猟奇的な本能を抑えきれず、彼は今日、飼っていた猫を包丁で刺し殺した。すると胸の内に潜んでいた情動がすっと霧散し、心が平穏を取り戻した。しかしそれは束の間の安息でしかなく、身勝手で楽観的な衝動は、その後も突発的に訪れた。彼が理性を振り切ってそれを発散させると、その度に耐性がついてしまい、年月を経て、欲望はさらに醜く肥大した。
気が付くと彼は、自分のパートナーの首を絞めていた。はっとなり、手を緩めたので彼女は死を免れたが、ぐったりと倒れてしまった。あうあうと声を絞り出そうとしている様子が眼に焼き付いた彼は、住まいである都心部のマンションから飛び出して、人の気配を避けるように走った。
「殺してしまう、殺してしまう……!」
猟奇趣味に近い下卑た感情はあったが、罪の意識は別で存在していた。日に日にエスカレートしていく本能と、それを抑えきれない弱さを、彼はひどく恨み、心底嫌っていた。激しい自責の念は、年輪のように増していくばかりであり、かと言って鉞で自らの命を絶つ勇気はなかった。
「医者に行かなくては」
自分ひとりで抗い続けてきたが、もうどうしようもない。精神疾患だと認めたくはなかったが、意地を張り続けるのは限界だった。手足を縛られても構わない。薬で眠らされても良い。幽世でひっそりと、眼の前をゆらゆらと舞う蝶々を眺めて小さく感動するような、そんな平穏な生活を望むべきなのだと彼は信じこんだ。
精神病院に行かなければ、という思いは頭の片隅にあったが、それ以上に人の顔を見たくなかった。無我夢中で走っていたので、竹林の中に迷い込んだことに気づいたのは、辺りが暗くなってからだった。そもそも家の近くに竹林があるという記憶はなかったので不思議に思っていると、診療所と書かれた木製の矢印型の立て札を見かけた。永遠亭、聞いたことのない名称であったが、藁にもすがる思いで彼は、その立て札が示す方へと歩を進めた。
暗闇の竹林には、うおんうおんと獣の咆哮のような音が木霊していて、その度に耳を塞ぎたくなった。恐怖をかみ殺して歩数を蓄積させた分だけ、恐ろしさは胸の内側で膨らみ、それでも最後には目的地に辿り着くだろうという希望に縋って歩いた。疲労と寂しさがどっと押し寄せてきて、徐々に歩く速度は落ち、ついには意識が朦朧としてくる。診療所に着く前に行倒れてしまうかもしれない、そんな不安を抱えながら、ふかふかの地面を、もはや発条仕掛けの玩具のようなぎこちない動きで踏みしめる道中、ぽつんと灯りがついているあばら家を見つけた。彼はたまらなくなって、そのあばら家の戸を弱々しく叩いた。
「こんな夜分に珍し、くもないか。迷い人ね」
引き戸を開けて顔を見せた家の主は、藤原妹紅と言う古風な名前で、見てくれはみすぼらしいが整った顔立ちの白髪の少女だった。彼が医者に行こうとしていたことを、どういうわけか妹紅は悟ったようで、顎に手をやりながら値踏みするように足から頭まで視線を動かして、大きな外傷がないことを確認すると、上半身だけを捻り、指の先を家の中に向けて言った。
「ま、あがりなよ。もう暗いし、明日の朝でもいいだろう」
彼はぺこぺこと申し訳なさそうに頭を下げてから、妹紅の足元だけを見て、決して眼を合わせず、おずおずとあばら家に上がり込んだ。
質素な食事ではあったが味はなかなかで、そのことを彼が口に出すと「まあ火の扱いには長けているんだ」と妹紅は答えた。言われてみて、なんとなくご飯の炊き方が良いと彼は思ったが、そのなんとなくを表現する言葉までは思いつかなかった。その代わりに親切の理由を尋ねた。
「なぜ、見ず知らずの私にこんなに良くしてくれるんです」
しかも大人の男に対して、とは言わなかった。
「まあ、善行のつもり。人は良いことをしたがるもんだしね。それにさ、独り暮らしだから、人肌恋しくなることも度々あるんだよ」
煙草で焼けた喉から出たような、妙に蠱惑的な声でそう言うと妹紅は、つらつらと身の上話を始めた。紆余曲折あって竹林の案内をしていること、憎んでいる相手がいること、そいつの名前が輝夜ということ、輝夜がお姫様気取りの野蛮人であること。彼は茶碗から眼を離さず、妹紅の愚痴に近い話のほとんどを聞き流していた。語りの断片に現代の言葉との相違があるせいか、不思議とおとぎ話を聞かされている気分になったが、内容はまったく頭に入らず、疑問を抱くことすらなかった。
寝床を貸してもらったので、あまり関わりを持たないうちに眠りにつこうと、彼は煎餅布団の中で身体を丸めたが、どうにも落ち着かなかった。吐きたくなるのを堪えて、ますます意識が冴えた。それでも無理に眼を瞑ると聴覚は鋭敏になり、すうすうという妹紅の寝息が聞こえてきて、彼女が隣の部屋で眠ったらしいことがわかった。
彼は立ち上がり、部屋の襖の前で三十秒ばかりうろうろしてから、夜這いをかける決心をした。最初に顔を見てしまったのがいけなかった。年端も行かない少女なのに、滲ませる雰囲気は活力の衰えた世捨て人のようでもあった。生と死の狭間にいるようで、首を締めたらどんな表情になるのか、まったく想像がつかなくて、一瞬しか眼を合わせてないというのに、彼女の輪郭を思い出そうとする度に、彼は興奮した。
音を立てぬようしずしずと襖を開けると、妹紅は布団も敷かず、茣蓙の上で身体を丸めて眠っていた。彼は擦り足で忍び寄り、覆いかぶさるように、安らかな寝顔を覗き込んだ。彼女の無防備な姿が雄の狩猟本能をくすぐり、咆哮を上げたくなるのを理性の檻に閉じ込め、抱擁の優しさを思い描きながら掌を頚部に当てがった。彼女の喉元がわずかに脈動し、それに自らの呼吸を合わせる。そして一体になったと感じた瞬間、彼は妹紅の白い首を締め上げた。
五分はその体勢で居ただろうか、彼の両手は痺れていて、べとついた熱だけが残っていた。横たわる少女はすでに呼吸を止めている。彼はそれを永遠に眺めていたくなった。
ごろんと横になり、恋人になった気分で頬を小突く。今の彼は喧しくすり寄ってくる羽虫や、異臭を放つ生ごみさえも愛せるほどに満たされていた。サラサラの髪の毛を撫でると、彼はにんまりと雑草のように笑った。
「むう」
しかし、妹紅が寝返りを打ったので、彼は仰天して飛び起き、部屋の隅まで後ずさりした。
妹紅はくあと大きくあくびをして、首をコキコキ鳴らすと、彼のほうを見つめた。
「なんか首が痛いと思ったら、あんたはそっち系なのね。うん、理解した、理解した。私でよかったわね」
「な、あ、あ」
彼は声にすらなってない戸惑いを、途切れ途切れに吐き出しては、眼をそらさないように距離を置き、畳の上を這いながら部屋を抜け出した。
「化け物だ。確かに死んだはずなのに」
腰を抜かして立ち上がれなかったが、なんとか赤子のように廊下を伝った。巨大な剣山が背後から迫ってくるような恐怖を覚えたが、顔を上げることも振り返ることもできず、玄関がどちらにあるかわからなかったので、薄暗い廊下を闇雲に進むしかなかった。木目の廊下から土間に変わり、古びたかまどのある台所に辿り着くと、ようやく立ち上がることができた。奥に勝手口の扉があり、逃げ出すことができる。だがその先には恐ろしい夜の世界が広がっている。それを思い出すと彼は一瞬躊躇して、台所をきょろきょろと見回した。煤けたかまどと、その近くに転がっている薪、焦げ付いた鍋、角が欠けた木製の米櫃、竹製のざるに木桶、漬物石の乗った頑強そうな樽、四本ひとまとめで横向きに干してある大根、そして鈍く光る包丁。彼は無意識に包丁を手に取った。するとふつふつと勇気が湧いてきて、内側に火炎を秘めた氷のような冷静さで、己の感情を整理できた。
「恐れるな、見た目は少女だ。あの華奢な腕では大人の男には敵うまい。化け物には違いないが、ならばむしろ逃げずに立ち向かうべきだ。俺は、人間なのだから」
思いついた言葉をすべて口に出してみると、迷いや恐れが薄まった。そして己の矮小な殺戮衝動は今日のための道程で、武器を手にしたこの瞬間、その本質が聖戦士の抱く崇高なものに昇華したかのように思えて仕方がなかった。振り返ると、あれほど薄暗かった廊下が、ヒカリゴケで満ちたように錯覚した。
「ああ、戻ってきたか。うん、仕方ないよな」
部屋の中心で胡坐をかいていた妹紅は、殺意の切っ先をこちらに向けた彼に対し、にこりと自嘲気味に微笑んで、首を少し傾げた。
獣のような血走った眼付きで睨みながらにじり寄っていた彼は、妹紅のその仕草を合図と言わんばかりに畳を蹴った。押し倒そうと飛び掛かると、妹紅が全く抵抗せず仰向けになったので、彼はそのまま馬乗りの体勢になった。
「あー、肝は食うなよ。還れなくなる」
悪戯っぽく笑う妹紅の声は、彼の耳を素通りした。包丁の柄を逆手に握り直して、鈍く光る鋭利な先端で心臓を一突きにした。包丁を抜くと、鮮血が勢いよく溢れ出て、一瞬だけ拍動が止まったが、またすぐに脈を打った。
「熱いね。火遊びは、私も好きなんだ」
童が紅を唇に塗ったような、あどけなさの残る上ずった声で妹紅は言う。
それが聞こえたかは定かではないが、彼は一層熱を帯びた眼で心を睨みつけ、寸分違わず同じ位置へと、赤黒い善意の先端を振り下ろす。行為そのものに極度に集中していて、顔はわずかに口角がつり上がるばかりであったが、彼が役者なら間違いなく恍惚の表情でけたけたと笑っていただろう。血だまりの美を犯す感覚に酔いしれる。刺すたびに修復する屈強な筋を、飽きもせず突き続けた。
妹紅はしばし無言であったが、八回、心臓を突かれたところでため息を一つ漏らした。そして心底つまらなそうにつぶやいた。
「へたくそ」
永遠亭の一室にある男がいた。妹紅が担ぎ込んできた患者で、診察時にはすでに放心しており、魂魄を断ち切られたかのようだった。身元は不明、運んできた妹紅も詳しいことは知らなかった。自殺志願で偶々迷い込んできた外来人の可能性もあり、安楽死させてやろうかと永琳は考えたが、もしもこの男が里の人間で、身内が在ったとしたら面倒だとも思ったので、とりあえず身元が判明するまでは生命維持を行う方針となり、個室があてがわれた。
男の病室は南にあり、晴れた日はぽかぽかと暖かい。男は六十度ほど挙上された固いベッドの上に、人形のように行儀よく佇んでいた。栄養は鼻から胃までの管で賄われていたが、肉をこそぎ落とされたかのように痩せていた。心電図の波形は常に安定しており、呼吸も自分でしている。眼は基本瞑っていると思うと、いつの間にか開いていることもあり、周期性は特にない。
昼下がり、鈴仙がタオルを持って男の病室にやってきた。
「身体拭きに来ましたよっと」
話しかけても男は一切反応しない。耳元で大声で怒鳴っても、自身の排泄した糞尿に塗れても微動だにしないが、痛覚はあるようで腕を抓ったりすると眉間にしわを寄せる。関節は徐々に拘縮しつつあり、定期的に動かさなければ石のように固まってしまうだろう。
面倒だが、暴れない分ほかの患者より楽だと思いながら、鈴仙は身体を拭いてやった。あまりに動かないので、鈴仙は墓石やお地蔵さんを掃除しているような気持ちになった。
「なんか善いことしてる気分になるわ」
薬の行商も午前中に終わり、暇なのでゆっくり時間をかけて丁寧に拭いてやった。
すると唐突に男は、にんまりと雑草のように笑った。
「あ、また笑った」
たまに男は、こんなふうに笑みを浮かべる。それが唯一の変化だった。何らかの規則性がある気はしたが、それを調査する好奇心は鈴仙にはなく、また永琳も大して興味を持っていなかった。
鈴仙はしばし穏やかな日常感に浸っていた。陽光がまぶしく照り付けてきて、瞬きの後、ふと鍵のない窓に眼を向けると、外で火柱が立っていることに気づいた。
「今日という今日はぶっ殺してやる! この箱入り醜女!」
「残念でしたー生ける美女ですぅ! 無知、白痴、反魂丹の安本丹!」
壮絶な殺し合いの始まりだった。火事にならないよう祈るだけと、鈴仙が無視を決め込もうと思った矢先、彼女にとって絶対の師匠たる永琳の声が聞こえてきた。
「ちょっとウドンゲー、離れたとこまで誘導してくれないかしら」
ぼや騒ぎを鎮めるのはてゐの仕事で、診療所そのものを守るのが鈴仙の仕事だった。頼りにしてるわよ、なんて言われるものだから、毎回痛手を負っているにも関わらず、鈴仙は渋々引き受けていた。
「はい師匠ー!」
威勢よく返事をして、鈴仙は病室を飛び出した。病室にはもう誰の気配もない。
石鹸の残り香と、窓から差し込む暖かな光が、男を柔らかく包んでいた。
気が付くと彼は、自分のパートナーの首を絞めていた。はっとなり、手を緩めたので彼女は死を免れたが、ぐったりと倒れてしまった。あうあうと声を絞り出そうとしている様子が眼に焼き付いた彼は、住まいである都心部のマンションから飛び出して、人の気配を避けるように走った。
「殺してしまう、殺してしまう……!」
猟奇趣味に近い下卑た感情はあったが、罪の意識は別で存在していた。日に日にエスカレートしていく本能と、それを抑えきれない弱さを、彼はひどく恨み、心底嫌っていた。激しい自責の念は、年輪のように増していくばかりであり、かと言って鉞で自らの命を絶つ勇気はなかった。
「医者に行かなくては」
自分ひとりで抗い続けてきたが、もうどうしようもない。精神疾患だと認めたくはなかったが、意地を張り続けるのは限界だった。手足を縛られても構わない。薬で眠らされても良い。幽世でひっそりと、眼の前をゆらゆらと舞う蝶々を眺めて小さく感動するような、そんな平穏な生活を望むべきなのだと彼は信じこんだ。
精神病院に行かなければ、という思いは頭の片隅にあったが、それ以上に人の顔を見たくなかった。無我夢中で走っていたので、竹林の中に迷い込んだことに気づいたのは、辺りが暗くなってからだった。そもそも家の近くに竹林があるという記憶はなかったので不思議に思っていると、診療所と書かれた木製の矢印型の立て札を見かけた。永遠亭、聞いたことのない名称であったが、藁にもすがる思いで彼は、その立て札が示す方へと歩を進めた。
暗闇の竹林には、うおんうおんと獣の咆哮のような音が木霊していて、その度に耳を塞ぎたくなった。恐怖をかみ殺して歩数を蓄積させた分だけ、恐ろしさは胸の内側で膨らみ、それでも最後には目的地に辿り着くだろうという希望に縋って歩いた。疲労と寂しさがどっと押し寄せてきて、徐々に歩く速度は落ち、ついには意識が朦朧としてくる。診療所に着く前に行倒れてしまうかもしれない、そんな不安を抱えながら、ふかふかの地面を、もはや発条仕掛けの玩具のようなぎこちない動きで踏みしめる道中、ぽつんと灯りがついているあばら家を見つけた。彼はたまらなくなって、そのあばら家の戸を弱々しく叩いた。
「こんな夜分に珍し、くもないか。迷い人ね」
引き戸を開けて顔を見せた家の主は、藤原妹紅と言う古風な名前で、見てくれはみすぼらしいが整った顔立ちの白髪の少女だった。彼が医者に行こうとしていたことを、どういうわけか妹紅は悟ったようで、顎に手をやりながら値踏みするように足から頭まで視線を動かして、大きな外傷がないことを確認すると、上半身だけを捻り、指の先を家の中に向けて言った。
「ま、あがりなよ。もう暗いし、明日の朝でもいいだろう」
彼はぺこぺこと申し訳なさそうに頭を下げてから、妹紅の足元だけを見て、決して眼を合わせず、おずおずとあばら家に上がり込んだ。
質素な食事ではあったが味はなかなかで、そのことを彼が口に出すと「まあ火の扱いには長けているんだ」と妹紅は答えた。言われてみて、なんとなくご飯の炊き方が良いと彼は思ったが、そのなんとなくを表現する言葉までは思いつかなかった。その代わりに親切の理由を尋ねた。
「なぜ、見ず知らずの私にこんなに良くしてくれるんです」
しかも大人の男に対して、とは言わなかった。
「まあ、善行のつもり。人は良いことをしたがるもんだしね。それにさ、独り暮らしだから、人肌恋しくなることも度々あるんだよ」
煙草で焼けた喉から出たような、妙に蠱惑的な声でそう言うと妹紅は、つらつらと身の上話を始めた。紆余曲折あって竹林の案内をしていること、憎んでいる相手がいること、そいつの名前が輝夜ということ、輝夜がお姫様気取りの野蛮人であること。彼は茶碗から眼を離さず、妹紅の愚痴に近い話のほとんどを聞き流していた。語りの断片に現代の言葉との相違があるせいか、不思議とおとぎ話を聞かされている気分になったが、内容はまったく頭に入らず、疑問を抱くことすらなかった。
寝床を貸してもらったので、あまり関わりを持たないうちに眠りにつこうと、彼は煎餅布団の中で身体を丸めたが、どうにも落ち着かなかった。吐きたくなるのを堪えて、ますます意識が冴えた。それでも無理に眼を瞑ると聴覚は鋭敏になり、すうすうという妹紅の寝息が聞こえてきて、彼女が隣の部屋で眠ったらしいことがわかった。
彼は立ち上がり、部屋の襖の前で三十秒ばかりうろうろしてから、夜這いをかける決心をした。最初に顔を見てしまったのがいけなかった。年端も行かない少女なのに、滲ませる雰囲気は活力の衰えた世捨て人のようでもあった。生と死の狭間にいるようで、首を締めたらどんな表情になるのか、まったく想像がつかなくて、一瞬しか眼を合わせてないというのに、彼女の輪郭を思い出そうとする度に、彼は興奮した。
音を立てぬようしずしずと襖を開けると、妹紅は布団も敷かず、茣蓙の上で身体を丸めて眠っていた。彼は擦り足で忍び寄り、覆いかぶさるように、安らかな寝顔を覗き込んだ。彼女の無防備な姿が雄の狩猟本能をくすぐり、咆哮を上げたくなるのを理性の檻に閉じ込め、抱擁の優しさを思い描きながら掌を頚部に当てがった。彼女の喉元がわずかに脈動し、それに自らの呼吸を合わせる。そして一体になったと感じた瞬間、彼は妹紅の白い首を締め上げた。
五分はその体勢で居ただろうか、彼の両手は痺れていて、べとついた熱だけが残っていた。横たわる少女はすでに呼吸を止めている。彼はそれを永遠に眺めていたくなった。
ごろんと横になり、恋人になった気分で頬を小突く。今の彼は喧しくすり寄ってくる羽虫や、異臭を放つ生ごみさえも愛せるほどに満たされていた。サラサラの髪の毛を撫でると、彼はにんまりと雑草のように笑った。
「むう」
しかし、妹紅が寝返りを打ったので、彼は仰天して飛び起き、部屋の隅まで後ずさりした。
妹紅はくあと大きくあくびをして、首をコキコキ鳴らすと、彼のほうを見つめた。
「なんか首が痛いと思ったら、あんたはそっち系なのね。うん、理解した、理解した。私でよかったわね」
「な、あ、あ」
彼は声にすらなってない戸惑いを、途切れ途切れに吐き出しては、眼をそらさないように距離を置き、畳の上を這いながら部屋を抜け出した。
「化け物だ。確かに死んだはずなのに」
腰を抜かして立ち上がれなかったが、なんとか赤子のように廊下を伝った。巨大な剣山が背後から迫ってくるような恐怖を覚えたが、顔を上げることも振り返ることもできず、玄関がどちらにあるかわからなかったので、薄暗い廊下を闇雲に進むしかなかった。木目の廊下から土間に変わり、古びたかまどのある台所に辿り着くと、ようやく立ち上がることができた。奥に勝手口の扉があり、逃げ出すことができる。だがその先には恐ろしい夜の世界が広がっている。それを思い出すと彼は一瞬躊躇して、台所をきょろきょろと見回した。煤けたかまどと、その近くに転がっている薪、焦げ付いた鍋、角が欠けた木製の米櫃、竹製のざるに木桶、漬物石の乗った頑強そうな樽、四本ひとまとめで横向きに干してある大根、そして鈍く光る包丁。彼は無意識に包丁を手に取った。するとふつふつと勇気が湧いてきて、内側に火炎を秘めた氷のような冷静さで、己の感情を整理できた。
「恐れるな、見た目は少女だ。あの華奢な腕では大人の男には敵うまい。化け物には違いないが、ならばむしろ逃げずに立ち向かうべきだ。俺は、人間なのだから」
思いついた言葉をすべて口に出してみると、迷いや恐れが薄まった。そして己の矮小な殺戮衝動は今日のための道程で、武器を手にしたこの瞬間、その本質が聖戦士の抱く崇高なものに昇華したかのように思えて仕方がなかった。振り返ると、あれほど薄暗かった廊下が、ヒカリゴケで満ちたように錯覚した。
「ああ、戻ってきたか。うん、仕方ないよな」
部屋の中心で胡坐をかいていた妹紅は、殺意の切っ先をこちらに向けた彼に対し、にこりと自嘲気味に微笑んで、首を少し傾げた。
獣のような血走った眼付きで睨みながらにじり寄っていた彼は、妹紅のその仕草を合図と言わんばかりに畳を蹴った。押し倒そうと飛び掛かると、妹紅が全く抵抗せず仰向けになったので、彼はそのまま馬乗りの体勢になった。
「あー、肝は食うなよ。還れなくなる」
悪戯っぽく笑う妹紅の声は、彼の耳を素通りした。包丁の柄を逆手に握り直して、鈍く光る鋭利な先端で心臓を一突きにした。包丁を抜くと、鮮血が勢いよく溢れ出て、一瞬だけ拍動が止まったが、またすぐに脈を打った。
「熱いね。火遊びは、私も好きなんだ」
童が紅を唇に塗ったような、あどけなさの残る上ずった声で妹紅は言う。
それが聞こえたかは定かではないが、彼は一層熱を帯びた眼で心を睨みつけ、寸分違わず同じ位置へと、赤黒い善意の先端を振り下ろす。行為そのものに極度に集中していて、顔はわずかに口角がつり上がるばかりであったが、彼が役者なら間違いなく恍惚の表情でけたけたと笑っていただろう。血だまりの美を犯す感覚に酔いしれる。刺すたびに修復する屈強な筋を、飽きもせず突き続けた。
妹紅はしばし無言であったが、八回、心臓を突かれたところでため息を一つ漏らした。そして心底つまらなそうにつぶやいた。
「へたくそ」
永遠亭の一室にある男がいた。妹紅が担ぎ込んできた患者で、診察時にはすでに放心しており、魂魄を断ち切られたかのようだった。身元は不明、運んできた妹紅も詳しいことは知らなかった。自殺志願で偶々迷い込んできた外来人の可能性もあり、安楽死させてやろうかと永琳は考えたが、もしもこの男が里の人間で、身内が在ったとしたら面倒だとも思ったので、とりあえず身元が判明するまでは生命維持を行う方針となり、個室があてがわれた。
男の病室は南にあり、晴れた日はぽかぽかと暖かい。男は六十度ほど挙上された固いベッドの上に、人形のように行儀よく佇んでいた。栄養は鼻から胃までの管で賄われていたが、肉をこそぎ落とされたかのように痩せていた。心電図の波形は常に安定しており、呼吸も自分でしている。眼は基本瞑っていると思うと、いつの間にか開いていることもあり、周期性は特にない。
昼下がり、鈴仙がタオルを持って男の病室にやってきた。
「身体拭きに来ましたよっと」
話しかけても男は一切反応しない。耳元で大声で怒鳴っても、自身の排泄した糞尿に塗れても微動だにしないが、痛覚はあるようで腕を抓ったりすると眉間にしわを寄せる。関節は徐々に拘縮しつつあり、定期的に動かさなければ石のように固まってしまうだろう。
面倒だが、暴れない分ほかの患者より楽だと思いながら、鈴仙は身体を拭いてやった。あまりに動かないので、鈴仙は墓石やお地蔵さんを掃除しているような気持ちになった。
「なんか善いことしてる気分になるわ」
薬の行商も午前中に終わり、暇なのでゆっくり時間をかけて丁寧に拭いてやった。
すると唐突に男は、にんまりと雑草のように笑った。
「あ、また笑った」
たまに男は、こんなふうに笑みを浮かべる。それが唯一の変化だった。何らかの規則性がある気はしたが、それを調査する好奇心は鈴仙にはなく、また永琳も大して興味を持っていなかった。
鈴仙はしばし穏やかな日常感に浸っていた。陽光がまぶしく照り付けてきて、瞬きの後、ふと鍵のない窓に眼を向けると、外で火柱が立っていることに気づいた。
「今日という今日はぶっ殺してやる! この箱入り醜女!」
「残念でしたー生ける美女ですぅ! 無知、白痴、反魂丹の安本丹!」
壮絶な殺し合いの始まりだった。火事にならないよう祈るだけと、鈴仙が無視を決め込もうと思った矢先、彼女にとって絶対の師匠たる永琳の声が聞こえてきた。
「ちょっとウドンゲー、離れたとこまで誘導してくれないかしら」
ぼや騒ぎを鎮めるのはてゐの仕事で、診療所そのものを守るのが鈴仙の仕事だった。頼りにしてるわよ、なんて言われるものだから、毎回痛手を負っているにも関わらず、鈴仙は渋々引き受けていた。
「はい師匠ー!」
威勢よく返事をして、鈴仙は病室を飛び出した。病室にはもう誰の気配もない。
石鹸の残り香と、窓から差し込む暖かな光が、男を柔らかく包んでいた。
人間の底を見せられたような作品でした。面白かったです。
皮肉にも自分が望んでいた状態になってしまうのは、救われたのか何というか…。
人間の抑え切れない欲望の表現が凄かったです。
蓬莱人の冷め具合もまた良かったなぁと思いました。
狂気、いいですね。
さすがに相手が悪かった