花の異変が収まると、待ち構えていたように梅雨が訪れた。外に出辛く陰鬱な季節だ。連日の雨の中で、本来の時期を迎えて再び開花した紫陽花を楽しめるのは、雨の好きな妖怪と、天候に関わらず脳内の晴れた人間くらいのもの。メディスン・メランコリーはそのどちらにも含まれてはおらず、故に陰鬱な季節を満喫することと相成った。
やがて花と同様に梅雨も去り、幻想郷が初夏を迎えようとしていた夜のことだった。
――人の集落に行ってみよう。
特に用があるというわけではなかった。今まで行ったことがなかったから、行く必要があると思ったのだ。メディスンは開花目前の鈴蘭畑を発った。
山奥に人知れず広がった鈴蘭畑と人里とは思っていたよりも離れていた。人形を捨てに来る人間が居るくらいなのだから徒歩でも日帰りできるような場所なのかと思っていたが、夜中に飛び発った彼女が人間の使う道を見つけたときには、既に日が昇りきっていた。もっとも、開けた土地を適当に見て回っていただけなので、単に見逃していたのかもしれない。人里がどこに在るのかということをメディスンは知らなかったし、道を急いでも居なかったのだ。
「こんな長い道、よく作る気になれたものね」
路肩に座りやすそうな石を見つけ、出発居してから三度目の休憩を入れていたメディスンは肩の上に浮かぶ人形へ向けて呟いた。人形とはいえ、躰として機能する以上は疲労を免れることはできない。身に染み込ませてきた毒が、次第に濃度を下げていく感覚が気だるかった。時刻は正午を過ぎたところだろう。頂点から下り始めた梅雨明けの太陽は、疲れた体には鬱陶しい。根元に水を含んだ葎は日に炙られ熱気を上げてくる。
頻繁に利用されていそうな道を辿ればすぐに村なり町なりに行き着けるだろう、という考えは甘かった。なかなかどうして人里はみえてこない。飛んで辿るだけでもくたびれるような道程を、土を固めて道にしてしまうというのだから人間の根気には呆れさせられる。よほど運びたいものがあったのか、集団で毒茸でも齧って村一丸となって頭をおかしくしたのか。たぶん後者だろう。人間のやることなどは、たぶんそんなものだ。
「行くなら冥界の方が良かったかしら。向こうは暑くないとか言うし」
と、人里行きを後悔しかけたときだった。
風が吹いた。葎は涼やかに擦れ音を生じ、熱気が流されていく。冷えた空気が日光に熱された肌を撫でていった。労わる様な風に、メディスンは一瞬だけ疲れを忘れる。
そうなると、陽射しも心地良いものに変わる。さほど強くない光が素直に暖かいと思えた。
――気持ちいい
見上げてみれば快晴の空には薄い雲が数えるほど浮かんでいるだけ。このところ雨天が続いていたので、久しぶりの晴天だった。視界の全てを青空で埋めてやると、額からつま先まで晴れ渡っていくかのような気分になれた。地面が濡れていないならば、寝転んでしまいたい。
ふと、腰掛けた石のすぐ脇に、白い花が咲いていることに気付く。小振りな花弁を付けた小さな花は慎ましやかに風に揺れている。メディスンにはその花の根に、僅かな毒があるとわかった。昼食代わりとはいかなくとも、おやつ位にはなるだろう、と手を伸ばす。途端、花弁が閉じてメディスンの指を挟みこんだ。
「!?」
咄嗟に手を引いたが、離れない。ついさっきまで風に吹き飛びそうだった薄い花弁は、潰さんばかりの力で指を捕まえていた。予想できたはずの無い事態に焦る。引っ張りながら捻っても、地面に押し付けてやっても捕まえる力は緩まない。茎も見た目から想像できないほど頑丈で、全力で引いているというのに千切れそうにない。
毒で枯らしてやることを思い至るのには、随分と時間がかかった。萎びた花から指を抜いて、息をつく。すぐ傍で笑っている人影があったことに気付いたのはそのときだった。
「誰?」
それが妖怪であることは視るまでもなくわかった。妖気からして並みの妖怪ではない。そして見ただけでは人間の少女と変わらない、チェック柄の赤いカーディガンとスカートを身に着けて、日傘を差したその容貌には見覚えがあった。誰何された妖怪は笑ったままだったが、しばらく待つとようやく笑い声を収めて、答える。
「霧雨魔理沙ってことでいいかしら?」
「あんまりよくないわね。偽名臭いし」
「そう言うあなたは?」
「メディスン・メランコリー。本名よ。この花はあんたの仕業ね」
身構える。
以前ひまわり畑で戦ったことがあったので、その妖怪が花を操ることは知っていた。訳もなく襲ってくる危険な相手だ。そのときは毒の力が強まっていたので逃げ出すことが出来たが、今回はそう上手くか解らない。
「そんなに警戒することはないわよ。今日はいい天気だから、この近くにある花畑に行こうとしていただけ」
微妙に妖怪らしからない動機だと思った。もっとも、晴れを心地良く感じていたのは自分も同じだったのだが。
「そうしたら、視界にあなたが入ってしまった。こうなったらもう、悪戯の一つや二つはするでしょう?」
「……しないとおもうわ、普通」
さも当然、とばかりの物言いに少し自身を失いつつも否定する。実は、そういうものだったりするのかもしれない。見聞が狭いことは自覚しているのでその可能性を拭いきれなかった。
――でも、本当にそうだったら嫌だな
緑髪の妖怪はたった今、メディスンが枯らしたばかりの花に人差し指を添える。白い花は、枯れる直前に自分がしたことすら忘れたように、元通りの花となった。
「それに、毒の匂いもあまりしなくなったし。気になったの」
「毒? 毒ならいつだって体に染みてるはずよ。消えたりはしない」
「そんなの、躰を持って生きてる物は皆そうよ。外に向けているかどうかの違いがあるだけ」
何が可笑しいのか、妖怪は先程から意地の悪そうな笑みを浮かべていた。柔らかそうな緑髪に包まれた、晴れの似合う喜色。おそらく魅力的であろうそれは、向けられる当人にしてみれば、捕食者の貌にしか見えない。
「体中から毒を匂わせて私のひまわり畑にやってきた人形をたまたま見かけてみれば、前に会ったときより随分と丸くなっているじゃない? 不必要に攻撃的な雰囲気が鳴りを潜めている」
「前だって、あなたほど攻撃的じゃなかったわよ」
妖怪はメディスンの周りを飛び回りながら、矯めつ眇めつ眺めてきた。傘がくるくると翻り、影が躍る。何がしたいのかまるで解らない。警戒しなくていいといわれても、今の会話の中にこちらを安心させるような要素がまるで見当たらなかった。
そもそも、丸くなったなどといわれても実感がない。以前と比べれば学んできた分だけ社交性は身についているのかもしれないが、それは人形開放のために必要だからであって、自分の人格が変化したわけではないのだ。
「良いことよ。どうしてか私の知り合いには、そういう可愛げのある輩がいなくてね。ろくに理由も無く仕掛けてくるんだもの。あいつらのふてぶてしさは一生変わりそうにないわ」
類は友を呼ぶ。と、近頃知ったばかりの言葉が何故か頭に浮かんだ。口には出せなかったが。
「で、メディは何をしにきたの?」
「へ?」
問いは唐突だった。
「昼間から人里近くに来る用なんて、妖怪にはそんなにないわ」
「ああ、そうよね」
考えてみれば当然の疑問だ。当然過ぎて、まだ教えていないことを忘れていた。
「人間の里に一度行ってみたかったの」
「昼間から襲う気? 仕事熱心ね」
「ううん。襲うんじゃなくて、見てみたいの。人間の暮らしっていうのがどういうものなのかを知っておこうと思ったから」
見聞を広めるためには人間を知ることもまた重要だ。来たるべき時のための敵状視察でもある。
「そう。じゃあ行くわよ、メディ」
言っている意味が解らなかった。妖怪は何処へか飛び立っていく。
これもまた唐突な行動に対してメディスンが出来たのは、言葉の意味を訊くことだけだった。
「行くって?」
既に道を行き始めていた妖怪は振り返った。
「この先の町へよ。自分で言ったことを忘れたの?」
「なんで、あなたまで?」
振り返りはしても止まりはしない妖怪が、傾けた傘の陰から、この上なく愉快そうな顔を覗かせて、当然のように言う。
「言ったじゃない。今日が久しぶりの晴天で、あなたが丁度視界に入って、気になったから」
つまり、と前置き。
「気まぐれ、よ」
「……気まぐれ?」
あまりにもいい加減な理由は、しかしこの妖怪に限って言えば説得力を感じるものではあった。呆然
としている間にも、妖怪は先を飛んで行く。元々里へ行こうとしていたメディスンを待つこともなく。
――まぁ、いいか
正直な所を言えば、一人で人間の里へ行くのには不安もあったのだ。奇妙な妖怪は力の有る妖怪のようでもあり、心強いと言えなくもない。
――でも仲間にしたくはないわね。人形開放のためとは言え
「置いて行くわよ、メディ」
「ちょっと待って。ええっと、魔理沙?」
「幽香よ。風見幽香」
勝手に名前を略して呼んでくる妖怪は、このとき初めて自分の名を名乗った。
「メディ、隠れるわよ」
「え?」
そろそろ町も見えてくるだろう、という頃合のことだ。
突然、幽香に手を引かれた。
引かれるままに道端の茂みの陰へと二人で飛び込む。かなり勢いが付いていたが、着地点に現れた巨大な花がクッションとなったので衝撃は無かった。
「どうしたの、幽香?」
「道の向こうから人間が来る」
「そう? 私には見えないんだけど」
茂みから顔を出して、辿っていた道の先を眺めても、それらしい人影は見えない。それ以前に、人間が居たのなら飛んでいるうちに見つけている筈だ。
「あまり目が良くないみたいね。駄目よ、このくらいは見えないと」
「そんなこといわれても、見えないって」
「そろそろ見えてくる距離だと思うわ。頭を引っ込めて」
と言いつつも引くのを待たず、幽香はメディスンの後襟を掴んで無理矢理引き戻した。何気ないがかなり怪力だ。
「隠れることないんじゃないの? 別に襲っちゃこないだろうし」
「隠れなきゃいけないわよ。襲うんだから」
「あの、私は見に行くだけよ?」
「……」
幽香はしば口を止めて、
「ほら、メディの服って町の人間はあまり着ないようなものじゃない? そこにいる人間から服を剥ぎ取れば人間のふりをして町に入れるかもしれないわ。結構大きい町だから余所者がいてもそんなに気にされないだろうし」
「……確かに、そうかも」
考えてもみなかった方法だ。今までは集落を遠巻きに観察して帰るつもりでいたが、人のふりをすれば町の内部から人間を見ることが出来る。名案かもしれない。ただ、提案する前に幽香が一瞬黙り込んだのが気になるものの。
「そうなのよ。頑張って襲ってきなさい」
「私が行くの?」
「当然よ。せっかく理由をでっち上げたんだから」
「何が当然だっていうのよ」
溜息をつく。話していて疲れる妖怪だと、メディスンは思った。
しかし収穫もある。
「なるほどね」
「何がなるほど?」
「こっちの話。気にしないで」
先程の沈黙は、『その場で理由を考える』ための間だったに違いない。これは今後のために覚えておいた方がいいと確信する。嘘を見分けるのに使えそうだ。この幻想郷には息のように嘘や戯言を吐く者が多すぎると、近頃になって気づいていた所だった。
道行く人を襲うことについては、強いて異論を挙げる程の事でもなかった。妖怪が人を襲うのは自然な事だ。メディスン自身も、鈴蘭畑に訪れた人間を幾度か毒に包んだことがある。でっち上げではあったらしいが、人のふりをする案そのものは気に入ったので、襲撃については賛成だった。
「でも、私一人で?」
「今日はあなたを見物することにしてるんだから、私が行っちゃ意味が無いでしょう」
「自分で提案したくせに」
「不安?」
「そんなことは……ないけど」
不安だった。何しろ此処は鈴蘭畑ではなく、周りから毒を集めることが出来ない分だけ力が落ちる。花が常にない力を持っていた今年の春ならいざ知らず、新米であるメディスンの本来の力はそれ程大きくはなっていない。それ以上に、身に馴染んだ鈴蘭が近くに無いことが心細かった。人間とて無力ではないのだ。町を出歩くような人間なら尚更、抵抗があるのは間違いない。
「まだ慣れてないわよね。妖怪になってから間が無いもの」
「そんなことないったら」
「ここらじゃ毒もあまり無いし、不案内な場所だしね」
「怖くなんてないって言ってるじゃない!」
「初めのうちはそんなものよ。無理したって仕方がないわ」
なんとなく悔しくて否定するのだが、全く取り合って貰えていない。かえって幽香を楽しませているようで腹が立つ。
と、あやすような幽香の言葉に、メディスンは疑問を抱いた。
「幽香は、生まれたばかりの頃そうだった?」
「生まれたばかりの頃?」
「不安だった?」
こんな力のある、得体の知れない妖怪でも、人間相手に尻込みした頃があったのだろうか。だとしたら、とても安心できる。
「……」
そんな期待の籠もった問いに、しかし幽香は答えなかった。何時の間にか笑みを潜め、黙り込んで、こちらを見ている。見ているというのに、メディスンでなく何処か遠くにあるものを眺めている気がした。
――また、嘘の答えでも考えてるの?
訝しむ。誤魔化されないように注意しないといけない。
「ええ、あったわ。ずっと昔に、そんな頃が」
期待通りの答。こっそり喜んだメディスンは、同時に一つのことに気付き、不思議に思った。
それはメディスンの知らない表情だった。喜んでいるのか、哀しんでいるのか、どちらなのか解らない。まるでその両方であるかのようだと思い、即座にその考えを否定する。そんな矛盾した感情があるとは信じられなかった。
「あの人間が此処まで来るのにはまだ掛かりそうだし、メディらしい人の襲い方について一緒に考えてみましょうか」
「へ?」
「今日は特別よ。こんなこと、滅多にしないんだから感謝してね」
「何で?」
「そういう気分になったから、かしら」
付いて来ると言った時同様、理由になっていない。そもそもそう言うつもりで訊いたのではなく、
「何で私らしい襲い方なんてことを考えるのよ?」
「妖怪として自分のスタンスとかあったほうがいいじゃない? 殆どの妖怪は、生まれる曰くが有るもの。存在する理由に応じた襲い方をする方が人間にとってもその意味が解り易くなる」
「別に、人間がどう思ったっていいじゃない」
自分についてどう捉えられたとしても、脅威となることに変わりは無い。妖怪の仕事としてはそれで十分な筈だ。
「そうでもないのよ。それだけじゃ人間は気付かない」
「気付かないって?」
「何故自分が襲われるのか気付かないの。化けて出られるのには原因があるに決まっているのに」
幽香の話は続く。
「人間は放って置けば増長して、世界には自分達しか住んで居ないと勘違いしてしまう。他者を省みない行いによって徒に業を抱えてしまう」
なんとなく、以前にも似たような話を聞いたように思えた。
「だから妖怪は脅威を与えて、人間にその存在を示さなければならないの。世界は人間だけのものではないと理解させてやるためにね。それには解りやすさも重要なのよ」
「随分、人間に優しいのね」
「そして妖怪は人間を食べる。持ちつ持たれつ」
「……どっちかって言うと人間が割を食ってない?」
「いいじゃない。向こうだって退治してくるんだし、それが人妖の共存ってものよ」
「そういうものかしら」
微妙に納得いかなかったが、元より義務感で人を襲っていたわけではない。自分達が損をするのでもないのだから、別にいいだろう。或いは、損をすると思ったために、外の人間は幻想郷を封印したのかもしれないが。
「で、私らしい襲いかたって言うのは、人間が人形を棄てたしっぺ返しだと解るような形になればいいのね?」
「飲み込みがいいわね。飲ませたい奴がいるから、後で爪の垢をもらえるかしら? 3グラムくらい」
「ど、毒の付いたセルロイドは呑まない方がいいと思うわ」
「元から肝の黒そうなのばかりだから大丈夫よ。きっと」
どこまで本気なのか解らなかったので、取り敢えず手を握って指先を隠した。
道端に倒れている人影を見つけた御者は、馬車内の主人にその事を報告しつつ、馬の足を急がせた。
近づくに連れて解ったのは、その人影が少女のものであること、そしてその少女が見慣れない服を着ていることだ。その赤と黒の布地で作られた装飾の多い服が、西洋風のドレスであるとは解る。しかし何らかの行事の場以外でそれを見ること等はそうあるものではなかった。そもそも、街道を渡るための服装としては実用性が皆無といっていい。
不審に思った御者は、隣席の用心棒に様子を見るように頼み、少女から五馬身ほど離れた位置に馬車を止めた。
用を承った用心棒は、慎重に様子を伺いながら少女に近寄っていく。次第に、用心棒は違和感を感じ始めた。初めのうちは正体の解らなかった違和感は、近づくに連れて顕になっていった。
造作が、作り物めいているのだ。遠目には、生気が抜けているとも見えたその少女の肌は、しかし血の気の引いた人間のそれとは違った色合いを持っていた。双眸を伏せたその顔には、目を凝らしてみれば耳元に継ぎ目のようなものが見える。
――人形、か?
そう考えれば、その服装はいかにも人形らしいと言えた。人間大の大きさというのも非常識ではあったが、彼はその手の道楽に財を費やす金持ちの噂を聞いたことがある。もっとも、どういった経緯を経て路端に棄てられているのかは知る由もないが。
警戒を緩めて人形の手をとってみれば、案の定、綿の感触があった。気色悪いほど人に似せてはあるが、間違いなくこれは人形だ。見た所、殆ど汚れも無い様であるし、主人に贈れば喜んでもらえるかもしれない。
と、用心棒が抱え上げようとした瞬間、人形が眼を開いた。
メディスンを抱え上げようとしていたために、男の両手は塞がっていた。加えて相手は、突然眼を開いた人形に面食らっている。隙は十分だった。
「コンパロ、コンパロ。毒よ、躰を縛れ」
体内の毒を男に送り込む。防ぎようも無く鼻腔から注がれ、神経の要所に作用した毒に躰の自由を失った男は、腰の刀を抜く暇も無く倒れ伏した。殺してはいない。この男には、町の人々に伝えてもらわなければいけなかった。人形の体を持つ妖怪の存在を。
「妖怪が出たぞ!」
車上の男が叫び、彼が叫ぶよりも早く、馬車の後部から戸を開けて二人の男が飛び出していた。一人は刀、一人は弓を構えて仕掛けてくる。思ったより数が多い。装飾の凝った馬車を見た時点で、それなりの警護を付けた人間が乗っているのだろうと予想してはいたが、日中に三人も護衛がいるとは思わなかった。
身構えられては今ほど簡単に無力化させることは出来ない。メディスンは魔弾を発射。一人につき三発づつの攻撃が男を捉えようと突き進む。しかし男達は共に慣れた動きで回避した。反撃の矢が風を切る。
「……くっ」
飛び退ったメディスンの耳元を風音が掠めていった。二射、三射目の矢がこちらの逃げようとする方角へと立て続けに飛来する。動きを読んでいるかのような巧妙な連射。それでも撃ち合いに徹すればまだ勝ち目はあるだろうが、刀を持った方の男がそれを許しはしないだろう。弾幕で牽制しているが、刀の間合いまで詰め寄られるのは時間の問題だ。避け続けるのは無理だと判断、矢を撃ち落とし時間を稼ぎながら呪文を唱えた。弓手の周囲に毒が集まっていく。
矢の風を切る音が鈍った。格段に精度の落ちた射が、見当違いの虚空を射抜いていく。
自分の身に起こった異変を把握できていない弓手は、焦燥も露に次の矢を番えようと、籠から矢を抜き、糸に掛け、引き絞り、しかし放つこと無く矢を取り落とした。体に回った毒が正確な動作を阻んでいる。
これで厄介な連射は無くなった。弓手に纏わり付かせた毒はそのままに、剣士に対しても毒を振り向ける。将に切り込もうとしていた剣士から勢いが失われた。
危ない所だった。あと二、三歩も寄られていれば間合いに入っていた所だろう。あとはこのまま眠らせれば、
「破ッ!」
目前に出現した剣士が刀を振り下ろした。
「……!!」
両断されなかったのは、毒が彼の動きを鈍らせていたからに他ならない。
剣士は既にメディスンを間合いに収めていたのだ。そして剣士は毒に侵されながらも、動けない振りでこちらの油断を誘った。その踏み込みは反応の追いつく速度ではなく、咄嗟に横へと身を投げることは出来たものの、斬撃はメディスンを肩から二の腕にかけて深く切裂いた。
避けた姿勢から跳ね起き、転がるように駆けだして距離を取ろうとしたメディスンの眼前に脇差を構えた男が立ち塞がる。弓を使っていた男だった。鈍った手が扱い切れなくなった弓を棄て、腰溜に刃を構え突撃してくる。勢い任せの突進は毒では止まらない。背後の剣士と挟まれて、逃げ場も無い。
――やられる!?
「白昼から物騒ね」
メディスンの頭上で爆発が起こった。
突然上方に巻き起こった黄色の爆風がメディスンを地面へ叩き付け、男たちを吹き飛ばす。荒れ狂う有色の風に巻かれ、視界も利かず訳も解らないままメディスンは湿った路面に口付けした。
「女の子に贈るなら、刃より花束の方が喜ばれるものよ」
方々へ散った黄色い爆風は、落ち着いて見てみれば花弁だった。盛大に舞い上がった花々は微かな風に煽られ、ひらひらと未練がましく空に舞い続けようとする。淡雪の如く穏やかに、花弁は道と、草原と、馬車と、転がって泥まみれとなった人と妖怪に等しく降り積もっていった。
そんな中、一つだけ花弁を纏わないものが在る。降り注ぐ花弁を傘で遮り、馬車の屋根に腰掛けて眼下を睥睨する妖怪、風見幽香。その場に居た他の誰もが気付かぬうちに、彼女は其処に居た。獰猛に微笑む妖怪の周りでだけは花弁が地へ墜ちる事無く、再び舞い上がり彼女傍らで渦巻いていた。
「そうねぇ。ちょっと旬には早いけど、鈴蘭なんてどうかしら?」
ぴし、と硬い物に皹の入る音が鳴る。
男たちの持つ得物が手の中で爆ぜたのは、その直後だった。彼らの刀と脇差の刀身は粉々に砕けていた。その柄から生えて出た深紫の花によって。
「それならその子もきっと、気にいってくれるわ。プレゼントしてあげて」
幽香は事も無げに言う。鈴蘭を手にした二人の男は、動かなかった。
毒が回ったから、ではないだろう。降り止まない花弁の中で、腕に多少の覚えはあるだろう男達は立ち竦んでいる。心得があるからこそ、解るのだろう。今は降るだけの花弁全てが、あの妖怪の意思一つで力を持って彼らを襲うであろう事を。
「早く渡してあげなさいな。命は短いのよ、花も、人も」
「ひっ……!」
男の一人、弓手であった方が耐え切れずに駆け出した。剣士もまたそれを追って応じて弾けるように遁走する。幽香はそれを追わなかった。
馬車から路面へと降り立ち、二人が捨てて行った鈴蘭を拾い上げてメディスンへと差し出す。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
「二人一辺に倒そうとしたのが不味かったわね。弓手を適当に弱らせたら一旦剣士の牽制に集中して、そのうちに距離を取ってやれば後は楽勝だったのに」
「そんなのすぐに思いつくわけ無いじゃない」
「第一、攻撃を仕掛ける前に口上の一つも上げないんじゃ、襲われた人間もあなたのことが良くわからないわ。あなたはポピュラーな種族じゃないんだから」
「こいつがいきなり抱き付こうとするからよ。ロリコンかしら?」
「噂じゃ近頃は、生身より絵や人形の女の子を愛好する人間が増えたそうよ」
怖い世の中だ。
すぐ傍で呻いている、最初に毒を送り込んだ男からメディスンは距離を取った。
「それにしても、他の二人は薄情なものね。主人を置いて逃げるなんて」
「ねぇ、幽香。その主人も逃げてるみたいよ?」
毒の回った体で、形振り構わず全力疾走する男二人はさほど時も経たない内に疲れ果てて失速したものの、それでも力を搾り出して走り続けていた。それとは逆方向、幽香の座る馬車の後部側へと道を走る者が居る。
御者であった男だ。恐らく主人なのだろう、年端の行かない童女を抱きかかえていた。
「あの娘の服なんて御誂え向きじゃない。捕まえるわよ」
「うん」
言うが早いか幽香が飛び立った。メディスンも続き、ふと、たった今手渡された鈴蘭に目を落とす。弾けんばかりの妖気を孕んだ花が、土へ根付くのと寸分も変わらない様子で刀の柄に根を張っていた。香りは威圧的に強く、生き生きと存在を主張する。
「あの、ねえ……幽香」
「どうしたの?」
「ありがとう。助けてくれて」
慣れない言葉を使うのは、怖くもあった。
鈴蘭を貰ったときにも、一度は言った。けれど、改めて言うのは気恥ずかしい。
「礼ならしっかりと、後払いでもらうわよ。頭下げたくらいじゃ済ませないから」
「え……うん」
見返りを求められて、実を言うと安心した。
助けてもらったときどうすれば良いのか、解らなかったからだ。
礼をするのは知っていた。けれど、それだけで良いのか、他に何かしなくてはいけないのか、その後どうなるのか、まるで解らない。
つまるところ、、メディスンは他人から助けられるのに慣れていなかった。
物や金銭で片付くのならまだ簡単に、
「利率はトイチでね」
「ええ!?」
一転して動揺する。
今の所、メディスンは毒くらいしか財産が無い。だから後払いなのは仕方ないとして、十日で一割は多すぎる。現状では稼ぐ当も知れないというのに。正直、返し切る自信が無かった。
と、身売りされる自分を想像して焦るメディスンを空から見下ろして、幽香はくすくすと笑っていた。
「からかい易い子ね」
「え、何、冗談?」
「あんまり素直に聞き入れちゃ駄目よ。良い様に搾り取られるから」
「払わなくて良いの?」
「ボランティアってことでいいわ。唯で許してあげる」
何故だか幽香は楽しそうにしていた。
ともあれ、只で良いのだと言う。どういう事なのか、釈然としない。メディスンが幽香に助けられたのは間違いないというのに。人間を襲う算段を一緒に立てたことも、そうだ。何の目的があってそんなことをしてくれるのだろうか。
「幽香。さっき人の襲い方を考えてくれたとき、私が、何でそんなことしてくれるのか、って聞いたら幽香は『そういう気分だったから』って答えたわよね」
「そうだったっけ」
「うん、そう言ってた。それって、どういう気分? どうなると、物を贈られたりしなくても手助けしたくなるの?」
「気まぐれの理由なんて、色々有り過ぎて言えるものじゃないわよ」
「色々?」
「そう、色々。生きてると在るのよ、色々と。そろそろ仕掛けるわよ」
御者の男と、その主人は目前だった。
潜入は意外にもあっさりと成功した。
町は障壁に囲まれていたが、馬車の中に隠れて御者と馬を毒で操り、入り口から門を潜ってやると特に問題も無く入ることが出来た。見張りも居たのだが、不審には思わなかったようだ。幽香に言わせれば「天気がいいから頭が緩んでるんでしょう」との事だが、道を行くうちに向かいから来る馬車や旅人と幾度かすれ違った事を踏まえると、この町は元々他所との人の出入りが多いのかもしれない。
馬車は戸が人目から隠れる隙を見計らって乗り捨てた。走らせたまま放っておいたので騒ぎになっているかもしれない。服を剥いだ後の娘は、毒に倒れた男同様、道端に捨て置いてきたが、この天気なら風邪を引くことも無いだろう。
「嬢ちゃん、ペンダントとか買ってかないかい?」
「細部が甘いわね。これでこの値段はボッタクリじゃないの?」
露店を冷やかす幽香に寄り添い、傘に隠れるように、メディスンは恐る恐る街中を見回していた。今は娘から剥ぎ取った服を着て、頭巾で髪を隠している。頂いた服は洋服だったので、幽香と並んでいれば良家の姉妹とでも見えるのかもしれない。実際、服はかなり上質な代物だった。
町を歩く人の数は、メディスンの予想を遥かに超えている。いや、予想を超える、などと言う表現の範疇には収まらない。それまでの価値観を破壊しかねない莫大な人数が街中を蠢いていた。両手を広げれば、必ず誰かに当たる密度。そんな状態は虫や草花にしか在り得ないと、ほんの数十分前までは頭から信じ込んでいたのだ。
「しっかりしなさい。人間相手に怖気づいてどうするの」
「で、でも、こんなに多いなんて思ってなくて」
人間といえば、それなりの大きさがある。熊や龍やと比べてしまえばどうと言う物ではないが、小さくは無い。普通なら、動物は大きいほど群れにくいものであるはずだ。それなのに、この露店の並んだ道には、油虫の密度で人間が行き交っている。生理的に目の前の状況が受け入れられず、メディスンは目を回しかけていた。
堪らず露店の敷物の上へと視線を逃がす。人ほど異様でもないが、そこも込み合っているという点では大差なかった。小物や野菜、大工道具と、多様な売り物が節操無く敷き詰められた店が、道の端まで並んでいる。その至る所で行われる、品物と金銭が交換される人同士の動きが、まるで一つの生き物の蠢きであるようでメディスンは威圧された。
――これは、難敵だわ
人間からの人形開放の前途は険しい。
雑多な中に、小さな人形を売っている店があった。今も一つの人形の身が、金によって取引されようとしている現場を目の当たりにして、店主に毒を嗅がせて昏倒させてやる。
その騒ぎに乗じて人形を救出しようとした所、幽香に傘の柄で小突かれた。
「止めないで、仲間を見捨てるわけにはいかないわ」
「衆目の前で目立つようなことしないの。久々の人間見物なんだから」
渋々引き下がった。
確かに今、地の利は敵にある。同胞を見捨て、置いていくのは忍びないが、群れる人間の威容を目の当たりにした以上、強硬的な手段を選ぶのは愚でしかない。彼我戦力差を客観的に考慮したうえでの戦略的撤退である。自分達の近辺が注目されている事に気付いて怖気づいたわけではない、決して。
「洋服の町人も増えてきてるのね。アルファベットの看板が多くなったし、人間はすぐ宗旨替えする」
「幽香って人里に来ることあるの?」
「定期的に見に来るわ。半年から百年に一回くらいのペースで」
「……それはランダムとどう違うの?」
「詐欺と壺売りの訪問販売くらいには違うわ」
メディスンは壺売りの訪問販売とやらについて知らなかったので、その違いは良くわからなかった。長生きをしていれば、それくらいは誤差なのだろうか。数年しか生きていないメディスンには想像もつかない感覚だった。
「何百年とか生きるとさ、何か変わって見えたりする?」
「それは、よく解らないわね。私よりも、周りが変わっていく方が速いから」
「へぇ~」
長生きしても解らない事があるらしい。
露店の並ぶ道を逸れて、裏道に入った。一転して人気が無くなった道には黴の臭いが漂い、建物の壁も薄汚れている。空気も湿っぽく、躰が痛みそうではあったが、人間が見当たらない場所に来れたのは有り難かった。
「そろそろ、時間切れみたいね」
幽香が振り返った。視線はすぐ後ろにいたメディスンを通り越して、道の先へ。
「半年振りだっけ、半獣さん?」
「73年と3ヶ月ぶりだ」
「知り合い?」
表通りと裏道の交差点に、髪の長い少女が立っていた。波打つような奇妙な形状のワンピースと帽子を見につけたその姿は、メディスンには人間にしか見えないが、幽香を睨む目付きに尋常ならぬものがあることは見て取れる。少女の後には武器を手にした人間が、四人並んで身構えていた。
「細かいわね。物見遊山くらい多めに見なさいよ」
「前回は家が八軒潰れただろうが。いくら妖怪でも、来る度に意味も無く暴れていくのはお前くらいしか知らないぞ、風見幽香」
「仕事よ、仕事」
「昼は人間の時間だ。それを、妖気を潜めて街中に入り、故も無く物を壊す他に何をするでもなく去っていく。そんな妖怪が在るものか! そんな役は町の乱暴者で十分事足りる!」
「妖怪も真面目なだけじゃ生きててつまらないじゃない?」
「お前と話しても仕方が無いな。今度こそとっちめて反省するまで祠の下にでも埋めてやる!」
幽香と半獣の周りで魔力が高まり、人間たちが動いた。
「逃げるとしましょうか、メディ」
手を引かれた。その瞬間、視界が真横に傾く。
爆音が聞こえた。葉擦れかと思うほど重奏した風切音も続く。金音や足音も喧しい。しかし上へ下へ、右へ左へと引っ張り回され、何が起きたのか判別できない。訳も解らぬ間に、矢が何本か体に刺さっていた。また近くで爆発が起こる。
何処かへ突っ込んだ。何かの破片が飛び散って体にぶつかる。体勢を直す間もなくあちこちに衝突して、パニックに陥る寸前となった。方々から悲鳴や怒声が上がり、足音が増えていく。
「あの半獣、今日はやけに出てくるのが遅いと思ったら、人手を集めていたのね。姑息な手を」
ようやく姿勢を立て直す。場所はいつの間にか、表通りに移っていた。何処に仕舞ったのか、先程の人混みは消え去り、攻撃してくる人間と、逃げていく人間が僅かに残っているだけだ。
その逃げていく人間の一人、身の自由が利かずに逃げ遅れたのだろう老婆に向けて、幽香は花を投げ放った。
老婆を捉えようとした花を、寸前で間に入った半獣が撃ち落とす。幽香は再度、花を飛ばした。生まれた花は一投目より二回り大きく、数も膨大だ。
「さあ、避けたら通行人に当たるわよ」
「卑怯な!」
「大勢で取り囲んでおいて何言ってるの」
宙に満開となった花を、半獣の魔弾が迎撃する。武器を持った人間たちも、刀や結界で打ち砕いていく。止められた花はその内から力を炸裂させ、花弁混じりの爆風がそれもまた一つの花であるように方々で広がった。
「突っ切るわよ、付いてきて」
開花する爆発の最中を、手を引かれてメディスンは走る。花を含んだ風が視界一杯に飛び交っていた。無縁塚で目にした桜のように、花は盛大に咲き誇る。
肌をくすぐる黄色い風を押し退け、怯む人間の脇を駆け抜け、走り幅跳びのように飛翔。雲の中に飛び込む心地。
全身花弁まみれになるのは今日で二回目だ。
二人は、半獣の頭上を飛び越えた。
このまま表通りを真っ直ぐ進めば、最短距離で町を出ることが出来るはずだ。
「こっちよ」
「え、何で?」
幽香が突然右に曲がり、道沿いの飯店の扉を蹴破った。
中に入るとすぐさま入り口の陰に張り付く。すぐ脇にある席の天ぷら蕎麦から天ぷらを取り上げて頬張り、タイミングを計って壁を花で粉砕。一斉に飯店へ踏み込もうとしていた人間達を、側面から壁を抜いて強襲する。鮮やかに咲き乱れた花々が不意を突かれた人間を蹂躙した。
人間が体勢を整えるより早く、幽香は飯店の向かいに建つ茶店を飛び越え、裏道に降り立つ。この間、メディスンは引っ張られたままだ。
裏道を走る二人の周りを、喧騒が囲み始める。
「幽香、後からも来てるよ!」
「上からもね」
幽香がメディスンの手を引いていた手を離す。離した手で今度は後襟を掴まえて、メディスンを真上に掲げた。視界が縦に回転して、空を向く姿勢となる。そして空には、こちらを狙っている半獣。
「任せるわ。防いで」
「ええ!?」
混乱しながらも、半ば生存本能に後押しされて半獣の放つ魔弾に反応する。毒を使う暇を与えてくれない、正確かつ強力な攻撃を無我夢中で撃ち落とした。視界外、真下からは爆音が連呼する。
景色が横に流れた。幽香が横へ飛んだのだ。
壁にあいた穴の、淵に激突してメディスンは舌を噛んだ。
町外れの林。肩で息をするメディスンは、巨木にもたれかかっていた。
「ここまで来れば大丈夫ね」
「どこが、大丈夫、なの、よ」
あれからどう逃げたのか、よく覚えていない。散々引っ張りまわされ、何処で何が起こっていたのか断片的にしか認識できていなかった。いや、そもそもあれは逃避行ではない。真っ直ぐ逃げたならすんなり町を出られたはずなのだ。
メディスンはボロボロになった体を見下ろした。修復に二、三週はかかるだろう。服が自分の物でなかったのは不幸中の幸いだった。今は借りた服を代えて、木の洞に隠しておいたいつものドレスに戻っている。全身傷だらけなせいで、着慣れた服だというのに違和感があった。
「あれが、幽香の襲い方?」
「何言ってるの、私は謂れもなく退治されかけたから抵抗しただけよ」
「抵抗なんてもんじゃなかったでしょう」
町人を盾して一方的に花をばら撒き、家屋を破壊して開けた道から相手の背後に回り、向かってくる人間を驚くほど手際よく撃退していく様は、相手を壊滅させようとしているようにしか思えなかった。そうして幽香は町中を引っ掻き回した末に、疲れ果てた半獣と町人を置いて、同様に疲れ果てたメディスンを引き摺ったまま町を後にしたのだ。
「本当は?」
「ちょっとした遊び。虐めが日課なら、これはたまの贅沢ね」
「……やっぱり」
さっきの半獣(慧音という名前らしい)ではないが、あれでは本当にただ暴れただけだ。妖怪としての存在理由も何もあったものではない。半獣の口ぶりからすると、幽香はこれまでに幾度も『たまの贅沢』とやらをしに人里を訪れたのだろう。メディスンは生まれて初めて人間に同情した。
「そんなことやっていいの? なんとなく、いけないことな気がするんだけど」
「遠慮はしてるのよ。本当なら月一でやりたいのに我慢してるんだから」
「つまり、駄目なんでしょう?」
「まぁいいじゃない。霊夢が出張ってきたなら、返り討ちにしてやるだけだし」
霊夢、というのはメディスンの聞いたことの無い語だった。司法組織みたいな物だろうか。確かにこの妖怪なら、罰されかけても返り討ちにしかねない。
――困った妖怪なんだなぁ
薄々感じていた事を、確信する。幻想郷も案外危険な世界なのかもしれない。
「それに、これできっとメディの知名度も上がったわよ。有名になれてよかったじゃない」
「……私、引き摺られてただけで退治されるかも知れないのね」
無性に不条理だった。
「知名度って言ったって、人形開放について敷衍できてないんじゃ意味ないのに」
「チャンスを見す見す逃してしまったわけね。名を売るのだって妖怪の仕事なんだから頑張らないと」
「幽香に言われたくないわ、それ」
「仕事も真面目にやってますよ?」
絶対に嘘だ。もっとも、その辺りについてはメディスンンも他人のことは言えない。
「まぁ、私も妖怪としての仕事じゃなくて、人形の地位向上のために人間と戦うつもりなんだけどね」
「それでいいのよ」
「え?」
空耳だと思った。耳が信じられなかった。それほどに、優しい声音だった。
幽香の目がメディスンの目を覗き込む。体の内側を隅々まで見通されているかのような居心地の悪さに、身が竦んだ。
「道具は身勝手に扱われるものだけど、だから見下して良いってものじゃない。人形を供養もせず鈴蘭畑に棄て去った人間の傲慢があなたを生み出した。だからあなたは、人間に言ってやればいいのです、『人形を大事にしろ』と。それがメディスン・メランコリーの仕事」
「私の、仕事……」
「間違えちゃ駄目よ。それは人間に自分の憎しみをぶつける事じゃない。自分の思いを押し付けても上手くは行かない。花は花だけで咲くわけじゃないの。太陽や水だけでもない、親の花粉を運んだ虫、隣り合い互いの陰で土の渇きを防ぐ他の草木、土とその土を育んだ過去の草木や獣たちの亡骸の上に初めて一輪の花は咲くのだから。狭い視野の中に篭って、自分が他者と共に生きていることを忘れてはいけない」
思い出した。
馬車を襲う前、幽香が人を襲う理由について説明してくれたとき、その物言いが誰かに似ていると思った。それが誰だったのかを、メディスンは思い出していた。
「妖怪が人を襲うのは、人間に他人の痛みを解らせようって事?」
「そういう言い方も出来るわ。相手の心を解さなければ、自分達だけで孤独な価値観に閉じこもる事になってしまう。自然と不可分の存在でありながら、自分だけを気にして幸せになろう等とは片腹痛いわね」
解る気がした。独り善がりになれば、誰も協力してくれなくなる。それは、とても困る事で、寂しい事でもあると思う。
「幻想郷は広くはないけど、窮屈な世界じゃない。様々な存在が上手に付き合っていける楽しい場所よ。さっきみたいに」
「町で楽しんでたのは幽香だけでしょう」
「あれにしたって、本当に仲が悪ければ血生臭くなってしまうもの。培われてきた関係があって始めて遊びに出来るのよ。でも、限度がわかるまでは真似しちゃ駄目ですからね」
「しないわよ」
「じゃあね。気長に頑張りなさい」
まるで脈絡もなく、幽香は飛び立った。
「え、行っちゃうの?」
「初めから気まぐれだったんだもの。もう気も済んだし、帰るとするわ」
首だけを振り向かせて、意地悪そうに笑んだ。
「今度会う時を覚悟しておいてね。私、普段はこんなに優しくなんてないんだから」
それだけを言い残して、幽香は去っていった。
突然の事に、頭が付いていかない。何故か付いて来た妖怪は、散々メディスンを振り回した末に、梅雨の終わりのようにあっさりと去ってしまった。二輪の鈴蘭だけを残して。
呆然とするメディスンの耳が、鴉の鳴き声を聞いた。林の木に隠れて夕日は見えないかったが、暗み始めた空では既に月が光り始めている。一片の欠けもない満月。これなら、傷の付いた躰も今夜のうちに大分良くなるだろう。傍に浮く小さな人形も、高揚に身を震わせていた。
「共に生きる、か……」
難しい話だった。大切なのは何となく解ったが、具体的にどうすれば良いのか、となると上手い方法が思い当たらない。まだまだ知らない場所も、知らないことも多い。人を襲うにしても、未熟だ。仲間を作る術についても、楽に上達してくれるものではなかった。出来ることは、それほど多くないだろう。
気長に頑張れ、と幽香は言った。想像するだけで胸の奥が重たくなる位に大変そうなことを、簡単に言ってくれた。
何時の日か、自分も多くを知り、大きな力を持つようになるのだろうか。
ふと、幽香のように町で人間達と駆け回る自分を思い浮かべて、メディスンは吹き出していた。
その自分は、その日初めて出会った人形の手を引いて、怒鳴り声を上げて追ってくる人間をあしらって行くのだ。人形は訳も解らないまま、必死になって引かれるままに走るのだろう。
もしも、人形と人間がそんな関係になれたら。
――楽しいだろうなぁ
逆に人形が人間を操るようになる、と言うよりも、遥かに魅力的に思えた。人形にとっても、人間にとっても、この方が楽しいに決まっている。
まだ、他の人形の痛みは解らない。だから、それが人形にとって良い姿なのかも解りようがない。それでも、目指すべき関係の有難さを信じることが出来た。
「頑張ろうね、一緒に」
手に持った鈴蘭の一本を、宙の人形に手渡す。
月光の加減なのか、人形が微かに頷いたように見えた。
あなたが調度視界に入って、気になったから」:調度→丁度
「ボランティアってことでいいわ。唯で許してあげる」/ ともあれ、唯で良いのだと言う。:唯→只、ただ
「譲ちゃん、ペンダントとか買ってかないかい?」:譲ちゃん→嬢ちゃん
「で、でも、こんなに多いなんて思って無くて」:思って無くて→思ってなくて
そんな役は町の乱暴物で十分事足りる!」:乱暴物→乱暴者
離した手で今度は後襟を捕まえて、:捕まえて→掴まえて
誤用?>視界外、真下からは爆音が連呼する。:連呼・これは態と?
幽香がまさに「暴れん坊」って感じ。あとメディはホント素直。娘にしたい。或いは息子の嫁。息子どころか嫁のあてもないけど。
少々殺伐としているところもありますが、テーマ故に仕方無しか?
投票前に出してくれたらきっとメディに一票出していたに違いない
誤字を修正。わざわざ指摘していただいてありがとうございます。
人と妖怪、仲良く喧嘩しな、です。