蝉が死んでいた。
太陽が最も輝く時間帯。東風谷早苗は博麗神社へと足を運んでいた。特に理由なんてなかったが、そんなものは後から沸いてくる。だが神社に足を運んでみると、生憎と巫女は不在だった。
顔を上げているだけも日差しに参ってしまいそうで、少し縁側を借りていこうと考えた。足元に視線を落としたところで、蝉が死んでいるのを見つけたのだ。
もう動かないだろう身体に反して、ちらりとはみ出している蝉の翅は、早苗が足を動かすたびに日差しを反射して虹色に輝いている。暑さに項をやられたせいだろうか、いやにその蝉の姿が悲しく感じられたのだ。
縁側に腰を下ろした。耳に入る音は無く、どこか物足りない。庇の陰から見る境内は光の所為だろうか、いつも早苗が見る以上に白く、曖昧なものだった。そんな曖昧さのせいか、それとも熱で少し頭の回転が遅くなっていたからだろうか、早苗は自身が眺めていた風景に、人影が紛れ込んでいることに気がつくのに随分とした間が必要だった。
もし、と人影に声をかける。びくりとして振り向いたその姿は、幻想郷ではあまり見ない洋服を着た少女だった。
おかあさんは?
……まいごなの
早苗の言葉に少女は瞳を斜めに向けてから、そう答える。その口調がやたらにはっきりとしていて、きっと少女にとって迷子なのは自分ではなく母親なのだろうと思い、知らず口元が緩む。
こちらに駆け寄ってきた少女は、両手で何かを包んでいた。聞くと、とても綺麗な翅をした蝉を捕まえたのだという。
風が無い所為だろうか、音のない世界で動いているのは少女のみで、それが目の前の少女に命が宿っているのだという事実を、淡く早苗の胸に刻む。
みせてあげる!
屈託なく笑う少女は、その手を開いたらきっと蝉が逃げ出すに違いない未来など、初めから思っていないのだろう。そうして少女が開いた掌には、果たして蝉の姿は無かった。
お母さんを、探しましょうか
泣きそうなほどに目じりを下げている少女の頭を撫で、早苗は神社の裏手へと回る。少女は直ぐにその顔を跳ね上げると、早苗の後ろをとことこと歩く。
少女の口は言葉の泉で、滾々と幸せの言葉を紡ぐ。子どもだけが持つことのできる、世界の一面だけを見る眼と言の葉は、それまで音を認識しなかった早苗の耳に、微かな湿り気をもって確かに響くのだ。
森の奥深くへと進んでいく。先程まで早苗の視界を染めていた光は、今度は木漏れ日となって線を引く。木々の揺れる音が、少しずつ耳に入ってくる。風が流れ始めたのだろう。
ふと、土と汗ではない別の匂いが早苗の鼻をついた。その匂いが一体何だったのか。言葉を頭の中にある引き出しから取り出すのよりも早く、少女の声が響く。後ろを歩いていたはずの少女は、気が付くと随分と前を歩いていた。
おかあさん!
少女の背中が視界から消えた。視界に走っていた光の線が段々と数を増やし、大きくなっていく。
再び視界が白に染まって、そうして目の前には空の青と、アスファルトの灰色と、住宅街の様々な色が現れた。どうやら所謂裏山のような場所に出たようだ。
足から伝わってくる感覚が不思議で、それが綺麗に舗装された道路を歩いた感覚だと気づいた。そして、匂いの名前を思い出したところで、少女が母親に抱きかかえられるのを見た。
母親の怪訝な顔も、それとは対照的な少女の何の不安もないのだろう溌溂とした表情が、早苗の記憶を掘り起こす。それはセンチメンタルなものではなく、触れるだけで楽しくなる、パステルの思い出なのだ。
微かに風を切る音が聞こえた。視界の端に捉えたのは、きっと蝉だったのだろう。日差しを浴びて虹色に輝きながら、少女が開いた掌に収まったのだ。
かみさま、ありがとう
大きな声で少女はそう言って、母親と共に夏の景色に溶けていった。早苗は自身の腕に視線を落とすと、汗が玉となって浮かんでいた。
かみさま、か
家で暑さにうなだれている神様達を思い、神様でも汗だくにはなるか、と早苗は笑う。久しぶりに嗅いだ匂いは、早苗にとっての夏の匂いだった。
神社に戻ると巫女がいた。そういえばお喋りに来たのだと早苗は当初の予定を思い出す。
来た時よりも少しだけ陰のついた境内を見回した。もう、どこにも蝉の姿は無かった。
太陽が最も輝く時間帯。東風谷早苗は博麗神社へと足を運んでいた。特に理由なんてなかったが、そんなものは後から沸いてくる。だが神社に足を運んでみると、生憎と巫女は不在だった。
顔を上げているだけも日差しに参ってしまいそうで、少し縁側を借りていこうと考えた。足元に視線を落としたところで、蝉が死んでいるのを見つけたのだ。
もう動かないだろう身体に反して、ちらりとはみ出している蝉の翅は、早苗が足を動かすたびに日差しを反射して虹色に輝いている。暑さに項をやられたせいだろうか、いやにその蝉の姿が悲しく感じられたのだ。
縁側に腰を下ろした。耳に入る音は無く、どこか物足りない。庇の陰から見る境内は光の所為だろうか、いつも早苗が見る以上に白く、曖昧なものだった。そんな曖昧さのせいか、それとも熱で少し頭の回転が遅くなっていたからだろうか、早苗は自身が眺めていた風景に、人影が紛れ込んでいることに気がつくのに随分とした間が必要だった。
もし、と人影に声をかける。びくりとして振り向いたその姿は、幻想郷ではあまり見ない洋服を着た少女だった。
おかあさんは?
……まいごなの
早苗の言葉に少女は瞳を斜めに向けてから、そう答える。その口調がやたらにはっきりとしていて、きっと少女にとって迷子なのは自分ではなく母親なのだろうと思い、知らず口元が緩む。
こちらに駆け寄ってきた少女は、両手で何かを包んでいた。聞くと、とても綺麗な翅をした蝉を捕まえたのだという。
風が無い所為だろうか、音のない世界で動いているのは少女のみで、それが目の前の少女に命が宿っているのだという事実を、淡く早苗の胸に刻む。
みせてあげる!
屈託なく笑う少女は、その手を開いたらきっと蝉が逃げ出すに違いない未来など、初めから思っていないのだろう。そうして少女が開いた掌には、果たして蝉の姿は無かった。
お母さんを、探しましょうか
泣きそうなほどに目じりを下げている少女の頭を撫で、早苗は神社の裏手へと回る。少女は直ぐにその顔を跳ね上げると、早苗の後ろをとことこと歩く。
少女の口は言葉の泉で、滾々と幸せの言葉を紡ぐ。子どもだけが持つことのできる、世界の一面だけを見る眼と言の葉は、それまで音を認識しなかった早苗の耳に、微かな湿り気をもって確かに響くのだ。
森の奥深くへと進んでいく。先程まで早苗の視界を染めていた光は、今度は木漏れ日となって線を引く。木々の揺れる音が、少しずつ耳に入ってくる。風が流れ始めたのだろう。
ふと、土と汗ではない別の匂いが早苗の鼻をついた。その匂いが一体何だったのか。言葉を頭の中にある引き出しから取り出すのよりも早く、少女の声が響く。後ろを歩いていたはずの少女は、気が付くと随分と前を歩いていた。
おかあさん!
少女の背中が視界から消えた。視界に走っていた光の線が段々と数を増やし、大きくなっていく。
再び視界が白に染まって、そうして目の前には空の青と、アスファルトの灰色と、住宅街の様々な色が現れた。どうやら所謂裏山のような場所に出たようだ。
足から伝わってくる感覚が不思議で、それが綺麗に舗装された道路を歩いた感覚だと気づいた。そして、匂いの名前を思い出したところで、少女が母親に抱きかかえられるのを見た。
母親の怪訝な顔も、それとは対照的な少女の何の不安もないのだろう溌溂とした表情が、早苗の記憶を掘り起こす。それはセンチメンタルなものではなく、触れるだけで楽しくなる、パステルの思い出なのだ。
微かに風を切る音が聞こえた。視界の端に捉えたのは、きっと蝉だったのだろう。日差しを浴びて虹色に輝きながら、少女が開いた掌に収まったのだ。
かみさま、ありがとう
大きな声で少女はそう言って、母親と共に夏の景色に溶けていった。早苗は自身の腕に視線を落とすと、汗が玉となって浮かんでいた。
かみさま、か
家で暑さにうなだれている神様達を思い、神様でも汗だくにはなるか、と早苗は笑う。久しぶりに嗅いだ匂いは、早苗にとっての夏の匂いだった。
神社に戻ると巫女がいた。そういえばお喋りに来たのだと早苗は当初の予定を思い出す。
来た時よりも少しだけ陰のついた境内を見回した。もう、どこにも蝉の姿は無かった。
濃厚な描写もさることながら、会う理由を会いに行きながら考えるなんてところにロマンスを感じました
面白かったです。
書かれた風景が心に鮮明に浮かぶほど綺麗だと思えました。
情景描写も綺麗で、夏の終わりにぴったりに思えます。
最近ニュースかどこかで蝉は時間帯だけでなく高温でも鳴かなくなる種が居る、と聞いてほえー、となったのを思い出しました。