Coolier - 新生・東方創想話

しろやぎ

2020/10/16 06:25:43
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 小さい頃に枝を斬った。祖父が大事にしていた盆栽の枝だった。近づくだけでも怒られるような盆栽だったから、その後の叱責は紛れもなく道理だった。私は発覚するまでのあいだ、ひどく後悔した。枝を斬った理由は単に、伸びたその一本が丁髷のようで不格好に見えたから。ただそれだけだった。

 背が伸びるとまた、似たような理由で色んなものを斬った。不揃いなテーブルの脚、湾曲した傘の手元、封筒の折り目、などなど。どれも斬ってはいけないものばかりだった。斬るとテーブルの脚は余計に不揃いになったし、傘の手元は真っ直ぐになったかわり持ちにくくなった。折り目に沿って切られた封筒はもちろん使い物にならなかった。けれど、怒られることは恐くなかった。私は怒られることよりも、事が露見するまでの時間を恐れた。こら、の一声はたしかに恐ろしいけれど、それが聞こえたなら事はじきに済む。庭仕事や家事全般は私の仕事で、お嬢様や祖父はあまり屋敷を歩き回らなかった。だから、発覚までの時間はむしろ永劫のように感じられた。早くばれてしまえばいいものを、そうでないからなまじ迷う。早いうちに自白するべきだろうか、或いは黙っていればバレずに済むのではないだろうか。或いは、バレたとしても怒られずに済むのではないだろうか。いやいや、怒られるに決まっている。とどのつまり、私はそういった未確定な時間が嫌でたまらなかったのだ。

 またまた背が伸びてゆくうちに、斬っていいものと悪いものの分別がつくようになり、叱られることも減っていった。今となっては幼い頃に斬った数々のモノたちの罪の無さだって理解できる。けれども性分というのはなかなか変わるものでなく、そもそも人生は迷いと決断の連続であるから、祖父が死んで、お嬢様の呼び方を幽々子さまに変えてずいぶんが過ぎた近頃でさえも、私は迷い続けていた。

 同時に、幼い足でも横断できたかつての世界も広がり続けていた。人も増え、主要な里も増えたという。伴って汽車なども発明されて、この冥界の入り口にさえ駅を構えている。一日に一本、生活利用者ゼロ、駅員ゼロの侘しい駅だった。電話という発明もあったらしいが、私にはいまひとつの発明だった。私は手紙を好きになっていたのだ。ときたま離れた友人たちから届く手紙はいつも、私の胸をときめかせた。成長していく世界と一緒に、彼女たちも成長していくように思えてすこし寂しく、また、とてつもなく憧れた。そういった素直な気持ちを手紙に書くと、彼女たちは無責任にも、私も里に出てくるようにと促した。そんなことをされれば忽ち、広い世界への憧れはくすぐられたように震えるのだった。

 以上、ここまでがこれまでの話で、ここからはこれからの話となる。



   一

 一年中咲いている桜も、秋では多少元気をなくす。寒の入りでは灰の空から雪が降って、まばらに積もっていた。小窓を閉める。荷物はそれほど多くない。家具の殆どは向こうにも備え付けられているという話だった。引き戸をあけて部屋を出る。つめたい廊下の慣れ親しんだ匂いは、こんな日だから未練がましい感じがした。茶の間に差し掛かると、障子の向こうから電気の明かりとブラウン管の音が漏れてきた。障子をひらくと、そこには食後のおやつを食べる幽々子さまと、それから見慣れたふわふわが寛いでいる。

「それじゃあ。そろそろ行きますね」

 向こう、というのは当然、里で借りた賃貸のことだ。築数十年の五畳半、ボロではあるけどお風呂とお手洗いにキッチンまでついていれば、値段のわりには上等な物件に思えた。白玉楼を出ることに決めたのは三日前のことだ。さんざ悩んでいたけれど、元来あまり頭の回るほうではなかったから、結局のところいつもの即断即決のやり方で、幽々子さまにそれを伝えた。私、ここを出ます。言うと、話し合いのひとつなく事が決まった。寂しさについて、当面は考えないことにした。しかし義務に関してそうはいかないので、思案の末、うちのことは私の半分に任せることに決めたのだった。

「えー。ほんとに行っちゃうの? さみし〜」

 尖らせた口のわりには目線はブラウン管に釘付けで、お煎餅を離そうともしないから妙に安心してしまう。一方でそわそわとする私の半分には不安にさせられる。私と幽々子さまのあいだを反復してはきょろきょろと、漫画の汗をかいてみたり。しかしそれでも私の半分、自分が自分を信じなくてはどうするというのだろう。

「見送っていただけないんですか?」
「もう。食べ終わるまで待ってよう」

 言いつつも、幽々子さまは腰をあげる。すると半霊も慌ててすっ飛んでくるものだから、私は思わず笑いながらも玄関へと向かった。

 毎日、汽車は昼と夜の移り変わる時刻にやってきた。つまるところは黄昏時のことで、そんなものに正確な時刻などはなく、汽車の到着する時刻はいつもまばらだった。冥界とは得てしてまばら好きな世界である。駅に向かう道中には雪が積もっていたけれど、積もり方にしたってまばらだ。まるで水たまりのように点々と、至るところ局所的に雪は積もった。冥界の空は〝基本的に灰色〟で、そのなか、ところどころ虫に喰われたところから現世の空が垣間見える。小さい頃はそんな虫食いの空が湿疹のように思えて気味が悪かった。けれど、今日の橙と紺のグラデーションなら妙に感傷的だった。故郷の空を尋ねられれば、灰色の中に点々と浮かぶ湿疹模様の夕景と答えねばなるまい。――基本的に、というのは、そうでない日もあるということだ。ふつーに晴れ渡ってることもある。そんなところまでまばらだった。――しかし、駅に近づくと空を占める灰色は減ってくる。絵の具が水で溶かされるみたいに灰色は薄らいで、かわりに現世の空が濃くなってくる。それでもところどころ灰色が残って、残った灰色は糸のように細く千切れそうになっているから、それはまるで鮮明すぎる夕景を押しとどめているようにも思えた。

「そんなに急がなくても。まだ来ないんじゃないの、汽車なんて」

 いつかこの糸が切れたなら現世の空が落ちてきて、冥界はその鮮明な空に呑み込まれてしまうかもしれない。長いあいだそんなふうに考えていたが、実際そんなことは起こらなかった。だからこそ、私はここを出るのだ。

「わかりませんよ、いっつもまちまちなんだから。だから、まあ。はやいうち、行ってみるのがいちばんなんです」
「ふうん。そういうものかしら」

 荒い階段を数段上がるだけで、寂れた改札と風化した券売機が目に入る。未知行きの切符を買う傍ら、付き添いの幽々子さまがあんまりにさらっと入場券を買うものだから、私はやっぱりなんだか居た堪れなくなってしまう。けれど、私の半分は当然の権利みたいになにを買うこともなくただおろおろとしながら私たちに追従する。だから、私の感じた一種の居た堪れなさはその能天気でもって中和された気もしなくはなかった。

「家具はぜんぶ向こうに揃ってるんだっけ?」

 開けた停車場の向こう。もはや寂れた印象を覚える漆の駅舎のわき、冥府の柳が風に揺れていた。何故だろう。私は揺れる柳をみて、どういうわけかそのままいつまでも揺れてくれていたらいいな、なんて。そんなふうに思った。

「はい。備え付けのところを選びましたから」
「ふうん。そうなの」

 けれど、それきり途切れてしまった会話と、なにも言わない幽々子様と、なんとなくおどおどとする私の半身に風は止み、柳は緩やかな音を立てながら揺れおさまった。その瞬間、遠くのほうから汽笛が響いてしまうから、私ははたと線路伝いの地平に視線を向けた。黒い鉄が、黒い煙を吐きながら、このおだやかな静寂が横たわる停車場へと向かってきている。その黒鉄は私の曖昧で微かな希望の象徴でもあり、なにか自叙的一時代の終わりの象徴でもあった。新しい暮らしにはたしかに漠然とした憧れがあって。それでも、白玉楼を出るのは、やっぱりさみしい。

「あ。来たみたい」

 だけど、幽々子様は極めていつも通りでいて、同じさみしさを感じてるようには思えなかった。けれどそんないつも通りにどこか安心している自分もいたし、反対に、むしろよほどさみしくなったような気もしていた。とにかく、幽々子様の告げた言葉に、なぜだろう。私はなにも応えられなかった。

 それから汽車に乗った。汽車の中は正体の見えない郷愁と背徳感と似た小さな後ろめたさで満ちていた。車窓からの夕景は素晴らしく思える。流れゆく景色に別れ際のことを思い返していた。

 気をつけて。

 行ってらっしゃい。

 どこか毅然とした言葉に、あっさりと閉まる汽車の扉の対比が妙だったことを覚えている。けれどそんな記憶も、胸中にある微かなさみしさも、新しい暮らしへの漠然とした憧れや高揚でさえも、汽車の速さで刻まれる夕景に解けてゆく。夜が来る。夜は来るものである。そんなふうにみんなは言うけれど、いまの私にはそうは思えなかった。世界はもともと夜なのだ。元来真っ暗い空間に色彩と光量が貼り付けられた状態を、きっと朝や昼、夕方などと呼称して、みんなそれを世界だと云う。だけど、私はまどろみのなかで、突き進む汽車のはやさによって、貼り付けられた夕景が柔らかに瓦解していくのをたしかに感じた。ぼろぼろと剥がれていく橙の裏側から夜が覗き、次第に、世界は本来の真っ暗い姿に変貌していく。このままだと、汽車はきっと星さえない暗闇に包まれるだろう。そんなふうに思った。そうして、真っ暗い世界を汽車の前照灯だけが滑っていく。その様はともすれば宇宙で、私はとてもくすぐったいような気持ちになる。それは面映ゆさに違いなかった。いまはまだ夕方だけれど、そのうちに銀河鉄道の夜みたいな夜のなかをゆくのだろう。そして線路は地球をぐるぐると囲んでいて、いつまでも終わらない汽車の旅が始まるのだ。実際、私は終わらない旅をしたように思う。断言できないのは、それが夢の世界での出来事だったからだ。



   二

 新しい暮らしは思いのほか以前と然程の変わりはなく、驚くことに、一週間も経てば当初のときめきやえもいわれぬ高揚感は綺麗さっぱりと失せてしまった。引っ越し蕎麦なる文化を知ったのは越してから二日目のことで、買い出しや炊事や洗濯といった家事全般に新鮮味を感じるはずがないことに気がついたのは一昨日のことだった。庭仕事が減った分ラクになったくらいのものである。そして引越し挨拶なる文化を知ったのはちょうど昨日の話で、私は今まさにまだ見ぬ隣人への挨拶へ赴くべく粗品を用意し、自室の畳の上、由緒正しき例の座法で身構えている真っ只中にある。五畳半の正方形はちょうど箱のようで、私はじぶんの箱入り加減を今頃になって恥ずかしく思う。というのも、粗品の正解がわからないのだ。一口に粗品といえど、私の用意した食品用包装フィルムなど、相手は本当に欲しているのだろうか。私ならいらない。余るほどある。

 沈思黙考。そんな四字熟語が頭に浮かぶと、私は急になんでもいいからじたばたと体を動かしたくてたまらなくなった。しかし、じたばたとしたってなんの意味もないことを知らないほど幼くもない。なにより幼い頃から私はこうなればじたばたなんてしなかった。こうなれば、私は迷わず断ち切ることを選択する。もとい、してしまうのが、所謂私の性癖なのだ。あー、いざ行かん。私は小包を持ってすわ立ち上がった。

 軋む玄関、視界に映るは赤錆の柵と向こうの真昼。踏みしめるはおそらくアスベストの灰廊下。四歩歩けば眼前に二○四号がある。ニ○四号は角部屋だった。日中自室の壁から物音を聞くことはあれど、未だ住民とはすれ違ってすらいない。けれど、眠っているころだろうか、隣人には悪癖があった。住み始めてまだ一週間しか経っていないが、もう三度ほど夜中に悲鳴をあげて飛び起きる隣人の声を聞いていた。唸り声なら夜毎に響く。なんの仕事をしているのだろう。どういった悪夢を見るのだろう。わからないが、なんとなく恐ろしげな人物であることだけはたしかだ。私の鼓動は高鳴ってゆく。意を決す、コンコンと二度ノックをした。その直後視界の端に〝ぴんぽん〟が映るから最悪だった。しかし相手はノックに気がついたようで、ドアの向こうからなにやら物音がしてしまう。立ち上がりこちらへ向かってくるのは道理だから、私はすこし大きめの声でドアの向こうに挨拶をした。

「ご、ごめんください。となりに越してきたものなのですが!」

 瞬間ドアの向こうから声が聞こえてきた。それほど大きな声ではなかったが、曰く「来た来た来た、やっと来た」とのことで、わりあい早口だったことから察するに私はどうやら待たれていたらしい。それにしても期待感のこもった声色はなんともおそろしい。急速に倍加する玄関への足音ならもっとだ。ひやひやしていると、勢いよくドアが開いてしまった。開くドアにぶつかりそうになる頭にも驚いたが、それは打撃未遂犯の第一声の大きさには敵わぬ驚きだった。

「いやあ待っていたよ! 酒だろ! いや食べ物かな。食べ物なら蕎麦かうどん以外にしておくれよ、いつもそれしか食べないんだからさあ!」

 想像よりずっと厚かましい隣人の髪の毛は赤く、衣類は冬の部屋着らしくもこもことしたセーターを纏っていたが、下半分に関してはてきとーの語句が適切なジャージで、乱れた赤髪やら開けたドアの向こうの荒れ具合を鑑みても、この人はてきとーの似合うひとに違いなく、私はなんだか呆気にとられた。

「どうしたい? はやく渡しておくれよ、その小包だよ」

 何よりも、私はその人物を知っていた。古い記憶ではあるが、彼女の赤い髪と咲き乱れた曼珠沙華をよく覚えている。彼女は彼岸の住人、小野塚小町に間違いなかった。

「こ、小町さんじゃないですか! おひさしぶりです」

 まさかおそろしげな隣人が知り合いだったなんて。そんな具合に、さっきからずっと驚きっぱなしの私に、小町さんは追い討ちを掛けるかのように口を開いた。今度の私は当惑をする。正直なところ、私はなにか、ぱられるな世界に迷い込んでしまったのではないかと思う。

「あー? 知らないよ、あんた誰だい。あたいにゃ覚えがないけどなあ」
「そ、そんな。ほら、大結界異変で……」

 小町さんは腕を組み思い出そうとするふりをした。正鵠に近い表現をするならば、おそらく別のことを考えているのだと思う。そんな私の想像は彼女の口切りで証明された。

「まあ、なんだ。言ってることはよくわからないが、とにかくあんた引越しの挨拶に来たんだろう? 粗品持ってさ。だったらとにかくとりあえず、まずはそれをあたいに渡しちゃおうってのが筋なんじゃないかな、たぶん」

 言われるがまま、無言で小包を手渡してしまう私は自分が情けなかった。言いたいことは山ほどある。けれど口は開けない、開けなかった。私の存在を忘れられていたことはひとまずいいとして、目の前で包装をびりびりと破いて中身に落胆し大きなため息を吐きさらに二○二室用に持ち合わせたもうひとつの小包に物欲しげな視線を向けるずぼらな格好の死神には閉口せざるを得ない。軽蔑ではない、落胆でもない。えもいわれぬ心持ちだ。なんだか急に世界が遠くなった。もしかすると、今まで生きてきた間ずっと、私の立っている座標のみが常に宇宙にすり替わっていたのではなかろうか。すきま、裂け目、みぞ、へだたり。私はそこにぽつねんと立ち尽くすマシーンなのかもしれない。

「あんた、それ。そのもひとつの包み。ニ○二は空室だよ。煩い二人組だったね、二年、いや四、五年前に出て行ってそのまんまさね。まあ、そいつらのおかげでこの屋も長屋からアパートにグレードアップしたって大家は喜んでたけどね、あたいとしてはそんなのはどうだっていいことに思えるよ。とにかくほら、そっちもあたいに寄越すといいよ」

「こ、こっちもラップですが……!」

 情報量の多さとぶぶ漬けプラスアルファ八橋の精神力の前に私は打ちのめされた。

「ラップかい。じゃあ、別にいい」

 対して私の発音した「はい。すみませんでした」は今生最高の憐憫さを含蓄した返答だったように思う。かなりしょんぼりとした。しょんぼりしたまま背を向けて、部屋に戻ろうとした。小町さんはどうしてだろう、私の背中に刃とは違う、されども刃にかなり肉薄した言葉を突き立てた。

「今度からちょいちょいお邪魔させてもらうからね。蕎麦とうどんにはうんざりなんだ。それにあんた見たところ、ずいぶんと長生きしそうだ。いやあ、前の二○三は短命だったねえ。まあいいや、ラップ贈るようなやつが生活能力に乏しいなんてことないだろうし。ああ、楽しみだなあ。スパゲッティ、ミートパスタ、ナポリタン……」

 小町さんの独り言は自室のドアを閉めるまで続いた。しかし、部屋に戻るとたちまち安心するのがなんだか不思議だ。ポットでお茶を煎れほっと一息をつく。住み始めて一週間のこの部屋が私にこれほどの落ち着きを与えてくれるとは、ともすればひとり暮らしの自室というのはなにか、本当の意味のシェルターのようなものかもしれない。出がらしのティーパックにもう一杯だけお湯を注ぐ。ふと、ポットの柄が目についた。そこには鮮やかな赤に近い桃色の、強い風に吹かれる花の群れがあった。私はあの頃を思い出す。桜、向日葵、野菊、桔梗……だけどやっぱり曼珠沙華が色濃い思い出だった。彼女、小野塚小町。記憶のなか、色とりどりに咲き乱れる花たちの上空で、風に揺れる彼女の赤い髪は、ちょうどポットに吹かれるそれに酷似していた。

 夜毎の悲鳴、悪夢と唸り声。厚かましい言動、もはやほとんど独り言。ドアから覗いた荒れた部屋、空いた一升瓶、散乱した手紙の束、筆記道具以外には何も無い、綺麗すぎる机。

「……変なひと」

 私は思った。


 朝な夕な、小町さんはランダムに訪れる。小町さんが起きたタイミングで好き勝手にやってくる。ひとりきりの一人暮らしを想像していた私には、なんだかんだと多めの食材を買い込むこのくらしを、一人暮らしと形容していいのかどうか判断が付かなかった。夕鳴きの屋台が家の外を通り過ぎた今現在でさえ、小町さんはちっともありがたくなさそうに私の料理にありついている。

「薄いんだよねえ、味がさ」
「知りませんよう」

 私の新生活のはじまりは、そんな感じだった。



 一ヶ月暮らしてみてわかったことがある。ひとり暮らしなんてものは結局のところ白玉楼での生活とあまり変わりなく、新生活への漠然とした憧れも要するに幼い頃欲しかったおもちゃと同義なのだ。新しい暮らしへの期待が砕かれるのには一週間もかからなかった。掃除に洗濯に買い出しと炊事、庭仕事がなくなったぶん楽になったほどである。進化した里についてだが、この場所を里と呼ぶにはもう無理があるように感じた。しかし町というほど栄えてもいない。里以上町未満、それから妥協点以上期待点未満の人口密集地が此処だ。私の住む部屋はいわゆる共同住宅で、二階建ての二階、端から二番目が私の部屋だ。大家さんの簡潔な説明によれば、出はずれのアパートメントというものらしい。小町さんの談では昔なら長屋の形態で売り出していたようだが、最近ちょっとした改築をしてアパートという形になったという。窓の外は毎朝毎夕、寺子屋を行き来する子供達の通り道と、その子たちがひねもす遊ぶ広い公園がある。なかなかにおだやかで気に入ってはいるけれど、ときに煩く感じることもあるからなんだかやりきれない。

 しかしそれでも、子供たちの無邪気さは私にとっても尊いものだった。子供はやがてよきおとなになるために子供でいるからして、たいせつにあつかわなければならないなどというのは持ってて当然の道徳観念である。子供たちは今日も公園ではしゃぎにはしゃぎまくっている。すこしうるさくもあるが、それでも平和さのほうがおおきかった。しかしそんな公園に一人のおとなが混じっていたらどうだろう。

 気がついたのは住み始めてからすぐのことで、そろそろ危うさを感じずにはいられなくなってきた。そのおとなは日がなベンチに腰をかけ、ときたまタバコなぞをやりながらずうっと子供たちの遊ぶさまを眺めていた。そのおとなが消えるのは暮れ、子供たちがかんぺきに公園から姿を消したあとのことで、タバコの数本をベンチの傍の受け皿に捨てたのち、気怠そうにどこかへと行方をくらます。日毎というわけではないが、おとなはいつもかの公園で子供たちを眺めてはそんな具合に消えていく。それはおそらく今日にしても同じことだと考える。

 たしかに、かの公園のベンチはなかなかに魅力的である。けやきがほどよく映え、生垣のイヌマキは常緑樹らしく日常的で穏やかだ。それに加えて子供たちの喧騒の和やかさときたらこちらまで幸せな気持ちになるに違いない。しかしだからといって、それを享受してしまえばたちまち不審人物の烙印を押されてしまうことも確かだ。もしも、怪訝に思った子供のひとりが親御さんに通達しようものなら里中に張り出されてしまっても文句なんて言えるはずもない。

 とにかく、私は心配だった。子供たちと、その健やかな営みを阻害する可能性のあるおとなの両者を心配していた。私はおとなかと問われれば微妙なところではあるけれど、少なくとも子供ではない。要するに私が接するべきは件のおとなの方で、件のおとなに接触のためにはそれとない所作と蓋然性をもってベンチに座らねばならないのだ。刀は白玉楼に置いてきた。もはや帯刀するような時代は終わっているから。ともすれば、いま現在において私が自身に施すべき武装は双方に不審がられない衣類品と、ひと目でわかる蓋然性――要するに大根のはみ出た買い物袋である。

 服選びには難儀した。普段通りを装うべく普段通りの洋服を着るのはなんだかとても不審に思えた。それでも、私は普段通りに買い出しを行い、重たい荷物に歩き疲れた体を装って白昼の公園に足を踏み入れたのだ。山砂が敷き詰められたちょっとした広場では子供たちが今日も無邪気だ。けやきもイヌマキも寒さに負けじと緑光を放っているが、やはり秋の寒波には参っているようで、ところどころ赤茶になっている。ちょっとした広場の縁には点々とベンチが置かれており、公園の入り口からいちばん離れた奥のベンチに、私は件のおとなを発見した。遠目でみても髪の長さからおとなが女性であることがわかった。銀に近い白色の長髪。恥ずかしい出来事を思い出してはにかんでしまうときみたいに、記憶の奥底で何かが疼いた。なんだろう、私は彼女をうっすらと知っている気がする。とにかく、大根のはみ出した買い物袋が広場のど真ん中を突っ切ってゆくのは不自然なので、私は小道を通って、遠回りをしてベンチへ向かった。

 すると、彼女の姿がはっきりとみえてきた。白いシャツにサロペット。つながる下半分はどうだろう、もんぺというほど貧相ではなく、指貫と呼べるほど高貴さもない赤色をしている。私が窓から見ていた不審人物は藤原妹紅そのひとで間違いがなかった。妹紅さんはベンチに近づく私に気がつく様子もなく、ただじっとりと子供たちのはしゃぐ様を眺めている。なにか嫌なことでもあったのだろうか。記憶の中の妹紅さんはこんな顔をするひとではなかった。無気力さをひた隠すようにいつでも強気な笑みを浮かべていて、諦観という言葉をいちばんに嫌ってそうなひとだった。けれど今の妹紅さんの目つきをみると、ともすれば妹紅さんはいよいよをもって諦観やら無気力さに追いつかれてしまったのだろうか。子供たちの健やかな営みが阻害されることを憂慮して公園まで足を運んでみたのだが、どうも、私は妹紅さんの方が心配になってきてしまった。

 気怠そうに、やおらポケットからタバコを取り出す妹紅さんはそのタイミングで私の存在に気がついたようで、子供たちに向けるそれとは違う、じっとりとした一瞥を私に寄越す。

「お、お久しぶりです。いえ、買い物の帰りでして。歩き疲れちゃったから……」

 半分自動的に絞り出される私自身の言葉に、私は着席することを余儀なくされる――それも〝おずおず〟と!――。隣でえもいわれぬ気まずさと緩い緊張感を抱く私をよそに、妹紅さんはそっぽを向いて自前の着火剤でタバコに火をつけた。ゆっくりとした動作だった。取り出すのも、火をつけるのも、煙を吸い込むのも、吸い込んでから吐き出すまでの時間すらも。所作のすべてが緩慢だった。ほんの数秒がとても永かったように思う。喧騒はときに静寂を引き立てる。子供たちのはしゃぐ声は、私と妹紅さんの間に横たわるしじまを際立たせた。

「やあ。しあわせかい?」

 そんなしじまを打ち破ったのは妹紅さんの静かな声で、意図を解せなかった私は間抜けなハ行の四番目を発声してしまった。ともかくとして、私が気になるのは妹紅さんの口ぶりだった。妹紅さんの口ぶりはまるで独り言に似て、本当は誰とも話していないように思えた。もしかするとこのひとも、小町さんのように私のことを忘れてしまっているのではなかろうか。漠然としたおそろしさにまたぱられるな世界を想起しているうちに、妹紅さんは口を切る。
「私はさあ、不幸だと思うんだよねえ」

 反射的に否定の意を示そうとするも、妹紅さんはそれを遮るように言葉を続ける。なんだか膝に乗せた買い物袋が重たい感じがした。

「だってさ、あいつら。今年の冬で終わりなんだぜ。だからたとえば、いまあそこでピッチャーやってる四番なんかは――」

 ――先生!

 そのとき、遠くから子供の声が響いた。私と妹紅さんの間に横たわるじっとりとした雰囲気にはとても不釣り合いな快活さで、子供の数人が駆け寄ってくる。先生、先生とは、いったいどういうことだろう。子供の足はいつでもはやい。移動の基本がダッシュなのだ。きょとんをしているうちに駆け寄ってきた数名のうちひとり、こと調子の良さそうな子が元気よく口を開いた。

「先生、もこー先生! そのひとだれさ! こいびとはダメだよ、けーね先生に言いつけちゃうからね!」
「そんなんじゃない。それに、私はもう先生じゃないんだ。その呼びかたはやめろって、何度言ったらわかるんだよ」

 いいから、遊んでろ。そう言って、妹紅さんは子供たちをしっしと追い払った。ちぇ、と残念がる子供たちは広場のなかほどに戻る頃にはすっかり元の調子を取り戻して、たのしげな遊びに熱中しだした。白球が飛び交っている。キャッチボールか、それか年相応の適当な草野球か。わからないが、私は呆然としながら、子供たちの遊びの内容について推察していた。そんなことは逃避であるとすぐにわかったので、思い切って口を切る。咽喉から唇、顎までもが重たかった。

「……先生、だったんですね」

「昔はね。まあそれだって月に似た、どうでもいい話さ」

 言いたいこと、聞きたいことが山ほどあった。だけど、妹紅さんから漂う陰険な気配がそれを許さない。なによりも、妹紅さんは「それよりも」でもって、先の話しの続きを始めた。

「そりゃもちろん、道徳は正しいよ。正しいから道徳なんだ。さ、間違っちゃいない。だけどね、例えばあの子たち。あいつらいつまでああしてると思う?」

 えっと、のあとにまたしじまが訪れた。それは一瞬のしじまで、妹紅さんはさも意味ありげに、諦観たっぷりに言ってみせる。

「見えなくなるまでだよ、ボールがさぁ」
「……そのあとは、どうなるんですか?」

 思わず尋ねた内容に、妹紅さんは長々と返答をした。あいつは歌唄いになる、あいつは妙な商売を始める、あいつは無意識に他者を見下すふしがあるから、いちばんどうしようもなくなる。それから、あいつは子供のまんま、なにも変わらない。みんな違ってみんな善い。ひとはひとそれぞれ。個性はばらばら。半人前から大人になる、一人になる。

 聞いてて嫌になる言葉ばかりだったけれど、それを語っているときの妹紅さんからは僅かに溌剌とした印象を感じた。そのとき。私はベンチに腰をかけたとき、妹紅さんの発した言葉の意味を、なんとなくではあるが理解した。妹紅さんは確かに先生だったのだと、頭よりも心で確信した。

「なあぶり大根、歩き疲れたらまた来るといい。私は暇なんだ」

 何故か露見していた今夜の献立に、私ははにかんで公園をあとにした。


 アパートの階段を上る。やはり、妹紅さんも私のことを忘れてしまっているのだろうか。それにしたってぶり大根はひどい。あんまりだ。せめて名前を聞いてくれれば、名乗らせてさえくれていれば、私は妹紅さんにとって魂魄妖夢でいられたはずなのに。魂魄妖夢、いい名前だと思う。私は自分の名前が好きだ。そんなことをぶつくさしているうちに、二○三号に辿り着く。鍵を開けてドアノブに手を伸ばすと、瞬間、隣のドアがものすごい勢いで開いた。私は思わず悲鳴をあげる。開いたドアは二○四、おどかし魔の正体は小野塚小町そのひとだった。

「お! 今日はぶり大根だね、お邪魔させてもらうよぉ! 出来上がる頃合いに部屋に行くからさ。鍵、開けておいておくれよ」

 目をぱちくりさせているうちに、それじゃ、と小町さんはドアを閉め行方をくらました。


 なんというか、世界は手狭だ。手狭なはずなのに、未知や驚きが跋扈しているから、手狭なはずの世界を遠く感じる。ことことと煮たつ鍋の音を聞きながら、私は蔓延る不可思議に呆然としていた。

 ふと気になって窓によれば、子供たちも妹紅さんも消えていて、そこには夕闇のみがあった。喧騒はときに静寂を際立たせる。煮たつ鍋では足りないが、部屋の朴訥さを引き立てるには十分だった。

「……変なの」

 夕闇。

 独りごちると、玄関の扉がけたたましく開いた。



   三

 三ヶ月暮らしてわかったことがある。冬は寒い。ひとりぼっちの冬ならもっとだ。閉塞感もある。けれど、小町さんは夜毎私の夕飯をアテに呑みにくる。酔った小町さんはいつも以上にめんどうで、朗らかすぎるほどにたわいのない話を大声でする。愚痴っぽいときもあるからやりきれない。加えて、潰れるほど飲んだ日には必ずといってもいいほどわけのわからないことを云う。曰く、これでもあたいは世界を救ったことがある、とかなんとか。普段ははいはいと聞き流していたこの言葉だが、考えれば、今の私にとってはなかなかに辛辣な言葉だった。真相はともかくとして、小町さんはなにか確固たることを成し遂げたのだ。ともすればそれは自身を形成する誉高き過去で、ひとは過去によって個性を獲得する。だからといって、別に私は自身の無個性を憂いているわけではない。私だって、それはまあ、なかなかに個性的なところもあると思う。もちろん根拠はないけれど、たしかに云えるのは自身のアイデンティティの有無で悩むほど、私はナイーブではないということだ。

 では小町さんの言葉をなぜ辛辣に感じるかと言えば、要因は私の部屋にある。私の部屋にはなにもなかった。備え付けの家具があり、すこし黄ばんだ壁紙がある。かわいらしいカーペットなどもありはしない。あるのはわずかにあたたかな畳のみである。こんなありさまでは自身の無個性を疑ってしまうのも無理からぬことだ。要するに、私は部屋の模様替えをしたいのである。あれこれと、家具の配置を弄ってみるも、なんだかしっくりこない。やはり自前で用意したお気に入りの、愛着の湧く、自分自身にお誂え向きなそれらが必要なのだ。

「お惣菜も悪くないかも。煮物、焼き魚、小町さんは鼻が利くから」

 と、昼食を食べながら。私はそんなことをぼんやり考えていた。

 お皿洗いの最中に考えることといえば先から続く連想で、それは白玉楼のことだった。白玉楼の私の部屋、タンスも、身鏡も、もっといえば衣服だって、顔も知らないお母さんのお下がりだった。やおら心が踊った。食器がどんどんと片付いた。どんな家具を買おう、床にはどんなカーペットを買おう。タンスの中身だって、ああ、調度や小物、自分色に染め上げられてゆく部屋を想像するだけで、こんなにすてきな気持ちになれるなんて。

「よし!」

 食後の後始末をすべて終わらせただけなのに、私はなんだかとてもやる気になった。冬は寒い。けれど雪の降らない青天の冬だった。でも、ふいに浮かぶのはあのセーター。小町さんのいつも着ている、申し訳ないけどあまり似合わないあのセーターだった。ウール、アクリル、カシミヤ、ポリエステル、コットン。わからないが、それらがいやに魅力的に感じられて、私もあんなもこもこが欲しいな、なんて。そんなふうに思った。

 それからのんびりしていると、夕飯の買い出しを忘れていたことに気がついた。普段なら昼食とまとめて買ってきてしまうのだが、今日に限ってはなんだろう、冬の陽気という不可思議な魔力に拐かされてしまったのかもしれない。お惣菜。コロッケ、てんぷら、冷めた炒め物、寄り合わせのお弁当、えとせとら、えとせとら。やはり、どうもピンとこない。食事の前に料理をしないと、なんだか事の順序がおかしなきがしてしまう。冬の陽気、肌寒さのなかにわずかながら暖かみがあった。窓の外、子供たちは今日も無邪気だった。


 里を歩いていて思う。こんな青天の所為かもわからないが、あの頃と比べるとどこもかしこもだれもかも、なんだか活気がついたようだ。着物も減っている。並び歩く者が増えている。笑い声だって、常にうっすら響いてる。私はいっぱいになった買い物袋を提げてひとの川のなかを行く。あの頃と比べてひとが増えた。それは即ち妖怪も増えたということだ。和服、洋服、和食、洋食、養殖、天然。多様化していく何もかもに、私はすこし不安になる。果たして私はこの川を、上手に泳げているのだろうか。買い物袋の紐をぎゅっと握る。八百屋のおじさんは今日も元気だった。

「すごいですね。流石は風の子、元気の子」

 晴天とはいえ、やっぱり冬は寒い。けれど最近では買い物の帰りは公園に寄るのが半ば習慣になってしまっていて、私は冷えた手をこすり合わせながら、今日も例の先生に話しかける。

「律儀なもんだな」

 傍の買い物袋を一瞥してぶっきらぼうに応える先生は私のことをぶり大根と呼ぶ。やめてくださいを聞いてくれないというのなら、私だって仕返しくらいする。

「私、最近勝敗がたのしみなんですよ。今日はどっちが勝つと思いますか? ねえ、先生」
「さあ、興味ないなぁ……先生はやめろよ」

 先生の気怠げな視線の先では子供たちが今日も元気だ。あまり規制のない草野球も、最近では徐々にしっかりとしたルールが備わってきている。伴ってふたつの球団が発足された。名前は単純に男子チームと女子チーム。しかし女子チームは八人しかいないので、ひとり、男子チームのいっとう優秀な野手が四番を務めることでバランスをとっているらしい。その子の顔立ちといえば端正なもので、利発そうな鼻筋にぱっちりとした二重瞼、長い睫毛は中性的で、はじめは男の子か女の子かわからなかったくらいだ。神はときに残酷だ。子供ひとりの小さな背中に一体なん物背負わせようというのだろう。

「あの子も教え子だったんですか? ねえ、あの子は将来何になるんでしょうね。あんなかわいらしくて、運動もできて、きっとお勉強だって出来ちゃうんでしょうし。そんな顔してますもん。ねえ先生?」

 カキーン、と小気味いい音が響く。よく飛ばす。流石は四番といったところだ。白球が茂みに入れば二塁打。みなの歓声は一瞬で、イヌマキに勢いよく突っ込んでゆく白球には半ば悲鳴のような声をあげた。

「八百屋だよ。一人息子だ」

 妹紅さんはタバコに火をつけて簡単に言ってのけた。ボールのなくなった子供たちは一様に落胆の声をあげて、四番の活躍を非難している。それにしても八百屋というのはどの八百屋のことだろう。まさか私が贔屓にしている八百屋ではあるまいか。事実関係の有無に問わず、私はあらゆる事象を私の人生と近い場所に配置したがるふしがあった。だって、私の人生の主人公は私だから。当然である。だとすると、あの困り顔の美男子は、例の元気な八百屋のおじさんからできたということになるだろう。ともすれば、それは奇跡だ。


 気付けば夕暮れていた。子供たちは落胆のままに帰り支度を始める。四番の美男子がずっと別の遊びを提案し続けていたようだが、いかんせんみなは興の乗らない様子でいて、やはり、ボールがなければ楽しめないらしかった。チャルメラが聴こえた。

「さてと、帰ろうかな」

 タバコの概ねを吸い尽くした妹紅さんが腰を上げる。遠くの空では橙が紺色に塗りつぶされそうで、いやに感傷的だった。どうして先生を辞めてしまったのか、妹紅さんに尋ねてみたことがある。そのとき妹紅さんははじめと同じ口調で、ボールがみえなくなったから、と答えた。しかしそれでもロマンスくらい、と慧音さんのことを尋ねてしまったこともある。もう三年会っていないとのことだった。妹紅さんにとってのボールが慧音さんであることはなんとなく明白で、夕闇に散っていくなかぽつねんと取り残される八百屋の一人息子はとても寂しかった。ふと、妹紅さんがベンチの後ろの生垣に手を突っ込んだ。同時に大きく声をあげる。おおい八百屋の、と妹紅さんは言った。ひとり残された八百屋の美男子は驚いた様子のまま、遠くでおど、おど、としている。そんな彼に、妹紅さんはどこで見つけたか白球をおおきく投げた。変だ、ボールの消えた茂みはたしか、もっと向こうの方のはずで……。

「おい八百屋の! 間に合わせるだけの試みなんてアホなことしてる暇あったらとっとと茂みに手突っ込め。ボールなんていくらでも、至る所に落ちてんだから!」

 妹紅さんの放ったボールを、八百屋の四番は慌ててキャッチした。そして笑顔で深く礼をしたかと思えばすわ走りだし、そのまま公園を去ってゆく。みなの背中を追ったのだろうか。わからないが、いちばんにわからないのは妹紅さんだった。このひとはみんなわかっていながら、どうしてくすぶっているのだろう。

「ボール、すぐ見つかんるじゃないですか」
「ああ。でもね、公園をでたら終わりさ」

 妹紅さんはもう一度生垣に手を突っ込んだ。いともたやすくみつけられたボールは妹紅さんにゆるく放られて、私の手にすっと収まり、妹紅さんはそのまま公園の出口に向かう。振り返ることなく発せられた「それじゃ」と、手中に収まったボールと、それから私のみが夕闇の公園に取り残された。

 妹紅さんの去りゆく背中に、ボールを、ゆるく放ってみる。もちろん当てるつもりなんてないから、ボールは点々と山砂に跡をつけるのみで、妹紅さんに届くことはなかった。ひゅうと風が吹けども、ボールは的外れな方向に、二、三転がるのみでいた。

「……なんだかなぁ」


 釈然としないまま夜に飲まれて、私のぶり大根も小町さんに呑まれている。小町さんは、最近寝相がいい。

「またぶり大根! あんたも好きだねえ、年明けてからもう何度目だと思ってんだい。好物かい。たまにはもっと洒落たもん食わせておくれよ」
「帰ってくださいよ」

 陽気な小町さんのイヤなところはたくさんある。図々しさはともかくとして、なんだか妙に痛いところを突いてくる話し方がいやだ。

「あんまりだ、そんな口ぶり。まあまあ、別にあたいはこれを貶してるわけじゃないんだから。好きだよ、あんたのぶり大根。なんていうか懐かしい感じがしてさ。なんだろう、なんてったかな。ほら、母の味? みたいな感じがするね」
「私にお母さんなんていません。両親のこと、ひとつも知らないんですから」

 でもそれよりもっとイヤなのは卑怯なところだ。どこがどう卑怯かと聞かれると困ってしまうけど、なんというか、小町さんは私を使って、ひとりの寂しさを埋めているような気がする。きっとこの部屋が空室だった間は、この長屋もといアパートがこれほど騒がしくなることなどなかったのだろう。それは私にとって未知の静寂で、小町さんはきっと私がその静寂を知らないことをわかっているのだと思う。ひとりは寂しい、そんなことは誰だって知ってる。知らなくたって知ってる。だから、小町さんはこうも簡単に私の孤独につけ込んで、いささかのためらいもなくぶり大根にありつけるのだ。こんなことなら戸建てを選べばよかったなと思う。

「嘘だね! 親もいないでどうしてあんたみたいな箱入りが育つんだい。親代わりはいたんだろう、そんなこと言って、そのひとに対して心が痛まないか。ああちょうどいいや。この際教えてもらおうかな、前から聞こうと思ってたんだ。あんた一体、なにしに此処まで――」

 ――小町さん。

 と、思わず遮ってしまった私の口は、そのあともほとんど勝手に動いてしまう。

「小町さん。私、働こうと思うんです。どこかいい働き口ありませんか」

 家具を揃えるのにもお金がいるから、この際ちょうどいいやと思った。自分にお誂えの私の家具達は、きっと、白玉楼でのお小遣いでは、なんだかいけない気がしていた。



 半年ほど暮らしてわかったことがある。春の空は思うよりもずっと広い。空中楼閣の最底辺から眺める里は鮮やかで、夏の近づく昨今、仰ぐ空なら天辺に手が届きそうだった。相変わらずのいい景色を数分眺めて、私は天守閣へと下る。お城の中にエレベーターがあるなんて、なんだか変な感じがする。三ヶ月働いても未だ慣れない独特の浮遊感に、私はなんだかぞっとしたり、ほっとしたりした。この逆さまのお城が私の職場、輝針城。ホテルニュー輝針城である。

「おい針妙丸、カップルを入れんのやめようぜ」
「こら、敬語!」

 事務所に戻れば先輩とマネージャーさんがいつも通りを交わしていた。先輩はもちろんあの正邪さんで、マネージャーさんだってあの針妙丸さんだ。けれど、ふたりはどうして小町さんや妹紅さんとおんなじように、私のことを覚えているんだかいないんだかといった具合で、私をホテルニュー輝針城の新たなスタッフとして招き入れた。昔でもそこまで面識はなかったけれど、あんなんに初めて会ったように、事務的に面接を受ければ多少さみしくはあったけれど、今にすればふたりは“先輩”と“マネージャーさん”だ。休憩のときなら、正邪さんと針妙丸さんだけど。

「支配人、わたしは避妊具の処理をしたくはありませんわたしの手はそんなことをするためについているのではないのです」
「清掃員だろ? 受付もろくにできないくせに。それに引き換え妖夢ちゃんはよくやってくれてるよ。入ってすこししか経ってないのに、おまえよりもなんだってやれるんだからな」

 ふたりのいつも通りの会話にはすこし苦笑してしまう。針妙丸さんが褒めてくれたのには嬉しいやら恥ずかしいやらあるけれど、入ってすこししか、というのはちょっと気になる。三ヵ月ほとんどフルタイムでやってきたんだから、そりゃあ、いろいろとできるようになるため努力するのは当然であって、針妙丸さんのその言葉は、単に正邪さんを詰るためだけに放ったものに思えて、なんだか蚊帳の外みたいですこしさみしい。

「どうも、休憩おわりました。……でも、正邪さんは私なんかよりずっと手際よく掃除を済ませてらっしゃいますよ。私が一部屋やるうちに、二部屋三部屋片づけちゃうんですから。やっぱり先輩ですよ、先輩にはかないません」

 私の言葉に正邪さんが舌打ちをする。なんだかな。

「妖夢ちゃん、それは手際がいいんじゃないな。こいつ、サボってるだけだよ。私しってるんだから。こいつが適当に掃除したあとの部屋を、妖夢ちゃんがわざわざちゃんと仕上げてくれてるの」

 針妙丸さんは私のことを妖夢ちゃんと呼ぶ。私より低い背丈と顔つきのせいでなんだかちぐはぐな気持ちになるけれど、ひとつきも働けば、針妙丸さんが私なんかよりずっとしっかりとした、なんだろう。……そう、支配人。マネージャーさんだということがわかった。私と針妙丸さんの傍らで、正邪さんは相変わらず忌々しげな表情と手ぶりで口を開いた。

「妖夢おまえ、また屋上行ってたのか? 自殺志願者か? 好きだよな、おまえ。たかいところ。煙か? 馬鹿か? 事務所で座ってりゃいいものを、タバコでもやれよ!」
「うるさいぞ。せーじゃ、おまえの休憩はとっくに終わってんだから。ばかはおまえだよ。アウト処理終わった部屋のメイキング、さっさとやってこい」

 ちッと舌を打って、正邪さんはニトリル製の使い捨てゴム手袋を一枚出して、事務所を出て行った。正邪さんが右手だけにゴム手袋をつける理由を私は知らないけれど、節約という点においては感心してしまう。でも、それじゃ左手が汚れてしまうから私は二枚使ってしまうし、なんだかんだ、両手につけていたほうが安心する。正邪さんはやっぱり謎だ。

「妖夢ちゃん。屋上行くのはいいけどさぁ、ご飯はほんとに大丈夫なの? お昼食べたほうがいいと思うけどなぁ」

 そういって、フロントデスクの前に座っていた針妙丸さんは幾許かの申し訳なさを演出しつつ、事務所奥の椅子に座った。事務所奥にはテーブルがあって、テーブルの上には正邪さんや針妙丸さんのその日その日の私物が置かれている。針妙丸さんの今日の私物はお弁当袋に包まれたお弁当箱で、正邪さんの私物はお弁当の食べ散らしの置き散らしだった。

 事務所と事務所奥はそれほど距離がない。パーテーション代わりの小さなカーテンで仕切られてるのみだから、私は針妙丸さんと入れ替わりになってフロントデスクについた。

「大丈夫ですよ。ダイエットにもなるし、それに、朝はたくさん食べてきてますから!」

 ダイエットの部分は適当なうそだけど、特に良心の痛むほどのうそではない。なにより、アルバイトとはいえ職場でプライベートをあんまりに曝け出すのはどうしてだろう、なんだかマナーのなっていないような気がして私にはできなかった。本当はただ単に、来るか来ないかわからない小町さんのために作りすぎた残飯を処理しているというだけの話なのだけれど、その話をちらとでもしてしまえば、おのずと事細かに話さなくてはいけなくなるような気がするし、そうすれば、きっと針妙丸さんは小町さんの非を糾弾するだろう。それはなんとなくいやだから、私はうそを吐いたというわけである。

「ふうん、そっか。まあ、今日は暇だから妖夢ちゃんも後ろでゆっくりしてていいよ。正邪なんてタバコ休憩ばっかりして、ちっとも働かないんだから。それに、あいつタバコ吸えないんだぜ、ふかしなんだよ」

 へえ、とちょっとだけわざとらしい感嘆をはいて、私はデスクに向かう。最近の幻想郷は進んでいて、予約処理やなんかはニトリ製のぱーそなるこんぴゅーたーで行う。このぱーそなるこんぴゅーたーにはどうも慣れないけれど、三ヵ月もやればどうにかできるといえるくらいには使いこなせるようになった。


 そうこうしていると、事務所奥から食事を取り終えたであろう針妙丸さんのキーボードをたたく音が聞こえてくる。事務所奥にはもう一台のニトリ製携帯型ぱーそなるこんぴゅーたーがあって、針妙丸さんは支配人兼社長らしく、提供企業などへの業務書類等を作成している。私の仕事といえば、受付と、予約処理と、正邪さんの休みの日や休憩時の清掃だった。

 このホテルに勤めるようになったきっかけはもちろん小町さんからの紹介だった。さらに詳しくいえば、小町さん経由でアパートメントの大家さんに紹介してもらった働き先である。どうやら正邪さんと針妙丸さんは私の住むアパートメントが長屋だった時代そこに長いこと住んでいたらしく、そのあいだこつこつと貯めたお金と、針妙丸さんの私有財産である輝針城でもって、このホテルを企業したらしい。里に来たばかりのころに知ったことだけれど、ホテルニュー輝針城はどうやら一大リゾート地と呼ばれるほど、みなのあこがれ、一生に一度は泊まってみたいホテルとして成功したらしい。実際、天上の城はまさにグランドホテルのソレに思える。そうして正邪さんと針妙丸さんがいろいろと滞納していた家賃に加えて、迷惑料やなにやらを支払って、大家さんはそうして得た資金で長屋をアパートメントにグレードアップさせたという話だった。このことを思うとやはり尊敬してしまうのは針妙丸さんのほうだった。正邪さんにはもうしわけないけれど、あのひとが一人でいたなら、大家さんに義理立てなんてせずに独り占めをしていたにちがいない。なんて、ちょっと失礼すぎるかも。

 おつかれさまでした。ただの仕事終わりにその言葉を口にするのにはすぐ慣れた。ホテルニュー輝針城の宿直は針妙丸さんただひとりだ。
「いいんだよ、どうせもともとは私の家だしね」
 いつものように針妙丸さんの身体をそれとなく労えば、またいつものような言葉が返ってくる。仕事とは不思議なもので、職場での人間関係というのはもっと妙だ。何度も何度も、同じやり取りを繰り返す。仕事以外のはなしにしたって、忙しければ「忙しい、忙しい」と言うし、暇なら暇でまた繰り言にする。けれど、今日はすこし勝手が違ったようで、針妙丸さんがそれよりも、でもってタイムカードを切りかけた私を呼び止めた。

「すこしいいかな。いちお、仕事のはなしだからタイムカード切らないでもいいよ」
「いえ、そんな。いいです、なんだかわるいですから」

 静止を半ば振り切ってタイムレコーダーにカードをねじ込んで鳴った音を、針妙丸さんは携帯型ぱーそなるこんぴゅーたーを見つめながら「ん」と発音した。テーブルの上に正邪さんの置き散らしはもう無い。正邪さんは私よりもはやく退勤をする。理由といえば正邪さんの清掃員という役職に由来する、謂わば当り前のことだけれど、退勤まで食べ散らしを置き散らしにしておくのはどうかと思う。それに、正邪さんは退勤したあとどこへ帰るというのだろう。直接聞くのはなんとなく野暮な気がして聞けないけれど、あのひとは私の退勤したあとに、このホテルに戻ってきて、針妙丸さんといっしょに宿直をやっているに違いない。朝出勤したときに通路のゴミ箱が空になっていることがその証左だ。もちろん、なんとなくそう思っているだけだけれども。ともかくとして、私の退勤が遅れれば、どこかで暇をつぶしている正邪さんの暇がさらに伸びてしまう。そうすれば、正邪さんはきっとまたいつもの調子で舌を打つだろう。そんなことを考えながら私は針妙丸さんの斜向かいにある、もうひとつの椅子に腰を掛けた。

「切らなくていいって言ってるのに。こっちが申し訳なくなるなぁ、ごめんねえ」

 どこか間延びした口調はぱーそなるこんぴゅーたーに釘付けになっている針妙丸さんの一種の癖だった。ひとの眼をみて離さないのは美徳ではないけど、私のわからない仕事をしている以上、それを糾弾するのはお門違いだし、そもそもちっとの憤りも感じていないから、針妙丸さんが私に謝るほうこそ、斜向かいにお門違いなことだと思う。

「……じゃあ、ちょっと話すけど。まあ、なんとなく分かってると思うけどさ。そのぅ、えーと。まあ。……二号店を出そうと思うんだよね」

 思わぬ衝撃的な発言に、私は間抜けなア行の二番目を元気よく発音してしまった。私がそんな展望をなんとなく分かってると思った理由が知りたい。正邪さんだって、ちっともそんなこと言っていなかったのに!

「あ、聞いてなかった? そっか、まぁ。あいつが話すわけないもんなぁ……」

 三点リーダの後に訪れた沈黙は私を少しばかり慌てさせた。二号店を出す。どうして、どこに、だれがなにをすればいいのか、私に関係のある話なのか、ないはずがないけれど、私に話して、私になにをさせようというのだろう!

「え、ええと。それは、その。どこに出すんでしょうか、二号店」
「んーとね、まあ。今のところは地底に出そうかなと思ってるんだけど……でも、うん。地底だな。あそこ最近いい感じなんだよね。妖夢ちゃんも知ってるとは思うけど、あそこ、むかしはよっぽど酷かったんだ。なんか、場所もひともぬらぬらしててさあ。だけど、最近ほら、古明地さんところが頑張ってるでしょ。インフラも充実してきたらしくってね。こないだ見てきたんだけど、まあ、うん。宿出すなら今のうちかなと思ってさ」

 ゆっくりとマイペースな口調に私はすこし落ち着いた。地底のひどさについてだけなら、正邪さんからよく聞いていたし、だから事業開発の隆盛についてもなんとなくではあるけれど把握していた。しかしだからといって、二号店をあんな掃きだめのような場所に出すなんて。そんなことをしたら、一大リゾートホテルニュー輝針城のブランドに傷がついてしまうのではなかろうか。それに、このホテルには従業員が私を含めて三人しかいないのだ。繁盛しているとはいえ、行楽シーズン以外なら閑散とするこの施設に、新たな人員を雇う余裕などあるのかないのか。ああ、やっぱり私は落ち着いてない! けれど、ぱそこん―いい加減略称に慣れなければならない―に釘付けな針妙丸さんの口元は今にも私に追い打ちをかけるべく開きかけている!

「……まあ。それでね、んーと。……あーいや、いいや。とりあえず気に留めといて。ごめんね仕事終わりに引き留めちゃって」
「い、いえぜんぜん。そのぅ、おかまいなく」

 私がほぼほぼカタコトで発すると、針妙丸さんは相変わらず釘付けのまま「じゃあおつかれさま」と発音するから、私は得も言われぬ居た堪れなさを抱えたまま職場をあとにした。帰り際、針妙丸さんが「そうだこれを」と渡してくれたのはどこから貰ったか立派な大根の三本だった。


 貰った大根の一本を昨夜の煮物に継ぎ足せば、小町さんがお酒を持ってくるから朝目が覚めれば夕方だった。開いたカーテンから差し込む夕陽に初めての遅刻を確信したけれど、そんな確信はすぐに吹き飛んだ。カレンダーを見やれば今日はどうやら週初めで、週初めは私の休日なのだった。慣れないお酒に散らかった畳の上の丸テーブルに一瞬、小町さんが与太話をしている嬉しそうな表情が浮かんだけれど、私はちっとも嬉しくなかった。食べ散らし、置き散らしといえば正邪さんで、正邪さんといえば先輩で、先輩といえば職場で、職場といえば二号店の展望だ。加えて、鈍い宿酔もある。窓を開けて日暮れの空気を吸い込むと、私は確かに嘔気を覚えて、すわ手洗いに飛び込んだ。吐いたあと、窓桟にて同じく日暮れを吸い込めばいつもの倍以上にすっとした。

「あっ」

 と声を出したのは私で、当然その間抜けな感嘆符は窓から見える公園在中は不審人物さんに由来するものだった。私はとにかく財布だけを持ち、ふらふらと玄関の戸を開けた。開けて、買い物袋を忘れたことに気が付いて、また戻った。戻り思い出してしまったのは、昨夜の片隅に忘れられた二本の大根だったから、私は今日もぶり大根だ。

 初夏とでもいうべきだろうか、春の日にしてはあまりにも長いように感じた。買い物へ向かってから終わりまで、空の色が変わらない。空はまるで何かを引き延ばすかのように、延々と、オレンジ色を引っ張り続けていた。どことなく鈍い感じのするけれど、それは鮮明な色彩だった。公園の入り口を跨いで、イヌマキの道を抜ける。横目に山砂の広場をみれば、子供たちは今日も元気だ。野球をやってる。イヌマキの切れ目から広場に入って、それとなくベンチに腰掛ける。先生はいつものようにただじっと、子供たちを眺めながらタバコをやっていた。

「嫌だ。やだなぁ、夏は」
「まだ春ですよ」

 おそらく暑がりであろう先生がめずらしく、本当に苦り切った顔をして言うものだから笑ってしまった。かと思えば「よお、ぶり大根」といつも通り見向きもせずに夕食を看破する。私もいつも通りに挨拶をすれば「先生はやめろよ」とまた挨拶が返ってきた。例の四番がカキンと飛ばす。白球は茂みに直撃したが、子供たちがそれを探すこともない。ボールのストックならたくさんあった。

「ところでさ、人道。ありゃいやなもんだな。あれはいったい、道の端、溶けていけない汚れた雪たちにどんなまなざしを向けるのか。不条理じゃないか。やなもんだよ」
「雪はもうぜんぶ溶けちゃいましたよ……こら! 先生、春ですよ。もう春なんですから! また、ぼーっとしちゃって……」

 最近、寺子屋の生徒も増えたようだ。チームにはちらほらと知らない顔が混じって、八百屋の四番が相手チームに助力することもない。男子チームにはいかにも男子らしい負けず嫌いが増えた。女子チームにも勝気な男勝りが何人かいる。殊その中の一人が女子チームをいかにも牽引しているらしく、不安定ながらによく飛ばす女子チームの二番、ぷっくりとかわいらしいあの子がエースだ。勝敗もこのところばらついているようで、負けず嫌いの男子たちはよく騒ぐ。負けじと女の子たちも声を張るから、子供たちの声はアパートで聞くよりずっとけたたましかった。

「頭のいいのは頭のいいからみんなと勉強せず不幸になる。頭の悪いのは悪いなりに一人で勉強なんぞしちまって不幸になる。純真なのはいつまでもそのまんま。それを持ったまま前に進んで、振り向きゃ誰もいなくってさぁ」
「それで、どうしてあの子たちまでそうと決めつけちゃうんですか。八百屋さん、プロ野球選手になっちゃうかもしれませんよ」

 妹紅さんはちっとも笑うことをせず煙を吸って、私の言葉を半ば無視する。子供たちは野球をする。カキンと鳴れば春の空に声が響く。勤め先のエレベーターの話はなんどもした。パーソナルコンピューターの話ならもっとだ。私は昨日の出来事を話す。針妙丸さんに言われたこと、二号店については興味なさげを努められたから、そうそう区切って本題に入る。

「それにしても。最近の地底はすごいんですよ。インフラもかなり整ってきてるらしくて。知ってますか? ほら、埋め立てた血の池地獄に建った建設事務所の利権争い」
「しらないよ。行ったことないし。興味ない」

 目覚ましい発展の経過で先生の気を引こうとしたのだが、あえなく撃沈した。この人はどうも、自分の頭の中で起こっている問題にしか取り合えないらしかった。いまでもじっとりと、指に挟んだ煙草の灰を切れないままで子供たちを見つめている。先生、妹紅さんの頭の中で起こっている問題が果たして何なのかは判然としない。しないけれど、ただひとつ言えるのは、妹紅さんの中では相当に時が経ってしまっているらしいということのみだった。

「そんなに会いたければ、さっと会いに行っちゃえばいいじゃないですか」

 ふいにこぼれでてしまった私の言葉に、妹紅さんはうんともすんともしないで、煙を吸い込んで、また吐いて。いつもどおりに口を開いた。

「やだなぁ、夏は」

 夕陽がぎらぎらとして、向こうの空から雨の匂いがすると、子供たちも妹紅さんもどこかへ帰った。
 一大リゾート地ホテルニュー輝針城、開発の進む地底の果て。目まぐるしく進化するこの世界なら、球場のひとつできたって、なんらおかしいことはないはずだ。


 部屋、夕鳴き、閑古鳥。放ったらかした畳のシミがある。次のお給料で買いたい素敵な靴がある。くつくつと煮立つ鍋の音は、煮物の灰汁を教えてくれる。
 今日だってぶり大根を煮込む。三日目の残りにつぎ足すのはさすがに不安だったから、また一から作り直すことにした。じきに梅雨だというのに、今日の夕陽はやけに長い。遠くで雨が降っているのはなびくカーテンから舞い込む匂いで明白だけれど、それにしたってぎらぎらしている。鍋に下準備を終えて、窓桟から洗濯物を取り込むとき見た夕景は、なにか世界の終わりそうな感じがした。私はすこし不安になる。橙を通り越して朱く燃える空の色は、そのまま世界ごと染めてしまいそうだった。私はどうにも泣いてしまいそうになった。窓の向かい、公園までもが真っ赤で、いつかきっとその赤はいろんな思い出までぎらぎらと染めてしまいそうで、私はおそろしくなってしまう。
 コンコン、と音がした。ひどく落ち着いた音だったから、ハッと緊張して玄関に向かう。ドアを開けると、アパートの通路にまで差し込む夕陽を背にして、小町さんは立っていた。でも、実際に立っていたのはいつも通りの小町さんで、小町さんは昨夜のお詫びとでも言いたげに、片手でわかりやすく御免のポーズを作っていた。けれどもう片手には酒瓶をこしらえて、すこしだけ照れたように舌を出してはにかんでいるから、小町さんは結局小町さんだった。私は鍋に大根のもう一本をつぎ足した。

 小町さんとテーブルを囲む。テーブルの上、酒瓶を中心にふたつお猪口が置かれいている。

「飲みませんよ。私、明日仕事なんですから。そもそも昨夜だって、ほんとは飲むつもりなかったんですから。それを、小町さんが無理やり……」
「まあ、まあまあ。いいじゃないか、ちょっとくらいさぁ。ほら、昨夜は悪かったよ。あたいが注いでやるからさ。あ! それともなんだいあんた、あたいの酒が呑めないっていうのかい!」

 小町さんはうっすらと顔を赤らめて私に絡む。気付けば外は夜だった。くらくらと揺れるカーテンに、ひどく懐かしい香りがしていた。もしかすると小町さんの香りだろうか。勧められたお猪口をしかたなくちびりとやれば、いやなお酒の匂いがした。

「うう、苦手なんですよう。……これきりですからね、もう絶対のみませんからね」
「なんだいなんだい。釣れないねえ。あたいがもうじき出て行っちまうってのにさ」

 初耳、の顔をすれば、小町さんもきょとんとした。聞けば仕事の関係で、春から夏の終わりにかけてずいぶんと忙しくなるという話で、その間家を空けるらしい。どうして言ってくれなかったんですかと問えば、言ったもんだと思っていたと、いつもの調子でてっきりに付された。以降小町さんの酌に酔ってしまうのは道理だった。明日の昼ごろ出るらしい。

「そうだ。あんたも盆くらいは休むといい。親代わりが居るってことは、参らなきゃいけないとこもあるってもんだ。なあ」

 一通り飲めば宴もたけなわ。小町さんはふらっと部屋に戻った。かと思えば、また勝手に玄関が開く。そうだ、そうだと、小町さんはなにか思いついたように戻ってきた。見ると紙袋を提げているから、なにかいただけるのかもしれない。

「これをやるよ。最近暑くなってきたからね」

 おずおず袋から取り出してみれば、それは見覚えのあるセーターだった。善意とも悪意ともつかない贈り物にお礼を言うと、小町さんは素手で大根をつまんで口に運び、ん、とも、あ、ともつかない返答をして、今度こそ帰った。

「……やだなぁ、夏」

 そしてそのまま夏が来た。


   四

 夏は暑い。夜はじめじめとする。けれど、最近なら私は星一つの無い黒い空で、部屋の中はやけにさらさらとした。箪笥の木目に頬をつけて、素肌の腕も這わせてみる。磨かれた木目はつるつるとして、それでももっとさらさらとした。
 思い出すのは手紙のことだった。小町さんの部屋に散らかったそれじゃない。私宛と、だれか宛の手紙のことだ。玄関、ドアのうちがわに、ひんやりとしたポストがある。ポストに落ちる音はカタンで、ポストを開く音はガタンだった。しかし実際はガランとしたものであり、たまに入っているのは故も知らないチラシの束だ。コンコンと鳴らす人ももう居ない。すみませんの声に今行きますを返せども、新聞やら宗教やら、私にはどうにも無縁のひとたちばかりだった。
 あっという間に夏至を超えて、小町さんは行ってしまった。やっぱり是非局直丁にいるのだろうか。それとも、はいろい河原で舟をこいでいるのだろうか。いつか見た小町さんの部屋、散らかった手紙の山からなにかを推察しようにも、私にはすこし足りなかった。それは窓の向こう、子供たちだけ取り残された公園にも同じことが云えた。来たる猛暑を嫌う先生の姿はいつしか失くなって、どこへ行ってしまったのかを私は知らない。とにかく夜はどこまでも静かで、私は一人暮らしをしていた。

「おはようございます!」

 朝、勇んで事務所の戸を開ければ手袋の片方、タバコを咥えた正邪さんが舌打ちをする。正邪さんの舌打ちといえば本当に忌々しげで、擬音で表すなら「ちッ」という、それは紛れもない苛立ちの体現だった。

「は、入るなり舌打ちするのやめてくださいよ。遅刻した訳でもないのに!」
「うるせえな、忙しいんだぞ今日も。それをおまえ、おはようございますってなんだよ。なにがおはようございますだよ。ちっともだよ」

 なんだよってなんだよといった感じがする。正邪さんに真っ当なご挨拶を求めるのは不毛だ。私はいそいそタイムカードを打つ。すると正邪さんがまたつまらなさそうに舌打ちをする。ときに小町さんもよく舌打ちをしていた。けれど小町さんの舌打ちは舌打ちというよりも鳴き声で、それは「ちぇっ」というなんだかかわいらしいものだった。正邪さんの舌打ちはちっともかわいげがない。ちっとも。

「おはよう妖夢ちゃん、今日もよろしくねー。……こらせーじゃ、おまえはとっととエアコン回してこい。今朝も予約でいっぱいなんだから」

 あーだこーだと楯突く正邪さんを横目に針妙丸さんに挨拶をすれば、私の仕事が始まった。針妙丸さんがさっさと行けを発音すれば、正邪さんも舌打ちをして事務所を出て行った。空調を電気で制御――なんのことやら?――するには、まだまだ稼がなくてはいけないらしい。

 夏の日陰には死が潜む。それは昔読んだ小説の、お気に入りの書き出しだった。よく言ったものだと思う。逆さまのお城の最底辺、排水パイプと室外機に覆われた屋上から見下ろす世界は夏のミニチュアのようだった。水辺、幼いころに大きな石をひっくり返したときのことを思う。視界に移る家々は石ころのようにちっぽけで、野ざらしの屋上は緑の苔と黴のようなにおいがした。けれど空を仰げばただ青く、実に広かった。日差しに瞳をやられそうになってやっと、私は大きく息をした。ここも、少しは掃除したほうがいいかもしれない。部屋ばっかりが清潔で、屋上がパイプと室外機とで雑然としているのは、なんだかちぐはぐに思えた。

「でも。正邪さん、嫌がるんだろうなあ」

 頷くように、けたたましく蝉が鳴いた。

 忙しくしていたら順当に日が暮れて夜になる。何度も繰り返してきた「おつかれさまです」が最近ではちょっと億劫だった。正邪さんはとっくにいない。タイムカードを切ると針妙丸さんが期待の籠った声で私を呼ぶ。

「それで。考えてくれた? 異動のはなし!」
「いやあ、その。ちょっと、まだ……」

 まあ、まあまあ、と針妙丸さんは事務所備え付けの冷蔵庫を開ける。おつかれさま、まずは飲んで、と言わんばかりの缶ビールを二本取り出して、一本を私の手に握らせては、もう一本を自分であけてみせる。強制力のある行動だった。針妙丸さんがプルタブを引けば、私もなぜかそうしなければならないような気がして、このところなら毎日いただいてしまっている次第である。

「いやね、わかるよ。妖夢ちゃんも急に言われたらそりゃ迷うって。うん、わかる。でもさ、こっちから一人は行かせなきゃいけないわけでしょ? 向こうで雇ったやつらに好き勝手されたら困っちゃうじゃん。それで、私はほら、ここに居なきゃいけないでしょ? だってそりゃ、いちおー支配人なわけだし。となれば残るはあと二人。それが、まあ。妖夢ちゃんと、あいつになるわけだけど。妖夢ちゃんわかる? わたしの言いたいこと! 無理だよ、あいつには無理! というかダメ! 向こうで雇ったのに好き勝手されたほうが、まだマシだって!」
「は、はあ……」

 針妙丸さんは高らかに笑ったかと思えば、真剣な面持ちになおって私を褒めそやす。要するに適役は私しかいないという事実を長々と朗らかに謳う。えいやと流し込んだ炭酸に胃はさらに痛くなる。良い飲みっぷりと、飲み方すら褒められて、私はどうも恥ずかしくなる。右方に逃がした視線の先には、たじたじ、の四字が浮かんでいた。

「で、でも。悪いですよ。針妙丸さんがそう言ったって正邪さんは確かに私の先輩なわけですから……そんなの、正邪さんに悪いです。悪いんですよう」
「な、なにを! あんなやつに気を遣ってやることないよ。ただ長く居るだけなんだから、あいつ!」

 以前よりずっと開けっ広げになった針妙丸さんに、私は嬉しいやらおそろしいやらわからないままではにかむ。私がはにかめば針妙丸さんはひとつため息を吐いてはたちまち缶を煽る。夏の始まり以来用意されるようになった缶ビールにはやはりおそろしさが勝った。これのせいで、針妙丸さんの開けっ広げな朗らかさも、正邪さんに対する悪態も、なんだかわざとらしく感じられてしまうのだ。そんな空回りの針妙丸さんはまた何かを始めようと口を開いた。

 針妙丸さんが私を地底の二号店、その支配人に添えようとし始めたのは春の終わりで、ちょうど梅雨入りのころだった。なんとなく予想していたことではあったけれど、いざ面と向かって告げられれば事の重大さは強くのしかかって私をいじめた。やんわりやんわりで拒否しているけれども、内心、悪い話ではないような気もしていたから、私はいつまでもやんわりで拒み続けている。たしかに、地底は以前なら恐ろしい場所だったかもしれないが、新聞等で見る限り最近ではそれほど恐ろしいところではないような気もしたし、針妙丸さんと同じマネージャーをやる自信だってないわけではない。そりゃあすこしは不安だけど、これだけべた褒めをされてはやる気にならないほうがおかしい。けれど、どうしても決心がつかないのは、ここに居ない正邪さんに理由があるような気がした。
 
「うーん。まあ、また考えておいてよ。明日も用意しておくからさ、これ!」

 そう言って、針妙丸さんは手に持ったそれをノックするようにして二度叩いた。地底ではこのところ、埋め立てられた血の池の上に建った事務所の利権を巡り、公然と賄賂が行き来しているらしい。賄賂が公然としてていいのだろうか、賄賂っていったいどんなものだろうか。そんなことを考えていたけれど、なんだか案外こんな感じかもしれないな、と私は思った。

 夜の帰途、川沿いの土手には蚊柱の立ち、それを払い払い歩いてゆく。どこかで子供が泣いている。流れる川と一緒になってざわざわと鳴く木々には静かな虫が鳴き、川辺を見れば薄明るい緑光が点々としていた。八月の藪に揺れるならヘイケボタルだろう。ゆらゆらと明滅する光の群れを眺めれば、私はそれがそのまま欲しくなった。川辺と藪と蛍をそのままアパートの隣に持ってきて、眠れない夜に窓から眺めればどんなに素敵なことだろうか。しかしそれでは雨の降り方次第で里は水浸しになってしまうかもしれない。そうすれば私はきっと責められる。どこかで子供が泣いている。……やい、どうして川なぞ持ってきたんだ。やい、おまえのせいで家が水浸しだ。やい、やい――。

「――やい! 聞いてんのか!」

「わーっ!」背後から怒鳴られて声をあげると、背後からも「うわあっ!」と悲鳴があがる。驚いて振り向けばそこには口を開けて目を丸くした正邪さんが立っていた。正邪さんはすぐに気を持ち直して私にチョップをくれた。曰く、驚かせるんじゃねえよ。理不尽だ。そう独り言ちると正邪さんは舌打ちをした。

「なんだよこの部屋。おまえの部屋か? しょんぼりだな」
「私の部屋に決まってるじゃないですか。勝手に他人の部屋に入ったら泥棒……なんですかしょんぼりって」

 ぐあーとよくわからない鳴き声をあげつつ、正邪さんは勝手に冷蔵庫などを開けてまわる。私は正邪さんについてまわってそれを順々閉めてゆく。一通り終えれば目ぼしいものがなかったのか、わからないが正邪さんはじっとりと私の顔に視線を向ける。

「お酒なら無いですよ。飲まないんです、私」
「はあ? 来た意味ないじゃん。せっかく来たのに」

 帰る、と言って玄関に向かうも、それから正邪さんはてんで動かない。ドアの前に立つあのひとが何を考えているのか、私にはてんでわからなかった。きょとんとしている私を正邪さんが手招きをして無言のままに呼びつける。私も黙ったまま玄関まで歩いたけれど、そこには似たような沈黙が横たわるのみだった。思わず首をかしげてしまう。

「ドアはこうやって開けるんですよ」
「馬鹿にしやがって。おまえも来るんだよ」

 私は強引に手を引かれた。


 路地でごみが飽和している。ネズミはまるで夢の前に現れる羊のように、一匹また一匹と横切ってゆく。いろいろな色の灯りが妖しく往来を照らしていて、ひとびとはみな正体を失くして笑っていた。空は無い。ガラス越し、私はそれらを見るともなく見つめていた。不意にガラスのなかの自分と目が合った。透けた私はひどくぼんやりとした様子でいて、本当には何も見ていないのだと確信する。しかし、ぼんやりしてしまうのも仕方がないと思った。まさか、こんな地底にファミレスがあるなんて! この驚きはすぐさまガラスのなかにも反映されて、間の抜けた表情をそこに見つけるがはやいか私はようやくはっとした。

「ファミレス、あるんですね……!」
「まさかこんなとこにも、みたいな顔して言ってるけどよ。居酒屋だって何回言えばわかるんだよ。勘弁してくれよ。確かに“ぽい”けどよ。しつこいよ。もういやだよ。……さてわたしは今なんかい“よ”って言ったでしょうか。当てられたらおまえ、褒めてやるよ」

 お皿の上からほうれん草のソテーを口に運ぶ。フォークなんて使うのはいつぶりだろう。記憶を遡れどこれといって答えは見当たらないが、代わりに幼さが抽象になって頭の中に浮かんでは消える。連なって現れるのは幸福のイメージで、それはきっと触れることのできない暖かい温度だった。そしてそれがそのまんま、筆舌しがたいソテーの味なのだ。たとえ大量に生産された出来合いのまがい物だったとして、それがどうしたというのだろう。美味しいものはおいしい。曲がりなりにもひとの手によって運ばれてきたものならば、そこに大きな違いはない。これは誰が何と言おうとひとの手料理だ。

「これ、おいしいですね……!」
「あーあーあー! 正解は六回でした残念外れ不正解! おまえの負け! ちなみにおまえのその"てんてんてん、びっくり!"構文聞くのは八回目。いい加減にしてくれよ。わたしの話を聞くのがそんなに嫌か」

 正邪さんの話を聞きたくないわけじゃなかった。私が聞きたくないのは仕事のはなしで、敢えて正鵠貫けば二号店のはなしだ。正邪さんは苛立たしげにジョッキを煽って、今度はドンとたたきつける。店内の喧騒のなかならそれほど気にならない程度の音だったけれど、出来ればびっくりしちゃうのでやめてほしかった。正邪さんの所作は心臓に悪い。灰皿、燻る煙なら肺に悪い。

「吸えないならやめたほうがいいですよ」
「あ? なんだよいきなり。関係ねえだろ」

 正邪さんは「ちッ」と舌打ちをする。やはり死んでしまったひと相手にする仕事というのは胸が痛むのだろうか。あれほどまでに図々しく、また申し訳程度にお人好しなあのひとに、果たして死者と適切な距離を保つことなどできようか。それほどきれいじゃない思い出の数々がぐるぐると回る。季節は夏。八月に着るセーターなんて存在しないし、カイロは暑中見舞いにはならない。

「ちぇっ」
「ハァ? ……ちッ。なんだようるせえな。もういい勝手に話すぞ」

 もう一度「ちぇっ」と鳴いてみたが、正邪さんはまったく無視して話し始めた。煙草を消して、身振り手振りでよく喋っているけれど、正直なところなにを言ってるのかわからない。わからないので、私はジョッキを煽って頷いてはおかわりと相槌を打つ。店員のお姉さんが妙に美人で幸せだった。きれい、かわいい、うつくしい、その他もろもろ。女の子はとかくそういったものがいつまでも好きで、なんと私も女の子だった。正邪さんにも服の上からわかるようなふくらみがあって、つつきまわしてやりたいような気分である!

「――とにかくあいつはわたしがなんにも出来ないと思っていやがる。気に入らねえ。わかるかよ、わたしはおまえなんかよりずっと長く働いてんだ。五年も六年も、長々とよ。それをあいつときたらいつまでも……」

 飲むと私はかなしくなる。正邪さんの語る言葉はまるで幼いころ、漠然と広がる未来に置いて行かれそうになった日のようで、ひとり分広くなったお屋敷の部屋みたいにして、ただじっとうずくまっているように思えた。あの夏は澄んだ陽の下で麦茶を飲んでいた。今は淀んだ地底でおかわりを飲んでいる。私は何に追いついて何を置き去りにしたのだろう。店員のお姉さんはどこか懐かしい手つきでテーブルにおかわりを置いてくれる……。

「……いいかよ。わたしはこんな掃き溜めを、すぐにだって豊かにできるんだ。そうさいつだって、わたしにはそれができたんだよ。なあおい、おまえにそれがわかるか!」

 針妙丸さんと正邪さんの間に何があったのかを私は知らない。ただ繰り返される毎日と、積み重なってゆくひとの歴史と、それから空になったジョッキの山が……。ああ、幼さの抽象が蛭になってうごめいている! 廊下の暗がりを恐れた日々よ、陽射しのなかを歩いた日々よ、空虚なる平穏よ……。それらは煙草の吸殻になって、灰皿の上に散乱して、そしてそれを媒介して、蛭が増えて、増えて……。

「……ば、ばかおまえっ! 吐くならトイレいけトイレ!」

 視界が揺れる。私は強引に腕をひかれているらしかった。ここに手をつけろ、そんな声がしたかと思えば掴まされたのは冷たい陶器だ。頭を押さえつけられる! これは詐欺だ! 私は決して騙されないし、どちらかといえば暖かいほうがすきだ。幽々子さまも半霊ちゃんも体温がひくいから、そのぶんおじいちゃんに抱き着いちゃうのが好きだった。もうろうとして悲鳴が聞こえる。女の子の声だ。泣いているようにも聞こえた。

 夢を見る。なにか大きな穴から誰かが私を連れ出して、くらい森や雑草だらけの河川敷をぐんぐん歩いてゆく夢だった。なにやら私が叫んでる。

「帰れませんよ、かえれません。ねえ正邪さんはどこに帰るんです。ねえ正邪さん、私はかえれませんよう。う、うぅ」
「泣いてんじゃないぞ。泣きたいのはわたしのほうだ、しゃんとしろ! しゃんと歩け!」

 夢の中、私は頭や背中をぽかぽか叩かれていた。なんだかずっと、誰かがきっと泣いていた。


 目が覚めると私は自分の部屋にいた。開いた窓からゆるく風が吹き込んで、まぼろしのようにカーテンが靡く。嘘みたいに外が明るい。セミが鳴いて、鈍く陽が照っていた。丸テーブルには誰が書いたか書置きがあって、重い頭で文字をなぞれば、そこには『クリーニング代を持ってこい』とあった。時計を見る。世界はどうやら昼らしく、私はトイレに駆け込んだ。今日は仕事で、私はひどい二日酔いだった。



   五

 正邪さんが居なくなってから二か月が経った。居なくなったといってもそれはただの異動であって、行方をくらましたとか音信不通であるとか、そんなことではない。昔はよくふらっと居なくなってしまうことがあったと、針妙丸さんは照れ臭そうに話してくれた。あれから、針妙丸さんはやはり寂しそうだった。聞いてもいないのに正邪さんのいろんな話をしてくれたり、正邪さんに連れられ地底に行った夜のことを聞かれたりした。あの夜のことはどうしてもおぼろげだったけれど、はっきりとしていることが一つだけあって、それは私が正邪さんにクリーニング代を支払ったという事実だった。針妙丸さんは「下戸のあいつが誰かを介抱するなんて」と驚いていたけれど、私にしてみれば針妙丸さんの発言こそ驚きだった。正邪さんに誰かの前で下戸を装うかわいげがあったなんて。あの舌打ちが懐かしい。たしかに、私と針妙丸さんで送別会を開いたときの正邪さんは、早々に飲まれていたようにも思う。送別会はちょうど、夏の終わりの出来事だった。

「こら、男の子! しっかりしないと、今日も負けちゃうぞー!」

 それから、針妙丸さんには悪いけど、私も近々辞めるつもりでいる。針妙丸さんにはもう話したけれど、新しい人への引継ぎもほどほどに、だんだんと減ってゆくシフトにはやっぱりちょっとだけ寂しい。辞めようと思った原因はさまざまあるけど、やはり直接的な原因は正邪さんの異動に違いない。自分でそうなるように差し向けておいて勝手な話ではあるが、ふたりが勝ち得た城に無関係な私がいるというのは、どうにも居た堪れなかったのだ。勝ち得た、というのは私の推測だ。送別会の夜、円もたけなわな別れしな、正邪さんが私に言ったのだ。曰く、これでも私は世界を救ったことがある、とかなんとか。

「しょうがないじゃん! こっち人数足りないんだからさー!」

 正邪さんが居なくなってから、公園にも変化があった。夏に活発だった子たちの数名が、秋になってしょぼくれてしまったようだ。こちらも原因はさまざまだ。しっかりと制定されたルールの数々、女子に負け越して終わった夏、単に秋の冷え込みに参ってしまった、などなど。中でも男子チームにとって手痛い損失といえば八百屋の美男子、四番のエースだ。彼は最近、どうやら店番に忙しくしているらしい。

「よーし! じゃあおねえちゃんが助太刀しちゃうぞー!」
「あーっ。おとなが助っ人なんて、男ばっかりずるい!」

 外野から走ってくる子を制止してバッターボックスに立つと野次が飛んでくる。男子チームからは不安と期待で綯交ぜの声、女子チームからはおとなの代打に対する不満の声。そうか、子供から見れば私は十分、妹紅さんの代わり足りうる大人なのか。そう理解するとバットを持つ手に力が籠った。女子チームのエースが対角線上に立っている、球威もさることながら、打てば後がこわいので一点台という子供にしては破格の防御率を誇る女の子だ。心の中で、いまだ消えっぱなしの先生に呼び掛ける。先生、先生、みててください。私はまだまだ……。

「おねえちゃん、打て―っ! かっとばせーっ!」
「いいですか、追い込まれたときにまともにやりあおうとしても相手を調子づかせるだけなんです。だから、劣勢から、反撃に打って、出るのならぁ……」

「……一振りでっ!」

 手に痛いほどの衝撃が走って、同時にすさまじくいい音がした。余韻のように痺れだす両手のままに向こうを仰ぐと、ボールは小さく、小さくなって飛んで行った。私も、みんなも、口を開けてちいさくなるボールを眺めた。どうですか先生、私はまだまだ遊べます。胸中呟けど、秋の空にはとんぼが番になって飛んでいたから、私はちょっとはにかんだ。


 公園をあとにして遠回りの家路を歩く。はやく帰ったところでもはや馴染みの家具たちが待っているだけだから、それならば買ったばかりのかわいい赤い靴を汚してやろうというものである。
 あれから先生とは、妹紅さんとは一度だけ会った。三日前、買い出しの最中だった。町は相変わらずにひどくそれらしい往来と風があって、そのなかを、妹紅さんはかの先生と腕を組んで歩いていたのである。腕を組んでいたとはいっても、妹紅さんが一方的にべったりとしていただけらしく、先生といえばそんな妹紅さんをあやすような表情でいたから私は可笑しかった。まずいところをみてしまった、そう思っているのが伝わったのか、妹紅さんは組んだ腕をほどいて、ひどく照れ臭そうにして私に耳打ちをした。

「わかったんだ、人道ってやつが。やっぱりね、ひとはふたりになるべきなのさ」

 そう言って、妹紅さんはまた腕を組んで先生を急かすみたいに歩き去った。見送ったふたりの後ろ姿がなんだか親子のようだったから、私は送別会でのふたりを思い出してしまい、また笑った。
 秋の風が身に染みる。買い物袋を提げる手がかじかんで、片手ずつ吐息であたためる。漠然と、また何か新しいものが欲しいなと思った。お下がりのセーターの袖に目を落とすと、袖口がほつれていることに気が付いた。ぴょん、と飛び出した毛糸を掴もうと買い物袋を近づけて、止めた。


 部屋に帰ると小町さんがいた。ずっと便りのなかった小町さんが帰ったことにも驚いたが、不法侵入と早速顕出する図々しさにはもっと驚かされた。煮物に味が染みるまでの間、我慢できずにお酒に口をつけようとする小町さんを諫めるのには骨が折れた。小町さんは出て行ったきり一口も飲まなかったらしい、仕事の忙しい期間は飲まないようにしているとかなんとか。ならば肴の揃ってから口をつければその感動もひとしおというものである。実際、小町さんはそのひとくちめで感涙していた。
 小町さんと一緒になって飲むお酒は久しぶりで、積もる話もあったのでその味もまたひとしおだった。とはいえ、仕事の話はつまらないからとあまり話したがらない小町さんとなら、もっぱら私ばかりが口を動かしてしまっていた。職場のふたりのことや、妹紅さんのことを話しているとき、私が冗談半分に「わたしたちもふたりになりましょうよ」というと、小町さんは笑ってくれた。そういう相手はまっとうに探せ、となんだか馬鹿にされたようで悔しかったから、私はつい公園で放った特大ホームランのことを話した。案の定笑われて、それからはおとなとこどもの話をした。新調した家具、買ったばかりの赤い靴、それからほつれたセーターのこと。

「まあまあ。買えばいいじゃないか、新しいやつをさ。それとも縫うとか、あるじゃないか。いろいろと」
「いいえ! 私は縫って修繕したり、新しいものを買おうとは思いませんね!」

 自分から思いのほか聞し召した声が出て、思わず声を潜めてしまう。そうすると、小町さんはまた馬鹿にするみたく私を笑うからなんだかやりきれなかった。けれども、セーターの袖口に視線を落とすと、ほつれた毛糸はぴょん、とほこらしげにそこにあるから、私はまたはにかんだ。




 目が覚めると部屋には私一人だった。小町さんは自室に帰ったのだろうか。わからないがどうやら私は酔いつぶれ、そのまま眠ってしまったようだ。
 カーテンを開ける。窓は寒さで白い露に覆われて外の様子を隠していた。結露した窓を指でなぞると冷たさに体が震えた。台所から持ってきた布巾で露を払う。
 ちらちらと、外には雪が降っていた。
 少しだけ窓を開ける。また寒さに体が震えたけれど、朝の新鮮な空気は不思議なほどにすがすがしく、うっすらとした眠気をすべて払ってくれるかのようだった。
 早朝だろうか。明るいが、空の向こうはまだ微かに暁暗に包まれていた。ちらほらと、通りをとぼとぼ歩いている人がいる。雀の声がした。
 そのとき、玄関からカタンと音がした。新聞だろうか、宗教だろうか。今度は何のチラシだろうか。ガチャンと郵便受けを明け、床に落ちたのは手紙だった。
 居間に戻り、封筒を裏表と眺める。どくん、と心臓が高鳴った。その手紙は白玉楼から送られてきたものだった。
 封を切ろうか、切らまいか。切ったとして何が書いてあるのだろう。切らなかったとして、何が書いてあるのだろう。私は悩んだ。
 悩んで悩んで、十分ほど封筒を睨み続けて、とうとう私は観念した。封を切り、手紙を取り出し開いてみる。

「電話を買いました」

 手紙に綴られていたのはそれだけで、あとは本当に何にも真っ白な余白のあるのみだったから私は頭をかいた。
 悔しいようで、可笑しいようで、懐かしいようで、それ以外にできなかったのだ。そうしていると、セーター、袖口のほつれが頬を撫でた。
 むっとして、ほつれた毛糸をじっと見る。毛糸は昨日のまんま、ぴょん、とほこらしげにそこにあった。
 私はそれをえいやと引きちぎり、そうしてようやく、手紙を書くことに決めたのだった。



   終
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白くて良かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです
妖夢ちゃん感受性豊かでいいっすわ
4.100名前が無い程度の能力削除
距離感がやたら近い隣人がいたり、ひねくれていてもどこか優しい先輩と呑んだりと、奇妙な生活感があって、妖夢が他の個性豊かな面々と関係を築いていく様が面白かったです。皆、色々考えながら生きているんだなぁと、そう思いました。
5.100終身名誉東方愚民削除
一人暮らしを持て余しているような妖夢が見た同じようにどこか不器用なようで日々の暮らしを持て余しているような大人たちの言い分だったり生き方だったりがなんだか妙に頭に残りました そんな妖夢も一人部屋に付け込まれてご飯をたかられたり献立を見透かされたりするのはやっぱり同じように見られている時があって放っておけない感じがして絡まれやすいのかなと思いました
6.100名前が無い程度の能力削除
良かったです
8.100サク_ウマ削除
空気感ほんといいなあ。御馳走様でした。
9.100名前が無い程度の能力削除
最強。これまでの人生にありがとう!
10.100モブ削除
 昭和の香りがしました。どこまで行っても、人であれ人でないものであれ、何者ともかかわらずに生きていくのってとっても難しいんだなあと思ったのです。上手くまとめられないので、これだけにしておきます。面白かったです。とても。ご馳走様でした。
11.100名前が無い程度の能力削除
妖夢の静かな成長のお話でした、泥臭い生活感がよかったです
どこともつかない幻想郷の謎の下町っぽさがいい味だしてました
12.100めそふらん削除
何というか、不思議な話でした。
発想が面白いなって思いました。なかなかに見ない設定でしたので。
それでも違和感なく展開していく物語に引き込まれていく感じがして本当によかったです。
一人暮らしを始めてから成長していく妖夢の姿、様々なものを感じることが出来ました。
郷愁を感じさせる空の表現もとても素敵で、瓦解していくまだらの空模様の場面が一番印象深くてお気に入りです。
13.100水十九石削除
よく知る幻想郷からずっと先の話の様で、このキャラがそんな事してるんだなぁみたいな感触が懐かしさと同期して襲ってくる感じが読んでて楽しかったです。
不格好だけれども、それでもちゃんと自らの足で新生活を歩もうとする妖夢の奮起に相も変わらぬ流されやすさ。それが退職の決意から特大ホームランに至る辺りで少なくともしっかりとした芯は得れた、そんな成長を見せてくれるのもなんだか一つの生活の成り行きを見ていた様な気がします。
あとは小町の普段はちゃんとしていないその厄介さ鬱陶しさが彼女の仕事の忙しさによって妖夢の周りから離れていって、その後戻ってきたその時。妖夢の高揚感や成長を短いながらもくっきりと描かれていたのが良かったです。
一人の時の風景の寂寥感と、それとは対照的な人付き合いのどこか淡白だけど楽しげな雰囲気が妖夢の語り口で脈々と紡がれていて面白かったです。ありがとうございました。