それは白玉楼の昼飯時、かちゃかちゃと茶碗と箸が擦れ合う音の響く頃。
年季の入った卓に、相も変わらず魂魄妖夢と西行寺幽々子が向かい合い、箸を進めている。それはありふれた日常の風景。
妖夢が漬物に箸を伸ばすと、それより一瞬早く幽々子の箸が胡瓜に達する。うっ、と呻く間もあればこそ、左目で秋刀魚にフェイントを掛け、返す刀で里芋の煮っ転がしを襲撃する。が、時既に遅し。妖夢の右目が捉えたものは、しかし。
「なっ……!」
「甘い。あなたは甘いわ」
煮っ転がしは、幽々子の箸に陥落していた。
山の中の一個が幽々子の口に放り込まれたとて、別に全て平らげられた訳でもない。けれども、妖夢は刀遣いの端くれとして、己が教鞭をふるっている分野において、教え子にあたる人物に遅れを取るのが悔しくてならなかった。箸を握った掌が震える。
けれども、肩を落としたところで食卓の品が確実に漸減するだけなので、妖夢は歯を食いしばって自陣の秋刀魚を粛々と啄ばんだ。うまい。やはり旬の秋刀魚は脂がのっている。大根おろしもすだちもかぼすも必要ない。そのまま焼けば万事オーケイである。
「妖夢ー」
「はい何でしょう、って言ってる間に食べないでくださいっ!」
突如、身を乗り出して妖夢の陣地に攻め入る西行寺単独軍。その神速の箸捌きは、前西行寺家専属庭師として名を馳せた、魂魄妖忌が己が主と相対した時に見せるそれと同一のようにさえ思えた。修羅と亡霊、その心根は痩せ細った餓鬼と言えど、瞳に灯る紅き炎はまさに煉獄の焔。
だが、惜しむなかれ。悲しみに咽ぶなかれ。
この場に居るのは、その愛弟子たる魂魄妖夢その半人半霊である。
一手は許した。が、二手三手は妖夢が先を取る……!
「そういうのは、お行儀が悪いと本に書いてありましたよ……!」
「速っ! 今日のあなたは速いわ妖夢!」
敵陣に特攻し、韋駄天の足を借りて秋刀魚のはらわたを掠め取る。はらわたと嘆く前に、次にいかなる城砦を落とすかを考えよ。既に左の手袋は投げられた。賽は、こないだ博打のかたとして紫に奪われたきり帰って来ない。きっとマヨヒガの隙間に眠っているのだろう、そして自分はいつかそれを探す旅に出るのだろう、と妖夢は煮っ転がしをニ、三個ほど口の中に放り込みながら、己の不遇を楚々と嘆き、束の間に諦観した。
「――」
「――」
そして、膠着状態。全く動けない。微動だにしない。
というより、もう食べられるものが限られている。里芋の煮っ転がし、漬物、秋刀魚の骨……は例外。大根おろし、すだち、かぼす……いや、幽々子が手を付けた。
両者とも中腰の状態になり、片手に茶碗、片手に箸をかざしたままで、狙うべき価値のある食物を目で追っている。主だから、従者だからと油断し、道を譲ってはならない。食い物の恨みは恐ろしい。食卓は戦場だ、誰かピアノ持ってきてなんか弾け。なんとか線上のアリスだかそんなの。
それでいて、台の上に秋刀魚の骨や味噌汁の欠けた豆腐が飛び散っていることはない。豪胆にして華麗、俊敏にして流麗。理想的な戦いが、ここにはあった。
「――幽々子様」
「何かしら、妖夢」
「ご食事中に立ち上がるのは、いささか品が悪いかと」
「それを言ったら、妖夢だって――」
この隙を狙っていた。ノーモーション、無駄な筋肉の動きなど一切ない、点から点へ移動する幽々子の箸は。
完全に、妖夢の虚を突いた。目も追い付かない、箸も追い付いていない。勝った! 幽々子は勝利の確信をよだれに変える。
真っすぐに、残されたニ個の煮っ転がしを狙い澄まし――。
衝撃が、いやに重い。
やはり食卓は、幽々子の膂力では貫けない。
「……妖夢、あなた」
絶望と、疑問に顔を上げる。そこには。
「この苦節」
白く滑らかな身体から、一膳の箸を突き出した半霊と。
「いかに未熟とて、二度は味わいません」
その先端に刺さっていた、煮っ転がしを頬張る妖夢がいた。しかも二個。
これで煮っ転がしは死んだ。否、妖夢の血となり肉となる。それは認めよう。認めなければ、先に進めない。失望を越え、絶望に震えても、悲しみをよだれに変えて幽々子は立ち上がる。さっきからよだれが溢れているのはどうすればいいんだろう。
「妖夢、次は必ず……獲る」
「出来ますか。ただ、出されたものを胃に収めることしかしていなかった、幽々子様が」
格好いいことを言っているようだが、よくよく考えるとそんなでもない。
何故か不敵に微笑んでいるのも、なんか貴重だわーと思うことにする。
「というか、あと一個なのよね。漬物」
「胡瓜……。曰く、胡瓜を笑うものは胡瓜に泣く、と言います」
それはきっと違う。
と思ったが、やはり声には出さない。雰囲気というのは意外に大切なのだった。
「――次の一秒で」
「勝負は――決します」
いざ、決戦の時。
かち、かち、と、戦場を震わす柱時計の無機質な音色。庭からは、何の閧も聞こえない。それもそのはず、この冥界で生者の真似が出来るのは、この場所で相対しているわずか二者より他にない――。
半霊は、あらかじめ妖夢の後ろに控えている。あれは、半ば反則の一閃だ。それを幽々子は許容した。切り札はたった一度のみ許される。何故なら、一度使えば二度は通じないからだ。
一方、幽々子はまだ手札を切っていない。彼女は今まで、全て己の技量だけで攻めていた。兵法も戦法もなく、ただ食欲のままにがむしゃらに飛び込んでいただけなのに、百戦錬磨を謳う魂魄の二刀が、ついぞ白旗を揚げるのもやむなしという段階にまで追い詰められてしまった。
これで退いても、敗北ではない。名誉の撤退に値するだろう。
「……ふ……」
だが、妖夢は決して退かない。主であれ、主だからこそ。退いてはならない一線がある。譲ってはいけない誇りがある。
いざ。
いざ。
「――――」
「――――ッ」
先攻は妖夢。己の全てを注ぎ込んだ、雷鳴の一撃。けれども、胡瓜を破壊することはない菩薩の手。
後攻は幽々子。確実に、妖夢の箸が動くのを見てから動いた。距離はほぼ等しいが、腕の長さも箸の長さも遜色ない。時間と速度を越えるには、何か付随する要素が必要だ。幽々子は、点から線へ箸を揺るがす。
軌跡は共に優雅な弧を描き、どちらか漬物に触れた時点で何もかもが終わる。
だが、本当は。
この戦いが始まる前から、勝敗は決していた。
妖夢の箸が、一切れの胡瓜を捉える。
獲った、と妖夢の顔が綻び――次の瞬間に、その感触が何か硬い物を刺し貫いたものだと気付くまで、そう長い時間は掛からなかった。
箸は、胡瓜を通り過ぎ、あろうことか白磁の皿を貫いていた。
その並外れた膂力はともかくとしても、何故、箸は胡瓜を捕らえなかったのか。それは、それは――。
認めたくない。けれど、認めなければならない。
この勝負――。
「私の、負けです……。幽々子様」
ようやくその箸と茶碗を置き、畳に両手両膝を突いて敗北とする。
幽々子は、どっかから取り出した扇で口元を隠し、口の中をしきりにもごもごさせていた。その笑顔は、誰が見ても満ち足りたものであった。
――速度には意味がない。あるのは、力の使い方だ。
胡瓜の『死』を操り、その魂を口の中に放り込む――。
見事だった。ここ一番で切り札を使い、従者の反逆を完膚なきまでに叩き潰した。
幽々子は、愕然と肩を落とす妖夢に優しく語り掛ける。勝者の言葉など、敗者は必要としていない。だが、初めから勝者も敗者もないのだとしたら。それは、優越感にまみれた台詞ではなく、真に相手を思いやる温情となる。
「妖夢、顔を上げなさい」
「……ですが」
「あなたは、誇ってもいいのよ。持つべき一線を見定め、決して譲りはしなかった。西行寺家のものとして、その線を見極めることは、何より肝要なことなの」
「ゆ、幽々子様……」
「嘘だけど」
「嘘なんですかっ! あーもう最初から分かってましたけどねー!」
「ああ、それから割った皿は弁償しておいてね」
「やっぱりー!?」
めでたしめでたし。
無駄にカッコイイ主従、プラス美味しいオカズ達
最後のキュウリは首を吊って、大喰らいのエサとなった
合掌
ケツメイ並……くらいかなと思えるくらいの不思議ワールド、ありがとうございます。
めっちゃかっこいいねん。かっこいいねんけどなんで食事なん?
でも胡瓜の漬物はうまい。だからよし。(何