永く生きていると、十年にも満たない時間の流れは酷く曖昧に思える。
だからなのかふと思ったのだ、十六夜咲夜がここに来てからどれ程の時間が経ったのだろうかと。
何の前触れも無く浮かび上がったその疑問は、それ自身が持つ言いようの無い不快感によって私の本を読む手を止めさせた。
どうしてこんな事を思ったのかを考えてみても、これといった理由が見つからない。
私はこれ以上の自分への追及は無駄だとして、潔く諦める事にした。
とは言っても、初めに抱いた疑問の解を得る事を諦めた訳ではない。
「咲夜がいつ来たかねぇ」
自然と言葉が漏れ出していた。
私は、つい独り言を呟いてしまうほどに自分の口が柔いものだという事実に少しばかりの驚きを抱きながら、同時に今抱えている疑問が、想像よりも遥かに自らの思考を広く占領している事を知った。
特別大事な疑問でも無い訳なのに、答えを得たいという欲求は膨れ上がり、衰える事を知らなかった。
それどころか、時間が経つにつれて何も進展の無い状態が続く事に形容し難いもどかしさをも覚えてしまう。
他人が見れば、たかがそのくらいの事でと笑うかもしれないが、何せ私にとって分からないという状態は好ましく無いものなのだ。
分からない、知らないという状況はいかなる場合においても滞りを発生させる。
物事が合理的に、円滑に進まない事があまり好きでは無かった。
それ故に、地下に籠もっていた495年間はひたすらに知識を吸収し続けていた。
新しい知識を得る事は有意義な行為であると思えるし、実際得た知識を用いて新たな理解が出来た時などは嬉しくもあった。
知識、答えを得るという行為は私にとって絶対的な信頼のおけるものなのだ。
それが相まって今では、心底取るに足りない事であっても知らないという状態が気に食わないし、現状答えが分からないというこの状態に苛立ちを覚えざるを得ない。
しかし必死に記憶を辿ったところで、彼女と持った関わりなど一枚の紙のように薄っぺらい訳だから明確な答えなど当然出る筈もなかった。
「ちょっと面倒だけど、本人に聞きに行くしかないか」
開いたままであった本を閉じ、私は自室の扉のノブに手を掛けた。
そこで私は、最近は鍵が掛けられていないので壊す必要がない事を思い出した。
私が外に出る度に扉を直さなくてはならないというのは手間であるというのがようやっと理解されたのだと、何処か呆れたような満足したような気持ちになった。
そういえば、私の部屋に鍵が掛けられなくなったのは、白黒とか紅白とかの人間達が家にやって来る様になった頃だったと思う。
咲夜と話す様になったのも確か同じ時期だった筈だ。あまり確証は無いのだけれど。
まぁいい、どうせ咲夜に聞きに行けば全て分かる事だ。
私は手を掛けたままであったノブを捻って扉を開き、自室から足を踏み出した。
◆◆◆
「あれ、フランじゃない。どうしたの?」
お姉様の所に行けば咲夜にも会えるんじゃないかという私の予感は完璧に外れていた。
お姉様の部屋にいるのは、私とお姉様の2人のみ。
十六夜咲夜など影も形も無かった。
咲夜と言えばお姉様にくっ付いているという勝手なイメージを持っていたので、こういった安直な予測を立ててしまった。反省しようと思う。
そうは言っても、この広い館の中で忙しなく働く1人のメイドの所在など把握出来る訳もない。
結局の所、私はやはりお姉様の許へと行くしか無かったのだ。
「あぁちょっとね、咲夜を探してて。何処にいるか知ってる?」
「咲夜? 今ならキッチンで片付けしてると思うけど」
キッチン、直ぐに滅茶苦茶になる厄介な場所だと咲夜が言っていたあれか。
「ふーん、じゃあ手伝いにでも行ってあげようかな」
「……邪魔はしないようにね」
「分かってるわよ」
如何やら私はお姉様に信頼されていないらしい。
そんな分別もつかない程に幼稚であると思われているのは、心外であった。
邪魔するつもりなど毛頭無かったのに、その様に思われていると知ってしまえばその気になってしまうというものだ。
キッチンに行ったら少しだけ脅かしてやろうかと、そんな考えが次々と浮かんできていた。
「うーん、やっぱり行かせるべきじゃないかもしれない」
あれこれ考えている内に、私の邪心は見透かされていたようでお姉様が怪しんだ顔をしながら私を見つめていた。
「そういえばさ、フランは咲夜に何の用があるの?」
お姉様に礼を述べて部屋を出ようとしたその時、私は声を掛けられて止められた。
咲夜への用事、それは彼女に聞きたい事がある、それのみである。
その内容を話せば恐らく、それ私に聞けば十分でしょ、なんて言われるだろう。
しかし、お姉様は私と同じ長命の吸血鬼である。
私がそうであるのに、お姉様の時間の感覚が正常であるというのは到底信じられない。
だからこそ、私はお姉様から答えを得ようとは思わなかったのだ。
そうは言っても、別に聞かれて隠す様な事でも無い。
私はお姉様に一つ、答えてあげる事にした。
「聞きたい事があったの。咲夜っていつから此処にいるのかってね」
「なんだ、そんなの私に聞けば十分でしょうが」
「あーやっぱり」
「え? 何がよ?」
案の定、私が考えていた事と同じ事を口にしたので思わず声に出てしまった。
やはりお姉様は分かり易い。
度々こんなだから、従者に変な紅茶を入れられるのだろう。
さて、いくらお姉様であっても頭にクエスチョンマークを浮かべたままでは可哀想である。
咲夜の居場所も分かった訳だし、もうお姉様には用が無いのだから、お姉様の疑問を取っ払ってキッチンへ向かうとしよう。
私は頭上にあるクエスチョンマークを手で払ってあげ、更に当惑した表情を浮かべるお姉様に笑いかけながら、そのまま部屋から飛び出した。
後ろから私に説明を求める様な声が聞こえてくるが、恐らく気のせいだろう。
◆◆◆
キッチンに着くともう殆ど片付けは済んでいた様で、私の出番が無いというのは明白であった。
妖精メイド達と咲夜の何人かが、今まさに洗い終わった皿を仕舞おうとしていたのだ。
来るのが遅かったというのはいささか残念であったが、目的の咲夜を其処で見つける事が出来たので取り敢えずは良しとしようと思う。
「あら妹様。どうなさいました?」
「んーなに、ちょっと咲夜に用事があってねぇ」
私の言葉を聞いた途端咲夜はぽかんとした表情を浮かべ、私に用事があるなんて珍しいですねと、本当に珍しそうにして返してきた。
咲夜はその場にいた妖精メイド達を別の仕事に向かわせ、この場には私と咲夜の2人のみが残っていた。
「それで用事とは?」
「大したものじゃないけど聞きたい事があってさ。咲夜ってうちに来てからどの位経つ?」
「どの位ですか……んーまだ五年は経ってないんじゃないですかね。実はあんまり覚えてなくて」
咲夜からの返答は、期待していたものよりずっと曖昧なものであった。
何処か拍子抜けしてしまう程、彼女のそれは期待外れその物だった。
曖昧な答えを出されるのが嫌で、まだ時間感覚が正しく働くであろう人間、ましてや本人である咲夜を選んだのにその答えがこれかと酷く落胆を覚えた。
「……咲夜、本当に覚えてないの?」
「ええ、まぁ。時間を止めたり早めたりと色々やってる訳ですから、どうもそこらの感覚が曖昧でして」
盲点だった。
てっきり普通の人間の様な感覚が有るとばかり思っていたが、生憎咲夜はただの人間ではない。
時間を操れる様な人間が、記録にも残っていない過去の出来事の事など正確に覚えている訳も無かったのだ。
「ご期待に添えず申し訳ありません」
「んー大丈夫。そんなに謝らなくてもいいわ」
とは言ったものの私の失意には何ら変化はない。
結局の所、明確な解を得る事は出来ず、もどかしさを抱きながら諦めろという事なのだ。
時には諦めも肝要、そういう事なのだろうか。
私は咲夜に一言礼を告げて、キッチンから立ち去ろうとした。
「フラン様」
咲夜が私を名前を呼んだ声が聞こえた。
足を止めて振り向くと、咲夜が私のティーカップを手にしていた。
「紅茶、如何ですか?」
私は頬杖をつきながら、咲夜が紅茶を注ぐ姿を眺めていた。
そう言えば、咲夜が紅茶を入れる姿を見るのは初めての気がする。
私自身部屋に籠りっぱなしであったし、紅茶を見るのも運ばれてくる物のみであった訳なので、こうして工程を見ながら紅茶が来るのを待つというのは新鮮な気分だった。
「ねぇ咲夜、どうして紅茶を勧めてきたの?」
先程から気になっていた事を、率直にぶつけてみる事にした。
あの場面で私を呼び止めまでして、どうして紅茶を入れる気になったのか、私には分からなかったのだ。
「先程も申し上げた通り、フラン様のご期待に応えられなかった事への僅かばかりのお詫びですよ」
「そんな気にする事もないのに。がっかりしたのは事実だけどそれは私の認識が甘かったからだし、そんな大事な事でもないんだからさ」
「……もう一つ加えるとすると、貴方のああいう顔を余り見たくはなかったものですから」
どうやら私の不機嫌具合は顔に出てしまっていたらしい。
どうにもばつが悪くなり、返すべき言葉が見つかる事は無く、私が出来る事は沈黙を返す事ばかりだった。
暫しの静寂を破る様にしてテーブルにカップが置かれる音が響いた。
「お待たせしました」
私はカップを持ち上げ、それを口へと運ぶ。
一口飲む毎に、ほのかな熱を持った流体が身体を支配していた落胆を融かしてゆく。
身体に熱が伝わりきるのと同時に、私の心情は穏やかさを取り戻していた。
「やっぱり美味しいわね、咲夜の入れた紅茶は」
「フラン様にそう仰って頂けるのなら光栄ですわ」
此処で疑問を一つ違和感を覚えた。
咲夜の私の呼び方が定まっていないように思えたのだ。
「……咲夜って私の呼び方変えてない? さっきは妹様って呼んでなかったっけ」
咲夜は、あぁと何処か納得した様な声を出すと、私の違和感は間違っていないという事を伝えてきた。
「そうですね、私はあくまでお嬢様に仕える身ですから立場上妹様と呼ばせて貰っていますが、ただ何と言いますか、妹様というのはどうにも貴方がついでであるかの様に感じてしまったものですから。せめて二人の時には名前で呼ばせて貰いたいと思った訳なのです」
彼女は、お気に召さないのであれば直ぐにでも変えさせて頂きますと一言加えて私へと話してみせた。
成る程、要は私をお姉様のついでの様な扱いをする事に罪悪感があったのだろう。
私自身別に気にする事は無いし、失礼なものじゃなければ勝手にしてくれとばかり思っていたのだが。
人間というのは案外どうでも良い事を気にするらしい。
ただそれを伝えると、私にとっては大切な事なのだと譲る事は無かった。
「フラン様は、自分の中で譲れない、大切な事って有るんですか?」
咲夜からの問いが何故か深く心に残った気がした。
私にとって大切な事、絶対的なもの。
「答えを得る事かな。どんな問題に対してもその答えは必ず存在する訳だから。それを知る事が、私にとっての趣味であり、仕事であり、そして信条でもある」
「答えを得る事……?」
「そ。私はねぇ、元々合理的に進めたがるタイプだから答えが分からないなんてのは好きじゃなかったの。そうやって合理性の為に答えを追求し続けた結果がこれだった」
今じゃ合理性の為じゃなくて答えを得る行為だけが先走りしているけれど、でも後悔はしていない。
少なくとも私の生活においての娯楽になっている訳なのだから、手段と目的が入れ替わっている現状に特に何を思う事も無いのだ。
「でもフラン様、明確な答えが存在しない物もあると思うのです。そう、例えば」
「愛とかって言いたいんでしょ? 人間ってそういうの言いたがるらしいものね」
私がそう返すと、言葉を遮られた事に驚いたのか、咲夜は一瞬押し黙って目を見開いていたが、仕切り直そうと咳払いをして続け始めた。
「えぇ、そうですとも。私も良く存じ上げないのですが、愛というのは人によって異なる曖昧な存在だと言われています。きっと私が思うに経験をしないと答えが分からないというものは存在すると思うのです」
実体験を経た当人にしか分からず、ましてや人によって理解も異なる曖昧で不安定な存在。
普遍的な定義付けも出来ないそれが、果たして書物の知識のみで明確な答えを持つのかというのが咲夜の考えであるらしい。
確かに、この考えは私も薄々気付いていた。
いつの日か、初めて人間を生きている形で見た日。
書物だけでは絶対に得られなかった人間の情報が私の目には今でも灼きついている。
経験こそが答えと成り得るのだと。
「そうねぇ。じゃあさ、私に咲夜の考えを証明してみせてよ。経験しないと分からない愛の答えとやらをさ」
そう私が言ってみせると、咲夜は困惑した様な顔を見せた。
如何やらこんな無茶振りをされるとは思っていなかったらしい。
「あはは、悪かったわよ。そんなの咲夜じゃ出来ない事くらいは分かっているから」
「そう言われるとなんだか傷つきますね……」
軽く笑ってやると、僅かながらに琴線に触れたらしく、咲夜がむっと眉を寄せ、口を固く結んだ怒りの表情をしてみせた。
その姿が余りにも可愛らしかったので、ついつい悪戯心が湧いてきてしまった。
だからこう、ちょっと悪ふざけをしてみることにしたのだ。
「私、咲夜の事好きよ」
唐突に好意を口にしてやったものだから、咲夜の目は見開き、一瞬言葉に詰まった様子を見せた。
中々に面白い反応を見せてくれる。
咲夜は数秒程で平静を取り戻し、私の方を真っ直ぐに見つめていた。
「それは、likeの方ですか? それともloveの方ですか?」
先程の話を加味した上での質問だろう。
私はこれにもちょっとした意地悪で返してやる事にした。
「……どっちだと思う?」
そう言って私は咲夜に笑いかけてみせた。
咲夜の方は口を閉じたままであった。
動揺を見せる事も、動く事もせずにただ私の目を一心に見つめていた。
私が咲夜の挙動を不思議に思い、何かを言おうとした瞬間、咲夜の口が開いた。
「私は、loveの方が良いのですけれど」
そういって見せた咲夜の顔は、普段と何の変わりも無いように見え、それが余計に彼女の心情を分からなくさせた。
平常なのか、動揺しているのか、羞恥に見舞われているのか、怒りを露わにしているのかも、何も理解する事が出来なかった。
でも、私も真っ直ぐに見つめるその瞳だけは、美しいとそう思う事ができた。
咲夜の瞳に見惚れていたという事実に気付いた瞬間、私は自分の顔が熱を帯び始めた事に気付いた。
咄嗟に後ろに向き、彼女の顔から目を逸らす。
「……一本とられたかな」
苦し紛れに呟いたその言葉を咲夜はどう捉えたのだろうか。
もしかしたら、私が照れ隠しで辛うじて捻り出した言葉であると気付いているのかもしれない。
これが俗に言う恋なのかもしれないと気付くのに、然程時間は掛からなかった。
恋は愛へと移り変わる。
咲夜の奴、私の無茶振りを本気で成そうとしているのか。
紅茶の熱は未だ冷めず、それどころか以前にも増して熱を帯びている様で。
私の思考が融ける様にして崩れていく。
どろどろになって私から流れ出ていった物の中には、どうやら私の信条とやらも含まれていた様で、咲夜がいつ来たかとかそんなものは、そんなものは忘れてしまっていた。
今はただ、形の無い、私の嫌いな曖昧な存在に溺れるのも悪くはないなとそれだけを思っていた。
だからなのかふと思ったのだ、十六夜咲夜がここに来てからどれ程の時間が経ったのだろうかと。
何の前触れも無く浮かび上がったその疑問は、それ自身が持つ言いようの無い不快感によって私の本を読む手を止めさせた。
どうしてこんな事を思ったのかを考えてみても、これといった理由が見つからない。
私はこれ以上の自分への追及は無駄だとして、潔く諦める事にした。
とは言っても、初めに抱いた疑問の解を得る事を諦めた訳ではない。
「咲夜がいつ来たかねぇ」
自然と言葉が漏れ出していた。
私は、つい独り言を呟いてしまうほどに自分の口が柔いものだという事実に少しばかりの驚きを抱きながら、同時に今抱えている疑問が、想像よりも遥かに自らの思考を広く占領している事を知った。
特別大事な疑問でも無い訳なのに、答えを得たいという欲求は膨れ上がり、衰える事を知らなかった。
それどころか、時間が経つにつれて何も進展の無い状態が続く事に形容し難いもどかしさをも覚えてしまう。
他人が見れば、たかがそのくらいの事でと笑うかもしれないが、何せ私にとって分からないという状態は好ましく無いものなのだ。
分からない、知らないという状況はいかなる場合においても滞りを発生させる。
物事が合理的に、円滑に進まない事があまり好きでは無かった。
それ故に、地下に籠もっていた495年間はひたすらに知識を吸収し続けていた。
新しい知識を得る事は有意義な行為であると思えるし、実際得た知識を用いて新たな理解が出来た時などは嬉しくもあった。
知識、答えを得るという行為は私にとって絶対的な信頼のおけるものなのだ。
それが相まって今では、心底取るに足りない事であっても知らないという状態が気に食わないし、現状答えが分からないというこの状態に苛立ちを覚えざるを得ない。
しかし必死に記憶を辿ったところで、彼女と持った関わりなど一枚の紙のように薄っぺらい訳だから明確な答えなど当然出る筈もなかった。
「ちょっと面倒だけど、本人に聞きに行くしかないか」
開いたままであった本を閉じ、私は自室の扉のノブに手を掛けた。
そこで私は、最近は鍵が掛けられていないので壊す必要がない事を思い出した。
私が外に出る度に扉を直さなくてはならないというのは手間であるというのがようやっと理解されたのだと、何処か呆れたような満足したような気持ちになった。
そういえば、私の部屋に鍵が掛けられなくなったのは、白黒とか紅白とかの人間達が家にやって来る様になった頃だったと思う。
咲夜と話す様になったのも確か同じ時期だった筈だ。あまり確証は無いのだけれど。
まぁいい、どうせ咲夜に聞きに行けば全て分かる事だ。
私は手を掛けたままであったノブを捻って扉を開き、自室から足を踏み出した。
◆◆◆
「あれ、フランじゃない。どうしたの?」
お姉様の所に行けば咲夜にも会えるんじゃないかという私の予感は完璧に外れていた。
お姉様の部屋にいるのは、私とお姉様の2人のみ。
十六夜咲夜など影も形も無かった。
咲夜と言えばお姉様にくっ付いているという勝手なイメージを持っていたので、こういった安直な予測を立ててしまった。反省しようと思う。
そうは言っても、この広い館の中で忙しなく働く1人のメイドの所在など把握出来る訳もない。
結局の所、私はやはりお姉様の許へと行くしか無かったのだ。
「あぁちょっとね、咲夜を探してて。何処にいるか知ってる?」
「咲夜? 今ならキッチンで片付けしてると思うけど」
キッチン、直ぐに滅茶苦茶になる厄介な場所だと咲夜が言っていたあれか。
「ふーん、じゃあ手伝いにでも行ってあげようかな」
「……邪魔はしないようにね」
「分かってるわよ」
如何やら私はお姉様に信頼されていないらしい。
そんな分別もつかない程に幼稚であると思われているのは、心外であった。
邪魔するつもりなど毛頭無かったのに、その様に思われていると知ってしまえばその気になってしまうというものだ。
キッチンに行ったら少しだけ脅かしてやろうかと、そんな考えが次々と浮かんできていた。
「うーん、やっぱり行かせるべきじゃないかもしれない」
あれこれ考えている内に、私の邪心は見透かされていたようでお姉様が怪しんだ顔をしながら私を見つめていた。
「そういえばさ、フランは咲夜に何の用があるの?」
お姉様に礼を述べて部屋を出ようとしたその時、私は声を掛けられて止められた。
咲夜への用事、それは彼女に聞きたい事がある、それのみである。
その内容を話せば恐らく、それ私に聞けば十分でしょ、なんて言われるだろう。
しかし、お姉様は私と同じ長命の吸血鬼である。
私がそうであるのに、お姉様の時間の感覚が正常であるというのは到底信じられない。
だからこそ、私はお姉様から答えを得ようとは思わなかったのだ。
そうは言っても、別に聞かれて隠す様な事でも無い。
私はお姉様に一つ、答えてあげる事にした。
「聞きたい事があったの。咲夜っていつから此処にいるのかってね」
「なんだ、そんなの私に聞けば十分でしょうが」
「あーやっぱり」
「え? 何がよ?」
案の定、私が考えていた事と同じ事を口にしたので思わず声に出てしまった。
やはりお姉様は分かり易い。
度々こんなだから、従者に変な紅茶を入れられるのだろう。
さて、いくらお姉様であっても頭にクエスチョンマークを浮かべたままでは可哀想である。
咲夜の居場所も分かった訳だし、もうお姉様には用が無いのだから、お姉様の疑問を取っ払ってキッチンへ向かうとしよう。
私は頭上にあるクエスチョンマークを手で払ってあげ、更に当惑した表情を浮かべるお姉様に笑いかけながら、そのまま部屋から飛び出した。
後ろから私に説明を求める様な声が聞こえてくるが、恐らく気のせいだろう。
◆◆◆
キッチンに着くともう殆ど片付けは済んでいた様で、私の出番が無いというのは明白であった。
妖精メイド達と咲夜の何人かが、今まさに洗い終わった皿を仕舞おうとしていたのだ。
来るのが遅かったというのはいささか残念であったが、目的の咲夜を其処で見つける事が出来たので取り敢えずは良しとしようと思う。
「あら妹様。どうなさいました?」
「んーなに、ちょっと咲夜に用事があってねぇ」
私の言葉を聞いた途端咲夜はぽかんとした表情を浮かべ、私に用事があるなんて珍しいですねと、本当に珍しそうにして返してきた。
咲夜はその場にいた妖精メイド達を別の仕事に向かわせ、この場には私と咲夜の2人のみが残っていた。
「それで用事とは?」
「大したものじゃないけど聞きたい事があってさ。咲夜ってうちに来てからどの位経つ?」
「どの位ですか……んーまだ五年は経ってないんじゃないですかね。実はあんまり覚えてなくて」
咲夜からの返答は、期待していたものよりずっと曖昧なものであった。
何処か拍子抜けしてしまう程、彼女のそれは期待外れその物だった。
曖昧な答えを出されるのが嫌で、まだ時間感覚が正しく働くであろう人間、ましてや本人である咲夜を選んだのにその答えがこれかと酷く落胆を覚えた。
「……咲夜、本当に覚えてないの?」
「ええ、まぁ。時間を止めたり早めたりと色々やってる訳ですから、どうもそこらの感覚が曖昧でして」
盲点だった。
てっきり普通の人間の様な感覚が有るとばかり思っていたが、生憎咲夜はただの人間ではない。
時間を操れる様な人間が、記録にも残っていない過去の出来事の事など正確に覚えている訳も無かったのだ。
「ご期待に添えず申し訳ありません」
「んー大丈夫。そんなに謝らなくてもいいわ」
とは言ったものの私の失意には何ら変化はない。
結局の所、明確な解を得る事は出来ず、もどかしさを抱きながら諦めろという事なのだ。
時には諦めも肝要、そういう事なのだろうか。
私は咲夜に一言礼を告げて、キッチンから立ち去ろうとした。
「フラン様」
咲夜が私を名前を呼んだ声が聞こえた。
足を止めて振り向くと、咲夜が私のティーカップを手にしていた。
「紅茶、如何ですか?」
私は頬杖をつきながら、咲夜が紅茶を注ぐ姿を眺めていた。
そう言えば、咲夜が紅茶を入れる姿を見るのは初めての気がする。
私自身部屋に籠りっぱなしであったし、紅茶を見るのも運ばれてくる物のみであった訳なので、こうして工程を見ながら紅茶が来るのを待つというのは新鮮な気分だった。
「ねぇ咲夜、どうして紅茶を勧めてきたの?」
先程から気になっていた事を、率直にぶつけてみる事にした。
あの場面で私を呼び止めまでして、どうして紅茶を入れる気になったのか、私には分からなかったのだ。
「先程も申し上げた通り、フラン様のご期待に応えられなかった事への僅かばかりのお詫びですよ」
「そんな気にする事もないのに。がっかりしたのは事実だけどそれは私の認識が甘かったからだし、そんな大事な事でもないんだからさ」
「……もう一つ加えるとすると、貴方のああいう顔を余り見たくはなかったものですから」
どうやら私の不機嫌具合は顔に出てしまっていたらしい。
どうにもばつが悪くなり、返すべき言葉が見つかる事は無く、私が出来る事は沈黙を返す事ばかりだった。
暫しの静寂を破る様にしてテーブルにカップが置かれる音が響いた。
「お待たせしました」
私はカップを持ち上げ、それを口へと運ぶ。
一口飲む毎に、ほのかな熱を持った流体が身体を支配していた落胆を融かしてゆく。
身体に熱が伝わりきるのと同時に、私の心情は穏やかさを取り戻していた。
「やっぱり美味しいわね、咲夜の入れた紅茶は」
「フラン様にそう仰って頂けるのなら光栄ですわ」
此処で疑問を一つ違和感を覚えた。
咲夜の私の呼び方が定まっていないように思えたのだ。
「……咲夜って私の呼び方変えてない? さっきは妹様って呼んでなかったっけ」
咲夜は、あぁと何処か納得した様な声を出すと、私の違和感は間違っていないという事を伝えてきた。
「そうですね、私はあくまでお嬢様に仕える身ですから立場上妹様と呼ばせて貰っていますが、ただ何と言いますか、妹様というのはどうにも貴方がついでであるかの様に感じてしまったものですから。せめて二人の時には名前で呼ばせて貰いたいと思った訳なのです」
彼女は、お気に召さないのであれば直ぐにでも変えさせて頂きますと一言加えて私へと話してみせた。
成る程、要は私をお姉様のついでの様な扱いをする事に罪悪感があったのだろう。
私自身別に気にする事は無いし、失礼なものじゃなければ勝手にしてくれとばかり思っていたのだが。
人間というのは案外どうでも良い事を気にするらしい。
ただそれを伝えると、私にとっては大切な事なのだと譲る事は無かった。
「フラン様は、自分の中で譲れない、大切な事って有るんですか?」
咲夜からの問いが何故か深く心に残った気がした。
私にとって大切な事、絶対的なもの。
「答えを得る事かな。どんな問題に対してもその答えは必ず存在する訳だから。それを知る事が、私にとっての趣味であり、仕事であり、そして信条でもある」
「答えを得る事……?」
「そ。私はねぇ、元々合理的に進めたがるタイプだから答えが分からないなんてのは好きじゃなかったの。そうやって合理性の為に答えを追求し続けた結果がこれだった」
今じゃ合理性の為じゃなくて答えを得る行為だけが先走りしているけれど、でも後悔はしていない。
少なくとも私の生活においての娯楽になっている訳なのだから、手段と目的が入れ替わっている現状に特に何を思う事も無いのだ。
「でもフラン様、明確な答えが存在しない物もあると思うのです。そう、例えば」
「愛とかって言いたいんでしょ? 人間ってそういうの言いたがるらしいものね」
私がそう返すと、言葉を遮られた事に驚いたのか、咲夜は一瞬押し黙って目を見開いていたが、仕切り直そうと咳払いをして続け始めた。
「えぇ、そうですとも。私も良く存じ上げないのですが、愛というのは人によって異なる曖昧な存在だと言われています。きっと私が思うに経験をしないと答えが分からないというものは存在すると思うのです」
実体験を経た当人にしか分からず、ましてや人によって理解も異なる曖昧で不安定な存在。
普遍的な定義付けも出来ないそれが、果たして書物の知識のみで明確な答えを持つのかというのが咲夜の考えであるらしい。
確かに、この考えは私も薄々気付いていた。
いつの日か、初めて人間を生きている形で見た日。
書物だけでは絶対に得られなかった人間の情報が私の目には今でも灼きついている。
経験こそが答えと成り得るのだと。
「そうねぇ。じゃあさ、私に咲夜の考えを証明してみせてよ。経験しないと分からない愛の答えとやらをさ」
そう私が言ってみせると、咲夜は困惑した様な顔を見せた。
如何やらこんな無茶振りをされるとは思っていなかったらしい。
「あはは、悪かったわよ。そんなの咲夜じゃ出来ない事くらいは分かっているから」
「そう言われるとなんだか傷つきますね……」
軽く笑ってやると、僅かながらに琴線に触れたらしく、咲夜がむっと眉を寄せ、口を固く結んだ怒りの表情をしてみせた。
その姿が余りにも可愛らしかったので、ついつい悪戯心が湧いてきてしまった。
だからこう、ちょっと悪ふざけをしてみることにしたのだ。
「私、咲夜の事好きよ」
唐突に好意を口にしてやったものだから、咲夜の目は見開き、一瞬言葉に詰まった様子を見せた。
中々に面白い反応を見せてくれる。
咲夜は数秒程で平静を取り戻し、私の方を真っ直ぐに見つめていた。
「それは、likeの方ですか? それともloveの方ですか?」
先程の話を加味した上での質問だろう。
私はこれにもちょっとした意地悪で返してやる事にした。
「……どっちだと思う?」
そう言って私は咲夜に笑いかけてみせた。
咲夜の方は口を閉じたままであった。
動揺を見せる事も、動く事もせずにただ私の目を一心に見つめていた。
私が咲夜の挙動を不思議に思い、何かを言おうとした瞬間、咲夜の口が開いた。
「私は、loveの方が良いのですけれど」
そういって見せた咲夜の顔は、普段と何の変わりも無いように見え、それが余計に彼女の心情を分からなくさせた。
平常なのか、動揺しているのか、羞恥に見舞われているのか、怒りを露わにしているのかも、何も理解する事が出来なかった。
でも、私も真っ直ぐに見つめるその瞳だけは、美しいとそう思う事ができた。
咲夜の瞳に見惚れていたという事実に気付いた瞬間、私は自分の顔が熱を帯び始めた事に気付いた。
咄嗟に後ろに向き、彼女の顔から目を逸らす。
「……一本とられたかな」
苦し紛れに呟いたその言葉を咲夜はどう捉えたのだろうか。
もしかしたら、私が照れ隠しで辛うじて捻り出した言葉であると気付いているのかもしれない。
これが俗に言う恋なのかもしれないと気付くのに、然程時間は掛からなかった。
恋は愛へと移り変わる。
咲夜の奴、私の無茶振りを本気で成そうとしているのか。
紅茶の熱は未だ冷めず、それどころか以前にも増して熱を帯びている様で。
私の思考が融ける様にして崩れていく。
どろどろになって私から流れ出ていった物の中には、どうやら私の信条とやらも含まれていた様で、咲夜がいつ来たかとかそんなものは、そんなものは忘れてしまっていた。
今はただ、形の無い、私の嫌いな曖昧な存在に溺れるのも悪くはないなとそれだけを思っていた。
定期的に一本とられて赤面して欲しいですね
フランクなフランがよかったです
あれもラブ、それもラブ
理知的で詩的な表現もそうですが、変な吸血鬼を振り回してはおとぼけ人間に振り回されるこの感じが平和で良かったです。
愛が角砂糖の様に紅茶に溶けて消えて行った様なそんなラストも気持ちよかったです。ありがとうございました。
有難う御座います。生き帰りました
恋が愛に変わっていく過程そのものを良しと思えて、味わえるようになるのかなと余韻に浸れるラストが美しかったです。
別サイトでこちらの作品を先に拝見していたので、このサイトで見つけた時はたいへん喜びましたありがとうございます。