「しかし悪いね、こんな夜更けに手伝ってもらって」
「いえいえ大丈夫ですよ。私、こういうの好きですから」
「長生きしないよ、そんなことを言う人間は」
……まあ、頼んでる私が言うのもなんだけどね。
封獣ぬえは、呆れた笑いを隠しもせずにそう思う。
夜。日は落ち、人は眠り、畜生すらも寝静まった夜更けの時間。
二人の少女は、里の路地を歩いていた。
夜風を背後に流し、提灯を手に。遠く聴こえる虫の声と、儚く鳴る風鈴の音だけが耳に届く。
手元の灯りは道を照らし、しかし入り組んだ路地を見通してはくれない。狭いようで、それでいて複雑な構造を持つのが人間の里だ。
隣の人間に合わせて地上を歩く今、ぬえにも路地の全容は把握できなかった。
「……ねえ怖がりな人間。本当に来ちゃってよかったの?」
「私の名前は小鈴ですってば。どうして皆、初めから名前で呼んでくれないのかなあ」
人間の少女、小鈴は一度頭を振ると、
「ぬえさんはマミゾウさんの友達? ってことだし……信用してますよ?」
と、そう言った。
話を持ち掛けたのは、ぬえからだった。
鈴奈庵に立ち寄ったぬえは、小鈴へ単刀直入に尋ねたのだ。
今夜怪異を探しに、私と人里へ調査に出てくれないか、と。
「ぬえさんも行動が急というか、考えたら即実行ってタイプというか、霊夢さんみたいなタイプですよね」
「私があの小娘と一緒かー」
呻くが、否定はできなかった。
「マミゾウさんがたまたま店に来てなかったら、流石の私も首を縦に振りませんでしたよ。あ、もしかして初めからグルだったり?」
「いやいや、今日は話を持ち掛けるだけのつもりだったよ。マミゾウが居たのは本当に、偶々よ」
半分は、嘘だった。話を持ち掛けるだけだったのは真実だが、小鈴の同意が得られない場合は一人で人里に繰り出すつもりだったのだから。
「私、人気なんですねえ。わざわざお誘いが来るなんて」
「ああ評判よ。驚かせがいのある、可愛い人間だって」
ぎょっとした視線を向けてくるが、自覚が無いのだろうか。
「ま、小鈴が協力してくれて助かるよ。私が探している化け物は、人間にしか見ることができないからな」
これもまた、半分が嘘だった。前半が本当で、後半が嘘だ。
「ええと、正体不明の怪物……でしたっけ。ぬえさんの能力が、一人歩きしてしまったんですよね」
「うん、そう。人間にしか効果が無い能力でね。見つけるには人間の協力が不可欠って訳」
「霊夢さんや魔理沙さんに協力してもらうっていうのは――」
「小鈴の方が、怖がってくれると思ってね」
「……さいですか」
……それにまあ、霊夢や魔理沙が聖に告げ口したら、心配かけるかもしれないしー。
問題は昨晩に起こった。ぬえの持つ能力が暴走したのだ。
正体をわからなくする能力。その本質は、正体不明の種を何かに植え付け、その何かを何であるかをわからなくするものだ。
そして視認した者の、「こうであろう」という意識の通りにその姿を偽る。正体不明が正体不明である所以の能力だ。
しかし、
……まさか、正体不明の種が独立して動き出すなんてねえ。
自分の能力を制御できないなど大妖怪の恥であるが、起こってしまったものは仕方がない。あっけに取られて逃がしてしまったことも水に流すのが正解だ。
幸いにして、討伐するのは容易だ。ぬえ以外の存在からは正体不明の何かに見えても、ぬえ自身にはそれが自分の能力であるとわかるのだから。
能力の制御が効いていない今では、あるいは正体を正しく見定めることができないかもしれないが、
……私、怖いものなんてないしねえ。大丈夫大丈夫。
「よーし、私頑張りますよ。でもぬえさんの目的は、ついでに私を怯えさせることなんですよね、力を得る為に」
「そうそう。よくわかってるわね」
小鈴を連れてきたのは、失敗してもただで転ぶのが癪だったと、そういうことだった。
人里で調査を行うにあたって、以前よりマミゾウから聴いていた小鈴のことが思い浮かんだのだ。
あとは流れだった。駄目元で鈴奈庵に行ってみれば、そこにはマミゾウも居て、とんとん拍子で話が進んだのだった。
……いやほんと、私が言える立場じゃないけど、大丈夫なのかなあこの子。
「……どうしました、ぬえさん」
「いいやなんでも」
やる気十分といった表情とは裏腹に、吐いた声に震えが混ざっているのを、ぬえは見逃さなかった。
「好奇心は猫を殺すっていうけど、本当なのね」
「まあほら、状況が状況ですから。ぬえさんが私を守ってくれると信じてるだけですよ」
「大妖怪として信用されてると思うことにするわ」
もっとも、小鈴の言うことは的を射ていた。こんな人里の真中で失踪や殺人が起きたとすれば、隠蔽することは不可能だ。マミゾウもこのことを知っている以上、ぬえは責任を持って小鈴を守らなければならなかった。
まるで保護者みたいね、とぬえは思う。万が一のことがあったらと思考を走らせれば、悲痛な表情の聖が想起されるのが腹立たしい。
「それに私、妖怪のことは敵ですけど、それでも仲良くしたいと思ってますから」
「何それ」
「ぬえさんは違うんですか? 人間のことは食料とか、利用する相手とか思ってるけど、それでも仲良くしたいと思ってくれてるんじゃないですか?」
「……都合のいい解釈ね。ま、どう思われててもいいけどね」
相手の想像を利用することこそが鵺の本懐だ。他人の想像に訂正を入れてしまっては、焼きが回ったと言われても仕方あるまい。
もっとも、小鈴の言ったことは、ぬえにとって得心しがたいものであったが。
この私が? 人間と?
「ぬえさん、難しい顔してる」
「あんたが変なこと言うからでしょうが」
言って切り捨てる。
自分らしくもない思考をした、とぬえは嘆息を一つ吐く。
「ほらそれより、目的のものを探す探す」
「ああ、そうですね。ほらー早くー、早くでてこーい」
「……本当に大丈夫かなあ」
呻いて言うが、当然誰からも返事は無い。
狭い路地を、小鈴を先頭にして歩みを進める。
飴色の髪は提灯の光に照らされて、淡い橙の輝きを持っていた。
夕方、鈴奈庵の前で――陽の光の下で、小鈴が朗らかな笑顔を浮かべていたことを覚えている。そんな彼女も、今は緊張と恐怖と好奇心が綯い交ぜになった表情になっていた。
ざっ、ざっ、ざっ。
舗装のされていない、土の道を声もなく歩く。
リーン、リーン、リーン。
虫の声が鼓膜を震わせる。地底に居たときには聴けなかった音だ。ぬえにとっては心地良い音色だが、小鈴にとってはどうだろう。
「大丈夫? 突然恐怖で気絶なんてされたら困るよ」
「だ、大丈夫ですよ。ちょっとだけ、どきどきしてますけど」
「ふーん」
小鈴から感じる恐怖心は、今もぬえに活力を与えている。お腹が膨れて助かることこの上ないが、負の感情以外は感知できないのがどうしようもない。
……まあ、楽しくないなら家に帰ってるか。
そんなに怪異と出会うことが楽しいのかどうなのか。まさか、自分のような大妖怪と一緒に居るだけで嬉しいと思っているわけではあるまい。
「え、えーっとそうだ。まだ特徴を聞いてませんでしたよね? その、正体不明の怪物って奴の」
「……ああ、そうだったね。と言っても、私にも姿形はわからないの」
「そうなんですか?」
「ええ。私の手を離れて、どんな成長をしているものやら。悪鬼のような形相かもしれないし、人型を保っていないかもしれないし、定まった形を持たないかもしれない」
小鈴が唾をのみ込んだ。正体不明の怪物に対して、想像を巡らせているらしい。
良い傾向だった。正体不明の怪物がどう小鈴の目に映るかわからないのは本当だ。小鈴の恐怖の象徴が何であるかが、ぬえにはわからないのだから。
……妖怪の知り合いが多いみたいだけど、何が一番怖いんだろうね。
「急ぐ必要は無いけど、今晩中に見つけないと被害が出るかもね」
「被害、ですか」
「例えば、人里の中でも権力や権威を持つ誰かが取って食われたりするかも。私、昔はお偉いさんを狙っていたりしたから、怪物も同じことを考えていたりしてね」
「権力や、権威を持つ誰か……」
ずん、と。ぬえは腹部に重さを感じた。それほど、小鈴が恐怖しているということだろう。余程怖い場面を発想したに違いない。
「下手したら今晩にも出るかもね。ま、こんな夜更けに外を出歩いている人間なんて、食われても仕方がないけどね」
「あの、その、その怪物って……家の中に入ったりは、するんでしょうか」
「可能性はあるね。私、家に招かれないと侵入できないとか、そういった逸話はないもの」
「そう、ですか」
ただでさえ震えていた小鈴の声が、小さく、消え入るような声になった。
何を考えてしまったのか。人間にとって思考は武器にもなり得るが、恐ろしいものに対しては毒にもなり得る。
「何が出てきても平気なように、心の準備をしておくことね」
「……善処します」
灯りに照らされた顔を真っ青にして、小鈴が返答する。
暑さからか、恐怖からか、汗で洋服がびっしょりと濡れている。フリルに彩られた可愛らしい桃色の服が、今は身体に張り付いて、着用者の余裕のなさを表現していた。
流石に怖がらせすぎたかもしれない。今度マミゾウにフォローをお願いするべきだろうか。
と、ぬえがそう考えたときだった。
夜を裂くような、甲高い悲鳴が響いたのは。
「な、何!?」
「急ぐよ」
短く言って、ぬえは走り出す。背後から足音がしっかり付いてきているのを確認しながら、妖怪としての脚力を発揮する。
……嘘でしょ、早すぎる。
さっきはああ言ったが、正体不明の怪物がことを起こすのは、早くても明日以降の筈だった。
身体も自我も何も出来上がっていない状況だ。人間を見つけたとしても、怪物自ら襲うなんて事態は起こらない筈だった。
外に出ていた人間が怪物の姿を見つけて、悲鳴を上げたのだろうか。
――こんな夜中に、たまたま外に出て?
ぬえの心臓が早鐘を打つ。丁度小鈴に話していたようなことを――人間の棲み家に入り込んで、狙って人間を襲う怪物の姿を――想起した。
まずい。人間が襲われて、あまつさえ殺されてしまうのは、まずい。
人里の中で妖怪が問題を起こすなどご法度だ。そもそも妖怪が里に居ること自体が有り得ないとされる程なのだ。
それが人間を襲い、そして殺してしまったらどうなるか。
「はあっ、はあっ」
自然と走りが早くなる。空を飛んでいきたいが、万が一誰かに見られたら問題だ。否、その危険を追ってでも空を行くべきだろうか。
ぐるぐると思考が巡る。冷静な判断ができていないと、僅かに残った冷静な部分がぬえに囁く。
悲鳴はあれから聞こえてこない。ぬえ自身の呼吸音と、走る音と、心臓の音だけが聞こえる。
虫の音も、小鈴の足音も、もはや聞こえなかった。
心が逸る。身体が加速する。しかし、まだ何も見えてこない。人里とは、こんなにも広く迷う場所だっただろうか。
――と。
「は――」
慌て、靄のかかった思考が一瞬にして晴れる。路地から出た先の、交差路だった。大通りに繋がる太い道。比較的裕福な人間が住まう、そんな一区画だ。
何も聞こえなかった。荒く吐き出される自分の呼吸も、痛みすら感じる心臓を打つ音も。
提灯と、月の明かりがそれを照らしていた。
――赤色だった。
道の真ん中に、赤の色が広がっていた。それは人型から流れ落ちていて、ぬえの足元まで広がっていた。
人の形は、生き物ではなくなっていた。胸と、腹と、腿が、削ぐように剥ぎ取られていた。虎か獅子に襲われたと言われれば納得できよう傷だった。もっとも、ぬえにしてこの大きさの傷を残せる生物は見たことがなかったが。
原型を留めていること、そして顔が傷一つなく綺麗に残っていることが、ぬえには奇跡のように思えた。
少女だった。花の髪飾り――椿か山茶花か、ぬえには判別を付けられなかったが――を付けた、紫色の髪を持つ少女だった。
どうしてと、なんでと、驚きと無念の感情を合わせたような表情で固まって――絶命していた。
ぬえはこの少女を知っていた。何度か話したこともある。名前は。確か、確か名前は――、
「阿求……?」
「――あ」
「え、うそ、なんで」
いつの間にか、小鈴が隣に立っていた。
小鈴の手元から、からんと提灯が滑り落ちる。
つい先ほどまでの、怖がりつつも、しかし好奇を孕んだ感情は消え失せていた。
ただただ震えだけがぬえに伝わり、力だけが膨らんでいく。
だが、
……待って、待って。別に私はここまで――。
軽く考えていた。自分が如何に大妖怪であろうと、惨事にはならないだろうと。
最悪のケースが、脳裏をよぎらなかったと言えば嘘になる。想定する中で、有り得ないと思ったわけではなかった。でも、しかし、こんな、
「阿求、ねえ起きてよ」
返事は無い。当然だ。
「嘘でしょう、ねえ。起きてってば」
呆然と動けないぬえをよそに、小鈴が動き出す。
「ねえ阿求ってば! 阿求!」
小鈴が駆け寄って、阿求の死骸を抱き上げる。小鈴は自分の身体が汚れるのも構わず、何も言わない相手に叫びを上げ続けていた。
阿求の眼は――眼だったものは、ただ空を見上げて何も移さない。
現実とは思えなかった。
幻想の存在たるぬえを持ってして、虚構としか思えなかった。
遠くから声が聞こえる。小鈴の叫びを聞いた誰かが、駆けつけているのだろう。
他の誰かが来てしまえば、全てが明るみに出てしまう。封獣ぬえが原因の事件であることも、被害者が阿礼乙女であることも。
誰かが来る前に一人と一つを抱えて逃げてしまおうか。しかし無駄だろう。既に小鈴の叫びは多くの人に聞かれてしまっている。隠すことは不可能だ。
ならば自分だけでも逃げてしまおうか。逃げおおせることも不可能ではないだろう。しかしそうなったならば、あの人は、聖は、寺はどうなってしまうのか。
――これは、なんで、どうして。
「――お前のせいだ」
「え」
気が付かないうちに、小鈴が目の前に佇んでいた。
小柄な少女だ。俯いたその顔は、どんな感情を浮かべているのかわからない。手元も足元も、暗く淀んでいて見ることはできなかった。
「待ってよ。私だってここまでするつもりはなかったのよ。そんな、人里で殺しをするなんて――」
「妖怪は、退治されないといけない。わかってるわね」
博霊の巫女か、他の誰かの話だと思った。罪を犯したのだから、作法に乗っ取り裁かれ、罰を受けろと。
違った。
――ずぷ、と。
「――え、く、ぐえ、あ――」
腹部に熱が広がった。遅れて鋭い痛みが感覚を支配して、急激に意識が遠のいていく。
腹を刺されたのだとわかったときには、全てが遅かった。
この程度の傷はどうということはない。不意を突かれたとて、精神を主とする妖怪に外傷は致命とならないのだから。
頭はそう現状を分析する。だけど現実では、全ての感覚が身体から失われていって――全てが終わっていくと、心が察していた。
「あ――」
地面に倒れ伏して、ぬえは見た。
最後に目に映ったのは、駆けよって来る人間達と、
「――ごめん、聖」
どうしてか人間達に混ざっていた、寺の皆だった。
◆◆◆
「ぬえ、起きなさい」
…………。
「ぬえ、ぬえったら」
…………。
「ぬえ、ぬえ、ぬーえ」
「ぬえさん、起きませんね」
「ごめんなさいね、小鈴さん。こんな夜中までお邪魔して」
「いえいえ、大丈夫です」
……小鈴。
……小鈴?
「うわぁ――!」
「わあっ!」
「あら、おはようぬえ。今は夜中ですけどね」
「――は、え、ここは……」
ぬえが覚醒すると、そこは見覚えのある室内だった。
身を起こそうとするが、不思議と力が入らない。ならばと、眼球だけを動かして周りの様子を窺ってみる。
無数の本棚と、そこに埋まった数々の本の群れ。鈴奈庵の中に、相違なかった。
「私、どうして……」
「覚えてないんですか? 夜になって怪物を探しに行こうとしたら、急にぬえさんが倒れちゃったんですよ」
「は? 私が?」
「それで儂が聖を呼んできたというわけじゃ」
「うわ、マミゾウまで」
離れたところで壁によりかかっていたのは、マミゾウだった。
視界の正面にある、覗き込んでくる顔は聖のものだ。
……私、人間の前で倒れたばかりか、介抱されて知り合いに囲まれてるってわけ?
恥ずかし過ぎた。穴があったら入りたいとはこのことだった。
「あれ、じゃあさっきのは夢? 阿求は?」
「阿求がどうかしたんですか?」
「ああいや、なんでもない」
まさか夢の中で殺されていた、などと言えるわけもない。普段のぬえであれば脅かしていただろうが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
「酷くうなされていたけど、何か嫌な夢でも?」
「聖に膝枕までされておいて悪夢を見るなぞ、贅沢者じゃのう」
聖が問うが、それよりもマミゾウの言ったことの方が重要だった。今、なんと言ったのか。
「いや待って私、今膝枕されてるの? この大妖怪ぬえとも在ろうものが?」
「大妖怪という割には悪夢にうなされていたみたいですけど」
「うるさい! ああもう、なんで身体が動かないのよ!」
「こら、店をお借りしてるんですから静かにしなさい。……ごめんなさいね小鈴さん、もう少しこのまま休んでいても良いかしら」
「ええ勿論」
「やーめーてー」
言うが、身体が言うことを効かないのだから仕方がない。
何たる屈辱か。この恨み晴らさでおくべきか。
「ってそうだ、里に行かなきゃいけないんだって! 正体不明の怪物が今も徘徊してるのよ!」
夢が現実になってしまっては困る。聖もマミゾウもいる今であれば、捜索は容易に違いなかった。
しかし、
「ああ、それなんじゃがな。儂の方で見つけて、処理しておいたぞい」
「は?」
「弾幕でない戦いは久しぶりだったから骨が折れたわい……なんじゃその顔は」
マミゾウの言葉に不自然は無い。元々マミゾウには話が通っていたのだから、自分が倒れたとなれば代わりに誰かが動くのは自明と言えた。
それでも、ぬえは腑に落ちなかった。上手く言語化ができなかったが、ここまですんなりと話がいくものだろうか。
「それより小鈴、おぬしもう寝たらどうじゃ。そろそろ日が昇るぞい」
「あーそうですね。と言っても施錠しなければなので、皆さんが帰ってからになりますが」
「それもそうか。重ね重ねすまんのう」
「……え、もうそんな時間なの」
ぼやけた記憶によれば、鈴奈庵に到着したのは陽が落ちるかどうかという時間の筈だった。
だというのに、今は既に日の出の時間だという。
「余程疲れていたのね。じゃあ、私がぬえを背負って帰るから、そろそろお暇しましょうか」
「ちょっと聖、背負ってって」
「貴方が動けないのだから仕方がないでしょう? ああそれとも、お姫様だっこの方が?」
「やーめーてー」
再び言うが通じない。聖はぬえの身体を持ち上げると――顔が近すぎる――手ぶらのような身軽さで、店の外へ向かい出す。
「それではお邪魔しました。本当に御免なさい、ぬえにはしっかりお仕置きしておきますから」
「もうこの状況がお仕置きみたいなものなんですけど」
「儂も今日のところは退散するぞい。これは友人からの頼みなんじゃが、ぬえは疲れで倒れて人間に厄介になる妖怪と吹聴するのはやめてやってくれないか?」
「善処します」
「絶対にやめてよー!」
聞いてくれているのかいないのか。ぬえにできるのは、ただただ虚空に向かって抗議の声を上げることだけだった。
「ああもう、こんなの絶対に納得いかないー」
◆◆◆
「……さて」
炎天下だった。
天上に雲は一つも無く、幻想の空に陽の光を遮るものは何も無かった。
如何に幻想郷が素晴らしい世界と言っても、自然に対する備えに関しては、外の世界に劣っていることは明白だった。
……暑さで死ぬ人間は、妖怪の手じゃ守れないもんね。
洪水や、嵐や、野生動物の被害を人間が受けぬよう、妖怪達が人間の里を守っていることはぬえも知っている。
それは打算である一方で、中には親愛の情から人間を守る妖怪もいるのだろう。多分。
自分はどうだろうか。恐怖であろうとも、信仰であろうとも、正体不明の存在が人心を掌握できるのならばそれでいい。そう思ってはいたが。
「あれ、貴方はもしかして封獣さんでは?」
「げ、稗田の」
ぼんやりとしていたところで、横から声をかけられた。
人間だった。そして、ぬえとしては会いたくもない相手であった。
返事を不満に思ったのか、人間は――稗田阿求は、眉をしかめた。
「げ、は無いでしょう。ああそれとも、何か悪だくみでも?」
そう言われても仕方がのない立場ではあった。羽は隠して――正体不明の種を植えれば、里に人間しかしないと思っている相手は羽を視認できなくなる――いるものの、妖怪は里に入れないという建前なのだ。
「別に、そんなんじゃないよ。ちょっと気になることがあっただけ」
「ふうん、そうですか。でも、もう少し正体を隠してほしいものですね」
「私という存在を捕まえて言うねえ」
「ショートのワンピースに洋風の赤い靴、整った顔立ちに落ち着いた雰囲気。誰がどう見ても、怪しいですよ」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
そんなに変かなあ、可愛いと思うんだけどなあ、と思いはする。それでも、求聞史紀の執筆者が言うのならばそうなのだろう。
「それで、こんなところで何を?」
「大したことではないんだけどさ。この間、夢でここに来て」
「夢、ですか」
オウム返しをする阿求を無視して、視線を元に戻す。
道の真ん中。今そこにあるのは、無数の蟻達が、蝉の死骸を運んでいる光景だけだった。
「ま、もう帰るよ」
「ちょっと待ってください」
何か用か、と思うのが早いかどうか。
がっ、と。額に鈍い衝撃を受けた。
阿求が自分を殴ったのだとわかったときには、同時にぬえは殴られた理由を察していた。
「悪かったよ、小鈴を巻き込んで」
「別にいいですけどね。小鈴は危ういところがありますから、話に乗った時点であの子にも責任はあります」
目の前の少女と、小鈴が友人関係であることは、昔からマミゾウに聞いていた。
権力者と繋がりがあるとは小鈴も良い立場だなと思ったものの、小鈴本人はそんなことを気にも留めていないようだった。
「結局小鈴を連れまわすのは未遂に終わったんだから、許してよね」
先日の件も、阿求に伝わっているに違いなかった。誰にも言わないという話にはなったが、この相手ならば話は別だろう。小鈴か、あるいはマミゾウが話していたとしてもおかしくはない。
「まあ誰にも被害は出なかったし、誰も責任を取る必要も無かったわけだし……うん、あんなことにならなくて良かった」
ぬえの言葉を聞いた阿求は、半目を向けながらこう言った。
「……なるほどそうですね。まあ、いいですけど」
何かを諦めたような、仕方ないとでも言うような、声色だった。
「……どうしたのよ」
「いえ別に。では私はこれで。今日のところは見なかったことにしておきますので、次に人里に来るときは私に見つからないようにしてくださいね」
「わかった、わかった」
言って、ぬえは阿求を見送る。
「…………」
どうしても違和感があった。
何か隠されているような、理解できていないような、そんな感覚が。
そもそも、封獣ぬえともあろう妖怪が、疲れ何ぞで倒れたこと自体がおかしいことだった。
何故か倒れた自分。取り返しのつかない夢。長すぎる眠り。皆から感じる僅かな違和。ぬえの頭の中で言葉が攪拌するが、意味のある結論にどうしても辿りつけなかった。
そして最大の謎は、どうしてかそのことを、ぬえ自身が不快に思えないことだった。
……もやもやするのに、別に嫌じゃないのが逆に気になるのよねー。
思うが、もはやどうしようもなかった。
ふと地面に目を向けて見れば、そこにはもう何も無かった。
阿求の死体も、蝉の死体も、何も。
「まあ、いっか」
問題が起こっているわけでも、不快を覚えているわけでもないのだから。
「少しくらいの不明がある方が、私らしいしね」
おどけて言った台詞は、しかしぬえの気持ちを少しばかりも晴らしてはくれなかった。
◆◆◆
「ぬえさんって正体不明の妖怪ってことだったけど、案外わかりやすいのね」
「本人に言っちゃ駄目よ。あと、麦茶のおかわり貰える?」
小鈴の言葉に、阿求は表情を変えずに言った。
二人が居るのは、鈴奈庵だった。外と大して変わらない熱気に気怠さを得ながら、小鈴は阿求のグラスに麦茶を注ぐ。
氷がグラスにぶつかる音が気持ち良い。ぼんやりしていた思考が、自然とはっきりしてくるように思えて仕方がなかった。
「ふふ、また妖怪の知り合いが一人できちゃったわ」
「あんたねえ……本当に大丈夫なの?」
そう言って、阿求は二杯目の麦茶を一息で飲み干す。
「大丈夫大丈夫。私あの夜は――本当に、ぬえさんの後ろを歩いていただけだもの。ちょっと、歩き疲れちゃったけどね」
「妖怪の誘いにほいほい乗るんじゃないの」
「あはは……でもほら、私もぬえさんも知らなかったけど、実は後ろからマミゾウさんが付いてきてくれてたから」
笑って言うが、そんなことでは友人は誤魔化されてくれないようだった。
阿求は眉を立て、鋭い目つきでこう言った。
「正体不明の怪物に襲われたのが――ぬえ自身だったから良いものの、あんたが襲われてたらどうなってたことやら」
「でもほら、幻覚だけだったみたいだしい」
「……そりゃ人間はただの幻覚じゃ死なないけどね」
あの夜。突然駆けだしたぬえを追ってみれば、当然のように引き離されてしまった。そして遅れながら路地を抜け出した先には、道の真中で倒れ伏すぬえがいたのだった。
「……マミゾウさん曰く、正体不明の怪物は独立して動けるものではなく、やはり誰かに植えられることで存在が確立するってことだったわ」
「普段の正体不明の種と異なるのは、植えられたモノそのものに対して効力を発揮する点だった、と」
正体不明の種を植えられた物体は、第三者から見るとその観察者のもっとも「こうであろう」という物体にその見てくれを変化させる。
しかし暴走した能力は、直接幻覚を見せていたようだ。植えつけられた者に対して、その者が一番怖いと思う幻覚を。
ぬえの霊力を良く知っているマミゾウが居なかったら、その普段との違いすらわからないところであったが。
「マミゾウさんが取り除いてくれなかったらどうなってたことやら」
「別に、ぬえが消滅してたくらいじゃない?」
「……阿求ってたまに辛辣よね」
そこできょとんとするのはおかしいと思う。
「それにしてもぬえさん、どんな幻覚を見てたのかなあ。マミゾウさんに詮索しないでくれって言われてるから、本人にも聞けないのよね」
「まあ、大体の想像は付くけどね」
「私もなんとなくはわかるんだけど、正しいか自信が無いのよねえ」
「え、本当に?」
……そんなに驚かなくてもいいじゃない。
これでも少しは人と妖怪に関して詳しくなったつもりだ。
詳細は解らなくても、根拠はなくとも、想像くらいはできる。
「多分だけど……怪物が悪さをして、人里の皆にそのことが知れ渡ってしまった。おおよそ、そんな夢なんじゃない?」
「どうしてそう思ったの?」
阿求が疑問した。
「だってぬえさん、楽しそうだったもの」
「……は?」
「だから今の状況を、人間と妖怪のバランスが壊れることこそが、一番恐ろしいものだ。そう思っていたんじゃないかって思ったの」
あの夜、あの妖怪の顔は、正体不明でもなんでもなく、ただ楽しそうだった。
きっと自分に声をかけたのだって、単に怖がりな人間を連れて行こうと思っただけではない――筈だ。
「……小鈴」
「何? ……あたっ」
デコピンだった。相当に力が入っていたのか、じんじんと痛みが広がってくる。
「何するのよ」
「夢を見過ぎよ、小鈴は」
「最適な真実を選べと言ったのは、あんたじゃない」
「それはそれ、これはこれ」
悪びれもせず、阿求が席を立つ。
「小鈴の無事も確認できたことだし、もう帰るわ」
「あーはいはい。暑さにやられないよう気を付けなさいよね」
本を借りることもなく、返すこともなく、本当に阿求は自分の無事を確認するだけにやって来たらしい。
……それは、有り難いけどね。
誰も彼も誰かのことが心配ということか。
しかし、
「ちょっと阿求、帰る前に教えてよ」
「何をよ」
「何って、阿求はぬえさんがどんな幻覚を見ていたと思ったの?」
なんだそんなこと、と彼女は言った。
そして阿求は鈴奈庵の暖簾をくぐりながら、
「小鈴と同じ意見よ」
そう言って、姿を消した。
…………って。
「何よそれー! 叩かれ損じゃないの私ー!」
鈴奈庵に叫びが木霊したが、もはや誰も聞いてはいなかった。
「いえいえ大丈夫ですよ。私、こういうの好きですから」
「長生きしないよ、そんなことを言う人間は」
……まあ、頼んでる私が言うのもなんだけどね。
封獣ぬえは、呆れた笑いを隠しもせずにそう思う。
夜。日は落ち、人は眠り、畜生すらも寝静まった夜更けの時間。
二人の少女は、里の路地を歩いていた。
夜風を背後に流し、提灯を手に。遠く聴こえる虫の声と、儚く鳴る風鈴の音だけが耳に届く。
手元の灯りは道を照らし、しかし入り組んだ路地を見通してはくれない。狭いようで、それでいて複雑な構造を持つのが人間の里だ。
隣の人間に合わせて地上を歩く今、ぬえにも路地の全容は把握できなかった。
「……ねえ怖がりな人間。本当に来ちゃってよかったの?」
「私の名前は小鈴ですってば。どうして皆、初めから名前で呼んでくれないのかなあ」
人間の少女、小鈴は一度頭を振ると、
「ぬえさんはマミゾウさんの友達? ってことだし……信用してますよ?」
と、そう言った。
話を持ち掛けたのは、ぬえからだった。
鈴奈庵に立ち寄ったぬえは、小鈴へ単刀直入に尋ねたのだ。
今夜怪異を探しに、私と人里へ調査に出てくれないか、と。
「ぬえさんも行動が急というか、考えたら即実行ってタイプというか、霊夢さんみたいなタイプですよね」
「私があの小娘と一緒かー」
呻くが、否定はできなかった。
「マミゾウさんがたまたま店に来てなかったら、流石の私も首を縦に振りませんでしたよ。あ、もしかして初めからグルだったり?」
「いやいや、今日は話を持ち掛けるだけのつもりだったよ。マミゾウが居たのは本当に、偶々よ」
半分は、嘘だった。話を持ち掛けるだけだったのは真実だが、小鈴の同意が得られない場合は一人で人里に繰り出すつもりだったのだから。
「私、人気なんですねえ。わざわざお誘いが来るなんて」
「ああ評判よ。驚かせがいのある、可愛い人間だって」
ぎょっとした視線を向けてくるが、自覚が無いのだろうか。
「ま、小鈴が協力してくれて助かるよ。私が探している化け物は、人間にしか見ることができないからな」
これもまた、半分が嘘だった。前半が本当で、後半が嘘だ。
「ええと、正体不明の怪物……でしたっけ。ぬえさんの能力が、一人歩きしてしまったんですよね」
「うん、そう。人間にしか効果が無い能力でね。見つけるには人間の協力が不可欠って訳」
「霊夢さんや魔理沙さんに協力してもらうっていうのは――」
「小鈴の方が、怖がってくれると思ってね」
「……さいですか」
……それにまあ、霊夢や魔理沙が聖に告げ口したら、心配かけるかもしれないしー。
問題は昨晩に起こった。ぬえの持つ能力が暴走したのだ。
正体をわからなくする能力。その本質は、正体不明の種を何かに植え付け、その何かを何であるかをわからなくするものだ。
そして視認した者の、「こうであろう」という意識の通りにその姿を偽る。正体不明が正体不明である所以の能力だ。
しかし、
……まさか、正体不明の種が独立して動き出すなんてねえ。
自分の能力を制御できないなど大妖怪の恥であるが、起こってしまったものは仕方がない。あっけに取られて逃がしてしまったことも水に流すのが正解だ。
幸いにして、討伐するのは容易だ。ぬえ以外の存在からは正体不明の何かに見えても、ぬえ自身にはそれが自分の能力であるとわかるのだから。
能力の制御が効いていない今では、あるいは正体を正しく見定めることができないかもしれないが、
……私、怖いものなんてないしねえ。大丈夫大丈夫。
「よーし、私頑張りますよ。でもぬえさんの目的は、ついでに私を怯えさせることなんですよね、力を得る為に」
「そうそう。よくわかってるわね」
小鈴を連れてきたのは、失敗してもただで転ぶのが癪だったと、そういうことだった。
人里で調査を行うにあたって、以前よりマミゾウから聴いていた小鈴のことが思い浮かんだのだ。
あとは流れだった。駄目元で鈴奈庵に行ってみれば、そこにはマミゾウも居て、とんとん拍子で話が進んだのだった。
……いやほんと、私が言える立場じゃないけど、大丈夫なのかなあこの子。
「……どうしました、ぬえさん」
「いいやなんでも」
やる気十分といった表情とは裏腹に、吐いた声に震えが混ざっているのを、ぬえは見逃さなかった。
「好奇心は猫を殺すっていうけど、本当なのね」
「まあほら、状況が状況ですから。ぬえさんが私を守ってくれると信じてるだけですよ」
「大妖怪として信用されてると思うことにするわ」
もっとも、小鈴の言うことは的を射ていた。こんな人里の真中で失踪や殺人が起きたとすれば、隠蔽することは不可能だ。マミゾウもこのことを知っている以上、ぬえは責任を持って小鈴を守らなければならなかった。
まるで保護者みたいね、とぬえは思う。万が一のことがあったらと思考を走らせれば、悲痛な表情の聖が想起されるのが腹立たしい。
「それに私、妖怪のことは敵ですけど、それでも仲良くしたいと思ってますから」
「何それ」
「ぬえさんは違うんですか? 人間のことは食料とか、利用する相手とか思ってるけど、それでも仲良くしたいと思ってくれてるんじゃないですか?」
「……都合のいい解釈ね。ま、どう思われててもいいけどね」
相手の想像を利用することこそが鵺の本懐だ。他人の想像に訂正を入れてしまっては、焼きが回ったと言われても仕方あるまい。
もっとも、小鈴の言ったことは、ぬえにとって得心しがたいものであったが。
この私が? 人間と?
「ぬえさん、難しい顔してる」
「あんたが変なこと言うからでしょうが」
言って切り捨てる。
自分らしくもない思考をした、とぬえは嘆息を一つ吐く。
「ほらそれより、目的のものを探す探す」
「ああ、そうですね。ほらー早くー、早くでてこーい」
「……本当に大丈夫かなあ」
呻いて言うが、当然誰からも返事は無い。
狭い路地を、小鈴を先頭にして歩みを進める。
飴色の髪は提灯の光に照らされて、淡い橙の輝きを持っていた。
夕方、鈴奈庵の前で――陽の光の下で、小鈴が朗らかな笑顔を浮かべていたことを覚えている。そんな彼女も、今は緊張と恐怖と好奇心が綯い交ぜになった表情になっていた。
ざっ、ざっ、ざっ。
舗装のされていない、土の道を声もなく歩く。
リーン、リーン、リーン。
虫の声が鼓膜を震わせる。地底に居たときには聴けなかった音だ。ぬえにとっては心地良い音色だが、小鈴にとってはどうだろう。
「大丈夫? 突然恐怖で気絶なんてされたら困るよ」
「だ、大丈夫ですよ。ちょっとだけ、どきどきしてますけど」
「ふーん」
小鈴から感じる恐怖心は、今もぬえに活力を与えている。お腹が膨れて助かることこの上ないが、負の感情以外は感知できないのがどうしようもない。
……まあ、楽しくないなら家に帰ってるか。
そんなに怪異と出会うことが楽しいのかどうなのか。まさか、自分のような大妖怪と一緒に居るだけで嬉しいと思っているわけではあるまい。
「え、えーっとそうだ。まだ特徴を聞いてませんでしたよね? その、正体不明の怪物って奴の」
「……ああ、そうだったね。と言っても、私にも姿形はわからないの」
「そうなんですか?」
「ええ。私の手を離れて、どんな成長をしているものやら。悪鬼のような形相かもしれないし、人型を保っていないかもしれないし、定まった形を持たないかもしれない」
小鈴が唾をのみ込んだ。正体不明の怪物に対して、想像を巡らせているらしい。
良い傾向だった。正体不明の怪物がどう小鈴の目に映るかわからないのは本当だ。小鈴の恐怖の象徴が何であるかが、ぬえにはわからないのだから。
……妖怪の知り合いが多いみたいだけど、何が一番怖いんだろうね。
「急ぐ必要は無いけど、今晩中に見つけないと被害が出るかもね」
「被害、ですか」
「例えば、人里の中でも権力や権威を持つ誰かが取って食われたりするかも。私、昔はお偉いさんを狙っていたりしたから、怪物も同じことを考えていたりしてね」
「権力や、権威を持つ誰か……」
ずん、と。ぬえは腹部に重さを感じた。それほど、小鈴が恐怖しているということだろう。余程怖い場面を発想したに違いない。
「下手したら今晩にも出るかもね。ま、こんな夜更けに外を出歩いている人間なんて、食われても仕方がないけどね」
「あの、その、その怪物って……家の中に入ったりは、するんでしょうか」
「可能性はあるね。私、家に招かれないと侵入できないとか、そういった逸話はないもの」
「そう、ですか」
ただでさえ震えていた小鈴の声が、小さく、消え入るような声になった。
何を考えてしまったのか。人間にとって思考は武器にもなり得るが、恐ろしいものに対しては毒にもなり得る。
「何が出てきても平気なように、心の準備をしておくことね」
「……善処します」
灯りに照らされた顔を真っ青にして、小鈴が返答する。
暑さからか、恐怖からか、汗で洋服がびっしょりと濡れている。フリルに彩られた可愛らしい桃色の服が、今は身体に張り付いて、着用者の余裕のなさを表現していた。
流石に怖がらせすぎたかもしれない。今度マミゾウにフォローをお願いするべきだろうか。
と、ぬえがそう考えたときだった。
夜を裂くような、甲高い悲鳴が響いたのは。
「な、何!?」
「急ぐよ」
短く言って、ぬえは走り出す。背後から足音がしっかり付いてきているのを確認しながら、妖怪としての脚力を発揮する。
……嘘でしょ、早すぎる。
さっきはああ言ったが、正体不明の怪物がことを起こすのは、早くても明日以降の筈だった。
身体も自我も何も出来上がっていない状況だ。人間を見つけたとしても、怪物自ら襲うなんて事態は起こらない筈だった。
外に出ていた人間が怪物の姿を見つけて、悲鳴を上げたのだろうか。
――こんな夜中に、たまたま外に出て?
ぬえの心臓が早鐘を打つ。丁度小鈴に話していたようなことを――人間の棲み家に入り込んで、狙って人間を襲う怪物の姿を――想起した。
まずい。人間が襲われて、あまつさえ殺されてしまうのは、まずい。
人里の中で妖怪が問題を起こすなどご法度だ。そもそも妖怪が里に居ること自体が有り得ないとされる程なのだ。
それが人間を襲い、そして殺してしまったらどうなるか。
「はあっ、はあっ」
自然と走りが早くなる。空を飛んでいきたいが、万が一誰かに見られたら問題だ。否、その危険を追ってでも空を行くべきだろうか。
ぐるぐると思考が巡る。冷静な判断ができていないと、僅かに残った冷静な部分がぬえに囁く。
悲鳴はあれから聞こえてこない。ぬえ自身の呼吸音と、走る音と、心臓の音だけが聞こえる。
虫の音も、小鈴の足音も、もはや聞こえなかった。
心が逸る。身体が加速する。しかし、まだ何も見えてこない。人里とは、こんなにも広く迷う場所だっただろうか。
――と。
「は――」
慌て、靄のかかった思考が一瞬にして晴れる。路地から出た先の、交差路だった。大通りに繋がる太い道。比較的裕福な人間が住まう、そんな一区画だ。
何も聞こえなかった。荒く吐き出される自分の呼吸も、痛みすら感じる心臓を打つ音も。
提灯と、月の明かりがそれを照らしていた。
――赤色だった。
道の真ん中に、赤の色が広がっていた。それは人型から流れ落ちていて、ぬえの足元まで広がっていた。
人の形は、生き物ではなくなっていた。胸と、腹と、腿が、削ぐように剥ぎ取られていた。虎か獅子に襲われたと言われれば納得できよう傷だった。もっとも、ぬえにしてこの大きさの傷を残せる生物は見たことがなかったが。
原型を留めていること、そして顔が傷一つなく綺麗に残っていることが、ぬえには奇跡のように思えた。
少女だった。花の髪飾り――椿か山茶花か、ぬえには判別を付けられなかったが――を付けた、紫色の髪を持つ少女だった。
どうしてと、なんでと、驚きと無念の感情を合わせたような表情で固まって――絶命していた。
ぬえはこの少女を知っていた。何度か話したこともある。名前は。確か、確か名前は――、
「阿求……?」
「――あ」
「え、うそ、なんで」
いつの間にか、小鈴が隣に立っていた。
小鈴の手元から、からんと提灯が滑り落ちる。
つい先ほどまでの、怖がりつつも、しかし好奇を孕んだ感情は消え失せていた。
ただただ震えだけがぬえに伝わり、力だけが膨らんでいく。
だが、
……待って、待って。別に私はここまで――。
軽く考えていた。自分が如何に大妖怪であろうと、惨事にはならないだろうと。
最悪のケースが、脳裏をよぎらなかったと言えば嘘になる。想定する中で、有り得ないと思ったわけではなかった。でも、しかし、こんな、
「阿求、ねえ起きてよ」
返事は無い。当然だ。
「嘘でしょう、ねえ。起きてってば」
呆然と動けないぬえをよそに、小鈴が動き出す。
「ねえ阿求ってば! 阿求!」
小鈴が駆け寄って、阿求の死骸を抱き上げる。小鈴は自分の身体が汚れるのも構わず、何も言わない相手に叫びを上げ続けていた。
阿求の眼は――眼だったものは、ただ空を見上げて何も移さない。
現実とは思えなかった。
幻想の存在たるぬえを持ってして、虚構としか思えなかった。
遠くから声が聞こえる。小鈴の叫びを聞いた誰かが、駆けつけているのだろう。
他の誰かが来てしまえば、全てが明るみに出てしまう。封獣ぬえが原因の事件であることも、被害者が阿礼乙女であることも。
誰かが来る前に一人と一つを抱えて逃げてしまおうか。しかし無駄だろう。既に小鈴の叫びは多くの人に聞かれてしまっている。隠すことは不可能だ。
ならば自分だけでも逃げてしまおうか。逃げおおせることも不可能ではないだろう。しかしそうなったならば、あの人は、聖は、寺はどうなってしまうのか。
――これは、なんで、どうして。
「――お前のせいだ」
「え」
気が付かないうちに、小鈴が目の前に佇んでいた。
小柄な少女だ。俯いたその顔は、どんな感情を浮かべているのかわからない。手元も足元も、暗く淀んでいて見ることはできなかった。
「待ってよ。私だってここまでするつもりはなかったのよ。そんな、人里で殺しをするなんて――」
「妖怪は、退治されないといけない。わかってるわね」
博霊の巫女か、他の誰かの話だと思った。罪を犯したのだから、作法に乗っ取り裁かれ、罰を受けろと。
違った。
――ずぷ、と。
「――え、く、ぐえ、あ――」
腹部に熱が広がった。遅れて鋭い痛みが感覚を支配して、急激に意識が遠のいていく。
腹を刺されたのだとわかったときには、全てが遅かった。
この程度の傷はどうということはない。不意を突かれたとて、精神を主とする妖怪に外傷は致命とならないのだから。
頭はそう現状を分析する。だけど現実では、全ての感覚が身体から失われていって――全てが終わっていくと、心が察していた。
「あ――」
地面に倒れ伏して、ぬえは見た。
最後に目に映ったのは、駆けよって来る人間達と、
「――ごめん、聖」
どうしてか人間達に混ざっていた、寺の皆だった。
◆◆◆
「ぬえ、起きなさい」
…………。
「ぬえ、ぬえったら」
…………。
「ぬえ、ぬえ、ぬーえ」
「ぬえさん、起きませんね」
「ごめんなさいね、小鈴さん。こんな夜中までお邪魔して」
「いえいえ、大丈夫です」
……小鈴。
……小鈴?
「うわぁ――!」
「わあっ!」
「あら、おはようぬえ。今は夜中ですけどね」
「――は、え、ここは……」
ぬえが覚醒すると、そこは見覚えのある室内だった。
身を起こそうとするが、不思議と力が入らない。ならばと、眼球だけを動かして周りの様子を窺ってみる。
無数の本棚と、そこに埋まった数々の本の群れ。鈴奈庵の中に、相違なかった。
「私、どうして……」
「覚えてないんですか? 夜になって怪物を探しに行こうとしたら、急にぬえさんが倒れちゃったんですよ」
「は? 私が?」
「それで儂が聖を呼んできたというわけじゃ」
「うわ、マミゾウまで」
離れたところで壁によりかかっていたのは、マミゾウだった。
視界の正面にある、覗き込んでくる顔は聖のものだ。
……私、人間の前で倒れたばかりか、介抱されて知り合いに囲まれてるってわけ?
恥ずかし過ぎた。穴があったら入りたいとはこのことだった。
「あれ、じゃあさっきのは夢? 阿求は?」
「阿求がどうかしたんですか?」
「ああいや、なんでもない」
まさか夢の中で殺されていた、などと言えるわけもない。普段のぬえであれば脅かしていただろうが、今はとてもそんな気分にはなれなかった。
「酷くうなされていたけど、何か嫌な夢でも?」
「聖に膝枕までされておいて悪夢を見るなぞ、贅沢者じゃのう」
聖が問うが、それよりもマミゾウの言ったことの方が重要だった。今、なんと言ったのか。
「いや待って私、今膝枕されてるの? この大妖怪ぬえとも在ろうものが?」
「大妖怪という割には悪夢にうなされていたみたいですけど」
「うるさい! ああもう、なんで身体が動かないのよ!」
「こら、店をお借りしてるんですから静かにしなさい。……ごめんなさいね小鈴さん、もう少しこのまま休んでいても良いかしら」
「ええ勿論」
「やーめーてー」
言うが、身体が言うことを効かないのだから仕方がない。
何たる屈辱か。この恨み晴らさでおくべきか。
「ってそうだ、里に行かなきゃいけないんだって! 正体不明の怪物が今も徘徊してるのよ!」
夢が現実になってしまっては困る。聖もマミゾウもいる今であれば、捜索は容易に違いなかった。
しかし、
「ああ、それなんじゃがな。儂の方で見つけて、処理しておいたぞい」
「は?」
「弾幕でない戦いは久しぶりだったから骨が折れたわい……なんじゃその顔は」
マミゾウの言葉に不自然は無い。元々マミゾウには話が通っていたのだから、自分が倒れたとなれば代わりに誰かが動くのは自明と言えた。
それでも、ぬえは腑に落ちなかった。上手く言語化ができなかったが、ここまですんなりと話がいくものだろうか。
「それより小鈴、おぬしもう寝たらどうじゃ。そろそろ日が昇るぞい」
「あーそうですね。と言っても施錠しなければなので、皆さんが帰ってからになりますが」
「それもそうか。重ね重ねすまんのう」
「……え、もうそんな時間なの」
ぼやけた記憶によれば、鈴奈庵に到着したのは陽が落ちるかどうかという時間の筈だった。
だというのに、今は既に日の出の時間だという。
「余程疲れていたのね。じゃあ、私がぬえを背負って帰るから、そろそろお暇しましょうか」
「ちょっと聖、背負ってって」
「貴方が動けないのだから仕方がないでしょう? ああそれとも、お姫様だっこの方が?」
「やーめーてー」
再び言うが通じない。聖はぬえの身体を持ち上げると――顔が近すぎる――手ぶらのような身軽さで、店の外へ向かい出す。
「それではお邪魔しました。本当に御免なさい、ぬえにはしっかりお仕置きしておきますから」
「もうこの状況がお仕置きみたいなものなんですけど」
「儂も今日のところは退散するぞい。これは友人からの頼みなんじゃが、ぬえは疲れで倒れて人間に厄介になる妖怪と吹聴するのはやめてやってくれないか?」
「善処します」
「絶対にやめてよー!」
聞いてくれているのかいないのか。ぬえにできるのは、ただただ虚空に向かって抗議の声を上げることだけだった。
「ああもう、こんなの絶対に納得いかないー」
◆◆◆
「……さて」
炎天下だった。
天上に雲は一つも無く、幻想の空に陽の光を遮るものは何も無かった。
如何に幻想郷が素晴らしい世界と言っても、自然に対する備えに関しては、外の世界に劣っていることは明白だった。
……暑さで死ぬ人間は、妖怪の手じゃ守れないもんね。
洪水や、嵐や、野生動物の被害を人間が受けぬよう、妖怪達が人間の里を守っていることはぬえも知っている。
それは打算である一方で、中には親愛の情から人間を守る妖怪もいるのだろう。多分。
自分はどうだろうか。恐怖であろうとも、信仰であろうとも、正体不明の存在が人心を掌握できるのならばそれでいい。そう思ってはいたが。
「あれ、貴方はもしかして封獣さんでは?」
「げ、稗田の」
ぼんやりとしていたところで、横から声をかけられた。
人間だった。そして、ぬえとしては会いたくもない相手であった。
返事を不満に思ったのか、人間は――稗田阿求は、眉をしかめた。
「げ、は無いでしょう。ああそれとも、何か悪だくみでも?」
そう言われても仕方がのない立場ではあった。羽は隠して――正体不明の種を植えれば、里に人間しかしないと思っている相手は羽を視認できなくなる――いるものの、妖怪は里に入れないという建前なのだ。
「別に、そんなんじゃないよ。ちょっと気になることがあっただけ」
「ふうん、そうですか。でも、もう少し正体を隠してほしいものですね」
「私という存在を捕まえて言うねえ」
「ショートのワンピースに洋風の赤い靴、整った顔立ちに落ち着いた雰囲気。誰がどう見ても、怪しいですよ」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
そんなに変かなあ、可愛いと思うんだけどなあ、と思いはする。それでも、求聞史紀の執筆者が言うのならばそうなのだろう。
「それで、こんなところで何を?」
「大したことではないんだけどさ。この間、夢でここに来て」
「夢、ですか」
オウム返しをする阿求を無視して、視線を元に戻す。
道の真ん中。今そこにあるのは、無数の蟻達が、蝉の死骸を運んでいる光景だけだった。
「ま、もう帰るよ」
「ちょっと待ってください」
何か用か、と思うのが早いかどうか。
がっ、と。額に鈍い衝撃を受けた。
阿求が自分を殴ったのだとわかったときには、同時にぬえは殴られた理由を察していた。
「悪かったよ、小鈴を巻き込んで」
「別にいいですけどね。小鈴は危ういところがありますから、話に乗った時点であの子にも責任はあります」
目の前の少女と、小鈴が友人関係であることは、昔からマミゾウに聞いていた。
権力者と繋がりがあるとは小鈴も良い立場だなと思ったものの、小鈴本人はそんなことを気にも留めていないようだった。
「結局小鈴を連れまわすのは未遂に終わったんだから、許してよね」
先日の件も、阿求に伝わっているに違いなかった。誰にも言わないという話にはなったが、この相手ならば話は別だろう。小鈴か、あるいはマミゾウが話していたとしてもおかしくはない。
「まあ誰にも被害は出なかったし、誰も責任を取る必要も無かったわけだし……うん、あんなことにならなくて良かった」
ぬえの言葉を聞いた阿求は、半目を向けながらこう言った。
「……なるほどそうですね。まあ、いいですけど」
何かを諦めたような、仕方ないとでも言うような、声色だった。
「……どうしたのよ」
「いえ別に。では私はこれで。今日のところは見なかったことにしておきますので、次に人里に来るときは私に見つからないようにしてくださいね」
「わかった、わかった」
言って、ぬえは阿求を見送る。
「…………」
どうしても違和感があった。
何か隠されているような、理解できていないような、そんな感覚が。
そもそも、封獣ぬえともあろう妖怪が、疲れ何ぞで倒れたこと自体がおかしいことだった。
何故か倒れた自分。取り返しのつかない夢。長すぎる眠り。皆から感じる僅かな違和。ぬえの頭の中で言葉が攪拌するが、意味のある結論にどうしても辿りつけなかった。
そして最大の謎は、どうしてかそのことを、ぬえ自身が不快に思えないことだった。
……もやもやするのに、別に嫌じゃないのが逆に気になるのよねー。
思うが、もはやどうしようもなかった。
ふと地面に目を向けて見れば、そこにはもう何も無かった。
阿求の死体も、蝉の死体も、何も。
「まあ、いっか」
問題が起こっているわけでも、不快を覚えているわけでもないのだから。
「少しくらいの不明がある方が、私らしいしね」
おどけて言った台詞は、しかしぬえの気持ちを少しばかりも晴らしてはくれなかった。
◆◆◆
「ぬえさんって正体不明の妖怪ってことだったけど、案外わかりやすいのね」
「本人に言っちゃ駄目よ。あと、麦茶のおかわり貰える?」
小鈴の言葉に、阿求は表情を変えずに言った。
二人が居るのは、鈴奈庵だった。外と大して変わらない熱気に気怠さを得ながら、小鈴は阿求のグラスに麦茶を注ぐ。
氷がグラスにぶつかる音が気持ち良い。ぼんやりしていた思考が、自然とはっきりしてくるように思えて仕方がなかった。
「ふふ、また妖怪の知り合いが一人できちゃったわ」
「あんたねえ……本当に大丈夫なの?」
そう言って、阿求は二杯目の麦茶を一息で飲み干す。
「大丈夫大丈夫。私あの夜は――本当に、ぬえさんの後ろを歩いていただけだもの。ちょっと、歩き疲れちゃったけどね」
「妖怪の誘いにほいほい乗るんじゃないの」
「あはは……でもほら、私もぬえさんも知らなかったけど、実は後ろからマミゾウさんが付いてきてくれてたから」
笑って言うが、そんなことでは友人は誤魔化されてくれないようだった。
阿求は眉を立て、鋭い目つきでこう言った。
「正体不明の怪物に襲われたのが――ぬえ自身だったから良いものの、あんたが襲われてたらどうなってたことやら」
「でもほら、幻覚だけだったみたいだしい」
「……そりゃ人間はただの幻覚じゃ死なないけどね」
あの夜。突然駆けだしたぬえを追ってみれば、当然のように引き離されてしまった。そして遅れながら路地を抜け出した先には、道の真中で倒れ伏すぬえがいたのだった。
「……マミゾウさん曰く、正体不明の怪物は独立して動けるものではなく、やはり誰かに植えられることで存在が確立するってことだったわ」
「普段の正体不明の種と異なるのは、植えられたモノそのものに対して効力を発揮する点だった、と」
正体不明の種を植えられた物体は、第三者から見るとその観察者のもっとも「こうであろう」という物体にその見てくれを変化させる。
しかし暴走した能力は、直接幻覚を見せていたようだ。植えつけられた者に対して、その者が一番怖いと思う幻覚を。
ぬえの霊力を良く知っているマミゾウが居なかったら、その普段との違いすらわからないところであったが。
「マミゾウさんが取り除いてくれなかったらどうなってたことやら」
「別に、ぬえが消滅してたくらいじゃない?」
「……阿求ってたまに辛辣よね」
そこできょとんとするのはおかしいと思う。
「それにしてもぬえさん、どんな幻覚を見てたのかなあ。マミゾウさんに詮索しないでくれって言われてるから、本人にも聞けないのよね」
「まあ、大体の想像は付くけどね」
「私もなんとなくはわかるんだけど、正しいか自信が無いのよねえ」
「え、本当に?」
……そんなに驚かなくてもいいじゃない。
これでも少しは人と妖怪に関して詳しくなったつもりだ。
詳細は解らなくても、根拠はなくとも、想像くらいはできる。
「多分だけど……怪物が悪さをして、人里の皆にそのことが知れ渡ってしまった。おおよそ、そんな夢なんじゃない?」
「どうしてそう思ったの?」
阿求が疑問した。
「だってぬえさん、楽しそうだったもの」
「……は?」
「だから今の状況を、人間と妖怪のバランスが壊れることこそが、一番恐ろしいものだ。そう思っていたんじゃないかって思ったの」
あの夜、あの妖怪の顔は、正体不明でもなんでもなく、ただ楽しそうだった。
きっと自分に声をかけたのだって、単に怖がりな人間を連れて行こうと思っただけではない――筈だ。
「……小鈴」
「何? ……あたっ」
デコピンだった。相当に力が入っていたのか、じんじんと痛みが広がってくる。
「何するのよ」
「夢を見過ぎよ、小鈴は」
「最適な真実を選べと言ったのは、あんたじゃない」
「それはそれ、これはこれ」
悪びれもせず、阿求が席を立つ。
「小鈴の無事も確認できたことだし、もう帰るわ」
「あーはいはい。暑さにやられないよう気を付けなさいよね」
本を借りることもなく、返すこともなく、本当に阿求は自分の無事を確認するだけにやって来たらしい。
……それは、有り難いけどね。
誰も彼も誰かのことが心配ということか。
しかし、
「ちょっと阿求、帰る前に教えてよ」
「何をよ」
「何って、阿求はぬえさんがどんな幻覚を見ていたと思ったの?」
なんだそんなこと、と彼女は言った。
そして阿求は鈴奈庵の暖簾をくぐりながら、
「小鈴と同じ意見よ」
そう言って、姿を消した。
…………って。
「何よそれー! 叩かれ損じゃないの私ー!」
鈴奈庵に叫びが木霊したが、もはや誰も聞いてはいなかった。
やはりぬえちゃんは正体不明…!
素晴らしい作品をありがとうございます!!!
ぬえの幻覚、真相が分からない状態で読むと衝撃的で恐ろしいものだったのですが、真相が分かった状態で読むとぬえが今の生活を大切にしているといった事が伝わってくる逆転した意味になるのがとても良かったです
正体不明の恐怖を目一杯味合わせて頂きました。おいしかったです。
その人にとって恐ろしいものを見せてくるのは怖い……っ!
とても素敵なお話でした。面白かったです。
ホラーミステリー風味の鈴奈庵を読んでいるみたいでした
ハラハラさせやがって!
取り返しのつかないことが起こり、どうなるのかと思いながら読み進めました
最後は大団円で終わってよかったです
好奇心を抑えない小鈴も、人里の探索をするぬえも、それぞれ生き生きとしていてかわいらしかったです。人と妖の不思議な交流はいつ見てもどこか心温まります。
やーめーてーと言うぬえちゃんほんと可愛い……!