Coolier - 新生・東方創想話

ランラン藍

2020/08/31 17:57:30
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 八雲藍は上機嫌でお茶を注ぐ。湯呑に注がれ舞い上がる緑色の粉は一度上へと舞い上がり、やがて底へ降り積もる。藍はとっておきの栗饅頭を、背伸びをして棚から取り出すと、湯呑とお菓子を盆に載せて居間に戻った。
 八雲紫は寝転がって面白くなさそうに新聞に目を通していた。藍がお盆をちゃぶ台に置くと、紫は黙って湯呑を手に取りいかにも旨そうに茶を啜った。その様子を見て藍は少しの間幸福に浸ると、今度は洗濯物取り込みに外へと向かった。八雲家の居間には紫の要望で時計が存在しない。時間の流れがひどく緩慢な穏やかな午後だった。
 藍が表に出るとまず目に飛び込んでくるのが、空に挟み込まれるようにして自然の造形物。今日の山々はなぜか浮き出ているように見え、絵の具の色彩を思わせた。藍は絵画を描かないが、眺めるのは好きだった。右を向くと次は物干し竿に宙吊りにされた白いシャツの長い列が目に入る。この景色を写生してみたらさぞ映えるだろうなと、ぼんやりと考えながら藍は手を動かした。
 やるべきことを終えて居間へ再び戻ると紫は先程までと全く同じ体勢で新聞を読んでいた。その上紫は先程とは打って変わってすこぶる神妙な面持ちで記事に目を通している。この光景は藍に不思議な印象を与えた。藍が新聞を覗こうとすると、その前に紫は唐突に立ち上がり、
「明日から家空けるからお留守番よろしくね」
と言葉を残して早足で部屋から出てどこかへいってしまった。一人残された藍は新聞の方へ目をやった。開きっぱなしの新聞記事は幻想郷の温泉特集が組まれていた。

 八雲藍は陰鬱な気分な米を研ぐ。水を注がれ白色の粒は上へと舞い上がらず単に沈んだまま。卵焼きを作ろうと片手で卵を割ると、殻が黄身を傷つけてしまったのかボウルの中の球体は徐々に形を崩していった。目指す料理は目玉焼きではないので別段気にする必要はないのだが、この黄色の模様は藍の精神的な自由落下にさらに拍車をかけた。
 食事を作り終えて机に食事を並べていると、紫が使い古した焦げ茶色の旅行鞄を抱えて扉から入ってきた。藍の目には紫の様子がやけに上機嫌に映り、自身と主の内面を比較すると口の中に苦いものが広がるような気がした。
 紫が腰を下ろしたのを確認し、藍も座布団に正座する。いただきますの声。箸を動かす音。夕飯が始まり寸刻、藍は正体不明の息苦しさを感じ始めていた。
「この焼き魚おいしいけど、何の魚かしら」
普段食事に興味を示さない紫が少しでもこういうことを言うものならば藍は主にご機嫌とりをされていると考えてしまい、そんな邪推をしてしまう自分自身が嫌になった。藍は曖昧に笑ったまま魚の名前を告げると、紫は師から大切な教訓を教わった生徒のように深くうなずき米を口の中に放り込んだ。紫の幸せそうな姿を見ても、もう藍が満たされることがなかった。紫の後ろに鎮座している旅行鞄を片方の目で睨みながら、彼女は味噌汁のお椀に口をつけた。
 その夜藍は床に入るが、一向に眠たくならなかった。隣から断続的に聞こえる紫の寝息を聞いても只のノイズだとしか感じられなかった。藍は自身が何か巨大な機械から切り離された気がした。


 さて醤油だった。味噌汁や麦茶ならばまだ数段良かった。急いで畳から拭き取れば色は残らず、臭いも残らない。しかし醤油はどうにもまずい。藍は転がった醤油差しを大急ぎで拾い上げて、雑巾で上から叩くようにして拭き取った。
窓ガラスから差し込んでくる日の光に畳が照らされる。するとまるでそこだけフィルムを重ねたような茶色の模様が浮かび上がる。顔を近づけると調味料特有の、全てを染め上げてしまうような危うい香りが藍の鼻孔をくすぐった。申し訳なさそうに藍は紫の方に顔を向ける。だが紫は自分の湯飲みの底を眺めており、互いの目が合うことはなかった。
 朝食を食べ、片づけも一通り終えてしまう。藍が居間に戻るとおもむろに紫は読んでた新聞を閉じて立ち上がった。
「そろそろ行ってくるわね」
紫が言った。藍は少しだけ待ってくださいと告げて、今朝拵えた弁当を藍は紫に手渡した。そして弁当が手を離れた途端、彼女は急速に後悔の念に憑つかれた。「旅行に行くのだから、きっと食事も現地で食べるのを楽しみにしていたに違いない。私が弁当を作ったせいで楽しみを一つ奪ってしまった」しかし紫の反応は藍にとって意外なもので、彼女はにこにこしながら
「ありがとう」
と一言。その後、隅に立て掛けられた日傘を持つとわざわざ玄関からいかにも快活そうに出ていった。しばらくして藍は扉を開けて外の様子を伺ったが、無論誰もいなかった。
 主が近くにいない式。紫が突発的にどこか出かけることは度々あった。それでも彼女が一日以上家を空けることは非常に稀だった。藍にとって紫はいわば暗闇を照らす提灯のようなもので、単にいてくれさえすれば何をせずとも良かったのだ。
 今、どんなに美しい絵画や風景を見ても藍は眉一つ動かさずにそれを眺めることができるだろう。世界が急速に色彩を失いつつあることを藍は悟り、恐怖を覚えた。彼女は自室へと急いだ。何か別のことに関心を向けなければ、一日で神経が参ってしまうことを彼女は直感的に感じた。普段なら家の掃除をしている時刻だったが、動く影が自身のみのこの家でどうしてもやる気になれなかった。
結局、藍は本棚から適当な分厚い本を見つけ出し、初めの頁から読み進めることにした。藍は新しい本には滅多に手を出さなかった。無駄なことが嫌いな彼女は、面白いかどうかも分からないようなもの読んで時間を浪費するのが嫌だったのだ。
“しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意思は挫折する。思うとおりに行かないのが人間の” …… “しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意思は挫折する。思うとおりに行かないのが人間の” …… ”しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意思は挫折する。”
 ひっきりなしにやってくる不安に囚われ、同じ行を何度も読んでしまう。それでも無理に読み進めると、今度は主人公が次から次へと瞬間移動を繰り返し、意味不明な活動を始める。まるで人形が芸人の手を離れて勝手に動いているようで、藍はそれを無意識に自分の今の姿と重ねてしまう。すると意識がまた別の方へ囚われる。小一時間ほど粘ったが結局彼女は苦い顔をして本を閉じた。

 昼食にそうめんを茹でて油揚げと一緒に平らげてしまうと腹が満たされたおかげか、いくらか藍の調子が良くなった。すると今度は使命感に突き動かされるように、渋々だが家の掃除をやり終えることができた。藍は冷やした麦茶を飲みながら、しばらくの間退屈から湧き上がる解放感に身を浸した。
 暗然たる心持ちは鬱屈を呼び込み続け、悠然たる心持ちは爽快を呼び込み続けるものである。誰もが抱え込むこの精神の二つの窓だが、藍の場合両方が同時に開くことはまずなく、程度によるがどちらか開けられた際は片方の感情が極端まで高ぶるまで閉じられることも滅多になかった。
 藍は愉快だった。紫が不在のしばらくの間、何をしても良いと考えると面白さが込み上げてきた。『今飲んでいる麦茶を麦酒に変えても問題ない訳だ。今から晩酌を始めても問題ない訳だ。これから三食稲荷ずしでも問題ない訳だ』あまりの自由さに彼女は一種の全能感を覚え、午前中の怠惰なあの時間を呪った。

 財布を懐にしまうと風呂敷に畳んで、それを持ち上げる。姿見で自身の変装の出来を確認したのちに、藍は夕飯の買いだしに外へ出た。
 頭上からは太陽がかんかんと暴力的なまでに照り付けた。さらにそこに蝉の大合唱が加わり、藍に地獄を疑わせた。いつも通り夕方に出かけて、昼は家で過ごそうかという考えが彼女に浮かんだ。しかし孤独に身を置く苦痛を考慮すると今の肉体的な苦痛の方がまだ耐えられるように思われたので、結局彼女は人里に向かうことにした。
 少し歩いて振り返ってみると紫不在のせいか、先ほどまで居た家がくたびれたように映り、風の一吹きで倒壊しそうに思えた。

3
 やっとの思いで人里に到着する。暑さのせいか走り回る子供以外にがらんとしており、どこか閑散とした印象を受けた。
 目指す豆腐屋は先の突き当りに店を構えているがその途中、藍は何の気なしに貸本屋にふらりと立ち寄った。挨拶をしてみると店の奥で明るい返事が返ってきた。
「すみません、ちょっと今手が離せないんですよ。後でお伺いしますので自由に見ていてくださいね」
藍は短い相槌を打って店の中を歩き回った。
 本棚を左から右へ眺めていくと、題名と内容が頭の中で次々と結び付いていった。しばらくそんな事を繰り返し、藍は微妙な爽快感と共に小さいため息をついた。『読み返し過ぎて大体の内容は覚えている。そろそろ新しい本に手を出すべきだろうか。そうだ、折角紫様がいないんだ。ここは一つ普段絶対に読まないものを借りようじゃないか』
 小説の価値は世間における本の寿命で決定されると藍は信じていたので、彼女が読むのは古典小説に限られていた。時折彼女は鈴奈庵に訪れたが、入った途端に急き立てられるように奥の方へ向かう為、新刊が並べられた綺麗な本棚には一歩たりとも近づいたことがなかった。
 藍は店の入口の方へ戻り、改めて例の本棚に向き直った。日焼けしていない本の列は幻想郷の風靡をそのまま反射しているようで、それが彼女を不安にさせた。こみ上げる居心地に悪さと戦いながら、彼女は目ぼしい本を探した。気になる題名、絶対に面白い筈の有名な作者を求めて。

 一番下の段を眺めている最中、一つの本が彼女の目を引いた。

孤独を嗜む方法(基礎編)
抗鬱屋久 著

彼女はひどくこのタイトルに惹かれた。
 藍は書店に並ぶこの手の本を一括りにして全て軽蔑していた。だがそれとは別にこの本だけは他の本とは何かが違うような気がした。まるでイワシの群れに紛れた高級魚のように。散々迷った挙げ句彼女は辺りを見渡し、自分の他に客がいないことを確認してその本を手にとった。期待という色眼鏡のおかげで、藍にはその本から魅惑的な閃光が溢れんばかりに感じられた。
 しかしここで問題が一つ。この本を借りるということは彼女にとって、自分は孤立無援な妖怪ですと吹聴して回るようなものである。親しい友人にも言うのを憚られることを、一体どうして赤の他人である書店員に告白できるだろうか。それに気がつくと藍の足取りは途端に重くなった。「どうしてこんなグロテスクな題にしたのだろう」一転して彼女は作者を恨んだ。
 帳場に本居小鈴の姿は見当たらなかった。
「すみません!」
 藍が声を張り上げる。するとまたもや奥から返事が聞こえてきた。
「ごめんなさい! あとちょっとで終わりますので、少々お待ちを!」
一体先程から店主は何をしているのだろう。藍が耳をすませると、重いものを引きずり回すような低い音が断片的に聞こえてきた。店に客が一人もいないこともあり、藍は僅かながら不気味に感じた。
別に急ぎの用事というわけでもないので藍は手持ちの本を開いて時間を潰すことにした。






孤独を嗜む方法(基礎編)
抗鬱屋久 著

はじめに
 吾輩の名は抗鬱屋久である。先日とあるエキセントリックな薬を服用していたところ、吾輩は世界の真理に到達した。この驚くべき発見を皆と分かち合いたいと思い、筆を執ったしだいである。
 一時期、吾輩は世界の崩壊について思案を重ねていた。「もし、世界が崩壊したら一体どうなってしまうのだろう。その先に救いはあるのだろうか。一体いつ世界は滅びるのだろう」こんなことを四六時中考えていたわけである。言わずもがな、近いうちに世界が崩壊するのは皆も知っての通り自明の理であるが、実際の問題は別にあった。世界の崩壊が確定しているのに一体どうやって希望を持って生活するかということだ。吾輩は凄まじい絶望を体験した。そして世界の崩壊より先に吾輩の生活は完全に崩壊したのだ。食事は喉を通らない。風呂も億劫だ。何もしたくない。世界の崩壊という巨大な城の前では全てが無価値に思えたのだ。
 そんな死人のような生活が続いたある日、このことを馴染みの薬売りに相談したところとある薬を受け取った。その薬の効力は凄まじいものであった。何と吾輩の精神の中で絶望と希望が同居するという奇妙な作用をもたらしたのだ。さらに、この魔術めいた薬のおかげで遂に吾輩はあることを悟った。吾輩は世界の崩壊が怖かったのではない。真に恐れていたのはそこからもたらされる孤独だったのだ。
 それからというもの、吾輩は必死になって孤独への対抗策を講じた。題して孤独学である。これを読めば必ず孤独というものから開放されることを約束しよう。
 もしこの書物を読んで分からないことがあれば是非、吾輩の元へ直接尋ねに来て欲しい。住所は巻末に記してある。また、この本が気にいったなら応用編も購入されたし。

第一章 孤独の正体
 『閑吟集』という歌集がある。これは室町後期に編纂された歌謡集である。編者は不明であり、当時の庶民の生活感情を訴えた歌が収録されている。これによると、とある重要な……






『キチガイの妄言じゃないか』藍はたまらなくなって本を閉じた。すると間の悪いことに、すかさず小鈴がにこにこしながら奥の暖簾から現れた。
「すみません、お待たせしまして……」
本を戻してこっそり帰ってしまおうと考えた藍はこの不意打ちに戸惑った。
「ああよかった、もうお決まりになったんですね。すみませんが、こちらにお名前と借りられる本の題名をお願いしますね」
小鈴はどこからか帳面を取り出すと机の上に開き、興味深そうな様子で目の前の客を見つめた。藍は逃げ出したくなった。

 一冊の本を風呂敷の中に携えて、八雲藍はあくせくと豆腐屋へ向かっていた。日の光は一層強くなり、傾斜をつけて藍の頭上に降り注いだ。口の中はカラカラに乾いていた。
 藍は小鈴とのやり取りを振り返っていた。件の本を差し出した時の小鈴の反応は、存外全くの平常通りだったのである。藍はこれに対して胸を撫でおろしつつも強い不満を抱いていた。『せめて苦い顔の一つでもしてくれれば良かったのだ。間違いなく心中で馬鹿にしているに違いないのに。それとも本当に何も思ってなかったのだろか。私の感性がずれているのだろうか』
 生暖かい風が両手で抱えた風呂敷をばたつかせた。若干苛立ちながら大股で歩いていると藍の目の前をスイカ大のよく肥えた黒猫がすっと横切った。彼女はそれに気づかない振りをしてひたすら歩き続けた。
 目的の豆腐屋についた。髭だらけの店主は得意客の姿を認めると嬉しそうに挨拶をした。彼女はそれを受けて軽く会釈をした。


・豆腐
絹・・・75 木綿・・・70

・厚揚げ(大)
三角、四角、絹、木綿・・・90

・厚揚げ(小)
三角、四角、絹、木綿・・・60

・豆乳あります


 壁に貼られた暗号じみた料金表を横目で確認しつつ、藍は店主に頼んで水を一杯貰った。湯呑に注がれた水は生ぬるかったが彼女は一気に飲み干した。
 ショーケースには白い豆腐や厚揚げが一分の隙も無く均等に並べられている。藍はまるで美しい宝石や腕時計を眺める人のようにうっとりした様子でそれらを眺めた。
 思議的な二本の線が描かれた黄色いタイル、ケースの上にある何かの記念で作られたであろう置時計(文字が消えかかっていて読むことができない)、茶色い染みがついた日めくりカレンダー。藍は自身が落ちつきを取り戻していることを発見した。
 藍は厚揚げを十枚、揚げたてで用意するよう頼む。店主は
「へぇ、今日は大量ですな」
と呟きながら店の奥へと消え散った。やることがなかったが、藍は先程借りた本を読む気にはならなかった。
 しばらくして、藍は鼻歌を歌いながら店を出た。


 夕食の下ごしらえを始めるにはまだ早い時間だった。藍は和室の座布団に正座でじっとしていた。家の中で最も涼しい場所はここだった。
 藍は昼寝がしたかった。しかし暑さでくたびれていたにも関わらず、毎日決まって訪れる筈の眠気が今日は感じられなかった。その代わりだろうか、午前中に感じられたあの沈鬱さと退屈さが波のように交互に彼女の元へやってきた。
 深いため息をつくと藍は居間へ向かい、例の本を片手にまた和室に戻った。何気なく頁を捲っていく。すると、ふとひろげた頁の一行が彼女の目に深く焼き付いた。彼女は不快な不吉さに押されるようにして急いで本を閉じて横になった。無理に目をつぶり、瞼の裏にチカチカ映る光の模様をじっと見つめていたがほどなくして眠ってしまった。

 目が覚めると辺りは暗闇に包まれていた。水分を十分に取らなかったせいか、口の中の粘つきが不快だった。手探りで本を手繰り寄せて明かりをつけると、例の一行を探した。ほどなくして彼女は鬱蒼たる思いでその一行を発見した。

“孤独に耐性を持ちたければ、全ての繋がりは利害関係と代替関係の上に成り立つという暗い方程式をまず心に刻むべし”

 利害関係! 代替関係! 昨日から彼女につきまとっていた物悲しさの正体に触れた気がした。すると口内の不快感は急激に容積を増していき、恐怖と共に彼女の全身を包み込んだ。それは傷口に浴びせられる無慈悲な塩水だった。
『あー! あー! 何てことを書きやがる。ふざけるな!』

藍は今日会った人物を思い浮かべた。
藍は自分の友人を一人残らず思い浮かべた。
藍は放ったらかしにしている自分の式を思い浮かべた。
藍は紫の姿を思い浮かべた。
そして最後に藍は自身の代わりを務める黒い影を作り出し、紫の隣に配置した。
自身の中で可能な限り醜悪な想像を作り出し、彼女はその中を走り回った。

やがて藍は何か無性に耐えることができなくなる。急ぎ足で台所へ向かうと背伸びをして棚から未開封の焼酎を取り出し、夢中になってボトルの中の透明な液体を口に入れた。

5
 紫は旅行鞄の重さに振り回されながら、人通りの少ない深夜の温泉街を歩いていた。旅行気分を害したくないという理由で行き帰り以外にスキマを使わないと決めていた彼女だったが、歩き通しで流石にひどく疲れていた。
 結界的に温泉旅行は散々だった。外の世界はどこもかしこも行楽シーズンの影響で満員、満席。紫が泊まれそうな宿泊施設は存在せず、仕方なく日帰り旅行に予定を変更した。人であふれた温泉に我慢して入り、適当な食事処で時間を潰すと、駅で藍に土産を買った。既にくたくただったが藍の嬉しそうな様子を想像すると少しだけ楽しい気分になった。
 深夜、紫が自宅の前へ到着すると明かりがまだ点いており、辺りの草木にぼんやりとその影を落としていた。紫はそれを見て明るい心地になった。普段生真面目な藍が主の目を盗んで夜ふかしをすることが可愛らしく感じられたのだ。
 紫はすっかり油断しているだろう藍を驚かせてやろうと思い、盗人のように静かに玄関の戸を開けて中に入る。抜き足差し足で廊下を歩き勢いよく居間に近づき襖を開ける。そして彼女はすぐさま自分の行いを後悔した。そこにいたのは酒瓶を片手に机に突っ伏して泣いている一匹の式の姿だった。藍はのそのそと顔を上げる。紫は彼女のひどく充血した目と目が合った。
 飲み慣れない酒を飲んだせいで彼女の意識は朦朧とし、目の前に立っている紫の姿を、自身が作り出した幻だと頭から決めてかかった。酒で気が大きくなった藍は勢いにまかせて目の前の主に向かって語りだした。
「ゆ、紫さまぁ! 聞いてください、紫さまぁ! 紫さまはどう思います? 全ての交友関係、繋がりは、利害の関係しか無いってことに! 本当にそう思います?」
「一体どうしたっていうのよ、藍。貴方らしくない」
「イエスかノーで答えてください!」
紫はため息を漏らして面倒くさそうに答える。
「イエスよ」
「ほらやっぱりぃ! あの本、あの嫌な本のとおりだぁ! もしそれが本当なら皆自分のことしか考えてない! 金! 名誉! 損得勘定! 私の代わり! もう嫌だぁよぅ! もしそれが本当なら世界って、とんでもなく薄暗くて残酷になるじゃないですか。でも知って、知ってたんです私、仕方がないけどそれは事実だって! 紫さまぁ、私のこと、どう思ってるんですか? 私たちって、どんな関係なんですか? もう割り切ってしまいたいんです」
 後半消え入りそうな声で藍は一気に訴えると紫を見つめた。紫は黙ってスキマから水の入ったボトルと湯呑を取り出すと、注ぎながら口を開いた。
「そんなのあい……、こんな言葉は安直に使うべきではないわね。感情よ、感情の利害関係」
 紫はそう答えるとそろそろ寝るわねと言葉を残し、寝室へ向かった。
 一人残された八雲藍は少し考えた後に、借りた本を片付け忘れた古新聞の上に載せ、注がれた水に口をつけた。湯呑の中の水はよく冷えていた。
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コメント



0.150簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
躁鬱か?
2.90奇声を発する程度の能力削除
勢いがあり面白かったです
3.100終身削除
抗うつ薬おじさんが一人称を吾輩にして本を書いているところを想像して笑いました 藍が出先で見るものだったりそれからの気持ちの変わり方がリアルでくるものがありました 紫の一言を聞いて藍の気持ちがこれからどんな方向に向いていくのか考えるとなんとも言えない気分になりました
4.90大豆まめ削除
抗鬱薬おじさん何してん……。
それはさておき、藍様の、ともすればギャグにもなりかねない危うい感情の揺れ動きがなんともリアルで心に突き刺さる感じがして、でもやっぱり笑っちゃったり藍様可愛いって思ってしまったりで、読んでるこちらも感情が忙しかったです。
紫様はもっと自分の式に親身に寄り添ってあげてよぉ!
6.100名前が無い程度の能力削除
抗うつ薬おじさんに爆笑した
しかし感情の利害関係いいですね…
7.100名前が無い程度の能力削除
本をパラ見して嫌な気分になったかと思えば豆腐屋でテンション上がっていたり、藍様の豊かで若干下向きの感情がとめどなく溢れ出ているようでした。
8.100サク_ウマ削除
抗うつ薬キマってた
良かったです
9.100水十九石削除
藍様のどこか不安の残る陰鬱具合と途中のエキセントリックにキメた本の落差に笑わされてそのまま最後まで喜怒哀楽の揺れ幅を楽しませて戴きました。
ラスト一行、本当に凄まじい後味を残してくれまして…。大好き。
10.100Actadust削除
自分は平常だとキリッとしているようでめっちゃ影響されやすい藍様かわいいね……。
面白かったです。
11.100めそふらん削除
抗鬱薬おじさんなんて本書いてやがる…
喜怒哀楽の豊かな藍様良かったです。
酷い本に振り回されたり、油揚げに心が躍ったりなどなど、とにかく可愛い。
感情の利害関係っていう紫の言葉の言い回し、彼女の愛情が彼女らしく表されていて良かったです。
12.100夏後冬前削除
感情の浮き沈みの丁寧さが非常に良くて、藍さまが可愛くて笑いました。これこの後を考えるのも楽しいし、抗鬱薬おじさんの一人称が吾輩なのも面白いし、何重にも楽しい作品ですね。
13.100南条削除
とても面白かったです
藍様寂しいとこうなっちゃうのか
不覚にもかわいいと思いました
抗鬱薬おじさんの本がひどすぎるとも思いました
14.100やまじゅん削除
藍様がちょっと小柄で背伸びしてるの可愛くていいんですわぁ。
長命の九尾の妖怪とは思えない感情の幅でいいですね。

しかし抗鬱薬おじさんに振り回される藍様は新鮮でした。とても良かったです。
15.100ヘンプ削除
藍様、得体の知れ無い感情に押しつぶされそうになっていた、というのがとても印象的でした。すぐ側にいるということ、利害で仲良く……なんて考えたくないですね。それを頭によぎってしまった藍様が可哀想だなと勝手に思ってしまいました。感情を爆発させているシーンがとても良かったです。
19.100きぬたあげまき削除
最後の一文で再生を仄めかす書き方が最高でした。
午後の自分が午前中の自分を嫌いになる現象がものすごく共感できて辛かった