一
自分の上でなにかがもぞもぞと動く感触とともに私は目を醒ました。
夜這いだった。
普段の毘沙門天然としてかっちりした衣装ではない、素肌に白く柔らかい簡素な寝衣を纏っただけの無防備な私の、肩をはだけさせ、胸をまさぐり、首筋のにおいを嗅ぎ、太ももを撫でたりしている。
「何をしているの、ぬえ」
はっきりと私は言った。
鉤のような赤い翼と蛇のような青い翼をぴくりと動かして、ぬえは顔を上げると、赤い舌をチロリと覗かせて紅玉を歪ませにたあと笑った。
「お前の総てを掌握してみたくなった」
真夜中の私の寝室で、ぬえの華奢な背中が障子越しの月光を受けて白く光っていた。
私は呆れた。
「あなたともあろう者が、こんな児戯で、いったい誰をどうするですって?」
くっくっくとぬえは喉を鳴らした。「そうやって、いつまでも聖人面しているがいい」
ぬえの舌が、私の鎖骨の窪みに触れた。そしてゆっくりと首を撫であげて、喉仏の凹凸を堪能するようにくすぐった。
「うぅっ……」
思わず声が漏れる。こんな好き勝手をさせてたまるものか。私はぬえに飛びかかろうとした。
「やらせるか」
静かにぬえが言う。私の手がぬえを捕らえるよりも早くぬえが祈りを捧げるようなポーズをすると、がしゃん、がしゃんと音を立てて床と壁から赤く光る直線が突き抜け、私とぬえの周りを立方体で囲むように格子状の結界が出来上がってしまった。ぬえが決闘でよく使うスペルカードのイミテーションに似ていた。
私は急に全身の力が抜けていくようだった。腕が上がらない。脚が動かない。瞳だけがぬえを釘付けにしている。
私は息を呑んだ。
「今からお前を快楽の坩堝に閉じ込めて、我欲をさらけ出させ、お前の獣の血でお前の脳を覆い尽くしてやる」
そして、ぬえの指が私の秘所に伸び──
ニ
──私は夢から醒めた。
がばりと布団から飛び起き、目が見開き、動悸が冷めやらず、汗がぐっしょりと寝間着を濡らしている。
私は呆然としていた。
「今のは、私の夢なのか」
……私に犯される星の夢。
夢の中で私は星だった。
“私”に術をかけられ、身動きが取れず、恐怖と興奮で頭がぼやける……。
「あっはっは!」
私は思わず高笑いし、独り言を口走った。
「まさか私が、星のことをこんなに意識していたなんて思いもよらなかった……」
寅丸星。毘沙門天の代理であり、聖の弟子であり、また聖の信仰対象でもある。義理堅く、信心深く、仕事は完璧にこなす。俗っぽい欲望を顕にすることはほぼなく、高貴な者であり続けることを貫いている。
……気に食わない……いじらしい……可愛い……憎たらしい……八つ裂きにしたい……興味深い……。
同じ聖を慕う者同士、私だって星を信頼しているし、仲間意識もそこそこにはあるが、私は毘沙門天のことはこれっぽっちも信仰していなかった。聖の理想の行く末を見届けたいだけの私には……。
命蓮寺の象徴としての態度を崩さない星。私はその全てをベリベリと剥がすと妖怪虎としての星が顕れることに期待していた。
妖怪は妖怪だとはっきりしたところを見たかった。
それはきっと私が妖怪をしすぎていたからだろう。
「よし、決めた。夢を叶えよう! 叶えるために、夢はあるものなのだ。ふふふ……」
私は独り言に独り言を重ねながら、てらてらと愛液を滴らせる六枚の翼の先端部を手近な布で丁寧にひとつずつ拭き始めた。
三
つまり、星が私を襲わないとだめだ。
徹底的に理性を剥ぎ取り本能を私にぶつけさせるというなら、私が星に夜這いをしかけるとか、そんな甘っちょろいことをしている場合ではない。いくら私から無理矢理しかけて淫らな行為に耽ったところで、“ぬえが私を襲うから抵抗もままならないし仕方なく……”というごく真っ当な反論がまかり通ってしまう。
そうではなくて、星が、無理矢理に私を襲って、倫理観もなにも捨てて犯し尽くし、欲望のままに「お前は私のものだ」と吐き捨てる。星が自ら、嫌がる仲間(私)を私欲のために食い物にする背徳者に堕ちる。その瞬間に、私はもっとも得がたい悦びとともに決定的な勝利を得るだろう。
そう、だから、私は星にとって魅力的な果実にならなければならない。今すく房からもぎとって、しゃぶりつきたくなるほどの、魅力的な果実にならなければならない。
見る者の理性を壊し、だめとわかっても手を出さざるを得なくなる、禁断の果実……。
私にはそうなれる自信があった。
見るものの眼によって姿が変る私には。
四
「おはよう、星」
「……ぬえ。朝から妙な真似はやめて頂きたい」
私は自分の正体にぼかしをかけながら星の部屋に挨拶に行った。一瞬で看破されてしまったので、すぐ姿は戻したが、そのくらいは想定内だ。
「ふっふっふ。私の姿、誰に見えた?」
私の姿は、星がもっとも慕っている者──聖だろう──が扇情的な格好をしているように見えているはずだった。
「教えません」
つん、と星はそっぽを向いた。照れちゃって可愛い。
ぎょろり、と、黒い縦筋の入った金色の瞳だけを私に向けて、星は言った。
「何の用?」
「今日、一緒に守矢の索道に行かない?」
「ほう?」
星は腕を組んだ。よしよし、乗り気らしい。
「あんた非番でしょ。敵情視察も兼ねて、のんびり観光なんてどうかしら。あまり山の上の神社には行ったことないでしょう?」
「確かに。たまには寺から離れるのも気分転換にはいいかも知らん。索道は気になっていたし」
「じゃ、決まりね! 各々昼飯が済んだら出発しよう。寺の門のところで待ち合わせね。ああ、いつもの毘沙門天然とした格好は駄目だぞ! お忍びなんだから、それとない格好で」
「ん。わかった」
かかったな! 言質得たり。この私からは一生逃げられないのだということを教えてやる!
「わはははは!」
「よほどロープウェイが楽しみなのね……」
五
クセのある黒髪を櫛でとかし、サイドの高い位置でひとつにまとめ上げ、フリルのついたリボンで飾り付けると、私は姿見を見てニマニマとした。
「私はかわいいなぁ」
里の小娘たちの間で流行っているようなスタイルの服を選んだ。和服にスカートやフリルを合わせたような格好だ。
色合いは夏らしく涼し気な青を基調として、水色と濃い青緑の格子模様の着物、紺色のプリーツスカートの丈はうんと短く。白いソックスは限界まで上げて、太ももだけ覗かせるのが私のお気に入り。
袖は巫女みたいに肩を空けて、肩口と袖の間を赤い紐で結んだ。寒色系でまとめられた中でいいアクセントになっている。
後ろを向けばスカートの背中に取り付けられた大きなリボンがゆさゆさと揺れた。
「これは愛してしまうなぁ!」
チャームポイントの赤と青の6枚羽は、お忍びってていを守るためにもったいないけど見えなくしてしまって、腕の蛇はしゅるしゅると袖の中に隠した。
よし、完璧だ──腰に手を当ててそう思った刹那、整えたはずの髪の中からぴょこんぴょこんとクセっ毛が何本か飛び出してきてしまった。
……まあいいや。このくらいの方が愛嬌があるだろ。それにクセっ毛なのは私の意志の強いところの顕れだ。私は星の意志の強いところを見せてもらわなきゃならないんだから、これはつまり宣戦布告にもなる!
「里に整髪料が売っていたら買おうかなぁ」
そうして私はニスを塗った薄茶色のかわいい革靴を履いて、るんたたと部屋を飛び出した。
出陣だ!
六
高鳴る、高鳴る、高鳴る。
歩みが早足になって、早足が駆け足になる。
一刻も早く星にこの姿を見せてやって、今日一日中、いや今年いっぱい、いや一生私に釘付けにさせてやる、それが今の私の使命だ。誰の使命だとそんなの決まっている。私から私へと下された使命なのだ!
私は気持ちいい義務感に駆られながら高尚なことをしている気分で、今日も寺の掃除をしている響子に挨拶をしつつ待ち合わせの門前へと走った。
遠目で門の前に立つ人影を確認した。門の日影になっているからよく見えないが待ち合わせの約束をしたのだからおそらく星だろう。
はやる気持ちを抑え、私は私のスピードを落とした。こういう時は悠々とした態度で余裕を見せつけ、じっくりと私を見る暇を与えなければ。
それでもやっぱり少し早足になってしまいながら、私は星を呼んだ。
「星!」
星が振り向いた。
私は腰が抜けそうになった。
──開かれた青白い日傘……。
──風に飛ばされそうな白い鍔広の帽子……。
──それを押さえる腕に嵌められたレース付きの白い長手袋……。
──ほんのりと肩の肌色が透けて見える薄手の紺色のカーディガン……。
──ボディ・シルエットがかすかに浮かぶ清楚な白いワンピース……。
──ワンピースの下から覗く素足がすらりと伸びて、裸足の上に履かれている深い青のパンプス……。
──帽子と腰に結び付けられた空色のリボン……。
それらを身に纏った星が、黒の混ざった金髪をなびかせて、吊り目の眼窩におさめられた縦線入りの金色の瞳をぎょろりと動かして私の存在を認めると、にこり……と柔和に微笑んだのだった。
──どこのご令嬢だお前は?
「ぬえ。今日は天気がいいわね」
言っていることもどこかのご令嬢みたいで私はクラクラとしてくるようだった。──落ち着け……。私がクラクラとしてどうする……。クラクラとするのは星でなければならないのだ……。もしかしたらこの微笑の下で既にクラクラとしているかもしれないのだ……。惑わされてはならない……。
「晴れていてよかった。せっかく山の上に行くんだから」
それについてはまったくの同意だったので、私はとりあえず頷いた。
星は、私の全身を爪先から頭上まで眺めた。おう。いいぞ。屈服しろ。
「今日のあなたは一風違った可愛らしさね。無垢で大胆で……里の女の子みたい。よく似合っているわ」
冷静に分析されてしまった。
いや……いや。いや、しかし、この冷静さは既に私の魅力に屈服していることの裏返しに違いない。星は元来、そういう自分の本性を隠すのが上手い妖怪だ。内心ではきっと慌てて取り繕っているのだ。私はその取り繕いが間に合わなくなるまで戦い続けると愛液で濡れた六枚の翼に誓ったのだ。そうでなければ落とし前がつかないのだ!
日傘を差し、涼しげな白い洋服に身を包み、やわらかい笑顔で私を見ている。
それこそが、外面をよく見せようとしているなによりの証拠ではないか……。
決意を漲らせた瞳で私は星の瞳を見つめ返した。
そして、そこで私は、星を見上げるのではなくまっすぐ見つめることが出来ていることに違和感を覚えた。
……今まで気づかなかったけど、こいつ、思ったより背が低い?
……というか、私とほぼ一緒くらい?
星は私に向かって日傘を差し出した。
「入る? 日焼けしちゃうわよ」
「日焼けはよくないな」
反射的にそう答えると、私は寄り添うようにして星の日傘に入った。
涼しい。
「それじゃあ行きましょうか、ぬえ。それとも、人里で寄りたいところとかある?」
「星は?」
「実は、雑貨屋に寄りたいのよ」虎縞の髪を指で弄りながら星は苦笑苦笑言った。「整髪料が欲しくて」
そういえば、星もクセっ毛だった。
七
雑貨屋に入って、整髪料を買った。店に入り私が、「ちょうどいい、私も買いたいと思っていた」と何の気なしに言うと、星は「せっかくだからぬえの分も私が買ってあげるわ」と言うので、そうさせてやった。
「あまりこういう機会って今までなかったしね。日頃、寺を手伝ってくれてるお礼もしたかったし」
真に魅力的な者とは、何かをしてあげるのではなく、何かをさせてあげるものだ。
だから我慢した。私だって寺での生活にはそこそこに馴染んでいるのだから、人里の通貨の少しは持っているし、また、使う宛もそんなにはないのだから使ってしまいたい気持ちもやまやまだったが、星の顔を立ててやった。いつか星は私のこの狡猾さと我慢強さを知るだろう。
しかし、贈り物をされたからにはそのうちにはお返しをしなければ義理が立たぬという気持ちもあり、しかし義理を立てるということは私がお返しを“させてもらう”側になってしまうことに他ならず、私は義理立てと星を魅了するのとどちらを優先すればよいのだ? どちらも優先することはできないのか? これについて考えているうちにすべてが終了してしまうのではないか?
そう、すべて……。
私は焦燥感に駆られた。
「星。索道乗り場は近いんだっけ?」
星は私に整髪料の入った紙袋を渡して言った。
「少し歩くけど、すぐだったと思うわ。ちょうどこの店の裏の道から……あんたが誘ったのに、場所知らないの?」
「無粋ねえ。会話を楽しみたかっただけよ。場所なんて知っているに決まっているじゃない」
怪訝そうな表情を浮かべる星にべらべらと私は喋ってみせたが、実のところ焦って思いついた適当なことを吟味もせずに口に出しただけだった。
「会話か。そうね。私たちはもっと会話をするべきかもね」
そんなことを言いながら星は雑貨屋の暖簾をくぐり、日傘を開いた。
どういう意味だろう?
八
その日は非常に天気がよく、太陽は燦々と輝き、青々とした空に白い雲がよく映え、風も涼しげに吹く程度で決して激しくはなかったが、索道の人入りはあまりないようだった。
「平日の昼間だからね」星は言った。
人間たちは大人は仕事をしているか、子供は寺子屋にいる頃なのだろう。それでもまばらに見える客足は、仕事が休みの人間か、仕事で守矢神社に行く人間か、それとも人間以外か……。
「私たちはきっと熱心な信者なのよ。有給休暇を使って参拝するくらいのね」
星が差す日傘の中で私は言った。星は微笑みとともに頷いた。
歩いていくうちに、はっきりと索道乗り場が見えてくる。巨大な鉄の塔と、天へ天へと伸びる紐。忙しなく動く技師の河童の、三人か四人か……。
私たちが乗り場に着く頃にはちょうど前の便が出発したようで、少ない待機列は根こそぎ木の箱に乗せられたらしく、残った私たち二名は次の便を待たなければならなくなった。
乗り場のすぐ横の待合用ベンチにえいっと腰をかけると、星も日傘を差したまま私に続いて腰をかけたが、座る直前にさりげなくベンチにハンカチを敷くのを私は見逃さなかった。
「…………」
私は何か言おうとして、やめた。
……暑い……。
……暇だ……。
「あのさ、星」
「なに?」
「あんた、いつもそんな感じなの?」
「はて。そんな感じ、とは?」
「……」すっとぼけた星の態度に私は胸がざわつくのを感じた。「……非番の時いつもそのお嬢様みたいな格好してるのかって聞いてんのよ」
「あっはっは!」星はまったく服装に合っていない豪胆な笑い方で笑った。「まさか。今日は特別よ」
特別。特別。特・別……。私と二人で出かけることが? 索道に乗ることが? 星にとっての特別……。
「白蓮がいない頃は、寺を運営していく上でこういった振る舞いが必要になることもあったわ。ご近所付き合いというやつね」
私は聖がいる今の寺しか知らないのでなんとも言えなかった。
声をすぼめて星は続けた。
「これはその頃の残滓ね……。ふふ。あなたに誘われて、昼のうちに急いでよそ行きの服を探してみたけれど、これしか残っていなかった。もっと古いものは捨ててしまったんだわ」冗談めかして星は笑った。「ぬえは和装の方が好きだったかしら?」
「なぜ、私の好みを気にするんだよ」
「あなたが誘ってくれたんだから、あなたを楽しませたいじゃない。でなければ、こんな服ワードローブの奥で腐らせていたわ」
「じゃあ、あんたがその服を着てるところって、聖は見たことがないの?」
思ったままの疑問を口に出すと、星は人差し指を唇に当てて、にいやりと笑った。
「そうよ」
私は興奮をした。
「ナズーリンくらいかしらね。彼女はずっと一緒にいたから」
私は萎えた。
「ぬえの方こそ、そんなふうにかわいく着飾ってるところ見せてくれるの初めてじゃない。服は人里で買ったの?」
「ん。まあ」私は気怠いやら気恥ずかしいやらでぶっきらぼうな口調になって答えた。「買ったり、ちょっと改造したり」
「ほう。流石に器用ね」
星は、私の肩口や、スカートの裾や、胸元などをまじまじと見ているようだった。いいぞ。もっと見るのだ。そのうちにお前は自我を超えるほどの欲情を覚えるだろう。
「私も私服を買い直した方がいいかなぁ。でも、人里を歩くぶんには信仰が集まった方がいいし……」
「結局、休日でも毘沙門天らしい格好をしていたほうがいいってこと?」
「そう、そう」
「ふん」
こんな時でも仕事のことを考えてしまうのは病的だ。私はこいつのそういうところが気に入らなくて、今、こんな真似をしているのだということをにわかに意識した。
「私服、買いなよ」
「ありゃ。やっぱりこの服、似合わないかしら」
「違う」
星のそのお嬢様のような格好は、はっきり言って、似合いすぎるほどに似合っていた。星が目鼻立ちがはっきりとしていて美人の顔をしているということもあるし、星が修行の中で副次的に身につけた気品と合致しているということもあった。
「その格好、私は好きよ。星に似合ってると思う」
「ま」星は頬に手を当てた。「照れるわ」
「私、また誘うから」
私は星の手首を掴んで、うんと顔を近づけてやった。星が目を見開くのがわかった。
「ぬ。ぬえ」
「また二人だけでこっそり出かけましょう。その時は、あんた、誰にも見せたことのない服を着て、私だけに公開するのよ」
「あの。顔が近いのですが」
「私の前だけで」
「あ、あの」
「私だけに」
唇が近づく、唇が近づく、唇が触れる、触れる、触れる!
私は、あと一塵というところでばっと顔を離した。
私から接吻をしてはいけない……。接吻をするときは星からその瑞々しい唇を私の唇に無理やり押し付けなければならない……。
「ね。星。わかるでしょ」
「は、はあ」
星が赤面をして露骨に動揺しているのがわかったので私は気分がよくなった。いいぞ、ぬえ。その調子だ。星が理性の檻を破壊する時は涅槃寂静より近いぞ!
星は、こほん、と咳払いをした。
「次の便までは、まだかかるのかしら……」
星の細い視線の先には、暑さで伸びている技師の河童たちがあった。
九
思っていたよりは早く、人間を五人六人乗せた下りの車両が綱を渡って下りてくるのが見えた。技師の河童のひとりが、「お嬢さんがた、こちらへどうぞ」と言うので、短い階段を上がって乗り場へ立った。ひさしがついていて涼しい。星は日傘を閉じた。
「お嬢様さんがた、だって。星ちゃん」
私がそう言うと、星はきょとんとした顔を浮かべたあとに、くすくすと笑った。
「こそばゆいわね、ぬえちゃん」
がたん、がたん、ぎいいとわりと派手な音を立てて車両が停まる。河童が安全用のレバーを上げて扉を開き、中から人間たちが、いやいい眺めだった、だの、また来てもいいかも、だの言いながら、ぞろぞろと出て行った。成人男性が多いように見えた。
河童が、「どうぞ、ご乗車ください」と言うので、開かれた扉をまたいで私と星は車両に足を踏み入れた。ぎい、と床の木材が軋んだ。
河童の手によって扉が閉じられ、レバーが下げられる。結局、私達のあとには客はなかったようで、私は狭い空間で星と二人きりになった。
僥倖だった。
河童がなにやら河童にしかわからないような合図の言葉を叫んだり、機材を動かしたりしている。そのうちに「お待たせしました、発車します!」という叫び声とともにリイイイーーン……ゴオオオーーン……と鈍重な鐘の音が鳴り、がこん! と不安を煽るような音がして車両が揺れたかと思うと、僅かな浮遊感が足元に訪れ、やがて車両は綱で導かれた空へと泳ぎ出した。
「なんだか飛倉を探して船に乗っていた時を思い出すわね」
星が言った。私は星の方を向いた。……香水の匂い……爽やかな、柑橘系の、甘酸っぱい……ベンチにいた時は気付かなかった。風向きの関係だろうか。しかし、私の鼻はそんなもので誤魔化されたりはしない。獣の匂い……乾いた血の匂い……。ふたつは混ざり合って、私の鼻腔へと吸い込まれる。まぎれもない星の匂い……星が選んだ匂い……。
「あはっ。それって私へのあてつけ?」
「ああ。いえ。そんなつもりは……」
「冗談よ。邪魔なんかして悪かったって思っているわ」私は車両の壁に腰を預け、肩越しに外を見た。地面がぐんぐん遠ざかっていく。河童がどんどん小さくなっていく。「今でもね……」
木の枠組みで造られた車両は、安全性さえ考慮されているものの、窓が大きくて閉塞感はない。涼しい風が入ってきて気持ちがいい。そして星の匂いと私の匂いが撹拌されて。
「地に足をつけたまま飛ぶのって、味わい深いわ」
「……ぬえ」
星が私の隣に立った。車両が偏りで少しだけ斜めに傾いた気がした。
「命蓮寺をどう思う?」
「どう、って……」
いきなり本質的な質問をされて私は口籠った。なぜ、いま、私に、そんなことを聞くんだ?
星は空を見ながら言った。眩しく青く輝く夏の空。
「私は……白蓮、それから、ナズーリン以外とは、正直言ってあまり親しくないの」
「ふうん……?」
あまりピンと来ない発言だった。聖・ナズーリン以外と言うと、ムラサ、一輪、雲山、響子、女苑、あと私が連れてきたマミゾウ……。
マミゾウはともかくとして、新参寄りの響子は星を素直に毘沙門天として畏れているし、女苑はあの性格だから真面目な星とは合わないだろう、まあわかる。
「ムラサとか、一輪、雲山ってのは、ずっと一緒だったんじゃないの?」
星は目を臥せて首を横に振った。
「私は修行を行って毘沙門天の代理となってから、妖怪であることを周囲に隠していたのよ。白蓮が封じられる前の寺では、彼女らを見たことはあるけど、見たことがあるだけだで、彼女らも私を見たことがあるだけだったわ」
私は驚いた。
「なんだ。じゃああんたらが知り合ったのって、間欠泉から出てきてからってこと?」
「そうなるわ」
つまり、ムラサたちが星と仲間になった時期と、私が寺に加入した時期はそう変わんないということ?
星はため息をついた。
「だから、たまに接し方がわからなくなることがあってね……。私は地底に封じられることもなかったし。ムラサたちとは、むしろぬえの方が親しいんじゃないかって思ってるんだけど」
「そうかな……一輪なんか、私のことさん付けで呼んでるぜ」
「慕われているのね」
「距離を置かれているだけよ」
「…………」
「…………」
寂しい……悲しい……厭な空気だった。
私は命蓮寺の成り立ちについて、断片的な情報しか知らない。べつに、全く知らなくたって、何の問題はないだろう。
でもこの星は、知りすぎるほどに知っていて、背負いすぎるほどに背負っていて、それをおくびにも出さないで……。
……いいじゃない。
それを吐露する相手に、星は私を選んだんだわ! 聖でもなく、ナズーリンでもない。
その理由は私にはわかった。私が妖怪の大物だからだ。人間の大物や、妖怪の小物相手ではだめなんだ! 大物というには大物すぎる、毘沙門天の威光を身に纏う星には。そして、本来の獰猛な妖怪虎としての鬱憤を持つ星には!
私は底しれぬ優越感に酔いしれ喉をくつくつと鳴らしたが、いや、あれ? 私は別に、星の人生相談の相手役を引き受けるつもりはない。私は好奇心で星の妖怪らしいところを見てみたいだけ。
じゃあ、待て、私は星の本性を暴き立てて、それからどうしようというのだ? まず間違いなく、今までの“特別親しくはない仲間”のまま、ということにはならないだろう。あれ。おやっ。私は“星とどうなりたいか”よしんば“どうなる予定なのか”をまったく勘定に入れていなかったらしいな? あれっ。困った。今更になって?
私は星の横顔を見た。吹き抜ける風で落ちないように白い帽子を片手で押さえて、空色のリボンをなびかせながら、縦線入りの金色の瞳で眼下に広がる人里を見下ろしている。
可憐だ。
私は星への好奇心だけでもって動いていて、星とどうなるつもりなのか、まったく考えていなかったことに気付き、また、その上で星の物凄い可愛らしさを思うと、混乱してきた。私は星とどうなりたい? 星のなにになりたい? 固い友情で結ばれた仲間? 立場を共にし時には苦しみを分かち合う友人? 甘い一時を過ごす恋人? 激しい情欲に身を焦がすセフレ? 弱みを握り都合よく使える主従関係?
私は車両が綱を渡ってぐんぐんと山を昇るごとに、ずんずんと奈落に堕ちていくような気がした。
「さっき……」星が口を開いた。
「うん?」
「ぬえが、また誘うって言ってくれて、私嬉しかった。自分が寺に馴染めていない気がしていたから……」
「冗談だろ」びっくりして私はつい粗暴な口調になりながら言った。「寺に馴染めていないなんて。あんたは寺そのものじゃないか。馴染めていないなんて。私の方がずっと言われてる」
「そうなの?」
「聞いたことないの? なんか、みんな言ってるみたいだけど。“あの鵺とかいう妖怪は寺から浮いてる”って」
「初耳だわ……」
「えぇ……」
私は脱力した。私自身は特段気にしてはいないのだが、私が陰口叩かれてることを、星が把握していないとは思わなかった。
……把握できなかったのかもしれない。星は仕事に忙殺されるのと、立場上で距離を置かれるから、あまり噂話が耳に入ってこないのかもしれない。ナズーリンあたりが色々と吹き込んでいてもおかしくはないと思うのだが……。
ああ、そして、それこそが、星が「自分は寺から浮いてる」と思う理由かもしれない。得心がいった。なるほどね。
「あ。ぬえ。見て」
目をぱちくりさせて、星が下に広がる山の一部を指差した。いつの間にか、索道も中腹に差し掛かっているようだ。
星の指の先を見ると、ぐるぐると小さな竜巻のようなものがいくつか渦潮めいて発生していた。
「天狗風だわ」
星が言った。
ほう、あれが、索道名物“天狗風”。あの中には人間を襲う気満々の天狗がいて、索道の客を狙っているが、山の神の御加護があるから大丈夫なのだという。パンフレットに書いてあった。
天狗なんて普段なら鬱陶しい以上の感情を持たぬが、私たちは今、「お嬢さんがた」と呼ばれる立場だ。ロールプレイにはロールプレイをもって応えるのが礼儀と言うものだろう。
「やーん。怖いわ、星」
私はそう言って、くすくすと笑いながら、星の腕に私の腕を絡めた。触れる星の健康的な肉の感触。やわらかいワンピース。香水。獣。乾いた血。
私の意図に気付いたらしく、星もロールプレイ的な動きで、私の肩を強く抱いた。
そして縦線入りの金色の瞳を獰猛に細めて、強かな笑みを浮かべて、長いまつ毛が震え、瑞々しい唇が開かれて……。
「心配しないで。あなたは私が守るわ、ぬえ」
ああ……。
十
ああ……。
十一
けたたましいばかりに響く河童の「ご乗車ありがとうございました!」という声で頂上に着いたとわかった。車両が停止し、河童がぞろぞろと安全レバーを上げ、扉を開くので私も星も車両を降りた。この河童どもは毎日これをやっているんだろうか。ご苦労なことだ。自分なら絶対ごめん被る。
入れ違いに下りの客が何人か入っていって、私達は乗り場から出た。また上に上がってくる客はいるのだろうか?
「これは確かに絶景だわ」
日傘を開きながら星が言った。
索道乗り場を出たらすぐに、わかりやすく幻想郷を一望できる広場があった。
確かに、これはいい。
緑に囲まれた台地に、人の営む里が見えて、煌めく湖に、鮮やかな花畑まで、素晴らしい景色が胸いっぱいに広がった。天気がよくてよかった、と心から思った。
「命蓮寺はどこかなー」
「あれじゃない?」
「ああ、じゃあ横のが墓地か」
星が指差す先を見る。空なんて飛び慣れているし、高くから見下す景色だって珍しくはないはずなのに、この山から見る幻想郷はどこか違って、殊更に美しく、日常的に見えた。
そして、星の傘に入るから、私はまた香水を意識してしまって……。
「星……」
「なに?」
「その、香水も、ご近所付き合いの時に?」
「えっ。ううん」照れ臭そうに星は笑った。「これはこの間、雑貨屋の主人に薦められて、つい買っちゃったのよ。まさか、使う機会が来るなんて思わなかったわ。それもこんなに早く」
「可愛い……」
「……今、何と?」
「あんた、私一人相手と出掛けるのに、気合い入れ過ぎじゃないの」
「言ったでしょう。あなたが誘ってくれたのが嬉しかったって。それに、ぬえだって、いい香りがするわ……」
そう言うと、星は私の首筋に鼻を近づけた。すんすん、と匂いを嗅がれる。意外と大胆だな。いっそ、そのまま首を食いちぎってくれりゃあいいのよ。
「ちょっと星、くすぐったい……」
「……甘くて刺激的な匂い……気合い入れ過ぎなのは、あなたもじゃない?」
「そりゃあ、私が誘ったんだし」
「そういえば、ぬえは、どうして私を誘ってくれたの? ムラサでも、マミゾウでも、よかったんじゃない?」
挑発的な表情を浮かべて星が言う。
……まだだ……まだ乗るべきところじゃない……。
星は少し、気が緩み始めていると見える。
なればこそ、より確実に計画を進めるために、私は気を引き締めなければならない。
計画……。計画って……。
「……あんたが非番だったからよ」
十二
折角なので、守矢神社に参拝していくことにした。すぐに私達の正体が露見するかもとも思ったが、鳥居はとりあえず普通にくぐれた。
「傘と帽子で隠しているとはいえ、私の髪は目立つから、早苗あたりに見つかったらバレるかもしれないわね」
「私が適当にうにょうにょ〜ってしておくから、よほどのことがなければバレないわよ。私達は正体不明の里の一般人間」
「便利ねぇ、うにょうにょ」
石段を上がり、参道を歩く。日差しが眩しく目を灼くようだったが、星の日傘に助けられた。
拝殿にたどり着いた。段を上がり、賽銭箱の前に立つ。
「毘沙門天が八百万の神に何を祈るっていうのかしら」
「仏教の繁栄でも祈っておこうかな」
「一瞬で罰が当たりそうね」
縄を揺らして鈴を鳴らし、適当に賽銭を投げ入れる。二礼、二拍手──この簡易な動作のうちに祈りを込めなければならない。当然だが私が祈ることなんて特にない。外の神社なら祈るふりでもよかったのだが、生憎ここは主神が実在してらっしゃる。私達はあくまでスパイなのだ、勘付かれては困る。仕方がないなので私は交通安全でも祈っておくことにした──一礼。
私が顔を上げると、星はまだ礼をしていた。一体何をそんなに祈ることがあるのだろう? まさか本当に仏教繁栄を祈願したわけでもあるまいに。
聞けば教えてくれたかもしれないが、なんとなくそれは憚られた。
礼をしている星の横顔があまりにも精悍で、真剣だったからだ。
十三
下りの索道に乗る頃には、日が傾きかけていて、空はわずかに紅鮭色に染まっていた。
「お待たせしました、発車します!」
リイイイーーン……ゴオオオーーン……がたん。上りの時よりも浮遊感が強いような気がして、少しドキリとする。
車内には私たち二人しかいなかった。上りの便にも、誰も乗っていなかった気がする。星の言う通り、平日の昼間ならこんなものなのかもしれない。
索道が私達を地上へ運んで行く……。
「見に来られてよかったわ」星が言った。「守矢神社が、どれだけ経営戦略を練り込んでいるかよく分かった。私たちも寺を維持するために頑張らないとね」
ニコリと笑って星が言うので、私は呆れた。
「そりゃ、私もそう思うけどさあ。もっと他の感想ないの?」
「他の感想?」
「あるでしょ。情緒的な感想」
「情緒的……」ふっ、と星はシニカルに笑った。「そうね。あるわ」
「聞かせてよ」
夕焼けで頬を朱色に染めて、縦線入りの金色の瞳を細め、瑞々しい唇を開いて、星は言った。
「ぬえが可愛かったわ」
香水。獣。乾いた血。白いワンピースと白い手袋。
私は片手で星の手首をぐいと掴んで、もう片手で後頭部を引き寄せた。
私は星に接吻した。
その瞬間、私は自分の敗北を確信した。絶望的な気分になりながら唇を離した。
私はなにをしている? 星を魅了して、妖怪の妖怪らしいところを引きずり出すと誓ったのに、なんたるザマか。
取り落してしまった雑貨屋の袋が床に転がっている。整髪料。惨めさ、悔しさ、星への申し訳無さ──それらを脳髄にひしひしと感じながら私はおそるおそる星を見ようとした。
見られなった。
星が私に接吻したからだ。
「…………」
「…………」
唇が離れ、私達は沈黙し合った。星の瞳の中に私の間抜けヅラが見えるほどに見つめ合った。
そしてまた星が私に接吻し、星が私に接吻し、星が私に接吻した。
「っちょ。落ちる、落ちる」
「ああ、すみません、ごめん」
星が接吻するたびに私の背中は壁際に追いやられ、車両から転落しそうになっていた。
「えっ。なんで?」
「なんでって……」
私の手を取って、体を支えてくれながら、星は言った。
「ぬえ、あなた、私が普段果てしない瞑想の果てに本能的な欲求を死ぬ寸前まで我慢してるのを知ってて焚きつけたんでしょう」
「き。気づいてたの……」
「あんな露骨に誘われたら、誰だって気付くわ」星は私の背中を撫でた。「それに、誰だって我慢できなくなる」
そうして星は私の背中を抱き寄せて、私の耳元で囁いた。
「つまり、私の負けよ、ぬえ」
爪先から脊髄までゾクゾクと快感が駆け巡る。
「おめかしして、色っぽい香水つけて、必死に私を誘うぬえはとても可愛かったわ……神社で自分を強く保つよう祈ったのに、キスされて台無しになっちゃった」
星はとんでもなく妖艶な表情をしていた。
とても、毘沙門天の代理などと口が裂けても言えないほどに。
私は星の肩を掴んで、服をはだけさせて、床に押し倒そうとした。
が、振りほどかれた。
星は毘沙門天の代理然とした顔で激怒した。
「それは、索道の技師の方々に迷惑だから、やめなさい!」
「真面目ちゃんがよ!」
十四
寺に帰って聖に「守矢神社の索道を見てきた。素晴らしかった。うちも頑張ったほうがいい」と伝えると、「星と仲良くしてくれて嬉しいわ。これからもよろしくね」と言われた。
・会話をする気があるのか
・保母か
・危機感を持て
以上の三点を強く思ったが、口には出さなかった。
そして、聖からお墨付きを貰った以上、これはもう仕方ないということだった。
私と星は顔を見合わせた。
十五
自分の上でなにかがもぞもぞと動く感触とともに私は目を醒ました。
夜這いだった。
普段の毘沙門天然としてかっちりした衣装ではない、素肌に白く柔らかい簡素な寝衣を纏っただけの無防備な私の、肩をはだけさせ、胸をまさぐり、首筋のにおいを嗅ぎ、太ももを撫でたりしている。
「何をしているの、ぬえ」
はっきりと私は言った。
鉤のような赤い翼と蛇のような青い翼をぴくりと動かして、ぬえは顔を上げると、赤い舌をチロリと覗かせて紅玉を歪ませにたあと笑った。
「お前の総てを掌握してみたくなった」
真夜中の私の寝室で、ぬえの華奢な背中が障子越しの月光を受けて白く光っていた。
私は呆れた。
「あなたともあろう者が、こんな児戯で、いったい誰をどうするですって?」
くっくっくとぬえは喉を鳴らした。「そうやって、いつまでも聖人面しているがいい」
ぬえの舌が、私の鎖骨の窪みに触れた。そしてゆっくりと首を撫であげて、喉仏の凹凸を堪能するようにくすぐった。
「うぅっ……」
思わず声が漏れる。こんな好き勝手をさせてたまるものか。私はぬえに飛びかかろうとした。
「やらせるか」
静かにぬえが言う。私の手がぬえを捕らえるよりも早くぬえが祈りを捧げるようなポーズをすると、がしゃん、がしゃんと音を立てて床と壁から赤く光る直線が突き抜け、私とぬえの周りを立方体で囲むように格子状の結界が出来上がってしまった。ぬえが決闘でよく使うスペルカードのイミテーションに似ていた。
しかし、私もほぼ同時に法力を開放していた。黄色く光る直線が、格子状に私とぬえを囲む。私が決闘で使うスペルカードのイミテーションだった。
ぬえが言った。
「二重結界みたいになっちゃった。これってどうなるの?」
「さぁ……」
「さぁって……」
「でも綺麗ね」
赤と黄のレーザーが交錯する様は、決して目に毒でないとは言えなかったが、それでも魅力的だった。
「私、力が入らないわ」
「私もよ」
「もう……」
ぬえは私の上にへたり込んだ。
「このまま、霊力が尽きるまで黙ってるしかないじゃないの」
「そうよ」
「星の馬鹿ぁ。大人しく襲わせろよ。あそこまで行ったんだからよぉ」
「果てしない瞑想の果てに本能的な欲求を死ぬ寸前まで我慢してるって言ったでしょう。今の私はその状態」
「一日経たずに我慢を取り戻したというのか!」ぬえは大層驚愕した様子で言った。「またあんな手間をかけてあんたをその気にさせないといけないっての!?」
「正体不明の妖怪が、私の正体を暴こうなんておかしな話よねぇ」
「な。舐めているのかっ」
「畏れているわ。私をその気にさせる可能性のあるあなたを」
「……あんた、やっぱり気に食わないわ」
ぬえはそう言うと掛け布団を私にかけなおして、もぞもぞと隣に入った。
「寝るの?」
「仕方ないじゃん。あんたの法力のせいで、満足に動けないし」
「それはお互い様というか……」
「あーあ! いつか必ず、あんたを快楽の坩堝に閉じ込めて、我欲をさらけ出させ、あんたの獣の血であんたの脳を覆い尽くしてやるわ!」
「いつでも挑戦どうぞ」
「あーむかつく!」
わざとらしく言うと、ぬえは私に背を向けてしまった。……へ、変な形の羽が布団の中で蠢いていて動きづらい……。
「ぬえ」
「なによ」
「今日、誘ってくれてありがとう。楽しかったわ」
私ができるだけ穏やかな声で言うと、少しの間のあとに、小さい声で返事があった。
「……うん。私も楽しかった」
私は安堵感で胸がいっぱいになり、また、この封獣ぬえという妖怪への愛おしさがどんどん膨らんでいくようで、明日からの日常が楽しみになった。
私は停滞をしすぎた。少しの変化を喜んだって、毘沙門天もお怒りにはならないだろう。
妖怪の一生は永いのだから。
「おやすみ、ぬえ」
「おやすみ、星」
【了】
自分の上でなにかがもぞもぞと動く感触とともに私は目を醒ました。
夜這いだった。
普段の毘沙門天然としてかっちりした衣装ではない、素肌に白く柔らかい簡素な寝衣を纏っただけの無防備な私の、肩をはだけさせ、胸をまさぐり、首筋のにおいを嗅ぎ、太ももを撫でたりしている。
「何をしているの、ぬえ」
はっきりと私は言った。
鉤のような赤い翼と蛇のような青い翼をぴくりと動かして、ぬえは顔を上げると、赤い舌をチロリと覗かせて紅玉を歪ませにたあと笑った。
「お前の総てを掌握してみたくなった」
真夜中の私の寝室で、ぬえの華奢な背中が障子越しの月光を受けて白く光っていた。
私は呆れた。
「あなたともあろう者が、こんな児戯で、いったい誰をどうするですって?」
くっくっくとぬえは喉を鳴らした。「そうやって、いつまでも聖人面しているがいい」
ぬえの舌が、私の鎖骨の窪みに触れた。そしてゆっくりと首を撫であげて、喉仏の凹凸を堪能するようにくすぐった。
「うぅっ……」
思わず声が漏れる。こんな好き勝手をさせてたまるものか。私はぬえに飛びかかろうとした。
「やらせるか」
静かにぬえが言う。私の手がぬえを捕らえるよりも早くぬえが祈りを捧げるようなポーズをすると、がしゃん、がしゃんと音を立てて床と壁から赤く光る直線が突き抜け、私とぬえの周りを立方体で囲むように格子状の結界が出来上がってしまった。ぬえが決闘でよく使うスペルカードのイミテーションに似ていた。
私は急に全身の力が抜けていくようだった。腕が上がらない。脚が動かない。瞳だけがぬえを釘付けにしている。
私は息を呑んだ。
「今からお前を快楽の坩堝に閉じ込めて、我欲をさらけ出させ、お前の獣の血でお前の脳を覆い尽くしてやる」
そして、ぬえの指が私の秘所に伸び──
ニ
──私は夢から醒めた。
がばりと布団から飛び起き、目が見開き、動悸が冷めやらず、汗がぐっしょりと寝間着を濡らしている。
私は呆然としていた。
「今のは、私の夢なのか」
……私に犯される星の夢。
夢の中で私は星だった。
“私”に術をかけられ、身動きが取れず、恐怖と興奮で頭がぼやける……。
「あっはっは!」
私は思わず高笑いし、独り言を口走った。
「まさか私が、星のことをこんなに意識していたなんて思いもよらなかった……」
寅丸星。毘沙門天の代理であり、聖の弟子であり、また聖の信仰対象でもある。義理堅く、信心深く、仕事は完璧にこなす。俗っぽい欲望を顕にすることはほぼなく、高貴な者であり続けることを貫いている。
……気に食わない……いじらしい……可愛い……憎たらしい……八つ裂きにしたい……興味深い……。
同じ聖を慕う者同士、私だって星を信頼しているし、仲間意識もそこそこにはあるが、私は毘沙門天のことはこれっぽっちも信仰していなかった。聖の理想の行く末を見届けたいだけの私には……。
命蓮寺の象徴としての態度を崩さない星。私はその全てをベリベリと剥がすと妖怪虎としての星が顕れることに期待していた。
妖怪は妖怪だとはっきりしたところを見たかった。
それはきっと私が妖怪をしすぎていたからだろう。
「よし、決めた。夢を叶えよう! 叶えるために、夢はあるものなのだ。ふふふ……」
私は独り言に独り言を重ねながら、てらてらと愛液を滴らせる六枚の翼の先端部を手近な布で丁寧にひとつずつ拭き始めた。
三
つまり、星が私を襲わないとだめだ。
徹底的に理性を剥ぎ取り本能を私にぶつけさせるというなら、私が星に夜這いをしかけるとか、そんな甘っちょろいことをしている場合ではない。いくら私から無理矢理しかけて淫らな行為に耽ったところで、“ぬえが私を襲うから抵抗もままならないし仕方なく……”というごく真っ当な反論がまかり通ってしまう。
そうではなくて、星が、無理矢理に私を襲って、倫理観もなにも捨てて犯し尽くし、欲望のままに「お前は私のものだ」と吐き捨てる。星が自ら、嫌がる仲間(私)を私欲のために食い物にする背徳者に堕ちる。その瞬間に、私はもっとも得がたい悦びとともに決定的な勝利を得るだろう。
そう、だから、私は星にとって魅力的な果実にならなければならない。今すく房からもぎとって、しゃぶりつきたくなるほどの、魅力的な果実にならなければならない。
見る者の理性を壊し、だめとわかっても手を出さざるを得なくなる、禁断の果実……。
私にはそうなれる自信があった。
見るものの眼によって姿が変る私には。
四
「おはよう、星」
「……ぬえ。朝から妙な真似はやめて頂きたい」
私は自分の正体にぼかしをかけながら星の部屋に挨拶に行った。一瞬で看破されてしまったので、すぐ姿は戻したが、そのくらいは想定内だ。
「ふっふっふ。私の姿、誰に見えた?」
私の姿は、星がもっとも慕っている者──聖だろう──が扇情的な格好をしているように見えているはずだった。
「教えません」
つん、と星はそっぽを向いた。照れちゃって可愛い。
ぎょろり、と、黒い縦筋の入った金色の瞳だけを私に向けて、星は言った。
「何の用?」
「今日、一緒に守矢の索道に行かない?」
「ほう?」
星は腕を組んだ。よしよし、乗り気らしい。
「あんた非番でしょ。敵情視察も兼ねて、のんびり観光なんてどうかしら。あまり山の上の神社には行ったことないでしょう?」
「確かに。たまには寺から離れるのも気分転換にはいいかも知らん。索道は気になっていたし」
「じゃ、決まりね! 各々昼飯が済んだら出発しよう。寺の門のところで待ち合わせね。ああ、いつもの毘沙門天然とした格好は駄目だぞ! お忍びなんだから、それとない格好で」
「ん。わかった」
かかったな! 言質得たり。この私からは一生逃げられないのだということを教えてやる!
「わはははは!」
「よほどロープウェイが楽しみなのね……」
五
クセのある黒髪を櫛でとかし、サイドの高い位置でひとつにまとめ上げ、フリルのついたリボンで飾り付けると、私は姿見を見てニマニマとした。
「私はかわいいなぁ」
里の小娘たちの間で流行っているようなスタイルの服を選んだ。和服にスカートやフリルを合わせたような格好だ。
色合いは夏らしく涼し気な青を基調として、水色と濃い青緑の格子模様の着物、紺色のプリーツスカートの丈はうんと短く。白いソックスは限界まで上げて、太ももだけ覗かせるのが私のお気に入り。
袖は巫女みたいに肩を空けて、肩口と袖の間を赤い紐で結んだ。寒色系でまとめられた中でいいアクセントになっている。
後ろを向けばスカートの背中に取り付けられた大きなリボンがゆさゆさと揺れた。
「これは愛してしまうなぁ!」
チャームポイントの赤と青の6枚羽は、お忍びってていを守るためにもったいないけど見えなくしてしまって、腕の蛇はしゅるしゅると袖の中に隠した。
よし、完璧だ──腰に手を当ててそう思った刹那、整えたはずの髪の中からぴょこんぴょこんとクセっ毛が何本か飛び出してきてしまった。
……まあいいや。このくらいの方が愛嬌があるだろ。それにクセっ毛なのは私の意志の強いところの顕れだ。私は星の意志の強いところを見せてもらわなきゃならないんだから、これはつまり宣戦布告にもなる!
「里に整髪料が売っていたら買おうかなぁ」
そうして私はニスを塗った薄茶色のかわいい革靴を履いて、るんたたと部屋を飛び出した。
出陣だ!
六
高鳴る、高鳴る、高鳴る。
歩みが早足になって、早足が駆け足になる。
一刻も早く星にこの姿を見せてやって、今日一日中、いや今年いっぱい、いや一生私に釘付けにさせてやる、それが今の私の使命だ。誰の使命だとそんなの決まっている。私から私へと下された使命なのだ!
私は気持ちいい義務感に駆られながら高尚なことをしている気分で、今日も寺の掃除をしている響子に挨拶をしつつ待ち合わせの門前へと走った。
遠目で門の前に立つ人影を確認した。門の日影になっているからよく見えないが待ち合わせの約束をしたのだからおそらく星だろう。
はやる気持ちを抑え、私は私のスピードを落とした。こういう時は悠々とした態度で余裕を見せつけ、じっくりと私を見る暇を与えなければ。
それでもやっぱり少し早足になってしまいながら、私は星を呼んだ。
「星!」
星が振り向いた。
私は腰が抜けそうになった。
──開かれた青白い日傘……。
──風に飛ばされそうな白い鍔広の帽子……。
──それを押さえる腕に嵌められたレース付きの白い長手袋……。
──ほんのりと肩の肌色が透けて見える薄手の紺色のカーディガン……。
──ボディ・シルエットがかすかに浮かぶ清楚な白いワンピース……。
──ワンピースの下から覗く素足がすらりと伸びて、裸足の上に履かれている深い青のパンプス……。
──帽子と腰に結び付けられた空色のリボン……。
それらを身に纏った星が、黒の混ざった金髪をなびかせて、吊り目の眼窩におさめられた縦線入りの金色の瞳をぎょろりと動かして私の存在を認めると、にこり……と柔和に微笑んだのだった。
──どこのご令嬢だお前は?
「ぬえ。今日は天気がいいわね」
言っていることもどこかのご令嬢みたいで私はクラクラとしてくるようだった。──落ち着け……。私がクラクラとしてどうする……。クラクラとするのは星でなければならないのだ……。もしかしたらこの微笑の下で既にクラクラとしているかもしれないのだ……。惑わされてはならない……。
「晴れていてよかった。せっかく山の上に行くんだから」
それについてはまったくの同意だったので、私はとりあえず頷いた。
星は、私の全身を爪先から頭上まで眺めた。おう。いいぞ。屈服しろ。
「今日のあなたは一風違った可愛らしさね。無垢で大胆で……里の女の子みたい。よく似合っているわ」
冷静に分析されてしまった。
いや……いや。いや、しかし、この冷静さは既に私の魅力に屈服していることの裏返しに違いない。星は元来、そういう自分の本性を隠すのが上手い妖怪だ。内心ではきっと慌てて取り繕っているのだ。私はその取り繕いが間に合わなくなるまで戦い続けると愛液で濡れた六枚の翼に誓ったのだ。そうでなければ落とし前がつかないのだ!
日傘を差し、涼しげな白い洋服に身を包み、やわらかい笑顔で私を見ている。
それこそが、外面をよく見せようとしているなによりの証拠ではないか……。
決意を漲らせた瞳で私は星の瞳を見つめ返した。
そして、そこで私は、星を見上げるのではなくまっすぐ見つめることが出来ていることに違和感を覚えた。
……今まで気づかなかったけど、こいつ、思ったより背が低い?
……というか、私とほぼ一緒くらい?
星は私に向かって日傘を差し出した。
「入る? 日焼けしちゃうわよ」
「日焼けはよくないな」
反射的にそう答えると、私は寄り添うようにして星の日傘に入った。
涼しい。
「それじゃあ行きましょうか、ぬえ。それとも、人里で寄りたいところとかある?」
「星は?」
「実は、雑貨屋に寄りたいのよ」虎縞の髪を指で弄りながら星は苦笑苦笑言った。「整髪料が欲しくて」
そういえば、星もクセっ毛だった。
七
雑貨屋に入って、整髪料を買った。店に入り私が、「ちょうどいい、私も買いたいと思っていた」と何の気なしに言うと、星は「せっかくだからぬえの分も私が買ってあげるわ」と言うので、そうさせてやった。
「あまりこういう機会って今までなかったしね。日頃、寺を手伝ってくれてるお礼もしたかったし」
真に魅力的な者とは、何かをしてあげるのではなく、何かをさせてあげるものだ。
だから我慢した。私だって寺での生活にはそこそこに馴染んでいるのだから、人里の通貨の少しは持っているし、また、使う宛もそんなにはないのだから使ってしまいたい気持ちもやまやまだったが、星の顔を立ててやった。いつか星は私のこの狡猾さと我慢強さを知るだろう。
しかし、贈り物をされたからにはそのうちにはお返しをしなければ義理が立たぬという気持ちもあり、しかし義理を立てるということは私がお返しを“させてもらう”側になってしまうことに他ならず、私は義理立てと星を魅了するのとどちらを優先すればよいのだ? どちらも優先することはできないのか? これについて考えているうちにすべてが終了してしまうのではないか?
そう、すべて……。
私は焦燥感に駆られた。
「星。索道乗り場は近いんだっけ?」
星は私に整髪料の入った紙袋を渡して言った。
「少し歩くけど、すぐだったと思うわ。ちょうどこの店の裏の道から……あんたが誘ったのに、場所知らないの?」
「無粋ねえ。会話を楽しみたかっただけよ。場所なんて知っているに決まっているじゃない」
怪訝そうな表情を浮かべる星にべらべらと私は喋ってみせたが、実のところ焦って思いついた適当なことを吟味もせずに口に出しただけだった。
「会話か。そうね。私たちはもっと会話をするべきかもね」
そんなことを言いながら星は雑貨屋の暖簾をくぐり、日傘を開いた。
どういう意味だろう?
八
その日は非常に天気がよく、太陽は燦々と輝き、青々とした空に白い雲がよく映え、風も涼しげに吹く程度で決して激しくはなかったが、索道の人入りはあまりないようだった。
「平日の昼間だからね」星は言った。
人間たちは大人は仕事をしているか、子供は寺子屋にいる頃なのだろう。それでもまばらに見える客足は、仕事が休みの人間か、仕事で守矢神社に行く人間か、それとも人間以外か……。
「私たちはきっと熱心な信者なのよ。有給休暇を使って参拝するくらいのね」
星が差す日傘の中で私は言った。星は微笑みとともに頷いた。
歩いていくうちに、はっきりと索道乗り場が見えてくる。巨大な鉄の塔と、天へ天へと伸びる紐。忙しなく動く技師の河童の、三人か四人か……。
私たちが乗り場に着く頃にはちょうど前の便が出発したようで、少ない待機列は根こそぎ木の箱に乗せられたらしく、残った私たち二名は次の便を待たなければならなくなった。
乗り場のすぐ横の待合用ベンチにえいっと腰をかけると、星も日傘を差したまま私に続いて腰をかけたが、座る直前にさりげなくベンチにハンカチを敷くのを私は見逃さなかった。
「…………」
私は何か言おうとして、やめた。
……暑い……。
……暇だ……。
「あのさ、星」
「なに?」
「あんた、いつもそんな感じなの?」
「はて。そんな感じ、とは?」
「……」すっとぼけた星の態度に私は胸がざわつくのを感じた。「……非番の時いつもそのお嬢様みたいな格好してるのかって聞いてんのよ」
「あっはっは!」星はまったく服装に合っていない豪胆な笑い方で笑った。「まさか。今日は特別よ」
特別。特別。特・別……。私と二人で出かけることが? 索道に乗ることが? 星にとっての特別……。
「白蓮がいない頃は、寺を運営していく上でこういった振る舞いが必要になることもあったわ。ご近所付き合いというやつね」
私は聖がいる今の寺しか知らないのでなんとも言えなかった。
声をすぼめて星は続けた。
「これはその頃の残滓ね……。ふふ。あなたに誘われて、昼のうちに急いでよそ行きの服を探してみたけれど、これしか残っていなかった。もっと古いものは捨ててしまったんだわ」冗談めかして星は笑った。「ぬえは和装の方が好きだったかしら?」
「なぜ、私の好みを気にするんだよ」
「あなたが誘ってくれたんだから、あなたを楽しませたいじゃない。でなければ、こんな服ワードローブの奥で腐らせていたわ」
「じゃあ、あんたがその服を着てるところって、聖は見たことがないの?」
思ったままの疑問を口に出すと、星は人差し指を唇に当てて、にいやりと笑った。
「そうよ」
私は興奮をした。
「ナズーリンくらいかしらね。彼女はずっと一緒にいたから」
私は萎えた。
「ぬえの方こそ、そんなふうにかわいく着飾ってるところ見せてくれるの初めてじゃない。服は人里で買ったの?」
「ん。まあ」私は気怠いやら気恥ずかしいやらでぶっきらぼうな口調になって答えた。「買ったり、ちょっと改造したり」
「ほう。流石に器用ね」
星は、私の肩口や、スカートの裾や、胸元などをまじまじと見ているようだった。いいぞ。もっと見るのだ。そのうちにお前は自我を超えるほどの欲情を覚えるだろう。
「私も私服を買い直した方がいいかなぁ。でも、人里を歩くぶんには信仰が集まった方がいいし……」
「結局、休日でも毘沙門天らしい格好をしていたほうがいいってこと?」
「そう、そう」
「ふん」
こんな時でも仕事のことを考えてしまうのは病的だ。私はこいつのそういうところが気に入らなくて、今、こんな真似をしているのだということをにわかに意識した。
「私服、買いなよ」
「ありゃ。やっぱりこの服、似合わないかしら」
「違う」
星のそのお嬢様のような格好は、はっきり言って、似合いすぎるほどに似合っていた。星が目鼻立ちがはっきりとしていて美人の顔をしているということもあるし、星が修行の中で副次的に身につけた気品と合致しているということもあった。
「その格好、私は好きよ。星に似合ってると思う」
「ま」星は頬に手を当てた。「照れるわ」
「私、また誘うから」
私は星の手首を掴んで、うんと顔を近づけてやった。星が目を見開くのがわかった。
「ぬ。ぬえ」
「また二人だけでこっそり出かけましょう。その時は、あんた、誰にも見せたことのない服を着て、私だけに公開するのよ」
「あの。顔が近いのですが」
「私の前だけで」
「あ、あの」
「私だけに」
唇が近づく、唇が近づく、唇が触れる、触れる、触れる!
私は、あと一塵というところでばっと顔を離した。
私から接吻をしてはいけない……。接吻をするときは星からその瑞々しい唇を私の唇に無理やり押し付けなければならない……。
「ね。星。わかるでしょ」
「は、はあ」
星が赤面をして露骨に動揺しているのがわかったので私は気分がよくなった。いいぞ、ぬえ。その調子だ。星が理性の檻を破壊する時は涅槃寂静より近いぞ!
星は、こほん、と咳払いをした。
「次の便までは、まだかかるのかしら……」
星の細い視線の先には、暑さで伸びている技師の河童たちがあった。
九
思っていたよりは早く、人間を五人六人乗せた下りの車両が綱を渡って下りてくるのが見えた。技師の河童のひとりが、「お嬢さんがた、こちらへどうぞ」と言うので、短い階段を上がって乗り場へ立った。ひさしがついていて涼しい。星は日傘を閉じた。
「お嬢様さんがた、だって。星ちゃん」
私がそう言うと、星はきょとんとした顔を浮かべたあとに、くすくすと笑った。
「こそばゆいわね、ぬえちゃん」
がたん、がたん、ぎいいとわりと派手な音を立てて車両が停まる。河童が安全用のレバーを上げて扉を開き、中から人間たちが、いやいい眺めだった、だの、また来てもいいかも、だの言いながら、ぞろぞろと出て行った。成人男性が多いように見えた。
河童が、「どうぞ、ご乗車ください」と言うので、開かれた扉をまたいで私と星は車両に足を踏み入れた。ぎい、と床の木材が軋んだ。
河童の手によって扉が閉じられ、レバーが下げられる。結局、私達のあとには客はなかったようで、私は狭い空間で星と二人きりになった。
僥倖だった。
河童がなにやら河童にしかわからないような合図の言葉を叫んだり、機材を動かしたりしている。そのうちに「お待たせしました、発車します!」という叫び声とともにリイイイーーン……ゴオオオーーン……と鈍重な鐘の音が鳴り、がこん! と不安を煽るような音がして車両が揺れたかと思うと、僅かな浮遊感が足元に訪れ、やがて車両は綱で導かれた空へと泳ぎ出した。
「なんだか飛倉を探して船に乗っていた時を思い出すわね」
星が言った。私は星の方を向いた。……香水の匂い……爽やかな、柑橘系の、甘酸っぱい……ベンチにいた時は気付かなかった。風向きの関係だろうか。しかし、私の鼻はそんなもので誤魔化されたりはしない。獣の匂い……乾いた血の匂い……。ふたつは混ざり合って、私の鼻腔へと吸い込まれる。まぎれもない星の匂い……星が選んだ匂い……。
「あはっ。それって私へのあてつけ?」
「ああ。いえ。そんなつもりは……」
「冗談よ。邪魔なんかして悪かったって思っているわ」私は車両の壁に腰を預け、肩越しに外を見た。地面がぐんぐん遠ざかっていく。河童がどんどん小さくなっていく。「今でもね……」
木の枠組みで造られた車両は、安全性さえ考慮されているものの、窓が大きくて閉塞感はない。涼しい風が入ってきて気持ちがいい。そして星の匂いと私の匂いが撹拌されて。
「地に足をつけたまま飛ぶのって、味わい深いわ」
「……ぬえ」
星が私の隣に立った。車両が偏りで少しだけ斜めに傾いた気がした。
「命蓮寺をどう思う?」
「どう、って……」
いきなり本質的な質問をされて私は口籠った。なぜ、いま、私に、そんなことを聞くんだ?
星は空を見ながら言った。眩しく青く輝く夏の空。
「私は……白蓮、それから、ナズーリン以外とは、正直言ってあまり親しくないの」
「ふうん……?」
あまりピンと来ない発言だった。聖・ナズーリン以外と言うと、ムラサ、一輪、雲山、響子、女苑、あと私が連れてきたマミゾウ……。
マミゾウはともかくとして、新参寄りの響子は星を素直に毘沙門天として畏れているし、女苑はあの性格だから真面目な星とは合わないだろう、まあわかる。
「ムラサとか、一輪、雲山ってのは、ずっと一緒だったんじゃないの?」
星は目を臥せて首を横に振った。
「私は修行を行って毘沙門天の代理となってから、妖怪であることを周囲に隠していたのよ。白蓮が封じられる前の寺では、彼女らを見たことはあるけど、見たことがあるだけだで、彼女らも私を見たことがあるだけだったわ」
私は驚いた。
「なんだ。じゃああんたらが知り合ったのって、間欠泉から出てきてからってこと?」
「そうなるわ」
つまり、ムラサたちが星と仲間になった時期と、私が寺に加入した時期はそう変わんないということ?
星はため息をついた。
「だから、たまに接し方がわからなくなることがあってね……。私は地底に封じられることもなかったし。ムラサたちとは、むしろぬえの方が親しいんじゃないかって思ってるんだけど」
「そうかな……一輪なんか、私のことさん付けで呼んでるぜ」
「慕われているのね」
「距離を置かれているだけよ」
「…………」
「…………」
寂しい……悲しい……厭な空気だった。
私は命蓮寺の成り立ちについて、断片的な情報しか知らない。べつに、全く知らなくたって、何の問題はないだろう。
でもこの星は、知りすぎるほどに知っていて、背負いすぎるほどに背負っていて、それをおくびにも出さないで……。
……いいじゃない。
それを吐露する相手に、星は私を選んだんだわ! 聖でもなく、ナズーリンでもない。
その理由は私にはわかった。私が妖怪の大物だからだ。人間の大物や、妖怪の小物相手ではだめなんだ! 大物というには大物すぎる、毘沙門天の威光を身に纏う星には。そして、本来の獰猛な妖怪虎としての鬱憤を持つ星には!
私は底しれぬ優越感に酔いしれ喉をくつくつと鳴らしたが、いや、あれ? 私は別に、星の人生相談の相手役を引き受けるつもりはない。私は好奇心で星の妖怪らしいところを見てみたいだけ。
じゃあ、待て、私は星の本性を暴き立てて、それからどうしようというのだ? まず間違いなく、今までの“特別親しくはない仲間”のまま、ということにはならないだろう。あれ。おやっ。私は“星とどうなりたいか”よしんば“どうなる予定なのか”をまったく勘定に入れていなかったらしいな? あれっ。困った。今更になって?
私は星の横顔を見た。吹き抜ける風で落ちないように白い帽子を片手で押さえて、空色のリボンをなびかせながら、縦線入りの金色の瞳で眼下に広がる人里を見下ろしている。
可憐だ。
私は星への好奇心だけでもって動いていて、星とどうなるつもりなのか、まったく考えていなかったことに気付き、また、その上で星の物凄い可愛らしさを思うと、混乱してきた。私は星とどうなりたい? 星のなにになりたい? 固い友情で結ばれた仲間? 立場を共にし時には苦しみを分かち合う友人? 甘い一時を過ごす恋人? 激しい情欲に身を焦がすセフレ? 弱みを握り都合よく使える主従関係?
私は車両が綱を渡ってぐんぐんと山を昇るごとに、ずんずんと奈落に堕ちていくような気がした。
「さっき……」星が口を開いた。
「うん?」
「ぬえが、また誘うって言ってくれて、私嬉しかった。自分が寺に馴染めていない気がしていたから……」
「冗談だろ」びっくりして私はつい粗暴な口調になりながら言った。「寺に馴染めていないなんて。あんたは寺そのものじゃないか。馴染めていないなんて。私の方がずっと言われてる」
「そうなの?」
「聞いたことないの? なんか、みんな言ってるみたいだけど。“あの鵺とかいう妖怪は寺から浮いてる”って」
「初耳だわ……」
「えぇ……」
私は脱力した。私自身は特段気にしてはいないのだが、私が陰口叩かれてることを、星が把握していないとは思わなかった。
……把握できなかったのかもしれない。星は仕事に忙殺されるのと、立場上で距離を置かれるから、あまり噂話が耳に入ってこないのかもしれない。ナズーリンあたりが色々と吹き込んでいてもおかしくはないと思うのだが……。
ああ、そして、それこそが、星が「自分は寺から浮いてる」と思う理由かもしれない。得心がいった。なるほどね。
「あ。ぬえ。見て」
目をぱちくりさせて、星が下に広がる山の一部を指差した。いつの間にか、索道も中腹に差し掛かっているようだ。
星の指の先を見ると、ぐるぐると小さな竜巻のようなものがいくつか渦潮めいて発生していた。
「天狗風だわ」
星が言った。
ほう、あれが、索道名物“天狗風”。あの中には人間を襲う気満々の天狗がいて、索道の客を狙っているが、山の神の御加護があるから大丈夫なのだという。パンフレットに書いてあった。
天狗なんて普段なら鬱陶しい以上の感情を持たぬが、私たちは今、「お嬢さんがた」と呼ばれる立場だ。ロールプレイにはロールプレイをもって応えるのが礼儀と言うものだろう。
「やーん。怖いわ、星」
私はそう言って、くすくすと笑いながら、星の腕に私の腕を絡めた。触れる星の健康的な肉の感触。やわらかいワンピース。香水。獣。乾いた血。
私の意図に気付いたらしく、星もロールプレイ的な動きで、私の肩を強く抱いた。
そして縦線入りの金色の瞳を獰猛に細めて、強かな笑みを浮かべて、長いまつ毛が震え、瑞々しい唇が開かれて……。
「心配しないで。あなたは私が守るわ、ぬえ」
ああ……。
十
ああ……。
十一
けたたましいばかりに響く河童の「ご乗車ありがとうございました!」という声で頂上に着いたとわかった。車両が停止し、河童がぞろぞろと安全レバーを上げ、扉を開くので私も星も車両を降りた。この河童どもは毎日これをやっているんだろうか。ご苦労なことだ。自分なら絶対ごめん被る。
入れ違いに下りの客が何人か入っていって、私達は乗り場から出た。また上に上がってくる客はいるのだろうか?
「これは確かに絶景だわ」
日傘を開きながら星が言った。
索道乗り場を出たらすぐに、わかりやすく幻想郷を一望できる広場があった。
確かに、これはいい。
緑に囲まれた台地に、人の営む里が見えて、煌めく湖に、鮮やかな花畑まで、素晴らしい景色が胸いっぱいに広がった。天気がよくてよかった、と心から思った。
「命蓮寺はどこかなー」
「あれじゃない?」
「ああ、じゃあ横のが墓地か」
星が指差す先を見る。空なんて飛び慣れているし、高くから見下す景色だって珍しくはないはずなのに、この山から見る幻想郷はどこか違って、殊更に美しく、日常的に見えた。
そして、星の傘に入るから、私はまた香水を意識してしまって……。
「星……」
「なに?」
「その、香水も、ご近所付き合いの時に?」
「えっ。ううん」照れ臭そうに星は笑った。「これはこの間、雑貨屋の主人に薦められて、つい買っちゃったのよ。まさか、使う機会が来るなんて思わなかったわ。それもこんなに早く」
「可愛い……」
「……今、何と?」
「あんた、私一人相手と出掛けるのに、気合い入れ過ぎじゃないの」
「言ったでしょう。あなたが誘ってくれたのが嬉しかったって。それに、ぬえだって、いい香りがするわ……」
そう言うと、星は私の首筋に鼻を近づけた。すんすん、と匂いを嗅がれる。意外と大胆だな。いっそ、そのまま首を食いちぎってくれりゃあいいのよ。
「ちょっと星、くすぐったい……」
「……甘くて刺激的な匂い……気合い入れ過ぎなのは、あなたもじゃない?」
「そりゃあ、私が誘ったんだし」
「そういえば、ぬえは、どうして私を誘ってくれたの? ムラサでも、マミゾウでも、よかったんじゃない?」
挑発的な表情を浮かべて星が言う。
……まだだ……まだ乗るべきところじゃない……。
星は少し、気が緩み始めていると見える。
なればこそ、より確実に計画を進めるために、私は気を引き締めなければならない。
計画……。計画って……。
「……あんたが非番だったからよ」
十二
折角なので、守矢神社に参拝していくことにした。すぐに私達の正体が露見するかもとも思ったが、鳥居はとりあえず普通にくぐれた。
「傘と帽子で隠しているとはいえ、私の髪は目立つから、早苗あたりに見つかったらバレるかもしれないわね」
「私が適当にうにょうにょ〜ってしておくから、よほどのことがなければバレないわよ。私達は正体不明の里の一般人間」
「便利ねぇ、うにょうにょ」
石段を上がり、参道を歩く。日差しが眩しく目を灼くようだったが、星の日傘に助けられた。
拝殿にたどり着いた。段を上がり、賽銭箱の前に立つ。
「毘沙門天が八百万の神に何を祈るっていうのかしら」
「仏教の繁栄でも祈っておこうかな」
「一瞬で罰が当たりそうね」
縄を揺らして鈴を鳴らし、適当に賽銭を投げ入れる。二礼、二拍手──この簡易な動作のうちに祈りを込めなければならない。当然だが私が祈ることなんて特にない。外の神社なら祈るふりでもよかったのだが、生憎ここは主神が実在してらっしゃる。私達はあくまでスパイなのだ、勘付かれては困る。仕方がないなので私は交通安全でも祈っておくことにした──一礼。
私が顔を上げると、星はまだ礼をしていた。一体何をそんなに祈ることがあるのだろう? まさか本当に仏教繁栄を祈願したわけでもあるまいに。
聞けば教えてくれたかもしれないが、なんとなくそれは憚られた。
礼をしている星の横顔があまりにも精悍で、真剣だったからだ。
十三
下りの索道に乗る頃には、日が傾きかけていて、空はわずかに紅鮭色に染まっていた。
「お待たせしました、発車します!」
リイイイーーン……ゴオオオーーン……がたん。上りの時よりも浮遊感が強いような気がして、少しドキリとする。
車内には私たち二人しかいなかった。上りの便にも、誰も乗っていなかった気がする。星の言う通り、平日の昼間ならこんなものなのかもしれない。
索道が私達を地上へ運んで行く……。
「見に来られてよかったわ」星が言った。「守矢神社が、どれだけ経営戦略を練り込んでいるかよく分かった。私たちも寺を維持するために頑張らないとね」
ニコリと笑って星が言うので、私は呆れた。
「そりゃ、私もそう思うけどさあ。もっと他の感想ないの?」
「他の感想?」
「あるでしょ。情緒的な感想」
「情緒的……」ふっ、と星はシニカルに笑った。「そうね。あるわ」
「聞かせてよ」
夕焼けで頬を朱色に染めて、縦線入りの金色の瞳を細め、瑞々しい唇を開いて、星は言った。
「ぬえが可愛かったわ」
香水。獣。乾いた血。白いワンピースと白い手袋。
私は片手で星の手首をぐいと掴んで、もう片手で後頭部を引き寄せた。
私は星に接吻した。
その瞬間、私は自分の敗北を確信した。絶望的な気分になりながら唇を離した。
私はなにをしている? 星を魅了して、妖怪の妖怪らしいところを引きずり出すと誓ったのに、なんたるザマか。
取り落してしまった雑貨屋の袋が床に転がっている。整髪料。惨めさ、悔しさ、星への申し訳無さ──それらを脳髄にひしひしと感じながら私はおそるおそる星を見ようとした。
見られなった。
星が私に接吻したからだ。
「…………」
「…………」
唇が離れ、私達は沈黙し合った。星の瞳の中に私の間抜けヅラが見えるほどに見つめ合った。
そしてまた星が私に接吻し、星が私に接吻し、星が私に接吻した。
「っちょ。落ちる、落ちる」
「ああ、すみません、ごめん」
星が接吻するたびに私の背中は壁際に追いやられ、車両から転落しそうになっていた。
「えっ。なんで?」
「なんでって……」
私の手を取って、体を支えてくれながら、星は言った。
「ぬえ、あなた、私が普段果てしない瞑想の果てに本能的な欲求を死ぬ寸前まで我慢してるのを知ってて焚きつけたんでしょう」
「き。気づいてたの……」
「あんな露骨に誘われたら、誰だって気付くわ」星は私の背中を撫でた。「それに、誰だって我慢できなくなる」
そうして星は私の背中を抱き寄せて、私の耳元で囁いた。
「つまり、私の負けよ、ぬえ」
爪先から脊髄までゾクゾクと快感が駆け巡る。
「おめかしして、色っぽい香水つけて、必死に私を誘うぬえはとても可愛かったわ……神社で自分を強く保つよう祈ったのに、キスされて台無しになっちゃった」
星はとんでもなく妖艶な表情をしていた。
とても、毘沙門天の代理などと口が裂けても言えないほどに。
私は星の肩を掴んで、服をはだけさせて、床に押し倒そうとした。
が、振りほどかれた。
星は毘沙門天の代理然とした顔で激怒した。
「それは、索道の技師の方々に迷惑だから、やめなさい!」
「真面目ちゃんがよ!」
十四
寺に帰って聖に「守矢神社の索道を見てきた。素晴らしかった。うちも頑張ったほうがいい」と伝えると、「星と仲良くしてくれて嬉しいわ。これからもよろしくね」と言われた。
・会話をする気があるのか
・保母か
・危機感を持て
以上の三点を強く思ったが、口には出さなかった。
そして、聖からお墨付きを貰った以上、これはもう仕方ないということだった。
私と星は顔を見合わせた。
十五
自分の上でなにかがもぞもぞと動く感触とともに私は目を醒ました。
夜這いだった。
普段の毘沙門天然としてかっちりした衣装ではない、素肌に白く柔らかい簡素な寝衣を纏っただけの無防備な私の、肩をはだけさせ、胸をまさぐり、首筋のにおいを嗅ぎ、太ももを撫でたりしている。
「何をしているの、ぬえ」
はっきりと私は言った。
鉤のような赤い翼と蛇のような青い翼をぴくりと動かして、ぬえは顔を上げると、赤い舌をチロリと覗かせて紅玉を歪ませにたあと笑った。
「お前の総てを掌握してみたくなった」
真夜中の私の寝室で、ぬえの華奢な背中が障子越しの月光を受けて白く光っていた。
私は呆れた。
「あなたともあろう者が、こんな児戯で、いったい誰をどうするですって?」
くっくっくとぬえは喉を鳴らした。「そうやって、いつまでも聖人面しているがいい」
ぬえの舌が、私の鎖骨の窪みに触れた。そしてゆっくりと首を撫であげて、喉仏の凹凸を堪能するようにくすぐった。
「うぅっ……」
思わず声が漏れる。こんな好き勝手をさせてたまるものか。私はぬえに飛びかかろうとした。
「やらせるか」
静かにぬえが言う。私の手がぬえを捕らえるよりも早くぬえが祈りを捧げるようなポーズをすると、がしゃん、がしゃんと音を立てて床と壁から赤く光る直線が突き抜け、私とぬえの周りを立方体で囲むように格子状の結界が出来上がってしまった。ぬえが決闘でよく使うスペルカードのイミテーションに似ていた。
しかし、私もほぼ同時に法力を開放していた。黄色く光る直線が、格子状に私とぬえを囲む。私が決闘で使うスペルカードのイミテーションだった。
ぬえが言った。
「二重結界みたいになっちゃった。これってどうなるの?」
「さぁ……」
「さぁって……」
「でも綺麗ね」
赤と黄のレーザーが交錯する様は、決して目に毒でないとは言えなかったが、それでも魅力的だった。
「私、力が入らないわ」
「私もよ」
「もう……」
ぬえは私の上にへたり込んだ。
「このまま、霊力が尽きるまで黙ってるしかないじゃないの」
「そうよ」
「星の馬鹿ぁ。大人しく襲わせろよ。あそこまで行ったんだからよぉ」
「果てしない瞑想の果てに本能的な欲求を死ぬ寸前まで我慢してるって言ったでしょう。今の私はその状態」
「一日経たずに我慢を取り戻したというのか!」ぬえは大層驚愕した様子で言った。「またあんな手間をかけてあんたをその気にさせないといけないっての!?」
「正体不明の妖怪が、私の正体を暴こうなんておかしな話よねぇ」
「な。舐めているのかっ」
「畏れているわ。私をその気にさせる可能性のあるあなたを」
「……あんた、やっぱり気に食わないわ」
ぬえはそう言うと掛け布団を私にかけなおして、もぞもぞと隣に入った。
「寝るの?」
「仕方ないじゃん。あんたの法力のせいで、満足に動けないし」
「それはお互い様というか……」
「あーあ! いつか必ず、あんたを快楽の坩堝に閉じ込めて、我欲をさらけ出させ、あんたの獣の血であんたの脳を覆い尽くしてやるわ!」
「いつでも挑戦どうぞ」
「あーむかつく!」
わざとらしく言うと、ぬえは私に背を向けてしまった。……へ、変な形の羽が布団の中で蠢いていて動きづらい……。
「ぬえ」
「なによ」
「今日、誘ってくれてありがとう。楽しかったわ」
私ができるだけ穏やかな声で言うと、少しの間のあとに、小さい声で返事があった。
「……うん。私も楽しかった」
私は安堵感で胸がいっぱいになり、また、この封獣ぬえという妖怪への愛おしさがどんどん膨らんでいくようで、明日からの日常が楽しみになった。
私は停滞をしすぎた。少しの変化を喜んだって、毘沙門天もお怒りにはならないだろう。
妖怪の一生は永いのだから。
「おやすみ、ぬえ」
「おやすみ、星」
【了】
素敵な作品でした。
計算ずくの空回りなぬえちゃん可愛い
可愛い尽くしのたいへん良い作品でした
すごく独特で特別な雰囲気で好きです
どうにかして星を振り向かせようと頑張るぬえが可愛かったです。えちえち
やっぱり百合はどっちも可愛く美しく女の子っぽくてなんぼですよね。
駆け引きの心理描写よかったですね。
有難うございました。
どこか現代的な風と、お姉さん風味の星さんが新鮮でした。
セクシュアルな空気を出しながらもそれをいやらしく感じさせない、見事な作品でした。
思ったままの疑問を口に出すと、星は人差し指を唇に当てて、にいやりと笑った。
「そうよ」
私は興奮をした。
「ナズーリンくらいかしらね。彼女はずっと一緒にいたから」
私は萎えた。
少しわかるマン。甘い、とは一口に言えないのが、なんともいいなあと。ご馳走様でした。面白かったです。