歌う鼻歌は快調で、箒はどこまでも突き抜けそう。
握り締める感触や、身体にかかる加速度が心地良く、思わず宙返りをひとつしてみたり。
風が鳴る。
風が歌う。
晩夏の夕焼けが黄金色に輝く中、黒い魔女はいつものようにご機嫌だ。
理由は特にありはしない。
強いて言えば、実験し続けていた魔法がようやく成功したことぐらいだろうか。
いくつもの失敗の末、ようやく手にしたひとかけら。
それはきっと、どんな宝石よりも貴重である。
魔理沙の汗と思考を凝縮し、その中から生まれたものなのだ。
嬉しさもひとしお。快哉のひとつも上げたくなるというものだ。
こんな気分の時、魔理沙は霊夢の所に行くのが常だった。
家の中でひとり浮かれているよりも、あの神社で出涸らしを飲んで笑っている方が、なんでだか楽しいのだ。
もちろん、実験が成功したことを言ったりしない。ゼッタイ言わない。
そんなの、まるで自分が霊夢に勝ちたくて仕方ないみたいじゃないか。
そういう『誤解』はゴメンである。
じゃあ、なんで霊夢のところに行くのかというと、これが魔理沙自身にも分からない。
実験の意義も苦労も分からない相手に、しかもそのことを告げずにいるだなんて意味が無い。
独り自室で祝杯を上げた方がまだマシだ。
まあ、だけれど、頑張りに頑張った末に霊夢のいつもの顔を見てると、なんとなく良い気分になれる。それもまた事実。
それは優越感と敗北感が入り混じった、なんとも表現しようの無いモノである。
――これでまた一歩、コイツに近づいた。
――これだけ頑張っても、まだコイツを追い越せない。
二つが混じった心模様。
悔しいのか嬉しいのか、よく分からない。
越えられないことが、ひょっとしたら楽しいのかもしれない。
完全に越えてしまったら、こんな楽しくないのかもしれない。そんな風に思うことすらある。
「っと、行き過ぎるとこだったぜ」
きゅきゅ! っと空中で急ブレーキをかける。
ウイリーによる制動から、そのまま一回転。
落下とかわらぬ急降下で神社を目指す。
『背景』としてしかなかった景色が、凄まじい勢いで拡大する。
地面すれすれで柄を起こし、同心円状の土煙を上げる。
夏特有の、乾いた砂が舞い上がる。
「おーい! 霊夢ー!」
そのまま軽快に飛び降りて、神社の外から呼びかけた。
以前、無断で侵入しようとしたら夢想封印された経験があるので、以来、なにはなくとも一言伝えるようにしてるのだ。
「おーい、いないのかー?」
言いながらも近づき、扉に手をかける。
わずかに「開いてるわよー」という声が聞こえたので、ガラガラ開く。
この辺の鷹揚さ、呼吸はいつものこと。
自分の家のようになってる神社だ。
その内に専用の私室も造ろうかというほどである。
「ン?」
違ったのは、ここからだった。
料理でもしてたのか、三角頭巾と割烹着を着た霊夢がトコトコと近寄る。
いつもなら、黙って入るのが暗黙の了解だったので、少しばかり違和感を感じた。
出迎えてくれるだなんて、一度もなかったこと。
「あー、出迎えご苦労?」
片手を上げて鷹揚に言う。
言われた霊夢は、なんだか奇妙な顔をしていた。
困ったような面倒臭そうな、「どうすっかなー」という表情だ。
ほんのりと、ごく僅かに頬が赤い。
「あんたって西洋の魔女なのよね?」
「ん? この麗しの金髪が見えないのか?」
「そうなんだよね……」
自慢げに見せる魔理沙に対し、霊夢は大仰な溜息をついた。
「ま、仕方ないか……」
「え、あ、っと? おいッ!」
霊夢が近寄る。
土間で立ってる魔理沙に対し、跪くようにして高さを合わせ、
チュっ
――キスをした。
……ばん!
どんがらがっしゃん!
ずざざざざ!
上から順に、後ろの扉を叩いた音。
その扉が暴れた音。
魔理沙の足が空をかく音、である。
「――――!!!!!!!!」
魔女は声にならない声で絶叫する。
顔は赤かったり白かったり青だったりと七色変化を起こしてる。
口は酸欠の金魚のようにアウアウと開閉し、黒の三角帽子はズレて今にも落ちそうだ。
涙目になりながら霊夢を指差し、糾弾しようとして、ふと我に帰る。
――今のは、本当にあったことなのか?
魔理沙はブルブルと震える指で、違和感がありすぎる唇をなぞってみた。
そこに残る感触は、夢や錯覚なんかではまったくなかった。
この唇に、つい10秒前『なにか』が触れた。ゼッタイ触れた。
霊夢の唇が――
「~~~!!」
ぼふん、と湯気を上げて再赤面。
これが風邪なら40度オーバーの高熱である。
――なんで?
――どうしてだ!?
理不尽やら疑問やらが、魔理沙の理性を木っ端微塵に砕いてた。
「? どうしたのよ、上がれば?」
首を傾げてる巫女は、いつも通り。
おかしな行動をとってる魔女を、怪訝そうに見てすらいる。
「おま、だっ! わっ!?」
自分が大切に取っておいた『はじめて』を、こんなにもアッサリ奪っておいて、なぜこんなに冷静なのか。
言葉と行動と思考が繋がらない、なんかもう、泣きそうだ。とりあえず霊夢をぶん殴らなきゃと強く思う。
「なによ、まだ足りないの?」
その様子をどう勘違いしたのか、
面倒ねー、などと言いながら、霊夢は再び腰を屈めて、
――ちゅ
また接吻した。
「――――!!!!」
今度こそ、ノックアウトだった。
くらん、と延髄あたりの血が止まり、成す術も無く腰が抜け、土間に座る。
頭の中は真っ白。
博麗霊夢が霧雨魔理沙にキスをした事実だけが、壊れたレコードのように繰り返された。
その目が映している光景――天使がラッパを吹きながら自分のところにやって来てるのは、果たして幻覚なのか現実なのか。
ああ、ぱとらっしゅ、なんだか気分がハイになってきたよ。
というかアレだ、今のはひょっとして告白? 愛とかラブとか求婚!? 結婚→新居→愛欲→出産!!? まだ心の準備が出来てないというかちゃんと順を追ってして欲しいなーというか白無垢着るのはどっちだというかウエディングドレスがいいんだけどやっぱ神前じゃないと駄目!?
けど、やっぱ女の子同士だしそこは色々問題が……
あ、いやいや、ここは幻想郷。
まったくもって無問題。
むしろ推奨? というか常識?
……パソコンなら、基盤が溶解しそうなほどの熱暴走だった。
脳細胞はきっと、面白いほどに『がー』っと死滅をしてる。
「なによ」
巫女は不機嫌そうに、茹でタコ以上に真っ赤かな魔女を睨んだ。
両手を腰に当て、妄想劇場只中の魔理沙(現在、結婚十周年、笑顔を浮かべて五歳の我が子を幼稚園に送っている)を見下ろす。
「――――これって、西洋式の挨拶じゃないの?」
「はひぇ?」
魔理沙はなんとか我に帰る。
返事が夢うつつなのはご愛嬌。
「キスが西洋での正式な挨拶だから、そうするべきって聞いたんだけど?」
「だ、誰に聞いたんだ、そんなこと」
――そんな嬉しくも素晴らしい真実を。
いやいや違う、そんなデタラメを!
「パチュリーからよ。もう行くわよ?」
踵を返し、居間へと行く。
その背中を呆然と見る。
パチュリー?
あのパチェが? 引き篭もりの虚弱体質が?
この夏の日差しの炎天下の中、パチェ主観で言えばきっとタクラマカン砂漠単独横断並の労苦を押して、博麗神社にわざわざ来た?
妄想に染まっていた脳みそを、いざ現実へと引き戻してみれば、ここでも信じ難い状況だった。
あのむらさきもやしが外出なんて、それこそネッシーが空を飛ぶほど珍しい。
明日の文文。新聞の一面は決まりだ。
『動かない大図書館、動く!――――洪水、雹、竜巻、雷雨、地震に天変地異にはご注意ください』とか。
魔女は首を傾げる。
立ち上がり、背を追いかけながら訊いた。
「ホントに来たのかー?」
「ウソ言うわけないじゃない。なんの用事か知らないけど、昨日、たしかに来たわよ」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「生きてたか?」
「半分死にそうになってたわ」
「そりゃそうだろうな……」
痛んだ髪の毛を悲しげに見つめ、ハーフ即身仏になりながら歩くのが想像できた。
ふーむ、と魔理沙は眉寄せ腕を組む。
気分は名探偵。
謎が謎を呼ぶ事態。
そう、一番の問題は――
「パチェのやつ、なんで」そんな嘘八百を言ったんだ?
後半の言葉はもちろん飲み込んだ。
西洋式の挨拶といえば頬に軽くキスが一般的で、マウストゥマウスなんかでは無い。
知識人を自認してるパチェが、そのことを知らないはずがない。まして、生まれはあちら方面だろう。
自分が体験したことを、間違って教えるなんて間尺に合わない。
博麗神社に来てまで、『それだけを言う』必要性があるのだろうか?
つまりこれは、わざわざ嘘をつきに来た、ということ。
首を傾げる。
疑問が、暗雲のように渦巻いた。
一般的に、それは『嫌な予感』と呼ばれるものだ。
「な、なあ」
「んー、なによ」
霊夢は頭巾を結びなおしながら、振り返りもせず言う。
「パチェが来た後に、ひょっとして誰か来たか?」
それは最悪の予想。
絶対に当たって欲しくない直感。
否定して欲しいと望んだ言葉だったが――
「ええ、来たわよ、レミリアが」
――ビンゴだった。
魔理沙の頭が冴える。
思考がこの上なく冷静になる。
「ふーん、そかそか」などと返事をしながらも、魔理沙はことの成り行きがすべて飲み込めた。
霊夢は、この幻想郷で唯一、『伝統』を保守する存在である。
古来から脈々と伝わるそれに、どういう理由でだか固執をしてた。
他の妖怪や幽霊が勝手気ままに過ごし、あるいは自分で定めた信条に従い、あるいは力によって押さえつけられてる中、彼女だけが『外部の無意味な規則』に従っている。
それは神社のものが大半だが、他の伝統も認めてた。
アメリカ原住民の挨拶の仕方を知れば、出遇った時にするだろうし、月住民の挨拶の仕方を知れば、「めんどーだなー」と言いながらもやるだろう。
そして、西洋の挨拶を覚えれば――
魔理沙の心中で火炎が踊る。
レミリアはそのことに思い至り、パチェリーに命じたのだろう。「西洋の伝統的挨拶はキスだと伝えろ」と。
そしてその後で、得意満面かつ意気揚々と、神社を訪れる。
目的は、もちろん、ただひとつ。
まるで当たり前のことのように、玄関先で唇を突き出すレミリア、それに当たり前のように応える霊夢の姿――
――魔理沙の拳に、コンクリートを握り潰せるレベルの力が込められた。
それはきっと現実に、昨日あったことなのだ。
魔女は奥歯を噛み締める。
自分でも意外な程の殺意が沸いた。
鋭い双眸の奥に『怨』の一字が浮かぶ。
「ゆるせねぇ……」と呪詛満載に呟き、高まる魔力が足元で躍る。
外で鳴いていた蝉の声が、なぜか唐突に静まりかえった。
自分もその恩恵に与ったことは遥か上空の棚に放り込み、魔理沙はただひたすら呪念を凝らす。
きっといま藁人形を打てば効果抜群だろう。この一念を前にしては、岩どころか金剛石すら砕け散る。
「――でも、私の顔見たらすぐに帰ったけどね」
「へ?」
「まったく失礼よね、なにが「臭い」よ」
「え、あ、おい?」
とことこと歩く様子は、微塵も揺るがなかった。
魔理沙の拳の先から、ぷしゅー、と蒸気が抜けた。呆然と先ゆく霊夢を眺める。
さっきから気持ちが上がったり下がったりで大変だ。
「え、ええっと? レミリアに『挨拶』はしなかったのか?」
かなり恐る恐る訊く。
「しなかったわよ?」
「な、なんじゃそりゃ」
「こっちが聞きたいわよ、いきなり玄関口で引き返したのよ? なんにも言わずに、いきなり」
「謎だな」
「謎よね」
どういうことだと魔理沙は首を傾げる。
そこまで来て引き返すなんて、自分だったら絶対しない。
天変地異が起ころうが実行する。
「んー?」
なのに『挨拶』もせずに帰った、だって?
いったいどんな突発事態が起きたんだ?
しかも、行ったのは『昨日』である。
魔理沙がここに来るまで、二十四時間以上も時間がある。
どんな理由で引き返したか知らないが、日傘さえ差せば日中でも行動できるなんてインチキ吸血鬼は、何故、いままで何もしていないんだ?
疑問がぐるりぐるりと渦を巻く。
なんとも、納得できない事態である。
思わず立ち止まって考え込む。
「夕御飯、食べていくんでしょ?」
顔だけで振り返り、霊夢は訊いた。
その視線は顎に手を当て、見えないパイプを燻らせ、架空の助手に「なに、簡単なことだよ輪戸損君」とか呟いてる魔理沙を暗に非難していた。
霊夢からすれば、この腐れ縁が先ほどから奇行を繰り返してるとしか見えないのである。
「お? おう、もちろんだぜ」
返事をし、止まっていた足を再稼動。
「まあ、悩んでいて答えは出ないか」と心の中で嘆息し、探偵気分を解除する。見えない助手にも別れを告げる。
このまま考え続ければ、折角の夕飯が消えてしまう。
思索はいつでもできるが、霊夢の料理には滅多にありつけないのである。
どちらが優先されるかなんて、火を見るより明らかだ。
「もう……ちょっとは手伝いなさいよ?」
「客は黙って待ってるのが仕事だぜ」
「我が神社ではそうなってないの、文句を言わずに働きなさい」
「ひでー神社だ」
「タダ飯食って文句を言わない」
「ウチに来た時は奢ってるだろ? ホラ、これで差し引きゼロだ」
「あんたの所は妙に埃臭いから食欲がうせるのよね」
「あの雰囲気を理解できなきゃ蒐集家はつとまらないぜ」
「でも私、物持ちはいいわよ?」
「そりゃあ、ただの貧乏性だ」
居間に続く障子に突き当たる。
霊夢は建てつけの悪いそれを、気軽にすっと、一息に開いた。
何度見ても魔術のようだと魔理沙は思う。
自分がやった場合、そんな風に開いたことは一度だって無い。
「ン?」
魔理沙は鼻を動かした。
妙に刺激的なニオイが鼻をつく。
「なあ、霊夢、昨日なに食べた?」
「んー、なんだったかなぁ……」
「思い出せないのは痴呆症への第一歩らしいぜ?」
「なによそれ。えーと、んー……」
「ちょっと邪魔するぜ?」
黙って侵入し、ちゃぶ台の上にあった小さな壺に近づく。
職業・魔女としての魔理沙の勘は、それを開けろと囁いてた。
直感の導くままに、フタを開けると――
「…………あー」
謎が、解けた。
名探偵も名推理も必要なかった。
現場に到着しただけで解決である。
犯人はこの中のあんただ! というか、あんたナイフ持って血まみれだし! みたいな。
なんだか肩口からどっと力が抜けた。
魔女は「ああ、そうだな、そうだぜ、いや分かるぜ……?」と疲れ切った表情。
昨日のレミリアが、涙ながらに踵を返し帰って行く光景が、あまりにくっきりと幻視できた。
ちょっとばかり同情すらしてしまう。
(そりゃ、仕方ないよな)
「ちょっと、まだ食べないでよ」
「食べるか、こんなもん!」
「? 美味しいわよ、それ」
「息が臭くなるだろ」
「気にするほどじゃないんじゃない?」
「ちっとは気にしろ」
――小壺の中、香りも高く鎮座している物体は、紛れも無く燻製ニンニクの群れだった。
ワーオ
相変わらず春度高いですね(鼻血
「? どうしたのよ、上げれば?」
なんつーか、レミ様南無。あと友人の頼み事は断れないパチェ萌え。
納得・・・・・・・・。