「ふわあ、眠い……鈴仙、戻りましたあ」
ある日の朝のことだった。その日、鈴仙・優曇華院・イナバは久しぶりの朝帰りをキメていた。仕方がない。偶々仕事帰りに博麗神社に寄ったら宴会の準備をしていて、そのままの勢いで闇鍋パーティが始まり、酔いつぶれてしまったのだから。そう、仕方がないのだ。ザッツライフ。
しかし早々に酔いつぶれたおかげでこうして日が顔を出すより前に帰ってこれた。これは幸運だった。この日、鈴仙は師匠である永琳と共に人里へ往診に出かける予定だったのだ。こういう時の頭の回転は素早いもので、鈴仙は先に謝ってしまおうと考えていた。起きているかなと永琳が普段仕事場と兼任している診察室を覗く。なんとなく予想はしていたが、既に永琳は普段通りに椅子に座って書類仕事を始めていた。
「師匠、すいません。ただいま戻りました」
「ウホンホ、ウホ、ウッホホホ、ウッホホホッホ、ウホウホッホ」
「はい、すぐに準備します」
とりあえずささっと身体を洗って、酒の匂いを抜かなくては、そう考えながら廊下を歩き、何歩目だろうか、はたと歩みを止めた鈴仙は頭を抱えた。
(ウホ……? ウホ……?? ……??? …………????)
もう一度、診察室に戻る。気配を感じたのだろう、永琳は椅子をくるりと回転させた。敬愛する、麗しい師匠の姿があった。
「あの、師匠……?」
「ウホッ?」
瞬間、鈴仙は腕をくの字に曲げて脇を締め、膝を少し曲げては内股になった。それは唐手にも見られる、正に三戦の構えだった。
「師匠ゴリラになってるウゥー‼」
鈴仙の魂の叫びが、永遠亭に木霊した。
八意永琳は天才だった。そして好奇心が旺盛だった。その日に作っていた試薬は、身体の節々が痛い高齢の人間たちを対象として開発された薬で、間接に働くという視点からは別の、塗るだけで筋肉を活性化させる薬だった。
試しに近くにいたイナバ達に使おうと思ったが、我先にと逃げ出してしまい、どうしたものかと思案したふりをして、じゃあ自分に使うかと決めた。秒だった。というわけで試しに二の腕に塗ってみた所、確かにぽかぽかとした感覚を感じた。なるほど大部分は成功だ、後は色々と詰めていけばいいかと思ったところで、自身の違和に気づいたのだ。
(ウホ……? ウホ……?)
永琳は見目麗しい姿はそのままに、その内面、筋肉だけでなく言葉も、そして思考のその大部分をも『ウホ』という言葉で圧縮している己に気が付いたのだ。永琳の脳もまた筋肉によって圧縮されていた。有り体に言うならば、永琳の内面はゴリラになっていた。
鈴仙の大絶叫で起きたてゐから経緯を聞き、鈴仙はこの世の狂気を垣間見ていた。
「まったく、お師匠様はおっちょこちょいなんですから、気を付けてくださいよ」
「そうよ永琳、気を付けなさいな」
「ウホ、ウホ、ウンホホホ」
てゐも、後から起きてきた主である蓬莱山輝夜ですらも、永琳の変化を大らかに受け止めている。永琳もまたにこやかに笑いながら、あははうふふウホウホと返していた。
(え、嘘やん。なにここ、地獄?)
そう思って、まあ元からこんなもんだと鈴仙は納得した。それはとても悲しい処世術であったが、どうでもいいことだった。
今日の往診は止めにしないかと鈴仙は提案したが、永琳は頑として首を縦に振らなかった。それどころか任せろと言わんばかりに片方の手でサムズアップしながらもう片方の手で自身の胸をドムと叩いた。薬によって強化された筋肉によるドラミングは空気を震わせ、衝撃波となって鈴仙の髪を揺らす。
(これ夢だな、多分。明晰夢だわ)
とりあえずさっさと用事を済ませてしまおう。そして暖かい布団に入れば、きっと師匠は元に戻っているし、自分は博麗神社で酔いつぶれているところから目を覚ますんだと信じて、朝餉を済ませた鈴仙は永琳と共に永遠亭を後にした。日はまだ顔を出し始めたばかり。里に着く頃には、少し暑くなっているだろう。
道中で、鈴仙は永琳に口を開かぬよう強く、強く念を押した。考えても見ればわかるだろう。見目麗しい女医が口を開けばウホウホ言い始めるのである。狂気の沙汰だ。でなければ悪夢だろう。
「ウホンホ、ウホ、ウホホーホ・ウーホホ。ウホウホ?」
(……? ……?? …………??? ………????)
竹林に入って僅か数分。振り返ればまだ背中に永遠亭の輪郭が見える。もう帰りたいと思っている鈴仙の前に、人影が現れた。こんな頓狂なところに来る奴など知れている。
「お、鈴仙ちゃん。おはよう」
「げ、妹紅」
人影の主、藤原妹紅は気さくに鈴仙にあいさつを交わし、その横にいる永琳の姿に気が付くと目を細めた。その鋭さ、最近こそ昼行燈を気取っているが、やはり心根の奥底にある炎は燃えているのだろう。
「……ソイツまで一緒とは珍しいじゃあないか」
「ウホ、ウホウホ、ウホーホ」
「あン? なんだその喋りは、喧嘩売ってんのか?」
「ウホウ、ウホホウホウホ、ッォッオ」
「……? ……?? ………???」
もう隠しても仕方が無いだろう。毒気の抜かれた顔のままに視線を向ける妹紅に、鈴仙は事情を説明する。もう五秒後には竹林に笑い声がこだましていた。
「ぶわーははは! 何ゴリラって! やっべえこいつ! いや流石月の頭脳だわ、永琳半端ないって!」
まあ、誰が聞いてもこれに近い反応になるだろうと鈴仙は思っていた。だからこそ永遠亭を出るときに念を押したのだ。むしろこうして馬鹿にしてくれているだけ妹紅はまだましかもしれない。ゴリラを知らない里の人間だと、下手をしたら言葉の通じない気狂いと判断されても仕方がないのだから。
(まあ、今回は師匠の自業自得だしなあ……)
そうして鈴仙が向けた先の永琳は顔をうつ向かせていた。まさか泣いているのかだろうか。違う、瞬時に鈴仙は理解した。震えているのだ、その体全体が。顔が上がる、永琳の目は怒りのあまりに白目のみになっていた。
(アカン)
ここで勘違いをしてはいけないのだが、本来ゴリラはとても温厚な動物である。社会を持ち、下の面倒を見、互いに互いを思いやる、心優しい動物なのだ。
しかし、今回永琳が作った軟膏は、ただゴリラになるだけではなかった。闘争本能まで筋肉によって圧縮されていたのだ。それはつまり穏やかな心を持ちながら激しい怒りによってうんたらかんたらで、有り体に言えば永琳は非常にキレやすくなっていた。
「ひいー、ひいーっ、永琳じゃなくてゴーリンじゃん! ゴ、ゴ、ゴーリンだって!ブワハハハ!」
「ジョアッ‼‼」
怒号一閃。永琳は己の腕を振り抜いた。
それは叩くというにはあまりに強すぎた。素早く、的確、筋肉、そして大雑把すぎた。それは正に平手打ちだった。
顎を掌底で綺麗に打ち抜かれた妹紅は『エンッ‼』という断末魔を上げて竹林の土に崩れ落ちた。倒れ伏した妹紅は鼻血を出しながら痙攣していたが、鈴仙は瞬時に意識の外から追い出した。これ以上面倒ごとを増やしたくなかった、はやく仕事を終えてお布団に潜り込みたかったから。
「ウホンホ!」
「は、はい!」
据わった目で竹林を大股で進むその姿は、確かにゴリラなのかもしれない。しかし、それよりも鈴仙の頭の中にあったのは、ウホ以外の言葉も一応言えるんだな、という現実逃避にも似た考えだった。
「はい、お口を開けてくださーい……はい、終了です。お疲れ様でした」
鈴仙の言葉に従って、老人は大きく口を開けている。その口腔を覗く永琳の顔は真剣そのものだ。最初こそ心配していた鈴仙だったが、さすがは月の頭脳である。きちんと仕事はこなしてくれて、この家で往診は終了だ。
薬を売るときの山伏姿とは違い、永琳も鈴仙も白衣姿で顔を出している。こうすることであの薬売りは別人であると人里では認識されていた。まあ薬の種類は一緒なのだが。そうして往診は滞りなく終わり、二人は里の蕎麦屋で腹を満たしていた。
「ウホンホ、ウッホホホウホウホウホ、ウホホホホ、ウホ、ズルズルッ! ズーッ!」
「とりあえず、喋るか蕎麦をすするかどちらかにしてください」
もう後は永遠亭へ戻るだけだ。普段ならば散策をしたりする鈴仙だが、流石に師匠の目の前でさぼるわけにもいかない。というよりこのウホウホ言うのをさっさと永遠亭に戻した方がいいと考えていた。
キャーッ! 誰かあ!
そう、考えただけだ。目の前にいるウホウホ言うお師匠様の目は爛々と声のした方を向いている。本来ゴリラはとても温厚な動物である。社会を持ち、下の面倒を見、互いに互いを思いやる、心優しい動物なのだ。
しかし、今回永琳が作った軟膏は、ただゴリラになるだけではなかった。闘争本能まで筋肉によって圧縮されていたのだ。それはつまり穏やかな心を持ちながらうんたらかんたらで、なおかつ関係がない。永琳は元々騒ぎごとに首を突っ込みたくて仕方のない性格をしていたのだ。
騒ぎの現場にやってきた鈴仙たちの目に飛び込んだのは、なんと熊と、そして腰を抜かしている母親と、事情を分かっていないのだろう母親に抱きかかえられた小さな子供の姿だった。周りの人間たちは、まるで人形のように止まっている。そして熊は子供を抱きかかえている母親に、手を振り上げた。
(いけない!)
鈴仙がそう思った瞬間だった。横からゴリラが飛び出した。
振り降ろされた熊の手を、ゴリラは片腕で受け止めたのだ。震える母子に向ける永琳(ゴリラ)の目線は優しく、神々しく絶対的なものとして鈴仙の目に映った。
「ウホンホ!」
「は、はい!」
何故か永琳の言葉を理解した鈴仙は、風呂敷から取り出したものを放り投げた。黄色く湾曲した物体。それは幻想郷では珍しいバナナだった。蕎麦屋に行く前に買っていたものだ。
バナナを受け取った永琳は、そっと優しく、バナナを熊に差し出した。慈愛、友愛、親愛の情だ。ゴリラは優しく、そして思慮深いのだ。お腹がすいていたのでしょう? そう優しく語り掛ける永琳の姿を、鈴仙は確かに幻視した。実際にはウホウホ言っているだけなのだが。
その永琳の眼差しを受け止めた熊は、空いていたもう片方の手をゆっくりとバナナへと手を伸ばす。その動作に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
そして熊は、バナナを払いのけたのだ。
(アカン)
まろやかな味でありながら。脂肪とコレステロールが無く、その自然な甘さは果糖を含め様々な種類の糖分から形成されている。そして様々な糖質の他にビタミン(主にB群)、ミネラル、食物繊維等が含まれ、美容にも、健康にもバナナは強い味方なのだ。運動をする前に摂れば持続的なエネルギー源となり、運動した後に摂れば、筋肉を癒し寄り添ってくれる。
さらにバナナは吸収がよく、胃腸へも優しいことから食べる薬とさえ言われることがあるのだ。すごいぞバナナ、偉いぞバナナ。そりゃあゴリラだって大好きなはずだ。
その、そのバナナを払いのけた、これは万死に値する。永琳は激怒した。この無知蒙昧の馬鹿垂れにバナナの美味しさを、素晴らしさを伝えねばならぬと。永琳は熊にどれほどバナナが素晴らしいか説明しようとしたが、自分がウホウホしか言葉を発せられないことに気づき。もう色々面倒だから説明するのを諦めた。
「ウホォラァーッッ‼‼」
熊とゴリラは互いに殴り合い、投げ合い、噛みつきあって、相撲を取りあった。近くにいた烏天狗に写真を撮らせ、拳を交える中で意気投合した二匹は人里から山へと消えていった。
「熊と一緒に行くんかーい‼」
鈴仙は一人永遠亭へと戻った。誰かが鈴仙を呼んでも彼女は『もう知らん!』と叫んで部屋から出ようとせず、不貞寝した。
「う、ん……」
障子戸から薄く輝く光が、鈴仙の瞼を刺激した。枕元にあった時計を見ようと思ったが、その考えを捨ててほっと一息に立ち上がり、障子戸を開ける。昇り始めの日の光は、まだ空の薄紫を払っていない。
昨日はとんでもない一日だった。だが、こうして立ち上がり、着替えをして、今日一日を意識せずに生きようとしている。鈴仙はこの場所が嫌いではないのだと改めて思い、誰もいない部屋で気恥ずかしさに頬を少し赤らめた。
「あ、師匠。おはようございます」
「あら優曇華。昨日はごめんなさいね」
診察室で聞いた永琳の一言は、鈴仙にもきちんと理解することが出来た。どうやら薬の効果は切れたらしい。それとも昨日体験したことは夢だったのだろうか。どちらでもよかった。
熊には滾々と説教をし、人里に行かないこと、そしてバナナは美味しいのだから今度機会があったら持って行ってやると約束したらしい。穢れだなんだと言っている人ではあるが、それでも尚飛び込む性格なのを、鈴仙は知っていた。
「もう昨日のようなことは勘弁願いますよ」
「けど昨日の薬、薬効は本物なのよ。ただもうちょっと濃度を下げないと……それとも、アレを加えれば……」
ぶつぶつと己の世界に入り込む永琳の背中は、やはり自分が憧れている師の姿をしている。どれだけ馬鹿なことをしようと、その背中を見る気持ちは変わらないのだ。永琳の独り言は、鈴仙の耳に心地よく響いた。
「優曇華、悪いんだけど、帰りにお使いを頼まれてくれないかしら?」
「構いませんよ」
「悪いわね。じゃあ、これをお願いね」
そう言って渡された紙を見る。
『ウホホ ウホ』
『ウホンホウホホ ウホ』
『バナナ 一房』
と書かれていた。
瞬間、鈴仙は腕をくの字に曲げて脇を締め、膝を少し曲げては内股になった。それは唐手にも見られる、正に三戦の構えだった。
「治ってへんやないかーい‼」
鈴仙の魂の叫び(一日ぶり、二度目)が、永遠亭に木霊した。
ある日の朝のことだった。その日、鈴仙・優曇華院・イナバは久しぶりの朝帰りをキメていた。仕方がない。偶々仕事帰りに博麗神社に寄ったら宴会の準備をしていて、そのままの勢いで闇鍋パーティが始まり、酔いつぶれてしまったのだから。そう、仕方がないのだ。ザッツライフ。
しかし早々に酔いつぶれたおかげでこうして日が顔を出すより前に帰ってこれた。これは幸運だった。この日、鈴仙は師匠である永琳と共に人里へ往診に出かける予定だったのだ。こういう時の頭の回転は素早いもので、鈴仙は先に謝ってしまおうと考えていた。起きているかなと永琳が普段仕事場と兼任している診察室を覗く。なんとなく予想はしていたが、既に永琳は普段通りに椅子に座って書類仕事を始めていた。
「師匠、すいません。ただいま戻りました」
「ウホンホ、ウホ、ウッホホホ、ウッホホホッホ、ウホウホッホ」
「はい、すぐに準備します」
とりあえずささっと身体を洗って、酒の匂いを抜かなくては、そう考えながら廊下を歩き、何歩目だろうか、はたと歩みを止めた鈴仙は頭を抱えた。
(ウホ……? ウホ……?? ……??? …………????)
もう一度、診察室に戻る。気配を感じたのだろう、永琳は椅子をくるりと回転させた。敬愛する、麗しい師匠の姿があった。
「あの、師匠……?」
「ウホッ?」
瞬間、鈴仙は腕をくの字に曲げて脇を締め、膝を少し曲げては内股になった。それは唐手にも見られる、正に三戦の構えだった。
「師匠ゴリラになってるウゥー‼」
鈴仙の魂の叫びが、永遠亭に木霊した。
八意永琳は天才だった。そして好奇心が旺盛だった。その日に作っていた試薬は、身体の節々が痛い高齢の人間たちを対象として開発された薬で、間接に働くという視点からは別の、塗るだけで筋肉を活性化させる薬だった。
試しに近くにいたイナバ達に使おうと思ったが、我先にと逃げ出してしまい、どうしたものかと思案したふりをして、じゃあ自分に使うかと決めた。秒だった。というわけで試しに二の腕に塗ってみた所、確かにぽかぽかとした感覚を感じた。なるほど大部分は成功だ、後は色々と詰めていけばいいかと思ったところで、自身の違和に気づいたのだ。
(ウホ……? ウホ……?)
永琳は見目麗しい姿はそのままに、その内面、筋肉だけでなく言葉も、そして思考のその大部分をも『ウホ』という言葉で圧縮している己に気が付いたのだ。永琳の脳もまた筋肉によって圧縮されていた。有り体に言うならば、永琳の内面はゴリラになっていた。
鈴仙の大絶叫で起きたてゐから経緯を聞き、鈴仙はこの世の狂気を垣間見ていた。
「まったく、お師匠様はおっちょこちょいなんですから、気を付けてくださいよ」
「そうよ永琳、気を付けなさいな」
「ウホ、ウホ、ウンホホホ」
てゐも、後から起きてきた主である蓬莱山輝夜ですらも、永琳の変化を大らかに受け止めている。永琳もまたにこやかに笑いながら、あははうふふウホウホと返していた。
(え、嘘やん。なにここ、地獄?)
そう思って、まあ元からこんなもんだと鈴仙は納得した。それはとても悲しい処世術であったが、どうでもいいことだった。
今日の往診は止めにしないかと鈴仙は提案したが、永琳は頑として首を縦に振らなかった。それどころか任せろと言わんばかりに片方の手でサムズアップしながらもう片方の手で自身の胸をドムと叩いた。薬によって強化された筋肉によるドラミングは空気を震わせ、衝撃波となって鈴仙の髪を揺らす。
(これ夢だな、多分。明晰夢だわ)
とりあえずさっさと用事を済ませてしまおう。そして暖かい布団に入れば、きっと師匠は元に戻っているし、自分は博麗神社で酔いつぶれているところから目を覚ますんだと信じて、朝餉を済ませた鈴仙は永琳と共に永遠亭を後にした。日はまだ顔を出し始めたばかり。里に着く頃には、少し暑くなっているだろう。
道中で、鈴仙は永琳に口を開かぬよう強く、強く念を押した。考えても見ればわかるだろう。見目麗しい女医が口を開けばウホウホ言い始めるのである。狂気の沙汰だ。でなければ悪夢だろう。
「ウホンホ、ウホ、ウホホーホ・ウーホホ。ウホウホ?」
(……? ……?? …………??? ………????)
竹林に入って僅か数分。振り返ればまだ背中に永遠亭の輪郭が見える。もう帰りたいと思っている鈴仙の前に、人影が現れた。こんな頓狂なところに来る奴など知れている。
「お、鈴仙ちゃん。おはよう」
「げ、妹紅」
人影の主、藤原妹紅は気さくに鈴仙にあいさつを交わし、その横にいる永琳の姿に気が付くと目を細めた。その鋭さ、最近こそ昼行燈を気取っているが、やはり心根の奥底にある炎は燃えているのだろう。
「……ソイツまで一緒とは珍しいじゃあないか」
「ウホ、ウホウホ、ウホーホ」
「あン? なんだその喋りは、喧嘩売ってんのか?」
「ウホウ、ウホホウホウホ、ッォッオ」
「……? ……?? ………???」
もう隠しても仕方が無いだろう。毒気の抜かれた顔のままに視線を向ける妹紅に、鈴仙は事情を説明する。もう五秒後には竹林に笑い声がこだましていた。
「ぶわーははは! 何ゴリラって! やっべえこいつ! いや流石月の頭脳だわ、永琳半端ないって!」
まあ、誰が聞いてもこれに近い反応になるだろうと鈴仙は思っていた。だからこそ永遠亭を出るときに念を押したのだ。むしろこうして馬鹿にしてくれているだけ妹紅はまだましかもしれない。ゴリラを知らない里の人間だと、下手をしたら言葉の通じない気狂いと判断されても仕方がないのだから。
(まあ、今回は師匠の自業自得だしなあ……)
そうして鈴仙が向けた先の永琳は顔をうつ向かせていた。まさか泣いているのかだろうか。違う、瞬時に鈴仙は理解した。震えているのだ、その体全体が。顔が上がる、永琳の目は怒りのあまりに白目のみになっていた。
(アカン)
ここで勘違いをしてはいけないのだが、本来ゴリラはとても温厚な動物である。社会を持ち、下の面倒を見、互いに互いを思いやる、心優しい動物なのだ。
しかし、今回永琳が作った軟膏は、ただゴリラになるだけではなかった。闘争本能まで筋肉によって圧縮されていたのだ。それはつまり穏やかな心を持ちながら激しい怒りによってうんたらかんたらで、有り体に言えば永琳は非常にキレやすくなっていた。
「ひいー、ひいーっ、永琳じゃなくてゴーリンじゃん! ゴ、ゴ、ゴーリンだって!ブワハハハ!」
「ジョアッ‼‼」
怒号一閃。永琳は己の腕を振り抜いた。
それは叩くというにはあまりに強すぎた。素早く、的確、筋肉、そして大雑把すぎた。それは正に平手打ちだった。
顎を掌底で綺麗に打ち抜かれた妹紅は『エンッ‼』という断末魔を上げて竹林の土に崩れ落ちた。倒れ伏した妹紅は鼻血を出しながら痙攣していたが、鈴仙は瞬時に意識の外から追い出した。これ以上面倒ごとを増やしたくなかった、はやく仕事を終えてお布団に潜り込みたかったから。
「ウホンホ!」
「は、はい!」
据わった目で竹林を大股で進むその姿は、確かにゴリラなのかもしれない。しかし、それよりも鈴仙の頭の中にあったのは、ウホ以外の言葉も一応言えるんだな、という現実逃避にも似た考えだった。
「はい、お口を開けてくださーい……はい、終了です。お疲れ様でした」
鈴仙の言葉に従って、老人は大きく口を開けている。その口腔を覗く永琳の顔は真剣そのものだ。最初こそ心配していた鈴仙だったが、さすがは月の頭脳である。きちんと仕事はこなしてくれて、この家で往診は終了だ。
薬を売るときの山伏姿とは違い、永琳も鈴仙も白衣姿で顔を出している。こうすることであの薬売りは別人であると人里では認識されていた。まあ薬の種類は一緒なのだが。そうして往診は滞りなく終わり、二人は里の蕎麦屋で腹を満たしていた。
「ウホンホ、ウッホホホウホウホウホ、ウホホホホ、ウホ、ズルズルッ! ズーッ!」
「とりあえず、喋るか蕎麦をすするかどちらかにしてください」
もう後は永遠亭へ戻るだけだ。普段ならば散策をしたりする鈴仙だが、流石に師匠の目の前でさぼるわけにもいかない。というよりこのウホウホ言うのをさっさと永遠亭に戻した方がいいと考えていた。
キャーッ! 誰かあ!
そう、考えただけだ。目の前にいるウホウホ言うお師匠様の目は爛々と声のした方を向いている。本来ゴリラはとても温厚な動物である。社会を持ち、下の面倒を見、互いに互いを思いやる、心優しい動物なのだ。
しかし、今回永琳が作った軟膏は、ただゴリラになるだけではなかった。闘争本能まで筋肉によって圧縮されていたのだ。それはつまり穏やかな心を持ちながらうんたらかんたらで、なおかつ関係がない。永琳は元々騒ぎごとに首を突っ込みたくて仕方のない性格をしていたのだ。
騒ぎの現場にやってきた鈴仙たちの目に飛び込んだのは、なんと熊と、そして腰を抜かしている母親と、事情を分かっていないのだろう母親に抱きかかえられた小さな子供の姿だった。周りの人間たちは、まるで人形のように止まっている。そして熊は子供を抱きかかえている母親に、手を振り上げた。
(いけない!)
鈴仙がそう思った瞬間だった。横からゴリラが飛び出した。
振り降ろされた熊の手を、ゴリラは片腕で受け止めたのだ。震える母子に向ける永琳(ゴリラ)の目線は優しく、神々しく絶対的なものとして鈴仙の目に映った。
「ウホンホ!」
「は、はい!」
何故か永琳の言葉を理解した鈴仙は、風呂敷から取り出したものを放り投げた。黄色く湾曲した物体。それは幻想郷では珍しいバナナだった。蕎麦屋に行く前に買っていたものだ。
バナナを受け取った永琳は、そっと優しく、バナナを熊に差し出した。慈愛、友愛、親愛の情だ。ゴリラは優しく、そして思慮深いのだ。お腹がすいていたのでしょう? そう優しく語り掛ける永琳の姿を、鈴仙は確かに幻視した。実際にはウホウホ言っているだけなのだが。
その永琳の眼差しを受け止めた熊は、空いていたもう片方の手をゆっくりとバナナへと手を伸ばす。その動作に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
そして熊は、バナナを払いのけたのだ。
(アカン)
まろやかな味でありながら。脂肪とコレステロールが無く、その自然な甘さは果糖を含め様々な種類の糖分から形成されている。そして様々な糖質の他にビタミン(主にB群)、ミネラル、食物繊維等が含まれ、美容にも、健康にもバナナは強い味方なのだ。運動をする前に摂れば持続的なエネルギー源となり、運動した後に摂れば、筋肉を癒し寄り添ってくれる。
さらにバナナは吸収がよく、胃腸へも優しいことから食べる薬とさえ言われることがあるのだ。すごいぞバナナ、偉いぞバナナ。そりゃあゴリラだって大好きなはずだ。
その、そのバナナを払いのけた、これは万死に値する。永琳は激怒した。この無知蒙昧の馬鹿垂れにバナナの美味しさを、素晴らしさを伝えねばならぬと。永琳は熊にどれほどバナナが素晴らしいか説明しようとしたが、自分がウホウホしか言葉を発せられないことに気づき。もう色々面倒だから説明するのを諦めた。
「ウホォラァーッッ‼‼」
熊とゴリラは互いに殴り合い、投げ合い、噛みつきあって、相撲を取りあった。近くにいた烏天狗に写真を撮らせ、拳を交える中で意気投合した二匹は人里から山へと消えていった。
「熊と一緒に行くんかーい‼」
鈴仙は一人永遠亭へと戻った。誰かが鈴仙を呼んでも彼女は『もう知らん!』と叫んで部屋から出ようとせず、不貞寝した。
「う、ん……」
障子戸から薄く輝く光が、鈴仙の瞼を刺激した。枕元にあった時計を見ようと思ったが、その考えを捨ててほっと一息に立ち上がり、障子戸を開ける。昇り始めの日の光は、まだ空の薄紫を払っていない。
昨日はとんでもない一日だった。だが、こうして立ち上がり、着替えをして、今日一日を意識せずに生きようとしている。鈴仙はこの場所が嫌いではないのだと改めて思い、誰もいない部屋で気恥ずかしさに頬を少し赤らめた。
「あ、師匠。おはようございます」
「あら優曇華。昨日はごめんなさいね」
診察室で聞いた永琳の一言は、鈴仙にもきちんと理解することが出来た。どうやら薬の効果は切れたらしい。それとも昨日体験したことは夢だったのだろうか。どちらでもよかった。
熊には滾々と説教をし、人里に行かないこと、そしてバナナは美味しいのだから今度機会があったら持って行ってやると約束したらしい。穢れだなんだと言っている人ではあるが、それでも尚飛び込む性格なのを、鈴仙は知っていた。
「もう昨日のようなことは勘弁願いますよ」
「けど昨日の薬、薬効は本物なのよ。ただもうちょっと濃度を下げないと……それとも、アレを加えれば……」
ぶつぶつと己の世界に入り込む永琳の背中は、やはり自分が憧れている師の姿をしている。どれだけ馬鹿なことをしようと、その背中を見る気持ちは変わらないのだ。永琳の独り言は、鈴仙の耳に心地よく響いた。
「優曇華、悪いんだけど、帰りにお使いを頼まれてくれないかしら?」
「構いませんよ」
「悪いわね。じゃあ、これをお願いね」
そう言って渡された紙を見る。
『ウホホ ウホ』
『ウホンホウホホ ウホ』
『バナナ 一房』
と書かれていた。
瞬間、鈴仙は腕をくの字に曲げて脇を締め、膝を少し曲げては内股になった。それは唐手にも見られる、正に三戦の構えだった。
「治ってへんやないかーい‼」
鈴仙の魂の叫び(一日ぶり、二度目)が、永遠亭に木霊した。
ウホ ウホホ ウホ
ウホホホホ ウホホホホホホ ウホホウホ!
なにをどうしたらこうぶっ飛んだ発想が生まれるのかなと思いました。どこを読んでても本当に笑えます。面白かったです。
まさに王道を行く怒濤の展開に最後の最後まで胸をドコドコさせながら楽しんで読むことが出来ました。
今日のバナナも美味しくいただけそうです。
ありがとうほざいました。
ウホンホだけウドンゲって呼んでるのがわかるのがさらに面白いしきたねぇよ
永琳先生も天才が故に抜けている所があるのもとても魅力的でした
ウホホ。
ゴリラになっても揺るがぬ永琳にめちゃくちゃ笑いました。
呼ッ!
映画化決定
>ウホホーホ・ウーホホ
じゃねぇよ! これには私もうどんちゃんの如く三戦の構えになってしまいかけました。