初めて見るお客さんで、それが随分曲者だった。禿げ散らかしたおじさんだった。なるたけ身綺麗にしているのが伝わってきて、顔からも柔和な印象を受けた。何が困ったのかというと、彼には別段特筆した非が認められないところだった。常連さんが連れてきたのだが、彼は特別に悲しんでいた。段々出来上がってきて、何かの拍子に思い切ってヤツメウナギをガブリと頬張ってそれを酒で勢いよく流し込んだと思ったら、間もなく愚痴を捲し立てた。
彼は結婚三年目で、もうすぐ子供が生まれるという、幸せの絶頂じゃあないですか、おめでとうございますと言いはやされるべき時期だった。それで彼が何を悲しんでいるのかというと、彼の知り合いが彼を脅かしたのだという。産前産後の家内のデリケートな時期に、態度を少し間違えれば一生恨まれるから気をつけろということである。
彼は妊婦ほど最強の弱者はいないと言った。彼女らは何をしても許されるのだ。そして、努めて笑顔で家内を励ます立場を貫かんとしていたが、それを家内が理解することはなく、私がこんなに不安でいるのにヘラヘラしていて楽で良いですねと言われてしまったという。
それでも彼女たちのその心模様を理解することは出来ずとも、それを許すほかないことは受け入れる。しかし一歩間違えれば一生恨まれるという、産前産後のマタニティモンスターの相手をひっきりになしに続けて摩耗した男は一体どこで鬱憤を晴らせばよいのだろうかと、彼は悲しんでいたのだった。
私はおじさんが酒で崩れて、身内の肩身狭さで悲しむ姿程見苦しいものはないと、身も蓋もないことを感じた。つまり、男はドカリと構えていなければならず、泣き言など許されないしそんなところは見たくもないと当たり前に感じた。これは残酷な差別意識だろうか?でも、きっと彼自身もそう思っているはずなのだ。だからこそ、こんな場末を選んでこそこそめそめそしている。このどうにもならなさをお裾分けされたような鬱陶しさを、消化する方法がなくて誰もが困っているというわけだ。
私は屋台の店主として、もちろんそのようなことは口に出して言わないが、それでも素面で笑顔でこんな話が聞けるかよと思って、おだてすかして彼の金で酒を飲ませてもらった。鬱憤というのは巡り巡って回転していくものなのだろう。それがどこか末端で堆積した時は、爆発するか衰滅するかの二択しかない。定期的に削られる爪の先っぽのようなもので。
私は今日、殊更機嫌が悪かったのかもしれない。いつもはお客さんの愚痴に目くじらを立てたりはしない。そもそもいつもそんな調子の奴は屋台になど向いちゃいない。ぐでぐでになった彼、彼女達は私にとって愛おしいものだったはずだ。然るに彼の何がそんなにも嫌悪の的となったのか私にも解明できないまま、私は彼に、気分転換と安産祈願を兼ねて博麗神社にお祈りにでも行けばいいと奨めた。
「昔から思ってたんだけど、博麗神社なんて本当にあるのかな」
それはしかし、まったく予想もしていない返答をもたらした。だって、行ったことがないものだから、と彼は続けた。人里に住む者たちが一生のうち一度でも博麗神社に行くのだろうかというと、確かに九割九分行かないのかもしれないと思った。一度も自分の目で見ていないものは、自分の目で見てみるまで、それが本当にあるかどうかはわからないじゃないかと、彼は言った。
丁度いいですね、と私は言う。ああ、そうだね、それを確かめるのも兼ねるから、一石三鳥だねと彼は言う。私は引き続き、彼に対して生理的に受け付けないようなうすら寒さを感じて気持ち悪かった。やさしそうなおじさんだと思うが、見た目と声が好みから外れすぎているのかもしれなかった。私はせこい夜雀ではあるけれど、それでも美少女の姿を借りているので申し訳ないが、おじさんという生き物は悲しすぎると思った。同情はするがやっぱり気持ち悪さの方が勝る。
今日は割と人里に近い位置で営業をしたというのに、結局お客さんはその二人だけだった。常連さんの方は聞き上手に徹していたなと思った。その日、お店を閉めて後片付けをして、屋台を引き上げようと引っ張っていたら、木と木の間に張ってあった、古い糸のようなものが車輪に引っかかって前に進まなくなり、取り除くのに苦労した。質の悪い悪戯だろうか。どうにも、少しずつ日々の質を下げるような出来事が多いと感じて辟易した。
***
それから暫くしてどういうわけなのか、博麗神社などという場所は口伝から生まれた嘘なのではないかと人里では騒がれた。霊夢さんと懇意にしている八百屋さんがそんなはずはねえと大声を出して、疑う彼等を連れて博麗神社に行こうとしたが、とうとうそんな場所には辿り着かなかったのだという。
気が向いて博麗神社にいくと霊夢さんとチルノが居た。霊夢さんは、今度はあんたか、珍しい客が多いなとため息をついた。代わる代わる、博麗神社があることを「来たことがあって知っている」人たちが確かめにきているらしい。チルノはそんな事情は知らなかったようで、ただただ霊夢さんにかき氷を奨めにきただけだった。
八百屋さんに野菜を買いにいくついでにそのことを聞いてみたら、あれから一人でもう一度行ってみたらちゃんと博麗神社はあったのだという。でも、疑う人々を連れてあの麓に向かった時、確かに博麗神社はなくて、絶対になくて、初めからそんな場所はなかったのかもしれないとすら感じたとも続けた。不気味だった。単なる勘違いや噂の域を超えた、何か正しくないことが起こっていると思った。
何しろ、本当はないんじゃないか、と言っている人たちは現実、博麗神社に行ってみようとしても辿り着かないものだから、やっぱりないんだという声は白熱した。更に暫く経つと、博麗神社に行ったことのある少数派の人たちは嘘吐きとつまはじきにされてしまった。
こりゃ異変なんじゃないかと、有力者がのそのそと動き出して、それぞれの思惑で事態にちょっかいをかけようと動き出したが、何かと耳の良いリグルを探し出して詳しく聞いてみたら、なんとも厄介だなと、すぐに殆どの陣営は関わるのを諦めておっぽり出してしまったのだという。
理由はシンプルで、なんでこんなことになってるのか、さっぱりわからないからだった。そもそも、博麗神社があるかどうかなんて人里の人間にとっては結構どうでもいいことなのかもしれない、とリグルは言った。実際それはそうで、だって、博麗神社があろうとなかろうと、今自分達がここに存続している事実は変わらず、つまり、なんら現状に問題がないってことだからだ。
博麗神社が幻想郷の楔として機能していて、幻想郷にとって重大な意味を持っているだなんてことを知っている人間が人里にどれほど居るのだろう?博麗神社なんか無くたって、博麗の巫女は居るし。
それにしてはどいつもこいつも過剰に騒ぎすぎている。その原因が、よくわからない。今までのように、人々の希望が失われたりした結果の吐出という訳でもない。スピリチュアルな面で、観測できるあらゆる値に有意な点が見られない。
しかもそれに加えて、「博麗神社を見たことがない人は実際に行ってみようとしても博麗神社にたどり着かない」という現象にしても、これを調べようなんて考えに至るやつは大抵博麗神社にたどり着けるので、現象の観測すら中々しづらい。これでは誰も解決なんかできっこない。
「そっかあ。リグルにもわからないんじゃ、私にできることなんてないよなあ」
「本当に?ミスティアなら何か心当たりがあるんじゃない?」
「えっ?」
「ううん、大丈夫。秘密にしておくから」
***
リグルの言う「心当たり」が何を指しているのか具体的にはわからなかったが、それでも強いてあげるならやはり、あの日おじさんが口にした疑問のことだった。
私はああいったことがじわじわ色んな場所で起きたのだろうと思って大して深く考えてもいなかったけれど、あれが「ことの起こり」だったとするならば話は大きく変わってくる。私は重要な情報を持っていて、それを解決側に提供する義務が存在するということになるからだ。
早速このことを霊夢さんに伝えに行こうと博麗神社に向かったのだが、なんと私は博麗神社にたどり着けなかった。博麗神社のあるはずの場所には、ただ山があった。鳥居も、神社に続く階段すらもなかった。ただ、木と木の間に木があるだけだった。
そして、その場所にはそこそこの人数の人が居て、やっぱりここには何もないじゃないかと騒ぐ人と、糾弾されながら困惑している人が居た。そうか。ここには今博麗神社を知らない人が居て、そうである以上は誰も博麗神社には辿り着かないのか。
人々は「偽りを許すな」「博麗神社は存在しない」「ネコと和解せよ」などと書かれた看板を持ち、なにやら運動をしているようだった。異変のフェイズが進行していることは明らかだった。ちょっとまってほしい。彼らがあそこに居座り続ける限り博麗神社は本当に存在しない。その時博麗神社に居た人はどうなるのだろう?
そもそも彼らは何故ああも軽々しく人里を出てこんな林の中に平気で居るのだろう?異常な熱気に支配されて、正常な思考もせず行動しているとしか思えない。私のような悪い妖怪に食べられちゃうとか考えないのだろうか。
私は、私はこんな状況で自分などにできることがあるとは思えないと感じられて、すごすごと引き返した。途中でルーミアとばったり出会って、いきさつを話すと笑われた。霊夢は忙しく動き回っていて、今日もどこかへ飛んでいくところを見たと言われた。霊夢自身、帰る場所がなくなってしまったので今は八雲の領域を間借りしているらしいという話もしていた。
冷静に考えてみると、「これがきっかけかもしれない」と同じような報告を霊夢さんは百も二百も受けていたのだろうと思う。私があの日のことを報告したところで、それが一つ増えるだけのことじゃないか。リグルはいつも意味深なことを言って私にいじわるをする。一度タレを塗って炭の上で焼いてやらないといけない。きっといい叫び声をあげるだろうから。
それはそれとして、人々の「ただの林の占拠運動」は、なんとなく私があの時感じた予感通り永い間終わらなかった。博麗神社に行ったことがあるはずの人達も、現実として博麗神社がないという事実に疲弊して迎合したり、今まで自分は勘違いをしていたのだと思うようになってきていた。あそこを占拠するのに人里から移動するなんて非効率なことはないと言って、集落を作る計画まで立てられ始めた。そんなことになってしまったら、もう博麗神社は二度と戻ってこないのだろうと思った。
***
この件に関して、私は所詮対岸の火事ではあったけれど、しかしそれでも小さな絶望を抱える日々を送っていたけれど、誰かが何かの痺れを切らしたかのように、事態は唐突に解決した。方法は身も蓋もなくて、「博麗神社は存在しない」という観念を、もっと強い「博麗神社は存在する」という観念で上書きするというものだったらしい。リグルはデウスエクスマキナが過ぎると言っていた。私は何を今更と思った。
誰も、博麗神社の存在を疑うような話はしなくなった。というか、そんなことは元より当たり前だった。自分が行ったことがある場所しか存在を認めないなんて、そんな胡乱なことでは表道を歩いて生きていけるわけがない。それなら、生まれてから死ぬまでずっと部屋から出なかったような犬がもしも居たならば、世界はその部屋しか存在ないことになる。そんな馬鹿馬鹿しいことはない。
私はいつもそうしているように、屋台の準備をした。あの日はなんだかお客さんが少なかったけれど、本来あの場所は中々のロケーションのはずだよなと思って、リベンジがてらあの日と同じ場所で屋台をやってみることにしたのだが、あの常連さんとおじさんの二人がまた来た。あとは何やら痩せた陰気な男の人も来た。不思議なことにあの日感じていたおじさんに対する不快感はなく、やっぱり機嫌が悪いだけだったんだなと自分に対して安心した。
おじさんの話を聞くと、子供が産まれて幸せでいっぱいで、家内も可愛くて愛していて、といった感じで、前に来た時のような疲労を感じさせることは微塵もなかった。柔和な顔がほころんでいる様にこちらの顔まで緩むような気がした。私は、子供が産まれたばかりの家庭がおありなら、仕事帰りに呑んで帰るのも程々にしなければなりませんねと言った。常連さんが、俺がいつも無理やり連れまわしてるんだ、ごめんなと苦笑いした。
しかし話しているとどうにも、前にこのお店に来た時のことは覚えていないようで、常連さんとも私とも話の噛み合わないことが多かった。あの時は悪酔いしていたし、記憶が飛ぶタイプなのかもしれない。今日も大根と昆布を酒で流し込んでいるので、同じことになるのかもしれない。
博麗神社に参拝へはごく最近行っていたようで、霊夢さんにも態度良く相手してもらったことを機嫌よさげに話していた。私がうんうんと言ってその話を聞いていると、それまでちびちびと焼酎だけ呑んでいた陰気な方の男の人が突然口を開いた。
「いやあ、お羨ましい」
陰気な彼は独り身で、実入りも少なく器量も狭い自分のことを愛しておらず、おじさんのことを賛美しては自分を下げた。おじさんはくすぐったいやら、ばつがわるいやらで、微妙な顔をしていた。
陰気な彼はそのまま自分の半生を持論交じりに語りだした。曰く、彼は親に愛されてこず、また、寺小屋でもいじめの的だった為にこのような歪んだ人間になったのだという。寺小屋の先生は良い人で、彼をよく励まし、現場を見つければ必ず納め、事態の収拾に尽力し、本当に良くしてくれたが、それでも、彼を蝕む排斥はより巧妙な手段にとって代わるだけだった。
寺小屋の先生はだんだん、自分の目に見えない犯行に対して、彼が嘘の被害を報告して構ってもらいたがっているのだと感じるようになったが、だからと言って彼をそのことで叱責したり距離をおくようなことはなかった。先生は諫めるように、君は今苦しんで消えてしまいたいと思っているかもしれないが、世の中には色んな場所と選択があって、その中には君に適したこともきっとあって、だから絶望せずに生きていかなければならないよと説いて聞かせた。
しかし、彼はこれを今に至るまで愚かだと断じていた。酸いも甘いも知った大人がいくら悟ったようなことを言っても、所詮あの時の自分には家と寺小屋が世界の全てだったのだからと締めくくって酒を飲み干した。私はあの日おじさんに対して覚えたような不快感をこの彼に覚えながら、あの日おじさんにそうしたように、気分転換に博麗神社にでも行ってはどうかと奨めた。
おじさんもそれを援護した。神社の巫女さんはよく相手してくれて元気が出るよとか、神社に行かないにしても、人間には一日中、外に寝転がって日差しを浴びているような日があっても良くて、まずは自分を許して癒してやらないといけないよとか、ああだよこうだよと言って彼を励ました。彼はこんなに人に温かく接してもらったのが久しぶりだったのか、小さく微笑みを見せていた。そうしてみようかな、と言って、そして次にこう言った。
「でも、会ったことがないんだけれど、博麗の巫女なんてほんとにいるのかな」
洗っていた皿を落としてやかましい音がした。屋台の車輪が踏みつけていた、風化した糸とお札のようなものが私の目に入って、私はこのことに関して一切口を閉ざして生きていくこと、二度とここで客を待たないことを堅く堅く誓った。
彼は結婚三年目で、もうすぐ子供が生まれるという、幸せの絶頂じゃあないですか、おめでとうございますと言いはやされるべき時期だった。それで彼が何を悲しんでいるのかというと、彼の知り合いが彼を脅かしたのだという。産前産後の家内のデリケートな時期に、態度を少し間違えれば一生恨まれるから気をつけろということである。
彼は妊婦ほど最強の弱者はいないと言った。彼女らは何をしても許されるのだ。そして、努めて笑顔で家内を励ます立場を貫かんとしていたが、それを家内が理解することはなく、私がこんなに不安でいるのにヘラヘラしていて楽で良いですねと言われてしまったという。
それでも彼女たちのその心模様を理解することは出来ずとも、それを許すほかないことは受け入れる。しかし一歩間違えれば一生恨まれるという、産前産後のマタニティモンスターの相手をひっきりになしに続けて摩耗した男は一体どこで鬱憤を晴らせばよいのだろうかと、彼は悲しんでいたのだった。
私はおじさんが酒で崩れて、身内の肩身狭さで悲しむ姿程見苦しいものはないと、身も蓋もないことを感じた。つまり、男はドカリと構えていなければならず、泣き言など許されないしそんなところは見たくもないと当たり前に感じた。これは残酷な差別意識だろうか?でも、きっと彼自身もそう思っているはずなのだ。だからこそ、こんな場末を選んでこそこそめそめそしている。このどうにもならなさをお裾分けされたような鬱陶しさを、消化する方法がなくて誰もが困っているというわけだ。
私は屋台の店主として、もちろんそのようなことは口に出して言わないが、それでも素面で笑顔でこんな話が聞けるかよと思って、おだてすかして彼の金で酒を飲ませてもらった。鬱憤というのは巡り巡って回転していくものなのだろう。それがどこか末端で堆積した時は、爆発するか衰滅するかの二択しかない。定期的に削られる爪の先っぽのようなもので。
私は今日、殊更機嫌が悪かったのかもしれない。いつもはお客さんの愚痴に目くじらを立てたりはしない。そもそもいつもそんな調子の奴は屋台になど向いちゃいない。ぐでぐでになった彼、彼女達は私にとって愛おしいものだったはずだ。然るに彼の何がそんなにも嫌悪の的となったのか私にも解明できないまま、私は彼に、気分転換と安産祈願を兼ねて博麗神社にお祈りにでも行けばいいと奨めた。
「昔から思ってたんだけど、博麗神社なんて本当にあるのかな」
それはしかし、まったく予想もしていない返答をもたらした。だって、行ったことがないものだから、と彼は続けた。人里に住む者たちが一生のうち一度でも博麗神社に行くのだろうかというと、確かに九割九分行かないのかもしれないと思った。一度も自分の目で見ていないものは、自分の目で見てみるまで、それが本当にあるかどうかはわからないじゃないかと、彼は言った。
丁度いいですね、と私は言う。ああ、そうだね、それを確かめるのも兼ねるから、一石三鳥だねと彼は言う。私は引き続き、彼に対して生理的に受け付けないようなうすら寒さを感じて気持ち悪かった。やさしそうなおじさんだと思うが、見た目と声が好みから外れすぎているのかもしれなかった。私はせこい夜雀ではあるけれど、それでも美少女の姿を借りているので申し訳ないが、おじさんという生き物は悲しすぎると思った。同情はするがやっぱり気持ち悪さの方が勝る。
今日は割と人里に近い位置で営業をしたというのに、結局お客さんはその二人だけだった。常連さんの方は聞き上手に徹していたなと思った。その日、お店を閉めて後片付けをして、屋台を引き上げようと引っ張っていたら、木と木の間に張ってあった、古い糸のようなものが車輪に引っかかって前に進まなくなり、取り除くのに苦労した。質の悪い悪戯だろうか。どうにも、少しずつ日々の質を下げるような出来事が多いと感じて辟易した。
***
それから暫くしてどういうわけなのか、博麗神社などという場所は口伝から生まれた嘘なのではないかと人里では騒がれた。霊夢さんと懇意にしている八百屋さんがそんなはずはねえと大声を出して、疑う彼等を連れて博麗神社に行こうとしたが、とうとうそんな場所には辿り着かなかったのだという。
気が向いて博麗神社にいくと霊夢さんとチルノが居た。霊夢さんは、今度はあんたか、珍しい客が多いなとため息をついた。代わる代わる、博麗神社があることを「来たことがあって知っている」人たちが確かめにきているらしい。チルノはそんな事情は知らなかったようで、ただただ霊夢さんにかき氷を奨めにきただけだった。
八百屋さんに野菜を買いにいくついでにそのことを聞いてみたら、あれから一人でもう一度行ってみたらちゃんと博麗神社はあったのだという。でも、疑う人々を連れてあの麓に向かった時、確かに博麗神社はなくて、絶対になくて、初めからそんな場所はなかったのかもしれないとすら感じたとも続けた。不気味だった。単なる勘違いや噂の域を超えた、何か正しくないことが起こっていると思った。
何しろ、本当はないんじゃないか、と言っている人たちは現実、博麗神社に行ってみようとしても辿り着かないものだから、やっぱりないんだという声は白熱した。更に暫く経つと、博麗神社に行ったことのある少数派の人たちは嘘吐きとつまはじきにされてしまった。
こりゃ異変なんじゃないかと、有力者がのそのそと動き出して、それぞれの思惑で事態にちょっかいをかけようと動き出したが、何かと耳の良いリグルを探し出して詳しく聞いてみたら、なんとも厄介だなと、すぐに殆どの陣営は関わるのを諦めておっぽり出してしまったのだという。
理由はシンプルで、なんでこんなことになってるのか、さっぱりわからないからだった。そもそも、博麗神社があるかどうかなんて人里の人間にとっては結構どうでもいいことなのかもしれない、とリグルは言った。実際それはそうで、だって、博麗神社があろうとなかろうと、今自分達がここに存続している事実は変わらず、つまり、なんら現状に問題がないってことだからだ。
博麗神社が幻想郷の楔として機能していて、幻想郷にとって重大な意味を持っているだなんてことを知っている人間が人里にどれほど居るのだろう?博麗神社なんか無くたって、博麗の巫女は居るし。
それにしてはどいつもこいつも過剰に騒ぎすぎている。その原因が、よくわからない。今までのように、人々の希望が失われたりした結果の吐出という訳でもない。スピリチュアルな面で、観測できるあらゆる値に有意な点が見られない。
しかもそれに加えて、「博麗神社を見たことがない人は実際に行ってみようとしても博麗神社にたどり着かない」という現象にしても、これを調べようなんて考えに至るやつは大抵博麗神社にたどり着けるので、現象の観測すら中々しづらい。これでは誰も解決なんかできっこない。
「そっかあ。リグルにもわからないんじゃ、私にできることなんてないよなあ」
「本当に?ミスティアなら何か心当たりがあるんじゃない?」
「えっ?」
「ううん、大丈夫。秘密にしておくから」
***
リグルの言う「心当たり」が何を指しているのか具体的にはわからなかったが、それでも強いてあげるならやはり、あの日おじさんが口にした疑問のことだった。
私はああいったことがじわじわ色んな場所で起きたのだろうと思って大して深く考えてもいなかったけれど、あれが「ことの起こり」だったとするならば話は大きく変わってくる。私は重要な情報を持っていて、それを解決側に提供する義務が存在するということになるからだ。
早速このことを霊夢さんに伝えに行こうと博麗神社に向かったのだが、なんと私は博麗神社にたどり着けなかった。博麗神社のあるはずの場所には、ただ山があった。鳥居も、神社に続く階段すらもなかった。ただ、木と木の間に木があるだけだった。
そして、その場所にはそこそこの人数の人が居て、やっぱりここには何もないじゃないかと騒ぐ人と、糾弾されながら困惑している人が居た。そうか。ここには今博麗神社を知らない人が居て、そうである以上は誰も博麗神社には辿り着かないのか。
人々は「偽りを許すな」「博麗神社は存在しない」「ネコと和解せよ」などと書かれた看板を持ち、なにやら運動をしているようだった。異変のフェイズが進行していることは明らかだった。ちょっとまってほしい。彼らがあそこに居座り続ける限り博麗神社は本当に存在しない。その時博麗神社に居た人はどうなるのだろう?
そもそも彼らは何故ああも軽々しく人里を出てこんな林の中に平気で居るのだろう?異常な熱気に支配されて、正常な思考もせず行動しているとしか思えない。私のような悪い妖怪に食べられちゃうとか考えないのだろうか。
私は、私はこんな状況で自分などにできることがあるとは思えないと感じられて、すごすごと引き返した。途中でルーミアとばったり出会って、いきさつを話すと笑われた。霊夢は忙しく動き回っていて、今日もどこかへ飛んでいくところを見たと言われた。霊夢自身、帰る場所がなくなってしまったので今は八雲の領域を間借りしているらしいという話もしていた。
冷静に考えてみると、「これがきっかけかもしれない」と同じような報告を霊夢さんは百も二百も受けていたのだろうと思う。私があの日のことを報告したところで、それが一つ増えるだけのことじゃないか。リグルはいつも意味深なことを言って私にいじわるをする。一度タレを塗って炭の上で焼いてやらないといけない。きっといい叫び声をあげるだろうから。
それはそれとして、人々の「ただの林の占拠運動」は、なんとなく私があの時感じた予感通り永い間終わらなかった。博麗神社に行ったことがあるはずの人達も、現実として博麗神社がないという事実に疲弊して迎合したり、今まで自分は勘違いをしていたのだと思うようになってきていた。あそこを占拠するのに人里から移動するなんて非効率なことはないと言って、集落を作る計画まで立てられ始めた。そんなことになってしまったら、もう博麗神社は二度と戻ってこないのだろうと思った。
***
この件に関して、私は所詮対岸の火事ではあったけれど、しかしそれでも小さな絶望を抱える日々を送っていたけれど、誰かが何かの痺れを切らしたかのように、事態は唐突に解決した。方法は身も蓋もなくて、「博麗神社は存在しない」という観念を、もっと強い「博麗神社は存在する」という観念で上書きするというものだったらしい。リグルはデウスエクスマキナが過ぎると言っていた。私は何を今更と思った。
誰も、博麗神社の存在を疑うような話はしなくなった。というか、そんなことは元より当たり前だった。自分が行ったことがある場所しか存在を認めないなんて、そんな胡乱なことでは表道を歩いて生きていけるわけがない。それなら、生まれてから死ぬまでずっと部屋から出なかったような犬がもしも居たならば、世界はその部屋しか存在ないことになる。そんな馬鹿馬鹿しいことはない。
私はいつもそうしているように、屋台の準備をした。あの日はなんだかお客さんが少なかったけれど、本来あの場所は中々のロケーションのはずだよなと思って、リベンジがてらあの日と同じ場所で屋台をやってみることにしたのだが、あの常連さんとおじさんの二人がまた来た。あとは何やら痩せた陰気な男の人も来た。不思議なことにあの日感じていたおじさんに対する不快感はなく、やっぱり機嫌が悪いだけだったんだなと自分に対して安心した。
おじさんの話を聞くと、子供が産まれて幸せでいっぱいで、家内も可愛くて愛していて、といった感じで、前に来た時のような疲労を感じさせることは微塵もなかった。柔和な顔がほころんでいる様にこちらの顔まで緩むような気がした。私は、子供が産まれたばかりの家庭がおありなら、仕事帰りに呑んで帰るのも程々にしなければなりませんねと言った。常連さんが、俺がいつも無理やり連れまわしてるんだ、ごめんなと苦笑いした。
しかし話しているとどうにも、前にこのお店に来た時のことは覚えていないようで、常連さんとも私とも話の噛み合わないことが多かった。あの時は悪酔いしていたし、記憶が飛ぶタイプなのかもしれない。今日も大根と昆布を酒で流し込んでいるので、同じことになるのかもしれない。
博麗神社に参拝へはごく最近行っていたようで、霊夢さんにも態度良く相手してもらったことを機嫌よさげに話していた。私がうんうんと言ってその話を聞いていると、それまでちびちびと焼酎だけ呑んでいた陰気な方の男の人が突然口を開いた。
「いやあ、お羨ましい」
陰気な彼は独り身で、実入りも少なく器量も狭い自分のことを愛しておらず、おじさんのことを賛美しては自分を下げた。おじさんはくすぐったいやら、ばつがわるいやらで、微妙な顔をしていた。
陰気な彼はそのまま自分の半生を持論交じりに語りだした。曰く、彼は親に愛されてこず、また、寺小屋でもいじめの的だった為にこのような歪んだ人間になったのだという。寺小屋の先生は良い人で、彼をよく励まし、現場を見つければ必ず納め、事態の収拾に尽力し、本当に良くしてくれたが、それでも、彼を蝕む排斥はより巧妙な手段にとって代わるだけだった。
寺小屋の先生はだんだん、自分の目に見えない犯行に対して、彼が嘘の被害を報告して構ってもらいたがっているのだと感じるようになったが、だからと言って彼をそのことで叱責したり距離をおくようなことはなかった。先生は諫めるように、君は今苦しんで消えてしまいたいと思っているかもしれないが、世の中には色んな場所と選択があって、その中には君に適したこともきっとあって、だから絶望せずに生きていかなければならないよと説いて聞かせた。
しかし、彼はこれを今に至るまで愚かだと断じていた。酸いも甘いも知った大人がいくら悟ったようなことを言っても、所詮あの時の自分には家と寺小屋が世界の全てだったのだからと締めくくって酒を飲み干した。私はあの日おじさんに対して覚えたような不快感をこの彼に覚えながら、あの日おじさんにそうしたように、気分転換に博麗神社にでも行ってはどうかと奨めた。
おじさんもそれを援護した。神社の巫女さんはよく相手してくれて元気が出るよとか、神社に行かないにしても、人間には一日中、外に寝転がって日差しを浴びているような日があっても良くて、まずは自分を許して癒してやらないといけないよとか、ああだよこうだよと言って彼を励ました。彼はこんなに人に温かく接してもらったのが久しぶりだったのか、小さく微笑みを見せていた。そうしてみようかな、と言って、そして次にこう言った。
「でも、会ったことがないんだけれど、博麗の巫女なんてほんとにいるのかな」
洗っていた皿を落としてやかましい音がした。屋台の車輪が踏みつけていた、風化した糸とお札のようなものが私の目に入って、私はこのことに関して一切口を閉ざして生きていくこと、二度とここで客を待たないことを堅く堅く誓った。
ミスティアから見た博麗神社の有無に関する滑稽な運動は本当に至極どうでも良さそうで、身も蓋も無い解決方法が語り部とは関係の無い場所で為されて事態が終了というのも幻想郷の軽くて重要度も低い異変にありそうでああ良かったな、と思わされておいてのこれ。後味が悪すぎる。
本文の後に結局は博麗霊夢が存在するという強い観念で上書きされ、ミスティアはこの場所の存在を無かった事にするであろう展開は見えるにせよ、この後を引く不気味さは途轍もなく怖いです。でも単純に語り部の地の文とか諸々が面白い…。
異変と言ってもそれ程大事ではなかったと思わせておいてのこのループに入り込むような終わり方とは…
たった一人の思考が大衆の思考すらも塗り替えるような本当に奇妙な話過ぎて…一体誰から始まったんでしょうね
ブラックボックスほど恐ろしいものはないということが良く分かります。
賢者どもは早急に仕組みを解明して再発防止に取り組んでくれ。ネコと和解せよ。
>私は所詮対岸の火事ではあったけれど、しかしそれでも小さな絶望を抱える日々を送っていた
この言葉がなんだか、言いようのない不安感に困惑しているミスティアの心情を良く良く表しているようで、いいなあと思います。
お見事でした。
気味の悪いままに話が進み、ミスティアも客も訳が分からないままに進んでいく。気持ち悪いがゆえに面白く、素敵な作品でした。
原因不明なものが原因不明なまま終わる
素晴らしいと思います
スムーズに博霊神社が消えて現れるまでの話が語られて、最後のオチに繋がる流れが綺麗で良かったです。
話を動かすために原作のキャラクターを余計に黒く描写していないにもかかわらず、ぞくっと来る話をかけていて素晴らしいと思いました。
有難う御座いました。
ちょっと不思議な話かと思いきや、ちゃんとホラーですねこれ。幽霊とかどっきりとかに頼らない、確かなお話づくりの上手さを感じさせます。
言霊って怖いですね……そう感じさせるものがありました。
だからこそ、時々出てくるセリフが不気味なものが多く、その手法にまいりました。最後にそのセリフがきて、語り部が耐えきれなくなって即刻逃げるような幕引きとなるとは……。
認識していなければ、それはその人の中で存在していないも同じ。その事実の恐ろしさ。お見事です。