目の前に置かれたティーカップには、赤色の紅茶が注がれていた。
本居小鈴はそれを見て、こう思った。まるで薔薇みたいね、と。
薔薇は嫌いではない。人里に住んでいる身としては馴染みは薄く、しかし本の中ではよく見かける植物だ。絵本の挿絵で見るたびに、美しいと思いもする。
知識としては知っているのに、綺麗だと感じるのに、実在を確かめたことはない。小鈴にとってそれは、まるで夢のような――幻のような花と言えた。
丁度、昨日出会ったあの子のように。
「ふふ。そんなに考え込まなくてもいいのよ。さあ、紅茶が冷めてしまうわ」
はた、と小鈴は顔を上げる。紅茶から立ち上る湯気の向こうに見えるのは、やはり赤色を身にまとった姿だった。
薄紫の短髪と、得体のしれない赤いコードと三つの瞳。青い服を着ているにもかかわらず、どうしてか小鈴には赤い人だなとしか思えなかった。
否。目の前に座る相手は、人ではないのだが。
「ええとその、あの」
「どうぞ遠慮しないで、紅茶もお菓子もご自由に」
鼻腔には紅茶の澄んだ匂いと、マフィンの香ばしさが届いている。微かに花の香りがするのは、彼女が持ってきた薔薇の香りだろうか。さっき受け取った時には、香りは目立たなかったのだけど。
もしかすると、この少女の香水かもしれなかった。
「ええ、自家製なの。よければ分けましょうか?」
――まただった。先ほどからこちらの心を見透かすかのように言葉を投げかけられる。
違う。そうじゃない。見透かす、という領域ではない。
小鈴にはわかっていた。この少女が一体誰で、どんな能力を持っているのかも。
わからないのは、ただ一つだけだった。
「あの。悟り、さん?」
「私の名前は古明地さとり。呼び方に困っているなら、そのままさとりで構わないわ」
「……じゃあ、さとりさん。その」
微笑みながらこちらを見つめて、ただただ好意的な態度を見せる――妖怪。
その妖怪が何を考えているのか。小鈴には、どうしてもわからなかった。
「どうして私、お茶に誘われてるんでしょう?」
小鈴は知っていた。ここは人里。そして我が家たる鈴奈庵。そんなところに地底の妖怪がいてはならないということを。
わからない。どうして自分が今、こんなことになっているのか。
全ては覚えている。この妖怪がふらりと鈴奈庵にやってきたことも。お菓子とお花と紅茶の葉っぱを持参して、話があると切り出したのも。
それでも、何故という疑問は解消されなかった。
もし理由を紐解けるとすれば――その手掛かりはきっと、昨日の宴会が原因なのだろう。
小鈴は、震える心を自覚しながらそう考える。
きっと、この心も視られているのだなと、そうも思いながら。
◇◇◇
「あら、今日は小鈴ちゃんも呼んだのね」
「ああ、この間から来たがってたからな。幹事の私が連れてきたってわけだ」
「霊夢さんどうも」
小鈴と魔理沙が神社に降り立った時、太陽は既にその身を隠そうとしていた。
橙の光があたりを照らして、これから夜が降りてくることをほのめかす。夜の帳が降りれば、その時間は妖怪のものだ。こと博麗神社においては、妖怪と人間が混じった宴会が始まる合図とも言えた。
小鈴は、自分の身体が少しばかり冷えていることを自覚した。魔理沙の箒に乗りながらの空中散歩は快いものであったが、秋の真っただ中で行うには少々無謀であったかもしれない。
……まあ、景色はすっごくよかったけどねー。
身体の冷えと対照的に、小鈴の心は昂っていた。秋色に染まった幻想郷を俯瞰して、綺麗なものを見て。そしてこれから宴会が始まると言うのだから、気持ちが前を向かなければ嘘というものだ。
なにより、小鈴はこの黄昏の時間が大好きだった。また新しい出会いがあるのではないかと、心が勝手に期待をしてしまう。
勿論それは、根拠など何もない勝手な期待感でしかない。けれど小鈴は、そんなふうに心が動く自分のことを、決して嫌いではなかった。
「さて小鈴ちゃん、来てもらって悪いけど少し時間を潰してきてくれないかしら」
「え?」
「まだ料理ができてないのよ。小鈴ちゃんに手伝ってもらうのも悪いし、待っててもらえる?」
異論はなかった。手伝いたい気持ちもあるが、台所の主がそう言うからにはでしゃばるのは間違いだろう。
しかしだからといって、何をするかは思いつかない。鳥居の前でぼうっとして、景色を眺めるだけでも気持ちが良いだろうが、いささかばかり勿体ないように感じられる。
……うーん。誰かお話しできる人いないかなあ。
「ふむ。小鈴が良ければ私と散歩するか? 今度はもう少しスピードを出して」
「魔理沙は私の手伝いをしなさい。あんたが持ってきた茸の扱いに困ってたのよ」
「おいおい、それは前にも説明しただろ。仕方ないなあ……」
と言って、二人は勝手口に向かっていく。小鈴が呆気に取られていると、霊夢が指で玄関を指し示した。どうやら、中に入ってのんびりしててくれと伝えたいらしい。
「うーん。どうしようかな」
霊夢の意図は伝わったが、小鈴は神社の中でじっとしているつもりはなかった。
博麗神社に来たことは何度かあれど、納得するまで探索したことはない。となれば、またとない機会を見逃す理由もなかった。
「やっぱり神社の裏側かなあ」
神社の正面にある階段は、歩いて神社にやってくるときに使うもので、つまりは目新しさはない。歩みが自然と裏手へ向かうのも自然なことだった。
……今日はお寺の人達も来るんだっけ。マミゾウさんは来るだろうし、もしかしてあの人も来るかなあ、いや人じゃないけど。
寺にいるのにお酒を飲んでいいのかとは思う。とはいえ、小鈴からしたら寺に妖怪という組み合わせ自体が奇妙に見える。ならばお酒を飲むくらいはおかしくもなんともないのだろう。多分。
と、取り留めの無いことを考えながら歩みを進める。賽銭箱の置かれている本殿を無視して通り過ぎ、手を後ろに組んで周りを見渡す。
神社の裏側は荒れているかと思いきや、意外なことに整っている。奥へと続く道さえ見えて、まるで誰かが定期的にその道を使っているかのようだった。
道に沿って歩いてみると、舗装されているわけではないのに、何故か草木が分かたれて道が続いていた。人為を感じるのに、それが自然の物であるとわかる。不自然な自然だった。
「ご近所に妖精でも住んでるのかな。でも霊夢さんなら退治しちゃいそうな気も……」
ぬかるんだ道を歩いているだけで、色んなことが頭の中に浮かんで来る。
既に太陽はほとんどの姿を地上から隠していたが、小鈴はまだ引き返す気になれないでいた。もっと奥に進めば、きっと新しいものに出会えるような気がしていたのだ。
――その時だった。小鈴の後ろから、かさりと音が響いたのは。
「ひっ」
……気のせいじゃないよね。
風の音かと思うが、違う。先ほどから周囲は凪いでいて、頬撫でるものは何も無い。
ならば本当に妖精かと、背後に振り返った瞬間だった。
一瞬前まで向いていた背後から、肩を掴まれたのは。
「――――」
「あれ、その反応。私のことがわかるのね」
「え、あ、え」
「魔理沙と違って何の力もなさそうなのに。まだ子供だからなのかな?」
両肩に、手が置かれていた。小鈴の身体も冷えているにも関わらず、肩に置かれている手はそれよりも冷たかった。
そして対照的に、背後の何かが喋るたびに、首元に暖かい吐息がかかる。その熱は、小鈴にとって不気味なものにしか思えなかった。
誰かがいる、ということはわかる。その声が幼いものであることも。
しかしつい先ほどまで何も無かったところから、湧いて出るように現れたのだ。どう考えても、正常な存在でないことは明らかだ。
「……だ、誰?」
震えた心を押し込めて、小鈴が問う。ゆっくりと首を回して、背後を見ようと試みる。
果たして、その相手はこう言ったのだった。
「私? 私はこいしよ。古明地こいし」
柔和な、笑いさえ含んだ声で、
「――名前を憶えてくれると、嬉しいわ」
そう、言った。
けれど小鈴は、その眼を見たときこう思ったのだ。
なんて、何も無い眼なのだろう、と。
笑っているはずなのに何も感じ取れなくて。
見ているだけで心が冷えるような、からっぽの眼。
その眼を見ていると――理由も無く怖いと、そう思ってしまう。
「あ……」
「あれれどうしたの? 気分でも悪いの?」
心配をしているような、それでいて何も感情が籠っていないような声が投げかけられる。
不思議な子だった。怖いと思いはする。でもそれは、過去に出会ってきた妖怪達に感じていた怖さとは別種のものだと、直感が告げていた。
ああでも、と小鈴は思う。
「――ねえこいし、貴方も今日の宴会にでるのよね?」
「宴会? そっか私、宴会に出るつもりだったのね」
「……? まあいっか、うんうん」
得心して、小鈴は満足げに頷いた。
別に、怖さが何処かへ行ってしまったわけではなかった。それどころか今も、得体のしれない恐ろしさが心を犯していた。
それでも――それでも、小鈴の心は弾んでいた。
……また妖怪の知り合いが増えちゃったわ!
「やっぱり奥まで来て良かったわー。こんな出会いがあるんだもの」
「私に出会えたことがそんなに嬉しいの?」
「それは勿論そうよ」
「ふーん」
こいしと名乗った少女は、何も考えていないような感想を漏らす。
けれど小鈴は気にすることもなくはしゃいで、軽く飛び跳ねてすらいた。
「やっぱり霊夢さんのところに来ると良いことがあるわねー」
「あー、こんなところでそんなことしてると――」
「えっ」
小鈴のブーツが泥に滑って、身体が大きく後ろに傾く。
そのことを小鈴が自覚したときにはもう遅かった。
小鈴は、狭くぬかるんだ地面ではしゃいだ結果として足を滑らせ、
「あ――」
がつん、と道端の樹に頭をぶつけた。
そうして小鈴は薄れゆく意識の向こうで、こいしが何かを叫んでいるのを聞いたのだった。
◆◆◆
「ふーん。それで気絶したってわけ?」
「仕方がないでしょ阿求。誰だって後ろから驚かされたらああなるって」
「えー私驚かしてないんだけどなー」
夜の時間だった。
いつの間にか気絶していた小鈴は、何故か阿求の膝の上で目を覚ましていた。
瞼を開けたときの阿求の顔は忘れられない。こちらを心配しているようにも見え、それでいて何故か嬉しそうにも見え、何と声をかけたものか悩んだものだ。
ともかく。それからすっかりと元気を取り戻した小鈴は、既に始まっていた宴会に遅れながらも参加していた。
今も陶器に入ったお酒を喉に流しながら、
「それよりも阿求、来るなら私にも教えてよね。あんたが来るなら私も一緒に来たのに」
「……まあそれは魅力的なお誘いだけどね。今日の宴会はあんたには刺激が強いと思ったのよ」
「うーん?」
言われて小鈴は周囲を見る。自分達のいるところから離れた場所に、何やら人妖が集まっているようだった。
隙間からちらりと見えるのは、
「あれ、いつかの面霊気じゃない」
「そう。だからいつもより活気付くから、あんたには教えないつもりだったの」
「えー。流石に過保護すぎない?」
「小鈴はまだまだ子供なんだからそれくらいが丁度よいのよ」
「またそういうことを言う」
この親友は、何故か自分のことを子供扱いする傾向にあった。確かに彼女の生きてきた年月に比べれば――実年齢ではなく体感年齢として――自分は子供かもしれない。とはいえ、面と向かってそう言われると、考えるものはある。
と、
「この人の言う通り、貴方は子供なんじゃないかなー。私のこともちゃんと見れるみたいだし」
先ほどの妖怪だった。大きな帽子に黄色いリボン。黄色と緑で彩られる洋風の装いは、人里の住民でないことを如実に表している。
もっともそれよりも、彼女が人外である明確な証拠があったのだが。
……さっきもふよふよしてたけど、この青というか、菫色のやつ、何?
「えーっと」
「あれくらいで気を失っちゃうなんて、よっぽど貧弱なのね。ぶつけたところは大丈夫?」
「わわ」
突然後頭部を撫でられた。目の前にいる妖怪の両手は、皿と箸を持っているにもかかわらずだ。
「……こいしさん。小鈴に悪戯するのは辞めてくださいね」
「えー私は心配してるだけだよ? 嫉妬は見苦しいよー?」
「なっ」
状況についていけていないが、どうやら阿求は現状を理解しているらしい。
何が何やら、と後頭部に手を伸ばすと、
「なにこれ。蔦? 紐?」
「ひゃんっ。急に触られると驚くってば」
「それは小鈴も同じですからね」
ぴしゃりと阿求が言うが、この妖怪は何も気にしていないようだった。
……んー?
手に触れたのは、得体のしれない弾力のある何かだった。どうやらこの何かは、この妖怪の一部らしい。
よく見れば彼女の周りに浮いているものは、殆どが線で構成されていた。身体の各所と、そして眼のように見える物体に繋がっている。
「ええと、こいしさんだっけ? 貴方何の妖怪なの? それにその線は何?」
「……嬉しい。名前、憶えてくれたんだ。あ、私のことは呼び捨てでいいよ」
「ちょっとこいしさん。ちょっと」
「私は悟りなの。でもまあ、心は読めないんだけどね」
さとり。悟りだろうか。確か阿求から教えてもらった気がする。幻想郷の地の底には、人も妖怪も関係なく心を読む、恐ろしい妖怪がいるのだと。
しかし彼女は悟りであるにもかかわらず、心が読めないという。ならば他にも悟りがいるということだろうか。
「心、読まないんだ」
「読まないんじゃなくて読めないの。昔は心を読んでも何も面白くなかったから、その時に閉じちゃってねー」
「ふうん」
ずっと読めてしまうのは困るけれど、少しだけ読めるのなら面白そうなものだけど。小鈴は、そう思った。
とはいえ、
「まあ貴方のことはよくわからないけど――もう頭は痛まないし大丈夫よ」
「そうそう。小鈴はもう大丈夫ですから、こいしさんはこころさんの所にでも行ってきたらどうですか?」
「ダメダメ。私のせいで小鈴は怪我しちゃったんだもん。ちゃんと面倒見るよ」
などと言って、こいしはこちらの右腕を掴んでくる。皿と箸を何処へやったのか、ぎゅうと腕を抱きしめられた。
出会った時の手の冷たさはどこへやら。その身体は暖かく――そして、その眼はしっかりと光を宿していた。
「ええとこいし。心配してくれるのは嬉しいけど、私はもう大丈夫だから」
笑って言うが、反応が無い。人の話を聞いているのかいないのか、そこには変わらないこいしの笑顔だけがあった。
……不思議な子。
今まで出会ってきた妖怪といえば、マミゾウや文のような何か裏のある存在が大半であった。例えそうでは無くても、何かその妖怪独自の確固たる考えが垣間見えたものだ。
しかしこの妖怪は、ただの子供にしか見えなかった。自分よりも遥かに年上だろうに、まるで寺子屋の子供達のような純粋さが感じ取れる。
それが本当にただの純真さなのか。
それとも何か別の理由があるのか。
小鈴には、判断をつけることができなかった。
「ちょっと小鈴、何ぼけっとしてるのよ。こいしさんもほら、もう手を放して」
「小鈴も嫌がってないんだからいいでしょ?」
「駄目なんです。それにさっきから距離が近すぎます」
「えー」
何やら左右が騒がしいが、小鈴の耳には入ってこない。何故か阿求も左腕を掴んできたので、つまりこれは流れに身を任せるしかあるまい。
ただ、小鈴は考えていた。
神社の裏手であったときの、あの冷たくがらんどうな眼と。
今隣で抱き着いてきている、暖かな光のある眼と。
あの差は一体、何なのだろうと。
こんなにも好意的に接してくれているにもかかわらず、どうしても居心地の悪い怖気を感じてしまう。
むずむずと身体がうずくのを自覚した。不快ではないのに、どうしての理由がわからず心の中がもやもやとしていて晴れてくれない。
まあいいか、と流しはするのだけど。
結局のところ、宴会が終わってもその感情はそのままなのだった。
――と、宴会であったのはおおよそそのようなことだった。
その後こいしに連れられ面霊気と話をしたり、面霊気の機嫌が露骨に悪くなったり、阿求の機嫌が更に悪くなったりもしたが、それはそれとして特に異常はなかった。
判然としないものを心に残しながらも、宴会は無事終わりを迎えて。
小鈴も家に戻って、また翌日から日常に戻るはずだった。
実際それは、午後の時間になるまでは正しかった。
珍しく客足も少なく、このまま暇な時間を過ごすのだろうと、そう小鈴が考えてい矢先。
鈴奈庵に、地霊殿の主がやってくるまでは。
◇◇◇
ひとまず、というように小鈴は紅茶を口に含んだ。自己主張をしない香りが鼻を抜け、胸の鼓動を抑えてくれる。続いてマフィンを一口齧ってみれば、柑橘系の匂いと粉を焼いた香ばしさが口内に広がっていく。
……美味しい。
「有難う御座います。人間に食べてもらうのは初めてですけど、お口に合ってよかった」
「さとりさんが作ったんですか、これ」
……妖怪が作ったお菓子って――。
「――あ。うわ、その、すみません。せっかく用意してもらったのに」
「構わないわ。妖怪が相手なら、皆がそう思うもの。美味しいと、心から思ってくれただけで十分よ」
「そう、ですか」
反射的に心が不安を覚えてしまい、好意を無碍にしてしまった。
人里のルールを堂々と破っている相手に、失礼も何も無いのではとも思う。けれど、小鈴にはそう割り切ることはできなかった。
……うーん。何というか。
不快ではない。しかしやりにくい。それが正直なところだ。
本当に、何故こんなことになってしまったのだろう。
「……そろそろ教えてもらえませんか。私に、どんな用事が?」
「ごめんなさい。最初は店の中を覗くだけにしようと思っていたのですが」
「ですが?」
「貴方の姿を見たら、思わず魔が差して。まあここまで来たらいいかと」
手土産を持ってきておいて、思わずも魔が差したも無いだろう。
小鈴は心の中で半目になる。しかしさとりは、それを視たところで何も後ろめたさを感じていないようだった。
「……はあ。まあ、さとりさんがうちに入ってきた経緯はわかりました。でも――」
「どうしてやって来たかの理由はわからないと。ふふ、ミステリのようですね」
穏やかに笑うさとりからは、本心を窺うことはできない。
元々心の中を読まれているのだ。腹の読み合いも合ったものではない。小鈴は後手に回るしかなかった。
一つ小鈴から言えるのは、
「もしかして、こいしの……こいしさんのことですか?」
「ふうん。こいしが呼び捨てで良いと言ったのね。なら、私に気遣う必要はないわ」
答えの内容は問いと異なるものであったが、その返しは答えと同義と言えた。やはり関係しているのだ。この状況とあのこいしと名乗った妖怪は。
「まあ、もういいでしょう。小鈴さんが怯えるのが楽しくて黙ってましたが――」
「怯えるのが楽しくて」
「貴方の言う通りです。昨日の夜、宴会帰りの妹から話を聞きました。今日何があったのか――つまり、小鈴さんのことを」
聞捨てならない言葉が聴こえたような気もするが、気にしている場合ではない。優しく見えても妖怪は妖怪というだけの話だろう。
それよりも、この妖怪はこう言ったのだ。妹から話を聞いたと。
「こいしの、お姉さんなんですよね」
「ええ。恥ずかしながら、こいしのことに関しては少し過保護なんです」
そういうことを自分で言うものだろうか。しかし小鈴には、さとりが何も恥じてはいないように思えた。
……余程こいしのことが大切なのね。ということはまさか。
「もしかして、こいしに近寄って来る悪い虫を潰しているとか?」
「…………ははは、まさか」
「そ、そうですよね。まさかそんなわけありませんよね?」
「ふふふ。想像力が豊かなんですね。小説家にでもなったらどうでしょうか」
「よかったー。私殺されちゃうのかと思いましたよー」
「――ところで、そろそろ紅茶に仕込んだ毒が利いてくることだと思うけど」
――――!
「ひっ」
「嘘よ。驚きました?」
「し、心臓に悪いですって!」
どうやらさとりは相当に意地悪な妖怪のようだ。妹への愛情は純粋なもののようであるが、それ以外はどこまで信じていいものか。
「くすくす。本当に面白いのね、小鈴さんは」
「はは、どうも」
「こいしも言っていたわ。ただの力のない死相が見える弱々しい貧相極まる人間の癖に、私のことが見えるんだーって」
「なんか滅茶苦茶言われてないですか私?」
項垂れながら言うが、さとりは微笑んで誤魔化すだけだ。
……色々と狡い妖怪ね。
だが自然と、小鈴は心がほぐれていくのが自覚していた。危険で、警戒はしなければいけないのは確かだ。しかしこちらを害そうというならば、自分に抵抗するすべは無い。ならば、緊張し過ぎても無駄と思えた。
そんな自分の心を読んだからかどうなのか。さとりは口を弓にして微笑むと、ゆっくりと唇を開いた。
「では小鈴さん、本題をお話ししましょうか」
目を細めて、柔らかく微笑んで。真っ直ぐにこちらの眼を見ながら、彼女はこう言った。
「一つ、お願いがあるんです。どうかこいしと、友達になってやってはくれませんか?」
◆◆◆
さとりは、小鈴が困惑を得るのを視認した。
言葉にならない惑いが心の中を渦巻いて、少しずつ言葉を形作ろうとしている。
さとりの眼で視た心からは自動的に声が聞こえる。それは意味のある言葉であることが大半だ。
だが、本人の中でも言語化できていない心の声は、まとまりのないイメージや色として眼に映ることもある。
今がそうだ。小鈴の心の中に文にできる言葉はなく、ただぐるぐると青い靄のようなものが漂っているに過ぎない。
……あんなこと言われても、困るわよね。
上手くいかないものねと、内心溜息を付く。
「友達になってって……どういう意味ですか?」
「言葉通りよ。あの子と友達になって欲しいの」
再度言葉を伝えても、小鈴の惑いは晴れないようだった。けれどさとりは見逃していなかった。小鈴の心に、暖かな光が生じるのを。
「別に深い意味は無いの。ただ、貴方は本当に普通の人間だから」
「ちょっとは普通の人とは違うかなーと思うんですけど」
「年頃の女の子は皆そう言うのよ」
「う」
ぴしゃりと返すと直ぐに言葉に詰まるのがまた愛らしい。小動物を苛めているようでいけない、動物は可愛がるものなのだから。
しかし小鈴の言うことにも一理はある。何せ、この人間は妖怪と仲良くなろうという人間なのだ。
以前から人間の里に貸本屋があるというのは知っていた。地上にこいしを探しに行く際、自然と入って来る数多ある情報の中の一つだった。
最初に聞いた時は、単に蔵書への興味が湧いただけだった。しかし関心を持って人妖の心の中を覗いてみれば、その貸本屋の看板娘はなにやら変わった子だという。
曰く、妖怪と友達になりたがっていると。
おかしな話では無かった。古来より妖怪と一生を共にする人間の例は枚挙に暇がないし、巫女や魔法使いもその類だろう。
しかし昨日妹の話を聞いて、そして今本人を視て、一つわかったことがある。この人間は、
……妖怪への恐れを、忘れていないのね。
妖怪と仲良くなりたいのに、妖怪のことが恐ろしい。
妖怪のことが恐ろしいのに、妖怪と距離を縮めたいと思っている。
なんて、善い人間なのだろう。
忘れられたくない妖怪にとっては、理想ともいえる人間だ。
ああ、でも。
……私のことは、嫌いになるでしょうね。
それは妖怪でも人間でも変わらない。そこに例外は有れど、その中に小鈴が入るとは思えない。所詮は出会ったばかりの相手なのだから。
小鈴の心は未だに渦巻いている。その心が眼に視える形で落ち着けば、きっと自分への嫌悪が定着するだろう。
でもそれでいいとさとりは思う。例え誰かが自分のことを嫌っても、その誰かの善性が損なわれることは無いのだから。そして相手が自分のことを嫌おうが、
「私は、小鈴さんのことを気にいっていますよ」
「え?」
「だから貴方にはこいしと友達になってもらいたいんです。勿論、小鈴さんが良ければですが」
こんなことをしていると神社の巫女に知れたら、地霊殿まで追いかけてきて針をぶつけてくるに違いない。
それでも、さとりは今ここにいる意味はあると感じる。この恐れと友愛を共存させている人間に、私の一番のことも好きになって欲しい、と。
そして、
……いつかこいしの眼が開いたとき、こいしが嫌われない場になっていればいいわ。
あの魔法使いも、神社によく来るらしい面霊気も、こいしのことを嫌ってはないはずだ。少しばかり好感を持ってくれているはずだと、そう思いもする。
そのような、ちょっとの好意を持つ存在がこいしの周りに増えるならば――。
「……うーん、さとりさんの言っていることは良くわからないですけど――」
いつの間にか落としていた顔を上げ、さとりは小鈴のことを視た。
判然としない、渦巻きのような心が形を作って、別の形を取ろうとする。だがそれは、
……え?
さとりは色と形を視た。それは青ではなく、靄でもなかった。
それは明るく、蕩ける陽のような、飴色の光で、
「勿論、友達になれるなら大歓迎ですよ!」
曇り一つない、快晴の心で小鈴は言った。
それは裏表のない心からの声で、
「――やったわ、また二人も友達が増えちゃった!」
◆◆◆
小鈴は、やはり何が何だかわかっていなかった。
こいしに出会ったのはつい昨日のことで、さとりに出会ってからは数刻すら経っていない。
でも、それでも、
……うん、うん!
「じゃあこれからよろしくお願いしますね! と言っても、何をしたらよいかわからないんですけど――」
「ちょっと待って、待ってください」
「えっ何か?」
「何かというか――」
さとりが、何かに困惑しているのは一目でわかった。
先ほどまでの毅然とした様子は何処へやら。眼が泳いで頬は熱を持ち、何か言葉にならないことを言い淀んでいる。
「どうしたんですかさとりさん。私、変なこと言いました?」
「ええ、言いました。言いましたとも」
何が変なことだったのだろう。友達になってくれと言われたから、友達が増えたことを喜んだだけなのに。
まさか社交辞令だったのだろうか。それとも、友達になって欲しいのは本心ながらも、それでも喜ぶ人間はおかしいということだろうか。
……お茶とかお菓子とか用意してくれてたし、ここまですんなり肯定するとは思ってなかったのかなー。
「そ、そうではなくてですね」
「はい?」
「その……私とは、友達にならなくていいんですよ?」
「へ?」
小鈴は言われたことの意味を反芻する。ゆっくりと考えて、咀嚼して、そうして出た言葉は、
「……さとりさん自身は、私のこと嫌いなんですか?」
「全然違います!」
「じゃあどうして?」
思わず首をかしげて問うてしまった。自分も友達になりたくて、相手も気に入ってくれるのならば、何も問題は無いはずなのに。
「それは問題は無いですけど!」
「えー。じゃあいいじゃないですかー」
「それは、まあ、そうですが。その」
「?」
「私のことを、嫌いには――そう、ならないのね」
自分がさとりのことを嫌いになると、そう思われていたらしい。
どうしてそう思ったのかはわからない。経験則なのか何なのか。
「でも、それなら大丈夫ですよ。ほら私、他にも妖怪の知り合い結構いますし」
「その妖怪達にも恐れられているのが私なのですが……それも気にしないのね」
確かに今でも、さとりのことは怖い。それは妖怪相手なら誰にでも感じていることだ。だけど、
「私は怖いのも――」
「怖いのも好きの内、と言うのね。困った人間ね」
「あ、悟りっぽい被せ方」
少しは落ち着きを取り戻したらしい。そこまでさとりが慌てるようなことを言った覚えは無いのだけど。
「あーそれと今朝、阿求の本を読んだんです」
「阿礼乙女の……ああ、今代の幻想郷縁起ね」
「よくご存じで」
悟りの姉妹のことを阿求から教えてもらった覚えがあったが、記憶を辿れば幻想郷縁起で得た知識だった。
そのことを今朝思い出した小鈴は、午前の時間をかけて悟りの情報を読み直していた。
初めて読んだときは半ば読み飛ばしていたものだが、
「さとりさんって、妹想いの方なんですね」
「……その結論はおかしいでしょう。他にも書いてあったでしょう、近寄ってはいけないと思うことが」
「ええ、まあ。人間有効度皆無だとか、誰からも群を抜いて嫌われているとか、こいしに至っては悟りとして目覚めても誰も得しないだとか」
「ならどうして?」
言われて、しかし小鈴は考えない。その結論は出ているからだ。
「さとりさんは妹想いの善い方で、こいしさんは友達を増やしたいと思っている良い子。――ええ、それが私にとっての真実なんです」
言った先、さとりは苦笑していた。
その笑いが意味するものはわからなかったが、小鈴には悪いものには思えなかった。
◆◆◆
さとりは思う。小鈴の一番の友達は、きっと苦労しているのでしょうね、と。
知り合って間もない自分から見ても、小鈴は危な過ぎる。小鈴に取って都合の良い部分にだけ目を向けて、そうでないところに目を瞑っているようにも見える。
「だけど、それでいいのかもしれませんね。まるで子供みたいな理屈ですけど」
「う、さとりさんも子供扱いするんですね」
何やらコンプレックスがあるらしい。奥まで心を覗いてみたいところだが、それはまた今度にすることにしよう。
これからお喋りする機会は幾らでもある。何せ、もう自分たちは友達なのだから。
「……私としては、小鈴さんが子供でいてくれると嬉しいんですけどね」
「どういうことですか?」
「こいしのことです。あの子、子供にしか見えないんですよ」
「あー、縁起にもそんなことが書いてあったような」
かつては自分ですら姿を捉えることはできなかった。最近は何の影響なのか、妹のことを認識できる人妖も増えたものだ。
「近頃は色んな相手と交友しているみたいだけど……いつ昔のこいしに戻ってしまうか、不安なのよ」
「うーん、でもそれは大丈夫だと思いますよ?」
「え?」
「だって――」
小鈴の心から映像が流れてくる。それは妹の屈託のない笑顔で、
「こいし、言ってましたよ。私の名前を憶えてくれると嬉しいな、って」
「それは――」
「きっと、皆と仲良くしたいって、そう思ってますよ絶対!」
声を大きくして小鈴が言う。
けれどさとりにはこいしの顔が視えていた。明るく光の灯った笑顔と反する、空虚で胡乱な眼が。小鈴はそのどちらもとも、昨日見ているようだった。
それでも、小鈴はこう思ってくれるのだ。あの笑顔こそが、こいしの本当の――こいしが望んだ姿だと。
「……小鈴さん。貴方、よく今まで生きてましたね」
「と、唐突に酷い言葉が飛んできたわ……」
「思い込みが激しいとか、行動力が無駄にあるとか、そんな理由で命を落としかけたことは?」
「ええっとお……」
どうやらあるようだ。天狗や何やらの姿が心にちらつくが、本人の名誉のために詳しく読まないであげるのが正解だろう。
さとりは苦笑を濃くすると、ゆっくりと席を立つ。
「あ、あれ。さとりさんもう行っちゃうんですか?」
「ええ。営業中なのでしょう? いつまでもこうしているのも悪いですし」
「今日は暇だから、別に構わないですけど」
本心で言っているのはわかった。とはいえ、その判断が正しいのかはわからない。一般人と出くわす前に退散するのが無難だと思えた。
「またお会いしましょう。私が宴会に混ざっては他の人が嫌がるでしょうから、改めて遊びに来ますよ」
「あーそれなら」
「いつか地霊殿にもお越しください。貴方の一番のお友達も一緒に」
小鈴が面食らったように目を丸くする。さとり妖怪として、去り際位は機先を制さなければ気が済まなかった。
もくろみ通り小鈴を驚かせたさとりは、踵を返して出口に向かう。そのまま暖簾をくぐろうとして、
「あ、さとりさん。最後に一つお願いがあるんですけど」
何を、と思った背中に声がかけられた。
心の眼でも読みにくい、背後からの言葉は、
「私のこと、呼び捨てにして頂けませんか? もっと友達みたいな感じで――ね?」
最後に、さとりのことを改めて驚かしたのだった。
◇◇◇
「――ということがあったのよ。いやーいい体験だったわー」
「ねえ小鈴。縁起を読み返したのよね? あの妖怪が危険で近づいてはいけないってのもちゃんと読んだのよね? ねえ?」
「えーだって大丈夫だと思ったしー」
「それじゃあ私が書いてる意味が無いでしょうが。この、この」
「あー」
ぽかりぽかりと阿求が頭を叩いてくる。
あの出来事から数日。貸本の回収に阿求の家へやってきた小鈴は、なんとなしにさとりの来訪について話していた。
伝えればこうなるとわかっていたが、さりとて言わない選択肢も思いつかなかった。
「痛い痛いってば。これじゃああんたの方が危険度極高じゃないの」
「うるさい、私の気も知らないで」
「心配してくれるんだ?」
「当たり前でしょ」
ようやく溜飲が下がったのか、阿求が腕の動きを止める。
そのじとっとした視線から考えて、とても納得しているようには思えなかったが。
「もう、小鈴は、子供なんだから、もう」
「うう……さとりにも言われたけど、そんなに子供かなあ私」
今回の出来事は小鈴に取って快いものであった。とはいえ、皆から子供だ子供だと言われたことに対しては考えるものがある。
「想定外の事態があると感情が乱れるってのは子供の証拠よ。もっと落ち着きなさい。それに何? 今日は香水なんて付けちゃってそんなんで大人になれるとでも――」
言われたい放題だが全て心当たりがあるのがどうしようもない。
「はいはいわかったわかった、子供の私は帰りますよ。あーあー今から地霊殿に行って慰めて貰おうかなー」
「なっ」
露骨に阿求の表情が変わる。小鈴にして、見たことのない表情だった。
……なんとまあ凄い表情しちゃって。
「冗談よ。まあ今度地霊殿に来てくださいって誘われてるのは事実だけど」
「……まさか、行く気じゃないでしょうね」
何をしてまさかと言っているのだろう。そんなものは当然、
「行くに決まってるじゃない。阿求も一緒に行かない?」
「――もう小鈴なんて知らないわ! 早く帰って!」
「あー」
どうやら怒らせてしまったらしい。こういう時はさっさと退散するに限る。
「じゃあ帰るわ。さとりから正式なお誘いが来たら阿求も呼ぶからねー」
「呼ばなくていいわ!」
そっぽを向いて拗ねてしまったので、今日はもう何を言っても駄目だろう。
今度手土産でも持って来るかなーと思いながら、小鈴はそそくさと部屋を出たのだった。
◆◆◆
小鈴が去った部屋の中、阿求は息を整える。
手元の本を投げつけなかったのは奇跡と言えた。如何に感情が昂ったとて、それだけはしてはいけないだろう。
しかし感情が治まらないのもまた事実だった。微かに残った香水の香りが、阿求の心をまた逆撫でる。
自分はこんなにも怒りっぽかったかと自答し、そしてすぐに答えは出た。こんな気持ちになっているのは、小鈴のせいなんだからね、と。
ああもう、
「感情を抑え切れないのが子供というなら……小鈴をとやかく言えないわね、私」
本居小鈴はそれを見て、こう思った。まるで薔薇みたいね、と。
薔薇は嫌いではない。人里に住んでいる身としては馴染みは薄く、しかし本の中ではよく見かける植物だ。絵本の挿絵で見るたびに、美しいと思いもする。
知識としては知っているのに、綺麗だと感じるのに、実在を確かめたことはない。小鈴にとってそれは、まるで夢のような――幻のような花と言えた。
丁度、昨日出会ったあの子のように。
「ふふ。そんなに考え込まなくてもいいのよ。さあ、紅茶が冷めてしまうわ」
はた、と小鈴は顔を上げる。紅茶から立ち上る湯気の向こうに見えるのは、やはり赤色を身にまとった姿だった。
薄紫の短髪と、得体のしれない赤いコードと三つの瞳。青い服を着ているにもかかわらず、どうしてか小鈴には赤い人だなとしか思えなかった。
否。目の前に座る相手は、人ではないのだが。
「ええとその、あの」
「どうぞ遠慮しないで、紅茶もお菓子もご自由に」
鼻腔には紅茶の澄んだ匂いと、マフィンの香ばしさが届いている。微かに花の香りがするのは、彼女が持ってきた薔薇の香りだろうか。さっき受け取った時には、香りは目立たなかったのだけど。
もしかすると、この少女の香水かもしれなかった。
「ええ、自家製なの。よければ分けましょうか?」
――まただった。先ほどからこちらの心を見透かすかのように言葉を投げかけられる。
違う。そうじゃない。見透かす、という領域ではない。
小鈴にはわかっていた。この少女が一体誰で、どんな能力を持っているのかも。
わからないのは、ただ一つだけだった。
「あの。悟り、さん?」
「私の名前は古明地さとり。呼び方に困っているなら、そのままさとりで構わないわ」
「……じゃあ、さとりさん。その」
微笑みながらこちらを見つめて、ただただ好意的な態度を見せる――妖怪。
その妖怪が何を考えているのか。小鈴には、どうしてもわからなかった。
「どうして私、お茶に誘われてるんでしょう?」
小鈴は知っていた。ここは人里。そして我が家たる鈴奈庵。そんなところに地底の妖怪がいてはならないということを。
わからない。どうして自分が今、こんなことになっているのか。
全ては覚えている。この妖怪がふらりと鈴奈庵にやってきたことも。お菓子とお花と紅茶の葉っぱを持参して、話があると切り出したのも。
それでも、何故という疑問は解消されなかった。
もし理由を紐解けるとすれば――その手掛かりはきっと、昨日の宴会が原因なのだろう。
小鈴は、震える心を自覚しながらそう考える。
きっと、この心も視られているのだなと、そうも思いながら。
◇◇◇
「あら、今日は小鈴ちゃんも呼んだのね」
「ああ、この間から来たがってたからな。幹事の私が連れてきたってわけだ」
「霊夢さんどうも」
小鈴と魔理沙が神社に降り立った時、太陽は既にその身を隠そうとしていた。
橙の光があたりを照らして、これから夜が降りてくることをほのめかす。夜の帳が降りれば、その時間は妖怪のものだ。こと博麗神社においては、妖怪と人間が混じった宴会が始まる合図とも言えた。
小鈴は、自分の身体が少しばかり冷えていることを自覚した。魔理沙の箒に乗りながらの空中散歩は快いものであったが、秋の真っただ中で行うには少々無謀であったかもしれない。
……まあ、景色はすっごくよかったけどねー。
身体の冷えと対照的に、小鈴の心は昂っていた。秋色に染まった幻想郷を俯瞰して、綺麗なものを見て。そしてこれから宴会が始まると言うのだから、気持ちが前を向かなければ嘘というものだ。
なにより、小鈴はこの黄昏の時間が大好きだった。また新しい出会いがあるのではないかと、心が勝手に期待をしてしまう。
勿論それは、根拠など何もない勝手な期待感でしかない。けれど小鈴は、そんなふうに心が動く自分のことを、決して嫌いではなかった。
「さて小鈴ちゃん、来てもらって悪いけど少し時間を潰してきてくれないかしら」
「え?」
「まだ料理ができてないのよ。小鈴ちゃんに手伝ってもらうのも悪いし、待っててもらえる?」
異論はなかった。手伝いたい気持ちもあるが、台所の主がそう言うからにはでしゃばるのは間違いだろう。
しかしだからといって、何をするかは思いつかない。鳥居の前でぼうっとして、景色を眺めるだけでも気持ちが良いだろうが、いささかばかり勿体ないように感じられる。
……うーん。誰かお話しできる人いないかなあ。
「ふむ。小鈴が良ければ私と散歩するか? 今度はもう少しスピードを出して」
「魔理沙は私の手伝いをしなさい。あんたが持ってきた茸の扱いに困ってたのよ」
「おいおい、それは前にも説明しただろ。仕方ないなあ……」
と言って、二人は勝手口に向かっていく。小鈴が呆気に取られていると、霊夢が指で玄関を指し示した。どうやら、中に入ってのんびりしててくれと伝えたいらしい。
「うーん。どうしようかな」
霊夢の意図は伝わったが、小鈴は神社の中でじっとしているつもりはなかった。
博麗神社に来たことは何度かあれど、納得するまで探索したことはない。となれば、またとない機会を見逃す理由もなかった。
「やっぱり神社の裏側かなあ」
神社の正面にある階段は、歩いて神社にやってくるときに使うもので、つまりは目新しさはない。歩みが自然と裏手へ向かうのも自然なことだった。
……今日はお寺の人達も来るんだっけ。マミゾウさんは来るだろうし、もしかしてあの人も来るかなあ、いや人じゃないけど。
寺にいるのにお酒を飲んでいいのかとは思う。とはいえ、小鈴からしたら寺に妖怪という組み合わせ自体が奇妙に見える。ならばお酒を飲むくらいはおかしくもなんともないのだろう。多分。
と、取り留めの無いことを考えながら歩みを進める。賽銭箱の置かれている本殿を無視して通り過ぎ、手を後ろに組んで周りを見渡す。
神社の裏側は荒れているかと思いきや、意外なことに整っている。奥へと続く道さえ見えて、まるで誰かが定期的にその道を使っているかのようだった。
道に沿って歩いてみると、舗装されているわけではないのに、何故か草木が分かたれて道が続いていた。人為を感じるのに、それが自然の物であるとわかる。不自然な自然だった。
「ご近所に妖精でも住んでるのかな。でも霊夢さんなら退治しちゃいそうな気も……」
ぬかるんだ道を歩いているだけで、色んなことが頭の中に浮かんで来る。
既に太陽はほとんどの姿を地上から隠していたが、小鈴はまだ引き返す気になれないでいた。もっと奥に進めば、きっと新しいものに出会えるような気がしていたのだ。
――その時だった。小鈴の後ろから、かさりと音が響いたのは。
「ひっ」
……気のせいじゃないよね。
風の音かと思うが、違う。先ほどから周囲は凪いでいて、頬撫でるものは何も無い。
ならば本当に妖精かと、背後に振り返った瞬間だった。
一瞬前まで向いていた背後から、肩を掴まれたのは。
「――――」
「あれ、その反応。私のことがわかるのね」
「え、あ、え」
「魔理沙と違って何の力もなさそうなのに。まだ子供だからなのかな?」
両肩に、手が置かれていた。小鈴の身体も冷えているにも関わらず、肩に置かれている手はそれよりも冷たかった。
そして対照的に、背後の何かが喋るたびに、首元に暖かい吐息がかかる。その熱は、小鈴にとって不気味なものにしか思えなかった。
誰かがいる、ということはわかる。その声が幼いものであることも。
しかしつい先ほどまで何も無かったところから、湧いて出るように現れたのだ。どう考えても、正常な存在でないことは明らかだ。
「……だ、誰?」
震えた心を押し込めて、小鈴が問う。ゆっくりと首を回して、背後を見ようと試みる。
果たして、その相手はこう言ったのだった。
「私? 私はこいしよ。古明地こいし」
柔和な、笑いさえ含んだ声で、
「――名前を憶えてくれると、嬉しいわ」
そう、言った。
けれど小鈴は、その眼を見たときこう思ったのだ。
なんて、何も無い眼なのだろう、と。
笑っているはずなのに何も感じ取れなくて。
見ているだけで心が冷えるような、からっぽの眼。
その眼を見ていると――理由も無く怖いと、そう思ってしまう。
「あ……」
「あれれどうしたの? 気分でも悪いの?」
心配をしているような、それでいて何も感情が籠っていないような声が投げかけられる。
不思議な子だった。怖いと思いはする。でもそれは、過去に出会ってきた妖怪達に感じていた怖さとは別種のものだと、直感が告げていた。
ああでも、と小鈴は思う。
「――ねえこいし、貴方も今日の宴会にでるのよね?」
「宴会? そっか私、宴会に出るつもりだったのね」
「……? まあいっか、うんうん」
得心して、小鈴は満足げに頷いた。
別に、怖さが何処かへ行ってしまったわけではなかった。それどころか今も、得体のしれない恐ろしさが心を犯していた。
それでも――それでも、小鈴の心は弾んでいた。
……また妖怪の知り合いが増えちゃったわ!
「やっぱり奥まで来て良かったわー。こんな出会いがあるんだもの」
「私に出会えたことがそんなに嬉しいの?」
「それは勿論そうよ」
「ふーん」
こいしと名乗った少女は、何も考えていないような感想を漏らす。
けれど小鈴は気にすることもなくはしゃいで、軽く飛び跳ねてすらいた。
「やっぱり霊夢さんのところに来ると良いことがあるわねー」
「あー、こんなところでそんなことしてると――」
「えっ」
小鈴のブーツが泥に滑って、身体が大きく後ろに傾く。
そのことを小鈴が自覚したときにはもう遅かった。
小鈴は、狭くぬかるんだ地面ではしゃいだ結果として足を滑らせ、
「あ――」
がつん、と道端の樹に頭をぶつけた。
そうして小鈴は薄れゆく意識の向こうで、こいしが何かを叫んでいるのを聞いたのだった。
◆◆◆
「ふーん。それで気絶したってわけ?」
「仕方がないでしょ阿求。誰だって後ろから驚かされたらああなるって」
「えー私驚かしてないんだけどなー」
夜の時間だった。
いつの間にか気絶していた小鈴は、何故か阿求の膝の上で目を覚ましていた。
瞼を開けたときの阿求の顔は忘れられない。こちらを心配しているようにも見え、それでいて何故か嬉しそうにも見え、何と声をかけたものか悩んだものだ。
ともかく。それからすっかりと元気を取り戻した小鈴は、既に始まっていた宴会に遅れながらも参加していた。
今も陶器に入ったお酒を喉に流しながら、
「それよりも阿求、来るなら私にも教えてよね。あんたが来るなら私も一緒に来たのに」
「……まあそれは魅力的なお誘いだけどね。今日の宴会はあんたには刺激が強いと思ったのよ」
「うーん?」
言われて小鈴は周囲を見る。自分達のいるところから離れた場所に、何やら人妖が集まっているようだった。
隙間からちらりと見えるのは、
「あれ、いつかの面霊気じゃない」
「そう。だからいつもより活気付くから、あんたには教えないつもりだったの」
「えー。流石に過保護すぎない?」
「小鈴はまだまだ子供なんだからそれくらいが丁度よいのよ」
「またそういうことを言う」
この親友は、何故か自分のことを子供扱いする傾向にあった。確かに彼女の生きてきた年月に比べれば――実年齢ではなく体感年齢として――自分は子供かもしれない。とはいえ、面と向かってそう言われると、考えるものはある。
と、
「この人の言う通り、貴方は子供なんじゃないかなー。私のこともちゃんと見れるみたいだし」
先ほどの妖怪だった。大きな帽子に黄色いリボン。黄色と緑で彩られる洋風の装いは、人里の住民でないことを如実に表している。
もっともそれよりも、彼女が人外である明確な証拠があったのだが。
……さっきもふよふよしてたけど、この青というか、菫色のやつ、何?
「えーっと」
「あれくらいで気を失っちゃうなんて、よっぽど貧弱なのね。ぶつけたところは大丈夫?」
「わわ」
突然後頭部を撫でられた。目の前にいる妖怪の両手は、皿と箸を持っているにもかかわらずだ。
「……こいしさん。小鈴に悪戯するのは辞めてくださいね」
「えー私は心配してるだけだよ? 嫉妬は見苦しいよー?」
「なっ」
状況についていけていないが、どうやら阿求は現状を理解しているらしい。
何が何やら、と後頭部に手を伸ばすと、
「なにこれ。蔦? 紐?」
「ひゃんっ。急に触られると驚くってば」
「それは小鈴も同じですからね」
ぴしゃりと阿求が言うが、この妖怪は何も気にしていないようだった。
……んー?
手に触れたのは、得体のしれない弾力のある何かだった。どうやらこの何かは、この妖怪の一部らしい。
よく見れば彼女の周りに浮いているものは、殆どが線で構成されていた。身体の各所と、そして眼のように見える物体に繋がっている。
「ええと、こいしさんだっけ? 貴方何の妖怪なの? それにその線は何?」
「……嬉しい。名前、憶えてくれたんだ。あ、私のことは呼び捨てでいいよ」
「ちょっとこいしさん。ちょっと」
「私は悟りなの。でもまあ、心は読めないんだけどね」
さとり。悟りだろうか。確か阿求から教えてもらった気がする。幻想郷の地の底には、人も妖怪も関係なく心を読む、恐ろしい妖怪がいるのだと。
しかし彼女は悟りであるにもかかわらず、心が読めないという。ならば他にも悟りがいるということだろうか。
「心、読まないんだ」
「読まないんじゃなくて読めないの。昔は心を読んでも何も面白くなかったから、その時に閉じちゃってねー」
「ふうん」
ずっと読めてしまうのは困るけれど、少しだけ読めるのなら面白そうなものだけど。小鈴は、そう思った。
とはいえ、
「まあ貴方のことはよくわからないけど――もう頭は痛まないし大丈夫よ」
「そうそう。小鈴はもう大丈夫ですから、こいしさんはこころさんの所にでも行ってきたらどうですか?」
「ダメダメ。私のせいで小鈴は怪我しちゃったんだもん。ちゃんと面倒見るよ」
などと言って、こいしはこちらの右腕を掴んでくる。皿と箸を何処へやったのか、ぎゅうと腕を抱きしめられた。
出会った時の手の冷たさはどこへやら。その身体は暖かく――そして、その眼はしっかりと光を宿していた。
「ええとこいし。心配してくれるのは嬉しいけど、私はもう大丈夫だから」
笑って言うが、反応が無い。人の話を聞いているのかいないのか、そこには変わらないこいしの笑顔だけがあった。
……不思議な子。
今まで出会ってきた妖怪といえば、マミゾウや文のような何か裏のある存在が大半であった。例えそうでは無くても、何かその妖怪独自の確固たる考えが垣間見えたものだ。
しかしこの妖怪は、ただの子供にしか見えなかった。自分よりも遥かに年上だろうに、まるで寺子屋の子供達のような純粋さが感じ取れる。
それが本当にただの純真さなのか。
それとも何か別の理由があるのか。
小鈴には、判断をつけることができなかった。
「ちょっと小鈴、何ぼけっとしてるのよ。こいしさんもほら、もう手を放して」
「小鈴も嫌がってないんだからいいでしょ?」
「駄目なんです。それにさっきから距離が近すぎます」
「えー」
何やら左右が騒がしいが、小鈴の耳には入ってこない。何故か阿求も左腕を掴んできたので、つまりこれは流れに身を任せるしかあるまい。
ただ、小鈴は考えていた。
神社の裏手であったときの、あの冷たくがらんどうな眼と。
今隣で抱き着いてきている、暖かな光のある眼と。
あの差は一体、何なのだろうと。
こんなにも好意的に接してくれているにもかかわらず、どうしても居心地の悪い怖気を感じてしまう。
むずむずと身体がうずくのを自覚した。不快ではないのに、どうしての理由がわからず心の中がもやもやとしていて晴れてくれない。
まあいいか、と流しはするのだけど。
結局のところ、宴会が終わってもその感情はそのままなのだった。
――と、宴会であったのはおおよそそのようなことだった。
その後こいしに連れられ面霊気と話をしたり、面霊気の機嫌が露骨に悪くなったり、阿求の機嫌が更に悪くなったりもしたが、それはそれとして特に異常はなかった。
判然としないものを心に残しながらも、宴会は無事終わりを迎えて。
小鈴も家に戻って、また翌日から日常に戻るはずだった。
実際それは、午後の時間になるまでは正しかった。
珍しく客足も少なく、このまま暇な時間を過ごすのだろうと、そう小鈴が考えてい矢先。
鈴奈庵に、地霊殿の主がやってくるまでは。
◇◇◇
ひとまず、というように小鈴は紅茶を口に含んだ。自己主張をしない香りが鼻を抜け、胸の鼓動を抑えてくれる。続いてマフィンを一口齧ってみれば、柑橘系の匂いと粉を焼いた香ばしさが口内に広がっていく。
……美味しい。
「有難う御座います。人間に食べてもらうのは初めてですけど、お口に合ってよかった」
「さとりさんが作ったんですか、これ」
……妖怪が作ったお菓子って――。
「――あ。うわ、その、すみません。せっかく用意してもらったのに」
「構わないわ。妖怪が相手なら、皆がそう思うもの。美味しいと、心から思ってくれただけで十分よ」
「そう、ですか」
反射的に心が不安を覚えてしまい、好意を無碍にしてしまった。
人里のルールを堂々と破っている相手に、失礼も何も無いのではとも思う。けれど、小鈴にはそう割り切ることはできなかった。
……うーん。何というか。
不快ではない。しかしやりにくい。それが正直なところだ。
本当に、何故こんなことになってしまったのだろう。
「……そろそろ教えてもらえませんか。私に、どんな用事が?」
「ごめんなさい。最初は店の中を覗くだけにしようと思っていたのですが」
「ですが?」
「貴方の姿を見たら、思わず魔が差して。まあここまで来たらいいかと」
手土産を持ってきておいて、思わずも魔が差したも無いだろう。
小鈴は心の中で半目になる。しかしさとりは、それを視たところで何も後ろめたさを感じていないようだった。
「……はあ。まあ、さとりさんがうちに入ってきた経緯はわかりました。でも――」
「どうしてやって来たかの理由はわからないと。ふふ、ミステリのようですね」
穏やかに笑うさとりからは、本心を窺うことはできない。
元々心の中を読まれているのだ。腹の読み合いも合ったものではない。小鈴は後手に回るしかなかった。
一つ小鈴から言えるのは、
「もしかして、こいしの……こいしさんのことですか?」
「ふうん。こいしが呼び捨てで良いと言ったのね。なら、私に気遣う必要はないわ」
答えの内容は問いと異なるものであったが、その返しは答えと同義と言えた。やはり関係しているのだ。この状況とあのこいしと名乗った妖怪は。
「まあ、もういいでしょう。小鈴さんが怯えるのが楽しくて黙ってましたが――」
「怯えるのが楽しくて」
「貴方の言う通りです。昨日の夜、宴会帰りの妹から話を聞きました。今日何があったのか――つまり、小鈴さんのことを」
聞捨てならない言葉が聴こえたような気もするが、気にしている場合ではない。優しく見えても妖怪は妖怪というだけの話だろう。
それよりも、この妖怪はこう言ったのだ。妹から話を聞いたと。
「こいしの、お姉さんなんですよね」
「ええ。恥ずかしながら、こいしのことに関しては少し過保護なんです」
そういうことを自分で言うものだろうか。しかし小鈴には、さとりが何も恥じてはいないように思えた。
……余程こいしのことが大切なのね。ということはまさか。
「もしかして、こいしに近寄って来る悪い虫を潰しているとか?」
「…………ははは、まさか」
「そ、そうですよね。まさかそんなわけありませんよね?」
「ふふふ。想像力が豊かなんですね。小説家にでもなったらどうでしょうか」
「よかったー。私殺されちゃうのかと思いましたよー」
「――ところで、そろそろ紅茶に仕込んだ毒が利いてくることだと思うけど」
――――!
「ひっ」
「嘘よ。驚きました?」
「し、心臓に悪いですって!」
どうやらさとりは相当に意地悪な妖怪のようだ。妹への愛情は純粋なもののようであるが、それ以外はどこまで信じていいものか。
「くすくす。本当に面白いのね、小鈴さんは」
「はは、どうも」
「こいしも言っていたわ。ただの力のない死相が見える弱々しい貧相極まる人間の癖に、私のことが見えるんだーって」
「なんか滅茶苦茶言われてないですか私?」
項垂れながら言うが、さとりは微笑んで誤魔化すだけだ。
……色々と狡い妖怪ね。
だが自然と、小鈴は心がほぐれていくのが自覚していた。危険で、警戒はしなければいけないのは確かだ。しかしこちらを害そうというならば、自分に抵抗するすべは無い。ならば、緊張し過ぎても無駄と思えた。
そんな自分の心を読んだからかどうなのか。さとりは口を弓にして微笑むと、ゆっくりと唇を開いた。
「では小鈴さん、本題をお話ししましょうか」
目を細めて、柔らかく微笑んで。真っ直ぐにこちらの眼を見ながら、彼女はこう言った。
「一つ、お願いがあるんです。どうかこいしと、友達になってやってはくれませんか?」
◆◆◆
さとりは、小鈴が困惑を得るのを視認した。
言葉にならない惑いが心の中を渦巻いて、少しずつ言葉を形作ろうとしている。
さとりの眼で視た心からは自動的に声が聞こえる。それは意味のある言葉であることが大半だ。
だが、本人の中でも言語化できていない心の声は、まとまりのないイメージや色として眼に映ることもある。
今がそうだ。小鈴の心の中に文にできる言葉はなく、ただぐるぐると青い靄のようなものが漂っているに過ぎない。
……あんなこと言われても、困るわよね。
上手くいかないものねと、内心溜息を付く。
「友達になってって……どういう意味ですか?」
「言葉通りよ。あの子と友達になって欲しいの」
再度言葉を伝えても、小鈴の惑いは晴れないようだった。けれどさとりは見逃していなかった。小鈴の心に、暖かな光が生じるのを。
「別に深い意味は無いの。ただ、貴方は本当に普通の人間だから」
「ちょっとは普通の人とは違うかなーと思うんですけど」
「年頃の女の子は皆そう言うのよ」
「う」
ぴしゃりと返すと直ぐに言葉に詰まるのがまた愛らしい。小動物を苛めているようでいけない、動物は可愛がるものなのだから。
しかし小鈴の言うことにも一理はある。何せ、この人間は妖怪と仲良くなろうという人間なのだ。
以前から人間の里に貸本屋があるというのは知っていた。地上にこいしを探しに行く際、自然と入って来る数多ある情報の中の一つだった。
最初に聞いた時は、単に蔵書への興味が湧いただけだった。しかし関心を持って人妖の心の中を覗いてみれば、その貸本屋の看板娘はなにやら変わった子だという。
曰く、妖怪と友達になりたがっていると。
おかしな話では無かった。古来より妖怪と一生を共にする人間の例は枚挙に暇がないし、巫女や魔法使いもその類だろう。
しかし昨日妹の話を聞いて、そして今本人を視て、一つわかったことがある。この人間は、
……妖怪への恐れを、忘れていないのね。
妖怪と仲良くなりたいのに、妖怪のことが恐ろしい。
妖怪のことが恐ろしいのに、妖怪と距離を縮めたいと思っている。
なんて、善い人間なのだろう。
忘れられたくない妖怪にとっては、理想ともいえる人間だ。
ああ、でも。
……私のことは、嫌いになるでしょうね。
それは妖怪でも人間でも変わらない。そこに例外は有れど、その中に小鈴が入るとは思えない。所詮は出会ったばかりの相手なのだから。
小鈴の心は未だに渦巻いている。その心が眼に視える形で落ち着けば、きっと自分への嫌悪が定着するだろう。
でもそれでいいとさとりは思う。例え誰かが自分のことを嫌っても、その誰かの善性が損なわれることは無いのだから。そして相手が自分のことを嫌おうが、
「私は、小鈴さんのことを気にいっていますよ」
「え?」
「だから貴方にはこいしと友達になってもらいたいんです。勿論、小鈴さんが良ければですが」
こんなことをしていると神社の巫女に知れたら、地霊殿まで追いかけてきて針をぶつけてくるに違いない。
それでも、さとりは今ここにいる意味はあると感じる。この恐れと友愛を共存させている人間に、私の一番のことも好きになって欲しい、と。
そして、
……いつかこいしの眼が開いたとき、こいしが嫌われない場になっていればいいわ。
あの魔法使いも、神社によく来るらしい面霊気も、こいしのことを嫌ってはないはずだ。少しばかり好感を持ってくれているはずだと、そう思いもする。
そのような、ちょっとの好意を持つ存在がこいしの周りに増えるならば――。
「……うーん、さとりさんの言っていることは良くわからないですけど――」
いつの間にか落としていた顔を上げ、さとりは小鈴のことを視た。
判然としない、渦巻きのような心が形を作って、別の形を取ろうとする。だがそれは、
……え?
さとりは色と形を視た。それは青ではなく、靄でもなかった。
それは明るく、蕩ける陽のような、飴色の光で、
「勿論、友達になれるなら大歓迎ですよ!」
曇り一つない、快晴の心で小鈴は言った。
それは裏表のない心からの声で、
「――やったわ、また二人も友達が増えちゃった!」
◆◆◆
小鈴は、やはり何が何だかわかっていなかった。
こいしに出会ったのはつい昨日のことで、さとりに出会ってからは数刻すら経っていない。
でも、それでも、
……うん、うん!
「じゃあこれからよろしくお願いしますね! と言っても、何をしたらよいかわからないんですけど――」
「ちょっと待って、待ってください」
「えっ何か?」
「何かというか――」
さとりが、何かに困惑しているのは一目でわかった。
先ほどまでの毅然とした様子は何処へやら。眼が泳いで頬は熱を持ち、何か言葉にならないことを言い淀んでいる。
「どうしたんですかさとりさん。私、変なこと言いました?」
「ええ、言いました。言いましたとも」
何が変なことだったのだろう。友達になってくれと言われたから、友達が増えたことを喜んだだけなのに。
まさか社交辞令だったのだろうか。それとも、友達になって欲しいのは本心ながらも、それでも喜ぶ人間はおかしいということだろうか。
……お茶とかお菓子とか用意してくれてたし、ここまですんなり肯定するとは思ってなかったのかなー。
「そ、そうではなくてですね」
「はい?」
「その……私とは、友達にならなくていいんですよ?」
「へ?」
小鈴は言われたことの意味を反芻する。ゆっくりと考えて、咀嚼して、そうして出た言葉は、
「……さとりさん自身は、私のこと嫌いなんですか?」
「全然違います!」
「じゃあどうして?」
思わず首をかしげて問うてしまった。自分も友達になりたくて、相手も気に入ってくれるのならば、何も問題は無いはずなのに。
「それは問題は無いですけど!」
「えー。じゃあいいじゃないですかー」
「それは、まあ、そうですが。その」
「?」
「私のことを、嫌いには――そう、ならないのね」
自分がさとりのことを嫌いになると、そう思われていたらしい。
どうしてそう思ったのかはわからない。経験則なのか何なのか。
「でも、それなら大丈夫ですよ。ほら私、他にも妖怪の知り合い結構いますし」
「その妖怪達にも恐れられているのが私なのですが……それも気にしないのね」
確かに今でも、さとりのことは怖い。それは妖怪相手なら誰にでも感じていることだ。だけど、
「私は怖いのも――」
「怖いのも好きの内、と言うのね。困った人間ね」
「あ、悟りっぽい被せ方」
少しは落ち着きを取り戻したらしい。そこまでさとりが慌てるようなことを言った覚えは無いのだけど。
「あーそれと今朝、阿求の本を読んだんです」
「阿礼乙女の……ああ、今代の幻想郷縁起ね」
「よくご存じで」
悟りの姉妹のことを阿求から教えてもらった覚えがあったが、記憶を辿れば幻想郷縁起で得た知識だった。
そのことを今朝思い出した小鈴は、午前の時間をかけて悟りの情報を読み直していた。
初めて読んだときは半ば読み飛ばしていたものだが、
「さとりさんって、妹想いの方なんですね」
「……その結論はおかしいでしょう。他にも書いてあったでしょう、近寄ってはいけないと思うことが」
「ええ、まあ。人間有効度皆無だとか、誰からも群を抜いて嫌われているとか、こいしに至っては悟りとして目覚めても誰も得しないだとか」
「ならどうして?」
言われて、しかし小鈴は考えない。その結論は出ているからだ。
「さとりさんは妹想いの善い方で、こいしさんは友達を増やしたいと思っている良い子。――ええ、それが私にとっての真実なんです」
言った先、さとりは苦笑していた。
その笑いが意味するものはわからなかったが、小鈴には悪いものには思えなかった。
◆◆◆
さとりは思う。小鈴の一番の友達は、きっと苦労しているのでしょうね、と。
知り合って間もない自分から見ても、小鈴は危な過ぎる。小鈴に取って都合の良い部分にだけ目を向けて、そうでないところに目を瞑っているようにも見える。
「だけど、それでいいのかもしれませんね。まるで子供みたいな理屈ですけど」
「う、さとりさんも子供扱いするんですね」
何やらコンプレックスがあるらしい。奥まで心を覗いてみたいところだが、それはまた今度にすることにしよう。
これからお喋りする機会は幾らでもある。何せ、もう自分たちは友達なのだから。
「……私としては、小鈴さんが子供でいてくれると嬉しいんですけどね」
「どういうことですか?」
「こいしのことです。あの子、子供にしか見えないんですよ」
「あー、縁起にもそんなことが書いてあったような」
かつては自分ですら姿を捉えることはできなかった。最近は何の影響なのか、妹のことを認識できる人妖も増えたものだ。
「近頃は色んな相手と交友しているみたいだけど……いつ昔のこいしに戻ってしまうか、不安なのよ」
「うーん、でもそれは大丈夫だと思いますよ?」
「え?」
「だって――」
小鈴の心から映像が流れてくる。それは妹の屈託のない笑顔で、
「こいし、言ってましたよ。私の名前を憶えてくれると嬉しいな、って」
「それは――」
「きっと、皆と仲良くしたいって、そう思ってますよ絶対!」
声を大きくして小鈴が言う。
けれどさとりにはこいしの顔が視えていた。明るく光の灯った笑顔と反する、空虚で胡乱な眼が。小鈴はそのどちらもとも、昨日見ているようだった。
それでも、小鈴はこう思ってくれるのだ。あの笑顔こそが、こいしの本当の――こいしが望んだ姿だと。
「……小鈴さん。貴方、よく今まで生きてましたね」
「と、唐突に酷い言葉が飛んできたわ……」
「思い込みが激しいとか、行動力が無駄にあるとか、そんな理由で命を落としかけたことは?」
「ええっとお……」
どうやらあるようだ。天狗や何やらの姿が心にちらつくが、本人の名誉のために詳しく読まないであげるのが正解だろう。
さとりは苦笑を濃くすると、ゆっくりと席を立つ。
「あ、あれ。さとりさんもう行っちゃうんですか?」
「ええ。営業中なのでしょう? いつまでもこうしているのも悪いですし」
「今日は暇だから、別に構わないですけど」
本心で言っているのはわかった。とはいえ、その判断が正しいのかはわからない。一般人と出くわす前に退散するのが無難だと思えた。
「またお会いしましょう。私が宴会に混ざっては他の人が嫌がるでしょうから、改めて遊びに来ますよ」
「あーそれなら」
「いつか地霊殿にもお越しください。貴方の一番のお友達も一緒に」
小鈴が面食らったように目を丸くする。さとり妖怪として、去り際位は機先を制さなければ気が済まなかった。
もくろみ通り小鈴を驚かせたさとりは、踵を返して出口に向かう。そのまま暖簾をくぐろうとして、
「あ、さとりさん。最後に一つお願いがあるんですけど」
何を、と思った背中に声がかけられた。
心の眼でも読みにくい、背後からの言葉は、
「私のこと、呼び捨てにして頂けませんか? もっと友達みたいな感じで――ね?」
最後に、さとりのことを改めて驚かしたのだった。
◇◇◇
「――ということがあったのよ。いやーいい体験だったわー」
「ねえ小鈴。縁起を読み返したのよね? あの妖怪が危険で近づいてはいけないってのもちゃんと読んだのよね? ねえ?」
「えーだって大丈夫だと思ったしー」
「それじゃあ私が書いてる意味が無いでしょうが。この、この」
「あー」
ぽかりぽかりと阿求が頭を叩いてくる。
あの出来事から数日。貸本の回収に阿求の家へやってきた小鈴は、なんとなしにさとりの来訪について話していた。
伝えればこうなるとわかっていたが、さりとて言わない選択肢も思いつかなかった。
「痛い痛いってば。これじゃああんたの方が危険度極高じゃないの」
「うるさい、私の気も知らないで」
「心配してくれるんだ?」
「当たり前でしょ」
ようやく溜飲が下がったのか、阿求が腕の動きを止める。
そのじとっとした視線から考えて、とても納得しているようには思えなかったが。
「もう、小鈴は、子供なんだから、もう」
「うう……さとりにも言われたけど、そんなに子供かなあ私」
今回の出来事は小鈴に取って快いものであった。とはいえ、皆から子供だ子供だと言われたことに対しては考えるものがある。
「想定外の事態があると感情が乱れるってのは子供の証拠よ。もっと落ち着きなさい。それに何? 今日は香水なんて付けちゃってそんなんで大人になれるとでも――」
言われたい放題だが全て心当たりがあるのがどうしようもない。
「はいはいわかったわかった、子供の私は帰りますよ。あーあー今から地霊殿に行って慰めて貰おうかなー」
「なっ」
露骨に阿求の表情が変わる。小鈴にして、見たことのない表情だった。
……なんとまあ凄い表情しちゃって。
「冗談よ。まあ今度地霊殿に来てくださいって誘われてるのは事実だけど」
「……まさか、行く気じゃないでしょうね」
何をしてまさかと言っているのだろう。そんなものは当然、
「行くに決まってるじゃない。阿求も一緒に行かない?」
「――もう小鈴なんて知らないわ! 早く帰って!」
「あー」
どうやら怒らせてしまったらしい。こういう時はさっさと退散するに限る。
「じゃあ帰るわ。さとりから正式なお誘いが来たら阿求も呼ぶからねー」
「呼ばなくていいわ!」
そっぽを向いて拗ねてしまったので、今日はもう何を言っても駄目だろう。
今度手土産でも持って来るかなーと思いながら、小鈴はそそくさと部屋を出たのだった。
◆◆◆
小鈴が去った部屋の中、阿求は息を整える。
手元の本を投げつけなかったのは奇跡と言えた。如何に感情が昂ったとて、それだけはしてはいけないだろう。
しかし感情が治まらないのもまた事実だった。微かに残った香水の香りが、阿求の心をまた逆撫でる。
自分はこんなにも怒りっぽかったかと自答し、そしてすぐに答えは出た。こんな気持ちになっているのは、小鈴のせいなんだからね、と。
ああもう、
「感情を抑え切れないのが子供というなら……小鈴をとやかく言えないわね、私」
裏表ある裏表ないこいしちゃん可愛い(かわいい)
小鈴ちゃんは本当にいままでよく生きてこれたよね……(分かりみの頷き)
みんなたいへん可愛らしくて良かったです。好きです。
大人になってもずっとその純粋な気持ちを忘れないで欲しいですね
小鈴の危なっかしさに阿求やさとりですらも振り回されるというのが面白かったです。
小鈴のコミュ力を見習いたいと思いました。
こいしちゃんの存在に戸惑い半分、楽しさ半分である意味平常運転の小鈴ちゃん、そんな小鈴ちゃんに感化されるこいしちゃん、こいしちゃんを心配するも小鈴ちゃんの不意打ちパンチにびっくりなおねえちゃん、そんな小鈴を誰よりも心配する阿求、みんなそれぞれ持っているものが違ってみんなの良さが輝いていました。
優しい世界をありがとうございます。楽しませて頂きました。
しかしさとりと相対しても相変わらずなのは良い事か、心を読まれている事を知ってこそ謝罪も出来る礼儀正しさもさる事ながら、結局都合の良い真実を選び取るその様は成長が伺えなくて見てて楽しくなっちゃいました。
さとりの若干の性格の悪さも妖怪然としていてほんわかとしてしまいます、自分とは友達にならなくても良い、ってのはある意味その裏返しと自認なのかなと思うとやっぱり小鈴ちゃんの後先見ず何も考えてない感じが跳ねる様に表現されていました。
そしてやっぱりこの作品はあきゅすずなのだと気付かされるラストですよ。確かに神社裏で阿求とこいしが仲良く啀み合っている様もあったと思い返して二度おいしいこの。かわいい。
地底世界の住人と小鈴ちゃんの相性の良さ(?)が多分に表現されていた良い作品でした。ありがとうございました。