いつのころからだろう、ハッピーエンドが嫌いになった。あの幸せな場所に、私は行くことができないんだと気づかされたから。
幸せの後姿は、暗いんだ。
とても、穏やかな陽射しだった。
気が付いた時には、私は縁側に腰をかけていた。その景色が随分と久しぶりだったもので、暫くの間、何も考えずにただ目の前の景色を享受していた。
「……随分と、久しぶりだなあ」
久しぶりにやってきた博麗神社は、記憶にあった頃よりも少しこじんまりとしていた。高校生の頃から、体系も身長も変わっていないはずなんだけど。
空から天使か妖怪でも降ってきそうなほどに、空は晴れている。ビルの隙間から眺める窮屈なそれとは違う。こんな空を眺めたのは何年ぶりだろう。見上げすぎてちょっと首が痛くなっちゃうのが、少し悲しい。
どれくらい眺めていただろう。腕時計は何故か随分と前の時間を指したままだ。何かこぼしたんだっけ、時計は気持ち悪く湿っている。
肩を回した。首の窮屈さを緩めながら後ろを振り向くと、昔見た時と変わらない居間がそこにある。丸い卓袱台も、少し怖さを感じるような茶箪笥も。ひんやりとした空気を持ってはいるが、あの頃のままだ。
そういえば、と上着を探した。どこに置いてきたんだっけ。
「ああ、これコーヒーか」
手首が濡れていた原因を思い出した。コーヒーだ。そうだそうだ。
「おおい、おおーい。誰かいませんかあ」
秋の日差しは柔らかく、それに反して母屋の影は硬質だ。二度、三度と呼びかけてみるけど、何の反応もない。柱に掛けられた時計の針も、よく見ると止まっていた。
境内の白とは対照的に、母屋の中は薄暗かった。最近は昼も夜もなくオフィスに籠っていたのもあるのかもしれない。ああそうだ。端末、つけっぱなしだった。早く戻らないとなあ……何しに来たんだっけ、私。
もう一度腕時計を見た。やっぱり針は動いていないし、手首はさっきまでと同じように少し濡れている。右手をずっと握っていることに気が付いて手を開こうとしたけど、なんでかどれだけ力を込めてもうんともすんとも開かなくて、思わず笑っちゃった。
「ねえー、霊夢っちー、いないのお」
ひとしきり笑って涙目を擦った。なんだか肘のあたりがチクチクする。やっぱり留守かなあ。見せてあげたいのに! 開かない拳とか、なんだかとっても面白いんだもの。そんなことを思ったからかな、境内で誰かの足音を聞いて、私は靴も履かずに飛び出した。
紅白の巫女装束、羨ましいくらいに綺麗な黒髪、あの大きなリボン! 何年ぶりだろう、あの後姿は私がこれだけ歳をとっても、置いていかれたようにあの頃のままだった。
「霊夢っち! ひっさしぶり! わかる? 私、菫子! 変わってないね!」
身体に何かが満ちていくのを感じたんだ。日常を過ごす中ですり減らしていた何かが、私の中に満たされていくんだ。なんだろう、睡眠時間とか?
霊夢っちは私のことを憶えていてくれたみたいで、薄く微笑んでくれた。解けない握り拳を優しく包んで、霊夢っちは私を引っ張ってくれる。境内を少し転びそうになるうちに、いつの間にかスーツは制服に変わっていた。
眼鏡越しに見る景色が鮮やかになった気がした。そういえば仕事を始めてから急激に視力が悪くなったんだった。身体もなんだか軽くなった気がする。そういえば腰痛も無くなった! 巫女ってすごい!
ぐんぐんと鳥居が近づいてきた。この先には大階段があって、それは幻想郷に続いているんだ。知っている、何度もここに来たんだから。けど、そのまま下りはしない。霊夢っちは多分、そんなことはしない。だから私も一緒になるんだ。
鳥居を抜けて、足を思いっきり踏み抜いた。
そのまま空が近くなっていく。やっぱりそうだ。暫く感じていなかった解放感で、空を飛んでいるのだと改めて理解する。胸の中が暖かいんだ。すっごく素敵な気持ちなのを、私の全身が理解している。だって痺れているんだもの。
空を飛んでいるときの景色は、本当に不思議で、わくわくして、素敵なんだ。みんなの営みが見えるくらいに、そこにある息吹を感じるんだ。鳥になりたいっていう人の気持ちが少しわかる気がする。
霊夢っちは髪を靡かせていて、気が付くと昔のようにぼさぼさに戻っていた私の髪が、うっとおしいほどに肩や頬に軽い刺激を加えるんだ。それすらも幸せ。間違いない!
「ねえ! 霊夢っち!」
ようやく思い出した。ここに来た理由。
空を飛んでいる私の周りは音が無かった。霊夢っちがゆっくりと振り返って、私の瞳を覗き込んだ。その表情がなんだか余りにも『らしく』なさすぎて、やっぱり私は笑顔のままでいることが出来た。
腕を振りほどいた。そうだ。もう、私は飛べなかったんだ。
「ごめんね、さよなら」
よかった、言えた! これだけは言っておきたかったんだ!
私の中で一瞬前まで駆けまわっていた全能感が、浮遊感と一緒になって抜けていく気がした。風を切る音を思い出そうとして、そんなものを随分と聞いていなかった私の脳内は、どれだけ頑張ってもそのサウンドを再生することが出来なかった。
「ありがとう! 楽しかった! ごめんね! ずっとずっと、謝りたかったんだ!」
あっと言う間に霊夢っちの姿は小さくなっていく。ごめんね、本当にごめん。ごめんなさい。あの空に、あの日々に、きっと私の魂は置かれたままなのだ。
抜けていく。抜けていく。これが魂なのかな。それなのに肩の周りが、足首が、なんだかとっても重い鎖を巻いているみたい。本当に音が無い。そうか、そんなに私の思い出はあやふやなのか。なんでかなあ、寂しいなあ。
視界が揺れた。身体中が重くて、そして頭と背中が痛いんだ。呻きながら横を向いて、やっぱりこの瞬間が現実ではないと知った。そりゃあそうでしょ。あんな高さから落ちたらきっと形も残らないもの。
ああ、とかうう、とか呻きながら、赤ちゃんみたいに身体を丸くする。とっても疲れていて、もう指の一本も動かしたくなかった。それでも頭とか背中とかの痛みを逸らそうとして、もう一度空を見上げた。あんなにいい天気だった空は急に曇り空になっていって、雲から波が消えたと思ったら、雲が固まったんだ。お豆腐みたいに! それが天井だと知るのに、随分とした時間が必要だった。
首から下が動かない。なんていうか、動かしたくなかった。仕方がないから顔を横に向けようとして、その中空に肘が乗っているのを見た。出来の悪い心霊写真みたいな景色。乗っかっていた肘から、にゅっと頭が生えてきた。その顔は忘れもしない、あの日々にいたはずの妖怪の顔。
『久しぶりの幻想郷はどうだった?』そう聞かれた気がした。
最高だったよ。そう言おうとして、口を動かすことすらも億劫になっていた。最高だったよ、本当だよ。とにかくそれを伝えたくて、夜の光で灰色に見える天井に向かって、ずっとずっとあああって。言葉を出した。
けど私の気持ちは届いたみたいで、彼女は少しだけ哀しそうな顔をして、景色から消えた。おやすみなさいって声が聞こえた気がした。なんでだろう、すごく安心できたの。
疲れた。
切っ掛けは何だとか聞かれても、どれもが原因で、どれもが原因じゃなかった気がする。一々私の作成した書類に難癖をつけてくる上司もそうだったかもしれない。いつも午後の業務が始まった直後にかけてくるクレーマーじみた老人の相手もそうだったかもしれない。なんだったら、禍福関係なく道を行く人々すら原因だったのかもしれない。
いや、それよりもずっと前で、物心がついて超能力を自覚した時からかもしれない。とにもかくにも言えることは、私はどこか心の形が鋭かったということだ。
何時の頃からか私の超能力は少しずつではあるが衰え始めていたんだ。私を私たらしめていた鋭く尖った全能感という名の自尊心は、どうやら机で俯瞰していた世界でのみ機能するものだったらしい。それに気が付いたのはもう幻想郷という単語が脳の奥深くにしまわれ、日常の波に必死にしがみついている時期だった。
ある日、本当に突然に、空を飛ぶことが出来なくなった。
高校の制服を着ていたことは憶えている。それでもあの頃の私は、急速に衰えていく自身の力に、どうしようもないほどの苛つきを感じていた。そんな日々が続いていたある日のことだった。私が博麗神社を訪れた時、霊夢っちは慌ただしそうにしていたのだ。何があったのか尋ねると、なんでも異変の首謀者がいる場所を突き止めたのだという。
待っていなさいとか、多分そんなことを霊夢っちは言ったと思う。もう何年も前のことだから。そんな彼女に、私はついていくと返した。その言葉に霊夢っちは眉根を寄せていた。何と言おうか迷っていたんだろうなあと、今ならわかる。
結局そこで言い争いになって、勝手にしなさいと霊夢っちは飛んで行ってしまった。地団駄を踏みたくなる気持ちを必死にこらえて、私はその背に馬鹿野郎と大声で叫んだ。羨ましかったんだ。ほんの少し前まで、私もあの場所にいたはずなんだ! なんで私はあそこに行けないんだ!
そうして怒りのあまりに涙目になりながら、居間の卓袱台に突っ伏した。少し間抜けな話かもしれないけど、それが私の幻想郷での最後の思い出だった。
目を覚ますとそこは夕暮れの教室で、残っていた何人かのクラスメートを射るように睨んで、私は学校を後にしたんだ。階段を早足で下りて、校門を飛び出した時にはもう何も見ないように下を向きながら走った。大して運動神経もよくなかったのに。
駆けている最中に、握っていた拳を開いた。どれだけ掌を眺めても空を飛ぶことは出来なかった。大泣きしながら電車に飛び乗って、その涙が怒りなのか悲しみなのかわからなくて、必死に泣き止もうとして周りを睨んだ。
親の顔も見たくなくて、帰って早々にベッドに潜り込んだ。その日は本当にぐっすりと眠れたのが、最高に皮肉が効いていた。
次の日だった。窓から差し込む光が本当に眩しかったの。そうして、なんというか私の中にある決定的な何かが抜けていたのを感じた。確証はなかったけど。そう思ってしまった。それが堪らなく悔しくて、そしてそれを否定できるほど、私の身体と心は元気ではなくなっていたんだ。
それがなんだか可笑しくて、私は澄んだ朝日を浴びながら、馬鹿みたいに笑って泣いた。可笑しくって仕方が無かった。ひとしきり笑い終えて、なんだか心がとても透明なのに、もう、本当に少し前まで残っていた全能感が消えていたのを感じた。それから私の肩と足首にはまるで誰かが掴んでいるような感覚がまとわりつくようになった。もしかしたら、これが疲れという奴なのかもしれなかった。
本当に面白かったんだよ。だって飛べなくなってからの方が、空を飛べる気がしたんだもの。
そうして何か大切なものを失って、それでも日々は流れていった。私はその流れを抜け出せる翼があったはずなのに、いつしかそれは無くなっていたんだ。自分から手放したのか、奪われたのかは知らないけれど、さ。
学生服はスーツに変わって、どれだけ梳かしても湿気に辟易していた髪質は、まるでそんなことは無かったように大人しくなった。
棒倒しってあるじゃない、砂場でやる方のやつ。あれを思い出すの。私の芯みたいなものは日々削れていって、それでも私はその中心で立つ棒の上で、世の中を睥睨していたんだ。もう崩れることが分かっていたのに、そんなことはないってさ。いや、もしかしたらもう既に倒れていたのかもしれない。きっと見たくなかったんだ。
本を読むのが好きだった。幻想郷に出会う前、私の世界は机と本の中だけだったんだ。けれどいつしか、本を読むことも億劫になって、文字を追っていた視線は、かわりに映像を追うようになった。以前はレンタルショップなんかもたくさんあったみたいだけど、少なくとも私から職場までの道にあったはずのそういった店は、そのほとんどがシャッターを下ろしていた。
映画館みたいにさ、部屋を真っ暗にして。そうして映画を眺めるの。映像は気楽だったんだ。私が何をしなくても再生のボタンさえ押せば、目を開けている限りは私に世界を見せてくれたから。
途中で眠ることも多かった。最後のスタッフロールを見る時に、胸の奥がきゅっとするのをこの頃によく感じていた。ホラーでもコメディでも、あの、スタッフ達の名前が流れてくると、その瞬間に私の周りにあったはずの世界は急に元に戻るの。きっとあれは壁なんだろう。
元から悪かった視力はさらに低下して、そうして目つきは悪くなって、そして私に話しかける人は少なくなっていった。手が震えている気がして、その度に手を何度も握っては開いて。隣のデスクで作業している名前もよく憶えていない同僚に心配される。その度に出来ているかわからない作り笑いを浮かべたの。
きっととっくの昔に限界は超えていた。
その日は本当に疲れていた。職場に向かったことは記憶にあったけど、気が付くと夕方になっていた。なんだか上司に色々と話しかけられた気がしたけど、それすらも覚えていなかった。
総菜しか入っていないはずの袋がいやに重たくて、防音だけはしっかりしているワンルームのアパートに戻った時には、何かが抜け始めていた気がした。
なんだかとても疲れていた。立っていることさえ辛かった。総菜をテーブルに置いたんだけど置いた場所が悪かったのか、バランスを崩して床に落ちちゃったんだ。
「……! ああっ! うあぁっ!」
よくわからない言葉を出しながら、テーブルを蹴飛ばした。顔だけが凄く熱くなって、それもすぐに冷めてしまった。まだ総菜ケースの蓋を開けていなかったんだから、戻せばいいだけだったのに。
なんだか食べる気も失せちゃって、部屋の電気もつけずに普段通りに映画の配信サービスで目に留まった映画を再生した。無駄にインチ数の大きいテレビは、この時だけは特に活躍してくれた。
その日に観たのは、本当に何ということも無い映画だった。有名な俳優がいたりとか、目に悪いヴイエフエックスとか、そんなものは一切なくて、ただ誰かが創りたくてしょうがなかったんだろう思いと、役者や配給会社の思惑が混ざった、なんてことのないカントリー・ムービーだった。
映像の中で主人公たちはただ日々を真っすぐに、素直に生きていた。見る人によっては退屈な映画かもしれない。かくいう私も映画を見終わる頃にはプロローグを忘れ始めていた。
切っ掛けというよりは、それが引き金だったのかもしれない。その映画のエンドは、少年たちがまた普段通りの日常を過ごして、横並びになりながら車の通っていない道路を歩いていくというものだった。
画面が半分に分かれて、右半分ではエンドロールが流れ始めた。それが壁だった。その瞬間に、私の意識は現実に戻されて。四つん這いのままでモニターに近づいたんだ。どれだけ手を伸ばしても、私の指はモニターに阻まれた。当たり前のはずなのにね。
少年たちの背中が遠くなっていって、そうして私だけが置いていかれるの。お前のいる場所はここじゃないんだよって。
後ろを振り返った。怖くなった。誰もいないことは判っているのに、そのままベッドに潜りこんだ。
「ああ、ああぁっううー、うううー……」
本当に疲れていた、本当だよ。身体を丸めて、理由もないものに対して怒って、悲しんで、そしてすぐに何にも無くなっちゃうんだ。そうして眠れないから気を失うようになるまで、色々考えては死んでいくんだ。
こんこんって、窓から音が聞こえたように感じたの。頭の半分だけを出して、そこにとても懐かしい顔が佇んでいるのを見た。何もない場所から現れるのは、彼女の得意技だったから、あまり驚かなかった。
もうそろそろ日を跨ぐような時間だったけれど、その瞬間、私の視界は本当に、光った気がしたんだ。しばらく見ていなかった日の出を見たようにさ。
身体はあまり動かなかった。そんな私のことを見てくれたからなのか、彼女は窓の向こうで言ってくれた気がした『明日迎えに来る』って。一も二もなく頷いて、遠足前の小学生みたいに、わくわくしたの。
なんだか眠気も飛んじゃって、ずっとずっと考えていた。きっと、またあの素晴らしい気持ちに出会えるんだ! 身体は誰かに掴まれているみたいに重いし、あの頃みたいに体の隅々を巡る大切なものも無いけれど!
待ちきれなくて、嬉しかったんだよ。朝日が出るころには、もう部屋を飛び出していた。目じりが涙で湿っていたんだけど、また彼女たちと話せると思うとそれが待ちきれなくて、普段は時計なんか見もしないのに、やたらとそわそわしていたんだ。
同期から声をかけられた。私が髪が伸びすぎて暑苦しいと言ったら、それからずっと短くしているような奴だった。ただ、私が超能力を使えると言った時、笑わずに聞いてくれるような奴でもあった。
なんだかごにょごにょ言っていたんだけど、とりあえずオフィスを出て、階段近くの休憩所に呼び出された。紙コップのコーヒーを渡されて、何かを言っていた。それよりも、いつ彼女がやってくるのか、その方が気がかりだった。
肩を掴まれた。彼がどんな表情していたのか、思い出せない。ただ、彼の後ろに彼女が佇んでいるのを見つけて、私はその腕を振り払って彼女に駆けていったの。
私は彼女に飛び込んだ。すごくすごく、幸せな気がした。
気がついたときに見えたのは、真っ白な天井だった。身体は動かなかった。頭も靄がかかっていて、ただ時間だけが流れているのを感じた。
あの幻想郷は、幻だったんだと思う。だって彼女たちは一言も喋らなかったから。
謝りたかったんだ。あのまま喧嘩別れみたいになって、彼女たちのことを大好きだったのに偽りは無かった。ただ、またいつか行けるだろうと思っていたはずの場所には二度と行くことが出来なくなって、それがずっとずっと心残りだったんだ。
彼女たちの顔や、声や、あの匂いを段々と忘れ始めていて、そんな自分自身がとにかく許せなかった。私の超能力も、あの幻想少女たちも幻だったんだと、なにか世界の裏側に居そうなよくわからない奴らに言われている気がしたんだ。それが悔しくて、切なかった。いるかどうかもわからないのにね。
なんとか頑張って顔を横に向けると、真っ黒い短髪が眠っていた。
「ねえ」
喉が渇いていたせいかな、随分と声がかすれていて、可笑しくもないのに少しだけ笑えた。
同期の顔が、はっきりと見えた。私はこんな顔を彼にさせていたんだ。彼の顔は泣き笑いみたいになっていて、それでも私の言葉を聞いてくれた。少しだけ哀しくなったけど、景色が随分と明るく見えたの。
「私、超能力が使えるんだよ」
いつか見せてくれるかと彼は言った。それだけで充分だった。
あれから、もう彼女たちを見ることは出来なかった。私の超能力はカップアイスの蓋を少しだけ浮かせる程度の力だけが残ったんだけど、それでも旦那は初めて見たときに目を飛び出さんばかりに見開いて聞いたことも無い音階で絶叫していた。それがとんでもなく面白くて、結局いつの間にか一緒になっていた。
あの日、彼女たちに謝ることができた日から、随分と時が経った。結局私自身もまともに生活できるまでに時間がかかったけど、まあ、なんとかなるもんなんだなあと知った。面白いね。いや、やっぱり面白くないけどさ。
旦那は、お前の分まで俺が稼ぐとかバカみたいなこと言っていたけど、私だってお金が欲しいわと黙らせて、今は別の会社でだが働けている。近所のスーパーで夕飯の材料を買い終えた頃には、空は随分と赤黒く澄んでいた。
あの頃、私の力が絶頂だった頃。こんな空に佇みながら、世の中を小ばかにしていた、今でも思う、流石私だと。
だからこそ今でも思うんだ。今もあの空にはきっと昔の私のようなエキセントリックな奴が絶対にいて、そうして何かの拍子に、あそこに行くんだと。
そんなことを考えていたからか年季の入ったアーケード街を抜けた先で、私はあの後姿を見た。あの制服も、格好をつけて被っていた帽子も、そしてマントまで!
気が付くと、駆け出していた。そんな私に反応してか、後姿も駆け足で離れていく。
「なーめるなよお!」
あの頃の私よ、知らないだろう! 今の私は自治会のママさんバレーだの体型を維持するためのランニングだので、昔よりも体力があるのだ!
高架下を抜けて、裏路地を抜けて、そうして歩道橋を私らしき後姿は駆けのぼっていった。待て待ていと倣って一段飛ばしで駆けあがると、そこにいた姿が当時の私のように見えて、思わず息が止まってしまった。
「……お母さん?」
娘の顔があまりにあの頃の私に似ているような気がした。そんなはずは無いのだけれど。多分娘の方が七倍は可愛いだろうから。
誰か来なかったかと尋ねたけれど、お母さんしか来ていないよと言われ、そして公道を走るなと逆に注意までされてしまった。流石私の娘だ。私や旦那の性格を反面教師にして、とても真面目に育ってくれている。母は嬉しい。
本当に一瞬だった。娘の後ろ、視線を外した先、私が見ていた幻の代わりに、彼女がいた。
あの時見た幻とは違う、確信だった。彼女の笑顔を何度か見たことがある。そのどれでもない、本当に柔らかい顔で一度だけ、彼女は手を振った。
私の顔を見て、娘も後ろを振り返った。もう彼女の姿はスキマの向こうに消えていて、何かいたのと問う娘に、肩をすくめて返してあげた。
「ねえねえ、お母さん、私超能力使えるんだよ」
その日の夜に娘が言った言葉だった。夕食の後に、二人でアイスを食べていた時だ。
どんなことが出来るのか聞いてみると、なんでもカップアイスの蓋を動かすことが出来るらしい。どこかで聞いたことがある能力で大笑いしてしまった。
「ねえ」
娘に手を出すように言った。本当に久しぶりだけど、私の期待通りに裏返していたアイスの蓋が宙に浮いて、そして娘の掌に着陸した。
娘はものすっごく目を開いていた。近所迷惑だとでも考えたのだろうか声こそ出さなかったみたいだけど、その顔があんまりに旦那に似ていて、逆に私が笑ってしまった。
「母さんもね、超能力が使えるの」
次の日の朝、娘と旦那を見送った。後姿に手を振って、今日は何をしようかなあと考えて、一度背伸びをした。
空から誰もいなくなった道路に視線を戻すと、彼女がいた。
よかった。私が過ごしたあの日々は、幻じゃあなかったんだ。
彼女が一度手を振ると、その軌跡から見慣れた顔が何人も出てきた、みんなあの頃と変わっていなかったのが少し憎たらしいけれど、楽しそうで安心した。
みんなが手を振ってくれた。私も手を振り返して、背中を向けた。もう振り返っても彼女たちはいないだろう。それでいい。それがいい。
ハッピーエンドが嫌いだった。あの幸せな場所に、私は行くことができないんだと気づかされたから。あの空にも、あの懐かしい幻想の郷にも、行くことはできないと気づかされてきたから。
私が今立っているこの世界が幸せかどうかは知らないけれど、私の代わりにきっと誰かがあそこに行くのだろう。もしかしたら娘かもしれない。どうかその時は、こんにちはって、言ってほしいな。
もしこっちに来ることがあれば、その時はたっくさん、おもてなしをしてあげる。だから、それまでは。
「じゃあね」
さよなら、幻想少女たち。
幸せの後姿は、暗いんだ。
とても、穏やかな陽射しだった。
気が付いた時には、私は縁側に腰をかけていた。その景色が随分と久しぶりだったもので、暫くの間、何も考えずにただ目の前の景色を享受していた。
「……随分と、久しぶりだなあ」
久しぶりにやってきた博麗神社は、記憶にあった頃よりも少しこじんまりとしていた。高校生の頃から、体系も身長も変わっていないはずなんだけど。
空から天使か妖怪でも降ってきそうなほどに、空は晴れている。ビルの隙間から眺める窮屈なそれとは違う。こんな空を眺めたのは何年ぶりだろう。見上げすぎてちょっと首が痛くなっちゃうのが、少し悲しい。
どれくらい眺めていただろう。腕時計は何故か随分と前の時間を指したままだ。何かこぼしたんだっけ、時計は気持ち悪く湿っている。
肩を回した。首の窮屈さを緩めながら後ろを振り向くと、昔見た時と変わらない居間がそこにある。丸い卓袱台も、少し怖さを感じるような茶箪笥も。ひんやりとした空気を持ってはいるが、あの頃のままだ。
そういえば、と上着を探した。どこに置いてきたんだっけ。
「ああ、これコーヒーか」
手首が濡れていた原因を思い出した。コーヒーだ。そうだそうだ。
「おおい、おおーい。誰かいませんかあ」
秋の日差しは柔らかく、それに反して母屋の影は硬質だ。二度、三度と呼びかけてみるけど、何の反応もない。柱に掛けられた時計の針も、よく見ると止まっていた。
境内の白とは対照的に、母屋の中は薄暗かった。最近は昼も夜もなくオフィスに籠っていたのもあるのかもしれない。ああそうだ。端末、つけっぱなしだった。早く戻らないとなあ……何しに来たんだっけ、私。
もう一度腕時計を見た。やっぱり針は動いていないし、手首はさっきまでと同じように少し濡れている。右手をずっと握っていることに気が付いて手を開こうとしたけど、なんでかどれだけ力を込めてもうんともすんとも開かなくて、思わず笑っちゃった。
「ねえー、霊夢っちー、いないのお」
ひとしきり笑って涙目を擦った。なんだか肘のあたりがチクチクする。やっぱり留守かなあ。見せてあげたいのに! 開かない拳とか、なんだかとっても面白いんだもの。そんなことを思ったからかな、境内で誰かの足音を聞いて、私は靴も履かずに飛び出した。
紅白の巫女装束、羨ましいくらいに綺麗な黒髪、あの大きなリボン! 何年ぶりだろう、あの後姿は私がこれだけ歳をとっても、置いていかれたようにあの頃のままだった。
「霊夢っち! ひっさしぶり! わかる? 私、菫子! 変わってないね!」
身体に何かが満ちていくのを感じたんだ。日常を過ごす中ですり減らしていた何かが、私の中に満たされていくんだ。なんだろう、睡眠時間とか?
霊夢っちは私のことを憶えていてくれたみたいで、薄く微笑んでくれた。解けない握り拳を優しく包んで、霊夢っちは私を引っ張ってくれる。境内を少し転びそうになるうちに、いつの間にかスーツは制服に変わっていた。
眼鏡越しに見る景色が鮮やかになった気がした。そういえば仕事を始めてから急激に視力が悪くなったんだった。身体もなんだか軽くなった気がする。そういえば腰痛も無くなった! 巫女ってすごい!
ぐんぐんと鳥居が近づいてきた。この先には大階段があって、それは幻想郷に続いているんだ。知っている、何度もここに来たんだから。けど、そのまま下りはしない。霊夢っちは多分、そんなことはしない。だから私も一緒になるんだ。
鳥居を抜けて、足を思いっきり踏み抜いた。
そのまま空が近くなっていく。やっぱりそうだ。暫く感じていなかった解放感で、空を飛んでいるのだと改めて理解する。胸の中が暖かいんだ。すっごく素敵な気持ちなのを、私の全身が理解している。だって痺れているんだもの。
空を飛んでいるときの景色は、本当に不思議で、わくわくして、素敵なんだ。みんなの営みが見えるくらいに、そこにある息吹を感じるんだ。鳥になりたいっていう人の気持ちが少しわかる気がする。
霊夢っちは髪を靡かせていて、気が付くと昔のようにぼさぼさに戻っていた私の髪が、うっとおしいほどに肩や頬に軽い刺激を加えるんだ。それすらも幸せ。間違いない!
「ねえ! 霊夢っち!」
ようやく思い出した。ここに来た理由。
空を飛んでいる私の周りは音が無かった。霊夢っちがゆっくりと振り返って、私の瞳を覗き込んだ。その表情がなんだか余りにも『らしく』なさすぎて、やっぱり私は笑顔のままでいることが出来た。
腕を振りほどいた。そうだ。もう、私は飛べなかったんだ。
「ごめんね、さよなら」
よかった、言えた! これだけは言っておきたかったんだ!
私の中で一瞬前まで駆けまわっていた全能感が、浮遊感と一緒になって抜けていく気がした。風を切る音を思い出そうとして、そんなものを随分と聞いていなかった私の脳内は、どれだけ頑張ってもそのサウンドを再生することが出来なかった。
「ありがとう! 楽しかった! ごめんね! ずっとずっと、謝りたかったんだ!」
あっと言う間に霊夢っちの姿は小さくなっていく。ごめんね、本当にごめん。ごめんなさい。あの空に、あの日々に、きっと私の魂は置かれたままなのだ。
抜けていく。抜けていく。これが魂なのかな。それなのに肩の周りが、足首が、なんだかとっても重い鎖を巻いているみたい。本当に音が無い。そうか、そんなに私の思い出はあやふやなのか。なんでかなあ、寂しいなあ。
視界が揺れた。身体中が重くて、そして頭と背中が痛いんだ。呻きながら横を向いて、やっぱりこの瞬間が現実ではないと知った。そりゃあそうでしょ。あんな高さから落ちたらきっと形も残らないもの。
ああ、とかうう、とか呻きながら、赤ちゃんみたいに身体を丸くする。とっても疲れていて、もう指の一本も動かしたくなかった。それでも頭とか背中とかの痛みを逸らそうとして、もう一度空を見上げた。あんなにいい天気だった空は急に曇り空になっていって、雲から波が消えたと思ったら、雲が固まったんだ。お豆腐みたいに! それが天井だと知るのに、随分とした時間が必要だった。
首から下が動かない。なんていうか、動かしたくなかった。仕方がないから顔を横に向けようとして、その中空に肘が乗っているのを見た。出来の悪い心霊写真みたいな景色。乗っかっていた肘から、にゅっと頭が生えてきた。その顔は忘れもしない、あの日々にいたはずの妖怪の顔。
『久しぶりの幻想郷はどうだった?』そう聞かれた気がした。
最高だったよ。そう言おうとして、口を動かすことすらも億劫になっていた。最高だったよ、本当だよ。とにかくそれを伝えたくて、夜の光で灰色に見える天井に向かって、ずっとずっとあああって。言葉を出した。
けど私の気持ちは届いたみたいで、彼女は少しだけ哀しそうな顔をして、景色から消えた。おやすみなさいって声が聞こえた気がした。なんでだろう、すごく安心できたの。
疲れた。
切っ掛けは何だとか聞かれても、どれもが原因で、どれもが原因じゃなかった気がする。一々私の作成した書類に難癖をつけてくる上司もそうだったかもしれない。いつも午後の業務が始まった直後にかけてくるクレーマーじみた老人の相手もそうだったかもしれない。なんだったら、禍福関係なく道を行く人々すら原因だったのかもしれない。
いや、それよりもずっと前で、物心がついて超能力を自覚した時からかもしれない。とにもかくにも言えることは、私はどこか心の形が鋭かったということだ。
何時の頃からか私の超能力は少しずつではあるが衰え始めていたんだ。私を私たらしめていた鋭く尖った全能感という名の自尊心は、どうやら机で俯瞰していた世界でのみ機能するものだったらしい。それに気が付いたのはもう幻想郷という単語が脳の奥深くにしまわれ、日常の波に必死にしがみついている時期だった。
ある日、本当に突然に、空を飛ぶことが出来なくなった。
高校の制服を着ていたことは憶えている。それでもあの頃の私は、急速に衰えていく自身の力に、どうしようもないほどの苛つきを感じていた。そんな日々が続いていたある日のことだった。私が博麗神社を訪れた時、霊夢っちは慌ただしそうにしていたのだ。何があったのか尋ねると、なんでも異変の首謀者がいる場所を突き止めたのだという。
待っていなさいとか、多分そんなことを霊夢っちは言ったと思う。もう何年も前のことだから。そんな彼女に、私はついていくと返した。その言葉に霊夢っちは眉根を寄せていた。何と言おうか迷っていたんだろうなあと、今ならわかる。
結局そこで言い争いになって、勝手にしなさいと霊夢っちは飛んで行ってしまった。地団駄を踏みたくなる気持ちを必死にこらえて、私はその背に馬鹿野郎と大声で叫んだ。羨ましかったんだ。ほんの少し前まで、私もあの場所にいたはずなんだ! なんで私はあそこに行けないんだ!
そうして怒りのあまりに涙目になりながら、居間の卓袱台に突っ伏した。少し間抜けな話かもしれないけど、それが私の幻想郷での最後の思い出だった。
目を覚ますとそこは夕暮れの教室で、残っていた何人かのクラスメートを射るように睨んで、私は学校を後にしたんだ。階段を早足で下りて、校門を飛び出した時にはもう何も見ないように下を向きながら走った。大して運動神経もよくなかったのに。
駆けている最中に、握っていた拳を開いた。どれだけ掌を眺めても空を飛ぶことは出来なかった。大泣きしながら電車に飛び乗って、その涙が怒りなのか悲しみなのかわからなくて、必死に泣き止もうとして周りを睨んだ。
親の顔も見たくなくて、帰って早々にベッドに潜り込んだ。その日は本当にぐっすりと眠れたのが、最高に皮肉が効いていた。
次の日だった。窓から差し込む光が本当に眩しかったの。そうして、なんというか私の中にある決定的な何かが抜けていたのを感じた。確証はなかったけど。そう思ってしまった。それが堪らなく悔しくて、そしてそれを否定できるほど、私の身体と心は元気ではなくなっていたんだ。
それがなんだか可笑しくて、私は澄んだ朝日を浴びながら、馬鹿みたいに笑って泣いた。可笑しくって仕方が無かった。ひとしきり笑い終えて、なんだか心がとても透明なのに、もう、本当に少し前まで残っていた全能感が消えていたのを感じた。それから私の肩と足首にはまるで誰かが掴んでいるような感覚がまとわりつくようになった。もしかしたら、これが疲れという奴なのかもしれなかった。
本当に面白かったんだよ。だって飛べなくなってからの方が、空を飛べる気がしたんだもの。
そうして何か大切なものを失って、それでも日々は流れていった。私はその流れを抜け出せる翼があったはずなのに、いつしかそれは無くなっていたんだ。自分から手放したのか、奪われたのかは知らないけれど、さ。
学生服はスーツに変わって、どれだけ梳かしても湿気に辟易していた髪質は、まるでそんなことは無かったように大人しくなった。
棒倒しってあるじゃない、砂場でやる方のやつ。あれを思い出すの。私の芯みたいなものは日々削れていって、それでも私はその中心で立つ棒の上で、世の中を睥睨していたんだ。もう崩れることが分かっていたのに、そんなことはないってさ。いや、もしかしたらもう既に倒れていたのかもしれない。きっと見たくなかったんだ。
本を読むのが好きだった。幻想郷に出会う前、私の世界は机と本の中だけだったんだ。けれどいつしか、本を読むことも億劫になって、文字を追っていた視線は、かわりに映像を追うようになった。以前はレンタルショップなんかもたくさんあったみたいだけど、少なくとも私から職場までの道にあったはずのそういった店は、そのほとんどがシャッターを下ろしていた。
映画館みたいにさ、部屋を真っ暗にして。そうして映画を眺めるの。映像は気楽だったんだ。私が何をしなくても再生のボタンさえ押せば、目を開けている限りは私に世界を見せてくれたから。
途中で眠ることも多かった。最後のスタッフロールを見る時に、胸の奥がきゅっとするのをこの頃によく感じていた。ホラーでもコメディでも、あの、スタッフ達の名前が流れてくると、その瞬間に私の周りにあったはずの世界は急に元に戻るの。きっとあれは壁なんだろう。
元から悪かった視力はさらに低下して、そうして目つきは悪くなって、そして私に話しかける人は少なくなっていった。手が震えている気がして、その度に手を何度も握っては開いて。隣のデスクで作業している名前もよく憶えていない同僚に心配される。その度に出来ているかわからない作り笑いを浮かべたの。
きっととっくの昔に限界は超えていた。
その日は本当に疲れていた。職場に向かったことは記憶にあったけど、気が付くと夕方になっていた。なんだか上司に色々と話しかけられた気がしたけど、それすらも覚えていなかった。
総菜しか入っていないはずの袋がいやに重たくて、防音だけはしっかりしているワンルームのアパートに戻った時には、何かが抜け始めていた気がした。
なんだかとても疲れていた。立っていることさえ辛かった。総菜をテーブルに置いたんだけど置いた場所が悪かったのか、バランスを崩して床に落ちちゃったんだ。
「……! ああっ! うあぁっ!」
よくわからない言葉を出しながら、テーブルを蹴飛ばした。顔だけが凄く熱くなって、それもすぐに冷めてしまった。まだ総菜ケースの蓋を開けていなかったんだから、戻せばいいだけだったのに。
なんだか食べる気も失せちゃって、部屋の電気もつけずに普段通りに映画の配信サービスで目に留まった映画を再生した。無駄にインチ数の大きいテレビは、この時だけは特に活躍してくれた。
その日に観たのは、本当に何ということも無い映画だった。有名な俳優がいたりとか、目に悪いヴイエフエックスとか、そんなものは一切なくて、ただ誰かが創りたくてしょうがなかったんだろう思いと、役者や配給会社の思惑が混ざった、なんてことのないカントリー・ムービーだった。
映像の中で主人公たちはただ日々を真っすぐに、素直に生きていた。見る人によっては退屈な映画かもしれない。かくいう私も映画を見終わる頃にはプロローグを忘れ始めていた。
切っ掛けというよりは、それが引き金だったのかもしれない。その映画のエンドは、少年たちがまた普段通りの日常を過ごして、横並びになりながら車の通っていない道路を歩いていくというものだった。
画面が半分に分かれて、右半分ではエンドロールが流れ始めた。それが壁だった。その瞬間に、私の意識は現実に戻されて。四つん這いのままでモニターに近づいたんだ。どれだけ手を伸ばしても、私の指はモニターに阻まれた。当たり前のはずなのにね。
少年たちの背中が遠くなっていって、そうして私だけが置いていかれるの。お前のいる場所はここじゃないんだよって。
後ろを振り返った。怖くなった。誰もいないことは判っているのに、そのままベッドに潜りこんだ。
「ああ、ああぁっううー、うううー……」
本当に疲れていた、本当だよ。身体を丸めて、理由もないものに対して怒って、悲しんで、そしてすぐに何にも無くなっちゃうんだ。そうして眠れないから気を失うようになるまで、色々考えては死んでいくんだ。
こんこんって、窓から音が聞こえたように感じたの。頭の半分だけを出して、そこにとても懐かしい顔が佇んでいるのを見た。何もない場所から現れるのは、彼女の得意技だったから、あまり驚かなかった。
もうそろそろ日を跨ぐような時間だったけれど、その瞬間、私の視界は本当に、光った気がしたんだ。しばらく見ていなかった日の出を見たようにさ。
身体はあまり動かなかった。そんな私のことを見てくれたからなのか、彼女は窓の向こうで言ってくれた気がした『明日迎えに来る』って。一も二もなく頷いて、遠足前の小学生みたいに、わくわくしたの。
なんだか眠気も飛んじゃって、ずっとずっと考えていた。きっと、またあの素晴らしい気持ちに出会えるんだ! 身体は誰かに掴まれているみたいに重いし、あの頃みたいに体の隅々を巡る大切なものも無いけれど!
待ちきれなくて、嬉しかったんだよ。朝日が出るころには、もう部屋を飛び出していた。目じりが涙で湿っていたんだけど、また彼女たちと話せると思うとそれが待ちきれなくて、普段は時計なんか見もしないのに、やたらとそわそわしていたんだ。
同期から声をかけられた。私が髪が伸びすぎて暑苦しいと言ったら、それからずっと短くしているような奴だった。ただ、私が超能力を使えると言った時、笑わずに聞いてくれるような奴でもあった。
なんだかごにょごにょ言っていたんだけど、とりあえずオフィスを出て、階段近くの休憩所に呼び出された。紙コップのコーヒーを渡されて、何かを言っていた。それよりも、いつ彼女がやってくるのか、その方が気がかりだった。
肩を掴まれた。彼がどんな表情していたのか、思い出せない。ただ、彼の後ろに彼女が佇んでいるのを見つけて、私はその腕を振り払って彼女に駆けていったの。
私は彼女に飛び込んだ。すごくすごく、幸せな気がした。
気がついたときに見えたのは、真っ白な天井だった。身体は動かなかった。頭も靄がかかっていて、ただ時間だけが流れているのを感じた。
あの幻想郷は、幻だったんだと思う。だって彼女たちは一言も喋らなかったから。
謝りたかったんだ。あのまま喧嘩別れみたいになって、彼女たちのことを大好きだったのに偽りは無かった。ただ、またいつか行けるだろうと思っていたはずの場所には二度と行くことが出来なくなって、それがずっとずっと心残りだったんだ。
彼女たちの顔や、声や、あの匂いを段々と忘れ始めていて、そんな自分自身がとにかく許せなかった。私の超能力も、あの幻想少女たちも幻だったんだと、なにか世界の裏側に居そうなよくわからない奴らに言われている気がしたんだ。それが悔しくて、切なかった。いるかどうかもわからないのにね。
なんとか頑張って顔を横に向けると、真っ黒い短髪が眠っていた。
「ねえ」
喉が渇いていたせいかな、随分と声がかすれていて、可笑しくもないのに少しだけ笑えた。
同期の顔が、はっきりと見えた。私はこんな顔を彼にさせていたんだ。彼の顔は泣き笑いみたいになっていて、それでも私の言葉を聞いてくれた。少しだけ哀しくなったけど、景色が随分と明るく見えたの。
「私、超能力が使えるんだよ」
いつか見せてくれるかと彼は言った。それだけで充分だった。
あれから、もう彼女たちを見ることは出来なかった。私の超能力はカップアイスの蓋を少しだけ浮かせる程度の力だけが残ったんだけど、それでも旦那は初めて見たときに目を飛び出さんばかりに見開いて聞いたことも無い音階で絶叫していた。それがとんでもなく面白くて、結局いつの間にか一緒になっていた。
あの日、彼女たちに謝ることができた日から、随分と時が経った。結局私自身もまともに生活できるまでに時間がかかったけど、まあ、なんとかなるもんなんだなあと知った。面白いね。いや、やっぱり面白くないけどさ。
旦那は、お前の分まで俺が稼ぐとかバカみたいなこと言っていたけど、私だってお金が欲しいわと黙らせて、今は別の会社でだが働けている。近所のスーパーで夕飯の材料を買い終えた頃には、空は随分と赤黒く澄んでいた。
あの頃、私の力が絶頂だった頃。こんな空に佇みながら、世の中を小ばかにしていた、今でも思う、流石私だと。
だからこそ今でも思うんだ。今もあの空にはきっと昔の私のようなエキセントリックな奴が絶対にいて、そうして何かの拍子に、あそこに行くんだと。
そんなことを考えていたからか年季の入ったアーケード街を抜けた先で、私はあの後姿を見た。あの制服も、格好をつけて被っていた帽子も、そしてマントまで!
気が付くと、駆け出していた。そんな私に反応してか、後姿も駆け足で離れていく。
「なーめるなよお!」
あの頃の私よ、知らないだろう! 今の私は自治会のママさんバレーだの体型を維持するためのランニングだので、昔よりも体力があるのだ!
高架下を抜けて、裏路地を抜けて、そうして歩道橋を私らしき後姿は駆けのぼっていった。待て待ていと倣って一段飛ばしで駆けあがると、そこにいた姿が当時の私のように見えて、思わず息が止まってしまった。
「……お母さん?」
娘の顔があまりにあの頃の私に似ているような気がした。そんなはずは無いのだけれど。多分娘の方が七倍は可愛いだろうから。
誰か来なかったかと尋ねたけれど、お母さんしか来ていないよと言われ、そして公道を走るなと逆に注意までされてしまった。流石私の娘だ。私や旦那の性格を反面教師にして、とても真面目に育ってくれている。母は嬉しい。
本当に一瞬だった。娘の後ろ、視線を外した先、私が見ていた幻の代わりに、彼女がいた。
あの時見た幻とは違う、確信だった。彼女の笑顔を何度か見たことがある。そのどれでもない、本当に柔らかい顔で一度だけ、彼女は手を振った。
私の顔を見て、娘も後ろを振り返った。もう彼女の姿はスキマの向こうに消えていて、何かいたのと問う娘に、肩をすくめて返してあげた。
「ねえねえ、お母さん、私超能力使えるんだよ」
その日の夜に娘が言った言葉だった。夕食の後に、二人でアイスを食べていた時だ。
どんなことが出来るのか聞いてみると、なんでもカップアイスの蓋を動かすことが出来るらしい。どこかで聞いたことがある能力で大笑いしてしまった。
「ねえ」
娘に手を出すように言った。本当に久しぶりだけど、私の期待通りに裏返していたアイスの蓋が宙に浮いて、そして娘の掌に着陸した。
娘はものすっごく目を開いていた。近所迷惑だとでも考えたのだろうか声こそ出さなかったみたいだけど、その顔があんまりに旦那に似ていて、逆に私が笑ってしまった。
「母さんもね、超能力が使えるの」
次の日の朝、娘と旦那を見送った。後姿に手を振って、今日は何をしようかなあと考えて、一度背伸びをした。
空から誰もいなくなった道路に視線を戻すと、彼女がいた。
よかった。私が過ごしたあの日々は、幻じゃあなかったんだ。
彼女が一度手を振ると、その軌跡から見慣れた顔が何人も出てきた、みんなあの頃と変わっていなかったのが少し憎たらしいけれど、楽しそうで安心した。
みんなが手を振ってくれた。私も手を振り返して、背中を向けた。もう振り返っても彼女たちはいないだろう。それでいい。それがいい。
ハッピーエンドが嫌いだった。あの幸せな場所に、私は行くことができないんだと気づかされたから。あの空にも、あの懐かしい幻想の郷にも、行くことはできないと気づかされてきたから。
私が今立っているこの世界が幸せかどうかは知らないけれど、私の代わりにきっと誰かがあそこに行くのだろう。もしかしたら娘かもしれない。どうかその時は、こんにちはって、言ってほしいな。
もしこっちに来ることがあれば、その時はたっくさん、おもてなしをしてあげる。だから、それまでは。
「じゃあね」
さよなら、幻想少女たち。
途中までの描写も心が苦しくなりながらも、心理描写が上手く面白く読めました。
そこから現実的な、それでいて幻想を忘れないハッピーエンドに繋がるのが素晴らしく思えました。
だからこそ、それでもなおやっと現実に居場所が出来て、幻想郷が欠けて空洞が出来たままの心に浸透していくかの様な後半の盛り上がりがとても良かったです。名前も顔も言葉もあまり認識していない同僚の、その顔を認識するところのその!
文中で何度も空が出てきたのもとても好きでした。菫子にとってそこは紛れもなく過去に自分の居た場所で、幻想に近い場所で、それを共有できる友人を失った後の無情な広大さ。それを充足した後の菫子が自認しているのだろうな、みたいな感じが良かったです。
透き通るような光明は差さなかったけれども、確かに菫子がこれからも生きていける様なそんな明るさを感じました。ありがとうございました。
それでも、菫子ちゃんがきっちりと想いを伝え、寂しくもどこか晴れ晴れしく別れを告げる。辛いながらも、どこかすっきりとした読後感を味わえました。
そして受け継がれる力と想い。秘封倶楽部は決して消えないことを願っています。
自身の力が消え、幻想と決別せざるを得なくなった事実は、全能感に浸っていた菫子にとってはどんな受け入れ難い事だったのでしょうか。後悔を残し、ずっと悩み続けていた事が解消された時、彼女はようやく本当の意味で決別が出来たんじゃないかなと思います。
月日が流れ、苦悩を乗り越えながら普通の人間へと馴染んでいった菫子に大きな成長を感じられました。彼女ならきっと良い母親になるだろうとそんな風に思えました。
本当に面白かったです。有難う御座いました。
良い物を読ませていただきました
董子の無念と絶望、そして新しい出発が素晴らしかったです
最後には向き合えた菫子のささやかで幸せな日常にほっこりしました。
最初と最後で「ハッピーエンドが嫌いだった」ことに代わりは無いけど、確実に意味が変化していることにグッときました。