仕事をハネると、行きつけの居酒屋へ向かった。鈴瑚はいない。団子の食い過ぎで体調を崩してから、しばらく仕事にも出ていない。
雲一つなく、鳥も飛んでいない完璧な空の下、夜の人里を歩いていると、地面に茣蓙を引いて、その上に座り込んでいる占い師風の爺さんに話しかけられた。
「これ、そこの兎」
頭に付いてるウサ耳はこういうときに便利だ。頭に兎の耳が生えてるやつは他に滅多にいないから、誰かに「兎」と呼ばれたときにすぐに自分のことだと理解できる。逆に不便だと思うのが、怪しいやつに話しかけられたときに誤魔化せないとき。
「ほれ、そこの兎じゃよ」
わたしは観念して、財布から小銭を何枚か抜く。
「金が目的じゃないわい。ただ、お主、なにかを悩んでいるじゃろう」
「別に」
「当ててやろうか。お主は今、孤独に苛まれているのじゃ」
たしかに、今は隣に鈴瑚がいない。だからと言って、別段寂しいわけでもない。
「孤独を誤魔化そうとするなよ、兎っ子」爺さんは得意げに笑った。「孤独を紛らわしたり誤魔化したりするのはいかん、孤独を受け入れるのじゃ」
カカカと乾いた声で笑う爺さんは、そのままの勢いで地面に痰を吐き捨てた。
わたしは小銭を地面に投げ捨てた。爺さんは拾う素振りも見せずに、飄々と笑うだけ。奇妙な敗北感に包まれながら、わたしは居酒屋へと向かった。
そのときだった。後ろからドサッとなにかが倒れる音がした。
振り返ると、見るからにフーテンと言った感じの男が、さっきの爺さんの上に乗っかっていた。男が拳を振り上げるたび、爺さんか
ら血が線を描くように溢れる。よく目を凝らすと、男は刃物を握り締めていた。
こういうシチュエーションなら、普通はもっと騒がしくなると思うのだが、爺さんはなにも言わないまま命を抜かれ、男は無言のまま爺さんを滅多刺しにし、わたしは悲鳴も上げずに全てが終わるのを見届けていた。
孤独を誤魔化そうとするなよ、兎っ子
爺さんの言葉が頭の中に蘇った。たった数分前の出来事なのに、遥か昔の出来事のように思えた。
爺さんがぴくりとも動かなくなると、男はさっきわたしが投げ捨てた小銭を拾った。一瞬、わたしと目が合った。男はなにも言わず、小銭を懐にしまい、わたしが来た方向と逆の方へと走り、やがて夜と同化してしまった。
爺さんの死体を眺めた。爺さんは既に事切れていたが、その顔には後悔も怨嗟も喜びもなく、ただただ全てを受け入れているだ
けのように見えた。
つまり、そういうことなのかい?永遠の眠りについた爺さんに声をかける。受け入れるってのは、孤独だけじゃなくて、自分を取り巻く全てのことに対して言っているのかい?
やがて人が大勢来て、わたしは取り囲まれた。わたしは一切の言い訳をせず、宇宙人みたいに抱き抱えられ、物々しい建物の中へ連れ込まれ、そのまま牢屋の中にぶち込まれた。
あの爺さんには見えていたのかもしれない。自分がこれから死ぬということが。だから、死んだ後の閻魔さまの心象をよくしようと、わたしにあんなことを言ったのかもしれない。
そんなことを取り止めもなく考えながら、発狂しそうなほど暗くて狭い牢屋で一夜を明かした。
看守の声に呼ばれて格子の方を見ると、呆れた様子の鈴瑚が囚われのわたしを覗き込んでいた。
「なにやってんの?」怒りとも呆れとも取れる声。「あんた、人間を殺したって……マジですか?」
「マジなわけあるか!」格子をガンガン蹴っ飛ばす。「はやくここから出して、出してよ、鈴瑚!」
こんな狭い場所に閉じ込められたら、兎じゃなくたって寂しさとか閉塞感で死にたくなるに違いない。わたしは声を張り上げ、身の潔白を叫んだ。
「なんで昨日のうちにそう言わなかったんだよ」
犯罪者を見るような鈴瑚の目。そう感じたのはわたしの錯覚かもしれないけど、牢屋の中に一晩閉じ込められたら、誰だって自分のことを犯罪者だって錯覚しちまう。
「もう我慢の限界なんだよ!ここには便所もなくて……くそっ!」
「心配しなくても、もう出してくれるってさ」
「え?」
「心配せんでも、うちらは初めからあんたみたいな女の子が人間を殺したなんて思っとらん」看守が言った。「だけど、お前さん、だいぶ酔っ払ってたからな。ここはトラ箱よ」
「酔っ払ってた?わたしが?酒を飲む前だったんだけど……」
「あんな凄惨な死体を前にしたら、普通は平静じゃいられんよ」
鈴瑚が頷く。
「それに、その面妖な被り物」看守がわたしのウサ耳を指差す。「まともな神経してたら、そんなもん被って外なんか出歩かんよ」
「……」
「あんたも昼間っから酒なんか飲むもんじゃないよ。そんな被りもんしてたら、変なやつだと思われるよ」
言われて、鈴瑚がしゅんとする。
「偉い人ば呼んでくるから大人しくしとけよ」
看守が牢屋のある部屋を出て行く。二人して酒狂いの頭のおかしいやつだと思われてしまった。
鈴瑚が格子を憎々しく睨み付けた。なるほど、牢屋に閉じ込めるってのは、犯罪者を閉じ込めておくだけじゃなくて、外敵から犯罪者を守るためでもあるのか。
いつの間にか腹の痛みも消えていた。
「お前のせいだぞ」鈴瑚の怒りは、この邪魔な格子さえ無ければ今すぐにでもぶん殴りたい、と言わんばかりに募っている。「団子屋の売り上げにも支障が出るぞ、どうしてくれるんだ!」
「しょうがない」薄汚いネズミが足下を駆け回った。「しょうがないんだ」
「なにがしょうがないんだ、このボケ」
「受け入れるしかないんだ、鈴瑚。幻想郷は楽園じゃなかったってことさ。そのことを、わたし達は受け入れる必要がある」
「死ね」
「鈴瑚……」
「話しかけんな」鈴瑚は未来に絶望し、過去の失敗に逃げ込んだ。「くそ、こんなことなら、お前なんか連れて来なければ良かったよ」
鈴瑚が言ってるのは、地上で暮らそうと決めたときのことだ。退屈で窮屈で飯のまずい月のことなんか忘れて、地上で暮らすと決めたときのこと。わたしは鈴瑚について行きたがった。なんでかは、わからない。鈴瑚の団子が他の誰よりも美味かったからかもしれない。鈴瑚はわたしがついて行くことを一切拒まなかった。
爺さん、とわたしは思った。孤独を受け入れた先にあるのは、受け入れ難い孤独だけだよ。そのことを、あんたは知らなかったんだ。だから、死ぬことをすんなり受け入れることができたんだよ。
やがて看守の言うところの「偉い人」が来て、爺さんを殺した犯人についてちょこちょこ聞かれた後、わたしは釈放された。
鈴瑚と一緒に建物を出た。鈴瑚はわたしより早く歩いた。わたしが鈴瑚のスピードに追い付こうとすると、鈴瑚は追い付かれまいとさらに歩く速度を上げた。
「鈴瑚」
前を歩く鈴瑚の背中に呼びかける。
「なに」
振り返らずに鈴瑚は立ち止まった。
「ごめん」
振り返った鈴瑚が、火の付くような舌打ちを鳴らした。
「それでいいんだよ」ため息まじりに言われた。「なにが『しょうがない』だ。なにが『受け入れるしかない』だよ。最初から素直に謝ればよかったんだよ」
「うん。ごめんね」
「こっちも言い過ぎた、悪かったよ。でも、心配したんだぞ」
「ごめん」
わたし達は並んで人里を練り歩いた。往来を行く人々からは、特別な視線を感じたりしなかった。つまり、人殺しを見るような目では見られなかった。幻想郷はみんなが思ってるほど優しい世界じゃないけど、とびきり厳しい世界でもないということだ。
だけど、それはあくまで周りがそう感じていないという話で、人混みの中にいながら、わたしは自分がとんでもない孤独なやつに思えて仕方がなかった。
「ねえ、鈴瑚?」
「ん?」
「もしも本当にさ、わたしが人間を殺してたら、鈴瑚はどうしてた?」
鈴瑚はなにも言わず、顔だけをこちらに向けた。立ち止まったりしなかったけど、置いてかれるような錯覚に陥った。
「教えてよ。鈴瑚は受け入れられた?」
「マジで酔っ払ってんのか、お前」
「ねえ……」
「お前が仮に誰かを殺してたとしてもな、わたしはお前なんかに人の命を奪えるはずがないって言いふらすよ。臆病者でおっちょこちょいなお前なんかに、そんな大それたことができるはずがないって」鈴瑚は得意げにはにかんだ。「どう、安心した?」
「鈴瑚」
「なに?」
「ウンコしたい」
「……」
鈴瑚の背中に乗っかると、イーグルラヴィの俊足とは大したもので、一瞬にして懐かしき我が家へと辿り着いてしまった。鈴瑚の背中から降りると、わたしも負けじとイーグルラヴィの俊足を発揮した。玄関の戸を開け、畳の上を駆け、便所に直行する。物凄い勢いで溜まっていたもんを出し切ると、不安とか後悔とかも一気に流れ出て行ったような、清々しい気持ちになった。
便所を出ると、鈴瑚が万年床の上に座っていた。いつにない厳かな雰囲気に、また便意を催しそうになる。
「清蘭さあ、マジでどうしちゃったの」
ウンコのために鈴瑚をタクシー代わりにしたことをキレられるのかと思っていたわたしは、半ば拍子抜けする。
「別に、なんでもないよ」
「なんでもないことないじゃん。清蘭さ、わたしがおぶってるとき、泣いてなかった?なんか服が湿ってるんだよね」
「ウンコじゃないの」
「殺すぞ!……ほんとにさ、なんかあったんなら教えてよ。地上には他に鈴仙くらいしか仲間がいないんだから」
とは言われたものの、本当になにもない。体の中に蟠っていた不安や後悔なんかは便所に流して来たし、泣いてたんじゃないかと言われても心当たりがない。
ちょっと気持ちの整理でもしてみようかなと考え込むフリをしていたら、鈴瑚が不安そうにわたしを見つめて来た。さっきまで毅然としていたのに、まるで病室の外で子供が産まれるのを今か今かと待ちわびる父親のような表情だった。
「清蘭?」表情と声音がリンクしている。
「いや、その……」
言葉に詰まってしまう。本当になにも抱え込んでないにしろ、なにかでっち上げた方がいいかもしれない。
「なんでもないよ」
なにも言えなかった。
「……ならいいんだけど」
そう言うと、鈴瑚は布団の上に寝っ転がって、天井にあるシミでも眺めた。
微妙な空気。風船を爪楊枝で突いてるような緊張感。まるで二人の間に死体でもあるみたいに、わたし達は距離をあけた。言葉が喉につっかえる。鈴瑚といるのに、鈴瑚といないみたいだ。
孤独を受け入れた先にある、受け入れ難い孤独。それとも、わたしはまだ受け入れられていないのだろうか?これより酷いものが、この先に待ち受けているのか?爺さんを殺したあの男も、こういう経験を経てあんな凶行に走ったのかもしれない。
「『打って変わって』を使って短文を作りなさい」場を和ませるために、わたしは喋った。「彼は麻薬を打って変わってしまった」
「……」
「『どんより』を使って短文を作りなさい」
「清蘭」
「彼はうどんより蕎麦がすき」
「清蘭、うるさい」
「……」
もう手の打ちようがない。鈴瑚がうるさいと言うのだから、わたしはなにも言わずに家を出て行った。運が良ければ、またあの爺さんみたいなインチキ野郎に出会えて、将来のことを占って貰えるかもしれない。
道を歩けど、そんな奴はどこにもいなかった。みんな孤独を受け入れられてるということなのか?刃物で人を傷付けることの意味を、みんな知っていると言うのか?
人の多い道をトボトボ歩いてると、いつの間にか爺さんが殺された場所に来ていた。ちょっとした人だかりができていて、爺さんの血痕を珍獣かなんかを見るみたいに珍しがっていた。
この場所にはもうなにもない。だけど、なにかがあるんじゃないかと言う期待に縋ってしまう。人を掻き分け、血痕の前に跪く。人間達が「また頭のおかしい奴が来たぞ」みたいな反応を示す。
なにもない。
わたしは立ち上がり、今度は人混みに体を捻じ込む必要はなかった。わたしが通ろうとしたところにいた人達が勝手に避けて、道を作ってくれた。
居酒屋に行ってパーッと散財でもすれば気分も晴れるだろうと思ったのに、全然そんなことはなかった。酒を飲んでると、今まで鳴りを潜めていたものまで顔を見せるようになった。具体的にそれがなんなのかはわからない。くそ、幻想郷には既にたくさんの謎があるって言うのに、まだ足りないって言うのか?
したたかに酔っ払い、転び転びしながら家に帰ろうとした。あながち無駄な試みとも言えない。例えどれだけ酔っていたとしても、絶対に家までの道のりを忘れない自信がある。
それに、鈴瑚だってもう気分が変わっているかもしれない。今頃、さっきのジョークが効いてきて、一人で大笑いしているかもしれない。だとしたら、わたしは居酒屋で無駄に金を使ったことも、鈴瑚から「うるさい」と突っぱねられたことも、全部許せるような気がした。
暗くて深い洞窟に挑むような気持ちで、玄関の戸を開けると、草鞋が置いてあった。わたし達は年がら年中、裸足で過ごしているので、草鞋なんかがあるのはおかしい。誰か来ていると言うことだ。
「ただいま」部屋の方に呼びかけてみる。「鈴瑚、誰か来てるの?」
部屋に上がると、やはり客がいた。
「おかえり」鈴瑚じゃないやつが出迎えてくれる。「たまたま近くを通りかかってね」
「鈴瑚は?」部屋の中を見通す。「鈴瑚はどこに行ったの、鈴仙?」
鈴仙・優曇華院・イナバが便所の方を指差した。なんだ便所かと安心したのも束の間、鈴仙に向き直る。
「なにがたまたま通りかかっただよ。たまたま通りかかるようなところに、わたし達の家はないぞ」
「別にいいじゃん」鈴仙は心の底から楽しそうに笑った。「地上には玉兎なんてわたし達くらいしかいないんだから」
「……」
いったい、なにが始まろうとしているんだろう。月を抜け出した兎が一箇所に集まってやれることと言ったら、どんなに想像力を振り絞っても集団自殺以外に思いつかない。
鈴瑚が便所から出てきて、一瞬、わたしに視線を向けてから、鈴仙の方に逸らした。
「お、おかえり」
「なんで鈴仙の方を見ながら言うんだ」
鈴仙はニコニコしている。無性にぶん殴りたい。
「たまたま鈴仙が来てさ、まあ、なんというかな、酒でも酌み交わそうやってことで」
「なんかぎこちなくない?」
鈴瑚が「ハハッ」と慎み深く笑うのに対し、鈴仙は表情筋が固まったように頑なに笑顔を解かない。
「ささ、まあ座りなよ!」
促されると、わたしと鈴仙は拳二つ分くらいの距離をあけて座る。わたしと鈴仙の前に酒の注がれたコップを置くと、鈴瑚も座ってコップを掲げた。
「それじゃ、かんぱーい!」
鈴瑚と鈴仙の声が重なった。
「なににだよ」わたしはコップも持たずに言った。「お前ら、どうかしちゃったんじゃないの。なんか変だよ、テンションって言うか……」
「清蘭!」
といきなり隣から怒鳴られて死ぬほどびっくりする。水を差しまくってたのは自覚してるけど、いきなり声を荒げられるとは思ってもいなかった。
見やると、鈴仙はやっぱりニコニコしていた。鈴瑚の方は、やけに怯えた目つきをしていた。みんな残酷な運命に耐えてるような様子だった。
有無を言わさない雰囲気だったので、わたしもコップを掲げた。
「か、かんぱい」
「「イェーイ!」」
堰を切ったように二人が騒ぐ。もしかしたら、今日は鈴瑚か鈴仙の誕生日だったのかもしれない。
散々飲んできたから、わたしはあまり飲まなかったけど、二人は水みたいにガブガブ飲んだ。死にたいみたいだった。そうでなくても、確実に破滅へと向かっている。
世界が狂っていく。わたしにもできることがあるとすれば、もう狂ってしまうことを受け入れることだけだ。
わたし達はどこへ向かおうとしているんだ?
いったい、なにを間違えてしまったと言うんだろう?
「なあ、清蘭はどう思う?」
畳の繊維を指でなぞるのに集中していたので、なんにも聞いちゃいなかった。
「わたしもそう思うよ!」
とびきりの笑顔でもって答えてやったと言うのに、時間が静止したように空気が凍り付く。サグメさまのパンツの色の話でもしてたのか?
ちくしょう、風呂でこいた屁にでもなったような気分だ。
誰も口を開かなくなった。示し合わせたように、わたし達は畳を指でなぞった。そこにこのいたたまれない空気をぶち壊す爆弾でもあるみたいに。
「『まさか×××だろう』を使って短文を作りなさい」
責任の一端を感じたので、喋ってみる。
「清蘭」と、鈴仙。
「まさかりかついだ金太郎」
「清蘭」
「なんなんだ、お前ら⁉︎」畳をぶん殴って立ち上がる。「わたしの能力を忘れたわけじゃないだろ、こっちはいつだってお前らの脳味噌をぶち撒けられるんだぞ!」
鈴仙が泣きながら逃げ惑い、玄関の戸にしこたま頭をぶつけて気絶した。
「なにしに来たんだ、あいつ!」
生き残りをかけたデスゲームにでも参加しているような気分だ。鈴仙が死に、膠着状態に陥ってしまった。だけど、このゲームの場合は、生き残ってしまう方が最悪かもしれない。わたしも早く死にたかった。というか、この息苦しい空間から解放されたかった。
「清蘭」
深呼吸をするみたいに重々しく鈴瑚が呟いた。
「なによ」
「その……」
わたしは辛抱強く鈴瑚の言葉を待った。鈴瑚は視線をあっちにこっちに向け、言葉を探しているみたいだった。言葉は自分の中にしか落ちてないと言うのに。
「昨日さ!」努めて明るく鈴瑚は言った。「清蘭がさ、ほら、牢屋にぶち込まれただろ?」
「それに関しちゃ悪いと思ってるよ」
「そうじゃないんだ」
玄関の方から「ブッ」と聞こえてくる。重苦しい空気の中に、さらに不純物が混じる。
「清蘭が夜通し帰って来なくて、わたしさ、すごく不安になっちゃったんだよね」
黙って話を聞きながら、窓を開ける。
「でね、それでさ……もう帰って来ないんじゃないかって思って」
一歩一歩、地雷原を歩くような慎重さで言葉を選ぶ。
「清蘭さあ……地上で暮らすのが嫌になったんじゃないかって思ったんだ……」
鈴瑚の言葉は風に乗って、どこか遠くまで行ってしまった。重苦しい空気とともに。鈴仙の屁と一緒に。
なにも言うべきことがない。いや、なにかしらあるはずなのに、なにも出てこない。
沈黙が重くのしかかる。今こそ屁をこけよと鈴仙にテレパシーを送ってみる。なにも帰って来ない。
ただ、夜が明けるまでこうしていても良い。わたしの気分としては、そんな感じでもあった。だけど、それじゃああまりにも味気ない。わたしにできることと言えば、冷たい相棒を演じてみることだけだった。
だから、演じてみた。
「お前、わたしのことを地上に連れて来なければよかった、とか言ってたじゃん」
「あんなの言葉のあやだろ!」
「そうなの?」
「地上はすごく魅力的で、でもね、一人で暮らすのはそれなりに怖くて、清蘭が一緒に行きたいって言ってくれた時、結構嬉しかったんだぞ。お前を連れて来なければよかっただなんて、言葉のあやでもなければ言わないよ」
「結構、とか、それなり、とか……」
「でもさ、やっぱり故郷の方が大事じゃん。他のやつらは作戦が終わったら月に帰っちゃったしさ……」
「冷たいよねー」
「どうかなぁ、故郷を捨てる方が冷たいんじゃないかなぁ。友達もたくさんいたのに」
「そこに故郷を捨てて地上に来た兎一号が寝てるぞ」
「あいつは仕方ないよ、誰だって戦争は怖いし。わたし達はただ自分が楽しく暮らしたいからってだけで……」
「なに、そんなことで悩んでたの?」
「……」
「ごめん、鈴瑚にとってはそんなことじゃないよね、悪かった」
風が強くなってきたので窓を閉める。空気の入れ替えは、もう必要ないみたいだ。
「で、わたしがホームシックを患ったと思って、鈴仙と一緒に引き止めるつもりだったの?」
鈴瑚が項垂れる。肯定してるのか否定してるのかは曖昧だった。
「考えてみなよ、今更故郷なんかに居場所ないよ。勝手に抜け出して来たんだし、帰れるはずないじゃん」
「そういう問題じゃないんだ」鈴瑚は決然と言い放った。「自分の生まれ育った場所には、いつか絶対に帰りたくなるときが来る。わたしにもたま〜にそういうことがある」
「鈴瑚も?」
頷く。
「でも、清蘭がいるからと思ってさ」
「鈴瑚は帰りたくなったら、わたしのことは見捨ててもいーよ」
「いいわけないだろ!」物凄い剣幕で怒鳴られる。「やめろ、そういうこと言うの!」
「わたし達はさ、二人で暮らしてるって言っても、結局はただの友達じゃん。友達なら、友達のやりたいようにやってもらうのが一番じゃん。じゃん?」
鈴瑚に肩を掴まれる。腕が引きちぎれんばかりに力が込められて、思わず顔をしかめる。
「マジで言ってるの?」
「いだだだだ!」
「お前が言ってた『受け入れるしかない』みたいな戯言は、つまりそういうことなの?」
「マジで痛い!」
「答えろよ!」
「じゃあ、離せ!」
鈴瑚の腕を振り払い、その勢いで壁まですっ転んで頭をしこたまぶつける。ヒビが入ったのは壁の方だった。
「ぶっちゃけ、わかんないよ」後頭部にたんこぶができてないか確かめる。「わたし達ってさ、月にいたときからやってきたことと言えば餅を搗くことくらいで、あのとき、いきなりイーグルラヴィなんて言う調査部隊に配属されたけど、そのときだってなんにも考えてなかったし」
「じゃあ、受け入れるとかなんとか言ってたのは、なんだったのよ?」
頭の中に死んだ爺さんを思い浮かべる。もう顔も思い出せなかった。
「なんて言うかさ、別れ際の言葉って妙に心に響くって言うかさ、記憶に残るじゃん。さっきお前に『うるさい』って言われたときも、かなり根に持ってたんだからな」
鈴瑚が申し訳なさそうに俯く。かと思いきや、ハッとして顔を上げる。
「じゃあ、なに。お前は別れ際の、その爺さんの言葉に引っ張られてたってだけなのかい」
「別れ際と言うか、死に際と言うか。孤独を受け入れろって言われたんだよ」
「どこの馬の骨かもわからないジジイの言葉を真に受けたのかよ?」
「自分が玉兎だってことを忘れてないか?みんながお前みたいに賢い兎なわけじゃないんだぞ」キッパリと言ってやる。「わたし達は命令されたら逆らえない、玉兎なんだぞ。今は地上で暮らしてるけど、それは揺るぎないんだ」
「なんで胸張ってるんだ、こいつ……」
「まあでも、さっきはお前の好きにやれ、みたいに言ったけどさ、鈴瑚と一緒にいて楽しいのは本当だし、いなくなったら寂しいのもほんとだよ」
「……」
「わたしがいなくても、鈴瑚は大丈夫かなーって心配してたんだわ」
「殺された爺さんの言うところの、受け入れられるかどうかってこと?」
頷く。
「いいか、孤独を誤魔化したりするなよ」爺さんの声真似をしてみる。「孤独を紛らわしたら、誤魔化したりするのはいかん。受け入れるのじゃ」
「とんでもない耄碌だな」
一蹴されてしまう。爺さんも草葉の陰で泣いているに違いない。
「誰かと一緒にいたいって気持ちを持たないやつなんか、いないだろ」
鈴瑚が恥ずかしいことを言うたびに、体のあちこちが痒くなってくる。ストレスを感じてる証拠だ。
「たぶんさ、月に帰りたくなっても、一人じゃあ帰らないと思うよ」
「もう、いいよ」
「なんだよ、急に」
鈴瑚はそっぽを向き、玄関の方へ頼りない足取りで歩いた。それで、床の上にぶっ倒れてる鈴仙を蹴っ飛ばす。
「起きろ、鈴仙。家に帰ってから寝ろ」
鈴仙は大きな伸びをし、ついでに大きなあくびもし、体中をバキバキ言わせながら上体を起こした。
「ありがとな、鈴仙」寝ぼけ眼の鈴仙の肩を抱く。「清蘭、別にホームシックでもなんでもなかったよ」
「ふぅん……」わたしのことより自分の夏休みの方に関心を持ってそうな鈴仙。「わたし、寝てたの?」
鈴瑚が振り返って、ニヤリと笑う。わたしは知らぬ存ぜぬの態度を貫く。
「って、あーっ!」藪から棒に大声を出され、耳の奥がキンキン言う。「いま、何時よ⁉︎」
大慌ての鈴仙に時間を教えてやると、絶望の化身みたいに表情が暗くなって、抱きしめてやりたくなるほど目に涙を浮かべた。
「や、ヤバい……こんな時間になるまで外出してるなんて、し、師匠に殺されるー!」
言うが早いが、鈴仙は草鞋も履かずにイーグルラヴィも舌を巻く速度で走り去った。
わたしと鈴瑚は顔を見合わせ、しきりに笑った。
鈴仙もまた、揺るぎない兎の一人だ。
雲一つなく、鳥も飛んでいない完璧な空の下、夜の人里を歩いていると、地面に茣蓙を引いて、その上に座り込んでいる占い師風の爺さんに話しかけられた。
「これ、そこの兎」
頭に付いてるウサ耳はこういうときに便利だ。頭に兎の耳が生えてるやつは他に滅多にいないから、誰かに「兎」と呼ばれたときにすぐに自分のことだと理解できる。逆に不便だと思うのが、怪しいやつに話しかけられたときに誤魔化せないとき。
「ほれ、そこの兎じゃよ」
わたしは観念して、財布から小銭を何枚か抜く。
「金が目的じゃないわい。ただ、お主、なにかを悩んでいるじゃろう」
「別に」
「当ててやろうか。お主は今、孤独に苛まれているのじゃ」
たしかに、今は隣に鈴瑚がいない。だからと言って、別段寂しいわけでもない。
「孤独を誤魔化そうとするなよ、兎っ子」爺さんは得意げに笑った。「孤独を紛らわしたり誤魔化したりするのはいかん、孤独を受け入れるのじゃ」
カカカと乾いた声で笑う爺さんは、そのままの勢いで地面に痰を吐き捨てた。
わたしは小銭を地面に投げ捨てた。爺さんは拾う素振りも見せずに、飄々と笑うだけ。奇妙な敗北感に包まれながら、わたしは居酒屋へと向かった。
そのときだった。後ろからドサッとなにかが倒れる音がした。
振り返ると、見るからにフーテンと言った感じの男が、さっきの爺さんの上に乗っかっていた。男が拳を振り上げるたび、爺さんか
ら血が線を描くように溢れる。よく目を凝らすと、男は刃物を握り締めていた。
こういうシチュエーションなら、普通はもっと騒がしくなると思うのだが、爺さんはなにも言わないまま命を抜かれ、男は無言のまま爺さんを滅多刺しにし、わたしは悲鳴も上げずに全てが終わるのを見届けていた。
孤独を誤魔化そうとするなよ、兎っ子
爺さんの言葉が頭の中に蘇った。たった数分前の出来事なのに、遥か昔の出来事のように思えた。
爺さんがぴくりとも動かなくなると、男はさっきわたしが投げ捨てた小銭を拾った。一瞬、わたしと目が合った。男はなにも言わず、小銭を懐にしまい、わたしが来た方向と逆の方へと走り、やがて夜と同化してしまった。
爺さんの死体を眺めた。爺さんは既に事切れていたが、その顔には後悔も怨嗟も喜びもなく、ただただ全てを受け入れているだ
けのように見えた。
つまり、そういうことなのかい?永遠の眠りについた爺さんに声をかける。受け入れるってのは、孤独だけじゃなくて、自分を取り巻く全てのことに対して言っているのかい?
やがて人が大勢来て、わたしは取り囲まれた。わたしは一切の言い訳をせず、宇宙人みたいに抱き抱えられ、物々しい建物の中へ連れ込まれ、そのまま牢屋の中にぶち込まれた。
あの爺さんには見えていたのかもしれない。自分がこれから死ぬということが。だから、死んだ後の閻魔さまの心象をよくしようと、わたしにあんなことを言ったのかもしれない。
そんなことを取り止めもなく考えながら、発狂しそうなほど暗くて狭い牢屋で一夜を明かした。
看守の声に呼ばれて格子の方を見ると、呆れた様子の鈴瑚が囚われのわたしを覗き込んでいた。
「なにやってんの?」怒りとも呆れとも取れる声。「あんた、人間を殺したって……マジですか?」
「マジなわけあるか!」格子をガンガン蹴っ飛ばす。「はやくここから出して、出してよ、鈴瑚!」
こんな狭い場所に閉じ込められたら、兎じゃなくたって寂しさとか閉塞感で死にたくなるに違いない。わたしは声を張り上げ、身の潔白を叫んだ。
「なんで昨日のうちにそう言わなかったんだよ」
犯罪者を見るような鈴瑚の目。そう感じたのはわたしの錯覚かもしれないけど、牢屋の中に一晩閉じ込められたら、誰だって自分のことを犯罪者だって錯覚しちまう。
「もう我慢の限界なんだよ!ここには便所もなくて……くそっ!」
「心配しなくても、もう出してくれるってさ」
「え?」
「心配せんでも、うちらは初めからあんたみたいな女の子が人間を殺したなんて思っとらん」看守が言った。「だけど、お前さん、だいぶ酔っ払ってたからな。ここはトラ箱よ」
「酔っ払ってた?わたしが?酒を飲む前だったんだけど……」
「あんな凄惨な死体を前にしたら、普通は平静じゃいられんよ」
鈴瑚が頷く。
「それに、その面妖な被り物」看守がわたしのウサ耳を指差す。「まともな神経してたら、そんなもん被って外なんか出歩かんよ」
「……」
「あんたも昼間っから酒なんか飲むもんじゃないよ。そんな被りもんしてたら、変なやつだと思われるよ」
言われて、鈴瑚がしゅんとする。
「偉い人ば呼んでくるから大人しくしとけよ」
看守が牢屋のある部屋を出て行く。二人して酒狂いの頭のおかしいやつだと思われてしまった。
鈴瑚が格子を憎々しく睨み付けた。なるほど、牢屋に閉じ込めるってのは、犯罪者を閉じ込めておくだけじゃなくて、外敵から犯罪者を守るためでもあるのか。
いつの間にか腹の痛みも消えていた。
「お前のせいだぞ」鈴瑚の怒りは、この邪魔な格子さえ無ければ今すぐにでもぶん殴りたい、と言わんばかりに募っている。「団子屋の売り上げにも支障が出るぞ、どうしてくれるんだ!」
「しょうがない」薄汚いネズミが足下を駆け回った。「しょうがないんだ」
「なにがしょうがないんだ、このボケ」
「受け入れるしかないんだ、鈴瑚。幻想郷は楽園じゃなかったってことさ。そのことを、わたし達は受け入れる必要がある」
「死ね」
「鈴瑚……」
「話しかけんな」鈴瑚は未来に絶望し、過去の失敗に逃げ込んだ。「くそ、こんなことなら、お前なんか連れて来なければ良かったよ」
鈴瑚が言ってるのは、地上で暮らそうと決めたときのことだ。退屈で窮屈で飯のまずい月のことなんか忘れて、地上で暮らすと決めたときのこと。わたしは鈴瑚について行きたがった。なんでかは、わからない。鈴瑚の団子が他の誰よりも美味かったからかもしれない。鈴瑚はわたしがついて行くことを一切拒まなかった。
爺さん、とわたしは思った。孤独を受け入れた先にあるのは、受け入れ難い孤独だけだよ。そのことを、あんたは知らなかったんだ。だから、死ぬことをすんなり受け入れることができたんだよ。
やがて看守の言うところの「偉い人」が来て、爺さんを殺した犯人についてちょこちょこ聞かれた後、わたしは釈放された。
鈴瑚と一緒に建物を出た。鈴瑚はわたしより早く歩いた。わたしが鈴瑚のスピードに追い付こうとすると、鈴瑚は追い付かれまいとさらに歩く速度を上げた。
「鈴瑚」
前を歩く鈴瑚の背中に呼びかける。
「なに」
振り返らずに鈴瑚は立ち止まった。
「ごめん」
振り返った鈴瑚が、火の付くような舌打ちを鳴らした。
「それでいいんだよ」ため息まじりに言われた。「なにが『しょうがない』だ。なにが『受け入れるしかない』だよ。最初から素直に謝ればよかったんだよ」
「うん。ごめんね」
「こっちも言い過ぎた、悪かったよ。でも、心配したんだぞ」
「ごめん」
わたし達は並んで人里を練り歩いた。往来を行く人々からは、特別な視線を感じたりしなかった。つまり、人殺しを見るような目では見られなかった。幻想郷はみんなが思ってるほど優しい世界じゃないけど、とびきり厳しい世界でもないということだ。
だけど、それはあくまで周りがそう感じていないという話で、人混みの中にいながら、わたしは自分がとんでもない孤独なやつに思えて仕方がなかった。
「ねえ、鈴瑚?」
「ん?」
「もしも本当にさ、わたしが人間を殺してたら、鈴瑚はどうしてた?」
鈴瑚はなにも言わず、顔だけをこちらに向けた。立ち止まったりしなかったけど、置いてかれるような錯覚に陥った。
「教えてよ。鈴瑚は受け入れられた?」
「マジで酔っ払ってんのか、お前」
「ねえ……」
「お前が仮に誰かを殺してたとしてもな、わたしはお前なんかに人の命を奪えるはずがないって言いふらすよ。臆病者でおっちょこちょいなお前なんかに、そんな大それたことができるはずがないって」鈴瑚は得意げにはにかんだ。「どう、安心した?」
「鈴瑚」
「なに?」
「ウンコしたい」
「……」
鈴瑚の背中に乗っかると、イーグルラヴィの俊足とは大したもので、一瞬にして懐かしき我が家へと辿り着いてしまった。鈴瑚の背中から降りると、わたしも負けじとイーグルラヴィの俊足を発揮した。玄関の戸を開け、畳の上を駆け、便所に直行する。物凄い勢いで溜まっていたもんを出し切ると、不安とか後悔とかも一気に流れ出て行ったような、清々しい気持ちになった。
便所を出ると、鈴瑚が万年床の上に座っていた。いつにない厳かな雰囲気に、また便意を催しそうになる。
「清蘭さあ、マジでどうしちゃったの」
ウンコのために鈴瑚をタクシー代わりにしたことをキレられるのかと思っていたわたしは、半ば拍子抜けする。
「別に、なんでもないよ」
「なんでもないことないじゃん。清蘭さ、わたしがおぶってるとき、泣いてなかった?なんか服が湿ってるんだよね」
「ウンコじゃないの」
「殺すぞ!……ほんとにさ、なんかあったんなら教えてよ。地上には他に鈴仙くらいしか仲間がいないんだから」
とは言われたものの、本当になにもない。体の中に蟠っていた不安や後悔なんかは便所に流して来たし、泣いてたんじゃないかと言われても心当たりがない。
ちょっと気持ちの整理でもしてみようかなと考え込むフリをしていたら、鈴瑚が不安そうにわたしを見つめて来た。さっきまで毅然としていたのに、まるで病室の外で子供が産まれるのを今か今かと待ちわびる父親のような表情だった。
「清蘭?」表情と声音がリンクしている。
「いや、その……」
言葉に詰まってしまう。本当になにも抱え込んでないにしろ、なにかでっち上げた方がいいかもしれない。
「なんでもないよ」
なにも言えなかった。
「……ならいいんだけど」
そう言うと、鈴瑚は布団の上に寝っ転がって、天井にあるシミでも眺めた。
微妙な空気。風船を爪楊枝で突いてるような緊張感。まるで二人の間に死体でもあるみたいに、わたし達は距離をあけた。言葉が喉につっかえる。鈴瑚といるのに、鈴瑚といないみたいだ。
孤独を受け入れた先にある、受け入れ難い孤独。それとも、わたしはまだ受け入れられていないのだろうか?これより酷いものが、この先に待ち受けているのか?爺さんを殺したあの男も、こういう経験を経てあんな凶行に走ったのかもしれない。
「『打って変わって』を使って短文を作りなさい」場を和ませるために、わたしは喋った。「彼は麻薬を打って変わってしまった」
「……」
「『どんより』を使って短文を作りなさい」
「清蘭」
「彼はうどんより蕎麦がすき」
「清蘭、うるさい」
「……」
もう手の打ちようがない。鈴瑚がうるさいと言うのだから、わたしはなにも言わずに家を出て行った。運が良ければ、またあの爺さんみたいなインチキ野郎に出会えて、将来のことを占って貰えるかもしれない。
道を歩けど、そんな奴はどこにもいなかった。みんな孤独を受け入れられてるということなのか?刃物で人を傷付けることの意味を、みんな知っていると言うのか?
人の多い道をトボトボ歩いてると、いつの間にか爺さんが殺された場所に来ていた。ちょっとした人だかりができていて、爺さんの血痕を珍獣かなんかを見るみたいに珍しがっていた。
この場所にはもうなにもない。だけど、なにかがあるんじゃないかと言う期待に縋ってしまう。人を掻き分け、血痕の前に跪く。人間達が「また頭のおかしい奴が来たぞ」みたいな反応を示す。
なにもない。
わたしは立ち上がり、今度は人混みに体を捻じ込む必要はなかった。わたしが通ろうとしたところにいた人達が勝手に避けて、道を作ってくれた。
居酒屋に行ってパーッと散財でもすれば気分も晴れるだろうと思ったのに、全然そんなことはなかった。酒を飲んでると、今まで鳴りを潜めていたものまで顔を見せるようになった。具体的にそれがなんなのかはわからない。くそ、幻想郷には既にたくさんの謎があるって言うのに、まだ足りないって言うのか?
したたかに酔っ払い、転び転びしながら家に帰ろうとした。あながち無駄な試みとも言えない。例えどれだけ酔っていたとしても、絶対に家までの道のりを忘れない自信がある。
それに、鈴瑚だってもう気分が変わっているかもしれない。今頃、さっきのジョークが効いてきて、一人で大笑いしているかもしれない。だとしたら、わたしは居酒屋で無駄に金を使ったことも、鈴瑚から「うるさい」と突っぱねられたことも、全部許せるような気がした。
暗くて深い洞窟に挑むような気持ちで、玄関の戸を開けると、草鞋が置いてあった。わたし達は年がら年中、裸足で過ごしているので、草鞋なんかがあるのはおかしい。誰か来ていると言うことだ。
「ただいま」部屋の方に呼びかけてみる。「鈴瑚、誰か来てるの?」
部屋に上がると、やはり客がいた。
「おかえり」鈴瑚じゃないやつが出迎えてくれる。「たまたま近くを通りかかってね」
「鈴瑚は?」部屋の中を見通す。「鈴瑚はどこに行ったの、鈴仙?」
鈴仙・優曇華院・イナバが便所の方を指差した。なんだ便所かと安心したのも束の間、鈴仙に向き直る。
「なにがたまたま通りかかっただよ。たまたま通りかかるようなところに、わたし達の家はないぞ」
「別にいいじゃん」鈴仙は心の底から楽しそうに笑った。「地上には玉兎なんてわたし達くらいしかいないんだから」
「……」
いったい、なにが始まろうとしているんだろう。月を抜け出した兎が一箇所に集まってやれることと言ったら、どんなに想像力を振り絞っても集団自殺以外に思いつかない。
鈴瑚が便所から出てきて、一瞬、わたしに視線を向けてから、鈴仙の方に逸らした。
「お、おかえり」
「なんで鈴仙の方を見ながら言うんだ」
鈴仙はニコニコしている。無性にぶん殴りたい。
「たまたま鈴仙が来てさ、まあ、なんというかな、酒でも酌み交わそうやってことで」
「なんかぎこちなくない?」
鈴瑚が「ハハッ」と慎み深く笑うのに対し、鈴仙は表情筋が固まったように頑なに笑顔を解かない。
「ささ、まあ座りなよ!」
促されると、わたしと鈴仙は拳二つ分くらいの距離をあけて座る。わたしと鈴仙の前に酒の注がれたコップを置くと、鈴瑚も座ってコップを掲げた。
「それじゃ、かんぱーい!」
鈴瑚と鈴仙の声が重なった。
「なににだよ」わたしはコップも持たずに言った。「お前ら、どうかしちゃったんじゃないの。なんか変だよ、テンションって言うか……」
「清蘭!」
といきなり隣から怒鳴られて死ぬほどびっくりする。水を差しまくってたのは自覚してるけど、いきなり声を荒げられるとは思ってもいなかった。
見やると、鈴仙はやっぱりニコニコしていた。鈴瑚の方は、やけに怯えた目つきをしていた。みんな残酷な運命に耐えてるような様子だった。
有無を言わさない雰囲気だったので、わたしもコップを掲げた。
「か、かんぱい」
「「イェーイ!」」
堰を切ったように二人が騒ぐ。もしかしたら、今日は鈴瑚か鈴仙の誕生日だったのかもしれない。
散々飲んできたから、わたしはあまり飲まなかったけど、二人は水みたいにガブガブ飲んだ。死にたいみたいだった。そうでなくても、確実に破滅へと向かっている。
世界が狂っていく。わたしにもできることがあるとすれば、もう狂ってしまうことを受け入れることだけだ。
わたし達はどこへ向かおうとしているんだ?
いったい、なにを間違えてしまったと言うんだろう?
「なあ、清蘭はどう思う?」
畳の繊維を指でなぞるのに集中していたので、なんにも聞いちゃいなかった。
「わたしもそう思うよ!」
とびきりの笑顔でもって答えてやったと言うのに、時間が静止したように空気が凍り付く。サグメさまのパンツの色の話でもしてたのか?
ちくしょう、風呂でこいた屁にでもなったような気分だ。
誰も口を開かなくなった。示し合わせたように、わたし達は畳を指でなぞった。そこにこのいたたまれない空気をぶち壊す爆弾でもあるみたいに。
「『まさか×××だろう』を使って短文を作りなさい」
責任の一端を感じたので、喋ってみる。
「清蘭」と、鈴仙。
「まさかりかついだ金太郎」
「清蘭」
「なんなんだ、お前ら⁉︎」畳をぶん殴って立ち上がる。「わたしの能力を忘れたわけじゃないだろ、こっちはいつだってお前らの脳味噌をぶち撒けられるんだぞ!」
鈴仙が泣きながら逃げ惑い、玄関の戸にしこたま頭をぶつけて気絶した。
「なにしに来たんだ、あいつ!」
生き残りをかけたデスゲームにでも参加しているような気分だ。鈴仙が死に、膠着状態に陥ってしまった。だけど、このゲームの場合は、生き残ってしまう方が最悪かもしれない。わたしも早く死にたかった。というか、この息苦しい空間から解放されたかった。
「清蘭」
深呼吸をするみたいに重々しく鈴瑚が呟いた。
「なによ」
「その……」
わたしは辛抱強く鈴瑚の言葉を待った。鈴瑚は視線をあっちにこっちに向け、言葉を探しているみたいだった。言葉は自分の中にしか落ちてないと言うのに。
「昨日さ!」努めて明るく鈴瑚は言った。「清蘭がさ、ほら、牢屋にぶち込まれただろ?」
「それに関しちゃ悪いと思ってるよ」
「そうじゃないんだ」
玄関の方から「ブッ」と聞こえてくる。重苦しい空気の中に、さらに不純物が混じる。
「清蘭が夜通し帰って来なくて、わたしさ、すごく不安になっちゃったんだよね」
黙って話を聞きながら、窓を開ける。
「でね、それでさ……もう帰って来ないんじゃないかって思って」
一歩一歩、地雷原を歩くような慎重さで言葉を選ぶ。
「清蘭さあ……地上で暮らすのが嫌になったんじゃないかって思ったんだ……」
鈴瑚の言葉は風に乗って、どこか遠くまで行ってしまった。重苦しい空気とともに。鈴仙の屁と一緒に。
なにも言うべきことがない。いや、なにかしらあるはずなのに、なにも出てこない。
沈黙が重くのしかかる。今こそ屁をこけよと鈴仙にテレパシーを送ってみる。なにも帰って来ない。
ただ、夜が明けるまでこうしていても良い。わたしの気分としては、そんな感じでもあった。だけど、それじゃああまりにも味気ない。わたしにできることと言えば、冷たい相棒を演じてみることだけだった。
だから、演じてみた。
「お前、わたしのことを地上に連れて来なければよかった、とか言ってたじゃん」
「あんなの言葉のあやだろ!」
「そうなの?」
「地上はすごく魅力的で、でもね、一人で暮らすのはそれなりに怖くて、清蘭が一緒に行きたいって言ってくれた時、結構嬉しかったんだぞ。お前を連れて来なければよかっただなんて、言葉のあやでもなければ言わないよ」
「結構、とか、それなり、とか……」
「でもさ、やっぱり故郷の方が大事じゃん。他のやつらは作戦が終わったら月に帰っちゃったしさ……」
「冷たいよねー」
「どうかなぁ、故郷を捨てる方が冷たいんじゃないかなぁ。友達もたくさんいたのに」
「そこに故郷を捨てて地上に来た兎一号が寝てるぞ」
「あいつは仕方ないよ、誰だって戦争は怖いし。わたし達はただ自分が楽しく暮らしたいからってだけで……」
「なに、そんなことで悩んでたの?」
「……」
「ごめん、鈴瑚にとってはそんなことじゃないよね、悪かった」
風が強くなってきたので窓を閉める。空気の入れ替えは、もう必要ないみたいだ。
「で、わたしがホームシックを患ったと思って、鈴仙と一緒に引き止めるつもりだったの?」
鈴瑚が項垂れる。肯定してるのか否定してるのかは曖昧だった。
「考えてみなよ、今更故郷なんかに居場所ないよ。勝手に抜け出して来たんだし、帰れるはずないじゃん」
「そういう問題じゃないんだ」鈴瑚は決然と言い放った。「自分の生まれ育った場所には、いつか絶対に帰りたくなるときが来る。わたしにもたま〜にそういうことがある」
「鈴瑚も?」
頷く。
「でも、清蘭がいるからと思ってさ」
「鈴瑚は帰りたくなったら、わたしのことは見捨ててもいーよ」
「いいわけないだろ!」物凄い剣幕で怒鳴られる。「やめろ、そういうこと言うの!」
「わたし達はさ、二人で暮らしてるって言っても、結局はただの友達じゃん。友達なら、友達のやりたいようにやってもらうのが一番じゃん。じゃん?」
鈴瑚に肩を掴まれる。腕が引きちぎれんばかりに力が込められて、思わず顔をしかめる。
「マジで言ってるの?」
「いだだだだ!」
「お前が言ってた『受け入れるしかない』みたいな戯言は、つまりそういうことなの?」
「マジで痛い!」
「答えろよ!」
「じゃあ、離せ!」
鈴瑚の腕を振り払い、その勢いで壁まですっ転んで頭をしこたまぶつける。ヒビが入ったのは壁の方だった。
「ぶっちゃけ、わかんないよ」後頭部にたんこぶができてないか確かめる。「わたし達ってさ、月にいたときからやってきたことと言えば餅を搗くことくらいで、あのとき、いきなりイーグルラヴィなんて言う調査部隊に配属されたけど、そのときだってなんにも考えてなかったし」
「じゃあ、受け入れるとかなんとか言ってたのは、なんだったのよ?」
頭の中に死んだ爺さんを思い浮かべる。もう顔も思い出せなかった。
「なんて言うかさ、別れ際の言葉って妙に心に響くって言うかさ、記憶に残るじゃん。さっきお前に『うるさい』って言われたときも、かなり根に持ってたんだからな」
鈴瑚が申し訳なさそうに俯く。かと思いきや、ハッとして顔を上げる。
「じゃあ、なに。お前は別れ際の、その爺さんの言葉に引っ張られてたってだけなのかい」
「別れ際と言うか、死に際と言うか。孤独を受け入れろって言われたんだよ」
「どこの馬の骨かもわからないジジイの言葉を真に受けたのかよ?」
「自分が玉兎だってことを忘れてないか?みんながお前みたいに賢い兎なわけじゃないんだぞ」キッパリと言ってやる。「わたし達は命令されたら逆らえない、玉兎なんだぞ。今は地上で暮らしてるけど、それは揺るぎないんだ」
「なんで胸張ってるんだ、こいつ……」
「まあでも、さっきはお前の好きにやれ、みたいに言ったけどさ、鈴瑚と一緒にいて楽しいのは本当だし、いなくなったら寂しいのもほんとだよ」
「……」
「わたしがいなくても、鈴瑚は大丈夫かなーって心配してたんだわ」
「殺された爺さんの言うところの、受け入れられるかどうかってこと?」
頷く。
「いいか、孤独を誤魔化したりするなよ」爺さんの声真似をしてみる。「孤独を紛らわしたら、誤魔化したりするのはいかん。受け入れるのじゃ」
「とんでもない耄碌だな」
一蹴されてしまう。爺さんも草葉の陰で泣いているに違いない。
「誰かと一緒にいたいって気持ちを持たないやつなんか、いないだろ」
鈴瑚が恥ずかしいことを言うたびに、体のあちこちが痒くなってくる。ストレスを感じてる証拠だ。
「たぶんさ、月に帰りたくなっても、一人じゃあ帰らないと思うよ」
「もう、いいよ」
「なんだよ、急に」
鈴瑚はそっぽを向き、玄関の方へ頼りない足取りで歩いた。それで、床の上にぶっ倒れてる鈴仙を蹴っ飛ばす。
「起きろ、鈴仙。家に帰ってから寝ろ」
鈴仙は大きな伸びをし、ついでに大きなあくびもし、体中をバキバキ言わせながら上体を起こした。
「ありがとな、鈴仙」寝ぼけ眼の鈴仙の肩を抱く。「清蘭、別にホームシックでもなんでもなかったよ」
「ふぅん……」わたしのことより自分の夏休みの方に関心を持ってそうな鈴仙。「わたし、寝てたの?」
鈴瑚が振り返って、ニヤリと笑う。わたしは知らぬ存ぜぬの態度を貫く。
「って、あーっ!」藪から棒に大声を出され、耳の奥がキンキン言う。「いま、何時よ⁉︎」
大慌ての鈴仙に時間を教えてやると、絶望の化身みたいに表情が暗くなって、抱きしめてやりたくなるほど目に涙を浮かべた。
「や、ヤバい……こんな時間になるまで外出してるなんて、し、師匠に殺されるー!」
言うが早いが、鈴仙は草鞋も履かずにイーグルラヴィも舌を巻く速度で走り去った。
わたしと鈴瑚は顔を見合わせ、しきりに笑った。
鈴仙もまた、揺るぎない兎の一人だ。
このちょっと怠惰感のある空気がなんとも心地よくて、沈黙に耐えかねて冗談を言い始める間合いというか呼吸がたまらなく愛おしい。
これはもうあおりんご、ありがとうございます。
この一文が卑怯すぎる。
これを世の中の理不尽に耐えるお話とだとも考えられるのですが、私自身がそう考えたくないのです。面白かったです。ご馳走様でした。