巫女は楽園を調停する残酷な機構だった。幾人かの少女がその礎として産まれ、生き、死んだ。礎とは贄である。私はその悲劇性に僅かな、出どころ不明の共感と反感とを抱いてきた。
里の大通りで団子をつまんでいたところ、にわかに辺りが騒がしくなった。
巫女様が、またも妖怪を“退治”なされた……ありがたや、ありがたや。里人たちが頭を垂れ、紅白の少女を拝み倒す。博麗の巫女。寂れた神社に独り暮らし、妖怪退治の心付けで日銭を賄う年端もゆかぬ少女だ。彼女がなぜそうあるのか――正確にはなぜ他の誰でもない彼女が、だけれど――私は知らない。博麗の巫女は秘伝の巫術によって魑魅魍魎を討ち倒す守護者である、この地の常識ではそういうことになっている。
難儀なことね。少女はいつも血にまみれている。低く首を垂れるばかりの里人たちは、彼女の赤く汚れた頬に気付かない。湯呑をあおりながら、誰かがぬぐってやればよいのにと思った。まぁ、いつものこと。おかわりを頼むべく、団小屋の店番を探して顔を回した。
赤く汚れた巫女が、目の前にいた。
「あんた、西行寺幽々子?」
一杯の「奉納」をドカドカ乱雑に置き、不機嫌そうな顔で大幣を担ぐ少女。敵、すなわち妖怪に向ける顔と同じだった。
「そういうあなたはだぁれ?」
「あー?」
とげとげしいうなり声だった。下々の者なら知っていて当然だろうという態度。それは傲慢でも何でもなく、どちらかと言えば彼女にとって不本意そうなことではあったけど、他人におちょくられるのが心底気に入らないらしい。
「うそうそ、知ってるわ。いつも我らが里をお守りくださりありがとうございます」
「そんなこと聞きたいんじゃないの。あんたなら、アイツの居場所知ってるんじゃない?」
「アイツって、誰かしら~?」
「知ってんでしょ。言いなさい」
「う~ん……もぐもぐ」
「団子食べるな! あぁもう、アイツって、その、八雲紫よ……」
巫女は観念したように、その名を小声で口にした。私はそうだろうと、思っていた。それでニンマリした。彼女を知る数少ない人間は、彼女の友がいつだってひとりしか居ないことを知っている。
「知らないわ」
そう答えると、ふっと糸が切れたように巫女は表情を消した。
「そう」
一切の興味を失った途端、一切の関わりを続ける意思も捨て去る。巫女はそういう面がある。とらわれない。ゆえに空を飛べるのだろうとも思う。
しかし人垣の中に去り行く巫女の背中に、私はもう一言刺し込むことにした。
「私が会いたいときには、会いに来てくれるから」
分かっている。これは言うべきではなかった。けれど、私は博麗の巫女が気に入らない。ずっと前からそうだ。巫女は立ち止まり、泣きそうな顔で何かを言い返そうとした。彼女は子供で、私は悪い女だった。
「感心致しましたぞ、幽々子様……」
妖忌は困惑したようだけど、快く荷を背負って神社への階段を登ってくれた。いつもの我儘じゃなくて、これは人助けだから。いつも厳しい老従者が、妙に得心したように語りかける。
「これを機に、同年代の御友人を作られるのもよろしいかと」
「冗談でしょう」
奉納と称される妖怪退治の報酬を、巫女は団小屋の前に置き忘れてしまっていた。里人も流石に米俵なんかを直に押し付けたりはしないが、反物や酒は少女の身には随分と重そうだ。彼女が一人で暮らしていることを皆忘れているのだろうか? ともあれ団小屋に預からせるのも忍びなく、私は僅かばかりの親切心で従者を呼びつけ、博麗神社へと運ばせることにした。
「ならば、私一人に行かせれば良かったではありませんか」
「神社のお茶を飲みたくなったのよ」
妖忌は大荷物を小脇に抱えながら、そわそわ私の顔色を窺っている。なにか天変地異の前触れかと危ぶんでいるようだった。空はこんなに穏やかな夕暮れなのに。
まばらに点き始めた街灯りを背にして、私たちは淡々と長階段を登り詰めた。博麗神社の境内は綺麗に箒で掃かれ、けれど閑散としていた。息づくのは無言の木々と、拝殿の軒下で夕日に目を焼かせるままの巫女だけだった。どれだけ光を浴びても輝くことのない、寂寥に褪せるだけの時間を費やす少女がそこに居た。
「こんばんは」
巫女は参拝者に気付き、それが参拝者でないと感付き、だるそうに腰を上げた。カラン、傍に立てた箒が倒れる。
「……何の用」やはりだるそうに、巫女は問う。
「忘れ物を、届けに参りましたわ」私は後ろに控えた妖忌の抱える荷を示す。
巫女はため息を一つ、投げやりに「その辺に置いといて」と、本当にその辺を指し示した。困り顔の妖忌は蔵を探して裏手に回っていった。
巫女は私を見つめ、動かない。私も巫女を見下ろす。
傷だらけだった。
「痛そう」ただの感想。
「ほっとけば治るわ」ただの事実。
「治る前にいつも新しい傷を作ってくるでしょう」
「そうね。だからほっとけばいいの」
私たちは無価値な事実確認でお互いの腹を探り合う。そんなのは児戯だ。
「……暇なら帰れば」
「あなた、とっても暇そうだけど」
私は少女のいまだぬぐわれない頬の血に手を伸ばし、触れる。冷たさに虚を突かれた少女の背が小さく跳ねる。彼女の手が大幣を探し空を掻いたのも私は見ていた。他者からの接触にひどく警戒し、怯えている。
「ね……そんなにボロボロになってまで戦う必要があるのかしら」
巫女は私の手を払いのける。心底うざったい、そんなふうに。
「ある。そんなくだらないこと言いに来たの?」
「いいえ、いいえ?」
あなたのような女の子が戦うのは酷だなんて、そんな月並みな憐憫を差し向けに来たわけでは、勿論ない。私は悪い女。
「あなた、もうすぐ死にそうだから、ひとつ看取ってあげようかしらって」
「あー……?」
巫女は怪訝そうに私を睨む。私は子供をそそのかす悪霊となって笑いかける。陽が傾き、悪霊の影が少女を覆い隠す。彼女の視線は、いつの間にか周囲を泳ぐ蝶たちに捉われている。これが見えるのなら、あなたは末期。ご愁傷さま。
「人を死に誘うのは簡単だけれど、明日にも死にそうな人間を殺すのはもっと簡単ね。濡れた蝶の羽を裂くよりも簡単だわ」
「なに……言ってるの……」
「ね、あなたが何人目か教えてあげましょうか」
森閑。少女が凍り付いた。私の手があまりに冷たいから。
「一体誰のために彼女たちが死ぬのか」
神託を告げる。
「八雲紫がどんな言葉で、人を死に駆り立てるのか」
ねぇ、教えてあげましょうか。魅入られた少女は硬直したまま。生殺与奪は私の口先に。しかし残念ながら私はその先の言葉を噤んだ。
陽が落ちたからだ。底冷えするような暗闇が藍色の空を駆け降りて、私と巫女の間に割って入る。蝶たちが敵わないとばかりに散る。それは太古より人が恐れた妖の姿で、八雲紫と呼ばれる女だった。長い髪と袖とを宙に泳がせ、巫女に取り憑くように抱きすくめる様はまさしく魍魎。相も変わらず、おどろおどろしいこと。
「駄目でしょう、幽々子。若い子をそそのかしては」
「紫!」驚愕に隠しきれない喜び、この子供は本当に分かり易い。
紫は慈しみに溢れた指先で、巫女の傷だらけの肌をなぞる。耳元で囁く。
「もう……傷の手当はちゃんとしなさいと言ったのに」
「……別に、平気よ」つんと突き放すが、紫を振りほどこうとはしないその態度には、里人や私に対するそれとは一線を画す甘やかな感情が漏れ出ていた。
「平気じゃないわ。こないだ薬箱を用意させたでしょう、手当してあげるから入っていなさい」
紫は巫女を軒の奥へと押しやる。全く仕方のない子ね、と呟いて。
「あの年なら、甘えたい盛りでしょうね~」とぼけてみる。
「幽々子、私は齢千年近い子の方を言っているのよ。博麗の巫女はまだ幼いのだから、大人の対応をお願いしたいわ」見慣れた呆れ顔に、僅かな焦りを見て取る。もうちょっと、からかいたい。
「あら、私だって心は若々しいままよ? どうしてだか、千年近く前から老いを知らぬ身だもの」
紫は扇子をあおいだ。どういうわけか私の「発祥」の話に持っていくと紫は酷く動揺するのだが、顔を隠したいからって、こんなに下手な芝居を打つ妖怪があろうか。それは白旗、降参を意味するのだ。友としての情に免じて、私は追い打ちを断念する。討ち取ってしまっては楽しみが減ってしまうし。
「……あの子と夕食をしようと思っていたの。幽々子もどう?」
「まぁ嬉しい。私も神社のお茶が飲みたかったところなのよ~」
妖怪のくせに、八雲紫は時々疲れたような表情を見せる。それは人生の苦境に立たされたような、あまりに人間らしい顔だ。
「まったく……こうなると分かってて来たんじゃないでしょうね」
「神社の窯と食材をお借りするなど、恐縮でございますが」
「いいのよ、あの子は普段大した料理なんてしないもの」
紫の指示で妖忌が台所に火を入れ、麦飯を炊き、奉納物の中にあった鮎の干物を炙る。女たち全員の世話役であるかのように甲斐甲斐しく働いている老従者の横顔は、少しだけ嬉しそうだった。
「誰が一緒に食べたいなんて言ったのよ……もう」
言いつつも、巫女は若干の機嫌を取り戻したかに見えた。傷の手当てをしてもらったから、というより紫に手当をしてもらったからだろう。渋々ながらも来客用の箱膳を準備してくれた。
食事の間、紫は巫女に付きっきりだった。箸の持ち方はこう、よく噛んで食べなさい、好き嫌いしないの。巫女の方はやはりつんけんとしながら、まんざらでもない様子で小言を聞き流している。友としての紫を知る身としては、彼女の母親のような一面がなんだかおかしかった。「見世物じゃないわよ」と怒る巫女に、紫と私が口を揃えて「仕方のない子ね」と。妖忌はそんな私たちに、しわくちゃの笑顔を終始崩さなかった。
家族ごっこだ。私はそれを覚えていない。紫はそれを知っているはずで、だからこそ今生きている巫女に教えようとしているのだ。
幼子が起きているには辛い時間になった。妖忌が膳を下げる間、座敷の隅で猫のように丸くなった巫女をそっと置いて、私と紫は夜風に当たる。
黙りこくった紫が見据える鳥居の向こう。人間の里に点々と灯った火は、黒々とそびえる妖怪の山に対してあまりにも矮小だった。魑魅魍魎がひしめくあの巨大な闇は、その気になれば一呑みに弱者たちをたいらげることができるはずだ。
「残酷だと思う?」
振り返った紫は、気休めの慰めなど何一つ期待していないような能面だった。だから私は率直に答えた。
「安い犠牲だと思うわ」
「愛しているのは本当よ」
「でしょうね」
博麗の巫女は、人間のために妖怪を退治する。その巫術が敵を討滅しないことに、人間たちは何の疑いも持たない。歴史的な事実として、妖怪を討滅する術が失われていったのは確かなのだけど……前提として、幻想郷は妖怪が滅ぼされないように出来ている。だって、八雲紫がそういうふうに創ったのだから。何度だって人間を襲いに来る妖怪相手に、博麗の巫女は何度だって死闘を演じる。妖怪の脅威を適度に認識させ、その存在を人間たちの中で確固たるものとするための機構。
八雲紫は幻想郷のすべてを愛している。すべてを愛するのは、やはり残酷だ。
山の向こうから風が轟々と寄せて、神社を吹き抜けた。それは幼子の眠りを妨げ、ふいな不安をもたげさせたらしい。
「紫……」
巫女がおぼつかない足取りで紫に駆け寄り、ひと突きすればわっと泣き出しそうな顔を、彼女の腰に押し当てて覆い隠す。けれどくぐもった嗚咽が止まらない。大妖怪は巫女の頭を撫でながら、困ったように私を見て笑う。
「愛しているのにね」
こんなに愛しているのに、泣き止ませる術を知らない。本当は愛とか軽々しく言うものではない。その言葉は重く、呪いに近い。好き好んで呪いを口にし、愛することの責を負うのだから、八雲紫は救いようがない。
ひとしきり泣いた巫女が崩れ落ちるように眠ると、紫はその小さな身体を背負って寝床に着かせた。涙が出なくなっただけで、泣き止んでなどいない。朝になれば、博麗の巫女は赤いまぶたをこすって空を飛び、妖怪を退治するのだろう。
紫は異邦の子守唄を歌い始めた。人間の母が子に聞かせるのをうろ覚えで真似しただけの、下手な歌い方で。そういうところは、紫は妖怪だった。
「この子が起きてる時に聴かせる自信がなくて」
「それじゃあ無意味じゃないの」
私はそう言い残し、食事の後片付けを終えた妖忌を連れて神社を去った。
翌日、太陽が高く昇ったころ。また甘味処を目指して人里を歩いていたところ、空にたなびく赤い衣装を見た。博麗の巫女はいつもと同じく、真っ直ぐに飛んでいた。行く手は妖怪の山。人里の営みは彼女を一瞥もせずに続く。
結局、巫女が飛んで帰ってくることはなかった。そんなところだろうと思っていた。私は家々のかまどに火が点くころ、再び博麗神社の階段を登った。
「珍しいわね。あなた、生きてる人間には関心がないのかと」
神社の居室には既に八雲紫が控えていて、ひどい傷を負った巫女が眠っていた。彼女の隣には九尾とおぼしき紫の式神が侍り、その真っ赤に染まった前掛けは既に手を尽くした治療が行われたことを示していた。
「もうじき死にそうだったから」
巫女の呼吸は弱弱しく、朝を迎えられないであろうことは明白だった。布団の上からでも分かるほどに腹部が凹んでいるのは、そこがえぐれてもはや存在しないからだろう。おそらく紫の力で、道理を捻じ曲げて生かしているのだ。死蝶が少女に群がり、燭台の灯りに不吉な影がちらつく。
「残酷なことをするのね。もう目覚めないでしょうに」
紫は巫女の頬を撫で続けている。長い金髪が僅かに乱れ、驚くほど弱い表情を隠す。
「最期に一度だけ、話したくて」
「彼女が未練の残ったまま逝って、悪霊になってしまうのが怖い?」
「……そうね。恨まれても仕方のないことをしたわ」
八雲紫の楽園は、彼女のような生贄によって成り立っている。神は生贄を愛するべきではない。何度、これを繰り返してきただろう? なぜ、自罰するのだろう? 痛ましくて見ていられない。先代の巫女も、先々代の巫女も、八雲紫は壊れそうな顔をして見送った。たとえ八雲紫が幻想郷のすべてを愛しているとしても、私は八雲紫を傷つける幻想郷の機構を愛していない。
気に入らないのよ。
博麗の巫女は悪霊なんかにはならない。想い、絶ち切り、死ぬ。その魂は惑うことなく導かれ、世界の裏側の輪廻へと帰る。あなたは今までもこれからも知らないでしょうけど、私が人を殺すのは、こういう時。八雲紫の愛に溺れ、八雲紫の愛に殉じようとする哀れな人間を、横からかすめ取って私が殺す。悪霊としての私はきっと、このためだけにある。このために私は、永遠に八雲紫の友であり続ける。
愛ゆえに。
「あの子はあなたを恨んでなんかいないわ」
本当のことは誰にもわからない。あの涙は誰にも止められなかった。けれど私は八雲紫の涙の雫を、この楽園に落とさせないために言葉を紡ぐ。
「あなたは間違っていない。今までも、これからも」
冷たい風が吹き込む。私は風に乗せて死蝶たちを呼び寄せる。無数の昏い影が空間を飲み込む。
燭台の火が消えた。
紫は身じろぎしなかった。彼女の式神が灯りをともし、巫女が息を引き取ったことを確認し、「紫様」とただ名を呼んだだけですべてが終わったことをようやく理解するまで、紫はじっと動かなかった。
この幻想郷において神に等しい力を持つ大妖怪にも、思い通りにできないものが二つある。一つは生死、もう一つは愛。味方によってはそれらこそが世界のすべてと言ってもいいから、結局何一つ思い通りになどできていないのかもしれない。
「ごめんなさい」
八雲紫は、ぽつりと呟いた。
「いいのよ」
私はこの結末で構わない。紫がそれを良しとするか。幻想郷の調停とは、ずっと、そういう問題だったのだ。
博麗の巫女の葬儀は行われない。巫女の死は里の人間たちには秘匿され、妖怪たちは巫女が不在の間、表立って人間を襲うことは無い。紫が幻想郷の管理者として良く働いている証だ。
しばらく時期を置くとまた新しい博麗の巫女が現れる。先代と容貌は違っていても、気風とか居立ち振る舞いにどこか面影のある少女が一人、また妖怪を“退治”するために生まれる。しかし空を飛び戦う巫女が地面から生えてくるわけがない。博麗の巫女は幻想郷の均衡を保つための生き様を誰かに教わる。たくさんの愛と共に。
ゆえに、真昼の空を切るひとすじの赤は迷いなく戦いへ臨むように映った。
八雲紫は情が深いのだろう。が、あまりに情が深すぎると、人間は溺れてしまう。超越者の愛は、きっと人の身には余る。離別、死別、決別、私は千年来の友人として、その全ての関係の崩壊を見届けてきた。
しかし彼女は、人間を愛さずにいられない。また今日も懲りずに愛している。
それは本当に、救いのない話。
里の大通りで団子をつまんでいたところ、にわかに辺りが騒がしくなった。
巫女様が、またも妖怪を“退治”なされた……ありがたや、ありがたや。里人たちが頭を垂れ、紅白の少女を拝み倒す。博麗の巫女。寂れた神社に独り暮らし、妖怪退治の心付けで日銭を賄う年端もゆかぬ少女だ。彼女がなぜそうあるのか――正確にはなぜ他の誰でもない彼女が、だけれど――私は知らない。博麗の巫女は秘伝の巫術によって魑魅魍魎を討ち倒す守護者である、この地の常識ではそういうことになっている。
難儀なことね。少女はいつも血にまみれている。低く首を垂れるばかりの里人たちは、彼女の赤く汚れた頬に気付かない。湯呑をあおりながら、誰かがぬぐってやればよいのにと思った。まぁ、いつものこと。おかわりを頼むべく、団小屋の店番を探して顔を回した。
赤く汚れた巫女が、目の前にいた。
「あんた、西行寺幽々子?」
一杯の「奉納」をドカドカ乱雑に置き、不機嫌そうな顔で大幣を担ぐ少女。敵、すなわち妖怪に向ける顔と同じだった。
「そういうあなたはだぁれ?」
「あー?」
とげとげしいうなり声だった。下々の者なら知っていて当然だろうという態度。それは傲慢でも何でもなく、どちらかと言えば彼女にとって不本意そうなことではあったけど、他人におちょくられるのが心底気に入らないらしい。
「うそうそ、知ってるわ。いつも我らが里をお守りくださりありがとうございます」
「そんなこと聞きたいんじゃないの。あんたなら、アイツの居場所知ってるんじゃない?」
「アイツって、誰かしら~?」
「知ってんでしょ。言いなさい」
「う~ん……もぐもぐ」
「団子食べるな! あぁもう、アイツって、その、八雲紫よ……」
巫女は観念したように、その名を小声で口にした。私はそうだろうと、思っていた。それでニンマリした。彼女を知る数少ない人間は、彼女の友がいつだってひとりしか居ないことを知っている。
「知らないわ」
そう答えると、ふっと糸が切れたように巫女は表情を消した。
「そう」
一切の興味を失った途端、一切の関わりを続ける意思も捨て去る。巫女はそういう面がある。とらわれない。ゆえに空を飛べるのだろうとも思う。
しかし人垣の中に去り行く巫女の背中に、私はもう一言刺し込むことにした。
「私が会いたいときには、会いに来てくれるから」
分かっている。これは言うべきではなかった。けれど、私は博麗の巫女が気に入らない。ずっと前からそうだ。巫女は立ち止まり、泣きそうな顔で何かを言い返そうとした。彼女は子供で、私は悪い女だった。
「感心致しましたぞ、幽々子様……」
妖忌は困惑したようだけど、快く荷を背負って神社への階段を登ってくれた。いつもの我儘じゃなくて、これは人助けだから。いつも厳しい老従者が、妙に得心したように語りかける。
「これを機に、同年代の御友人を作られるのもよろしいかと」
「冗談でしょう」
奉納と称される妖怪退治の報酬を、巫女は団小屋の前に置き忘れてしまっていた。里人も流石に米俵なんかを直に押し付けたりはしないが、反物や酒は少女の身には随分と重そうだ。彼女が一人で暮らしていることを皆忘れているのだろうか? ともあれ団小屋に預からせるのも忍びなく、私は僅かばかりの親切心で従者を呼びつけ、博麗神社へと運ばせることにした。
「ならば、私一人に行かせれば良かったではありませんか」
「神社のお茶を飲みたくなったのよ」
妖忌は大荷物を小脇に抱えながら、そわそわ私の顔色を窺っている。なにか天変地異の前触れかと危ぶんでいるようだった。空はこんなに穏やかな夕暮れなのに。
まばらに点き始めた街灯りを背にして、私たちは淡々と長階段を登り詰めた。博麗神社の境内は綺麗に箒で掃かれ、けれど閑散としていた。息づくのは無言の木々と、拝殿の軒下で夕日に目を焼かせるままの巫女だけだった。どれだけ光を浴びても輝くことのない、寂寥に褪せるだけの時間を費やす少女がそこに居た。
「こんばんは」
巫女は参拝者に気付き、それが参拝者でないと感付き、だるそうに腰を上げた。カラン、傍に立てた箒が倒れる。
「……何の用」やはりだるそうに、巫女は問う。
「忘れ物を、届けに参りましたわ」私は後ろに控えた妖忌の抱える荷を示す。
巫女はため息を一つ、投げやりに「その辺に置いといて」と、本当にその辺を指し示した。困り顔の妖忌は蔵を探して裏手に回っていった。
巫女は私を見つめ、動かない。私も巫女を見下ろす。
傷だらけだった。
「痛そう」ただの感想。
「ほっとけば治るわ」ただの事実。
「治る前にいつも新しい傷を作ってくるでしょう」
「そうね。だからほっとけばいいの」
私たちは無価値な事実確認でお互いの腹を探り合う。そんなのは児戯だ。
「……暇なら帰れば」
「あなた、とっても暇そうだけど」
私は少女のいまだぬぐわれない頬の血に手を伸ばし、触れる。冷たさに虚を突かれた少女の背が小さく跳ねる。彼女の手が大幣を探し空を掻いたのも私は見ていた。他者からの接触にひどく警戒し、怯えている。
「ね……そんなにボロボロになってまで戦う必要があるのかしら」
巫女は私の手を払いのける。心底うざったい、そんなふうに。
「ある。そんなくだらないこと言いに来たの?」
「いいえ、いいえ?」
あなたのような女の子が戦うのは酷だなんて、そんな月並みな憐憫を差し向けに来たわけでは、勿論ない。私は悪い女。
「あなた、もうすぐ死にそうだから、ひとつ看取ってあげようかしらって」
「あー……?」
巫女は怪訝そうに私を睨む。私は子供をそそのかす悪霊となって笑いかける。陽が傾き、悪霊の影が少女を覆い隠す。彼女の視線は、いつの間にか周囲を泳ぐ蝶たちに捉われている。これが見えるのなら、あなたは末期。ご愁傷さま。
「人を死に誘うのは簡単だけれど、明日にも死にそうな人間を殺すのはもっと簡単ね。濡れた蝶の羽を裂くよりも簡単だわ」
「なに……言ってるの……」
「ね、あなたが何人目か教えてあげましょうか」
森閑。少女が凍り付いた。私の手があまりに冷たいから。
「一体誰のために彼女たちが死ぬのか」
神託を告げる。
「八雲紫がどんな言葉で、人を死に駆り立てるのか」
ねぇ、教えてあげましょうか。魅入られた少女は硬直したまま。生殺与奪は私の口先に。しかし残念ながら私はその先の言葉を噤んだ。
陽が落ちたからだ。底冷えするような暗闇が藍色の空を駆け降りて、私と巫女の間に割って入る。蝶たちが敵わないとばかりに散る。それは太古より人が恐れた妖の姿で、八雲紫と呼ばれる女だった。長い髪と袖とを宙に泳がせ、巫女に取り憑くように抱きすくめる様はまさしく魍魎。相も変わらず、おどろおどろしいこと。
「駄目でしょう、幽々子。若い子をそそのかしては」
「紫!」驚愕に隠しきれない喜び、この子供は本当に分かり易い。
紫は慈しみに溢れた指先で、巫女の傷だらけの肌をなぞる。耳元で囁く。
「もう……傷の手当はちゃんとしなさいと言ったのに」
「……別に、平気よ」つんと突き放すが、紫を振りほどこうとはしないその態度には、里人や私に対するそれとは一線を画す甘やかな感情が漏れ出ていた。
「平気じゃないわ。こないだ薬箱を用意させたでしょう、手当してあげるから入っていなさい」
紫は巫女を軒の奥へと押しやる。全く仕方のない子ね、と呟いて。
「あの年なら、甘えたい盛りでしょうね~」とぼけてみる。
「幽々子、私は齢千年近い子の方を言っているのよ。博麗の巫女はまだ幼いのだから、大人の対応をお願いしたいわ」見慣れた呆れ顔に、僅かな焦りを見て取る。もうちょっと、からかいたい。
「あら、私だって心は若々しいままよ? どうしてだか、千年近く前から老いを知らぬ身だもの」
紫は扇子をあおいだ。どういうわけか私の「発祥」の話に持っていくと紫は酷く動揺するのだが、顔を隠したいからって、こんなに下手な芝居を打つ妖怪があろうか。それは白旗、降参を意味するのだ。友としての情に免じて、私は追い打ちを断念する。討ち取ってしまっては楽しみが減ってしまうし。
「……あの子と夕食をしようと思っていたの。幽々子もどう?」
「まぁ嬉しい。私も神社のお茶が飲みたかったところなのよ~」
妖怪のくせに、八雲紫は時々疲れたような表情を見せる。それは人生の苦境に立たされたような、あまりに人間らしい顔だ。
「まったく……こうなると分かってて来たんじゃないでしょうね」
「神社の窯と食材をお借りするなど、恐縮でございますが」
「いいのよ、あの子は普段大した料理なんてしないもの」
紫の指示で妖忌が台所に火を入れ、麦飯を炊き、奉納物の中にあった鮎の干物を炙る。女たち全員の世話役であるかのように甲斐甲斐しく働いている老従者の横顔は、少しだけ嬉しそうだった。
「誰が一緒に食べたいなんて言ったのよ……もう」
言いつつも、巫女は若干の機嫌を取り戻したかに見えた。傷の手当てをしてもらったから、というより紫に手当をしてもらったからだろう。渋々ながらも来客用の箱膳を準備してくれた。
食事の間、紫は巫女に付きっきりだった。箸の持ち方はこう、よく噛んで食べなさい、好き嫌いしないの。巫女の方はやはりつんけんとしながら、まんざらでもない様子で小言を聞き流している。友としての紫を知る身としては、彼女の母親のような一面がなんだかおかしかった。「見世物じゃないわよ」と怒る巫女に、紫と私が口を揃えて「仕方のない子ね」と。妖忌はそんな私たちに、しわくちゃの笑顔を終始崩さなかった。
家族ごっこだ。私はそれを覚えていない。紫はそれを知っているはずで、だからこそ今生きている巫女に教えようとしているのだ。
幼子が起きているには辛い時間になった。妖忌が膳を下げる間、座敷の隅で猫のように丸くなった巫女をそっと置いて、私と紫は夜風に当たる。
黙りこくった紫が見据える鳥居の向こう。人間の里に点々と灯った火は、黒々とそびえる妖怪の山に対してあまりにも矮小だった。魑魅魍魎がひしめくあの巨大な闇は、その気になれば一呑みに弱者たちをたいらげることができるはずだ。
「残酷だと思う?」
振り返った紫は、気休めの慰めなど何一つ期待していないような能面だった。だから私は率直に答えた。
「安い犠牲だと思うわ」
「愛しているのは本当よ」
「でしょうね」
博麗の巫女は、人間のために妖怪を退治する。その巫術が敵を討滅しないことに、人間たちは何の疑いも持たない。歴史的な事実として、妖怪を討滅する術が失われていったのは確かなのだけど……前提として、幻想郷は妖怪が滅ぼされないように出来ている。だって、八雲紫がそういうふうに創ったのだから。何度だって人間を襲いに来る妖怪相手に、博麗の巫女は何度だって死闘を演じる。妖怪の脅威を適度に認識させ、その存在を人間たちの中で確固たるものとするための機構。
八雲紫は幻想郷のすべてを愛している。すべてを愛するのは、やはり残酷だ。
山の向こうから風が轟々と寄せて、神社を吹き抜けた。それは幼子の眠りを妨げ、ふいな不安をもたげさせたらしい。
「紫……」
巫女がおぼつかない足取りで紫に駆け寄り、ひと突きすればわっと泣き出しそうな顔を、彼女の腰に押し当てて覆い隠す。けれどくぐもった嗚咽が止まらない。大妖怪は巫女の頭を撫でながら、困ったように私を見て笑う。
「愛しているのにね」
こんなに愛しているのに、泣き止ませる術を知らない。本当は愛とか軽々しく言うものではない。その言葉は重く、呪いに近い。好き好んで呪いを口にし、愛することの責を負うのだから、八雲紫は救いようがない。
ひとしきり泣いた巫女が崩れ落ちるように眠ると、紫はその小さな身体を背負って寝床に着かせた。涙が出なくなっただけで、泣き止んでなどいない。朝になれば、博麗の巫女は赤いまぶたをこすって空を飛び、妖怪を退治するのだろう。
紫は異邦の子守唄を歌い始めた。人間の母が子に聞かせるのをうろ覚えで真似しただけの、下手な歌い方で。そういうところは、紫は妖怪だった。
「この子が起きてる時に聴かせる自信がなくて」
「それじゃあ無意味じゃないの」
私はそう言い残し、食事の後片付けを終えた妖忌を連れて神社を去った。
翌日、太陽が高く昇ったころ。また甘味処を目指して人里を歩いていたところ、空にたなびく赤い衣装を見た。博麗の巫女はいつもと同じく、真っ直ぐに飛んでいた。行く手は妖怪の山。人里の営みは彼女を一瞥もせずに続く。
結局、巫女が飛んで帰ってくることはなかった。そんなところだろうと思っていた。私は家々のかまどに火が点くころ、再び博麗神社の階段を登った。
「珍しいわね。あなた、生きてる人間には関心がないのかと」
神社の居室には既に八雲紫が控えていて、ひどい傷を負った巫女が眠っていた。彼女の隣には九尾とおぼしき紫の式神が侍り、その真っ赤に染まった前掛けは既に手を尽くした治療が行われたことを示していた。
「もうじき死にそうだったから」
巫女の呼吸は弱弱しく、朝を迎えられないであろうことは明白だった。布団の上からでも分かるほどに腹部が凹んでいるのは、そこがえぐれてもはや存在しないからだろう。おそらく紫の力で、道理を捻じ曲げて生かしているのだ。死蝶が少女に群がり、燭台の灯りに不吉な影がちらつく。
「残酷なことをするのね。もう目覚めないでしょうに」
紫は巫女の頬を撫で続けている。長い金髪が僅かに乱れ、驚くほど弱い表情を隠す。
「最期に一度だけ、話したくて」
「彼女が未練の残ったまま逝って、悪霊になってしまうのが怖い?」
「……そうね。恨まれても仕方のないことをしたわ」
八雲紫の楽園は、彼女のような生贄によって成り立っている。神は生贄を愛するべきではない。何度、これを繰り返してきただろう? なぜ、自罰するのだろう? 痛ましくて見ていられない。先代の巫女も、先々代の巫女も、八雲紫は壊れそうな顔をして見送った。たとえ八雲紫が幻想郷のすべてを愛しているとしても、私は八雲紫を傷つける幻想郷の機構を愛していない。
気に入らないのよ。
博麗の巫女は悪霊なんかにはならない。想い、絶ち切り、死ぬ。その魂は惑うことなく導かれ、世界の裏側の輪廻へと帰る。あなたは今までもこれからも知らないでしょうけど、私が人を殺すのは、こういう時。八雲紫の愛に溺れ、八雲紫の愛に殉じようとする哀れな人間を、横からかすめ取って私が殺す。悪霊としての私はきっと、このためだけにある。このために私は、永遠に八雲紫の友であり続ける。
愛ゆえに。
「あの子はあなたを恨んでなんかいないわ」
本当のことは誰にもわからない。あの涙は誰にも止められなかった。けれど私は八雲紫の涙の雫を、この楽園に落とさせないために言葉を紡ぐ。
「あなたは間違っていない。今までも、これからも」
冷たい風が吹き込む。私は風に乗せて死蝶たちを呼び寄せる。無数の昏い影が空間を飲み込む。
燭台の火が消えた。
紫は身じろぎしなかった。彼女の式神が灯りをともし、巫女が息を引き取ったことを確認し、「紫様」とただ名を呼んだだけですべてが終わったことをようやく理解するまで、紫はじっと動かなかった。
この幻想郷において神に等しい力を持つ大妖怪にも、思い通りにできないものが二つある。一つは生死、もう一つは愛。味方によってはそれらこそが世界のすべてと言ってもいいから、結局何一つ思い通りになどできていないのかもしれない。
「ごめんなさい」
八雲紫は、ぽつりと呟いた。
「いいのよ」
私はこの結末で構わない。紫がそれを良しとするか。幻想郷の調停とは、ずっと、そういう問題だったのだ。
博麗の巫女の葬儀は行われない。巫女の死は里の人間たちには秘匿され、妖怪たちは巫女が不在の間、表立って人間を襲うことは無い。紫が幻想郷の管理者として良く働いている証だ。
しばらく時期を置くとまた新しい博麗の巫女が現れる。先代と容貌は違っていても、気風とか居立ち振る舞いにどこか面影のある少女が一人、また妖怪を“退治”するために生まれる。しかし空を飛び戦う巫女が地面から生えてくるわけがない。博麗の巫女は幻想郷の均衡を保つための生き様を誰かに教わる。たくさんの愛と共に。
ゆえに、真昼の空を切るひとすじの赤は迷いなく戦いへ臨むように映った。
八雲紫は情が深いのだろう。が、あまりに情が深すぎると、人間は溺れてしまう。超越者の愛は、きっと人の身には余る。離別、死別、決別、私は千年来の友人として、その全ての関係の崩壊を見届けてきた。
しかし彼女は、人間を愛さずにいられない。また今日も懲りずに愛している。
それは本当に、救いのない話。
博麗の巫女として一貫して表記され、最初は霊夢なのかなと思わせておいてのこの仕打ち!妖忌の名前が出ている時点でもっと先に気付くべきだったのかもしれませんが、団欒風景に温かさを感じて疑う事を忘れてしまっていた自分が憎いです。
紫から博麗の巫女への一方通行の愛の傍らでゆかゆゆが確かに息づいているこの感じはとてつもなく残酷で、でも止まれなさがあって、歪んでる。好き。
見事だと思います。良かったです。
幽々子はきっと紫が好きだからこそ、あんな薄っぺらい慰めをするのでしょうね。紫の心がこれ以上苦しまないように支えようとして偽善を成す。
歪んでいると思うけど、彼女達は彼女なりに支え合おうとしている、そんな姿がとても印象的でした。
誰もが愛していて、愛しているからこそ、歪んですれ違うのでしょうか。短いながらも濃密で、読んでいて陰鬱な気分にさせる、とても素敵な作品でした。
素晴らしい愛憎劇でした。良かったです。
ずっと続いていくんですよね、これ
こんな救えなさが、紫様所以だと思うのです。残酷で愛おしいと思えるのです。
きっと幽々子様も絵に描く様に微笑んでるんだろうなぁと。
あと、妖忌じぃじマジ可愛いかよ。