人里にとある絵描きがいた。
その者の名はジュウゾウ、初老の男性であった。
娯楽文化が極端に停滞している幻想郷である。
一枚の絵よりも一つの握り飯の方が高価な時代だ。
裕福である筈もなく、ジュウゾウの暮らしは常に貧困であった。
しかし、当の本人はそれで満足であった。名声や金が目的で絵を描いている訳ではない。
彼はただひたすらに絵を描くという行為が好きだったのだ。
だからこそ、彼の絵には真心がこもっていた。
……何が言いたいかっていうと、このジュウゾウって爺さん、まぁ人里の中でも結構な変わり者として有名だった訳よ。
・・・
そんなある日の事、ジュウゾウの家の軒先に一匹の黒猫が紛れ込んできた。激しい雨の日であった。黒猫は傷だらけで弱り果てていた。どこぞの妖怪か獣にでも襲われたか、その尻に生えている筈の尾が無残に切り落とされてしまっていた。
ジュウゾウはその黒猫を温かく自宅へ迎え、すぐさま傷の手当てをし、餌を与えた。最初は警戒し、怯えた様子の黒猫であったが、すぐにジュウゾウの人の良さを理解し、そのまま安心したように彼の膝の中で眠りについた。
……しかし、懸命な処置も虚しく、黒猫は次の日の朝には冷たくなっていた。
おそらく、ジュウゾウの家に着いた時点ですでに限界を迎えていたのだろう。
ジュウゾウは心を痛め、その黒猫を手厚く埋葬した。
「苦しかっただろうに。助けてやれなくてすまん」
しかし、ジュウゾウの手の中で眠る黒猫の最期の表情は、安らぎそのものであった。
その小さな身体で、一体どれほどの苦痛を伴って生きてきたのかは分からない。
それでも最後の最後に、その猫は温もりに包まれながら静かに死ぬ事が出来たのである。
せめてもの罪滅ぼしのつもりで、ジュウゾウはその猫の絵を描き、寝室に飾る事にした。しかしその途中、怪我によって失った尻尾はどうしたものかと悩んでいるうちに筆を誤ってしまい、黒猫の尻に二本目の歪な尻尾が生えてしまった。
……だが、それはそれで可愛らしいとも思えた。
「今度生まれ変わった時、また尻尾を失くしてしまってもいいように」などとそれっぽい理由をつけ、ジュウゾウはそのまま絵を描き上げた。
出来上がった絵はお世辞にも上等とは言えない代物であったが、ジュウゾウは満足げにその絵を寝室に飾り、供養のつもりで手を合わせた。
・・・
それからしばらく経ったある日、ジュウゾウの暮らしに一つの変化があった。あの黒猫の絵をかいて以来、余所から沢山の野良猫がジュウゾウの家の庭に集まるようになったのだ。
……さては、猫の世界にも人間でいうところの「こみゅにてぃ」という概念が存在するのだろう。幻想郷で暮らしている猫達の間でジュウゾウの名が知れ渡ってしまったのだ。この家に行けば飯が食えるぞ、怪我の手当てをしてくれるぞ、寂しい時は構ってくれるぞ、といった具合に。
里の住民達から変わり者扱いされ、遠ざけられながら暮らしていたジュウゾウにとって、賑やかなのはとても有難い事であった。
ジュウゾウはやってくる猫を心から可愛がった。
ますます猫達はジュウゾウの家に入り浸るようになる。
やはり猫は素晴らしい生き方をしている。世話をしてもらいながら、それでいて媚びへつらうような真似は一切しない。
完全に主人である人間様を尻に敷いている。
そこがまた気高くて、小生意気で、素敵である。
その誰に対しても靡かない生き方に魅力を感じ、ジュウゾウは彼らの姿を絵に描いていく。
……すると、どういう訳か、ご機嫌な事にジュウゾウの猫の絵は人里で評判になり、買い手が一気に増えたのだ。これまでの貧相な生活とは打って変わり、ジュウゾウの元に絵の注文が大量に舞い込んでくるようになった。あり触れた風景画から権力者の道楽の絵まで、時には名のある大妖怪から姿絵の依頼を受ける事もあった。
……全ては、あの猫達の絵を描いてから、いや、もっと言えば、いつぞや、ジュウゾウの家に迷い込んだ例の二本尻尾の黒猫の絵を描いた時から始まった事だ。
「これはたまげた、お前さん、幸福を呼ぶ『招き猫』だったのかい」
ジュウゾウは寝室に飾っている黒猫の絵に向って嬉しそうに呟き、手を合わせて拝んだ。
ありがたや、ありがたや。
そんなある日、いつものようにジュウゾウの元に絵の依頼が入った。
依頼主の名は八雲藍、素性は分からんが、幻想郷の中でも有数の財力を持つ大富豪の使用人をしているらしい。主人の命令により、巷で話題となっているジュウゾウの猫の絵を購入しに来たのだ。これは大仕事だと、ジュウゾウはさっそく藍を作業場である自宅に招いた。
家に招いた際、機嫌を良くしたジュウゾウは出会ったばかりの藍に例の黒猫の絵を見せたのである。
「ほう、とても可愛らしい黒猫だ」
お目が高い、とジュウゾウは得意げに鼻を鳴らす。この絵はジュウゾウにとっての自慢の作品なのだ。すると、藍はその絵をまじまじと見つめながら、慎ましく問いかけた。
「どうでしょう、十三さん。どうかこの子を、私に譲っては下さらないか? 悪いようにはしないよ」
何処までも唐突な申出であったが、不思議と悪い気はしなかった。特に、金銭を無暗に交渉の引き合いに出さない辺りに好感を持った。しかし――。
「いやぁ、藍さん。この猫はワシにとっての唯一の宝、とてもじゃないが、簡単に譲る訳にはいかないんですわ」
そう、残念。
藍はそう言って、もう一度その絵をじっと見つめた。
だが……。
ジュウゾウは内心で「本当は譲ってもいい」と考えていた。
この時期、この時点で、ジュウゾウは己の死に際を考えるようになっていた。ジュウゾウも、いつ往生してもおかしくないくらいには高齢である。いずれ自分が死んだ時の為に、家に残っている作品の処分についても決めておかねばならないだろう。捨てるにはあまりにも忍びない。かと言って、芸術が分からぬような輩の手には渡したくない。
その点、この藍という方は信用できると思った。正直なところ、この絵は金に目が眩んだ権力者が好むような絵ではない。だというのに、藍は忖度抜きでこの黒猫を褒めてくれた。この方になら、この黒猫を預けても良いかもしれない。ジュウゾウは心の中で薄っすらと思った。
その日から、藍は度々主人からの使いという口実でジュウゾウの元を訪れ、絵を依頼するようになった。元々彼女は動物好きという事もあり、ジュウゾウの描く猫の絵に随分と惚れ込んでいる様子であった。しかし、その中でも特にお気に入りだったのが例の黒猫の絵である。
「あの黒猫を譲って下さらない?」
依頼の度に、まるで挨拶代わりのように藍はその言葉を口にした。ジュウゾウは笑いながらそれを往なす。
「ダメですよ藍さん、藍さんの絵はこっち。これで我慢しといてくれ」
気付けば藍はジュウゾウにとってこの上ない「お得意様」となっていた。ジュウゾウはそれをとても名誉な事だと思った。何となくだが、この八雲藍という女性には何処か不思議な気品があるように思えた。
荒唐無稽な話になってしまうが、同じ「人間」とはとても思えない。それこそ、妖の類、否……大袈裟に言ってしまえば、まるで神にも近い何か――目に見えない威光のような物を感じるのだ。
それと同時に、ジュウゾウの家には多くの猫がいたが、猫達は何故か藍にとても懐いていた。動物に好かれる奴に悪者はいない。ジュウゾウの迷いは大きくなるばかりであった。
その実、ジュウゾウは何処かで自身の死期が近付いているのを感じていた。長年付き合ってきた己の身体である。もう長くはないと感覚で理解出来る。
その日から、ジュウゾウは家で保管していた思い入れのある絵を信用出来る買い手に託し始めたのだ。いわゆる身辺整理というものである。その間、相変わらず家をたまり場にしている猫達は素っ気ない。だが、猫とはそういうものだ。ジュウゾウが死ねば、こいつらは何一つ悲しむ事なく、即座に次の居場所を探すに違いない。全くもって愛想のない連中である。
だが、それでいい。それがいい。
そういう執着のない生き方こそ、猫には相応しい。
そして、幾度目かの藍の来訪、ジュウゾウはしんみりとした調子で彼女に一つ提案をした。
「……わしが死んだら、その時は藍さん、あの黒猫を引き取ってやってくれねぇかい? アンタなら、あの黒猫も満足だと思うんだよ」
黒猫の絵を指しながら、ジュウゾウは真っすぐに呟く。藍はとても優しい表情を浮かべ、厳かに頷いた。
「ええ、十三さん。誓いましょう。その時は、私が責任をもってあの子を引き取ります。きっと、寂しい想いはさせません。……だから十三さん、どうか安心してください」
ああ、良かった。
これで、心置きなくおさらば出来る。
ジュウゾウはとても晴れやかな顔で笑った。
……それからしばらく経ち、ジュウゾウは筆を持つ事もしなくなった。日がな一日、家の縁側に立ち、好き勝手にくつろぐ猫の集団を見つめる日々を送っていた。いよいよ思考もおぼつかなくなる。
その頃にはジュウゾウも沢山の弟子達に囲まれており、彼らに世話をしてもらいながら何とか生き長らえている状態であった。老いは徐々に身体の自由を奪っていく。ジュウゾウは寝たきりの状態となり、あれだけ好きだった猫の世話も満足に出来なくなってしまった。
いつしか猫達は何を言われるでもなく、ジュウゾウの家に集まる事を止めてしまった。世話をしてもらえないと分かった途端にこれだ。つくづく薄情な奴らである。ジュウゾウはそれでも嬉しそうに笑う。それでこそ、猫だから。
その笑みは何処か寂しげであった。
だが、それももう終わりである。
ある日の夜、進行する痴呆により混濁する記憶の中、ジュウゾウは就寝中にある事を思い出した。
それは、あの黒猫の事である。
あの猫と出会わなければ、ここまで安らかな最期は迎えられなかったかもしれない。あの猫を描いてから、抱えきれないほど多くの幸せが舞い込んできた。黒い二つ尻尾が、ジュウゾウの孤独な人生に彩を添えてくれたのだ。
「全く、幸せな人生だった」
眠りにつく瞬間、静寂の闇に包まれながら、ジュウゾウは呑気に月並みな事を呟いた。
・・・
……すると、微睡みの中、妙な音が縁側の方から聞こえてきた。まるで祭囃子のように賑やかな音だ。
ジュウゾウはゆっくりと身を起こす。その瞬間、数匹の猫が断りも無しに襖を開け、ずかずかと寝室に入ってきたのだ。しかも奇妙な事に、猫達はまるで人間のように二本の足で立っているではないか。ジュウゾウが呆気にとられた表情をしていると、猫達はご機嫌な様子でいつものようにジュウゾウを取り囲んだ。
『やい十三! 起きろ起きろ!』
『宴だ、宴だ! 十三起きろ!』
『起きて僕達と遊ぶんだ!』
……不思議な事もあるもんだ。猫が人間の言葉を話している。ジュウゾウがポカンと口を開けていると、猫達は騒がしい音楽を奏でながら「早く早く!」と彼をまくし立てた。ある猫は太鼓を叩き、ある猫は笛を吹き、またある猫は手拍子で肉球をぷにぷにと鳴らしながらジュウゾウの周りをくるくると回り出す。
猫達に誘われるまま、ジュウゾウは縁側へと歩み寄る。すると、中庭で沢山の猫達が輪になって踊っていた。皆、猫じゃらしとマタタビの枝を持って、酒に酔ったように浮かれまくっていた。
『十三! 僕達と一緒に踊るんだ!』
『歌おう、十三、みんなで歌おう!』
ふと、ジュウゾウは夜空を見上げる。
今夜は猫の瞳のように真ん丸な満月であった。
月の灯りが、猫達の宴を優しく照らしている。
……ほう、これは何とも……。
その幻想を表現するには、言葉とはあまりにも、あまりにも――。
しかし、いずれにせよ。
素面でいるには勿体ない夜だ。
ジュウゾウは台所から酒瓶を持ってくる。
医者に止められてからもうずいぶんと飲んでいない。
しかし、構うものか。今夜だけは特別だ。
『わーい! 今夜はめでたい夜だ!』
『今夜は楽しい夜だ! 十三の為の夜だ!』
猫達は嬉しそうにジュウゾウを囲み、景気よく踊り続けた。
何がそんなにめでたいのか分からんが、こんなに愉快な気分になるのは久しい。それに、何だかいつもより身体が軽い。ジュウゾウは猫達の奏でる音に合わせ、皆と共に手を叩いて歌い、踊る。酒を飲み、心地良い気分に浸る。
きっと、こんなに美しい夜は二度と訪れない。
無愛想で恩知らずな猫達が、まるで何かを祝福してくれるかのように騒いでいる。
夏の終わりに。
秋の訪れを告げる涼風と共に色褪せる木の葉。
ティアオイエツォンの甘い香りが宙を舞う。
四季の巡り。神の息吹。月明かりと共に猫は歌う。
酸いと甘いとをひたすら楽しげに歌い続ける。
照らせ、照らせ。猫は小さな両手をかざしながら歌う。
このお方の道を暗がりで穢してはならぬ。
十万億土の道標。満月。猫が跨ぐ。
このお方の気高き魂を努々忘れるな。
照らせ、照らせ。この月明かりを背にして歌え。
魂九つ、御釈迦様、観音様、猫缶様。
このお方が最後まで燃やし続けた命の灯。
焚火代わりに今宵は踊り続けよう。
煮干しとマタタビ、猫じゃらし。
さぁさぁ、真ん丸なだけで何の取り柄もない満月。
悲しくなるから涙は流しちゃダメだってば。
そのまんま、綺麗なまんま、ねこまんま。
照らせ、照らせ、彼を忘れぬように。
照らせ、照らせ、彼が迷わぬように。
そう、今夜はとても、めでたい夜だ。
・・・
ジュウゾウは、自宅の縁側で安らかに息を引き取った。
とても楽しい夢を見ているかのような、何処までも幸せそうな顔であった。
奇妙な事に、その手には猫じゃらしが握られていた。そして、中庭には猫の足跡が大量に残されていた。
――まるで、弔いの宴でもあったかのようだ。
後日、彼の遺言の通り、ジュウゾウの家に八雲藍が訪れた。約束の、黒猫の絵を受け取りに来たのだ。
すると、藍は誰もいない寝室で、その黒猫の絵に向って小さく語りかけた。
「お前だろう? この家に猫達を呼びつけたのは」
途端、不思議な事が起きた。なんと、慎ましく鎮座していた黒猫が、びっくりしたように絵の中から飛び出してきたのだ。二本尻尾の黒猫は怯えたように藍を見つめた。
「安心しろ、お前に危害を加えるつもりは無い。ただ、どうしてそんな事をしたのか知りたいんだ」
藍にそう説明され、黒猫はビクビクしながら、か細い声で返答した。
『だって、本当に嬉しかったから』
猫は基本的に恩知らずな生き物だが、その黒猫は律義にも、死に際に優しくしてくれたジュウゾウへの恩を忘れずにいたのだ。その思念が死後も消える事なく、霊魂となってこの絵に宿り、妖怪に近い存在となって常世に留まったのである。
一人寂しく絵を描き続けるジュウゾウを見て、少しでもその孤独を紛らわせる為に、黒猫は度々絵から飛び出し、仲間の猫達を集めたのだ。大好きなジュウゾウが、もう二度と寂しい想いをしないように。
「……十三さんはもういない。このまま一人ぼっちでこの家に取り残されるのは辛いだろう? 私と一緒に来ないか? 少なくとも、十三さんはそれを望んでいる」
黒猫は一瞬戸惑いを見せたが、藍の事は嫌いではなかった。初めて会った時、彼女は自分を可愛いと褒めてくれたから。それに、藍からは他の者とは違う「特別な気風」のようなものが感じられた。
きっと、この人は自分を正しく導いてくれる。
何の根拠もなく、そう思わせるような気高さを感じたのだ。
散々迷った挙句、黒猫は返事のつもりで喉を鳴らした。
「じゃあ決まり。今日からお前は私の家族だ」
しかし、そうなるといつまでも黒猫、もしくはお前と呼ぶのも据わりが悪い。まずは、名前を決めなければならない。
よく見ると、黒猫という割には体毛がやや煤けている。
長年寝室に飾られていたせいもあり、墨の色が劣化してしまったのだ。
「黒、というよりは橙色に近いな……」
後に、その猫は藍によって『橙(Chen)』と命名された。
橙が藍の式神となるのは、もう少しだけ先の話。
とても楽しませて頂きました。
ありがとう……ありがとう……
話は王道ながら、王道をしっかり描けており、藍橙と良い感じに絡めており大変良かったです。
面白かったです。有難うございました。
最高です。
今夜はとても、めでたい夜だ。
最高だ!
黒猫はずっと見ていたんですね。そういう解釈とても素敵です。
ありがとうございました。面白かったです。
そしてラスト、そう来ますか…!感服です。
幻想的で美しい、優しさに包まれた物語。気持ちよく読ませていただきました。