額の汗を拭って目を上げると、無数の蝉が喧しく腹を揺らしていた。
夏の盛りは彼らの盛り。薄く透明な翅の下、数多の喉が掻き鳴らす叫びは無秩序でありながら、不思議とひとつの調和を奏でていた。
梨の成る木は樹液も甘いのだろうか。彼らは太い幹に焦げつくように縋りながら、一様に黒く乾いた瞳で七年後の歌を夢見ている。
私は音を立てて息を吸い、腹いっぱいに空気を蓄えた。
「わ!!」
意地悪な叫びが梨の樹を揺らすと、蝉は爆ぜるような音をたてて一斉に飛び立った。
それは見事なもので、一瞬木そのものが膨れ上がったような錯覚を魅せ、個々が衝突することもなく散り散りに消えてゆく。その光景は神事に撒く紙ふぶき、あれに似ていた。
静寂と、なにかを洗い流すように吹きつけた風が深緑の葉をさざめかせる。宿る木陰は涼しげに揺れた。
満足した私は踵を返し、一帯へ広がる水田の畦道を行く。
ほどほどに続いた梅雨が明けて以降、雨は久しく降っていない。
けれど水田は十分な水量を保っており、よく出来た灌漑設備があることを窺わせた。遠くで古く黒い苔に塗れた水車が水の流れと結んでひとりでに動いている。
私は畦道に蹲り、田圃に手を浸けた。
うまく循環の中にある水は連日の日照りにも関わらず仄かに冷たくて心地がいい。突然の闖入者に驚いた数匹のオタマジャクシが出来損ないの足を一斉に掻いて、すみよい水の中を駆けていった。
彼らを見送り、私は指先で水底に充ちた泥を掬う。
灰色の淀みは水をよく吸い、光を反射するほどに滑らかで、それでいて強かな粘性をたたえていた。見事な豊穣の素質だ。
ゆっくりと指先を滴る泥の珠を舌に乗せると、それは瞬く間に口の中で軟く融けて拡がった。
甘い味がする。
昨年、一昨年、さらに昔の昔まで……脈々と根付いてきたヒトの営み。地の恵みに育ち、地の恵みに還る。大地は彼らの敬虔な輪廻をすべて覚えていて、だからこの泥は肥沃に満ちている。
口の中に残った砂利を畦道に吐き捨てて、私は立ち上がった。
ここはいい場所だ。
木々と水と、土と光。それからたくさんの生命が調和し循環している。
路傍の夏草は背丈が高く、土嚢に宿する蝸牛は艶めいて、風は何に阻まれることもなく自由に在る。見上げれば群青の彼方に幼い積乱雲が気流の機嫌を窺っていた。
「釣りに行くんだ!」
「ねえちゃんも来いよ!」
対岸の畦道から三人の少年が声をあげている。ほかに人の気配はなく、どうやら私を誘っているらしい。
あるいは呆と畦道に佇み、ひとり空を見上げる少女を哀れに思ったのかもしれない。
不敬なことだが、そのように見える私にも非があろう。照りつける陽に曝されてあっという間に乾いた泥を手から払い、少年たちに顔を向けた。
「ザリガニがいっぱい獲れるんだぜ」
蘇鉄で編んだ籠、棚引く手拭。紐のついた枝を振り回して、少年たちは言う。
日に焼けて真っ赤になった肌に、白い歯が可笑しなほどよく映えた。
私は負けじと犬歯を見せつける。
「それって、たくさん釣った人の勝ち?それとも一番大きいやつ?」
「両方!」
「いいよ、勝負だ!」
私は畦道を駆けて、初対面である私を旧知のように迎え入れる少年たちに合流する。
見た目は同い年くらいの私に対して彼らは不躾なほどに遠慮がなく、あまりにも自然な融和は本当に長年の友であるかのような錯覚を抱かせた。
「ほら、釣竿貸してやるよ!好きなの使いな!」
リーダー格の少年は釣竿をたくさん持っていて、それらを自慢げに差し出した。
明らかに手製の釣竿は、彼がこれまで握ってきたものらしい。まったくの無骨なものから持ち手に藁を巻きつけているもの、複数の枝を継ぎ接ぎしたものなど様々な試行錯誤が見て取れた。
幾つかは理に適っていて、幾つかは愚かな子供らしさが滲み出ている。自分なりに改良を重ねているのだろう。
最新のものは彼の右手に握られており、それは簡素ながらこれまでにない漆での塗装がされていて、他にない重厚な輝きを帯びている。
私はしなやかな枝で出来た一本を選んだ。彼の手から受け取ると理由は分からないが、そして恐らく特別な理由はなく、持ち手部分だけが竹になっていた。
先導する少年たちの背を追って、私は駆ける。
前のみを向いて走る少年たちの足取りは無邪気で危なっかしい。踏み外すなよ、と一声かけてやりたくなる。けれど彼らの足は泥に塗れることなどこれっぽっちも恐れてはいない。
誰ともなく加速し、暗黙のうちに競争が始まる。
勇敢な心に靴を汚して叱られる想像など入り込む余地はなく、しかし彼らは器用に細い畦道を追い越し、追い越されながら駆け抜けた。
先頭の足が土を踏むたびに陸に顔を出していた蛙や昆虫が慌てて道を譲る。私たちの通る道の左右には次々と小さな波紋が咲いた。
私は土嚢を利用した早道で一度だけ先頭に踊り出たが、闘争心に火のついた少年たちの一心不乱の加速にやがては追い越されてしまった。
目の前の背中を追い越すことだけを目指して走るのは気持ちがいい。
角を曲がるための失速、その一瞬の隙に身体を滑り込ませて一人を追い越した。今度は私が追われる背中になる。冷えた水田と照り付ける太陽の狭間に、私たちはいた。
「とうちゃーく!」
やがて水田地帯の端に辿りついた。
随分な距離を走った気がするけれど、概ね区画分けされた水田に非効率的な遠回りを強いられたせいだ。靴の裏には湿った土が濃く貼り付いており、振り返ると一面の田圃と、夢中で駆けてきた迷路のような道が太陽の光をきらきらと反射させていた。
暗黙の競争は結局誰が勝ったのか分からない。私も自分がどの位置にいたのか覚えておらず、特に言及するものも主張するものいない。只々意味もなく走ったという事実だけが面白く可笑しかった。
「おおー、いるねぇ」
水路を覗き込むと黒々と輝く甲羅が蠢いている。艶のいい鋏で清流を掻く彼らもまた、この地の豊穣に浴して丸く肥えていた。
水路は細いながらも長く、幾つかの分岐と高低の差があった。
日陰があり、日向もある。風通しのいい場所、淀んだ場所、一部は水流が激しく、一部は緩やかだ。ザリガニの心持を知る由はないが、そうした僅かな差にも棲むに適した場所とそうでない場所があるように思う。
「餌が無くなったら俺に言ってくれ!」
か細い割に一際声の大きな少年が一掴みの干した小魚と容器を貸してくれた。元々は鍋として使われていたらしい金属製の器は錆が浮き、端々が焦げついて、持ち手は斜めに欠けている。
少年たちはそれぞれの理屈でザリガニの嗜好を分析して持ち場につき、自分の釣竿で艶やかな鋏を誘い始めた。
私もそれなりに頭を使い、曲がりくねる水路の角に腰を下ろす。
流れが溜まる場所にはザリガニが好む餌もまた留まるように思われた。さらにぽつんと遺棄された崩れかけの小屋が盾になり、小さいながらも日陰を作ってくれている好条件だ。
ザリガニの気を惹くのは存外に難しかった。
目の前に揺れる餌に威嚇こそすれ、振り上げた鋏でそれを掴もうとはしない。まるで乾いた陸地に連れ去ろうとする私の意図を見透かしているかのようで、しばらく睨み合いを続けたあとそっぽを向かれてしまう。
二匹目も、三匹目も。遂に私は水路の角にたむろしていたザリガニの向きを全て反転させてしまった。
「ちょっとー、餌悪いんじゃない?」
ぼやいて顔を上げると、少し下流にいる少年がちょうど同じ餌に噛み付いて宙吊りになったザリガニを握り締めたところだった。
私の視線に気付いた彼は捕まえたザリガニの腹をこちらへ向けて満面の笑みを浮かべる。背中を鷲掴みにされたザリガニは両の鋏を大きく広げて、少年と共謀するかのように私を挑発した。
「見てろよ~」
糸に結ぶ魚の切り身を一回り大きくしてみる。竿を揺らして元気な生餌に見せようとしてみる。
餌を水に浸けて軟らかくするのは失敗で、すぐに切り身が糸から解けてしまった。そりゃあそうだ、少し考えれば分かることなのに。
糸から離れて水底に横たわる白い干し魚を、頑なに私の誘導に抗っていた一匹が悠々と摘みあげて口に運んだ。それは好みに合ったらしく、すぐさま左の鋏が続く。
なにがいけないのだろう。
リーダー格の少年が差し出した様々な工夫が凝らされた竿を思い出す。彼もこうして悔しい思いをしながら試行を重ねたのだろうか。
上流の彼方で、漆で固めた竿は遠目にも分かる立派な固体を釣り上げていた。彼は満足そうにその大きな背の甲を掴み、太陽に掲げて誇らしげに眺めている。
私とザリガニの静かな対話はしばらく続いた。少しだけ悔しくもあった。
私は手を変え品を変え、感覚と直感で様々な工夫を凝らしてみる。
明らかに無駄だと分かっているようなことでも試してみようと思った。ヒトの目線で物事を見ようとすることは間々あるが、少年の心を浮かべるのは初めてだ。ザリガニに到っては言うまでもない。薄い餌が立体的に見えるように、餌の切り身を捻ってみる。
警戒する姿勢のザリガニに根気強く餌を垂らす。生餌に見せかけるような大きな動きは逆効果だといつしか私は学んでいた。水底に沈んだ餌を好んだように、彼らはとても臆病なのだ。瑪瑙のように黒く無機質な瞳が捻れた餌の真贋を慎重に量っている。
あちこちから蝉の合唱が響いていた。
森が近く、それを意識した途端にこの場所は眩暈がするような激しい反響の渦中であることに気付く。それでもこの季節にある限り、儚い魂と輪廻の叫びは不思議と心地よいものだった。
ザリガニと静かな対峙を繰り返すうちに私もそれなりに手応えを覚え、食い付きはしないまでも黒光りする殻は明らかに垂らされる餌に興味を示し始めていた。
いつしか私は水路の窪みに潜む特別大きなひとつの固体に狙いを定めており、それを釣り上げたならたった一匹で少年たちの羨望を欲しいままにするだろう。これほどの大物は彼らも見たことがないに違いない。
かなりの時間を過ごした。大きなザリガニは理性と空腹の綱引きに揺れ始めており、時折鋏で餌を突き、そのたびに私を興奮させた。もう少し、あとひと押し……。
けれど私とザリガニの勝負は不意に打ち切られてしまった。
「うわぁ……」
素早く釣りの用意を片付けて身を寄せ合った少年たちは空を仰いで感嘆の声をあげる。
見上げれば巨大な積乱雲が太陽を覆い、くぐもった雷鳴を低く響かせていた。少年たちの目にもその雲が短いながらも凄まじい雨をもたらすことは明らかで、彼らは日に焼けた顔を見合わせながら、互いの胸中を窺いあう。
嵐の予感は彼らの無謀な好奇心を奮わせたが、低く唸る雷音に急かされる形で各々帰宅する運びになった。
「もうちょっとで、こーんな大きいのが獲れたのになあ」
私は空っぽのままの器と釣竿を少年たちに返し、空いた両手を広げて獲り逃したザリガニの巨大さを伝えた。本当に、あと少しだったのに。
「今回はみんな引き分けだ」
リーダー格の彼が言うと、皆互いに頷きあう。その表情には無限の時間に裏打ちされた余裕があった。それはとても儚いものだと私は知っているけれど、彼らもまた永遠を根拠もなく信じている。
少年たちは荷物を抱え、すぐにでも走り出す準備を整えていた。雲の到来と彼らの足、どちらが速いだろう。
「よし、急がなきゃな」
「姉ちゃんも早く帰りなよ、濡れて帰ったら母ちゃんに怒られるぜ」
「そうするよ」
口を衝いて出た単純な嘘に、私は可笑しくなった。
無論、神である私に叱る母などいやしない。それでも私は滑らかな嘘で彼らを見送った。
「また勝負しようぜ」
彼らは最後にそう言った。私は是とも非とも言わず、ただ笑顔を作って頷く。
一際大きな雷鳴が轟いたのを合図に、少年たちは誰ともなく走り出した。
今度の彼らの競争相手は迫り来る雨の気配で、広く入り組んだ水田の迷路は途方もない。それでも少年たちは湿る空気の中へ果敢に飛び出していった。
「さて……」
私は草臥れた小屋に身を寄せ、すっかり泥濘んだ空を見上げた。
龍が住まうような分厚くて暗い雲は今にも怒涛を溢れさせようとしていた。願わくばもう少し、少年たちがそれぞれの家に辿り着くまで堪えてくれと願う。
半ば崩れた小屋は、それでも小柄な私一人が宿るには十分だ。天井は所々に曇天の彼方を覗かせているが、大きな問題ではない。小屋の奥にはいくつかの錆びついた農具が脆い一室の危うい均衡を支えるかのように立てかけられている。
梁には埃が積もって鈍色になった風鈴が揺れることもなく佇んでいた。せめて一度、その音色を奏でようと戯れに手を伸ばす。硝子に編みこまれた桔梗の模様は、さながら枯れたように褪せていた。
子供のように無為へ背を伸ばす私を、何処かで誰かが嗤っていた。
……
………
…………
やがて轟々と雨は降った。
激しい雷鳴が止め処なく鳴り響き、その裏では落ちる怒涛が大地を打ち鳴らしている。
何気なく、足元の罅割れから土を摘んでみる。
瘡蓋のように薄く剥がれたそれは冷たく乾いており、触れた端から粉になって虚しく大地に還った。
獲り逃した大きなザリガニの無機な瞳を思い出す。揺れる捻れた誘惑を、それは冷ややかな色で見つめていた。
あの矮小な生命は私の垂らす糸を知っていたのだろうか?自らを無為に弄ぼうとする悪意の標を。
雨を縦横無尽に操る生温かい風が舞い上げられた肥沃の香りを運び、噎せ返るような血の匂いを私に浴びせる。その頭上で死んだ風鈴も虚しく揺れた。
もはや蝉はどこにも鳴いておらず、途切れた夢は小さな影を染み付かせて琥珀色の殻に還る。未熟なままの瞳は永久の地中で何を思うだろう。
錆び付いた器は今も空っぽで、いつからか突き刺さった透明な破片は私の頭に小さな痛みを残していた。
「ごめんね」
やっぱりヒトの真似事なんてするもんじゃない。
私は不意に口の中に広がった甘い淀みを噛み砕き、自戒を込めて吐き棄てた。
夏の盛りは彼らの盛り。薄く透明な翅の下、数多の喉が掻き鳴らす叫びは無秩序でありながら、不思議とひとつの調和を奏でていた。
梨の成る木は樹液も甘いのだろうか。彼らは太い幹に焦げつくように縋りながら、一様に黒く乾いた瞳で七年後の歌を夢見ている。
私は音を立てて息を吸い、腹いっぱいに空気を蓄えた。
「わ!!」
意地悪な叫びが梨の樹を揺らすと、蝉は爆ぜるような音をたてて一斉に飛び立った。
それは見事なもので、一瞬木そのものが膨れ上がったような錯覚を魅せ、個々が衝突することもなく散り散りに消えてゆく。その光景は神事に撒く紙ふぶき、あれに似ていた。
静寂と、なにかを洗い流すように吹きつけた風が深緑の葉をさざめかせる。宿る木陰は涼しげに揺れた。
満足した私は踵を返し、一帯へ広がる水田の畦道を行く。
ほどほどに続いた梅雨が明けて以降、雨は久しく降っていない。
けれど水田は十分な水量を保っており、よく出来た灌漑設備があることを窺わせた。遠くで古く黒い苔に塗れた水車が水の流れと結んでひとりでに動いている。
私は畦道に蹲り、田圃に手を浸けた。
うまく循環の中にある水は連日の日照りにも関わらず仄かに冷たくて心地がいい。突然の闖入者に驚いた数匹のオタマジャクシが出来損ないの足を一斉に掻いて、すみよい水の中を駆けていった。
彼らを見送り、私は指先で水底に充ちた泥を掬う。
灰色の淀みは水をよく吸い、光を反射するほどに滑らかで、それでいて強かな粘性をたたえていた。見事な豊穣の素質だ。
ゆっくりと指先を滴る泥の珠を舌に乗せると、それは瞬く間に口の中で軟く融けて拡がった。
甘い味がする。
昨年、一昨年、さらに昔の昔まで……脈々と根付いてきたヒトの営み。地の恵みに育ち、地の恵みに還る。大地は彼らの敬虔な輪廻をすべて覚えていて、だからこの泥は肥沃に満ちている。
口の中に残った砂利を畦道に吐き捨てて、私は立ち上がった。
ここはいい場所だ。
木々と水と、土と光。それからたくさんの生命が調和し循環している。
路傍の夏草は背丈が高く、土嚢に宿する蝸牛は艶めいて、風は何に阻まれることもなく自由に在る。見上げれば群青の彼方に幼い積乱雲が気流の機嫌を窺っていた。
「釣りに行くんだ!」
「ねえちゃんも来いよ!」
対岸の畦道から三人の少年が声をあげている。ほかに人の気配はなく、どうやら私を誘っているらしい。
あるいは呆と畦道に佇み、ひとり空を見上げる少女を哀れに思ったのかもしれない。
不敬なことだが、そのように見える私にも非があろう。照りつける陽に曝されてあっという間に乾いた泥を手から払い、少年たちに顔を向けた。
「ザリガニがいっぱい獲れるんだぜ」
蘇鉄で編んだ籠、棚引く手拭。紐のついた枝を振り回して、少年たちは言う。
日に焼けて真っ赤になった肌に、白い歯が可笑しなほどよく映えた。
私は負けじと犬歯を見せつける。
「それって、たくさん釣った人の勝ち?それとも一番大きいやつ?」
「両方!」
「いいよ、勝負だ!」
私は畦道を駆けて、初対面である私を旧知のように迎え入れる少年たちに合流する。
見た目は同い年くらいの私に対して彼らは不躾なほどに遠慮がなく、あまりにも自然な融和は本当に長年の友であるかのような錯覚を抱かせた。
「ほら、釣竿貸してやるよ!好きなの使いな!」
リーダー格の少年は釣竿をたくさん持っていて、それらを自慢げに差し出した。
明らかに手製の釣竿は、彼がこれまで握ってきたものらしい。まったくの無骨なものから持ち手に藁を巻きつけているもの、複数の枝を継ぎ接ぎしたものなど様々な試行錯誤が見て取れた。
幾つかは理に適っていて、幾つかは愚かな子供らしさが滲み出ている。自分なりに改良を重ねているのだろう。
最新のものは彼の右手に握られており、それは簡素ながらこれまでにない漆での塗装がされていて、他にない重厚な輝きを帯びている。
私はしなやかな枝で出来た一本を選んだ。彼の手から受け取ると理由は分からないが、そして恐らく特別な理由はなく、持ち手部分だけが竹になっていた。
先導する少年たちの背を追って、私は駆ける。
前のみを向いて走る少年たちの足取りは無邪気で危なっかしい。踏み外すなよ、と一声かけてやりたくなる。けれど彼らの足は泥に塗れることなどこれっぽっちも恐れてはいない。
誰ともなく加速し、暗黙のうちに競争が始まる。
勇敢な心に靴を汚して叱られる想像など入り込む余地はなく、しかし彼らは器用に細い畦道を追い越し、追い越されながら駆け抜けた。
先頭の足が土を踏むたびに陸に顔を出していた蛙や昆虫が慌てて道を譲る。私たちの通る道の左右には次々と小さな波紋が咲いた。
私は土嚢を利用した早道で一度だけ先頭に踊り出たが、闘争心に火のついた少年たちの一心不乱の加速にやがては追い越されてしまった。
目の前の背中を追い越すことだけを目指して走るのは気持ちがいい。
角を曲がるための失速、その一瞬の隙に身体を滑り込ませて一人を追い越した。今度は私が追われる背中になる。冷えた水田と照り付ける太陽の狭間に、私たちはいた。
「とうちゃーく!」
やがて水田地帯の端に辿りついた。
随分な距離を走った気がするけれど、概ね区画分けされた水田に非効率的な遠回りを強いられたせいだ。靴の裏には湿った土が濃く貼り付いており、振り返ると一面の田圃と、夢中で駆けてきた迷路のような道が太陽の光をきらきらと反射させていた。
暗黙の競争は結局誰が勝ったのか分からない。私も自分がどの位置にいたのか覚えておらず、特に言及するものも主張するものいない。只々意味もなく走ったという事実だけが面白く可笑しかった。
「おおー、いるねぇ」
水路を覗き込むと黒々と輝く甲羅が蠢いている。艶のいい鋏で清流を掻く彼らもまた、この地の豊穣に浴して丸く肥えていた。
水路は細いながらも長く、幾つかの分岐と高低の差があった。
日陰があり、日向もある。風通しのいい場所、淀んだ場所、一部は水流が激しく、一部は緩やかだ。ザリガニの心持を知る由はないが、そうした僅かな差にも棲むに適した場所とそうでない場所があるように思う。
「餌が無くなったら俺に言ってくれ!」
か細い割に一際声の大きな少年が一掴みの干した小魚と容器を貸してくれた。元々は鍋として使われていたらしい金属製の器は錆が浮き、端々が焦げついて、持ち手は斜めに欠けている。
少年たちはそれぞれの理屈でザリガニの嗜好を分析して持ち場につき、自分の釣竿で艶やかな鋏を誘い始めた。
私もそれなりに頭を使い、曲がりくねる水路の角に腰を下ろす。
流れが溜まる場所にはザリガニが好む餌もまた留まるように思われた。さらにぽつんと遺棄された崩れかけの小屋が盾になり、小さいながらも日陰を作ってくれている好条件だ。
ザリガニの気を惹くのは存外に難しかった。
目の前に揺れる餌に威嚇こそすれ、振り上げた鋏でそれを掴もうとはしない。まるで乾いた陸地に連れ去ろうとする私の意図を見透かしているかのようで、しばらく睨み合いを続けたあとそっぽを向かれてしまう。
二匹目も、三匹目も。遂に私は水路の角にたむろしていたザリガニの向きを全て反転させてしまった。
「ちょっとー、餌悪いんじゃない?」
ぼやいて顔を上げると、少し下流にいる少年がちょうど同じ餌に噛み付いて宙吊りになったザリガニを握り締めたところだった。
私の視線に気付いた彼は捕まえたザリガニの腹をこちらへ向けて満面の笑みを浮かべる。背中を鷲掴みにされたザリガニは両の鋏を大きく広げて、少年と共謀するかのように私を挑発した。
「見てろよ~」
糸に結ぶ魚の切り身を一回り大きくしてみる。竿を揺らして元気な生餌に見せようとしてみる。
餌を水に浸けて軟らかくするのは失敗で、すぐに切り身が糸から解けてしまった。そりゃあそうだ、少し考えれば分かることなのに。
糸から離れて水底に横たわる白い干し魚を、頑なに私の誘導に抗っていた一匹が悠々と摘みあげて口に運んだ。それは好みに合ったらしく、すぐさま左の鋏が続く。
なにがいけないのだろう。
リーダー格の少年が差し出した様々な工夫が凝らされた竿を思い出す。彼もこうして悔しい思いをしながら試行を重ねたのだろうか。
上流の彼方で、漆で固めた竿は遠目にも分かる立派な固体を釣り上げていた。彼は満足そうにその大きな背の甲を掴み、太陽に掲げて誇らしげに眺めている。
私とザリガニの静かな対話はしばらく続いた。少しだけ悔しくもあった。
私は手を変え品を変え、感覚と直感で様々な工夫を凝らしてみる。
明らかに無駄だと分かっているようなことでも試してみようと思った。ヒトの目線で物事を見ようとすることは間々あるが、少年の心を浮かべるのは初めてだ。ザリガニに到っては言うまでもない。薄い餌が立体的に見えるように、餌の切り身を捻ってみる。
警戒する姿勢のザリガニに根気強く餌を垂らす。生餌に見せかけるような大きな動きは逆効果だといつしか私は学んでいた。水底に沈んだ餌を好んだように、彼らはとても臆病なのだ。瑪瑙のように黒く無機質な瞳が捻れた餌の真贋を慎重に量っている。
あちこちから蝉の合唱が響いていた。
森が近く、それを意識した途端にこの場所は眩暈がするような激しい反響の渦中であることに気付く。それでもこの季節にある限り、儚い魂と輪廻の叫びは不思議と心地よいものだった。
ザリガニと静かな対峙を繰り返すうちに私もそれなりに手応えを覚え、食い付きはしないまでも黒光りする殻は明らかに垂らされる餌に興味を示し始めていた。
いつしか私は水路の窪みに潜む特別大きなひとつの固体に狙いを定めており、それを釣り上げたならたった一匹で少年たちの羨望を欲しいままにするだろう。これほどの大物は彼らも見たことがないに違いない。
かなりの時間を過ごした。大きなザリガニは理性と空腹の綱引きに揺れ始めており、時折鋏で餌を突き、そのたびに私を興奮させた。もう少し、あとひと押し……。
けれど私とザリガニの勝負は不意に打ち切られてしまった。
「うわぁ……」
素早く釣りの用意を片付けて身を寄せ合った少年たちは空を仰いで感嘆の声をあげる。
見上げれば巨大な積乱雲が太陽を覆い、くぐもった雷鳴を低く響かせていた。少年たちの目にもその雲が短いながらも凄まじい雨をもたらすことは明らかで、彼らは日に焼けた顔を見合わせながら、互いの胸中を窺いあう。
嵐の予感は彼らの無謀な好奇心を奮わせたが、低く唸る雷音に急かされる形で各々帰宅する運びになった。
「もうちょっとで、こーんな大きいのが獲れたのになあ」
私は空っぽのままの器と釣竿を少年たちに返し、空いた両手を広げて獲り逃したザリガニの巨大さを伝えた。本当に、あと少しだったのに。
「今回はみんな引き分けだ」
リーダー格の彼が言うと、皆互いに頷きあう。その表情には無限の時間に裏打ちされた余裕があった。それはとても儚いものだと私は知っているけれど、彼らもまた永遠を根拠もなく信じている。
少年たちは荷物を抱え、すぐにでも走り出す準備を整えていた。雲の到来と彼らの足、どちらが速いだろう。
「よし、急がなきゃな」
「姉ちゃんも早く帰りなよ、濡れて帰ったら母ちゃんに怒られるぜ」
「そうするよ」
口を衝いて出た単純な嘘に、私は可笑しくなった。
無論、神である私に叱る母などいやしない。それでも私は滑らかな嘘で彼らを見送った。
「また勝負しようぜ」
彼らは最後にそう言った。私は是とも非とも言わず、ただ笑顔を作って頷く。
一際大きな雷鳴が轟いたのを合図に、少年たちは誰ともなく走り出した。
今度の彼らの競争相手は迫り来る雨の気配で、広く入り組んだ水田の迷路は途方もない。それでも少年たちは湿る空気の中へ果敢に飛び出していった。
「さて……」
私は草臥れた小屋に身を寄せ、すっかり泥濘んだ空を見上げた。
龍が住まうような分厚くて暗い雲は今にも怒涛を溢れさせようとしていた。願わくばもう少し、少年たちがそれぞれの家に辿り着くまで堪えてくれと願う。
半ば崩れた小屋は、それでも小柄な私一人が宿るには十分だ。天井は所々に曇天の彼方を覗かせているが、大きな問題ではない。小屋の奥にはいくつかの錆びついた農具が脆い一室の危うい均衡を支えるかのように立てかけられている。
梁には埃が積もって鈍色になった風鈴が揺れることもなく佇んでいた。せめて一度、その音色を奏でようと戯れに手を伸ばす。硝子に編みこまれた桔梗の模様は、さながら枯れたように褪せていた。
子供のように無為へ背を伸ばす私を、何処かで誰かが嗤っていた。
……
………
…………
やがて轟々と雨は降った。
激しい雷鳴が止め処なく鳴り響き、その裏では落ちる怒涛が大地を打ち鳴らしている。
何気なく、足元の罅割れから土を摘んでみる。
瘡蓋のように薄く剥がれたそれは冷たく乾いており、触れた端から粉になって虚しく大地に還った。
獲り逃した大きなザリガニの無機な瞳を思い出す。揺れる捻れた誘惑を、それは冷ややかな色で見つめていた。
あの矮小な生命は私の垂らす糸を知っていたのだろうか?自らを無為に弄ぼうとする悪意の標を。
雨を縦横無尽に操る生温かい風が舞い上げられた肥沃の香りを運び、噎せ返るような血の匂いを私に浴びせる。その頭上で死んだ風鈴も虚しく揺れた。
もはや蝉はどこにも鳴いておらず、途切れた夢は小さな影を染み付かせて琥珀色の殻に還る。未熟なままの瞳は永久の地中で何を思うだろう。
錆び付いた器は今も空っぽで、いつからか突き刺さった透明な破片は私の頭に小さな痛みを残していた。
「ごめんね」
やっぱりヒトの真似事なんてするもんじゃない。
私は不意に口の中に広がった甘い淀みを噛み砕き、自戒を込めて吐き棄てた。
描写のひとつひとつに強烈に夏を連想させられました
読むだけで熱中症になりそうでした
素晴らしかったです
どの描写も本当に綺麗で話の中に引き込まれました。
優しく暖かくて、でも最後は切なさを感じるという展開、凄く印象に残りました。