「お腹が空いたなぁ」
なんともなしに門前で呟いた。仕方ないのである。一日中柱の前でぼけーっと直立しているのは楽に思えるかもしれないが、それでもエネルギーは消費されているのだ。外は暑いし。外勤は体力勝負なんだ。
これは何かしらの栄養補給をせねばならぬ。立派に職務を遂行するためには必要不可欠な行為である。決して退屈から逃れるための言い訳などではない。断じてないのである。
そうと決まればさっそく行動に移ろう。善は急げ、思い立ったが吉日、それがこの紅美鈴の信条である。
庭を歩いている適当な妖精を捕まえる。嫌がって腕の中でもがいているが、無理やり門まで連れてくる。
そうして自分の帽子を被せ、肩を両手でがっしりと掴み、妖精の目線に合わせてこういうのだ。
ここに突っ立っててくれればお菓子をもってきてあげる。これで即席の門番の出来上がりである。簡単。
妖精はトイレに行きたいとぐずっていたが、30分もかからないから、と言って小突いて我慢させた。簡単。
どうせウチの館にやってくるのは、魔法のマリサか阿呆のチルノくらいのもんである。
前者は自分がどうこうしたって結局図書館に押し入ってくるのだし、後者は妖精同士で話も合うし、問題ないだろう。
本当に襲撃者が来たら?そんなこと知らん。今は自分が空腹に襲撃されているのだ。
さてさて、これで持ち場を離れる権利ができた。お次は食堂に向かってみよう。
ブリブリブリッ
ブリュリュリュリュッ
おや?来る場所を間違えたかな??
食堂の扉の前まで辿り着くと、普段はそこから聞こえてくるはずもない音が耳に入ってきた。
自分の記憶が確かであれば、これはトイレで主に発生されるべき音源であるはずだ。
聞き間違いであろうか。熱中症でも起こしているのであろうか。
ムリュッリュリュリュリュリュッ
ブビビビチッビチビチッ
哀しいことに自らの聴覚は正常であった。
中の様子はすりガラスでよく見えない。
大きな扉の上を見上げると、紛れもなく「食堂」の2文字が彫られている。
自身の感覚が正しいということは、狂っているのは中にいる人物であろう。
ここは食べ物を体内に取り込むことが目的の部屋であるはずだ。
しかしながら先ほどから廊下まで鳴り響いているこの音は、出すときの音である。何をか、は明言しない。食欲が失せるからである。
「あっ」
そこまで考えて、はたと気が付いた。まさかそういうことか?
私が腹を減らして持ち場をサボることを見越して、館の誰かが先回りして食欲を失くそうとしているのか?
だとしたらとんでもない非常識である。それなら門に食べ物を持ってきてくれればいいだけのことなのに。
しかしながら、この館の住人は私以外のほとんどが常識が無いのだから、あながち間違ってはいないのかもしれない。
やっていいこと、悪いことのフン別が付かないのは悲しいことだ。
だとすると、いったい誰が?
とにかく中に入ってみよう。
「う~ん。やっと出せたよ」
扉のノブから手を放す。
絶望に顔が歪んでいくのが、自分でもわかる。
まさかそんな。今の声は、間違いなく我が当主である。しかも心なしか満足気な声色だ。
冗談じゃない。なぜ雇い主にこんな仕打ちをされなければならないのか。
使用人の食欲を、最低の方法で解消させようとするんじゃない。
主だと分かった以上、この扉を開けたくはないし、見たくもない。
だが、文句の一つも言ってやらねば。私だけならまだしも、咲夜にまで同じことをやりかねない。
それにこんなことを主人がしていると知ったら、いくら完全で瀟洒といえども彼女の心に深い傷を残すであろう。
そう思い、扉のノブに手をかける。
「やりましたね、お嬢様!とてもお上手に出せましたよ!」
手を引っ込める。
驚きと嫌悪感。私の顔にはそんな表情が表れているのだろう。
嘘だろ。一緒にいるのか。
それに今の口調は、あたかも初めての、その、アレを褒めているかのようであった。
トレーニング?そんな今更。五百年も生きてきてそれはないはずだ。誰か無いと言ってくれ。
まてよ、そういえば。今朝の朝礼で咲夜が何か言ってた気がする。
最近トイレが汚れているとか、我慢できなくてとか、庭でするなとかなんとか。
いやいや冗談でしょ。
眠いしあんまり聞いてなかったとはいえ、まさか当主の下のトラブルだなんて誰が予想できるであろうか。
一万歩譲って仮にそうだとしたって、ここは食事を摂るための部屋である。
これが咲夜のヒリ出した解決法なのか?こんな方法しかヒリ出せなかったのか?
もともと変なヤツだと思っていたが、咲夜はついに常識から解放されてしまったのだろうか。
ましてそんな場面を妹様に知られてしまったら?自称カリスマ姉がキッチンでせっちん。更に495年引き籠ってしまうこと間違いなしだ。
とにかく一刻も早く止めさせねば。
扉のノブに手をかける。
「うわぁスゴイ!お姉さま、いっぱい出てきたね!」
手を引っ込める。
既に妹様にまでその毒が回っていたとは。おいたわしや。
しかもよく聞くと、思ったより茶色いね、だの、けっこう柔らかいんだね、なんて不穏な言葉が聞こえてくる。
やめろ、やめてくれ。もう聞きたくない。
さっきから何をやっているんだこのバカ姉妹とバカ従者は。
それともこれが紅魔館の「おトイレスタンス」になるのか?
私が問いただしたりしたら、朝礼を聞いてなかったの美鈴、なんて呆れ顔で咲夜に言われたりするのか?
文句を言っても、美鈴は頭が固いねぇ、なんてお嬢様に馬鹿にされたりするのか?
同意を求めても、ブリブリブリリ、って妹様に返されたりするのか?
退職届けってどう書けばいいんだっけ。心的外傷でも八雲紫から労災は貰えるのだろうか。
驚き、怖れ、呆れ、絶望。
そんな感情が私を支配し、思わず頭を抱えて蹲ってしまった。
うんうんウンと唸っていると、ふと誰かの視線に気が付いた。
小悪魔である。
少し後ろの廊下の角から、半身だけ乗り出してこちらを見つめている。
癖の強い住人ぞろいのこの屋敷において、比較的常識人なのが私と小悪魔である。
食堂の前で一人百面相をしている私を心配してくれているのであろう。
そうだ、一人で悩んでいないで彼女に相談しよう。きっと力になってくれるはず。
助けを求めて彼女に視線を送る。
小悪魔の目線は食堂と私とをチラチラと行き来し、口元にはイヤらしい笑みを浮かべ妙にニヤニヤしていた。
おまけにノートとペンを構えて何かをメモしているようだ。
ヤメだ、ヤメヤメ。
こんなヤツに相談しようとした私が愚かであった。
おおかた食堂で何が起こっているかは知っていて、私の反応を楽しんでいるに違いない。
居候のパチュリーさんの世話に飽きたのだろう。自分では仕掛けてこないのに面白そうなことがあるとすぐに飛んでくる。いかにも悪魔って感じだ。
その彼女にしたって、お気に入りのウッドチェアに揺られながらご自慢の水晶玉で中の様子を見ているに違いない。
あ、そうか。パチュリーさんは知ってて世話係に見に行かせてるんだな。
二人とも基本は傍観者だ。面倒ごとを楽しむことすらあれど、積極的に解決しようとはしてこない。
たとえ食堂が、文字通りクソまみれになったとしても、この二人には知ったこっちゃないのだろう。食事しなくても平気だし。部屋から出ないし。
前言撤回。哀れなことに常識人はこの美鈴のみであった。
それはすなわち、私がこのクソな状況を解決しなくてはならないことを意味していた。
小悪魔が役に立たないことを再認識している間に、食堂からは恐ろしい会話が聞こえてきた。
「さ、二人とも。遠慮なく食べてくれ」
ダメだ!!!
それだけはいけない!!
いくら吸血鬼とはいえ、いくら悪魔に使える人間あるとはいえ。その一線だけは越えさせるわけにはいかない!
皿とフォークを取り分ける音がカチャカチャと鳴っている。
もはや逡巡している猶予は無い。
ノブを思い切り掴む。もげた。
後ろでゲラゲラ笑い声が聞こえてくる。ドアノブであったものを思い切り投げつける。額に命中。
腰を落とし、全身に気を籠める。肩と背中の筋肉を固め、扉に向かって体当たりを食らわせる。
すりガラスが弾け飛び、扉の木片が四散する。
後方で誰かが膝から崩れ落ちる音がした。
私の眼前を阻むものはもうない。同時に騒動の元凶が視界に飛び込んできた。
皿を持ったまま目を丸くする妹様の顔。
突然の襲撃にフォークを構える咲夜。
チョコレートを絞り出す袋を持ったお嬢様の姿。
キッチンの大皿に盛られたチョコレートケーキ。
まー、ね?ま、ま、ま。ね?
そんなことでしょうね。知ってましたよ。
大概こういうのって、その、こーゆう勘違い的な。
分かってましたけど、私。その可能性の方が高いだろうなって。もちろんです。
でも万が一もあるし。そもそも一緒に住んでる人が非常識人ばかりなのがいけないんです。
ケーキ作り。素晴らしい。私も呼んでくれればいいのに。
なんて自分に言い訳したって仕方ない。咲夜の目がどんどん吊り上がってこちらを睨みつけている。
そりゃそうだ。これからケーキ食べましょうってとこに、扉をブチ破って飛び込んできたんだから。
誤解であることを早く伝えなくっちゃ。
「いえいえいえ!これは違うんですよ!その、ブリブリビチビチ言ってたら下のほうかなって思っちゃうじゃないですか!最近お嬢様もお腹下してるって仰ってましたし!すんごい音してましたよ!廊下までです!ブリュリュって!匂いこそしませんでしたけど、臭くないのもたまにありますしね!ほとんど臭いですけど!!それに食糞は健康に絶対よくないんですよ!飲尿療法はありますけど、あれも自分のヤツですからね!人のを食べるなんて非常識ですよ!それにほら、そのケーキ!色合いも質感もよく似てますし!これは間違えちゃっても仕方ないです! わぁ、それにしても美味しそうなケーキだな!私にもぜひ!!」
フォークの柄で殴られた。
常識無いのか、って怒られた。
妹様は悲しそうな顔してる。
言っちゃいけないことの分別もつかないの、って言われた。
お嬢様は、もういらない、って丸ごとケーキをくれた。
休職について紫に相談してみよう、って呟いてた。
ホールのケーキを持ってとぼとぼ廊下を歩く。
気絶している小悪魔を踏んづけたがもう何も感じない。
図書館からはゲラゲラ笑いながら咳き込む声が聞こえてきた。
いや!落ち込んではいられない!
どんな形にしろせっかく手作りケーキが貰えたのだ。
しかもホールで丸ごとだ。これだけあれば間違いなく食欲は満たされる。
夕食も食べなくてすむだろう。どうせ咲夜は作ってくれないだろうから。
何にせよ、私の当初の目的は達成されたのだ。はやく門に戻って、ケーキを楽しもうじゃないか!
門では妖精が泣いていた。
漏らしてしまったと泣いていた。
包むものが無かったので帽子を使ったそうだ。
悪臭と感触で、食欲は綺麗になくなった。
罰でもくだったのだろうか。
クソッタレ。
良かったです
ヤバすぎて笑っちゃいました、読ませる文なのもいいです!