昨日まで続いた梅雨空が嘘みたく、綺麗さっぱりとした空が広がっていた。土曜日の半ドンを終え、寺子屋の戸締まりを終えた慧音が振り返ると、向かいの葉桜の緑が鮮烈に目に飛び込んできたので、思わず何度か瞬きしてしまった。昨日までは、雨模様にしょげ返るような冴えない色だったのに。
たったいま、季節が変わった。新しい世界が始まった。
「あら先生、ご苦労様です」
「おや、どうも」
すれ違う人から会釈を向けられ、返す。
ちょうど新月の日だ。だから慧音の心は穏やかだった。
昼下がりの里は、人間たちでごった返していた。蕎麦屋の順番を待つ家族連れ。反物の購入を終えた奥方。パラソルの陰で冷珈琲を傾ける少女たち。皆、久しぶりの晴れ間を存分に楽しんでいた。
賑やかな人々を横目に観ながら、慧音の脚は迷い無く進んでいく。
里の大通りからわずかに逸れた歓楽街の入り口に、目指すシネマ館はあった。昼の街と夜の街のちょうど真ん中で、どちらにも属することなくひっそりと建っていた。モダンな作りの小劇場は、その外面がどうしてだか昏い緑色に染められていて、それがまた不思議と背景に溶け込んでしまう。
人間の里は元より奇妙な所だ。なにせ山の中の集落に過ぎなかったところに、明治の帝都を無理矢理はめ込んでから、百年以上も隔離環境で培養されてきた都市である。だから、安土桃山から守られてきた平屋の隣に、見よう見まねで固めた昭和の鉄筋コンクリートビルが建っていたりする。法も規制も無く、ただ好きに生きる人間と好きに建てられた箱があるだけの里だ。
そんな世界だから、奇天烈な緑色のシネマ館も、誰に迷惑をかけるでもなくそこに悠然と在った。
「ひとり」
「あいよ」
番台に座る老人から切符を受け取ると、自動販売機でコーラを買った。ごとんと落っこちてきた瓶を、備え付けの栓抜きへ慎重に差し入れる。上手いことゆっくりやると、蓋を曲げずに外せるのだ。
「……よし」
果たして蓋はコインみたく真っ直ぐなままにかぱりと剥がれ、慧音の口の端は自然と緩んだ。
緞帳を押して劇場へ入る。黒板四枚分ほどのスクリーンでは、ずんぐりむっくりとした怪獣同士が熱戦を繰り広げていた。四つ足のやつと二本足のやつだ。武道家と土佐犬が組み合っているみたいだった。怪獣の名前は知らない。どうせこの映画が目当てで来たのではない。
辛うじて列と表せる程度に散らばった、大小様々な椅子をざっと見渡す。そのほとんどは客で埋まっていた。最前列で食い入るようにスクリーンを見ている子供たち。他にやることも無さそうな老人。映画などそっちのけで、ひそひそと言葉を交わしあう男女。いつもと変わらない、人里の映画館の光景だ。寺子屋の生徒の顔もちらほらと見受けられる。
コーラをちびりと飲み、振り返ると。
藤原妹紅はいつもの場所にいた。最後部の端っこ、いっとう大きなロッキングチェアに浅く腰掛けて、不敵に脚を組んでいた。あまりにもふんぞり返っているせいで、膝が頭より高い位置にある。普通に座った方が楽だろうに、と慧音はいつも思うのだけど。
彼女の周囲はいつだって空席だった。あんな態度ではそれも当然だ。
隣の席に腰掛けると、妹紅はもぞりと身体を揺すった。挨拶のつもりなのか、もしくは叱られると思って姿勢を僅かばかり正したのかもしれない。
ロッキングチェアの隣にある椅子は、とにかく直線と直角でできていた。およそ人間が座ることを考えられていないくらいに四角張っていた。そのくせ、座面も背もたれもやたらと柔らかい。理由なんて自分でも分からないけれど、この席が慧音は好きだった。
スクリーンでは正義の怪獣が、白い熱戦を吐いてついに悪を打ち倒し、物語の大団円を迎えていた。
そのままスタッフロールが流れ初めて、気の早い者は席を立ち始める。ベーゴマしに行こうぜ、と走り出していく少年たちがいた。けれど大半の者は動かない。このまま次の映画も観ていくつもりなのだろう。
妹紅が身体を起こし、慧音の耳元へ顔を寄せた。
「この前さ、菫子をここに連れてきたんだけど」
「え、なんで?」
「里を案内しろっていうからさ。そんなこと言われても、竹林ならともかく、人里で私が案内できるところなんてたかが知れてるだろ」
外の世界からやってきた女子高生は、どうしてだか妹紅によく懐いていた。そして妹紅の方も変に情に厚いところがあるから、自分に対して悪意でない感情を向けてくる相手には途端に甘くなる。だから頼まれごとは断れないのだろう。
いやいや。慧音は甘い液体を口に含み、ゆっくりと舌の上で転がす。何も悪いことじゃあない。むしろ良い兆候じゃないか。妹紅が、あの人間嫌いが、友人と連れだって里を歩き回っているんだから。
「外の世界の映画館って、映画を一本観たらそれで終わりなんだって。次のを観たかったら、一旦外に出て、またチケットを買わなきゃならない」
「それはまた随分と面倒な」
「本当だよなぁ。まぁその代わり、ここよりずっと綺麗でサービスも良いらしいけど。あぁ、それとさぁ、これは思わず笑っちゃったんだけど」
抑えた声に、妹紅の含み笑いが混じる。
「そのときやってたのも、さっきの怪獣映画シリーズの別のやつでさ、菫子のやつ、それ観てなんて言ったと思う? 『人間が入ってるのがモロバレでちゃっちい』ってさ」
終、の文字が大写しになり、照明が灯った。また何人かが連れだって退出していった。
けれどふたりは動かなかった。土曜日の午後を、この場所でゆっくり過ごすのがここ最近の定番なのである。
「舞台の上で怪物を演じるのはいつだって人間だ。フイルムの中だってそれは同じだろうに」
「でもねぇ妹紅。外の世界じゃあ本物みたいに精巧な絵をコンピューターが描いて、それをさらに動かすそうよ。あの子はそういう映画に慣れ切っちゃってるんじゃないかな」
「本物の怪異を否定するくせに、芝居の怪物は本物っぽさを追求してるのか。やっぱりあっちのやり方は意味が分からないよ」
「自分に被害の及ばない怪異を眺めて楽しみたい。人間はそう願う生き物だからね。あ、そうだ。はいこれ、今日の」
「お、ありがと」
コーラの王冠を渡すと、妹紅はそれをそそくさと小袋にしまい込んだ。それなりの値で買い取ってくれる数奇者が里にいるのだ。
「次のは?」
「えぇと、よく知らないけどヨーロッパの映画。恋愛もの」
「へぇ」
ポップコーン山盛りの丼を、妹紅は慧音の膝に乗せて寄越し、引き返す手で中身をひと掴み奪っていった。食べたければどうぞ、ということらしい。
緞帳を開けて入ってくる客は、若い男女が多かった。反対に、先ほどまで目を輝かせていた子供たちはもう誰も残っていない。電球だけで照らされた小さな世界の、住人たちはすっかり入れ替わってしまった。起きているんだか寝ているんだか分からない老人だけが、彫像のように不動だった。
わしわしとポップコーンを頬張った妹紅が、汚れた掌をぱんぱんと打ち払うと、それを合図にしたかのように上映開始のブザーが鳴った。
画面の中では、深窓の令嬢を演じる何とかという女優が、特ダネを狙って近づいてきた新聞記者の男と淡いロマンスを繰り広げていた。それは甘いおとぎ話で、怪獣と同じくらいふたりにとっては縁遠いものだった。
ふたりは街へ抜け出して、束の間の逃避行を楽しむ。
劇場というのはひとつの小宇宙だ。映画もそっちのけに、慧音はそんなことを考えていた。スクリーンに映し出される映像は、自分の目の代わりに様々な世界を見せてくれる。それは誰かの人生だったり、誰かの夢だったりする。誰もが等しく願うものだったり、誰の手も届かないものだったりする。普段なら見落としてしまう小さな想いが、暗闇の中でスクリーンの光から見せられると、やけに鮮烈に心へ焼き付くのだ。
ふたりは小さなバーで、グラスを静かに鳴らす。
だからここは時の流れを遅くする。日常世界とは時間の法則が違う。少し埃臭い閉鎖空間は、一種のタイムマシンとして機能する。この映画は何年前に作られたものだろう。この先どれだけ上映が続くのだろう。慧音と妹紅がこうして並んで、またこの映画を鑑賞することはあるだろうか。強ばった身体を伸ばしながら帰路に就くまでに、外の世界ではもしかしたら、気の遠くなるほどの時間が流れているのかもしれない。
ふたりは暗がりの中で、短く唇を重ね合う。
映写機から放たれる光が、うねうねと揺れているのがよく見えた。それがスクリーンに届いて、さらにそこから観客の瞳にまで反射してようやく、物語がひとつ伝えられる。誰もが息を潜めてそれを待っていた。椅子の上でその光を待ち望んでいた。声を出すことなく、まばたきすらもあるいは忘れたまま。別世界の決して届かない光景を、ほんの少しも見逃すまいと。
ただ一日だけの恋が終わり、去り行く男の背中とともに、もの悲しげなモノローグが流れる。
流麗な「FIN」の文字が消えても、今度は立ち上がる者は少なかった。大抵の客は、鑑賞後の余韻を連れ合いと分かち合っている。
慧音は残り僅かな瓶の中身を干した。
「たまにさ、考えちゃうんだ」
妹紅はもぞりと身体を揺すって、言った。
「ここは一日に四、五本の上映があるだろう。月曜定休だから週に三十本、月に百二十本だ。リバイバルの分を差し引くと七、八十って数の映画をやってる」
「まぁ、そんなものかな。どうやってフィルムを仕入れているのかは知らないけど」
「幻想郷の外じゃあ、世界中で映画を作ってるんだろう。月あたりにできあがる本数が、仮にここでやる新作と同じ数だとして、それじゃあ、仮にさ、私がここにずうっと籠もり続けるとしたら――」
また開演のブザーが鳴る。ふたりの時間が、その音の長さだけ停まる。
「――この世にあるすべての映画を、私は観ることができるかな?」
それは。
慧音は息を呑んだ。そして空想してしまった。
黒板四枚分のスクリーン。その正面に鎮座するロッキングチェア。
もう誰も映画を作らなくなった世界で、ひとり映写機を回し続ける、彼女の姿を。
他の椅子はすべて朽ち果てている。緞帳で囲われた劇場の中、妹紅はやっぱり頭よりも高く膝を組んで、ただじっとスクリーンを眺めている。タイトルが現れて、やがて終幕が訪れる。入れ替わる観客はもういない。ブザーとともに電球は消えて、再び次のタイトルが現れる。映写機は回り続ける。スクリーンには世界が映され続ける。決して届かない世界。二度と戻れない世界。それを彼女は、ただただ眺め続ける。そして、それすらも永遠ではなく。
その小宇宙の外側は。
それは。
「愉快だろうな、さぞかし」
妹紅は声を出さずにきししと笑った。
その様子が、慧音にとってはいっそ恐ろしかった。
「そう、なのかな」
「だって、私以外の誰にも、やり遂げられやしない偉業じゃないか。まぁ、讃えるやつも誰ひとり残っちゃいないだろうけど」
「そういう冗談は、嫌いだって言わなかったっけ」
「……えーっと」
ポップコーンの丼に伸ばしかけた手を、妹紅はばつが悪そうに引っ込めた。
「悪かったよ」
遙か未来の、遠い星系の物語のタイトルが大きく映し出される。
どんな魔法でも辿り着けないくらいの、時間と距離の向こう側の話。
慧音は歴史喰いであり、同時に歴史編みでもある。けれどそれはどこまでいっても現在のための力だ。未来を視ることなど叶わない力だ。ひとは積み重なった歴史の上で今この時を生きる。慧音の力はそれを助けることに特化している。縁の下の力持ち、と言えば聞こえは良いけれど。
未来のことに対しては、だから慧音は、普通の人間と同じことしかできない。
ひとりで映写機を回す妹紅の、ロッキングチェアの隣には、きっともう椅子は無い。
その事実に、成す術なんてありはしない。
不意に、妹紅が立ち上がった。器用に、ポケットに手を突っ込んだまま、身体の反動だけで。
「……帰ろっか」
「えっ、早くない?」
「お腹が空いたよ。何か作って食べよ」
スクリーンを背にして、妹紅はわざとらしく微笑んでいた。昔から、こういうときに笑顔を作ることだけは上手いひとだった。
人間嫌いを公言してはばからない彼女だけれど、結局のところそれは本質ではないのだと、慧音は思う。不老不死の生を歩む内に醸成された性質では確かにあるのかもしれない。けれど、本当に心の底から人間を嫌う者が、誰かに慕われるはずもないだろうから。
「それじゃあ、買い物していかないとなぁ。何にする?」
「魚が安かったよ。海から結構な仕入れがあったらしい」
「いいね。塩焼きにして旨いやつがいいな」
緞帳から外に出て、空の瓶を籠に戻す。
番台の老人に会釈をして、緑色のシネマ館から一歩踏み出す。
すると、あっという間に今に戻ってきた。昼と言うには遅く、けれどまだ夕暮れには早い時刻。妖怪の山の方で入道雲が湧き上がっているのが見える。始まったばかりの夏が、青い空を突き抜けてきて、もわりとふたりを包んだ。
「あ、大切なことを忘れてた!」
妹紅が大仰に慌てるので、思わずたじろぐ。
「今日、酒屋が安売りしてる。大吟醸も二割引き!」
「……叫ぶほどのこと?」
「何言ってるのさ! これ以上に大切なことが地球上にあるか?」
心底そう思っている、みたいな目で力説するものだから笑ってしまった。なるほど、確かにそうかもしれない。少なくとも、何万年も未来の話よりは大切だろう。彼女の隣の椅子に座っていられる限りは。
里の大通りへ戻る道に、今年初めての蝉が鳴いていた。
虫も人も妖も、太陽は別無く照らしていた。
まるで夏の日差しの様にからっとした笑顔で終末を語る妹紅に心を惹かれました。
それでも、映画館のゆっくりとした時の流れ、蓬莱人の気の遠くなる程長い時の流れと来て最後に慧音と同じ時の流れへと文章が遷移していく感じはきっともこけね。好き。
妹紅と慧音のふたりが銀幕のふたりと表現の重なるところも好きです。
で、子作りシーンは?
物語としては暑い夏のはずなのに、涼しさ、爽やかさを感じさせるお話でした。
全ての映画を見る。どこか子供っぽくも悲観的な妹紅も印象的でした。面白かったです。
昭和感が漂うのんびりした1日を過ごしている情景、心象といった表現が素晴らしかったです。
この独特の幻想郷感が癖になります
夏が始まりましたね
とても爽やかで、そしてワクワクする言葉だと思います。ご馳走様でした。面白かったです。