八雲紫は優秀な従者を求めて、各地の強者に声をかけて回っていた。ある日、九尾の狐の封印が解けたという噂を聞きつけた。傾国とも揶揄されるその大妖怪はどこぞの僧に退治された後、封印され殺生石となり、各地に飛散したのだが、その欠片の内一つが復活したのである。硫黄のにおいと熱い煙が立ち込める中、九尾は堂々とそこに立っていた。
「あなたが噂の正体ね」
「いかにも、まぁ力は衰えたがな」
「なぜ服を着ていないのかしら?」
「知りたいか、くく、私は美しい。大陸で最も、だ。ゆえに着飾る必要などない! あんなものは身を縛る鎖だ。それを編み込んで作った鎧だ。軟弱な人間どもに溶け込むため着ていたが……もう吹っ切れた、私は自由だ! ああ、なんとも心地よい」
九尾は自身の色香が、一嗅ぎで死に至る毒であることを知っていた。だから今までは、布地に身を包み、わずかに肩や素足を晒すことで、その毒素を知らぬ間に人間たちに浸潤させ、じわじわとなぶるように惑わせて、籠絡の悦に浸っていた。しかし、幾人もの肉を抱きしめた九尾の心は、搦手による遠い回り道に飽いていた。牙も爪も隠してはならない。妖怪ならば裸一貫、一糸纏わぬありのまま、己が身一つ堂々と、人の前に立ちはだかり、眼を焼き、肉を食み、心を蝕み、芯鉄から崩れ落ちる様を、けたけたと高笑いしながら見下すべきなのだ。
紫に妖怪としての実力があることを見抜いたうえで、気高い九尾の欠片は傲慢にもこう言ってのけた。
「長い髪、荘厳な衣装、開いた檜扇は顔を隠す化粧か。それはすべてお前の自信のなさの表れだ。お高く留まっているようで、人にすり寄るその醜さ、腑抜けな間抜けの象徴だな。妖の風上にも置けやしない」
同じく強大な力を持つ妖怪であるはずの紫は、過去の面影を重ねて、込み上げてくる恥じらいの感情を抑えながら、怪しく笑った。
「ふふ、青いわね」
「なんだと、傾国とも謂れがある私に向かってなんという言い草だ」
「じゃあ藍ね、青の手前の草」
「ふん、なるほど年だけ重ねた妖怪風情か、口はたつようだな。精根枯れ果てた婆の説法など聞きたくもないわ」
「あー?」
この日、妖怪の賢者にとても優秀で従順な僕がついた。藍の初めての仕事は、屈辱の涙を流しながら、割烹着を着て、赤飯を炊くことだった。
今は昔、八雲紫という女型の妖怪がいた。彼女は美しかった。あどけなさと妖艶さを併せ持つ顔つき、情欲を揺さぶる柔らかな肢体、高飛車でも、へりくだるでもない女性らしい品格。雲が空をわずかに隠す夕焼けを、そのまま切り取った絵画のような、完成された美を彼女は自覚していた。そして彼女は強かった。知名度としては鬼に劣るものの、日の元では妖として上位に君臨できる実力を秘めていた。
すべては八雲紫という妖怪が誕生したときに決まっていた。何処までも妖怪然とした、あやふやで強大な像を付与されていたのだ。
ゆえに彼女は一切衣服を身につけなかった。常時素っ裸で寛々とした日々を過ごしていた。逢魔が時にその姿を現すと、夕闇が白い柔肌を照らし、一層艶やかに映る。夜が彼女を祝福していた。誰もその肉体を直視できなかった。触れるどころか、眼に入れることすらおこがましい、さながら劇薬のような魅惑を孕んでいた。
あくる日、情欲を捨て去った盲目の僧が「寒くはないのか」と尋ねた。雪の降る朝であった。眠そうに顔を上げた太陽が紫を照らしていて、ふらふらと頼りなく振ってくる雪の結晶の一欠けが、白い肩に乗って、はらりと溶けた。
「はい」
獣は毛皮で、鳥は羽で、人は衣服で、それぞれが寒暖という自然や、様々な病魔から身を守っている。だが外敵のない彼女にとってそれは不必要なものだった。
「では、恥はないのか」
「ありません」
羞恥心とは、相違への恐怖と不安だ。個性は時に争いを生む。人は、己が他者と違うという事実に耐えられないのだ。衣服とは人間の創造した文化であり、すでに生活に根付いており、誰もその常識を疑わない。紫はそのことは十二分に理解はしている。だが、あえて合わせる理があるだろうか、己に絶対の自信を持つ彼女に、果たして恥の感情が存在するのだろうか。
「化粧もしないというのか」
「なぜ、その必要があるのです」
補うものなど何もない。なぜなら彼女は唯一無二で、完成しているのだから。
打って響くような鐘ではないと、盲目の僧は言葉を失い、二度と現れることはなかった。
そんな完全無欠であるはずの紫にも悩みがあった。知り合い、もとい友達が少なかったのだ。親しく話せる旧知の友人もほとんどなければ、夜中に這い寄る猿顔の益荒男もなく、身を削りながらも、その苦労の断片を見せずに茶を注ぐ優雅な従者もない。いずれも候補に名乗り出る厚顔な者などなく、たとえ拉致したとて現世、もしくは冥府に逃げてしまう始末だった。すべてを見透かし、飲み込むような瞳が恐ろしかった。誰もが彼女の下腹部の湾曲に黄泉路を想起した。艶かしい仕草で手招きをしてみても、近寄る者は皆無であった。
紫は孤独が嫌いなわけではなかったが、納得がいかなかった。決してちやほやされたいわけではなかったが、不思議だった。一切合切、全く以て、称賛の声など毛ほども聞きたいわけではなかったが、不条理だった。
困った紫は数少ない友人である摩多羅隠岐奈に相談することにした。彼女の住む後戸の国を訪ね、そこで二人の従順な僕の内、一人を分けてくれと頼んだが、すっぱりと断られた。隠岐奈はその代わりに助言をした。
「人は天を仰ぐとき、その光を直視できないものだよ」
「だからこそ尊いのでしょう。人は偉大なる神を信仰します」
「その通りだが、人間も馬鹿ばかりではない。光は尊いが、決して手が届かないことを理解してる。裏を返せば、触れられるという幻想は人を狂わせるのさ」
「むう」
「天照はそこんとこ賢いんだ。無論私も。荘厳だがどこか親しみやすいだろう」
隠岐奈はあどけない表情で、けらけらと笑っていた。
人の形は神によく似ている。威光と親しみが信仰を生み出すのだ。逆に、自らを変え人の姿から遠ざかった神々は、畏怖の対象となる。隠岐奈はそのことをよく理解していた。
「例えば月だ。月は美しいが、ときに欠ける。愚かな人間、もしくは妖怪はいずれ月を目指すだろう。なぜなら手が届くと錯覚してしまうからだ。一概に悪いとは言えんがね」
隠岐奈は含みを持たせて、最後にこう言った。
「賢くなれ、紫」
「……わかったわ」
納得がいったわけではなかった。だが、胸の内側にまとわりつく淀みが、意固地になるのを拒んだ。助言ごときが価値観を変えるはずもないが、隠岐奈の言葉は、自我の裏側にある頼りない第三者の視点の味方となってくれた。仕方なしに紫は、服を着ることにした。
次の日からさっそく紫は、秘神から譲り受けた道士服を身につけ、町を練り歩いた。すると誰もが振り返り、男は鼻の下をだらしない餅のように伸ばし、女は砂を噛んだかのように振舞いつつ、爪を噛んだ。道士服はそれほどまでに似合っていた。一見派手な装飾が彼女の妖しさを包み隠す、調和のとれた格好であった。
「なるほど、悪くないわ」
人の表情が良く見えるようになった。今までずっと盲目だったことに気づいた。彼らが自身に対して抱いている感情も何となく読み取れる。紫はしゃなりしゃなりと数刻ほど歩き、注目が集まる前に姿を隠した。
美しい女性が都のどこかに出没するという噂は、たちまち広まった。どこぞの姫君か、はたまた妖の魅せる幻覚か。時折町に出没する彼女を探し求めて、様々な身分の者が、亡霊のようにあてどなく徘徊した。宮殿からの申し出にも反応しないため、貴族たちは苛立った。なぜ手に入らないのだ、私は偉いのに、と。
そんな滑稽な彼らの様子を覗き見て、紫は厭らしく微笑んだ。なるほど面白い、彼らは私を求めてる。地位、富、あらゆる手段を使ってわずかな可能性に縋り、それでも叶わないとみるや童のように駄々をこねる。潔く諦めることを忘れてしまったのだ。
しかし、しばらく姿を見せないでいると、あの女性象は鬼が見せたまやかしであった、という結論に至り、人々の間で噂は風化した。理解の及ばぬ現象は、妖の仕業とされ封印される。それは人が平静を保つための防衛策であった。
時の流れが、忘却を仄めかしたところで、紫はわざと貧困な者たちの前に姿を見せた。すると、悔しさが込み上げてきた貴族たちは、紫の姿を見た者たちを、妖怪の僕とみなして処刑してしまった。暴力を振りかざすむき出しの拳、地位に胡坐をかいて驕り高ぶる精神性、紫は過去を映した鏡を見ている気になった。
「愚かねぇ」
嘲るように吐き捨てた。裸の頃を思い返すと、どうしようもなく滑稽だ。あの時は気づけなかったが、きっと隠岐奈も独りよがりに踊り狂う様を、嘲笑していたに違いない。だが己の愚行すら、愛おしいと思えた。裸の頃は、愚かさゆえに無敵だったからだ。ひたむきに完全を求める姿は、間違いなく輝いていた。人は、閃光からは眼を逸らす、されど真っ暗な闇の中では眼を瞑る。どちらにも成ったつもりだった。
もうあの頃には戻れない、戻るつもりもない。夜ですら、真の闇にはなりえない。完全無欠な妖怪などあるものか。そこには、形どころか、存在すらもないだろう。虚無を気取るより、月を目指したほうがよっぽどいい、なぜなら愚者なのだから。妖怪らしく、陰陽の狭間を住処として、派手に着飾り、衣の下で小さな夜を磨き続けよう。
八雲紫はひとつだけ賢くなった。
自称か他称か知られてないが、いつからか、紫は妖怪の賢者と呼ばれるようになっていた。優秀な式を持ち、幻想郷と言う箱庭を管理する傍ら、どこぞの境界に居を構えて、だらだらとあやふやな日々を過ごしていた。
ある晴れた日の朝、白米と味噌汁を胃に収めた紫は、寝ぼけた声で式にお茶を注ぐよう命じた。藍は短い応答で了解し、お茶っ葉の缶と急須をとるために立ち上がった。藍が戸棚のほうへと背を向けた瞬間、遊びに来ていた橙がなにやら神妙な面持ちで、ぼそりと呟いた。
「……動物風情が服を着るなんて、おこがましいですよね」
そう言うとおもむろに服を脱ぎだして、瞬く間に全裸になったかと思うと、脱ぎ捨てた服はそのままに、よどみなくちゃぶ台の上に飛び乗り、小さな身体を丸めた。衣着ぬ猫なども、さながら天板上にありけり、と言った具合であった。
背を向けている藍は、橙の奇行に気づいていない。明らかに主の隙をついての反抗だった。人型は服を着るという概念に中指を立ててみせたのである。それをなんとなく察した紫は、藍に伝えることを躊躇ってしまい、とりあえず丸まっている橙の顎を撫でてやった。すると、うにゃあとあどけない声で鳴いたので、深く追求するのはやめることにして、頬杖をつき、今にも眠ってしまいそうな橙を見守った。思い返すと、今日は橙の様子が少しおかしかった。橙が以前好物と口走ってから、データをインプットしたポンコツコンピューターの手によって、毎朝のように出てくるめざし。それにすら眉一つ動かさず、演算のように黙々と摂取していた。幼い表情にしわが刻まれたのは、先月に庭で採れて、良い感じに漬かった梅干しを口に含んだ時くらいであった。
「ほうじ茶と緑茶どちらが……え?」
「あ、お茶が……」
藍の手から逃げるように零れ落ちた二つの缶は、畳についた瞬間、お茶っ葉を無残に飛び出させ、無機質に横たわった。紫は何もしてやれなかった。悲しき運命であったが、ふと記憶の箪笥の奥にいくつもしまってある知恵袋の内、一つが口を開き、お茶の葉は畳掃除に使えるので無駄にはならない、と思い直すことで傷心を防いだ。そんな紫の心情をよそに、藍は戸惑いを隠匿するため、やさしさを前面に押し出した声色で、労わるように橙に話しかけた。
「橙、どうしたんだ。大丈夫か、暑かったか? それとも誤って水でもかぶってしまったのか?」
橙は左眼で一瞥だけして、何も答えなかった。猫のように丸くなり、猫のように鳴き、その姿はさながら猫だった。藍が近づこうとすると、橙は四つ足で立ち、庭へと逃げた。
「紫様、どうなっているのでしょう」
「私にもさっぱり」
退行したと考えるのが自然であるが、その切っ掛けらしきものを目撃していない。それに服を脱ぐ前に呟いた、動物風情という自虐、つまりこれは意識的な反抗に違いない。弾幕ごっこに敗れたか、友達やマヨヒガの猫に馬鹿にでもされたか、はたまたなんでもないような事象を自分に照らし合わせて傷心したか、理由は橙にしかわからないし、橙ですら理解できていないかもしれない。おそらく彼女は最愛の主である藍に、何かしら理解を示してほしいのだろう。そう推憶した紫は何も言わずに、庭へと駆けていく橙を眼で追いかけた。
しかし、一部始終を見て勝手に納得した紫とは違い、藍はひたすら混乱していた。ふらふらと庭に降りて、式が剥がれたのなら組み直してやらねばと近づいたが、橙は嫌がって逃げてしまう。ならばとマタタビや煮干しで釣ろうとしたが、それもうまくいかず、混乱は増すばかりであった。退行したのなら間違いなく釣れるはずなのだ。と言うことは式が剥がれたわけではない、では服が気に入らなかったのだろうか。藍はそう思って、箪笥の肥やしになっていたフリフリの可愛らしい洋服を、五着ほど引っ張り出してきた。しかし、橙は見向きもせず梅の木によじ登って、幹の三つ又の間に座り、わざとらしくあくびをした。
「橙、どうしたんだ。教えてくれ。な、からかっているだけなんだろう」
「にゃあ」
自分でお茶を淹れた紫は、湯のみを片手に縁側に座り、式と式の式の戯れに似たやりとりをお茶請け代わりに、日向ぼっこに興じた。さんさんと降り注ぐ陽光が、橙の幼い裸体を照らしていた。
「三つ又の、梅枝に眠る、うーん、香散見草、子猫まどろむ……」
いい感じに雅になる気がする。なりそう。なってほしい。季語も入ってるし、今はもう秋だけど。梅の花も、実もないけど。木に登る猫と、木の下で語り掛ける狐、絵になる気がする、そんな気がする。一句できそう。そんな調子で、唄人気分の紫がのほほんとしていると、いよいよ藍は必死になったようで、諭すような口調が懇願に変わっていた。
「頼むから服を着てくれ、恥ずかしくて火が出そうだ」
「なーお」
「怒るよ? 藍様怒るよ? キムチチゲしか作ってやんないぞ。木綿豆腐爆弾仕込むぞ、ふーふーしてやらないぞ、それでもいいのか」
「うにゃ」
「あーもうわかった、ずっとそうしていなさい。もう知りません! 知りませんとも。来年の、梅の花の咲くその日まで、ずっとずうっとそうしていなさい!」
「ぶっほっ、げほっ、げほ、えう」
紫は思わず笑ってしまい、その拍子にお茶が気管に入り込み、むせてしまった。もう知りませんと言いつつ、いまだ繰り広げられている式たちのやり取りが壺に入ってしまったようで、涙目になりながら笑っていた。
「よし。わかった。少し昔の話をしよう。あれは私が紫様と出会うちょっと前だ。私は全裸だったんだ。お前と同じだ。裸こそが至高だと思っていたんだ。でもな、紫様と出会った私は、考えを改めたんだ。裸のままじゃいけないって、爪と牙を隠すために、この衣を羽織ったんだよ」
「……」
橙は困ってしまった。だからなんだというのか。そんな思い出じゃ私の傷は癒えやしないぞ、とでも言いたげな眼でもって、無言の訴えを続けるしかなかった。興奮してよくわからずに過去の事を口走った藍も二の句を告げられずにいた。喧騒の間に訪れた玉響のしじまにて、紫だけは喉の奥から音を絞り出されたみたいな声で笑っていた。
ここで唐突に服を脱いだら面白いだろう、と紫は全裸的衝動に駆られたが、あくまで想像するに留めた。毎日食事をする、家に住む、服を着る。いかにも人間じみた行為に興じながら、それでも妖怪であることを誇る。それは紫の矜持のようなものだった。そして式である藍も、似たような境地に至っていた。
だから、これから橙はきっと一皮むける。紫はそう確信した。
花も実もない梅の木が、風に遊ばれて枝を振る。長閑で姦しい朝は、あっという間に過ぎていった。
「あなたが噂の正体ね」
「いかにも、まぁ力は衰えたがな」
「なぜ服を着ていないのかしら?」
「知りたいか、くく、私は美しい。大陸で最も、だ。ゆえに着飾る必要などない! あんなものは身を縛る鎖だ。それを編み込んで作った鎧だ。軟弱な人間どもに溶け込むため着ていたが……もう吹っ切れた、私は自由だ! ああ、なんとも心地よい」
九尾は自身の色香が、一嗅ぎで死に至る毒であることを知っていた。だから今までは、布地に身を包み、わずかに肩や素足を晒すことで、その毒素を知らぬ間に人間たちに浸潤させ、じわじわとなぶるように惑わせて、籠絡の悦に浸っていた。しかし、幾人もの肉を抱きしめた九尾の心は、搦手による遠い回り道に飽いていた。牙も爪も隠してはならない。妖怪ならば裸一貫、一糸纏わぬありのまま、己が身一つ堂々と、人の前に立ちはだかり、眼を焼き、肉を食み、心を蝕み、芯鉄から崩れ落ちる様を、けたけたと高笑いしながら見下すべきなのだ。
紫に妖怪としての実力があることを見抜いたうえで、気高い九尾の欠片は傲慢にもこう言ってのけた。
「長い髪、荘厳な衣装、開いた檜扇は顔を隠す化粧か。それはすべてお前の自信のなさの表れだ。お高く留まっているようで、人にすり寄るその醜さ、腑抜けな間抜けの象徴だな。妖の風上にも置けやしない」
同じく強大な力を持つ妖怪であるはずの紫は、過去の面影を重ねて、込み上げてくる恥じらいの感情を抑えながら、怪しく笑った。
「ふふ、青いわね」
「なんだと、傾国とも謂れがある私に向かってなんという言い草だ」
「じゃあ藍ね、青の手前の草」
「ふん、なるほど年だけ重ねた妖怪風情か、口はたつようだな。精根枯れ果てた婆の説法など聞きたくもないわ」
「あー?」
この日、妖怪の賢者にとても優秀で従順な僕がついた。藍の初めての仕事は、屈辱の涙を流しながら、割烹着を着て、赤飯を炊くことだった。
今は昔、八雲紫という女型の妖怪がいた。彼女は美しかった。あどけなさと妖艶さを併せ持つ顔つき、情欲を揺さぶる柔らかな肢体、高飛車でも、へりくだるでもない女性らしい品格。雲が空をわずかに隠す夕焼けを、そのまま切り取った絵画のような、完成された美を彼女は自覚していた。そして彼女は強かった。知名度としては鬼に劣るものの、日の元では妖として上位に君臨できる実力を秘めていた。
すべては八雲紫という妖怪が誕生したときに決まっていた。何処までも妖怪然とした、あやふやで強大な像を付与されていたのだ。
ゆえに彼女は一切衣服を身につけなかった。常時素っ裸で寛々とした日々を過ごしていた。逢魔が時にその姿を現すと、夕闇が白い柔肌を照らし、一層艶やかに映る。夜が彼女を祝福していた。誰もその肉体を直視できなかった。触れるどころか、眼に入れることすらおこがましい、さながら劇薬のような魅惑を孕んでいた。
あくる日、情欲を捨て去った盲目の僧が「寒くはないのか」と尋ねた。雪の降る朝であった。眠そうに顔を上げた太陽が紫を照らしていて、ふらふらと頼りなく振ってくる雪の結晶の一欠けが、白い肩に乗って、はらりと溶けた。
「はい」
獣は毛皮で、鳥は羽で、人は衣服で、それぞれが寒暖という自然や、様々な病魔から身を守っている。だが外敵のない彼女にとってそれは不必要なものだった。
「では、恥はないのか」
「ありません」
羞恥心とは、相違への恐怖と不安だ。個性は時に争いを生む。人は、己が他者と違うという事実に耐えられないのだ。衣服とは人間の創造した文化であり、すでに生活に根付いており、誰もその常識を疑わない。紫はそのことは十二分に理解はしている。だが、あえて合わせる理があるだろうか、己に絶対の自信を持つ彼女に、果たして恥の感情が存在するのだろうか。
「化粧もしないというのか」
「なぜ、その必要があるのです」
補うものなど何もない。なぜなら彼女は唯一無二で、完成しているのだから。
打って響くような鐘ではないと、盲目の僧は言葉を失い、二度と現れることはなかった。
そんな完全無欠であるはずの紫にも悩みがあった。知り合い、もとい友達が少なかったのだ。親しく話せる旧知の友人もほとんどなければ、夜中に這い寄る猿顔の益荒男もなく、身を削りながらも、その苦労の断片を見せずに茶を注ぐ優雅な従者もない。いずれも候補に名乗り出る厚顔な者などなく、たとえ拉致したとて現世、もしくは冥府に逃げてしまう始末だった。すべてを見透かし、飲み込むような瞳が恐ろしかった。誰もが彼女の下腹部の湾曲に黄泉路を想起した。艶かしい仕草で手招きをしてみても、近寄る者は皆無であった。
紫は孤独が嫌いなわけではなかったが、納得がいかなかった。決してちやほやされたいわけではなかったが、不思議だった。一切合切、全く以て、称賛の声など毛ほども聞きたいわけではなかったが、不条理だった。
困った紫は数少ない友人である摩多羅隠岐奈に相談することにした。彼女の住む後戸の国を訪ね、そこで二人の従順な僕の内、一人を分けてくれと頼んだが、すっぱりと断られた。隠岐奈はその代わりに助言をした。
「人は天を仰ぐとき、その光を直視できないものだよ」
「だからこそ尊いのでしょう。人は偉大なる神を信仰します」
「その通りだが、人間も馬鹿ばかりではない。光は尊いが、決して手が届かないことを理解してる。裏を返せば、触れられるという幻想は人を狂わせるのさ」
「むう」
「天照はそこんとこ賢いんだ。無論私も。荘厳だがどこか親しみやすいだろう」
隠岐奈はあどけない表情で、けらけらと笑っていた。
人の形は神によく似ている。威光と親しみが信仰を生み出すのだ。逆に、自らを変え人の姿から遠ざかった神々は、畏怖の対象となる。隠岐奈はそのことをよく理解していた。
「例えば月だ。月は美しいが、ときに欠ける。愚かな人間、もしくは妖怪はいずれ月を目指すだろう。なぜなら手が届くと錯覚してしまうからだ。一概に悪いとは言えんがね」
隠岐奈は含みを持たせて、最後にこう言った。
「賢くなれ、紫」
「……わかったわ」
納得がいったわけではなかった。だが、胸の内側にまとわりつく淀みが、意固地になるのを拒んだ。助言ごときが価値観を変えるはずもないが、隠岐奈の言葉は、自我の裏側にある頼りない第三者の視点の味方となってくれた。仕方なしに紫は、服を着ることにした。
次の日からさっそく紫は、秘神から譲り受けた道士服を身につけ、町を練り歩いた。すると誰もが振り返り、男は鼻の下をだらしない餅のように伸ばし、女は砂を噛んだかのように振舞いつつ、爪を噛んだ。道士服はそれほどまでに似合っていた。一見派手な装飾が彼女の妖しさを包み隠す、調和のとれた格好であった。
「なるほど、悪くないわ」
人の表情が良く見えるようになった。今までずっと盲目だったことに気づいた。彼らが自身に対して抱いている感情も何となく読み取れる。紫はしゃなりしゃなりと数刻ほど歩き、注目が集まる前に姿を隠した。
美しい女性が都のどこかに出没するという噂は、たちまち広まった。どこぞの姫君か、はたまた妖の魅せる幻覚か。時折町に出没する彼女を探し求めて、様々な身分の者が、亡霊のようにあてどなく徘徊した。宮殿からの申し出にも反応しないため、貴族たちは苛立った。なぜ手に入らないのだ、私は偉いのに、と。
そんな滑稽な彼らの様子を覗き見て、紫は厭らしく微笑んだ。なるほど面白い、彼らは私を求めてる。地位、富、あらゆる手段を使ってわずかな可能性に縋り、それでも叶わないとみるや童のように駄々をこねる。潔く諦めることを忘れてしまったのだ。
しかし、しばらく姿を見せないでいると、あの女性象は鬼が見せたまやかしであった、という結論に至り、人々の間で噂は風化した。理解の及ばぬ現象は、妖の仕業とされ封印される。それは人が平静を保つための防衛策であった。
時の流れが、忘却を仄めかしたところで、紫はわざと貧困な者たちの前に姿を見せた。すると、悔しさが込み上げてきた貴族たちは、紫の姿を見た者たちを、妖怪の僕とみなして処刑してしまった。暴力を振りかざすむき出しの拳、地位に胡坐をかいて驕り高ぶる精神性、紫は過去を映した鏡を見ている気になった。
「愚かねぇ」
嘲るように吐き捨てた。裸の頃を思い返すと、どうしようもなく滑稽だ。あの時は気づけなかったが、きっと隠岐奈も独りよがりに踊り狂う様を、嘲笑していたに違いない。だが己の愚行すら、愛おしいと思えた。裸の頃は、愚かさゆえに無敵だったからだ。ひたむきに完全を求める姿は、間違いなく輝いていた。人は、閃光からは眼を逸らす、されど真っ暗な闇の中では眼を瞑る。どちらにも成ったつもりだった。
もうあの頃には戻れない、戻るつもりもない。夜ですら、真の闇にはなりえない。完全無欠な妖怪などあるものか。そこには、形どころか、存在すらもないだろう。虚無を気取るより、月を目指したほうがよっぽどいい、なぜなら愚者なのだから。妖怪らしく、陰陽の狭間を住処として、派手に着飾り、衣の下で小さな夜を磨き続けよう。
八雲紫はひとつだけ賢くなった。
自称か他称か知られてないが、いつからか、紫は妖怪の賢者と呼ばれるようになっていた。優秀な式を持ち、幻想郷と言う箱庭を管理する傍ら、どこぞの境界に居を構えて、だらだらとあやふやな日々を過ごしていた。
ある晴れた日の朝、白米と味噌汁を胃に収めた紫は、寝ぼけた声で式にお茶を注ぐよう命じた。藍は短い応答で了解し、お茶っ葉の缶と急須をとるために立ち上がった。藍が戸棚のほうへと背を向けた瞬間、遊びに来ていた橙がなにやら神妙な面持ちで、ぼそりと呟いた。
「……動物風情が服を着るなんて、おこがましいですよね」
そう言うとおもむろに服を脱ぎだして、瞬く間に全裸になったかと思うと、脱ぎ捨てた服はそのままに、よどみなくちゃぶ台の上に飛び乗り、小さな身体を丸めた。衣着ぬ猫なども、さながら天板上にありけり、と言った具合であった。
背を向けている藍は、橙の奇行に気づいていない。明らかに主の隙をついての反抗だった。人型は服を着るという概念に中指を立ててみせたのである。それをなんとなく察した紫は、藍に伝えることを躊躇ってしまい、とりあえず丸まっている橙の顎を撫でてやった。すると、うにゃあとあどけない声で鳴いたので、深く追求するのはやめることにして、頬杖をつき、今にも眠ってしまいそうな橙を見守った。思い返すと、今日は橙の様子が少しおかしかった。橙が以前好物と口走ってから、データをインプットしたポンコツコンピューターの手によって、毎朝のように出てくるめざし。それにすら眉一つ動かさず、演算のように黙々と摂取していた。幼い表情にしわが刻まれたのは、先月に庭で採れて、良い感じに漬かった梅干しを口に含んだ時くらいであった。
「ほうじ茶と緑茶どちらが……え?」
「あ、お茶が……」
藍の手から逃げるように零れ落ちた二つの缶は、畳についた瞬間、お茶っ葉を無残に飛び出させ、無機質に横たわった。紫は何もしてやれなかった。悲しき運命であったが、ふと記憶の箪笥の奥にいくつもしまってある知恵袋の内、一つが口を開き、お茶の葉は畳掃除に使えるので無駄にはならない、と思い直すことで傷心を防いだ。そんな紫の心情をよそに、藍は戸惑いを隠匿するため、やさしさを前面に押し出した声色で、労わるように橙に話しかけた。
「橙、どうしたんだ。大丈夫か、暑かったか? それとも誤って水でもかぶってしまったのか?」
橙は左眼で一瞥だけして、何も答えなかった。猫のように丸くなり、猫のように鳴き、その姿はさながら猫だった。藍が近づこうとすると、橙は四つ足で立ち、庭へと逃げた。
「紫様、どうなっているのでしょう」
「私にもさっぱり」
退行したと考えるのが自然であるが、その切っ掛けらしきものを目撃していない。それに服を脱ぐ前に呟いた、動物風情という自虐、つまりこれは意識的な反抗に違いない。弾幕ごっこに敗れたか、友達やマヨヒガの猫に馬鹿にでもされたか、はたまたなんでもないような事象を自分に照らし合わせて傷心したか、理由は橙にしかわからないし、橙ですら理解できていないかもしれない。おそらく彼女は最愛の主である藍に、何かしら理解を示してほしいのだろう。そう推憶した紫は何も言わずに、庭へと駆けていく橙を眼で追いかけた。
しかし、一部始終を見て勝手に納得した紫とは違い、藍はひたすら混乱していた。ふらふらと庭に降りて、式が剥がれたのなら組み直してやらねばと近づいたが、橙は嫌がって逃げてしまう。ならばとマタタビや煮干しで釣ろうとしたが、それもうまくいかず、混乱は増すばかりであった。退行したのなら間違いなく釣れるはずなのだ。と言うことは式が剥がれたわけではない、では服が気に入らなかったのだろうか。藍はそう思って、箪笥の肥やしになっていたフリフリの可愛らしい洋服を、五着ほど引っ張り出してきた。しかし、橙は見向きもせず梅の木によじ登って、幹の三つ又の間に座り、わざとらしくあくびをした。
「橙、どうしたんだ。教えてくれ。な、からかっているだけなんだろう」
「にゃあ」
自分でお茶を淹れた紫は、湯のみを片手に縁側に座り、式と式の式の戯れに似たやりとりをお茶請け代わりに、日向ぼっこに興じた。さんさんと降り注ぐ陽光が、橙の幼い裸体を照らしていた。
「三つ又の、梅枝に眠る、うーん、香散見草、子猫まどろむ……」
いい感じに雅になる気がする。なりそう。なってほしい。季語も入ってるし、今はもう秋だけど。梅の花も、実もないけど。木に登る猫と、木の下で語り掛ける狐、絵になる気がする、そんな気がする。一句できそう。そんな調子で、唄人気分の紫がのほほんとしていると、いよいよ藍は必死になったようで、諭すような口調が懇願に変わっていた。
「頼むから服を着てくれ、恥ずかしくて火が出そうだ」
「なーお」
「怒るよ? 藍様怒るよ? キムチチゲしか作ってやんないぞ。木綿豆腐爆弾仕込むぞ、ふーふーしてやらないぞ、それでもいいのか」
「うにゃ」
「あーもうわかった、ずっとそうしていなさい。もう知りません! 知りませんとも。来年の、梅の花の咲くその日まで、ずっとずうっとそうしていなさい!」
「ぶっほっ、げほっ、げほ、えう」
紫は思わず笑ってしまい、その拍子にお茶が気管に入り込み、むせてしまった。もう知りませんと言いつつ、いまだ繰り広げられている式たちのやり取りが壺に入ってしまったようで、涙目になりながら笑っていた。
「よし。わかった。少し昔の話をしよう。あれは私が紫様と出会うちょっと前だ。私は全裸だったんだ。お前と同じだ。裸こそが至高だと思っていたんだ。でもな、紫様と出会った私は、考えを改めたんだ。裸のままじゃいけないって、爪と牙を隠すために、この衣を羽織ったんだよ」
「……」
橙は困ってしまった。だからなんだというのか。そんな思い出じゃ私の傷は癒えやしないぞ、とでも言いたげな眼でもって、無言の訴えを続けるしかなかった。興奮してよくわからずに過去の事を口走った藍も二の句を告げられずにいた。喧騒の間に訪れた玉響のしじまにて、紫だけは喉の奥から音を絞り出されたみたいな声で笑っていた。
ここで唐突に服を脱いだら面白いだろう、と紫は全裸的衝動に駆られたが、あくまで想像するに留めた。毎日食事をする、家に住む、服を着る。いかにも人間じみた行為に興じながら、それでも妖怪であることを誇る。それは紫の矜持のようなものだった。そして式である藍も、似たような境地に至っていた。
だから、これから橙はきっと一皮むける。紫はそう確信した。
花も実もない梅の木が、風に遊ばれて枝を振る。長閑で姦しい朝は、あっという間に過ぎていった。
これからも全裸になる文化は知らず知らずの内に引き継がれていくんでしょうか。
それはそれとして、たまには一糸纏わぬ姿で開放感に浸るというのも彼女達には必要だと思うんですよね。ですからあの時には戻れないなんて言わないで是非……え?やましい気持ちなんてありませんよ?ええ勿論です。
私も脱ぎます
正気を失っていて良かったです
なんだこれ
紫さんが服を着てしまった経緯など興味深いでした
これは全裸
私は体型が完ぺきとは程遠いので脱がないことにしました
嫣然で婀娜で官能的で一体全体これはどうしたのでしょう…。単純な話として見てしまったら一貫して変態の話なのですが、地の文でそこについて理路整然と論理的にかつその蠱惑的な利点を一身に背負いながら全裸である利点をそれが当たり前であるかの様に納得させてくるこの腕前が恐ろしいです。紫から見た貴族評もお気に入りです。
そして受け継がれる宿命。何?????
楽しい話でした。ありがとうございます。
好きです
(他の方のコメントにもありますが)裸の王様の盲目さとも掛け合わさっていて中々妙案な題材
意外性のある切り口で面白かったです 読み易い文体も好き
デモナニコレ。
あとがきのスッパテンコーでそんなのもあったなと懐かしくなりました。