それは、秋くらいだったと記憶している。空気が澄み、月が最も明るく、月見酒を楽しむのに最も適した季節。
いつものように博麗神社で宴会が開催されて、誰もが皆、酒が回って最高潮の盛り上がりを見せていたころだった。笑い、叫び、語り、飲む。皆が銘々、宴会を楽しむ中で、私もそれを遠巻きに見て楽しんでいた。
この光景は、幻想郷の縮図で、美しいジオラマで、私の理想だ。これを見ていると、自分が賢者だの結界の管理者だのといったしがらみを酒と一緒に飲んで忘れられる。
人間も妖怪もそれ以外も、誰も彼もが今この瞬間を楽しんでいる、この光景。人妖の楽園という言葉が、これほど相応しい光景もないだろう。私のやってきたこと、作り出したかったもの、その全てが、この光景に込められている。
だから、私は宴会が好きだ。ただ、あそこに入って一緒に騒ぐのはあまり好まないが。光景は、眺めてこそ楽しむもの。観測者自身が映っては無粋というものだ。
「隣、いいかしら?」
そうして景色を楽しんでいると、声を掛けられる。私に自分から話しかけようとするなんて、随分と変わったやつが隣にいるものだ。私はその酔狂ものへ視線を隣に移す。
そこには、学生服を着た少女がいた。ちゃぷん、と彼女の手の中の飲みかけのペットボトルが音を立てる。
宇佐見菫子。いつもなら宴会の中心で一番に騒ぐことは無くても他の参加者とおしゃべりに勤しんでいるところだろうが、今日ばかりは私の近くに寄ってきていた。
「ええ、構いませんとも」
彼女の言葉に肯定の返事を返しながら、ふと思う。
そういえば、こうして彼女と一対一で話すのはこれが初めてだろうか。
異変の最中で話したこともあったし、神社や宴会で霊夢や魔理沙といるところにちょっかいじみたことをすることもあった。
けれど、こうして二人きりで、それも彼女から声を掛けてきたのは、おそらく後にも先にもこれっきりだ。
「その~、紫さんは、いつも一人で飲んでるのね」
「ええ、ああして騒ぐより、こうしてゆっくりとお酒を楽しむのが私の性分に合っているようで」
「そっか……じゃあ、私はお邪魔だったかしら」
「貴方があの連中みたいに騒ぐなら。けど、そうではないでしょう? 貴方となら、静かで美味しいお酒が楽しめそう」
「……まあ、そうかも」
そうして、彼女は私の隣に腰を下ろし、ペットボトルの蓋を開けてその小さな口に着ける。音も無くペットボトルは傾けられ中の液体が口へ流れようとするが、しかし液体は口の中に消えることは無く、ただ唇を湿らせただけ、文字通り口を着けただけでまたペットボトルの底へと戻っていく。
そして、二人して遠巻きに宴会を眺める。
このまま、彼女と共にこの光景を眺めているのも悪くはない。
悪くは、ないのだが。
「宴会は、退屈かしら」
「え?」
どこか所在なさげで寂しそうな彼女の顔を見ていると、そう聞かずにはいられなかった。
「随分と、退屈そうな顔をしていたので」
「あー、宴会は楽しいよ? 料理は美味しいし、普段とは違うみんなの姿も見れるし」
にへらと笑ってはいるが、どこか緊張が抜けていないように見えるのは、きっと私の勘違いではないだろう。
ふむ、となれば……。
「何か、私に用があってここに?」
「な、なんでそれが?」
目に見えて狼狽える彼女。本当に分かりやすい子だ。
「私には全てお見通しよ。何故なら私は賢者なのだから」
ついつい饒舌になっていることに、それを言った後で自覚する。ああ、私も酔っているのだ。お酒と、この空気に。
「今の私は機嫌がいいから、貴方の口から言うのをただにしてあげる。その代わり、私がそれを聞くのをただにしてちょうだいね」
「何それ。普通逆じゃない?」
そう言って笑う彼女の顔は、幾分か緊張が和らいだように見える。
「その……紫さんってさ……」
思えば、彼女がここに来て、もう二年は過ぎていることになる。
二年。妖怪の身ならば一瞬と呼ぶほどに短い期間だろうが、人間の、それも学生にとっては長すぎると言っていいだろう。彼女は貴重な青春の時、高校生活の半分以上を、この幻想郷と過ごしてきたのだ。
その長い間で、彼女は随分と社交的になった。ここに来れるようになる前は友達なんていなかったらしいが、今なら宴会に頻繁に参加している人妖なら彼女の顔を知らない者はいないだろう。短い時間で、人はこうも変わるものだろうか。
「何でも言ってくれて構わないわよ?」
そんな彼女が、私と真っ正面から向き合って何かを言おうとしている。顔には出さないが、彼女のその気配に私もただならぬものを感じ、居住まいをこっそりと正す。もちろん顔には一切出さないが。
暫く喘ぐように言葉を選んでいた彼女だったが、踏ん切りがついたのかようやく口を開いた。
「もしかして……私の事、好きだったりする?」
「…………」
正直、この質問は予想外だった。
「あぁ! いや、違くて! 変な意味じゃなくてね? その……」
どうやら不覚にも表情に出てしまっていたらしい。
「……ええ、もちろん。私は幻想郷の全てを愛していますわ。そしてそれは、貴方も例外ではなくてよ?」
軽く咳払いして表情を取り繕ってから、余裕を持って彼女の質問に完璧に答える。そうだ。これでこそ賢者というものだろう。
「それが、違うんじゃない?」
だが、彼女にはそれが通用しなかった。
「どうして、そう思うのかしら? 私の感情を、どうして貴方が否定出来るの?」
「……紫さんが、幻想郷を作ったこと、そしてそこにいる人全てを愛してるっていうのは、何となく知ってる」
「ええ」
「けど、その中でも全部が平等でないってことくらいは見ていて分かる。例えばレイムッチとか、幽々子さんとかそうでしょ? 貴方にとって特別な存在」
確かに、霊夢とは幻想郷の管理者同士として、幽々子とは旧知の仲として、自分の中でも特別な存在と呼べるだろう。それこそ、有象無象の人妖などとと比べれば遥かに特別だ。
「そして、私の勘違いじゃなければ、私もその『特別な存在』の中にいる」
「……」
咄嗟に、その言葉を否定出来なかった。
彼女の言葉を否定するのは簡単だし、別に肯定したって構わない。『ええ、だって貴方はとっても大切なお客様ですから』。その一言で、ここで話したことは何でもない日常のちょっとした会話で終わる。そのはずだ。
けれど、私の口は次の言葉を紡げなかった。
「色々聞いたよ? カセンちゃんからとか」
あいつ、と口の中で静かに毒づく。別に口留めしていたわけでは無かったが、喋って欲しくないこととそうでないことの違いくらいは分かる奴だと思っていたのに。
「私が幻想郷で過ごせるように、紫さんが裏で色々してくれてたのは知ってる。ダミー人形だか人間を作ったりとかね」
「ええ、確かに作ったわね。でも、それは幻想郷の維持のためにしたことよ。勝手に自分のためにやったなんて考えてもらうのは早計じゃないかしら」
そうだ。あれは彼女の出現と同時に発生していた人隠しを防ぐための措置だ。彼女自身を排除する選択肢もあった、というのは否定しないが、それでも平和的解決を選択したことに過剰な意味をこの子は勝手に見出しているのではなかろうか。
「それともう一つ。私のドッペルゲンガー……厳密には私だけど、それが悪夢から抜け出せなくなった時」
「ああ、あったわね。そんなことが。私はあまり関与してないのだけど」
「……私は、その言葉も嘘だと思ってる」
「それはまた、随分な仮説ね」
果たして、表情は変わらないでいてくれているのだろうか。自分にもだんだん分からなくなってくる。
「あの悪夢の中で、夢の私はドッペルゲンガーの肉体を奪おうとしてた。そして、それを実現するために夢の私に力を与えたのが隠岐奈さん。そのおかげで、私は肉体を失ってあわや幻想郷に来れなくなるところだった」
「それは……隠岐奈とは旧知の仲の私が、代わりに謝罪すればいいのかしら」
「いや……そんなのは望んでない。けど、質問に答えて」
彼女は、私をしっかりと睨み付けながら、その言葉を突き付ける。
「隠岐奈さんにそれを依頼したのは……紫さんじゃないの?」
「……」
「隠岐奈さんが夢の私に力を与えた。それはどうして? なんで、隠岐奈さんは一介の女子高生、外の人間に過ぎない私の夢人格に、そんなことを?」
「それは……彼女の気まぐれか何かでしょう?」
「隠岐奈さんを見ていると、それもあながち間違ってないのかもしれないけど……けど、その理由が紫さんにあるとしたら、説明が付く。すっごくこじつけがましいけどね」
それ以上、話さないで。貴方は何も知らなくていい。
その言葉が出そうになって、喉奥に呑み込んで封じる。
それを言えば、彼女の推理を認めたも同然だから。
「ドッペルゲンガーの肉体が奪われたところで、ドッペルゲンガーの精神が消えるわけじゃない。夢の精神が肉体無しに存在していたように、ドッペルゲンガーの精神も残り続ける」
「……ええ、霊魂となり、肉体のないままに存在し続けるわ」
私には、もう彼女の言葉それ自体を、客観的な見方で肯定する事しか出来ない。
「じゃあ、もしそのドッペルゲンガーに、紫さんの作ったダミー人間の肉体を与えたら? ドッペルゲンガー固有の、私が現で寝ているその一時期だけ出現する肉体じゃない。常に存在し続ける、本当の肉体を持ったら?」
一拍置いて、彼女は自身が辿り着いた答えを口にする。
「紫さんは、私を完全な幻想郷の住民にしたかったんじゃないの?」
「……そう、かもしれないわね」
彼女の答えに、私は肯定とも否定とも取れない言葉を返す。
果たして、彼女は私の返答をどう受け取ったのだろうか。私は分からないし、知りたくもない。
彼女の心を理解しようとしないまま、彼女は話を続ける。いや、きっとここまでは前座に過ぎないのだ。結局のところ、どうやって なんてどうでもいいのだ。
「けど、私は紫さんに好かれるような何かを持っているとは思えない。私と貴方の関係に、それほどの魅力があるようには思えない」
「それは違う!」
その言葉に、声を荒げてしまう。
彼女に、菫子に魅力がないだって?
「魅力がないなんて、そんな悲しいこと……」
言わないで。
そう、続けようとしたのに。
視界の中の菫子が、ぶれる。
そこにいるのは、菫子と違う、けれど菫子とどこか似た少女。その亡霊が、菫子と重なる。
貴方は、誰?
私が愛しているのは……なに?
「だったらさ……」
既に彼女は、私の変化に気付いているのだろう。
それでも、止まらない。
「どうして私の事が……好きなの?」
そう私に問うた彼女の目は、真剣だった。
「貴方は、最初から私が好きだったんじゃないかって、そう思うの。出会った時の、そのずっと前から。私の事をずっと見ていたの? それとも、私じゃない私……何か、血のようなものが貴方にそうさせるの? それとも……」
「どうして、それを聞くの?」
卑怯だと、自分でもそう思う。質問を質問で返して矛先を逸らすのは。
けれど、そう返すしか私には出来なかった。今は少しでも、別のことに気を背けたかった。
「私は、貴方のことが好きよ。愛おしいと思っている。貴方が私をどう思おうと、それは変えられない。それだけの話でしょう?」
それに対し、どこか穏やかな顔で彼女は未だどんちゃん騒ぎが続く宴会の光景を眺めながら、つぶやく。
「ほら、私ってさ、今高校三年生なのよね。もう数ヶ月もすれば、大学生になる」
「そう、だったからしら」
「そうなの。それで思ったのよ。もしかしたら、ここに来られるのは高校生でいる今だけなんじゃないかって。ほら、夢に夢見るお年頃……とはちょっと違うけどしれないけどさ」
そんなわけがない。ここは妖怪のための楽園で、明確なルールとポリシーの元、結界の出入りを制限している。年齢制限のあるネバーランドなんかではないのだ。
「まあ、年を重ねるごとに夢なんて見なくなるものじゃない? 私はそんな大人達をいっぱい見てきたし、私もそうならないなんて保証はない」
「そんなこと、ないんじゃないかしら」
「かもしれない。けど、そうかもしれない。私自身がこの幻想郷じゃあ誰よりもイレギュラーな存在だってことくらい、よく分かってるから」
彼女はすっくと立ち上がる。
「だから、……せめて、悔いを残さないためにも、気になっていたことはさ。ケリ……みたいなのをしっかりつけたくてね」
そして、ゆっくりと歩く。その先には何もない、ただの夜の闇が広がっているだけなのに。彼女にはその先に何があるのかが見えているのだろうか。
「ごめんね。変なこと聞いて。別に紫さんが私の事を好きでもそうでなくても、どっちでもよかった」
振り向きざまに寂しそうな顔でそんなことを言われては、私も声を上げずにはいられなかった。体裁とかそんなものをかなぐり捨てて、彼女へ手を伸ばす。
「でも……私を好きと言ってくれたのは、すっごく嬉しかったよ。私も、紫さんのことが好き」
「ま……待って!」
私の手は、何も掴まない。
既にそこには彼女は居なかった。
ここには、もう宴会の声しかない。
§
そうして、妖怪の身であっても決して一瞬とは呼べない時が経過した。
季節は冬。
今日は博麗神社でこたつ設置の儀が執り行われたらしく、私もそのこたつの恩恵にあずかることにした。
「はぁ~あったかい」
目の前で巫女がこたつの上に突っ伏して、とろけた顔をしている。いや、今の彼女を巫女と呼んでいいものだろうか。いつもの目立つ紅白の服ではなく白い無地の寝間着を着て、その上そんな可愛くてだらしない表情を隠しもせずに浮かべているのを見ていると、彼女が妖怪に恐れられているあの博麗の巫女であることを忘れそうになる。
愛しい。
彼女のことが愛おしい。
「可愛いわね。貴方は」
「にゃっ……ちょっと紫、何よ……」
スキマ越しに彼女のその腑抜けきった頭を撫でてやる。最初は抵抗するように頭を揺らしながら僅かばかりの反抗が込められた声を上げていたが、二撫でもすればむすっとした顔のままに一切の抵抗が無くなり、五撫でもすればそのむすっとした顔もすっかり和らいだ。黒というには少し明るい髪がするすると私の指の間を抜ける感触が気持ちよくて、いつまでも撫でていられる。
私は、この子を愛している。それも、この世界と同等か、もしかしたらそれ以上に。
『どうして私の事が……好きなの?』
今はもういない彼女の言葉を、思い出した。
あの宴会の夜から、彼女とは会っていない。私は彼女の姿を見ているが、彼女は私の姿を見てはいない。
それからも幻想郷に来ていたことは知っているが、私は彼女の前に姿を出さなかった。どうにも、どんな顔をして彼女の前に出ればいいのか分からなかったのだ。
そうして、彼女の言うとおり、春にはその姿は誰にも見られなくなった。宇佐見菫子という存在は幻想郷から消えたのだ。もちろん、彼女は死んだわけでは無く、外の世界でこれからの生き方を彼女なりに謳歌しているのをこの目で確かめてはいたが。
「愛しているわよ」
目の前の少女を撫でながら、口の中で呟く。
「んぅ?」
私の声が聞こえていたのか聞こえていなかったのか、潰れて気の抜けた空返事が遅れて返ってくる。
そうしてまた、彼女はこたつに突っ伏して私の手に大人しく撫でられている。
どうして、私はこの子を愛しているのだろうか。
目の前の少女は可憐で可愛いから? それについて否定する気はないが、きっとそうではないのだろう。ではこの子が私にとって娘のようだから? 私は、彼女を博麗の巫女として選び、育てた。その点ではこの子にとっては私は親代わりかもしれないが、私はきっと、巫女として育てる前からこの子のことが愛おしかった。愛おしかったから、博麗の巫女にした。
では、博麗の巫女という存在だからか? あるいは、あの宴会の時に彼女が言ったように血が、彼女の血が私を魅了させるのか? それとも、私がこの子に菫子の幻影か、それとも菫子ではない誰かの幻影を重ねているからか。はたまたそれとも。
きっと、答えは出ないだろう。例え私がそれに気付いていても、私は目を逸らし続ける。逸らし続けたまま、私は愛していると言い続けるのだ。この世界と、彼女と、私自身に。
「あら、寝ちゃったのね」
すー、すーという短い息が断続的に聞こえるのに気づいた。その目はぴったりと閉じられ、開く素振りは一切見られない。この冬初めてのこたつだもの。気持ちいいのは仕方のないことだ。
「やれやれ、しょうがない子ね」
このままでは風邪を引いてしまう。私は寝坊助さんを寝室に運ぶべく彼女を持ち上げ、背中におぶる。
軽い。けれど、重くなった。大きくなったというべきか。
いつの間にか、背中からはみ出すほどに大きくなっていた。人の成長はかくも早いものだろうか。いつもこの子には驚かされてばかりだ。
私は、この子の全てが愛おしい。
そして、私は幸せだ。
ならば、それで良いじゃないか。
理由など分からなくとも、私はこの子を誰よりも愛していて、誰よりも幸せなのだ。
「ねぇ、蓮夢?」
それにしても、菫子、貴方って随分と古風ながら良い名前を付けるのね。
貴方の付けた名前、とっても素敵だから、私もそこから取らせて貰っちゃった。
いつものように博麗神社で宴会が開催されて、誰もが皆、酒が回って最高潮の盛り上がりを見せていたころだった。笑い、叫び、語り、飲む。皆が銘々、宴会を楽しむ中で、私もそれを遠巻きに見て楽しんでいた。
この光景は、幻想郷の縮図で、美しいジオラマで、私の理想だ。これを見ていると、自分が賢者だの結界の管理者だのといったしがらみを酒と一緒に飲んで忘れられる。
人間も妖怪もそれ以外も、誰も彼もが今この瞬間を楽しんでいる、この光景。人妖の楽園という言葉が、これほど相応しい光景もないだろう。私のやってきたこと、作り出したかったもの、その全てが、この光景に込められている。
だから、私は宴会が好きだ。ただ、あそこに入って一緒に騒ぐのはあまり好まないが。光景は、眺めてこそ楽しむもの。観測者自身が映っては無粋というものだ。
「隣、いいかしら?」
そうして景色を楽しんでいると、声を掛けられる。私に自分から話しかけようとするなんて、随分と変わったやつが隣にいるものだ。私はその酔狂ものへ視線を隣に移す。
そこには、学生服を着た少女がいた。ちゃぷん、と彼女の手の中の飲みかけのペットボトルが音を立てる。
宇佐見菫子。いつもなら宴会の中心で一番に騒ぐことは無くても他の参加者とおしゃべりに勤しんでいるところだろうが、今日ばかりは私の近くに寄ってきていた。
「ええ、構いませんとも」
彼女の言葉に肯定の返事を返しながら、ふと思う。
そういえば、こうして彼女と一対一で話すのはこれが初めてだろうか。
異変の最中で話したこともあったし、神社や宴会で霊夢や魔理沙といるところにちょっかいじみたことをすることもあった。
けれど、こうして二人きりで、それも彼女から声を掛けてきたのは、おそらく後にも先にもこれっきりだ。
「その~、紫さんは、いつも一人で飲んでるのね」
「ええ、ああして騒ぐより、こうしてゆっくりとお酒を楽しむのが私の性分に合っているようで」
「そっか……じゃあ、私はお邪魔だったかしら」
「貴方があの連中みたいに騒ぐなら。けど、そうではないでしょう? 貴方となら、静かで美味しいお酒が楽しめそう」
「……まあ、そうかも」
そうして、彼女は私の隣に腰を下ろし、ペットボトルの蓋を開けてその小さな口に着ける。音も無くペットボトルは傾けられ中の液体が口へ流れようとするが、しかし液体は口の中に消えることは無く、ただ唇を湿らせただけ、文字通り口を着けただけでまたペットボトルの底へと戻っていく。
そして、二人して遠巻きに宴会を眺める。
このまま、彼女と共にこの光景を眺めているのも悪くはない。
悪くは、ないのだが。
「宴会は、退屈かしら」
「え?」
どこか所在なさげで寂しそうな彼女の顔を見ていると、そう聞かずにはいられなかった。
「随分と、退屈そうな顔をしていたので」
「あー、宴会は楽しいよ? 料理は美味しいし、普段とは違うみんなの姿も見れるし」
にへらと笑ってはいるが、どこか緊張が抜けていないように見えるのは、きっと私の勘違いではないだろう。
ふむ、となれば……。
「何か、私に用があってここに?」
「な、なんでそれが?」
目に見えて狼狽える彼女。本当に分かりやすい子だ。
「私には全てお見通しよ。何故なら私は賢者なのだから」
ついつい饒舌になっていることに、それを言った後で自覚する。ああ、私も酔っているのだ。お酒と、この空気に。
「今の私は機嫌がいいから、貴方の口から言うのをただにしてあげる。その代わり、私がそれを聞くのをただにしてちょうだいね」
「何それ。普通逆じゃない?」
そう言って笑う彼女の顔は、幾分か緊張が和らいだように見える。
「その……紫さんってさ……」
思えば、彼女がここに来て、もう二年は過ぎていることになる。
二年。妖怪の身ならば一瞬と呼ぶほどに短い期間だろうが、人間の、それも学生にとっては長すぎると言っていいだろう。彼女は貴重な青春の時、高校生活の半分以上を、この幻想郷と過ごしてきたのだ。
その長い間で、彼女は随分と社交的になった。ここに来れるようになる前は友達なんていなかったらしいが、今なら宴会に頻繁に参加している人妖なら彼女の顔を知らない者はいないだろう。短い時間で、人はこうも変わるものだろうか。
「何でも言ってくれて構わないわよ?」
そんな彼女が、私と真っ正面から向き合って何かを言おうとしている。顔には出さないが、彼女のその気配に私もただならぬものを感じ、居住まいをこっそりと正す。もちろん顔には一切出さないが。
暫く喘ぐように言葉を選んでいた彼女だったが、踏ん切りがついたのかようやく口を開いた。
「もしかして……私の事、好きだったりする?」
「…………」
正直、この質問は予想外だった。
「あぁ! いや、違くて! 変な意味じゃなくてね? その……」
どうやら不覚にも表情に出てしまっていたらしい。
「……ええ、もちろん。私は幻想郷の全てを愛していますわ。そしてそれは、貴方も例外ではなくてよ?」
軽く咳払いして表情を取り繕ってから、余裕を持って彼女の質問に完璧に答える。そうだ。これでこそ賢者というものだろう。
「それが、違うんじゃない?」
だが、彼女にはそれが通用しなかった。
「どうして、そう思うのかしら? 私の感情を、どうして貴方が否定出来るの?」
「……紫さんが、幻想郷を作ったこと、そしてそこにいる人全てを愛してるっていうのは、何となく知ってる」
「ええ」
「けど、その中でも全部が平等でないってことくらいは見ていて分かる。例えばレイムッチとか、幽々子さんとかそうでしょ? 貴方にとって特別な存在」
確かに、霊夢とは幻想郷の管理者同士として、幽々子とは旧知の仲として、自分の中でも特別な存在と呼べるだろう。それこそ、有象無象の人妖などとと比べれば遥かに特別だ。
「そして、私の勘違いじゃなければ、私もその『特別な存在』の中にいる」
「……」
咄嗟に、その言葉を否定出来なかった。
彼女の言葉を否定するのは簡単だし、別に肯定したって構わない。『ええ、だって貴方はとっても大切なお客様ですから』。その一言で、ここで話したことは何でもない日常のちょっとした会話で終わる。そのはずだ。
けれど、私の口は次の言葉を紡げなかった。
「色々聞いたよ? カセンちゃんからとか」
あいつ、と口の中で静かに毒づく。別に口留めしていたわけでは無かったが、喋って欲しくないこととそうでないことの違いくらいは分かる奴だと思っていたのに。
「私が幻想郷で過ごせるように、紫さんが裏で色々してくれてたのは知ってる。ダミー人形だか人間を作ったりとかね」
「ええ、確かに作ったわね。でも、それは幻想郷の維持のためにしたことよ。勝手に自分のためにやったなんて考えてもらうのは早計じゃないかしら」
そうだ。あれは彼女の出現と同時に発生していた人隠しを防ぐための措置だ。彼女自身を排除する選択肢もあった、というのは否定しないが、それでも平和的解決を選択したことに過剰な意味をこの子は勝手に見出しているのではなかろうか。
「それともう一つ。私のドッペルゲンガー……厳密には私だけど、それが悪夢から抜け出せなくなった時」
「ああ、あったわね。そんなことが。私はあまり関与してないのだけど」
「……私は、その言葉も嘘だと思ってる」
「それはまた、随分な仮説ね」
果たして、表情は変わらないでいてくれているのだろうか。自分にもだんだん分からなくなってくる。
「あの悪夢の中で、夢の私はドッペルゲンガーの肉体を奪おうとしてた。そして、それを実現するために夢の私に力を与えたのが隠岐奈さん。そのおかげで、私は肉体を失ってあわや幻想郷に来れなくなるところだった」
「それは……隠岐奈とは旧知の仲の私が、代わりに謝罪すればいいのかしら」
「いや……そんなのは望んでない。けど、質問に答えて」
彼女は、私をしっかりと睨み付けながら、その言葉を突き付ける。
「隠岐奈さんにそれを依頼したのは……紫さんじゃないの?」
「……」
「隠岐奈さんが夢の私に力を与えた。それはどうして? なんで、隠岐奈さんは一介の女子高生、外の人間に過ぎない私の夢人格に、そんなことを?」
「それは……彼女の気まぐれか何かでしょう?」
「隠岐奈さんを見ていると、それもあながち間違ってないのかもしれないけど……けど、その理由が紫さんにあるとしたら、説明が付く。すっごくこじつけがましいけどね」
それ以上、話さないで。貴方は何も知らなくていい。
その言葉が出そうになって、喉奥に呑み込んで封じる。
それを言えば、彼女の推理を認めたも同然だから。
「ドッペルゲンガーの肉体が奪われたところで、ドッペルゲンガーの精神が消えるわけじゃない。夢の精神が肉体無しに存在していたように、ドッペルゲンガーの精神も残り続ける」
「……ええ、霊魂となり、肉体のないままに存在し続けるわ」
私には、もう彼女の言葉それ自体を、客観的な見方で肯定する事しか出来ない。
「じゃあ、もしそのドッペルゲンガーに、紫さんの作ったダミー人間の肉体を与えたら? ドッペルゲンガー固有の、私が現で寝ているその一時期だけ出現する肉体じゃない。常に存在し続ける、本当の肉体を持ったら?」
一拍置いて、彼女は自身が辿り着いた答えを口にする。
「紫さんは、私を完全な幻想郷の住民にしたかったんじゃないの?」
「……そう、かもしれないわね」
彼女の答えに、私は肯定とも否定とも取れない言葉を返す。
果たして、彼女は私の返答をどう受け取ったのだろうか。私は分からないし、知りたくもない。
彼女の心を理解しようとしないまま、彼女は話を続ける。いや、きっとここまでは前座に過ぎないのだ。結局のところ、
「けど、私は紫さんに好かれるような何かを持っているとは思えない。私と貴方の関係に、それほどの魅力があるようには思えない」
「それは違う!」
その言葉に、声を荒げてしまう。
彼女に、菫子に魅力がないだって?
「魅力がないなんて、そんな悲しいこと……」
言わないで。
そう、続けようとしたのに。
視界の中の菫子が、ぶれる。
そこにいるのは、菫子と違う、けれど菫子とどこか似た少女。その亡霊が、菫子と重なる。
貴方は、誰?
私が愛しているのは……なに?
「だったらさ……」
既に彼女は、私の変化に気付いているのだろう。
それでも、止まらない。
「どうして私の事が……好きなの?」
そう私に問うた彼女の目は、真剣だった。
「貴方は、最初から私が好きだったんじゃないかって、そう思うの。出会った時の、そのずっと前から。私の事をずっと見ていたの? それとも、私じゃない私……何か、血のようなものが貴方にそうさせるの? それとも……」
「どうして、それを聞くの?」
卑怯だと、自分でもそう思う。質問を質問で返して矛先を逸らすのは。
けれど、そう返すしか私には出来なかった。今は少しでも、別のことに気を背けたかった。
「私は、貴方のことが好きよ。愛おしいと思っている。貴方が私をどう思おうと、それは変えられない。それだけの話でしょう?」
それに対し、どこか穏やかな顔で彼女は未だどんちゃん騒ぎが続く宴会の光景を眺めながら、つぶやく。
「ほら、私ってさ、今高校三年生なのよね。もう数ヶ月もすれば、大学生になる」
「そう、だったからしら」
「そうなの。それで思ったのよ。もしかしたら、ここに来られるのは高校生でいる今だけなんじゃないかって。ほら、夢に夢見るお年頃……とはちょっと違うけどしれないけどさ」
そんなわけがない。ここは妖怪のための楽園で、明確なルールとポリシーの元、結界の出入りを制限している。年齢制限のあるネバーランドなんかではないのだ。
「まあ、年を重ねるごとに夢なんて見なくなるものじゃない? 私はそんな大人達をいっぱい見てきたし、私もそうならないなんて保証はない」
「そんなこと、ないんじゃないかしら」
「かもしれない。けど、そうかもしれない。私自身がこの幻想郷じゃあ誰よりもイレギュラーな存在だってことくらい、よく分かってるから」
彼女はすっくと立ち上がる。
「だから、……せめて、悔いを残さないためにも、気になっていたことはさ。ケリ……みたいなのをしっかりつけたくてね」
そして、ゆっくりと歩く。その先には何もない、ただの夜の闇が広がっているだけなのに。彼女にはその先に何があるのかが見えているのだろうか。
「ごめんね。変なこと聞いて。別に紫さんが私の事を好きでもそうでなくても、どっちでもよかった」
振り向きざまに寂しそうな顔でそんなことを言われては、私も声を上げずにはいられなかった。体裁とかそんなものをかなぐり捨てて、彼女へ手を伸ばす。
「でも……私を好きと言ってくれたのは、すっごく嬉しかったよ。私も、紫さんのことが好き」
「ま……待って!」
私の手は、何も掴まない。
既にそこには彼女は居なかった。
ここには、もう宴会の声しかない。
§
そうして、妖怪の身であっても決して一瞬とは呼べない時が経過した。
季節は冬。
今日は博麗神社でこたつ設置の儀が執り行われたらしく、私もそのこたつの恩恵にあずかることにした。
「はぁ~あったかい」
目の前で巫女がこたつの上に突っ伏して、とろけた顔をしている。いや、今の彼女を巫女と呼んでいいものだろうか。いつもの目立つ紅白の服ではなく白い無地の寝間着を着て、その上そんな可愛くてだらしない表情を隠しもせずに浮かべているのを見ていると、彼女が妖怪に恐れられているあの博麗の巫女であることを忘れそうになる。
愛しい。
彼女のことが愛おしい。
「可愛いわね。貴方は」
「にゃっ……ちょっと紫、何よ……」
スキマ越しに彼女のその腑抜けきった頭を撫でてやる。最初は抵抗するように頭を揺らしながら僅かばかりの反抗が込められた声を上げていたが、二撫でもすればむすっとした顔のままに一切の抵抗が無くなり、五撫でもすればそのむすっとした顔もすっかり和らいだ。黒というには少し明るい髪がするすると私の指の間を抜ける感触が気持ちよくて、いつまでも撫でていられる。
私は、この子を愛している。それも、この世界と同等か、もしかしたらそれ以上に。
『どうして私の事が……好きなの?』
今はもういない彼女の言葉を、思い出した。
あの宴会の夜から、彼女とは会っていない。私は彼女の姿を見ているが、彼女は私の姿を見てはいない。
それからも幻想郷に来ていたことは知っているが、私は彼女の前に姿を出さなかった。どうにも、どんな顔をして彼女の前に出ればいいのか分からなかったのだ。
そうして、彼女の言うとおり、春にはその姿は誰にも見られなくなった。宇佐見菫子という存在は幻想郷から消えたのだ。もちろん、彼女は死んだわけでは無く、外の世界でこれからの生き方を彼女なりに謳歌しているのをこの目で確かめてはいたが。
「愛しているわよ」
目の前の少女を撫でながら、口の中で呟く。
「んぅ?」
私の声が聞こえていたのか聞こえていなかったのか、潰れて気の抜けた空返事が遅れて返ってくる。
そうしてまた、彼女はこたつに突っ伏して私の手に大人しく撫でられている。
どうして、私はこの子を愛しているのだろうか。
目の前の少女は可憐で可愛いから? それについて否定する気はないが、きっとそうではないのだろう。ではこの子が私にとって娘のようだから? 私は、彼女を博麗の巫女として選び、育てた。その点ではこの子にとっては私は親代わりかもしれないが、私はきっと、巫女として育てる前からこの子のことが愛おしかった。愛おしかったから、博麗の巫女にした。
では、博麗の巫女という存在だからか? あるいは、あの宴会の時に彼女が言ったように血が、彼女の血が私を魅了させるのか? それとも、私がこの子に菫子の幻影か、それとも菫子ではない誰かの幻影を重ねているからか。はたまたそれとも。
きっと、答えは出ないだろう。例え私がそれに気付いていても、私は目を逸らし続ける。逸らし続けたまま、私は愛していると言い続けるのだ。この世界と、彼女と、私自身に。
「あら、寝ちゃったのね」
すー、すーという短い息が断続的に聞こえるのに気づいた。その目はぴったりと閉じられ、開く素振りは一切見られない。この冬初めてのこたつだもの。気持ちいいのは仕方のないことだ。
「やれやれ、しょうがない子ね」
このままでは風邪を引いてしまう。私は寝坊助さんを寝室に運ぶべく彼女を持ち上げ、背中におぶる。
軽い。けれど、重くなった。大きくなったというべきか。
いつの間にか、背中からはみ出すほどに大きくなっていた。人の成長はかくも早いものだろうか。いつもこの子には驚かされてばかりだ。
私は、この子の全てが愛おしい。
そして、私は幸せだ。
ならば、それで良いじゃないか。
理由など分からなくとも、私はこの子を誰よりも愛していて、誰よりも幸せなのだ。
「ねぇ、蓮夢?」
それにしても、菫子、貴方って随分と古風ながら良い名前を付けるのね。
貴方の付けた名前、とっても素敵だから、私もそこから取らせて貰っちゃった。
説明がつかないもどかしさと、最後に飛び出してきた衝撃が深く印象に残りました。
有難うございます。面白かったです。
寂しさを感じますが、それだけではない何かが残っているような不思議な気持ちになりました
素晴らしかったです
そしてこのラストの救えなさ。かけ違えたボタンを必死に繋ぎ留めようとしているのが読んでいて居た堪れないものがあります。面影を重ねずには居られない、けれども決別しようと必死な紫のその姿が文字越しに伝わってくる様でした。
ゆかすみでありつつも鋭利な何かでその関係性を切られてしまった、カップリング物とはちょっと違った何かを満遍なく見せ付けられました。ご馳走様でした。
董子はきっぱりと別れるも紫が想いを密かに引きずるという何とも言えない喪失感が見えて、良かったです。