きっと、喪ったものが大きすぎるから、
私たちは存在する意味を亡くした後の地獄のような世界で、
狂ったように騒ぎ続けるしかないのだ。
どうか、在り続ける意味さえ解らないこの身を焼いてしまうような、万雷の拍手を。
あるいは、叶うことなら。
この霊魂に一筋の光が差すような、ただ一度の拍手を。
東方project二次創作
『騒霊楽団に万雷の拍手を』
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幻想郷の空で夏の星座が並ぶ夜のこと。
霧の湖のほとりに建つ廃洋館で、いくつもの音が響いていた。
玄関を入ってすぐに位置する大広間で、音は重なり合って、大きなうねりを生み出していた。
その中心にはリリカ・プリズムリバーがいた。
リリカは叫び声をあげる代わりに、キーボードで音をかき鳴らす。ただただ、世界を音で覆いつくしていた。劈く音。潜む音。安らぐ音。不穏な音。ありとあらゆる音色を広げ、空間に物語を描いていく。
やがて、重なった音の色彩が最高潮に達し、一際大きな響きを生み出す。大気が震えるほど、重なった音が空間に広がる。そして、まだ世界にあり続けようと欲しているかのように、その音色の余韻を空間に残し続けた。それでも少しずつ、静かに消え行っていく。音も、世界を描いていた色彩も、少しずつ透明に廃洋館の暗闇に溶けていく――。
そうして、しんと静まり返った後。リリカは汗に塗れた顔を天井へ向け、恍惚とした表情を浮かべた。
「万雷の拍手を送れ、世の中の有象無象ども……!」
直後、地を割るような拍手、歓声が、廃洋館に轟く。リリカはまるで悦びを浴びるように、その音へ躰を向け、拍手、歓声に身を委ねる。瞼は安らかに閉じて、上気した口元からは熱っぽい吐息を漏らしていた。
音に撫でられるように、音に愛されるように。リリカは拍手と歓声の響きに身を任せ続けた。やがて、リリカの躰に音が満ち溢れたころ、喝采は余韻のように薄れていく。
「……」
廃洋館が、物言わぬ建築物であることを思い出したように静かになってから、リリカは瞼を開ける。
埃っぽい空気。鼠の糞と食べかすで汚れた絨毯。黴の醜悪な臭い。
廃洋館の大広間には、リリカ以外、誰もいない。リリカが奏でた音楽の聴き手もいなければ、それに喝采で応じた者もいなかった。ただすべて、リリカが自ら奏でた幻想の音でしかなかった。
もはやリリカの顔に、先ほどまでの上気した赤みは残っていない。ただ白く冷たく、それでいて気だるげな苛立ちだけが映っていた。
のろのろと、疲れ切った様子で、自室へ続く階段を目指して、リリカは歩いていく。ぎいぎいと、絨毯で覆われているはずの床が、軋む音を鳴らす。その音でリリカはさらに不快そうに顔をゆがめた。
そうして階段の手前、暖炉の前を横切ろうとしたとき。リリカの目が、暖炉の上に置かれた写真立てに向く。
暖炉の上には、五つの写真立てが並んでいた。左から、プリズムリバー三姉妹の長女ルナサの写真、次女メルランの写真、一際大きな写真立てに入った朽ちた写真、そして三女リリカの写真。そのさらに右には、何も入っていない写真立てがある。
中央の朽ち果てた写真は、どうやら家族写真のようだった。灰のような色合いの白黒写真だ。しかし、プリズムリバー三姉妹が映っていることが辛うじてわかるだけで、それ以外のものは何も判別できなかった。
リリカは顔を歪ませる。なぜだかは分からないが、リリカはその写真を見ると、いつも不快な気持ちがした。そして、もう一つ、一番右端にある空白の写真立てが、いつもリリカの気持ちに言いようのないうねりを産んでいた。
いったい、なんだっていうんだ。リリカには、自らの胸に渦巻くものの正体が分からなかった。そして、その渦巻くものをただぶちまけるように、リリカは歪な不協和音をかき鳴らした。
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プリズムリバー三姉妹の新作ライブまで、あと一か月ほどだった。
けれどもライブで演奏するはずの新曲は未だに形になっていない。
作曲に行き詰ったときのいつもの癖で、プリズムリバー三姉妹はそれぞれの方法で、その不安定な状況を過ごしていた。
長女のルナサ・プリズムリバーの気分は沈み、一日の大半をベッドの中で過ごした。誰が部屋の扉を開けても身動き一つ取らず、表情は彫刻のように乏しい。また食事も数日に一度になった。
次女のメルラン・プリズムリバーの気分は昂ぶり、一日の大半で口から言葉を発していた。キッチンに入っては皿を「1、2、3、4、1、2、3、4」と何度も数え、大きさが異なる二つの花瓶を目の前にしては「大きい、小さい、大きい、小さい」と何度も指さしていた。また人里に出かけ、意味もなく大量の買い物をしていた。
三女のリリカ・プリズムリバーの想像は広がり、あれこれ思い巡らせていた。ライブがうまくいかなかったらどうなるかとか、反対に大成功したらどうなるかとか、そういうことに執心していた。一番日常生活を営むことができたのは彼女だった。姉たちの精神の不調を見かねては、迷いの竹林に住む医者に連絡をして、姉たちの気分の安定を目的にした月の兎の催眠術を依頼していた。
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幻想郷の空のてっ辺に、日が近づきかけた昼近くのこと。
リリカはいつもの洋風の装いから、朱色の質素な着物に着替え、また帽子の代わりに星の飾りがついた髪留めでヘアスタイルを整えて、こっそりと人里を訪れていた。幻想郷で屈指の人気アーティストともなれば、お忍びではないと人里を歩くことさえままならなかった。
新作ライブまで日がないというのに、曲作りの目途はまるで立っていない。
気分の浮き沈みがある二人の姉は、廃洋館にてそれぞれの方法で過ごしている。一見まるで作曲の役に立たない様子だ。しかしあの調子でリリカには作り得ない作品を生み出したりもするのだから、不思議なものだった。
だからリリカも自分なりの方法で、新曲を作ろうとしていた。今日は、毎日頭を悩ませているだけでは作曲にも悪影響だと考え、気分転換のために人里まで足を伸ばしていた。
今日のリリカのお目当ては、人里で話題だという団子屋だった。その団子屋は数年前から人里の数か所を巡る形で営まれている。最初のころは行列ができることもあったほど、味が評判らしかった。
並ぶのは面倒くさいが、いつかは食べてみたい。そう思って数年経ち、最近は行列ができているという話も聞かなくなった。なので、ちょうどいいと思って食べに行くことにした。
正午ごろ、団子屋に着くと、屋台には店主一人がいる限りだった。客は誰もいない。
リリカは昼飯時なら団子を買いに来る物好きも少ないだろうと考え、この時間を選んで訪れた。しかし、この状況はリリカの狙い通りなのか、それとも団子の味が落ちたのか、少し不安になった。ただ、屋台は綺麗だ。それに陳列されている団子の数も多く、午後にそれだけ売る自信があるようにも見える。
リリカが屋台に近づくと、店主は新聞を読んでいた。『文々。新聞』だった。
あんな下らない新聞を読んでるなんて、この店主の品格は大丈夫か? リリカの胸中に、そんな不安が浮かぶ。
店主はリリカの存在に気づくと、新聞を畳み、その黒い瞳を向けてきた。意外にも、まだ年端もいかないように見える、帽子をかぶった女店主だった。
「いらっしゃい。うちは味一番、一本四文ですよ。どれにしますか?」
と声を掛けられる。品ぞろえは、みたらし団子に、三色団子、それから餡団子の三種類。いずれも持ち運びやすいように串団子だった。ふむ、とリリカは少し考えて、一番シンプルそうな三色団子を注文した。
「へえ毎度。このままでも?」
と言って店主は団子を一串、リリカへ差し出す。
それから、リリカの顔を見て、表情を止めた。
「ありゃ。あんたもしかして、プリズムリバー三姉妹のリリカさん?」
え、とリリカの口から驚きの声が漏れる。
バレちゃいけないと思い、服装だけでなく、外見だとか、雰囲気も多少変えていたつもりだった。騒霊だからこそできる変装で、ただの人間に見破ることなどできないはずだった。
「いや、そんなあ! 私の可愛さなんて、あのリリカさんと比べられたもんじゃないですよ。店主、お上手ですね」
照れ笑いを作って誤魔化してみようとする。しかし店主は動じず、にこりと笑って見せる。まったく誤魔化せていないようだった。
「お客さんの波長、幽霊のものですから。私らにはよく分かっちゃうんですよ」
波長。なんだそれ、とリリカの頭に疑問符が浮かぶ。
それからリリカは、店主の瞳がいつの間にか赤く光っていることに気が付いた。
おやさっきは黒かった気がするが、とリリカは妙に思う。それからその頭をよく見ると、いつの間にか帽子から人のものではない長い耳が垂れていた。
その外見上の特徴に、リリカの頭の中で一つの種族の名前が浮かぶ。
「お前……もしかして、妖怪兎? 人里で人間に化けて商売してるの?」
「はじめまして。ただの妖怪兎ではなく、月からやってきた玉兎です。名前は鈴瑚。どうぞよろしく」
鈴瑚は手を差し出してきた。リリカもそれに握手で応じる。それから口を尖らせて見せ、鈴瑚に訴えてみた。
「もー、でも勘弁してよね。せっかくお忍びで人里来てるのに、正体ばらすなんて」
「あ、こりゃ失敬しました」
これお詫びです、と鈴瑚はもう一本団子を無料でくれる。ありがとう、とリリカは受けとる。それから、それでも鈴瑚に多少むっとした顔をアピールし続けた。
「でもこれから先、顔を合わせることも多くなりそうなので、ご挨拶をと思って」
にこりと笑う鈴瑚を前に、リリカは首をかしげる。
「顔を合わせる? なんだって、私とあなたが?」
「プリズムリバーさん、新作ライブの前とかで、永遠亭の鈴仙って兎を頼られているでしょう?」
確かにその通りだった。ルナサとメルランの気分の不調を安定させようと、定期的に月の兎の催眠術を依頼していた。
「ところがその鈴仙、ちょっと忙しくなるからそちらに伺えなくなるみたいで。代わりに私たちが伺うことになったんです」
「あなたが?」
「まあ、私は道案内の付き添いみたいなもので。催眠をかけるのは、もう一名のやつですよ」
聞けば月の兎である玉兎というのは、種族全体で催眠術を扱えるものらしい。今回は、鈴仙と親しい間柄だという鈴瑚と、もう一名の清蘭という玉兎に話が回っているそうだ。
「清蘭も近くで団子屋をやっています。良ければ、これからご案内しましょうか?」
リリカは少し考える。今日これからの予定は、特に決まっていない。
強いて言えば人通りの多い場所でゲリラ演奏をしようと考えていたくらいだ。来月の新作ライブの宣伝を兼ねつつ、拍手喝采を浴びてストレス発散をしようと思っていた。しかしゲリラ演奏をするにしても、まだ昼飯時だから人の集まりは悪いだろう。
せっかくなのでお願いするわ。そう伝え返して、リリカは申し出に応じた。
リリカと鈴瑚は人里の大通りに向かって、連れ立って歩いていく。
「しかし、アーティストっていうのは大変なものですね。催眠術が必要なんて、新曲を作るのによほど精神を削ってしまうみたいだ」
もぐもぐと、鈴瑚は自分の屋台から持ち出した団子を食べ歩きしながら喋る。
「姉さんたちはちょっと独特だけどね」
姉たち二人の廃洋館での奇行を思い出しつつ、リリカは苦笑いをする。
「でもライブ後の大喝采は、絶対に逃がせないし。準備は怠れないわ。できるだけのことはしなくっちゃ」
リリカは毎夜のように廃洋館で繰り返している、一人っきりでの演奏と、そのあとに続く万雷の拍手の音を思い出す。
そう、あの音だ。あの音を聴かなければ、ライブをやる意味などない。私たちが騒ぐ意味なんて、どこにもない。そんな想いがリリカの中に浮かぶ。
「やっぱり、喝采が何よりの糧なんですね」
しかし鈴瑚にそう言われて、リリカは少し、どこか違和感を覚える。
喝采。確かにリリカたちプリズムリバー三姉妹は、ライブが終わるたびに、何度もその身に観客からの称賛を浴びてきた。そしてリリカ一人や、姉妹三人での練習の後も、幾度もリリカの力である幻想の音色で、鳴りやまない拍手や、賛美の声を響かせてきた。それこそが、リリカたちの演奏には必要不可欠な結果だと思ってきた。
「うーん……まあ、ねえ……。喝采は、大好き……かな?」
もはや喝采は数えきれないほど浴びてきた。けれども、どれだけその音を聴いても、リリカは次の喝采を求め続けている自分に気づかざるを得なかった。
だから、鈴瑚の言葉に、リリカは曖昧な返事しかできなかった。
どれだけ喝采を得ても、本当に満たされてはいない気がした。どれだけ喝采の音で身を満たしても、一方で、リリカの体は空っぽのままであるような心地がしていた。
じいっと、鈴瑚の赤い瞳が、リリカの横顔に注がれる。
「もしかして、リリカさん……喝采とかはどうでもいい?」
そうして鈴瑚は何気なく、そんな声を挙げる。
リリカは思わず、鈴瑚の顔を見やった。
私が、喝采や歓声、万雷の拍手を、求めていない?
その言葉は、受け入れがたいものとしてリリカの頭に入ってきた。しかし、妙にしっくりと、彼女の胸に当てはまるような心地がした。
咄嗟にリリカは言葉を返す。
「なに、変なことを言うのー? じゃあ、いったい何のために演奏してるのよ?」
「いや、私は音楽には疎いので、見当はつきませんが。でもリリカさんの波長、少し迷っているようでしたので」
波長。またもやその言葉か。繰り返し鈴瑚が口にする言葉に、リリカの関心は自然と向いていく。
そういえば、とリリカは思い出した。月の兎というのは、生命体が出す波のようなものを読み取って、催眠術に転用したりしているらしい。鈴瑚がリリカの正体を見破ったり、変にぎょっとする言葉を投げかけたりするのも、その波を読み取ることの延長なのだろうか。リリカは、そんな風に考えた。
要するに、月の兎は感性が人間よりも一つ多く、敏感なのかもしれない。リリカはそうやって結論付けてみる。
「でも自分の中のものを表現するー、とか、すっきりー、とか、なんかそういう話も聞くじゃないですか。リリカさんもそういう目的で演奏してるとか?」
演奏の目的について、鈴瑚は言葉を続ける。リリカは言葉よりも先に、首を横に振ってしまった。
「そういう奴らもいるけどね。でも、自己表現したいだけなら家で勝手に演奏をしていればいいだけで。労力のかかるライブなんかする必要もないでしょ? 誰かに聴いてもらって、それで気持ちを揺り動かして。それで何かで応えてもらうってのが、私にとっての演奏の醍醐味なのよ」
自分の気持ちをぶちまけるだけの自己満足で音楽やってるんじゃないわ。リリカは心の中でだけ、そうやって呟いた。
いつも演奏をするリリカの頭の中には、それを聴くオーディエンスの顔があった。うきうきと高揚する顔、心地よさそうに微笑む顔、ぴりぴりと緊張した顔、不安そうに眉を寄せる顔。そうやってすべての演奏が終わった後に、ああよかったと、満足そうにしてくれる顔を見るのが、何よりも好きだった。
やっぱり、演奏に誰かが応えてくれることほど、嬉しいことはない。リリカの胸には、確かにその感覚があった。
「誰かに聴いてもらうことが目的……。じゃあ……本当に反応が欲しい人から、反応がもらえていない、とかですかね?」
またもや、こともなげに鈴瑚は言う。
「誰かって……」
リリカはその言葉を聞いて、どこか自分の胸に嫌なものが渦巻くのを感じた。
「あはは、変なのー! 鈴瑚さん、面白いことばっかり言う兎なんですね。いったい、私は誰からの反応を欲しがってるの?」
リリカはそうやって、笑って誤魔化した。ただの下らない笑い話だと、一笑に付してしまおうとせずにはいられない。そういう焦燥感が、胸を焼いていた。
「そりゃ分かりませんけど。でも不思議な話、意識して求めているものって、本当に欲しいものの代わりでしかないことも、あるじゃないですか」
どこまでリリカの心中を察しているのか。鈴瑚はそう言うと、もはや食べ終わって串だけになった団子へ目を向ける。
「私もね。団子は大好きですけど、これはきっと、本当に欲しいものじゃないんです」
そうやって平静とした顔で鈴瑚は語るが、その瞳はどこか遠いところを眺めているようだった。
「私たち玉兎の間じゃ、団子をご馳走しあうっていうのは、家族だとか友達だとか、そういう親しさの証なんですよ。きっと私は、そういう暖かみが欲しいから、団子ばっかり食べちゃうんですよねえ」
それから鈴瑚はもう一本、団子を取り出してきた。白色に薄い青みがさした、少し変わった団子だった。鈴瑚はそれを頬張る。団子を噛む音で、もっちゃもっちゃと、小気味いい音が響いていた。
「あー、美味しいなあ」
そうして鈴瑚は目を細め、幸せそうに笑うのだった。リリカはそのどこか不思議な様子に、少しの間見入ってしまった。
「もー。鈴瑚さんの場合、ただの食いしん坊みたいだけどねー」
そうやって笑いながら冗談めかして返したものの、しかし鈴瑚の言葉に対して、リリカは妙な説得力を感じていた。
鈴瑚は、本当は団子を求めていない。本当に求めているのは、その団子の作り手からの親愛の気持ちだ。
同じように、リリカは、本当は大衆からの反応を求めていない。だとしたら一体、何を求めているというのだろう。
きっと、演奏をして反応が欲しいことは、間違いないのだ。リリカはそれだけは確信していた。だとしたら、鈴瑚の言うように、本当に反応が欲しい相手から、反応をもらえていないのだろうか。その誰かとは、誰なんだろう。
リリカの胸の中で、言いようのない不快感が渦巻いていた。
いったい、なんだっていうんだ。
いつもどこか、演奏するときにはその不快感を覚えているような気がして、リリカはますます、自分の気持ちの正体が分からなくなってしまった。
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リリカと鈴瑚は、清蘭という玉兎が営んでいる団子屋に到着した。
清蘭の団子屋は、屋台の周りに長椅子を用意して、客が座ってゆっくりと過ごせるようになっていた。店主の清蘭は、長椅子に座る客と談笑をしているところだった。
鈴瑚が清蘭に声をかけて、客から離れた物陰になった場所に呼び寄せる。それからリリカは正体を明かす。
「はじめまして。プリズムリバー楽団のリリカです。姉たちがお世話になります」
「わあ、はじめまして! 玉兎の清蘭です」
そうしてリリカたちは顔合わせと挨拶を簡易に済ませた。少しの間、何気ない雑談を交わす。それから、もうこれ以上用事もないな、とリリカが団子屋たちと別れようと考え始めたところで、清蘭が声を挙げた。
「プリズムリバー楽団のお話、時々お客さんから聞くんですよー。リリカさんはどんな音でも演奏できるんですよね?」
きらきらと、好奇心とはまた違った、見知らぬものに新しく触れた喜びのような光が、清蘭の瞳で輝いていた。その幼い子どものような視線に、リリカの口元は自然と微笑む。
まったく、こういう瞳はいつ見ても、私の心を不思議と心地よくさせる。
リリカの頭の中に、そんな想いが浮かんだ。
「まあね。音と名前の付くものなら、私に鳴らせない音色はありませんよ」
どこか、昔話を子どもに話して聞かせてやるようなつもりになって、リリカは応える。それからもう一言、付け加えたくなった。
「よかったら、私の演奏聴きますか?」
そう言うと清蘭の表情はぱあっと明るくなった。
「え、本当ですか? やったあ!」
無邪気そうに喜ぶ清蘭の顔を見て、リリカは自分の心に温もりがこもるのを感じる。
やっぱり、久しぶりにこういう表情を見るのはいいものだ。そんな風に思った。
けれども続けてリリカは、おや、と不思議に思う。
こういう表情なんて、私はこれまでに見たことがあったっけ。
こういう表情。ただ無邪気そうに喜ぶ顔ではない。リリカが演奏をすることで、誰かが無邪気に喜んだ顔になるという、そういう表情。
リリカは自分の記憶をたどって、演奏に関係する中で見てきた顔を思い出す。しかしそのどれもが、大観衆を前に演奏した後の、熱狂に満ちた人々の顔ばかりだった。
誰か一人に対して、見知らぬ体験をしてもらい、喜ばせるためだけに演奏する。そんなことなんて、いままで一度でもあったのだろうか。そんな疑問がリリカの胸中に浮かぶ。
もう少しの間、リリカは記憶の糸をたどった。
そういえばいつも、リリカや、プリズムリバー楽団は、大観衆の前ばかりで演奏をしていた。気が付けばそれが当たり前のことだった。
大観衆の前で演奏をするより以前はどうだっただろうか。いつ、どこでプリズムリバー三姉妹が騒霊という形で存在していたのか、もう見当はつかない。記憶のはじまりは、いまも住んでいるあの廃洋館だ。あそこで三人の姉妹は、揃って演奏をしていた。そこから、リリカの記憶は始まる。時折冥界で演奏していた記憶もあった。少しすると、廃洋館を訪れた人間が演奏を聴くことが起こるようになった。そうして少しずつ噂が広まって、いつの間にか人を集めてライブをするようになっていた。
それが、プリズムリバー楽団の今までの在り方だ。過去を振り返って、リリカは確信する。
だから、訂正をしよう。そうやってリリカは思った。
「ええ。実は、今度のライブの宣伝も兼ねて、人里でゲリラ演奏をしようと思っていたの。姉さんたちがお世話になるお礼にもなるし、団子屋とリリカ・プリズムリバーのコラボをやりましょう」
「コラボ! なんだか素敵な響きですねえ。ありがとうございます! 生演奏、楽しみだなあ」
「やり方は私にお任せあれ。清蘭さんは、いつも通り団子を売ってくれればいいわ」
清蘭という、一つの存在のためではなくって。あくまでも、もっとたくさんの存在に向けて、プリズムリバー楽団という楽団のために演奏をする。そういう今まで通りのスタンスで演奏をしよう。リリカはそう気を取り直した。
清蘭に団子屋の屋台へ戻ってもらう。リリカは、清蘭屋から少し離れた位置に陣取った。清蘭屋の長椅子に座るとちょうど見物しやすい位置だ。鈴瑚は長椅子に座って、団子を食べながらその様子を見守っている。
リリカは腰の高さほどで手をかざして、空中にキーボードを実体化させた。本当は楽器なしでも音は鳴らせる。しかし、やはり実物があった方が観客も楽しめるし、リリカも気分が盛り上がった。
準備は万端。一つ息を整えて、リリカは即興の思い付きで、呼び込み口上を張り上げる。
「さあさあ、寄ってらっしゃい観てらっしゃい! ちょいとそこ行くお兄さんお姉さん、聴いてきゃ損はさせないよ!」
その声を聴いた人里の人間たちが、何事かなと顔を向ける。昼時を少し過ぎたころだが、大通りに面した場所だけあって、人通りはそこそこ多かった。
これなら十分な宣伝にもなるだろう。ひそかにリリカはにこりと笑みを浮かべる。
「来たる一か月先のプリズムリバーライブ、本日は団子屋の店先借りて、その先行演奏を行います! お代は結構、ただし清蘭屋のお団子が一本売れたなら、その分曲数増やしてまいるかもしれません!」
そうしてリリカは、いままでのプリズムリバー楽団のライブで人気があった曲たちを、人里の往来で奏でていく。
「さあまずは一曲目! 『二度目の風葬』です!」
幻想の音色を奏でられるリリカにとって、一人でもあらゆる楽器の音を同時に鳴らすことなど容易いものだった。もちろん姉二人がいないので、その曲の音色は普段のライブよりも数段劣ってしまう。しかし、それでも往来を行きかう人々の注目を集めるのには十分のようだった。一曲目が終わるころには、あたりには生垣のような人の輪が出来上がっていた。
清蘭の団子屋も、リリカの目論見通り繁盛しているようだった。リリカの演奏を聴きながら、ついでにと屋台に並ぶ人間が後を絶えなかった。鈴瑚の屋台も、いつの間にこちらまで移動していたのか、二曲目が終わるころには清蘭屋の横に並ぶようになっていた。しかし屋台が二つになっても、団子屋の列は絶えなかった。
少しの間、人里の大通りで小さな熱狂が巻き起こる。
もう、この曲で最後にしようか。最凶最悪の疫病神と貧乏神、そしてその噂を聞き付けた迷惑新聞記者やらに憑きまとわれた、思い入れ深い直近の曲を演奏しながら、リリカはそんなことを考える。
「えー、というわけで! 何曲目かもう忘れちゃったけど、『今宵は飄逸なエゴイスト』! でした!」
集まった人々から拍手と歓声が巻き起こる。うん、これこれ。リリカの顔に自然と喜びの色が広がる。
「というわけでね、プリズムリバー楽団の先行演奏なんですけど……」
これにて終了、と告げようとしたところで、リリカの目はふと、団子を売っていた清蘭のほうへ向く。清蘭はちょうど団子をすべて売り切ったところのようだった。売り切れの看板を表に出して、ほっと一息をついていた。その次に、清蘭の目はリリカのほうへ向く。どこか残念そうに、今やっとリリカの様子へはじめて注意を向けることができたという風体に見えた。その様子を見て、リリカの胸にちくりと針がさす感覚があった。
「えーっと、まあ、それでね……」
観客へ向ける言葉を忘れてしまうほど、リリカの意識は清蘭へ向く。
――団子売るのに忙しくって、全然聴けていなかったのか。
なぜだかリリカはその事実に囚われてしまった。胸の中に、言葉にならない感覚が渦巻いているように感じた。
リリカの口が、ひとりでに次の言葉を続ける。
「……プリズムリバー楽団の先行演奏、最後の一曲に、なりました!」
観客たちから歓声が返ってくる。リリカは笑顔と一礼で応えつつ、しかし内心では、その喝采のことなどまるで気にしていなかった。
いったい、誰のために演奏していたのだろう。リリカはそのことばかりを考えていた。リリカの視界の端で、清蘭の顔が少しだけ嬉しそうに変わったように見えた。
もしかして、本当はああいう表情を見るために、演奏をしたいのだろうか。リリカはそんな風に思った。不思議と清蘭の表情を見ていると、いまこの状況も、悪いものではないように思えた。
けれども、とリリカは厄介な事実に思い当たる。最後の一曲を演奏すると言いはしたものの、事前に用意していた曲目はすべて演奏し終わってしまっていた。
心の内だけで冷や汗をかいて、リリカはキーボードに手をかざして不敵に笑う。
ええい、もう言ってしまったのだから後には引けない。こうなりゃアドリブだ。
そうして腹づもりを決める。
アドリブの演奏。リリカにとって、あまり人前で演奏した経験のないものだった。しかしむしろ、人前以外では何回も繰り返してきたことだった。それこそ毎晩、廃洋館で姉たちが自室にこもっているとき、ずっと即興の演奏をし続けていた。
「最後の一曲は、事前準備一切なし! この場の即興で演奏させていただきます!」
だから、あの時のような感覚で、演奏をすればいいのだ。そう自分を勇気づける。
「さあ、人生を変えるスペシャルライブのはじまりだ!」
勢い半分で、景気づけに叫んでみて、リリカは演奏をはじめる。
しかし終わってしまえば、結果はあまり良くなかったのかもしれない。
「はい、というわけで本日はお付き合いいただき、ありがとうございました! 一か月後のプリズムリバー新作ライブも、是非お楽しみください!」
ぱちぱちと拍手を送る観客たちの顔は確かに満足気だった。しかし、それでも名前のついていない最後の一曲を演奏する前よりは、その盛り上がりは冷めてしまっているようだった。
曲や演奏への興奮冷めやらぬ拍手というよりは、一発芸への思いやりが混じったあたたかい拍手。そんな印象が拭えなかった。
リリカは散っていく観客たちへ手を振って見送りをしつつ、考える。
まあ、今日はライブ本番というわけではない。とりあえず宣伝にはなったし、良しとするか。
そうやって納得することにした。
リリカは自分に声をかけてくれる熱心なファンへの対応をして、清蘭と鈴瑚は客が引いた後の団子屋の後始末をして。ばたばたと時間が過ぎていく。
そうして平静な時間が戻ってきたあと。リリカと清蘭と鈴瑚は、長椅子に腰を下ろしてやっと一息つくことができた。
「リリカさん、ありがとうございました。曲、すっごくよかったです。中々の腕前でございます!」
そうやって感想を伝える清蘭の目は、やはりきらきらとした色で光っていた。
変な言葉遣いは興奮を言い表す言葉を知らないからだろうか、とリリカは胸の中だけで疑問符を浮かべてみる。
「どーもどーも。まあ、最後の即興曲はちょっと失敗しちゃったかもだけどね」
あはは、と笑いつつ、リリカはついつい言及してしまう。普段のポリシーとは異なる演奏だったこともあり、反応を気にしないではいられなかった。
「え、そうなんですか?」
と清蘭は意外そうに首を傾げた。その純粋な反応に、リリカは自分の気持ちの持っていき方が分からなくなってしまった。
「すごくいい演奏だったよね。やっぱりプロとなるとも違うんだなーって感じで」
そうやって鈴瑚が団子を頬張りながら答える。清蘭とは対照的で、そのやけに落ち着いた口ぶりは観客たちのあたたかい拍手と似ていた。それでいて、リリカの心中を察して気遣っているのだろう、ということが読み取れるようだった。だからリリカはますます気持ちの持っていき方が分からなくなり、くすぐったい気持ちになった。
「ねー、すごくいい曲だったよねえ。即興なのに、あんなに楽しそうな感じとか、反対に寂しい感じとか、綺麗に一緒にしてて。あんなにいろいろな気持ちを込められるんだもの。やっぱりプロってすごいなあ……」
思い返すように清蘭は言う。
「あー、たしかに。楽しい感じとか寂しい感じとか、一緒くた。言われてみればそんな感じも……」
清蘭の言葉につられて、鈴瑚も表情を少し変え、思い返すような顔をする。清蘭の言葉で気づきを得て、再吟味しようとしているような様子だった。そういう様子を見ているとリリカ自身も、そういえば自分はどういう曲を弾いたのか、気になってきてしまう。
楽しさも、寂しさも、一緒になった曲。いったいどういう演奏だったのだろうか。
「ねえ、よかったらもう少し最後の曲の感想を聞かせてくれない? 私も即興だったから、よく覚えていないし、ちょっと気になっちゃって」
リリカは気づけば問いかけていた。清蘭や鈴瑚たち玉兎は、波長という人間とは異なる感性を持っている。その感覚を持つ玉兎が先ほどの演奏をどう受け取ったのか、その感想に、気持ちを強く惹かれていた。
清蘭は思い出すような顔をして、少しの間、考えるのだった。
「うーん、と……。歌詞も何にもないから私の想像になっちゃうんだけど」
そうやって前置きをして、清蘭は話していく。
「なんていうか、居なくなった相手のことを想う曲なのかなー、って。その……楽しかった昔のことを思い出して、まだその時のままだよって、確かめているみたいなイメージかな?」
そうやって感想を語り始める清蘭は、視線を空中に向けて、自分の心の内を見つめているようだった。リリカは思わず物音をたてぬように気を付け、鈴瑚は団子を食べる手を止めていた。
「曲を聴いていたら、みんなで楽しく過ごしてる様子も、その後ろで、一人で寂しく過ごしている様子も、浮かんでくるみたいで」
きっと、みんなでいたのに、ひとりになってしまったのだ。リリカの胸の中にそんな空想が浮かぶ。しかしその直後に、リリカは戸惑ってしまう。リリカ自身、自分がどうしてそう想ったのか、理由が分からなかった。
「本当は、一人で寂しいんだけどね。でも、みんなは昔みたいに、まだどこかに居るはず。だから、私もあの頃みたいに楽しく過ごせば、みんなは本当にここにいて、あの頃のままだって、証明できるんだぞ、って……。なんか、一人で寂しいんだけど、寂しくないぞって思おうとするみたいな曲かなーって……」
清蘭の感想を聞いた鈴瑚が、言葉を付け加える。
「そういう意味では、死者に向けて演奏する鎮魂歌みたいだねえ。演奏する側が自分自身を慰めるって意味でね。死者との思い出を繰り返し再現し続ける限り、死者は死なずに生きている。うん、幽霊っぽい曲だ」
それから鈴瑚は、「清蘭、芸術評論いけるんじゃない?」と茶化すように笑う。清蘭は顔を少し赤くしつつも笑ってみせて、「もー、そんなこと言わないでよお」と冗談っぽく鈴瑚をにらんだ。
しかしその感想を聞いて、リリカは不思議な心地がしていた。
鎮魂歌。考えたことのない、曲のジャンルだった。騒霊楽団のモットーは、演奏をして、魂を深く落ち込ませたり、高揚させたり。とにかく心を狂ったように騒がしく揺さぶることだった。
リリカは、鎮魂歌という表現によって、騒霊楽団のモットーと正反対のことを言われたような気がしていた。けれどもその感想は、リリカには妙にしっくりと納得するものがあるような心地もした。
この不思議な心地の正体は何なのだろう。リリカは、胸の中に浮かんできたものの異質さに落ち着かない気持ちを覚えつつも、奇妙な充足も感じていた。
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ゲリラ演奏が終わったあと、しばらくの間雑談を楽しんだり、清蘭と鈴瑚が廃洋館を訪れる日程を決めたりした後のこと。ふと、清蘭は思い出したように立ち上がった。
「あ、そうだ。リリカさん、団子をたくさん売ってくれたお礼に、うちの団子を食べていってくださいよ。いま、新しいのつきますね!」
そう言って清蘭は屋台までかけていき、屋台の奥に置かれた杵と臼で、団子をつきはじめた。そうして歌を歌いながら、餅つきを始める。
「月の月のうさぎが♪ やいのやいのと歌うのは♪ ……♪ ……♪」
楽し気に、杵を振り上げては、餅をつき、清蘭は歌っていく。
しかしその声を聴いて、リリカは不思議と、浮かぶ想いがあった。ぽつりとその想いが、言葉になって落ちていく。
「……変なの。楽し気な歌なのに、なんか悲しくなっちゃう」
鈴瑚が、ちらりとリリカへ視線を送った。
「あれは、昔よく仲間たちと一緒に歌った歌でね。最近ようやくね。悲しんで歌えるようになったんです……」
え、とリリカは聞き返したが、鈴瑚はそれ以上言葉を続けなかった。
代わりに鈴瑚は、しばらくの間、清蘭が餅をつく様子に瞳を向けていた。鈴瑚は団子を食べることも、話すこともやめて、ただその様子を見守っていた。その眼差しにこもる感情がなんなのか、リリカはいくらその瞳を見つめても、読み取ることができないように感じた。
――そういえば、最近月から来た妖怪兎というのは、みんな元軍人らしい。
リリカはそんな噂話を思い出し、それから、清蘭が先ほど口にした感想を思い出した。
昔よく仲間と一緒に歌った歌。その仲間というのは、いまどうしているのか。しかしリリカは、その疑問を投げかけようとは、ついに決心がつかなかった。
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おやつ時になるころ、リリカは清蘭屋を後にして、人里の往来をまた散策し始めた。
よかったらお姉さんたちにも渡してあげてください。そう言われて、お土産の串団子も四本ほどもらった。
盛夏の人里は、視界の中に陽炎が揺れ、蝉時雨がいつまでも降りしきっていた。着物の裾から覗くリリカの足先には、つつと汗が筋を作っていた。前髪も汗に湿って額に張り付いてしまっている。
こりゃあ、たまらない。
四半刻も歩けばリリカは耐えられなくなり、目についた駄菓子屋でラムネを一本買った。氷の入ったタライから取り上げたラムネは、瓶が小川のように冷たく、白い光を反射させていた。
先ほどの演奏の疲れもあってか、リリカは口で息を切らし、瞳もどこかぼうっと虚ろなようだった。
駄菓子屋の店先に、ちょうど軒でできた陰に隠れられるように、長椅子が置いてあった。リリカはそこへ腰を掛けてから、ラムネ瓶のビー玉を、中へ押し込みいれる。しゅわしゅわと飲み口から泡が溢れ出てきたため、リリカはすぐに唇で飲み口をふさいだ。
ぱちぱちというラムネの刺激は、ほんの少しの間、口の中を騒がしさのように楽しませてくれた。
じじじ。そんな甲高い音が、足元から聞こえる。反射のようにリリカがそちらへ目を向けると、ちょうど日蔭と日向の境目のところに、死にかけの蝉が一匹転がっていた。
「……」
リリカは少し注意を向けてその蝉を見た。じじじじ。蝉は、少し鳴いたかと思うと、翅を膨らませ、また縮めさせ、じじじじじじ、と一際大きく騒ぎ声をあげた。けれども、少しすると燃え尽きたように、また静かになる。死んだかな、とリリカは思ったが、まだ翅は、呼吸をするように膨らんだり、縮んだりを繰り返していた。
蝉っていうのは、死に際まで騒がしい奴だ。
リリカはゆっくりとした動きでラムネを一口含みながら、そんなことを思った。ぱちぱちとにぎやかなラムネの心地は、けれどもセミの鳴き声と同じように、少しすると、しんと静かに消えていった。
蝉へ注意を向けるだけでも疲れてしまう。ただでさえ暑さでやられているっていうのに。
そんな気だるげな面持ちで、リリカは顔を正面に向けて、人里の往来を眺める。誰も彼も、夏の暑さに足取りを重たくしていた。
往来の向こう側にはまた別の店が軒を連ねていた。リリカはその中に、向日葵の植え込みがあることに気が付いた。向日葵は南の方を向き、太陽の光を正面から受け止めていた。花や葉が風に揺れるその動きを見ていると、リリカはどこかぼおっと、夢を見るような、曖昧な心地になってきた。
ああ、本格的に疲れてきたかな。
生きてはいないので、熱射病などになる心配こそない。けれども、それでも夏の日差しはリリカの体力を奪っていた。手元に持ったラムネの瓶が、太陽の日差しを受けて、白く、透明に、光を反射している。その光が目を刺し、ちか、ちか、と変に視界の感覚を刺激する。
向日葵の花が揺れ動く様子だけが、ぼうっとリリカの意識の中で浮かび上がっていた。その様子を見ていると、何かを思い出してきそうな気がしていた。
向日葵の花。リリカは思い出す。そういえば、いつかの夏。太陽の畑で、ライブを始めるようになった。そうだ、あの時だ。あの夏の時、何かが――。
『そう、貴方達は少し自己が曖昧過ぎる』
そんな言葉が、朦朧としかけたリリカの頭の中に、聞こえてきた。
ああ、誰だったか。あんまりろくに覚えてはいない。けれども、もう遠い夏の日に、リリカに向かってそういう言葉を投げかける者がいた。
喉が渇く。ラムネをまた一口飲む。ぱちぱちという刺激はどこか弱くなったようで、ぬるりと、甘ったるい液体と、少しの痛みが、リリカの喉を通り抜けていった。向日葵の花はまだ、日に向かって、ただ立ち尽くしている。
花。そうだ、幽霊が花になって、幻想郷にあふれたことがあった。あの夏の年の出来事だ。リリカの記憶の中から、消えいってしまいそうな細い糸のように、記憶が続いてくる。
――そうだ、花を拠り所とした、外の世界の人間の霊たち。彼らに、私たちは、ライブをした。それが太陽の畑のライブのはじまりだ。
それから、続く記憶があった。
『貴方達は楽器を拠り所にしているようで実は違う。貴方達の拠り所は貴方達を生んだ人間』
じじじじじじじじじと、蝉が一際騒がしく鳴く。目を少し地面に落とすと、足を悶えさせ、翅を振り回し、地面でのたうち回っていた。騒がしい蝉。死ぬ直前まで、狂ったように騒ぎ続けるしかないのか。蝉時雨が覆いつくす暑さの中で、けれども足元の蝉の騒ぎ声だけが、やけにリリカの耳に響いた。
もう一口、ラムネを喉に飲みいれる。けれども、ラムネの炭酸はもはや消えかけていて、粘り気のある甘さがリリカの喉を覆っただけだった。ラムネの瓶はいつの間にか冷気を失っている。ただ日の陽を反射し、それが得体の知れない真白色の塊のようで、リリカには恐ろしかった。
ぜえ、ぜえ、とリリカは口で息をする。暑さのせいだ。だいぶやられた。そうやってリリカは自分に言い聞かせた。
リリカの視界を、汗に湿って重たくなった前髪が覆っていた。その覆いの向こう側で、確かに向日葵の花が、風に揺れていた。
ぜえ、ぜえ、ぜえ、と、自分の呼吸の音が、やけに近く聞こえる。そのくせ、自分の呼吸ではないように、遠くに聞こえる。じじじじ。足元の蝉が騒がしい。ラムネの瓶は目に真白色の塊をちかちかと、ぶつけてくる。
朦朧とした意識の中、はっきりと、一つの声が聞こえる。
『そして、その人間はもう居ない』
――誰の、声だったのだろう。そんなことは、もうどうでもいいのか。その人間は、もう居ない。私たちの拠り所は、もういない。じゃあ、私たちが、在り続ける理由というのは……。
気が付けば、蝉時雨の音だけがリリカの全身を覆っていた。
いつの間にか、足元の蝉はひっくり返り、静かに空を仰いでいた。手に持ったラムネの瓶は、リリカの肌と同じほどの熱を持つようになり、その中にはわずか一口ほどの液体が入っているばかりだった。
はあ、はあ、と肩で息をして、リリカは邪魔だった前髪を指先でどうにか直す。そしてもう一度、向日葵の植え込みを見やる。けれどもいつの間にか、向日葵の前には人が集まり、その向こう側にある植え込みを隠してしまっていた。
はあ、はあ、はあ。リリカ自身の息遣いだけが、蝉時雨の内側で、ゆっくりと響いている。
――帰ろう、疲れてしまった。廃洋館に、帰ろう。
長椅子に手をついて、腕の力を補助に使いながら、リリカは立ち上がった。それから、夏の日向、太陽の白い光の中を、廃洋館に向かって歩いていく。一つ、一つと前に出していく足は、力なく、どこか危うげだった。リリカは、太陽の光に背中を向けて、ただ歩いて行った。
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幻想郷の空では、日が西に傾きかけていたが、まだ夜は遠い。リリカは霧の湖の畔を歩き、廃洋館まで戻ってきた。
おぼつかない足取りで、どうにか廃洋館の玄関までたどり着く。はやく、自分の部屋に行ってベッドで横になりたい。呼吸にも体力を使いたくないと思うほど、リリカは消耗しきっていた。
しかし玄関の扉に手をかけようとしたところで、その扉は内側から開かれた。リリカの目の前に、姉のメルランが現れる。
「あー! リリカ、お帰りなさい! ねえリリカ今日作曲は? あ、そうかきっと作曲のためにお出かけしていたのね。リリカは取材熱心で作曲熱心だもの私も見習いたいわ、どこに行ってきたの? 何かいいアイディアを拾えた?」
そうやって、メルランは矢継ぎ早に聞いてくる。かと思えば、その視線は廃洋館の外の景色にもう向いていて、「あ見たことのない鳥がいる! 妖精と喧嘩したら池の中ね。あはははは!」と笑うのだった。
まだ気分は高揚しているみたい。リリカは頭を無理やり働かせて、そう考える。しかしメルランはそういうリリカの様子にさえ気が付かないほど、頭の中を別の何かでいっぱいにしているようだった。
「私これから散歩に行ってくるの、紅魔館の門番さんが美味しい紅茶を今日もご馳走してくれるって! 姉さんはまだ寝ているから誰か居てくれなきゃって心配していたんだけどリリカがいるなら安心ね。あら今日は晴れっぱなし!そういえばここらずっと雨が降っていないわねえ洗濯が捗って気持ちいわだからリリカも珍しく着物なのね、たまには日の陽にあてなきゃ着物だってカビちゃうもの。あそうだせっかくだから私も着物を着て紅魔館に行こうかしらねえリリカ私の着物って……」
うん、とか、そうね、とか、そういう相槌を疲れた声色でリリカは挟んだはずだったが、そういうものがまったく掻き消されてしまったように、メルランは止まらずに話し続ける。
かまうもんか。じゃないとこっちがつぶれちゃう。
そう思って、リリカは清蘭からもらった団子を一本取り出し、叩きつけるような気持ちで、姉の前に差し出す。
「姉さん、これ。今日人里の団子屋でもらったの。これ食べて紅魔館いっといでよ」
メルランは団子を目の前に瞼をぱちくりと開閉させたかと思うと、すぐに団子を受けとる。
「ありがとう! 嬉しいわ、これきっと前に話してた評判の団子屋の団子でしょうありがとうねえ」
放っておくとまたメルランの言葉が止まりそうになかったので、リリカはすぐに口を挟んだ。
「そっちも行ったけど別のとこ。月の兎の団子屋だって。今度、永遠亭の妖怪兎の代わりに、姉さんたちの気持ちを落ち着けにきてくれるみたい」
メルランは団子から二玉一緒に餅を頬張り、勢いよく噛んでいた。それから飲み込む前に喋る。
「本当に! あれって助かるのよね本当にリリカのおかげねっていつも姉さんと話してるんだもん、ねえリリカ! もうすぐライブきちゃうけど頑張って作曲しちゃいましょうね、喝采、喝采、もう大喝采、そういうの目指してね!」
あははははは! そうやって呵々大笑する姉の様子に、思わずリリカの頭は重たくなる。その様子を見て、今度はメルランも妹の様子の変化に気づいたようだった。
「ちょっと怖いわよねライブまでに曲作れなかったらそりゃ恐ろしいことよ!」
そう言ってメルランはリリカの肩に手を置く。
「喝采も拍手もなくなっちゃうかもしれないけど、でも大丈夫よ! リリカ、大丈夫。私たち、なんとしてでも作って見せるんだもの、とんでもなく気分を盛り上げるプリズムリバー曲! それを作るのそのために! ――だから私たちこうも必死なのよ」
リリカは咄嗟に姉の顔を見やった。どこか、違和感があった。
姉のメルランは、気分が不安定な時、いつも、どんな問題だって一笑に付して、笑い飛ばしていたはずだ。
しかし、今この瞬間だけ、メルランの表情には、どこか物憂げな色が差しているように映った。
すぐに、メルランは笑う。
「じゃあ私紅魔館に行ってくるわね! 着物はまた今度にしましょう門番さんきっと待ちくたびれているわ」
そう言ってメルランは廃洋館から飛び去って行った。
リリカの胸の中に、妙な心地があった。飛び去って行く姉の後ろ姿が、どこか別人の姿を見ているようだった。
姉の言葉を思い出す。曲を作るために、必死になる。その言葉が妙に引っかかった。
リリカが廃洋館に入った後も、その内面のざわめきは収まらなかった。今日はいろいろなことが起きた気がする。だからこそ、もう眠って休んでしまいたい。
しかし少しの間迷い、キッチンに向かった。姉のルナサに会っておきたい。そういう思いが浮かんでいた。姉のルナサに団子と水だけを届けよう、そのために尋ねよう。そう考えてリリカはキッチンで水差しと空の皿を用意し、団子の包み紙を広げた。残った三本の団子の内、一本を皿にのせる。
それから、ふと残った二本の団子に目が向いた。
一本は、私のものだ。けれども、じゃあ、あと一本は? いったい誰のために、この団子はあるのか。
訳の分からない衝動がリリカの内側から湧き上がってきた。そうして残った団子の内一本を手に取ると、味わう間もなく噛み潰して、飲み込んでしまった。
――こんなもの!
リリカはキッチンを後にして、ルナサの部屋を訪ねた。コン、コン、コン。ノックをしても、返事は返ってこない。リリカには分かりきっていたことで、そのまま返事を待たずに部屋に入った。
ルナサの部屋は、カーテンがすっかり閉め切られていて、しんと真暗い。窓の下に置かれたベッドだけが、カーテンから漏れ入る微かな光に照らされて、無音の暗闇の中に浮き上がっていた。ベッド上では、ルナサが布団から顔だけを覗かせ、ただ天井へ顔を向けていた。
「姉さん。今日、人里で団子をもらってきたの。水も持ってきたから、どっちか口にして」
リリカが声をかけてベッド脇のサイドテーブルに団子と水を乗せても、ルナサからは反応がない。リリカはベッドの横に置かれた椅子に座る。
――もう、これで二日目か。
リリカはため息をつき、しばらくの間姉の顔を眺めた。ルナサの瞳はガラス細工のようで、肌は陶器のようだった。どちらも、光の当たる加減さえ変わることなく、静かに在り続けている。ただ唇だけがしっとりとした湿った赤みを帯びていた。唇は僅かに開き、か細いその孔から、消え入りそうな呼吸の音が漏れ出ていた。
ただ、見ているだけで、時間は過ぎていく。リリカは暗闇の中、どれだけ時間が過ぎたのかも、もう分からなくなってしまった。そのことに気が付いて、リリカは部屋を出るか考えはじめる。
しかし、少し迷ってから、言葉を発した。
「姉さん、もうライブまで一か月ね」
ぴくり、とルナサの顔が動いた。その瞳がリリカの方へ向き、そのあとから、顔も同じ方向を向く。
「ええ……」
ぱち、ぱち、ぱち、と、その瞼が瞬く。
「大丈夫よ……大丈夫。きっと、今回も、曲を作って、成功させるの。そうするために私たち……必死なんだから」
唇の動きは少しだけだった。けれどもルナサの声は、確かにリリカを見つめて、そう告げた。リリカは唇をぎゅっと一度結んでから、息を飲み込んで、姉に応えた。
「……姉さんも、メルラン姉さんと同じことを言うんだね」
「え……?」
ルナサの瞳孔が、呼吸をしようとするかのように、大きくなる。
「なんでもない……。団子と水、ちゃんと食べてね。体力つけないと」
そう言って、リリカは顔を伏せた。
――もしかすると、メルラン姉さんも、ルナサ姉さんも、もうとっくに。
リリカの胸の内に、何かが根をはって、その蔦を広げようとしているような心地がした。ぎゅっと、胸が締め付けられるような感覚がする。あるいは、何かが、胸の中に満ちているのか。
――団子。そう、さっき、もう、一本食べた。だから、こんなにも、胸がいっぱいなんだろうか。もう、一本も、食べられない。
静かな暗闇の中、リリカの思考は空間に溶け込んでしまったようで、どこかまとまりがなく、おぼろげになっていた。
「……ねえ、姉さん。団子ね、四本、もらってきたの……。私もね、メルラン姉さんも、もう一本ずつ食べたのよ……でもね、私ね……あまった一本……どうすればいいか……ぜんぜん、分かんないの……」
そんな言葉が、器から水があふれてしまうように、リリカの口から出てくる。ルナサは、少しの間、リリカの様子を見つめていた。リリカの肩は微かに震えていた。
布団が絹の擦れる音を発てる。ルナサは手をリリカの頬へ伸ばし、そっと包むように触れた。
「そう……。四本……。本当ね……いったい、どうしたらいいのか……」
ルナサは静かに答える。少しの間、リリカはルナサの傍らで座り続けた。しばらくすると、ルナサの手のひらには一つの雫が落ちたが、それでもルナサは手をリリカの頬に添え続けた。
少ししてから、リリカはルナサの部屋を後にした。それから、自分の部屋に入ると、扉を閉めた途端、その場にうずくまってしまった。
――私たちは、私たち、姉妹は……!
それ以上、何もリリカの頭の中には思い浮かんでこなかった。しかし胸の内では溢れ出す先の見つからない何かが広がり、内側からリリカを裂いてしまおうとしているようだった。
いったい、どうしたらいいのか。リリカの頭の中では、今日一日の出来事が、ずっと繰り返し渦巻いていた。それは広がり、這いまわり、張り付くばかりで、何か一つの形としてまとまることはなかった。
やり場のない感覚に、リリカは顔を哀しく歪ませる。得体の知れない感覚が、リリカを内側から焼き続けていた。けれども、リリカの視界の中に、ずっと部屋に置かれていたピアノが映る。
――ああ、私は。
そのピアノを前にして、リリカは自らの想いをぶつける先がなんであるかを、思い出した。
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幻想郷の空には月が昇っていた。
宵闇の中、木々や建物の輪郭が薄く浮かび上がっている。その夜も、霧の湖のほとりに建つ廃洋館で、いくつもの音が鳴り響いていた。
今夜も廃洋館では、リリカ・プリズムリバーの演奏しか奏でられていなかった。
――きっと、姉さんたちは。
リリカは狂ったように幻想の音色をかき鳴らしながら、自らの内側にあるものを吐き出し続けていく。しかし、そうしても胸の内に残った言葉を、自ら確認していく。
――きっと、姉さんたちは。私よりもずっとはやく、気づいていたんだ。私たちが演奏を聴いてほしい相手が、大観衆なんかじゃないってことに。
幻想の音色は無数に、とめどなく溢れ出てきていたが、今晩はいつもと在り方が異なった。決して重なり合うことはなく、ただ雨が水面を穿って波紋がいくつも衝突しあうように、無秩序で、乱雑だった。
今夜のリリカの音色は、世界を何も彩らない。物語らない。ただバラバラになった世界のかけらが、肉と骨と魂が隔たれてしまったように、解体されて、噴き出してくるだけだった。
――だから、曲を作る時の姉さんたちは、憂鬱の静けさに身を沈めるか、狂躁の激しさに身を委ねるしかなかったんだ。
ルナサと、メルランと、二人の姉の様子がリリカの頭の中に焼き付いて消えない。あの、常に追い立てられるように何かを考え、求め続けている激しい様子。あの、いつだって身を隠すように自らの殻の内側に居続け、瞳で何かを見つめ続けている、静かな様子。
――もはや、何処の、誰に、向けたらいいのか解らない曲を作るために。喪われてしまったその対象を想うためには、狂うしかなかったんだ。
リリカの胸中には、ただ一つの確信が、何の脈絡もなく、浮かび上がってくる。
――それくらい、私たちが喪ってしまったものというのは、途轍もなく大きなものなんだろう。
根拠は何もなかった。しかし、リリカは腹部に、言いようのない空白を感じる。それは空腹のような虚脱感だった。それから頭の中に、朦朧とした空虚を感じる。それは、眠る場所を失ったような茫漠感だった。そして躰の根のところに、深い枯渇を感じる。それは、熱とよろこびを忘れてしまったような、亡失感だった。それらの感覚すべてが、リリカへ訴えかけているようだった。
――私たちは、誰のために演奏をしている? いったい、何を喪ってしまったの?
そんな問いかけが、リリカから自分自身へ、投げかけられる。しかし答えを知っているはずの自分自身の胸中には、何も浮かんでこない。
リリカには、その答えが、どうしてもわからない。だから、幻想の音色をかき鳴らし続けた。
己の内から奏でられる幻想の何処かに、その答えが見つかりはしないだろうか。そうでなくても、すべての幻想を吐き出しつくした後に、何かが残るのだとしたら、それこそが答えなのではないか。そう熱狂して、かき鳴らす。かき鳴らし続けるしかなかった……想いのままだけを。
もはや、時間の感覚など、無くなっていた。夜になってから、どれくらいの間、演奏をし続けている? それさえも朧げになるくらい、自らを忘れるくらいに、演奏を続ける。
今夜は、地を割くほどの歓声も、万雷の拍手も響かせることも忘れて、ただ鳴らし続けていた。そんなものは、もはやリリカにはどうでもよくなっていた。
自らの存在と想いを、確かめるように。
幻想の音色が響く廃洋館の中に、リリカの想いのかけらが、散らばっていく――
――私の、想い。この、想いの、根源は何か。
大勢の人々の前で演奏をしてきた。そして、喝采を浴びてきた。そんなものよりも、それよりも、ずっと、以前の想いは。
ただ姉妹三人で、廃洋館で狂ったように騒ぎ続けていた。それよりも、もっと。以前の想いを。
私たちは、どうしてこの世界で音を奏で続けている?
その、はじまりを。私たちのはじまりを。
なにかが……。
なにかが、浮かび上がってきそうな気がする――
――リリカは、かき鳴らす。自らの想いへ、追いすがろうとするように。再び、それへ、手を伸ばそうとするように――
――そう、この想い。きっと、この想いなんだ。一番根っこにあるものは。
けれども、この想い。
この想い、なんと呼べばいいのか?
言葉が見つからない。
いいや、呼ぶんじゃない。名づけるんじゃない。
そういうやり方じゃ、きっと触れられない。
私たちがやってきたことは、いつも一つだ。
だから今回も、私たちの方法で、触れるしかない。
想いを、ただ、奏でる。響かせる。
そう、この胸の中に確かにある、この想いは。
この想いで響かせる音色は――
――リリカの耳に、重なり合って響く音が、聴こえてくる――
――ああ、そうだ! この音は……。
喩えば。
優しく見守る、月の陰みたいに。静かにそっと……。そして表情豊かに。
活力で勇気づけてくれる、日の陽みたいに。強く、強く! いきするように。
そして、ときには。
ずっと夢を映してくれる、星の輝きみたいに。優しく愛を込めるように。
そう。そうやって、奏でて……。
私たちが、傍にいてあげるから。あなたが寂しくないように――
――リリカの脳裏に、一つの光景が浮かぶ。
泣いていたあの子が、笑顔になる――
――そう。ただ、それだけなんだ。私たちが、音楽を奏で続けていた理由は。
けれども、もう、あの子は……。
ああ……! もう――
――直後、リリカの脳裏に痛みが走り、演奏が止まった。
音がすべて止み、廃洋館へ吸い込まれて消えていく――
……… …… … ……… … …… ………
そう、きっと、もう、何も残っていないのだ。
すべて消えてしまった後。
何もかも終わってしまっていて。
取り返しは決してつかない。
なにもかも、存在する理由の根本さえも喪ってしまった後の、地獄のような世界しか、私たちには残っていない。
私たちが音楽を演奏して聴かせるあの子は、もうどこにもいない。
だから、私たちは狂ったように騒ぎ続けるしかないのだ。
どこまでも喪失の悲嘆へ落ち込めるように、憂鬱の音色で世界の価値を壊して。
ずっと喪失の悲痛を忘れられるように、狂躁の音色で世界を下らないものと笑い飛ばして。
そして喪失の悲壮を忘れられるように、幻想の音色で世界を覆い隠してしまって。
そうやって私たちは。
まだ、あの子がいて。
あの子のために音楽を奏で続けていた頃の生活を続けて。
私たちを憂鬱と狂躁と幻想で、欺き続けるしかないんだ。
ああ……。
あの子とは、いったい、誰なのか。
そんなことだって、もう分からないっていうのに……。
……… …… … ……… … …… ………
――静寂。
もはや、演奏が終わっても、万雷の拍手も、地を割るような歓声も、何一つとして、響くことはなかった。
幻想の喝采が鳴ることはなかった。
ただ茫然と、放心しきってしまったように、リリカは立ち尽くしていた。そうやって佇む様はあまりにも静かで、本当にそこにリリカ・プリズムリバーがいるのか、それさえも疑わしくなるようだった。
けれども、ただ、一つだけ。
ぱたん。
まるで演奏に対する拍手のように、たった一つの音が、響き渡る。
リリカは息を切らして、ただ茫然と、その音の鳴った方を見た。
一歩、また一歩、虚ろな足取りでどうにか前に進んで、リリカは音が鳴った方へ近づいていく。
そして、たどり着いた先には、暖炉があった。暖炉の上には、五つの写真立てがある。
長女のルナサ。
次女のメルラン。
色あせた家族写真。
三女のリリカ。それぞれの写真立て。
そして、その隣。何も入っていない空白の写真立て。その写真立てが、倒れていた。
まるで、ポルターガイスト現象が演奏に応えたように。誰の写真も入っていない写真立ては、ひとりでに倒れていた。
リリカはその写真立てを見つめた。その写真立てから目を離すことができなかった。
なぜだかたまらなく、その写真立てに何も入っていないことが、受け入れ難くなってきた。
そうしてリリカの中で、今日までずっと胸の中で渦巻いていた感情が、胸を上がり、喉を上がり……涙と、鼻水と、嗚咽。そして哀哭となって、口から溢れ出ていった。
もはやすべて忘れてリリカは泣き叫ぶ――
――私たちは、誰のために演奏をしてきたのか。どうして、写真立ては音を発てて倒れたのか――
――空っぽになった自らの中に、しかしその想いだけは確かに抱いて、ただ泣き叫んだ。
その泣き声は、廃洋館の大気を震わせて、その内側を流転させていった。
そして、倒れた写真立ては、空っぽでも、確かにそこに在り続けた。
……… …… … ……… … …… ………
きっと、はじまりはとても単純で。
あなたが一人で、消えてしまいそうなくらい、苦しそうに泣いていたから。
私たちも、消えてしまいそうなくらい、苦しくなって。
なんとかしなきゃ。そう思って、おしゃべりとか、お遊びとか、そういうことをやってみたのが、始まりだったんだ。
あなたが涙をとめて笑ってくれたのなら、私たちも生まれたことが嬉しくなって。
そのうち、私たちが音を奏でることが、なによりも楽しいって気がついて。
あなたが演奏を聴いてくれることが、私たちのなによりのよろこびになった。
だから。私がほしいものは、きっと。
あなたが居なくなってしまった後の世界は、消えてしまいたくなるくらい、苦しい世界だ。
あなたが笑うこと以外に、なにがこの苦しみを消してくれるのだろう。
それはきっと、今の私たちには分からない。
でも、この夜の音のように、なにか少しでも、あなたを思い出せることが起こるのだとしたら。
私はその音色を見つけるために、耳を澄ましながら在り続けたい。
もう、万雷の拍手なんていらない。
だから、どうか。
この魂に一筋の光が差すような、ただ一度の拍手を。
……… …… … ……… … …… ………
それからというもの、リリカは演奏をした後、拍手も、歓声も、幻想の音色で響かせることはなくなった。
代わりに、演奏が終わった後、ただ耳をしんと澄ませるようになった。
騒霊楽団に万雷の拍手を (了)
私たちは存在する意味を亡くした後の地獄のような世界で、
狂ったように騒ぎ続けるしかないのだ。
どうか、在り続ける意味さえ解らないこの身を焼いてしまうような、万雷の拍手を。
あるいは、叶うことなら。
この霊魂に一筋の光が差すような、ただ一度の拍手を。
東方project二次創作
『騒霊楽団に万雷の拍手を』
★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆
幻想郷の空で夏の星座が並ぶ夜のこと。
霧の湖のほとりに建つ廃洋館で、いくつもの音が響いていた。
玄関を入ってすぐに位置する大広間で、音は重なり合って、大きなうねりを生み出していた。
その中心にはリリカ・プリズムリバーがいた。
リリカは叫び声をあげる代わりに、キーボードで音をかき鳴らす。ただただ、世界を音で覆いつくしていた。劈く音。潜む音。安らぐ音。不穏な音。ありとあらゆる音色を広げ、空間に物語を描いていく。
やがて、重なった音の色彩が最高潮に達し、一際大きな響きを生み出す。大気が震えるほど、重なった音が空間に広がる。そして、まだ世界にあり続けようと欲しているかのように、その音色の余韻を空間に残し続けた。それでも少しずつ、静かに消え行っていく。音も、世界を描いていた色彩も、少しずつ透明に廃洋館の暗闇に溶けていく――。
そうして、しんと静まり返った後。リリカは汗に塗れた顔を天井へ向け、恍惚とした表情を浮かべた。
「万雷の拍手を送れ、世の中の有象無象ども……!」
直後、地を割るような拍手、歓声が、廃洋館に轟く。リリカはまるで悦びを浴びるように、その音へ躰を向け、拍手、歓声に身を委ねる。瞼は安らかに閉じて、上気した口元からは熱っぽい吐息を漏らしていた。
音に撫でられるように、音に愛されるように。リリカは拍手と歓声の響きに身を任せ続けた。やがて、リリカの躰に音が満ち溢れたころ、喝采は余韻のように薄れていく。
「……」
廃洋館が、物言わぬ建築物であることを思い出したように静かになってから、リリカは瞼を開ける。
埃っぽい空気。鼠の糞と食べかすで汚れた絨毯。黴の醜悪な臭い。
廃洋館の大広間には、リリカ以外、誰もいない。リリカが奏でた音楽の聴き手もいなければ、それに喝采で応じた者もいなかった。ただすべて、リリカが自ら奏でた幻想の音でしかなかった。
もはやリリカの顔に、先ほどまでの上気した赤みは残っていない。ただ白く冷たく、それでいて気だるげな苛立ちだけが映っていた。
のろのろと、疲れ切った様子で、自室へ続く階段を目指して、リリカは歩いていく。ぎいぎいと、絨毯で覆われているはずの床が、軋む音を鳴らす。その音でリリカはさらに不快そうに顔をゆがめた。
そうして階段の手前、暖炉の前を横切ろうとしたとき。リリカの目が、暖炉の上に置かれた写真立てに向く。
暖炉の上には、五つの写真立てが並んでいた。左から、プリズムリバー三姉妹の長女ルナサの写真、次女メルランの写真、一際大きな写真立てに入った朽ちた写真、そして三女リリカの写真。そのさらに右には、何も入っていない写真立てがある。
中央の朽ち果てた写真は、どうやら家族写真のようだった。灰のような色合いの白黒写真だ。しかし、プリズムリバー三姉妹が映っていることが辛うじてわかるだけで、それ以外のものは何も判別できなかった。
リリカは顔を歪ませる。なぜだかは分からないが、リリカはその写真を見ると、いつも不快な気持ちがした。そして、もう一つ、一番右端にある空白の写真立てが、いつもリリカの気持ちに言いようのないうねりを産んでいた。
いったい、なんだっていうんだ。リリカには、自らの胸に渦巻くものの正体が分からなかった。そして、その渦巻くものをただぶちまけるように、リリカは歪な不協和音をかき鳴らした。
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プリズムリバー三姉妹の新作ライブまで、あと一か月ほどだった。
けれどもライブで演奏するはずの新曲は未だに形になっていない。
作曲に行き詰ったときのいつもの癖で、プリズムリバー三姉妹はそれぞれの方法で、その不安定な状況を過ごしていた。
長女のルナサ・プリズムリバーの気分は沈み、一日の大半をベッドの中で過ごした。誰が部屋の扉を開けても身動き一つ取らず、表情は彫刻のように乏しい。また食事も数日に一度になった。
次女のメルラン・プリズムリバーの気分は昂ぶり、一日の大半で口から言葉を発していた。キッチンに入っては皿を「1、2、3、4、1、2、3、4」と何度も数え、大きさが異なる二つの花瓶を目の前にしては「大きい、小さい、大きい、小さい」と何度も指さしていた。また人里に出かけ、意味もなく大量の買い物をしていた。
三女のリリカ・プリズムリバーの想像は広がり、あれこれ思い巡らせていた。ライブがうまくいかなかったらどうなるかとか、反対に大成功したらどうなるかとか、そういうことに執心していた。一番日常生活を営むことができたのは彼女だった。姉たちの精神の不調を見かねては、迷いの竹林に住む医者に連絡をして、姉たちの気分の安定を目的にした月の兎の催眠術を依頼していた。
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幻想郷の空のてっ辺に、日が近づきかけた昼近くのこと。
リリカはいつもの洋風の装いから、朱色の質素な着物に着替え、また帽子の代わりに星の飾りがついた髪留めでヘアスタイルを整えて、こっそりと人里を訪れていた。幻想郷で屈指の人気アーティストともなれば、お忍びではないと人里を歩くことさえままならなかった。
新作ライブまで日がないというのに、曲作りの目途はまるで立っていない。
気分の浮き沈みがある二人の姉は、廃洋館にてそれぞれの方法で過ごしている。一見まるで作曲の役に立たない様子だ。しかしあの調子でリリカには作り得ない作品を生み出したりもするのだから、不思議なものだった。
だからリリカも自分なりの方法で、新曲を作ろうとしていた。今日は、毎日頭を悩ませているだけでは作曲にも悪影響だと考え、気分転換のために人里まで足を伸ばしていた。
今日のリリカのお目当ては、人里で話題だという団子屋だった。その団子屋は数年前から人里の数か所を巡る形で営まれている。最初のころは行列ができることもあったほど、味が評判らしかった。
並ぶのは面倒くさいが、いつかは食べてみたい。そう思って数年経ち、最近は行列ができているという話も聞かなくなった。なので、ちょうどいいと思って食べに行くことにした。
正午ごろ、団子屋に着くと、屋台には店主一人がいる限りだった。客は誰もいない。
リリカは昼飯時なら団子を買いに来る物好きも少ないだろうと考え、この時間を選んで訪れた。しかし、この状況はリリカの狙い通りなのか、それとも団子の味が落ちたのか、少し不安になった。ただ、屋台は綺麗だ。それに陳列されている団子の数も多く、午後にそれだけ売る自信があるようにも見える。
リリカが屋台に近づくと、店主は新聞を読んでいた。『文々。新聞』だった。
あんな下らない新聞を読んでるなんて、この店主の品格は大丈夫か? リリカの胸中に、そんな不安が浮かぶ。
店主はリリカの存在に気づくと、新聞を畳み、その黒い瞳を向けてきた。意外にも、まだ年端もいかないように見える、帽子をかぶった女店主だった。
「いらっしゃい。うちは味一番、一本四文ですよ。どれにしますか?」
と声を掛けられる。品ぞろえは、みたらし団子に、三色団子、それから餡団子の三種類。いずれも持ち運びやすいように串団子だった。ふむ、とリリカは少し考えて、一番シンプルそうな三色団子を注文した。
「へえ毎度。このままでも?」
と言って店主は団子を一串、リリカへ差し出す。
それから、リリカの顔を見て、表情を止めた。
「ありゃ。あんたもしかして、プリズムリバー三姉妹のリリカさん?」
え、とリリカの口から驚きの声が漏れる。
バレちゃいけないと思い、服装だけでなく、外見だとか、雰囲気も多少変えていたつもりだった。騒霊だからこそできる変装で、ただの人間に見破ることなどできないはずだった。
「いや、そんなあ! 私の可愛さなんて、あのリリカさんと比べられたもんじゃないですよ。店主、お上手ですね」
照れ笑いを作って誤魔化してみようとする。しかし店主は動じず、にこりと笑って見せる。まったく誤魔化せていないようだった。
「お客さんの波長、幽霊のものですから。私らにはよく分かっちゃうんですよ」
波長。なんだそれ、とリリカの頭に疑問符が浮かぶ。
それからリリカは、店主の瞳がいつの間にか赤く光っていることに気が付いた。
おやさっきは黒かった気がするが、とリリカは妙に思う。それからその頭をよく見ると、いつの間にか帽子から人のものではない長い耳が垂れていた。
その外見上の特徴に、リリカの頭の中で一つの種族の名前が浮かぶ。
「お前……もしかして、妖怪兎? 人里で人間に化けて商売してるの?」
「はじめまして。ただの妖怪兎ではなく、月からやってきた玉兎です。名前は鈴瑚。どうぞよろしく」
鈴瑚は手を差し出してきた。リリカもそれに握手で応じる。それから口を尖らせて見せ、鈴瑚に訴えてみた。
「もー、でも勘弁してよね。せっかくお忍びで人里来てるのに、正体ばらすなんて」
「あ、こりゃ失敬しました」
これお詫びです、と鈴瑚はもう一本団子を無料でくれる。ありがとう、とリリカは受けとる。それから、それでも鈴瑚に多少むっとした顔をアピールし続けた。
「でもこれから先、顔を合わせることも多くなりそうなので、ご挨拶をと思って」
にこりと笑う鈴瑚を前に、リリカは首をかしげる。
「顔を合わせる? なんだって、私とあなたが?」
「プリズムリバーさん、新作ライブの前とかで、永遠亭の鈴仙って兎を頼られているでしょう?」
確かにその通りだった。ルナサとメルランの気分の不調を安定させようと、定期的に月の兎の催眠術を依頼していた。
「ところがその鈴仙、ちょっと忙しくなるからそちらに伺えなくなるみたいで。代わりに私たちが伺うことになったんです」
「あなたが?」
「まあ、私は道案内の付き添いみたいなもので。催眠をかけるのは、もう一名のやつですよ」
聞けば月の兎である玉兎というのは、種族全体で催眠術を扱えるものらしい。今回は、鈴仙と親しい間柄だという鈴瑚と、もう一名の清蘭という玉兎に話が回っているそうだ。
「清蘭も近くで団子屋をやっています。良ければ、これからご案内しましょうか?」
リリカは少し考える。今日これからの予定は、特に決まっていない。
強いて言えば人通りの多い場所でゲリラ演奏をしようと考えていたくらいだ。来月の新作ライブの宣伝を兼ねつつ、拍手喝采を浴びてストレス発散をしようと思っていた。しかしゲリラ演奏をするにしても、まだ昼飯時だから人の集まりは悪いだろう。
せっかくなのでお願いするわ。そう伝え返して、リリカは申し出に応じた。
リリカと鈴瑚は人里の大通りに向かって、連れ立って歩いていく。
「しかし、アーティストっていうのは大変なものですね。催眠術が必要なんて、新曲を作るのによほど精神を削ってしまうみたいだ」
もぐもぐと、鈴瑚は自分の屋台から持ち出した団子を食べ歩きしながら喋る。
「姉さんたちはちょっと独特だけどね」
姉たち二人の廃洋館での奇行を思い出しつつ、リリカは苦笑いをする。
「でもライブ後の大喝采は、絶対に逃がせないし。準備は怠れないわ。できるだけのことはしなくっちゃ」
リリカは毎夜のように廃洋館で繰り返している、一人っきりでの演奏と、そのあとに続く万雷の拍手の音を思い出す。
そう、あの音だ。あの音を聴かなければ、ライブをやる意味などない。私たちが騒ぐ意味なんて、どこにもない。そんな想いがリリカの中に浮かぶ。
「やっぱり、喝采が何よりの糧なんですね」
しかし鈴瑚にそう言われて、リリカは少し、どこか違和感を覚える。
喝采。確かにリリカたちプリズムリバー三姉妹は、ライブが終わるたびに、何度もその身に観客からの称賛を浴びてきた。そしてリリカ一人や、姉妹三人での練習の後も、幾度もリリカの力である幻想の音色で、鳴りやまない拍手や、賛美の声を響かせてきた。それこそが、リリカたちの演奏には必要不可欠な結果だと思ってきた。
「うーん……まあ、ねえ……。喝采は、大好き……かな?」
もはや喝采は数えきれないほど浴びてきた。けれども、どれだけその音を聴いても、リリカは次の喝采を求め続けている自分に気づかざるを得なかった。
だから、鈴瑚の言葉に、リリカは曖昧な返事しかできなかった。
どれだけ喝采を得ても、本当に満たされてはいない気がした。どれだけ喝采の音で身を満たしても、一方で、リリカの体は空っぽのままであるような心地がしていた。
じいっと、鈴瑚の赤い瞳が、リリカの横顔に注がれる。
「もしかして、リリカさん……喝采とかはどうでもいい?」
そうして鈴瑚は何気なく、そんな声を挙げる。
リリカは思わず、鈴瑚の顔を見やった。
私が、喝采や歓声、万雷の拍手を、求めていない?
その言葉は、受け入れがたいものとしてリリカの頭に入ってきた。しかし、妙にしっくりと、彼女の胸に当てはまるような心地がした。
咄嗟にリリカは言葉を返す。
「なに、変なことを言うのー? じゃあ、いったい何のために演奏してるのよ?」
「いや、私は音楽には疎いので、見当はつきませんが。でもリリカさんの波長、少し迷っているようでしたので」
波長。またもやその言葉か。繰り返し鈴瑚が口にする言葉に、リリカの関心は自然と向いていく。
そういえば、とリリカは思い出した。月の兎というのは、生命体が出す波のようなものを読み取って、催眠術に転用したりしているらしい。鈴瑚がリリカの正体を見破ったり、変にぎょっとする言葉を投げかけたりするのも、その波を読み取ることの延長なのだろうか。リリカは、そんな風に考えた。
要するに、月の兎は感性が人間よりも一つ多く、敏感なのかもしれない。リリカはそうやって結論付けてみる。
「でも自分の中のものを表現するー、とか、すっきりー、とか、なんかそういう話も聞くじゃないですか。リリカさんもそういう目的で演奏してるとか?」
演奏の目的について、鈴瑚は言葉を続ける。リリカは言葉よりも先に、首を横に振ってしまった。
「そういう奴らもいるけどね。でも、自己表現したいだけなら家で勝手に演奏をしていればいいだけで。労力のかかるライブなんかする必要もないでしょ? 誰かに聴いてもらって、それで気持ちを揺り動かして。それで何かで応えてもらうってのが、私にとっての演奏の醍醐味なのよ」
自分の気持ちをぶちまけるだけの自己満足で音楽やってるんじゃないわ。リリカは心の中でだけ、そうやって呟いた。
いつも演奏をするリリカの頭の中には、それを聴くオーディエンスの顔があった。うきうきと高揚する顔、心地よさそうに微笑む顔、ぴりぴりと緊張した顔、不安そうに眉を寄せる顔。そうやってすべての演奏が終わった後に、ああよかったと、満足そうにしてくれる顔を見るのが、何よりも好きだった。
やっぱり、演奏に誰かが応えてくれることほど、嬉しいことはない。リリカの胸には、確かにその感覚があった。
「誰かに聴いてもらうことが目的……。じゃあ……本当に反応が欲しい人から、反応がもらえていない、とかですかね?」
またもや、こともなげに鈴瑚は言う。
「誰かって……」
リリカはその言葉を聞いて、どこか自分の胸に嫌なものが渦巻くのを感じた。
「あはは、変なのー! 鈴瑚さん、面白いことばっかり言う兎なんですね。いったい、私は誰からの反応を欲しがってるの?」
リリカはそうやって、笑って誤魔化した。ただの下らない笑い話だと、一笑に付してしまおうとせずにはいられない。そういう焦燥感が、胸を焼いていた。
「そりゃ分かりませんけど。でも不思議な話、意識して求めているものって、本当に欲しいものの代わりでしかないことも、あるじゃないですか」
どこまでリリカの心中を察しているのか。鈴瑚はそう言うと、もはや食べ終わって串だけになった団子へ目を向ける。
「私もね。団子は大好きですけど、これはきっと、本当に欲しいものじゃないんです」
そうやって平静とした顔で鈴瑚は語るが、その瞳はどこか遠いところを眺めているようだった。
「私たち玉兎の間じゃ、団子をご馳走しあうっていうのは、家族だとか友達だとか、そういう親しさの証なんですよ。きっと私は、そういう暖かみが欲しいから、団子ばっかり食べちゃうんですよねえ」
それから鈴瑚はもう一本、団子を取り出してきた。白色に薄い青みがさした、少し変わった団子だった。鈴瑚はそれを頬張る。団子を噛む音で、もっちゃもっちゃと、小気味いい音が響いていた。
「あー、美味しいなあ」
そうして鈴瑚は目を細め、幸せそうに笑うのだった。リリカはそのどこか不思議な様子に、少しの間見入ってしまった。
「もー。鈴瑚さんの場合、ただの食いしん坊みたいだけどねー」
そうやって笑いながら冗談めかして返したものの、しかし鈴瑚の言葉に対して、リリカは妙な説得力を感じていた。
鈴瑚は、本当は団子を求めていない。本当に求めているのは、その団子の作り手からの親愛の気持ちだ。
同じように、リリカは、本当は大衆からの反応を求めていない。だとしたら一体、何を求めているというのだろう。
きっと、演奏をして反応が欲しいことは、間違いないのだ。リリカはそれだけは確信していた。だとしたら、鈴瑚の言うように、本当に反応が欲しい相手から、反応をもらえていないのだろうか。その誰かとは、誰なんだろう。
リリカの胸の中で、言いようのない不快感が渦巻いていた。
いったい、なんだっていうんだ。
いつもどこか、演奏するときにはその不快感を覚えているような気がして、リリカはますます、自分の気持ちの正体が分からなくなってしまった。
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リリカと鈴瑚は、清蘭という玉兎が営んでいる団子屋に到着した。
清蘭の団子屋は、屋台の周りに長椅子を用意して、客が座ってゆっくりと過ごせるようになっていた。店主の清蘭は、長椅子に座る客と談笑をしているところだった。
鈴瑚が清蘭に声をかけて、客から離れた物陰になった場所に呼び寄せる。それからリリカは正体を明かす。
「はじめまして。プリズムリバー楽団のリリカです。姉たちがお世話になります」
「わあ、はじめまして! 玉兎の清蘭です」
そうしてリリカたちは顔合わせと挨拶を簡易に済ませた。少しの間、何気ない雑談を交わす。それから、もうこれ以上用事もないな、とリリカが団子屋たちと別れようと考え始めたところで、清蘭が声を挙げた。
「プリズムリバー楽団のお話、時々お客さんから聞くんですよー。リリカさんはどんな音でも演奏できるんですよね?」
きらきらと、好奇心とはまた違った、見知らぬものに新しく触れた喜びのような光が、清蘭の瞳で輝いていた。その幼い子どものような視線に、リリカの口元は自然と微笑む。
まったく、こういう瞳はいつ見ても、私の心を不思議と心地よくさせる。
リリカの頭の中に、そんな想いが浮かんだ。
「まあね。音と名前の付くものなら、私に鳴らせない音色はありませんよ」
どこか、昔話を子どもに話して聞かせてやるようなつもりになって、リリカは応える。それからもう一言、付け加えたくなった。
「よかったら、私の演奏聴きますか?」
そう言うと清蘭の表情はぱあっと明るくなった。
「え、本当ですか? やったあ!」
無邪気そうに喜ぶ清蘭の顔を見て、リリカは自分の心に温もりがこもるのを感じる。
やっぱり、久しぶりにこういう表情を見るのはいいものだ。そんな風に思った。
けれども続けてリリカは、おや、と不思議に思う。
こういう表情なんて、私はこれまでに見たことがあったっけ。
こういう表情。ただ無邪気そうに喜ぶ顔ではない。リリカが演奏をすることで、誰かが無邪気に喜んだ顔になるという、そういう表情。
リリカは自分の記憶をたどって、演奏に関係する中で見てきた顔を思い出す。しかしそのどれもが、大観衆を前に演奏した後の、熱狂に満ちた人々の顔ばかりだった。
誰か一人に対して、見知らぬ体験をしてもらい、喜ばせるためだけに演奏する。そんなことなんて、いままで一度でもあったのだろうか。そんな疑問がリリカの胸中に浮かぶ。
もう少しの間、リリカは記憶の糸をたどった。
そういえばいつも、リリカや、プリズムリバー楽団は、大観衆の前ばかりで演奏をしていた。気が付けばそれが当たり前のことだった。
大観衆の前で演奏をするより以前はどうだっただろうか。いつ、どこでプリズムリバー三姉妹が騒霊という形で存在していたのか、もう見当はつかない。記憶のはじまりは、いまも住んでいるあの廃洋館だ。あそこで三人の姉妹は、揃って演奏をしていた。そこから、リリカの記憶は始まる。時折冥界で演奏していた記憶もあった。少しすると、廃洋館を訪れた人間が演奏を聴くことが起こるようになった。そうして少しずつ噂が広まって、いつの間にか人を集めてライブをするようになっていた。
それが、プリズムリバー楽団の今までの在り方だ。過去を振り返って、リリカは確信する。
だから、訂正をしよう。そうやってリリカは思った。
「ええ。実は、今度のライブの宣伝も兼ねて、人里でゲリラ演奏をしようと思っていたの。姉さんたちがお世話になるお礼にもなるし、団子屋とリリカ・プリズムリバーのコラボをやりましょう」
「コラボ! なんだか素敵な響きですねえ。ありがとうございます! 生演奏、楽しみだなあ」
「やり方は私にお任せあれ。清蘭さんは、いつも通り団子を売ってくれればいいわ」
清蘭という、一つの存在のためではなくって。あくまでも、もっとたくさんの存在に向けて、プリズムリバー楽団という楽団のために演奏をする。そういう今まで通りのスタンスで演奏をしよう。リリカはそう気を取り直した。
清蘭に団子屋の屋台へ戻ってもらう。リリカは、清蘭屋から少し離れた位置に陣取った。清蘭屋の長椅子に座るとちょうど見物しやすい位置だ。鈴瑚は長椅子に座って、団子を食べながらその様子を見守っている。
リリカは腰の高さほどで手をかざして、空中にキーボードを実体化させた。本当は楽器なしでも音は鳴らせる。しかし、やはり実物があった方が観客も楽しめるし、リリカも気分が盛り上がった。
準備は万端。一つ息を整えて、リリカは即興の思い付きで、呼び込み口上を張り上げる。
「さあさあ、寄ってらっしゃい観てらっしゃい! ちょいとそこ行くお兄さんお姉さん、聴いてきゃ損はさせないよ!」
その声を聴いた人里の人間たちが、何事かなと顔を向ける。昼時を少し過ぎたころだが、大通りに面した場所だけあって、人通りはそこそこ多かった。
これなら十分な宣伝にもなるだろう。ひそかにリリカはにこりと笑みを浮かべる。
「来たる一か月先のプリズムリバーライブ、本日は団子屋の店先借りて、その先行演奏を行います! お代は結構、ただし清蘭屋のお団子が一本売れたなら、その分曲数増やしてまいるかもしれません!」
そうしてリリカは、いままでのプリズムリバー楽団のライブで人気があった曲たちを、人里の往来で奏でていく。
「さあまずは一曲目! 『二度目の風葬』です!」
幻想の音色を奏でられるリリカにとって、一人でもあらゆる楽器の音を同時に鳴らすことなど容易いものだった。もちろん姉二人がいないので、その曲の音色は普段のライブよりも数段劣ってしまう。しかし、それでも往来を行きかう人々の注目を集めるのには十分のようだった。一曲目が終わるころには、あたりには生垣のような人の輪が出来上がっていた。
清蘭の団子屋も、リリカの目論見通り繁盛しているようだった。リリカの演奏を聴きながら、ついでにと屋台に並ぶ人間が後を絶えなかった。鈴瑚の屋台も、いつの間にこちらまで移動していたのか、二曲目が終わるころには清蘭屋の横に並ぶようになっていた。しかし屋台が二つになっても、団子屋の列は絶えなかった。
少しの間、人里の大通りで小さな熱狂が巻き起こる。
もう、この曲で最後にしようか。最凶最悪の疫病神と貧乏神、そしてその噂を聞き付けた迷惑新聞記者やらに憑きまとわれた、思い入れ深い直近の曲を演奏しながら、リリカはそんなことを考える。
「えー、というわけで! 何曲目かもう忘れちゃったけど、『今宵は飄逸なエゴイスト』! でした!」
集まった人々から拍手と歓声が巻き起こる。うん、これこれ。リリカの顔に自然と喜びの色が広がる。
「というわけでね、プリズムリバー楽団の先行演奏なんですけど……」
これにて終了、と告げようとしたところで、リリカの目はふと、団子を売っていた清蘭のほうへ向く。清蘭はちょうど団子をすべて売り切ったところのようだった。売り切れの看板を表に出して、ほっと一息をついていた。その次に、清蘭の目はリリカのほうへ向く。どこか残念そうに、今やっとリリカの様子へはじめて注意を向けることができたという風体に見えた。その様子を見て、リリカの胸にちくりと針がさす感覚があった。
「えーっと、まあ、それでね……」
観客へ向ける言葉を忘れてしまうほど、リリカの意識は清蘭へ向く。
――団子売るのに忙しくって、全然聴けていなかったのか。
なぜだかリリカはその事実に囚われてしまった。胸の中に、言葉にならない感覚が渦巻いているように感じた。
リリカの口が、ひとりでに次の言葉を続ける。
「……プリズムリバー楽団の先行演奏、最後の一曲に、なりました!」
観客たちから歓声が返ってくる。リリカは笑顔と一礼で応えつつ、しかし内心では、その喝采のことなどまるで気にしていなかった。
いったい、誰のために演奏していたのだろう。リリカはそのことばかりを考えていた。リリカの視界の端で、清蘭の顔が少しだけ嬉しそうに変わったように見えた。
もしかして、本当はああいう表情を見るために、演奏をしたいのだろうか。リリカはそんな風に思った。不思議と清蘭の表情を見ていると、いまこの状況も、悪いものではないように思えた。
けれども、とリリカは厄介な事実に思い当たる。最後の一曲を演奏すると言いはしたものの、事前に用意していた曲目はすべて演奏し終わってしまっていた。
心の内だけで冷や汗をかいて、リリカはキーボードに手をかざして不敵に笑う。
ええい、もう言ってしまったのだから後には引けない。こうなりゃアドリブだ。
そうして腹づもりを決める。
アドリブの演奏。リリカにとって、あまり人前で演奏した経験のないものだった。しかしむしろ、人前以外では何回も繰り返してきたことだった。それこそ毎晩、廃洋館で姉たちが自室にこもっているとき、ずっと即興の演奏をし続けていた。
「最後の一曲は、事前準備一切なし! この場の即興で演奏させていただきます!」
だから、あの時のような感覚で、演奏をすればいいのだ。そう自分を勇気づける。
「さあ、人生を変えるスペシャルライブのはじまりだ!」
勢い半分で、景気づけに叫んでみて、リリカは演奏をはじめる。
しかし終わってしまえば、結果はあまり良くなかったのかもしれない。
「はい、というわけで本日はお付き合いいただき、ありがとうございました! 一か月後のプリズムリバー新作ライブも、是非お楽しみください!」
ぱちぱちと拍手を送る観客たちの顔は確かに満足気だった。しかし、それでも名前のついていない最後の一曲を演奏する前よりは、その盛り上がりは冷めてしまっているようだった。
曲や演奏への興奮冷めやらぬ拍手というよりは、一発芸への思いやりが混じったあたたかい拍手。そんな印象が拭えなかった。
リリカは散っていく観客たちへ手を振って見送りをしつつ、考える。
まあ、今日はライブ本番というわけではない。とりあえず宣伝にはなったし、良しとするか。
そうやって納得することにした。
リリカは自分に声をかけてくれる熱心なファンへの対応をして、清蘭と鈴瑚は客が引いた後の団子屋の後始末をして。ばたばたと時間が過ぎていく。
そうして平静な時間が戻ってきたあと。リリカと清蘭と鈴瑚は、長椅子に腰を下ろしてやっと一息つくことができた。
「リリカさん、ありがとうございました。曲、すっごくよかったです。中々の腕前でございます!」
そうやって感想を伝える清蘭の目は、やはりきらきらとした色で光っていた。
変な言葉遣いは興奮を言い表す言葉を知らないからだろうか、とリリカは胸の中だけで疑問符を浮かべてみる。
「どーもどーも。まあ、最後の即興曲はちょっと失敗しちゃったかもだけどね」
あはは、と笑いつつ、リリカはついつい言及してしまう。普段のポリシーとは異なる演奏だったこともあり、反応を気にしないではいられなかった。
「え、そうなんですか?」
と清蘭は意外そうに首を傾げた。その純粋な反応に、リリカは自分の気持ちの持っていき方が分からなくなってしまった。
「すごくいい演奏だったよね。やっぱりプロとなるとも違うんだなーって感じで」
そうやって鈴瑚が団子を頬張りながら答える。清蘭とは対照的で、そのやけに落ち着いた口ぶりは観客たちのあたたかい拍手と似ていた。それでいて、リリカの心中を察して気遣っているのだろう、ということが読み取れるようだった。だからリリカはますます気持ちの持っていき方が分からなくなり、くすぐったい気持ちになった。
「ねー、すごくいい曲だったよねえ。即興なのに、あんなに楽しそうな感じとか、反対に寂しい感じとか、綺麗に一緒にしてて。あんなにいろいろな気持ちを込められるんだもの。やっぱりプロってすごいなあ……」
思い返すように清蘭は言う。
「あー、たしかに。楽しい感じとか寂しい感じとか、一緒くた。言われてみればそんな感じも……」
清蘭の言葉につられて、鈴瑚も表情を少し変え、思い返すような顔をする。清蘭の言葉で気づきを得て、再吟味しようとしているような様子だった。そういう様子を見ているとリリカ自身も、そういえば自分はどういう曲を弾いたのか、気になってきてしまう。
楽しさも、寂しさも、一緒になった曲。いったいどういう演奏だったのだろうか。
「ねえ、よかったらもう少し最後の曲の感想を聞かせてくれない? 私も即興だったから、よく覚えていないし、ちょっと気になっちゃって」
リリカは気づけば問いかけていた。清蘭や鈴瑚たち玉兎は、波長という人間とは異なる感性を持っている。その感覚を持つ玉兎が先ほどの演奏をどう受け取ったのか、その感想に、気持ちを強く惹かれていた。
清蘭は思い出すような顔をして、少しの間、考えるのだった。
「うーん、と……。歌詞も何にもないから私の想像になっちゃうんだけど」
そうやって前置きをして、清蘭は話していく。
「なんていうか、居なくなった相手のことを想う曲なのかなー、って。その……楽しかった昔のことを思い出して、まだその時のままだよって、確かめているみたいなイメージかな?」
そうやって感想を語り始める清蘭は、視線を空中に向けて、自分の心の内を見つめているようだった。リリカは思わず物音をたてぬように気を付け、鈴瑚は団子を食べる手を止めていた。
「曲を聴いていたら、みんなで楽しく過ごしてる様子も、その後ろで、一人で寂しく過ごしている様子も、浮かんでくるみたいで」
きっと、みんなでいたのに、ひとりになってしまったのだ。リリカの胸の中にそんな空想が浮かぶ。しかしその直後に、リリカは戸惑ってしまう。リリカ自身、自分がどうしてそう想ったのか、理由が分からなかった。
「本当は、一人で寂しいんだけどね。でも、みんなは昔みたいに、まだどこかに居るはず。だから、私もあの頃みたいに楽しく過ごせば、みんなは本当にここにいて、あの頃のままだって、証明できるんだぞ、って……。なんか、一人で寂しいんだけど、寂しくないぞって思おうとするみたいな曲かなーって……」
清蘭の感想を聞いた鈴瑚が、言葉を付け加える。
「そういう意味では、死者に向けて演奏する鎮魂歌みたいだねえ。演奏する側が自分自身を慰めるって意味でね。死者との思い出を繰り返し再現し続ける限り、死者は死なずに生きている。うん、幽霊っぽい曲だ」
それから鈴瑚は、「清蘭、芸術評論いけるんじゃない?」と茶化すように笑う。清蘭は顔を少し赤くしつつも笑ってみせて、「もー、そんなこと言わないでよお」と冗談っぽく鈴瑚をにらんだ。
しかしその感想を聞いて、リリカは不思議な心地がしていた。
鎮魂歌。考えたことのない、曲のジャンルだった。騒霊楽団のモットーは、演奏をして、魂を深く落ち込ませたり、高揚させたり。とにかく心を狂ったように騒がしく揺さぶることだった。
リリカは、鎮魂歌という表現によって、騒霊楽団のモットーと正反対のことを言われたような気がしていた。けれどもその感想は、リリカには妙にしっくりと納得するものがあるような心地もした。
この不思議な心地の正体は何なのだろう。リリカは、胸の中に浮かんできたものの異質さに落ち着かない気持ちを覚えつつも、奇妙な充足も感じていた。
★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆
ゲリラ演奏が終わったあと、しばらくの間雑談を楽しんだり、清蘭と鈴瑚が廃洋館を訪れる日程を決めたりした後のこと。ふと、清蘭は思い出したように立ち上がった。
「あ、そうだ。リリカさん、団子をたくさん売ってくれたお礼に、うちの団子を食べていってくださいよ。いま、新しいのつきますね!」
そう言って清蘭は屋台までかけていき、屋台の奥に置かれた杵と臼で、団子をつきはじめた。そうして歌を歌いながら、餅つきを始める。
「月の月のうさぎが♪ やいのやいのと歌うのは♪ ……♪ ……♪」
楽し気に、杵を振り上げては、餅をつき、清蘭は歌っていく。
しかしその声を聴いて、リリカは不思議と、浮かぶ想いがあった。ぽつりとその想いが、言葉になって落ちていく。
「……変なの。楽し気な歌なのに、なんか悲しくなっちゃう」
鈴瑚が、ちらりとリリカへ視線を送った。
「あれは、昔よく仲間たちと一緒に歌った歌でね。最近ようやくね。悲しんで歌えるようになったんです……」
え、とリリカは聞き返したが、鈴瑚はそれ以上言葉を続けなかった。
代わりに鈴瑚は、しばらくの間、清蘭が餅をつく様子に瞳を向けていた。鈴瑚は団子を食べることも、話すこともやめて、ただその様子を見守っていた。その眼差しにこもる感情がなんなのか、リリカはいくらその瞳を見つめても、読み取ることができないように感じた。
――そういえば、最近月から来た妖怪兎というのは、みんな元軍人らしい。
リリカはそんな噂話を思い出し、それから、清蘭が先ほど口にした感想を思い出した。
昔よく仲間と一緒に歌った歌。その仲間というのは、いまどうしているのか。しかしリリカは、その疑問を投げかけようとは、ついに決心がつかなかった。
★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆
おやつ時になるころ、リリカは清蘭屋を後にして、人里の往来をまた散策し始めた。
よかったらお姉さんたちにも渡してあげてください。そう言われて、お土産の串団子も四本ほどもらった。
盛夏の人里は、視界の中に陽炎が揺れ、蝉時雨がいつまでも降りしきっていた。着物の裾から覗くリリカの足先には、つつと汗が筋を作っていた。前髪も汗に湿って額に張り付いてしまっている。
こりゃあ、たまらない。
四半刻も歩けばリリカは耐えられなくなり、目についた駄菓子屋でラムネを一本買った。氷の入ったタライから取り上げたラムネは、瓶が小川のように冷たく、白い光を反射させていた。
先ほどの演奏の疲れもあってか、リリカは口で息を切らし、瞳もどこかぼうっと虚ろなようだった。
駄菓子屋の店先に、ちょうど軒でできた陰に隠れられるように、長椅子が置いてあった。リリカはそこへ腰を掛けてから、ラムネ瓶のビー玉を、中へ押し込みいれる。しゅわしゅわと飲み口から泡が溢れ出てきたため、リリカはすぐに唇で飲み口をふさいだ。
ぱちぱちというラムネの刺激は、ほんの少しの間、口の中を騒がしさのように楽しませてくれた。
じじじ。そんな甲高い音が、足元から聞こえる。反射のようにリリカがそちらへ目を向けると、ちょうど日蔭と日向の境目のところに、死にかけの蝉が一匹転がっていた。
「……」
リリカは少し注意を向けてその蝉を見た。じじじじ。蝉は、少し鳴いたかと思うと、翅を膨らませ、また縮めさせ、じじじじじじ、と一際大きく騒ぎ声をあげた。けれども、少しすると燃え尽きたように、また静かになる。死んだかな、とリリカは思ったが、まだ翅は、呼吸をするように膨らんだり、縮んだりを繰り返していた。
蝉っていうのは、死に際まで騒がしい奴だ。
リリカはゆっくりとした動きでラムネを一口含みながら、そんなことを思った。ぱちぱちとにぎやかなラムネの心地は、けれどもセミの鳴き声と同じように、少しすると、しんと静かに消えていった。
蝉へ注意を向けるだけでも疲れてしまう。ただでさえ暑さでやられているっていうのに。
そんな気だるげな面持ちで、リリカは顔を正面に向けて、人里の往来を眺める。誰も彼も、夏の暑さに足取りを重たくしていた。
往来の向こう側にはまた別の店が軒を連ねていた。リリカはその中に、向日葵の植え込みがあることに気が付いた。向日葵は南の方を向き、太陽の光を正面から受け止めていた。花や葉が風に揺れるその動きを見ていると、リリカはどこかぼおっと、夢を見るような、曖昧な心地になってきた。
ああ、本格的に疲れてきたかな。
生きてはいないので、熱射病などになる心配こそない。けれども、それでも夏の日差しはリリカの体力を奪っていた。手元に持ったラムネの瓶が、太陽の日差しを受けて、白く、透明に、光を反射している。その光が目を刺し、ちか、ちか、と変に視界の感覚を刺激する。
向日葵の花が揺れ動く様子だけが、ぼうっとリリカの意識の中で浮かび上がっていた。その様子を見ていると、何かを思い出してきそうな気がしていた。
向日葵の花。リリカは思い出す。そういえば、いつかの夏。太陽の畑で、ライブを始めるようになった。そうだ、あの時だ。あの夏の時、何かが――。
『そう、貴方達は少し自己が曖昧過ぎる』
そんな言葉が、朦朧としかけたリリカの頭の中に、聞こえてきた。
ああ、誰だったか。あんまりろくに覚えてはいない。けれども、もう遠い夏の日に、リリカに向かってそういう言葉を投げかける者がいた。
喉が渇く。ラムネをまた一口飲む。ぱちぱちという刺激はどこか弱くなったようで、ぬるりと、甘ったるい液体と、少しの痛みが、リリカの喉を通り抜けていった。向日葵の花はまだ、日に向かって、ただ立ち尽くしている。
花。そうだ、幽霊が花になって、幻想郷にあふれたことがあった。あの夏の年の出来事だ。リリカの記憶の中から、消えいってしまいそうな細い糸のように、記憶が続いてくる。
――そうだ、花を拠り所とした、外の世界の人間の霊たち。彼らに、私たちは、ライブをした。それが太陽の畑のライブのはじまりだ。
それから、続く記憶があった。
『貴方達は楽器を拠り所にしているようで実は違う。貴方達の拠り所は貴方達を生んだ人間』
じじじじじじじじじと、蝉が一際騒がしく鳴く。目を少し地面に落とすと、足を悶えさせ、翅を振り回し、地面でのたうち回っていた。騒がしい蝉。死ぬ直前まで、狂ったように騒ぎ続けるしかないのか。蝉時雨が覆いつくす暑さの中で、けれども足元の蝉の騒ぎ声だけが、やけにリリカの耳に響いた。
もう一口、ラムネを喉に飲みいれる。けれども、ラムネの炭酸はもはや消えかけていて、粘り気のある甘さがリリカの喉を覆っただけだった。ラムネの瓶はいつの間にか冷気を失っている。ただ日の陽を反射し、それが得体の知れない真白色の塊のようで、リリカには恐ろしかった。
ぜえ、ぜえ、とリリカは口で息をする。暑さのせいだ。だいぶやられた。そうやってリリカは自分に言い聞かせた。
リリカの視界を、汗に湿って重たくなった前髪が覆っていた。その覆いの向こう側で、確かに向日葵の花が、風に揺れていた。
ぜえ、ぜえ、ぜえ、と、自分の呼吸の音が、やけに近く聞こえる。そのくせ、自分の呼吸ではないように、遠くに聞こえる。じじじじ。足元の蝉が騒がしい。ラムネの瓶は目に真白色の塊をちかちかと、ぶつけてくる。
朦朧とした意識の中、はっきりと、一つの声が聞こえる。
『そして、その人間はもう居ない』
――誰の、声だったのだろう。そんなことは、もうどうでもいいのか。その人間は、もう居ない。私たちの拠り所は、もういない。じゃあ、私たちが、在り続ける理由というのは……。
気が付けば、蝉時雨の音だけがリリカの全身を覆っていた。
いつの間にか、足元の蝉はひっくり返り、静かに空を仰いでいた。手に持ったラムネの瓶は、リリカの肌と同じほどの熱を持つようになり、その中にはわずか一口ほどの液体が入っているばかりだった。
はあ、はあ、と肩で息をして、リリカは邪魔だった前髪を指先でどうにか直す。そしてもう一度、向日葵の植え込みを見やる。けれどもいつの間にか、向日葵の前には人が集まり、その向こう側にある植え込みを隠してしまっていた。
はあ、はあ、はあ。リリカ自身の息遣いだけが、蝉時雨の内側で、ゆっくりと響いている。
――帰ろう、疲れてしまった。廃洋館に、帰ろう。
長椅子に手をついて、腕の力を補助に使いながら、リリカは立ち上がった。それから、夏の日向、太陽の白い光の中を、廃洋館に向かって歩いていく。一つ、一つと前に出していく足は、力なく、どこか危うげだった。リリカは、太陽の光に背中を向けて、ただ歩いて行った。
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幻想郷の空では、日が西に傾きかけていたが、まだ夜は遠い。リリカは霧の湖の畔を歩き、廃洋館まで戻ってきた。
おぼつかない足取りで、どうにか廃洋館の玄関までたどり着く。はやく、自分の部屋に行ってベッドで横になりたい。呼吸にも体力を使いたくないと思うほど、リリカは消耗しきっていた。
しかし玄関の扉に手をかけようとしたところで、その扉は内側から開かれた。リリカの目の前に、姉のメルランが現れる。
「あー! リリカ、お帰りなさい! ねえリリカ今日作曲は? あ、そうかきっと作曲のためにお出かけしていたのね。リリカは取材熱心で作曲熱心だもの私も見習いたいわ、どこに行ってきたの? 何かいいアイディアを拾えた?」
そうやって、メルランは矢継ぎ早に聞いてくる。かと思えば、その視線は廃洋館の外の景色にもう向いていて、「あ見たことのない鳥がいる! 妖精と喧嘩したら池の中ね。あはははは!」と笑うのだった。
まだ気分は高揚しているみたい。リリカは頭を無理やり働かせて、そう考える。しかしメルランはそういうリリカの様子にさえ気が付かないほど、頭の中を別の何かでいっぱいにしているようだった。
「私これから散歩に行ってくるの、紅魔館の門番さんが美味しい紅茶を今日もご馳走してくれるって! 姉さんはまだ寝ているから誰か居てくれなきゃって心配していたんだけどリリカがいるなら安心ね。あら今日は晴れっぱなし!そういえばここらずっと雨が降っていないわねえ洗濯が捗って気持ちいわだからリリカも珍しく着物なのね、たまには日の陽にあてなきゃ着物だってカビちゃうもの。あそうだせっかくだから私も着物を着て紅魔館に行こうかしらねえリリカ私の着物って……」
うん、とか、そうね、とか、そういう相槌を疲れた声色でリリカは挟んだはずだったが、そういうものがまったく掻き消されてしまったように、メルランは止まらずに話し続ける。
かまうもんか。じゃないとこっちがつぶれちゃう。
そう思って、リリカは清蘭からもらった団子を一本取り出し、叩きつけるような気持ちで、姉の前に差し出す。
「姉さん、これ。今日人里の団子屋でもらったの。これ食べて紅魔館いっといでよ」
メルランは団子を目の前に瞼をぱちくりと開閉させたかと思うと、すぐに団子を受けとる。
「ありがとう! 嬉しいわ、これきっと前に話してた評判の団子屋の団子でしょうありがとうねえ」
放っておくとまたメルランの言葉が止まりそうになかったので、リリカはすぐに口を挟んだ。
「そっちも行ったけど別のとこ。月の兎の団子屋だって。今度、永遠亭の妖怪兎の代わりに、姉さんたちの気持ちを落ち着けにきてくれるみたい」
メルランは団子から二玉一緒に餅を頬張り、勢いよく噛んでいた。それから飲み込む前に喋る。
「本当に! あれって助かるのよね本当にリリカのおかげねっていつも姉さんと話してるんだもん、ねえリリカ! もうすぐライブきちゃうけど頑張って作曲しちゃいましょうね、喝采、喝采、もう大喝采、そういうの目指してね!」
あははははは! そうやって呵々大笑する姉の様子に、思わずリリカの頭は重たくなる。その様子を見て、今度はメルランも妹の様子の変化に気づいたようだった。
「ちょっと怖いわよねライブまでに曲作れなかったらそりゃ恐ろしいことよ!」
そう言ってメルランはリリカの肩に手を置く。
「喝采も拍手もなくなっちゃうかもしれないけど、でも大丈夫よ! リリカ、大丈夫。私たち、なんとしてでも作って見せるんだもの、とんでもなく気分を盛り上げるプリズムリバー曲! それを作るのそのために! ――だから私たちこうも必死なのよ」
リリカは咄嗟に姉の顔を見やった。どこか、違和感があった。
姉のメルランは、気分が不安定な時、いつも、どんな問題だって一笑に付して、笑い飛ばしていたはずだ。
しかし、今この瞬間だけ、メルランの表情には、どこか物憂げな色が差しているように映った。
すぐに、メルランは笑う。
「じゃあ私紅魔館に行ってくるわね! 着物はまた今度にしましょう門番さんきっと待ちくたびれているわ」
そう言ってメルランは廃洋館から飛び去って行った。
リリカの胸の中に、妙な心地があった。飛び去って行く姉の後ろ姿が、どこか別人の姿を見ているようだった。
姉の言葉を思い出す。曲を作るために、必死になる。その言葉が妙に引っかかった。
リリカが廃洋館に入った後も、その内面のざわめきは収まらなかった。今日はいろいろなことが起きた気がする。だからこそ、もう眠って休んでしまいたい。
しかし少しの間迷い、キッチンに向かった。姉のルナサに会っておきたい。そういう思いが浮かんでいた。姉のルナサに団子と水だけを届けよう、そのために尋ねよう。そう考えてリリカはキッチンで水差しと空の皿を用意し、団子の包み紙を広げた。残った三本の団子の内、一本を皿にのせる。
それから、ふと残った二本の団子に目が向いた。
一本は、私のものだ。けれども、じゃあ、あと一本は? いったい誰のために、この団子はあるのか。
訳の分からない衝動がリリカの内側から湧き上がってきた。そうして残った団子の内一本を手に取ると、味わう間もなく噛み潰して、飲み込んでしまった。
――こんなもの!
リリカはキッチンを後にして、ルナサの部屋を訪ねた。コン、コン、コン。ノックをしても、返事は返ってこない。リリカには分かりきっていたことで、そのまま返事を待たずに部屋に入った。
ルナサの部屋は、カーテンがすっかり閉め切られていて、しんと真暗い。窓の下に置かれたベッドだけが、カーテンから漏れ入る微かな光に照らされて、無音の暗闇の中に浮き上がっていた。ベッド上では、ルナサが布団から顔だけを覗かせ、ただ天井へ顔を向けていた。
「姉さん。今日、人里で団子をもらってきたの。水も持ってきたから、どっちか口にして」
リリカが声をかけてベッド脇のサイドテーブルに団子と水を乗せても、ルナサからは反応がない。リリカはベッドの横に置かれた椅子に座る。
――もう、これで二日目か。
リリカはため息をつき、しばらくの間姉の顔を眺めた。ルナサの瞳はガラス細工のようで、肌は陶器のようだった。どちらも、光の当たる加減さえ変わることなく、静かに在り続けている。ただ唇だけがしっとりとした湿った赤みを帯びていた。唇は僅かに開き、か細いその孔から、消え入りそうな呼吸の音が漏れ出ていた。
ただ、見ているだけで、時間は過ぎていく。リリカは暗闇の中、どれだけ時間が過ぎたのかも、もう分からなくなってしまった。そのことに気が付いて、リリカは部屋を出るか考えはじめる。
しかし、少し迷ってから、言葉を発した。
「姉さん、もうライブまで一か月ね」
ぴくり、とルナサの顔が動いた。その瞳がリリカの方へ向き、そのあとから、顔も同じ方向を向く。
「ええ……」
ぱち、ぱち、ぱち、と、その瞼が瞬く。
「大丈夫よ……大丈夫。きっと、今回も、曲を作って、成功させるの。そうするために私たち……必死なんだから」
唇の動きは少しだけだった。けれどもルナサの声は、確かにリリカを見つめて、そう告げた。リリカは唇をぎゅっと一度結んでから、息を飲み込んで、姉に応えた。
「……姉さんも、メルラン姉さんと同じことを言うんだね」
「え……?」
ルナサの瞳孔が、呼吸をしようとするかのように、大きくなる。
「なんでもない……。団子と水、ちゃんと食べてね。体力つけないと」
そう言って、リリカは顔を伏せた。
――もしかすると、メルラン姉さんも、ルナサ姉さんも、もうとっくに。
リリカの胸の内に、何かが根をはって、その蔦を広げようとしているような心地がした。ぎゅっと、胸が締め付けられるような感覚がする。あるいは、何かが、胸の中に満ちているのか。
――団子。そう、さっき、もう、一本食べた。だから、こんなにも、胸がいっぱいなんだろうか。もう、一本も、食べられない。
静かな暗闇の中、リリカの思考は空間に溶け込んでしまったようで、どこかまとまりがなく、おぼろげになっていた。
「……ねえ、姉さん。団子ね、四本、もらってきたの……。私もね、メルラン姉さんも、もう一本ずつ食べたのよ……でもね、私ね……あまった一本……どうすればいいか……ぜんぜん、分かんないの……」
そんな言葉が、器から水があふれてしまうように、リリカの口から出てくる。ルナサは、少しの間、リリカの様子を見つめていた。リリカの肩は微かに震えていた。
布団が絹の擦れる音を発てる。ルナサは手をリリカの頬へ伸ばし、そっと包むように触れた。
「そう……。四本……。本当ね……いったい、どうしたらいいのか……」
ルナサは静かに答える。少しの間、リリカはルナサの傍らで座り続けた。しばらくすると、ルナサの手のひらには一つの雫が落ちたが、それでもルナサは手をリリカの頬に添え続けた。
少ししてから、リリカはルナサの部屋を後にした。それから、自分の部屋に入ると、扉を閉めた途端、その場にうずくまってしまった。
――私たちは、私たち、姉妹は……!
それ以上、何もリリカの頭の中には思い浮かんでこなかった。しかし胸の内では溢れ出す先の見つからない何かが広がり、内側からリリカを裂いてしまおうとしているようだった。
いったい、どうしたらいいのか。リリカの頭の中では、今日一日の出来事が、ずっと繰り返し渦巻いていた。それは広がり、這いまわり、張り付くばかりで、何か一つの形としてまとまることはなかった。
やり場のない感覚に、リリカは顔を哀しく歪ませる。得体の知れない感覚が、リリカを内側から焼き続けていた。けれども、リリカの視界の中に、ずっと部屋に置かれていたピアノが映る。
――ああ、私は。
そのピアノを前にして、リリカは自らの想いをぶつける先がなんであるかを、思い出した。
★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆ ★☆★ ☆★☆
幻想郷の空には月が昇っていた。
宵闇の中、木々や建物の輪郭が薄く浮かび上がっている。その夜も、霧の湖のほとりに建つ廃洋館で、いくつもの音が鳴り響いていた。
今夜も廃洋館では、リリカ・プリズムリバーの演奏しか奏でられていなかった。
――きっと、姉さんたちは。
リリカは狂ったように幻想の音色をかき鳴らしながら、自らの内側にあるものを吐き出し続けていく。しかし、そうしても胸の内に残った言葉を、自ら確認していく。
――きっと、姉さんたちは。私よりもずっとはやく、気づいていたんだ。私たちが演奏を聴いてほしい相手が、大観衆なんかじゃないってことに。
幻想の音色は無数に、とめどなく溢れ出てきていたが、今晩はいつもと在り方が異なった。決して重なり合うことはなく、ただ雨が水面を穿って波紋がいくつも衝突しあうように、無秩序で、乱雑だった。
今夜のリリカの音色は、世界を何も彩らない。物語らない。ただバラバラになった世界のかけらが、肉と骨と魂が隔たれてしまったように、解体されて、噴き出してくるだけだった。
――だから、曲を作る時の姉さんたちは、憂鬱の静けさに身を沈めるか、狂躁の激しさに身を委ねるしかなかったんだ。
ルナサと、メルランと、二人の姉の様子がリリカの頭の中に焼き付いて消えない。あの、常に追い立てられるように何かを考え、求め続けている激しい様子。あの、いつだって身を隠すように自らの殻の内側に居続け、瞳で何かを見つめ続けている、静かな様子。
――もはや、何処の、誰に、向けたらいいのか解らない曲を作るために。喪われてしまったその対象を想うためには、狂うしかなかったんだ。
リリカの胸中には、ただ一つの確信が、何の脈絡もなく、浮かび上がってくる。
――それくらい、私たちが喪ってしまったものというのは、途轍もなく大きなものなんだろう。
根拠は何もなかった。しかし、リリカは腹部に、言いようのない空白を感じる。それは空腹のような虚脱感だった。それから頭の中に、朦朧とした空虚を感じる。それは、眠る場所を失ったような茫漠感だった。そして躰の根のところに、深い枯渇を感じる。それは、熱とよろこびを忘れてしまったような、亡失感だった。それらの感覚すべてが、リリカへ訴えかけているようだった。
――私たちは、誰のために演奏をしている? いったい、何を喪ってしまったの?
そんな問いかけが、リリカから自分自身へ、投げかけられる。しかし答えを知っているはずの自分自身の胸中には、何も浮かんでこない。
リリカには、その答えが、どうしてもわからない。だから、幻想の音色をかき鳴らし続けた。
己の内から奏でられる幻想の何処かに、その答えが見つかりはしないだろうか。そうでなくても、すべての幻想を吐き出しつくした後に、何かが残るのだとしたら、それこそが答えなのではないか。そう熱狂して、かき鳴らす。かき鳴らし続けるしかなかった……想いのままだけを。
もはや、時間の感覚など、無くなっていた。夜になってから、どれくらいの間、演奏をし続けている? それさえも朧げになるくらい、自らを忘れるくらいに、演奏を続ける。
今夜は、地を割くほどの歓声も、万雷の拍手も響かせることも忘れて、ただ鳴らし続けていた。そんなものは、もはやリリカにはどうでもよくなっていた。
自らの存在と想いを、確かめるように。
幻想の音色が響く廃洋館の中に、リリカの想いのかけらが、散らばっていく――
――私の、想い。この、想いの、根源は何か。
大勢の人々の前で演奏をしてきた。そして、喝采を浴びてきた。そんなものよりも、それよりも、ずっと、以前の想いは。
ただ姉妹三人で、廃洋館で狂ったように騒ぎ続けていた。それよりも、もっと。以前の想いを。
私たちは、どうしてこの世界で音を奏で続けている?
その、はじまりを。私たちのはじまりを。
なにかが……。
なにかが、浮かび上がってきそうな気がする――
――リリカは、かき鳴らす。自らの想いへ、追いすがろうとするように。再び、それへ、手を伸ばそうとするように――
――そう、この想い。きっと、この想いなんだ。一番根っこにあるものは。
けれども、この想い。
この想い、なんと呼べばいいのか?
言葉が見つからない。
いいや、呼ぶんじゃない。名づけるんじゃない。
そういうやり方じゃ、きっと触れられない。
私たちがやってきたことは、いつも一つだ。
だから今回も、私たちの方法で、触れるしかない。
想いを、ただ、奏でる。響かせる。
そう、この胸の中に確かにある、この想いは。
この想いで響かせる音色は――
――リリカの耳に、重なり合って響く音が、聴こえてくる――
――ああ、そうだ! この音は……。
喩えば。
優しく見守る、月の陰みたいに。静かにそっと……。そして表情豊かに。
活力で勇気づけてくれる、日の陽みたいに。強く、強く! いきするように。
そして、ときには。
ずっと夢を映してくれる、星の輝きみたいに。優しく愛を込めるように。
そう。そうやって、奏でて……。
私たちが、傍にいてあげるから。あなたが寂しくないように――
――リリカの脳裏に、一つの光景が浮かぶ。
泣いていたあの子が、笑顔になる――
――そう。ただ、それだけなんだ。私たちが、音楽を奏で続けていた理由は。
けれども、もう、あの子は……。
ああ……! もう――
――直後、リリカの脳裏に痛みが走り、演奏が止まった。
音がすべて止み、廃洋館へ吸い込まれて消えていく――
……… …… … ……… … …… ………
そう、きっと、もう、何も残っていないのだ。
すべて消えてしまった後。
何もかも終わってしまっていて。
取り返しは決してつかない。
なにもかも、存在する理由の根本さえも喪ってしまった後の、地獄のような世界しか、私たちには残っていない。
私たちが音楽を演奏して聴かせるあの子は、もうどこにもいない。
だから、私たちは狂ったように騒ぎ続けるしかないのだ。
どこまでも喪失の悲嘆へ落ち込めるように、憂鬱の音色で世界の価値を壊して。
ずっと喪失の悲痛を忘れられるように、狂躁の音色で世界を下らないものと笑い飛ばして。
そして喪失の悲壮を忘れられるように、幻想の音色で世界を覆い隠してしまって。
そうやって私たちは。
まだ、あの子がいて。
あの子のために音楽を奏で続けていた頃の生活を続けて。
私たちを憂鬱と狂躁と幻想で、欺き続けるしかないんだ。
ああ……。
あの子とは、いったい、誰なのか。
そんなことだって、もう分からないっていうのに……。
……… …… … ……… … …… ………
――静寂。
もはや、演奏が終わっても、万雷の拍手も、地を割るような歓声も、何一つとして、響くことはなかった。
幻想の喝采が鳴ることはなかった。
ただ茫然と、放心しきってしまったように、リリカは立ち尽くしていた。そうやって佇む様はあまりにも静かで、本当にそこにリリカ・プリズムリバーがいるのか、それさえも疑わしくなるようだった。
けれども、ただ、一つだけ。
ぱたん。
まるで演奏に対する拍手のように、たった一つの音が、響き渡る。
リリカは息を切らして、ただ茫然と、その音の鳴った方を見た。
一歩、また一歩、虚ろな足取りでどうにか前に進んで、リリカは音が鳴った方へ近づいていく。
そして、たどり着いた先には、暖炉があった。暖炉の上には、五つの写真立てがある。
長女のルナサ。
次女のメルラン。
色あせた家族写真。
三女のリリカ。それぞれの写真立て。
そして、その隣。何も入っていない空白の写真立て。その写真立てが、倒れていた。
まるで、ポルターガイスト現象が演奏に応えたように。誰の写真も入っていない写真立ては、ひとりでに倒れていた。
リリカはその写真立てを見つめた。その写真立てから目を離すことができなかった。
なぜだかたまらなく、その写真立てに何も入っていないことが、受け入れ難くなってきた。
そうしてリリカの中で、今日までずっと胸の中で渦巻いていた感情が、胸を上がり、喉を上がり……涙と、鼻水と、嗚咽。そして哀哭となって、口から溢れ出ていった。
もはやすべて忘れてリリカは泣き叫ぶ――
――私たちは、誰のために演奏をしてきたのか。どうして、写真立ては音を発てて倒れたのか――
――空っぽになった自らの中に、しかしその想いだけは確かに抱いて、ただ泣き叫んだ。
その泣き声は、廃洋館の大気を震わせて、その内側を流転させていった。
そして、倒れた写真立ては、空っぽでも、確かにそこに在り続けた。
……… …… … ……… … …… ………
きっと、はじまりはとても単純で。
あなたが一人で、消えてしまいそうなくらい、苦しそうに泣いていたから。
私たちも、消えてしまいそうなくらい、苦しくなって。
なんとかしなきゃ。そう思って、おしゃべりとか、お遊びとか、そういうことをやってみたのが、始まりだったんだ。
あなたが涙をとめて笑ってくれたのなら、私たちも生まれたことが嬉しくなって。
そのうち、私たちが音を奏でることが、なによりも楽しいって気がついて。
あなたが演奏を聴いてくれることが、私たちのなによりのよろこびになった。
だから。私がほしいものは、きっと。
あなたが居なくなってしまった後の世界は、消えてしまいたくなるくらい、苦しい世界だ。
あなたが笑うこと以外に、なにがこの苦しみを消してくれるのだろう。
それはきっと、今の私たちには分からない。
でも、この夜の音のように、なにか少しでも、あなたを思い出せることが起こるのだとしたら。
私はその音色を見つけるために、耳を澄ましながら在り続けたい。
もう、万雷の拍手なんていらない。
だから、どうか。
この魂に一筋の光が差すような、ただ一度の拍手を。
……… …… … ……… … …… ………
それからというもの、リリカは演奏をした後、拍手も、歓声も、幻想の音色で響かせることはなくなった。
代わりに、演奏が終わった後、ただ耳をしんと澄ませるようになった。
騒霊楽団に万雷の拍手を (了)
何のため、誰のために音を奏でるのか、きっと彼女は見つけることが出来たんですね。とても素敵な作品で楽しませて頂きました。
「あの子」を失った穴がもはや満たされる事が無いとしても、演奏を通じて少しでもその穴を埋められるものが見つかる事を願わずにいられません。
また、寂しさを抱えつつ明るく純粋で鋭い感性を持った清蘭が、この悲痛な話の中でとても光って感じました。助演賞を贈りたいです。
とても面白かったです
お見事でした。硝子細工のように不安定な前半とそれが崩れて慟哭が口をつく後半の対比がたいへんに美しいなと思いました。良かったです。
救われないけれどそれでも強く在り続けて欲しいと、そんな風に思える作品でした。面白かったです。
個人的には今のプリズムリバーは彼女が居なくても幸せにやっているのではとは思いますが……もしかしたらこういう解釈になっているのかもしれませんね。
リリカの記憶があやふやな原作描写を拾っていてよかったです。あと、兎組良いですね。
有難うございました。
惹き込まれる。何度も読み返したくなる。素晴らしかった。
余韻で感情を言語化できないのが悔やまれる。
ラムネを飲んでいる辺りで情景描写とリリカの心情を重ねる様に書かれて、そこから姉二人との会話、自身の在り方への揺らぎへと加速していく葛藤の文が恐ろしくも繊細で、そこからの倒れた写真立てへの視線誘導までの流れまで一気に引き込まれてしまう程のストーリー構成が素晴らしかったです。
読み終わった直後、ラストのリリカがそうであった様に感銘に身を浸してしまう程で、この作品が一つまるごと交響曲であった様にじいんと響くなにかを感じずにはいられませんでした。
跳ね玉兎とかプリズムリバー練習曲第一番とかの凋叶棕歌詞ネタがちょっと含まれているのを読んでいる最中にアハ体験めいた閃きを生んだのもそれはそれで楽しかったですね…。演奏、ありがとうございました…。