雲を抜けた、山を越えた、星が見えた。
まっすぐに整った長髪はわずかな風に惑わされ、明るい下弦の月が照らし出すその濡羽色の髪は、まさに夜に光る竹の色のようであった。
今日はなんだか調子が悪く、妹紅にボロ負けしてしまった輝夜。
なんだか無性にイライラするので、彼女は夕飯も食べずに、一人竹林の上空で月を眺めていた。
月。Lunatic――狂人――という単語が示すように、月は人の心を狂わせてしまう。
本当は霊気のせいなどではない。一言でいうならばあれは永遠である。無常であるこの世に対して、確かに満ち欠けする月は無常のモノなれど、その本体は永劫に変わることはない――月を見て、その事実に絶望してしまった人間は狂ってしまうのだろう。月とは畏怖の対象であった。
だが彼女にとってはそうでなかった。
彼女自身が永遠だった。
「はぁ……」
あまりの眩さに目を細める。月の光の優しい音が鼓膜を打つ。
二度と戻れぬ故郷。望郷の念は幾百年の月日とて消せるものではない。しかし彼女は罪人であった。あまりにも無責任な無限と永遠の代償は、狂うことも許されぬこの永遠の死ぬまでの暇つぶしであった。
妹紅との殺し合いは暇つぶしである。もしかすれば何かの拍子にどちらかが死ねるかもしれない――そんな望みなどとうの昔に消え去った。
「あら? あれは何かしら……」
そんなことを考えながら感傷に浸っていると、南西の方角に何やら不思議な穴があることに気付いた。いや、本当に空に穴が空いていたのである。雲は千切られ千切られ、そのフラクタルは深淵へと吸い込まれていった。
輝夜は、自分でもほぼ気が付かないうちに、その穴に向かって飛んでいた。
これほどまでに長い年月を過ごしても、好奇心とは失せやらぬものだ。新しさは、いつだって彼女の止まった時を揺さぶろうとしてくれた。
穴の前にたどり着くと、奥からは幽かな花の香りが漂った。
イナバや永琳が心配するかしら、と思ったが、どうせ死ぬこともないと思い、飛び込んだのだった。
◇
「姫様ーっ、ごはんですよー。姫様ー?」
「多分、竹林を散歩してらっしゃるのよ。あれだけボロボロにされちゃったからかしらねえ」
「お味噌汁が冷めちゃいますよう」
「大丈夫よウドンゲ。じきに帰ってくるわ」
永琳は仕方ないな、とでもいうような顔で夜空を見上げていた。
◇
階段があった。長い長い階段。
輝夜は、初めて立ち入ったその場所に、なぜだかまるで故郷に戻ったかのような、懐かしい感覚を抱いていた。
永遠にも思えた階段は、幾つもの灯篭と桜を従えて、何処かへと誘うようであった。
やっと階段を飛んで登り切ると、そこに広がっていたのは無限の空間と、そこに漂う霊魂、散りゆけど枯れぬ桜、そして大きな屋敷であった。
「あら?珍しい方がお見えになったのね」
起源を持たぬ風が桜の花びらを薙ぎ払い、そこに一匹の蝶と女を現した。
蝶は、差し伸べられた女の指に接吻をすると、ぽとりと落ちて動かなくなった。
「誰?私を知っているの?」
「ええ、貴方はとても有名ですもの」
扇の裏で上品な笑みが零れる。
彷徨える霊魂は蝶に変わっていく。
「永夜異変以来ね。西行寺幽々子です。こんなところではナンですから、楼の中でお茶などどうでしょうか?」
◇
通された場所は、大きな枯れた霊桜の聳える枯山水が見える茶室であった。
空は暗いとも明るいともつかぬようで、雲に見えるものも霞に見えるものも、よく見ればおびただしい数の魂であった。
彼女の従者が茶を入れる。三泊八日みたいな名前だった気がするが思い出せない。というか何なのだ、三泊八日って。
「……不思議な場所ね。なんだか懐かしい気分だわ」
「あら、そうなのかしら?あなたは輪廻から外れていたはずだけれど」
「永遠よ」
輝夜は庭園を眺めて言う。
「ここには永遠があるのね。月の都と同じ。永遠の桜、永遠の空間……とても美しいわ」
「そう。なるほどね。これも一つの美しさなのかもしれないわね」
幽々子は、ふと茶器を持つ手を止めて、少し考えた風にしながら言う。
「実をいうなら、私はあんまり好きじゃないのよね」
そう言うと、幽々子は蝶をあつめて、みんな死なせてしまった。
朱、紫、桃色などの雅な羽が散らばっていく。
「この蝶も、あの散っている桜も……わざとそうさせているの。言うなれば無常ごっこかもしれないわね」
「……貴方は、この眺めをどう思うの?」
輝夜が尋ねる。
「私からすれば、少しだけ寂しい場所ね。永遠でないモノは、あの桜と妖夢ちゃんだけだもの」
「みょん?」
幽々子が扇で指示したのは、あの大きな霊桜であった。
たしかに、あの桜だけは枯れていた。永遠が欠乏した場所だった。
あと八日じゃなくて妖夢だった。
「『散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世に何か久しかるべき』」
幽々子は有名な詩を詠んだ。輝夜はその歌を知っていたが、意味を理解していなかった。
「枯れ行く命は美しいわ。儚い人生など、常ならぬ無慈悲な時の前では……だけど、それが美しいの。永遠に輝ける月と、私の手のひらで死ぬためだけに生まれた蝶の命。比べることはできないわ」
「……なら、なぜ人は永遠の命を欲してしまうのかしら。ありのままで十分に美しいというのでしょう?」
「永き命は、数多の美しさを知ることができる……そう誤解されているから。あまりに長い時間の中では、儚い時間の美しさなど忘れてしまうわ。永遠の中では、1億年も1秒にも差がないんですもの。私も長くここにいる、だからその美しさを忘れないようにこうしているのよ」
「そういうものなのかしらねえ」
「そういうものなのよ」
亡霊の姫君よりも、長い年月を重ねた。それだからこそ、その真の美しさに気付いていなかったかもしれない。
これが『老い』であろうかと輝夜は苦笑した。
庭の空間が裂ける。
永琳と八雲紫が白玉楼に降りてきた。
「姫様、お迎えに上がりましたよ」
「ええ?まだそんなに遅くないでしょう?」
「もう丑四つですよ」
幽々子がコロコロと笑って、「あんまりに永遠に囲まれすぎたからかしらね」と言う。
紫が幽々子に一瞥すると、輝夜と永琳と紫の姿は一瞬で消え去った。
輝夜は幽々子に、「ごきげんよう」と手を振って消えていった。
「妖夢ちゃん、貴方が羨ましいわ」
「何でですか?」
「死ねるからよ」
「みょん!?」
まっすぐに整った長髪はわずかな風に惑わされ、明るい下弦の月が照らし出すその濡羽色の髪は、まさに夜に光る竹の色のようであった。
今日はなんだか調子が悪く、妹紅にボロ負けしてしまった輝夜。
なんだか無性にイライラするので、彼女は夕飯も食べずに、一人竹林の上空で月を眺めていた。
月。Lunatic――狂人――という単語が示すように、月は人の心を狂わせてしまう。
本当は霊気のせいなどではない。一言でいうならばあれは永遠である。無常であるこの世に対して、確かに満ち欠けする月は無常のモノなれど、その本体は永劫に変わることはない――月を見て、その事実に絶望してしまった人間は狂ってしまうのだろう。月とは畏怖の対象であった。
だが彼女にとってはそうでなかった。
彼女自身が永遠だった。
「はぁ……」
あまりの眩さに目を細める。月の光の優しい音が鼓膜を打つ。
二度と戻れぬ故郷。望郷の念は幾百年の月日とて消せるものではない。しかし彼女は罪人であった。あまりにも無責任な無限と永遠の代償は、狂うことも許されぬこの永遠の死ぬまでの暇つぶしであった。
妹紅との殺し合いは暇つぶしである。もしかすれば何かの拍子にどちらかが死ねるかもしれない――そんな望みなどとうの昔に消え去った。
「あら? あれは何かしら……」
そんなことを考えながら感傷に浸っていると、南西の方角に何やら不思議な穴があることに気付いた。いや、本当に空に穴が空いていたのである。雲は千切られ千切られ、そのフラクタルは深淵へと吸い込まれていった。
輝夜は、自分でもほぼ気が付かないうちに、その穴に向かって飛んでいた。
これほどまでに長い年月を過ごしても、好奇心とは失せやらぬものだ。新しさは、いつだって彼女の止まった時を揺さぶろうとしてくれた。
穴の前にたどり着くと、奥からは幽かな花の香りが漂った。
イナバや永琳が心配するかしら、と思ったが、どうせ死ぬこともないと思い、飛び込んだのだった。
◇
「姫様ーっ、ごはんですよー。姫様ー?」
「多分、竹林を散歩してらっしゃるのよ。あれだけボロボロにされちゃったからかしらねえ」
「お味噌汁が冷めちゃいますよう」
「大丈夫よウドンゲ。じきに帰ってくるわ」
永琳は仕方ないな、とでもいうような顔で夜空を見上げていた。
◇
階段があった。長い長い階段。
輝夜は、初めて立ち入ったその場所に、なぜだかまるで故郷に戻ったかのような、懐かしい感覚を抱いていた。
永遠にも思えた階段は、幾つもの灯篭と桜を従えて、何処かへと誘うようであった。
やっと階段を飛んで登り切ると、そこに広がっていたのは無限の空間と、そこに漂う霊魂、散りゆけど枯れぬ桜、そして大きな屋敷であった。
「あら?珍しい方がお見えになったのね」
起源を持たぬ風が桜の花びらを薙ぎ払い、そこに一匹の蝶と女を現した。
蝶は、差し伸べられた女の指に接吻をすると、ぽとりと落ちて動かなくなった。
「誰?私を知っているの?」
「ええ、貴方はとても有名ですもの」
扇の裏で上品な笑みが零れる。
彷徨える霊魂は蝶に変わっていく。
「永夜異変以来ね。西行寺幽々子です。こんなところではナンですから、楼の中でお茶などどうでしょうか?」
◇
通された場所は、大きな枯れた霊桜の聳える枯山水が見える茶室であった。
空は暗いとも明るいともつかぬようで、雲に見えるものも霞に見えるものも、よく見ればおびただしい数の魂であった。
彼女の従者が茶を入れる。三泊八日みたいな名前だった気がするが思い出せない。というか何なのだ、三泊八日って。
「……不思議な場所ね。なんだか懐かしい気分だわ」
「あら、そうなのかしら?あなたは輪廻から外れていたはずだけれど」
「永遠よ」
輝夜は庭園を眺めて言う。
「ここには永遠があるのね。月の都と同じ。永遠の桜、永遠の空間……とても美しいわ」
「そう。なるほどね。これも一つの美しさなのかもしれないわね」
幽々子は、ふと茶器を持つ手を止めて、少し考えた風にしながら言う。
「実をいうなら、私はあんまり好きじゃないのよね」
そう言うと、幽々子は蝶をあつめて、みんな死なせてしまった。
朱、紫、桃色などの雅な羽が散らばっていく。
「この蝶も、あの散っている桜も……わざとそうさせているの。言うなれば無常ごっこかもしれないわね」
「……貴方は、この眺めをどう思うの?」
輝夜が尋ねる。
「私からすれば、少しだけ寂しい場所ね。永遠でないモノは、あの桜と妖夢ちゃんだけだもの」
「みょん?」
幽々子が扇で指示したのは、あの大きな霊桜であった。
たしかに、あの桜だけは枯れていた。永遠が欠乏した場所だった。
あと八日じゃなくて妖夢だった。
「『散ればこそいとど桜はめでたけれ 憂き世に何か久しかるべき』」
幽々子は有名な詩を詠んだ。輝夜はその歌を知っていたが、意味を理解していなかった。
「枯れ行く命は美しいわ。儚い人生など、常ならぬ無慈悲な時の前では……だけど、それが美しいの。永遠に輝ける月と、私の手のひらで死ぬためだけに生まれた蝶の命。比べることはできないわ」
「……なら、なぜ人は永遠の命を欲してしまうのかしら。ありのままで十分に美しいというのでしょう?」
「永き命は、数多の美しさを知ることができる……そう誤解されているから。あまりに長い時間の中では、儚い時間の美しさなど忘れてしまうわ。永遠の中では、1億年も1秒にも差がないんですもの。私も長くここにいる、だからその美しさを忘れないようにこうしているのよ」
「そういうものなのかしらねえ」
「そういうものなのよ」
亡霊の姫君よりも、長い年月を重ねた。それだからこそ、その真の美しさに気付いていなかったかもしれない。
これが『老い』であろうかと輝夜は苦笑した。
庭の空間が裂ける。
永琳と八雲紫が白玉楼に降りてきた。
「姫様、お迎えに上がりましたよ」
「ええ?まだそんなに遅くないでしょう?」
「もう丑四つですよ」
幽々子がコロコロと笑って、「あんまりに永遠に囲まれすぎたからかしらね」と言う。
紫が幽々子に一瞥すると、輝夜と永琳と紫の姿は一瞬で消え去った。
輝夜は幽々子に、「ごきげんよう」と手を振って消えていった。
「妖夢ちゃん、貴方が羨ましいわ」
「何でですか?」
「死ねるからよ」
「みょん!?」
輝夜と幽々子の、それぞれの永遠観・無常観の対比、それをめぐる問答がおもしろかったです。
それと、情景描写がきれいで、特に幽々子の儚げで危うい感じが好き。
輝夜と幽々子がお互いに自身の無常観などを語り合うのは2人にとっても有意義なものになったのではないでしょうか。
命という儚さの美しさ、それを想い続ける者と忘れまいと抗い続ける者。そういった対比もきいていて面白かったなと思います。
何処と無く漂う無常感が良かったです。
輝夜の目を通した、必要以上に飾らないその地の文も情緒を軽く揺する様な優雅さが見え隠れしていて良かったものでした。
無常ごっこという単語、とても好きです。端的かつ顕著に冥界そのものを表現してて、だからこそそれとは一線を画した存在である妖夢が端役でありながらも映えていたのかもしれません。面白かったみょん。
重い命題をサラリと語る二人に年長者らしさを感じられてよかったです
みょん