Coolier - 新生・東方創想話

秘蜜の時間

2020/09/03 20:04:49
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 梅雨が明け、暑い夏の入りを予感させる日差しが覗く昼過ぎのこと。こころは能に使う扇子で顔を緩く仰ぎながら、博麗神社と人里の中間辺りの空を飛んでいた。こころが博麗神社で時折行っている能について霊夢と少し話があり、それも終わって後は特に用事もなく、身を寄せている命蓮寺へ帰る途中だった。
「……あれ、あそこに居るのって、もしかして……」
 だが、こころは眼下のそれほど広くない通りに見覚えのある後ろ姿を見つけ、足を止める。
 白を基調にした服――水兵服と本人は言っていた――に、同じく白い帽子をかぶり、腰には柄杓を紐で繋いでぶら下げた恰好。そう、そこに居たのは自分と同じく命蓮寺在住の妖怪、村紗だった。
 せっかくだから、声ぐらいは掛けていくかな。同門の先輩との出会いにそう思い、手を挙げて村紗の名前を呼ぼうと口を開こうとした直前、こころは村紗が歩いている道がどこへ繋がっているか、そして、村紗から伝わってくる感情に気付いてそれらを止める。
 村紗が歩いているのは地底へと繋がる通りであり、こころに伝わってくる感情は、そこまで大きくはないが“楽しそう”なもの。
 地底に行こうとしている、楽しそうな村紗。その二つの符号が揃ったこの光景に、こころは思い当たる節があった。
「もしかして……」
 こころはその二つを結ぶ、ある噂を聞いた憶えがあった。『時折、村紗はこっそり地底に出向いては何か楽しいことをしている』という噂を。
 とはいえ噂は所詮噂らしく、それ以上に詳しい内容も無ければ証拠も無い、非常に曖昧としたものであり、こころ自身も今まで記憶の片隅で埃をかぶり忘れかけていたくらいの噂だった。
 だが、いざ目の前でその現場らしきものを見た瞬間、急にその噂が自分の中で強く興味をそそるものになっていく。
 一方、当の村紗はこころに上空から見られているなんて気付いていないらしく、そのまま足を止めずに歩き続け、やがて木の陰に隠れてこころの視界から見えなくなってしまった。
「んー……」
 こころは腕を組み、頭を捻る。しかし、それほど時間は掛けずに決心すると、自分も村紗が居た辺りに降り立って、村紗のあとをこっそりと追いかけ始めた。



「で、こころはこそこそと何してたのかな?」
「尾行」
「正直だね」
「言い逃れする気なんてない!」
「あれは明らかに尾行だったし、言い逃れ無理そうだもんね」
 むんと胸を張って高らかに宣言したこころに対し、村紗は頬を掻いて苦笑いする。
 尾行を開始してから五分も経たないうちに、こころは村紗に見つかった。先を歩く村紗の後ろ姿が残像のようにぶれたかと思えばふっと消えてしまい、よく分からないが見失ったと慌てて隠れていた木の陰から飛び出して、村紗が立っていた辺りに駆け寄った。そこを脇の茂みに隠れていた村紗に、あっさりと捕まえられてしまったのだ。
 曰く、隠れていたのは気配と頭につけたお面とその紐でバレバレだったらしい。
「それで、どうして私を尾行なんてしてたの?」
「えーっとね……」
 こころは村紗に、自身の聞いた噂について話した。見つかった以上今更隠すつもりはさらさら無く、そもそも真偽すら分からないので否定されるならされるでよかったからだ。
「なるほど、そんな噂が……。それ、誰が言ってたか覚えてる?」
「ごめんね、忘れちゃった。誰かから直接聞いたのか、又聞きだったのかも憶えてないや」
「そっか。でも、噂の出処なんてそんなものか……」
 村紗は口元に手を当てつつ小さく首を傾げ、自身もそういう噂を広めそうな人物を少し考えて見る。だが、命蓮寺の悪戯娘くらいしか思い付かず、かつその悪戯娘の流す噂とは内容の毛色が違うように思えてならなかった。
「それはそうと、こっそりあとをつけたりしてごめんなさい」
「お、ちゃんと自分から謝れたね。五戒の一つ、不、不……」
 こころが姿勢を正してぺこりと頭を下げると、村紗は得意気に言いながら人差し指をぴんと一本立てる。
「……まあとにかく、偉い偉い」
 だが、それ以上言葉が続かず、指を立てるのを止めるとそのままこころの頭を優しく撫でて、頭を上げるように促した。
「ムラサにはすぐ謝っておかないと、その日のお風呂で溺れるってぬえが噂してたから」
「……ぬえが?」
「うん。こっちの噂は確実にぬえだよ」
「……それは今夜本当になるから、噂じゃなくて事実だよ」
「良かったー、ちゃんと謝っておいて」
 ほっと胸を撫で下ろすこころの傍ら、村紗はこちらの噂の発端者の、正体不明になり切れなかった名を聞いて、やはりあいつの流す噂はこういう面白半分の良くも悪くもしょうもない物だと確信を得る。同時に、こころが尾行をする切っ掛けになった方は、どこの誰が言い出したのかは分からなさそうだと結論付けた。
「……取り敢えず、噂の出処はもういいや。で、次はその内容だけど、実際に私は今から噂どおり地底に行くわけだけど……」
「つまり、噂は本当?」
「本当と言えば本当なんだけど、ちょっと語弊があるんだよね……」
 言いながら、腕を組んで、んー、と首を捻る村紗の目を、こころはじーっと見つめる。
 その目と顔は無表情ながら、言葉なくともとても雄弁だった。
「……分かった。一緒に行こう?」
「え、いいの?」
「いいよ。そんなに『気になる』って顔されたら帰れとは言えないよ」
 やれやれといった調子で語る村紗のその言葉に、こころは一緒にと誘われた時よりも大きく「えっ!」と声を上げた。
「気になるって顔をしていたということは、とうとう私にも表情が!」
 しかし、それを受けて村紗は疑問符の付いた「え?」を漏らす。
「……ごめん、言葉の綾。目力は感じたけど、顔はいつもどおりの無表情だよ」
「むう……」
 村紗の無情な補足に、こころは口を尖らせて翁を浮かべていたお面を姥に変えながらぎゅっと胸に抱える。思わずこころをぬか喜びさせてしまった村紗は、苦笑しつつ次は慰めを込めて頭をよしよしと撫でる。
「その代わり、今日のことは命蓮寺のみんな含め、他の人には秘密にする。いい?」
「はーい」
「よし、いい返事」
 そして、村紗は地底へと向かって再度歩き出し、こころもその隣に並んでついていった。



 地底の中でも旧都、とりわけ旧地獄街道はいつもそれなりに賑わいを見せている場所だ。流石に人里に比べれば見劣りはするものの、ここに初めて来た者は地底という言葉から抱くイメージとの差にまず驚くだろう。
 とはいえ本日の活気の半分近くは、酒が美味しい夏が近付いてきた気配に早くも酒を呷り騒ぐ居酒屋のもので、人里のそれとはまた騒がしさの質が違っていた。
「地底だからと言って、特別涼しいってわけでもないね」
「直射日光が無い分、幾らかマシってくらいかな。そういえば、こころは地底には何回か来たことがあるんだっけ?」
「うん、こいしに連れられて何回か。でも、この辺りは殆ど知らない」
「なら、迷子にならないように気を付けてね。まあ、これくらいの人通りなら私から離れないようにさえ気を付けてくれれば大丈夫だろうけど」
「気を付ける。それで、どこで何をするの?」
「それはもう少しのお楽しみ」
 地底に辿り着いた村紗とこころの二人は、そんな旧地獄街道を行く妖怪人外の一員となって歩みを進めていく。
 時折、村紗が大通りに並ぶ飲食店や商店等、目に入った店について「あの店はあれが美味しい」「あそこの店主が面白い人で」なんて話をするものの、そのどれもが目的地ではないらしく、ただ一つも寄ることはなかった。
 そんな風にしながら街道をしばし歩いた頃、村紗はこころの肩を叩くと少し先の脇の路地を指差す。
「あそこ、曲がるからね」
 そして、二人は大通りを外れて裏路地へと入る。裏路地の様子はと言えば、一応整備されているし、道幅も二、三人は行き交える程度の広さがあるがかなり閑散としており、周りの居酒屋から漏れる宴会の声が無ければ自分達の足音しかしなかっただろう。
 そんな路地を村紗はひょいひょいと軽く、こころはきょろきょろ見回しながら歩いていく。辺りは民家や営業しているのか分からない店がぽつぽつとあるくらいで、有り体に言えば見るものは無いに等しかった。
 だが、路地をしばらく歩いた頃に差し掛かった、大き目の分かれ道の片側に掛けられたある看板はこころの目を強く惹いた。
 そこには太い筆の荒々しくもおどろおどろしい文体で『この先、血の池地獄』と書かれ、脇に同じ調子で赤い矢印のみが添えられていた。簡易の地図すら乗っていないものの、それはどうやら案内板だったようだ。
 行く人なんているのかな、と思いつつこころはそれを見ていたが、村紗はそこに差し掛かると路地に入ってから初めて道なりではなく、その矢印の指し示す方へと歩いていく。
「……ムラサ、これから行くところって……」
「うん、そうだよ」
 思わず足を止めてしまい、少し遅れて隣に並んだこころの問いに村紗は、ただにこりと笑っただけだった。

「着いたよ。ここが、血の池地獄」
 案内板どおりに進んだ二人を出迎えたのは、ここに来るまでの人通りを考えれば宝の持ち腐れと言われそうなくらい広く開けた全体的に浅い盆地と、その中央で胸よりも少し高い程度の高さの木の柵に囲まれた、赤く黒ずんで淀んだ池だった。
「おー……、意外と大きいんだね」
 こころは駆け足気味に池に近付いて、辺りを見回す。池自体は外周をぐるりと一周するには面倒だと思えるくらいには大きいのに、『今日は』なのか『今日も』なのか、自分達以外は人妖動物その他諸々含め、誰一人いない。水気があるからか街道辺りよりも多少涼しいのに、水気があるだけで収まらない妙にじめじめとした空気も、その原因かも知れない。
 だが、辺鄙な場所だからこそ、村紗がわざわざ地底を訪れた目的の地であるのは間違いなかった。
「……でも、この池の水って本当に血なの? 血の匂いというより土の匂いがするし、見た目も血っぽく黒ずんで汚れた池にしか見えないけど……」
 こころは池の回りを囲む柵の前にしゃがむと、柵越しに池をじーっと見つめながら村紗に尋ねる。
 確かにこころの言う通り、池は濁った赤褐色をしているが血というよりは泥水や濁水に近く、血特有の鉄臭い匂いも殆どしなかった。
「まあね。これ、血っぽく黒ずんで汚れた普通の池だから」
「そーなの?」
 村紗は苦笑しつつそれを肯定すると、入り口の脇に立て掛けられた大き目の看板の前に立ち、そこに書かれた内容をかいつまんでこころに話す。
 その看板は血の池地獄の歴史や解説、そして今日におけるこの場所の在り方が記載されていた。曰く、旧地獄となった今ではここは跡地でしかない所謂観光地であること、なので今は池の中は血ではなく水であり、色や匂いは池の底に染み付いたものが多少残っているだけ等々。
「……というわけ。とはいえ、だからと言って池には入らない方がいいけどね。昔は血でいっぱいだったところの水なんて薄気味悪いし、泳ぎが得意でもここは妙に溺れやすいんだってさ。でも、こうして外から見てる分には何もないから安心して」
 そうして、ざっくりとした説明を終えた村紗は、こころの隣まで歩いていくと自らも柵の前にしゃがみ込む。
「そして、そんなここが、今日の目的地だよ」
「うん、ここで行き止まりみたいだし、それは分かるけど……。ここで何するの?」
 こんな誰もいないし来なさそうな場所にわざわざ来たからには、ここだからこその何かがあるはず。そう思いこころは首を傾げつつ尋ねたのだが、聞かれた村紗も首を傾げた。
「んー……。何かする、って言っても、ただぼんやり眺めるだけ。それか、今日みたいに誰もいない時は、こうしたりとか」
 村紗は腰にぶら下げていた柄杓に手を掛けると、それを柵の隙間から池に向かって突っ込んで曲物部分を池に静かに沈ませる。そして、池の水を汲んで持ち上げると、近くにぷかぷかと浮いていた石か何かの破片に向かって、ばちゃばちゃと水を掛けた。
 その一連の動作により、池には小さな水飛沫と波紋が起こり、破片は沈み、掛けた水と池の水が混ざり合う。だが、水飛沫はすぐに止んで波紋も向こう岸まで届かないうちに消え、破片はまたぷかりと浮かび上がり、池の水は混ざり合おうとも濁ったままで何も変化はない。
 そんな風にそれらが元通りになるのを見届けた後、村紗は再度水を汲んでは破片に掛けて、それを二回、三回と繰り返す。その際に破片が遠くに流れてしまえば水を掛ける対象を別の破片や枯れた葉っぱに変えはするが、やっていること自体は何も変わらないまま、時間がとてもゆっくりと過ぎていく。
「……楽しい?」
「うん。楽しいよ」
「ふーん……」
 村紗の言葉どおり、こころが読み取る村紗の感情は確かに『楽しい』を示していた。大きく興奮したり喜悦を表したりこそしないものの、それらの所作を行う度、僅かにだが楽しい感情を膨らませている。
 しばらくこころは村紗の柄杓と感情を黙ってじーっと観察していたが、ふと思い立って村紗に向かって手を差し出す。
「ね、私にもやらせて」
「いいよ。ちょっと待ってね……。はい」
「ありがとう」
 村紗は柄杓についた水を軽く振って払ってから柵から引き抜くとこころに渡し、受け取ったこころは村紗と同じように柵の隙間から柄杓を突っ込む。そして、村紗よりも多少荒い手つきではあるが、同じように水を汲んでは破片に掛け、それを二回、三回と続けるが、四回目には行かずに手を止めてしまった。
「どう? 楽しい?」
「あんまり」
 何か得るものがあるかも、と思い自分も試してみたものの成果はなく、こころは言葉とともに柄杓も返す、
「だろうねー。こころには、というより私以外は分かんないと思うよ」
 それらを村紗は笑いながら受け取ると、また池に柄杓を突っ込んで一連の流れを再度繰り返し始めた。
「……ねえ、もしかして、噂の真相ってこれ?」
「そうだと思うよ。当の本人としては他に思い付かないし。言ったでしょ、語弊があるって。楽しいは楽しいでも、これは私以外楽しくないんだよ」
 そう言う村紗の感情はとても落ち着いていて、動揺や焦りなんかを一切感じなかった。つまり、嘘や誤魔化しではなく、本当にこれが真相なのだろう。
「……えぇー……」
 こころはそんな呆気ない事実に、落胆を全く隠さない嘆きを漏らす。一方、村紗は小さくくすくすと笑う。
「もっと凄い秘密があると思ってた?」
「だって、噂になるくらいだし……。それに、地底で村紗が楽しいなんて、隠れてお酒とかお肉みたいな、お寺じゃ食べられない美味しいものかなって期待もちょっとだけあったのに……」
 欲の一切を包み隠さないこころの発言に、村紗は息を軽く噴き出して笑う。
「それにしたって、もう少し場所を選ぶよ。でも、こころもそういうの興味あるんだ?」
「食べ物自体がどうこうより、隠れて食べると一段と美味しく感じるって一輪が言ってたから、その感情を知りたいなーって」
 欲望塗れの悪知恵を授けた人物の名前にまた村紗はくっくと笑い、左右にゆらゆらとだらしなく揺れるこころの鼻先を指先でとんと叩く。
「そんなことをしているのは一輪だけ。私は無関係。何も知りません。ああ、でも一つアドバイスだけど、地底でお酒を飲むなら鬼に気を付けないといけないよ。いける口だと分かるともう大変だから」
「……実体験?」
「噂、だよ」
 こころに突き立てていた人差し指を村紗は自らの唇の前にかざすと、わざとらしいくらいに明るい笑顔を見せた。そんな風ににこにこと笑う村紗を見ながらこころは頭をもう一往復揺らした後、改めて頭を村紗の真正面に据えると再び口を開く。
「……でも、どうしてここでこんなことしてるの? 地上の池とか川じゃ駄目?」
「だって、怪しいじゃない。どこかの川で、命蓮寺在住の妖怪が一人で葉っぱなりなんなりを浮かべては沈めてる姿なんて。天狗に見つかったら間違いなく記事にされちゃう」
 村紗にそう言われ、こころは考える。今日のように空を飛んで帰っていると、池の袂に村紗の姿が見える。何をしているのかと目をやれば、そこでは村紗が自作の笹船を浮かべては、それを柄杓で沈めている。何度も何度も、ひたすらに。
「確かに……」
「でしょ? ただでさえ私は舟幽霊だから、あの寺の妖怪は今でも人を襲いたいんだ、なんて書かれたら命蓮寺の評判にも関わるし、ちょっとね。秘密なのも同じ理由。私個人としてはそこまで後ろめたくなくても、大きく見るとそういうわけにもいかないから」
「なるほどー。……あれ? でも、阿求の本にはしっかり色々書かれてたけど、あれはいいの?」
 村紗の弁に腕組みをしてうんうんと頷いていたこころだったが、以前読んだ本の中に、村紗についていかにも妖怪らしく書かれていたことを思い出して尋ねる。すると、村紗は「あー、あれね」とこれまた落ち着いた様子で呟くと、水の入った柄杓をひっくり返した。
「あれはあれでいいんだよ。だって本当だし、隠してないし。それに、こんな怖ーい幽霊が改心したってなれば、命蓮寺の評判も上がるだろうし」
「だから、阿求の帰り際に水を引っ掛けたの?」
「あ、それ知ってるんだ」
「響子が教えてくれた」
「あれは、一輪が雲山を出して、星が宝塔を見せて、聖が法力を見せてってなったら、やっぱり私はこれでしょ、って思ってのファンサービスだったんだけど……」
 言いながら、村紗は柄杓で掬った水を破片に掛けるのではなく横に素早く振って、ぱしゃっ、と撒く。それにより池にいくつも小さな波紋が浮かび、そして消えていく。
「お蔭様で危険度極高だって。一張羅濡らしたのは良くなかったねー」
 見た目相応の可愛らしい笑顔で、あっけらかんと、楽しい思い出話をするように村紗は言う。それがすごく楽しそうで、実際に心もそう思っていてと、こころは外と中両方から同じ感情を感じ取り、その様子から自然と口から言葉が出た。
「村紗はやっぱり、誰かを沈めたり、溺れさせたりしてみたいの?」
 だが言ってすぐに、聞かない方がよかったかも、とこころは思った。だけど、言ってしまった以上村紗の返事を待っていると、当の本人は特に動揺もせずに「んー……」と逡巡した後、こころの顔を見やると今日一番の笑顔を向けた。
「したいって言ったら、溺れてくれる?」
「……えっ、あ、えーっと、わ、私は、その……」
 感情は落ち着き、表情も大きく崩さない村紗とは違い、こころはお面をころころ変えるし言葉もたどたどしくと、誰が見ても動揺しているのは明らかだった。
「冗談冗談。しないよ」
 そんなあわあわとするこころの頭を、村紗はよしよしと撫でる。その手つきは今日で一番、優しいものだった。
「実際、今の私はあんまりそういう気分はないから。まあ、じゃあなんでこんなことしてるのって思うだろうけど、今日は船長より舟幽霊気分だから、ってだけ」
 村紗は柄杓を池に突っ込んだままくるくると回して、池の水を荒くばしゃばしゃとかき混ぜる。それにより水を撒いた時よりもずっと大きな波紋が生まれるが、それらも向こう岸にまでは辿り着かずに消えてしまう。
「……それなら、明日は?」
 先程の返しの言葉にはちょっと慌てたけれど、舟幽霊気分と自らを評した村紗が命蓮寺で普段接している村紗と変わらなかったから、こころも今までと同じように尋ねてみる。
 すると、村紗はやはり何も変わらないまま、顔を綻ばせて答えた。
「多分、舟幽霊より船長気分だと思うよ」
「それで何か変わるの?」
「うん。例えば、お仕置きがお風呂で溺れさせるんじゃなくて、錨でゴツンになるとか」
「怖いのは何も変わってない……」
「それと、もし船を動かすなら、きちんと礼儀正しく船長らしい振舞いをしますよ。こころさん」
「敬語だと、怒ってる時の聖みたいでもっと怖い……」
「あー、分かる分かる。顔も声も穏やかなのに威圧感がすごいよね、あれ」
 命蓮寺で修行する皆の共通認識に村紗は笑い、こころも遅れて姥を浮かべていたお面を火男に変えた。少し驚かされたけれど、こころにとってはいつも通りの先輩と同じだった。
 そして、村紗は柄杓を横にして池から持ち上げると何度か振って水滴を払った後、柵から抜き取って立ち上がり、んーっと伸びをした。
「さて、じゃあそろそろ帰ろっか」
「もういいの? 殆ど喋ってただけだったような……」
「いいのいいの。元々、普段からそれほど長居してるわけじゃないからね」
 村紗に背中をぽんぽん叩かれ、こころも立ち上がるとスカートを払って再度村紗の隣に並ぶ。
「それで、せっかく地底まで来たんだし、帰る前に何か食べていこうと思うんだけどどう? 怖がらせたお詫びにおごるよー」
「え、いいの?」
「その代わり、何にするかは私が決めるし、お酒でもお肉でもないからね」
「いえいえ、十分でございますです。やったー」
「いい返事だね。それじゃ、行こうか」
 無表情ながら福の神のお面を踊らせて喜ぶこころに、村紗は頬を少し緩ませつつ出口へ向かって歩き出し、こころもすぐにそれに続く。そうして、二人は血の池地獄を跡にした。



 二人が街道に戻ると、それほど時間が経っていないこともあってか人通りは殆ど変わっていなかった。しかし、行き帰り合わせても片手で足りる人数しかすれ違わないうえ、現地も無人だった血の池地獄帰りの二人には、来た時よりももっと賑わっているように見えた。
 そんな街道を相変わらず村紗は迷いなく歩いていき、こころは横に並んでそれについていく。それは行きの時と何も変わらなかったが、二人は、特にこころはその時以上に楽しそうにしていた。
「ねえねえ、どこのお店に入るの?」
「もうちょっとで見えてくるから焦らない焦らない。……あ、ほら、あそこだよ」
 逸るこころを抑えながら村紗が指差したのは、入り口の脇に小さなのぼりを立てたお店だった。とはいえ、まだ距離が遠くて店名が朧気に見えるくらいだったのでこころは顔を乗り出し気味にして目を凝らしていると、見兼ねた村紗が教えてくれた。
「あそこは甘味処だよ。あまり大きいお店じゃないけどいいお店だし、こころに是非食べて欲しいおすすめがあってさ。もうやってると思うんだけど……」
「それをご馳走してくれるの? それってどんなの? どんなの?」
「それはもう少しのお楽しみ」
 喜楽を表すお面をいくつか浮かばせて興奮するこころに、村紗は人差し指を立ててくるくる遊ばせながら、どこか得意そうに答えた。

 程なくしてお店についた二人が中に入ると、四つあるうちの二人掛けのテーブルは一つが一組の男女で埋まっているのみだった。一歩先んじて入店した村紗は顔見知りらしい店員と軽く世間話をすると、席に着く前に手慣れた様子で二人分の注文を済ませて自らこころをテーブルに案内し、二人揃って席に着く。
「綺麗なお店だね」
 内装を見回しながらこころが言うと、村紗は「でしょ」と嬉しそうに笑う。その後、こころは注文こそ終えているが席に備え付けられたメニューを眺めたり、男女が食べていた涼し気な水羊羹とわらび餅に目をやってはわくわくしつつ、村紗と談笑しながら注文が来るのを待っていた。その会話の中で、ここは安いうえに美味しいからよく来ていること、血の池地獄の帰りはいつもこうしてどこかしらのお店で間食をとっていることを教えてくれた。
 そんな話をしているうちに、やがてこころの後ろの方から、先程の店員が二つのお盆を持って二人のテーブルへとやってきた。
「お待たせしましたー」
 そして、店員は手慣れた様子で片方のお盆を村紗の前に置く。そのお盆の上にはスプーンとガラスの器が置かれていたが、何よりも目を惹くのはその器に盛られたもの。濃い緑に色付いた細かな氷の山に餡子が沢山掛かり、麓には白玉も添えられた宇治金時だった。
 見ただけで分かるくらい美味しそうなかき氷を前に、こころがわくわくを更に膨らませていると、続けて同じお盆がこころの前に置かれ、私の方もかき氷だ!、と興奮が最高潮になる。
「……え?」
 しかし、思わずこころは戸惑いの声を漏らした。スプーンとガラスの器があるのは村紗と変わらないが、その器に盛られていたのは氷のみだった。
 一応、盛られているのは削られた氷のため、見た目自体はかき氷のそれである。だが、氷の色そのままであり、白ないし透明の蜜が掛けられているどころか、何か掛けた形跡すらない。削られた氷の山のみだ。
 こころのことを知っている人ならば、福の神から猿に変わったお面を見れば。もし知らずとも、あんなにそわそわしていたのに今は氷のように固まっているのを見れば、その困惑具合は分かる。だが、そんなこころを余所に店員は厨房へと戻っていく。
 それを受け、こころは村紗の方を見る。だが、村紗は何も言わず、にこりと笑っただけだった。
「……これが噂のみず味……」
「違う違う、まだこれからだから」
 震える手でスプーンを掴んだこころに村紗は手を横にひらひらと振ると、こころの背後、店員が去っていった厨房の方を指差す。
 すると、店員は再び二人の席の前につくと、こころの前に一つの瓶を置いた。
 その瓶は大きさもだが口も大きく、中には赤く透き通った液体がたっぷりと入っていた。そして、その縁には細長いお玉が引っ掛けられている。
「えっ、何、何?」
「ふふっ、こころ、これ」
 驚きの連続で戸惑うこころに、村紗はメニューのあるページを見せてある箇所を指差する。そこには、かき氷の味の一覧の中に追加オプションが乗っており、練乳、餡子、白玉などの中に、『蜜かけ放題』なるものがあった。
「……じゃあ、これって」
「こころが自分で好きなだけ掛けていいんだよ」
 村紗がそう言うと、店員もそれに合わせて縁に掛けられたお玉をこころに持たせて、「どうぞ」とにこやかに微笑んだ。
「……じゃ、じゃあ……」
 こころはお玉をそっと持ち上げて、赤い水面から浮き上がらせる。それと同時に溢れた蜜が零れ落ちて緩い波紋が作られる。瓶の中で揺蕩う赤色は、少し前の記憶にあった赤色よりもずっと綺麗だった。
 こころはそれを零してしまわないように注意しながら、真っ白な氷の山の頂点に持って行くと、ゆっくりと手を傾ける。瞬間、お玉をなみなみと満たしていた蜜がとろりと溢れ出し、白の頂点を溶かして赤に染めていく。そのままこころは手を傾けつつお玉を円を描くように動かすと、蜜がかかったそばから白い氷はほんのりと溶けながらじわじわと赤い道筋を作り、広がっていく。
「……おー……」
 こころは小さな関心の声を上げながら、お玉を真横から更に傾けて最後の一滴まで夏の雪山にしっかりと落とす。そして、もう一度瓶の中にお玉をちゃぽんと沈ませて引き上げると、次は蜜に染まらなかった外側へと掛けていく。
 それは二回、三回と繰り返され、ついには四回目にまで差し掛かる。
 その一連の動作を夢中で行うこころが、どんどん赤く甘くなっていくかき氷を見るこころの目が、――きらきらと光る氷を見ているせいかも知れないけれど――村紗にはとても輝いて見えた。
 それを見ながら、村紗は笑う。こころが夢中になって蜜を掛けるのに溺れている、その光景に。
「……村紗、何だか楽しそうだけど、どうかした?」
「……あー、いや、こころは色々やりたがりだからこういうの好きかなって思ったけど、予想通り楽しそうで良かったなーって思ってさ」
「うん! とっても楽しい……!」
 すると、こころは自らの言葉に「あ」と声を漏らすと、お玉を動かす手を一旦止めて村紗を上目遣いに見やる。
「表情には……、出てない?」
「うん、言葉の綾。ああそうそう、もし欲しければ練乳も好きにしていいからね。それじゃあ、溶けちゃうから私はお先に失礼して、頂きます」
 村紗はスプーンに手をやると、宇治と少量の餡子、そして白玉も一緒に掬いあげて自らの口へと運び、咀嚼し、一人頷く。
 やっぱり、沈めた後のおやつは一段と美味しい。でも、これは私以外には分からないだろうな、なんて思いつつ、もう一度宇治金時を掬った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
奈伎良柳
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
二人のやりとりが良く面白かったです
2.100終身削除
村紗の他の妖怪との関わり合いだったり息抜きの方法だったり内面がやり取りを通してよく見えてきて面白かったです こころに地底を案内してあげる村紗が保護者っぽくて世話を焼いてあげるのが微笑ましくって甘いものを奢ってあげたり時には少しからかったりもして楽しげにオフの日を過ごしているような2人に癒されました 
3.100サク_ウマ削除
やさしいせかいでした。良かったです。
4.100めそふらん削除
ほんわかした雰囲気が伝わってきて良いですねえ。
可愛がられるこころと村紗の先輩感が微笑ましく感じられました。
面白かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
二人ともすげえ可愛い
6.100Actadust削除
描写の一つ一つがかわいい、かわいい!
なごませて頂きました。素敵な作品でした。
7.100水十九石削除
村紗のダークな部分と作品自体のほんわかした雰囲気が絶妙に溶け合っていて面白かったです。
あとこころちゃんのかき氷への反応が一々かわいすぎます。良い…。
8.100アックマン削除
面白かったです