私は、物部布都を憎んでいる。
許してやりたいと、思ってはいる。
「珍しいな屠自古。まさか、こんな夜半に会うとはな」
私も同感だ。澄んだ空に真白い満月が浮かぶ美しい月夜だから、月明かりに誘われるように夜道をふらついていたのだが、まさか布都と出くわすとは。
「そんな嫌そうな顔をしなくても良いではないか……」
「顔に出ていたか」
「まあ、なんだ。出会ったのも何かの縁だろう。今日は月も綺麗なのだし、我と散歩でも如何かな?」
「ふん、私は気が向くままに出歩いているだけだ。お前に付き合うつもりはない」
布都などに構うと、折角の夜が台無しだ。気にせず彼女の隣を通り過ぎようとしたのだが。
「なあ、屠自古よ。お主はまだ我を憎んでいるか?」
その言葉を聞いた途端、胸の中で燻っていた感情が燃え上がるのを感じた。火種に木屑が放り込まれたようだ。
「ああ、憎んでいる」
声も少し荒々しくなった。布都の表情が暗く沈むのを見て胸が痛んだが、元はと言えばこいつの所為なのだから、気にする事はない。
「私は、お前が私を裏切ったのだと知った時、お前を殺したいほど憎んだ。その憎しみは、今もなお衰えを知らぬ炎のように、私の胸で燃えている」
「そうか……ありがたい」
にわかには信じられぬ言葉を聞いた。思わず布都を二度見してしまう。
「何を言ってんだ。なぜ礼を言う?」
「此岸で我を恨む者は、もはやお主一人になってしまったのだと思ってな」
「恨むものが居なくなって、嬉しいのか」
「いいや、その逆だな」
「頓珍漢な奴め」
奴は頭を掻いて、自嘲した。その表情がまたなんとも私の心を逆撫でた。このままこいつの相手をしていると、憎しみで心がどうにかなってしまいそうだ。
仕様がなく、私は早足でその場を去った。
「やあ、屠自古。気は晴れたかい?」
「太子様?」
散歩から戻ると、何故か太子様が待ち構えていた。なんという偶然だろう。今日は偶然が良くある日だな。
「ふむ、随分とご執心だね屠自古。いや、これは憎悪や怨恨の類かな?」
どうも、太子様にはお見通しのようだ。お恥ずかしながら正にそうで、それでいて気は晴れていない。
「そんなに燃え上がるような欲を聞かされ続けたら、胸焼けしてしまいそうだ」
「申し訳ありません、太子様。しかし、私にはどうにもできない心なのです」
「それは違うよ屠自古。人の心なのだから、人にどうにもできないなんてあり得ない。確かに、自分を殺した相手を許す事は、聖人君子でも難しい事だけれどね」
「太子様は、私が布都を許す事を望んでいるのですか?」
「いいや違う。屠自古が望む事を、私も望んでいるだけさ。屠自古は布都を許そうとしていて、けれどそれができない自分に苦しんでいるのではないかな?」
太子様には敵わない。彼女のよくよく欲を聞く耳の前では、私の心など丸裸同然だ。
布都を憎む醜い心を見透かされているかと思うと、酷く恥ずかしかった。
「太子様。私は醜い心を持っています」
「人は皆、そうだよ屠自古。恥じる必要はない。布都に尸解の法を試させた時の私の心など、今の屠自古の比ではない程に悍ましかった」
太子様はニッコリと笑みを浮かべて、お立ちになった。
「何処へ行かれるのですか?」
「少し散歩にね。今日は月が綺麗な夜だからさ。屠自古はどうする?」
「私はもう済ましてしまいましたよ」
「それは残念だ」
太子様が去り、誰もいない月夜に一人思い耽った。
私は布都を憎んでいる。だが、許してやりたいとも思っている。だが、どうしても許せずに、気を病むのだ。
布都は、尸解仙として復活した直後に、裏切りの件について既に私に謝罪していた。また、その理由についてもだ。
太子様が尸解仙として復活するまでの間、その躯と器が安置されている霊廟の守り人が必要だった。皆が眠りにつくわけには行かず、信頼できぬ相手に頼る事はできない。永遠に近い年月の間、この世に未練を残しながら留まり、霊廟を守り抜ける者が必要だった。
白羽の矢が立ったのは私で、布都は私の器であった壺をすり替え、私を亡霊にした。言ってしまえば、布都が自ら憎まれるように仕組んだと言ってもいい。
「亡霊となった私が、お前の器を壊さないかとは思わなかったのか?」
「屠自古がそうしたのならば、我はそれで良いと思っていた。太子様をお守りできるのならば、我一人の命など安いものだ」
「何故私だったのだ?」
「我は、人に憎まれるのには慣れておるからな。それに、屠自古は我を殺せたか?」
ゾッとするほど朗らかな表情でそう言った布都が、私には忘れられない。
「見えるか蘇我よ。我の背には我が物部の一族郎党皆の怨念と怨嗟が積もっておる。今更、お主一人に憎まれたとて何も変わらんよ」
「恐ろしくはないのか?」
「恐ろしいさ。仏の顔がみな、鬼の顔のように見えるのだ。我は、地獄に落ちるのだろうな」
強い奴だと思った。太子様のために自らの一族を裏切ったのだから、強くて当たり前か。
もしも私が布都だったらーー
きっと奴と同じようにはできなかっただろう。そういう意味では、尊敬もしている。
まあ、それでも憎しみは変わらないのだが。
「人の憎しみは、消えるのだろうか?」
「随分と哲学的な問いですわね、屠自古様」
青娥はケラケラと笑い、私の問いを面白がった。
「実に面白いですわ。遥かな飛鳥の時代から、一途に布都様を憎み続けた亡霊である他ならぬ貴女様の口から、そんな言葉を聞けるなんて」
「まるで恋する乙女みたいな言い方はよしてくれ」
「あら、違うのかしら? ならオシドリ夫婦ね。愛情と憎悪は表裏一体ですもの」
青娥の相手をするといつも調子を乱される。尸解の法を伝授してくれた恩人であり太子様の師でもあるが、こいつは邪仙だ。気を許して良い相手ではない。しかし、その知恵は役に立つ。
「それで、初めの問いへの答えですけれど」
態とらしく注意を引くように一拍置いて、青娥は語り始めた。
「否ですわ。正に屠自古様がそれを体現しておりますし、それに……」
「それに?」
「憎しみという感情は、それを向けられる対象の状態には、さして影響されないものですから」
青娥はまるで仙女のように神秘的な笑みを浮かべていた。こうまで悍しい話をしながら、こうまで美しい表情をできることが、彼女の恐ろしいところだ。
「憎い相手が死んだり苦しんだりしても、ざまあみろとほくそ笑む事はあっても、憎しみが無くなる事があるでしょうか?」
「しかし、哀れみや同情を覚えて、憎しみを忘れ許すこともあろう」
「あはは、それは御伽噺の中だけの絵空事ですわ」
「何をそんなに笑う。私はそんなにおかしな事を言ったか?」
「だって、哀れみや同情を覚えて、人を許す事ができる人間なら、初めから人を憎んだりしませんわ」
青娥の一言は、私の胸を抉った。彼女は私に言っているのだ。私が、人を憎み許す事ができない人間なのだと。
「人を憎むのは、人を許せぬ人だけですわ」
蛇のような眼をして、青娥が私を見た。普段なら、また彼女が邪なことを考えているに違いないと思っただろう。今はその目が私を責めているように見えた。邪なのは、私なのだろうか。
「人は変わる。いつか人を許せるようになれば、憎しみも消えるだろう」
「人は変わりませんわ」
「そんな事はない!」
思わず怒鳴り声が出てしまう。しかし、青娥は気にする風もない。
「いいえ、変わりません。貴女は変わらなかった。遥かな太古からずっと変わらずに布都様を憎んでいる」
「私は布都を許したいと思っている」
「思っているだけでしょう?」
「ならば、私はどうすれば良いのだ」
「屠自古様が望むことを成せば良いのです」
太子様と同じことを言う青娥に、思わず私はギョッとする。
「そんなに驚かれるような事を言いましたか? 屠自古様は布都様を憎んでいる。ならば、許すなり復讐するなり好きにすれば良いでしょう」
「復讐……?」
「ええ。許せない憎い相手にすることは一つですわ。相手をできるだけ苦しめてから、殺すのです」
「私が、布都を?」
「許せないとは、そういうことでしょう?」
困惑している私を面白がっているのか。青娥は楽しそうだ。邪仙は月を見ながら嘯いた。
「人の思いは永遠ですから、時間は解決してくれないのですよ」
「時間は解決してくれない、か」
私は寝室で、一人横になりながら考える。青娥の言葉を全て真に受けることはできないが、あの言葉には一理あった。
憎しみは、時間で風化してくれない。実際、今私が抱いている憎しみは色褪せていない。
「ならば、行動に移すしかない訳だ」
復讐を? それはあり得ない。私は布都を殺したい訳ではない。謝罪も受け取った。後は私が彼女を許してあげるだけで良いのだ。
なのにそれができないのは、私が怖かったからだ。もし布都を許してしまえば、彼女への憎しみでこの世に留まっている自らが、どうなるか分からない。
「ははは、わが身可愛さか」
私だって消えてしまうのは怖い。しかし、永らく布都を憎み続けた私だから、分かることもある。
「人を憎むのは、存外に辛いからな」
辛いから憎むのか、憎むから辛いのか。そんな事は幾星霜を経て曖昧になってしまったが、布都を許せれば、私も楽になれるだろうという漠然とした予感があった。うむ、今なら大丈夫だ。
「多分、許せると思う」
やはり、思うだけか。いや、此度は違う。
寝室を出た。空模様を見る。薄暗い夜明け前だ。布都は居ない。まだ外を彷徨い歩いているのだろう。
意を決して、私は空を飛んだ。
薄明の空を飛び回り、ようやく布都を見つけた。霧の湖の畔で湖面を眺めているようだ。
「おい、布都」
「屠自古か」
布都は私に顔を向けずに、湖の方を向いたままだ。朝方の日が差し始めた水面を、奴はじっと見ていた。
「ずっと外にいたのか」
「眠れなかったからな」
布都は手近な石を握り、湖面に放り投げた。
「夢を見るとな、大概悪夢なのだ」
「そうか」
「一番キツイのはあれじゃな。我の一族が戦場で焼け焦げている夢だ」
布都は地べたに胡座をかいた。
「夢には色が無いとか、匂いが無いとか言うが、我からすれば両方嘘っぱちだな。生焼けの焼死体の匂いは、いつ嗅いでも慣れぬ」
奴は振り向いた。声音や話の悲痛さとはちぐはぐに、その表情は普段と変わらない。
「我は罰を、復讐を求めておる。我が裏切って家族や一族を滅ぼしたように、誰かが裏切って我を滅ぼしてくれないかと度々思うのだ」
そうなってくれれば、本当に気が楽なのだが、と。奴はそう言ったきり俯いて黙り込んだ。
私は奴にどう言葉をかければ良いか分からなかったので、一先ず初志を貫徹することにした。
「お前に話がある。心して聞くがいい」
「ほう、ならば、耳を澄まして聞こう」
よし、言ってやんよ。
「我は蘇り、古に自らを屠った。故に布都よ。神の末裔の亡霊たる私は、お前を許そう」
「はは……」
奴の口から、嘲るような乾いた声が漏れていたが、知ったことでは無い。
「私はもうお前を許した。お前を恨む者はもう、此岸の何処にもいない。だから、お前はこれから……勝手に苦しめ」
私も地べたに座り込んだ。日が昇り切り、空は青く、雲は白くなっていた。
「屠自古、お主は本当に、残酷な奴だな」
「お前に言われたきゃねーよ」
私は布都の心が、なんとはなく理解できていた。故に断言できた。こいつは、永遠に苦しみ続ける。
例え誰に許されようとも
こいつは自分を許せないのだ
「私はお前を許せて気分が良い。一緒に酒でも飲まないか?」
「ははは……嫌味な奴め」
あんまり嫌味を言っても、哀れか。
「お前を許した私が言うが、お前を許してはやれないのか?」
「ああ、まだ無理じゃな。太子様が天道を往くまでは。それでこそ初めて、我の行いの全てが報われるのだ」
憎しみ無く見つめると奴は
哀れにしか、見えなくなった
「屠自古よ……何故泣く?」
「うるせえよ。こんな哀れな奴を憎んでた自分が、哀れに過ぎて悲しいだけだ」
「そうか」
許せれば、楽になれると思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。
今はただ、悲しい。
許してやりたいと、思ってはいる。
「珍しいな屠自古。まさか、こんな夜半に会うとはな」
私も同感だ。澄んだ空に真白い満月が浮かぶ美しい月夜だから、月明かりに誘われるように夜道をふらついていたのだが、まさか布都と出くわすとは。
「そんな嫌そうな顔をしなくても良いではないか……」
「顔に出ていたか」
「まあ、なんだ。出会ったのも何かの縁だろう。今日は月も綺麗なのだし、我と散歩でも如何かな?」
「ふん、私は気が向くままに出歩いているだけだ。お前に付き合うつもりはない」
布都などに構うと、折角の夜が台無しだ。気にせず彼女の隣を通り過ぎようとしたのだが。
「なあ、屠自古よ。お主はまだ我を憎んでいるか?」
その言葉を聞いた途端、胸の中で燻っていた感情が燃え上がるのを感じた。火種に木屑が放り込まれたようだ。
「ああ、憎んでいる」
声も少し荒々しくなった。布都の表情が暗く沈むのを見て胸が痛んだが、元はと言えばこいつの所為なのだから、気にする事はない。
「私は、お前が私を裏切ったのだと知った時、お前を殺したいほど憎んだ。その憎しみは、今もなお衰えを知らぬ炎のように、私の胸で燃えている」
「そうか……ありがたい」
にわかには信じられぬ言葉を聞いた。思わず布都を二度見してしまう。
「何を言ってんだ。なぜ礼を言う?」
「此岸で我を恨む者は、もはやお主一人になってしまったのだと思ってな」
「恨むものが居なくなって、嬉しいのか」
「いいや、その逆だな」
「頓珍漢な奴め」
奴は頭を掻いて、自嘲した。その表情がまたなんとも私の心を逆撫でた。このままこいつの相手をしていると、憎しみで心がどうにかなってしまいそうだ。
仕様がなく、私は早足でその場を去った。
「やあ、屠自古。気は晴れたかい?」
「太子様?」
散歩から戻ると、何故か太子様が待ち構えていた。なんという偶然だろう。今日は偶然が良くある日だな。
「ふむ、随分とご執心だね屠自古。いや、これは憎悪や怨恨の類かな?」
どうも、太子様にはお見通しのようだ。お恥ずかしながら正にそうで、それでいて気は晴れていない。
「そんなに燃え上がるような欲を聞かされ続けたら、胸焼けしてしまいそうだ」
「申し訳ありません、太子様。しかし、私にはどうにもできない心なのです」
「それは違うよ屠自古。人の心なのだから、人にどうにもできないなんてあり得ない。確かに、自分を殺した相手を許す事は、聖人君子でも難しい事だけれどね」
「太子様は、私が布都を許す事を望んでいるのですか?」
「いいや違う。屠自古が望む事を、私も望んでいるだけさ。屠自古は布都を許そうとしていて、けれどそれができない自分に苦しんでいるのではないかな?」
太子様には敵わない。彼女のよくよく欲を聞く耳の前では、私の心など丸裸同然だ。
布都を憎む醜い心を見透かされているかと思うと、酷く恥ずかしかった。
「太子様。私は醜い心を持っています」
「人は皆、そうだよ屠自古。恥じる必要はない。布都に尸解の法を試させた時の私の心など、今の屠自古の比ではない程に悍ましかった」
太子様はニッコリと笑みを浮かべて、お立ちになった。
「何処へ行かれるのですか?」
「少し散歩にね。今日は月が綺麗な夜だからさ。屠自古はどうする?」
「私はもう済ましてしまいましたよ」
「それは残念だ」
太子様が去り、誰もいない月夜に一人思い耽った。
私は布都を憎んでいる。だが、許してやりたいとも思っている。だが、どうしても許せずに、気を病むのだ。
布都は、尸解仙として復活した直後に、裏切りの件について既に私に謝罪していた。また、その理由についてもだ。
太子様が尸解仙として復活するまでの間、その躯と器が安置されている霊廟の守り人が必要だった。皆が眠りにつくわけには行かず、信頼できぬ相手に頼る事はできない。永遠に近い年月の間、この世に未練を残しながら留まり、霊廟を守り抜ける者が必要だった。
白羽の矢が立ったのは私で、布都は私の器であった壺をすり替え、私を亡霊にした。言ってしまえば、布都が自ら憎まれるように仕組んだと言ってもいい。
「亡霊となった私が、お前の器を壊さないかとは思わなかったのか?」
「屠自古がそうしたのならば、我はそれで良いと思っていた。太子様をお守りできるのならば、我一人の命など安いものだ」
「何故私だったのだ?」
「我は、人に憎まれるのには慣れておるからな。それに、屠自古は我を殺せたか?」
ゾッとするほど朗らかな表情でそう言った布都が、私には忘れられない。
「見えるか蘇我よ。我の背には我が物部の一族郎党皆の怨念と怨嗟が積もっておる。今更、お主一人に憎まれたとて何も変わらんよ」
「恐ろしくはないのか?」
「恐ろしいさ。仏の顔がみな、鬼の顔のように見えるのだ。我は、地獄に落ちるのだろうな」
強い奴だと思った。太子様のために自らの一族を裏切ったのだから、強くて当たり前か。
もしも私が布都だったらーー
きっと奴と同じようにはできなかっただろう。そういう意味では、尊敬もしている。
まあ、それでも憎しみは変わらないのだが。
「人の憎しみは、消えるのだろうか?」
「随分と哲学的な問いですわね、屠自古様」
青娥はケラケラと笑い、私の問いを面白がった。
「実に面白いですわ。遥かな飛鳥の時代から、一途に布都様を憎み続けた亡霊である他ならぬ貴女様の口から、そんな言葉を聞けるなんて」
「まるで恋する乙女みたいな言い方はよしてくれ」
「あら、違うのかしら? ならオシドリ夫婦ね。愛情と憎悪は表裏一体ですもの」
青娥の相手をするといつも調子を乱される。尸解の法を伝授してくれた恩人であり太子様の師でもあるが、こいつは邪仙だ。気を許して良い相手ではない。しかし、その知恵は役に立つ。
「それで、初めの問いへの答えですけれど」
態とらしく注意を引くように一拍置いて、青娥は語り始めた。
「否ですわ。正に屠自古様がそれを体現しておりますし、それに……」
「それに?」
「憎しみという感情は、それを向けられる対象の状態には、さして影響されないものですから」
青娥はまるで仙女のように神秘的な笑みを浮かべていた。こうまで悍しい話をしながら、こうまで美しい表情をできることが、彼女の恐ろしいところだ。
「憎い相手が死んだり苦しんだりしても、ざまあみろとほくそ笑む事はあっても、憎しみが無くなる事があるでしょうか?」
「しかし、哀れみや同情を覚えて、憎しみを忘れ許すこともあろう」
「あはは、それは御伽噺の中だけの絵空事ですわ」
「何をそんなに笑う。私はそんなにおかしな事を言ったか?」
「だって、哀れみや同情を覚えて、人を許す事ができる人間なら、初めから人を憎んだりしませんわ」
青娥の一言は、私の胸を抉った。彼女は私に言っているのだ。私が、人を憎み許す事ができない人間なのだと。
「人を憎むのは、人を許せぬ人だけですわ」
蛇のような眼をして、青娥が私を見た。普段なら、また彼女が邪なことを考えているに違いないと思っただろう。今はその目が私を責めているように見えた。邪なのは、私なのだろうか。
「人は変わる。いつか人を許せるようになれば、憎しみも消えるだろう」
「人は変わりませんわ」
「そんな事はない!」
思わず怒鳴り声が出てしまう。しかし、青娥は気にする風もない。
「いいえ、変わりません。貴女は変わらなかった。遥かな太古からずっと変わらずに布都様を憎んでいる」
「私は布都を許したいと思っている」
「思っているだけでしょう?」
「ならば、私はどうすれば良いのだ」
「屠自古様が望むことを成せば良いのです」
太子様と同じことを言う青娥に、思わず私はギョッとする。
「そんなに驚かれるような事を言いましたか? 屠自古様は布都様を憎んでいる。ならば、許すなり復讐するなり好きにすれば良いでしょう」
「復讐……?」
「ええ。許せない憎い相手にすることは一つですわ。相手をできるだけ苦しめてから、殺すのです」
「私が、布都を?」
「許せないとは、そういうことでしょう?」
困惑している私を面白がっているのか。青娥は楽しそうだ。邪仙は月を見ながら嘯いた。
「人の思いは永遠ですから、時間は解決してくれないのですよ」
「時間は解決してくれない、か」
私は寝室で、一人横になりながら考える。青娥の言葉を全て真に受けることはできないが、あの言葉には一理あった。
憎しみは、時間で風化してくれない。実際、今私が抱いている憎しみは色褪せていない。
「ならば、行動に移すしかない訳だ」
復讐を? それはあり得ない。私は布都を殺したい訳ではない。謝罪も受け取った。後は私が彼女を許してあげるだけで良いのだ。
なのにそれができないのは、私が怖かったからだ。もし布都を許してしまえば、彼女への憎しみでこの世に留まっている自らが、どうなるか分からない。
「ははは、わが身可愛さか」
私だって消えてしまうのは怖い。しかし、永らく布都を憎み続けた私だから、分かることもある。
「人を憎むのは、存外に辛いからな」
辛いから憎むのか、憎むから辛いのか。そんな事は幾星霜を経て曖昧になってしまったが、布都を許せれば、私も楽になれるだろうという漠然とした予感があった。うむ、今なら大丈夫だ。
「多分、許せると思う」
やはり、思うだけか。いや、此度は違う。
寝室を出た。空模様を見る。薄暗い夜明け前だ。布都は居ない。まだ外を彷徨い歩いているのだろう。
意を決して、私は空を飛んだ。
薄明の空を飛び回り、ようやく布都を見つけた。霧の湖の畔で湖面を眺めているようだ。
「おい、布都」
「屠自古か」
布都は私に顔を向けずに、湖の方を向いたままだ。朝方の日が差し始めた水面を、奴はじっと見ていた。
「ずっと外にいたのか」
「眠れなかったからな」
布都は手近な石を握り、湖面に放り投げた。
「夢を見るとな、大概悪夢なのだ」
「そうか」
「一番キツイのはあれじゃな。我の一族が戦場で焼け焦げている夢だ」
布都は地べたに胡座をかいた。
「夢には色が無いとか、匂いが無いとか言うが、我からすれば両方嘘っぱちだな。生焼けの焼死体の匂いは、いつ嗅いでも慣れぬ」
奴は振り向いた。声音や話の悲痛さとはちぐはぐに、その表情は普段と変わらない。
「我は罰を、復讐を求めておる。我が裏切って家族や一族を滅ぼしたように、誰かが裏切って我を滅ぼしてくれないかと度々思うのだ」
そうなってくれれば、本当に気が楽なのだが、と。奴はそう言ったきり俯いて黙り込んだ。
私は奴にどう言葉をかければ良いか分からなかったので、一先ず初志を貫徹することにした。
「お前に話がある。心して聞くがいい」
「ほう、ならば、耳を澄まして聞こう」
よし、言ってやんよ。
「我は蘇り、古に自らを屠った。故に布都よ。神の末裔の亡霊たる私は、お前を許そう」
「はは……」
奴の口から、嘲るような乾いた声が漏れていたが、知ったことでは無い。
「私はもうお前を許した。お前を恨む者はもう、此岸の何処にもいない。だから、お前はこれから……勝手に苦しめ」
私も地べたに座り込んだ。日が昇り切り、空は青く、雲は白くなっていた。
「屠自古、お主は本当に、残酷な奴だな」
「お前に言われたきゃねーよ」
私は布都の心が、なんとはなく理解できていた。故に断言できた。こいつは、永遠に苦しみ続ける。
例え誰に許されようとも
こいつは自分を許せないのだ
「私はお前を許せて気分が良い。一緒に酒でも飲まないか?」
「ははは……嫌味な奴め」
あんまり嫌味を言っても、哀れか。
「お前を許した私が言うが、お前を許してはやれないのか?」
「ああ、まだ無理じゃな。太子様が天道を往くまでは。それでこそ初めて、我の行いの全てが報われるのだ」
憎しみ無く見つめると奴は
哀れにしか、見えなくなった
「屠自古よ……何故泣く?」
「うるせえよ。こんな哀れな奴を憎んでた自分が、哀れに過ぎて悲しいだけだ」
「そうか」
許せれば、楽になれると思っていたが、どうやら思い違いだったようだ。
今はただ、悲しい。
面白かったです
憎しみを許してやることが最大の復讐になるってのも皮肉がきいてて面白いなと思いました。
青娥の言っていたことが全部布都も含めてのことだったのかと思うとグッときました