内陸地方の明日は東または北寄りの風、晴れときどき曇りでしょう。
雨の降る確率は0%です。明後日は北寄りの風、晴れときどき曇りでしょう。
――Mute Channel “Fog Alarm”
獄卒たちが急に姿を消し、程なくして地獄は管理するもののない生ぬるくバリアフルな施設、苦痛のテーマパークの廃墟となった。地獄のゲストたちはそこから出ることこそできないものの、内部をある程度自由に行き来するようになっていた。
折悪く血の池を訪れていた闖入者の私もまた、囚人たちと共に閉じ込められてしまった。私のセーラー服の白かった部分には、染みこんでは固まりをあまりに幾度も繰り返した血が、油絵の表面のような層をなしている。
獄卒たちはいずれ戻ってくるつもりなのだろうか。それは誰にも分からない。しかし、地獄の機能は閉じ込めることと苦痛を与えることの二つだと考えるならば、少なくとも前者が空白なく達成されてさえいれば、後者もいずれ果たされるだろうという想定のもと、彼らが単にしっかりと戸締まりをしてバカンスに出かけただけだという可能性は充分にある。というか、もしそうでなければ、次は私が次の千年を、ここでこのまま誰か見知った仲間が救い出してくれるのを待つだけで過ごすことになりそうだ。
ここから出るために一体どうすれば良いのか、具体的な案は一向に思い浮かばない。何かを考えようとすればするほど、私の思考は身体にまとわりつく血の重みに引きずり下ろされてぼやけていく。もちろん、そもそも自分をそうした状態に貶めるために、その自虐的な快感に耽るために、私は自らこのだだ広く趣味の悪い浴槽にやってきていたのだから、そこから抜け出せなくなったとしてもそれはただ自業自得だというだけだ。
手で血を掻いて体勢を変え、首を水面の上に出す。鉄の臭いが鼻をつく。目を擦って見渡すと、陸の方に先ほどまではいなかった影があった。
私はそちらに向かって泳いでいった。普段は賽の河原で石積みをしている水子の一人がここまでやってきていた。彼女はここでも石を積んでいた。私は池の縁に両肘を付いて手に顎を載せた。彼女は自分の作業に集中して私の接近に気づいていなかった。その作業は何というか、時計のような一種の外部から独立した機関の運行を思わせた。
「他の子たちはどうしたの」と私は訊いた。
彼女は私を一瞥した。しばらくしてから「それぞれ自分の好きなところにいるよ」と言った。
「地獄が好きですか?」
「さあ。私の方がそれをあんたに訊きたいけど」
私はくすくすと笑った。
「本当は困ってるんです。でもどうしようもないもの」
「そう」
石の高さは彼女の膝くらいになっていた。石と石が触れあう乾いた微かな音だけが定期的に耳に届く。それは心地よく、催眠的だった。足が血の粘性に絡め取られてひどく重い。彼女はそれ以上何も言葉をかけてこなかった。私はそのうち自分で気づかないままに眠り込んでしまっていた。
夢の中で、血の中で、私は泳いでいる。血が透明なので私はそれが夢だとわかる。赤い視界にちらちらと揺れる青白い光がある。両手両足を掻き分けて赤い宇宙に漕ぎ出し、私は光を目指す。
近づくとその光はいよいよ怯えるように震えて揺らめいている。私と同じ方向を目指してはいるが、速度は私よりもずっと遅い。
それは霊だった。私はそれに追いつき、口に含んだ。噛み潰して、飲み込んだ。光は私の腹に収まり、辺りはそれまでよりも少し濃い闇に覆われた。
それは罪深い行いだった。地上の湖や池で、寺の者の目を盗んで普段する殺生よりも、よほど許されざる行為なのではないかと思われた。同類の霊を、それも無抵抗の、自分よりも自由に動けないものを食らうのは。
私は過呼吸を起こしかけ、血を飲み、水中で咳込んだ。しかしそれはすぐに治まった。呆れるほどすぐに治まった。私は泣きそうになった。
広く周りを見渡すと、他にもたくさんの霊が同じ方向を目指していた。私はそれらを次々に食らった。食べれば食べるほど、私は何も感じなくなった。
すべての霊を食べるか追い越すかすると、私の身体よりもずっと大きな青い球体が目の前に現れた。私はその中に入り込む。そこには酸素があった。私はレースに勝ったのだ。
鉄の味で目が覚めた。私は溺れかかっていた。焦って手足をばたつかせて余計に血を飲んだ。池の水位が上がっていた。
私は咳き込んで口から血を吐き出した。最初は慌てたが、少しすると立ち泳ぎができるようになった。血の池は氾濫して、その赤色が本来あるべき領域を踏み越え、四方八方を侵犯していた。どちらを見ても血の池が続いている。視界の中に一つだけ、水面よりも高くそびえているものがあった。それは水子の積む石の塔だった。彼女は私よりも一メートルほど上の高さで、先ほどとまったく表情を変えずに石を積み続けていた。そのときになってようやく気づいたのだが、獄卒たちがいない今、彼女の塔の生成を中断するものはもう何一つないのだ。
彼女は今では塔の上に乗って屈み、自らの足場を繰り上げ続けていた。地底の地上から遠く離れて、彼女が一体どこから新しい石を取り出しているのかわからなかったが、とにかく彼女の石は尽きなかった。私は彼女に向かって叫んだ。彼女は何の反応も示さなかった。血の池に小さな水流のようなものが生まれていて、私は泳いでも泳いでも彼女に近づくことができなかった。
どれだけ彼女が石を積んでも、私から見ると彼女は私の一メートルほど上にずっと留まっていた。つまり彼女が石を積むのに従って、池の(それはもうすでに池というような規模を遥かに超えていたが)水位が上がっていた。あるいはもしかすると、彼女は上昇する水位から身を守るために石の塔を増築していたのかもしれないが、周りに一切気を配らない、かけられた声にも気づかない彼女の様子を見ると、私にはとてもそうは思えなかった。
何分か、何時間か、その果てしない上昇が続いた。気がつくと、地底の天井が、その岩肌の細かなきめが見えるところまで近づいてきていた。地獄はとうに水没し、内部の空間が血で満たされるときが近づいていた。その瞬間に向かって、ゆっくりとではあるが確実に水子の建築は針を進めていた。
天井が近づくにつれ、一枚の岩盤だと思っていたそれが複雑に入り組んでいることがわかった。私たちはゆっくりとそのひだの中に入り込んだ。地獄はもう血で完全に満たされた。やがて上から光が差し込んできた。
私たちは少しだけ離れて昇っていった。私は立ち泳ぎをしながら。彼女は石を積みながら。
明暗が別れるまでに、そう時間はかからなかった。上に向かって細くなっていく洞窟の中のある瞬間、私の頭上にはまっすぐに光が差し込んでいたが、彼女の天井はそこまでだった。彼女は屈んだまま石を積みつづけていて、そのことに気づいていなかった。
彼女の背中が天井に触れた。
「あっ」と彼女が声を発した。一瞬のことだった。
足場が分解し、彼女はバランスを崩した。石がばらばらと散らばり、音を立てて水面を打った。
彼女が血の池に飲み込まれるその一瞬、私と彼女は目が合った。彼女の顔には、今起こったことに対する純粋な驚きの表情だけが浮かんでいて、それは私に対するものではなかった。バベルの塔が崩れる遥か前から、私たちのあいだにはいかなるコミュニケーションも成立していなかった。水子はただ黙って胎内に沈んでいった。
次の瞬間、私は地底から地上に、光の中に吐き出され、そのまま意識を失った。
目が覚めると甲板の上だった。身体が果てしなく重かった。セーラー服の血はもう幾分乾いて固まっていて、身体を動かそうとするたびにひび割れてぱきぱきと音を立てた。
上体だけを起こして周りを見渡す。空ばかりが見える。船には誰もいないようだった。暖かく乾いた木の匂いがする。船は空を飛んでいた。一瞬ここは天国ではないだろうかと思ったが、もちろんそんなわけはなかった。
私は深く息をつき、木の温もりに手を這わせ、甲板に寝そべった。何も考えることができなくて、いつまでもそうしていた。私は自分が死んでからのことをできるだけたくさん思い返していた。主に、そのあいだ私が踏みつけにしてきたものと、見過ごしてきたものについて。それから、生きていた頃のことも少しだけ。
私は声を出して泣こうとした。何回か試してみたが、出来なかった。結局、そんなことをするには私はもうあまりにも生きすぎていたし、死にすぎていた。
私は立ち上がろうとしたが、腰が抜けていてまったく足に力が入らなかった。空は青く、雲が遠く塊になって浮いていた。日差しがとても暖かかった。雨は降りそうになかった。あるいは少し霧が出るかもしれなかった。それで、私はそのまま船がどこか別のところに私を連れ去ってくれるのを待った。