「……だめだめ、布都ちゃん。包丁を使うときは猫の手って言ったでしょ。手を丸めて。にゃんにゃん♪」
「はっ。にゃ、にゃんにゃん……」
「いえ、にゃんにゃんは言わなくていいからね?」
とある夏、と言っても仙人が作り出した快適空間に季節はあまり関係の無い話だが、とにかくまだ太陽が上りきる前の夏の日、あまり厨房に立つイメージの湧かない二人が揃ってまな板に向かっていた。
一人は尸解仙、物部布都。包丁を握る手がぷるぷると震えている。
もう一人は同じく尸解仙にして邪仙の悪評轟く霍青娥。震える布都を見てぷるぷると笑いを堪えている。
二人の関係はというと、布都は青娥の指導の下で仙人になった身であり、一言で表せば師弟関係である。もっとも、青娥の本命は布都の主君に当たる豊聡耳神子で、布都はそのおまけで弟子入りした感が強い。
さて、二人が厨房で何をしていたかと言えば料理以外にない。現在は青娥お手製の薄焼き玉子を前に布都が覚悟を決めていたところである。
「いやいや、『ところである』じゃないわよ。どうして寺は焼けて玉子焼きを怖がるのっ」
「ただ火を着ければいいものと一緒にしないでいただきたく……」
ただで焼かれる寺の身にもなってみろと、さしもの邪仙も哀れみすら覚えた。
「綺麗にとか、上手くとか、そういうのを期待なんかしてません。まず慣れなさい。上手くやろうとかはその後に考えなさい」
布都は青娥が取った弟子の中でも極めて仙人向きの逸材であった。総合的には神子に軍配が上がるが、頭の切れや思い切りの良さでは布都が上回る事もある。
代わりに、それ以外の部分でのポンコツっぷりが目立つのだが。
「摩訶不思議で超人的な力が使いたくて仙人の道を志す人が多いけど、仙薬の調剤もできなきゃね。お料理一つで苦戦してるようではまだまだ」
かく言う青娥とて元々料理が達者だったわけではない。むしろ尸解前は家事を他人に任せて引きこもっていた程だ。長生きの中で興味の赴くままに知識と腕が付いたのである。
「ま、どんな仙人になるにしてもね? 長い人生になるのだから、美味しいものは自分でも作れた方がお得ってことよ」
食材を切るという初歩の初歩でつまずいている布都には先の長すぎる話だが、実際に千年以上生きてきた青娥が言うのだから素直に従う他はなかった。
「我はもう一人前だと自惚れることもありましたが、まだまだ先生から学べることは多いようですなぁ……」
「当然です。神子に付き合って死ななければ貴方に叩き込むことなんていっぱいあったんですからね」
「う、うむ……。あの、先生。何やら少しお怒りになってませんか?」
「仙人ならわざわざ聞かずとも私の胸の内くらい見透かしなさい。神子にはできるわよ」
青娥の辛辣な言葉が布都の胸に突き刺さった。人の欲を読む能力を持つ神子と比べられてしまうと布都にはお手上げである。勝てるとしたら覚妖怪くらいのものだ。
「ほら、へこんでないで手を動かしなさい! 神子も芳香もお腹を空かせて待ってるんだから」
青娥らしからぬ叱咤の声が飛ぶ。邪仙と後ろ指差されるイメージとは真逆の、まるで母親のような。だからだろうか、怒られているにも関わらず、布都がちょっとだけ嬉しそうな顔をしたのは。
布都はまな板に向き直ると、太く瑞々しい立派なキュウリを掴み取った。
「お待たせしました~。娘々特製、本場の冷やし中華ですよ~」
「我も手伝ったぞ!」
などと布都は言っているが、おっかなびっくり具材を切っただけだ。麺打ち、調理は全て青娥の担当である。
「……冷やし中華ってお前の本場か?」
屠自古からもっともな突っ込みが入る。
「中国生まれで永くを日本で過ごした、まさに私の為の料理と言えるでしょうね」
そして即座にさらなる突っ込みどころをもって返すのが青娥と屠自古のやり取りの常でもある。
蘇我屠自古は布都と同じく神子の腹心の一人であり、『いろいろあって』今は怨霊の体で生活している。あまりにも永い時を共に待ち続けた青娥とは良い所も悪い所も知り尽くした仲だ。
「まったく、目覚めてみれば私の時代には無かった料理だらけだ。我が国の事ながら日本人の食への貪欲さには圧倒されるよ」
日常の騒々しいやり取りを流して目の前の日本料理に思いを馳せるのは、千年以上の眠りから目覚めた飛鳥時代の皇族、豊聡耳神子。彼女こそが神霊廟の中核だ。
「ごちゃごちゃうるさいぞー! ご飯に集中しろぉー!」
恐れも知らず、ネジの外れた大声を張り上げるキョンシーの宮古芳香。青娥が邪仙と呼ばれる理由の半分くらいは死体の彼女を連れ回しているせいである。
そんなバラバラの五人が揃う神霊廟、だが今日に限っては見慣れない珍客が混じっているのだった。
「こんちはー。私の分はキュウリマシマシで宜しく!」
どこのラーメン屋でも聞くことのないであろう注文を飛ばしたのは、キュウリの為なら命すら懸けられる種族、河童である。
「……むお! 誰かと思えば貴様、にとりとかいう河童ではないか。小さいから屠自古の影で見えなかったわ!」
「ああ? お前にだけは小さいとか言われたくないよ、寺焼き女!」
会ったらとりあえず舌戦をするのも幻想少女の嗜み。
河童のエンジニア、河城にとりと布都の関係は、争うことも共闘することも有ったような無かったような、そのぐらいの関係だ。
「何やら水臭いと思ったら河童とは。まさか仙人でも食べさせるおつもりで?」
青娥が呆れた顔で神子に問う。まるで捨て猫を拾ってきた子供を見るかのように。
「私がいつものように人里で布教活動をしていたら声をかけられてね。込み入った相談があるとの事で連れてきたのだ」
「いやーそうなんですよぉ、高名な道士様のお知恵を拝借したく。こうして仙界までお招きいただいた次第でございましてねぇ」
へりくだった言い方をしているがその表情は悪ガキを彷彿とさせる。にとりに裏があるのは心を読むまでもなく明白だった。
「豊聡耳様のお心は私などには計り知れませんが、お戯れも程々に。仙界は妖怪の来る場所ではないのですから」
「言われなくとも。しかし一食を馳走するぐらいの懐の広さはあるだろう? 事情の説明はとりあえず腹を満たしてからでも遅くはあるまい。これでも私だって、青娥の食事は楽しみにしていたのですよ?」
神子の聖徳王スマイルが青娥のハートを撃ち抜いた。
「んもう豊聡耳様ったら! 私のご機嫌取りがお上手なんですから!」
青娥はサービスのつもりなのか神子の皿に大量の紅生姜をふりかけた。神子はそれを丁寧に芳香の皿に移してあげた。
神子から素行の悪さでお小言を言われる立場でありつつも、それでも青娥が神子の後ろに居続けるのは純粋に彼女が好きだからに他ならない。そして逆もまた然りなのだ。
ずるずる、ちゅるちゅる、ずぞぞっ。
バリバリ、ポキッ、ポリポリ。
麺料理を食べているとは思えない音を立てているのはもちろん、本当にマシマシマウンテンに盛られたキュウリを幸せそうに頬張るにとりである。
「美味いっ! 本当に美味い! こんなに心躍るキュウリは今まで食べたことが無いよ! それにこのキュウリとタレの相性がまた……!」
「そうかしら。水が出て薄くなってると思うのですけど……」
にとりが食べているのは冷やし中華でなくもはや千切りのキュウリである。とはいえ味は褒めてもらっているので青娥だって悪い気はしないのだが。
「悔しいけど腕は良いんだよなあ。こんな倫理破綻女のくせに」
「その破綻者に料理を教わったのも屠自古さんでしょう? 素直に美味しいって言ってくれても良いんですよ?」
青娥の箸が屠自古の頬をぷにぷに突っつこうと襲いかかり、それを屠自古の箸が阻止する。
右から襲来する箸を縦に受け止め、引いたと見せかけて逆、と見せかけて更にその逆のフェイント。しかし屠自古は青娥の腹を読んで見事に対処した。見事だろうがマナー違反極まりない攻防なのだが。
「仲が良くて結構ですがその辺にしておきなさい」
神子の言葉に屠自古の手が凍りつき、その隙を突いた青娥の箸が頬に直撃した。
「……して、河童よ。お主は何故ここまで来たのか。まさかタダ飯を喰らいに来たわけでもあるまい」
「んー? あぁはいはい。あとちょっとだから待ってくれよ」
既にキュウリを食いつくして消化試合に入ったにとりの皿。案の定キュウリから出た水で薄まった汁を絡め、ほとんど噛まずに麺をすすり上げた。
「ふぃー、ご馳走さま。いや、実に美味いキュウリだったよ。なんかもう目的とかどうでもよくなるくらいだ」
「河童からそこまで言われると悪い気はしませんね。このキュウリは私のキョンシーが育てた特別製ですから」
「自家製! 素晴らしい! やっぱり仙人を頼りにした私の目に間違いはなかったんだ!」
一人で盛り上がるにとりに対して周りの温度差は甚だしい。確かにこのキュウリは美味いが、さりとてキュウリはキュウリだ。細切りにしただけの生のキュウリで興奮できる人間はそうそういない。
舞い上がるにとりに痺れを切らし、布都の眼光が彼女を容赦なく射抜く。布都にとっての今日は青娥に修行をつけてもらう約束の日だったのだ。気まぐれな青娥が素直に付き合ってくれる事はめったにない。布都は一秒でも時間が惜しかった。
「餓鬼の如く食い散らかしおって。頼りたいことがあるならさっさと言わぬか」
「この中で一番小さい奴にガキとか言われたくないね。いや、まさにそれこそが理由なんだけどさあ」
どうやらようやく本題に入ってくれるらしい。五人は改めてにとりに向き直った。
「我々河童はみんな背が低い。まあ見ればわかるよね」
「河の童ですからねえ。大きかったら河大人でしょうか」
本場の人間だった事はあって青娥の中国語はとても流暢であった。
「呼び方はまあ勝手にしてくれよ。とにかく、弱肉強食の幻想郷において、体格で負けている河童はテクノロジーで補ってきたがそれだけでは限度がある。やはり肉体の強化もしなければならないが、しかしなぜ我々は小さいのか。我々は何度も討論を重ねた末に、ある意味当たり前の結論を認めざるを得なかったのだ」
にとりのこぶしに力が入る。認めたくなかった事実を直視するために。
「キュウリには! 栄養が! ない!!」
にとりの目にはうっすらと涙すら浮かんでいた。
青娥はのんきに食後のおやつの芋ようかんを口に運びながら言った。
「いいえ、キュウリにはちゃんと栄養ありますよ? カリウムやビタミン豊富な素晴らしい野菜です」
「そんなこたぁわかってるんでい!」
なぜかにとりは江戸っ子口調だ。
「炭水化物、脂質、そして何よりタンパク質! プロテイン! キュウリじゃこれが採れないんだ!」
「わかってるならキュウリ以外を食え。別にお主ら、キュウリ以外を食ったら死ぬわけでもないのであろう? それこそ人でも何でも食うのが妖怪じゃろうが」
「好き嫌いは良くないな」
「肉を食え、肉をー!」
布都の当然の指摘に屠自古と芳香も追従する。
「河童がキュウリを食べなかったら我々の存在意義に関わるんだよ!」
立て続けに叫びすぎて息も切れてきたが、にとりの熱はまだまだ冷めない。
「妖怪の存在は人間達のイメージに左右される。そして河童はキュウリを食べる者だ。そう思われている限り、我々は強烈なキュウリ欲求に支配されるんだ。スシ! ステーキ! キュウリ! この三つが並んでいたら大部分の河童がキュウリを選ぶ! それが河童なんだい!!」
「わかった。わかったから少し落ち着きなさい」
見かねた神子が台所からキュウリを一本持ってにとりに手渡した。肩で息をしていたにとりはこれ幸いとキュウリを頬張る。その鬼気迫る勢いにさしもの仙人達も若干引きぎみだ。
「ここまでくるともはや中毒じゃのう……」
布都が呆れている間にもキュウリは丸ごとにとりの胃に収まろうとしていた。
「えー……さて」
「さてじゃないのじゃが」
にとりの口からキュウリの汁が少し垂れている。もしや今後も暴れるたびにキュウリを与えなくてはならないのだろうかという不安が皆によぎっていた。
「河童のキュウリへの執着はわかってくれたと思う。だから協力者を探しているんだ。キュウリの品種改良のね」
「品種改良? 申し訳ないが私達は科学者ではないよ。頼む相手を間違えてはいないかね」
「いやいやそんなことはない」
神子に向けてにとりは掌を向けた。
「人の血が主食の紅魔館、食えればなんでもいい亡霊が仕切ってる冥界、餅しか作ってなさそうな永遠亭のウサギと月人……」
ダメ出しと共に一本一本指を折って候補を潰していく。
身近の秋姉妹は秋野菜ではないキュウリには弱い。旧地獄は論外。命連寺の奴らは酒池肉林の生臭集団。
半ば暴言のようないちゃもんの末、次の神霊廟でにとりの手が止まった。
「そこで仙人だ。貴方達は毎日の食事を大事にしてるじゃあないか。実際道士様も食生活の大切さを熱弁していたし」
「うむ、まあそんな日もあったが」
青娥に騙されて米国の大統領風の演説をした回の事を言っているのだろうが、神子にとってはちょっぴり思い出したくない話だった。
「……医食同源という言葉があります。身体は日々の食事によって作られるもの。食材の知識は健康で強い体を作るのに欠かせませんからね」
「そう、それ!」
にとりが勢いよく青娥を指差した。
「そんでもってですが邪仙様ぁ、貴女ほどのお方でしたなら生き物のえげつない遺伝実験とか……ぶっちゃけやってるんでございましょう?」
「私を何だと思ってるんですか。そのような無駄なことはとっくに止めましたよ」
つまり昔はやっていたらしい。しかし幻想郷は脛に傷持つ者が流れ着く場所の側面もある。清廉潔白な者を探す方が難しいのだ。
「まあ今でも昔でも良いよ。アンタに知識があるのは今までの会話で十分。だからお願いだ! キュウリを食べるだけで万事解決な、完全栄養食に作り替えるのに協力していただきたい!」
にとりは今までにない真剣な面持ちで頭を下げた。
「イヤで~す」
そして邪仙の返答はこれである。神霊廟一同は『だろうなあ』という表情をした。
「なんで! ナンデ!?」
二度目の『なんで』が裏返るほど、にとりのショックは大きかった。
「まずそんなキュウリ自体が無理に決まってますし。タンパク質が豊富なキュウリって、それキュウリと呼べる野菜なんですか? 大豆みたいな味がすると思いますけど」
「そこを何とかするのが邪仙じゃないのか! 無理非道の仙人の名が泣くぞ!」
「別に自分で名乗ってる異名じゃありませんし。大体ですね、品種改良ってとても地道で長い時間を使う研究なんですよ。到底付き合ってられませ~ん」
邪仙だって無理なものは無理だ。道なき道を往くのが邪仙でも、歩く気がない場所を歩こうなんて思わないし、歩きようがない場所は歩けない。
「そもそも貴方は妖怪です。どうして仙人が協力しなければならないのでしょうか。強くなった暁には次は仙人の血肉を……」
「待った、青娥」
にとりが激昂する前に神子が割って入った。
青娥は良くも悪くも人間好きとして知られている。その分、妖怪やそれに味方する者には厳しかった。
なぜならば、妖怪は人を喰う者だから。
「……青娥。貴女の心情は多少なりとわかっているつもりですが、この者をここに連れてきたのは元はと言えば貴女のせいなのですよ」
「と、言いますと?」
青娥の問いに、にとりは待ってましたと積もり積もった恨み節を吐き出した。
「水鬼鬼神長。忘れたとは言わせんぞ」
それはかつて青娥の命を回収しに来た地獄の使者の名前だ。幻想郷中の水を集めて滝の如き水牢の中で窒息させようとするが、地面に穴を掘って逃げるという青娥の機転で失敗に終わっている。
さて、問題なのはそれがどこで起きたかという点だ。つまり──。
「河童のアジトへの不法侵入! それにあいつの水のせいで河がめちゃくちゃになった落とし前! きっちり払ってもらうまで帰らないぞ!」
──ということだった。
「そんなの場所を考えない水鬼の方が悪いじゃないですか~」
「つべこべ言うな! どっちみちお前はうちのアジトから盗むつもりだったんだ! ついでだよ!」
「ちょっと前まではキュウリだって人様の畑から盗んでいたのでしょう? それにモンスターからアイテムを奪うのは罪に問われないのですよ。ご存じでないのですか?」
「知ったことか! 奪われた我々には怒る自由がある!」
「はい、そこまでにしなさい」
子供の喧嘩を止めるのは大人の役目。今回は神子の立場がそれである。
「青娥の言い分はわからないこともないが、こちらに非があるのも確か。青娥、にとりの要望に応えてあげなさい」
「ひゅう! さっすがー、道士様は話がわかる!」
青娥はうんざりした顔で神子を正面に捉えた。
「話は聞いてましたよね? キュウリがそんな都合の良い食物にならないことぐらいご承知のはずです」
「太子様、恐れながら我も青娥殿と同意見ですぞ」
「ええ、今回ばかりは私もです」
「そうだそうだー!」
青娥に続いて布都、屠自古、芳香が同調した。
要は大好物だけ食べていれば大丈夫なようにしてくれと頼んでいる。寝言は寝て言えという話であった。
「さて、どうだろうか。青娥はどうなのかな。本当に河童の願望を叶えられないと思っているのかね」
「……豊聡耳様は意地が悪いです。そのような聞き方をなさるのなら全てわかっているんじゃないですか」
神子と青娥の視線がしっかりと交わった。期待通りの反応が得られた神子は得意げな笑みを浮かべる。
「河城にとり、でしたね。貴方が望むのならば私の畑を見学していっても構いませんよ」
「本当か!? その畑に秘密があるならぜひ学ばせてもらいたいよ!」
にとりの表情が歓喜に染まる。一方で理解の外にいる他の者達は依然納得いかない顔のままで、特に今日の約束を反故にされそうな布都の胸中には暗雲が立ち込めていた。
「確かに美味ではあったが、正直そこまで普通のキュウリと違うとは思えなかったがのう……」
布都は今日のキュウリの味を思い返していた。歯ごたえ、風味、色合いなど、キュウリの中では高品質なのは間違いないが、決してキュウリから逸脱する物ではない。にとりの言うような人間に必要な三大栄養素を全て兼ね備えるような食品とは到底思えなかった。
「布都。にとりさんと共に私の畑に行きますよ。答えがわからないのなら貴方も実地研修です」
「なんと、私もですか? いや、それよりも書物の記述でいくつか不明な点を聞きたかったのですが……」
「貴方は壊すとか燃やすとか物騒な思考に偏りすぎなの。少しは生み出す側の事も知りなさい」
「全く、その通りだな」
屠自古がうんうんと頷く。やめろと言っても勝手に皿を持ち出しては投げて帰ってきて、そのくせ補充は他人任せだ。神霊廟の家計を圧迫しているのは布都が壊した皿と青娥が勝手に持っていくあれやこれやの代金である。
「布都、先生の言葉に従いなさい。このキュウリの秘密も、なぜ青娥が渋ったのかも、行って自分で答えを導くのだ」
「はあ、太子様もそう仰るのであれば……」
神子からも言われてしまっては逆らえぬと布都は渋々同意した。これはこれで、青娥と一緒にお出かけできる機会と思えばそう悪いものでもない。余計なコブまで付いてきてしまうのは残念ではあったが。
「そんなに睨んでもにとりさんから出汁は取れないわよ。さあさ、支度ができたら出発しますからね」
青娥は頭のかんざしを手に取ると、その先端で壁に綺麗な円を描いた。先に地獄の遣いから逃げるのにも使った穴開け鑿の力は、ただ穴を掘るだけが能ではない。事実、掘られた穴の先には青々とした畑の風景が広がっていたのだから。
神子が作り出した仙界と青娥の仙界、次元の違う二つの世界は今、青娥が穿った穴一つで繋げられた。
にとりは穴の先にお目当ての野菜があると認識するや、おあずけを解かれた犬のような勢いで穴の先に突き抜けていくのだった。
「……ってお前、虫が入ってくるだろうが! さっさと行け!」
農場に虫は付き物だ。そしてここは食卓である。屠自古は布都を穴の先に突き飛ばし、ついでに親切にも布都の靴を掴んで放り投げてあげた。青娥の術に今更驚きなど感じない屠自古からは壁抜けもただ不評だったようである。
「芳香、屠自古さんと豊聡耳様のお守りをお願いね。後片付けもよろしく」
「おー、ラジャー!」
芳香はビシッと敬礼のポーズを取る……つもりだったのだが、間接が固いので代わりに掌を前方上に突き出す。
屠自古がいかにも何か言いたげな表情を見せた時、既に青娥の穴は向こう側から閉じられようとしているところであった。
◇
「うおおお! キュウリ、キュウリ、キュウリだぁぁぁ~!」
にとりのはしゃぎようは尋常ではなかった。
青娥が庭に築いた家庭菜園は明らかに家庭の域を超えている規模だ。広々とした畑のあちらこちらで、農夫が不自然にきびきびとした動作で働いている。
「タキオさ~ん、ちょっといいかしらー?」
青娥は菜園の隅にうずくまっていた一人の男に声をかける。麦わら帽子にオーバーオールの格好はその人物も農夫であることをありありと物語っているが、しかしここは青娥の家である。その額にはもれなくキョンシーの札が貼り付いていた。
「こちら、農業全般を取り仕切っているキョンシーのタキオさん。農業については私よりも詳しいわ」
紹介された中年キョンシーがにっこりと笑った。死体の笑みに、にとりも硬直した笑顔を返す。
「あ、ああ。よろしく……」
「お初にお目にかかり申す」
布都は礼儀正しく深々とお辞儀をし、札が貼り付いたその顔をまじまじと見た。
「ふむ、中々の美丈夫ですな。生前はただ者ではなかったとお見受けしますが」
「ふふ、素敵でしょう? かつては『農業もできるアイドル!』がキャッチコピーで大人気グループのメンバーだったのよ」
青娥の紹介にキョンシーは複雑な面持ちで目を閉じる。あまり生前の事を思い出したくはなかったのだろう。何しろここに居る以上はワケ有りなのは間違いないのだから。
「畑の事はほとんど任せてるから詳しい作業は彼に聞いてくださいな」
「ありがたく!」
にとりは細かな部分を一通り尋ねて回った。種の植え方、水やりのタイミング、剪定、交配、肥料、収穫……思いつくまま次々と。そして聞かれたキョンシーは死んでいるとは思えないほど完璧ににとりの質問に対応していった。
布都はその様子から感じ取った事を青娥に述べる。仙人の特徴はずば抜けた五感だ。思ったことは口に出すようにという青娥の修行方針の一つだった。
「死して尚、身体に染み付いた知識は消え失せぬ、という事ですか」
「そうね。彼の知識と経験は本物だった。人類の発展と農業は切っても切り離せない。死に際までずっと農業の未来を想っていたようね」
「だから死んでも放っておけなかったのですか。農家も野性動物や機械で危険と隣り合わせと聞いております。その時にはさぞや悲しまれたことでしょう……」
「んー……何と言うかね? メンバーの一人が……」
青娥はそこで布都相手にどう言ったものか思案したが、自分が邪仙であり布都が布都である事を思い出してそのまま言うことにした。
「未熟な果実を収穫してしまって……その責任で……」
「それは、赦されざる大罪ですな……」
聖童女の名とは裏腹に長生きの布都はそれだけで何があったかを概ね悟り、生き生きと農業を語るタキオさんに生暖かい視線を向けた。
彼はキョンシーとして生まれ変わったのだ。余計なことを気にせず農業だけに集中できる今こそが、誰が何と言おうと一番幸せな時期なのだと信じることにして。
「さて!」
青娥はパチンと一発手を打った。
「これが私の畑だけれど、河童のキュウリ栽培場と比べてどう思う?」
「うーん……率直に言って原始的、だね」
ここはまさに『畑』だ。
河童がキュウリの為に建設した農園は彼らのテクノロジーが結集されている。徹底した設備管理の下、水やりから気温、湿度、防虫まで、もはや人の手が全くいらないレベルでオートメーション化が進んでいるのだ。
それと比べればこちらは空き地を耕してそこに種を蒔き、井戸から汲んだ水をジョウロで撒く、言ってみれば夏休みの自由研究レベルの栽培方法のまま規模だけ大きくなった感がある。キョンシーに運用させている畑である以上はあまり複雑な作業工程にできないのかもしれないが、にとりから言わせれば非効率的と言わざるを得ないものだった。
「正直なところ、ここでうちの農場より美味いキュウリが作られてるだなんて信じられないよ。ちょっと一本確認してもいいかい?」
「驚異の胃袋ですこと……タキオさん、二本取ってあげて」
河童はキュウリの為ならいくつでも別腹が作れるのだろうか。一度レントゲンでも撮って検証してみようかと青娥は考えていた。
ともかくタキオさんからキュウリを受け取ったにとりは、大きさ、色合い、ツヤ、香りなどを一つ一つ確かめると、満を持してそれを丸かじりにした。
「す、凄いッ……みなぎってくる……!」
にとりの瞳の中で綺羅星が瞬いていた。
一口飲み込むごとに力が溢れるような気がする。こんなキュウリを毎日食べていれば天狗にも鬼にも勝てるのではと思うほどだった。
「うむ、確かに美味いキュウリではありますがやはり普通のような……河童とは感じ方が違うのじゃろうか……」
「実はね、そんなに難しい理由じゃないのよ。ごく単純な事。だけど、だからこそ教えたくないの」
「でもこんなキュウリはうちじゃ作れないよ。品種か、与えてる水か、肥料か? 私達の知らない何かが違うんじゃないのか?」
「ノン、ノン。布都にはわかったでしょう? このキュウリは採れたてで新鮮な以外は普通のキュウリよ。人里に出回ってるキュウリと品種は同じだし、水だって空間を繋いで引っ張ってきてる幻想郷の水なの。肥料も昔ながらの物で、特殊な合成物質とかは一切添加してません。あ、それと農薬も無しね」
もう一本のキュウリを味見していた布都はキュウリの断面とにらめっこをしながら考え込んでしまった。
キュウリはほとんどが水分であるし、一本かじった程度でそこまで元気にはならない。河童には人とは異なるキュウリの吸収方法でもあるのだろうかと。
例えば牛馬は基本的に草しか食べないにも関わらずあの巨体だ。それは体内で草の栄養分をタンパク質に変換する為のシステムが備わっているおかげである。
河童も妖怪だ。人が理解できないから妖怪なのだ。そうやって思考を放棄するのは簡単だが、先程の様子の限りでは青娥はもちろん神子も理由を察している。書を読み漁り、人から教えを受ける事も大切だが、前人未到の真理に辿り着くには自分で考える力が不可欠だ。だからこそ神子も布都に行けと命じたのだ。
「このキュウリの種をうちで育てたら同じ物ができるのか?」
「河童次第、でしょうね。今のままでは無理です」
「だったら育て方か……いや、土か!? 土が違うんだな! きっとそうだろう?」
「いいですね、近付いてますよ」
青娥は畑の端っこの柔らかく盛られた土を足でほぐして転がした。
「ただし、仙人でも無から有は生み出せません。仙界といえど、元は全て穢土から切り取られたものなのです。仙界の土で育てれば全てこうなるわけではありません」
「つまり、先生は土も幻想郷の物だと言いたいのですかな?」
「そういうこと。タキオさん達に頑張って耕してもらったんだから」
タキオさんが力こぶを見せつけて自慢げに笑った。相当頑張ったらしい。
そんなことはどうでもいいにとりは腕組みして頭を捻っていたが、突如勢いよく畑の下方を指差した。
「……土の下に何か埋まってる! それから栄養を吸ってる! どうだ?」
「ハズレ。『何か』の何って死体って言いたいのでしょう? 妖怪寺じゃあるまいし、そんな肥料は与えませんよ」
「クソォ~~~~ッ! いったい何が違うっていうんだ!」
「…………うむ?」
布都は何かが引っ掛かった。
──妖怪寺が本当にやっているのかはともかく、あ奴らならやるかもしれぬと先生は言った。何故かといえば妖怪は人を喰うからに他ならぬ。人を養分に育った作物を食うだけでも妖怪の業が満たされるのならば、ここの畑は──。
「布都は気付いたみたいね。そう、実はここに来る前から答えはとっくに出ていたのよ」
◇
「屠自古、一つ確認したいのですが」
「何でしょうか、太子様」
神子と屠自古は正座して向かい合っていた。二人の間にあるのは将棋盤。つまり将棋を指していた真っ最中である。
一つ妙な所があるとすれば、屠自古の頭の上に芳香が顔を置いてもたれかかっている事だ。いかにも暑苦しそうだがお互いに身体がひんやりしていて快適なのだそうだ。
「うちから出ている廃棄物は相変わらず青娥に処理してもらっているのですか?」
為政者モードを解いた神子の口調は柔らかい。今は戯れの時間だった。
「ああそうですね。リサイクルだって言ってあいつが持っていくんですよ。手間が省けて良いので勝手にさせてます」
「やはり、そうなのだね」
屠自古は話しながら駒を動かした。ただし駒の位置は芳香の指示である。つまり、屠自古は身体が固くて駒を動かせない芳香の代打だった。
「なぜそのような話を急に?」
「……ぬぁ、なんだぁ? 屠自古はわからんのか? さっきのキュウリの話だぞ。屠自古はまだまだだなぁー」
芳香はいたずらに顎で屠自古のつむじをぐりぐり押した。
「おぐぅっ!」
仕返しに顎を頭突きされた。
「……ふふ。そう、キュウリの話だよ。芳香は流石青娥の……と言ったところだね」
芳香に負けてちょっぴり悔しい屠自古が口を尖らせながら聞く。
「私だって今ので察しましたよ。つまりあのキュウリの秘密はうちの廃棄物にあるんでしょう?」
「青娥の反応や心の揺れ動きから判断してほぼ間違いなくね。まあなんだ、その。つまりあのキュウリはだね、廃棄物というか、うん……」
◇
「……こじゃ!」
「こら!」
布都は青娥に頭をひっぱたかれた。
「あだっ!? 何をなさるのですか先生!」
「何をじゃありません。女の子がそんな事を大声で言っちゃダメ!」
だから教えたくなかったのに。青娥は間抜けな弟子を憂いて息を吐いた。
「あ、ああああぁぁぁぁ!!」
にとりも絶叫した。布都の大声で今まで自分が見落としていた初歩の初歩に気付いたのだ。
「そうだよ! う……コホン、これだよ!!」
言われてみれば確かに答えは最初から出ていた。理詰めで考えるにとりだからこその迷走であった。
「はぁ……答えが出たから白状するけど、そうよ、排泄物。それが誰由来なのかっていうのがポイント」
「まあ、我々ですな。仙人の老廃物を混ぜて作った堆肥の肥料。それで育った野菜を食べたら妖怪はどうなるか」
「妖怪は仙人の肉を喰らうと強くなる。微量とはいえ仙人のエキスが含まれた野菜でも同じ事なのよ。自分で食べてて気付かなかったのかしら」
思い返せばキュウリを食べてからのにとりがやたらと興奮していたのもそれが原因だったのだ。
「だって、キュウリが凄く美味しくて……」
「それは嬉しく思うけど、妖怪の本分を忘れてテクノロジーに傾倒していたのではねえ」
現代農業では肥溜め自体が病原菌の感染源となったり落下事故の問題で廃止されている。河童も衛生面や入手の安定化を重視して科学的に合成した肥料を用いていたのだ。それと、女の子なので無意識にシモの話題を避けていたのも一因だったり。
さて、それがわかっていたからこそ青娥は言いたくなかったし、察した神子も青娥に投げた。ではキュウリの秘密を解いたこの河童が次に何を言い出すか。
「ここの堆肥を売ってくれないか!?」
当然、そう来る。
「ダメに決まってるでしょう」
「ですよなあ……」
仙人エキスが詰まった堆肥なんて河童以外にも需要が有りすぎる。そんな物を幻想郷に流通させたらパワーバランスの崩壊に繋がるだろう。味をしめた妖怪が直接仙人の肉を狙ってくるかもしれない。なぜ自分達を狙う相手を強くしてやるのかという話だ。ついでに排泄物を欲しがられるのも単純に気持ち悪い。
「どうしても欲しかったら貴方達も豊聡耳様の所に入門したらどうかしら。死ぬ気で努力すれば河童でも尸解仙くらい成れるかもしれないわ」
「なぁるほど、それは名案でございます。流石は先生!」
「全然名案じゃないっ! 河童じゃなくなったらキュウリに拘る事もないじゃないか!」
河童の要求を満たせて神子にも箔がつく一石二鳥の手だと思ったが、了承するわけがないのは布都も承知の上。しかし明らかに無茶な要望を満たせる答えを示せたのだからこの辺りで満足してもらわなければ困る。
「だったら……こういうのはどうだ?」
まだ諦めないにとりが次の手を繰り出そうとしていた。機械か何かしらのテクノロジーを交換条件にしようと言うのだろう、と予測したのだが。
「今度からうちの厠でうんちして……!」
「は~い、妖怪さんは仙界からご退場願いまーす」
青娥はにとりを囲うように鑿で地面に丸を描いた。
「私はぁぁ、諦めんぞおおぉぉぉぉォォォォ…………!」
にとりは真っ暗闇の穴に落ちていった。声がどんどん遠ざかっていく。
やがて、穴の奥からぼちゃんと水の音がした。おそらく幻想郷を流れる玄武の沢に落ちたのだろう。
「やっと静かになったわねえ。タキオさんも作業の邪魔しちゃってごめんなさいね」
タキオさんは何事も無かったかのように農作業に戻っていった。彼も結局は人の心が僅かに残った農耕機でしかない。次に会う事があってもにとりの顔は忘れているだろう。
何なら秘密を知ったにとりの命など奪ってもよかったのに、ただ帰すだけで終わらせた。昔の自分だったら容赦なく殺していたであろうに、神子が復活してから私も丸くなったものねと、青娥は自分の変わりようを自嘲するのだった。
◇
「しかし哀れなものでしたな。野菜一つにああも必死になって」
「あの子も結局本当の正解からは目を背けたままだったものね」
「……なんですと? 肥料だけではなかったのですか?」
「わからない? 貴方が言ったことなのにねえ」
布都は青娥の私室で二人向かい合って座っていた。布都は正座で青娥は足を崩し、お茶で喉を潤しつつ。
「好き嫌いせず何でも食べる。これが本当の正解。そうでしょう?」
「……確かに、私も言っておりましたな。まあ奴はそれを突っぱねたのですが」
目が血走るほどキュウリに躍起になっていたにとりの姿を思い返して二人はくすくすと笑いあった。
キュウリと一緒に他の物も食べればいい。本来はただそれだけの事だ。
「でもあの子の姿勢には見習うべきところもあるわ。当たり前という壁を打ち破ろうとする革新的な執念は大事。仙人もそういう存在だもの」
「なるほど……それを教えたくて先生は私を連れてきたのですか」
「あらあら、そんなわけないでしょう?」
青娥の人差し指が布都のほっぺを突っついた。
「一緒に連れて行かないとぐずりそうな布都ちゃんがいたからですよ」
「なっ……!?」
布都の頬がちょっぴり赤みを帯びた。
「別に、私はそのような……いえ、貴女に隠し事はできませんな。確かに、その通りでございました」
「そこはもっと意地を張ってくれた方が可愛かったんですけど。相変わらず人のツボを外すのよねえ。人のツボは壊すし」
「うっ!?」
最大級の急所を突かれた布都は息を詰まらせる。
今でこそ喧嘩しながらも仲良くやっている布都と屠自古だが、かつて壺に細工をして屠自古の転生を妨げたのは他でもない布都なのだ。屠自古が幽体を気に入ったおかげで事なきを得ているものの、一つ間違えれば神霊廟の生存者が誰一人として居なくなっていてもおかしくはなかった。
「……決して許されない大罪を犯したのは自覚しております。屠自古や太子様を裏切ったのはもちろん、師である貴女の顔に泥を塗ってしまいました」
「良いのよ。結果論だけど貴方のおかげで今こうして皆で一緒に居られるのだから。死んじゃったおかげで待ってる間に屠自古とも仲良くなれたしね」
「そうですな……屠自古は先生と話す時は自然体です。私にはそれも羨ましかった」
布都はそこで一度お茶を飲み干した。本人を目の前にすると言葉が詰まりそうになる。しかしそこで言い淀めば青娥はもっと自分を叱責するだろうと思った。言わなければそこで終わり、青娥に心情を吐露する機会はもう来ないかもしれないと、心に勇気を滾らせた。
「笑ってくれても構いませぬ。自分で我が一族を滅ぼしておきながら、私は無意識に失った母の愛を求めていた。それを与えてくれる存在として貴女を見出していたのです。滑稽でございましょう、自分から貴女を失望させておきながら……」
ふわり、柔らかな感触に包まれた。
自分の顔の真横に青娥の顔がある。急に青娥から抱擁された布都の心は驚き半分喜び半分だが、どちらにしても心臓が早鐘を打つことには変わりない。
「せん、せ、青娥殿……?」
「嫌だった?」
「滅相もない! とても、嬉しいです……」
ぽん、ぽんと、安心させるように青娥の手が優しく後頭部を撫であげた。
「貴方も私の大事な弟子の一人。師匠のことは親と思って尽くすのが弟子の礼儀よ。はい、わかったら返事」
「ええ、はい……!」
布都は青娥の袖をぎゅっと握りしめた。
「私は幸運です。太子様という主君に恵まれ、貴女という師にも恵まれたのですから」
「そう? 良い師匠だなんて言われたのは初めてなのだけど。布都ちゃん、見る目がないって言われたことない?」
「むっ!? つい先程、親と思って尽くせと言われたばかりでございますが!」
「あはは、冗談よ冗談。ありがとう、布都。そう言われると私も少し救われた気になるわ」
青娥がほんの少しの間だけ布都から目を外した。おそらく、自分でも神子でも屠自古でもない、他の誰かの顔を思い浮かべているのだろうと布都は思った。青娥が興味を持って道教を勧めた人間は神子だけではないはずだ。なのに自分達以外の弟子の姿を見たことはない。つまりはそういう事なのだろうと。
「運が良かったのは私の方だわ。豊聡耳様、布都、屠自古……素敵な人たちと一度に巡り会えたのですから」
ここで布都に魔が差した。いつも青娥ばかりに冗談を言わせている。たまには自分も言うべきかなと。
「確かに、運が良い。それにウンも良い。何しろ野菜がよく育つのですからな」
うん、これは上手いことを言った。布都は満足げに胸を張った。
「だから、女の子がそういう事を言うんじゃありません!!」
先程優しく撫でてもらった分を帳消しにする一撃が布都の頭に襲いかかるが、やっぱり叩かれても布都の顔はちょっとだけ嬉しそうなのだった。
「はっ。にゃ、にゃんにゃん……」
「いえ、にゃんにゃんは言わなくていいからね?」
とある夏、と言っても仙人が作り出した快適空間に季節はあまり関係の無い話だが、とにかくまだ太陽が上りきる前の夏の日、あまり厨房に立つイメージの湧かない二人が揃ってまな板に向かっていた。
一人は尸解仙、物部布都。包丁を握る手がぷるぷると震えている。
もう一人は同じく尸解仙にして邪仙の悪評轟く霍青娥。震える布都を見てぷるぷると笑いを堪えている。
二人の関係はというと、布都は青娥の指導の下で仙人になった身であり、一言で表せば師弟関係である。もっとも、青娥の本命は布都の主君に当たる豊聡耳神子で、布都はそのおまけで弟子入りした感が強い。
さて、二人が厨房で何をしていたかと言えば料理以外にない。現在は青娥お手製の薄焼き玉子を前に布都が覚悟を決めていたところである。
「いやいや、『ところである』じゃないわよ。どうして寺は焼けて玉子焼きを怖がるのっ」
「ただ火を着ければいいものと一緒にしないでいただきたく……」
ただで焼かれる寺の身にもなってみろと、さしもの邪仙も哀れみすら覚えた。
「綺麗にとか、上手くとか、そういうのを期待なんかしてません。まず慣れなさい。上手くやろうとかはその後に考えなさい」
布都は青娥が取った弟子の中でも極めて仙人向きの逸材であった。総合的には神子に軍配が上がるが、頭の切れや思い切りの良さでは布都が上回る事もある。
代わりに、それ以外の部分でのポンコツっぷりが目立つのだが。
「摩訶不思議で超人的な力が使いたくて仙人の道を志す人が多いけど、仙薬の調剤もできなきゃね。お料理一つで苦戦してるようではまだまだ」
かく言う青娥とて元々料理が達者だったわけではない。むしろ尸解前は家事を他人に任せて引きこもっていた程だ。長生きの中で興味の赴くままに知識と腕が付いたのである。
「ま、どんな仙人になるにしてもね? 長い人生になるのだから、美味しいものは自分でも作れた方がお得ってことよ」
食材を切るという初歩の初歩でつまずいている布都には先の長すぎる話だが、実際に千年以上生きてきた青娥が言うのだから素直に従う他はなかった。
「我はもう一人前だと自惚れることもありましたが、まだまだ先生から学べることは多いようですなぁ……」
「当然です。神子に付き合って死ななければ貴方に叩き込むことなんていっぱいあったんですからね」
「う、うむ……。あの、先生。何やら少しお怒りになってませんか?」
「仙人ならわざわざ聞かずとも私の胸の内くらい見透かしなさい。神子にはできるわよ」
青娥の辛辣な言葉が布都の胸に突き刺さった。人の欲を読む能力を持つ神子と比べられてしまうと布都にはお手上げである。勝てるとしたら覚妖怪くらいのものだ。
「ほら、へこんでないで手を動かしなさい! 神子も芳香もお腹を空かせて待ってるんだから」
青娥らしからぬ叱咤の声が飛ぶ。邪仙と後ろ指差されるイメージとは真逆の、まるで母親のような。だからだろうか、怒られているにも関わらず、布都がちょっとだけ嬉しそうな顔をしたのは。
布都はまな板に向き直ると、太く瑞々しい立派なキュウリを掴み取った。
「お待たせしました~。娘々特製、本場の冷やし中華ですよ~」
「我も手伝ったぞ!」
などと布都は言っているが、おっかなびっくり具材を切っただけだ。麺打ち、調理は全て青娥の担当である。
「……冷やし中華ってお前の本場か?」
屠自古からもっともな突っ込みが入る。
「中国生まれで永くを日本で過ごした、まさに私の為の料理と言えるでしょうね」
そして即座にさらなる突っ込みどころをもって返すのが青娥と屠自古のやり取りの常でもある。
蘇我屠自古は布都と同じく神子の腹心の一人であり、『いろいろあって』今は怨霊の体で生活している。あまりにも永い時を共に待ち続けた青娥とは良い所も悪い所も知り尽くした仲だ。
「まったく、目覚めてみれば私の時代には無かった料理だらけだ。我が国の事ながら日本人の食への貪欲さには圧倒されるよ」
日常の騒々しいやり取りを流して目の前の日本料理に思いを馳せるのは、千年以上の眠りから目覚めた飛鳥時代の皇族、豊聡耳神子。彼女こそが神霊廟の中核だ。
「ごちゃごちゃうるさいぞー! ご飯に集中しろぉー!」
恐れも知らず、ネジの外れた大声を張り上げるキョンシーの宮古芳香。青娥が邪仙と呼ばれる理由の半分くらいは死体の彼女を連れ回しているせいである。
そんなバラバラの五人が揃う神霊廟、だが今日に限っては見慣れない珍客が混じっているのだった。
「こんちはー。私の分はキュウリマシマシで宜しく!」
どこのラーメン屋でも聞くことのないであろう注文を飛ばしたのは、キュウリの為なら命すら懸けられる種族、河童である。
「……むお! 誰かと思えば貴様、にとりとかいう河童ではないか。小さいから屠自古の影で見えなかったわ!」
「ああ? お前にだけは小さいとか言われたくないよ、寺焼き女!」
会ったらとりあえず舌戦をするのも幻想少女の嗜み。
河童のエンジニア、河城にとりと布都の関係は、争うことも共闘することも有ったような無かったような、そのぐらいの関係だ。
「何やら水臭いと思ったら河童とは。まさか仙人でも食べさせるおつもりで?」
青娥が呆れた顔で神子に問う。まるで捨て猫を拾ってきた子供を見るかのように。
「私がいつものように人里で布教活動をしていたら声をかけられてね。込み入った相談があるとの事で連れてきたのだ」
「いやーそうなんですよぉ、高名な道士様のお知恵を拝借したく。こうして仙界までお招きいただいた次第でございましてねぇ」
へりくだった言い方をしているがその表情は悪ガキを彷彿とさせる。にとりに裏があるのは心を読むまでもなく明白だった。
「豊聡耳様のお心は私などには計り知れませんが、お戯れも程々に。仙界は妖怪の来る場所ではないのですから」
「言われなくとも。しかし一食を馳走するぐらいの懐の広さはあるだろう? 事情の説明はとりあえず腹を満たしてからでも遅くはあるまい。これでも私だって、青娥の食事は楽しみにしていたのですよ?」
神子の聖徳王スマイルが青娥のハートを撃ち抜いた。
「んもう豊聡耳様ったら! 私のご機嫌取りがお上手なんですから!」
青娥はサービスのつもりなのか神子の皿に大量の紅生姜をふりかけた。神子はそれを丁寧に芳香の皿に移してあげた。
神子から素行の悪さでお小言を言われる立場でありつつも、それでも青娥が神子の後ろに居続けるのは純粋に彼女が好きだからに他ならない。そして逆もまた然りなのだ。
ずるずる、ちゅるちゅる、ずぞぞっ。
バリバリ、ポキッ、ポリポリ。
麺料理を食べているとは思えない音を立てているのはもちろん、本当にマシマシマウンテンに盛られたキュウリを幸せそうに頬張るにとりである。
「美味いっ! 本当に美味い! こんなに心躍るキュウリは今まで食べたことが無いよ! それにこのキュウリとタレの相性がまた……!」
「そうかしら。水が出て薄くなってると思うのですけど……」
にとりが食べているのは冷やし中華でなくもはや千切りのキュウリである。とはいえ味は褒めてもらっているので青娥だって悪い気はしないのだが。
「悔しいけど腕は良いんだよなあ。こんな倫理破綻女のくせに」
「その破綻者に料理を教わったのも屠自古さんでしょう? 素直に美味しいって言ってくれても良いんですよ?」
青娥の箸が屠自古の頬をぷにぷに突っつこうと襲いかかり、それを屠自古の箸が阻止する。
右から襲来する箸を縦に受け止め、引いたと見せかけて逆、と見せかけて更にその逆のフェイント。しかし屠自古は青娥の腹を読んで見事に対処した。見事だろうがマナー違反極まりない攻防なのだが。
「仲が良くて結構ですがその辺にしておきなさい」
神子の言葉に屠自古の手が凍りつき、その隙を突いた青娥の箸が頬に直撃した。
「……して、河童よ。お主は何故ここまで来たのか。まさかタダ飯を喰らいに来たわけでもあるまい」
「んー? あぁはいはい。あとちょっとだから待ってくれよ」
既にキュウリを食いつくして消化試合に入ったにとりの皿。案の定キュウリから出た水で薄まった汁を絡め、ほとんど噛まずに麺をすすり上げた。
「ふぃー、ご馳走さま。いや、実に美味いキュウリだったよ。なんかもう目的とかどうでもよくなるくらいだ」
「河童からそこまで言われると悪い気はしませんね。このキュウリは私のキョンシーが育てた特別製ですから」
「自家製! 素晴らしい! やっぱり仙人を頼りにした私の目に間違いはなかったんだ!」
一人で盛り上がるにとりに対して周りの温度差は甚だしい。確かにこのキュウリは美味いが、さりとてキュウリはキュウリだ。細切りにしただけの生のキュウリで興奮できる人間はそうそういない。
舞い上がるにとりに痺れを切らし、布都の眼光が彼女を容赦なく射抜く。布都にとっての今日は青娥に修行をつけてもらう約束の日だったのだ。気まぐれな青娥が素直に付き合ってくれる事はめったにない。布都は一秒でも時間が惜しかった。
「餓鬼の如く食い散らかしおって。頼りたいことがあるならさっさと言わぬか」
「この中で一番小さい奴にガキとか言われたくないね。いや、まさにそれこそが理由なんだけどさあ」
どうやらようやく本題に入ってくれるらしい。五人は改めてにとりに向き直った。
「我々河童はみんな背が低い。まあ見ればわかるよね」
「河の童ですからねえ。大きかったら河大人でしょうか」
本場の人間だった事はあって青娥の中国語はとても流暢であった。
「呼び方はまあ勝手にしてくれよ。とにかく、弱肉強食の幻想郷において、体格で負けている河童はテクノロジーで補ってきたがそれだけでは限度がある。やはり肉体の強化もしなければならないが、しかしなぜ我々は小さいのか。我々は何度も討論を重ねた末に、ある意味当たり前の結論を認めざるを得なかったのだ」
にとりのこぶしに力が入る。認めたくなかった事実を直視するために。
「キュウリには! 栄養が! ない!!」
にとりの目にはうっすらと涙すら浮かんでいた。
青娥はのんきに食後のおやつの芋ようかんを口に運びながら言った。
「いいえ、キュウリにはちゃんと栄養ありますよ? カリウムやビタミン豊富な素晴らしい野菜です」
「そんなこたぁわかってるんでい!」
なぜかにとりは江戸っ子口調だ。
「炭水化物、脂質、そして何よりタンパク質! プロテイン! キュウリじゃこれが採れないんだ!」
「わかってるならキュウリ以外を食え。別にお主ら、キュウリ以外を食ったら死ぬわけでもないのであろう? それこそ人でも何でも食うのが妖怪じゃろうが」
「好き嫌いは良くないな」
「肉を食え、肉をー!」
布都の当然の指摘に屠自古と芳香も追従する。
「河童がキュウリを食べなかったら我々の存在意義に関わるんだよ!」
立て続けに叫びすぎて息も切れてきたが、にとりの熱はまだまだ冷めない。
「妖怪の存在は人間達のイメージに左右される。そして河童はキュウリを食べる者だ。そう思われている限り、我々は強烈なキュウリ欲求に支配されるんだ。スシ! ステーキ! キュウリ! この三つが並んでいたら大部分の河童がキュウリを選ぶ! それが河童なんだい!!」
「わかった。わかったから少し落ち着きなさい」
見かねた神子が台所からキュウリを一本持ってにとりに手渡した。肩で息をしていたにとりはこれ幸いとキュウリを頬張る。その鬼気迫る勢いにさしもの仙人達も若干引きぎみだ。
「ここまでくるともはや中毒じゃのう……」
布都が呆れている間にもキュウリは丸ごとにとりの胃に収まろうとしていた。
「えー……さて」
「さてじゃないのじゃが」
にとりの口からキュウリの汁が少し垂れている。もしや今後も暴れるたびにキュウリを与えなくてはならないのだろうかという不安が皆によぎっていた。
「河童のキュウリへの執着はわかってくれたと思う。だから協力者を探しているんだ。キュウリの品種改良のね」
「品種改良? 申し訳ないが私達は科学者ではないよ。頼む相手を間違えてはいないかね」
「いやいやそんなことはない」
神子に向けてにとりは掌を向けた。
「人の血が主食の紅魔館、食えればなんでもいい亡霊が仕切ってる冥界、餅しか作ってなさそうな永遠亭のウサギと月人……」
ダメ出しと共に一本一本指を折って候補を潰していく。
身近の秋姉妹は秋野菜ではないキュウリには弱い。旧地獄は論外。命連寺の奴らは酒池肉林の生臭集団。
半ば暴言のようないちゃもんの末、次の神霊廟でにとりの手が止まった。
「そこで仙人だ。貴方達は毎日の食事を大事にしてるじゃあないか。実際道士様も食生活の大切さを熱弁していたし」
「うむ、まあそんな日もあったが」
青娥に騙されて米国の大統領風の演説をした回の事を言っているのだろうが、神子にとってはちょっぴり思い出したくない話だった。
「……医食同源という言葉があります。身体は日々の食事によって作られるもの。食材の知識は健康で強い体を作るのに欠かせませんからね」
「そう、それ!」
にとりが勢いよく青娥を指差した。
「そんでもってですが邪仙様ぁ、貴女ほどのお方でしたなら生き物のえげつない遺伝実験とか……ぶっちゃけやってるんでございましょう?」
「私を何だと思ってるんですか。そのような無駄なことはとっくに止めましたよ」
つまり昔はやっていたらしい。しかし幻想郷は脛に傷持つ者が流れ着く場所の側面もある。清廉潔白な者を探す方が難しいのだ。
「まあ今でも昔でも良いよ。アンタに知識があるのは今までの会話で十分。だからお願いだ! キュウリを食べるだけで万事解決な、完全栄養食に作り替えるのに協力していただきたい!」
にとりは今までにない真剣な面持ちで頭を下げた。
「イヤで~す」
そして邪仙の返答はこれである。神霊廟一同は『だろうなあ』という表情をした。
「なんで! ナンデ!?」
二度目の『なんで』が裏返るほど、にとりのショックは大きかった。
「まずそんなキュウリ自体が無理に決まってますし。タンパク質が豊富なキュウリって、それキュウリと呼べる野菜なんですか? 大豆みたいな味がすると思いますけど」
「そこを何とかするのが邪仙じゃないのか! 無理非道の仙人の名が泣くぞ!」
「別に自分で名乗ってる異名じゃありませんし。大体ですね、品種改良ってとても地道で長い時間を使う研究なんですよ。到底付き合ってられませ~ん」
邪仙だって無理なものは無理だ。道なき道を往くのが邪仙でも、歩く気がない場所を歩こうなんて思わないし、歩きようがない場所は歩けない。
「そもそも貴方は妖怪です。どうして仙人が協力しなければならないのでしょうか。強くなった暁には次は仙人の血肉を……」
「待った、青娥」
にとりが激昂する前に神子が割って入った。
青娥は良くも悪くも人間好きとして知られている。その分、妖怪やそれに味方する者には厳しかった。
なぜならば、妖怪は人を喰う者だから。
「……青娥。貴女の心情は多少なりとわかっているつもりですが、この者をここに連れてきたのは元はと言えば貴女のせいなのですよ」
「と、言いますと?」
青娥の問いに、にとりは待ってましたと積もり積もった恨み節を吐き出した。
「水鬼鬼神長。忘れたとは言わせんぞ」
それはかつて青娥の命を回収しに来た地獄の使者の名前だ。幻想郷中の水を集めて滝の如き水牢の中で窒息させようとするが、地面に穴を掘って逃げるという青娥の機転で失敗に終わっている。
さて、問題なのはそれがどこで起きたかという点だ。つまり──。
「河童のアジトへの不法侵入! それにあいつの水のせいで河がめちゃくちゃになった落とし前! きっちり払ってもらうまで帰らないぞ!」
──ということだった。
「そんなの場所を考えない水鬼の方が悪いじゃないですか~」
「つべこべ言うな! どっちみちお前はうちのアジトから盗むつもりだったんだ! ついでだよ!」
「ちょっと前まではキュウリだって人様の畑から盗んでいたのでしょう? それにモンスターからアイテムを奪うのは罪に問われないのですよ。ご存じでないのですか?」
「知ったことか! 奪われた我々には怒る自由がある!」
「はい、そこまでにしなさい」
子供の喧嘩を止めるのは大人の役目。今回は神子の立場がそれである。
「青娥の言い分はわからないこともないが、こちらに非があるのも確か。青娥、にとりの要望に応えてあげなさい」
「ひゅう! さっすがー、道士様は話がわかる!」
青娥はうんざりした顔で神子を正面に捉えた。
「話は聞いてましたよね? キュウリがそんな都合の良い食物にならないことぐらいご承知のはずです」
「太子様、恐れながら我も青娥殿と同意見ですぞ」
「ええ、今回ばかりは私もです」
「そうだそうだー!」
青娥に続いて布都、屠自古、芳香が同調した。
要は大好物だけ食べていれば大丈夫なようにしてくれと頼んでいる。寝言は寝て言えという話であった。
「さて、どうだろうか。青娥はどうなのかな。本当に河童の願望を叶えられないと思っているのかね」
「……豊聡耳様は意地が悪いです。そのような聞き方をなさるのなら全てわかっているんじゃないですか」
神子と青娥の視線がしっかりと交わった。期待通りの反応が得られた神子は得意げな笑みを浮かべる。
「河城にとり、でしたね。貴方が望むのならば私の畑を見学していっても構いませんよ」
「本当か!? その畑に秘密があるならぜひ学ばせてもらいたいよ!」
にとりの表情が歓喜に染まる。一方で理解の外にいる他の者達は依然納得いかない顔のままで、特に今日の約束を反故にされそうな布都の胸中には暗雲が立ち込めていた。
「確かに美味ではあったが、正直そこまで普通のキュウリと違うとは思えなかったがのう……」
布都は今日のキュウリの味を思い返していた。歯ごたえ、風味、色合いなど、キュウリの中では高品質なのは間違いないが、決してキュウリから逸脱する物ではない。にとりの言うような人間に必要な三大栄養素を全て兼ね備えるような食品とは到底思えなかった。
「布都。にとりさんと共に私の畑に行きますよ。答えがわからないのなら貴方も実地研修です」
「なんと、私もですか? いや、それよりも書物の記述でいくつか不明な点を聞きたかったのですが……」
「貴方は壊すとか燃やすとか物騒な思考に偏りすぎなの。少しは生み出す側の事も知りなさい」
「全く、その通りだな」
屠自古がうんうんと頷く。やめろと言っても勝手に皿を持ち出しては投げて帰ってきて、そのくせ補充は他人任せだ。神霊廟の家計を圧迫しているのは布都が壊した皿と青娥が勝手に持っていくあれやこれやの代金である。
「布都、先生の言葉に従いなさい。このキュウリの秘密も、なぜ青娥が渋ったのかも、行って自分で答えを導くのだ」
「はあ、太子様もそう仰るのであれば……」
神子からも言われてしまっては逆らえぬと布都は渋々同意した。これはこれで、青娥と一緒にお出かけできる機会と思えばそう悪いものでもない。余計なコブまで付いてきてしまうのは残念ではあったが。
「そんなに睨んでもにとりさんから出汁は取れないわよ。さあさ、支度ができたら出発しますからね」
青娥は頭のかんざしを手に取ると、その先端で壁に綺麗な円を描いた。先に地獄の遣いから逃げるのにも使った穴開け鑿の力は、ただ穴を掘るだけが能ではない。事実、掘られた穴の先には青々とした畑の風景が広がっていたのだから。
神子が作り出した仙界と青娥の仙界、次元の違う二つの世界は今、青娥が穿った穴一つで繋げられた。
にとりは穴の先にお目当ての野菜があると認識するや、おあずけを解かれた犬のような勢いで穴の先に突き抜けていくのだった。
「……ってお前、虫が入ってくるだろうが! さっさと行け!」
農場に虫は付き物だ。そしてここは食卓である。屠自古は布都を穴の先に突き飛ばし、ついでに親切にも布都の靴を掴んで放り投げてあげた。青娥の術に今更驚きなど感じない屠自古からは壁抜けもただ不評だったようである。
「芳香、屠自古さんと豊聡耳様のお守りをお願いね。後片付けもよろしく」
「おー、ラジャー!」
芳香はビシッと敬礼のポーズを取る……つもりだったのだが、間接が固いので代わりに掌を前方上に突き出す。
屠自古がいかにも何か言いたげな表情を見せた時、既に青娥の穴は向こう側から閉じられようとしているところであった。
◇
「うおおお! キュウリ、キュウリ、キュウリだぁぁぁ~!」
にとりのはしゃぎようは尋常ではなかった。
青娥が庭に築いた家庭菜園は明らかに家庭の域を超えている規模だ。広々とした畑のあちらこちらで、農夫が不自然にきびきびとした動作で働いている。
「タキオさ~ん、ちょっといいかしらー?」
青娥は菜園の隅にうずくまっていた一人の男に声をかける。麦わら帽子にオーバーオールの格好はその人物も農夫であることをありありと物語っているが、しかしここは青娥の家である。その額にはもれなくキョンシーの札が貼り付いていた。
「こちら、農業全般を取り仕切っているキョンシーのタキオさん。農業については私よりも詳しいわ」
紹介された中年キョンシーがにっこりと笑った。死体の笑みに、にとりも硬直した笑顔を返す。
「あ、ああ。よろしく……」
「お初にお目にかかり申す」
布都は礼儀正しく深々とお辞儀をし、札が貼り付いたその顔をまじまじと見た。
「ふむ、中々の美丈夫ですな。生前はただ者ではなかったとお見受けしますが」
「ふふ、素敵でしょう? かつては『農業もできるアイドル!』がキャッチコピーで大人気グループのメンバーだったのよ」
青娥の紹介にキョンシーは複雑な面持ちで目を閉じる。あまり生前の事を思い出したくはなかったのだろう。何しろここに居る以上はワケ有りなのは間違いないのだから。
「畑の事はほとんど任せてるから詳しい作業は彼に聞いてくださいな」
「ありがたく!」
にとりは細かな部分を一通り尋ねて回った。種の植え方、水やりのタイミング、剪定、交配、肥料、収穫……思いつくまま次々と。そして聞かれたキョンシーは死んでいるとは思えないほど完璧ににとりの質問に対応していった。
布都はその様子から感じ取った事を青娥に述べる。仙人の特徴はずば抜けた五感だ。思ったことは口に出すようにという青娥の修行方針の一つだった。
「死して尚、身体に染み付いた知識は消え失せぬ、という事ですか」
「そうね。彼の知識と経験は本物だった。人類の発展と農業は切っても切り離せない。死に際までずっと農業の未来を想っていたようね」
「だから死んでも放っておけなかったのですか。農家も野性動物や機械で危険と隣り合わせと聞いております。その時にはさぞや悲しまれたことでしょう……」
「んー……何と言うかね? メンバーの一人が……」
青娥はそこで布都相手にどう言ったものか思案したが、自分が邪仙であり布都が布都である事を思い出してそのまま言うことにした。
「未熟な果実を収穫してしまって……その責任で……」
「それは、赦されざる大罪ですな……」
聖童女の名とは裏腹に長生きの布都はそれだけで何があったかを概ね悟り、生き生きと農業を語るタキオさんに生暖かい視線を向けた。
彼はキョンシーとして生まれ変わったのだ。余計なことを気にせず農業だけに集中できる今こそが、誰が何と言おうと一番幸せな時期なのだと信じることにして。
「さて!」
青娥はパチンと一発手を打った。
「これが私の畑だけれど、河童のキュウリ栽培場と比べてどう思う?」
「うーん……率直に言って原始的、だね」
ここはまさに『畑』だ。
河童がキュウリの為に建設した農園は彼らのテクノロジーが結集されている。徹底した設備管理の下、水やりから気温、湿度、防虫まで、もはや人の手が全くいらないレベルでオートメーション化が進んでいるのだ。
それと比べればこちらは空き地を耕してそこに種を蒔き、井戸から汲んだ水をジョウロで撒く、言ってみれば夏休みの自由研究レベルの栽培方法のまま規模だけ大きくなった感がある。キョンシーに運用させている畑である以上はあまり複雑な作業工程にできないのかもしれないが、にとりから言わせれば非効率的と言わざるを得ないものだった。
「正直なところ、ここでうちの農場より美味いキュウリが作られてるだなんて信じられないよ。ちょっと一本確認してもいいかい?」
「驚異の胃袋ですこと……タキオさん、二本取ってあげて」
河童はキュウリの為ならいくつでも別腹が作れるのだろうか。一度レントゲンでも撮って検証してみようかと青娥は考えていた。
ともかくタキオさんからキュウリを受け取ったにとりは、大きさ、色合い、ツヤ、香りなどを一つ一つ確かめると、満を持してそれを丸かじりにした。
「す、凄いッ……みなぎってくる……!」
にとりの瞳の中で綺羅星が瞬いていた。
一口飲み込むごとに力が溢れるような気がする。こんなキュウリを毎日食べていれば天狗にも鬼にも勝てるのではと思うほどだった。
「うむ、確かに美味いキュウリではありますがやはり普通のような……河童とは感じ方が違うのじゃろうか……」
「実はね、そんなに難しい理由じゃないのよ。ごく単純な事。だけど、だからこそ教えたくないの」
「でもこんなキュウリはうちじゃ作れないよ。品種か、与えてる水か、肥料か? 私達の知らない何かが違うんじゃないのか?」
「ノン、ノン。布都にはわかったでしょう? このキュウリは採れたてで新鮮な以外は普通のキュウリよ。人里に出回ってるキュウリと品種は同じだし、水だって空間を繋いで引っ張ってきてる幻想郷の水なの。肥料も昔ながらの物で、特殊な合成物質とかは一切添加してません。あ、それと農薬も無しね」
もう一本のキュウリを味見していた布都はキュウリの断面とにらめっこをしながら考え込んでしまった。
キュウリはほとんどが水分であるし、一本かじった程度でそこまで元気にはならない。河童には人とは異なるキュウリの吸収方法でもあるのだろうかと。
例えば牛馬は基本的に草しか食べないにも関わらずあの巨体だ。それは体内で草の栄養分をタンパク質に変換する為のシステムが備わっているおかげである。
河童も妖怪だ。人が理解できないから妖怪なのだ。そうやって思考を放棄するのは簡単だが、先程の様子の限りでは青娥はもちろん神子も理由を察している。書を読み漁り、人から教えを受ける事も大切だが、前人未到の真理に辿り着くには自分で考える力が不可欠だ。だからこそ神子も布都に行けと命じたのだ。
「このキュウリの種をうちで育てたら同じ物ができるのか?」
「河童次第、でしょうね。今のままでは無理です」
「だったら育て方か……いや、土か!? 土が違うんだな! きっとそうだろう?」
「いいですね、近付いてますよ」
青娥は畑の端っこの柔らかく盛られた土を足でほぐして転がした。
「ただし、仙人でも無から有は生み出せません。仙界といえど、元は全て穢土から切り取られたものなのです。仙界の土で育てれば全てこうなるわけではありません」
「つまり、先生は土も幻想郷の物だと言いたいのですかな?」
「そういうこと。タキオさん達に頑張って耕してもらったんだから」
タキオさんが力こぶを見せつけて自慢げに笑った。相当頑張ったらしい。
そんなことはどうでもいいにとりは腕組みして頭を捻っていたが、突如勢いよく畑の下方を指差した。
「……土の下に何か埋まってる! それから栄養を吸ってる! どうだ?」
「ハズレ。『何か』の何って死体って言いたいのでしょう? 妖怪寺じゃあるまいし、そんな肥料は与えませんよ」
「クソォ~~~~ッ! いったい何が違うっていうんだ!」
「…………うむ?」
布都は何かが引っ掛かった。
──妖怪寺が本当にやっているのかはともかく、あ奴らならやるかもしれぬと先生は言った。何故かといえば妖怪は人を喰うからに他ならぬ。人を養分に育った作物を食うだけでも妖怪の業が満たされるのならば、ここの畑は──。
「布都は気付いたみたいね。そう、実はここに来る前から答えはとっくに出ていたのよ」
◇
「屠自古、一つ確認したいのですが」
「何でしょうか、太子様」
神子と屠自古は正座して向かい合っていた。二人の間にあるのは将棋盤。つまり将棋を指していた真っ最中である。
一つ妙な所があるとすれば、屠自古の頭の上に芳香が顔を置いてもたれかかっている事だ。いかにも暑苦しそうだがお互いに身体がひんやりしていて快適なのだそうだ。
「うちから出ている廃棄物は相変わらず青娥に処理してもらっているのですか?」
為政者モードを解いた神子の口調は柔らかい。今は戯れの時間だった。
「ああそうですね。リサイクルだって言ってあいつが持っていくんですよ。手間が省けて良いので勝手にさせてます」
「やはり、そうなのだね」
屠自古は話しながら駒を動かした。ただし駒の位置は芳香の指示である。つまり、屠自古は身体が固くて駒を動かせない芳香の代打だった。
「なぜそのような話を急に?」
「……ぬぁ、なんだぁ? 屠自古はわからんのか? さっきのキュウリの話だぞ。屠自古はまだまだだなぁー」
芳香はいたずらに顎で屠自古のつむじをぐりぐり押した。
「おぐぅっ!」
仕返しに顎を頭突きされた。
「……ふふ。そう、キュウリの話だよ。芳香は流石青娥の……と言ったところだね」
芳香に負けてちょっぴり悔しい屠自古が口を尖らせながら聞く。
「私だって今ので察しましたよ。つまりあのキュウリの秘密はうちの廃棄物にあるんでしょう?」
「青娥の反応や心の揺れ動きから判断してほぼ間違いなくね。まあなんだ、その。つまりあのキュウリはだね、廃棄物というか、うん……」
◇
「……こじゃ!」
「こら!」
布都は青娥に頭をひっぱたかれた。
「あだっ!? 何をなさるのですか先生!」
「何をじゃありません。女の子がそんな事を大声で言っちゃダメ!」
だから教えたくなかったのに。青娥は間抜けな弟子を憂いて息を吐いた。
「あ、ああああぁぁぁぁ!!」
にとりも絶叫した。布都の大声で今まで自分が見落としていた初歩の初歩に気付いたのだ。
「そうだよ! う……コホン、これだよ!!」
言われてみれば確かに答えは最初から出ていた。理詰めで考えるにとりだからこその迷走であった。
「はぁ……答えが出たから白状するけど、そうよ、排泄物。それが誰由来なのかっていうのがポイント」
「まあ、我々ですな。仙人の老廃物を混ぜて作った堆肥の肥料。それで育った野菜を食べたら妖怪はどうなるか」
「妖怪は仙人の肉を喰らうと強くなる。微量とはいえ仙人のエキスが含まれた野菜でも同じ事なのよ。自分で食べてて気付かなかったのかしら」
思い返せばキュウリを食べてからのにとりがやたらと興奮していたのもそれが原因だったのだ。
「だって、キュウリが凄く美味しくて……」
「それは嬉しく思うけど、妖怪の本分を忘れてテクノロジーに傾倒していたのではねえ」
現代農業では肥溜め自体が病原菌の感染源となったり落下事故の問題で廃止されている。河童も衛生面や入手の安定化を重視して科学的に合成した肥料を用いていたのだ。それと、女の子なので無意識にシモの話題を避けていたのも一因だったり。
さて、それがわかっていたからこそ青娥は言いたくなかったし、察した神子も青娥に投げた。ではキュウリの秘密を解いたこの河童が次に何を言い出すか。
「ここの堆肥を売ってくれないか!?」
当然、そう来る。
「ダメに決まってるでしょう」
「ですよなあ……」
仙人エキスが詰まった堆肥なんて河童以外にも需要が有りすぎる。そんな物を幻想郷に流通させたらパワーバランスの崩壊に繋がるだろう。味をしめた妖怪が直接仙人の肉を狙ってくるかもしれない。なぜ自分達を狙う相手を強くしてやるのかという話だ。ついでに排泄物を欲しがられるのも単純に気持ち悪い。
「どうしても欲しかったら貴方達も豊聡耳様の所に入門したらどうかしら。死ぬ気で努力すれば河童でも尸解仙くらい成れるかもしれないわ」
「なぁるほど、それは名案でございます。流石は先生!」
「全然名案じゃないっ! 河童じゃなくなったらキュウリに拘る事もないじゃないか!」
河童の要求を満たせて神子にも箔がつく一石二鳥の手だと思ったが、了承するわけがないのは布都も承知の上。しかし明らかに無茶な要望を満たせる答えを示せたのだからこの辺りで満足してもらわなければ困る。
「だったら……こういうのはどうだ?」
まだ諦めないにとりが次の手を繰り出そうとしていた。機械か何かしらのテクノロジーを交換条件にしようと言うのだろう、と予測したのだが。
「今度からうちの厠でうんちして……!」
「は~い、妖怪さんは仙界からご退場願いまーす」
青娥はにとりを囲うように鑿で地面に丸を描いた。
「私はぁぁ、諦めんぞおおぉぉぉぉォォォォ…………!」
にとりは真っ暗闇の穴に落ちていった。声がどんどん遠ざかっていく。
やがて、穴の奥からぼちゃんと水の音がした。おそらく幻想郷を流れる玄武の沢に落ちたのだろう。
「やっと静かになったわねえ。タキオさんも作業の邪魔しちゃってごめんなさいね」
タキオさんは何事も無かったかのように農作業に戻っていった。彼も結局は人の心が僅かに残った農耕機でしかない。次に会う事があってもにとりの顔は忘れているだろう。
何なら秘密を知ったにとりの命など奪ってもよかったのに、ただ帰すだけで終わらせた。昔の自分だったら容赦なく殺していたであろうに、神子が復活してから私も丸くなったものねと、青娥は自分の変わりようを自嘲するのだった。
◇
「しかし哀れなものでしたな。野菜一つにああも必死になって」
「あの子も結局本当の正解からは目を背けたままだったものね」
「……なんですと? 肥料だけではなかったのですか?」
「わからない? 貴方が言ったことなのにねえ」
布都は青娥の私室で二人向かい合って座っていた。布都は正座で青娥は足を崩し、お茶で喉を潤しつつ。
「好き嫌いせず何でも食べる。これが本当の正解。そうでしょう?」
「……確かに、私も言っておりましたな。まあ奴はそれを突っぱねたのですが」
目が血走るほどキュウリに躍起になっていたにとりの姿を思い返して二人はくすくすと笑いあった。
キュウリと一緒に他の物も食べればいい。本来はただそれだけの事だ。
「でもあの子の姿勢には見習うべきところもあるわ。当たり前という壁を打ち破ろうとする革新的な執念は大事。仙人もそういう存在だもの」
「なるほど……それを教えたくて先生は私を連れてきたのですか」
「あらあら、そんなわけないでしょう?」
青娥の人差し指が布都のほっぺを突っついた。
「一緒に連れて行かないとぐずりそうな布都ちゃんがいたからですよ」
「なっ……!?」
布都の頬がちょっぴり赤みを帯びた。
「別に、私はそのような……いえ、貴女に隠し事はできませんな。確かに、その通りでございました」
「そこはもっと意地を張ってくれた方が可愛かったんですけど。相変わらず人のツボを外すのよねえ。人のツボは壊すし」
「うっ!?」
最大級の急所を突かれた布都は息を詰まらせる。
今でこそ喧嘩しながらも仲良くやっている布都と屠自古だが、かつて壺に細工をして屠自古の転生を妨げたのは他でもない布都なのだ。屠自古が幽体を気に入ったおかげで事なきを得ているものの、一つ間違えれば神霊廟の生存者が誰一人として居なくなっていてもおかしくはなかった。
「……決して許されない大罪を犯したのは自覚しております。屠自古や太子様を裏切ったのはもちろん、師である貴女の顔に泥を塗ってしまいました」
「良いのよ。結果論だけど貴方のおかげで今こうして皆で一緒に居られるのだから。死んじゃったおかげで待ってる間に屠自古とも仲良くなれたしね」
「そうですな……屠自古は先生と話す時は自然体です。私にはそれも羨ましかった」
布都はそこで一度お茶を飲み干した。本人を目の前にすると言葉が詰まりそうになる。しかしそこで言い淀めば青娥はもっと自分を叱責するだろうと思った。言わなければそこで終わり、青娥に心情を吐露する機会はもう来ないかもしれないと、心に勇気を滾らせた。
「笑ってくれても構いませぬ。自分で我が一族を滅ぼしておきながら、私は無意識に失った母の愛を求めていた。それを与えてくれる存在として貴女を見出していたのです。滑稽でございましょう、自分から貴女を失望させておきながら……」
ふわり、柔らかな感触に包まれた。
自分の顔の真横に青娥の顔がある。急に青娥から抱擁された布都の心は驚き半分喜び半分だが、どちらにしても心臓が早鐘を打つことには変わりない。
「せん、せ、青娥殿……?」
「嫌だった?」
「滅相もない! とても、嬉しいです……」
ぽん、ぽんと、安心させるように青娥の手が優しく後頭部を撫であげた。
「貴方も私の大事な弟子の一人。師匠のことは親と思って尽くすのが弟子の礼儀よ。はい、わかったら返事」
「ええ、はい……!」
布都は青娥の袖をぎゅっと握りしめた。
「私は幸運です。太子様という主君に恵まれ、貴女という師にも恵まれたのですから」
「そう? 良い師匠だなんて言われたのは初めてなのだけど。布都ちゃん、見る目がないって言われたことない?」
「むっ!? つい先程、親と思って尽くせと言われたばかりでございますが!」
「あはは、冗談よ冗談。ありがとう、布都。そう言われると私も少し救われた気になるわ」
青娥がほんの少しの間だけ布都から目を外した。おそらく、自分でも神子でも屠自古でもない、他の誰かの顔を思い浮かべているのだろうと布都は思った。青娥が興味を持って道教を勧めた人間は神子だけではないはずだ。なのに自分達以外の弟子の姿を見たことはない。つまりはそういう事なのだろうと。
「運が良かったのは私の方だわ。豊聡耳様、布都、屠自古……素敵な人たちと一度に巡り会えたのですから」
ここで布都に魔が差した。いつも青娥ばかりに冗談を言わせている。たまには自分も言うべきかなと。
「確かに、運が良い。それにウンも良い。何しろ野菜がよく育つのですからな」
うん、これは上手いことを言った。布都は満足げに胸を張った。
「だから、女の子がそういう事を言うんじゃありません!!」
先程優しく撫でてもらった分を帳消しにする一撃が布都の頭に襲いかかるが、やっぱり叩かれても布都の顔はちょっとだけ嬉しそうなのだった。
にとりいいもはやキュウリに呪われていますな……
霊廟組が実に軽快にわちゃわちゃしていて良いですね。綺麗にオチていて凄いと思います。下にスクロールしていくにつれて下の話が展開されてってやかましいわ!
良かったです。
かなりまな板だよコレ!