相対性精神学において夢とは私たちが認識可能な現実の一つに過ぎない。誰もが、現という名の現実と、夢という名の現実を見ている。
そんなことは科学世紀の現代においては常識だが、一方でそれとはある意味で相反する認識を誰もが持っている。
そう、誰もが現の現実こそが本当の現実、自分たちがいるべき現実だと認識している。
真に現と夢が同じならば、人々は生きたい現実を選ぶだろうに、何故かそれをしない。夢で好き勝手することはあっても、現でだけ、その心理的ハードルは非常に高い。誰もが皆、現という現実を選び、現という現実を自分の生きる現実だと呼ぶ。かく言う私含め。
それは何故か。
これが蓮子ならば、「それこそが夢が夢たる証拠。所詮、夢とは脳が見せているだけに過ぎない幻よ」等というのだろうか。だが、私ならばより論理的な意見を提唱出来る。
すなわち、夢には連続性がないからだ。
夢とは一時のものに過ぎず、起きればそれで終わり。対して現は夢を挟もうとも連綿と続く。誰もがベッドに入って現を終え、再びベッドから現を始める。だからこそ人は現に生きるのだ。どれほど現が辛く、退屈だとしても、自分達が真に生きる場所は現にしかないと誰もが思っている。夢は幾重にも存在しようとも、現は一つしか存在しないのだ。
ならば、もし夢が連続するならば。
夢の世界のベッドで寝て、夢の世界のベッドで起きる。そうして夢という現実が連綿と続くのなら、果たして人は夢と現を区別できるだろうか。いや、そこに違いはあるのだろうか。
「だとしたら……ここも現実なのかしら」
呟いた言葉が、闇へと消えていく。
私は今、布団の中にいる。いつも寝て起きてを繰り返しているワンルームマンションのベッドではなく、広い部屋に敷かれた布団の中。
そこで、私は目を覚ました。
辺りは暗いが、首を横に向ければ、障子越しに星明かりが部屋に差し込んでいるのが見えて、今が夜であることが分かる。
夜であることを認識したからだろうか。次第に目が、耳が、肌が鋭敏に慣れていくのを感じた。あるいは単に、暗闇に慣れただけなのかもしれないが。
目が、ここが木造の和室であることを教えてくれる。耳が、鈴虫らしき虫の音を拾う。肌が、自分がいつもの紫のドレスではなく白く無地の和風な寝間着を着ているのを感じ取る。
そして、私の中の何かが、ここが科学世紀の京都ではないどこかであることをしきりに訴えている。
果たして、これは一度きりの夢なのだろうか。それとも、連綿と続くこの世界での暮らしの一旦なのだろうか。
疑問は留めなく頭を流れるが、不思議と悪い気はしなかった。自分の身の安全、アイデンティティにも大きく関わるであろうそれを、私はことさらに追及しようとは思わなかった。寝床から始まる夢など珍しくもないだろうに、まるで初めてのことであるかのように気分がどこか高揚している。
しばらくして、障子越しに見える星明りが目につく。どこか浮ついた私は、興味の惹かれるがままに布団を抜け出しそこへと向かう。
障子に手をかけ、スライドさせる。障子は、音もなく私の前を退き、隠していた光景を見せてくれた。
そこには、満天の星空があった。
ただの、満天の星空。この美しい光景を遮るビルもスモッグもない、何者にも隠されることのない純粋な星空だけがあった。
「わぁ……」
言葉にならない息が、口から漏れた。
今まで見たことの無い、星空。夢という現実にしかない、夢のような光景。
夜とは、これほどに明るいものだろうか。街灯に塗れた京都を、いつだって明るく照らされた夜を見て、人は夜が暗いことを忘れたのだと思っていたが、本当に忘れ去られたのは夜が明るいという事実かもしれない。
蓮子なら、あの気持ち悪い目なら、今この場所がどこかなんて簡単に分かるのだろうか。あの目は、ここが現か夢か教えてくれるのだろうか。ここがどこかなんて今はどうでも良かったが、あの目があればもっと星空を楽しめるのかもしれない。自慢げに星空を語る蓮子の顔が浮かぶ。あの目がここにないこと、それだけが今は残念だ。
「綺麗、ですね」
私の心情をそのまま言葉にしたような声がして、最初は自分の発した声なのだと思ってしまった。
「こんばんは」
そこまで言葉を聞いて、ようやく自分が誰かに話しかけられているのだと気付く。
声のしたほうを見れば、私と同じ白い寝間着に身を包んだ女性がいた。金に黒のメッシュというどこか虎を連想させる中々にファンキーな髪だが、彼女からアウトローな印象は受けない。柔和な笑みを浮かべる彼女は、いっそ全ての罪を許してしまうほどに慈悲深いのではと思ってしまう。
無論、私の中では彼女との面識はない。記憶の上では、これが初めて……のはずだ。
「ええ、本当に」
それでも、私は彼女のことを尋ねようとは思わなかった。それがひどく無粋な気がしたのだ。
「隣、お邪魔しても?」
「どうぞ」
もちろん、私に断る理由などなかった。
「それでは失礼します」
そう言って彼女は私の隣に座る。元々友人と呼べる人物だなんて、それこそ蓮子くらいしか存在しなかったから、自分の隣に蓮子以外の誰かが座っているというのがひどく新鮮だ。
彼女は私の横に座って何か話すでもなく、ただ黙って星空を眺めている。
けれど、この空間が居心地の悪いだなんて思わない。ただ星を見上げる。満天の星空を見ている。それだけで十分だった。
「星、綺麗ですね」
「ええ。とても」
ぽつりと。自然に漏れた私の言葉に、彼女が言葉を返してくれる。
「ここが寺で、本来なら修行をする場だというのに。こんな景色があっては修行にも身が入らないというものです。救いなのは、これが夜にしか見ることが出来ないという事でしょうか」
「ここは……お寺だったの?」
言って、随分間抜けな返答だと後悔した。先ほどの言葉からして、彼女はこの寺に住み込む修行僧なのだろう。さっきまで自分が布団まで敷いてこの建物で寝ていて、ここがお寺であることを知らないはずがない。ましてやそれを、ここの住人に聞くなど。頭が可笑しいと思われても仕方のない愚行。
「ええ。自分で言うのもなんですが、素晴らしいお寺なんですよ」
それでも、彼女は表情一つ変えなかった。ただ、私の発言を受け止めたのだ。彼女は変わらず優しい笑みを浮かべたまま、私の戯言を真っすぐに受け取った。
「だから、私みたいな妖だって、受け入れてくれている」
「妖……貴方は、妖怪なんですか?」
「あら、気付きませんでしたか?」
そう言われて、改めて彼女の姿を見る。髪は少々奇抜かもしれないが、姿形はどう見ても人のそれにしか見えない。『人に成る』あるいは『人に化ける』というのもまた、妖怪の在り方の一つかもしれないが。
「本当に? ……そんな風には」
「見えない、ですか?」
そう答えた彼女は、どこか嬉しそうだった。ほわあ、という言葉がよく似合う、屈託のない笑顔。
「それは良かった。それはきっと、修行の成果ですね」
そうして、花開いていた彼女の笑顔が萎む。先ほどとは違う、星明りに照らされてなおどこか影のある笑み。それを皮切りに、少しずつ、彼女が言葉を漏らしていく。
「実は、私はよくこうして星空を眺めているんです」
「それは……どうして?」
「私は修行僧として決して短くない年月をここで過ごしていますが、これでも元は獣の出なんです」
「獣の妖怪……ということですか?」
何の、と聞かなくても何となく分かる。彼女はきっと虎の妖怪なのだろう。虎という言葉が独り歩きした結果生まれた、想像上の虎。それが彼女。
「ええ、本当は私、とっても怖い人喰い妖怪なんですよ?」
「それはまた……」
「あら、驚かないのですね。妖怪が目の前にいて、それもお寺で修行してるというのに。貴方は実に妖怪に慣れているように見える」
「慣れてるわけじゃないです……ただ、妖怪が目の前にいるのが荒唐無稽というか、この現実 は何でもありなんだなって、そう思って」
「あら、ここは妖怪なんて当たり前にいるじゃないですか」
「……それは」
余計なことを言っただろうか。どうやらこの夢は妖怪なんて当たり前にいるらしい。
「ふふっ。もちろん今は人なんて食べません。これもここでの修行の成果です」
しかし、彼女はそのずれに気付かず、話を続ける。いや、もしかしたら全て気付いているのだろうか。
「……ですが、どうにも不安になることがありましてね」
「不安……ですか」
「ええ。いつか自分の中の獣が目覚めるんじゃないかと」
「そんな風には、見えませんがね」
「これでも私、結構な激情家なんですよ。頑張って感情を抑えているだけで。油断してたら貴方を食べちゃうかもしれませんよ」
がおーってね、とお道化たように言いながら両手を顔の左右に置いてにへらと笑う。茶目っ気のあるその振舞いの割には、その表情はどこか寂しそうであった。
「だから、私はこうして星空を眺めるんです」
手を下ろし、再び彼女は空を見上げる。
「……感情を制御するための修行として、ですか?」
「そんないいものではありませんよ。星空を見て、綺麗だと感じる。そうして思うんですよ。私はまだ獣じゃないって。妖怪の、獣の身で厚かましい……なんて聖が聞くと怒りそうですが、人の心を持った人間なんだって、安心する……したいんです。それだけのために、星を眺める」
「まるで……」
「まるで山月記だ、ですか?」
見透かしているかのような彼女の目に、肩が跳ねた。
「彼が臆病な自尊心と尊大な羞恥心から人喰い虎になったのなら、私はさしずめ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心で以て人を保っている、といったところでしょうか。……浅ましいでしょう?」
「そんなことは……」
ない。貴方は立派な人だ。言うだけなら簡単なのだろうが、そんなことを軽々しく言う事なんて出来ず、言葉が詰まった。まだ話して数分で、何が分かるというのだ。
その代わりに、私は彼女に投げ掛ける言葉を模索する。
「何故、それを私に?」
たっぷり時間を掛けて、ようやく出た言葉がそんなくだらない質問だった。だが、少なくとも彼女が漏らした話は初対面の相手にするようなものではないように思える。彼女がそんなセンシティブな話を何故私に話したのか、それが疑問だったのもまた本心だ。
何故、私にその話を。それを聞かれた彼女は、キョトンとした目でこちらを見た。彼女もまた、たっぷりと時間を掛けて、私の質問に答える。
「……さあ、何故なんでしょうか?」
彼女は困ったように小首をかしげ、頬を指で掻いている。本当に、自分でもよく分からないままに喋っていたらしい。
「これを知っているのは、私以外には……?」
彼女はゆるゆると首を横に振る。
「貴方だけです。聖にも、寺のみんなにも、ナズーリンにすら言ったことはありません。なのに……」
「じゃあ、なおさら……何で、出会ったばかりの私なんかに」
彼女は言葉を選ぶようにして、星空を見上げながらぽつりぽつりと言葉を漏らす。それはまるで、懺悔のようだった。
「私は……きっと、貴方に……いえ、誰かに聞いて欲しかったんだと思います。私だけの秘密を」
言って、彼女は息をつく。さんざんため込んだその息を、小さく、ゆっくりと吐いた。
秘密を抱えるというものは、想像以上に辛いものだ。それが誰にも言えない秘密であるほど、打ち明けたくなる。全部吐き出して、楽になりたがる。
問題は、何故、それが私なのかということだ。
誰かに打ち明けるだけなら、誰でもいいだろう。打ち明けるだけで楽になるならば、それこそ地面に掘られた穴だって構わない。
だが、聞かされた相手はそうではない。彼女が打ち明けたくて仕方なかった秘密を背負うのだから。それは即ち、秘密を抱えるという自分と同じ苦しみを味わえと言うに等しい行為。
そして、秘密というものは秘密にしなければならない理由があるからこそ秘密なのだ。吐露した秘密は、秘密でなくなる。
それでも、計画的か突発的か、秘密を吐露する相手に私を選んだ。
「私が、誰かにその秘密を言いふらすとは思わなかったのですか?」
「貴方は、他人の秘密を軽々に話すような、そんな人ではない。秘密を言いふらすことなんて、貴方には出来ない。違いますか?」
「随分と信頼されているようだけど……しない、ではなく出来ない、ね」
正直なところ、彼女との間にそれほどの信頼関係があるように思えない。
私と、この夢の住民。そこに何の違いがあるのか。何故、彼女は私を選んだのか。
それは、きっと。
「貴方は……私が、一夜限りの存在だから、私に話したの?」
その言葉を、彼女は肯定も否定もしない。ただ、優しくて悲しそうな笑みを浮かべているだけだ。
「貴方、私がここの住民でないと、私がここにいるのが一夜限りの夢幻だと知っているのね? 私なら、この現実の住人ではない私なら、元の現実 に帰ってしまえば、少なくともこの現実で言いふらすことは出来ない。貴方が墓まで持っていけなかった秘密を、私ならって、そう考えたのかしら。王様の耳は何とやら。さながら私は地面に掘られた穴、といったところかしら」
「そこまで考えていたわけでは無い、つもりですが……いやはや手厳しい。お気に触りましたか?」
「いえ、……いえ、そんな」
そんなことはない。
話してくれて嬉しかった。
面白い話を聞くことが出来た。
それは、紛れもない、私の本心だった。
果たして、その言葉を彼女に伝えることは出来たのだろうか。
「お眠りになりますか? ……それとも、お目覚めですか?」
意識が白み、瞼が重くなる。
霞む視界の中、優し気に笑う彼女が見えた。どこか憑き物の消えたような、暗さの消えた笑み。
そして……
「どうか、ここで起きた事が、貴方の内から消えることを願っています」
§
「メリー、メリーってば」
「んあ?」
聞き慣れた声が聞こえ、揺らいでいた意識が次第に体へと戻っていく。
顔を上げれば、そこには蓮子がいた。見慣れた顔にどこか安堵する。
ああ、そうだ。私は今、大学のカフェテラスで蓮子と待ち合わせをしていたのだ。テーブルの上の冷めた紅茶が、どれほどの時間を寝ていたのか教えてくれている。
「随分と気持ちよさそうに寝ていたわね。おはよう、メリー」
「蓮子ははやくないわね。遅刻よ。おそようさん」
たはは、と笑う蓮子。果たして本心から悪いとそう思っているのだろうか。
その笑顔を見ていると、夢で会った彼女を思い出す。秘密を抱え、どこか寂し気な笑みを浮かべていた、彼女のことを。
「ねぇ、蓮子」
「え、何?」
夢の中で出会った、彼女。
彼女は、私に秘密を話した。それが彼女自身の安息のためであれ、彼女は私を信用していた。決して外に漏れることは無いと、あの夢の世界の誰かの耳に入ることは無いと。
それが、秘密を吐露した彼女の願い。
けれど、ごめんなさい。
やっぱり私は、貴方が思うほど良い子なんかじゃないのだ。
「また、夢のカウンセリングをお願い出来ないかしら」
王様の耳がロバの耳だと口留めされた理髪師は、穴を掘ってそこに秘密を洗い浚い吐き出した。
そして、そこからやがて葦が生え、笛の音と共に王様の秘密を垂れ流し、やがてその言葉は王様へと届いた。
なら、私が彼女にとって秘密を吐き出す穴なのであれば。
その秘密は草木を育て、秘密を広め、……やがて貴方の元へ届いたのなら。
そうしたら……名も知らぬ、優しい獣の人間さんと、もう一度出会うことが出来るかしら?
貴方は、私を勝手だと思うかもしれないけど……それはきっと、お互い様よね?
そんなことは科学世紀の現代においては常識だが、一方でそれとはある意味で相反する認識を誰もが持っている。
そう、誰もが現の現実こそが本当の現実、自分たちがいるべき現実だと認識している。
真に現と夢が同じならば、人々は生きたい現実を選ぶだろうに、何故かそれをしない。夢で好き勝手することはあっても、現でだけ、その心理的ハードルは非常に高い。誰もが皆、現という現実を選び、現という現実を自分の生きる現実だと呼ぶ。かく言う私含め。
それは何故か。
これが蓮子ならば、「それこそが夢が夢たる証拠。所詮、夢とは脳が見せているだけに過ぎない幻よ」等というのだろうか。だが、私ならばより論理的な意見を提唱出来る。
すなわち、夢には連続性がないからだ。
夢とは一時のものに過ぎず、起きればそれで終わり。対して現は夢を挟もうとも連綿と続く。誰もがベッドに入って現を終え、再びベッドから現を始める。だからこそ人は現に生きるのだ。どれほど現が辛く、退屈だとしても、自分達が真に生きる場所は現にしかないと誰もが思っている。夢は幾重にも存在しようとも、現は一つしか存在しないのだ。
ならば、もし夢が連続するならば。
夢の世界のベッドで寝て、夢の世界のベッドで起きる。そうして夢という現実が連綿と続くのなら、果たして人は夢と現を区別できるだろうか。いや、そこに違いはあるのだろうか。
「だとしたら……ここも現実なのかしら」
呟いた言葉が、闇へと消えていく。
私は今、布団の中にいる。いつも寝て起きてを繰り返しているワンルームマンションのベッドではなく、広い部屋に敷かれた布団の中。
そこで、私は目を覚ました。
辺りは暗いが、首を横に向ければ、障子越しに星明かりが部屋に差し込んでいるのが見えて、今が夜であることが分かる。
夜であることを認識したからだろうか。次第に目が、耳が、肌が鋭敏に慣れていくのを感じた。あるいは単に、暗闇に慣れただけなのかもしれないが。
目が、ここが木造の和室であることを教えてくれる。耳が、鈴虫らしき虫の音を拾う。肌が、自分がいつもの紫のドレスではなく白く無地の和風な寝間着を着ているのを感じ取る。
そして、私の中の何かが、ここが科学世紀の京都ではないどこかであることをしきりに訴えている。
果たして、これは一度きりの夢なのだろうか。それとも、連綿と続くこの世界での暮らしの一旦なのだろうか。
疑問は留めなく頭を流れるが、不思議と悪い気はしなかった。自分の身の安全、アイデンティティにも大きく関わるであろうそれを、私はことさらに追及しようとは思わなかった。寝床から始まる夢など珍しくもないだろうに、まるで初めてのことであるかのように気分がどこか高揚している。
しばらくして、障子越しに見える星明りが目につく。どこか浮ついた私は、興味の惹かれるがままに布団を抜け出しそこへと向かう。
障子に手をかけ、スライドさせる。障子は、音もなく私の前を退き、隠していた光景を見せてくれた。
そこには、満天の星空があった。
ただの、満天の星空。この美しい光景を遮るビルもスモッグもない、何者にも隠されることのない純粋な星空だけがあった。
「わぁ……」
言葉にならない息が、口から漏れた。
今まで見たことの無い、星空。夢という現実にしかない、夢のような光景。
夜とは、これほどに明るいものだろうか。街灯に塗れた京都を、いつだって明るく照らされた夜を見て、人は夜が暗いことを忘れたのだと思っていたが、本当に忘れ去られたのは夜が明るいという事実かもしれない。
蓮子なら、あの気持ち悪い目なら、今この場所がどこかなんて簡単に分かるのだろうか。あの目は、ここが現か夢か教えてくれるのだろうか。ここがどこかなんて今はどうでも良かったが、あの目があればもっと星空を楽しめるのかもしれない。自慢げに星空を語る蓮子の顔が浮かぶ。あの目がここにないこと、それだけが今は残念だ。
「綺麗、ですね」
私の心情をそのまま言葉にしたような声がして、最初は自分の発した声なのだと思ってしまった。
「こんばんは」
そこまで言葉を聞いて、ようやく自分が誰かに話しかけられているのだと気付く。
声のしたほうを見れば、私と同じ白い寝間着に身を包んだ女性がいた。金に黒のメッシュというどこか虎を連想させる中々にファンキーな髪だが、彼女からアウトローな印象は受けない。柔和な笑みを浮かべる彼女は、いっそ全ての罪を許してしまうほどに慈悲深いのではと思ってしまう。
無論、私の中では彼女との面識はない。記憶の上では、これが初めて……のはずだ。
「ええ、本当に」
それでも、私は彼女のことを尋ねようとは思わなかった。それがひどく無粋な気がしたのだ。
「隣、お邪魔しても?」
「どうぞ」
もちろん、私に断る理由などなかった。
「それでは失礼します」
そう言って彼女は私の隣に座る。元々友人と呼べる人物だなんて、それこそ蓮子くらいしか存在しなかったから、自分の隣に蓮子以外の誰かが座っているというのがひどく新鮮だ。
彼女は私の横に座って何か話すでもなく、ただ黙って星空を眺めている。
けれど、この空間が居心地の悪いだなんて思わない。ただ星を見上げる。満天の星空を見ている。それだけで十分だった。
「星、綺麗ですね」
「ええ。とても」
ぽつりと。自然に漏れた私の言葉に、彼女が言葉を返してくれる。
「ここが寺で、本来なら修行をする場だというのに。こんな景色があっては修行にも身が入らないというものです。救いなのは、これが夜にしか見ることが出来ないという事でしょうか」
「ここは……お寺だったの?」
言って、随分間抜けな返答だと後悔した。先ほどの言葉からして、彼女はこの寺に住み込む修行僧なのだろう。さっきまで自分が布団まで敷いてこの建物で寝ていて、ここがお寺であることを知らないはずがない。ましてやそれを、ここの住人に聞くなど。頭が可笑しいと思われても仕方のない愚行。
「ええ。自分で言うのもなんですが、素晴らしいお寺なんですよ」
それでも、彼女は表情一つ変えなかった。ただ、私の発言を受け止めたのだ。彼女は変わらず優しい笑みを浮かべたまま、私の戯言を真っすぐに受け取った。
「だから、私みたいな妖だって、受け入れてくれている」
「妖……貴方は、妖怪なんですか?」
「あら、気付きませんでしたか?」
そう言われて、改めて彼女の姿を見る。髪は少々奇抜かもしれないが、姿形はどう見ても人のそれにしか見えない。『人に成る』あるいは『人に化ける』というのもまた、妖怪の在り方の一つかもしれないが。
「本当に? ……そんな風には」
「見えない、ですか?」
そう答えた彼女は、どこか嬉しそうだった。ほわあ、という言葉がよく似合う、屈託のない笑顔。
「それは良かった。それはきっと、修行の成果ですね」
そうして、花開いていた彼女の笑顔が萎む。先ほどとは違う、星明りに照らされてなおどこか影のある笑み。それを皮切りに、少しずつ、彼女が言葉を漏らしていく。
「実は、私はよくこうして星空を眺めているんです」
「それは……どうして?」
「私は修行僧として決して短くない年月をここで過ごしていますが、これでも元は獣の出なんです」
「獣の妖怪……ということですか?」
何の、と聞かなくても何となく分かる。彼女はきっと虎の妖怪なのだろう。虎という言葉が独り歩きした結果生まれた、想像上の虎。それが彼女。
「ええ、本当は私、とっても怖い人喰い妖怪なんですよ?」
「それはまた……」
「あら、驚かないのですね。妖怪が目の前にいて、それもお寺で修行してるというのに。貴方は実に妖怪に慣れているように見える」
「慣れてるわけじゃないです……ただ、妖怪が目の前にいるのが荒唐無稽というか、この
「あら、ここは妖怪なんて当たり前にいるじゃないですか」
「……それは」
余計なことを言っただろうか。どうやらこの夢は妖怪なんて当たり前にいるらしい。
「ふふっ。もちろん今は人なんて食べません。これもここでの修行の成果です」
しかし、彼女はそのずれに気付かず、話を続ける。いや、もしかしたら全て気付いているのだろうか。
「……ですが、どうにも不安になることがありましてね」
「不安……ですか」
「ええ。いつか自分の中の獣が目覚めるんじゃないかと」
「そんな風には、見えませんがね」
「これでも私、結構な激情家なんですよ。頑張って感情を抑えているだけで。油断してたら貴方を食べちゃうかもしれませんよ」
がおーってね、とお道化たように言いながら両手を顔の左右に置いてにへらと笑う。茶目っ気のあるその振舞いの割には、その表情はどこか寂しそうであった。
「だから、私はこうして星空を眺めるんです」
手を下ろし、再び彼女は空を見上げる。
「……感情を制御するための修行として、ですか?」
「そんないいものではありませんよ。星空を見て、綺麗だと感じる。そうして思うんですよ。私はまだ獣じゃないって。妖怪の、獣の身で厚かましい……なんて聖が聞くと怒りそうですが、人の心を持った人間なんだって、安心する……したいんです。それだけのために、星を眺める」
「まるで……」
「まるで山月記だ、ですか?」
見透かしているかのような彼女の目に、肩が跳ねた。
「彼が臆病な自尊心と尊大な羞恥心から人喰い虎になったのなら、私はさしずめ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心で以て人を保っている、といったところでしょうか。……浅ましいでしょう?」
「そんなことは……」
ない。貴方は立派な人だ。言うだけなら簡単なのだろうが、そんなことを軽々しく言う事なんて出来ず、言葉が詰まった。まだ話して数分で、何が分かるというのだ。
その代わりに、私は彼女に投げ掛ける言葉を模索する。
「何故、それを私に?」
たっぷり時間を掛けて、ようやく出た言葉がそんなくだらない質問だった。だが、少なくとも彼女が漏らした話は初対面の相手にするようなものではないように思える。彼女がそんなセンシティブな話を何故私に話したのか、それが疑問だったのもまた本心だ。
何故、私にその話を。それを聞かれた彼女は、キョトンとした目でこちらを見た。彼女もまた、たっぷりと時間を掛けて、私の質問に答える。
「……さあ、何故なんでしょうか?」
彼女は困ったように小首をかしげ、頬を指で掻いている。本当に、自分でもよく分からないままに喋っていたらしい。
「これを知っているのは、私以外には……?」
彼女はゆるゆると首を横に振る。
「貴方だけです。聖にも、寺のみんなにも、ナズーリンにすら言ったことはありません。なのに……」
「じゃあ、なおさら……何で、出会ったばかりの私なんかに」
彼女は言葉を選ぶようにして、星空を見上げながらぽつりぽつりと言葉を漏らす。それはまるで、懺悔のようだった。
「私は……きっと、貴方に……いえ、誰かに聞いて欲しかったんだと思います。私だけの秘密を」
言って、彼女は息をつく。さんざんため込んだその息を、小さく、ゆっくりと吐いた。
秘密を抱えるというものは、想像以上に辛いものだ。それが誰にも言えない秘密であるほど、打ち明けたくなる。全部吐き出して、楽になりたがる。
問題は、何故、それが私なのかということだ。
誰かに打ち明けるだけなら、誰でもいいだろう。打ち明けるだけで楽になるならば、それこそ地面に掘られた穴だって構わない。
だが、聞かされた相手はそうではない。彼女が打ち明けたくて仕方なかった秘密を背負うのだから。それは即ち、秘密を抱えるという自分と同じ苦しみを味わえと言うに等しい行為。
そして、秘密というものは秘密にしなければならない理由があるからこそ秘密なのだ。吐露した秘密は、秘密でなくなる。
それでも、計画的か突発的か、秘密を吐露する相手に私を選んだ。
「私が、誰かにその秘密を言いふらすとは思わなかったのですか?」
「貴方は、他人の秘密を軽々に話すような、そんな人ではない。秘密を言いふらすことなんて、貴方には出来ない。違いますか?」
「随分と信頼されているようだけど……しない、ではなく出来ない、ね」
正直なところ、彼女との間にそれほどの信頼関係があるように思えない。
私と、この夢の住民。そこに何の違いがあるのか。何故、彼女は私を選んだのか。
それは、きっと。
「貴方は……私が、一夜限りの存在だから、私に話したの?」
その言葉を、彼女は肯定も否定もしない。ただ、優しくて悲しそうな笑みを浮かべているだけだ。
「貴方、私がここの住民でないと、私がここにいるのが一夜限りの夢幻だと知っているのね? 私なら、この現実の住人ではない私なら、元の
「そこまで考えていたわけでは無い、つもりですが……いやはや手厳しい。お気に触りましたか?」
「いえ、……いえ、そんな」
そんなことはない。
話してくれて嬉しかった。
面白い話を聞くことが出来た。
それは、紛れもない、私の本心だった。
果たして、その言葉を彼女に伝えることは出来たのだろうか。
「お眠りになりますか? ……それとも、お目覚めですか?」
意識が白み、瞼が重くなる。
霞む視界の中、優し気に笑う彼女が見えた。どこか憑き物の消えたような、暗さの消えた笑み。
そして……
「どうか、ここで起きた事が、貴方の内から消えることを願っています」
§
「メリー、メリーってば」
「んあ?」
聞き慣れた声が聞こえ、揺らいでいた意識が次第に体へと戻っていく。
顔を上げれば、そこには蓮子がいた。見慣れた顔にどこか安堵する。
ああ、そうだ。私は今、大学のカフェテラスで蓮子と待ち合わせをしていたのだ。テーブルの上の冷めた紅茶が、どれほどの時間を寝ていたのか教えてくれている。
「随分と気持ちよさそうに寝ていたわね。おはよう、メリー」
「蓮子ははやくないわね。遅刻よ。おそようさん」
たはは、と笑う蓮子。果たして本心から悪いとそう思っているのだろうか。
その笑顔を見ていると、夢で会った彼女を思い出す。秘密を抱え、どこか寂し気な笑みを浮かべていた、彼女のことを。
「ねぇ、蓮子」
「え、何?」
夢の中で出会った、彼女。
彼女は、私に秘密を話した。それが彼女自身の安息のためであれ、彼女は私を信用していた。決して外に漏れることは無いと、あの夢の世界の誰かの耳に入ることは無いと。
それが、秘密を吐露した彼女の願い。
けれど、ごめんなさい。
やっぱり私は、貴方が思うほど良い子なんかじゃないのだ。
「また、夢のカウンセリングをお願い出来ないかしら」
王様の耳がロバの耳だと口留めされた理髪師は、穴を掘ってそこに秘密を洗い浚い吐き出した。
そして、そこからやがて葦が生え、笛の音と共に王様の秘密を垂れ流し、やがてその言葉は王様へと届いた。
なら、私が彼女にとって秘密を吐き出す穴なのであれば。
その秘密は草木を育て、秘密を広め、……やがて貴方の元へ届いたのなら。
そうしたら……名も知らぬ、優しい獣の人間さんと、もう一度出会うことが出来るかしら?
貴方は、私を勝手だと思うかもしれないけど……それはきっと、お互い様よね?
「本当に忘れ去られたのは夜が明るいという事実かもしれない」の所に光るお洒落を感じました。
良かったです。静謐な空気感は秘封によく合うと思います。
夢の中のメリーさん、その心理描写、素敵でした。
心の中の描写に説得力があって良かったです。有難う御座いました。
それでも何処かお互いに噛み合ってるってのが良かったなと思いました。
夢は一時のものに過ぎないという理論が破綻したとき、夢は現となり得るという展開がすごく好きです。
夢と現の境が曖昧になる時のほんのひと時の不思議な体験、素敵でした。