夜も更けてきて、通りに面する店舗のライトは次々に消え、昼間の喧噪にはほど遠いほど、繁華街は薄暗く静寂な場所となっていた。
私とメリーは、特に倶楽部活動をするでも無く、無言のまま、ただ道を歩いていた。話題が無いからである。
いや、私には話したいことが沢山あった。私自身のこと、メリー自身のこと。なんて事も無い、四方山話を。
けれど、なんだかそれも憚られ、私は口を噤み続けている。
何故なら、どうも最近、彼女との間がギクシャクしているように感じていたから。
とはいえ、活動の時は普通にあって話をするし、そうでは無いときのやりとりも、至極自然だ。けれど、そこには表面化していない、蟠りのような物があるような気がしてならなかった。それが気のせいなのか、本当のことなのかも分からず、それも話したいことであり、吐き出せないことの内の一つだった。
そのくせ、沈黙が煩わしくも感じていて。
結局、私達の足は帰路に向いていたし、何か予定があるわけでもないので、今日はこのまま解散しようか。そう言うために口を開きかけた直後。
「蓮子、あれ何かしら?」
メリーが指を指す。細い道の真ん中に、看板が立っていた。「じがぞう展」というタイトルと、すぐ側の雑居ビルを示す矢印、そして主催と思しき名前が書かれている。聞いたことも無い人物名だった。
「行ってみようか」
やることもないので、冷やかしのつもりで立ち寄ってみることにした。
外付けの階段を上り、錆び付いた扉を開ける。中は奥に細長い長方形のような形をしているようだが、天井から明るさを絞られた電球が数個、ぽつりと照らすばかりで、閑散とした道路以上に暗く、実際以上に広い印象を抱かせる工夫を感じた。
作品は部屋の壁に飾られていて、一番初めは、油彩で男性が描かれていた。
起床直後のようなボサボサした頭髪、睨んでいるのか眠たそうにしているのか判別が付かない目つき、手入れが行き届いて居なさそうな無精髭、斜めに傾いた丸渕眼鏡。
「かっこ悪いね」
「ええ」
メリーの言うとおり、お世辞にも容姿端麗とは言えないそれは、しかし彼の現実をまざまざと描き出すという点において、大いに自画像たり得ていた。
次もまた男性で、というか同一人物らしかった。画材は異なり、鉛筆だった。思わず苦笑を浮かべてしまう。
「よっぽど自分が好きなのかしら」
「或いは、周りに自信以外の被写体が居なかった可哀想な人とか」
実は主催者が部屋にいて、自分達の会話を聞いているかも知れない。なんて心配はしなかった。
三枚目も四枚目も、それ以降も、同一人物だった。十中八九、彼がこの展示の主催者なのだろう。なんとも奇妙なコンセプトの展示に来てしまったなと、口の中で零す。暇つぶしには丁度良かった。
前半は、画材や被写体の姿勢等が異なりつつも、自画像ではあったが、次第に写実的な様相から逸脱していき、聞き手とは反対の手で描かれていそうな不鮮明な物や、棒人間が描かれている物、他より巨大なキャンバスなのに隅の方に小さく描かれている物、ここで描いたのか、キャンバスから壁にはみ出してしまっている物など、平成モダンアートのような様相を呈してきた。
どんな意図があるのだろうかと首を傾げていると、メリーがぽつりと呟いた。
「きっと、自画像じゃなくて、自我像なのよ。セルフじゃ無くて、エゴの方」
「……ああ、なるほどね」
ぶれた像は、右往左往する自我を。
棒人間は、単純化された自我を。
小さな像は、矮小化した自我を。
はみ出した像は、肥大化した自我を。
それぞれ、そんな意味合いが込められているのだろう。
自らの外見では無く、内面を反映させた絵画。発想としては興味深い。思い返せば、タイトルからして、後半がメインだったのだろう。
そうして十数点の「じがぞう」を見終え、さあ帰ろうと扉に近づいたその時。
天井の電球が少し明るくなり、部屋の中央に備え付けられていた机と二脚の椅子が照らし出された。
メリーと顔を合わせてから机に近づいてみると、鏡と紙が挟まっている画板が二枚、鉛筆と消しゴムのセットが二つ置かれていた。これを見たお前達も描いてみろ、という事なのだろうか。
「面白そう。やってみる?」
この繁華街からならメリーも私も頑張れば徒歩で帰れる。独り暮らしだし、門限も無い。明日も講義があるが、ビルに立ち入る直前に視た星空を思い浮かべ、現在時刻を推測し、掛かる作業時間を加味しても、影響が出るほどでは無いだろうと結論を出した。それ故の提案だった。
彼女も乗り気だったようで、私の対面上に椅子を置き、座る。そして、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、
「折角だから、互いを描いてみない?」
そう誘ってきた。主催のコンセプトガン無視だった。けれど、それも楽しそうだったので、私は乗った。
向かい合い、彼女の顔を見ながら、鉛筆を握る。
幼少期にクレヨンで何かを描いたり、生物の授業で植物や魚のスケッチくらいはしたことがあるけれど、こと芸術というジャンルの絵に関しては、十数年ぶりだった。美術の成績は可も無く不可も無くだったが、正直私としては不可寄りの分野だった。
十数分経ったが、私に与えられたキャンバスは、幾何学な模様が煩雑にぶちまけられたような状態に陥っていた。
溜め息を吐き、消しゴムで消しながら、メリーに訊く。
「そっちはどんな感じ?」
「こんな具合」
画板をくるりと回し、私に見せる。そこには、何度も鉛筆を走らせ輪郭を浮かび上がらせている絵が見えた。少なくとも、私の描いていた物よりも人らしく見えるし、それは私のようであった。
「上手いね」
率直に、そう思った。けれどメリーは目を伏せかぶりを振りながら口を開く。
「ラフだもの」
「下書きって事でしょ? その時点で上手いなら、完成したら絶対に良い物になるわ」
返答に対して、メリーは面を上げた。曖昧な表情を浮かべながら。
「下書きなんて、所詮ぼやけた像。ピントの合っていない写真。それを通じて、完成形という幻を――理想を見ているに過ぎないのよ」
一息吐いて、彼女は言った。
「曖昧な物って良いわよね。そこに願望を投影できるから。でもそれは、果たして真実たり得るものなのかしら?」
「イデア論っぽいわね」
反射的に、茶化してしまった。すると彼女は、不意に画板をどかし、机に手を突き、身を乗り出し、私の顔を覗き込んできた。
彼女の顔が、輪郭が、視界が、ぼやける。不明瞭になってしまう。
――いや、それは違う。
思わず顔を背けようとするが、
「蓮子」
鈴を転がすような声で、名前を呼ばれてしまった。目を逸らすことは許さない、と言外に滲ませながら。
「貴方が私を通じて視ている私は、本当の私なのかしら?」
「…………」
焦点距離として調整出来る範囲よりも内側に来てしまえば、像を結ぶことは出来ない。ピントが合わせられなくなり、ぼやけてしまう。そして、お得意の想像力で、見えているはずの物をイメージし、理解しようとしてしまう。自分の姿や考えさえ、ろくに明瞭に出来ていないくせに。
要は、不用意に近づきすぎた。そういうことなのだろう。
ならば、解決策は、至極簡単なことで。
でも、でも。
私には、それを選ぶことは出来ない。いや、選びたくなかった。選ばなかった。
別の選択肢を、選んだから。
ふと、この展示の主催者の事が頭に過り、もっとも彼の内面に近しい物はどれなんだろう、と考えてしまった。きっと、彼自身もそれを知るために、悩み、のたうち回りながら、吐き出してきたのかも知れない。
小さく息を吐き、今し方の決意が怯えによるものではなく――今までの振る舞いがおびえによるものであったからなおのこと――、勇気によるそれだと証明するために、私は言った。
「……距離には、そこに至るまでの過程も含めて、意味があると思う。そして、時にはぼやけ、すれ違ってしまうことにも、意味があると思う」
だが、そこで諦めてしまえば、何も生まれない。何も起こらない。起こらなければ平和なままなのだろうが、それは停滞に他ならない。私とメリーとの間に、そんなものは要らないし、本当は望んでいなかった。
けれど、不用意に動いて、壊してしまいたくなかった。このままで居たかった。
だがそれこそ、自分の行動で相手が傷ついてしまうかも知れないと、自分の中で都合良く解釈した結果に過ぎない。
自分の中で向き合うばかりで、相手と向き合っていなかった。
そんな後ろ向きな選択をしてきた過去を振り返りながら、想いを吐露する。
自我さえ自らで把握しきれていない私が、
離れたくない、離したくない彼我を知るために。
「だから私は、この近さで居続けるために、この距離から、真実を確かめたいと思う。それを知る方法は、何も観測だけではないから」
ぼやけた視界で、凛とした瞳を見つめ返しながら、彼女に触れた。ひんやりと冷たく、それでいて柔らかい頬は、確かに私の傍に在るのだと、実感させてくれた。
「こんな緩んだ質感以外にも、色々あるかも知れないのに? 鋭い棘に覆われていたり、爛れるような熱さを秘めているかも知れないのよ?」
「それこそ、実際に確かめる為に、手を伸ばすしか無いわ。秘密を暴く者としてね。まあ、隣の相棒が、違った目線からアドバイスをくれると信じているから、怪我をするにしても、大事には至らないと思う」
「それこそ、勝手な幻想じゃ無いかしら?」
「違うわ。何もせずただ考えるだけじゃない。考えて、それを伝えるの。率直に。そして、返ってきた反応で、更に考え、言葉を返す。それを何度も繰り返す事で、正しい輪郭を掴みたいの」
そして、はっきりとした声で、私は言った。
「だから……いえ、結局、私の勝手ね。でも、聞いて欲しい。
どうか、私の近くに居て。私に想いを伝えて。色々な話をして。もっと、私に貴方を教えて。
私も、想いを言葉にするから。沢山の話をするから。今、この瞬間のように」
暫し、沈黙が部屋に満ちた。私は待った。彼女の反応を。
するとメリーは、もう堪えきれないと言わんばかりに、手で口元を押さえながら笑い始めた。
「ちょっと、メリー!」
「いやだって、ふふ、ごめんなさい。私が、気に障るようなことを言われたら、すぐ距離を置くような人に見えてたなんて、意外だと思って」
「それは……その、」
焦る私に対し、彼女は、静かに微笑みかけてくる。
「最近、どうも余所余所しい感じがして、気になっていたのだけれど、それが私のことを気に掛けてくれていた結果だったと分かって、安心したわ。
貴方はこうして想いを口に出来た。想いを伝える気があるのなら、私も返すことが出来る。だから、答えるわ。大丈夫。私も、これから想いを伝えていく。時には衝突することもあるかもしれない。でも、私達二人なら、乗り越えていける。だって、こんな距離まで近づくことが出来たのだから」
そして、お返しとばかりに、メリーは私の頬に触れた。
彼女の手は暖かく、柔らかく、確かにそこに居た。傍に、居てくれていた。
それがただ、無性に嬉しかった。
「これからも仲良くしましょう?」
「素晴らしい提案ね。もちろん賛成よ。……ありがとう、メリー」
「よし、もやもやも解消できたことだし、残った課題をクリアしちゃいましょうか」
「勿論。どちらが上手く描けるか、勝負よ」
それから十数分経ち、相手の肖像画は無事に完成した。どちらも、写実とカリカチュアと、本気と誤魔化しが綯い交ぜになっている酷い出来だったが、それで十分だった。
互いに涙が出るほど大笑いしてから、絵を交換し、部屋を後にする。
私達の間に沈黙は無かった。いや、静かに歩いている時間もあった。
けれど、互いの存在を感じ、そこに確かな幸せを感じていた。
そこに蟠りや煩わしさは無く、ただ心地よいしじまが、満ちていた。
私とメリーは、特に倶楽部活動をするでも無く、無言のまま、ただ道を歩いていた。話題が無いからである。
いや、私には話したいことが沢山あった。私自身のこと、メリー自身のこと。なんて事も無い、四方山話を。
けれど、なんだかそれも憚られ、私は口を噤み続けている。
何故なら、どうも最近、彼女との間がギクシャクしているように感じていたから。
とはいえ、活動の時は普通にあって話をするし、そうでは無いときのやりとりも、至極自然だ。けれど、そこには表面化していない、蟠りのような物があるような気がしてならなかった。それが気のせいなのか、本当のことなのかも分からず、それも話したいことであり、吐き出せないことの内の一つだった。
そのくせ、沈黙が煩わしくも感じていて。
結局、私達の足は帰路に向いていたし、何か予定があるわけでもないので、今日はこのまま解散しようか。そう言うために口を開きかけた直後。
「蓮子、あれ何かしら?」
メリーが指を指す。細い道の真ん中に、看板が立っていた。「じがぞう展」というタイトルと、すぐ側の雑居ビルを示す矢印、そして主催と思しき名前が書かれている。聞いたことも無い人物名だった。
「行ってみようか」
やることもないので、冷やかしのつもりで立ち寄ってみることにした。
外付けの階段を上り、錆び付いた扉を開ける。中は奥に細長い長方形のような形をしているようだが、天井から明るさを絞られた電球が数個、ぽつりと照らすばかりで、閑散とした道路以上に暗く、実際以上に広い印象を抱かせる工夫を感じた。
作品は部屋の壁に飾られていて、一番初めは、油彩で男性が描かれていた。
起床直後のようなボサボサした頭髪、睨んでいるのか眠たそうにしているのか判別が付かない目つき、手入れが行き届いて居なさそうな無精髭、斜めに傾いた丸渕眼鏡。
「かっこ悪いね」
「ええ」
メリーの言うとおり、お世辞にも容姿端麗とは言えないそれは、しかし彼の現実をまざまざと描き出すという点において、大いに自画像たり得ていた。
次もまた男性で、というか同一人物らしかった。画材は異なり、鉛筆だった。思わず苦笑を浮かべてしまう。
「よっぽど自分が好きなのかしら」
「或いは、周りに自信以外の被写体が居なかった可哀想な人とか」
実は主催者が部屋にいて、自分達の会話を聞いているかも知れない。なんて心配はしなかった。
三枚目も四枚目も、それ以降も、同一人物だった。十中八九、彼がこの展示の主催者なのだろう。なんとも奇妙なコンセプトの展示に来てしまったなと、口の中で零す。暇つぶしには丁度良かった。
前半は、画材や被写体の姿勢等が異なりつつも、自画像ではあったが、次第に写実的な様相から逸脱していき、聞き手とは反対の手で描かれていそうな不鮮明な物や、棒人間が描かれている物、他より巨大なキャンバスなのに隅の方に小さく描かれている物、ここで描いたのか、キャンバスから壁にはみ出してしまっている物など、平成モダンアートのような様相を呈してきた。
どんな意図があるのだろうかと首を傾げていると、メリーがぽつりと呟いた。
「きっと、自画像じゃなくて、自我像なのよ。セルフじゃ無くて、エゴの方」
「……ああ、なるほどね」
ぶれた像は、右往左往する自我を。
棒人間は、単純化された自我を。
小さな像は、矮小化した自我を。
はみ出した像は、肥大化した自我を。
それぞれ、そんな意味合いが込められているのだろう。
自らの外見では無く、内面を反映させた絵画。発想としては興味深い。思い返せば、タイトルからして、後半がメインだったのだろう。
そうして十数点の「じがぞう」を見終え、さあ帰ろうと扉に近づいたその時。
天井の電球が少し明るくなり、部屋の中央に備え付けられていた机と二脚の椅子が照らし出された。
メリーと顔を合わせてから机に近づいてみると、鏡と紙が挟まっている画板が二枚、鉛筆と消しゴムのセットが二つ置かれていた。これを見たお前達も描いてみろ、という事なのだろうか。
「面白そう。やってみる?」
この繁華街からならメリーも私も頑張れば徒歩で帰れる。独り暮らしだし、門限も無い。明日も講義があるが、ビルに立ち入る直前に視た星空を思い浮かべ、現在時刻を推測し、掛かる作業時間を加味しても、影響が出るほどでは無いだろうと結論を出した。それ故の提案だった。
彼女も乗り気だったようで、私の対面上に椅子を置き、座る。そして、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、
「折角だから、互いを描いてみない?」
そう誘ってきた。主催のコンセプトガン無視だった。けれど、それも楽しそうだったので、私は乗った。
向かい合い、彼女の顔を見ながら、鉛筆を握る。
幼少期にクレヨンで何かを描いたり、生物の授業で植物や魚のスケッチくらいはしたことがあるけれど、こと芸術というジャンルの絵に関しては、十数年ぶりだった。美術の成績は可も無く不可も無くだったが、正直私としては不可寄りの分野だった。
十数分経ったが、私に与えられたキャンバスは、幾何学な模様が煩雑にぶちまけられたような状態に陥っていた。
溜め息を吐き、消しゴムで消しながら、メリーに訊く。
「そっちはどんな感じ?」
「こんな具合」
画板をくるりと回し、私に見せる。そこには、何度も鉛筆を走らせ輪郭を浮かび上がらせている絵が見えた。少なくとも、私の描いていた物よりも人らしく見えるし、それは私のようであった。
「上手いね」
率直に、そう思った。けれどメリーは目を伏せかぶりを振りながら口を開く。
「ラフだもの」
「下書きって事でしょ? その時点で上手いなら、完成したら絶対に良い物になるわ」
返答に対して、メリーは面を上げた。曖昧な表情を浮かべながら。
「下書きなんて、所詮ぼやけた像。ピントの合っていない写真。それを通じて、完成形という幻を――理想を見ているに過ぎないのよ」
一息吐いて、彼女は言った。
「曖昧な物って良いわよね。そこに願望を投影できるから。でもそれは、果たして真実たり得るものなのかしら?」
「イデア論っぽいわね」
反射的に、茶化してしまった。すると彼女は、不意に画板をどかし、机に手を突き、身を乗り出し、私の顔を覗き込んできた。
彼女の顔が、輪郭が、視界が、ぼやける。不明瞭になってしまう。
――いや、それは違う。
思わず顔を背けようとするが、
「蓮子」
鈴を転がすような声で、名前を呼ばれてしまった。目を逸らすことは許さない、と言外に滲ませながら。
「貴方が私を通じて視ている私は、本当の私なのかしら?」
「…………」
焦点距離として調整出来る範囲よりも内側に来てしまえば、像を結ぶことは出来ない。ピントが合わせられなくなり、ぼやけてしまう。そして、お得意の想像力で、見えているはずの物をイメージし、理解しようとしてしまう。自分の姿や考えさえ、ろくに明瞭に出来ていないくせに。
要は、不用意に近づきすぎた。そういうことなのだろう。
ならば、解決策は、至極簡単なことで。
でも、でも。
私には、それを選ぶことは出来ない。いや、選びたくなかった。選ばなかった。
別の選択肢を、選んだから。
ふと、この展示の主催者の事が頭に過り、もっとも彼の内面に近しい物はどれなんだろう、と考えてしまった。きっと、彼自身もそれを知るために、悩み、のたうち回りながら、吐き出してきたのかも知れない。
小さく息を吐き、今し方の決意が怯えによるものではなく――今までの振る舞いがおびえによるものであったからなおのこと――、勇気によるそれだと証明するために、私は言った。
「……距離には、そこに至るまでの過程も含めて、意味があると思う。そして、時にはぼやけ、すれ違ってしまうことにも、意味があると思う」
だが、そこで諦めてしまえば、何も生まれない。何も起こらない。起こらなければ平和なままなのだろうが、それは停滞に他ならない。私とメリーとの間に、そんなものは要らないし、本当は望んでいなかった。
けれど、不用意に動いて、壊してしまいたくなかった。このままで居たかった。
だがそれこそ、自分の行動で相手が傷ついてしまうかも知れないと、自分の中で都合良く解釈した結果に過ぎない。
自分の中で向き合うばかりで、相手と向き合っていなかった。
そんな後ろ向きな選択をしてきた過去を振り返りながら、想いを吐露する。
自我さえ自らで把握しきれていない私が、
離れたくない、離したくない彼我を知るために。
「だから私は、この近さで居続けるために、この距離から、真実を確かめたいと思う。それを知る方法は、何も観測だけではないから」
ぼやけた視界で、凛とした瞳を見つめ返しながら、彼女に触れた。ひんやりと冷たく、それでいて柔らかい頬は、確かに私の傍に在るのだと、実感させてくれた。
「こんな緩んだ質感以外にも、色々あるかも知れないのに? 鋭い棘に覆われていたり、爛れるような熱さを秘めているかも知れないのよ?」
「それこそ、実際に確かめる為に、手を伸ばすしか無いわ。秘密を暴く者としてね。まあ、隣の相棒が、違った目線からアドバイスをくれると信じているから、怪我をするにしても、大事には至らないと思う」
「それこそ、勝手な幻想じゃ無いかしら?」
「違うわ。何もせずただ考えるだけじゃない。考えて、それを伝えるの。率直に。そして、返ってきた反応で、更に考え、言葉を返す。それを何度も繰り返す事で、正しい輪郭を掴みたいの」
そして、はっきりとした声で、私は言った。
「だから……いえ、結局、私の勝手ね。でも、聞いて欲しい。
どうか、私の近くに居て。私に想いを伝えて。色々な話をして。もっと、私に貴方を教えて。
私も、想いを言葉にするから。沢山の話をするから。今、この瞬間のように」
暫し、沈黙が部屋に満ちた。私は待った。彼女の反応を。
するとメリーは、もう堪えきれないと言わんばかりに、手で口元を押さえながら笑い始めた。
「ちょっと、メリー!」
「いやだって、ふふ、ごめんなさい。私が、気に障るようなことを言われたら、すぐ距離を置くような人に見えてたなんて、意外だと思って」
「それは……その、」
焦る私に対し、彼女は、静かに微笑みかけてくる。
「最近、どうも余所余所しい感じがして、気になっていたのだけれど、それが私のことを気に掛けてくれていた結果だったと分かって、安心したわ。
貴方はこうして想いを口に出来た。想いを伝える気があるのなら、私も返すことが出来る。だから、答えるわ。大丈夫。私も、これから想いを伝えていく。時には衝突することもあるかもしれない。でも、私達二人なら、乗り越えていける。だって、こんな距離まで近づくことが出来たのだから」
そして、お返しとばかりに、メリーは私の頬に触れた。
彼女の手は暖かく、柔らかく、確かにそこに居た。傍に、居てくれていた。
それがただ、無性に嬉しかった。
「これからも仲良くしましょう?」
「素晴らしい提案ね。もちろん賛成よ。……ありがとう、メリー」
「よし、もやもやも解消できたことだし、残った課題をクリアしちゃいましょうか」
「勿論。どちらが上手く描けるか、勝負よ」
それから十数分経ち、相手の肖像画は無事に完成した。どちらも、写実とカリカチュアと、本気と誤魔化しが綯い交ぜになっている酷い出来だったが、それで十分だった。
互いに涙が出るほど大笑いしてから、絵を交換し、部屋を後にする。
私達の間に沈黙は無かった。いや、静かに歩いている時間もあった。
けれど、互いの存在を感じ、そこに確かな幸せを感じていた。
そこに蟠りや煩わしさは無く、ただ心地よいしじまが、満ちていた。