詮方ない事実だが、物部布都は有能と評さざるを得ない。奴は太子のことを第一に考え、それに全てを優先し、しかも役目は十全にこなすので本陣営にとっては非常に都合がいい。多少人間性に問題があっても齎す利益の大きさでそれを無にできると私は理解している。私が奴を嫌っているのは単にそりの合わなさからだ。
何が気に入らないって、その不遜なトコロだ。上述、奴は太子のことを第一に考えるが、他のことについてはとんと忖度しない。奴は頭が相当良いので、ちゃんと考えて対人に臨めば円滑な人間関係を築けるハズだ。奴の謀の中には頻繁に衆愚を利用したものが含まれるし、感情が理解できないなどということはあるまい。しかし奴はそんなことはどうでもいいと思っている。繰り返し、頻繁に顰蹙を買ってはケタケタ笑っているのである。
思うにあれは性だ。奴はそもそも性悪なのだ。奴はよく構内随所に隠された甘味を暴いてはそれを全部平らげてしまう。客人用に出すものまで全部だ。全部、私が用意しているのに。一度我慢ならなくなり、いよいよ場を設けて何故このような行為に及ぶのかと問い詰めたが奴はぺろりと親指を舐めてこういった。
「理由はいくつかある。まず、我は我に知らされておらぬ隠しごとを知るとムラムラときて、それを暴かずにはおれぬ。ふたつめに、甘味が好きだからだ。目の前にあると腹がすいておらずとも手が伸びてしまう。卑しいのだ。これについては、少し顧みるトコロがあるな。すまなんだ。さいごに我は、これを全部平らげて見せたらお主がそんな顔をして憤慨するのだろうなと思ったら、それはもう辛抱たまらなくなってしまうのよ、ははははははは、ふはははははは」
私がこっぴどく奴を折檻してやっている間も、奴はずっと笑っていた。
まだある。奴は倒錯しているまでに炎がめっぽう好きで、何かとあれは焼けるかこれは焼けるかと聞いてくるのだ。私はこれに本当に辟易している。太子にも同じことをしょっちゅう聞いては困らせている。大体、それくらいの判断は奴ならできるハズなのだ。いよいよ場を設けて何故このような言動に及ぶのかと問い詰めたが奴は鼻を鳴らしてこう言った。
「わかっとらんな。許可を得て燃やすのは愉快であろうが」
一生わかるつもりはないし今後一切これについて聞くなよとあきれ返るしかなかった。その次の日もずかずか部屋に入ってきて、紙ごみを集めて燃やしても良いかと聞かれた。勝手にしろテメーも一緒に燃えちまや良いんだと怒鳴って追い出したら、その「紙ごみ」の中には奴が今まで書かされた反省文(今後〇〇をしませんと言った条文のようなもの)も含まれていた。当然、奴はきちんと屠自古には許可を取りました。行き違いによる事故ですとのたまった。
その後太子はいつもそうするように、奴に「私、物部布都は今後紙ごみの処理を担当しません。もしもやむを得ずこれを引き受ける場合、事前にその内訳を屠自古に報告し受理させるものとします」と書かせた。奴はまたお主の仕事が増えたなと言ってへらへら笑った。クソが。
まだある。奴は女癖が悪い。どれだけ悪いって、なんとあの邪仙が嫌がって相手にしないくらい悪い。邪仙と話すたまの機会に、奴の悪口で盛り上がって謎の連帯感が生まれた程だ。奴が私の尻を撫でるといった暴挙に及ばないのは単に私が太子の后であるからだが(そんな気が回せるならもっと私に媚び諂えよと思う)、身近な女性と見られているのか邪仙は殊更被害に遭っているようで、割とマジに嫌われている様だった。奴と茶屋で話していてそのことをそれとなく聞いてみると奴は持っていた串に刺さった団子を一度に二つ食べてこう言った。
「失敬なことをいうな。青蛾殿とは純愛だ。ただ、あの方は全く我を相手にはしてくださらんので、ありがたいことに沢山の者から慰めの言葉を貰えているに過ぎぬよ」
「ぬけぬけ」という効果音がはっきり聞こえた。「ぬけぬけ」とはこいつのこの言い様のために今まで存在したのだ、役目を終えて「ぬけぬけ」殿も満足だろうと、そう確信してしまうような言い草だった。団子の代金は奴が払って、その様子を茶屋の娘さんがウットリと眺めていて嫌気が指した。
まだある。奴はわざと私のトコロまで話が回ってくるように私の愚痴を言いたがる。やれ屠自古は口も振る舞いもガサツで后としての自覚が足らぬだの、せっかく現世から御去らばする機会をやったというのにしぶとくしがみついて壁に残った汚れのような女だの、面の良さに他の全てを吸われてしまった哀れな「はした馬鹿舌」だの、生前からどんくさくて階段で転げ落ちそうになったのを三回も支えてやったのにその度セクハラだとかでひっぱたかれただの、自分の出す雷に頭がやられて散々助けてやった恩も忘れてしまっている嘆かわしいノウタリンだのという話がひっきりなしに耳に入ってくるのだ。許せん。
そんなにも私は奴の被害に遭い続けてひっ迫しているというのに、太子はと言えばニコニコ笑って、そうかそうかと私の話を聞いているだけなのだ。かわいい愚痴だと思って聞き流している。「私は全てわかっていますとも」とでも言いたそうな顔で。何もわかっちゃいない。民衆の心を掴むのと同じくらい上手に私のことも捉えて離さないようにしてほしい。そもそも太子も女癖が悪い。私の周りは本当に、本当に変なのしかいない。うんざりだ。
そんな様子だったので、常日頃、私は奴がいつか太子に口答えでもしてお叱りの言葉を受けないかとあれこれ智を巡らせていたが、先ほど認めた通りの忠誠の硬さと頭の良さであるから、奴はそんな様子をおくびにも見せなかった。廟の連中と信者たちの誰もが、きっと奴は太子が死ねと言えば何度でも喜んで死ぬのだろうと当たり前に感じていたのである。
***
太子の横に犬が居た。図体は大きいが、痩せこけていて毛艶も劣悪で、近くに居るだけでこちらの格まで下がると感じさせるようなみじめな犬だった。手を差し出してみるとしっぽを振ってべろりと指を舐めたので、人懐っこくはあるようだった。
太子にこの子はどうしたのですと聞いてみると、今朝方信者の一人がこの犬を連れてきて、人里の道の隅で丸まっている姿があんまりにも憐れで、しかしこんな大きな犬を食わせてやる程の余裕もうちにはなく、なんとかここに置いて良い様にしてやってはくれまいかと泣きながら頼み込んで来たのだという。
志だけ天晴で、やることは押し付けがましいなと呆れたがしかし、なんとも構いたくなる愛嬌の良さのある犬ではあり、そんな行動に出たとしても、さもありなんと言えるかもしない。不思議な魅力を感じる。
私は少し考えて、この犬を奴に世話させてはどうかと提案した。奴の忠犬根性の逞しさは犬畜生と通じるものがありますし、きっと仲良くするでしょうと。太子は私の顔をじいっと見つめて、そうですね、いい考えですねと言った。
奴が犬の世話などしたがるハズがない。しかし同時に、太子に向かって奴が「御意」以外のことを言うハズもない。進言はともかく。そして、「御意」と言ったならばこれを反故にすることもまたあり得ないのだ。これが少しでも奴に対する嫌がらせになれば幸いだ。案外本当に愛着が湧いたならば、今度は引き取り手でも探して手放させてみたらどんな顔をするかな。楽しみだ。
太子は、これも修行と思って真摯に励みなさいと伝えたようで、これに対して奴はどうにも張り切りすぎなくらい張り切った。
「先立って、こんな様ではならぬ。たらふく飯を食わせ、体を洗ってやり、少なくとも太子様の横におわしても失礼のないようにせねば」
全く同感な意見だったが、なんと奴はこれらを全て自分の手でやって見せた。米と煮干しを炊いて好きなだけ犬に食わせているトコロを眺めながら、我よりも良いものを喰っておるわと鼻を鳴らした。腹が一杯になったトコロで水と石鹸攻めにしてやって乾かして毛を繕ってやると、金色が誉れ高いと形容できるような立派な様になった。
「おい屠自古。我が犬如きに小間使いの真似事をしているのが愉快だからと言って、そのような間抜け面でただ見ているだけとは、趣味の悪さにもより磨きがかかったようだな」
「バカヤロオ。お前が開けた障子の穴の世話をしてるのが見えねえのか、この色ボケナスの節穴野郎が」
奴は本当に甲斐甲斐しいと言って差し支えなく犬の世話をした。痩せこけた体はすぐにふくふくと肥えて、健康体になった。奴は犬に名前を付けず、ただ犬と呼んだ。私は流石に薄情が過ぎると思い、名前を付けてやれよと言った。
「見るに此奴は飼い犬だ。大方散歩の最中にでもはぐれてしまったのだろうよ。我の役目も元々の飼い主が現れるまでのことだ。新しい名前など紛らわしいだけだ」
犬は走るのが好きで、体力のありあまったような様子で常に誰かに遊んで貰いたがった。当然と言えば当然だが、本当に奴によく懐いた。人里に一匹でいる時に虐待でも受けたのか、長物や尖ったものを見ると怯えた。遊びに来た唐傘が感情移入しすぎて怒るなり泣き腫らすなりしていたが、奴は怒るのではなく一緒に遊んでやれと言って唐傘をあやした。
奴の犬を見る目には慈しみすら感じられ、そのまま奴の周りへの態度も軟化しているように思えた。私はすっかり興ざめするやら驚がくするやらで、この犬をダシに使って奴に嫌がらせをしてやろうなどと考えていた自分を恥ずかしいとまで思った。
***
奴が推察を外すことはままあるが、今回もそのようだった。元の飼い主が名乗り出てくることなどなく、そのまま数年が経ってしまったのだ。そして、奴はそのままずぶずぶと犬を溺愛するかに思われたが、残念ながらそうはならなかった。
何の問題もなく世話をできていたのは最初の年の間だけで、今では奴は最低限の世話こそするがなんとも胸糞の悪い行為を繰り返すようになってしまった。
まず、奴は犬に対して妙な嫌がらせをするようになった。飯をやるふりをして、犬が喜び勇んでさあ口にするぞというトコロで取り上げて繰り返し笑う(最後にはちゃんと与えるが)などというのは可愛いもので、落とし穴を掘ってひっかけたり、目の前に上等な肉をぶら下げておいていつまでも走り回らせたり、頭に袋を被せて狼狽している様を嘲ったりと枚挙に暇がなかった。
それにも関わらず、犬は昔と変わらず奴を愛してやまず、ぴったりついてまわっていじらしい様にこちらの涙をも誘うような状態だった。
更に、奴は私を甘味処へ連れ出しては犬の悪口を熱心にまくし立てるようになった。やれあの犬は我に用意させた大飯を喰らってふくふくと肥えておいて幸せそうな顔をしている卑しい恥知らずの穀潰しだの、毎日湖の周りを全力で三週も四週もして尚尻尾振って構ってもらいたがるのでいい加減うんざりしているだの、太子様の命令でなければとっくに鍋にして喰ってしまっておるわ忌々しいだのと言ってのける。情というものを母の子宮に置いてきたのだろうと憐れにすら思った。しかも犬の愚痴を私に聞かせたその口で、他のトコロでは私の悪口を言っているのだから気分が悪い。
こんな惨いことを見過ごしているのが、まるで自らも加担しているように感じられだんだんと我慢ならなくなって、ついに私は元の飼い主か、あるいは引き取り手が居ないかと探して回ることにした。
はたしてそれは割と簡単に見つかり、その犬は元々紅魔館のもので、定期健診にと永遠亭へ連れて行くトコロで、嫌がって逃げ出してしまったのがきっかけだったのだという。奇しくも奴の予想は殆ど当たりだったわけだ。そこの門番が言うには主人はそれを大層残念がっていたとのことなので、うちで預かっていると知ればすぐに喜んで引き取ってくれるだろう。
私はことの旨を太子へ報告し、あの犬をこのまま奴のトコロに置いておくのはあんまり可哀想なので紅魔館へ返してやりませんかと打診した。太子は二つ返事で、では紅魔の主人を招く準備をしましょうと言って、すぐにその日は訪れた。
***
あわよくば奴が太子に口答えするトコロが見られるかと楽しみにしていたが、つまらない、しかもあまり気分の良くない結果に終わってしまったと思った。犬には悪いことをしたかもしれない。あんな気立ての良い、可愛がりたくなる犬もそうは居まい。畜生など好んではいないが、あの犬に限ってはどうにも特別視してしまう。
小さな後悔はあれど、一先ずはこの話も完結を迎えるだろう。紅魔の者たちと犬は再会して幸せに暮らし、私も奴の蛮行や愚痴を目の当たりにすることがなくなる。そう思って、いよいよ紅魔の主を招き、太子の元へ通したその日、満足げな表情の彼女が帰っていく後ろ姿に、しかしそれに付いていく犬の姿はなかった。
犬は紅魔へは返されなかったのだ。奴は引き続き犬(と私)へ傍若無人な振る舞いを繰り返した。奴はいつも楽しそうだ。ふざけていやがる。あの日は話だけをして、引き取るのは後日になったのかもしれないとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしく日付が変わっていくだけだった。当然、私は太子へどうなっているのかと事情を問い詰めた。私は困っているというのに、太子はいつも通りの「私は全てわかっていますとも」とでも言いたそうな顔で、ほっぺたをつねってやろうかと思った。
「よろしい、では、布都へ犬を返すことになったと伝えましょうか。二人だけで話すので、屠自古は来てはならないよ」
そしてしばらく、私は拗ね倒しながらも犬が開けた障子の穴の世話をしていた。犬は私の横で寝っ転がって、あらゆる害意を知らぬまま育ってきたかのようなすっとぼけた顔をしていた。この犬、奴がいない時は心無しかはしゃぎっぷりがいつもより落ち着いているように思う。あんなのに懐いてしまうとは本当に憐れだ。目が合って、犬が小さくわんと鳴いたトコロで、太子が、まあ、本当にいつも通りのことではあるが、それでもいつもより更に得意満面な顔をして部屋に入ってきた。流石に教えないと納得しないだろうから教えるけれど、と太子は前置きした。
「あの時、紅魔の主人は私と少し世間話をして、すぐにもう結構、帰らせていただくと言って笑って帰ってしまったんだ。それで、さっき言った通り、布都にあの犬を紅魔へ返すと伝えたんだけれど、布都はね、太子様、それだけは、それだけはお許しください、どうにか、どうにかなりませんかって、ふふふ、言ってたよ」
何が気に入らないって、その不遜なトコロだ。上述、奴は太子のことを第一に考えるが、他のことについてはとんと忖度しない。奴は頭が相当良いので、ちゃんと考えて対人に臨めば円滑な人間関係を築けるハズだ。奴の謀の中には頻繁に衆愚を利用したものが含まれるし、感情が理解できないなどということはあるまい。しかし奴はそんなことはどうでもいいと思っている。繰り返し、頻繁に顰蹙を買ってはケタケタ笑っているのである。
思うにあれは性だ。奴はそもそも性悪なのだ。奴はよく構内随所に隠された甘味を暴いてはそれを全部平らげてしまう。客人用に出すものまで全部だ。全部、私が用意しているのに。一度我慢ならなくなり、いよいよ場を設けて何故このような行為に及ぶのかと問い詰めたが奴はぺろりと親指を舐めてこういった。
「理由はいくつかある。まず、我は我に知らされておらぬ隠しごとを知るとムラムラときて、それを暴かずにはおれぬ。ふたつめに、甘味が好きだからだ。目の前にあると腹がすいておらずとも手が伸びてしまう。卑しいのだ。これについては、少し顧みるトコロがあるな。すまなんだ。さいごに我は、これを全部平らげて見せたらお主がそんな顔をして憤慨するのだろうなと思ったら、それはもう辛抱たまらなくなってしまうのよ、ははははははは、ふはははははは」
私がこっぴどく奴を折檻してやっている間も、奴はずっと笑っていた。
まだある。奴は倒錯しているまでに炎がめっぽう好きで、何かとあれは焼けるかこれは焼けるかと聞いてくるのだ。私はこれに本当に辟易している。太子にも同じことをしょっちゅう聞いては困らせている。大体、それくらいの判断は奴ならできるハズなのだ。いよいよ場を設けて何故このような言動に及ぶのかと問い詰めたが奴は鼻を鳴らしてこう言った。
「わかっとらんな。許可を得て燃やすのは愉快であろうが」
一生わかるつもりはないし今後一切これについて聞くなよとあきれ返るしかなかった。その次の日もずかずか部屋に入ってきて、紙ごみを集めて燃やしても良いかと聞かれた。勝手にしろテメーも一緒に燃えちまや良いんだと怒鳴って追い出したら、その「紙ごみ」の中には奴が今まで書かされた反省文(今後〇〇をしませんと言った条文のようなもの)も含まれていた。当然、奴はきちんと屠自古には許可を取りました。行き違いによる事故ですとのたまった。
その後太子はいつもそうするように、奴に「私、物部布都は今後紙ごみの処理を担当しません。もしもやむを得ずこれを引き受ける場合、事前にその内訳を屠自古に報告し受理させるものとします」と書かせた。奴はまたお主の仕事が増えたなと言ってへらへら笑った。クソが。
まだある。奴は女癖が悪い。どれだけ悪いって、なんとあの邪仙が嫌がって相手にしないくらい悪い。邪仙と話すたまの機会に、奴の悪口で盛り上がって謎の連帯感が生まれた程だ。奴が私の尻を撫でるといった暴挙に及ばないのは単に私が太子の后であるからだが(そんな気が回せるならもっと私に媚び諂えよと思う)、身近な女性と見られているのか邪仙は殊更被害に遭っているようで、割とマジに嫌われている様だった。奴と茶屋で話していてそのことをそれとなく聞いてみると奴は持っていた串に刺さった団子を一度に二つ食べてこう言った。
「失敬なことをいうな。青蛾殿とは純愛だ。ただ、あの方は全く我を相手にはしてくださらんので、ありがたいことに沢山の者から慰めの言葉を貰えているに過ぎぬよ」
「ぬけぬけ」という効果音がはっきり聞こえた。「ぬけぬけ」とはこいつのこの言い様のために今まで存在したのだ、役目を終えて「ぬけぬけ」殿も満足だろうと、そう確信してしまうような言い草だった。団子の代金は奴が払って、その様子を茶屋の娘さんがウットリと眺めていて嫌気が指した。
まだある。奴はわざと私のトコロまで話が回ってくるように私の愚痴を言いたがる。やれ屠自古は口も振る舞いもガサツで后としての自覚が足らぬだの、せっかく現世から御去らばする機会をやったというのにしぶとくしがみついて壁に残った汚れのような女だの、面の良さに他の全てを吸われてしまった哀れな「はした馬鹿舌」だの、生前からどんくさくて階段で転げ落ちそうになったのを三回も支えてやったのにその度セクハラだとかでひっぱたかれただの、自分の出す雷に頭がやられて散々助けてやった恩も忘れてしまっている嘆かわしいノウタリンだのという話がひっきりなしに耳に入ってくるのだ。許せん。
そんなにも私は奴の被害に遭い続けてひっ迫しているというのに、太子はと言えばニコニコ笑って、そうかそうかと私の話を聞いているだけなのだ。かわいい愚痴だと思って聞き流している。「私は全てわかっていますとも」とでも言いたそうな顔で。何もわかっちゃいない。民衆の心を掴むのと同じくらい上手に私のことも捉えて離さないようにしてほしい。そもそも太子も女癖が悪い。私の周りは本当に、本当に変なのしかいない。うんざりだ。
そんな様子だったので、常日頃、私は奴がいつか太子に口答えでもしてお叱りの言葉を受けないかとあれこれ智を巡らせていたが、先ほど認めた通りの忠誠の硬さと頭の良さであるから、奴はそんな様子をおくびにも見せなかった。廟の連中と信者たちの誰もが、きっと奴は太子が死ねと言えば何度でも喜んで死ぬのだろうと当たり前に感じていたのである。
***
太子の横に犬が居た。図体は大きいが、痩せこけていて毛艶も劣悪で、近くに居るだけでこちらの格まで下がると感じさせるようなみじめな犬だった。手を差し出してみるとしっぽを振ってべろりと指を舐めたので、人懐っこくはあるようだった。
太子にこの子はどうしたのですと聞いてみると、今朝方信者の一人がこの犬を連れてきて、人里の道の隅で丸まっている姿があんまりにも憐れで、しかしこんな大きな犬を食わせてやる程の余裕もうちにはなく、なんとかここに置いて良い様にしてやってはくれまいかと泣きながら頼み込んで来たのだという。
志だけ天晴で、やることは押し付けがましいなと呆れたがしかし、なんとも構いたくなる愛嬌の良さのある犬ではあり、そんな行動に出たとしても、さもありなんと言えるかもしない。不思議な魅力を感じる。
私は少し考えて、この犬を奴に世話させてはどうかと提案した。奴の忠犬根性の逞しさは犬畜生と通じるものがありますし、きっと仲良くするでしょうと。太子は私の顔をじいっと見つめて、そうですね、いい考えですねと言った。
奴が犬の世話などしたがるハズがない。しかし同時に、太子に向かって奴が「御意」以外のことを言うハズもない。進言はともかく。そして、「御意」と言ったならばこれを反故にすることもまたあり得ないのだ。これが少しでも奴に対する嫌がらせになれば幸いだ。案外本当に愛着が湧いたならば、今度は引き取り手でも探して手放させてみたらどんな顔をするかな。楽しみだ。
太子は、これも修行と思って真摯に励みなさいと伝えたようで、これに対して奴はどうにも張り切りすぎなくらい張り切った。
「先立って、こんな様ではならぬ。たらふく飯を食わせ、体を洗ってやり、少なくとも太子様の横におわしても失礼のないようにせねば」
全く同感な意見だったが、なんと奴はこれらを全て自分の手でやって見せた。米と煮干しを炊いて好きなだけ犬に食わせているトコロを眺めながら、我よりも良いものを喰っておるわと鼻を鳴らした。腹が一杯になったトコロで水と石鹸攻めにしてやって乾かして毛を繕ってやると、金色が誉れ高いと形容できるような立派な様になった。
「おい屠自古。我が犬如きに小間使いの真似事をしているのが愉快だからと言って、そのような間抜け面でただ見ているだけとは、趣味の悪さにもより磨きがかかったようだな」
「バカヤロオ。お前が開けた障子の穴の世話をしてるのが見えねえのか、この色ボケナスの節穴野郎が」
奴は本当に甲斐甲斐しいと言って差し支えなく犬の世話をした。痩せこけた体はすぐにふくふくと肥えて、健康体になった。奴は犬に名前を付けず、ただ犬と呼んだ。私は流石に薄情が過ぎると思い、名前を付けてやれよと言った。
「見るに此奴は飼い犬だ。大方散歩の最中にでもはぐれてしまったのだろうよ。我の役目も元々の飼い主が現れるまでのことだ。新しい名前など紛らわしいだけだ」
犬は走るのが好きで、体力のありあまったような様子で常に誰かに遊んで貰いたがった。当然と言えば当然だが、本当に奴によく懐いた。人里に一匹でいる時に虐待でも受けたのか、長物や尖ったものを見ると怯えた。遊びに来た唐傘が感情移入しすぎて怒るなり泣き腫らすなりしていたが、奴は怒るのではなく一緒に遊んでやれと言って唐傘をあやした。
奴の犬を見る目には慈しみすら感じられ、そのまま奴の周りへの態度も軟化しているように思えた。私はすっかり興ざめするやら驚がくするやらで、この犬をダシに使って奴に嫌がらせをしてやろうなどと考えていた自分を恥ずかしいとまで思った。
***
奴が推察を外すことはままあるが、今回もそのようだった。元の飼い主が名乗り出てくることなどなく、そのまま数年が経ってしまったのだ。そして、奴はそのままずぶずぶと犬を溺愛するかに思われたが、残念ながらそうはならなかった。
何の問題もなく世話をできていたのは最初の年の間だけで、今では奴は最低限の世話こそするがなんとも胸糞の悪い行為を繰り返すようになってしまった。
まず、奴は犬に対して妙な嫌がらせをするようになった。飯をやるふりをして、犬が喜び勇んでさあ口にするぞというトコロで取り上げて繰り返し笑う(最後にはちゃんと与えるが)などというのは可愛いもので、落とし穴を掘ってひっかけたり、目の前に上等な肉をぶら下げておいていつまでも走り回らせたり、頭に袋を被せて狼狽している様を嘲ったりと枚挙に暇がなかった。
それにも関わらず、犬は昔と変わらず奴を愛してやまず、ぴったりついてまわっていじらしい様にこちらの涙をも誘うような状態だった。
更に、奴は私を甘味処へ連れ出しては犬の悪口を熱心にまくし立てるようになった。やれあの犬は我に用意させた大飯を喰らってふくふくと肥えておいて幸せそうな顔をしている卑しい恥知らずの穀潰しだの、毎日湖の周りを全力で三週も四週もして尚尻尾振って構ってもらいたがるのでいい加減うんざりしているだの、太子様の命令でなければとっくに鍋にして喰ってしまっておるわ忌々しいだのと言ってのける。情というものを母の子宮に置いてきたのだろうと憐れにすら思った。しかも犬の愚痴を私に聞かせたその口で、他のトコロでは私の悪口を言っているのだから気分が悪い。
こんな惨いことを見過ごしているのが、まるで自らも加担しているように感じられだんだんと我慢ならなくなって、ついに私は元の飼い主か、あるいは引き取り手が居ないかと探して回ることにした。
はたしてそれは割と簡単に見つかり、その犬は元々紅魔館のもので、定期健診にと永遠亭へ連れて行くトコロで、嫌がって逃げ出してしまったのがきっかけだったのだという。奇しくも奴の予想は殆ど当たりだったわけだ。そこの門番が言うには主人はそれを大層残念がっていたとのことなので、うちで預かっていると知ればすぐに喜んで引き取ってくれるだろう。
私はことの旨を太子へ報告し、あの犬をこのまま奴のトコロに置いておくのはあんまり可哀想なので紅魔館へ返してやりませんかと打診した。太子は二つ返事で、では紅魔の主人を招く準備をしましょうと言って、すぐにその日は訪れた。
***
あわよくば奴が太子に口答えするトコロが見られるかと楽しみにしていたが、つまらない、しかもあまり気分の良くない結果に終わってしまったと思った。犬には悪いことをしたかもしれない。あんな気立ての良い、可愛がりたくなる犬もそうは居まい。畜生など好んではいないが、あの犬に限ってはどうにも特別視してしまう。
小さな後悔はあれど、一先ずはこの話も完結を迎えるだろう。紅魔の者たちと犬は再会して幸せに暮らし、私も奴の蛮行や愚痴を目の当たりにすることがなくなる。そう思って、いよいよ紅魔の主を招き、太子の元へ通したその日、満足げな表情の彼女が帰っていく後ろ姿に、しかしそれに付いていく犬の姿はなかった。
犬は紅魔へは返されなかったのだ。奴は引き続き犬(と私)へ傍若無人な振る舞いを繰り返した。奴はいつも楽しそうだ。ふざけていやがる。あの日は話だけをして、引き取るのは後日になったのかもしれないとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしく日付が変わっていくだけだった。当然、私は太子へどうなっているのかと事情を問い詰めた。私は困っているというのに、太子はいつも通りの「私は全てわかっていますとも」とでも言いたそうな顔で、ほっぺたをつねってやろうかと思った。
「よろしい、では、布都へ犬を返すことになったと伝えましょうか。二人だけで話すので、屠自古は来てはならないよ」
そしてしばらく、私は拗ね倒しながらも犬が開けた障子の穴の世話をしていた。犬は私の横で寝っ転がって、あらゆる害意を知らぬまま育ってきたかのようなすっとぼけた顔をしていた。この犬、奴がいない時は心無しかはしゃぎっぷりがいつもより落ち着いているように思う。あんなのに懐いてしまうとは本当に憐れだ。目が合って、犬が小さくわんと鳴いたトコロで、太子が、まあ、本当にいつも通りのことではあるが、それでもいつもより更に得意満面な顔をして部屋に入ってきた。流石に教えないと納得しないだろうから教えるけれど、と太子は前置きした。
「あの時、紅魔の主人は私と少し世間話をして、すぐにもう結構、帰らせていただくと言って笑って帰ってしまったんだ。それで、さっき言った通り、布都にあの犬を紅魔へ返すと伝えたんだけれど、布都はね、太子様、それだけは、それだけはお許しください、どうにか、どうにかなりませんかって、ふふふ、言ってたよ」
それはそれとして太子ふふふじゃないんだよふふふじゃ
特に終始屠自古の一人称で語られている文体で最後に太子様が面白可笑しそうに話す所と来たら!それならば当然”私は全てわかっていますとも”という顔しか浮かべられないに決まっています、最初から聞こえているのですから。最高。
奸佞邪智に立ち回りつつもやはり内に抜けきらない物を抱えている点もそうですし、表面上は犬に意地の悪い事をしながらもしっかりと愛着を持って飼っていますし(これは多分誰にも見ていない所では可愛がっているのだろうしそこもまた可愛い)、どうにも憎めなさが後から湧いてくる構成も上手いな、と思いました。これは屠自古の一人称で語られているが故に敵愾心第一で文章が成立しているのにも起因しているのかもしれません。
霊廟組の何かしらズレている所がカチ合って絶妙なストーリーでした。再度になりますが最高です。記憶消して読み返して100点をもう1回付けたいぐらい。
布都の歪み具合が最高でした。
愛情表現がもう歪みに歪んでるけど、素直になった時が可愛いなぁぁぁもう。
泣きつく布戸ちゃんに愛を感じました
もう少し屠自古や青蛾にも優しくしてやれよ、と思いました。面白かったです。
無限に悪態ついてる屠自子と常に涼しげな態度の神子様もよく描写されてて好きです
犬に対してする行為と屠自古に対する行為がほぼ変わらないということは、そういうことなんだなぁと気付いてニチャァってしてました。えぇ、えぇすべて分かっていますとも。
ふふふ、良かったです。ふふふ。