私がコンタクトでは無く、眼鏡を掛け続ける理由とは、一体何なのだろうか。
体を動かすことに面白さを見出せず、人形を握りしめおままごとに勤しむ同年代には毛頭馴染むつもりが無かった幼少期の私は、自然と本の世界に没頭していった。
絵本や図鑑に始まり、児童書へと、文字の密度は高まり、サイズは反比例して小さくなっていく。必然的に目が悪くなっていった。
しかし私は、暫くの間、視力の悪化という事実を受け入れられずにいた。当時から既に自分が超能力者であり他人とは違う事を、無為に悟り半ば暗黙の内に自覚していたから、目が悪くなるなんて、平凡な人間と同様な身体の劣化が起こるとは、考えていなかったのだ。
今思えば、天動説を唱えたプトレマイオスも驚く程の、唯我独尊全開な自己中心的幼少期である。
では、我が身に降りかかる変化を、幼き私はどのように理解しようとしたか。答えは簡単で、世界の方が曖昧になったのだと、そう言い聞かせていた。
苦し紛れの言い訳も、小学生に上がり、窓際の後ろの席に座らされると、思い上がりより不自由さが高まり、また周囲や世界に対する認識も改善して、視力の悪化という事実を受け入れるほか無くなった。少なくとも身体的には普通の人類であり、活字という媒体を通じて自分なりに世界と対峙してきた結果がこれなのであれば、受け入れるしかない、と。
そして私は、初めて眼鏡を手にした。
……だが、と私は思索する。
視野の鮮明さが――世界を認知するための解像が、必ずしも視力にのみ左右されるわけでは無いという着眼点に関しては、一定の評価に値するのではないか。
無論、明瞭さを欠いた視界の原因が、世界――直接的で即時的な外的要因――にはないことを前提として、だが。
我々――この私も含めた全人類のことだ――は、五感で得た情報を、今までの記憶や知識、蓄積された概念により判断し、世界を認識する。
重要なのは、感じ取った情報をありのまま受け取り、意識しているわけでは無いということだ。そこには必ず、解釈が介在する。個々人により、全く異なる解釈が。
何故、解釈は異なってくるのか? その元となる材料を得る過程や、身につけられる量に差異があるからだ。有り体に言えば、知能の差である。
周囲の環境に起因するものであれば、突き詰めれば画一化する事が可能なのかも知れないが、生来の性質に由来するモノは、どうしようもないだろう。例えば、性差や、身長差などである。
であれば、認識できる物が個々人によって異なってくるのは、致し方ないのかもしれない。
客観的事実が一つでも、観測者が無限に存在すれば、無限の主観的真実が存在するように。
それで終われば話は早いが、私以外の人間は、どうもそうでは無いらしい。
というのも、前述した話は、外部から間接的に、受動的に影響を受ける場合のみに限っていて、内部から、つまりその主観自体が積極的に認知に介入するケースを想定していないのだ。
要は、自らの認知を意図的に歪め、都合良く世界を認識している、或いは受け入れようとしない人間が大半なのではないか、と思うようになったのだ。明らかに白なのに、黒だと叫ぶ、といった具合に。それは概ね事実なのだろう。
いや、明確な歪みならまだマシかもしれない。露骨に顕在化しやすいからだ。顕在化すれば、避けることも咎めることも可能だ。
それ以上に厄介なのが、明瞭なはずの認識をあえて朦朧にしていくような奴である。まるで、カメラのフォーカスを、意図的にズラすような行為を、平然とした顔で行うようなものだ。
知っているのに、答えをはぐらかしたり。
見えているはずなのに、よく見えないと言ったり。
曖昧にされた物は、推し量られてしまう。嘘や欺瞞、そして願望によって。仮にそれが誤りだと周りから指摘されても、断定では無く推量だから、で話が済んでしまう。認識の曖昧さそのものを指摘されても、目が悪いからなどと、意識とは無縁な身体的要因に転嫁出来る点も、挙げておくべきか。
嗚呼、なんて狡猾なのだろう。
本当にそれは、視力が悪化しているからなのか? 距離が遠すぎるからなのか?
わざと曖昧にして、あやふやにして、願望や身勝手な希望を押しつけたいだけなのでは無いか? ぼやけた視界を理由に、距離が近いと誤認したいからなのではないか?
あえて、ピントのずれた物の見方をしているのではないか?
まるで、度数の合っていない眼鏡を掛けているかの如く。
だから先人は、そんな状態を、色眼鏡と呼んだのだろう。
人類は皆、色眼鏡を掛けている。ただでさえ掴むことが難しい世界の輪郭を、都合の良いフィルターを通して、自分勝手に解釈している。その色眼鏡も、一つだけとは限らない。周囲に合わせた色眼鏡を選択し、同じ欺瞞を共有し、馴れ合い、堕ちていく。
無知同士ならいざ知らず、嘆かわしいかな、私と同程度かそれ以上の学力を有する奴らですら、このザマなのだ。
そこに矜恃は無い。あるのは、共感を得たい、注目を浴びたいという、身勝手で稚拙な我が儘だけだ。
ここまで顧みて、私がコンタクトでは無く、眼鏡を選ぶ理由が、漸く分かったと思う。
私も色眼鏡を掛けていた。幼少期の錯誤がその証左だ。
視力以上に、思い込みと浅はかな願望が、視界を歪ませ、曖昧にさせていた。
幸いなのは、周囲にひけらかし、注目や共感を得ようとしていなかったところか。
今の私は、秘封倶楽部だ。
深秘を曝き続ける者だ。
有象無象の歪んだ認識に隠された秘密を見つけ曝くには、知見を深め、経験を通じ、世界をあるがままに視つめなければならない。そこに、歪んだ先入観や浅はかな偏見は、あってはならないのだ。ましてや、尊大な自己顕示欲など、以ての外である。
戒めのために、そして、今をより鮮明に視るために、私はあえて眼鏡を掛け続けよう。
体を動かすことに面白さを見出せず、人形を握りしめおままごとに勤しむ同年代には毛頭馴染むつもりが無かった幼少期の私は、自然と本の世界に没頭していった。
絵本や図鑑に始まり、児童書へと、文字の密度は高まり、サイズは反比例して小さくなっていく。必然的に目が悪くなっていった。
しかし私は、暫くの間、視力の悪化という事実を受け入れられずにいた。当時から既に自分が超能力者であり他人とは違う事を、無為に悟り半ば暗黙の内に自覚していたから、目が悪くなるなんて、平凡な人間と同様な身体の劣化が起こるとは、考えていなかったのだ。
今思えば、天動説を唱えたプトレマイオスも驚く程の、唯我独尊全開な自己中心的幼少期である。
では、我が身に降りかかる変化を、幼き私はどのように理解しようとしたか。答えは簡単で、世界の方が曖昧になったのだと、そう言い聞かせていた。
苦し紛れの言い訳も、小学生に上がり、窓際の後ろの席に座らされると、思い上がりより不自由さが高まり、また周囲や世界に対する認識も改善して、視力の悪化という事実を受け入れるほか無くなった。少なくとも身体的には普通の人類であり、活字という媒体を通じて自分なりに世界と対峙してきた結果がこれなのであれば、受け入れるしかない、と。
そして私は、初めて眼鏡を手にした。
……だが、と私は思索する。
視野の鮮明さが――世界を認知するための解像が、必ずしも視力にのみ左右されるわけでは無いという着眼点に関しては、一定の評価に値するのではないか。
無論、明瞭さを欠いた視界の原因が、世界――直接的で即時的な外的要因――にはないことを前提として、だが。
我々――この私も含めた全人類のことだ――は、五感で得た情報を、今までの記憶や知識、蓄積された概念により判断し、世界を認識する。
重要なのは、感じ取った情報をありのまま受け取り、意識しているわけでは無いということだ。そこには必ず、解釈が介在する。個々人により、全く異なる解釈が。
何故、解釈は異なってくるのか? その元となる材料を得る過程や、身につけられる量に差異があるからだ。有り体に言えば、知能の差である。
周囲の環境に起因するものであれば、突き詰めれば画一化する事が可能なのかも知れないが、生来の性質に由来するモノは、どうしようもないだろう。例えば、性差や、身長差などである。
であれば、認識できる物が個々人によって異なってくるのは、致し方ないのかもしれない。
客観的事実が一つでも、観測者が無限に存在すれば、無限の主観的真実が存在するように。
それで終われば話は早いが、私以外の人間は、どうもそうでは無いらしい。
というのも、前述した話は、外部から間接的に、受動的に影響を受ける場合のみに限っていて、内部から、つまりその主観自体が積極的に認知に介入するケースを想定していないのだ。
要は、自らの認知を意図的に歪め、都合良く世界を認識している、或いは受け入れようとしない人間が大半なのではないか、と思うようになったのだ。明らかに白なのに、黒だと叫ぶ、といった具合に。それは概ね事実なのだろう。
いや、明確な歪みならまだマシかもしれない。露骨に顕在化しやすいからだ。顕在化すれば、避けることも咎めることも可能だ。
それ以上に厄介なのが、明瞭なはずの認識をあえて朦朧にしていくような奴である。まるで、カメラのフォーカスを、意図的にズラすような行為を、平然とした顔で行うようなものだ。
知っているのに、答えをはぐらかしたり。
見えているはずなのに、よく見えないと言ったり。
曖昧にされた物は、推し量られてしまう。嘘や欺瞞、そして願望によって。仮にそれが誤りだと周りから指摘されても、断定では無く推量だから、で話が済んでしまう。認識の曖昧さそのものを指摘されても、目が悪いからなどと、意識とは無縁な身体的要因に転嫁出来る点も、挙げておくべきか。
嗚呼、なんて狡猾なのだろう。
本当にそれは、視力が悪化しているからなのか? 距離が遠すぎるからなのか?
わざと曖昧にして、あやふやにして、願望や身勝手な希望を押しつけたいだけなのでは無いか? ぼやけた視界を理由に、距離が近いと誤認したいからなのではないか?
あえて、ピントのずれた物の見方をしているのではないか?
まるで、度数の合っていない眼鏡を掛けているかの如く。
だから先人は、そんな状態を、色眼鏡と呼んだのだろう。
人類は皆、色眼鏡を掛けている。ただでさえ掴むことが難しい世界の輪郭を、都合の良いフィルターを通して、自分勝手に解釈している。その色眼鏡も、一つだけとは限らない。周囲に合わせた色眼鏡を選択し、同じ欺瞞を共有し、馴れ合い、堕ちていく。
無知同士ならいざ知らず、嘆かわしいかな、私と同程度かそれ以上の学力を有する奴らですら、このザマなのだ。
そこに矜恃は無い。あるのは、共感を得たい、注目を浴びたいという、身勝手で稚拙な我が儘だけだ。
ここまで顧みて、私がコンタクトでは無く、眼鏡を選ぶ理由が、漸く分かったと思う。
私も色眼鏡を掛けていた。幼少期の錯誤がその証左だ。
視力以上に、思い込みと浅はかな願望が、視界を歪ませ、曖昧にさせていた。
幸いなのは、周囲にひけらかし、注目や共感を得ようとしていなかったところか。
今の私は、秘封倶楽部だ。
深秘を曝き続ける者だ。
有象無象の歪んだ認識に隠された秘密を見つけ曝くには、知見を深め、経験を通じ、世界をあるがままに視つめなければならない。そこに、歪んだ先入観や浅はかな偏見は、あってはならないのだ。ましてや、尊大な自己顕示欲など、以ての外である。
戒めのために、そして、今をより鮮明に視るために、私はあえて眼鏡を掛け続けよう。
いつか色眼鏡の掛かっていない、真実が見つかると良いですね。素敵な作品でした。