は仕事だし、幸せは幸せよ」
「ふうん」
「あ。これ、いただきます、っていうかいただきました」
「え、ああ。お構いなく……」
「お客さんあんまりお酒は強くないんです?」
「まあ、そおですねえ。普段あんまり飲まないし」
「っていうか飲んじゃいけないんでしょ? 修行僧だから」
「そうだった」
「あはは。だめじゃないですかぁ。でも今日はせっかくだからいっぱい飲んでくださいよ」
「むむ」
しかたないのでわたしはまた少し飲む。
みすちーは残ったお酒を全部飲み干して自分で自分のグラスに注いだ。
一杯だけって話じゃないですか、まさかお金とかわたし持ちじゃないですよね、とか思うけど、言わないだけの作法がわたしにもあるし、言えないだけの臆病さもある。
ここってもしかしたらそういうお店なのかな、と思って、そういうお店の話なら女苑から何回か聞いたことあるから知ってるし、騙した話も騙された話も笑いながら話す女苑のことを思い出して、わたしは笑えないな。
今日はやっぱりとてもよくない日なのかもしれない。
「お客さんは命蓮寺に住んでるんですよね?」
「ええ、まあ」
「あそこは大変そうですね。あの和尚さん外ではすっごく穏やかでやさしい感じだけど、中ではけっこうスパルタだって聞きますよ」
「ときには、そうかも」
「さっきはすっごく文句言ってましたもんね」
「も、文句は言ってないけど」
「あ、でも、大丈夫ですよ。ここでの話はここだけの話だから」
「別に聞かれて困るわけじゃないですけど」
「あ、そう? じゃあ言っちゃうかも」
「え。だめですよ」
「あはは、やっぱじゃあ聞かれたら困るんじゃない」
「むう」
「でも立派ですよ。尊敬できるな。妖怪に生まれてなお仏門に入って修行するのは」
「わたし、でも、山彦として生計立てらんないから迷って入っただけですよ。結局は自分のためだから」
「ふうん。お客さん生まれはここですか?」
「妖怪の山ですね」
「はーあっちなんだ。あそこはわたしけっこう怖いんですよね。たまには向こうでも足を広げたいとも思うんですけど、あっちはまだ昔ながらの妖怪が多いじゃないですか。縄張り意識も強いし。あそこに生まれて人間との融和を目指す命蓮寺に入るなんて余計に立派だなって思うけど」
「そうかなあ」
「うん」
まあ結局戒律破ってこんなとこでお酒飲んでるけどってみすちーは笑った。
つられてわたしも少し笑ってしまう。
「ふふっ。そうですね」
「でもほんとに立派ですよ、お客さんは……。あ、お客さんはなんていうんですか?」
「え」
「名前、名前です」
「きょーこ」
「どういう字書くの?」
「響くに子どもの子……です」
「へえへえ。かわいい名前だ。やっぱり響くとかつけるの山彦にはよくあるの?」
「そうですねえ。音楽とかの音とかもよくあるし、そのままこだまって名前の子はよくいますよ。それはちょっと一昔って感じだけど」
「へーおもしろいね」
「女将さんは?」
「ミスティア・ローレライって言うの」
「ふうん。ローレライさんはこの屋台もう長いんですか?」
「うん? まあ、ぼちぼちかな」
「そうなんですね」
「でもわたしの話はいいじゃないですか。響子の話をもっと聞かせてよ」
そう言いながら半分よりちょっと少ないわたしのグラスにみすちーがお酒をつごうとするので、わたしはグラスの上に手をかざして、言う。
なんとなくさっきよりみすちーのことの距離が近くなった気がするから、かえって素直なことが言える。
「あ。お酒はもういいですよ。そろそろ帰ろうかなと思ってて。恥ずかしい話なんですけど、わたしお寺の人だからあんまりお金とか持ってないし……」
「えー。せっかくなのに」
「水をさしちゃって申し訳ないですけど」
「大丈夫。今日はわたしがぜんぶ奢るから」
「え。なんで?」
「だって響子はかわいいから」
「へぇ!?」
驚いてわたしがみすちーのほうを振り返るとみすちーはわたしのことをじっと見ていた。
「わたし、もっと響子とお話したいしお酒なんていくらでも飲んでいいですよ。食べたいものがあったらつくるし」
「なんで……よくわかんないです」
「わたし響子のこと好きなんだ。一目惚れっていうやつですね。最初に見たときからそうだよ」
「え。なんか冗談みたいなやつ? ごめんなさい、わたしあんまそういうのわかんなくて」
「ちがうよ。本当のこと。あ、わたし、誰にでもそんなことするわけじゃないですよ。響子は特別だもん」
「なんで……なんで。わたしべつにそんな……かわいいとか、じゃ……」
わたしはなんか怖い。
まじで帰りたい。
今すぐ雨が降ってくればいいな、と思った。
そうしたらそれを理由にすぐにここを後にすることができるから。
そういえば女苑にそういう話を聞いたことがある。
最初は向こうの方からめちゃくちゃアプローチして、それでお客さんをその気にさせて、でもその強いアプローチは最初が最後であとはつれない中途半端な態度でたくさんお金を搾り取るのだ。
やるのはすごく簡単なの、過剰さを演じるのはさ、けっこうやってて楽しいしね、って言ってた。
「え。ここってそういうお店なんですか?」
「そうかな……どうかな、そうかも。あとでみんなに聞いてみてよ。自分が愛されてることが特別なのかどうか」
空はイーブンの曇り空。
わたしは雨を待ってた。
昨日まではたしかに降り続けてた秋の雨を。
その季節になるとみすちーはどうしようもなくなる。
わたしのことが大好きでたまらなくなる。
それは、はじめて出会ったときからそうだった。
「いや、わたし、わかんないですよ……なんで?」
「だってさ、こんなみんなが上機嫌な日に響子はあんなにも全部がさいてーみたいな顔してさあ……」
「なんでそれが……」
グラスをぎゅっと握ったわたしの手にみすちーは手を重ねた。
わたしは少し痛い。
みすちーはわたしを見つめていた。
「かわいい……かわいい」
そのままみすちーは泣き出してしまった。
わたしは怖くてたまらない。
「ねー、ねえ、ねえ、お客さん」
「はい?」
「ひいてます?」
「うん」
「ひかないでよ……」
「無理ですよ」
みすちーは泣いている。
声を上げずに両方の瞳から涙がゆるやかに流れている。
あたりでは鳴く生き物が鳴いている。
その声以外に夜は静かで、みすちーの涙にも音がなかった。
みすちーの手のひらは汗が滲んでいる。
「ねえ、きょーこ、きょーこ、わたしもっと上手くやれればよかったなあ。もうこんなこときっと二度とないのに」
「そんなことないですって。きっといい人他にもいっぱいいますよ」
「そういうことじゃないんだよ。響子は特別なんだ。こんな日にさあ、こんな日に、こんな季節に……」
「わたしに音楽の才能があるからですか?」
「ちがうよ。あんなの嘘だもん」
「えぇ……」
「わたし響子のことを忘れちゃうと思うな。わたしね、いつもいろんなことを忘れちゃうの」
「みんなそうですよ」
「そうだよね。忘れちゃう。忘れちゃうな。わたし……たぶん誰にも言ったことないこと、忘れるのが怖くてたまらないんだよ。いつもお店に来てくれる人はちゃんと覚える。覚えている。いつもつくるメニューもちゃんと覚えておける。わたしなにを忘れるのかな……それがわからなくて、忘れたことは忘れているから思い出せなくて、響子はきっともう二度とここに来ることはないから、わたしは響子のことを忘れてしまう。誰かが来たってことだけ覚えていて、それが思い出せなくて、そのことをずっと考えて、それが思い出せなくて、もどかしくて、遠い場所には暮らしがある。そこには町の明かりがいくつもあって……」
「また、また来ますって」
「うそつき」
わたしがこの場から逃げようと立ち上がると、みすちーはわたしの袖を掴んだ。
「ねえ、響子」
「は、はい」
「一緒にバンドをやろうよ」
「わたしは音楽なんかできないですよ」
みすちーは躊躇って、握る指の力が弱くなって……言った。
「じゃあ……一曲だけ聞いて帰ってよ」
「むむ」
「一曲だけでいいから。そしたら帰っていいよ。わたしは響子のことを忘れるし、響子もわたしのことを忘れる」
「……うん」
「でも……わたし、歌には自信あるんだ。これはほんとに誰にも言ったことないこと……。わたし、Classicになれる。きっと、きっと、たぶん……。この夜を響子の忘られない夜に変えたいな。わたしのことを忘れてもわたしの歌は忘れない……」
わたしは肯かずに首を振らずに立っていた。
みすちーは屋台の裏側からアコースティック・ギターを持ってきてわたしの前、椅子の上に座ってそれを抱えるように抱いていた。
ギターを鳴らしながら音をあわせていた。
手持ち無沙汰にわたしは聞いてみた。
「あの、曲名はなんていうんですか?」
そのあとでみすちーが言った言語をわたしは知らなかった。
ᒥᖏᑎᑕᐅᑎᔪᖅ。
みすちーは恥ずかしそうに笑った。
涙の跡が筋になってほっぺたに貼り付いてた。
「これは……つまりね、あのね、わたしだけの言葉っていうか……。あはは……そういうね、そうゆう恥ずかしいやつでね……。でも、でも、わたし、いつも忘れちゃうから、曲書いてみてもそのうち忘れちゃうから、でもこれはすごくすごく大事な曲でね、忘れたくなくて、いつも喋る言葉で歌詞を書いたら普段使う言葉と混じってつながってそれがなんだったのかわからなくなっちゃうからそうしたけど、こんなの恥ずかしくて人前じゃ歌えないし、それに自分だけが知ってる言葉で歌詞を書けば忘れないと思って……思ってたけど……」
みすちーはおずおずとコードを抑えてまた少し弾いてみて、そのままやがてメロディを引きはじめて、チューニングはし終えたみたいに見えたのにそれはどこか歪んで、なんだか変な音で、なにかがりんりんと鳴いているだけの静かな夜にはじまりもわからないくらい曖昧に曲は始まって、それからみすちーは目を閉じて歌いはじめた。
わたしはどうすればいいんだろう。
みすちーとバンドを組んでたくさん音楽を聞いて曲のことだって少しは勉強した今でも、それをなんて言えばいいのか、わたしはわからない。
複雑なコード進行、不協和音、知らない言語、わからないメロディーはA、B、C、D、F……二度と繰り返されることがなく、発声は高く澄んで透明なようでも、みすちーだけの言葉に乗せてうたうみすちーの歌はツギハギだらけの液体みたいだった。
水が、雨が、水たまりが、コップの底でたゆたう飲み水が、風呂場の隅で淀んだ温水が、窓の外で結露した水滴が、汗が、涙が、体液が、川が、海が、縫い合わされて、いろんな青色……。
みすちーの歌は、たとえば、こんな歌だった。
「ᒑᕐᔪᖕᒥ ᔨ, ᒥᔅᑕ ᕼᐃᒃ ᖅ ᒥᑯᑎᓕᑯᑎᓕ
ᕆᔨᒃᑯᓐᓄᑦᐳᖅᐃᐃᓗᓂ ᓄᓇ
ᓗᒋᑦᓇᓱᒋᔭᐅᓐᓃᐅᖅᑐᑦᐃᒪ1897
ᑕᐃᒪᐃ ᑕᐃᒪᐃ ᐊᕐᓂᕐᒧᑦᖅ ᐊᒻ
ᑕᑯᔭᐅᖃᑦ ᐃᑲ ᐅᖃ ᔪᑦ ᐊᒻᒪ ᐃᕐ ᐅᖃᐅᓯᖓ
ᐊᕐᔪᐊᑲᑕᓇᓇᖕ ᕆᕝᕕᓕᒫᑭᓯᐊᓂ
ᐅᑯᐊ ᒪᑦᑎᐊᖅ ᑦ ᒐᕙᒪ ᑦ ᒐᕙᒪ
ᑎᕋᕐᕕᓕᒫᖏᒥᑦ ᕕᑉᐸᖕᓂᕐᒧᑦ
ᐅᑯᐊ ᒪᑦᑎᐊᖅ ᑦ ᒐᕙᒪ ᑦ ᒐᕙᒪ
ᓇᐃᔭᖅᑎᓂ
ᐅᓄᑦ ᐃ ᓂ ᐃᖅ
ᑲᔪᓯᑎᑕᐅᒥᖁᑎᒋᔭ ᐊᓂᖃᖅᑐᓄᑦ ᑭᒡᒐᖅᑐᖅᑕᐅᓂᐊ
ᐱᓕᕆᐊᒃᓴᑦᑖ ᐊᕐᓂᕐᒥᒡᓗ ᐊ
ᓇᐃᔭᖅᑎ ᒃ, ᐱᓕᕆᐊᒃᓴ ᓂᕐᒥ ᑐᒥᒡ ᐃᐊᖅᑎᓐᓇᖅᑕᑦ ᓇᐅᑦᑎ
ᐃᓄᖕᓂᒃ ᐃᖅ ᐱᓕᕆᕝᕕᖏᓐ ᑐ
ᑎᒃ ᐱᕋᔭᒃᑯᖏᑦᒃᑐᖕᓂᐊᕐᓗ
ᓂᑦ ᐃᖅᑲ ᕆᐊᒃᓴᖅ ᐊ ᐃᓱᑎᒃ ᐃᓕᖕᓂᖁᔨ
ᓕᒐᓕᐅᕐᕕᒃ ᑐᐃᓐ ᓐᓂᒡ ᓂᕐᒥᓂ ᓇ
ᐅᕗ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ
ᓕᒐᓕᐅᕐᕕᒃ ᑐᐃᓐ ᓐᓂᒡ ᓂᕐᒥᓂ ᓇ
ᐅᕗ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ
ᑑᑎᐅᓗᒃ ᐱᔾᔪᔨᕙᒡᓗᓂらーらーらーらーえーと……
あーだめだなあ……やっぱ忘れちゃうなあ
わーすーれちゃうなーわすーれちゃうよーーきょうこーのこともーきょうこのーひのーこともわーすーれちゃうーおわり」
歌い終えたあとでみすちーはまた恥ずかしそうに笑った。
それが素晴らしい曲だったのか、わたしは感動したのかどうか、わたしにはわからなかった。
今もわからない。
でも、わたしはみすちーの歌をいつも探している。
みすちーのもう歌わない、たぶん歌えない、その歌を。
ライブで別のバンドの演奏する曲やカフェテリアで流れる流行歌や木々のせせらぎや鳥たちの歌のなかに、時折みすちーのあの歌に似たメロディーを聞くときがある。
でも、それは、ふとした瞬間のことで、あとでまた聞いてみても、そんなメロディーを集めてみても、やっぱりみすちーの歌にはならないと思う。
そうだ、わたしはそれをもう忘れてしまったのだ。
そのことを考えてわたしは時々泣いてしまう。
あの夜に、恥ずかしそうにギターを抱えたみすちーを見て、わたしはすでにみすちーと一緒に過ごす今日にいて、どうしようもなく戻れなくなってしまった。
みすちーはわたしにおずおずと聞いた。
「あの、あの、どうでした?」
「難しい……っていうかよくわからなくて、ごめんなさい、わたし、きっと忘れちゃうと思います」
「うん」
「でも忘れたくなかったな。……本当に」
それからお腹が空いちゃったとみすちーが言うので、ふたりで残った煮物を食べた。
みすちーの煮物はとてもおいしかった。
みすちーはなんだか不思議と落ち着いていてあまり喋らないのでわたしばっかり喋っていた気がする。
これ美味しいですね。
いっつも精進料理ばっかだからこういうのって食べると余計美味しく感じますよ。禁煙の気持ちってやつ?
毎晩ここでやってるんですか?
屋台とかやってるとやっぱ太っちゃいそうだけど、ローレライさんは痩せてて羨ましいですよう。
わたしなんかは顔から太るタイプだからすぐみんなに言われちゃって。
みすちーはわたしの言うことに、それがなんであれ、ずっと笑っていた。
わたしに言うべきことがなくなってしまうと、わたしたちふたりとも黙りこんでしまい、夜の静寂には何かが鳴る音がだけがしてた。
空のグラスにみすちーはお酒を注ぎだした。
わたしはみすちーのことを見た。
みすちーの顔にはまだ涙の跡がはっきりと貼り付いていた。
わたしはみすちーこれ以上何を話したらいいのかもわからず名前だけを呼んだ。
ねえ、ローレライさん。
みすちーはグラスにお酒をいちど継ぎ、継ぎ足して、そのまま継ぎ続けて、やがてこぼしてしまった。
グラスから液体がぷとぷとぷととこぼれ続けた。
それを見ながら、みすちーは、あはあはと狂ったみたいに笑い出した。
液体は屋台のテーブルを伝い、やがてこぼれおちて、わたしの膝を濡らした。
「あ、冷たい……」
ねえ、ローレライさん、ローレライさん、とわたしが何度呼びかけてもみすちーはお酒を注ぎ続けていた。
わたしはテーブルを伝って落ちる水滴を足で浴びながら、なんだかおかしくなって少し笑い、足を流れる液体を指ですくってみた。
それは、とても冷たくて、冷たくて、冷たくて、冷たくて、まるで雪解けのようだった。
そのときにもうみすちーはわたしを憂鬱な山彦から雪国生まれの犬に変えてしまったのかもしれない。
それからみすちーは笑いながら言った。
「ね、きょーこ、表面張力ってあれ、嘘だよ」
雪国じゃあ表面張力のことを、単に凍結と、呼ぶ。
だから、雪国はわたしに出会う前から、みすちーの中にあったんだと思う。
どうだっていいことをすぐに忘れてしまうみすちーの中にあって、ずっと失われずに残っている、その雪国のことをわたしは知らない。
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みすちーに出会う前の話3。
2はもうどこにもないんだよ。
その頃のことを書いたメモはなくしてしまったから。
薬剤の記憶処理のせいであの頃の起こった多くのことは
今も あのときだって
曖昧模糊とした印象としてしか思い出せない。
いつも言葉を預かったらそれを吐き出してしまうことのないように。
部屋に籠もって誰とも話さず誰にも会わないようにして
ひとりで時が過ぎるのを待っていた。
ときどきわたしは里にいって食料を買い込んだり
夜に近場を散歩したりしたが
それ以外はたいてい部屋で過ごした。
そうだ 時間があったから文章を書こうと思っていた。
せっかく珍しい経験をしているのだから仕事のことをメモに記して残しておこうと思ったのだ。
でもあんまりうまくは書けなかった。
書けたとしても単語を並べることか
短い文章をひとつかふたつ置くことしかできなかった。
て。に。を。は。を信じて言葉を追ってもかえって
接続詞によってかろうじて繋がったツギハギの文章にしかならなかった。
構文が崩れて。
文脈がつながらなくなって。
時間の流れがばらばらになった。
昨日の日のことを 書いてたのに
それがずっと昔の思い出と混じって いないはずの誰かがいたり
言ってないはずのことを言った。
あるいは 昔の記憶について書いてたのに
預言者のように 未来の町を歩いていた。
まるで夜に見る夢みたいにね。
だからわたしは眠った。 その頃はとてもよく眠れた。
いつまでも。 いつまでも。
いつまでも。
眠れた。
夢を見た。
こっち側で口を封じられていたせいか 夢のなかでわたしはよく喋った。
生まれてからその日までに話したこと以上のことを喋ったような気がする
実際あの夢のなかでわたしはこれでもかというほど話し続けたものだ。
わたしは 誰彼問わず ひとりでも 喋り続けた。
もう会うこともなくなってた昔の友だちに
夢の中にしかいない架空の名前の友だちに
山彦たちの住む山里で暮らしている母親に
会ったことないはずの幻想郷の神様たちに
人里をひとりきり歩きながら
冷たい水で食器を洗いながら
あおむけに空を浮遊しながら
その頃住んでた小さな部屋で
昔働いていた山彦の料理店で
山彦たちの集まる学校の中で
聞く相手もいないのに言葉を吐き続けた。
今となっては何を話していたのかさえあまりよく思い出せない。
とにかくあの頃のわたしにはいくつもの主張があったような気がする。
誰彼構わず わたしはそれを話し続けた。
それが自分の中からなくなってしまうくらい たくさん。
だから あのとき話したことはすべてあの夢の中に置いてきてしまったのだと思う。
目が醒めるといつも喉が乾いていた。
シンクまで歩いて 水を飲んだ。 窓は締め切ってしっかり鍵もかけていたはずなのに
カーテンが揺れてた。
カーテンの上には小さな蜘蛛が這っていた。
蜘蛛はカーテンの裾から裏側に向けてうまく身体を折り曲げながら
くるり。
と
巡った。
それを目で追いながら わたしは夢を見ているな。 とわたしは思った。
目が醒めると喉が乾いていた。
わたしは毛布に包まりながら もう少し寝ていようと思った。
今度は それが夢のなかだとすぐにわかったから。
やっぱりカーテンが揺れていたので なるほど。 とわたしはひとり納得して
少し笑ったと思う。
実際のところ わたしは窓を開けたまま寝ていたのだ。
あの頃は現実に追従する夢をよく見たのだ。
夢から醒めて現実に戻ったと思うような夢。
それだけあの頃のわたしは曖昧だった。
夢と現実のちがいがよくわからなくなっていた。
わたしは文章を書くのではなくて音楽でもやればよかったのかもしれない。
それなら 曖昧なままでも
なにか形になるものを残せたのかもしれない。
でもそれはみすちーに出会う前のことだ。
そうだよ。
みすちーに出会うまでわたしの暮らしは全部夢だった。
今になって思えばそのことも貴重な経験だったとは思うけれど
頼る人もないなかで
よくあの時代をうまく乗り切れたものだと考えることもある。
危険な目にあいそうなこともあった。
あの頃のわたしには今はもうない異常な諦念があって
まあなんとかなるよね
って 思って何も気にせずに現れる出来事を現れるままに受け入れることができた。
貴重な経験?
それって結局 単なる 胃腸の痙攣にすぎないし。
(薬剤を飲み干したあとのFD風の続く数時間。
ブルーの液体。揺れてたな……。
まるで海のように。
海ってわたし別に知らないけど。
みんながこんなときにはたいてい海みたいって言うからやっぱりそれはまるで海のように……。
青色の液体とか広くて青いもの。 波だったブルー。
盗んだ比喩を重ねてそれをわたしはいつも海って……。
青い空。
広い湖。
水色の風呂敷。
みすちーの甘色の体液。
いつまでも続く深い憂鬱。
コップの中に注がれてはこぼれてしまう液体。
それらがすべての海の一部で。 わたしの海のすべてで。
いつしかみすちーと見に行きたいな。
海ってぜんぜん海じゃないじゃん! とかみすちーが言ってくれたならそれだけでわたしはいいな。
みんなの嘘を暴いてもべつに満たされないけれど。
わたしがずっと海だと信じて想像していたものが海じゃないとしてもぜんぜん悲しくないけど。
ほんとのことなんかたいして知りたくもないけれど。
いつかみすちーと海に行きたいな。
ふたりで。
海に。
海で。 。 。 。)
そんなふうに夢ううつの数年を過ごした。
だから あのメモの中に書いてある人やモノや出来事は
当時に出会ったものよりも 昔 わたしが暮らしていた故郷の山のことがずっと多い。
あんな仕事をしてしまったせいで数年間誰にも会えなかったし連絡も取らなかった。
時折メモを見返すことがあると故郷のことを思う。
わたしが暮らした故郷は妖怪の山の高いところにある山彦たちが住む小さな森だ。
わたしたちはある種の一族であり そこで住んで暮らしていた人たちの顔はみんな知っている。
わたしたちには反響と記録に関する同じ特別な力があり
そのひとつの例として古い時代から世代へ世代へと延々に受け継がれてきた特別な言葉があった。
年に四回 無作為に選ばれる山彦たちの中でさらに籤引きによって選ばれた
ひとりの山彦。
彼 彼女 はその特別な言葉をひとつの季節の間自分のなかに閉じ込めておく。
そして次の季節が来たらすべての山彦の前でその言葉を吐いて
また別のひとりの山彦がその言葉を記録する。
それは悲鳴と涙である。
伝承によればその悲鳴はまだ山彦たちが妖怪の山で縄張り争いを繰り返してた頃
その戦争のさなかにひとりの山彦が大切な人を失ったときにあげた悲鳴と涙声だと言われている。
過去の戦火悲劇と今の平和の価値を忘れないためにその悲鳴を受け継ぎ続けているという
そういう話だ。
わたしはいいことなのか悪いことなのか選ばれたことがなかった。
少なくとも籤引きには。
でもわたしが運び屋をしていた頃ひとりの山彦がわたしの前に現れたことがある。
彼女は『今からわたしの言う言葉を預かってほしい』というメモを
わたしに
手渡した。
わたしは肯いたのだ。
次に彼女が発したのは例の一族の悲鳴だった。
それから彼女は笑った。
「これで貴方も共犯だね。
好きにしていいよ。
みんなのとこに戻ってそれを返してきてもいいし。捨てちゃってもいいと思うな。」
それから依頼料をわたしに手渡して。
去り際にこんなことを言った。
「わたしがひどいことをしたと思う?みんな同じこと
をやってるよ。老人たちは忘れないためにとか言う
けどそれだってただみんなを共犯にしたいだけなん
だと思うな。同じ悲しみにみんなを浸らせるため同
じ罪をわたしたちにも被せるため。戦争とかわたし
たちには関係ないじゃん。戦争はあいつらが馬鹿だ
から勝手にやってただけだもん。それでたくさんの
人たちが死んだことやいっぱい被害が出たのはかわ
いそうだとは思うよ。でもそれを忘れないためにと
かそんなんはあいつらのノスタルジーのためだけで
さわたしには関係ないもの。わたしは知らない。貴
方がどうするのかも知らない。好きにすればいいん
だよ。みんなそうしてる。」
わたしは捨てることを選んだんだと思う。
その夜に わたしはひとり森の深いところ 誰もいないその場所で。
悲鳴をあげてそれから泣いた。
もちろん涙はでなかった。
わたしたちが記録するのは声であり 声を上げるときに必要な身体の動きであり
その音は 代から代へと季節が変わるたびに空気を伝播して
かすれて
小さくなって もはや本物の涙を必要とはしていなかった。
わたしは静謐な夜の森の奥で
そのままひとりで泣き続けていた。
しばらくの間。 長い間。
そうしていた。
最後のほうで一筋の涙がこぼれた。
それは数百年分の空っぽの涙。
わたしは泣き声上げるために追従する身体の動きによって泣いたのでも
一族の悲劇を思って泣いたのでもなかった。
わたしはもう戻れない故郷のことを思って泣いたのだ。
まるで海を語る人々の言葉を剽窃して海を知らないわたしが液体を海に比喩するように
わたしは一族の悲鳴と涙を剽窃して
わたし個人の悲しみに涙したんだった。
ねえ、みすちー。
わかるよ。
(なんて言ったらみすちーは怒る?
安易な共感を嫌うみすちーならこんな単純な同調は鼻で笑うかな。
でもわたしのやつは いつも特別で許してね。)
なんだって忘れちゃうよね。忘れちゃうよ。
一族の悲鳴でさえ数百年もしたらもはや涙を流せないほどに小さくなってしまうのに
わたしのこの悲しみもだってきっと数年も続かないだろうな。
もう二度と見ることのないだろう家族や友だちや故郷。
今はそうやって悲しんでみたりしたってそのことだってすぐに忘れて
どうだってよくなってしまうかもしれないし あるいはひょっとすると
ひとりでこんな大見得切ってさ/
切ったくせにさ いつかなんてこともなく戻ることになるのかもしれないよ。
でも 今は帰れないね。
帰れないな。 帰れないよねえ。
帰れないよ。ねえ。
(つづく。)
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case2!
そういうわけで、わたしたちはY字路を右に歩いた。
そもそもコインランドリーに続く道は右に決まっていて、みすちーがそれを忘れてしまったのだとしても、わたしがそれを覚えているのだから、道は右に行くほかなかったのに、ああやって立ち止まってしまったことで、こうして思い返したときに記憶のなかにまるではなから左を選ぶ可能性があったかのように挿入されて人生はまたひとつcase2を重ねる。
歩き続けなければ、歩みを止めてしまえば……、立ち止まってしまうたびに人生は過去で分岐して、あるはずもなかった未来が募っていく。
case3……case4……case5……case6……というように。
とまらなくなる。
なーむ。
とにかく今わたしたちは右を行きそのまま歩けばコインランドリーは、すぐそこ!
雨脚は強くなる。
ぱちぱちぱちぱちぱちと打ち付ける雨の音も大きくなってみすちーの喋る声も歌も聞こえなくなってしまいそうだった。
わたしたちは怒鳴るように喋る。
「ねえ、みすちー! 明かり見えたー??」
「見えないー」
「そろそろ着いてもおかしくないよー」
「そんなの忘れたー」
「着いたでしょー!」
「つかないー」
「あ!明かり!明かりが見えるよ!」
「見えないー」
「見えるって!ほら!あそこに!」
「あ、待って」
みすちーは足を止めた。
わたしはすぐに追いついてみすちーの横に立つ。
立ち止まるみすちーの見つめる先には黒い羽の生えた女がいた。
天狗の女だ。
わたしたちの歩く森の木々の間のぬかるんだ道の先を少し外れた巨大な樹の下で雨を躱しながら煙草を吸っていた。
煙るような白い雨の先に煙草の先端の焔が、見えない。
少し奥で、後ろ側で、遠い場所で、コインランドリーの明かりがあった。
激しい風が吹いている。
黒い羽はひどく羽めいて風にはためき、長い髪がなびている。
女はちらとわたしたちのほうを見たようだった。
みすちーはわたしそばに近づいて。
わたしの大きなやつに。
耳打ちした。
「あの天狗は人を殺したね」
「え、どうして?」
わたしの声はまるで雨音にかき消されてみすちーには聞こえないみたいだった。
「あの天狗は人を殺したよ」
「どうして?」
「むかしわたしのおばあちゃんは天狗を嫌ってた、あいつらは人を殺すんだよって言った」
「へ? どうして?」
「空を飛ぶ種族、しかも古い世代しか知らないけど、昔は空に交通のルールがあったんだよ。今とはちがうやつよ」
「どういう話?」
「むかしA空は天狗たちのものだった。つまり空にランクがあったんだよ。見えない層があったんだ。高いところが偉いの。領空侵犯は重罪よ」
「何の話?」
「それはいちおー理にかなってはいるんだよ。響子は飛ばないからわからないだろうけど高いところを飛ぶほうがいちばん大変なの。いちばん飛ぶのがつらい空はえらい天狗が飛ぶの。それってノブリス・オブリージュってやつかな。それとも単に飛行に関する構造の問題? 幻想郷における数十年前の空理論は、層理論が主流よ。その見えないほんとはあるはずもない境界で区切られた層ですべてを説明しようとしたの」
「どうして」
「つまり、層理論においては台風とか雨とか雷とか雪とかいわゆる天候の荒れ、みたいなやつはぜんぶその層同士の混じり合いで説明されるの。層ごとはちがった性質を持つってことになってて、たとえば、たとえばC空は水の性質を持ってるとかそういうやつさ、だからD空を飛ぶ類の鳥たちは進化の類形に魚を持つ、みたいなことが真面目に論じられてたんだよ……わたしもおばあちゃんから少し聞いただけだから、なにがなんだったとかはもう覚えてないけどさ。せっかくだからもっとちゃんと聞いておけばよかったかな。でもどーせ忘れちゃうかあ」
「どういう……」
「でも雪の講義についてはよく覚えてる。あんまりに馬鹿らしかったからね。層理論においてどうして雪が降るんだと思う?」
「どうして?」
「すべての層がひとつに交じるからだよ。すると空が凍るの。そして重さに耐えきれなくて、冷蔵庫の霜が落ちるように……雪が降る、って、ってさあ。たぶん、この土地において雪が最も珍しい天候だったからそうだったんだけど、それにしてもねえ」
「だからなんなの?」
「もちろん今は誰もそんなことを信じてないよ。『空、地、憂鬱に関する統一論』。昔がっこで習ったな。今じゃ、憂鬱さえもすべてが気圧によって説明される。わたしたちは進化してるよ……」
「どうして?」
「言ったことあったっけ。わたしむかし音楽学校に通ってたんだ。ちょうど鳥インフルエンザがここでも流行った時期だよ。響子の方では話題になったのかなあ。鳥インフルエンザは特に天狗たちにクリティカルでねえ。いちばんの時期には空からまるで雨か雪のようにばたばたばたと黒い天狗たちが落ちてきた。見たわけじゃないけどね。そのとき響子は何してた? わたしなら鳥たちの音楽学校でコード理論を学んでた。でも途中でやめてね。しばらくふらふらしてて、小さな旅亭で働いてたんだと思う。あ、思い出した。遠い場所の寂れた湿地帯の近くの人のやる旅亭よ。春が終わる頃から近くに水芭蕉が咲くから人が来た。目の悪いお婆ちゃんとその娘が大概やっていてわたしが妖怪だって知ってるのに雇ってくれたの。なんだっけ、なにかそのことについて言っていて、わたしはひどく嬉しかったのにそれは忘れちゃったな。さすがに人前には出られないから裏で働いてた。厨房で料理を作ったりシーツを洗ったり風呂場を掃除したり。すごく真面目にやってた。好きだったの。小さな客室にひとつ部屋を借りててね。そこで暮らした。二年半。あれ半年だったかな。結局潰れたのか……いや、お婆ちゃんが死んだんだったかな。あー泣きそうだな。いや、建物が老朽化して建て替えるお金もなくてそのまま閉じてしまったんだったような気もするな、そこで自殺した人がいて悪い噂が立ったせいかもしれないね。いったいなにが妥当なんだろう、小さな旅亭が潰れてしまうのにさ。それでそこをやめてまたこのへんに戻ってきて、それからの数年を、忘れたコード理論を思い出すために過ごした……」
「そうなの?」
「ごめんね。急にこんな話。今たまたま思い出せたから。覚えているうちに響子に聞いてもらいたいんだよ。忘れないように。本当はわたし、ただ、そのときねえ響子は何してた?って、いつでもそれだけ、いつもそれだけ、それだけだったのに……。でも、もう少し思い出せるかも。そういえば、もう一度だけ会ったんだ。音楽学校に教本を借りるために戻ったときに。その子は天狗の子で、鳥たちの学校にひとりだけいたの。天狗たちの音楽学校もあったけれど、その子は試験で落ちて入れなくて、だからそこに来てたんだと思う。その子は馴染めてなかった気がする。鳥たちのなかでひとりだけ天狗だったんだもんね。二重の意味でさ。実際音楽理論じゃ天狗たちのほうが一歩先を進んでたんだよ。それでその子はみんなとはちがうって態度をとってて孤立してたの。アングラ風のスタイルをやってた。その子はわたしは人間を殺したことがあると言っていた。みんなは誰も信じてなかったけどね。そうだ、教本を手に入れようと思って、音楽学校に戻ったとき、その子に会ったんだよ。音楽学校の砂利敷きのちっこい庭でさ。わたしはあの子のことを覚えていなかったけど、あの子はわたしのことを覚えていた。やあ、ってあの子は言ったと思う。実際わたしは困ってたんだ。教本は欲しかったけど、途中で何も言わずにやめちゃったからまた戻って先生に会うのも恥ずかしかったし、だからあの子にお願いしてみたの。教本を盗んできてもらえないかって。響子は軽蔑する? わたしのこと嫌いになる? 嫌いにならないでね。ほんとは話をして借りるつもりだったけど、つまり……あの子はそういうスタイルだったから、それをそのときはっと思い出しちゃってそう言ったんだよ。そしたらあの子はにかんで、いいよ……って。わたしは待ってた。音楽学校のそばの小さな木立の入り口に座ってさ。三十分経ってあの子は戻ってこなかった。一時間して二時間して外は夕暮れになりはじめて音楽学校からは鳥たちのハミングや金管楽器の鳴る音がずっと聞こえてきてさあ、三時間して外は暗くなりはじめて、まだ少し明るい空に星がしみのように浮かんできて、あの子は戻ってきた。ぼろぼろの教本を抱えてた。それからわたしにいらないものでも渡すって感じでね押し付けたの。それきりだよ。もう会わなかったな。あの子自分の演奏会の話をしたっけ? わたしは行くって約束して、チケットをもらって、でも行かなくて、いや、えへへ、ないかあ。やっぱ、ないねえ。そんなのないよねえ。話にはありそうだけど、そんなことなかったんだろうね。たぶん、たぶん……。それで、たしか、そのもらった教本はあの子のずっと使ってた教本だった、って、結局そんなことだった気がする。でもわたしはあの子が盗んできたということにして、これ、盗んできたからと言ったあの子に、ありがとう助かるよって言ってあの子の言うことを信じたから、だからわたしは天狗が人を殺すんだって思うのか……それとも最初からあの子はただ盗んできて、あの子はほんとにアングラだったから天狗は人を殺したのか、どっちだったんだろう?」
みすちーはもう一度おんなじことを言った。
わたしの声はまるで雨音にかき消されてみすちーには聞こえない。
「ねえ、あの天狗は人を殺したよ」
「あの人は関係ないじゃん」
「見つかったら、わたしたちも殺されちゃうよ」
「ねえ、どうしてなの?」
「逃げよう!」
case3?
わたしたちは逃げ出した。
それからの新しい時間をわたしたちは嵐を躱して過ごす。
道を逸れて草木をかきわけて進み大きな樹を見つけて風を剥ぐようにその幹を背にして座り込み時間が通り過ぎるのを待っていた。
激しく揺れる木々の葉から少しずつ垂れるように、あるいは風に乗って、雨は簡単に忍び込みレインコートの中でわたしたちを浸した。
汗や雨や水滴が混じったものが肌の上で滲んで衣服と癒着し泥のようにぺたぺたと貼り付いてた。
わたしはぬかるんだ土の中に沈んでしまった気持ちだよ。
なんだか眠たいな。
小さな、あくび。
わたしたちの少し前には、真っ赤な手押し車。
三つの車輪はすっかり泥めき、車体は青色のブルーシートをぐるりと被せられて空の方向に奇妙に膨らんでいた。
まるで水分を吸って少しずつ巨大になる生き物みたいにね。
それがたくさんのみすちーの衣類を運んでいることをわたしはなんだか少し忘れてしまいそうになっている。
あの子の内側のカラーフルな繊維状の体液……。
時折その上でぱしゃぱしゃと雨が跳ねる。
さらに先では降雨がその境目もわからないくらいに激しく降りしきり、夜の闇の曖昧の中で地に打ち付けて跳ねる水飛沫は白、手押し車の車輪はぬかるんだ泥の奥に積雪にするみたいに深く沈み、跳ねてわたしのほっぺたをうつ粒はこんなにも冷たくて、まるで吹雪いてるみたいだよ。
唯一、激しく鳴る音だけが雨のようだった。
みすちーは雨をじっと見ていた。
「戻る道がわからなくなっちゃったかも。響子は覚えてる?」
「うん、たぶん。たぶんね」
「やるう。犬だから鼻が効くんだ」
「匂いで覚えたわけじゃないけど……」
「あはは、そう?」
「そうだよ、もう。でもちゃんと目印を探したよ。わからなくなっちゃったら遭難だもん」
「遭難? 遭難……。あはは。そんなん大袈裟だって」
でも、わたしたちはここで遭難みたいだったよ。
ひどく吹雪いた雪山の中で小さな穴ぐらにふたり身を寄せ合って降る雪をじっと見つめながら吹雪が通り過ぎるのを待っている。
わたしは眠いな。
また、あくび。
このまま眠ったら死んじゃうだろうか?
なーむ。
「ひぃぁああ……ん。だって雪みたいだからさ」
「雪?」
「わたしいつも思うんだ。こんな嵐の日には。雨の日には。それがまるで吹雪とか雪降るみたいだって」
「え、ゆきぃ? 雪なわけないでしょ。雨は雨だよ。どうしたら雨が雪になるの。それってみぞれの季節のこと? どんな魔法を用いったって雨を雪に変えることなんかできるわけないわ」
でも、みすちーには、それができる。
みすちーは、わたしを山生まれの犬から雪国生まれの犬に変えて、いつしか、わたしに降る雨を雪に変えてしまった。
「ただの比喩の話だもん」
「いや、比喩だって、雨を雪みたいって言うのってよくない気がするけど。両方空から降る天気だしそれって近すぎて、なんか似てるって言えばそうだけど、当たり前だし、なんていうか、それが比喩なら近親相姦ね」
「近親相姦ってだめなの?」
「わたしは兄弟とかいないから知らない」
「わたしも、そう……」
雪が降っている。
みすちーは落ち着きなく赤色のおもちゃみたいなレインコートの端っこをわたしの透明なレインコートの腕に擦り合わせて、かしゃかしゃと鳴らしながら、しばらくの間黙っていたけれど、やがて言った。
「そもそもわたし比喩って嫌いよ」
「そうなの?」
「さっきの近親相姦もそね。わたし近親相姦についてなんにも知らないのに考えたこともないのにまるで近親相姦みたいって言うだけでなにかを言った気になる。足りない語彙を比喩で補う。誰かの人生や感情を剽窃して単に二束三文のことを言う……。比喩って喩えるものをほんとは知らないから喩えることができるんだよ。もしもそのことをよく知っていたら、それとそれは明確に違って深く知ることによってその違いを愛するだろうから、簡単にまるでなんとかみたいにとか言わないでしょ。事物を知らない子どもたちだけが比喩を使う。知性と礼節を欠いた人間だけが比喩をやる。だって、めくらの前でさ、まるで盲目になったみたいに……とか言えないもの。わたしは比喩は嫌だな」
「そうかな……」
「ねえ、響子、言いたいことがあるなら、いつでもそっくりそのまま言えばいいんだよ」
みすちーはレインコートから指を出してわたしの透明な袖をぎゅうと握っている。
「ねえ、ねえ」
「なぁに?」
「ねー」
「なに?」
「あのさーー」
「うん」
「なんていうかなあ……」
「うん」
「わたし思うんだよねえ、つまりさあ……うう、雨痛ったぁ」
「ここまで入ってくるね、ぜんぜん、ふつーに」
「ねー。ぜんぜん、ふつーに」
「えへへ、そうだよ」
「あのね」
「うん」
「あのさぁ、わたし思うんだけどね、優れた詩人にあるのは断捨離の才能なんだよきっと」
「どういうこと?」
「つまりね、知らないから比喩できるなら、単純な逆説でね、比喩するためにはそれを知らないでいる必要がある。それを忘れてしまう必要がある。雨を雪みたいって言ったなら、それからは雨見るたびに雪を思い出してしまう。そしたら雪の性質は雨と混じり合って、もう雪を正しく雪だと思えなくなっちゃうの。それで、ひとつ捨てる。雪を捨てる。あいつらは捨てても惜しくないんだよ。優れた詩人たちはたくさんの言葉や事物や感情をを知ってる。ひとつ捨ててなお有り余るほどの言葉を。ほんとは美しい詩は誰にでも書くことができるんだよ。でもそれに至るための言葉を捨てることができないだけで。みんなは詩人たちほどたくさんのものを持っているわけじゃないから、それを自分のものとして大切にしまっておく。それだけのことなんだよ。逆に何も持たず詩を書くなら、やがて手に入れたなにか小さなものなんか絶対捨てられないんだろうし、逆にすべてを捨ててそこにいるならそれはもうただ空っぽってだけでしょ。空の言葉なんか、そんなんうさんくさくて、愛せないよね」
「どうかな」
「喩えたら忘れちゃうよね。もし、喩えるならを、喩えるなら、”喩えるなら”それそのもの自体が、三歩、みたいな感じ。鳥あたまってことだよ。歩くと歩いていっただけ通り過ぎた景色を忘れてしまうように言葉を継いだら継いだだけのことを忘れてしまう。だから、わたし、まるで響子みたいだなんて絶対言えないよ。まるで響子みたいだね、なんてさ、そんなこと……。だって、響子のこと、今日この日のこと、とか、えへへへへ……いや、忘れたくないものね。だから、言わないよ。まるで響子みたいだねとかはさ。でもなんだか響子みたいだよ、ああまるで響子みたいだな、あの葉っぱはすごく緑色だからこんなに響子みたいじゃん、この夜はとってもやかましくてなんだか響子みたいだよ、ああ、だめだな、わたし、こんな、こんなにも、毎秒すべてが響子みたいだって思ってはやまないの! あれ、でもさ、そもそも響子ってなんだったんだっけ? 音楽記号とかそういうもの? svegliandoみたいな……。でも、あの木は茶色と緑色でまるで響子みたいだな。あの光はとっても明るくてなぜだか響子みたいだよ。甘味処のいつもタメ口で喋るうざい店員がかわいいから響子みたいだと思う。忘れては思い出して、思いだしては忘れてしまって……ねえ、毎日が初恋の気分だよ」
みすちーはわたしの袖口を指先で握っていた。
それを振って、かしゃかしゃと音を立てている。
「響子のこと好きだよ。好き、好き、好き……。こんなにも……。ね、お腹空いたね?」
「うん」
「響子はいまなに食べたい?」
「えーなにかな」
「なに?」
「うーん」
かしゃかしゃ。
「サンドイッチとか?」
「ほんとに? じゃあ、こんど作ってあげるわ。この前すごくおいしい組み合わせを見つけたんだ」
「どういうの?」
「秘密……」
「えー」
かしゃかしゃ。
「嘘だよ。教えてあげよう」
「どんなの?」
「シュリンプとツナとレタスと特別なマヨネーズ」
「あ、おいしそう」
「でもさ、それはずるだよ」
かしゃかしゃ。
「え、なにが?」
「だってさ、エビとか、それだけで十分おいしいじゃん。だからサンドイッチにする必要とかない」
「ああ、たしかに。そうかも」
「ねー、そうだよねえ」
かしゃかしゃ。
言葉を話すたびにみすちーはわたしの袖を振るから、鳴る。
そのままみすちーはわたしのビニルの首筋に頬寄せてぐしぐしとこすりつけた。
「わあ。つめたい……」
「濡れちゃうよ?」
「じゃあ濡らさないでよ」
それでもみすちーはわたしの首筋に顔を寄せたまま。
かしゃかしゃと鳴ってた。
「ねえ、響子……」
「なぁに?」
「おなか空いた」
「戻ったらなにか食べようか」
「やだやだやだ、お腹すいた」
「我慢しなって」
「わたしお腹がすくと寂しいよ。みんながわたしのことを憎んでるような気がするな」
「気がするだけだよ」
「そんなのあたりまえじゃん。でもお腹がすくとそんな気がする」
「うん」
「飢餓感は憎しみだよもう。食べることは復讐なんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。飢餓の孤独が人をモンスターに変えるんだよ。全部を食べてしまいたいな。ばりばりって」
「ばりばり?」
「響子のことだって食べちゃいたいよ」
「それってなんていうか、えっちなやつ?」
「そういうのいらない。そういうのわたしの前で二度と言わないで」
「ごめん」
「ねえ、響子、お腹すいた」
「どうすればいいのさ」
「そばにいてくれればそれでいいのよ」
「わおーん……」
ほんとにどうすればいいのかわからなくて、わたしはわんわんと泣いてしまいそうな気持ち。
わたしたちの外側では吹雪が降っている。
暗闇。
こんなところに遭難してわたしたちはふたりきりなのにわたしにはいつもみすちーのことがちっともわからない。
みすちーはわたしの袖口を振ってた。
夜はさらに深く、吹雪はちっとも収まる気配がなく、そのあとは時間が通り過ぎる音をわたしはずっと聞いていた。
それはこんな音だった。
かしゃかしゃ。かしゃかしゃ。
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また別の似たような日。わたしたちは機材置き場にふたりで座っていた。古い換気扇のぶううん…ぶううん…という音がとても耳障りだった。わたしたちは逃げ出したのだ。そのとき手を引いて先導したのはみすちーじゃなくてわたしだった。それはフェスタの日。わたしたちがフェスタにはじめて参加したときか二回目か三回目かまあそのあたりのことでライブの直前で控室から逃げ出してしまったのはわたしだった。吸血鬼の暮らすお屋敷のパーティー会場の広間から少し離れた廊下の奥の機材置き場の隅にわたしたちは並んで座り込んでいる。わたしは天井まで届くような巨大なアンプに背中を預けて聳え立つ電子ピアノの鍵盤の裏側を見つめながら背にした壁に立て掛けられていたギターのわたしの腕とまるまる等しいほどの巨大な直径の弦を掴んで引っ張って離した。聞こえた音のあまりにか細いことに落ち着かない。巨大な楽器が木々のように立つ森。わたしたちは遭難したみたいだった。「まるで不思議の国のアリスみたいだよ。」わたしがなんとか喋ると「迷い込んだの? 不思議の国……不思議の国だっけ? アリスって女の子が? わたし読んだことないからね」ってみすちーは少し笑った。この機材置き場でわたしたち二人はとてもとても小さいようにわたしには見えた。それはスケールの問題だった。雑多な感じで立て掛けられ重ねられた音楽機材たちはどれもとても巨大でそれに比してわたしたちはとても小さく感じられた。天井がとほうもなく遠い。向かった壁の高いところに取り付けられた明かり取りの窓はどのように視線で追ってみても一般的な窓に対して想像するよりもずっと縦に長くて上の方まで見上げてみると首も痛いしひっくり返ってしまいそうで窓時代の形も天井に向かうにつれ少しずつ細くなっていきこちら側を見下ろす威圧感を含んだとほうもないほど巨大な台形のような奇妙な形をしていた。みすちーは床の上でわたしの手の甲に手を重ねてわたしがみすちーの方を振り向くように仕向けてそれから笑った。「でも症候群なら知ってるよ。不思議の国のアリスの名前がついた症候群。きんちょーすると周りのものが大きく見えたり小さく見えたりするやつでしょ? 流行り病だっけか。」「流行り病ではないよ。」「あーそーだっけかぁ。」わたしたちの出番まではもうほんの少ししかないのにみすちーはちっとも焦ってる風ではなかった。「穴に落ちるんだっけ?」「え。アリスが?」「そう、アリスが。」「うん。」「うさぎを追って。」「うん。」「アリスが子供に戻るんだっけ?」「アリスは最初から子供だよ。」「あーそっかぁ。」わたしはみすちーがよくわからなくなっていた。わたしたちがバンドを組んで数年は経っていた。わたしたちは何度も会ってはセッションをしたしたくさんのことも話したしときには喧嘩もしたけど前のフェスタから一年が経ちまた新しいフェスタがやってきてみすちーはまったくちがう生き物になってしまっているみたいにわたしには思えた。この前のフェスタは少しよい結果が残せたので名前も多少は売れた。それだから今回のフェスタはわたしたちにとって重要なものになるはずだった。そのせいで余計にわたしは緊張していたわけだけれどそもそものわたしの不安はみすちーへの不信感からはじまっている。みすちーは去年のフェスタでやった曲の多くを覚えていなかったしフェスタが近づくにつれ言うことはどんどんちぐはぐになっていきなんだかフェスタなんかどうでもいいというふうで去年のフェスタのあと二人であんなに飲み明かしたあの頃の情熱も失っているように見えた。それがわたしは寂しかった。今にして思えばそれはみすちーがこの季節がやってくるたびに物事を忘れてしまうせいだったんだろう。でもその頃のわたしはそんなことを知らなかった。わたしはみすちーのことがちっともわからなかった。少しだけ怖かった。ぱちんぱちんとピースを嵌めるたびにぱちんぱちんとピースを嵌めていったところから絵が変わっていくジグゾーパズルのようだった。みすちーは床の上でわたしの手を握ったまま言った。「でもアリスが流行り病じゃないのはいいよねえ。伝染らないし。」「アリスが症候群ってわけじゃないけど……。」「ああ、そう?」「うん。ねえ……ごめんね。」「いいよ。別に。」わたしたちの間には壁を背にして(わたしがそう見えるやつってだけだが)巨大なギターがあった。それをみすちーは取り上げて抱きかかえて見せた。巨大なギターはみすちーの腕の中で不思議なスケールを保っていた。それはたしかにみすちーの小さな腕の中に抱えられているように見えるのにそれをギターとして見たときそのギターはひどく巨大に感じられる。ぽろんぽろんと小さなみすちーは巨大な弦を弾いて鳴らしていた。それから抱えたギターを見つめたまま、ふふふ、と笑い出した。「いいけど。いいけど。いいけど。響子が今日のことを一生引きづらないか心配だわ、ふふ」「え。そうなっちゃうかな」「そりゃあそーよ。今日はいつもとちがう大事なライブだったわけでしょ。わたしたちの未来を左右するかもしれない……。それにフェスタはこの土地でいちばんで音楽イベントだわ。バックレたら出禁になっちゃうかもでしょ。これから先わたしたちがずっと一緒にやっていくならそれって大きな足かせだわ。わたしたちの未来を台無しにしちゃって響子は大丈夫かなあと思って。」「ほんとにごめんね。お、怒ってる、よね?」「ふふっ、怒ってないよう。ふふふ、ただ、純粋にきょーこが心配なだけ、ふふふふっ」「あの、みすちーが気にしないでいてくれるならだいじょうぶ……だと、思う。」「あははは、ほんと? それじゃあ気にしないでいようかなー。」「そうしてもらえると助かるよ」「ね。きょーこ。忘れちゃえばいいよ。今日のことはさ。そしたらなかったことにできる。」「みすちーも忘れてくれる?」「まあ、そうね…………いや、いや、いや、ふふふ、忘れないもん。ふふっ、絶対」「えぇ……。ひどい。」「えへへへ。」どうしてみすちーがそんなにも面白がってるのかわたしにはわからない。単純に人の弱みを見つけるとたまらなく嬉しくなってしまう性質なのかな。さいてー。みすちーは巨大なギターの弦をひとつひとつ指でひっかけて鳴らしていた。楽しそうに歌ってた。「おおきなーまちーでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おもちゃのーまちーでーくーらーしてましたー。きょだーいーないぬでしたー。」奇妙に縦に引き伸ばされた台形の窓からは夕光。この小さな大きな部屋に煙のように溶け出して淡い橙色で染める。ぷかぷかと浮かんでいた。埃。そういうのチンダル現象って言うんだっけ。みすちーのあくび。巨大な楽器たちの影が長い。黒い。今度はぴろぴろぴろと複雑なギターリフを雑にやりながら鉄塔のてっぺんのようなこの部屋でみすちーはなんだかとても楽しそうだった。わたしは思う。「むかつく。」「んー……なんで?」「こんなときなのにみすちーはとても楽しそうだから。」「あはは。そう?」「そうだよ。」「そっかそっか。」「なにそれ。」「ひぃぁあああ……んん。でも少し眠い。」みすちーはまたギターを弾こうとするからわたしは腕を伸ばして弦を全部抑えた。みすちーの指の揺らぎをギターの弦を通してわたしは知る。音は鳴らない。「あれ……失敗……。」「ねえ、みすちー。お願い、もっとちゃんと考えてよ……。」「ねーきょーこ。」「なにさ。」「わたし響子のいるところを想像してみたの。」「わたしはここにいるじゃん。」「じゃなくてねじゃなくておおきな場所よ。響子にしか見えないこの場所のこと。こんなに大きな楽器たちに囲まれてなんだか楽しそうじゃん。まるでアリスね。穴の中で。兎を追って。シルクハットをなくしちゃうんだっけ?」「シルクハットは兎が被ってるんだよ。」「あーそっかそっかぁ」「うん。」「ね。響子を見てるとわかるんだ。仕草とか目線とかでね。ほんとにものが大きく見えてるんだなあって感じるの。」「そう?」「うん。楽しそうだ。」「そんなにいいものじゃないよ。」「ふーん。」わたしはなにもかもがどうでもいいという気分になりはじめていた。ライブのこともみすちーのことも。このままライブに行って曖昧な演奏をして惨憺たる結果に終わり最終的にわたしたちが解散することになろうがべつにいいやという気持ちだった。苛立ちによってわたしは決心した。それを言うことにした。「ね。みすちー。わたしライブに行くよ。」でもみすちーは手元を見つめて小さく首をふったのだ。「行かないよ。」「えなんで?」「なんだか眠くなってきちゃったもん。」「せっかく勇気を出したのに?」「そうだよ。」「行こうよ。行かないとまずいよ。」「なんで?」「だってだって出番があるし。」「べつにいいのよ。」「響子が」「ねえ。きょーこ。」「なにさ。」「それよりわたしの顔に触れて?」「なんで。」「いいから。」しかたないからわたしは手を伸ばしてみすちーのほっぺたに三本の指で触れた。「ぺた。」「あはは。このギターの弦鳴らして?」「ぴーん。」「あはは。隣のベースを弾いて。」「ぼーん。」「あははは。」「なにがおかしいの?」「だってだってだってさあ。ほんとに大きく見えてるんだなあって思って。でもわたしはそうじゃないんだね。」「わかるの?」「わかるよ。」「むむ。」「ねえ。きょーこ。きょーこ。響子のいるところにわたしも案内してよ。きょーこのいる巨大な国にさ。わたしもそこで暮らすから。」「そんなの言われても。」「怖い?」「怖い。」「震える?」「震えない。」みすちーはギターを置いてわたしの膝の上に寝転んだ。ほっぺたを押し当てた。「ほんとうだ。震えてない。」そしてひとつ大きなあくびをした。「きっとそんなに大きな楽器たちに囲まれてるんじゃ危ないよね。倒れてきたら一発で下敷きになっちゃう。でも巨大なギターもピアノもわたしには見えないから響子がわたしのことを守ってね。おやすみ。」そのままみすちーは本当に目をつむって眠ってしまった。外は暗くなりはじめていた。部屋のなかは薄暗くすべてが巨大な影のようにしか見えなかった。やはり緊張感は収まらないしちっとも気分はよくならないし楽器たちが相変わらず巨大で恐ろしかった。ライブをサボったのを見つかって誰かに怒られたらどうしようとか思っていろいろ怖かった。でもみすちーがわたしの膝の上で眠っていたからわたしはがんばろうと思った。本当にわたしがみすちーを守らなければいけないと思ったわけじゃないけれどでもたしかにみすちーは不思議なやり方でわたしの狂ったスケールのなかに侵入してそこで眠ってしまった。みすちーはわたしと同じ国にいた。少なくともその宵闇に。わたしは不安でたまらなかったから気を紛らすために歌をうたった。小さな声でささやくように同じフレーズを何度も繰り返した。それはこんな歌だった。「おおきなーまちでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おおきなーまちでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おおきなーまちでー……。」そのまま夜がやってきていつのまにかわたしも眠った。朝が来てそこから抜け出した。結局わたしたちはフェスタから逃げ出したのだ。そうやって逃げ出してしまったからだろうかそれからもスケールの異常は続いていた。今では家々や電灯やマグカップや砂糖や塩の容器や木々やフライパンや蛇口のすべてが巨大でみすちーが予め暴いたようにわたしは大きな町で暮らしていた小さな犬だった。ライブにはお寺の人たちも招待していたし結局逃げ出してしまったわけだからなんとなく帰りにくくなってしまい仕方ないのでみすちーの家でわたしは暮らした。習慣によってわたしは朝はやく起きて湯を沸かしみすちーを起こしてインスタント・コーヒーを飲んだ。昼過ぎまで本を読んだりふたりで音楽を聞いたりギターを弾いたりしてだらだら過ごしてみすちーのつくったお昼ごはんを食べた。それからわたしは部屋の掃除をしたりみすちーとふたりであるいはひとりでコインランドリーに行ったりしながら夕方頃からみすちーの屋台の仕込みを手伝った。夜にはわたしたち屋台にいた。みすちーの屋台には実にたくさんのお客さんがやってきた。みすちーは多くの人に愛されてるようだった。わたしは後ろで簡単な料理をやったりお酒をついだりなくなったお酒や食材を買いに出たりときおり会話に混じったりお客さんからの質問に答えたりしてみすちーは頼まれればあるいは頼まれなくても弾き語りをしたりしていたけれどお客さんが少ないときか誰もいないときにはふたりでギターを弾いた。みすちーが好きだったのでよく心霊スポットにも遊びに行った。妖怪や幽霊が闊歩する幻想郷においてそもそも妖怪であるみすちーが心霊スポット好きというのはどうにもピンと来なかったけどとにかくみすちーは怖い話とか大好きだった。「知ってる? ほらこの前屋台だしたところに柳があったでしょ。あそこって昔女の人が首吊ったらしくて出るって話なんだよね。見られるかと思ったけどぜんぜんだった。」「そんなに幽霊みたいなら白玉楼に行けばたくさん幽霊見られるよ?」「いやよ。あそこは心霊スポットじゃなくて観光地だもん。」「ちがいがぜんぜんわからん。」「今度あそこの酒屋さんの横の廃アパート行こ。あれ絶対出るよ。友だちで見た子いるし。」「友だちってルーミアでしょ。そもそもがほぼ幽霊みたいなもんじゃん。それってお友だち紹介みたいなやつ?」「ルーミアは幽霊じゃないわ。だめだめ。風情がないもの。」「てかわたしは心霊スポットとか嫌いだな。」「怖いもんね?」「ちがうちがう。だってああいうのって元は自殺して死んじゃった人とか事故でなくなった人がいてって話でしょ。それを幽霊になって出るとか言うのってなんかひどい話だよ。他人の死をエンタメにするなって感じ。」「響子は怖がりもんね。大丈夫よ。」「もーわたしは人間たちの人の悲劇に対する安易さを批判してるわけでさあ。」「怖いよね怖い。わかるわかる」「そうだよ。こわいこわい。人の悲劇を勝手に心霊話にして楽しんじゃうそんな人間の残酷さが怖い」「あはははは。怖いんだ怖がり」「笑うな。」わたしたちはふたりで霊園を歩いた。自殺の名所に行った。コーヒーを飲んだ。ギターを引いた。人柱のあるトンネルに行った。歌をうたった。いろんなところに屋台を出した。打ち捨てられた仏を見に行った。がらんどうの空き家で夜を濾した。コインランドリーにふたりで言った。みすちーのつくる料理をたくさん食べた。廃病院に行った。昔の武将の腹切り塚に行った。幽霊が出るという公園に行った。夜にはたくさん歌をうたった。みすちーの歌。「おおきなーまちーでーくーらーしてましたー。ふつーのふつーのふつーーのいぬでしたー。」そんなふうにして、二、三ヶ月を過ごした。その間もスケールの異常は続いたはずなのにいつしかそれに慣れていつしかそれが普通にフラットになってしまった。わたしは今でも物が大きく見えたりするけれどそれはそう見えるっていうだけで実際にそこで暮らす分には何も障害がないのでいつのまにかそのことを単に忘れてしまっただけなのだ。だから本当は今も不思議の国で生きている。たぶん。みすちーとふたり。
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caseなら4?
それとも3のままかも。
まあ、そんなのどっちでもいいけれど、わたしたちは再び歩いていた。
吹雪く雨の中。
そういえば傘を置いてきてしまったな。
どうせ傘をさしていたって濡れてしまうだし、だからレインコートを着ているのだし、だからあの遭難に忘れてきてしまった。
いまはわたしが手押し車を押しているのというのもある。
みすちーはいつまで経ってもちっともコインランドリーに行きたがらないから、わたしが勝手に立ち上がり手押し車を押して進んできてしまったのだ。
みすちーはわたしの後ろでやっぱりわたしのレインコートの透明な袖を指でぎゅっと掴んで歩いている。
落ちてくる袖口が邪魔なのか今は片方の袖を肘のところまで捲くりあげてた。
みすちーの腕は雨にびしょ濡れだった。
みすちーの肌のその不思議な質感についてわたしは考えてみる。
まるで結露した窓がそうなるように、みすちーの肌に貼り付いた雨は、まるで雨粒ひとつひとつがそのままくっついたみたいに細かく小さな粒状になっていたのだ。
どうしてそんなことになるわけ……。
撥水加工?
なにか塗ってるんだろうか。
みすちーの肌はわたしのとは違ってると思う。
わたしは犬だから、わたしは雪国生まれの犬だから、いったいなんでなのかな、全然わからないみすちーの不思議な肌、それはどうしてそうでどこから来て、なんて言えばいいんだろう……鳥肌? すべすべと光って雨を撥水する不思議なみすちーの肌、あるいはGORE-TEXみたいなみすちーのその肌を、わたしはなんとなく食みたいと思う。その舌触りを知りたいと思う。でも、大好きだから食べちゃいたいみたいのって、やっぱり嫌だな。それは、食べたら食べたそのものがなくなってしまうことにじゃなくて、食べるときに食べ物が口の中でくしゃくしゃと折りたたまれてしまう、それがわたしは嫌だと思う。なんていうかそれはちょっとしたフェチズムみたないものでさ、わたしは新品の服がとてもとてもとても大好きなんだよ。ぴしっとのりの効いた服を見ると嬉しくなってしまう。服屋さんに行って新品の衣類が並んでいるのをいつまでも見ながらためしにそのうちのひとつを手に取ってみてその繊維のまだしっかりしてることを思って喜ばしい気持ちなるし、それを買ってきて着るたびに洗うたびに服がよれていき二度とは戻らないことが悲しい。わたしは毎日洗濯に行くしそれをちゃんと干して綺麗に畳んで並べておく。わたし、生まれ変わったらアパレルやりたいんだよねえ、って言えばみすちーは笑うけど、だってさだって響子が、あぱ、あぱれるとか、ひーおかしい、あ、でも、服屋うろついてたらとことことことこ店員が近づいて来るのってあれってなんだか犬みたいだよね、ってみすちーは、そう……でも、みすちーがわたしに雪国をくれるように、わたしはみすちーにたくさんのもふもふをあげたいな。え、それペアルックってこと?じゃあ、わたしは響子にこれを、あげるね。それなに? 鳥肌! わたしはわんわんと泣く。みすちーは微笑んで……ねえ、泣かないで、泣かないでね、泣かないで、ねえ……たしかに響子の言うことやすることや考えることの恥ずかしいことにはわたしいつでも鳥肌の気分だけど、そんなの響子だけだよ、わたしはそれをずっと知らなかったなあ。響子はいつも鳥で生まれたはずのわたしに鳥肌をくれた、それってさ、つまりさ、こうゆうことなんだよ。わたしは響子に出会うまで存在していなかったんだ。
雨が降っていた。
それをわたしは雪だと思った。
雪はこんなに吹雪くのにわたしたちの歩く道はすべてが泥で、降る雪は落ちたところから溶けて水に変わってしまう。
そういえば、雪のたくさん降る季節にも決して白く染まることのない場所がある。
それは、川だったり、湖だったり、水を張った桶だったり、すでに水の十分にある場所で、その場所はときどき凍ることはあっても決して雪溜まりになったりはしない。
だから、今、わたしは川を歩いているのだと思った。
スニーカーは、浅い川の底の泥を蹴る。
ぬかるむ。
わたしたちは手押し車を押しながら吹雪の中を川を流れてくる方向に向かって少しずつ上っている。
降って積もらない場所は、すべてが水の溜り、あるいは海だった。
だから、そのコインランドリーは、海の上にぽつんと浮かんでいたのだ。
白い光。
黒い小さな海に、灯浮標のように、瞬いている。
(ねえ、ほら、みすちー、海、海だよ! ってわたしは言わずに、心の中で、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ。ってさ。やっぱり心の中だけで。だって、またさっきの雪の時みたいにいろいろ言われたらやだし……。)
実際、そこはちょっとした窪地になっているんだろうか、コインランドリーは周囲を大きい水たまりに囲まれていて少し遠い場所から見ると、水の上に建っているように見える。
明かりによって水面に同じ形の建物が浮かび、雪の粒が落ちて、ゆらゆらと……少し歪む。
わたしたちは海の中に、浅瀬をかきわけて進んでいかなければならなかった。
ぴちゃぴちゃとかすかな波を受けながら、もう少しだよとかやっと着いたよとかなんとか言いながら俯き加減に吹雪を受けながらそのまま進んでいくとコインランドリーがもう目の前に、現れる。
光があふれる。
まだ新しい白いコンクリートの建物は泥と草木に少し汚れている。
黄色の大きな横長の看板が、こう。
『コインランドリー 静かの海』
(ほら、でも、やっぱり海にあるんじゃん……!)
最後の数十秒をわたしたちは駆けて、コインランドリーの中に滑り込んだ。
リノリウムの白い床にいくつもの泥の足跡。
そこにわたしたちの足跡と轍を重ねた。
コインランドリーの中は外よりも幾分か暖かった。
みすちーは心底疲れたというふうに長椅子にどすんと腰掛けて、それからまた立ってレインコートを脱いで、近くの籠の中に放り込んだ。
「はーやっと着いたね。中までぐっちゃり……」
「だねー。おつかれ」
「おつかれさま」
わたしも水を切ってから少し畳んで同じ籠の中放り込む。
わかっていたことではあるけれど、内側に着ている服まですっかり濡れてしまっていた。
コインランドリーの中はとても明るくそれなりに広かった。
洗濯機と呼ばれるその名の通り衣服を洗う四角い機械が横に三台、乾燥機と呼ばれる似たような形の機械がやっぱり横に三台、入って正面に並んでいて、今はそのうち乾燥機のひとつががらがらと音を立てて稼働している。入り口側は全面がガラス張りになっていて外からでも中の様子が覗けるようになっていた。
その間には木製の長椅子が2つ。
そのうちひとつのいちばん端っこには小さな妖精が腰掛けていて、わたしたちがコインランドリーに飛び込んだときにはその様子を少しの間観察していたけど、すぐに前を向き直してそのあとはずっとガラス面に打ち付ける風雨を見つめている。
わ固く縛った手押し車の紐をわたしたちは時間をかけて解いて、荷台に山のように積まれたみすちーの洗濯物たちを開放した。紐が解けるのと同時に上の方に積んであったいくつかの衣類がばさばさと落っこちた。想像は外れて、こっちの衣類は上の何枚かが湿っているだけで、それほど濡れているというわけではなかった。どうせ洗ってしまうから構わないのだけれど、もしも同じ天候を帰るのなら安心感はある。せっかくこんなに苦労して洗濯しに来たのに帰ってみたら全部濡れてました、というんじゃ洒落にならないもんね。
わたしたちは濡れた服を脱ぎ捨てて下着だけになり、脱いだものは洗濯機の中に放り込み、持ってきたみすちーの服の中で綺麗そうなものを着ることにした。
みすちーは上は灰色のスウェットで下は緑のジャージ。
わたしは長袖のTシャツとジャージに黒いトラックパンツ。
このTシャツはなにかのライブTシャツのようだったが、わたしも記憶になかった。
みすちーはもちろん覚えていなかった。きっと、昔好きだったバンドか何かだと笑った。
洗濯物を2つに分けて2つの洗濯機に放り込み、電源のボタンを押すと、それは動き出す。
ごうごうごう、と天変地異でも起こったかのような大きな音を立てて、回るのだった。
するとあとは洗濯機が洗濯を終えるまで、待つしかやることがない。それが終わったら、今度は人間の手で洗い終わった濡れた衣類を乾燥機に移して、また回すのだった。わたしたちのすべきことはそれしかない。あとは待ってれば、コインいっこのように、乾いた綺麗な状態に衣服がコンティニューというわけ。ずいぶん便利になったものだ。
いつのまにかみすちーは妖精のそばにいてなにやら話しかけていた。
「こんにちは」
「こんばんわ」
「何をしてるの?」
「こいんらんどりーにいる人って服を洗濯するひとだとおもいますけど」
「まあ、そね。でも珍しかったから。妖精がこんなに遅くに洗濯なんてさ。妖精って遊んでてもいつも夕方とかには帰っちゃうイメージだもん。朝方なのね」
「フランドールちゃんが夜型だから。合わせてるんです。でもわたしは洗濯してないですよ」
「え、さっき洗濯してるって言ってなかった?」
「それはいっぱんろんだよ」
「ふむ。じゃあここで何してるの?」
「洗濯物をみはってるんです。下着泥棒がでるというので」
「ふうん、えらいね。それって妖精自警団みたいなやつかな?」
「わたしは自警団とかやんないですね。自警団って、ごーりてきじゃないじゃないもん」
「合理的? 自警団を合理的とか合理的じゃないとか考えたことなかったな」
「考えたほうがいいとおもいますよ」
「そうかな?」
「ごーりてきな判断は身をたすけますよ」
「むむ……。妖精なのに立派だ……」
「ようせーなのに、とか、差別ですね差別」
「差別は合理的じゃない?」
「そです」
「ずいぶんしっかりしてるね」
「1009回もじんせーやったから慣れちゃったんです」
「それって一回休みのこと? わたしの友達にも妖精いるけど、何回死んでも変わんないよ。そもそも死んだ数とか数えてないと思うな」
「わたしは数えないよ。フランドールちゃんが勝手に数えてるんです」
「フランドールちゃんってだれ?」
「フランドールちゃんはフランドールちゃんです」
「それはそね」
みすちーは妖精の隣に腰掛けた。
妖精はみすちーのほうをちらと見る。
緑色の少し透き通った色合いの妖精だった。
「わたしはミスティアっていうの。名前は?」
「名前はないですね。1003回目の人生のときはちょうどいいのがあったけど。フランドールちゃんだけがむかしの名前をよぶの」
「フランドールちゃんっていうのは友だち?」
「そう。吸血鬼です」
「うーん、聞いたことあるな。響子は知ってる?」
「え。ううん。でも、わたしも聞いたことはあるかも」
「んー。なんだっけ……あ、ねえ、紅魔館の妹だっけ?」
「あ、そうだったかも」
「あってる?」
「あってる」
「でもフランドールちゃんはどこに行ったの?」
「フランドールちゃんはひとりで遊びに行ったよ」
「ああ、吸血鬼って待つのとか苦手そうだもんねえ。レミリアさんとか見ると。自警団ごっこしてたらどっか行っちゃったんだ?」
「まあ、そうです……。ちがうけど」
「ひとり残されちゃってかわいそうに」
「ぜんぜんかわいそうじゃないよ」
「慣れてるってこと?」
「ちがいます。わたしたちの今夜の行為すべてがごーりてきな契約にもとづくことなんです」
「ごーりてきな契約?」
「そうです。さいしょはふたりでこいんらんどりーで遊んでたの。そしたら天狗の女のひとがきたんです」
「さっきのあの人だ」
「さっきのあの人はしらないけど、その天狗の女のひとがコイン五枚あげるから洗濯物をみててほしいというからわたしとフランドールちゃんでコイン五枚もらって洗濯物をみはることにしたんです」
「自警団の結成だ」
「依頼されてるから自警団ではないですよ」
「じゃあ他警団だ」
「そんな言葉ないじゃないですか。勝手につくらないでください」
「ね、あるよね、響子」
「え、わかんない」
「なんでーわかんないわけないじゃん。あるのに。それでフランドールちゃんが飽きて行っちゃったの?」
「飽きてはないです。ふたりでごーりてきな判断のもと契約をしたの」
「契約?」
「もらったコインの二枚をもってフランドールちゃんはここから出てべつのところに遊びにいってわたしがひとりでみはるかわりにコインを三枚もらったんです」
「それが契約ってこと? つまり、仕事を続ける貴方のほうがコインを多くもらうっていう」
「うん。ごーりてきな契約です」
「たしかにそれは合理的かも。そうだよね、響子」
「うん」
「でもフランドールちゃんはどうして一人で遊びに行っちゃったの? 一人で遊びに行くより二人で待ってたほうが楽しいのに」
「虎がいたんです」
「虎?」
「服の背中に虎がいたの」
「ああ、そういうプリント?刺繍? でも、それが、なんで」
「フランドールちゃんは虎が苦手だから」
「虎が?」
「そうです。フランドールちゃんは、あたまのなかに虎を飼ってて、でもあんまり仲よくやれてないみたいなんです」
「吸血鬼なのにねえ」
「吸血鬼って好き嫌いがいっぱいじゃないですか」
「みんなそうよ」
「わたしはちがいます。嫌いなものもあんまないけど好きもそんなにないですね」
「アンニュイなんだ」
「それ使い方あってます? てきとー言わないでください」
「あってるよね、響子?」
「たぶん」
「ほら、響子もそう言ってるよ」
「いや、さっきからなんなんですかそのひと」
「響子は響子よ」
「いや、そうではなくて、今わたしのなかでそのひとはほとんどぜろに近いっていうか、だって、そのひと、こう……どう?って、言われて、そう、ってしかゆわないじゃないですか」
「響子はわたしの恋人だよ。めちゃくちゃかわいいの」
「そういうのってやばいですよ」
「やばい?」
「やばいっていうか……見識が狭いという感じです」
「でも、真実だもの。今度結婚するんだ」
「え、知らない」
「知らない、ってあのひと言ってますよ」
「それこそ響子は見識が狭いのよ。ほんとのことがなにもわからないの」
「じゃあ、あのひとは、いぬのおよめさんなんですね」
「なにそれ?」
「いぬのおまわりさんみたいなやつです」
「ああ、ねえ」
そうそう響子はいぬのおまわりさんなんだよ、いやいぬのおよめさんであっていぬのおまわりさんではないですよね、たしかに響子は勝手におまわりさんやってるからね自警団だ、自警団はごーりてきじゃないです、きょーこは合理的じゃない? きょーこはごーりてきじゃないですね、ねーきょーこーきょーこ合理的じゃないって、みたいなことを二人が話しているので、わたしは、ああ、そうなの……と適当な返事をしてふらふらとコインランドリーを歩き回っていた。
コインランドリーの隅っこには洗濯機械たちとガラス面に挟まれる形でゲームの筐体があった。
それはランドリー内の強烈な白い明かりの中で、誰か旧い友だちを待つように控えめに光りながら、音を立てずに、じっと待っていた。
画面にはこんな文字が浮かび上がっている。
『MOON INVADER』
わたしはなんとなく筐体のボタンに触れてみた。
画面に未来風の格好をした女の子が現れて、こんなことを喋っている。
『げーむぷれいをするにはこいんをいれてください。でーたかーどをもっているばあいはさきにかーどをそうにゅうしてください』
それはたしか『ムーン・インベーダー』シリーズのいちばん新しいものだったと思う。
『ムーン・インベーダー』は2が流行り、流行りに乗って3も出てそれ以降もいくつかナンバリングが繰り返されていたが本当の意味でみんなが熱狂したのはその2だけで、シリーズを重ねるごとに人も離れていき、いつのまにかシリーズも途絶えてしまったみたいだったけれど、最近、数年ぶりに新しいものが登場したという話だった。
しばらく前から、洗濯待ちの間の暇つぶしにということだろうか、ここにもその新しいやつが置いてある。
わたしは妖精の子に聞いてみた。
「きみはこういうのはやらないの?」
「やんないです。つまんないもの」
「じゃあ今の子はなにして遊ぶの?」
「おにごっこ!」
妖精の子は立ち上がって言って、言ってみたらなんだかほんとに走り回りたくなっててうずうずしてる感じ。
みすちーが言う。
「フランドールちゃんを追いかけてあげなよ。きっとひとりじゃ鬼ごっこもできないわ」
「でもわたしには仕事があるんです」
「たしかにねえ……。あ、そうだ。こういうのはどう?」
「どうってどれのこと?」
「わたしたちがあの洗濯物を見ててあげるよ。どうせ自分の洗濯物を洗い終わるまで待ってなきゃなんだもん。だからその間に見ておこう。これってとっても合理的な判断じゃないかしら?」
妖精の子は唇をきゅっと結んで、んーとしばらく考えたあとで言った。
「いいですね。おねがいします」
それからポケットをまさぐって手のひらをわたしたちに差し出した。
手のひらの上にはコインを二枚。
「これあげます。お仕事をやってもらうので。三枚のうち一枚はわたしのです。わたしもお仕事をしたから」
みすちーは首を振る。
「いや、もらえないってー。ねえ、響子?」
「うん」
「ほら、響子も言ってるよ」
「きょーこの言ってることはだめですね。きょーこはごーりてきじゃないもん」
「あーだめだよ。響子にそんなこと言ったら泣いちゃうよ」
「べつに泣かないよ」
「きょーこはなきむしなんですね」
「そうだよ。わたしの自慢よ。映画とか本とか響子は泣くやつでは全部泣くんだから」
「きょーこは感情でいきてるんですね」
「そうだよ、響子は感情だけで生きてるの」
「かわいそうに」
「かわいそうに」
「なんなのもう」
わたしは妖精の手をコイン二枚ごとぎゅっと握らせた。
「ほら、いいんだよ。子どもなんだからもらえるものはもらっときなよ」
「こども……。こどもじゃないもん。たしかにわたしは妖精だからちっともおおきくならないけど。おおきくなれないですけど……。」
「あ、いや、そういうことじゃなくてね……」
「そうですよね。きょーこから見たらわたしなんか小さなこどもですよ……」
妖精の女の子はじっと床を見つめている。
肩が震えている。
ぎゅっと握った手に力が籠もっている。
あわててわたしがごめんごめんねとか言っていると妖精の子は無理やりわたしの手の中に金貨を二枚押し込んだ。
それからべえと舌を突き出して言った。
「じゃあ、きょーこがこのコイン二枚でわたしを大人にしてね!」
そしてそのままくるっと背中を向けて、ととと、と走ってコインランドリーから出ていってしまった。
みすちーはわたしの見つめる手のひらの上の二枚のコインを見て、あはは、と笑った。
わたしはそのうちのひとつをみすちーに手渡した。
わたしたちは二人で自警団だったから。
そうなろうと思えば、わたしたちだってこんなに合理的になれる……。
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みすちーに出会う前の話6。
(4、5はいちおうメモは残ってるけどもっと個人的になっちゃうし別にたいした話じゃないから。。。)
その仕事の終わりのはじまりはいつも涙を流しているように見える眠たげな河童の女が現れたときだった。
(彼女は 涙腺に寄生虫がいるんだよ。 と言ってた。
朝に。 朝に。
朝に。 震えるの。)
「下のまぶたのところに住んでるの。 欠伸をした時とか目を擦ったそのあとで
まるで下のまぶたの涙袋の内側に小さなミミズみたいな線状の寄生虫みたいなのが いて。
そいつが蠢くって感じでね 震えるから それがわかるんだ。」
彼女は他の依頼人たちと同じようにわたしに言葉を預けた。
彼女は実にずいぶん長い間喋り続けたと思う。
もちろんわたしはそれをすべてわたしの中に記録し続けた。
貴方に預ける それは とても とてもとてもとても とても
とても需要なことなんだ。
って彼女は言ってた。
(そいつの話は大きな秘密の計画の話。
ここには書けないような。。。 )
いつもと同じようにわたしに選ぶ権利はなかった。
もう彼女は喋ってしまっているのだし
聞いたら覚えることはすでにわたしのたしかな性質だった。
「たった三ヶ月。」
彼女は言った。
三ヶ月したら戻ってくる。 そしたらわたしの言ったことをすべて返して欲しい。
そしてわたしは不思議な機械と手順によって口を縫い付けられた。
痛みはなかった。
でも口をもう開くことはできなかったし もちろん声を出すこともできなかった。
「貴方はずいぶん優秀なわんこだって聞くわ。バランス感覚があるのね。
好奇心が旺盛すぎるやつは首をつっこんで破滅するし
他人に興味さえもてないやつはそもそも預かるものの大事さを理解することさえできないものね。」
彼女はまるで飼い犬にするようにわたしの頭を撫でた。
それから鞄の中から取り出した小さな瓶の中の液体を飲み干した。
(偽物のブルー。外挿される憂い。川の色よりもずっと深いそれを。。。)
そしてわたしのもとから去っていった。
前金に と彼女は 今までわたしが
どんな仕事で得た金よりもずっと多い額の札束を残していった。
それでもやるべきことはいつもと変わらない。
わたしはその小屋で退屈な時間が過ぎていくのをじっと待っていた。
マスクをつけて時折里に買い物に下り
買い溜めた食糧を食べて。
本を読み。
ときどきばらばらの日記を書いてはそれをさらに刻んで。
また食べ。
眠り。
夢を見て。
やめては覚え直してやめて忘れて覚え直してやめてしまう遠い国の言葉を覚え直してやめて。
本を読み。
また食べて眠り。
夢を見て。
里に買い物に行って。
月明かりの薄い夜にはあたりを散歩して周り。
本を読んで。
外来語を学んでは忘れ。
眠り。
眠り。
眠った。
(そんなふうにしてわたしはその三ヶ月を過ごした。
宇宙と真空管の色した日々を(つまり、無反響の。。。))
でも三ヶ月しても
その河童の女はわたしの前に現れなかった。
四ヶ月してもそいつは現れなかった。
五ヶ月しても六ヶ月しても。
噂だけがあった。(いつものやつ。みんなが
好きなやつ。だれがだれを嫌いで どんな計画があって どんな過程があって どんな結末があった とか
だれがだれを愛してるとか だれがだれのやり方をあんまりよく思っていないとか だれがだれを殺したとか )
わたしはわかったふりをした。
それが不明な状況を耐える唯一の方法だと
いうことはすでに学んでいたから。
そして六ヶ月半くらい経ったある太陽の高く昇った昼にわたしは小屋を出ることにした。
外科手術によって口の封を外した。
(それでその仕事の前金も全部消えちゃったんだよ。。 嬉しいことに。 残念なことに。)
わたしが施術受けたのは人里の外れにあるひどく寂れた病院だった。 壁に 罅 入ってた。
コンクリート。 蔦が這ってた。
いつか依頼人のひとりに聞いたのだ。人間の里にも妖怪を受け入れる病院があると。
そこはたくさんのお金さえあればどんな来歴の人間もどんな性質の妖怪も診るというらしかった。
(それ を わたしは思い出した。
そこを探し た。)
手術は無事に終わったけれど口がきちんと開くようになるまで
しばらくのあいだ病棟で療養
する必要があった。
四人用の旧い黴の匂いのする病室にはわたしの他に三人の患者がいた。
点滴を刺した細い少女と足の悪い男(ふらふらと歩く。)と白髪の老婆。
黴ついた暗い橙色の薄いカーテンによってわたしたちは隔てられていた。
患者達はなんだか幽霊のようだった。
彼らは気配に乏しく
長らくそこにいないと思ったはずなのに突然カーテンが開き姿を現したり
そこにいると思っていたはずなのに看護婦に連れられて病室の入り口からやってくることもあった。
虚ろな目。白く透き通った肌。匂いのひどいトイレの黒い斑点に侵された病気風の鏡に映したわたしも同じ顔をしていた。
老婆は嘘かほんとか知らないけど (もちろんべつに知りたくもないけど。)
ずいぶん長い間 まだ若くそれこそ髪もまだ黒い頃から その病室で暮らしていると言ってた。
老婆は他の入病者や看護師たちみんなや わたしに向かってこんなことを話した。
「ここはヤブさあ。
人を弱らせる薬を患者に飲ませるのを生業にしてる。 永遠を売っているのさ。 永遠の病を。
現にあたしはまだあんたみたいだった頃からここにいるんだ」
わたしは無視をした。
そんなことがしたかったわけではないけれど
そうする他なかったのだ。 (わたしだって誰彼構わず嘘を本当を喋りたい気持ちだった!)
でも
わたしの中にはあの河童の女の巨大でひどく際どい計画の話がまだ残っていた。
言葉を発するためにまずそれを捨ててしまわな ければ ならない し
それを誰かに聞かれるわけにはいなかった。
たとえ彼ら三人が薄暗い病室のこの世界から隔絶された亡霊だとしたとって
用心するに越したことはない。
慎重になること。 丁寧にやり過ごすこと。
それはあの季節を生き伸びるために覚えたことのひとつだった。
だからわたしはこっそり喋り続けた。
あの子がわたしの中に置いていって決して取りに戻らなかったその言葉たちを。
それはひどく長いものだったから一夜では言葉が足りなくて
それにをまとまった文章をを喋り続けたらふと聞かれた誰かに意味を覚られてしまうだろうし
病室で暮らす患者たちは幽霊のようだったから とても慎重にならなければいけなかった。
わたしは ときには 一言だけを。 あるいは 単 語 の半 分 だけを。
昼に。
夜に。 朝に。
月明かりの日に。
雨の夜に。 やわらかい風の膨らむ朝に。
誰もいない病室で。
病棟のトイレの個室で。
廊下の隅で。
医師が席を外したあとの診察室で。 階段の踊り場で。
鍵と鉄格子のついた窓の下で。
夢の中で。
少しずつわたしの中から外へと吐き出していった。
(そんなふうにしてわたしはその一週間を過ごした。)
わたしの中に残っていたすべての言葉を吐き出してしまえば
そこでわたしがすべきことは何も残っていなかった。
でも退院許可が下りなかった。
わたしの言語中枢には重大な障害が残っていると医師は言っていた。
医師は紙とペンを持ってきて別の紙に書いてある文章をわたしにそのまま書かせた。
たしかに彼が言うようにわたしの文章はばらばらになっていた。
『これは テキスト です。
わたしは わたしの 思 う ように
文章を書くことができます。
まるで 腕や。
足や。
手のように わたしは自分の延長として 文 字を操ることができ ます。
書くことは 思考する ことです。
わたし の思 うことは 少なくともそれがわたしの 思うところである
という 意味 において 思考に対して 完全に正しく。
また書くことは思考することなので
書くことは 思うことに対して正しいので
これは 正し い 文章で す。』
わたしはどこに文章を置いてみればいいのか
どこで区切ればいいのか ひとかたまりの文章とべつのかたまりの文章に
どれほどの空白が必要なのかわからなかった。
いや 本当はわかっていた。
わかっていたけど なぜか 実際に書いてみるとそうはならなかった。
医師が後遺症と言って暴いた通りわたしの文体はばらばらに倒壊していた。
(でも医師の言うことは間違ってる。わたしの言葉は口を封じられるずっと前から
もう ばらばらだったんだよ。。
あの仕事をはじめたときから。 (あるいはもっとずっと前からね。)
わたしは自分でそれをばらしたんだよ。
それがみすちーの雪国に似るようにさ。(あ ほら また 時間が途切れたよ。。
飛ぶ? 落下する。。(たぶん回っている。みすちーを円の軸にして。くるくる。
くるくる。回る。(肯くことが重力に支えられているなら首を振ることは惑星の回
転に支えられている。。。(って言えばまたみすちーは(いやそれはおかしいでしょ
肯くことは単運動だけど首を横に振ることは往復運動だからたとえ向かうときにその
動きが惑星の回転と一致するとしてもさ帰るときには回転に反するじゃん)とか言っ
て笑う(あ そっかそうだよね ってわたしも笑う。))))))
それからの日々をわたしは曖昧な脱出計画のことばかりを考えて過ごした。
病棟のすべての窓には鉄格子が嵌めてあってそこから外に出るなんてことはできそうに
なかったし
唯一この病棟から外に通じるエントランスは 二十四時間体制
で看護婦が目を光らせていた。
わたしは三階の病室の窓際。
鉄格子の嵌められた窓から空をじっと見つめていると
あるとき点滴を刺した少女がわたしに話しかけてきた。
骨ばった身体に 薄青い病院着 似たような色した顔で ぐるぐるの瞳 そっと笑んだ。
「外に出たいんだ?」
「どうしてそう思うの。」
少女は首を傾けてわたしの目をじっと見つめながらなにかを考えているようで
それは彼女がそこにいることを忘れてしまうくらい長い
時間だった。そのとき病室にはわたしたちと足の悪い男
がいていつものことだが足の悪い男は締め切ったカーテ
ンの向こうで小さな唸り声をあげていたんだと思う。空
調がきちきちと今にも壊れてしまいそうな音をたてて鳴
っていた。ちょうどお昼ご飯を食べたあとだったから13
時の頃だろうか。それもやっぱり慣れたことだよ。少し
の白米と小鉢に入ったひじきかなにかの入った煮物と色
の悪い焼き魚。いつもおんなじメニューだった。わたし
は全部食べて。空は少し曇ってはいるけれど雲の間に晴
れ間が見えて気持ちよさそうな風が吹いているような気
がした。春先の膨らむ温かい風だよ。眼下に見える柳の
枝がふぁさふぁさと揺れていたのだ。わたしは風の溜ま
りに飛び込んでそこに立っていたいと思った。建物の柱
や屋根や床や壁のすべてが風によってできていて触れる
と風の柔らかい圧があるからそこに建っていることがわ
かるというような家。広い草原の上にあってね。わたし
はその上で寝転んでいる。そんな夢想をよくしていた。
そのあとで少女は笑って言った。
「みんなそうだよ。」
わたしは応えた。
「まあ。そうかも。」
彼女は言った。
「わたしはきょーこに脱出経路を
教えてあげることができる。
まるで貴方にヒントを
与えるためだけに用意された
ゲームボーイの中の女の子みたいにね。」
「ゲームボーイ?」
彼女は脱出経路を教えてくれた。
計画の実行はもちろん深夜にある。
それは病棟の屋上にあったのだ。
火災用の脱出スロープ。
彼女は魔法みたいにそれを簡単に開いて地に向かって投げつけた。
わたしはそのスロープの入口に手を重ねた。
彼女は少し遠いところでわたしを見ていた。
わたしは言った。
「来ないの?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「だってここはちょっとした地獄みたいなところだよ。」
彼女は笑っていた。
「くすくす。きょーこってひどい人なんだ。
わたしは
もう ずっとずっとずっと
ここにいたしこれからも
ここにいなきゃいけない理由がある。
それなのにここを地獄だなんて言うなんて。
わたしこれからここを地獄だって思って
過ごさなきゃいけないのかしら。
きょーこがわたしのいるここを
地獄にしちゃったからね」
「ごめんね。」
「いいよ。許してあげよう。特別だよ。」
わたしはスロープの中に半身を突っ込んで身を
滑らそうとして 少し迷って
結局は言うことにした。
「ねえ。
どうしてわたしの名前を知ってるの?」
「前にも会ったことあるからね。」
「え。どこでだっけ?」
「どこで。どこで。んー。それはすごく難しいな。
どこでならここでだけど。
でもそれはなんていうんだろ。。」
「なぁに?」
「ここで会ったんだよ。わたしときょーこは。
もうなんどもなんども。出会ってるの。
わたしってずっとここにいるんだよ。
きょーこが思ってるよりもずっとのずっとだよ。
時間をくりかえしてるって言えばいいのかな。
しばらくの間は自由に過ごせるけど
あるとき気がついたらここのベッドで目を醒ますの。
そしたら見覚えのある看護婦がやってきて
いつも同じことを言う。
正解があるのかもと思っていろいろやってみたよ。
医師と仲良くなってたくさんお話したり。
やけになって手を血に染めたこともあったな。
それを使って外に出たことももちろんあるし。
外の世界はけっこう楽しかった。
でも結局ここに戻ってきちゃうの。」
「むむ。」
「この前は響子とお友だちだったよ。
いろんなことをふたりでしたよ。
ここでさ。地獄でね。
そのとき響子はずっとここにいてくれたけど
でもあるときふと目を醒ましたら
やっぱりわたしはベッドでひとりだった。
数週間したら響子がやってくるんだ。
いつものことだよ。
喧嘩したこともある。
ためしにこの屋上から落っことしてみたこともある。
えへへ。ごめんね。あれ痛かったでしょ。」
「わ。わかんない。けど。」
「大丈夫。そこからならちゃんと響子は戻れるよ。
エントランスからのやつはだめなんだ。
そっちからもうまくいく方法はあるんだけど。
少ししたら響子はまたここに連れてこられちゃうの。
不思議なことにね。
ここからならうまくいく。
まあ。たぶん。しばらくは。。
結局わたしはいつかまた同じ場所同じ時間で
目を醒ましてやがて来る響子に会うんだけれど。
でも今日は響子が楽しい気分なれるならいいな。」
それから彼女は手を振った。
「またね。」
そして笑った。
わたしはわけもわからず小さく手を振り返す。
「ばいばい。」
わたしは飛び込んだ。
暗闇の中。
わたしは滑っている。
わたしのぐっと結んだ口の隙間から重力が入り込み。
くるくると身体の中で揺れるようで。
次に気がついたら夜だった。
月明かりの下にわたしはひとりでいて
病棟のほうを見上げても屋上に少女の姿をもう見ることはできなかった。
わたしは急な吐き気を催してそのままそこで胃の中のものを全部吐き出した。
黒い地面には吐瀉物が死んだ生き物みたいに広がっている。
病棟の屋上からスロープが臓器のように垂れ下がっている。
その奥には暗い森がいつもと同じように静かに佇んでいる。
もういちど病棟の屋上を見た。
そこは最初からそうだったように空っぽだった。
向こうで夜の空に星々の灯りがちかちかと瞬いていた。
それは とても綺麗で綺麗で綺麗で なぜだかわたしは涙がとまらなかった。
それからのわたしは特殊な暮らしで失った精神の平衡感覚を取り戻すために必死になって過ごした。
気つけばわたしは仏門を叩いてた。
(空っぽのわたしにはそれがちょうどよかったんだよ。
森のなかに木隠す作法でね。。。)
新しい気のいい仲間たちと命蓮寺の厳しい修行をしながら
ときどき誰かにあの頃の話をしたいと思うときがある。
あの頃はメモを書いたところで二度と読み返すことはないだろうと思ってたけれど
今でも時々それを夜にこっそり見返してあの頃のことを思い返す。
病棟のわたしの知らない友だちのこと。
わたしに一族の悲鳴を託して去っていった山彦のこと。
決して楽ではなかった仕事のこと。
いつも涙を流しているように見える河童の女のこと。
彼女が二度とは取りに戻らなかった計画のこと。
時折命蓮寺の誰かにここに入門した理由のような
ものを尋ねられる時があって
そういうとき わたしは
妖怪である山彦の
本領が失われる現状を危惧して みたいなことを言う。
ほんとのことは言えないな。
喋ったらそれは忘れてしまうことだよ。
それもあの頃に覚えたことだね。
そしてそれは忘れたくないことでもあったから。
でも いつかみすちーには
話したいなって思う。
だけどわたしがみすちーといっしょにいれる時間は短くて
いっぺんにそれを話すに足る時間の余裕がないし。
なによりみすちーにそれを忘れてほしくない。
みすちーにわたしのことを忘れてほしくないのとおなじように。
あの河童の女の下の瞼に飼っていたのと同じ寄生虫が今ではわたしの涙腺にも住んでいる。
彼女はわたしに言葉を預けるのと一緒にきっとそいつもわたしに渡して取りには戻らなかったんだって思う。
わたしは朝にわんわん泣く。
ぽろぽろぽろぽろと涙をこぼす。
涙腺が震えている。
朝にはあくびがでる。
いつでも眠い。 。
眠い。
眠い。
眠いとあくびがでる。
あくびをすると涙がでる。
泣いてしまうと眠くなる。
ねえ。みすちー。
ねむいよ。
(おしまい。)
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くるくる回っている。
わたしたちは見つめている。
洗濯機のなかの色とりどりの洗濯物たち。
みすちーが言うんだよ。
「下着泥棒かあ。そんなのここに出るんだね」
「下着泥棒ってなんでそんなのするのか全然わからないよね。好きな子のだとしたって下着なんかあってしょーもないじゃん」
「わたしはわかるよ」
「え、まじで?」
「うん、うん」
「えーまじかあ」
「わたしも響子のやつ盗もっかな」
「盗むの?」
「欲求不満の日にはね」
「うぇえええ、きもいよう」
「いつでも満足させてくれればそれでいいんだよ」
「そんな、そんなって……そんなのって、きっとむりだし、なんだかあほっぽいし、わたしいやだよう」
心の中で、わんわんと泣く。
こういう行為で満足できるかどうかってわたしのがんばりだけじゃなくて、きっとみすちー側の準備も必要なのだとわたしは思うし、思うんだけど、それは言わない。そういうのは言わないほうがいいと思うのだ。
わたしたちは2つの洗濯機から洗濯物を取り出して今度は乾燥機械にやっぱり2つに分けて放り込む。
スイッチは、オン。
がたがたと揺れていた。
くるくると回っていた。
みすちーはさっきの新しい『ムーン・インベーダー』のやつの前に座って退屈紛れに何やらボタンをいじっている。
「懐かしいね、これ」
「みすちーもやってたの?」
「2のやつだけどね。ずいぶん熱中したな」
「ふうん」
それからみすちーは妖精からもらったコインの一枚を入れた。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
突然、画面から電子音が聞こえてくるからわたしは驚いたけれど、みすちーは冷静にボタンを操作して、『いいえ』を選んだ。
それから迷うことなくコマンドを入力して一番難しい『Lunatic』を選択した。
すぐに、ゲームがはじまった。
画面の中の構成はわたしもよく見慣れたやつだ。
手前側にみすちーの操作するキャラクターがいて奥から弾幕が飛んでくる。
まるであの小傘とぬえと三人でこれの昔のやつをやった夜のようだと思うけれど、でも、画質はずっと繊細で自機のキャラクターの顔もよくわかるし、弾幕もきめ細やかで綺麗だし、流れてくる音も滑らかでとても聞き心地がよかった。
それに、みすちーはとっても上手だった。
わたしたちのように自機はぶれたりしないし正確に無駄のない動きで弾幕を躱していく。
それがあたりまえのことだっていうふうに。
驚いてみすちーを見ると、少し睨むように画面の中をじっと見つめている。
ちっとも見ない手元が、かちかちかちかちとジグソーパズルをすごいスピードで完成させていくように、正確に滑らかに動いている。
みすちーの真剣な横顔。
嵐の名残に髪が少し濡れ、真っ直ぐな眼差しで……。
わたしはそんなみすちーの表情を見たことがなかった気がする。
一面、二面、三面、四面、と、一度も弾に当たることもなく、ストーリーの会話文をスキップしながら次から次へとステージをクリアしていき、気がつけば五面のボスまで辿り着いて、そこで行き詰まってしまった。
みすちーが弾幕を躱せなくなったんじゃない。
みすちーは一度もボスの弾に当たることがなかったけれど、それでもボスの体力を削り切ることができなかったのだ。
みすちーのキャラクターがボスの即死攻撃にやられて破裂し残機によって蘇り、次の即死攻撃でやられて破裂し、蘇り、そして破裂した。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
もう一度聞こえてきた合成音声にみすちーはやっぱり『いいえ』を選んだ。
首を振ってため息をついた。
わたしの方を見て笑った。
「まあ、こんなもんね」
「す、すごい……!」
「言ったでしょ。けっこうやってたの」
「けっこう……っていうか、ガチっていうか……すご」
わたしはプレイ中いつのまにかみすちーを応援していたから五面のボスで全部弾を躱したのに負けてしまったことに全然納得がいかない。ゲームが壊れているのだと思って言った。
「でも、バグじゃないの、あれ。ちゃんと避けてるのに倒せないじゃん」
「キャラを強化してないからだよ」
「きょーか?」
「そうよ。4からだっけかな。このシステム。データを保存してカードに経験値を貯めるわけ。それでキャラの攻撃力とか強くできるから、強化しないと倒しきれないのよ」
「はええ」
「最近じゃこの手のゲームはなんでもセーブ式さ。思い出を集めるの。経験値ならちゃんとわたしのこの腕に残ってるのにさ」
「かっこいい……!」
「でしょー」
わーすれちゃうよーわーすれちゃーうーだーんーまーくごっこーあそーびーなんてーすぐにーわすーれるー。
みすちーは口ずさみながら、もう一回見せてよ、えー結果は一緒よそれは響子のコインだし響子がやれば……代打ち代打ちわたしが見たいんだよ、とわたしが渡したコインをゲームに入れて、またはじめた。
あんなに口ごたえしてもゲームがはじまればみすちーは真剣だった。
みすちーは画面の中をじっと見つめていた。
わたしはみすちーの横顔ばかり見ていた。
同じところまでみすちーは行って、やっぱりそこでため息をついた。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
『いいえ』
わたしの方を見て笑う。
「ゲームのなかの弾幕ごっこはわたしの歌うことの次に得意なことだったの。でも覚えておくことはわたしのいちばん苦手なジャンルだね」
わたしも笑った。
それからみすちーに聞いてみた。
「でも、こんなにできるなんて相当やりこんだんでしょ?」
「まあね。昔は暇で何もかもが退屈だった。こんなことくらいしか熱中できることもなかった……そういう頃って響子にもあるでしょ?」
「たしかに」
「いつも四人でやってたよ。チルノとルーミアとリグルとさ。最近じゃみんなとも会わないね。みんな今なにしてるんだろ」
「うん」
「リグルは飽きっぽくて楽しいことが好きですぐ見つけてくるけどその分ひとつのことが続かなくて、このゲームだって最初にリグルがやりはじめたのに一番に飽きちゃって、チルノは下手くそなんだ。だから続かなかったし、ルーミアとわたしだけが最後に残った。わたしたちはいいコンビだったんだよ。ルーミアはスポンサーさ。人を襲ってコインを集めてきて、わたしが、やる」
「みすちーがいちばん上手だったの?」
「まあ……そうね。でも最初はぜんぜんだよ。あのストーリーを最後まで見るために何度も何度も何度も何度も、それこそ気が遠くなるまでずっとやってたな」
「あ、そうだ、あれって最後どうなるの?」
「知りたい?」
「うん」
「どこまで聞いたことある?」
「河童たちが宇宙に行くとこだよ。月の地球に対する悪しき陰謀が明らかになって、宇宙船に乗って月との孤独な最終戦争に向かうって……」
「そのあとは」
「そのあとは?」
「そのあとはね」
「うん」
「君自身の目で確かめよう!」
「へえ?」
「そう」
「いや、なにそれ」
「でも、これ冗談じゃないんだよもう。クリア後の画面には、おめでとう、の文字と住所があって、スペシャルなシューターの貴方へのプレゼントがありますことが書いてあるの」
「それで、そこに、行ったの」
「とーぜん」
「そこで何をもらったの?」
「機械の身体!」
「ええ?」
「わたしたちはその場所で拉致されて、秘密のアジトに連れて行かれ、優秀なシューターとして才能のあるお前たちはサイボーグになってこれから月と戦うから、って言われたの」
「いや、まじで?」
「うん。そこにはたくさんの改造された子どもたちがいたよ。半分機械の子や不思議な魔法で狼になった子ども、特別な薬の力によってたとえ死んでも生き延びても成功するまで何度も同じ時間をやり直してしまう子たちや……。わたしも危うくそうなりかけて……それこそほんとのルナ・シューターになるとこだったね。命からがら逃げ出したけどね。」
「それ、ほんとう?」
「そうだよ。でも、その逃げるときに記憶処理されちゃって、そのせいでいまもすぐ忘れちゃうの。覚えてもさあ……忘れちゃう。空震……頭のなかにボルトが残ってて、こうやったふると、からから、鳴るのよ」
「本当に?」
そうだよ、聞いてみて。
みすちーは立ち上がり、わたしのすぐそばで、わたしの頬に髪に頬が触れるくらいのごく近い距離で、頭を振った。
でも、聞こえなかった。
遠いところで激しい雨の音。
風の音。
みすちーの髪がわたしの首筋をくすぐった。
みすちーは笑いながらわたしのことを抱きしめた。
「あはははっ。ばか、ばか、ばか、うそに決まってんじゃん!」
でも、みすちーは、そのままわたしのことをぎゅーと思い切り抱きしめ続けていたのだ。
ずっと、ずっと、長い間、そうしていた。
雨の音。
みすちーの香り。
ほんの少しだけ、わたしは痛かった。
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わーい。 わーい。
やったー。
わたし今日の日はこんなにも上機嫌。
とっても楽しい。 こんなに嬉しい。
こんな日には憂鬱なんかどっかに飛んでっちゃう。忘れちゃうよね。
あの子のことも。
あいつのことも。
みすちーのことも。
わたしの自身のことだって。
あ そうだ 広告を出そうかな。
『わたしはこんなに楽しい生活を送ってます!』
『わたしの楽しい暮らしをみんなにも知ってほしいのです!』
『わたしがこんなにも楽しい日々を手に入れた方法をみんなに特別に教えてあげよう!』
今日 わたしはさ
札束の湯船に浸かるみたいにね
たくさんの楽しかった日々の思い出の写真たちに浸ってね こう 。。。
こうする。
「ぴーす!」
だって 楽しかった日々はまるで猥雑な雑誌の裏の広告みたいだったよ。
あの時は辛かったけど今はこんなによくなりました! みたいに?
さいてー。
でも 楽しかった日には みすちーのことを忘れちゃうね。
忘れちゃうよ。
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みすちーはそれから永遠にわたしを抱きしめ続けるようで、みすちーの腕の中でわたしはどうしていいかわからず、ただ目をつむりながらじっとしていた。
とてもゆっくり流れる時間の中でみすちーの細い腕がわたしの背中に腕にくいこんで、すぐそこで、近いところで、なんだか少し遠い場所で、みすちーの身体が小さく膨らんだり縮んだりするのをわたしは感じて、雨の音……”生命の不思議”みたいなのってなんかちょっとやだよね、でもわたしを抱くみすちーはなんだか生き物のようだったよ。
どれくらいたったんだろう。
きい、ときしむ音を聞いた。
ちらと振り向くとコインランドリーの扉が開き、雨音が強くなり、天狗の女が現れた。
少し濡れてた。
わたしたちは身体を離して天狗のほうを見た。
天狗はちょっと肩をすくめてみせた。
ふわりと翼が小さく揺れた。
黒い大きな翼。
そいつはさっきコインランドリーに行くときに見た天狗だったと思う。たぶん。
彼女はわたしたちに言った。
「妖精を見なかった……? あの子たち結局帰っちゃんだ」
すぐにわたしたちは顔を見合わせて。
みすちーが言った。
「でも代わりにわたしたちが見てますよ。そういう、契約したから」
「そっか……。上は混むのよ。天狗の里は……。ここは穴場でね……。上がいっぱいのときはたまに来るの……」
ローテーのぎざぎざの声。
乾燥機械の窓を開いて大きなビニール袋に洗濯物を詰める。
みすちーの小さな耳打ち。
(人を殺したよ……。)
わたしは少し出した舌を上の歯と下の歯で噛んで見せる。
天狗の女は洗濯物を詰めたビニール袋の口を固く結んだ。
それからわたしたちの方に向かって歩いてきた。
「それ懐かしいね……」
彼女が話しかけたのはわたしたちじゃなくてあの機械だった。
むかし叶わなかった月の侵略の夢を見た機械……。
また呟いた。
「あの頃はこいつがわたしたちのすべてだった……。こいつのせいで針だって縫ったな……まじさぁ、これ」
「そうなんです?」
みすちーがそうやって聞き返すと天狗はジャケットの前のところをはだけてシャツの襟を下の方に引っ張って見せた。
たしかに胸の上のところには斜めに深い傷跡があった。
「ほら、噂があったじゃない……。ムーン・インベーダーのあるとこには鬼がでるって……」
「鬼?」
「ああ……。本物の鬼よ。下のほうはそんなこともなかったんでしょうが……。天狗の里じゃどこからともなく鬼が戻ってきて筐体を占領しちまうのよ……。順番も変わらず、ずっとやってて……」
「ああ、そういう人、下にもいましたよ。ずいぶん困りましたよねえ」
「でさ……喧嘩したのよ……。論理はわたしにあるし。気性の荒い鬼だよ。ひかなければそりゃあ喧嘩になるよね……」
「鬼と喧嘩したんです? それはまた」
「痛い目みたよ……。向こうは手を抜いてたんだろうが、それでも死にかけたな……まじね」
傷跡を指でなぞって。
それからシャツを戻してジャケットを前で閉じた。
「懐かしいな。知らなかった……。こんなとこにあるなんて……」
「これは新しいヴァージョンですけどね」
「ふうん……」
彼女は丸めた手を口にやって思い出に浸ってるってふうだった。
「ずいぶんやったの……。お金を手に入れるのに苦労したな。天狗の里じゃ文章を書けるのがえらいのよ……。小さい頃は新聞記者になりたくてさ……。あたしは文章がろくに書けなかったから、写真をたくさん撮ったよ。ローカルな不貞やスキャンダルを……。やな仕事だった。褒められないし嫌われるし、ときには知り合いのやつも撮っては二束三文で売ったの……。ぜんぶこれをやるためさ……」
みすちーはうんうんとしきりに肯いている。
外では雨が降っている。
このゲームをそれほどまでには知らない熱中もしなかったわたしは少し外を見てた。
「最後まで全部見たかったな……。けっこうやったのよ。一番むずかしいやつの最後まで行ったんだけど、ほんとはその上があって……なんだっけかな」
「Lunatic?」
「そう、そう……そう」
「それじゃないとほんとの最後がわからなくて……。それが今までの難易度よりも段違いに難しかった……」
「ええ、ええ。そうでしたよね」
「あたしはずっとやってたけど、仲間たちは少しずつ飽きていって、あの頃はゲームの周りにあんなにたくさんの人がいたのに……。ひとりひとりいなくなって気がついたらずぅっとひとりでやってた……」
「でもおかげでずいぶん上手くなったでしょ?」
「そうね……」
「山頂の孤独は他の人にはわからないものですよ」
「ふふ。ただのゲームよ……」
「まあ、そう」
「新しいやつが出るときはすごく楽しみだったな……。やんなくなったやつらも帰ってくると思ったし、でも、みんなが戻ってくることもなかったし、どうしてかな、あたしも昔ほど熱中できなくてね……」
「ああ、3はわたしもあんまりでしたね」
「なあ……あれってどうゆう仕組みなの? それだけでずっとやってられると思ってたのに、なのに、簡単にどうでもよくなっちゃうってやつ……」
「それについてはいろんな人がいろんなことを言いますね。わたしの好きな説はわたしたちはほんとは鳥じゃなくて猫で、だから何でもすぐ飽きちゃうってやつですね」
「ふうん……。でもあたしは猫じゃない……。猫……飼ってるし。仲間たちはきっとお前猫なんて飼ってもすぐに死なせてしまうだろうって言ってたけど、まだ生きてる……生きてる。ねえ、猫が猫飼ったりしないでしょ?」
「それはたしかにねえ」
「ああ……。この地にあるすべてのコインがあの機械に吸われてしまうまでゲームは続くと思ってたのにな……。でも単に世代の問題と思ったのよ……。そりゃあ、あたしの周りのやつもやらなくなるし、ああいうゲームが交代制だっていうふうに、また次の世代がやるんだって……。でも娘ができて、娘は熱中すると思ったけど……。母親にはいるでしょう、あたしのママもそうだったけど、こどもにああいうのやらせたくないっていう手合い……。あたしはそうじゃなくて、娘が、あたしのときなんかコインを集めるの精一杯でやっと一回やれるっていうふうだったけど、いまはコインくらいいくらでも用意できるし、やらしてやろうって思ってたのに……」
「いまの子はあんまりやんないらしいですね」
「そうね……。いま娘が熱中すんのは兎の人形さ……。シルベニア・ファミリーっていう、家族の……」
お母さんは虎が好きなのにねえ……ってみすちーが言うと、天狗は鼻で笑った。
「ふふ。そんなのは……」
彼女はわたしたちの赤い手押し車の上のみすちーのCameraを指差して。
それ、いいカメラね、と言った。
ええ、って、みすちーは笑う。
そして彼女はコインランドリーから出ていった。
空に浮かび上がる間際、ふわりと広がった彼女のジャケットの背中には、虎が住んでいた。
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もう言いたいこともないや。 。
そういえば ずいぶん長い間ナズーリンに本を借りたままだから
今度返さなきゃね。
おしまい。
おしまい。
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雪、雪が降っている。
みたいな感覚センスの風雨の日だった。
ぬかるんだ道を歩くスニーカーの濡れ感なら、なんだか深い初雪を踏みしめる感じ。
雨がまるで雪のように空から降っている。
雨粒は雪の粉みたいに冷たくて、きっと、ほっぺたで、溶けるよ。
コインランドリーのガラス窓には斜めに強い風が打ち付けて、かたかたと震えている。
それともその音はわたしたちの後ろで回っている乾燥機の音だったんだろうか。
とにかくなんだかそれは吹雪みたいだったのだ。
夜に、雨が吹雪いてた。
時の頃は、朝の少し前。
空は厚い雲に覆われて濃い闇が森を包んでいる。
唯一、コインランドリーから溢れる光が森を満たして、冷たい雪の色に染めている。
ガラス面の向こう、建物のすぐ目の前に広く溜まった雨水が光で銀色に輝き、煙のように立ち込める霧は鼠の色に吹雪いて視界を奪い、地に木々に跳ね返る細かい水の飛沫の色は白、そして、それらがすべてが雪景色のようだった。
遭難?
そんなん大袈裟だって。
コインランドリーの長椅子に二人並んで座りながらわたしたちはそれを見ていた。
真新しい光が充満するコインランドリーの室内でわたしはスウェットの右の袖口をちょっと伸ばして指を隠して、足りなくなったもう片っぽの袖口から指を伸ばして椅子の上のみすちーの手に重ねた。
みすちーの身体はわたしのほうに向かって、ちょうど30度のあたり。
ふら、ふら、ふらふらふら、こっくりをうつみたいに、揺れていた。
わたしの肩の上を小さく転がりながら、みすちーの髪は、わたしの首筋をくすぐった。
それは雪のように、わたしの肌につんと触れたと思ったら、柔らかく束になってさらさらと撫でながら……みすちーは落っこちていく、崩れていく、少しづつ横になっていって……わたしの肩の上に、胸の上に、膝の上に。
コインランドリーの中はとても暖かい。
あくびがでた。
膝の上に寝転んだみすちーの髪を撫でてた。
真っ暗な森の中で唯一このコインランドリー明るく灯るから、それは吹雪く雪山の中にぽつんと現れたビバークみたいで、台風の中でみすちーの暖かい身体を抱えて撫でるわたしはまるでやってきて遭難みたいだった。
「そんなん大袈裟だって」
わたしが言うと、みすちーはむっとしてわたしの腿を噛む。
「いたいいたい」
「響子のまね」
「わたしは人を噛んだりしない犬だよ」
「わたしのしつけがなってるからね」
「そうだよ」
みすちーはすっと起き上がってそれから赤い手押し車まで歩いていき荷台のCameraを取って抱えてわたしに見せた。
Cameraには雨除けのビニルが被せてあった。
「あの天狗も言ってたでしょ、これはちょうすごいカメラなんだよ」
「いいカメラなのはわかったけど」
「いいカメラ? いいとかじゃないわ。それこそ神器ね。神様たちの使うカメラだよ」
「それは言いすぎでしょ」
「言いすぎじゃないもん。まじだからぁ」
みすちーはわたしの肩の片方を掴んで揺らした。
わかったわかったよ、すごいよねそれ。
すごい、ちがう、超、すごい。
ちょおすごい。
でも他のいろんなこととおんなじように、わたしにCameraのことはわからない。
みすちーの持ったCameraにプラスチックの青いタグがついていて、それがひらひらと揺れるからわたしは思い出して言った。
「それ河童製のやつだよね。そのマーク見たことあるよ」
「あ、そうそ。よく知ってるじゃない」
「河童製の機械ならいくつか持ってるけどみんな赤いタグだよ」
「これは上位種だよ。最高機種。だから青だよ。ふつーは店にも売ってない」
「それ外さないの? 邪魔じゃん、ついてたらださいし、笑われるよ」
「はあ、ばっかじゃないの? 切ったら意味ないのよ。これは”本物”を証明する青タグだよ」
「ふうん。でも、それってすっごい高いんじゃない?」
「そうよ」
「そんなのどうやって手に入れたの?」
「屋台の売り上げを担保にいれたの。向こう数年のさ」
「借金ってこと?」
「うん」
「返せるの?」
「いつかはね……きっといつかは」
「はあ。なんでまたそんなん買っちゃったわけ」
「だってどうしても欲しかったんだもん……」
みすちーは恥ずかしそうに笑う。
わたしはCameraのことがわからないから、そのCameraの価値もわからないし、そんなものを買ってしまうみすちーのこともわからない。
でも、わたしはなんだか寂しい。
みすちーの後先を顧みない暮らしの作法。
みすちーにとってはいま今日しかないから。
やがて、みすちーは雪のように消えてしまう……。
わたしは怒るべきだろうか。
でもわたしのどこを探しても怒りのようなものは見つからなくて、あるのはちょっとばかりの呆れとたくさんの寂しさ。
なにもかもを簡単に忘れてしまうみすちーが、こんなにも高価な記録媒体を買って大切に愛することを、なんだかわたしはみすちーの祈りのように思う。
大切な思い出をなくてしまわないように、ちゃんと必要なものをいつまでも記憶しておけるように、明日もみすちーがみすちーを続けられるように。
それは、藁人形と釘さえあれば嫌いな人を殺せます!みたいな軽くてたいてい叶わない呪術の類だけれど、でも祈りには違いない。
ほんとは、わたしもおんなじのを持ってるよ。
Cameraじゃない。
同じ祈りをさ。
だからちっとも怒る気にはなれないな。
お寺でみんなが言う般若心経とかをその意味もあんまりわからず毎日ただ真似して唱えるようにみすちーとおんなじ祈りをわたしも掲げて、みすちーが決して連綿することのない白い記憶の雪世界でも迷わずに歩き続けることができて、ついでに明日もわたしのそばにいてくれたら、それで、いいな。
それもやっぱり大袈裟だって、みすちーなら言う?
みすちーは大事そうにCameraを抱えている。
「ねえ、ねえ、響子、これは完全防水なんだよ」
「すごいじゃん」
「ただの防水じゃないんだよ。完全なんだ。川の底のでも使えるよ」
「ほんとに?」
「うん、うん。そもそも河童たちの作る機械は完全防水だった。当然だよね。河童たちは川で暮らしているんだもん。彼らが自分の生活を便利にするために機械をつくるとき防水はまずもって最優先事項になる。それがないとはじまらないんだ。どんな便利な機械だって川に入って水で壊れちゃ意味ないもんね」
「まあねえ」
「そして河童の国から離れたところで暮らす人々にとってはそれがそのままユニークな価値になったんだ。特に神様たちにとってはそうだね」
「どゆこと?」
「つまり、神様や、力の強い妖怪もそうかも……彼らは幻想郷の外の機械だって手に入れる手段があるし、実際持ってる。外の世界の機械はそりゃあハイ・スペックだよ。でも防水性っていう点においては河童の機械には到底及ばない。だって河童たちはいつでもそのことをいちばんに考えてきたんだもん。だから、それはほんとの意味で魔法なんだ。一族の秘術だね。だから多くを知る神様はかえってそれに憧れたの。みんな欲しがった。外の世界の技術と交換でっていうか、ハイ・スペック・プラスでさ……つまり、特注だよ。河童たちは商売上手だからね、ずいぶんふんだくったって聞く……。きゅうり何本とかじゃないよ。そんなんじゃ数えられない……。もっと強い単位でさ」
「お金とか土地とか?」
「そうだよ。そのとき河童たちは自分たちの機械に行使する完全防水という力が魔法だって知ったんだ。だからその価値を守るためにすべての防水機械たちに同じ値をつけた。防水機能の弱い、あるいはまったくない機械たちを廉価品として並べてね」
「うん」
「ねえ、響子、機械は水に弱いんだよ。あたりまえだよって顔してる……。でも、それは、単にひとつの取捨選択と淘汰の結果でさ……。べつの進化の道程においてはぜんぜんちがうかもしれない。そうだよ、響子、むかし、この土地には、特別な魔法があって機械は水に強かったんだよ。魔法は呪文によって秘される。天上は大気圧によって遠ざけられる。ほら見て、いまでは完全防水製品には河童印のプラスティック・タグがついてる」
「その青色の……?」
「これは偽物のとちがいをはっきり現すためにつけられたんだ。真似コピーできないやり方でさ。だから切ったら価値がなくなるの。神様たちはこの機械を使う。みんなはそれに憧れる。高いお金を出してでも買おうとするんだよ」
「ああ、ねえ」
「まあ、でも、ほんとは機械にそんな防水機能なんかいらないと思わない? わたしたちは地面の上で暮らしているんだし。だからそれは今では最上であることが単に最上っていうだけの最上級品なんだよ」
「でも、みすちーも買っちゃったんでしょ?」
「そうよね。おかしいかなぁ。やっぱいらなかったかなぁ……。でも、わたしも、ずっとね欲しかったんだ……」
「そっか」
「えへへ。これは最上級品だよ。河童たちだって持ってないの」
「河童たちがつくってるのに?」
「うん。今じゃ、完全防水は神様たちにとってのものだよ。彼らは風雨の中を歩いても雨粒ひとつあたらないんだ。代わりに川で暮らす河童労働者たちは自分たちの機械を水飛沫から守るためにどうしたと思う?」
「どうしたの?」
みすちーは笑った。
「ビニルを被せたの!」
言ったらすぐに、みすちーは雨の中に飛び出してCameraを抱えたまま駆けて、突然振り向いてわたしを映した。
レンズ。
手、振ってた。
少し高いところで揺れていた。
雨が降ってた。
コインランドリーのガラス戸の向こう側に見えるみすちーは、激しい雨粒にばしゃばしゃと打たれて、なんだかいますぐにでも破砕してしまいそうだった。
やがて覗き込むCameraのその下で、口が動くのが見えた。
みすちーは、「ほら、はやく、ぽーず、して」って、言った?
わ、ら、っ、て。
みすちーの構えるCameraには透明なビニルが被せてあった。
わたしはためしにはにかんでみて、でもレンズを通したわたしの姿は濡れきったビニルのせいでたぶんモザイク調で、それにうまく笑えなくて、みすちーのCameraのレンズは湿度に結露して滲んでた、どうしたらいいかわからないよ。ぴーすをしようと思ったわたしはやめて持て余した腕を後ろで組んで落ち着きなくふらふら揺れていて、なんだか気恥ずかしいし、水滴で見えなかった、3つ横に並んだ乾燥機を背景にしてわたしは耳を垂らしてできるだけ顔を隠しながら曖昧な笑みを浮かべたまま……。コインランドリーの建物はまだ新しいはずなのに雨のせいでくすんで映っている。ガラス戸が寒暖差に曇っている。リノリウムの床に泥水の足跡がいくつもへばりついている。わたしがレンズから逃げるように横に動くのを少しずつみすちーのCameraは追っている……。がらがらと巨大な乾燥機が回る音、Cameraの集音器には雨の打ち付ける音……あるいは、聞こえこないみすちーの声。 そ、こ、に、い、て、よ。 ど、こ に、も、い、か、な、い、で。 曇ったガラス戸越しにわたしは滲んでいる。透明なビニル越しにわたしは折りたたまれている。みすちーとわたしの間を降り敷く雨のせいでわたしはまるで影のようなのに、Cameraのレンズの調節されたピントのせいで世界からはっきりと切り離され、みすちーの視神経の切れ端のところでわたしは電撃だった。
しびれる。
ゆらめく。
そのまま光のひとひらになって消えてしまいたいと思った。
吹雪のような嵐の中で、みすちーだけが、Cameraを持って立っていた。
その、レンズ、レンズ、レンズ、レンズ。
レンズぅ? ……ぶれ、ぶれ、ぶれる。
震える。
Cameraのそのピントが収斂して瞬間を切り取るそのひとときにわたしは、どこにもいない。
みすちーのCameraは最上級だってみすちーは言ってた。
映像素子センサーならフルサイズよ、チルト、フラッシュ、衝撃耐性、スクリーン……でも基礎構造は極めてClassicね。それって普遍だし不変ってことだよ。みんなが信じてるし、どんな場所、時代だって通用する。安定、健康、不惑。なによりipx9+だもん、泣いたりなんかしないの。
そのことを証明する青色のタグが強い風に吹かれてぱたぱたと揺れている。
雨、降ってる。
精緻な防水性によって証明される価値を守るためにビニルでそれを防水するその自家撞着をわたしは愛おしく思う。
みすちーにもおんなじのが、ついてるような気がする。
みすちーの、耳たぶとか踵の腱とか脇腹とか二の腕とか、どこか、どこかとにかく柔らかい端っこの部分に、”特別の”を示す青色のプラスティック・タグが……。
わたしはみすちーのことを、所有したいという衝動でいっぱいになる。
フェスタにも台風にも吹雪にも死の影にも他の誰にもみすちーを奪われたくはないと思う。
フェスタを憎み、同じ季節を同じ倦怠感で焼いて、自分の命さえなにひとつ所有することができず、歌うことの弾くことを歌うごとに弾くたびに忘れてしまうみすちーが、いつかあのプラスティック・タグを外すことができなかったことを、それとまったく等しい作法で、わたしは愛する。
わたしはこんなにもみすちーのことが好きなんだって思う。
ばしゃばしゃとうたれながら、白い粉のような霧に包まれて、声も届かない遠い場所で、みすちーは笑って言う。
その意味を、わたしは口の動きだけで知る。
「う、た、っ、て」
雪、雪が降ってるよ!
わたしは歌った。
それは、今日の日に、ちょうどいい祈りの歌。
こんな特別な日、みんなが楽しい気分になる雪の日には。
「めりーめりーくりすますー、めりーくりすます、めりーめりー」
そういえば、フェスタの新しい曲のために書いたわたしの詞も似たような歌だった。
結局、今日はみすちーに話せないままで終わっちゃいそうだけど。
それを、わたしはみすちーに、みすちーだけにいちばん聴いてほしかったのに。
それはこんな歌だった。
タイトル未定/
歌/歌詞 わたし 曲/編曲 みすちー
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
今日だけ
みんなが楽しい気分だったらいいな
あーあーあー(超シャウト?)
フェスタが近い。
もうじきフェスタがやってくる。
フェスタの熱狂はわたしたちのすべてを変えてしまう。
フェスタがやってくればわたしたちはもうフェスタのことしか思えない。
フェスタが来るまでずっとフェスタのための準備をしてやがてフェスタがやってきてわたしたちはいつのまにかフェスタのなかにいてフェスタが去ったならその思い出を語り次のフェスタを待ちフェスタのことだけ思って暮らしていく。
なんだかわたしはこれからさきの毎日を毎日毎日わんわんと泣いてしまいそうだった。
そういえば、わたしが泣いているといつでもみすちーはわたしの涙を指差して、はしゃいで、言ったんだった。
「雪融け……!雪融け……!」
わたしは雪国で生まれた。
みすちーの頭の中にだけあるその雪国で。
そこはひどく激しく吹雪いている。
どこまで行っても同じ白色が続き、歩いた足跡が歩いたそばから降る雪に埋もれてなくなってしまう。
まるでフェスタがやってくるように、嵐が通り過ぎるように、すべてが簡単に拭い取られ、なにひとつたしかな形で残らない場所。
雪が降れば、楽しいこともつらかったことも喜びも寂しさも、白色に覆われて消えてしまう。
でも、降り積もった白い雪だけはいつまでも、そこにある。
残り続ける。
だから、たとえどんなに激しいスピードで通り過ぎわたしたちのすべてを変えてしまうものでも、雪国を奪うことはできない。
曇ったガラス面の向こう側、しわくちゃのビニルを通して、歪んだレンズを介して、曖昧な視神経の先で、みすちーは、ばらばらの淀んだ白色。
こんなにも降り続く嵐のような雪の中で見えなくなってしまうな。
だけど、みすちーから見たわたしも、きっと同じ白色なんだろう。
悲しいことに。嬉しいことに。
みすちーの頭の中にあって、その存在を忘れてしまってもなお残り続けたその雪国に、わたしも生きてるよ。
みすちーはその小さな羽で、わたしをそこまで連れてきた。
それは、フェスタがやってきても奪うことのできない、わたしの来歴だよ。
みすちーのくれた、わたしに、たったひとつの、にせものの来歴。
みすちーとわたしは雪の上をふたりで歩いている。
雪国には歩行のルールがある。
離れ離れにならないように、片方が途中で倒れてしまってちゃんとわかるように、わたしたちは太い縄でお互いを繋いでる。
だからみすちーがいなくなっちゃうなんてことはないんだよ。
みすちーがそこで崩れてしまいそうになるなら、ちゃんとわたしがわかるから。
わたしがみすちーのことを見てるから。
わたしはいつもみすちーの後ろを歩くから。
大丈夫。生き延びる術なら知ってる。知ってる。
それは覚えた。
わたしが忘れないもん。
あくび。
ひぃぁあああ。
わたしはいつでも眠くて、泣いてしまうそうだな。
でもこんな吹雪の中で眠ったら死んじゃうから、膝の上で眠るみすちーを抱えながらずっとずっとずっと起きていて。
目を醒ましたみすちーの隣で、わたし。
「おはよう!」
って、言えたらいいな。
だから、わたしに降るものは、すべてが雪だった。
そうだ、なんだか雪が降っている気分だね、なんだか雪が降っている気分だよ。
まるでなんだか雪が降っているみたいなさあ……。
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る。
で。
な。
ん。
だ。
か。
雪。
が。
降っ。
て。
い。
る。
み。
た。
い。
に。
さ。
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帰り道。
やっぱりわたしたちは吹雪の中をふたりで歩いてた。
雨合羽に身を包み、奇妙な姿勢でお互いに手押し車の取っ手の片方ずつを持って、余った手を繋いでいた。
みすちーの手はわたしの手の中でなんだか弱々しくて、そのまま溶け出して消えてしまいそうだった。
みすちーが歌うから、わたしは聞いてた。
「きょーこーのことをーかーんがえるとーからだがーめーらめーらーあーつくーなーってーくーるーしーのーこれーはーいったいーなーんですかー」
「あーそういうのってわたしちょっとやだな。だってよく言うじゃん。激しく燃えるものはすぐに燃え尽きちゃうって。だから、わたしは熱はちょっとでいいから続くのが好き」
「でもわたしはいつでも永遠だけを歌ってるよ。そんなの言うやつは太陽知らないんだって」
「そうかな」
「そうだよ。言ってるじゃん、響子はわたしの太陽よ。それって単純なこと……響子がいるから朝が来るし、響子がいるから生きてる。それだけなんだよ」
「ほんとにそれだけ?」
「うん。約束するもの。わたしは響子のことを忘れたらそのあかつきにはこの世界の全部を覚えるよ。わたし本当はいろんなものを覚えておきたいと思ってるんだよ。でも、そう思っても、響子のこと考えたらなにも手につかなくて、こんなにも響子のことが好きでそれだけでいっぱいだからそれをなくしたら、この世界にあるものくらいすべて覚えることができるって思う。それくらい大好きなんだよ、ほんとに……。だから、覚えるのなんて難しいことじゃないもん。外の世界の不思議なくらいにカラフルな料理のレシピとか、誰も語ることができない本当の歴史とか、雨が降ってどこにいくのかとか、鳥たちが種類によってそれぞれ違う高さを飛ぶ理由とか、寝なくても起きていられる最大の時間とか、あの難解な歌のコードとか、誰にも解けない数式とか、あのとき誰かが言った言葉のほんとの意味とかぜんぶ、ぜんぶ、全部をさ……。覚える。覚える……、そしたらきっとそれを言いたいなあ、響子に、いやまあもうそんなに覚えたら今度は響子のことなんか忘れちゃってるんだけどさ、だから響子に言うってことだけ忘れずに覚えておいて、あとで響子のこと忘れちゃって単に言う、ひとりでね、ゆー、言う、いや、言うかな、どーかな、ま、いっか……わたしさ、ほんとはさ、響子にいろんなことを喋りたくて、響子にもわたしの知ってるぜんぶのことを教えてあげたくて、でもいまは響子のこと、今日この日のこと、とか、そんなのでいっぱいでなにも覚えられないし言えなくて、いろいろ覚えたら、そのときにはまあ響子のことなんか忘れちゃってるんだけどさあ、でも、そう…………どうかな、言おうかな、やっぱだめかなあ、言いたいな、でも……。そうだよねえ、いつもなんだって簡単に覚えるけど……忘れちゃうもん」
「へえ? なにゆってんのかぜんぜんわかんないよ」
「あ、響子もわたしのことが大好きだからそんなこともわからなくなっちゃうんだね?」
「そう、そう、そう、もー……そう。」「そうじゃん」
太陽。
みすちーの言う、みすちーがそれをこう言うから、言うみすちーの言うところのみすちーの言うそれを探してなんとなく見上げた空は風雨に紛れ雲に覆われて、そもそも晴れていたっていまはもう夜なわけで、だからそれは、風雨に紛れて晴れても夜のなんだか雪の日みたいな冷たい風雨の夜のことだった。
みたいな感覚センスの風雨の日だった。
ぬかるんだ道を歩くスニーカーの濡れ感がなんだか深い初雪を踏みしめる感じ。
雨がまるで雪のように空から降っている。
雨粒は雪の粉みたいに冷たくて、ほっぺたで、溶けるよ。
進行方向からは斜めに強い風が吹き付けて、それに乗ってたくさんの雨粒が飛んでくる。
なんだかそれは吹雪みたいだったのだ。
夜に、雨が吹雪いてた。
時の頃は、夜半の前の前、空を覆った厚い雲が不思議に切り裂かれ、雲間からは月が見えた。
満月だった。
月の光が森を満たして、冷たい雪の色に染めている。
あたり一面は銀世界のようでいて、煙のように立ち込める霧は鼠の色に吹雪いて視界を奪い、地に木々に跳ね返る細かい水の飛沫の色は白、そして、それらすべてが雪のかけらなのだった。
わたしは雨の吹雪のなかをレインコートを頭まですっぽり羽織り、片っぽの手でその襟口のところをぎゅっと握りあわせて、もう片方の手で空に傘を遊ばせている。
傘は進行方向に向かって、ちょうど45度のあたり。
ふら、ふら、ふらふらふら、まるで台風に交信するみたいに、揺れていた。
その傘の上を下を、すり抜けて、雨粒は、わたしのレインコートを浸した。
それは雪のように、レインコートの表面に硬く触れたと思ったら、溶け出して液状になって流れ出して……忍びこむ、浸していく、わたしのしゃんしゃん鳴る襟元を過ぎて……首筋に、胸の上に、おへその下に。
わたしはとても寒い。
震えていた。
みすちーの家を目指して歩いてた。
台風のなかで冷たい身体を抱えて歩くわたしはまるで投げ出されて雪山に遭難者みたいで、森の暗がりに見えたみすちーの部屋の小さな明かりは、吹雪にたったひとつの熱源、あの雪山に唯一灯る明かりのようだった。
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雪、雪が降っている。
あるいは、空から降り注ぐ白色の弾幕。
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みすちーの家の前、扉。
震える指先で押し、開き、みすちーの家の扉をあけると、みすちーはいる。
ほとんど裸のような格好でだらしなく毛布に包まっていた。
みすちーは、なんだか結末のようなふうだった。
布団の周りは脱ぎ散らかされた服とか菓子パンの袋であふれて、部屋中すべてのものが皺立って重なっていた。
その状況は、この布団の中心にいるみすちーが怠惰でいることで生じた結果というよりは、先にしわくちゃの衣類や生活ごみが集まってなにやら不思議な過程で結合し、やがてそこから布団に包まった怠惰なみすちーが生えてきたかのように見えた。
部屋の中はひどく荒れていた。
それこそあの台風がちょうどこの部屋にやってきて今さっき過ぎ去ったよな感じ。
みすちーの部屋に続く小さな廊下には台所とそのシンクがあって、締め切らない蛇口から水がぽたぽたぽたと流れている。
シンクの中に溜まった汚れた皿やボウルの上で飛沫いていた。
コンロにかけられた沸騰したやかんが、沸騰したまま、ぱちぱちぱちぱち鳴っている。
網戸を通して風雨が入り込み、下のところで、ちょっと水溜まっている。
わたしはみすちーに言う。
「うぇえ。なんだか大事件だねえ」
「あ、響子。来たんだ」
「そうだよ?」
「ね、響子、響子」
「うん?」
「わたしは響子のことを待ってたんだよ」
「うん」
「待ってる間、響子ってどんな顔だったっけってこと考えてね、でも思い出せなかったんだ。わたし、あんま、人の顔とか覚えられなくて、それこそ三歩歩けば忘れちゃうって感じでねえ」
少し遠いところで、沸騰したやかんが、ぱちぱちぱちぱちぱち鳴っている。
「でも、響子の顔はわたしの大好きな顔だった。どんな顔かはわからなかったけど、それはわかったんだ。だから今度はわたしが大好きな顔ってどんな類の顔だったろうって想像してみて、それが響子だった」
「うん」
「わたしいったいどうすればよかったんだろう?」
「ほら、これがわたしだよー、ってさ」
「かわいい……」
「やめてよ」
すぐ近いところで、シンクの上に、ぽたぽたぽたぽたと水滴が垂れている。
近いところで、沸騰したやかんが、ぱちぱちぱちぱち鳴っている。
遠いところで、網戸の間から雨が、ばたばたばたばたと入り込んでくる。
わたしは玄関から少し歩いて蛇口を締めてそれからコンロのスイッチをひねり、やかんにかかる火を消して、少し歩いて開けっ放しの戸を閉める。
みすちーはわたしがひとつずつそうするのを、ひとつずつ見つめていた。
「お湯……」
「えっ?」
「お湯さあ」
「うん、なぁに?」
「おゆ、お湯つくろうと、思って、わたし……」
「うん」
「お湯、お湯、お湯つくろうと、ああ……お湯つくるなんて言い方すごく傲慢かな? 響子はわたしのこと嫌いになる?」
「どうして?」
「だって、まるでわたしは何か作り出したみたいな、お湯をそこに顕現させたみたいな風な言い方……。水をお湯に至らせるのに……その熱とかわたし与えたわけじゃないし、わたしってなにかしてあげたわけじゃないのに」
「でも、ほら、ガス代とか水道料金とか、公共料金払ってないわけじゃないでしょう?」
「どうかなあ……」
「払いなよ」
「響子が来たら響子は寒いだろうと思って飲み物を用意しようと思ったんだ。でも、響子のことを思ったら、響子のことが大好きすぎて、結局何も手につかなくなっちゃうな」
「でもこうしてあったかいお湯があるのは嬉しいよ」
「え、お湯をそのまま飲むの?」
「それはなにかあるならそっちの方が嬉しいけど……」
「コーヒーとかあったと思うな」
そこ、とみすちーが指差すそこがわたしにはわからない。
いろいろ探しているとシンクの上の小さな戸棚のなかにコーヒーの粉があった。流しにたまった食器からふたつマグカップを取って水で簡単にすすいだらそこにコーヒーの粉を入れてやかんのお湯を注ぐ。それから砂糖をみすちーのやつに少し、わたしのやつにはたくさん混ぜる。スプーンが見当たらなかったからフォークで砂糖を掬った。隙間から、はらはらと雪のように白くこぼれるのだった。
熱いマグカップをふたつ分。
みすちーのところまで持ってちょっと歩いた。
足の裏にファスナーの、冷たい金属の感じ。
マグカップをみすちーにふたつとも手渡すと、布団の中からにゅと手が伸びてきて、あついあついと言う。
「ね、タオル、ないかな?」
「ぶんぶん首を振りなよ、犬はそうする」
「いやだ」
でも、ぶんぶんと首を振ってみる。
あはは、とみすちーは笑っていた。
「きれいなやつがどっかにあったよ」
「どこに?」
「忘れちゃったな。響子のことでね、頭がいっぱいでね、なんもかも忘れちゃうよ」
しかたないからそのへんに落ちていたタオルで頭を拭いた。
ここはとても寒い。
布団の上に座り込み、みすちーのやつ、みすちーの怠惰なやつ、その包まるゴールデン・レトリーバの色をした毛布のなかにわたしも忍び込んだ。
毛布の下でコーヒーをみすちーが手渡してくれた。
それを飲むと、苦かった。
きっとみすちーはわたしがみすちー用につくったコーヒーとわたし用につくったコーヒーを取り違えてしまったのだ。
ということはみすちーの飲んでるやつはわたしのよりずっと甘いやつだった。
みすちーはわたしがみすちーよりもずっとたくさんコーヒーに砂糖を入れることを知ってはいるけれど、自分のひどく甘いコーヒーに口をつけてもほんのちょっと眉をひそめるくらいでそのあとはなんでもないふうにふうふう息で冷ましながらそれを飲んでいるっていうのもさきほどわたしの入れた砂糖の絶対量をみすちーは知らないからで、わたしという生き物はそもそもたくさんコーヒーに砂糖を入れるものだから、わたしの飲んでいるこのちょっと苦いコーヒーを、みすちーは、きっとみすちーの飲んでいるものすごく甘いコーヒーよりもさらにずっと甘いコーヒーだと思っているんだろう。
みすちーの頭の中にしか存在しないその、ものすごく甘いコーヒーを、わたしは飲んでみたいと思う。
そんなことを考えているうちに、みすちーが別の話をしたので、取り違えたコーヒーのことは結局、最後までそのままになってしまった。
だから、そのコーヒーはいまでもみすちーの頭の中にだけ残っていて、このままわたしたちが死なずに生きていれば、いつか、それをふたりで飲むことができるんだろうか?
みすちーの別の話とは、こんな話である。
「そういや、PVを撮ろうと思ったんだよ」
「ほんとに?」
「カメラも買ったよ」
「それすごいじゃん」
「まあね」
「もしかして、この部屋の感じもそのためだったりする……?」
「どゆこと?」
「そういうのあるじゃん、汚い部屋とか映すの! せーかつって感じ? なんかロック系っぽいよね、ちょっと怠惰……怠惰?なふうな感じの」
「いや、それはちがうんだけどさ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、どういうのにするの?」
「うーん……どうゆうのにしようかなって思ってさ、いろいろ考えたの」
「うん」
「やっぱ一発目のPVとかって大事じゃん」
「まーねえ」
「やっぱそれバズったりしたらわたしたち有名にだってなっちゃうし」
「そしたら毎日いちばん高いドッグフードが食べられるね」
「ドッグフードは食べないよ!!」
「あ、そう?」
「そう……。そうだよ」
「で、どうしたの?」
「まあ、いろいろ考えたんだけどね、結果ね……」
「うん」
「響子のことだけを撮ることにした」
「へえっ?!」
「だって、わたし、響子のことが好きすぎて、響子のことしか考えられないもん」
「そうなの?」
「そうだよ。歌ってる響子がずっと映ってるPVがいいな」
「いや、そういうのあるけどさあ……。メンバーが演奏してるところを映してるみたいな。それならみすちーも映せばいいじゃん」
「わたしはいいよ。わたし、わたしが映ってるビデオなんて見たくないもん」
「わたしだってそうだよ。それにさ、ほら、わたしもさー、みすちーのことが? 見たいな? ……なーんて」
「いや、響子の意見はどうでもいいの」
「なんでさ!」
「わたしは響子が好きなんだよ。響子のこと好きすぎてそれが好きとしてもうあまりに最大限だから響子がわたしのことを嫌いでも好きでも響子が何をしてても笑っても泣いててもどんな顔をしてても一緒にいてもいなくてもたとえ死んじゃっても生きてても好きっていう度合いが変わらないの。だからね、わたし響子が具体的に何を考えてるとかどうでもよくなっちゃうの。どうでもよくなるっていうか、そもそもどうでもいいし、興味ない。べつに会いたくもないしね」
「それっておかしくない!?」
「わたしね、本当に響子のことが好きなんだ。この前は響子の歌をつくった! きょうこーきょうこーきょうこきょうこー幽谷きょうこーかへーせーどーはいしだーっていう……」
「主義主張が、もう」
「てか、歌とかはなくてもいっか。PVの間ずっと響子がインタビューされてて生い立ちとか好きな食べ物とか話しててほしいよ」
「なにそれ」
「そんでもってすべての性感帯に穴が空いたジャージとか響子が着るんだよ?」
「それもうジャンルちがうじゃん……」
「でも、やっぱ撮るのやめたな」
「え? やめたの?」
「だってさ、わたしだけの響子だよ」
ふふ、と嬉しそうにみすちーは笑った。
みすちーは毛布に包まったまま、わたしに肩寄せて。
わたしはひとつあくびをした。
それからコーヒーを飲む。
やっぱり苦い。
わたしはみすちーに言う。
「ねえ、今年もフェスタがやってくるね」
「うん」
「やっぱり今年の注目はプリズムリバー三姉妹 with Hかなあ。あのプリズムリバー三姉妹の新しい門出って感じだもんね。解散騒動からの復活も散々騒がれたもんねえ」
「うん」
「九十九姉妹の話は聞いた? 今度博霊の周年祭でメインやるらしいよ。今じゃ雑誌でもフェスでもどこでも見るもんね。去年のフェスタでやばかったじゃん。それ以来ほんと人気すごいもん」
「うん」
「ねー、やっぱ姉妹とか兄弟っていうのは音楽的な成功しやすいのかな。結構見るよねー。やっぱ音楽性の一致? もしも姉妹がほんとに似通うならひとつのことを二倍のパワーでやるって感じしない?」
「うん」
「わたしたちもさ、がんばらなきゃだね」
「うん」
興味があるのかないのかみすちーは曖昧な返事をするばかりだった。
壁に立て掛けられたみすちーのギターは無造作に脱ぎ捨てられた衣服たちに覆われてほとんど見えなくなってしまっている。
今年のフェスタの季節はすぐそこまで迫っている。
フェスタが近い。
もうじきフェスタがやってくる。
フェスタがやってくると、みすちーはいつもどうしようもなくだめになってしまう。
その季節が近づくとだんだん何も手につかなくなり、音楽に関することだけではなくて、ご飯を食べたりお風呂に入ったり服を洗ったり、身の回りのことさえ上手にできなくなってしまう。
「ねー。新曲……できた?」
「んー」
「わたし、わたしさ、歌詞さ、つくってみたよ」
「どういうの?」
「え、あ……えーと、えとね……」
「なに?」
「いや、いまここで言うのは恥ずかしいっていうか」
「恥ずかしい歌詞なんだ。えっちなやつだね」
「ふふ。いや、ちがうって。えっちじゃないし」
「そうなの?」
「うん。ほんとにいろいろ考えながら書いてみたんだけど結局アイデアもすごく単純な感じになっちゃった。ずっと同じことを繰り返すぅ……みたいなやつでさ」
「ふむむ」
「でも、でも、もちろん意図はあるんだよ。ほらわたしは山彦でしょ? ルーツっていうかさあ、やっぱこう、繰り返す、ってことには思い入れがあるんだよね。表現として。そういうアイデアはよく見るし、すごく……たぶん他の人よりも、気にしちゃうんだけど、それも愛憎あってね。まあアイデア的には使い古されてるけどパンク・ロック的だしさあ。まあ曲の方向性的にはさ、ギターリフを聞かせる感じで……って、ってそれじゃああれだね、結局みすちー頼りなわけだけど……」
「響子のはじめて書いた歌詞だもん。わたしも音つくるのがんばっちゃおうかな」
「ほんとに? でも、はじめてだし、ほら、書けたっていう事実が嬉しくて、バイアス? バイアスぅ……っていうか、なんか、こう、テンション上がっちゃって、なんかすごくよく見えちゃってるんだけど、ほんとはめっちゃだめかも」
「でも、まー、最終的にはどっちでもいいかな。響子の歌詞がよくてもだめでも」
「ひどくない!?」
「だってわたし響子が歌ってるならなんだっていいのよ。まあ、歌ってなくてもいっか……。響子が元気で生きていてくれればそれでいいよ」
「母親の心境じゃん」
「え、響子にもお母さんがいるんだ?」
「いる、いる、そりゃいるじゃん。いるよ、もう……」
「怒られた?」
「なにが?」
「怒られたこととかあるの?」
「まあ、それはね。それは、たまには、そう……」
「それできれたんだ?」
「いや、きれないよ!」
「うるせえよ、ばばあ、だれが生んでくれってたのんだんだよ、とか言ったんだ響子、ふふ」
「言わないって」
「かわいい」
「なんなのもう……」
フェスタがやってくると、どうしてだろう、みすちーはわたしのことが大好きでたまらなくなる。
なんだかこっちが恥ずかしいくらいわたしのことが好きになって、そのことばかり喋るようになる。
普段はわたしのことをそんなには好きじゃない。
わたしの歌とかつくんないし、わたしのこと好きとか言わない,
そういうの普段のみすちーに言うと、みすちーは、あー、って言う。
あー、そうだっけ。
あー、そうだね。
あー、そう。
あー、そ。
あー、いや、響子がそうしてほしいって言うんなら、するけど?
べつに、そういうのしてほしいってわけじゃないんだけど、ほんとに、ほんとに、そうじゃないけど、でもわたしはいつも心配だよ。
なんだか、みすちーはそのまま消えてなくなってしまいそうだったから。
身の回りのことさえちゃんとできないほどだらしなくなってしまうのもそうだし、わたしのことを急にこんなにかまったりするのだってなんかまるで死期を悟った人間が急に悔悟して周りの人間に懺悔して回ったりするみたいじゃん。
みすちーがわたしのことを好き好き言ったりするのは、みすちーの告解なのだ。
普段はわたしにぜんぜん優しくしないから今さらやっと心が痛いのだろう。
なーむ。
みすちーのことを多少知る人たちはみすちーがこんなふうになってしまうのはフェスタのせいだって言う。
フェスタが近づくとみすちーはそれに向けた高まりやプレッシャーによって少し変になってしまうのだと。
わたしもそう思うときがある。
フェスタが近づくと、みすちーはどうしようもなくなる。わたしのことが大好きでたまらなくなる。
「フェスタのはじまりは紅魔の館で行われた身内向けのパーティーである」
「なに?」
「音楽雑誌に書いてあったよ。フェスタの沿革の話だよ。知ってた? フェスタの始まりは紅魔館で行われたあの吸血鬼の長い長い誕生日パーティーのなかのちょっとした催し物だったんだって。外から高名なバンドを二、三、呼んできて演奏させたの。それがはじまり。その季節になるとこの幻想郷で最もホットなバンドがそこに呼ばれたの。毎年、毎年、有名どころが集まるしそこに話題のバンドも加わるから、いつしかバンドマンたちの間ではそこに呼ばれることがひとつの誉れになったんだ。ギャランティーもよかったらしいしね。そんなふうにしてその誕生日のパーティーの催し物が少しずつ大きくなって外でも話題になるようになって、もともとの誕生日パーティーからは離れて期日も移して日をまたいでやるようになって今のフェスタになったんだって」
「それ前にもみすちーから聞いた気がするけど」
「そうだっけ? でもこの前雑誌で読んだんだよ。そこにはこんなこと書いてあった。『今やフェスタは三日間の巨大な音楽的アーキテクチャである。それは幻想郷中のありとあらゆる音楽好きにとってのアカシックレコードであり、アーティストたちにとってフェスタでの成功はそのままキャリアの成功を意味し、フェスタでの失敗は字義通り致命傷になる。フェスタで成功を収めた多くのバンドはClassicになり、多くのバンドがフェスタを目指し夢を散らし、全てを手に入れたアーティストたちがフェスタの場を最期の場所として選ぶ。フェスタが貴方に忘れられない思い出を残すように、フェスタを通じて貴方が新しい音楽の世界を知るように、フェスタでのたったひとつの演奏が貴方にギターを握らせるように、フェスタは時にアーティストたちの人生を変えてしまう。九十九姉妹のあの奇跡的な31分と今も続く栄光の記録は記憶に真新しい。そう、今年もフェスタが来る !フェスタがやって来る! あなたはもうフェスタのことしか考えられない!』」
「ふーん」
「これって、さいてーだよね?」
「そうかな?」
「たとえばさ、なんだかさ、雑誌のさ、ぺーじ、ぺーじ……ページ。……ページさあ、猥雑なやつだよ。かわいい響子が想像もできないようなやつ。かわいい響子がはぶられるやつね。みんながゆーやつだよ。かわいいきょーこには秘密にしとこうぜって。かわいい、かわいい、響子……。かわいい響子は泣いちゃうでしょ。泣いちゃってお母さんに言いつけて、こう……ねーねーみんながわたしのことをいじめるの、”秘密の花園”ってやつで……それってなあに、って聞いてもかわいい響子はそんなの知らなくていいのよって言われちゃうやつ。響子が泣いちゃうやつだよ。この世界で響子だけが知らないの。みんながかわいい響子に見せずに閉まっておく雑誌……。そこには股を開いた裸の女の子がいて笑ってるんだ。そして横に赤いゴシック体でこんなことが書かれているんだよ。フェスタが来る!フェスタがやって来る!フェスタがやってくれば、あなたはもうフェスタのことしか考えられない! うぇえええ、まじで吐きそう……」
「え、大丈夫?」
「わたしもうだめだよ」
フェスタが近づくと、みすちーはどうしようもなくなる。
でも、本当は、フェスタがこの土地に根付くずっと前から、この季節になればみすちーはいつもこんなふうになってしまっていた。
わたしたちは、昔はそれを雨のせいにしていたと思う。
あーみすちーはこの時期こんなもんだよ、雨がいっぱい降るからじゃない? 気持ちはわかるね。わたしだってなんかこの時期ゆーうつだもん。みすちーなんかは余計さ、きっと思うように気持ちよく空も飛べずにストレス溜まるんじゃないの?
フェスタは誰かの人生を決定的に変えてしまう。
知り合いにはフェスタに行ったことがきっかけでバンドをはじめた子もたくさんいるし、フェスタでの失敗が原因で仲違いし解散したバンドもよく見たし、フェスタでの成功を夢見て全てを失ってしまった人も見た。
『フェスタがやってくればもう貴方はフェスタのことしか思えない!』
あるときフェスタはこの土地にやってきて、雨に塞ぎ込むみすちーの憂鬱を、いつのまにかフェスタ前の神経症に変えてしまった。
でも、ほんとは、みすちーが変わったわけじゃないのかもしれないね。
みんなのほうがいつしかフェスタを通してしかみすちーの憂鬱を眺めることができなくなってしまったというだけで。
とにかく、わたしにわかるのは、フェスタのの季節が近づくとみすちーはどうしようもなくだめになるってことだけ。
ひぃぁあああ、とわたしはまたあくびをしてしまう。
みすちーはわたしに肩寄せたまま、わたしの肩のところで歌ってた。
「きょーこーはなんだかーまるで粉のようー、きょーこはまるーでー、ふくろいっぱいの粉のよー、こむぎこ、はくりき、きょうりきこ? あるいはー、しろーい、ゆきのこなー、はさみで切ったら粉がでるー」
そのまま肩からわたしの膝の上へとしなだれかかる。
空っぽのマグカップがみすちー手から離れて布団を転がった。
少し遠いところでは、ぴし、ぴし、ぴし、ってひび割れるよな音……それは雨の、雨のね、雨の音、雨音……わたしは耳をそばだてながら、みすちーの体温のわたしの膝元に馴染んでいくことを感じて、なんだかいつもこんなふうだな。
みすちーに話そうと思ってずっと考えてたことはいつも結局喋らずに終わってしまう。
今日だって、久しぶりにみすちー会えるからわたしはずっと楽しみにしてて、お寺の修行の合間にも今度みすちーに会ったらこんなこと話そう、こんなこと言ったらみすちーはああ言うかな、とか考えて、ひとりで頭の中のみすちーとたくさん会話して、言いたいこともたくさんあるから今度はそのうちどれを話そうかここに来るまでにいっぱい迷ってたのに……
あーあ。
ねえ、みすちーわたしはやさしいうたが好きだよ。お寺のみんなは、わたしがパンク・ロックなんかやることを引き合いにだして、やっぱ不満も募るんだねえなんて笑うけれど、でも、わたしはやさしいうたが好きなんだよ。やさしさっていつも表現形式には規定されないから、だってたとえば子を叱る親の怒声のなかにもやさしさはあるでしょ、だからわたしがパンクをやるからってぜんぶがぜんぶ体制打破!とかそういうわけじゃないもんね、表現形式にはその表現形式に至るべつの道理があり、表現されるものは単に総体として字義通り"表現されるもの”にすぎない。表現形式はたしかに表現内容を規定するように思えるし、みんなは表現形式によって表意を読み解こうとするけれど、ほんとはそれってまったくべつのものだったらいいなってわたしは思うんだよ。表現形式を着る服で喩えるなら、巫女が巫女服を着るように、ドレス・コードってやつがあって表現形式は立場によって限定されてしまうけど、もしもある表現内容に適した完璧な表現形式があるとするなら、同じことを言う人がみんな同じ服を着るみたいなもので、それってはじめから何も言ってないのとおんなじだよね、とか……新曲の歌詞を書きながらわたしはそういうの考えてみてみすちーだったらなんて言うかなって思って、でもいまは言わないでおいて、みすちーの髪に触れるとみすちーはわたしのことを見上げる……
笑った。
「あ、響子がいる。かわいい」
わたしはわざと苦い顔をしてみせる。
でも、わたしもみすちーのことは好きだよ。
だけどさ、今さらそんなこと言ってみたって、みすちーがまるで冗談のようにあんなにわたしのこと言ったあとじゃなんだかそれも一緒になってふざけているみたいだし、あるいは単なる意趣返しのようでしかなくなっちゃうから、わたしは言えない。この季節にはみすちーのわたしへの愛が大きすぎてわたしの持ってるやつはなんだかちょっとした付属品みたいに思える。
フェスタが風雨に先行するように、みすちーの愛がわたしのこの思いに先行にするように、事物には速度がある。
フェスタは風雨よりもみんなの関心を集めるから、むかし雨に憂鬱だったみすちーの季節はいつのまにかフェスタの季節になってしまうし、みすちーがわたしのことをこんなに好きだとか言うからわたしが言うやつは単にそのおかえしみたいな感じがする。
実際わたしは歩く速度だってあんまりはやくないのだ。
だから歩くときはいつもみんなのいちばん後ろをついて歩くし、山彦として生まれたせいでみんな言ったことを誰かがそう言った後で繰り返して言う癖がついてしまっている。
わたしは表現形式としてパンクを選んだけれど、それはとっても単純なことで、みんなが「おはよう!」って言う前に「おはよう!」って言いたいなってわたしは思うのだ。わたしのいつかみんなに先行したいという思いが、かき鳴らす音楽のBPMの速度を規定して、反体制という形式を選ばせて、わたしは歌うけど、でもわたしいつも朝は眠い。お寺の誰よりもはやく起きるから眠いのだ。境内の掃除とか洗濯とか、やらなきゃいけない雑事がたくさんある。寝ぼけ眼で向こうから歩いてくるのが、聖なのか、星なのか、どのくらいまで近づいたらおはようって言おうかって考えてるうちに、先に向こうが、おはよう! って。
『あ、おはよーございまーす…!』
ほんとは、べー、と心のなかでは舌だって出しちゃうな。
いつかみんなに先行したいっていうわたしの思いがパンク・ロックという表現形式をわたしに選ばせたわけだけど、でも、みすちー、わたしはやさしいうたが好きだよ。表現形式は表意内容を規定しない。みすちーの髪はわたしの指の中で溶け出したりしない。みすちーがわたしに先行したってそうじゃないとしたって、わたしはみすちーのことが好きだよ。
もちろん、そんなことは言えないし言えないから言わずに黙ってみすちーの髪に指を入れて梳いている。
この季節特有のみすちーのだらしない生活が、指先で少し絡んだ。
みすちーは上目遣いでわたしを見上げてた。
「ねえ、響子、わたしさ、響子の膝の上に住みたいなあ。ローン組んで一軒家建ててさあ、4LDK和室つきでね、でも事故物件だからきっと土地は安いよ。地盤に安定性ないし、犬くさいもん」
ふふふふ、とひとりで笑う。
フェスタがやって来ると、みすちーはどうしようもなくなってしまう。
あるいは、わたしのことが大好きでたまらなくなるのだった。
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わたしだって本当にみすちーのことが好きなんだよ。
みすちーの望むことはできるだけしてあげたいな。 ほんとだよ。
全部を愛してるんだもん。
たとえばみすちーがいつも地中海風のあの店で買っては屠る
ロータス・カラメルビスコフの一枚一枚だって好きなんだ。
その口の中で溶け出してざらざらと舌を撫でる触感の。
そのビスケットは内容量が多いでしょ。
それだからみんなはみすちーの部屋の片隅の籠の中の個装のされた
そいつを何気なく手にとっては口の中で溶かして亡くしてしまって。
みんなが帰ったあとで
みすちーの夜にはほとんど残ってないし
わたしだって何も言わずに持ち帰ったりさえするけれど。
みすちーが望むならわたしは
みすちーのロータス・カラメルビスコフを一枚だって
誰にも奪われないよう全部守ってあげる。
人間の里にある全部の小洒落た雑貨屋に押し入って。
輸入品のお菓子が並べられたコーナーで
すべてのロータス・カラメルビスコフを占拠したら。
買い物かごいっぱいのビスケットと夜。
みすちーの小さな家の鍵穴にはわたしの二本の鉄製の細い爪。
(そうだよ。それは実際わたしの身体の延長だったんだよ。
みすちーのアパートの鍵をこじ開けるっていう機能付きのさあ……!)
それを鍵穴に差し込んで。
穴の奥で。
音を立てて。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱち。
ぱち。
ぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
「あ。」
ぱちん……
押し開けたみすちーの玄関から部屋の中に。
忍びこんで。
籠の中のビスケットの一群の失われた空隙に新しいそれをそっと差し込んで補充するの。
朝になるたびになくなったはずのビスケットが蘇る!
まるでゾンビーみたいに。
ちょっとした悪夢みたいに。
何度も何度も何度も何度も何度も。
蘇る。
悪夢を見せてあげたいな
みすちーに。
暗い夜じゃなくて 朝に。
わたしはみすちーの悪夢にだってなりたいんだよ。
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ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
嵐は未だ続いている。
立て付けの悪い窓が激しい風に耐えかねて、きいきいと震えている。
この森のみすちーの小さな家は空き家だった場所をいつかみすちーが見つけて勝手に移り住み屋台の常連さんの河童かなにかに詳しいやつがいたから直してもらって今は住んでいるとみすちーが前に言っていたと思う。
傾ぐ家、とみすちーは言ってた。
それは屋台のことを動く家と言うからだったけれど、たしかにその小さな家は玄関のほうに向かって少し傾き、部屋に入ると丸いものとかころころころころころ転がるのでそれがもっとよくわかる。わたしが好きでよく読んでる雑誌『人と生きる妖怪のための節約生活』のvol.19の大見出しが、『素敵な家をつくろう!』なこのハンドメイド超時代に傾いた家なんてたいして珍しくもないけれど、わたしのまた別の好きな本に空き家を見つけてふたりで住み着いて映画とか見ながらだらだら暮らす妖怪たちの話がありわたしはそれに憧れたりもしたから、そういうのもあってわたしはその家のことが好きだったけれど、みすちーは別に思い入れはないみたいで、てか今度一緒に別のところに移り住もうよみたいなこと言って、あ、いいよね、バンドで成功したら豪邸とか建てちゃってさあ、あ、あ、でも二人で小さな家つくってそこに暮らすみたいなのもわたしそれはそれで好きだな、って言えば、みすちーはため息。未来の話はいいのよ、わたしたちは妖怪なんだからそのへんで寝ればいいじゃん、別にここにふたりで住んでもいいけど、そうやって響子は結論を先延ばしにするよねえ、お寺に入ってるのとか、禁欲? わたしのこと愛さないようにいろいろ努力してるわけ?って……。
わたしはみすちーのこと好きだけど、わたしはみすちーの望むことをなんでもしてあげたいけど、ほんとにそうしたらわたしはみすちーみたいにいろいろできるわけじゃないしタフでもないからその日暮らしの生活なんかしたらきっとそのまま死んでしまうな。
なーむ。
いや、まあ、そんなのはどうだっていいんだけどさ。
締めたはずの窓の隙間から鋭い空気が入り込み、少し飛沫いてる。
外では雪が降っていた、ってわたしは思い出す。
でも、それはこうして窓ガラスに打ちつけるその音を聞く限りは雨のようだった。
そうだった、それは、雨だったんだ。
外では雨が降っていた。
ここは冷えている。
なんだか眠くなる。
みすちーが言った。
「ねえ、今日はいつまでいれるの?」
「そんなにはいれないよ」
「なんで」
「明日も朝からお寺の修行とかあるし」
「だめだよ」
「だめじゃないって」
「いつもだって来るの大変なんだよ」
「大変じゃないー」
「なんでみすちーがわかるのさ」
「わたしは響子のことが好きだから響子のことはなんでもわかる」
「わたしもみすちーのために努力してるよ。今日も来るの大変だったもん」
「それも知ってるわ」
「嘘。今日は来るの簡単だった」
「はー?」
「今日は不思議な日だったの」
今日は不思議とみんなの機嫌がとてもよい日だった。
聖は簡単に外出を許してくれたし一輪がお酒を飲んでたのを見かけても怒らなかった。そもそも一輪なんかはお酒だっていつも隠れて飲んでるのに今日は明らかに上機嫌で境内に座って酒盛りしてたし村紗もお風呂場でおもちゃの船を浮かべては沈めてひとりでにへらにへらと笑ってた。星は何もかもをなくしまくるしみんながはえーそれもねえなどと驚いてるところについでもっとずっとたくさんの何もかもをすでになくしまくっていることを言葉を発することによって明らかにしてナズーリンは星と一緒にそれをひとつ残らず探しに行っても怒らない。いつもなんかいらいらふらふらしてる女苑だってわざわざ修行に顔を出して誰彼かまわずみんなを捕まえてはこんなこと語っていたし「わたし日記をつけはじめたのよ。日記ぃ……っていうか家計簿か。この前拾ったの。悪いとは思ったけど悪気もなくそれ見てたらその人のことなんも知らないけどぜんぶがわかる気がした。なににはまっててどんな食べ物が好きでどんな女がいてしっかりしてるんだろうけど自分に甘いんだなとか。それがおもしろくてねわたしもつけてみようと思ってつけてもう二週間もやってるよ。それで姉さんにもさあ、つけろよって言ってつけさせてさあ、姉さん馬鹿だからさあ、いやわたしそもそもお金ないし……みたいなこと言ってさあ、いやいや逆じゃん! 家計簿つけないからお金とかたまんないじゃん、ねえ? それであとでちゃんと姉さんがつけてんのかチェックしに行ってさ、まあつけてたんだけど、あんな姉さんでもまったく金入ってこないなんてことないのよ。入ったらすぐに使ってなくなって。出たり入ったり出たり入ったり出たり入ったり……それ見て……ちょっと考えて……あーつまりねわたしとおんなじなのよ。スケール感がちがうだけでさ。わたしも入った金とかすぐ入るからと思ってすぐ全部使っちゃうね。それ見て……ちょっとばかし考えてね……つまり家計簿ってバイオリズムなんだわ。それが生命のリズムなのよ。わたしたちって姉妹だから同じ血と同じタンパク質でできてるからやっぱに似るんだなあって思って姉さんに言ったら、姉さんはこんなこと言ってた。出たり入ったりするのはみんなそうじゃん……って。その意味わたし考えてみて、みんながみんな同じ生命のリズムで生きてるから似てるのよ、全人類がみんなね。それなら。全人類姉妹じゃん。うちは家計簿とかつけてんの? 絶対つけたほうがいいって。坊主とかみんな生臭なんだから、あいつみんなに節制!みたいなこと言っててほんとはなんに金使ってんのかわかったもんじゃないわよ。わたし生まれはロサンゼルスだけど向こうじゃみんな家計簿つけてたよ。あんたはつけてるの? いまどき家計簿とかつけてないのまじだっせえって……」そういや、さとり妖怪のあの子約束守ってたことなんかなかったけど今日はちゃんと約束の時間に現れて言ってた。「はろー」。そういうわけで今日の命蓮寺はいつも修行してないやつばかり修行に回っていつものメンツはサボりに回るという具合でそれはそれでどうだろうと思ったけれど、とにかく今日はお寺のみんなだけじゃなくて会う人会う人みんながすごく上機嫌で楽しそうだったし参拝のお客さんも募金とか賽銭とかずいぶんしていたみたいだし托鉢に回ってもいろんなものがもらえた。
そういう日はある。
誰かになにかいいことがあってとっても上機嫌になって、その気分によってやさしくなったり普段なら恥ずかしくてできいようなことをするからそれがまた周りの人に移って、その人もまた別の人に出会って、それがまた別の出会った人、別の人、別の人、人……というように、よい気分がまるで歯車がかちっとはまるみたいに噛み合って伝播して人と人の間でくるくると回るような日が。
だから今日はみすちーもとてもいい気分でいると思ったけれど。
たしかに今日のみすちーはいつもとちがう不思議なテンションだったけど、でも、それは単にフェスタのせいなので。
フェスタの季節にはみすちーはどうしようもなくなってしまう。
たとえ他のみんなが一人残らず上機嫌なこんな日にさえ。
「じゃあ、いいじゃない。今日は帰らなくても怒られないよ」
「きっと明日になったらまたいつもの日々が戻るよ」
「いつも日だって遅くまでうちにいていいのよ」
「だめだよ」
「どうして」
「朝早く起きてやることたくさんあるもの」
「たとえば、なに?」
「境内の掃除とか」
「はあ、お寺なんかさあ……やめちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかないんだって。わたしは立派な妖怪になるんだよ」
「響子は立派な妖怪になんかなれないよ」
「なんで」
「だって、響子ってもうそこそこまっとうじゃん。神様や聖人は真面目な人間を愛さないものだよ、家なき子や悪人たちと比べてね」
「どうして?」
「同族嫌悪だよ。生態系のなかでニッチを獲得するための衝動よ。生命体ならみんなするでしょ」
「聖はそんなことしないよ」
「はー。むかつく」
「でもみすちーはわたしに会うとかどうでもいいんじゃないっけ?」
「そうだけど、でも響子はわたしにいつでも会いたいでしょ? わたしは響子のことが大好きだから響子の願いができるだけ叶ったらいいなって思ってるんだよ」
「わ、わたしだって……みすちーに会いたくないみたいな日はある……かも」
「そうなの? それは寂しいな、わたしはいつでも響子と一緒にいたいのに」
さみしい、さみしい、さみしい、と呟きながら、みすちーが腕を伸ばして腰のあたりにまとわりついてくるので、引っ剥がして、わたしは立ち上がり、みすちーのギターのところまで歩いて取った。集まった衣類たちが外灯に集った蛾のようにいっせいに舞う。洗剤を水に溶かした霧吹きを吹きかけたみたいに、ぼた、ぼた、ぼた、と力なく羽ばたいて落ちていくのだ。ギターを持って戻ると、みすちーは布団のなか、座り込んで、包まって、遠い目で見つめてた。わたしはみすちーの隣にギターをそっと置いて、ほら練習しようよ、そろそろちゃんとやんないと……って、言った。
みすちーは肯いた。
「そうね。フェスタも近いしね」
「うん」
「あー、でも、困ったな……」
「なぁに?」
みすちーはギターを取り上げてみせて、ちょっと微笑んだ。
わたし、コードをぜんぶ落としちゃったの。響子のことが大好きでね、響子のことばっか考えてたら、ギターの弾き方を忘れちゃった。
それからギターを構えて、おぼつかない指先で弦を押さえて、右手を振った。
じぃいいん、と奇妙な音が鳴った。
笑った。
「ほらね」
わたしはため息。
「もう、またそんなこと言ってさ」
「ほんとだよ。てか響子のせいだよ。響子がこんなにわたしに大好きにさせるから」
「じゃあ、わたしが全部教えてあげるから。それなら、いいでしょ?」
「やったー。好きな子にギターの弾き方を教えてもらうシチュエーションとかなんだかとってもいいよね。えへへ。忘れて得したね」
「ばっかじゃないの」
でも、驚くべきことに、みすちーは本当にギターの弾き方を忘れていた。
コードを押さえる手の形も、弦を爪弾く指の形も、なにひとつみすちーのなかにたしかな形として残ってはいなかった。
かたないから、わたしはひとつずつ教えるしかなかった。
みすちーの背中の方から腕を差し込んで、わたしはみすちーの手に手を重ねて、コードを形作り、それがみすちーの記憶のどこかにある形にぴったりと当てはまるように少しずつ指を動かしながら、探した。
「ほら、これがFコード、思い出す?」
「んー。なんかしっくりこないわ。間違ってるんじゃない?」
「間違ってないもん」
「いや、絶対ちがうって。あ、わかった、響子もほんとはあんまりよくわからずに弾いてるんだ!」
「ああ、いた、いたい。ごめん、ごめんって。てか、こんなの無理だって」
「つい昔までできたんだよ?」
「いや、そんなの……ああ、だめ、だめ。っていうか、わたしって、こう見えてもけっこう理論派だから、もっとコード理論の起源からその発展まで体系的に論理的に学術的に教えてほしいわ」
「文句言わない。そもそも昔もそんなの知らなかったじゃん」
「あ、もしかしてFコードって響子が発明したの?」
「ちがうよ」
「わたしの響子が好きだから響子のやつが覚えたい」
「わたしのコードとかないよ」
「じゃあ響子の曲とかやりたい」
「わたし曲とか作れないもん」
「ふふ、ほんとに? じゃあまた作ってから教えに来てね。さよなら」
「ばか」
「いた、いたい、いた、いた……指、ゆびぃ……引っ張らないで」
「指を引っ張って関節を伸ばせば弦が抑えやすくなるよ」
「そんなあほなの誰が言ってたの」
「みすちーじゃん」
「いたいいたいいた、あれ嘘だって!」
「知ってるよ」
それでも、少しやれば、わたしよりもずっと上手に弾けるようになる。
そもそもちょっと前までちゃんとできたことなのだ。
コードをひとつ思い出してしまえば、連想して、すぐに全部が出揃う。
「すごくない? わたしって天才だわ。いや、ちがうな。あたいったら、天才ね」
「はいはい」
でも、みすちーはギターの弾き方を思い出したことですっかり満足してしまったようで、それからは例のわたしに関するしょうもない歌(わたしがまるで粉だとか貨幣制度がどうとかすべての飼われる犬がわたしならどうだとかわたしがペットショップにいて値段をついてるからこうだとかシャングリ・ラを探して旅してたら結局わたしのそばがそれだったとか)ばかり、ぽろぽろと弾いて歌って、それはもう練習どころではなかった。
なんだか眠いな……。
あくび、メロディーライン、少し遠いところでは水飛沫。
みすちーはギターを弾いてた。歌っていた。
わたしの知らないコード進行、溶けるような不協和音、どこから拾ってきたのかも知らないそれを並べては奏でて、みすちーはすぐに忘れてしまう。
たとえばこんな雨降りの季節にはみすちーは覚えたコードをまるきり落としてしまうから、フェスタやライブのために用意するみすちーの音楽はすべてわたしの覚えておけるやつばっかりだった。
みんなが知らないことで、たぶん知る必要もないことだったんだろうが、わたしと出会う前、みすちーの歌う曲はいつでも全部即興だったのだ。
みすちーには特別な音楽の才能があったようにわたしには思えるけれど、みんながそれをよく知らないのは、みすちーには再演性がちっともなかったからじゃないだろうか。大好きな曲は何度も聞く。何度も歌う。そうして覚える。記憶のなかで大切な位置をしめる。それがやがてClassicになる。たとえ誰かがみすちーの曲で大好きになるものがあったとして、それをみすちーはもう二度と歌うことができない。そしてそのうちにそんな曲があったことさえ忘れてしまう。
その意味で、今のわたしはみすちーの楽譜のようなものだけれど、みすちーの歌をすべて記すには、わたしという楽譜の適用範囲はあまりにも狭すぎて、それにすでにごちゃごちゃといろんな別のもので溢れて余白がない。たとえわたしがみすちーの歌をうたっても同じようにはできない。わたしの覚えることのできるやつは、わたしの理解することのできる、覚えることのできる、単純な構造のものだけだった。こんな日にみすちーの口ずさむたくさんのその歌を、あとになって、わたしは歌えない。それはもちろんみすちーにしてもおんなじことだ。
そのことを、みすちーは、いいんだよわたしの歌はぜんぶ響子の聞いてもらうためだけの歌だもん、とか言う?
わたしは寂しい。悲しい。みすちーの複雑な音楽をちゃんとわたしが記憶して再演奏できるのならバンドとしてもっとよいパフォーマンスができるんだろう。フェスタでだって有名になれるかもしれない。みすちーはわたしのために、わたしたちのバンドの音楽をわたしにも歌うことのできる演奏するのことできる単純なもののみに留める。みすちーは本当はバンドのこともフェスタのこともどうだっていいいんじゃないかって思うときがある。みすちーは、いま、今日のことにしか興味がない。
わたしは、明日は、って思うよ。
明日はきっともっと難しいリフを弾けるようになりたいし、明日も明後日も明明後日もみすちーに会いたいって思う。
Recordになれないみすちーの音楽……。
再演性のないみすちーとの今日にわたしはみすちーほどに浸りこむことができない。
なんだかみすちーは消えてしまうそうだっていつもわたしは思ってるから。
外では雨が降っている。
たとえばその雨の中をみすちーとわたしが歩いていたとしたらどうだろう。
わたしはみすちーの少し後ろを歩いている。雨は地を濡らし、黒く色づける。みすちーは黒く濁った地のなかから雨粒を拾い上げることができる。あるいは、それを音に変えることができる。そして、三歩歩いてそれを捨ててしまう。わたしはそれをまた拾い上げようとして見つけることができない。わたしにとっては水溜まりに浮かんだ水はすべてが水で、そこから雨粒を見分けることがもうできない。わたしがみんなの後を着いて歩き、言ったことを繰り返してしまうばかりなのは単なる精神の傾向性の問題だけれど、わたしがみすちーの後ろを歩くのにはたしかな理由がある。
だけど、たとえみすちーの落としたコードをひとつひとつ拾い集めても、みすちーの歌になるわけじゃない。
みすちーは歌っている。
「あぁああーーきょーこーはなんだかーまるで粉のようー、きょーこはまるーでー、ふくろいっぱいの粉のよぉー」
それは、わたしの知らないかたちのコード、わたしの知らないわたしのこと。
だから、きっとわたしはすぐに忘れてしまうんだろう。
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みすちーの歌うこと。
喋ること。
思考すること。
それらにちっとも再演性がないことはまるで雪のようだった。
雪の日みたいだった。
みすちーはわたしに歌ったこと喋ったこと 考えたことを
すぐに忘れてしまう。
そこには微妙な何重の層的な因果がある。
みすちーが鳥の妖怪であること。
風雨。 フェスタ。
みすちーの粗雑なローテク風の態度。
妖怪は存在が出自に深く結びつき来歴とそのイメージによって性質が固着してしまうから
鳥の妖怪として生まれたみすちーは記憶力においても鳥のようだった。
鳥が本当に鳥頭って言われるみたいに何でも簡単に忘れてしまうのかとか
そんなんはもうわたしはぜんぜん知らんけど
人間たちの想像力によって形づくられた妖怪のみすちーはそのイメージを引き継ぎ
やっぱり物事を簡単に忘れてしまう。
それにそもそもみすちーはみすちーの個人的な性質として思いつきのてきとーを言いがちだし
風雨/フェスタの季節が近付けばその傾向はよりひどくなる。
だからみすちーの音楽や思考や発声はすべてが雪のようで
それは記憶としてみすちーのなかに積もるんだろうけど(あるいは地面に落ちた途端に
その熱によってすぐに溶けてしまうのかも)
積もったところで
いつか溶けてなくなってしまう。
みすちーの頭のなかには雪が降っている
ってわたしは思う。
みすちーは喋り また 喋り
喋り 喋ることによって
喋ったそのことを喋ったその次の日には忘れてしまう。 ときがある。
まるで雪の上の足跡が
降り積もる雪によって覆われて見えなくなってしまうみたいに。
みすちーの言葉は
また別のみすちーの言葉によって
覆い隠されて見えなくなり 辿って来た道さえわからなくなってしまう。
その意味で みすちーは今も深い雪の積もる山の中にひとりでいて 残してきた足跡も
行く先の道標も 見えず 今日 今日 今日のことだけを
歌う。
そこでは雪が降っている。。。
(そうかな?)
「たぶん そう。」
「やっぱ ちがうかも。」
そういえばみすちーが自分について話してるのをわたしはあんまり聞いたことがない。
屋台でもみすちーは人の話を聞いて肯いたり相槌をうったり
他愛のない 世間話やよくわからないことなら いくらでも喋るけど
みすちー自身のことについて何かを言うことはほとんどない。
(ねえ。だって
わたしの聞いたみすちーの歌は
全部がわたしのことを歌ったものだったよ。)
ここには閉じられた再帰的な証明があってみすちーが自分の思い出について語らないことが
みすちーが自分の思い出を語れないことを裏付けている。
それはたとえば重力と肯くことの間にも言える論理的不十分の証明で
たとえばわたしたちは重力を肯定しようと思ったそのときに肯くのだけれど
首を振るという動作が頭蓋の重さによって首が上から下へと垂れ下がることから成っているように
肯くことは重力に支えられている。
だから重力は正しい力であり
正しい力によって
みすちーの頭の中で雪は降る。
あるいは
この星のわたしたちに平等な力によって
わたしはみすちーの言うことに肯くことができるのかもしれない。
「あ。雪。 雪が降ってるよ!」
それを そうだよ。 って 言うことかできる。
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「は? え、ね、もぉ、帰る、の」
って、みすちーは、言った。
しばらく経ったあとで。
「じゃないよ……」
逆回せば、小さな疼きがある。
喉の奥に。
さっき入れてもうぬるくなってしまったコーヒーを押し流しても、妙に苦いばかりで、余計に乾くし張りつくしで、雨降りの日はどうしてだろうかえってなんだか喉も渇くしなあとか考えて、みすちーを見ると、やっぱり歌っていて、よくもまああれだけ歌い続けられるものだと思って見ていると、みすちーはわたしを見て笑った。アンコール? わたしは、べー、って舌を出す。
やっぱ喉のつくりとかそのへんがちがうのかな、叫ぶことならわたしにも分があるからそれは機能構造の問題なんだろうな、とか、わたしも隣でいっしょに歌おうか、いややっぱりそんなのすごくばかっぽくてやだなあ、水でも飲もっかな歌えばきっと乾くだろうからみすちーのぶんもまた持っていってあげようって思って、立つと、もう帰るの、とみすちーは咎めるような口調で言うんだった。
「そうじゃないよ。水でも飲もうって思って」
「だめ、だめ、だめ」
「だめじゃないよ」
「だめだってば~~~」
でも、わたしは水を飲む。
わたしがシンクのとこで水を飲んでいると、水を飲んでいるわたしのところにみすちーがやってきて、わたしが水を飲んでいるのを見てた。
なんだか気まずく思ってわたしは水を飲むのをやめて、なぁに、とみすちーを見ると、みすちーは言った。
「遊びに行こうよ」
「え、どこに?」
「どこがいい?」
「もう時間も遅いし、それに雨だってすごく降ってるよ」
「だめなの?」
「だめ……とかじゃないけど。雨」
「傘差してけばいいよ」
「どこに行くの?」
「どこ行きたい?」
「どこ……うーん」
「人里は?」
「こんな天気だと人も来ないし店とか閉まってると思うな」
「じゃあ、どこ?」
「みすちーの行きたいところでいいんじゃない?」
「わたしはどこでもいいよ。わたしは響子のことが好きだから響子の行きたいところに行きたいな」
「わたしも特にないけど……」
「たまには響子もアイデア出してよ。こうゆうときいつもわたしばっか決めてるもん」
「じゃあ、公園……とか」
「公園? ふふ、公園、公園って、公園なんか存在しないわ」
「公園はあるじゃん」
「ない、ない、ないって。ないから、どこ?」
「えー? わかんないよ。わたし、いつもお寺の修行ばっかで遊びに行くとかあんまないし……」
「じゃあランドリーでいっか」
「ランドリー?」
「コインランドリー」
「こんな天気なのに?」
「そうだよ。わたしずいぶん洗濯物たまっちゃってさ、それだって響子のせいだよ、響子のこと考えてたら洗濯も手に着かないって具合でね、だからたまるんだけど、いまは響子もいるし、今日のうちに全部洗濯しちゃいたいなって思うの、ごめんね、一緒にきてもらっていい?」
「べつにいいけど」
「やったーありがとね。あ、でも、そもそもは響子のせいなんだからね?」
「はいはい」
それで、わたしたちはコインランドリーに行くことになった。
コインランドリーはこの幻想郷に各地に全部で八箇所、たとえばみすちーの家からいちばん近いところなら、妖精たちの住む森の奥にひとつある。それらは河童たちの手によって建設され、そのサービスは、この地に住むものすべて、それが妖怪でも人間でも妖精でもどんな種族に対しても無料で提供されている。
そもそもコインランドリーの発生と歴史は、住宅用洗剤/アーケードゲーム間の短い戦いの物語に深く結びついていると言われている。
その物語は竹林の病院に住む月の兎たちが発明した住宅用洗剤からはじまる。
それがどのような理由によって発明するに至ったかということはわたしには知るよしもないけれど、想像してみるに、やってくる患者たちの衛生環境を気にしたとかあるいはもっと単純にそこで働く兎たちがまいにちの洗濯の面倒さに不平不満を漏らしてわーわーと喚いた結果とかそんなところだろう。とにかく住宅用洗剤というのは穢れを落とすためのものなのだ。話によれば月の人々は穢れというものを恐れるらしいし、月のお医者さんはどんな薬だってつくることができるようだから、服の汚れを簡単に落とすことのできる薬くらい簡単に発明することができたんだろう。そうして発明された住宅用洗剤はすぐにこの幻想郷中に広まった。すごく便利だったから。わたしもよく使った。お寺のみんなの服を洗濯するのはわたしの仕事だったから、ずいぶん助けられたものだった。今までは洗濯板を衣服にこすりあわせて時間をかけてごしごしと汚れを落としていたのが、洗剤につけておいてから洗い始めるとものの数十秒で綺麗になってしまう。だからみんな使った。それはそれでよかったのだけれど、やっぱりこういうよかったよかったの話になると、それではよくない人たちもでてきて、それが河童たちだった。河童たちは、洗剤のせいで水が汚れる、と言うのだった。わたしなんかはあの洗剤のおかげであんなに服が綺麗になってしまうんだから、水だって綺麗になるんじゃないかって思うのだけれど、どうもそういうわけにはいかないみたいで、水質とかその手の問題らしい。ぬえのやつなんかは河童たちは心が汚いから洗剤のせいで浄化されてしまうから痛いんだよ、と言っていて聖に頭を叩かれた。なーむ。とはいっても、河童たちが洗剤に対してあれこれ文句をつけたところで、それはすでにみんなに広まってしまっているし、いまさら洗剤なしで洗濯もなあ……という感じで、事態はいっこうに変わらないのだった。
それで河童たちはどうしたか。
憂さ晴らしすることにしたのである。
具体的にはゲームをつくった。『ムーン・インベーダー』と河童たちの間で呼ばれていたそのシューティング・ゲームは、今ではみんな人里で遊ぶことのできるあのアーケード・ゲームの元祖的な存在だけれど、当時は河童たちの間でだけ遊ばれていたという。グラフィックも今のものに比べたらすごくシンプルで、ゲーム性だって、画面の奥に並んだ敵キャラが飛ばしてくるまっすぐにしか飛ばない弾を水平方向にしか動けない自機でよけながらのろい弾を飛ばして画面奥の敵に当てるという単純なものだった。ただ、敵のキャラクターはすべてのあの月人たちと兎たちということになっていて、それをひたすらやっつけ続けることで、河童たちは川を汚す洗剤に対する怒りを発散していたのだ。そして、やっぱりその詳しい経緯はわたしにはよくわからないけれど、あるとき河童の知り合いの誰かがそれを見つけてためしに遊んでみたところ、これはとてもおもしろいぜひともみんなにもやってもらおうよ、ということになって、『ムーン・インベーダー1』が人里にも設置された。それは人里のみんな休憩場所や待ち合わせに使う甘味処に置かれて、里の人々やあるいは紛れ込んだ妖怪たちや妖精たちの暇つぶしとして、そこそこ流行った。
その流行に気をよくしたのかいい儲け話だと思ったのか知らないけど、河童たちはその改良版というか続編というか、とにかく新しいヴァージョンを開発した。
もちろん、それこそが、わたしたちのよく知る『ムーン・インベーダー2』である。
それはものすごく流行った。みんなやってた。どこにでもあった。一輪なんかは大好きなお酒を手に入れるために聖からずっと隠しておいたコインをすべてそのゲームに注ぎ込んだ。すぐに飽きちゃったけど、実はわたしもちょっとやった。それは、人里にも妖精たちの森の中にも霧の湖のそばにも守矢神社の境内にも地獄にも天界にも光の差さない地底の奥にも、この地のどこにだって偏在し、誰も触れない夜には暗闇のなかで唯一ぴこぴこと光ってプレイヤーがやってくるのを待っていた。こんなふうに鳴りながら……。
コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね、コインをいれてね……。
そうだ、コイン。
あの頃のみんなにとってそれはとても大切なものだった。みんなは袋いっぱいにコインをつめてその『ムーン・インベーダー2』のもとに集った。その頃、コインには、ゲームを一回プレイする、という以上に重要な役割があった。『ムーン・インベーダー2』は『ムーン・インベーダー1』のあらゆる意味で改良版であり、そのゲーム性においても大きな進化がある。たとえば、初代『ムーン・インベーダー』では自機は横に動くだけで敵の弾もまっすぐ飛ぶだけだったけれど、それが2になると、自機は画面中どこでも動くことができるようになっていたし、敵もいたるところから現れて多種多様な弾幕を飛ばすようになった。画面は常に前方向に向かって前進し、その歩みの先にはボスがいた。『ムーン・インベーダー2』には進行があり、つまりそれは物語があるということだった。物語は単にゲーム性に留まらず、テキストの形でもわたしたちに提示された。その内容自体は初代にあったものと大きな変化はない。それはつまり正義の河童たちが川を汚す月の兎やお医者さんたちをやっつけていくという物語である。河童たちは月の刺客をつぎつぎと懲らしめながら、その間にだんだんと月の地球に対する悪しき陰謀も明らかになってきて最後には河童たちが月まで行ってそれを滅ぼしということになっている。らしい。
らしいっていうのは、最終ステージまで辿りつけた子がわたしの周りに誰もいなかったので、それが本当のシナリオなのかどうなのかか実はわたしにはわからないのだ。このゲームはステージを進むごとに難易度が冪乗的に増えていくんだけれど、それに加えてそもそも開始時に選択する難易度がいちばん難しいやつじゃないと最後のストーリーが見れないようになっていた。いちばん難しい難易度に関しては、わたしのまわりでは一面ですらクリアできた人はいなかった。だからかえってみんなはその秘匿されたストーリーをなんとかして見ようとした。そうすると、必然的にコインが必要になるのだった。この『ムーン・インベーダー2』の初代になかった追加要素として、コンティニューがある。ふつーは自機がやられちゃうと最初からやり直しになるんだけれど、コインいっこ入れることで、そのステージからもう一度遊ぶことができたのだ。だから、コインは、それを最後までクリアしたかったみんなにとって、とても大切なものだった。
とにかく、そんなふうにして、『ムーン・インベーダー2』は子どもから大人まで妖精から吸血鬼までみんなが繰り返しコンティニューしてやまないゲームになったのだけれど、すると、ここで河童と住宅用洗剤の対立が再び浮上してくる。というのも、みんなは『ムーン・インベーダー2』を愛して幾度もコンティニューしてやったので、何度も繰り替えし再生されたそのシナリオは、いつしかみんなにとって自分のシナリオのようになってしまった。月からやってきたあの住民たちは川を汚し地球を滅ぼそうとする悪しき侵略者であり、川を守ろうとする河童たちの主張は本当は正しかったんだと信じ込んだ。もちろんそれは単なるフィクションで、あるいは物事の一面で、月からやってきたあの人たちが侵略者だっていうのはまったくの事実無根だったんだけれど、当時のわたしたちはそれくらいあのゲームに熱中してしまっていたのだ。
それからの経緯はやっぱりわたしにはわからないけれど、あの月人と河童たちの(架空の)宇宙戦争は最終的に、コインランドリーを建設する、という形で収まったのだと思う。アイディアと資金的な援助は月の住民から。技術的課題の解決はもちろん多くを河童たちが担っている。コインランドリーの主要な部分、つまりそれはあの洗濯機械たちのことだけれど――は月の生活器具を雛形にして作られているという。効率的に穢れを払うために月の民が発明した最適化された魔術――回転運動は河童たちの技術によって大きな箱型の機械に落とし込まれ、そして、人々は、四角い機械に洗濯物を放り込むだけで、洗剤を使わなくても、時間をかけて水に浸した衣類を一枚一枚こすらなくても、服の汚れを綺麗に洗い上げることができるようになった。
今ではこの幻想郷には17のコインランドリーがあり、それらすべては月人の資金的な支援と河童たちの定期的な整備によって維持されて、この土地に住む全ての人々が無料で利用できるようになっている。
にも関わらずそれがコインランドリーと呼ばれているのには、やはり月人と河童たちの間の本当は起こりもしなかった小さな戦争に由縁がある。つまりはこの土地の誰もが一度はやったことのある『ムーン・インベーダー2』とそのゲーム・システムに。つまり、それは、コインランドリーの存在を宣伝するために各地に配られたビラや天狗新聞の記事やちんどん屋さんの言葉たちの中でも必ず一緒に謳われていたその文句にもあったように『貴方の衣類がまるでコインいっこのように簡単にコンティニュー!』ということなのだ。
それにしても彼らの月からの住人の寛容さと忍耐の強さには驚くべきものがある。彼らは悪意によって事を起こしたわけじゃないのだし、にも関わらず、最終的には河童たちの融和に大きく譲歩している。実際、月からの住人たちの度量には河童側からも敬を表して、この幻想郷のある17つのコインランドリーには月の海の名前が付けられている。
だから、みすちーの家から『静かの海』までは、歩けば、ほんの二十分くらい。
で、すぐ着く。
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『ムーン・インベーダー2』を一度だけわたしがプレイしたときの話。
ある夜にわたしはお寺を抜け出してぬえと子傘の三人で
命蓮寺のそばの森の中でそのゲームをやった。
森には土を固めて舗装された道があった。 それを辿って少し行く先に三叉路があって
そこにそのゲームの筐体はあるという話だった。
わたしたちはそこを目指して三人で歩いていた。
深い夜のことだった。
曇り空の夜だったっけ。
月は厚い雲に覆い隠されて森の中は暗闇だった。
かすかな風に木々の葉のこすれて揺れる小さな音が聞こえた。
はさはさはさはさ。
はさはさ。
はさはさはさはさ。
って。
懐中電灯はぬえが持っていたと思う。 意気揚々と一番前を早足に歩く小傘と
少し後ろから着いて懐中電灯の明かりで少し前の道を照らして歩くぬえ。
わたしはいちばん後ろから追いかけてた。
お寺を抜け出してきたってこともあったから。
みんなどこか緊張してた
がさがさ。
って小さな動物たち茂みを揺らす音にさえ ぴくり。 と震えた。
小傘が言うことのにぬえが答えた。
「あ。たぬきかな……?」
「まさか。」
「じゃあ。なんなのさ?」
「さあねえ。」
「てか。まだたどり着かないのかな。」
「小傘って暗いとか怖いわけ?」
「なんで。わちきは妖怪だよ。」
「みんなそうじゃん。ねえ響子。」 「うん 。 。」
わたしたちはなんだか奇妙に浮き足立って
噂に聞くゲームのことを
ああでもないこうでもないとか話し合いながら歩き続けた。
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やがて遠いところから音が聞こえてきた。
ぴこぴこ。
ぴこ。
ぴこ。。 ぴこぴこぴこ。。 。
ぴこ。
ぴこぴこぴこぴこぴこぴこぴこ。
ぴこぴこ。。 。
閑静な夜の森に妙に響く電子音。
近づくにつれて少しずつ電子音が声に変わっていった。
ぴこぴこ。
ぴこ。。 。
ぴこ。 ぴこぴ こいんを。
ぴこ。 。 こいんを。 こいんを。
いれてね。
コインを。 いれてね。
コインをいれてね。
コインをいれてね。。 。 。
コインをいれてね。
コインをいれてね。 コインをいれてね。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれて
ね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。。 。 。
わたしたちは見つけた。
白 色 の
四 角 形
の 灯 り
暗闇の中でそこだけが
別の世界に通じる扉のように明るく光ってた。
わたしたちはすぐに駆け出した。
そこに『ムーン・インベーダー2』はあったのだ。
まるで近未来の案内看板のようにそいつは Y字になった三叉路の真ん中にぽつんと立っていた。
闇に画面が光り
筐体が夜露に少し濡れていた。
小傘が言った。
「なんでこんなところに。」
わたしが応えた。
「森にいる妖怪にもやって欲しいんじゃないかな?」
「とにかくやろうよ。」
ちりん。
ぬえが最初にコインをいれた。
すぐに画面が切り替わる。
画面の奥側にはカクカクした描写の月の兎たち。
手前に機械みたいなのに乗った河童が現れる。
(その頃のわたしたちは知らなかったけど難易度選択はコインを入れる前にしなきゃいけないらしかった。)svegliando
やがて画面の奥の方から弾幕が花びらのように広がって飛んでくる。
ぬえがスティックで操作する河童はすぐに弾にぶつかって破裂してしまった。
残機が減る。
また河童が画面に現れる。 弾にぶつかる。 残機が減る。
河童が現れる。
破裂する。 残機が減る。
現れる。 破裂する。 残機が減る。
『ゲームオーバ』
ゲーム機からはさっきと同じ電子音声が流れ出した。
コインをいれてね。コインをいれてね。コインをいれてね。
画面にはこんな文字が現れている。
『コンティニュー? 10』
『コンティニュー? 9』
『コンティニュー? 8』
『コンティニュー? 7』
ぬえがまたコインを入れた。
わたしたちは三人でその筐体を囲むようにして画面に見入っていた。
ぬえのプレイする河童自機はさっきよりは進んだところまで行ってまたゲームオーバになってしまう。
今度は小傘に変わって続きからゲームをはじめた。
わたしたちはやられるたびにコンティニューしながら順繰りにプレイを続けた。
一面のボスをなんとか倒して二面のボスである月兎の薬売りとの対決まで行ったところで三人で持ち寄ったコインはもうほとんど残ってなかった。
うどんげ・鈴仙・イナバ(わたしたちは一応その子のことを知っていたからボス戦前に出てきて川を汚してこの星の環境を悪くして地球を滅ぼしてるやるみたいなことを言ってるのがなんか面白かったんだけど)がとにかくめちゃくちゃ強かった。
わたしたち三人は誰もあの子と話したことはなかったけれど
なんかもう嫌いになっちゃいそうだねって言って笑った。
そもそも初代『ムーン・インベーダー』は
河童たちが自分たちの憂さ晴らしのためにつくったゲームだ。
開発中にもたくさんプレイしただろうし開発したあとも何度も自分たちでプレイしていたはずだ。
だからゲームクリエイター河童たちはそもそもこのシューティングゲームがとても上手くなっている。
そのせいで『ムーン・インベーダー2』の難易度調整はノーマルでさえかなり難しいものになっているらしい。
「いや、これ無理じゃない?」
「不可能弾幕は反則だよね。」
「まじでそう。これつくった人弾幕ごっことかしたことなさそう。」
「あーあ。
ほんとの弾幕ごっこならやっつけられるのに」
「いやあんたじゃ無理でしょ。」
「なんでなんでなんでさ。」
「弱いもん。」
「はー? じゃあここで勝負する?」
「しないよ。」
「あ。ぬえってインベーダーの末裔でしょ。」
「え。ちがうよ。」
「弱点とかわかるんじゃない?ねえ?」
「たしかに。」
「知らない。」
「侵略者なのに?」
「ちがうって。」
「でも、そりゃちがうって言うじゃん。
侵略者は隠すもだから」
「うん。うん。たしかに。」
「ちがうもん。」
「まあ。そうゆーよねえ?」 「まあねえ。」
「あーもーいいからもっとやろうよ。
次誰だっけ。」
「ぬえ?」
「あ そうだっけ。
よし 任せときなよ。
ぱ ぱ ってクリアしてやるからな。
えへへわたしはインベーダーだからねー。」
「言ってること真逆じゃん。」
「ちがうね。これから”なる”んだよ。
星ひとつまるまるゲトってね」
「ストーリー的には侵略者追い払う感じだけどね。」
「うるさいなあ。見てなって。
わたしはスペースインベーダーだよ。」
でも結局ぬえは鈴仙にぜんぜん勝てなかった。
ぬえは筐体を脚で蹴って。
それから
こんなゲームやるやつは馬鹿だね。
って言った。
子傘とわたしは笑った。
それで帰ることにした。
帰り道。
三叉路から遠ざかるときにもやっぱりそれは鳴っていた……。
コインをいれてね。
コインをいれてね。
コインをいれてね。。 。 。
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コインランドリーに行くためにはまずみすちーの部屋中の洗濯物をまとめるところからはじめなければならなかった。
言い出したくせにみすちーはあんまり動かないし、どれが着たやつとかそんなのもわたしぜんぜん知らないから分別するのに困ったし、迷ったあげくにこれもあれもと散財するようなやけぱちな気分で、服を重ねていったら、いつしかカラーフルな一山になってた。
これだけあると運ぶのに困るね、と、わたしが言うと、みすちーは肯いて言った。
うん、こまったねこまった。
あんまり困っていないな、と思って見ていると、みすちーは家を出て少し後で戻ってきた。
びしょ濡れだった。
いや、思ったより降ってるねえ洗う服が一枚増えちゃったな、って、みすちーは小さな手押し台車リアカーを玄関から土足で部屋に引っ張ってきた。
「これに乗せていけばいいよ」
「それ、どうしたの」
「もってるの。私有してるんだよ? 変?」
「べつに変ではないけどさ……」
「ほんとは屋台を引っ張っていってもいいかなって思ったけど、それはしんどいしね、いつも屋台を持ってうろつくわけじゃないのよわたしさ、盗まれるとか考えることもあるけど、てかあんなの盗ってもすぐばれるしね、まあでも結局は土地に対する信頼かな、この子は置きっぱなしの屋台に食材運ぶときとか使うんだよ。仕込みに買い物行くときとかもか?」
「ふーん」
みすちーの手押し車は真っ赤だ。
まるで今さっき塗装したっていうふうに、借り物みたいに、ぴかぴか光る赤色だった。
手入れしてるんだねえ、と少し驚きを持って触れれば、好きなんだ、って、手押し車が?
たぶん、赤色が、だろう。
べつに聞かなかったけど。
洗濯物なら手押し車のかごの部分に放り込んだ。
ブルーシートをその上にかけて、太い紐でぐるぐる巻きにした。
そのあとで、思い出したようにみすちーがCameraを持ってきて、一度縄をほどき、洗濯物たちのなかにそれを押し込んだ。
「もしかして、それ買ったカメラ?」
「そうそ」
「いいやつそうだねぇ」
「あ、わかる?」
「まあ、わかるよ。ぜんぜんわからんけど」
「これでPVを撮ろうって思ってさ」
「わたしだけが映るやつでしょ?」
「いや、いや、いや、メーンはもっと美人な子に頼むつもりよ。だってさ、響子だけじゃ”ヒキ”足んないでしょ」
「はー?」
わたしは心のなかでわんわんと泣く。
そんなわたしに構わずみすちーはひとりで先に外に出てしまう。
わたしはあとを追いかけた。
外には激しい雨が降っている。
ざあざあと降りしきり、ぴちゃぴちゃと跳ね回り、ぱちぱちぱちと弾けて飛ぶ。
白めく。
光線のような雨だった。
もしもそれがほんとに光なら、あたり一面が、祝福!って感じ。
実際のところは、雨は強い風に乗って高速で降り注ぎ、少し先のこともわからない。
みすちーはおもちゃ風の赤いレインコートを着てた。
わたしは透明なビニル。
邪魔にならないようにほんの少し後ろを行きながら、手押し車を両手で押して歩くみすちーを斜め上から覆い隠して傘をかけてた。
雨は前降り。
だから向かう先にはいつも風が吹き溜まり、地には轍つものがあるから、風雨にかちゃかちゃと鳴るわたしたちは車輪仕掛けの機械みたいだった。
手押し車の覆うビニールシートの上で雨が跳ね、水溜まる。
溜まった水を押し出そうとビニールシートに触れると、それは柔らかかった。
なんだかこうしてふたりで死体でも運んでるみたいだなってわたしは思って、みすちーに言うと、どうして死体なの?とみすちーは言った。
「え、いや、べつにどうしてとかはないんだけど」
「死体はないでしょ、死体は。ふふ、死体って。死体は運んでないよ。死体運ぶの? 運び屋か? 響子は?」
「だって、だって、ほら、さっき、触ったら妙に柔らかかったから不思議な気持ちがして……」
「それならべつに泥とかでもいいじゃない。っていうか、そっちのほうが、ふつーだし。手押し車で運ぶのって泥とかよくあるよ」
「それは、そう……かも、だけど。でも、なんか、こうやって、洗濯物をリアカーに乗せて運ぶってわたしあんまり経験ないっていうか珍しいっていうかなんだか妙だから、そう思ったのかも……。それに、気分……みすちーと一緒にいると今でもたまにどきどきするときあるから、それが、いまで、それが、まるで、死体運んでる緊張感っていうかどきどき感とつながって? 重なって? みたいな? そういう……そういう比喩みたいな……」
「それなら最初からそう言ってくれればいいのに」
「まあ、そうだけど。恥ずかしいじゃん、やっぱ」
「でも、わたしは、響子といても全然ドキドキはしないな。だって映画ならドキドキするのはB級でしょ。大きな音や緊張感のある音楽でとりあえずドキドキさせるのは。響子はA級だもん。芸術品だ! オートクチュール! いちばんかわいい! 正直、え、なんかしょうもなくない?とか思ったりするし、つまらないなあと思っても教養だから愛するよ」
「褒めてるのかけなしてるのかよくわかんないよう」
「大好きってことだよ、もう。言わせないでね」
「いや、そう言われればなんでも納得するわけじゃないよ!」
「あはは、そ? 響子ってみんながすごいってってるやつとか何でもありがたがるタイプだと思ってた」
「まあ、そういう節はあるかも、だけど……」
「じゃあ、いいよね」
なにがじゃあいいよねなのかぜんぜんわからないけれど、とにかくわたしたちは歩いた。
森の風景はすべてが森の風景で、雨の日の景色はすべてが雨の景色だから、どこまでいっても代わり映えせず、すぐにわたしは歩くことに退屈してしまう。
濡れてゆるんだ地面を踏んで歩きながら、すでに濡れて汚れたスニーカーと靴下が足先にへばりつくのが、うざい。
なんだかわたしはすごく疲れちゃうな。
少し先で、ぬかるんだ場所で、わたしは足を半分取られて、ほんの少し立ち止まった。
まるで降雪の昼下がり泥に溶け出した灰色の雪に歩みを奪われるように雨にぬかるんだ泥の中で丁寧に歩くわたしを後ろにおいて、みすちーはそんなことをちっとも気にせずにどんどん進んでいってしまう。
わたしは積もった雪とか水たまりとかで足が濡れたりするのがすっごく嫌なのだ。
我慢ができないよ。
それを、みすちはー、響子は犬なんだから阿呆みたいに駆ければいいのよ、って言うだろうか、言うんだろうな、言われるとうざいけど、言わなかったらちょっとやだな。
いつもみすちーはわたしのことをああこう決めつける。
だけど、それは、ぜんぶ間違ってる。
響子は犬じゃんだからほんとは穴とか掘りたいんでしょそれって響子の性欲なの?響子はこの里でいちばんかわいいよね響子はもう修行とかしなくてもいいと思うよだってすでに本質を嗅ぎ分けることができるもの犬だし昨日映画見てたら人質にされた女がいてさ上手いことやって犯人から拳銃を奪ってね逆にそれを突きつけるんだけどさ結局撃たないのそれで拳銃を取り返されちゃってなんだかんだ殺されちゃうんだよそいつがじゃなくてそいつの夫がねあーあー馬鹿じゃんってわたし思って登場人物がじゃないよ脚本がねでも後でもしその女の人が響子だったらはらやっぱり絶対絶対絶対撃てなかったなって思い直して好きになったのいや脚本がじゃないよだけど登場人物のことでもなくてさ響子のことがね、とか……みすちーはフェスタの季節もそうじゃない季節も、季節によってベクトルは違っても、いつもわたしについてあれこれ言うんだけれど、実際のところそれはみんな見当違いで、だからわたしだって反論したくなるし、たとえばお寺のみんなが時々わたしについて言うことなら彼らの見識によってあまりに正確だからそのときはなんだか恥ずかしくなってそれはそうですよねえ……って半端に笑うしかできないのに、それに比してみすちーのわたしに言うことはこんなにも粗雑だから、そうじゃないじゃんってわたしはいつも首をふりたくなる。
すると、あはは、ほんと?ってみすちーはいつも笑うのだった。
みすちーが笑うと、わたしは嬉しい。
わたしはみすちーが雨に濡れないように、手押し車を押すみすちーを追いかけるようにして、傘をさしながら、みすちーの後ろを歩いていた。
そういえば、雪国には歩行のルールがある、とみすちーはいつか言ってた。
雪国じゃ一族は列なして歩くのだ。
雪国の一族はひとつなぎの長いロープを腰から腰に巻きつけて、隊列を組んで、吹雪のなか雪の深く積もった厳しい道を歩く。
隊列の並び順には特有のルールがあり、最も屈強で勇敢な若い者たちがいちばん前を歩き、その後ろを最もよく雪国を知る者たちが続く。屈強な男たちは吹雪く風を受ける盾となって足跡ひとつない真白の大地に轍を切り開き、最も雪国を知る者たちはルートに対する知見と判断を与える。次には雪国を歩くのには脆弱するぎ者たち、つまり老人や病人や子どもたちが一塊となって前を行く者たちが踏み固めた雪の上に足跡を重ね、その後ろを二番目に屈強な者たちが重い荷を背負って続く。そして、三番目の者たち、つまり、それほどまでには屈強でなくそれほどまでには雪国も知らず、しかしひとりで雪国を歩くことができないほど力がないというわけでもない者たちは、しんがりを歩く。
三番目の者たちの役割は見ることだとみすちーは言う。
彼らはいちばん後方から隊列を単に見つめ続け、その異変を嗅ぎつけて、誰か歩けなくなるもの、崩れ落ちるものがいれば、大声で一族にそれを告げる。
彼らの経験によって積み上げられた才能は大声をだすことにある。
まるで響子みたいだね、って、みすちーは笑う。
そのときの癖で今も響子はいつでもみんなのいちばん後ろを歩くんだよね、って。
でも、べつにわたしは雪国生まれの犬じゃない。
みすちーと同じように、このへんで生まれたし、この土地は雪国どころか雪が積もることも稀だし、最近はあんまり雪も降らない。
みすちーがわたしのことを雪国生まれの犬だって言うのは、わたしがよくもふもふの服を着ているからだった。
わたしはふさふさもふもふした服が好きなのだ。
温かいし、なんか高級感もあるし、着込むと嵩張ってずっしりと重みがあって自分が大きくなったような気分がして嬉しい。
なによりさわり心地がいいもんね。
ふわふわしているのに、触れってみるとなぜだかすべすべとしているその生地を、わたしはいつまでも撫でていられるような気がする。
わたしがふわふわな服を着ることを、犬ぶってるとかみすちーはよく言って、イヌイヌイヌイヌイヌいつもわたしのことを揶揄するくせに、わたしはほんとは犬じゃなくて山彦なのに、まあわたしは見た目も犬っぽいしそれはべつにいいけど、そんなこと言うくせにこんなときばっか犬ぶってるとか言うから、だってわたしは犬だもんって反論すればいや響子は犬じゃないよ、って……でもわたしは犬だよ。
みすちーが思うよりずっとさ。
たとえば冬にはみすちーはわたしの偽物の毛を撫でる。
冬にわたしたちみすちーの家の小さな暖炉の前で丸まって肩寄せながら時間を過ごす。
ときどきみすちーはわたしの指に触れそれからわたしの着ている毛皮のコートを撫でる。
わたしの纏った毛皮は、経済的にも倫理的にもいつでもフェイクだけれど、みすちーの指の下で、それはわたしのたしかな延長になる。
みすちーが冗談でそれを引っ張るとき、わたしはなんだか痛い気持ちがする。
わたしが顔をしかめると、みすちーは笑った。
変なの。
それから、わたしの偽物の毛を指で梳きながら、みすちーは、変なの、変な服、雪国生まれの犬だね、ってわたしのことを言った。
窓の外では雪が降っていたと思う。
それは、数年ぶりに幻想郷に雪が降った季節の思い出だった。
みすちーはこんなことを言っていた気がする。
「雪、雪が降ってるよ。響子は懐かしいでしょ?」
「まあねえ、この前降ったのけっこう前だもんねえ」
「じゃなくて、じゃなくてさ、響子の生まれ故郷の雪国を思い出すんじゃないかなあって」
「はー? わたしは雪国生まれの犬じゃないよ」
「あ、そっか。きょーこは犬ぶってるだけだっけ」
「犬だけど! ……生まれはここだから」
「犬なの?」
「そうだよ」
「たしかに犬だよねえ」
「わたしは犬じゃないもん」
「あはは、どっちよ。」
窓の外では雪が降っている。
それは数年ぶりに降った雪。
粉めいた白い粒がひらりひらりと剥がれ落ちるように、落ちる。
この前の雪の降った季節にわたしはみすちーのことをまだ知らなかった。
みすちーに出会う前の雪の季節にわたしはなにをしていただろう、それがうまく思い出せなくて、こうして記憶の中で降る雪はちっとも雨のようではなくて、わたしの偽物の毛皮、それはわたしのどこにも繋がっていなくて、みすちーが触れるとわたしはくすぐったいような気がしてたとそのときは思ったのに、こうして思い出す限りではやっぱりその毛皮はわたしのものではなくて、だからわたしは犬じゃない。
でも、今こうしてみすちーとわたしが歩くこの場所に線のように鋭く降りしきる雨は雪みたいだよ。
その比喩上の雪はわたしの見たこともない触れたことも種類の雪だ。
そうだ、わたしが雨を喩えて言う雪は、みすちーの話を聞いてわたしが想像するだけの雪国に降る、吹雪のような、鋭い雪に似ている。
昔、わたしは雪国で暮らしていて、雪国では一族は列なして歩く。
わたしはそのいちばん後ろを歩いている。
厳しい吹雪に背を丸くして少し俯きながら一歩一歩足跡を前に前にと刻んでいく。
だから二人きりだとしても、こんな吹雪のような嵐の日には、わたしはこうしてみすちーの少し後ろを歩く。
みすちーが言うことにわたしがなにかを言うと、時折みすちーは振り返って、笑う。
わたしたちの間を強い雨がカーテンのように裂いていた。
それはあんまりに大粒ではやい速度で落ちるから、雨粒のひとつひとつが形に、たしかな線形になって、視線によって捉えることができるから、視神経のなかで雨粒が固着して、まるで雪みたい……。
わたしはみすちーの背中に向かって叫ぶ。
雪、雪が降ってるよ!
みすちーは灰色の夜空を少し仰いで、振り返り、首を傾げた。
「?」
それから笑った。
なに、それ。
みすちーはわたしにあんなにたくさん言ったことも季節が巡ればいつか忘れてしまうから、この雪のイメージは今ではわたしだけのものだ。
だからわたしにとって雨とは、みすちーのじゃない、わたしたちのじゃない、わたしの故郷の雪に似ていて、いつもなんだか懐かしい。
そんなふうなやり方で、わたしが身体中に纏った小さなもふもふからはじめて、いつからだったんだろう、みすちーはわたしを雪国生まれの犬に変えてしまった。
もちろん、それは偽物の故郷、仮初の記憶、存在しないRecord……。
だから、わたしは、本当は犬じゃない。
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みすちーに出会う前のわたしについて話そう。
みすちーに出会うずっと前わたしは運び屋(Messenger)だった。
やりたくてやっていた仕事じゃない。
まあ稼ぎはよかったと思う。
「おいしい仕事があるんだ。楽な仕事さあ。
思うんだけどこの世界は馬鹿ばっかだよ。
もっと楽に生きる方法がたくさんあるって言うのにみんな退屈に縛られてる。
慣れちゃってんだね。きょーこには特別に教えてあげるね。」
その仕事をわたしに紹介してくれたのは
山彦の先輩だった。
なんか怪しげなその仕事をわたしはやりたくなかった。
でも先輩には日頃からよくしてもらったから上手に断りきれずに
気づいたらわたしは運び屋だった。
たしかに難しい仕事じゃなかった。
運ぶのは言葉。
誰かの言葉(メッセージ)。 運び屋。
足を使う仕事。
誰かに伝えたいけれどいろんな理由によって伝えることができない言葉たちを。
あるいは誰かがどうしても忘れたくなくて少しの間保存しておきたい言葉を。
わたしは運んだ。
山彦の性質を利用してね。
誰かの喋ることをわたしはじっと聞いてそれを
反響させずにひととき自分の中に留めておいて
わたしは運んだ。
そのまま別の誰かのところまで行って
ときには少し経ったあとで依頼人のところに戻って
その言葉をそっくりそのまま吐き出すのだ。
わたしたちはその性質によって
やろうと思えば彼らの言った内容だけじゃなくて喋り方
や息遣いや声の調子や模倣することができた。
わたしたちはpafectry archiveだった。
重要なのは記憶処理だ。
もちろんそんなふうまでにして運びたい言葉って秘密や機密や他の人に聞かれたく
ないことばかりだったから
わたしは喋ったあとでそれをすっかり忘れてしまう必要があった。
薬液があった。 作用があった。
わたしはそれを飲むことで忘れるふりをすることができた。
どこまでも曖昧になることができた。
でも本当に忘れてしまうことができるわけじゃない。
実際のところのその薬剤はアルコールをずっと強烈にしたような作用を持っていて
記憶が不確かになるほどに酩酊してしまうというだけのことだった。
わたしはある種の保証としてその薬剤を依頼人の前で必ず飲むことにしていたけれど
それは わたしが彼らにわたしがたしかに忘れてしまうことを忘れられずに彼らに
信じさせる必要があったからだ。
そうだ。
それが肝要で、いちばん難しいところだった。
でも重要なのは
”粗雑に思われてるなら繊細にやり、
繊細に思われてるなら粗雑にやる。”ってことだよ。
わたしは何度かの苦い失敗を得てひとつの態度を会得していた。
だから依頼人の前でその薬を飲むときは
薬剤の説明をしたあとに
いつも同じような演説をぶつようにしてた。
「これは悲しみですよう……実際。この薬はハッピーに対してクリティカルでさぁ……。しばらく後遺症が続くんです。胃と頭に効くひどいやつ。忘れるってつまりそういうことじゃないですかあ。なんだって、はい、忘れた、って言って忘れられたら苦労はしませんよ。お客さんにだって忘れたくて忘れられない思い出のひとつやふたつあるんじゃないですか。こんなとこに来る人は特にそうですよう。ねえ? えへへへ。いやごめんなさい。これ飲むときじゃどうしてもこのあとの痛苦想像して皮肉っぽくなっちゃっていけないなあ。でもそれくらいきついんですって。つまりね忘れるってことは簡単じゃないってことです。はい忘れてましたでそこがぽっかり空いたままになるみたいなことってないから。記憶ってそういう仕組みになってないんですよ。その代わりに何かを挿入しなきゃいけない。トレードオフってやつかな。なんだってそうですね。ものを買うにはお金を払わなきゃいけないし愛するためには時間を使わなきゃいけない。忘れるためにはそれを忘れるくらいの強烈な衝撃が必要ってことです。あー昔は実際忘れるために自分の頭を鈍器で殴った犬もいたらしいですよ。まあ聞いた話ですけどね。えへへ。ああそうだ。記憶といえば人は死ぬような危機に走馬灯を見るって言うじゃないですか。あれってこれから死ぬから今までの人生を懐かしんで思い出してるって言われるけどわたしの個人的な意見じゃあれ今ここで起きてる痛み苦しみを忘れるために別の記憶を挿入しようとする身体の動きなんじゃないかと思ってるんですよう。まあその記憶ももともと記憶として頭の中にあるものだから忘れることはできないんでしょうけどぉ。でもそういう身体の動きってあると思いますよ。だからきっと幸せに死んでいく人は死ぬ時に何も見ないんです。ただ暗闇で死んでいく。。。だって今が楽しい人って過去のこと思い出したりしないじゃないですか。今が楽しいんだから。昔のこととかいらないし。だから今つらくて憂鬱な人は別の思い出を掘り起こして今を忘れようとするんです。それが悲しい思い出とか楽しい思い出とか関係なくね。その意味じゃ思い出って全部がブルーですよう。あーごめんなさい。なにが言いたいかっていうとこの薬はその逆ヴァージョンってことですね。苦しみを忘れるために思い出を挿入するんじゃなくて思い出を忘れるために憂鬱を挿入するんです。はあ。」
(ブルーの液。眼前で揺れてた。。。一気に飲み干せば苦い味。胃の不調。しばらくはFD風の。わたしは言う。)
「お前らみんなが死んじゃえばいいのに!」
それが功を奏したのかとかは知らないけれど とにかくわたしは安全に通り抜けた。
その不穏な香りに満ちた季節を。
そんなふうにして数年を過ごした。
やりたくてやっていた仕事じゃないけれどたいていの仕事がそんなものなんだろう。
そんなふうにして数年を過ごした。
みすちーに出会う前の話。
(つづく。)
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吹雪のような嵐のなか、歩き疲れてわたしは言う。
「やっぱ戻らない……?」
「なんで?」
「だって、雨思ったより降ってるし」
「そんなのはなからわかってたことよ。それよりさ、犯人を考えようよ」
「犯人?」
「かわいい響子ちゃんの言うことには、この運んでるやつは死体なんでしょ? だったらそれを殺したやつがいるはずだもん」
「そう、見えるよねー、って話なだけで……」
「やっぱまずは動機よね。てか、この死体は誰なの?」
「知らないよ」
「え、隠すの。てことはやましいことがあるんだ。怪しいなあ」
「いや、いや」
「もうさあ確っちゃったね。ぜったい響子が犯人じゃん。よく考えれば死体を運ぶのはたいてい犯人だし。ということはこの死体は和尚のものね。日々の修行のストレスから反抗に及んだってことね。あ、もしかして、それってわたしのせいか? 修行ばっかでわたしにも会わせてもらえないからとうとう手にかけたってわけか……。まあ典型ね。愛ゆえに……っやつ。響子はわたしに毎日会いたいから和尚を殺しちゃったんだね」
「みすちーってばかじゃないの」
「うん、うん。申し開きがあれば聞くけど?」
「だってさ、わたしにそんなことできるわけないじゃん!」
「あ、たしかにね」
「てか、それなら、みすちーがいちばん怪しいよね」
「なんで?」
「だってみすちーが言ったんだよ。死体を運ぶのは犯人だ、わたしたちは死体を運んでる、でもわたしは犯人じゃない、だったら、みすちーが犯人じゃん」
「むむむ。動機は?」
「同じ理由だよ」
「どゆこと?」
「……みすちーは、わ、わたしのことが好きだから」
「あはは、ばかじゃないの?」
振り返ったみすちーの表情。
泥のついた靴。
濡れていた。
サイダーのようにじうと染み出して靴の中を浸した。
ぬかるむね。
そりゃぬかるむよ。
ぬかるむ、ぬかるむ。
ぬかるみに手押し車の三つの車輪は真っ直ぐな轍をつくり、足跡でそれを汚した。
怠い歩き方をしていたせいか、不意にぬかるんだ地面に足を取られて、わたしは前につんのめり、あわててみすちーの濡れたかしゃかしゃの袖を掴むと振り向いたみすちーがわたしの腕を引っ張った。
傘が跳ねた。
手押し車が斜めに傾いた。
泥。
みすちーがわたしの手を取って上に引くその力があんまりに強くてわたしはびっくりしてしまう。
「はあ、危なかった……ありがと」
「うん。でも転んじゃっても大丈夫だったかもね。服が汚れてもコインランドリーで洗えばいいんだしね」
「待ってる間何を着ればいいのさ」
「裸でいればいい」
「やだよ。恥晒しじゃん。古典時代なら刑罰だよそんなの」
「でも原始時代なら生活だわ。そもそもわたしは犬に服を着せるのとか反対派だよ。ああいうのって飼い主のエゴだと思うの。似合わないフリフリの服を窮屈そうに着た犬たちの惨めなこと」
「いや、それこそ人間のエゴだね。全犬類を代表して言わせてもらうけど、犬だってかわいい服を着たいよ!」
「響子はほんとは犬じゃないくせに……」
「うるさい」
わたしたちは字義通り分岐路に立っている。
比喩じゃなくて、(フィジカルな)たしかな意味で、そこにいる。
看板の名残がある。
掠れて読めなくなった文字。
矢印を模した木の板が、ふたつ、左右に互ってるやつ……。
みすちーは立ち止まり、見つめ、ため息をついた。
振り返ってこんなこと言った。
「またひとつ忘れちゃった。コインランドリーってどっちの道だっけ?」
「本当に?」
みすちーはちょっと笑って首を振った。
でも、そのあとで、その笑みのなかに困ったみすちーの顔を見つけてしまうから、みすちーはきっとほんとに忘れてしまったんだろう。
わたしたちの間には雨が降っている。
掴んだみすちーの手、わたしの指の中で、みすちーの手に汗が滲んでいる。
わたしは傘を拾ったほうの腕をひらひらと振った。
「こっちだよ」
「右?」
「うん」
「そうね」
みすちーはまだ立ち止まったままだ。
雨が降っている。
雨脚はさらにはやくなったように思う。
ぱちぱちぱちぱち。
鳴ってる……。
降る雨が、森の木々や葉々や、わたしたちの傘にレインコートに、手押し車の上のブルーシートに、打ち付けてぱちぱちと音をたてていた。
ぱちぱちぱちぱち、ぱちぱち。
鳴っている。
まるで拍手の音みたいだった。
それもやっぱり祝福!って感じ……。
みすちーはわたしの手を強く強く握っているから、わたしはちょっとだけ痛いな。
「どうしたの?」
「みぎ……みぎ、みぎか」
「わたしが先を歩こうか?」
「んんー……それもいいな。たしかに」
「もしかして不安になった?」
「いや……」
いつものことだよ、とわたしは思うのです。
それって、これまでも何度も繰り返されてきたしこれからもずっと続くことだよ。
みすちーはこの季節になれば、いつも色んなことを忘れてしまう。
今回はいつもよりも深い感じだし季節を重ねるごとにみすちーの物忘れはひどくなっているように思えるけれど、それを言うならもっとひどいときだってあったし、逆にそのあとでぜんぜんだったときもあって、それは音楽記号ならクレッシェンドのようにだんだんと強くなっていくというよりは、ひどくなったりさらにひどくなったりそうでもなくなったりまたひどくなりそうでもなくなって、まるで伸縮するように…… あ……! いま思いついたこと全部言いたいな。
「これからさきどんどん悪くなっていくと思うの? そんなことないって。みすちーの物忘れは、覚えて忘れて、ひどくなってそうでもなくなってさ、まるで肺が何度も伸縮するように、今じゃみすちーの呼吸みたいなものじゃん。」とか……。
「てか忘れちゃってもぜんぜんいいじゃん。べつにみすちーが何かを忘れてしまうならそのたびにそれをわたしは教えてあげるし、そのためにちゃんと言葉が反響して残っていられるようにわたしはこんなにも空っぽなんだよ。」とか……。
「もしかしてわたしがいなくなっちゃうとか思うの、それなら大丈夫だよ、いつもフラれるのはわたしのほうだもん。」とか……。
それを言おうかな、でも喋ったら消えちゃうかなあ、運び屋だったときの癖、生き延びるために覚えた術、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、数えて、やっぱだめだなあ、そのときに身体で覚えたことって……こう……喋ったことは忘れちゃうよ、言ったらなくなっちゃうね、話したら消えちゃうもんな、だから、わたし、言わずにみすちーの手を握った。
強く、強く。
握った。
わたしたちの間を裂く雨。
雨合羽をはためかす風。
肌を滑り落ちる水滴。
掌を通し鳴る脈拍。
絡まる手の痛み。
かすかな吐息。
きしむ指先。
汗ばむ手。
汗腺/痛覚で、わたしたちは繋がっている。
わたしが言わないでいる間はいつもみすちーが言う。
「ねえ、きょーこ」
「うん」
「ごめんね」
「ううん」
「でも、わたしがこうなっちゃうのは響子のせいなんだよ?」
「うん?」
「だってさ、響子がいるから、わたしが忘れたことも響子が教えちゃうから、わたしは安心して忘れてしまえる、だからほんとに忘れちゃうんだよ、そうは思わない?」
「ううん……」
「響子はわたしの太陽だよ。こんなにもわたしをだめにしちゃうのに、本当に困った時わたしは響子を頼るしかないんだよ。太陽だってそうだよね。古い時代は太陽はその熱によって人々を焼き、着ているもの身に付けているものを奪い取ってしまったのに人々はそれでも裸のまま太陽を目印にして歩き続けるしかなかったんだよ。そう考えると太陽って独占欲がすごいよねえ」
みすちーは笑った。
「ねえ、響子も、そう?」
なーむ。
さっきの話、きっとわたしのためにみすちーは聖を殺してしまったんだろう。
そして、いつものみすちー風のやり方で、それを忘れてしまったのだ。
愛のために、あるいは何かを手に入れるために、罪を犯す人たちのことがわたしにはわからない。
そうまでして手に入れたいものも守りたいもののわたしにはない。
愛することは怒り憎しみだと思う。
わたしとあなたを隔てる全てのものに対する怒り。
たとえば、こうして手を繋ぐなら、この手のひらの薄い皮二枚がどうしようもなく憎らしい。
でも、わたしはみすちーのことをみすちーがわたしに思うほど大好きになれるわけでもない。
愛することが怒り憎しみなら、わたしのみすちーへの思いは、憂いに近い。
居ても立っても居られないなんてほどではちっともないけれど、どこかやりきれない思いがあり、時折ぼーっとする。
それは、熱のない風邪のような、風のない台風のような、そんな気持ち。
愛することがわたしとあなたを隔てる全てのものを殺してしまいたい衝動なら、わたしは単にここで死にたいな、と思う。
やがてわたしたちはまた歩きだす。
みすちーはそのうちこんな歌うたってた。
「あやーめまーしたー、あやーめまーしたー、わたしはーひーとーをあやめましたー」
わたしは少し後ろで傘をさしながらみすちーが歌うのを聞いてた。
あとでもう一度みすちーがまた同じ歌をうたえるように、その歌をなんとかして覚えておきたくて、わたしはみすちーが歌うときはじっとみすちーの歌に耳をすませている。
どうせうまくいかないことは知っているけれど。
でも、そうする。
そしたら、もう歌しか聞こえない。
びゅうびゅうと鳴る風の音もざあざあと震える木々の声も、もちろん、ぱちぱちぱちぱちと鳴る雨の音もわからない。
みすちーが歌うとき、その間だけ、わたしたちは祝福から遠い場所にいることができる。
祝福は旅路の終わりにある。
太陽に向かってオアシスを求めて砂漠を歩き続けた昔の子。
やがて彼女は砂漠の真ん中で膝をつき、すべてを等しく焼く太陽の下、熱中症と脱水症状の合間に神様の姿を見つける。
彼女は祝福される。
こんなにも満たされて少し笑って肯く。
それが、単に、痛みに対して身体が分泌した快楽物質の力によるものだとしても。
祝福の喜びと開放の安堵感から彼女はもう二度と歩き出すことは叶わない。
でも、未だ祝福から逃れているわたしはみすちーのことを疑うことができる。
あるいは同じようにわたしのことを疑うみすちーに釈明することができる。
わたしは、みすちーの言うことに、そうじゃないもん、って首をふることができる。
祝福されたら終わるから、めでたしめでたしのあとには何も残らないから。
だから、わたしたちはまだ、ここでふたり歩き続けることができる。
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雪は言葉を抱えている。
降る雪の結晶の一粒一粒に。
たしかな言葉がある。
ある明るい昼間どきの雪の日に。
窓から外をじっと見つめていれば
それが。
こうして降る雪の結晶が。
ほんとは降る読点だってことがよくわかると思う。
その白くて 丸いような 降るたくさんのものは。。。
すべて小さな おしまい。 で。
その小さな 。 に向かう短いあるいは長い言葉を抱えている。
降り積もった雪が時間とともにやがて黒ずんでしまうこと。
それは積もった雪を人々が泥のついた靴によって踏みしめるからじゃない。
それは言葉を踏み固めるからなのだ。
人々が。 靴によって。
雪の抱える言葉たちを。
まるで紙の上で。 インクが滲むように?。 。。
優れた音楽がいつしか小さな蛙の子供たちになって
楽譜の上で姿を変わるときを待つように。。 ?。
積雪はやがて黒い塊になる。
わたしは みすちーのことを書くとき喋るときに歌うときに
それを雪とともに降る言葉のようにできたらいいのに。
って思う。
だけど。
わたしは犬じゃない ように。
わたしの書く言葉は 雪の抱える言葉じゃない。
それは消えたりしない。
(そうだよ。)
大丈夫。わたしやみんなの言葉は消えたりしない。 永遠に残り続ける。
誰もそれを本当の意味で忘れることなどできない。
まあ少なくとも。。。 しばらくは。 そう。
肯くことが重力に支えられているように
同じ正しさによって
言葉は重力によって支えられている。
わたしたちは 紙の上にインクを”垂らす”。
楽譜の上に音符を”落とす”。
書き記されるものは重力によって支えられている。
みんながいいこと言ってるとか心に残ることを書くからじゃなくて
単に 書く。 という形式によって それはそこに残る。
残り続ける。
でも。。
みすちーの言葉はちがう。
みすちーの頭の中には雪国がある。
深い深い雪の積もった国だ。
そこではあまりに雪が降るからたとえ足跡で雪を踏み固めようとしたところで
その場所は次々に降る雪によってまたしみのひとつない白くて広大な大地に戻ってしまう。
わたしが降る雪のような言葉で文章を書きたいと思うのはみすちーの頭の中にある
雪国をみんなにも見せたいからだよ。
それはとても美しい雪景色だと思うから。
(少なくともそうじゃなきゃ それってすごくすごく寂しいものね。)
わたしは雪のような言葉を愛するように
それを踏み固めて汚してしまう 靴を憎む。
歩るくことを嫌う。
まるで足跡が連なって地面を踏み固めてやがてそれが道になるように
言葉は集まって文章になって繋がり合い意味をもって人々をどこかに連れて行こうとする。
みすちーのin the air風の(大気中でしか生きることのできない)言葉たち。
あるいは歌。
それはどこにも行けないから。
それでもみすちーは雪国を歩いてる。
たぶん。ひとりで。
みすちーはそもそもどこを目指しているわけでもないし
もちろんどこかに辿り着けるわけもない。
それってただみすちーがそこで生きているってことだよ。
いつかわたしもそこに行きたいな。
みすちーの暮らす雪国に。
結局のところみすちー風の言葉を使って語るならその言葉の性質によって
わたしはそこに行くことはできないのかもしれないけど。
少なくとも今日は
わたし みすちーとふたりで。
まだ歩いている。
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そういえば、はじめて会ったときにもみすちーは似たような歌をうたってた。
それもちょうど今日のような日だ。
雨が降っていたわけじゃない。
なんだかみんなが不思議と上機嫌で、すべてがうまくいくんだって信じるような日。
だから、その数日は、この世界のその他すべての起転結と同じように、唐突に起こりはじまってすぐに移り変わり気づいたときには終わってしまい、結局それがなんでどうしてなんだったのか、わたしにはいつもわからないまま、とにかくそのときはみんながなんだかとても上機嫌で、それはつきめぐりのせいかな、あるいは惑星直列の奇跡的な瞬間のような日に、みんながとても幸福な気分だったからかえって山彦のわたしはみんなの言うよい言葉を真似して吐き出し続けて、身体のなかに憂鬱やを溜め込んだまま、気づいたときには、ほとんど死にかけていた夜のことだった。
なんだかお寺にもいづらくてあたりをふらふらふら、ふら、と歩いていたら屋台を見つけた。
森の外れでぼんやりと光っていた。
屋台では平安再構築的(へーあんりゔぁいゔる!)な格好した女が酒を飲んでいて、そのカウンター越しには鳥の妖怪の女の子がいた。
みすちーはわたしのことをすでに知っていたみたいだった。
「あれ、お客さん、お寺の人でしょう?」
「え、はい。よくご存知で」
「知ってますよ、この辺のことはよく。仕事柄いろいろ話を聞くからね」
「むむ」
「あ、でも、いいんですか。お寺で修行してる子がこんなところにきちゃって」
「いいんですよ。いや、よくないですけど……。でも今日は特別じゃないですか」
「特別?」
「ここのところ不思議とみんながすっごく気分がいいみたいなんですよ。べつになにかあるってわけじゃないけど。お寺の妖怪たちも参拝や修行に来る人たちもなんだかみんな機嫌がよくて、うちの一輪って修行僧なんかもお酒飲んだのバレたのにお咎めなしですよ。そういう日なんです。だからわたしもさ……」
「ふーん。あ、でも、たしかに、うちもそうですね。来るお客さんお客さんみんないいことでもあったんじゃないかっていうテンションでね。でも聞いてみると別になにもなくて、ただ今日は気分がいいんだ、って。ま、おかげで商売繁盛ですよ。たくさんお客さんは来るわ、いいお酒も入るしね。まあ、あんまりいいお酒とか置いてないんですけどね、ほら、うちの人ってみんな安酒しか飲まないから、ねえ、妹紅さん」
「なんだよ」
みすちーはからからと笑った。
「いいんですよ。こういうのって趣味みたいなものだから」
「この子は趣味に熱中して身を滅ぼすタイプだよ」
「そう、そう」
こういう常連さんと店主さんしかわからない特有の空気みたいのってある。
わたしはそういのうやだ。めっちゃやだけど。
わたしにはアイディアがある。
規格化された飲食店にまつわる考えが。
等しい看板のたくさんの飲食店。
そこはメニューも内装も外装も全部同じだからどこに入ってもだいたい似たような気分でいられるし、店員も店長も一定期間雇われているだけだからすぐに移り変わって、常連とかそういうのもあんまりない。
わたしはこの土地にある個人経営の飲食店を駆逐してやりたいよ。(そういうのみすちーに言うと笑いながら、え、それ、なに、響子がわたしのこと養ってくれるってこと? 甲斐性あるう、って言う)
みすちーのわたしの顔をまじまじと見つめながら、でも……って言った。
「でも、お客さんはなんだかあんまりいい調子じゃないみたいですけど」
「あ、やっぱりわかっちゃうんですか?」
「仕事柄人はたくさん見るからですね。そういうの隠したって出るんですよ。実際、お客さんさっきからずっと前で手を組んでるでしょう」
「あ、なんか、そういうのって憂鬱の気分のサインだったりするんですか?」
「いや、知らないですね。なんとなく気になっただけ」
「はあ。どういうことなんですか」
「まあまあ。いいじゃないですか。座って座って。なんかやなこととかあったんです? 話くらいは聞きますよ」
わたしが先客からひとつ席を開けて屋台に座るとみすちーはどこからともなく作り置きしてあった煮物を出してきた。
ことん、とわたしの前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます……。あ、おいしい」
「で、どうしたの? 恋人にフラれたりしたんですか?」
「別になにがあったってわけじゃないですけど」
「でもなんとなく気分が落ち込んでって感じ?」
「いや、でも、ほら、わたしって山彦なんですよ」
「うん」
「だから、こう……人の言うこととか繰り返して言うの癖になってて、癖っていうか性質なんですけど、このところみんないい気分だからいいことばっかり言うじゃないですか。内容だけじゃなくて、喋り方とか声色とかもそうで……そういうのもこだまするから……。だからわたしもそればっかり言うんですけど、そうするとむしろ身体の中には暗い気分がたまるって感じで」
「はあねえ。でもなんかいいことばっかり言ってたら気分も良くなる!って感じもしますけど」
「あ、そういうのうちの和尚もよく言いますよう。言ったことはいつか全部ほんとになる、だから、いいことを言いなさい。自分のことを悪く言ったりしてはだめですよ、って。そーゆー説法があるんです。自己暗示で人は変わる、何十の方法……みたいな。なんか、それだけ聞くと胡散臭い啓発書みたいですよねえ。いや、ほんと、有難がってるんですよ、わたしぃ……まじで。皮肉じゃなくてぇ、でも、いいじゃないですかぁ、今日は言わせてくださいよ」
わたしと話している間にもみすちーは隣の客のグラスが空くのを見てすぐにお酒をついであげていた。
もうしばらくアルコールなんて飲んでいないけど今日くらい……と思ってわたしはみすちーに言った。
「あ、わたしにもおなじの一杯ください」
でも意外なことに首を振ったのだ。
「だめです」
「え、なんでですか」
「だってお客さん修行僧でしょう。それならお酒なんて飲むべきじゃないと思いますよ」
「いいじゃないですか今日くらい」
「だめですね」
「なんでですかぁ」
「だめなものはだめなんです。今日くらいとか、今回だけとか、そういうのってないですね」
「いいじゃないですかぁ。売上だって上がりますよう」
「うちは土地の信頼で成り立ってるんですよ」
「それ、ほんとですかぁ」
「そうですね。だめですよ」
「えぇー」
「でも、まあ、仕方ないからいいでしょう」
「いいんですか……」
「あ、そのかわりわたしにも一杯奢ってくださいね。口止め料ですよ」
「店主さん商売上手ですねえ」
「いや、いや、お客さん犬でよかったよ。鳥なら鴨ですよ」
「え、もう、酔っ払ってるんですか?」
そこで隣の客が口を挟んできた。
「この子はいつもそうだよ、この季節になると決まってこうなんだ」
「ふうん」
「わたしはそろそろ帰ろうかな」
「あ、もう行っちゃうんです?」
「この子がいればミスティアも暇しないでしょ。あ、なあ、一本もらえる? 輝夜と飲もうかって思ってて」
「へえ、珍しいですね」
「なんだか今日はいい気分なんだ。さっき話してたみたいだけど、今日はみんなそうでしょ? けーねもそうだけど、だめなんだ。あいつ、調子よすぎてさ、ここ数日ずっと寺子屋の子供たちのことばっか話してる。もう何をしててもずっとだよ。あの子がこんなことをしたとかこの子がああしたとか……この子はこうだからきっとこうなれるよとかあの子はああだけどほんとはこうみたいなやつさ。しょーじきうんざりするよ。ああいうのって、なんていうかな、マタニティ・ハイみたいな感じ? いや、むしろ、その逆だね。わたしたちに子どもができないから里の子どもたちをまるで自分の子供みたいに愛するんだよ。そういうのってすっごく短絡的だし、だってさもしもわたしたちに子供にできたとしたらあいつそれをめちゃくちゃ溺愛するだろう。そんでもってさこの子は勉強はできないんだけどきっと特別なものがあると思うんだ、みたいなことをあいつ言うんだよ。でも今のあいつに言わせればうちの子供たちはそれぞれみんないいところがあるんだよって、つまりあいつの子供たちに対する全感覚的な愛って自分が持ってないからそうできるってだけのやつだろ。別に子供はわたしも嫌いじゃないよ。わたしが男だったらって思うときも、そう……たまにはあるし。子供ができたら他の夫婦みたいにさ、キャッチボールとかして……いや、やめよう。子どもっていやぜんぶがけーねの隠し子みたいなものだろ。だからわたしは子どもはみんな嫌いだね。嫉妬してるんだよ。子供じゃない。あいつの欲しかった暮らしをあいつに与えることのできる別の誰かあいつが愛したかもしれない男にさ。でも、わたしもあいつの子どもたちを愛してあげるべきだよね。わたしだって……。頭ではわかってるつもりなんだよ、でも、心の納得ができなくて、そもそも論を言えば、わたしは誰々の子どもみたいなやつも嫌だな。子どもだって、物心つけば大人だよ。誰の子とかそういうじゃなくて、でも、実際、一族っていうのはつきまとい、ある意味じゃ選べない生まれた家にわたしたちは暮らし続ける……でも長く生きすぎたわたしにはそれがわかんないんだよ。いや、わかるかもね。慧音ってわたしのこともすぐ子供扱いするけど、あいつに子供扱いされるのってそんなに嫌じゃないんだよ。わたしが輝夜を憎み続けるのもあいつがわたしの肉親を酷い目にあわせたからだろう。ほんとはみんな家族に生まれそこからいつか出ていくのに、わたしだけが死なないから年をとらないからずっとまだ子供のままなんだ。そういう意味じゃすべてが繋がってるんだな。慧音の子どもを愛することができれば、あるいはけーねのこと嫌いになれたら……、わたしのこの憎しみも消えるのかなあ。ねえ、わたし、どうしたらいいかな?」
「子どもって、べつに慧音さんの子どもじゃないじゃないですか」
「まあ、それは、そうだけど……」
そのお客さんは喋るだけ喋ったあとで酒瓶を受け取りお金を置いて去ってしまった。
そして屋台にはみすちーとわたしだけが取り残される。
夜に。
月明かりの他には切れかけた屋台の電灯だけがおぼろげに光り、揺れてた。
ポリ塩化ビニルの短い黒いコードが光から垂れ下がり……。
擦れて少し白っぽくなって。
何か食べる?とみすちーが言った。
こんなところに来てしまったことをわたしは後悔しはじめていた。
鳥か、虫か、何か鳴くやつが、いつも鳴くようにあたりそこらじゅうで鳴いてた。
わたしは少し考えて、あったかいやつ……え、なぁに? おでんとか……って、言った。
悪夢のような長くてひどい夏が急速に過ぎ去ってここ数日は激しい雨が降り夜は冷たくなりはじめた季節のことだった。
「おでん?」
「うん」
「惜しいですね」
「え、なにがですか?」
「この前やめちゃったんです」
「へ?」
「おでん」
「ああ。そうなんですか」
代わりに何か焼きますよ、とみすちーは言い、火をかけて網の上で魚の身を焼き出した。
わたしはお酒に口をつける。
それは辛口の日本酒か何かで甘いやつにすればよかったなとわたしは思った。
「なんですかそれ」
「うなぎですよ」
「へえ、なんていうか、珍しいですね」
「そうですか?」
鰻を焼きながらみすちーは歌をうたってた。
あー、やーめまーしたー、あー、やーめまーしたーやめました、おでんやめました、げーんかーたかいしーね! こーれかーらはー、すーうどーんーはじめます。
見ると屋台の後ろの椅子の上にアコースティック・ギターが置いてあった。
歌とかも歌うそういうお店なのかなと思って、そういうお店を知らなくてそういうお店がどういうお店なのかぜんぜんわからないことを思って、考えるのをやめた。
わたしはお酒にまた口をつける。
少しずつアルコールが回ってほのかな酩酊感を覚える。
嫌なこと思い出す。
やがて鰻の焼ける香ばしい匂いが漂いはじめる。
みすちーはたれを塗って裏返し、再びたれを塗って刷毛を置いた。
少し甘い香り。
みすちーはいつものみすちー風のやつを(つまりてきとーを)言ってた。
ねえ、お客さんは知ってる、昔なんかの本の読んだんだよ、才能のある人間はみんな匂いフェチなんだって。
「きっとお客さんにも誰にも負けない才能があるよ」
「どうしてわかるんです」
「だって、お客さんは犬でしょう」
「犬は嗅覚に優れてるだけで別に匂いフェチってわけじゃないでしょう」
「そうなんですか?」
「知らないですけど」
「ふふ。知らないんですね」
みすちーは少し笑った。
わたしは山彦だから犬じゃなくて、犬のことなんか知らないし、わからない。
それを言うのも怠くて、そもそも匂いフェチには才能がある、みたいな言い分もわけわからんし、それを深く聞くほど興味もなかったし、なんだか肌寒くて熱っぽいし風邪でも引いたかなと思って、帰ることばかり考えてた。
みすちーは焼き網から鰻を箸でつまみあげお皿にあげて、別のお箸と一緒にわたしの前に、ことん、と置いた。
どうぞ。
お酒を飲んでもあんまり味がわからない。
そういえば、みすちーはさっきと少し人が変わってしまったみたいだ。
なんだかさっきのざっくばらんだけどあったかい感じから、少し冷たいような、何か緊張したような感じが伺える。
常連さんがいなくなったからだろうか。
でも、屋台の見た目にも長くやってそうな女将が初対面の相手だからと言って緊張するようなことがあるのかな。
まあ、そんなことはどうでもいっか。
絶対に風邪をひいたと思う。
鰻を食べた。
たれが甘いからおいしい。
「ねえ、お客さん、お客さん」
「はい?」
「お客さんって音楽とかやってるんですか?」
「いや。どうしてですか?」
「だってさっきギターを見てたから」
「それはなんか珍しかったから」
「ふうん……」
みすちーは少し考えて。
「ねえ、お客さん、音楽をはじめたらどうですか?」
「え? わたしが?」
「そうですよう」
「いやあ」
「でもさっきの話、お客さんにはすごい才能があるから、きっと音楽の才能があると思うな」
「でも、わたし普段音楽とか聞かないし、わたしあんま歌とかもうまくないから、ないですよ、そんなの」
「いや、絶対あるって。わたしそーゆーのわかるんです」
「いろんな人を見てきたから?」
「そうそ」
「むむ。でもぉ……」
「そうだ、一緒にやりましょうよ」
「一緒に?」
「うん。バンド組んでね、お客さん才能あるしすっごく有名になれちゃうな」
「いや、いや。なんなんですかその勧誘。怪しいし、てか意味わかんないですよ」
「でも、ほんともったいないもん……」
「なんで?」
「才能あるから」
「ないですって」
「だって、だってさあ、犬のくせにさあ」
もう帰ろうとわたしは思った。
今日はみんなにはとてもいい日かもしれないけど、やっぱりわたしにとってはあんまりよくない日だ。
こんなにも気だるい。
なんだか眠い。
立ち上がろうと思ったところで、みすちーが言った。
「そうだ。さっき一杯奢ってくれるって言ってましたよね、いいですか?」
「あ、まあ……」
それは言ってしまった約束だったから、仕方なく肯いて、みすちーがわたしと同じお酒をコップについでるところを眺めてた。
とっーとぅーとーてーてーってみすちーは歌を口ずさみながら、淡い時折ちらつく電飾の下で。
「ね、そっちに行ってもいいですか?」
「え?」
「せっかくだから一緒にやりましょうよ」
「いい、ですけど」
ぐるりと屋台を回ってみすちーはわたしのすぐ隣に座った。
それからわたしのグラスいっぱいに、あふれそうなくらいに、お酒を注いだ。
「かんぱい」
みすちーの持ち上げたグラスにわたしはグラスを傾けて当てて、こつん、という小さな音がするのを聞いた。
わたしは少し飲み、みすちーは半分ほどを一気に飲み込んだ。
「んー。おいしい。やっぱり仕事中に飲むのがいちばん幸せですよ」
「そもそも趣味でやってるってさっき言ってなかったですっけ?」
「えへへ。まあ、そうね。でもやっぱ仕事は仕事だし、幸せは幸せよ」
「ふうん」
「あ。これ、いただきます、っていうかいただきました」
「え、ああ。お構いなく……」
「お客さんあんまりお酒は強くないんです?」
「まあ、そおですねえ。普段あんまり飲まないし」
「っていうか飲んじゃいけないんでしょ? 修行僧だから」
「そうだった」
「あはは。だめじゃないですかぁ。でも今日はせっかくだからいっぱい飲んでくださいよ」
「むむ」
しかたないのでわたしはまた少し飲む。
みすちーは残ったお酒を全部飲み干して自分で自分のグラスに注いだ。
一杯だけって話じゃないですか、まさかお金とかわたし持ちじゃないですよね、とか思うけど、言わないだけの作法がわたしにもあるし、言えないだけの臆病さもある。
ここってもしかしたらそういうお店なのかな、と思って、そういうお店の話なら女苑から何回か聞いたことあるから知ってるし、騙した話も騙された話も笑いながら話す女苑のことを思い出して、わたしは笑えないな。
今日はやっぱりとてもよくない日なのかもしれない。
「お客さんは命蓮寺に住んでるんですよね?」
「ええ、まあ」
「あそこは大変そうですね。あの和尚さん外ではすっごく穏やかでやさしい感じだけど、中ではけっこうスパルタだって聞きますよ」
「ときには、そうかも」
「さっきはすっごく文句言ってましたもんね」
「も、文句は言ってないけど」
「あ、でも、大丈夫ですよ。ここでの話はここだけの話だから」
「別に聞かれて困るわけじゃないですけど」
「あ、そう? じゃあ言っちゃうかも」
「え。だめですよ」
「あはは、やっぱじゃあ聞かれたら困るんじゃない」
「むう」
「でも立派ですよ。尊敬できるな。妖怪に生まれてなお仏門に入って修行するのは」
「わたし、でも、山彦として生計立てらんないから迷って入っただけですよ。結局は自分のためだから」
「ふうん。お客さん生まれはここですか?」
「妖怪の山ですね」
「はーあっちなんだ。あそこはわたしけっこう怖いんですよね。たまには向こうでも足を広げたいとも思うんですけど、あっちはまだ昔ながらの妖怪が多いじゃないですか。縄張り意識も強いし。あそこに生まれて人間との融和を目指す命蓮寺に入るなんて余計に立派だなって思うけど」
「そうかなあ」
「うん」
まあ結局戒律破ってこんなとこでお酒飲んでるけどってみすちーは笑った。
つられてわたしも少し笑ってしまう。
「ふふっ。そうですね」
「でもほんとに立派ですよ、お客さんは……。あ、お客さんはなんていうんですか?」
「え」
「名前、名前です」
「きょーこ」
「どういう字書くの?」
「響くに子どもの子……です」
「へえへえ。かわいい名前だ。やっぱり響くとかつけるの山彦にはよくあるの?」
「そうですねえ。音楽とかの音とかもよくあるし、そのままこだまって名前の子はよくいますよ。それはちょっと一昔って感じだけど」
「へーおもしろいね」
「女将さんは?」
「ミスティア・ローレライって言うの」
「ふうん。ローレライさんはこの屋台もう長いんですか?」
「うん? まあ、ぼちぼちかな」
「そうなんですね」
「でもわたしの話はいいじゃないですか。響子の話をもっと聞かせてよ」
そう言いながら半分よりちょっと少ないわたしのグラスにみすちーがお酒をつごうとするので、わたしはグラスの上に手をかざして、言う。
なんとなくさっきよりみすちーのことの距離が近くなった気がするから、かえって素直なことが言える。
「あ。お酒はもういいですよ。そろそろ帰ろうかなと思ってて。恥ずかしい話なんですけど、わたしお寺の人だからあんまりお金とか持ってないし……」
「えー。せっかくなのに」
「水をさしちゃって申し訳ないですけど」
「大丈夫。今日はわたしがぜんぶ奢るから」
「え。なんで?」
「だって響子はかわいいから」
「へぇ!?」
驚いてわたしがみすちーのほうを振り返るとみすちーはわたしのことをじっと見ていた。
「わたし、もっと響子とお話したいしお酒なんていくらでも飲んでいいですよ。食べたいものがあったらつくるし」
「なんで……よくわかんないです」
「わたし響子のこと好きなんだ。一目惚れっていうやつですね。最初に見たときからそうだよ」
「え。なんか冗談みたいなやつ? ごめんなさい、わたしあんまそういうのわかんなくて」
「ちがうよ。本当のこと。あ、わたし、誰にでもそんなことするわけじゃないですよ。響子は特別だもん」
「なんで……なんで。わたしべつにそんな……かわいいとか、じゃ……」
わたしはなんか怖い。
まじで帰りたい。
今すぐ雨が降ってくればいいな、と思った。
そうしたらそれを理由にすぐにここを後にすることができるから。
そういえば女苑にそういう話を聞いたことがある。
最初は向こうの方からめちゃくちゃアプローチして、それでお客さんをその気にさせて、でもその強いアプローチは最初が最後であとはつれない中途半端な態度でたくさんお金を搾り取るのだ。
やるのはすごく簡単なの、過剰さを演じるのはさ、けっこうやってて楽しいしね、って言ってた。
「え。ここってそういうお店なんですか?」
「そうかな……どうかな、そうかも。あとでみんなに聞いてみてよ。自分が愛されてることが特別なのかどうか」
空はイーブンの曇り空。
わたしは雨を待ってた。
昨日まではたしかに降り続けてた秋の雨を。
その季節になるとみすちーはどうしようもなくなる。
わたしのことが大好きでたまらなくなる。
それは、はじめて出会ったときからそうだった。
「いや、わたし、わかんないですよ……なんで?」
「だってさ、こんなみんなが上機嫌な日に響子はあんなにも全部がさいてーみたいな顔してさあ……」
「なんでそれが……」
グラスをぎゅっと握ったわたしの手にみすちーは手を重ねた。
わたしは少し痛い。
みすちーはわたしを見つめていた。
「かわいい……かわいい」
そのままみすちーは泣き出してしまった。
わたしは怖くてたまらない。
「ねー、ねえ、ねえ、お客さん」
「はい?」
「ひいてます?」
「うん」
「ひかないでよ……」
「無理ですよ」
みすちーは泣いている。
声を上げずに両方の瞳から涙がゆるやかに流れている。
あたりでは鳴く生き物が鳴いている。
その声以外に夜は静かで、みすちーの涙にも音がなかった。
みすちーの手のひらは汗が滲んでいる。
「ねえ、きょーこ、きょーこ、わたしもっと上手くやれればよかったなあ。もうこんなこときっと二度とないのに」
「そんなことないですって。きっといい人他にもいっぱいいますよ」
「そういうことじゃないんだよ。響子は特別なんだ。こんな日にさあ、こんな日に、こんな季節に……」
「わたしに音楽の才能があるからですか?」
「ちがうよ。あんなの嘘だもん」
「えぇ……」
「わたし響子のことを忘れちゃうと思うな。わたしね、いつもいろんなことを忘れちゃうの」
「みんなそうですよ」
「そうだよね。忘れちゃう。忘れちゃうな。わたし……たぶん誰にも言ったことないこと、忘れるのが怖くてたまらないんだよ。いつもお店に来てくれる人はちゃんと覚える。覚えている。いつもつくるメニューもちゃんと覚えておける。わたしなにを忘れるのかな……それがわからなくて、忘れたことは忘れているから思い出せなくて、響子はきっともう二度とここに来ることはないから、わたしは響子のことを忘れてしまう。誰かが来たってことだけ覚えていて、それが思い出せなくて、そのことをずっと考えて、それが思い出せなくて、もどかしくて、遠い場所には暮らしがある。そこには町の明かりがいくつもあって……」
「また、また来ますって」
「うそつき」
わたしがこの場から逃げようと立ち上がると、みすちーはわたしの袖を掴んだ。
「ねえ、響子」
「は、はい」
「一緒にバンドをやろうよ」
「わたしは音楽なんかできないですよ」
みすちーは躊躇って、握る指の力が弱くなって……言った。
「じゃあ……一曲だけ聞いて帰ってよ」
「むむ」
「一曲だけでいいから。そしたら帰っていいよ。わたしは響子のことを忘れるし、響子もわたしのことを忘れる」
「……うん」
「でも……わたし、歌には自信あるんだ。これはほんとに誰にも言ったことないこと……。わたし、Classicになれる。きっと、きっと、たぶん……。この夜を響子の忘られない夜に変えたいな。わたしのことを忘れてもわたしの歌は忘れない……」
わたしは肯かずに首を振らずに立っていた。
みすちーは屋台の裏側からアコースティック・ギターを持ってきてわたしの前、椅子の上に座ってそれを抱えるように抱いていた。
ギターを鳴らしながら音をあわせていた。
手持ち無沙汰にわたしは聞いてみた。
「あの、曲名はなんていうんですか?」
そのあとでみすちーが言った言語をわたしは知らなかった。
ᒥᖏᑎᑕᐅᑎᔪᖅ。
みすちーは恥ずかしそうに笑った。
涙の跡が筋になってほっぺたに貼り付いてた。
「これは……つまりね、あのね、わたしだけの言葉っていうか……。あはは……そういうね、そうゆう恥ずかしいやつでね……。でも、でも、わたし、いつも忘れちゃうから、曲書いてみてもそのうち忘れちゃうから、でもこれはすごくすごく大事な曲でね、忘れたくなくて、いつも喋る言葉で歌詞を書いたら普段使う言葉と混じってつながってそれがなんだったのかわからなくなっちゃうからそうしたけど、こんなの恥ずかしくて人前じゃ歌えないし、それに自分だけが知ってる言葉で歌詞を書けば忘れないと思って……思ってたけど……」
みすちーはおずおずとコードを抑えてまた少し弾いてみて、そのままやがてメロディを引きはじめて、チューニングはし終えたみたいに見えたのにそれはどこか歪んで、なんだか変な音で、なにかがりんりんと鳴いているだけの静かな夜にはじまりもわからないくらい曖昧に曲は始まって、それからみすちーは目を閉じて歌いはじめた。
わたしはどうすればいいんだろう。
みすちーとバンドを組んでたくさん音楽を聞いて曲のことだって少しは勉強した今でも、それをなんて言えばいいのか、わたしはわからない。
複雑なコード進行、不協和音、知らない言語、わからないメロディーはA、B、C、D、F……二度と繰り返されることがなく、発声は高く澄んで透明なようでも、みすちーだけの言葉に乗せてうたうみすちーの歌はツギハギだらけの液体みたいだった。
水が、雨が、水たまりが、コップの底でたゆたう飲み水が、風呂場の隅で淀んだ温水が、窓の外で結露した水滴が、汗が、涙が、体液が、川が、海が、縫い合わされて、いろんな青色……。
みすちーの歌は、たとえば、こんな歌だった。
「ᒑᕐᔪᖕᒥ ᔨ, ᒥᔅᑕ ᕼᐃᒃ ᖅ ᒥᑯᑎᓕᑯᑎᓕ
ᕆᔨᒃᑯᓐᓄᑦᐳᖅᐃᐃᓗᓂ ᓄᓇ
ᓗᒋᑦᓇᓱᒋᔭᐅᓐᓃᐅᖅᑐᑦᐃᒪ1897
ᑕᐃᒪᐃ ᑕᐃᒪᐃ ᐊᕐᓂᕐᒧᑦᖅ ᐊᒻ
ᑕᑯᔭᐅᖃᑦ ᐃᑲ ᐅᖃ ᔪᑦ ᐊᒻᒪ ᐃᕐ ᐅᖃᐅᓯᖓ
ᐊᕐᔪᐊᑲᑕᓇᓇᖕ ᕆᕝᕕᓕᒫᑭᓯᐊᓂ
ᐅᑯᐊ ᒪᑦᑎᐊᖅ ᑦ ᒐᕙᒪ ᑦ ᒐᕙᒪ
ᑎᕋᕐᕕᓕᒫᖏᒥᑦ ᕕᑉᐸᖕᓂᕐᒧᑦ
ᐅᑯᐊ ᒪᑦᑎᐊᖅ ᑦ ᒐᕙᒪ ᑦ ᒐᕙᒪ
ᓇᐃᔭᖅᑎᓂ
ᐅᓄᑦ ᐃ ᓂ ᐃᖅ
ᑲᔪᓯᑎᑕᐅᒥᖁᑎᒋᔭ ᐊᓂᖃᖅᑐᓄᑦ ᑭᒡᒐᖅᑐᖅᑕᐅᓂᐊ
ᐱᓕᕆᐊᒃᓴᑦᑖ ᐊᕐᓂᕐᒥᒡᓗ ᐊ
ᓇᐃᔭᖅᑎ ᒃ, ᐱᓕᕆᐊᒃᓴ ᓂᕐᒥ ᑐᒥᒡ ᐃᐊᖅᑎᓐᓇᖅᑕᑦ ᓇᐅᑦᑎ
ᐃᓄᖕᓂᒃ ᐃᖅ ᐱᓕᕆᕝᕕᖏᓐ ᑐ
ᑎᒃ ᐱᕋᔭᒃᑯᖏᑦᒃᑐᖕᓂᐊᕐᓗ
ᓂᑦ ᐃᖅᑲ ᕆᐊᒃᓴᖅ ᐊ ᐃᓱᑎᒃ ᐃᓕᖕᓂᖁᔨ
ᓕᒐᓕᐅᕐᕕᒃ ᑐᐃᓐ ᓐᓂᒡ ᓂᕐᒥᓂ ᓇ
ᐅᕗ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ
ᓕᒐᓕᐅᕐᕕᒃ ᑐᐃᓐ ᓐᓂᒡ ᓂᕐᒥᓂ ᓇ
ᐅᕗ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ ᖓᓄᑦ ᓇᓗᓇ
ᑑᑎᐅᓗᒃ ᐱᔾᔪᔨᕙᒡᓗᓂらーらーらーらーえーと……
あーだめだなあ……やっぱ忘れちゃうなあ
わーすーれちゃうなーわすーれちゃうよーーきょうこーのこともーきょうこのーひのーこともわーすーれちゃうーおわり」
歌い終えたあとでみすちーはまた恥ずかしそうに笑った。
それが素晴らしい曲だったのか、わたしは感動したのかどうか、わたしにはわからなかった。
今もわからない。
でも、わたしはみすちーの歌をいつも探している。
みすちーのもう歌わない、たぶん歌えない、その歌を。
ライブで別のバンドの演奏する曲やカフェテリアで流れる流行歌や木々のせせらぎや鳥たちの歌のなかに、時折みすちーのあの歌に似たメロディーを聞くときがある。
でも、それは、ふとした瞬間のことで、あとでまた聞いてみても、そんなメロディーを集めてみても、やっぱりみすちーの歌にはならないと思う。
そうだ、わたしはそれをもう忘れてしまったのだ。
そのことを考えてわたしは時々泣いてしまう。
あの夜に、恥ずかしそうにギターを抱えたみすちーを見て、わたしはすでにみすちーと一緒に過ごす今日にいて、どうしようもなく戻れなくなってしまった。
みすちーはわたしにおずおずと聞いた。
「あの、あの、どうでした?」
「難しい……っていうかよくわからなくて、ごめんなさい、わたし、きっと忘れちゃうと思います」
「うん」
「でも忘れたくなかったな。……本当に」
それからお腹が空いちゃったとみすちーが言うので、ふたりで残った煮物を食べた。
みすちーの煮物はとてもおいしかった。
みすちーはなんだか不思議と落ち着いていてあまり喋らないのでわたしばっかり喋っていた気がする。
これ美味しいですね。
いっつも精進料理ばっかだからこういうのって食べると余計美味しく感じますよ。禁煙の気持ちってやつ?
毎晩ここでやってるんですか?
屋台とかやってるとやっぱ太っちゃいそうだけど、ローレライさんは痩せてて羨ましいですよう。
わたしなんかは顔から太るタイプだからすぐみんなに言われちゃって。
みすちーはわたしの言うことに、それがなんであれ、ずっと笑っていた。
わたしに言うべきことがなくなってしまうと、わたしたちふたりとも黙りこんでしまい、夜の静寂には何かが鳴る音がだけがしてた。
空のグラスにみすちーはお酒を注ぎだした。
わたしはみすちーのことを見た。
みすちーの顔にはまだ涙の跡がはっきりと貼り付いていた。
わたしはみすちーこれ以上何を話したらいいのかもわからず名前だけを呼んだ。
ねえ、ローレライさん。
みすちーはグラスにお酒をいちど継ぎ、継ぎ足して、そのまま継ぎ続けて、やがてこぼしてしまった。
グラスから液体がぷとぷとぷととこぼれ続けた。
それを見ながら、みすちーは、あはあはと狂ったみたいに笑い出した。
液体は屋台のテーブルを伝い、やがてこぼれおちて、わたしの膝を濡らした。
「あ、冷たい……」
ねえ、ローレライさん、ローレライさん、とわたしが何度呼びかけてもみすちーはお酒を注ぎ続けていた。
わたしはテーブルを伝って落ちる水滴を足で浴びながら、なんだかおかしくなって少し笑い、足を流れる液体を指ですくってみた。
それは、とても冷たくて、冷たくて、冷たくて、冷たくて、まるで雪解けのようだった。
そのときにもうみすちーはわたしを憂鬱な山彦から雪国生まれの犬に変えてしまったのかもしれない。
それからみすちーは笑いながら言った。
「ね、きょーこ、表面張力ってあれ、嘘だよ」
雪国じゃあ表面張力のことを、単に凍結と、呼ぶ。
だから、雪国はわたしに出会う前から、みすちーの中にあったんだと思う。
どうだっていいことをすぐに忘れてしまうみすちーの中にあって、ずっと失われずに残っている、その雪国のことをわたしは知らない。
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みすちーに出会う前の話3。
2はもうどこにもないんだよ。
その頃のことを書いたメモはなくしてしまったから。
薬剤の記憶処理のせいであの頃の起こった多くのことは
今も あのときだって
曖昧模糊とした印象としてしか思い出せない。
いつも言葉を預かったらそれを吐き出してしまうことのないように。
部屋に籠もって誰とも話さず誰にも会わないようにして
ひとりで時が過ぎるのを待っていた。
ときどきわたしは里にいって食料を買い込んだり
夜に近場を散歩したりしたが
それ以外はたいてい部屋で過ごした。
そうだ 時間があったから文章を書こうと思っていた。
せっかく珍しい経験をしているのだから仕事のことをメモに記して残しておこうと思ったのだ。
でもあんまりうまくは書けなかった。
書けたとしても単語を並べることか
短い文章をひとつかふたつ置くことしかできなかった。
て。に。を。は。を信じて言葉を追ってもかえって
接続詞によってかろうじて繋がったツギハギの文章にしかならなかった。
構文が崩れて。
文脈がつながらなくなって。
時間の流れがばらばらになった。
昨日の日のことを 書いてたのに
それがずっと昔の思い出と混じって いないはずの誰かがいたり
言ってないはずのことを言った。
あるいは 昔の記憶について書いてたのに
預言者のように 未来の町を歩いていた。
まるで夜に見る夢みたいにね。
だからわたしは眠った。 その頃はとてもよく眠れた。
いつまでも。 いつまでも。
いつまでも。
眠れた。
夢を見た。
こっち側で口を封じられていたせいか 夢のなかでわたしはよく喋った。
生まれてからその日までに話したこと以上のことを喋ったような気がする
実際あの夢のなかでわたしはこれでもかというほど話し続けたものだ。
わたしは 誰彼問わず ひとりでも 喋り続けた。
もう会うこともなくなってた昔の友だちに
夢の中にしかいない架空の名前の友だちに
山彦たちの住む山里で暮らしている母親に
会ったことないはずの幻想郷の神様たちに
人里をひとりきり歩きながら
冷たい水で食器を洗いながら
あおむけに空を浮遊しながら
その頃住んでた小さな部屋で
昔働いていた山彦の料理店で
山彦たちの集まる学校の中で
聞く相手もいないのに言葉を吐き続けた。
今となっては何を話していたのかさえあまりよく思い出せない。
とにかくあの頃のわたしにはいくつもの主張があったような気がする。
誰彼構わず わたしはそれを話し続けた。
それが自分の中からなくなってしまうくらい たくさん。
だから あのとき話したことはすべてあの夢の中に置いてきてしまったのだと思う。
目が醒めるといつも喉が乾いていた。
シンクまで歩いて 水を飲んだ。 窓は締め切ってしっかり鍵もかけていたはずなのに
カーテンが揺れてた。
カーテンの上には小さな蜘蛛が這っていた。
蜘蛛はカーテンの裾から裏側に向けてうまく身体を折り曲げながら
くるり。
と
巡った。
それを目で追いながら わたしは夢を見ているな。 とわたしは思った。
目が醒めると喉が乾いていた。
わたしは毛布に包まりながら もう少し寝ていようと思った。
今度は それが夢のなかだとすぐにわかったから。
やっぱりカーテンが揺れていたので なるほど。 とわたしはひとり納得して
少し笑ったと思う。
実際のところ わたしは窓を開けたまま寝ていたのだ。
あの頃は現実に追従する夢をよく見たのだ。
夢から醒めて現実に戻ったと思うような夢。
それだけあの頃のわたしは曖昧だった。
夢と現実のちがいがよくわからなくなっていた。
わたしは文章を書くのではなくて音楽でもやればよかったのかもしれない。
それなら 曖昧なままでも
なにか形になるものを残せたのかもしれない。
でもそれはみすちーに出会う前のことだ。
そうだよ。
みすちーに出会うまでわたしの暮らしは全部夢だった。
今になって思えばそのことも貴重な経験だったとは思うけれど
頼る人もないなかで
よくあの時代をうまく乗り切れたものだと考えることもある。
危険な目にあいそうなこともあった。
あの頃のわたしには今はもうない異常な諦念があって
まあなんとかなるよね
って 思って何も気にせずに現れる出来事を現れるままに受け入れることができた。
貴重な経験?
それって結局 単なる 胃腸の痙攣にすぎないし。
(薬剤を飲み干したあとのFD風の続く数時間。
ブルーの液体。揺れてたな……。
まるで海のように。
海ってわたし別に知らないけど。
みんながこんなときにはたいてい海みたいって言うからやっぱりそれはまるで海のように……。
青色の液体とか広くて青いもの。 波だったブルー。
盗んだ比喩を重ねてそれをわたしはいつも海って……。
青い空。
広い湖。
水色の風呂敷。
みすちーの甘色の体液。
いつまでも続く深い憂鬱。
コップの中に注がれてはこぼれてしまう液体。
それらがすべての海の一部で。 わたしの海のすべてで。
いつしかみすちーと見に行きたいな。
海ってぜんぜん海じゃないじゃん! とかみすちーが言ってくれたならそれだけでわたしはいいな。
みんなの嘘を暴いてもべつに満たされないけれど。
わたしがずっと海だと信じて想像していたものが海じゃないとしてもぜんぜん悲しくないけど。
ほんとのことなんかたいして知りたくもないけれど。
いつかみすちーと海に行きたいな。
ふたりで。
海に。
海で。 。 。 。)
そんなふうに夢ううつの数年を過ごした。
だから あのメモの中に書いてある人やモノや出来事は
当時に出会ったものよりも 昔 わたしが暮らしていた故郷の山のことがずっと多い。
あんな仕事をしてしまったせいで数年間誰にも会えなかったし連絡も取らなかった。
時折メモを見返すことがあると故郷のことを思う。
わたしが暮らした故郷は妖怪の山の高いところにある山彦たちが住む小さな森だ。
わたしたちはある種の一族であり そこで住んで暮らしていた人たちの顔はみんな知っている。
わたしたちには反響と記録に関する同じ特別な力があり
そのひとつの例として古い時代から世代へ世代へと延々に受け継がれてきた特別な言葉があった。
年に四回 無作為に選ばれる山彦たちの中でさらに籤引きによって選ばれた
ひとりの山彦。
彼 彼女 はその特別な言葉をひとつの季節の間自分のなかに閉じ込めておく。
そして次の季節が来たらすべての山彦の前でその言葉を吐いて
また別のひとりの山彦がその言葉を記録する。
それは悲鳴と涙である。
伝承によればその悲鳴はまだ山彦たちが妖怪の山で縄張り争いを繰り返してた頃
その戦争のさなかにひとりの山彦が大切な人を失ったときにあげた悲鳴と涙声だと言われている。
過去の戦火悲劇と今の平和の価値を忘れないためにその悲鳴を受け継ぎ続けているという
そういう話だ。
わたしはいいことなのか悪いことなのか選ばれたことがなかった。
少なくとも籤引きには。
でもわたしが運び屋をしていた頃ひとりの山彦がわたしの前に現れたことがある。
彼女は『今からわたしの言う言葉を預かってほしい』というメモを
わたしに
手渡した。
わたしは肯いたのだ。
次に彼女が発したのは例の一族の悲鳴だった。
それから彼女は笑った。
「これで貴方も共犯だね。
好きにしていいよ。
みんなのとこに戻ってそれを返してきてもいいし。捨てちゃってもいいと思うな。」
それから依頼料をわたしに手渡して。
去り際にこんなことを言った。
「わたしがひどいことをしたと思う?みんな同じこと
をやってるよ。老人たちは忘れないためにとか言う
けどそれだってただみんなを共犯にしたいだけなん
だと思うな。同じ悲しみにみんなを浸らせるため同
じ罪をわたしたちにも被せるため。戦争とかわたし
たちには関係ないじゃん。戦争はあいつらが馬鹿だ
から勝手にやってただけだもん。それでたくさんの
人たちが死んだことやいっぱい被害が出たのはかわ
いそうだとは思うよ。でもそれを忘れないためにと
かそんなんはあいつらのノスタルジーのためだけで
さわたしには関係ないもの。わたしは知らない。貴
方がどうするのかも知らない。好きにすればいいん
だよ。みんなそうしてる。」
わたしは捨てることを選んだんだと思う。
その夜に わたしはひとり森の深いところ 誰もいないその場所で。
悲鳴をあげてそれから泣いた。
もちろん涙はでなかった。
わたしたちが記録するのは声であり 声を上げるときに必要な身体の動きであり
その音は 代から代へと季節が変わるたびに空気を伝播して
かすれて
小さくなって もはや本物の涙を必要とはしていなかった。
わたしは静謐な夜の森の奥で
そのままひとりで泣き続けていた。
しばらくの間。 長い間。
そうしていた。
最後のほうで一筋の涙がこぼれた。
それは数百年分の空っぽの涙。
わたしは泣き声上げるために追従する身体の動きによって泣いたのでも
一族の悲劇を思って泣いたのでもなかった。
わたしはもう戻れない故郷のことを思って泣いたのだ。
まるで海を語る人々の言葉を剽窃して海を知らないわたしが液体を海に比喩するように
わたしは一族の悲鳴と涙を剽窃して
わたし個人の悲しみに涙したんだった。
ねえ、みすちー。
わかるよ。
(なんて言ったらみすちーは怒る?
安易な共感を嫌うみすちーならこんな単純な同調は鼻で笑うかな。
でもわたしのやつは いつも特別で許してね。)
なんだって忘れちゃうよね。忘れちゃうよ。
一族の悲鳴でさえ数百年もしたらもはや涙を流せないほどに小さくなってしまうのに
わたしのこの悲しみもだってきっと数年も続かないだろうな。
もう二度と見ることのないだろう家族や友だちや故郷。
今はそうやって悲しんでみたりしたってそのことだってすぐに忘れて
どうだってよくなってしまうかもしれないし あるいはひょっとすると
ひとりでこんな大見得切ってさ/
切ったくせにさ いつかなんてこともなく戻ることになるのかもしれないよ。
でも 今は帰れないね。
帰れないな。 帰れないよねえ。
帰れないよ。ねえ。
(つづく。)
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case2!
そういうわけで、わたしたちはY字路を右に歩いた。
そもそもコインランドリーに続く道は右に決まっていて、みすちーがそれを忘れてしまったのだとしても、わたしがそれを覚えているのだから、道は右に行くほかなかったのに、ああやって立ち止まってしまったことで、こうして思い返したときに記憶のなかにまるではなから左を選ぶ可能性があったかのように挿入されて人生はまたひとつcase2を重ねる。
歩き続けなければ、歩みを止めてしまえば……、立ち止まってしまうたびに人生は過去で分岐して、あるはずもなかった未来が募っていく。
case3……case4……case5……case6……というように。
とまらなくなる。
なーむ。
とにかく今わたしたちは右を行きそのまま歩けばコインランドリーは、すぐそこ!
雨脚は強くなる。
ぱちぱちぱちぱちぱちと打ち付ける雨の音も大きくなってみすちーの喋る声も歌も聞こえなくなってしまいそうだった。
わたしたちは怒鳴るように喋る。
「ねえ、みすちー! 明かり見えたー??」
「見えないー」
「そろそろ着いてもおかしくないよー」
「そんなの忘れたー」
「着いたでしょー!」
「つかないー」
「あ!明かり!明かりが見えるよ!」
「見えないー」
「見えるって!ほら!あそこに!」
「あ、待って」
みすちーは足を止めた。
わたしはすぐに追いついてみすちーの横に立つ。
立ち止まるみすちーの見つめる先には黒い羽の生えた女がいた。
天狗の女だ。
わたしたちの歩く森の木々の間のぬかるんだ道の先を少し外れた巨大な樹の下で雨を躱しながら煙草を吸っていた。
煙るような白い雨の先に煙草の先端の焔が、見えない。
少し奥で、後ろ側で、遠い場所で、コインランドリーの明かりがあった。
激しい風が吹いている。
黒い羽はひどく羽めいて風にはためき、長い髪がなびている。
女はちらとわたしたちのほうを見たようだった。
みすちーはわたしそばに近づいて。
わたしの大きなやつに。
耳打ちした。
「あの天狗は人を殺したね」
「え、どうして?」
わたしの声はまるで雨音にかき消されてみすちーには聞こえないみたいだった。
「あの天狗は人を殺したよ」
「どうして?」
「むかしわたしのおばあちゃんは天狗を嫌ってた、あいつらは人を殺すんだよって言った」
「へ? どうして?」
「空を飛ぶ種族、しかも古い世代しか知らないけど、昔は空に交通のルールがあったんだよ。今とはちがうやつよ」
「どういう話?」
「むかしA空は天狗たちのものだった。つまり空にランクがあったんだよ。見えない層があったんだ。高いところが偉いの。領空侵犯は重罪よ」
「何の話?」
「それはいちおー理にかなってはいるんだよ。響子は飛ばないからわからないだろうけど高いところを飛ぶほうがいちばん大変なの。いちばん飛ぶのがつらい空はえらい天狗が飛ぶの。それってノブリス・オブリージュってやつかな。それとも単に飛行に関する構造の問題? 幻想郷における数十年前の空理論は、層理論が主流よ。その見えないほんとはあるはずもない境界で区切られた層ですべてを説明しようとしたの」
「どうして」
「つまり、層理論においては台風とか雨とか雷とか雪とかいわゆる天候の荒れ、みたいなやつはぜんぶその層同士の混じり合いで説明されるの。層ごとはちがった性質を持つってことになってて、たとえば、たとえばC空は水の性質を持ってるとかそういうやつさ、だからD空を飛ぶ類の鳥たちは進化の類形に魚を持つ、みたいなことが真面目に論じられてたんだよ……わたしもおばあちゃんから少し聞いただけだから、なにがなんだったとかはもう覚えてないけどさ。せっかくだからもっとちゃんと聞いておけばよかったかな。でもどーせ忘れちゃうかあ」
「どういう……」
「でも雪の講義についてはよく覚えてる。あんまりに馬鹿らしかったからね。層理論においてどうして雪が降るんだと思う?」
「どうして?」
「すべての層がひとつに交じるからだよ。すると空が凍るの。そして重さに耐えきれなくて、冷蔵庫の霜が落ちるように……雪が降る、って、ってさあ。たぶん、この土地において雪が最も珍しい天候だったからそうだったんだけど、それにしてもねえ」
「だからなんなの?」
「もちろん今は誰もそんなことを信じてないよ。『空、地、憂鬱に関する統一論』。昔がっこで習ったな。今じゃ、憂鬱さえもすべてが気圧によって説明される。わたしたちは進化してるよ……」
「どうして?」
「言ったことあったっけ。わたしむかし音楽学校に通ってたんだ。ちょうど鳥インフルエンザがここでも流行った時期だよ。響子の方では話題になったのかなあ。鳥インフルエンザは特に天狗たちにクリティカルでねえ。いちばんの時期には空からまるで雨か雪のようにばたばたばたと黒い天狗たちが落ちてきた。見たわけじゃないけどね。そのとき響子は何してた? わたしなら鳥たちの音楽学校でコード理論を学んでた。でも途中でやめてね。しばらくふらふらしてて、小さな旅亭で働いてたんだと思う。あ、思い出した。遠い場所の寂れた湿地帯の近くの人のやる旅亭よ。春が終わる頃から近くに水芭蕉が咲くから人が来た。目の悪いお婆ちゃんとその娘が大概やっていてわたしが妖怪だって知ってるのに雇ってくれたの。なんだっけ、なにかそのことについて言っていて、わたしはひどく嬉しかったのにそれは忘れちゃったな。さすがに人前には出られないから裏で働いてた。厨房で料理を作ったりシーツを洗ったり風呂場を掃除したり。すごく真面目にやってた。好きだったの。小さな客室にひとつ部屋を借りててね。そこで暮らした。二年半。あれ半年だったかな。結局潰れたのか……いや、お婆ちゃんが死んだんだったかな。あー泣きそうだな。いや、建物が老朽化して建て替えるお金もなくてそのまま閉じてしまったんだったような気もするな、そこで自殺した人がいて悪い噂が立ったせいかもしれないね。いったいなにが妥当なんだろう、小さな旅亭が潰れてしまうのにさ。それでそこをやめてまたこのへんに戻ってきて、それからの数年を、忘れたコード理論を思い出すために過ごした……」
「そうなの?」
「ごめんね。急にこんな話。今たまたま思い出せたから。覚えているうちに響子に聞いてもらいたいんだよ。忘れないように。本当はわたし、ただ、そのときねえ響子は何してた?って、いつでもそれだけ、いつもそれだけ、それだけだったのに……。でも、もう少し思い出せるかも。そういえば、もう一度だけ会ったんだ。音楽学校に教本を借りるために戻ったときに。その子は天狗の子で、鳥たちの学校にひとりだけいたの。天狗たちの音楽学校もあったけれど、その子は試験で落ちて入れなくて、だからそこに来てたんだと思う。その子は馴染めてなかった気がする。鳥たちのなかでひとりだけ天狗だったんだもんね。二重の意味でさ。実際音楽理論じゃ天狗たちのほうが一歩先を進んでたんだよ。それでその子はみんなとはちがうって態度をとってて孤立してたの。アングラ風のスタイルをやってた。その子はわたしは人間を殺したことがあると言っていた。みんなは誰も信じてなかったけどね。そうだ、教本を手に入れようと思って、音楽学校に戻ったとき、その子に会ったんだよ。音楽学校の砂利敷きのちっこい庭でさ。わたしはあの子のことを覚えていなかったけど、あの子はわたしのことを覚えていた。やあ、ってあの子は言ったと思う。実際わたしは困ってたんだ。教本は欲しかったけど、途中で何も言わずにやめちゃったからまた戻って先生に会うのも恥ずかしかったし、だからあの子にお願いしてみたの。教本を盗んできてもらえないかって。響子は軽蔑する? わたしのこと嫌いになる? 嫌いにならないでね。ほんとは話をして借りるつもりだったけど、つまり……あの子はそういうスタイルだったから、それをそのときはっと思い出しちゃってそう言ったんだよ。そしたらあの子はにかんで、いいよ……って。わたしは待ってた。音楽学校のそばの小さな木立の入り口に座ってさ。三十分経ってあの子は戻ってこなかった。一時間して二時間して外は夕暮れになりはじめて音楽学校からは鳥たちのハミングや金管楽器の鳴る音がずっと聞こえてきてさあ、三時間して外は暗くなりはじめて、まだ少し明るい空に星がしみのように浮かんできて、あの子は戻ってきた。ぼろぼろの教本を抱えてた。それからわたしにいらないものでも渡すって感じでね押し付けたの。それきりだよ。もう会わなかったな。あの子自分の演奏会の話をしたっけ? わたしは行くって約束して、チケットをもらって、でも行かなくて、いや、えへへ、ないかあ。やっぱ、ないねえ。そんなのないよねえ。話にはありそうだけど、そんなことなかったんだろうね。たぶん、たぶん……。それで、たしか、そのもらった教本はあの子のずっと使ってた教本だった、って、結局そんなことだった気がする。でもわたしはあの子が盗んできたということにして、これ、盗んできたからと言ったあの子に、ありがとう助かるよって言ってあの子の言うことを信じたから、だからわたしは天狗が人を殺すんだって思うのか……それとも最初からあの子はただ盗んできて、あの子はほんとにアングラだったから天狗は人を殺したのか、どっちだったんだろう?」
みすちーはもう一度おんなじことを言った。
わたしの声はまるで雨音にかき消されてみすちーには聞こえない。
「ねえ、あの天狗は人を殺したよ」
「あの人は関係ないじゃん」
「見つかったら、わたしたちも殺されちゃうよ」
「ねえ、どうしてなの?」
「逃げよう!」
case3?
わたしたちは逃げ出した。
それからの新しい時間をわたしたちは嵐を躱して過ごす。
道を逸れて草木をかきわけて進み大きな樹を見つけて風を剥ぐようにその幹を背にして座り込み時間が通り過ぎるのを待っていた。
激しく揺れる木々の葉から少しずつ垂れるように、あるいは風に乗って、雨は簡単に忍び込みレインコートの中でわたしたちを浸した。
汗や雨や水滴が混じったものが肌の上で滲んで衣服と癒着し泥のようにぺたぺたと貼り付いてた。
わたしはぬかるんだ土の中に沈んでしまった気持ちだよ。
なんだか眠たいな。
小さな、あくび。
わたしたちの少し前には、真っ赤な手押し車。
三つの車輪はすっかり泥めき、車体は青色のブルーシートをぐるりと被せられて空の方向に奇妙に膨らんでいた。
まるで水分を吸って少しずつ巨大になる生き物みたいにね。
それがたくさんのみすちーの衣類を運んでいることをわたしはなんだか少し忘れてしまいそうになっている。
あの子の内側のカラーフルな繊維状の体液……。
時折その上でぱしゃぱしゃと雨が跳ねる。
さらに先では降雨がその境目もわからないくらいに激しく降りしきり、夜の闇の曖昧の中で地に打ち付けて跳ねる水飛沫は白、手押し車の車輪はぬかるんだ泥の奥に積雪にするみたいに深く沈み、跳ねてわたしのほっぺたをうつ粒はこんなにも冷たくて、まるで吹雪いてるみたいだよ。
唯一、激しく鳴る音だけが雨のようだった。
みすちーは雨をじっと見ていた。
「戻る道がわからなくなっちゃったかも。響子は覚えてる?」
「うん、たぶん。たぶんね」
「やるう。犬だから鼻が効くんだ」
「匂いで覚えたわけじゃないけど……」
「あはは、そう?」
「そうだよ、もう。でもちゃんと目印を探したよ。わからなくなっちゃったら遭難だもん」
「遭難? 遭難……。あはは。そんなん大袈裟だって」
でも、わたしたちはここで遭難みたいだったよ。
ひどく吹雪いた雪山の中で小さな穴ぐらにふたり身を寄せ合って降る雪をじっと見つめながら吹雪が通り過ぎるのを待っている。
わたしは眠いな。
また、あくび。
このまま眠ったら死んじゃうだろうか?
なーむ。
「ひぃぁああ……ん。だって雪みたいだからさ」
「雪?」
「わたしいつも思うんだ。こんな嵐の日には。雨の日には。それがまるで吹雪とか雪降るみたいだって」
「え、ゆきぃ? 雪なわけないでしょ。雨は雨だよ。どうしたら雨が雪になるの。それってみぞれの季節のこと? どんな魔法を用いったって雨を雪に変えることなんかできるわけないわ」
でも、みすちーには、それができる。
みすちーは、わたしを山生まれの犬から雪国生まれの犬に変えて、いつしか、わたしに降る雨を雪に変えてしまった。
「ただの比喩の話だもん」
「いや、比喩だって、雨を雪みたいって言うのってよくない気がするけど。両方空から降る天気だしそれって近すぎて、なんか似てるって言えばそうだけど、当たり前だし、なんていうか、それが比喩なら近親相姦ね」
「近親相姦ってだめなの?」
「わたしは兄弟とかいないから知らない」
「わたしも、そう……」
雪が降っている。
みすちーは落ち着きなく赤色のおもちゃみたいなレインコートの端っこをわたしの透明なレインコートの腕に擦り合わせて、かしゃかしゃと鳴らしながら、しばらくの間黙っていたけれど、やがて言った。
「そもそもわたし比喩って嫌いよ」
「そうなの?」
「さっきの近親相姦もそね。わたし近親相姦についてなんにも知らないのに考えたこともないのにまるで近親相姦みたいって言うだけでなにかを言った気になる。足りない語彙を比喩で補う。誰かの人生や感情を剽窃して単に二束三文のことを言う……。比喩って喩えるものをほんとは知らないから喩えることができるんだよ。もしもそのことをよく知っていたら、それとそれは明確に違って深く知ることによってその違いを愛するだろうから、簡単にまるでなんとかみたいにとか言わないでしょ。事物を知らない子どもたちだけが比喩を使う。知性と礼節を欠いた人間だけが比喩をやる。だって、めくらの前でさ、まるで盲目になったみたいに……とか言えないもの。わたしは比喩は嫌だな」
「そうかな……」
「ねえ、響子、言いたいことがあるなら、いつでもそっくりそのまま言えばいいんだよ」
みすちーはレインコートから指を出してわたしの透明な袖をぎゅうと握っている。
「ねえ、ねえ」
「なぁに?」
「ねー」
「なに?」
「あのさーー」
「うん」
「なんていうかなあ……」
「うん」
「わたし思うんだよねえ、つまりさあ……うう、雨痛ったぁ」
「ここまで入ってくるね、ぜんぜん、ふつーに」
「ねー。ぜんぜん、ふつーに」
「えへへ、そうだよ」
「あのね」
「うん」
「あのさぁ、わたし思うんだけどね、優れた詩人にあるのは断捨離の才能なんだよきっと」
「どういうこと?」
「つまりね、知らないから比喩できるなら、単純な逆説でね、比喩するためにはそれを知らないでいる必要がある。それを忘れてしまう必要がある。雨を雪みたいって言ったなら、それからは雨見るたびに雪を思い出してしまう。そしたら雪の性質は雨と混じり合って、もう雪を正しく雪だと思えなくなっちゃうの。それで、ひとつ捨てる。雪を捨てる。あいつらは捨てても惜しくないんだよ。優れた詩人たちはたくさんの言葉や事物や感情をを知ってる。ひとつ捨ててなお有り余るほどの言葉を。ほんとは美しい詩は誰にでも書くことができるんだよ。でもそれに至るための言葉を捨てることができないだけで。みんなは詩人たちほどたくさんのものを持っているわけじゃないから、それを自分のものとして大切にしまっておく。それだけのことなんだよ。逆に何も持たず詩を書くなら、やがて手に入れたなにか小さなものなんか絶対捨てられないんだろうし、逆にすべてを捨ててそこにいるならそれはもうただ空っぽってだけでしょ。空の言葉なんか、そんなんうさんくさくて、愛せないよね」
「どうかな」
「喩えたら忘れちゃうよね。もし、喩えるならを、喩えるなら、”喩えるなら”それそのもの自体が、三歩、みたいな感じ。鳥あたまってことだよ。歩くと歩いていっただけ通り過ぎた景色を忘れてしまうように言葉を継いだら継いだだけのことを忘れてしまう。だから、わたし、まるで響子みたいだなんて絶対言えないよ。まるで響子みたいだね、なんてさ、そんなこと……。だって、響子のこと、今日この日のこと、とか、えへへへへ……いや、忘れたくないものね。だから、言わないよ。まるで響子みたいだねとかはさ。でもなんだか響子みたいだよ、ああまるで響子みたいだな、あの葉っぱはすごく緑色だからこんなに響子みたいじゃん、この夜はとってもやかましくてなんだか響子みたいだよ、ああ、だめだな、わたし、こんな、こんなにも、毎秒すべてが響子みたいだって思ってはやまないの! あれ、でもさ、そもそも響子ってなんだったんだっけ? 音楽記号とかそういうもの? svegliandoみたいな……。でも、あの木は茶色と緑色でまるで響子みたいだな。あの光はとっても明るくてなぜだか響子みたいだよ。甘味処のいつもタメ口で喋るうざい店員がかわいいから響子みたいだと思う。忘れては思い出して、思いだしては忘れてしまって……ねえ、毎日が初恋の気分だよ」
みすちーはわたしの袖口を指先で握っていた。
それを振って、かしゃかしゃと音を立てている。
「響子のこと好きだよ。好き、好き、好き……。こんなにも……。ね、お腹空いたね?」
「うん」
「響子はいまなに食べたい?」
「えーなにかな」
「なに?」
「うーん」
かしゃかしゃ。
「サンドイッチとか?」
「ほんとに? じゃあ、こんど作ってあげるわ。この前すごくおいしい組み合わせを見つけたんだ」
「どういうの?」
「秘密……」
「えー」
かしゃかしゃ。
「嘘だよ。教えてあげよう」
「どんなの?」
「シュリンプとツナとレタスと特別なマヨネーズ」
「あ、おいしそう」
「でもさ、それはずるだよ」
かしゃかしゃ。
「え、なにが?」
「だってさ、エビとか、それだけで十分おいしいじゃん。だからサンドイッチにする必要とかない」
「ああ、たしかに。そうかも」
「ねー、そうだよねえ」
かしゃかしゃ。
言葉を話すたびにみすちーはわたしの袖を振るから、鳴る。
そのままみすちーはわたしのビニルの首筋に頬寄せてぐしぐしとこすりつけた。
「わあ。つめたい……」
「濡れちゃうよ?」
「じゃあ濡らさないでよ」
それでもみすちーはわたしの首筋に顔を寄せたまま。
かしゃかしゃと鳴ってた。
「ねえ、響子……」
「なぁに?」
「おなか空いた」
「戻ったらなにか食べようか」
「やだやだやだ、お腹すいた」
「我慢しなって」
「わたしお腹がすくと寂しいよ。みんながわたしのことを憎んでるような気がするな」
「気がするだけだよ」
「そんなのあたりまえじゃん。でもお腹がすくとそんな気がする」
「うん」
「飢餓感は憎しみだよもう。食べることは復讐なんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。飢餓の孤独が人をモンスターに変えるんだよ。全部を食べてしまいたいな。ばりばりって」
「ばりばり?」
「響子のことだって食べちゃいたいよ」
「それってなんていうか、えっちなやつ?」
「そういうのいらない。そういうのわたしの前で二度と言わないで」
「ごめん」
「ねえ、響子、お腹すいた」
「どうすればいいのさ」
「そばにいてくれればそれでいいのよ」
「わおーん……」
ほんとにどうすればいいのかわからなくて、わたしはわんわんと泣いてしまいそうな気持ち。
わたしたちの外側では吹雪が降っている。
暗闇。
こんなところに遭難してわたしたちはふたりきりなのにわたしにはいつもみすちーのことがちっともわからない。
みすちーはわたしの袖口を振ってた。
夜はさらに深く、吹雪はちっとも収まる気配がなく、そのあとは時間が通り過ぎる音をわたしはずっと聞いていた。
それはこんな音だった。
かしゃかしゃ。かしゃかしゃ。
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また別の似たような日。わたしたちは機材置き場にふたりで座っていた。古い換気扇のぶううん…ぶううん…という音がとても耳障りだった。わたしたちは逃げ出したのだ。そのとき手を引いて先導したのはみすちーじゃなくてわたしだった。それはフェスタの日。わたしたちがフェスタにはじめて参加したときか二回目か三回目かまあそのあたりのことでライブの直前で控室から逃げ出してしまったのはわたしだった。吸血鬼の暮らすお屋敷のパーティー会場の広間から少し離れた廊下の奥の機材置き場の隅にわたしたちは並んで座り込んでいる。わたしは天井まで届くような巨大なアンプに背中を預けて聳え立つ電子ピアノの鍵盤の裏側を見つめながら背にした壁に立て掛けられていたギターのわたしの腕とまるまる等しいほどの巨大な直径の弦を掴んで引っ張って離した。聞こえた音のあまりにか細いことに落ち着かない。巨大な楽器が木々のように立つ森。わたしたちは遭難したみたいだった。「まるで不思議の国のアリスみたいだよ。」わたしがなんとか喋ると「迷い込んだの? 不思議の国……不思議の国だっけ? アリスって女の子が? わたし読んだことないからね」ってみすちーは少し笑った。この機材置き場でわたしたち二人はとてもとても小さいようにわたしには見えた。それはスケールの問題だった。雑多な感じで立て掛けられ重ねられた音楽機材たちはどれもとても巨大でそれに比してわたしたちはとても小さく感じられた。天井がとほうもなく遠い。向かった壁の高いところに取り付けられた明かり取りの窓はどのように視線で追ってみても一般的な窓に対して想像するよりもずっと縦に長くて上の方まで見上げてみると首も痛いしひっくり返ってしまいそうで窓時代の形も天井に向かうにつれ少しずつ細くなっていきこちら側を見下ろす威圧感を含んだとほうもないほど巨大な台形のような奇妙な形をしていた。みすちーは床の上でわたしの手の甲に手を重ねてわたしがみすちーの方を振り向くように仕向けてそれから笑った。「でも症候群なら知ってるよ。不思議の国のアリスの名前がついた症候群。きんちょーすると周りのものが大きく見えたり小さく見えたりするやつでしょ? 流行り病だっけか。」「流行り病ではないよ。」「あーそーだっけかぁ。」わたしたちの出番まではもうほんの少ししかないのにみすちーはちっとも焦ってる風ではなかった。「穴に落ちるんだっけ?」「え。アリスが?」「そう、アリスが。」「うん。」「うさぎを追って。」「うん。」「アリスが子供に戻るんだっけ?」「アリスは最初から子供だよ。」「あーそっかぁ。」わたしはみすちーがよくわからなくなっていた。わたしたちがバンドを組んで数年は経っていた。わたしたちは何度も会ってはセッションをしたしたくさんのことも話したしときには喧嘩もしたけど前のフェスタから一年が経ちまた新しいフェスタがやってきてみすちーはまったくちがう生き物になってしまっているみたいにわたしには思えた。この前のフェスタは少しよい結果が残せたので名前も多少は売れた。それだから今回のフェスタはわたしたちにとって重要なものになるはずだった。そのせいで余計にわたしは緊張していたわけだけれどそもそものわたしの不安はみすちーへの不信感からはじまっている。みすちーは去年のフェスタでやった曲の多くを覚えていなかったしフェスタが近づくにつれ言うことはどんどんちぐはぐになっていきなんだかフェスタなんかどうでもいいというふうで去年のフェスタのあと二人であんなに飲み明かしたあの頃の情熱も失っているように見えた。それがわたしは寂しかった。今にして思えばそれはみすちーがこの季節がやってくるたびに物事を忘れてしまうせいだったんだろう。でもその頃のわたしはそんなことを知らなかった。わたしはみすちーのことがちっともわからなかった。少しだけ怖かった。ぱちんぱちんとピースを嵌めるたびにぱちんぱちんとピースを嵌めていったところから絵が変わっていくジグゾーパズルのようだった。みすちーは床の上でわたしの手を握ったまま言った。「でもアリスが流行り病じゃないのはいいよねえ。伝染らないし。」「アリスが症候群ってわけじゃないけど……。」「ああ、そう?」「うん。ねえ……ごめんね。」「いいよ。別に。」わたしたちの間には壁を背にして(わたしがそう見えるやつってだけだが)巨大なギターがあった。それをみすちーは取り上げて抱きかかえて見せた。巨大なギターはみすちーの腕の中で不思議なスケールを保っていた。それはたしかにみすちーの小さな腕の中に抱えられているように見えるのにそれをギターとして見たときそのギターはひどく巨大に感じられる。ぽろんぽろんと小さなみすちーは巨大な弦を弾いて鳴らしていた。それから抱えたギターを見つめたまま、ふふふ、と笑い出した。「いいけど。いいけど。いいけど。響子が今日のことを一生引きづらないか心配だわ、ふふ」「え。そうなっちゃうかな」「そりゃあそーよ。今日はいつもとちがう大事なライブだったわけでしょ。わたしたちの未来を左右するかもしれない……。それにフェスタはこの土地でいちばんで音楽イベントだわ。バックレたら出禁になっちゃうかもでしょ。これから先わたしたちがずっと一緒にやっていくならそれって大きな足かせだわ。わたしたちの未来を台無しにしちゃって響子は大丈夫かなあと思って。」「ほんとにごめんね。お、怒ってる、よね?」「ふふっ、怒ってないよう。ふふふ、ただ、純粋にきょーこが心配なだけ、ふふふふっ」「あの、みすちーが気にしないでいてくれるならだいじょうぶ……だと、思う。」「あははは、ほんと? それじゃあ気にしないでいようかなー。」「そうしてもらえると助かるよ」「ね。きょーこ。忘れちゃえばいいよ。今日のことはさ。そしたらなかったことにできる。」「みすちーも忘れてくれる?」「まあ、そうね…………いや、いや、いや、ふふふ、忘れないもん。ふふっ、絶対」「えぇ……。ひどい。」「えへへへ。」どうしてみすちーがそんなにも面白がってるのかわたしにはわからない。単純に人の弱みを見つけるとたまらなく嬉しくなってしまう性質なのかな。さいてー。みすちーは巨大なギターの弦をひとつひとつ指でひっかけて鳴らしていた。楽しそうに歌ってた。「おおきなーまちーでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おもちゃのーまちーでーくーらーしてましたー。きょだーいーないぬでしたー。」奇妙に縦に引き伸ばされた台形の窓からは夕光。この小さな大きな部屋に煙のように溶け出して淡い橙色で染める。ぷかぷかと浮かんでいた。埃。そういうのチンダル現象って言うんだっけ。みすちーのあくび。巨大な楽器たちの影が長い。黒い。今度はぴろぴろぴろと複雑なギターリフを雑にやりながら鉄塔のてっぺんのようなこの部屋でみすちーはなんだかとても楽しそうだった。わたしは思う。「むかつく。」「んー……なんで?」「こんなときなのにみすちーはとても楽しそうだから。」「あはは。そう?」「そうだよ。」「そっかそっか。」「なにそれ。」「ひぃぁあああ……んん。でも少し眠い。」みすちーはまたギターを弾こうとするからわたしは腕を伸ばして弦を全部抑えた。みすちーの指の揺らぎをギターの弦を通してわたしは知る。音は鳴らない。「あれ……失敗……。」「ねえ、みすちー。お願い、もっとちゃんと考えてよ……。」「ねーきょーこ。」「なにさ。」「わたし響子のいるところを想像してみたの。」「わたしはここにいるじゃん。」「じゃなくてねじゃなくておおきな場所よ。響子にしか見えないこの場所のこと。こんなに大きな楽器たちに囲まれてなんだか楽しそうじゃん。まるでアリスね。穴の中で。兎を追って。シルクハットをなくしちゃうんだっけ?」「シルクハットは兎が被ってるんだよ。」「あーそっかそっかぁ」「うん。」「ね。響子を見てるとわかるんだ。仕草とか目線とかでね。ほんとにものが大きく見えてるんだなあって感じるの。」「そう?」「うん。楽しそうだ。」「そんなにいいものじゃないよ。」「ふーん。」わたしはなにもかもがどうでもいいという気分になりはじめていた。ライブのこともみすちーのことも。このままライブに行って曖昧な演奏をして惨憺たる結果に終わり最終的にわたしたちが解散することになろうがべつにいいやという気持ちだった。苛立ちによってわたしは決心した。それを言うことにした。「ね。みすちー。わたしライブに行くよ。」でもみすちーは手元を見つめて小さく首をふったのだ。「行かないよ。」「えなんで?」「なんだか眠くなってきちゃったもん。」「せっかく勇気を出したのに?」「そうだよ。」「行こうよ。行かないとまずいよ。」「なんで?」「だってだって出番があるし。」「べつにいいのよ。」「響子が」「ねえ。きょーこ。」「なにさ。」「それよりわたしの顔に触れて?」「なんで。」「いいから。」しかたないからわたしは手を伸ばしてみすちーのほっぺたに三本の指で触れた。「ぺた。」「あはは。このギターの弦鳴らして?」「ぴーん。」「あはは。隣のベースを弾いて。」「ぼーん。」「あははは。」「なにがおかしいの?」「だってだってだってさあ。ほんとに大きく見えてるんだなあって思って。でもわたしはそうじゃないんだね。」「わかるの?」「わかるよ。」「むむ。」「ねえ。きょーこ。きょーこ。響子のいるところにわたしも案内してよ。きょーこのいる巨大な国にさ。わたしもそこで暮らすから。」「そんなの言われても。」「怖い?」「怖い。」「震える?」「震えない。」みすちーはギターを置いてわたしの膝の上に寝転んだ。ほっぺたを押し当てた。「ほんとうだ。震えてない。」そしてひとつ大きなあくびをした。「きっとそんなに大きな楽器たちに囲まれてるんじゃ危ないよね。倒れてきたら一発で下敷きになっちゃう。でも巨大なギターもピアノもわたしには見えないから響子がわたしのことを守ってね。おやすみ。」そのままみすちーは本当に目をつむって眠ってしまった。外は暗くなりはじめていた。部屋のなかは薄暗くすべてが巨大な影のようにしか見えなかった。やはり緊張感は収まらないしちっとも気分はよくならないし楽器たちが相変わらず巨大で恐ろしかった。ライブをサボったのを見つかって誰かに怒られたらどうしようとか思っていろいろ怖かった。でもみすちーがわたしの膝の上で眠っていたからわたしはがんばろうと思った。本当にわたしがみすちーを守らなければいけないと思ったわけじゃないけれどでもたしかにみすちーは不思議なやり方でわたしの狂ったスケールのなかに侵入してそこで眠ってしまった。みすちーはわたしと同じ国にいた。少なくともその宵闇に。わたしは不安でたまらなかったから気を紛らすために歌をうたった。小さな声でささやくように同じフレーズを何度も繰り返した。それはこんな歌だった。「おおきなーまちでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おおきなーまちでーくーらーしてましたー。ちーさなーいーぬーでしたー。おおきなーまちでー……。」そのまま夜がやってきていつのまにかわたしも眠った。朝が来てそこから抜け出した。結局わたしたちはフェスタから逃げ出したのだ。そうやって逃げ出してしまったからだろうかそれからもスケールの異常は続いていた。今では家々や電灯やマグカップや砂糖や塩の容器や木々やフライパンや蛇口のすべてが巨大でみすちーが予め暴いたようにわたしは大きな町で暮らしていた小さな犬だった。ライブにはお寺の人たちも招待していたし結局逃げ出してしまったわけだからなんとなく帰りにくくなってしまい仕方ないのでみすちーの家でわたしは暮らした。習慣によってわたしは朝はやく起きて湯を沸かしみすちーを起こしてインスタント・コーヒーを飲んだ。昼過ぎまで本を読んだりふたりで音楽を聞いたりギターを弾いたりしてだらだら過ごしてみすちーのつくったお昼ごはんを食べた。それからわたしは部屋の掃除をしたりみすちーとふたりであるいはひとりでコインランドリーに行ったりしながら夕方頃からみすちーの屋台の仕込みを手伝った。夜にはわたしたち屋台にいた。みすちーの屋台には実にたくさんのお客さんがやってきた。みすちーは多くの人に愛されてるようだった。わたしは後ろで簡単な料理をやったりお酒をついだりなくなったお酒や食材を買いに出たりときおり会話に混じったりお客さんからの質問に答えたりしてみすちーは頼まれればあるいは頼まれなくても弾き語りをしたりしていたけれどお客さんが少ないときか誰もいないときにはふたりでギターを弾いた。みすちーが好きだったのでよく心霊スポットにも遊びに行った。妖怪や幽霊が闊歩する幻想郷においてそもそも妖怪であるみすちーが心霊スポット好きというのはどうにもピンと来なかったけどとにかくみすちーは怖い話とか大好きだった。「知ってる? ほらこの前屋台だしたところに柳があったでしょ。あそこって昔女の人が首吊ったらしくて出るって話なんだよね。見られるかと思ったけどぜんぜんだった。」「そんなに幽霊みたいなら白玉楼に行けばたくさん幽霊見られるよ?」「いやよ。あそこは心霊スポットじゃなくて観光地だもん。」「ちがいがぜんぜんわからん。」「今度あそこの酒屋さんの横の廃アパート行こ。あれ絶対出るよ。友だちで見た子いるし。」「友だちってルーミアでしょ。そもそもがほぼ幽霊みたいなもんじゃん。それってお友だち紹介みたいなやつ?」「ルーミアは幽霊じゃないわ。だめだめ。風情がないもの。」「てかわたしは心霊スポットとか嫌いだな。」「怖いもんね?」「ちがうちがう。だってああいうのって元は自殺して死んじゃった人とか事故でなくなった人がいてって話でしょ。それを幽霊になって出るとか言うのってなんかひどい話だよ。他人の死をエンタメにするなって感じ。」「響子は怖がりもんね。大丈夫よ。」「もーわたしは人間たちの人の悲劇に対する安易さを批判してるわけでさあ。」「怖いよね怖い。わかるわかる」「そうだよ。こわいこわい。人の悲劇を勝手に心霊話にして楽しんじゃうそんな人間の残酷さが怖い」「あはははは。怖いんだ怖がり」「笑うな。」わたしたちはふたりで霊園を歩いた。自殺の名所に行った。コーヒーを飲んだ。ギターを引いた。人柱のあるトンネルに行った。歌をうたった。いろんなところに屋台を出した。打ち捨てられた仏を見に行った。がらんどうの空き家で夜を濾した。コインランドリーにふたりで言った。みすちーのつくる料理をたくさん食べた。廃病院に行った。昔の武将の腹切り塚に行った。幽霊が出るという公園に行った。夜にはたくさん歌をうたった。みすちーの歌。「おおきなーまちーでーくーらーしてましたー。ふつーのふつーのふつーーのいぬでしたー。」そんなふうにして、二、三ヶ月を過ごした。その間もスケールの異常は続いたはずなのにいつしかそれに慣れていつしかそれが普通にフラットになってしまった。わたしは今でも物が大きく見えたりするけれどそれはそう見えるっていうだけで実際にそこで暮らす分には何も障害がないのでいつのまにかそのことを単に忘れてしまっただけなのだ。だから本当は今も不思議の国で生きている。たぶん。みすちーとふたり。
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caseなら4?
それとも3のままかも。
まあ、そんなのどっちでもいいけれど、わたしたちは再び歩いていた。
吹雪く雨の中。
そういえば傘を置いてきてしまったな。
どうせ傘をさしていたって濡れてしまうだし、だからレインコートを着ているのだし、だからあの遭難に忘れてきてしまった。
いまはわたしが手押し車を押しているのというのもある。
みすちーはいつまで経ってもちっともコインランドリーに行きたがらないから、わたしが勝手に立ち上がり手押し車を押して進んできてしまったのだ。
みすちーはわたしの後ろでやっぱりわたしのレインコートの透明な袖を指でぎゅっと掴んで歩いている。
落ちてくる袖口が邪魔なのか今は片方の袖を肘のところまで捲くりあげてた。
みすちーの腕は雨にびしょ濡れだった。
みすちーの肌のその不思議な質感についてわたしは考えてみる。
まるで結露した窓がそうなるように、みすちーの肌に貼り付いた雨は、まるで雨粒ひとつひとつがそのままくっついたみたいに細かく小さな粒状になっていたのだ。
どうしてそんなことになるわけ……。
撥水加工?
なにか塗ってるんだろうか。
みすちーの肌はわたしのとは違ってると思う。
わたしは犬だから、わたしは雪国生まれの犬だから、いったいなんでなのかな、全然わからないみすちーの不思議な肌、それはどうしてそうでどこから来て、なんて言えばいいんだろう……鳥肌? すべすべと光って雨を撥水する不思議なみすちーの肌、あるいはGORE-TEXみたいなみすちーのその肌を、わたしはなんとなく食みたいと思う。その舌触りを知りたいと思う。でも、大好きだから食べちゃいたいみたいのって、やっぱり嫌だな。それは、食べたら食べたそのものがなくなってしまうことにじゃなくて、食べるときに食べ物が口の中でくしゃくしゃと折りたたまれてしまう、それがわたしは嫌だと思う。なんていうかそれはちょっとしたフェチズムみたないものでさ、わたしは新品の服がとてもとてもとても大好きなんだよ。ぴしっとのりの効いた服を見ると嬉しくなってしまう。服屋さんに行って新品の衣類が並んでいるのをいつまでも見ながらためしにそのうちのひとつを手に取ってみてその繊維のまだしっかりしてることを思って喜ばしい気持ちなるし、それを買ってきて着るたびに洗うたびに服がよれていき二度とは戻らないことが悲しい。わたしは毎日洗濯に行くしそれをちゃんと干して綺麗に畳んで並べておく。わたし、生まれ変わったらアパレルやりたいんだよねえ、って言えばみすちーは笑うけど、だってさだって響子が、あぱ、あぱれるとか、ひーおかしい、あ、でも、服屋うろついてたらとことことことこ店員が近づいて来るのってあれってなんだか犬みたいだよね、ってみすちーは、そう……でも、みすちーがわたしに雪国をくれるように、わたしはみすちーにたくさんのもふもふをあげたいな。え、それペアルックってこと?じゃあ、わたしは響子にこれを、あげるね。それなに? 鳥肌! わたしはわんわんと泣く。みすちーは微笑んで……ねえ、泣かないで、泣かないでね、泣かないで、ねえ……たしかに響子の言うことやすることや考えることの恥ずかしいことにはわたしいつでも鳥肌の気分だけど、そんなの響子だけだよ、わたしはそれをずっと知らなかったなあ。響子はいつも鳥で生まれたはずのわたしに鳥肌をくれた、それってさ、つまりさ、こうゆうことなんだよ。わたしは響子に出会うまで存在していなかったんだ。
雨が降っていた。
それをわたしは雪だと思った。
雪はこんなに吹雪くのにわたしたちの歩く道はすべてが泥で、降る雪は落ちたところから溶けて水に変わってしまう。
そういえば、雪のたくさん降る季節にも決して白く染まることのない場所がある。
それは、川だったり、湖だったり、水を張った桶だったり、すでに水の十分にある場所で、その場所はときどき凍ることはあっても決して雪溜まりになったりはしない。
だから、今、わたしは川を歩いているのだと思った。
スニーカーは、浅い川の底の泥を蹴る。
ぬかるむ。
わたしたちは手押し車を押しながら吹雪の中を川を流れてくる方向に向かって少しずつ上っている。
降って積もらない場所は、すべてが水の溜り、あるいは海だった。
だから、そのコインランドリーは、海の上にぽつんと浮かんでいたのだ。
白い光。
黒い小さな海に、灯浮標のように、瞬いている。
(ねえ、ほら、みすちー、海、海だよ! ってわたしは言わずに、心の中で、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ、海だよ。ってさ。やっぱり心の中だけで。だって、またさっきの雪の時みたいにいろいろ言われたらやだし……。)
実際、そこはちょっとした窪地になっているんだろうか、コインランドリーは周囲を大きい水たまりに囲まれていて少し遠い場所から見ると、水の上に建っているように見える。
明かりによって水面に同じ形の建物が浮かび、雪の粒が落ちて、ゆらゆらと……少し歪む。
わたしたちは海の中に、浅瀬をかきわけて進んでいかなければならなかった。
ぴちゃぴちゃとかすかな波を受けながら、もう少しだよとかやっと着いたよとかなんとか言いながら俯き加減に吹雪を受けながらそのまま進んでいくとコインランドリーがもう目の前に、現れる。
光があふれる。
まだ新しい白いコンクリートの建物は泥と草木に少し汚れている。
黄色の大きな横長の看板が、こう。
『コインランドリー 静かの海』
(ほら、でも、やっぱり海にあるんじゃん……!)
最後の数十秒をわたしたちは駆けて、コインランドリーの中に滑り込んだ。
リノリウムの白い床にいくつもの泥の足跡。
そこにわたしたちの足跡と轍を重ねた。
コインランドリーの中は外よりも幾分か暖かった。
みすちーは心底疲れたというふうに長椅子にどすんと腰掛けて、それからまた立ってレインコートを脱いで、近くの籠の中に放り込んだ。
「はーやっと着いたね。中までぐっちゃり……」
「だねー。おつかれ」
「おつかれさま」
わたしも水を切ってから少し畳んで同じ籠の中放り込む。
わかっていたことではあるけれど、内側に着ている服まですっかり濡れてしまっていた。
コインランドリーの中はとても明るくそれなりに広かった。
洗濯機と呼ばれるその名の通り衣服を洗う四角い機械が横に三台、乾燥機と呼ばれる似たような形の機械がやっぱり横に三台、入って正面に並んでいて、今はそのうち乾燥機のひとつががらがらと音を立てて稼働している。入り口側は全面がガラス張りになっていて外からでも中の様子が覗けるようになっていた。
その間には木製の長椅子が2つ。
そのうちひとつのいちばん端っこには小さな妖精が腰掛けていて、わたしたちがコインランドリーに飛び込んだときにはその様子を少しの間観察していたけど、すぐに前を向き直してそのあとはずっとガラス面に打ち付ける風雨を見つめている。
わ固く縛った手押し車の紐をわたしたちは時間をかけて解いて、荷台に山のように積まれたみすちーの洗濯物たちを開放した。紐が解けるのと同時に上の方に積んであったいくつかの衣類がばさばさと落っこちた。想像は外れて、こっちの衣類は上の何枚かが湿っているだけで、それほど濡れているというわけではなかった。どうせ洗ってしまうから構わないのだけれど、もしも同じ天候を帰るのなら安心感はある。せっかくこんなに苦労して洗濯しに来たのに帰ってみたら全部濡れてました、というんじゃ洒落にならないもんね。
わたしたちは濡れた服を脱ぎ捨てて下着だけになり、脱いだものは洗濯機の中に放り込み、持ってきたみすちーの服の中で綺麗そうなものを着ることにした。
みすちーは上は灰色のスウェットで下は緑のジャージ。
わたしは長袖のTシャツとジャージに黒いトラックパンツ。
このTシャツはなにかのライブTシャツのようだったが、わたしも記憶になかった。
みすちーはもちろん覚えていなかった。きっと、昔好きだったバンドか何かだと笑った。
洗濯物を2つに分けて2つの洗濯機に放り込み、電源のボタンを押すと、それは動き出す。
ごうごうごう、と天変地異でも起こったかのような大きな音を立てて、回るのだった。
するとあとは洗濯機が洗濯を終えるまで、待つしかやることがない。それが終わったら、今度は人間の手で洗い終わった濡れた衣類を乾燥機に移して、また回すのだった。わたしたちのすべきことはそれしかない。あとは待ってれば、コインいっこのように、乾いた綺麗な状態に衣服がコンティニューというわけ。ずいぶん便利になったものだ。
いつのまにかみすちーは妖精のそばにいてなにやら話しかけていた。
「こんにちは」
「こんばんわ」
「何をしてるの?」
「こいんらんどりーにいる人って服を洗濯するひとだとおもいますけど」
「まあ、そね。でも珍しかったから。妖精がこんなに遅くに洗濯なんてさ。妖精って遊んでてもいつも夕方とかには帰っちゃうイメージだもん。朝方なのね」
「フランドールちゃんが夜型だから。合わせてるんです。でもわたしは洗濯してないですよ」
「え、さっき洗濯してるって言ってなかった?」
「それはいっぱんろんだよ」
「ふむ。じゃあここで何してるの?」
「洗濯物をみはってるんです。下着泥棒がでるというので」
「ふうん、えらいね。それって妖精自警団みたいなやつかな?」
「わたしは自警団とかやんないですね。自警団って、ごーりてきじゃないじゃないもん」
「合理的? 自警団を合理的とか合理的じゃないとか考えたことなかったな」
「考えたほうがいいとおもいますよ」
「そうかな?」
「ごーりてきな判断は身をたすけますよ」
「むむ……。妖精なのに立派だ……」
「ようせーなのに、とか、差別ですね差別」
「差別は合理的じゃない?」
「そです」
「ずいぶんしっかりしてるね」
「1009回もじんせーやったから慣れちゃったんです」
「それって一回休みのこと? わたしの友達にも妖精いるけど、何回死んでも変わんないよ。そもそも死んだ数とか数えてないと思うな」
「わたしは数えないよ。フランドールちゃんが勝手に数えてるんです」
「フランドールちゃんってだれ?」
「フランドールちゃんはフランドールちゃんです」
「それはそね」
みすちーは妖精の隣に腰掛けた。
妖精はみすちーのほうをちらと見る。
緑色の少し透き通った色合いの妖精だった。
「わたしはミスティアっていうの。名前は?」
「名前はないですね。1003回目の人生のときはちょうどいいのがあったけど。フランドールちゃんだけがむかしの名前をよぶの」
「フランドールちゃんっていうのは友だち?」
「そう。吸血鬼です」
「うーん、聞いたことあるな。響子は知ってる?」
「え。ううん。でも、わたしも聞いたことはあるかも」
「んー。なんだっけ……あ、ねえ、紅魔館の妹だっけ?」
「あ、そうだったかも」
「あってる?」
「あってる」
「でもフランドールちゃんはどこに行ったの?」
「フランドールちゃんはひとりで遊びに行ったよ」
「ああ、吸血鬼って待つのとか苦手そうだもんねえ。レミリアさんとか見ると。自警団ごっこしてたらどっか行っちゃったんだ?」
「まあ、そうです……。ちがうけど」
「ひとり残されちゃってかわいそうに」
「ぜんぜんかわいそうじゃないよ」
「慣れてるってこと?」
「ちがいます。わたしたちの今夜の行為すべてがごーりてきな契約にもとづくことなんです」
「ごーりてきな契約?」
「そうです。さいしょはふたりでこいんらんどりーで遊んでたの。そしたら天狗の女のひとがきたんです」
「さっきのあの人だ」
「さっきのあの人はしらないけど、その天狗の女のひとがコイン五枚あげるから洗濯物をみててほしいというからわたしとフランドールちゃんでコイン五枚もらって洗濯物をみはることにしたんです」
「自警団の結成だ」
「依頼されてるから自警団ではないですよ」
「じゃあ他警団だ」
「そんな言葉ないじゃないですか。勝手につくらないでください」
「ね、あるよね、響子」
「え、わかんない」
「なんでーわかんないわけないじゃん。あるのに。それでフランドールちゃんが飽きて行っちゃったの?」
「飽きてはないです。ふたりでごーりてきな判断のもと契約をしたの」
「契約?」
「もらったコインの二枚をもってフランドールちゃんはここから出てべつのところに遊びにいってわたしがひとりでみはるかわりにコインを三枚もらったんです」
「それが契約ってこと? つまり、仕事を続ける貴方のほうがコインを多くもらうっていう」
「うん。ごーりてきな契約です」
「たしかにそれは合理的かも。そうだよね、響子」
「うん」
「でもフランドールちゃんはどうして一人で遊びに行っちゃったの? 一人で遊びに行くより二人で待ってたほうが楽しいのに」
「虎がいたんです」
「虎?」
「服の背中に虎がいたの」
「ああ、そういうプリント?刺繍? でも、それが、なんで」
「フランドールちゃんは虎が苦手だから」
「虎が?」
「そうです。フランドールちゃんは、あたまのなかに虎を飼ってて、でもあんまり仲よくやれてないみたいなんです」
「吸血鬼なのにねえ」
「吸血鬼って好き嫌いがいっぱいじゃないですか」
「みんなそうよ」
「わたしはちがいます。嫌いなものもあんまないけど好きもそんなにないですね」
「アンニュイなんだ」
「それ使い方あってます? てきとー言わないでください」
「あってるよね、響子?」
「たぶん」
「ほら、響子もそう言ってるよ」
「いや、さっきからなんなんですかそのひと」
「響子は響子よ」
「いや、そうではなくて、今わたしのなかでそのひとはほとんどぜろに近いっていうか、だって、そのひと、こう……どう?って、言われて、そう、ってしかゆわないじゃないですか」
「響子はわたしの恋人だよ。めちゃくちゃかわいいの」
「そういうのってやばいですよ」
「やばい?」
「やばいっていうか……見識が狭いという感じです」
「でも、真実だもの。今度結婚するんだ」
「え、知らない」
「知らない、ってあのひと言ってますよ」
「それこそ響子は見識が狭いのよ。ほんとのことがなにもわからないの」
「じゃあ、あのひとは、いぬのおよめさんなんですね」
「なにそれ?」
「いぬのおまわりさんみたいなやつです」
「ああ、ねえ」
そうそう響子はいぬのおまわりさんなんだよ、いやいぬのおよめさんであっていぬのおまわりさんではないですよね、たしかに響子は勝手におまわりさんやってるからね自警団だ、自警団はごーりてきじゃないです、きょーこは合理的じゃない? きょーこはごーりてきじゃないですね、ねーきょーこーきょーこ合理的じゃないって、みたいなことを二人が話しているので、わたしは、ああ、そうなの……と適当な返事をしてふらふらとコインランドリーを歩き回っていた。
コインランドリーの隅っこには洗濯機械たちとガラス面に挟まれる形でゲームの筐体があった。
それはランドリー内の強烈な白い明かりの中で、誰か旧い友だちを待つように控えめに光りながら、音を立てずに、じっと待っていた。
画面にはこんな文字が浮かび上がっている。
『MOON INVADER』
わたしはなんとなく筐体のボタンに触れてみた。
画面に未来風の格好をした女の子が現れて、こんなことを喋っている。
『げーむぷれいをするにはこいんをいれてください。でーたかーどをもっているばあいはさきにかーどをそうにゅうしてください』
それはたしか『ムーン・インベーダー』シリーズのいちばん新しいものだったと思う。
『ムーン・インベーダー』は2が流行り、流行りに乗って3も出てそれ以降もいくつかナンバリングが繰り返されていたが本当の意味でみんなが熱狂したのはその2だけで、シリーズを重ねるごとに人も離れていき、いつのまにかシリーズも途絶えてしまったみたいだったけれど、最近、数年ぶりに新しいものが登場したという話だった。
しばらく前から、洗濯待ちの間の暇つぶしにということだろうか、ここにもその新しいやつが置いてある。
わたしは妖精の子に聞いてみた。
「きみはこういうのはやらないの?」
「やんないです。つまんないもの」
「じゃあ今の子はなにして遊ぶの?」
「おにごっこ!」
妖精の子は立ち上がって言って、言ってみたらなんだかほんとに走り回りたくなっててうずうずしてる感じ。
みすちーが言う。
「フランドールちゃんを追いかけてあげなよ。きっとひとりじゃ鬼ごっこもできないわ」
「でもわたしには仕事があるんです」
「たしかにねえ……。あ、そうだ。こういうのはどう?」
「どうってどれのこと?」
「わたしたちがあの洗濯物を見ててあげるよ。どうせ自分の洗濯物を洗い終わるまで待ってなきゃなんだもん。だからその間に見ておこう。これってとっても合理的な判断じゃないかしら?」
妖精の子は唇をきゅっと結んで、んーとしばらく考えたあとで言った。
「いいですね。おねがいします」
それからポケットをまさぐって手のひらをわたしたちに差し出した。
手のひらの上にはコインを二枚。
「これあげます。お仕事をやってもらうので。三枚のうち一枚はわたしのです。わたしもお仕事をしたから」
みすちーは首を振る。
「いや、もらえないってー。ねえ、響子?」
「うん」
「ほら、響子も言ってるよ」
「きょーこの言ってることはだめですね。きょーこはごーりてきじゃないもん」
「あーだめだよ。響子にそんなこと言ったら泣いちゃうよ」
「べつに泣かないよ」
「きょーこはなきむしなんですね」
「そうだよ。わたしの自慢よ。映画とか本とか響子は泣くやつでは全部泣くんだから」
「きょーこは感情でいきてるんですね」
「そうだよ、響子は感情だけで生きてるの」
「かわいそうに」
「かわいそうに」
「なんなのもう」
わたしは妖精の手をコイン二枚ごとぎゅっと握らせた。
「ほら、いいんだよ。子どもなんだからもらえるものはもらっときなよ」
「こども……。こどもじゃないもん。たしかにわたしは妖精だからちっともおおきくならないけど。おおきくなれないですけど……。」
「あ、いや、そういうことじゃなくてね……」
「そうですよね。きょーこから見たらわたしなんか小さなこどもですよ……」
妖精の女の子はじっと床を見つめている。
肩が震えている。
ぎゅっと握った手に力が籠もっている。
あわててわたしがごめんごめんねとか言っていると妖精の子は無理やりわたしの手の中に金貨を二枚押し込んだ。
それからべえと舌を突き出して言った。
「じゃあ、きょーこがこのコイン二枚でわたしを大人にしてね!」
そしてそのままくるっと背中を向けて、ととと、と走ってコインランドリーから出ていってしまった。
みすちーはわたしの見つめる手のひらの上の二枚のコインを見て、あはは、と笑った。
わたしはそのうちのひとつをみすちーに手渡した。
わたしたちは二人で自警団だったから。
そうなろうと思えば、わたしたちだってこんなに合理的になれる……。
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みすちーに出会う前の話6。
(4、5はいちおうメモは残ってるけどもっと個人的になっちゃうし別にたいした話じゃないから。。。)
その仕事の終わりのはじまりはいつも涙を流しているように見える眠たげな河童の女が現れたときだった。
(彼女は 涙腺に寄生虫がいるんだよ。 と言ってた。
朝に。 朝に。
朝に。 震えるの。)
「下のまぶたのところに住んでるの。 欠伸をした時とか目を擦ったそのあとで
まるで下のまぶたの涙袋の内側に小さなミミズみたいな線状の寄生虫みたいなのが いて。
そいつが蠢くって感じでね 震えるから それがわかるんだ。」
彼女は他の依頼人たちと同じようにわたしに言葉を預けた。
彼女は実にずいぶん長い間喋り続けたと思う。
もちろんわたしはそれをすべてわたしの中に記録し続けた。
貴方に預ける それは とても とてもとてもとても とても
とても需要なことなんだ。
って彼女は言ってた。
(そいつの話は大きな秘密の計画の話。
ここには書けないような。。。 )
いつもと同じようにわたしに選ぶ権利はなかった。
もう彼女は喋ってしまっているのだし
聞いたら覚えることはすでにわたしのたしかな性質だった。
「たった三ヶ月。」
彼女は言った。
三ヶ月したら戻ってくる。 そしたらわたしの言ったことをすべて返して欲しい。
そしてわたしは不思議な機械と手順によって口を縫い付けられた。
痛みはなかった。
でも口をもう開くことはできなかったし もちろん声を出すこともできなかった。
「貴方はずいぶん優秀なわんこだって聞くわ。バランス感覚があるのね。
好奇心が旺盛すぎるやつは首をつっこんで破滅するし
他人に興味さえもてないやつはそもそも預かるものの大事さを理解することさえできないものね。」
彼女はまるで飼い犬にするようにわたしの頭を撫でた。
それから鞄の中から取り出した小さな瓶の中の液体を飲み干した。
(偽物のブルー。外挿される憂い。川の色よりもずっと深いそれを。。。)
そしてわたしのもとから去っていった。
前金に と彼女は 今までわたしが
どんな仕事で得た金よりもずっと多い額の札束を残していった。
それでもやるべきことはいつもと変わらない。
わたしはその小屋で退屈な時間が過ぎていくのをじっと待っていた。
マスクをつけて時折里に買い物に下り
買い溜めた食糧を食べて。
本を読み。
ときどきばらばらの日記を書いてはそれをさらに刻んで。
また食べ。
眠り。
夢を見て。
やめては覚え直してやめて忘れて覚え直してやめてしまう遠い国の言葉を覚え直してやめて。
本を読み。
また食べて眠り。
夢を見て。
里に買い物に行って。
月明かりの薄い夜にはあたりを散歩して周り。
本を読んで。
外来語を学んでは忘れ。
眠り。
眠り。
眠った。
(そんなふうにしてわたしはその三ヶ月を過ごした。
宇宙と真空管の色した日々を(つまり、無反響の。。。))
でも三ヶ月しても
その河童の女はわたしの前に現れなかった。
四ヶ月してもそいつは現れなかった。
五ヶ月しても六ヶ月しても。
噂だけがあった。(いつものやつ。みんなが
好きなやつ。だれがだれを嫌いで どんな計画があって どんな過程があって どんな結末があった とか
だれがだれを愛してるとか だれがだれのやり方をあんまりよく思っていないとか だれがだれを殺したとか )
わたしはわかったふりをした。
それが不明な状況を耐える唯一の方法だと
いうことはすでに学んでいたから。
そして六ヶ月半くらい経ったある太陽の高く昇った昼にわたしは小屋を出ることにした。
外科手術によって口の封を外した。
(それでその仕事の前金も全部消えちゃったんだよ。。 嬉しいことに。 残念なことに。)
わたしが施術受けたのは人里の外れにあるひどく寂れた病院だった。 壁に 罅 入ってた。
コンクリート。 蔦が這ってた。
いつか依頼人のひとりに聞いたのだ。人間の里にも妖怪を受け入れる病院があると。
そこはたくさんのお金さえあればどんな来歴の人間もどんな性質の妖怪も診るというらしかった。
(それ を わたしは思い出した。
そこを探し た。)
手術は無事に終わったけれど口がきちんと開くようになるまで
しばらくのあいだ病棟で療養
する必要があった。
四人用の旧い黴の匂いのする病室にはわたしの他に三人の患者がいた。
点滴を刺した細い少女と足の悪い男(ふらふらと歩く。)と白髪の老婆。
黴ついた暗い橙色の薄いカーテンによってわたしたちは隔てられていた。
患者達はなんだか幽霊のようだった。
彼らは気配に乏しく
長らくそこにいないと思ったはずなのに突然カーテンが開き姿を現したり
そこにいると思っていたはずなのに看護婦に連れられて病室の入り口からやってくることもあった。
虚ろな目。白く透き通った肌。匂いのひどいトイレの黒い斑点に侵された病気風の鏡に映したわたしも同じ顔をしていた。
老婆は嘘かほんとか知らないけど (もちろんべつに知りたくもないけど。)
ずいぶん長い間 まだ若くそれこそ髪もまだ黒い頃から その病室で暮らしていると言ってた。
老婆は他の入病者や看護師たちみんなや わたしに向かってこんなことを話した。
「ここはヤブさあ。
人を弱らせる薬を患者に飲ませるのを生業にしてる。 永遠を売っているのさ。 永遠の病を。
現にあたしはまだあんたみたいだった頃からここにいるんだ」
わたしは無視をした。
そんなことがしたかったわけではないけれど
そうする他なかったのだ。 (わたしだって誰彼構わず嘘を本当を喋りたい気持ちだった!)
でも
わたしの中にはあの河童の女の巨大でひどく際どい計画の話がまだ残っていた。
言葉を発するためにまずそれを捨ててしまわな ければ ならない し
それを誰かに聞かれるわけにはいなかった。
たとえ彼ら三人が薄暗い病室のこの世界から隔絶された亡霊だとしたとって
用心するに越したことはない。
慎重になること。 丁寧にやり過ごすこと。
それはあの季節を生き伸びるために覚えたことのひとつだった。
だからわたしはこっそり喋り続けた。
あの子がわたしの中に置いていって決して取りに戻らなかったその言葉たちを。
それはひどく長いものだったから一夜では言葉が足りなくて
それにをまとまった文章をを喋り続けたらふと聞かれた誰かに意味を覚られてしまうだろうし
病室で暮らす患者たちは幽霊のようだったから とても慎重にならなければいけなかった。
わたしは ときには 一言だけを。 あるいは 単 語 の半 分 だけを。
昼に。
夜に。 朝に。
月明かりの日に。
雨の夜に。 やわらかい風の膨らむ朝に。
誰もいない病室で。
病棟のトイレの個室で。
廊下の隅で。
医師が席を外したあとの診察室で。 階段の踊り場で。
鍵と鉄格子のついた窓の下で。
夢の中で。
少しずつわたしの中から外へと吐き出していった。
(そんなふうにしてわたしはその一週間を過ごした。)
わたしの中に残っていたすべての言葉を吐き出してしまえば
そこでわたしがすべきことは何も残っていなかった。
でも退院許可が下りなかった。
わたしの言語中枢には重大な障害が残っていると医師は言っていた。
医師は紙とペンを持ってきて別の紙に書いてある文章をわたしにそのまま書かせた。
たしかに彼が言うようにわたしの文章はばらばらになっていた。
『これは テキスト です。
わたしは わたしの 思 う ように
文章を書くことができます。
まるで 腕や。
足や。
手のように わたしは自分の延長として 文 字を操ることができ ます。
書くことは 思考する ことです。
わたし の思 うことは 少なくともそれがわたしの 思うところである
という 意味 において 思考に対して 完全に正しく。
また書くことは思考することなので
書くことは 思うことに対して正しいので
これは 正し い 文章で す。』
わたしはどこに文章を置いてみればいいのか
どこで区切ればいいのか ひとかたまりの文章とべつのかたまりの文章に
どれほどの空白が必要なのかわからなかった。
いや 本当はわかっていた。
わかっていたけど なぜか 実際に書いてみるとそうはならなかった。
医師が後遺症と言って暴いた通りわたしの文体はばらばらに倒壊していた。
(でも医師の言うことは間違ってる。わたしの言葉は口を封じられるずっと前から
もう ばらばらだったんだよ。。
あの仕事をはじめたときから。 (あるいはもっとずっと前からね。)
わたしは自分でそれをばらしたんだよ。
それがみすちーの雪国に似るようにさ。(あ ほら また 時間が途切れたよ。。
飛ぶ? 落下する。。(たぶん回っている。みすちーを円の軸にして。くるくる。
くるくる。回る。(肯くことが重力に支えられているなら首を振ることは惑星の回
転に支えられている。。。(って言えばまたみすちーは(いやそれはおかしいでしょ
肯くことは単運動だけど首を横に振ることは往復運動だからたとえ向かうときにその
動きが惑星の回転と一致するとしてもさ帰るときには回転に反するじゃん)とか言っ
て笑う(あ そっかそうだよね ってわたしも笑う。))))))
それからの日々をわたしは曖昧な脱出計画のことばかりを考えて過ごした。
病棟のすべての窓には鉄格子が嵌めてあってそこから外に出るなんてことはできそうに
なかったし
唯一この病棟から外に通じるエントランスは 二十四時間体制
で看護婦が目を光らせていた。
わたしは三階の病室の窓際。
鉄格子の嵌められた窓から空をじっと見つめていると
あるとき点滴を刺した少女がわたしに話しかけてきた。
骨ばった身体に 薄青い病院着 似たような色した顔で ぐるぐるの瞳 そっと笑んだ。
「外に出たいんだ?」
「どうしてそう思うの。」
少女は首を傾けてわたしの目をじっと見つめながらなにかを考えているようで
それは彼女がそこにいることを忘れてしまうくらい長い
時間だった。そのとき病室にはわたしたちと足の悪い男
がいていつものことだが足の悪い男は締め切ったカーテ
ンの向こうで小さな唸り声をあげていたんだと思う。空
調がきちきちと今にも壊れてしまいそうな音をたてて鳴
っていた。ちょうどお昼ご飯を食べたあとだったから13
時の頃だろうか。それもやっぱり慣れたことだよ。少し
の白米と小鉢に入ったひじきかなにかの入った煮物と色
の悪い焼き魚。いつもおんなじメニューだった。わたし
は全部食べて。空は少し曇ってはいるけれど雲の間に晴
れ間が見えて気持ちよさそうな風が吹いているような気
がした。春先の膨らむ温かい風だよ。眼下に見える柳の
枝がふぁさふぁさと揺れていたのだ。わたしは風の溜ま
りに飛び込んでそこに立っていたいと思った。建物の柱
や屋根や床や壁のすべてが風によってできていて触れる
と風の柔らかい圧があるからそこに建っていることがわ
かるというような家。広い草原の上にあってね。わたし
はその上で寝転んでいる。そんな夢想をよくしていた。
そのあとで少女は笑って言った。
「みんなそうだよ。」
わたしは応えた。
「まあ。そうかも。」
彼女は言った。
「わたしはきょーこに脱出経路を
教えてあげることができる。
まるで貴方にヒントを
与えるためだけに用意された
ゲームボーイの中の女の子みたいにね。」
「ゲームボーイ?」
彼女は脱出経路を教えてくれた。
計画の実行はもちろん深夜にある。
それは病棟の屋上にあったのだ。
火災用の脱出スロープ。
彼女は魔法みたいにそれを簡単に開いて地に向かって投げつけた。
わたしはそのスロープの入口に手を重ねた。
彼女は少し遠いところでわたしを見ていた。
わたしは言った。
「来ないの?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「だってここはちょっとした地獄みたいなところだよ。」
彼女は笑っていた。
「くすくす。きょーこってひどい人なんだ。
わたしは
もう ずっとずっとずっと
ここにいたしこれからも
ここにいなきゃいけない理由がある。
それなのにここを地獄だなんて言うなんて。
わたしこれからここを地獄だって思って
過ごさなきゃいけないのかしら。
きょーこがわたしのいるここを
地獄にしちゃったからね」
「ごめんね。」
「いいよ。許してあげよう。特別だよ。」
わたしはスロープの中に半身を突っ込んで身を
滑らそうとして 少し迷って
結局は言うことにした。
「ねえ。
どうしてわたしの名前を知ってるの?」
「前にも会ったことあるからね。」
「え。どこでだっけ?」
「どこで。どこで。んー。それはすごく難しいな。
どこでならここでだけど。
でもそれはなんていうんだろ。。」
「なぁに?」
「ここで会ったんだよ。わたしときょーこは。
もうなんどもなんども。出会ってるの。
わたしってずっとここにいるんだよ。
きょーこが思ってるよりもずっとのずっとだよ。
時間をくりかえしてるって言えばいいのかな。
しばらくの間は自由に過ごせるけど
あるとき気がついたらここのベッドで目を醒ますの。
そしたら見覚えのある看護婦がやってきて
いつも同じことを言う。
正解があるのかもと思っていろいろやってみたよ。
医師と仲良くなってたくさんお話したり。
やけになって手を血に染めたこともあったな。
それを使って外に出たことももちろんあるし。
外の世界はけっこう楽しかった。
でも結局ここに戻ってきちゃうの。」
「むむ。」
「この前は響子とお友だちだったよ。
いろんなことをふたりでしたよ。
ここでさ。地獄でね。
そのとき響子はずっとここにいてくれたけど
でもあるときふと目を醒ましたら
やっぱりわたしはベッドでひとりだった。
数週間したら響子がやってくるんだ。
いつものことだよ。
喧嘩したこともある。
ためしにこの屋上から落っことしてみたこともある。
えへへ。ごめんね。あれ痛かったでしょ。」
「わ。わかんない。けど。」
「大丈夫。そこからならちゃんと響子は戻れるよ。
エントランスからのやつはだめなんだ。
そっちからもうまくいく方法はあるんだけど。
少ししたら響子はまたここに連れてこられちゃうの。
不思議なことにね。
ここからならうまくいく。
まあ。たぶん。しばらくは。。
結局わたしはいつかまた同じ場所同じ時間で
目を醒ましてやがて来る響子に会うんだけれど。
でも今日は響子が楽しい気分なれるならいいな。」
それから彼女は手を振った。
「またね。」
そして笑った。
わたしはわけもわからず小さく手を振り返す。
「ばいばい。」
わたしは飛び込んだ。
暗闇の中。
わたしは滑っている。
わたしのぐっと結んだ口の隙間から重力が入り込み。
くるくると身体の中で揺れるようで。
次に気がついたら夜だった。
月明かりの下にわたしはひとりでいて
病棟のほうを見上げても屋上に少女の姿をもう見ることはできなかった。
わたしは急な吐き気を催してそのままそこで胃の中のものを全部吐き出した。
黒い地面には吐瀉物が死んだ生き物みたいに広がっている。
病棟の屋上からスロープが臓器のように垂れ下がっている。
その奥には暗い森がいつもと同じように静かに佇んでいる。
もういちど病棟の屋上を見た。
そこは最初からそうだったように空っぽだった。
向こうで夜の空に星々の灯りがちかちかと瞬いていた。
それは とても綺麗で綺麗で綺麗で なぜだかわたしは涙がとまらなかった。
それからのわたしは特殊な暮らしで失った精神の平衡感覚を取り戻すために必死になって過ごした。
気つけばわたしは仏門を叩いてた。
(空っぽのわたしにはそれがちょうどよかったんだよ。
森のなかに木隠す作法でね。。。)
新しい気のいい仲間たちと命蓮寺の厳しい修行をしながら
ときどき誰かにあの頃の話をしたいと思うときがある。
あの頃はメモを書いたところで二度と読み返すことはないだろうと思ってたけれど
今でも時々それを夜にこっそり見返してあの頃のことを思い返す。
病棟のわたしの知らない友だちのこと。
わたしに一族の悲鳴を託して去っていった山彦のこと。
決して楽ではなかった仕事のこと。
いつも涙を流しているように見える河童の女のこと。
彼女が二度とは取りに戻らなかった計画のこと。
時折命蓮寺の誰かにここに入門した理由のような
ものを尋ねられる時があって
そういうとき わたしは
妖怪である山彦の
本領が失われる現状を危惧して みたいなことを言う。
ほんとのことは言えないな。
喋ったらそれは忘れてしまうことだよ。
それもあの頃に覚えたことだね。
そしてそれは忘れたくないことでもあったから。
でも いつかみすちーには
話したいなって思う。
だけどわたしがみすちーといっしょにいれる時間は短くて
いっぺんにそれを話すに足る時間の余裕がないし。
なによりみすちーにそれを忘れてほしくない。
みすちーにわたしのことを忘れてほしくないのとおなじように。
あの河童の女の下の瞼に飼っていたのと同じ寄生虫が今ではわたしの涙腺にも住んでいる。
彼女はわたしに言葉を預けるのと一緒にきっとそいつもわたしに渡して取りには戻らなかったんだって思う。
わたしは朝にわんわん泣く。
ぽろぽろぽろぽろと涙をこぼす。
涙腺が震えている。
朝にはあくびがでる。
いつでも眠い。 。
眠い。
眠い。
眠いとあくびがでる。
あくびをすると涙がでる。
泣いてしまうと眠くなる。
ねえ。みすちー。
ねむいよ。
(おしまい。)
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くるくる回っている。
わたしたちは見つめている。
洗濯機のなかの色とりどりの洗濯物たち。
みすちーが言うんだよ。
「下着泥棒かあ。そんなのここに出るんだね」
「下着泥棒ってなんでそんなのするのか全然わからないよね。好きな子のだとしたって下着なんかあってしょーもないじゃん」
「わたしはわかるよ」
「え、まじで?」
「うん、うん」
「えーまじかあ」
「わたしも響子のやつ盗もっかな」
「盗むの?」
「欲求不満の日にはね」
「うぇえええ、きもいよう」
「いつでも満足させてくれればそれでいいんだよ」
「そんな、そんなって……そんなのって、きっとむりだし、なんだかあほっぽいし、わたしいやだよう」
心の中で、わんわんと泣く。
こういう行為で満足できるかどうかってわたしのがんばりだけじゃなくて、きっとみすちー側の準備も必要なのだとわたしは思うし、思うんだけど、それは言わない。そういうのは言わないほうがいいと思うのだ。
わたしたちは2つの洗濯機から洗濯物を取り出して今度は乾燥機械にやっぱり2つに分けて放り込む。
スイッチは、オン。
がたがたと揺れていた。
くるくると回っていた。
みすちーはさっきの新しい『ムーン・インベーダー』のやつの前に座って退屈紛れに何やらボタンをいじっている。
「懐かしいね、これ」
「みすちーもやってたの?」
「2のやつだけどね。ずいぶん熱中したな」
「ふうん」
それからみすちーは妖精からもらったコインの一枚を入れた。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
突然、画面から電子音が聞こえてくるからわたしは驚いたけれど、みすちーは冷静にボタンを操作して、『いいえ』を選んだ。
それから迷うことなくコマンドを入力して一番難しい『Lunatic』を選択した。
すぐに、ゲームがはじまった。
画面の中の構成はわたしもよく見慣れたやつだ。
手前側にみすちーの操作するキャラクターがいて奥から弾幕が飛んでくる。
まるであの小傘とぬえと三人でこれの昔のやつをやった夜のようだと思うけれど、でも、画質はずっと繊細で自機のキャラクターの顔もよくわかるし、弾幕もきめ細やかで綺麗だし、流れてくる音も滑らかでとても聞き心地がよかった。
それに、みすちーはとっても上手だった。
わたしたちのように自機はぶれたりしないし正確に無駄のない動きで弾幕を躱していく。
それがあたりまえのことだっていうふうに。
驚いてみすちーを見ると、少し睨むように画面の中をじっと見つめている。
ちっとも見ない手元が、かちかちかちかちとジグソーパズルをすごいスピードで完成させていくように、正確に滑らかに動いている。
みすちーの真剣な横顔。
嵐の名残に髪が少し濡れ、真っ直ぐな眼差しで……。
わたしはそんなみすちーの表情を見たことがなかった気がする。
一面、二面、三面、四面、と、一度も弾に当たることもなく、ストーリーの会話文をスキップしながら次から次へとステージをクリアしていき、気がつけば五面のボスまで辿り着いて、そこで行き詰まってしまった。
みすちーが弾幕を躱せなくなったんじゃない。
みすちーは一度もボスの弾に当たることがなかったけれど、それでもボスの体力を削り切ることができなかったのだ。
みすちーのキャラクターがボスの即死攻撃にやられて破裂し残機によって蘇り、次の即死攻撃でやられて破裂し、蘇り、そして破裂した。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
もう一度聞こえてきた合成音声にみすちーはやっぱり『いいえ』を選んだ。
首を振ってため息をついた。
わたしの方を見て笑った。
「まあ、こんなもんね」
「す、すごい……!」
「言ったでしょ。けっこうやってたの」
「けっこう……っていうか、ガチっていうか……すご」
わたしはプレイ中いつのまにかみすちーを応援していたから五面のボスで全部弾を躱したのに負けてしまったことに全然納得がいかない。ゲームが壊れているのだと思って言った。
「でも、バグじゃないの、あれ。ちゃんと避けてるのに倒せないじゃん」
「キャラを強化してないからだよ」
「きょーか?」
「そうよ。4からだっけかな。このシステム。データを保存してカードに経験値を貯めるわけ。それでキャラの攻撃力とか強くできるから、強化しないと倒しきれないのよ」
「はええ」
「最近じゃこの手のゲームはなんでもセーブ式さ。思い出を集めるの。経験値ならちゃんとわたしのこの腕に残ってるのにさ」
「かっこいい……!」
「でしょー」
わーすれちゃうよーわーすれちゃーうーだーんーまーくごっこーあそーびーなんてーすぐにーわすーれるー。
みすちーは口ずさみながら、もう一回見せてよ、えー結果は一緒よそれは響子のコインだし響子がやれば……代打ち代打ちわたしが見たいんだよ、とわたしが渡したコインをゲームに入れて、またはじめた。
あんなに口ごたえしてもゲームがはじまればみすちーは真剣だった。
みすちーは画面の中をじっと見つめていた。
わたしはみすちーの横顔ばかり見ていた。
同じところまでみすちーは行って、やっぱりそこでため息をついた。
『げーむかーどをはっこうしますか?』
『いいえ』
わたしの方を見て笑う。
「ゲームのなかの弾幕ごっこはわたしの歌うことの次に得意なことだったの。でも覚えておくことはわたしのいちばん苦手なジャンルだね」
わたしも笑った。
それからみすちーに聞いてみた。
「でも、こんなにできるなんて相当やりこんだんでしょ?」
「まあね。昔は暇で何もかもが退屈だった。こんなことくらいしか熱中できることもなかった……そういう頃って響子にもあるでしょ?」
「たしかに」
「いつも四人でやってたよ。チルノとルーミアとリグルとさ。最近じゃみんなとも会わないね。みんな今なにしてるんだろ」
「うん」
「リグルは飽きっぽくて楽しいことが好きですぐ見つけてくるけどその分ひとつのことが続かなくて、このゲームだって最初にリグルがやりはじめたのに一番に飽きちゃって、チルノは下手くそなんだ。だから続かなかったし、ルーミアとわたしだけが最後に残った。わたしたちはいいコンビだったんだよ。ルーミアはスポンサーさ。人を襲ってコインを集めてきて、わたしが、やる」
「みすちーがいちばん上手だったの?」
「まあ……そうね。でも最初はぜんぜんだよ。あのストーリーを最後まで見るために何度も何度も何度も何度も、それこそ気が遠くなるまでずっとやってたな」
「あ、そうだ、あれって最後どうなるの?」
「知りたい?」
「うん」
「どこまで聞いたことある?」
「河童たちが宇宙に行くとこだよ。月の地球に対する悪しき陰謀が明らかになって、宇宙船に乗って月との孤独な最終戦争に向かうって……」
「そのあとは」
「そのあとは?」
「そのあとはね」
「うん」
「君自身の目で確かめよう!」
「へえ?」
「そう」
「いや、なにそれ」
「でも、これ冗談じゃないんだよもう。クリア後の画面には、おめでとう、の文字と住所があって、スペシャルなシューターの貴方へのプレゼントがありますことが書いてあるの」
「それで、そこに、行ったの」
「とーぜん」
「そこで何をもらったの?」
「機械の身体!」
「ええ?」
「わたしたちはその場所で拉致されて、秘密のアジトに連れて行かれ、優秀なシューターとして才能のあるお前たちはサイボーグになってこれから月と戦うから、って言われたの」
「いや、まじで?」
「うん。そこにはたくさんの改造された子どもたちがいたよ。半分機械の子や不思議な魔法で狼になった子ども、特別な薬の力によってたとえ死んでも生き延びても成功するまで何度も同じ時間をやり直してしまう子たちや……。わたしも危うくそうなりかけて……それこそほんとのルナ・シューターになるとこだったね。命からがら逃げ出したけどね。」
「それ、ほんとう?」
「そうだよ。でも、その逃げるときに記憶処理されちゃって、そのせいでいまもすぐ忘れちゃうの。覚えてもさあ……忘れちゃう。空震……頭のなかにボルトが残ってて、こうやったふると、からから、鳴るのよ」
「本当に?」
そうだよ、聞いてみて。
みすちーは立ち上がり、わたしのすぐそばで、わたしの頬に髪に頬が触れるくらいのごく近い距離で、頭を振った。
でも、聞こえなかった。
遠いところで激しい雨の音。
風の音。
みすちーの髪がわたしの首筋をくすぐった。
みすちーは笑いながらわたしのことを抱きしめた。
「あはははっ。ばか、ばか、ばか、うそに決まってんじゃん!」
でも、みすちーは、そのままわたしのことをぎゅーと思い切り抱きしめ続けていたのだ。
ずっと、ずっと、長い間、そうしていた。
雨の音。
みすちーの香り。
ほんの少しだけ、わたしは痛かった。
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わーい。 わーい。
やったー。
わたし今日の日はこんなにも上機嫌。
とっても楽しい。 こんなに嬉しい。
こんな日には憂鬱なんかどっかに飛んでっちゃう。忘れちゃうよね。
あの子のことも。
あいつのことも。
みすちーのことも。
わたしの自身のことだって。
あ そうだ 広告を出そうかな。
『わたしはこんなに楽しい生活を送ってます!』
『わたしの楽しい暮らしをみんなにも知ってほしいのです!』
『わたしがこんなにも楽しい日々を手に入れた方法をみんなに特別に教えてあげよう!』
今日 わたしはさ
札束の湯船に浸かるみたいにね
たくさんの楽しかった日々の思い出の写真たちに浸ってね こう 。。。
こうする。
「ぴーす!」
だって 楽しかった日々はまるで猥雑な雑誌の裏の広告みたいだったよ。
あの時は辛かったけど今はこんなによくなりました! みたいに?
さいてー。
でも 楽しかった日には みすちーのことを忘れちゃうね。
忘れちゃうよ。
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みすちーはそれから永遠にわたしを抱きしめ続けるようで、みすちーの腕の中でわたしはどうしていいかわからず、ただ目をつむりながらじっとしていた。
とてもゆっくり流れる時間の中でみすちーの細い腕がわたしの背中に腕にくいこんで、すぐそこで、近いところで、なんだか少し遠い場所で、みすちーの身体が小さく膨らんだり縮んだりするのをわたしは感じて、雨の音……”生命の不思議”みたいなのってなんかちょっとやだよね、でもわたしを抱くみすちーはなんだか生き物のようだったよ。
どれくらいたったんだろう。
きい、ときしむ音を聞いた。
ちらと振り向くとコインランドリーの扉が開き、雨音が強くなり、天狗の女が現れた。
少し濡れてた。
わたしたちは身体を離して天狗のほうを見た。
天狗はちょっと肩をすくめてみせた。
ふわりと翼が小さく揺れた。
黒い大きな翼。
そいつはさっきコインランドリーに行くときに見た天狗だったと思う。たぶん。
彼女はわたしたちに言った。
「妖精を見なかった……? あの子たち結局帰っちゃんだ」
すぐにわたしたちは顔を見合わせて。
みすちーが言った。
「でも代わりにわたしたちが見てますよ。そういう、契約したから」
「そっか……。上は混むのよ。天狗の里は……。ここは穴場でね……。上がいっぱいのときはたまに来るの……」
ローテーのぎざぎざの声。
乾燥機械の窓を開いて大きなビニール袋に洗濯物を詰める。
みすちーの小さな耳打ち。
(人を殺したよ……。)
わたしは少し出した舌を上の歯と下の歯で噛んで見せる。
天狗の女は洗濯物を詰めたビニール袋の口を固く結んだ。
それからわたしたちの方に向かって歩いてきた。
「それ懐かしいね……」
彼女が話しかけたのはわたしたちじゃなくてあの機械だった。
むかし叶わなかった月の侵略の夢を見た機械……。
また呟いた。
「あの頃はこいつがわたしたちのすべてだった……。こいつのせいで針だって縫ったな……まじさぁ、これ」
「そうなんです?」
みすちーがそうやって聞き返すと天狗はジャケットの前のところをはだけてシャツの襟を下の方に引っ張って見せた。
たしかに胸の上のところには斜めに深い傷跡があった。
「ほら、噂があったじゃない……。ムーン・インベーダーのあるとこには鬼がでるって……」
「鬼?」
「ああ……。本物の鬼よ。下のほうはそんなこともなかったんでしょうが……。天狗の里じゃどこからともなく鬼が戻ってきて筐体を占領しちまうのよ……。順番も変わらず、ずっとやってて……」
「ああ、そういう人、下にもいましたよ。ずいぶん困りましたよねえ」
「でさ……喧嘩したのよ……。論理はわたしにあるし。気性の荒い鬼だよ。ひかなければそりゃあ喧嘩になるよね……」
「鬼と喧嘩したんです? それはまた」
「痛い目みたよ……。向こうは手を抜いてたんだろうが、それでも死にかけたな……まじね」
傷跡を指でなぞって。
それからシャツを戻してジャケットを前で閉じた。
「懐かしいな。知らなかった……。こんなとこにあるなんて……」
「これは新しいヴァージョンですけどね」
「ふうん……」
彼女は丸めた手を口にやって思い出に浸ってるってふうだった。
「ずいぶんやったの……。お金を手に入れるのに苦労したな。天狗の里じゃ文章を書けるのがえらいのよ……。小さい頃は新聞記者になりたくてさ……。あたしは文章がろくに書けなかったから、写真をたくさん撮ったよ。ローカルな不貞やスキャンダルを……。やな仕事だった。褒められないし嫌われるし、ときには知り合いのやつも撮っては二束三文で売ったの……。ぜんぶこれをやるためさ……」
みすちーはうんうんとしきりに肯いている。
外では雨が降っている。
このゲームをそれほどまでには知らない熱中もしなかったわたしは少し外を見てた。
「最後まで全部見たかったな……。けっこうやったのよ。一番むずかしいやつの最後まで行ったんだけど、ほんとはその上があって……なんだっけかな」
「Lunatic?」
「そう、そう……そう」
「それじゃないとほんとの最後がわからなくて……。それが今までの難易度よりも段違いに難しかった……」
「ええ、ええ。そうでしたよね」
「あたしはずっとやってたけど、仲間たちは少しずつ飽きていって、あの頃はゲームの周りにあんなにたくさんの人がいたのに……。ひとりひとりいなくなって気がついたらずぅっとひとりでやってた……」
「でもおかげでずいぶん上手くなったでしょ?」
「そうね……」
「山頂の孤独は他の人にはわからないものですよ」
「ふふ。ただのゲームよ……」
「まあ、そう」
「新しいやつが出るときはすごく楽しみだったな……。やんなくなったやつらも帰ってくると思ったし、でも、みんなが戻ってくることもなかったし、どうしてかな、あたしも昔ほど熱中できなくてね……」
「ああ、3はわたしもあんまりでしたね」
「なあ……あれってどうゆう仕組みなの? それだけでずっとやってられると思ってたのに、なのに、簡単にどうでもよくなっちゃうってやつ……」
「それについてはいろんな人がいろんなことを言いますね。わたしの好きな説はわたしたちはほんとは鳥じゃなくて猫で、だから何でもすぐ飽きちゃうってやつですね」
「ふうん……。でもあたしは猫じゃない……。猫……飼ってるし。仲間たちはきっとお前猫なんて飼ってもすぐに死なせてしまうだろうって言ってたけど、まだ生きてる……生きてる。ねえ、猫が猫飼ったりしないでしょ?」
「それはたしかにねえ」
「ああ……。この地にあるすべてのコインがあの機械に吸われてしまうまでゲームは続くと思ってたのにな……。でも単に世代の問題と思ったのよ……。そりゃあ、あたしの周りのやつもやらなくなるし、ああいうゲームが交代制だっていうふうに、また次の世代がやるんだって……。でも娘ができて、娘は熱中すると思ったけど……。母親にはいるでしょう、あたしのママもそうだったけど、こどもにああいうのやらせたくないっていう手合い……。あたしはそうじゃなくて、娘が、あたしのときなんかコインを集めるの精一杯でやっと一回やれるっていうふうだったけど、いまはコインくらいいくらでも用意できるし、やらしてやろうって思ってたのに……」
「いまの子はあんまりやんないらしいですね」
「そうね……。いま娘が熱中すんのは兎の人形さ……。シルベニア・ファミリーっていう、家族の……」
お母さんは虎が好きなのにねえ……ってみすちーが言うと、天狗は鼻で笑った。
「ふふ。そんなのは……」
彼女はわたしたちの赤い手押し車の上のみすちーのCameraを指差して。
それ、いいカメラね、と言った。
ええ、って、みすちーは笑う。
そして彼女はコインランドリーから出ていった。
空に浮かび上がる間際、ふわりと広がった彼女のジャケットの背中には、虎が住んでいた。
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もう言いたいこともないや。 。
そういえば ずいぶん長い間ナズーリンに本を借りたままだから
今度返さなきゃね。
おしまい。
おしまい。
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雪、雪が降っている。
みたいな感覚センスの風雨の日だった。
ぬかるんだ道を歩くスニーカーの濡れ感なら、なんだか深い初雪を踏みしめる感じ。
雨がまるで雪のように空から降っている。
雨粒は雪の粉みたいに冷たくて、きっと、ほっぺたで、溶けるよ。
コインランドリーのガラス窓には斜めに強い風が打ち付けて、かたかたと震えている。
それともその音はわたしたちの後ろで回っている乾燥機の音だったんだろうか。
とにかくなんだかそれは吹雪みたいだったのだ。
夜に、雨が吹雪いてた。
時の頃は、朝の少し前。
空は厚い雲に覆われて濃い闇が森を包んでいる。
唯一、コインランドリーから溢れる光が森を満たして、冷たい雪の色に染めている。
ガラス面の向こう、建物のすぐ目の前に広く溜まった雨水が光で銀色に輝き、煙のように立ち込める霧は鼠の色に吹雪いて視界を奪い、地に木々に跳ね返る細かい水の飛沫の色は白、そして、それらがすべてが雪景色のようだった。
遭難?
そんなん大袈裟だって。
コインランドリーの長椅子に二人並んで座りながらわたしたちはそれを見ていた。
真新しい光が充満するコインランドリーの室内でわたしはスウェットの右の袖口をちょっと伸ばして指を隠して、足りなくなったもう片っぽの袖口から指を伸ばして椅子の上のみすちーの手に重ねた。
みすちーの身体はわたしのほうに向かって、ちょうど30度のあたり。
ふら、ふら、ふらふらふら、こっくりをうつみたいに、揺れていた。
わたしの肩の上を小さく転がりながら、みすちーの髪は、わたしの首筋をくすぐった。
それは雪のように、わたしの肌につんと触れたと思ったら、柔らかく束になってさらさらと撫でながら……みすちーは落っこちていく、崩れていく、少しづつ横になっていって……わたしの肩の上に、胸の上に、膝の上に。
コインランドリーの中はとても暖かい。
あくびがでた。
膝の上に寝転んだみすちーの髪を撫でてた。
真っ暗な森の中で唯一このコインランドリー明るく灯るから、それは吹雪く雪山の中にぽつんと現れたビバークみたいで、台風の中でみすちーの暖かい身体を抱えて撫でるわたしはまるでやってきて遭難みたいだった。
「そんなん大袈裟だって」
わたしが言うと、みすちーはむっとしてわたしの腿を噛む。
「いたいいたい」
「響子のまね」
「わたしは人を噛んだりしない犬だよ」
「わたしのしつけがなってるからね」
「そうだよ」
みすちーはすっと起き上がってそれから赤い手押し車まで歩いていき荷台のCameraを取って抱えてわたしに見せた。
Cameraには雨除けのビニルが被せてあった。
「あの天狗も言ってたでしょ、これはちょうすごいカメラなんだよ」
「いいカメラなのはわかったけど」
「いいカメラ? いいとかじゃないわ。それこそ神器ね。神様たちの使うカメラだよ」
「それは言いすぎでしょ」
「言いすぎじゃないもん。まじだからぁ」
みすちーはわたしの肩の片方を掴んで揺らした。
わかったわかったよ、すごいよねそれ。
すごい、ちがう、超、すごい。
ちょおすごい。
でも他のいろんなこととおんなじように、わたしにCameraのことはわからない。
みすちーの持ったCameraにプラスチックの青いタグがついていて、それがひらひらと揺れるからわたしは思い出して言った。
「それ河童製のやつだよね。そのマーク見たことあるよ」
「あ、そうそ。よく知ってるじゃない」
「河童製の機械ならいくつか持ってるけどみんな赤いタグだよ」
「これは上位種だよ。最高機種。だから青だよ。ふつーは店にも売ってない」
「それ外さないの? 邪魔じゃん、ついてたらださいし、笑われるよ」
「はあ、ばっかじゃないの? 切ったら意味ないのよ。これは”本物”を証明する青タグだよ」
「ふうん。でも、それってすっごい高いんじゃない?」
「そうよ」
「そんなのどうやって手に入れたの?」
「屋台の売り上げを担保にいれたの。向こう数年のさ」
「借金ってこと?」
「うん」
「返せるの?」
「いつかはね……きっといつかは」
「はあ。なんでまたそんなん買っちゃったわけ」
「だってどうしても欲しかったんだもん……」
みすちーは恥ずかしそうに笑う。
わたしはCameraのことがわからないから、そのCameraの価値もわからないし、そんなものを買ってしまうみすちーのこともわからない。
でも、わたしはなんだか寂しい。
みすちーの後先を顧みない暮らしの作法。
みすちーにとってはいま今日しかないから。
やがて、みすちーは雪のように消えてしまう……。
わたしは怒るべきだろうか。
でもわたしのどこを探しても怒りのようなものは見つからなくて、あるのはちょっとばかりの呆れとたくさんの寂しさ。
なにもかもを簡単に忘れてしまうみすちーが、こんなにも高価な記録媒体を買って大切に愛することを、なんだかわたしはみすちーの祈りのように思う。
大切な思い出をなくてしまわないように、ちゃんと必要なものをいつまでも記憶しておけるように、明日もみすちーがみすちーを続けられるように。
それは、藁人形と釘さえあれば嫌いな人を殺せます!みたいな軽くてたいてい叶わない呪術の類だけれど、でも祈りには違いない。
ほんとは、わたしもおんなじのを持ってるよ。
Cameraじゃない。
同じ祈りをさ。
だからちっとも怒る気にはなれないな。
お寺でみんなが言う般若心経とかをその意味もあんまりわからず毎日ただ真似して唱えるようにみすちーとおんなじ祈りをわたしも掲げて、みすちーが決して連綿することのない白い記憶の雪世界でも迷わずに歩き続けることができて、ついでに明日もわたしのそばにいてくれたら、それで、いいな。
それもやっぱり大袈裟だって、みすちーなら言う?
みすちーは大事そうにCameraを抱えている。
「ねえ、ねえ、響子、これは完全防水なんだよ」
「すごいじゃん」
「ただの防水じゃないんだよ。完全なんだ。川の底のでも使えるよ」
「ほんとに?」
「うん、うん。そもそも河童たちの作る機械は完全防水だった。当然だよね。河童たちは川で暮らしているんだもん。彼らが自分の生活を便利にするために機械をつくるとき防水はまずもって最優先事項になる。それがないとはじまらないんだ。どんな便利な機械だって川に入って水で壊れちゃ意味ないもんね」
「まあねえ」
「そして河童の国から離れたところで暮らす人々にとってはそれがそのままユニークな価値になったんだ。特に神様たちにとってはそうだね」
「どゆこと?」
「つまり、神様や、力の強い妖怪もそうかも……彼らは幻想郷の外の機械だって手に入れる手段があるし、実際持ってる。外の世界の機械はそりゃあハイ・スペックだよ。でも防水性っていう点においては河童の機械には到底及ばない。だって河童たちはいつでもそのことをいちばんに考えてきたんだもん。だから、それはほんとの意味で魔法なんだ。一族の秘術だね。だから多くを知る神様はかえってそれに憧れたの。みんな欲しがった。外の世界の技術と交換でっていうか、ハイ・スペック・プラスでさ……つまり、特注だよ。河童たちは商売上手だからね、ずいぶんふんだくったって聞く……。きゅうり何本とかじゃないよ。そんなんじゃ数えられない……。もっと強い単位でさ」
「お金とか土地とか?」
「そうだよ。そのとき河童たちは自分たちの機械に行使する完全防水という力が魔法だって知ったんだ。だからその価値を守るためにすべての防水機械たちに同じ値をつけた。防水機能の弱い、あるいはまったくない機械たちを廉価品として並べてね」
「うん」
「ねえ、響子、機械は水に弱いんだよ。あたりまえだよって顔してる……。でも、それは、単にひとつの取捨選択と淘汰の結果でさ……。べつの進化の道程においてはぜんぜんちがうかもしれない。そうだよ、響子、むかし、この土地には、特別な魔法があって機械は水に強かったんだよ。魔法は呪文によって秘される。天上は大気圧によって遠ざけられる。ほら見て、いまでは完全防水製品には河童印のプラスティック・タグがついてる」
「その青色の……?」
「これは偽物のとちがいをはっきり現すためにつけられたんだ。真似コピーできないやり方でさ。だから切ったら価値がなくなるの。神様たちはこの機械を使う。みんなはそれに憧れる。高いお金を出してでも買おうとするんだよ」
「ああ、ねえ」
「まあ、でも、ほんとは機械にそんな防水機能なんかいらないと思わない? わたしたちは地面の上で暮らしているんだし。だからそれは今では最上であることが単に最上っていうだけの最上級品なんだよ」
「でも、みすちーも買っちゃったんでしょ?」
「そうよね。おかしいかなぁ。やっぱいらなかったかなぁ……。でも、わたしも、ずっとね欲しかったんだ……」
「そっか」
「えへへ。これは最上級品だよ。河童たちだって持ってないの」
「河童たちがつくってるのに?」
「うん。今じゃ、完全防水は神様たちにとってのものだよ。彼らは風雨の中を歩いても雨粒ひとつあたらないんだ。代わりに川で暮らす河童労働者たちは自分たちの機械を水飛沫から守るためにどうしたと思う?」
「どうしたの?」
みすちーは笑った。
「ビニルを被せたの!」
言ったらすぐに、みすちーは雨の中に飛び出してCameraを抱えたまま駆けて、突然振り向いてわたしを映した。
レンズ。
手、振ってた。
少し高いところで揺れていた。
雨が降ってた。
コインランドリーのガラス戸の向こう側に見えるみすちーは、激しい雨粒にばしゃばしゃと打たれて、なんだかいますぐにでも破砕してしまいそうだった。
やがて覗き込むCameraのその下で、口が動くのが見えた。
みすちーは、「ほら、はやく、ぽーず、して」って、言った?
わ、ら、っ、て。
みすちーの構えるCameraには透明なビニルが被せてあった。
わたしはためしにはにかんでみて、でもレンズを通したわたしの姿は濡れきったビニルのせいでたぶんモザイク調で、それにうまく笑えなくて、みすちーのCameraのレンズは湿度に結露して滲んでた、どうしたらいいかわからないよ。ぴーすをしようと思ったわたしはやめて持て余した腕を後ろで組んで落ち着きなくふらふら揺れていて、なんだか気恥ずかしいし、水滴で見えなかった、3つ横に並んだ乾燥機を背景にしてわたしは耳を垂らしてできるだけ顔を隠しながら曖昧な笑みを浮かべたまま……。コインランドリーの建物はまだ新しいはずなのに雨のせいでくすんで映っている。ガラス戸が寒暖差に曇っている。リノリウムの床に泥水の足跡がいくつもへばりついている。わたしがレンズから逃げるように横に動くのを少しずつみすちーのCameraは追っている……。がらがらと巨大な乾燥機が回る音、Cameraの集音器には雨の打ち付ける音……あるいは、聞こえこないみすちーの声。 そ、こ、に、い、て、よ。 ど、こ に、も、い、か、な、い、で。 曇ったガラス戸越しにわたしは滲んでいる。透明なビニル越しにわたしは折りたたまれている。みすちーとわたしの間を降り敷く雨のせいでわたしはまるで影のようなのに、Cameraのレンズの調節されたピントのせいで世界からはっきりと切り離され、みすちーの視神経の切れ端のところでわたしは電撃だった。
しびれる。
ゆらめく。
そのまま光のひとひらになって消えてしまいたいと思った。
吹雪のような嵐の中で、みすちーだけが、Cameraを持って立っていた。
その、レンズ、レンズ、レンズ、レンズ。
レンズぅ? ……ぶれ、ぶれ、ぶれる。
震える。
Cameraのそのピントが収斂して瞬間を切り取るそのひとときにわたしは、どこにもいない。
みすちーのCameraは最上級だってみすちーは言ってた。
映像素子センサーならフルサイズよ、チルト、フラッシュ、衝撃耐性、スクリーン……でも基礎構造は極めてClassicね。それって普遍だし不変ってことだよ。みんなが信じてるし、どんな場所、時代だって通用する。安定、健康、不惑。なによりipx9+だもん、泣いたりなんかしないの。
そのことを証明する青色のタグが強い風に吹かれてぱたぱたと揺れている。
雨、降ってる。
精緻な防水性によって証明される価値を守るためにビニルでそれを防水するその自家撞着をわたしは愛おしく思う。
みすちーにもおんなじのが、ついてるような気がする。
みすちーの、耳たぶとか踵の腱とか脇腹とか二の腕とか、どこか、どこかとにかく柔らかい端っこの部分に、”特別の”を示す青色のプラスティック・タグが……。
わたしはみすちーのことを、所有したいという衝動でいっぱいになる。
フェスタにも台風にも吹雪にも死の影にも他の誰にもみすちーを奪われたくはないと思う。
フェスタを憎み、同じ季節を同じ倦怠感で焼いて、自分の命さえなにひとつ所有することができず、歌うことの弾くことを歌うごとに弾くたびに忘れてしまうみすちーが、いつかあのプラスティック・タグを外すことができなかったことを、それとまったく等しい作法で、わたしは愛する。
わたしはこんなにもみすちーのことが好きなんだって思う。
ばしゃばしゃとうたれながら、白い粉のような霧に包まれて、声も届かない遠い場所で、みすちーは笑って言う。
その意味を、わたしは口の動きだけで知る。
「う、た、っ、て」
雪、雪が降ってるよ!
わたしは歌った。
それは、今日の日に、ちょうどいい祈りの歌。
こんな特別な日、みんなが楽しい気分になる雪の日には。
「めりーめりーくりすますー、めりーくりすます、めりーめりー」
そういえば、フェスタの新しい曲のために書いたわたしの詞も似たような歌だった。
結局、今日はみすちーに話せないままで終わっちゃいそうだけど。
それを、わたしはみすちーに、みすちーだけにいちばん聴いてほしかったのに。
それはこんな歌だった。
タイトル未定/
歌/歌詞 わたし 曲/編曲 みすちー
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
みんなが楽しい気分だったらいいな
今日だけ
みんなが楽しい気分だったらいいな
あーあーあー(超シャウト?)
フェスタが近い。
もうじきフェスタがやってくる。
フェスタの熱狂はわたしたちのすべてを変えてしまう。
フェスタがやってくればわたしたちはもうフェスタのことしか思えない。
フェスタが来るまでずっとフェスタのための準備をしてやがてフェスタがやってきてわたしたちはいつのまにかフェスタのなかにいてフェスタが去ったならその思い出を語り次のフェスタを待ちフェスタのことだけ思って暮らしていく。
なんだかわたしはこれからさきの毎日を毎日毎日わんわんと泣いてしまいそうだった。
そういえば、わたしが泣いているといつでもみすちーはわたしの涙を指差して、はしゃいで、言ったんだった。
「雪融け……!雪融け……!」
わたしは雪国で生まれた。
みすちーの頭の中にだけあるその雪国で。
そこはひどく激しく吹雪いている。
どこまで行っても同じ白色が続き、歩いた足跡が歩いたそばから降る雪に埋もれてなくなってしまう。
まるでフェスタがやってくるように、嵐が通り過ぎるように、すべてが簡単に拭い取られ、なにひとつたしかな形で残らない場所。
雪が降れば、楽しいこともつらかったことも喜びも寂しさも、白色に覆われて消えてしまう。
でも、降り積もった白い雪だけはいつまでも、そこにある。
残り続ける。
だから、たとえどんなに激しいスピードで通り過ぎわたしたちのすべてを変えてしまうものでも、雪国を奪うことはできない。
曇ったガラス面の向こう側、しわくちゃのビニルを通して、歪んだレンズを介して、曖昧な視神経の先で、みすちーは、ばらばらの淀んだ白色。
こんなにも降り続く嵐のような雪の中で見えなくなってしまうな。
だけど、みすちーから見たわたしも、きっと同じ白色なんだろう。
悲しいことに。嬉しいことに。
みすちーの頭の中にあって、その存在を忘れてしまってもなお残り続けたその雪国に、わたしも生きてるよ。
みすちーはその小さな羽で、わたしをそこまで連れてきた。
それは、フェスタがやってきても奪うことのできない、わたしの来歴だよ。
みすちーのくれた、わたしに、たったひとつの、にせものの来歴。
みすちーとわたしは雪の上をふたりで歩いている。
雪国には歩行のルールがある。
離れ離れにならないように、片方が途中で倒れてしまってちゃんとわかるように、わたしたちは太い縄でお互いを繋いでる。
だからみすちーがいなくなっちゃうなんてことはないんだよ。
みすちーがそこで崩れてしまいそうになるなら、ちゃんとわたしがわかるから。
わたしがみすちーのことを見てるから。
わたしはいつもみすちーの後ろを歩くから。
大丈夫。生き延びる術なら知ってる。知ってる。
それは覚えた。
わたしが忘れないもん。
あくび。
ひぃぁあああ。
わたしはいつでも眠くて、泣いてしまうそうだな。
でもこんな吹雪の中で眠ったら死んじゃうから、膝の上で眠るみすちーを抱えながらずっとずっとずっと起きていて。
目を醒ましたみすちーの隣で、わたし。
「おはよう!」
って、言えたらいいな。
だから、わたしに降るものは、すべてが雪だった。
そうだ、なんだか雪が降っている気分だね、なんだか雪が降っている気分だよ。
まるでなんだか雪が降っているみたいなさあ……。
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ま。
る。
で。
な。
ん。
だ。
か。
雪。
が。
降っ。
て。
い。
る。
み。
た。
い。
に。
さ。
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帰り道。
やっぱりわたしたちは吹雪の中をふたりで歩いてた。
雨合羽に身を包み、奇妙な姿勢でお互いに手押し車の取っ手の片方ずつを持って、余った手を繋いでいた。
みすちーの手はわたしの手の中でなんだか弱々しくて、そのまま溶け出して消えてしまいそうだった。
みすちーが歌うから、わたしは聞いてた。
「きょーこーのことをーかーんがえるとーからだがーめーらめーらーあーつくーなーってーくーるーしーのーこれーはーいったいーなーんですかー」
「あーそういうのってわたしちょっとやだな。だってよく言うじゃん。激しく燃えるものはすぐに燃え尽きちゃうって。だから、わたしは熱はちょっとでいいから続くのが好き」
「でもわたしはいつでも永遠だけを歌ってるよ。そんなの言うやつは太陽知らないんだって」
「そうかな」
「そうだよ。言ってるじゃん、響子はわたしの太陽よ。それって単純なこと……響子がいるから朝が来るし、響子がいるから生きてる。それだけなんだよ」
「ほんとにそれだけ?」
「うん。約束するもの。わたしは響子のことを忘れたらそのあかつきにはこの世界の全部を覚えるよ。わたし本当はいろんなものを覚えておきたいと思ってるんだよ。でも、そう思っても、響子のこと考えたらなにも手につかなくて、こんなにも響子のことが好きでそれだけでいっぱいだからそれをなくしたら、この世界にあるものくらいすべて覚えることができるって思う。それくらい大好きなんだよ、ほんとに……。だから、覚えるのなんて難しいことじゃないもん。外の世界の不思議なくらいにカラフルな料理のレシピとか、誰も語ることができない本当の歴史とか、雨が降ってどこにいくのかとか、鳥たちが種類によってそれぞれ違う高さを飛ぶ理由とか、寝なくても起きていられる最大の時間とか、あの難解な歌のコードとか、誰にも解けない数式とか、あのとき誰かが言った言葉のほんとの意味とかぜんぶ、ぜんぶ、全部をさ……。覚える。覚える……、そしたらきっとそれを言いたいなあ、響子に、いやまあもうそんなに覚えたら今度は響子のことなんか忘れちゃってるんだけどさ、だから響子に言うってことだけ忘れずに覚えておいて、あとで響子のこと忘れちゃって単に言う、ひとりでね、ゆー、言う、いや、言うかな、どーかな、ま、いっか……わたしさ、ほんとはさ、響子にいろんなことを喋りたくて、響子にもわたしの知ってるぜんぶのことを教えてあげたくて、でもいまは響子のこと、今日この日のこと、とか、そんなのでいっぱいでなにも覚えられないし言えなくて、いろいろ覚えたら、そのときにはまあ響子のことなんか忘れちゃってるんだけどさあ、でも、そう…………どうかな、言おうかな、やっぱだめかなあ、言いたいな、でも……。そうだよねえ、いつもなんだって簡単に覚えるけど……忘れちゃうもん」
「へえ? なにゆってんのかぜんぜんわかんないよ」
「あ、響子もわたしのことが大好きだからそんなこともわからなくなっちゃうんだね?」
「そう、そう、そう、もー……そう。」「そうじゃん」
太陽。
みすちーの言う、みすちーがそれをこう言うから、言うみすちーの言うところのみすちーの言うそれを探してなんとなく見上げた空は風雨に紛れ雲に覆われて、そもそも晴れていたっていまはもう夜なわけで、だからそれは、風雨に紛れて晴れても夜のなんだか雪の日みたいな冷たい風雨の夜のことだった。