私は彼岸花が嫌いだ。
特に理由はないけれど、強いて言うならあの見た目が癪に障る。気味が悪い。あれが三途の黄泉路に敷き詰められている様を想像するだけで、背筋が凍る。ああ嫌だ、私が死して三途の川を渡る時には、後生だからあの花が無い時期に渡航したいものである。死んだ後に後生と言うのも奇妙な話だが、三途であれ黄泉路であれ、死の先に道があるのならそれは生きていることになる。蓮子に言わせれば、それこそ主観的な真実なのだろうが。
で。
長々と前置きをしてみたが、やはり私は眼前に広がる光景を認めることが出来ない。
いくら平静を取り繕おうとしても、どうあっても眉間に皺が寄り頬が引きつり眉が潜まり表情が曇ってしまうのだ。生理的な嫌悪感というのは、確実に理性より早く表層へと進出する。蛇に睨まれた蛙は凍らざるを得ず、夏に飛ぶ虫は火に入らざるを得ない。ちょっと違う気もする。が、今はそれどころではない。
本日は晴天なり。
私が生まれる遥か以前に終わった戦争の終結を記念する、葉月の十五日。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。それとはあまり関係なく私はここに立っている。バケツと柄杓を片手に、掌は額に、不快感を脳髄に叩き込みながら、それでも何とか、先人の教訓を胸に抱き頑として立ちはだかることを覚えた。
繰り返す。
本日は晴天なり。
墓参りには、良い天気だ。
ところで、今年に限って何故に彼岸花が咲き誇っているのか。
抜くぞ。
「メリー、ちょっと顔が物騒」
「知らないわよ」
「でも、通報されたら何かと面倒だし」
「私は指名手配犯か」
「……」
「何故悩む」
蓮子は答えず、無言のまま墓石に水を遣る。じりじりと石畳を焼き焦がす太陽の下に、うら若き女性が揃いも揃って何をしているのだろう。無意味な自問自答に浸ってしまいそうになるが、先祖を敬う心そのものを軽視している訳ではない。
ただ、暑いと。
八月でこの調子なら、残暑と呼ばれる時節はどのくらいになるのだと。
大気の境界を横断する傍若無人な前線に、人知れず愚痴を零したくもなる。
その間も、蓮子は黙々と墓碑に潤いを与えていた。
「よく飽きないわね……」
「飽きるとか飽きないとか、楽しいとか詰まらないとかじゃないと思うよ。こういう儀式は」
「冠婚葬祭ねえ。でも、祭りは楽しいんじゃない? まあ、あの辺じゃあんまりないけど」
蓮子は、半分ほど水が入った古いバケツに柄杓を突っ込み、うーんとわずかに唸ってからこちらを振り向いた。彼女も私もしっかりと帽子を被っており、日射病と紫外線対策は万全である。
まあ、ごく稀に夏に飛ぶ虫みたいな末路に至ることもあるが、現実の全ては結果オーライで成り立っている。誰が言ったか知らないが、つくづく的を射た表現である。救いようがあるのかないのか分からない点も含めて。
「祭りは、あれでしょ。花火大会とかあるじゃないの、河川敷で」
「あれ、祭りって感じしないのよねー。独りよがりってんじゃないんだけど、みんなで盛り上がってる感じがしなくて。喜びや驚きを共有している、てのはあるでしょうけど」
今度は、燈籠に巣食った蜘蛛の巣を割り箸で絡め取る。いっそのことライターで焼き尽くしたらどうか、と細長いそれを差し出すが、蓮子は片手で申請を却下した。こういうところは頑固である。
「それでいいのよ、祭りは。やることに意味がある。伝統で守れるものは伝統しかないけど、そこに込められた想いが続いて行くっていう理念も、近年稀に見るロマンじゃないかしら。……あ、でっかいの取れた」
「蜘蛛の巣をこっちに向けない」
小学生か。
逃げる私も私だけど。
「どうでもいいんだけど、耳掃除してるとさ」
「その先は言わなくていいから!」
割り箸に纏わり付いた蜘蛛の巣は、短期間の内に蟷螂の巣に進化していた。
たまに、蓮子が分からない。いろんなものに興味関心があるのは好ましいが、何でもかんでも興味本位で手を伸ばすのは勘弁してほしい。爆心地に隣接しているのが私だからこそ、説得力のある台詞ではなかろうか。これを言うと蓮子が傷付くので、あまりに独善的な場合にしか懐刀は抜かないけれども。
でも、ロマンか。
飛んで火に入る虫の全てがロマンチストとは思わないが、百年も千年も、無駄に長々と脈々と受け継がれてきた伝統も、そう評された途端に輝きを増すような気がする。それが虫の良い幻想と知っていても、綺麗なんじゃないかと笑えるのだ。
「メリー」
「……なに?」
「文句ばっかり言ってないで、メリーも働く」
私の口がへの字になった。
鏡を見なくても分かるから不思議なもんである。
「……やる気あるの?」
「無いわよ」
「燃やすわよ」
どこを、とは聞けなかった。
全部とか言うだろうし。
「よし分かった。彼岸花をあらかた引っこ抜くわね」
「……そんなに嫌いなの?」
「嫌いね。犬猿の仲とはまさに私と奴のことを指すのよ」
「桃太郎ではあんなに仲良かったのに……」
そういう問題か。
そういう問題なんだろうなあ、と青いバケツを突き出す蓮子を一瞥して、思った。
霊柩車に乗っているのは、私が好きだった人の成れの果てだ。
認めようが認めまいが、それは、赤紫に咲き誇る回廊を厳かに抜けて行く。
何もかもが残酷に見えた。
無慈悲に通り過ぎる機械仕掛けの火車を、幼い私は、抗うことも出来ないまま、黙って見送るしかなかった。
私や蓮子の先祖が眠っている墓は、こことは別のところにある。
血筋も縁もほとんど存在しない墓地で、名も知らぬ家の墓碑を見舞っているのだ。実に滑稽である。因果応報、自業自得。これほど私たちに相応しい箴言もないだろう。
「……ふう」
蝉の音は、もう聞き分けられないくらい喧しく鳴り響いている。辛うじて、蜩らしき声だけは判別出来た。
額に伝う汗を拭って、なみなみと注がれたバケツの取っ手を掴む。
――以前、蓮台野の境界を明かしたことがあった。
墓荒らしと蔑まれても反論出来ない所業に及んだ結果、ある墓石を引っ繰り返して私たちは目標に到達した訳であるが、ここで問題が生じた。
証拠の隠滅である。
目的を達した後、浮かれ気分だったこともあってか誰も墓石を起こして来なかった。罰当たりにも程がある。
私たちは結果だけを得て満足し、その過程に発生した犠牲のことなど忘れ呆けていたのだが、どこをどう調査したのか知らないが、件の墓地の管理者から突然電話が掛かって来た。それは注意や苦情と言うよりは要請や恫喝に近いものであったが、退学の危機に晒されることにもなりかねないため、私たちは泣く泣く例の墓地まで馳せ参じることになったのである。
人間、悪いことは出来ない。
悪事と自覚していなくても、罪の名の下に罰されることは往々にしてあるものだ。
「重い……」
昨夜の雨に濡れた雑草は、歩を進める度に不快な感触を残す。余計な重みを抱えているなら尚更だ。千鳥足ながら、無粋な虫の応酬にも負けずに目的地へと急ぐ。
蓮子は、供物の準備をしているようだ。その背中に悪戯心から水を掛けようかとも思ったが、彼女が急に振り返ったからその計画は呆気なく頓挫した。
「お帰りなさい。遅かったわね」
「仕方ないでしょう。このバケツ、蓮子みたいに重いんだから」
蓮子は無言でバケツを受け取り、その際に火の付いた線香を私の手の甲に押し付け、
「……私、冗談の分からない子は苦手だなあ」
ようとするその前に、逆の手で線香を掴み取る。
どこまでも笑っていない瞳が印象的だ。普段は無邪気に澄んでいるのに、その眼を拝めないとは誠に残念である。彼女の内に秘めた地雷を完膚なきまでに踏み締めたのは、他ならぬ私だけれども。
「私は、冗談でも真実でも、意味の分からないことを言う人は嫌いよ?」
要するに、触れてくれるなということらしい。
私も熱いのは嫌なので、可及的速やかに承認致します。
バケツを置き、久しぶりに酷使した腰を労わる。ろくに手入れもされていない墓場は、凸凹だらけの荒れ地に等しかった。風化した石の凹凸が、掌に痛い。手に持っていた線香を、手前の地蔵さんに捧げる。
私と蓮子がいるだけで、身動きが取れないくらい狭い空間。燈籠と墓石、地蔵と石碑があることを考えれば、豪勢とは言い難くとも相応の面積を誇ってはいるのだろうけど、やはり、生者には居辛い場所だ。
そこにおいても、蓮子は蓮子らしく、やるべきことを難なくこなしている。ように、私には見えた。
「出来れば、そこらへんの草も刈って欲しいんだけど……」
「あれ、鎌なんかあったっけ?」
手頃な墓参り道具を詰め込んだスーパーの袋、供え物を乱雑に突っ込んだ段ボール、それから四季折々の(合成の)花束、それ以外にはバケツと柄杓くらいしかない。蓮子も、その決定的な事実に今頃気付いたようだ。
「ほら。やっぱりないじゃない」
「……じゃあ、手刀とか?」
「どこの達人よそれ」
無理なものは無理なので、燈籠の陰に退避することに相成った。前言の通り、彼岸花または曼珠沙華御一行様を素手で引っこ抜く案も残されてはいたが、本気と冗談は区別すべきである。
一方、働き者の蓮子と言えば、ダンボールに手を突っ込んでは缶ビールやら缶コーヒーやらを引っこ抜いている。管理人さんから、烏や猿が供物を荒らすので、一通り供えた後はそちらで処分してください、などとにこやかに言っていたことを思い出す。
結局、葬祭の儀さえ生者の都合によって成り立っているのだ。
世界は生者に動かされている。だが、死者が生者を動かすこともある。例えば、それがお盆の墓参りだったり、遺言だったり。
「それにしても……」
どうも、蓮子が選んだ供物は現代人の嗜好に偏り過ぎている。天然物が入手し辛い昨今において、貧乏学生とは言わずとも、裕福とも言い難い学生の身分ではなかなか奮発し辛いものがあるにせよ、少しは情緒とか風情とかいったものを考慮すべきではなかろうか。
身銭を切るのは蓮子だから、私は好き勝手に言うだけなのだけど。
「ビールとかコーヒーとか、そんなの昔の人は飲まないんじゃないの?」
「だから良いんじゃない。昔の人に、今はこんなのを飲んでるんですよって教えられるんだし。お茶とか饅頭とか団子とか、何十年何百年と食べさせられたら誰だってしんどいでしょ」
「それは、確かに正論だけど。蓮子が言うと、何だかはぐらかしてる気がするのよねえ……」
小さく鼻を鳴らす。
蓮子は、さも当然のように告げる。
「じゃあ、幽霊にでも訊いてみればいいじゃない」
「頑張ればどうにか訊けそうな気がするから、嫌」
顔をしかめる。石段に掛けた掌が、灼熱の光線に当てられて不気味な赤みを帯びていた。
墓碑にアルミ缶を一通り並べ終えて、蓮子の手が一束の線香に伸びる。
先端にライターの火が灯り、ほのかに寂しい香りが漂う。
薄く立ち昇る白煙は、誰憚ることなく、一目散に天上へと逃げていった。
私が彼岸花を嫌うのは、否応無しに終わりを突き付けられている気がするからだ。
大好きな人と手を繋いでも、片方の手は空を掴む。地面に張り付いた足は深く根を張っていて、空も飛べずに白煙を仰ぐ。
灰の煙が空に昇るのならば、大好きだった人はきっと天国に行けたのだろう。
だから、怖かった。
満たされて空を往く人の踝に、みすぼらしく五指を伸ばす花弁が恐ろしかった。
天上の糸は、死に往く魂の足首だ。
地獄の猛者が翳し続ける掌は、硬く固められた大地を突き破り、分不相応な楽園を目指す。
私には、それが辛かった。
墓石の裏に、何か文字が書いてある。読もうとしても、風化が激しいことに加え、草書だか行書だか分からないが現代離れした筆記体で彫られているため、正確には解読できない。
何となく、『土』のような文字があるのは分かるのだが。
供え物のビールは早くも蓮子の手の中に回帰し、私もペットボトルの紅茶を片手に検分を進めている。
前回は、深夜の徘徊ということもあり十分な調査は出来なかった。こちとら交通費負担で遠く離れた僻地まで馳せ参じてきたのだ、墓掃除だけで失礼しましたと踵を返すのは、秘封倶楽部の沽券に関わる。
「蓮子、古典の成績は……」
「どうでもいいけど、赤点と赤本って似てるわよね」
「ごめん」
ここは素直に謝った。いいよいいよ、と慈悲深く笑う蓮子に後光が差していた。
それはともかく、紅く染まった彼岸花に囲まれての調査だ。本腰を入れて、とはいえ、多少腰が引けてしまうのはご愛嬌である。
蓮子は、車を洗うための太いブラシで墓石を磨いている。そうしたところでブラシの羽根が傷むだけなのに、建立当時の輝かしさを取り戻そうとばかりに石を擦り続けている蓮子を見ると、ただ黙ってお茶を飲んでいる自分が馬鹿みたいに思えてくる。
何か、仕事をしていないと居場所がない。
私は、汚れが溜まってどす黒く変色したバケツの水を替えてこようと、慌てて取っ手に手を伸ばし。
「――朝早くから、精が出ますね」
時代劇の銀幕から抜け出してきたかのような、妙齢の和服美人と目が合った。
誰だろう、と頭の中を検索して、声紋の分野から即座に解答を弾き出す。話した回数は蓮子の方が多いけれど、私も何度か受話器越しに会話している。
しかし――。
日傘と言うよりは番傘に近いか、結い上げて纏めた緑の黒髪に、刺した髪留めはカンザシと呼ぶべきか。唇にはうっすらと紅を差し、白と黒を基調とした着物は、豪奢と言うよりも荘重と言った方が相応しく。
「どうも初めまして。私、こちらの墓地を管理している者です」
頷くように会釈し、彼女は目前の墓石と相対した。
その瞬間、月並みな言い方をすればタイムスリップしたかのように、言葉を飾るのなら、霊園の時間が過去のある一点に収束し、まるで私と蓮子の方が異端であるかのように感じられた。けれど、錯覚は錯覚であり、ここは現代で、目の前の女性もこの世に存在している人間だろう。
推量になってしまうのは、私たちが例外的な事例を目の当たりにしているせいなのだが。
和服姿の女性は、墓石に何事かを呟いた。
故人に捧げる言の葉か、単なる確認作業かは分からない。
ただ、私には及びも付かないことなんだな、というのは、彼女の容貌を一瞥してみれば容易に分かった。
「――あの」
女性の傍らに出たのは、蓮子だった。
この場の幽玄な雰囲気にも惑わされず、訊きたいことを素直に訊くことの出来る猛者。私はそれを蓮子と呼んでいる。ぶっちゃけ蓮子だから蓮子なのは当たり前なのだが、何となくそういうノリなので細かいことは気にしないでおく。
「はい?」
着物の裾を、砂で汚れないように押し当てて隠している。和を重んじる人は大変だ、と管理人さんの背後、蓮子の隣に移動しながら素人考えに浸る。
三人も入れば、もうこの墓は鮨詰め状態になる。右と左の燈籠に秘封倶楽部、墓碑の比較的大きな石段に管理人さんが腰掛けて――汚れを気にしたと思ったら、すぐにこれだ――、尋問の構図は一応の完成を見た。
「どうかなさいました?」
漆黒、というよりは濃い紫に近い瞳で、彼女は蓮子の黒瞳を見る。
凡人なら、話し掛けることさえ躊躇われるような佇まいにも、蓮子は本来の積極性を損なわない。流石だ。
「あの、こちらの管理人さん、でいいんですね?」
「はい。管理人とは言っても、時節の折に顔を見せるくらいなのですけど」
にこやかに告げて、管理人さんは段ボールに入っている線香の束に視線を落とす。
蓮子は、すぐさまその意図に気付いて、苔色の束とライターとを差し出す。が、管理人さんは線香の一本を引き抜いたのみだった。ライターの代わりに、袖の下から一箱のマッチを取り出していたから。
「ありがとうございます」
密やかに礼を言い、座り込んだまま、再び墓石と向かい合う。真っ白な首筋と、着物をまとっていても分かる細身の姿態は、艶かしさよりか、よっぽど死人の体躯を彷彿とさせた。
……そうだ。
この人は、花に似ているのか。
斜め後ろから窺えるのは、彼女が掌を合わせていることと、目を閉じていること、そしてやはり、何か私たちには分からないことを呟いている――その程度の、些細な墓参り。
「……つかぬことを、お聞きしますが」
神妙な言葉遣いで、なおも蓮子が問う。私も、隙あらば訊こうとは思っていた。だが、管理人さんには隙がない。隙というか、どうも接点が見当たらないのだ。全く現実的じゃない。服装にしても雰囲気にしてもそうだ。本当にここに座っていて、私たちと同じ空気を吸い、蜩の鳴き声を耳にしながら、ちゃんと話をしているかどうかさえ、曖昧に過ぎる。
――おかしい。
だが、私にはこのむず痒さを解き明かせない。
少なくとも、今の私には。
「はい」
こちらを背を向けたまま、彼女は答える。それを了解と受け取って、蓮子は管理人さんの本質に食い込んだ。私が駄目でも、蓮子ならあるいは、という他力本願な願望を抱いて。
「管理人さんは、このお墓の人の……」
「あぁ」
蓮子が言い終わる前に、というか蓮子も全てを言い切ることはしなかったが、ともあれ管理人さんが意を汲んでくれたからよしとする。
白い煙が、改めて空に昇っていく。一本だけの細い糸なのに、風に吹き消されることも、空の色に紛れることもなかった。それが、羨ましいと、私の幼い部分が弱音を吐く。
管理人さんの横顔は、悲しみに暮れるでも、寂しさに唇を噛むでもなく、綺麗なままの曲線を描いていた。
「ここに、古くからの友人が眠っているんですよ。あまり、しんみりするのは好きじゃない人なんですけど。一応、儀式だけはしておかないといけませんから」
くすり、と音もなく笑う。不思議と、この人には笑みがよく似合う。アルカイックスマイルなどという、珍しい単語が浮かんでしまった。曰く、神秘性とは不気味さと不確かさの化合物だという。成る程、彼女を見ていれば、それがおおよそ真実であることは簡単に分かる。
……だが。
気付け。
この女性は、明らかにおかしなことを言っている……。
「ちょっと待ってください」
蓮子が先か、私が先か。
横顔に蓮子の視線を感じているから、これはきっと私の台詞だ。切羽詰ったような、どうしてこんなに慌てているのか、自分にも分からない早口で。
「……何か、気になるところでも?」
「そうです。いえ、冗談なら冗談で構わないんですけど、なんで疑いもなく信じてしまいそうになったのか、よく分からないだけなんです」
「よくありますよね、そういうこと」
「そんなにはないです」
はっきりと拒絶して、とりあえず冗句を明らかにする。
何故、分からなかったのかは分からない。ただ、それが分かっただけでも上等だ。
曖昧なものは曖昧なままでも良いが、心の靄は晴らさねばならない。私は言う。
「この墓、見た感じ数百年も前に建ったものですよ。卒塔婆もないし、手入れも改装もしていない」
「そうですね」
悪びれる様子もなく、しれっと言ってのける。合わせた掌を離し、すっくと立ち上がり、こちらに振り返る。
それがあまりに自然で理想的な対応だったから、もしかして私の方が間違っているのではないかとさえ思う。が、そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
とはいえ、相手の真意が読めなかったことには違いない。
「すみません、変なところを穿り返してしまって」
「いえいえ、私も詰まらないことを言ってしまって、大人げなかったわ。本当、年は取りたくないものですね。周りのものがみな遠く見えてしまう」
「そんな……」
お若いですよと言ったところで、見た目ほど若くないことの証明にしかならない。私は口を噤んだ。
「そんなぁ、管理人さんもお若いですよー」
そんな私の配慮も虚しく、蓮子はいともあっさりと地雷を踏む。愛想笑いを浮かべる蓮子とは裏腹に、私の表情は歪に引き攣っていたように思う。鏡を見なくても分かるのだから、いやはや何とも不思議なものである。
管理人さんは、愛想笑いか嘲笑か、それても自嘲なのか知れないが、とにかく声もなく相好を崩して、
「どうも有り難う。でもね、私の本当の年を知ったら、きっとそんなこと言えなくなるわよ?」
とても楽しそうに、優しく棘を刺した。
それでも、はははと笑ってのける蓮子は大したものだと思う。私では、こうはいかない。
蓮子の脇腹を肘で突付いて牽制しても、別にいいじゃないと笑い飛ばすばかり。文字通り、話にもならない。
「蓮子……」
「いいんですよ、お嬢さん。物事を正直に言うのは、間違ったことではありませんわ」
「管理人さん……」
正直、と表現する辺り、管理人さんも負けていない。妙な女性二人に挟まれて、私は正直、オセロのように反転したい気持ちだった。
そうして、少しばかり時間は過ぎて。
笑いも収まり、蝉の鳴き声が頂点を過ぎた辺り。
管理人さんは、墓石と石碑、燈籠、地蔵を一瞥して、周囲に生え揃っている彼岸花に目を留めた。あれが咲き誇るのは、普通なら一ヵ月後の彼岸のはず。異常を異常として受け止めながら、私たちは特に気も留めなかった。何故ならば、ここがひとつの境界線だと知っているから。
だが、何も知らない人が見れば、どうしたっておかしいと思うだろう。
管理人さんも、その例外では――。
「あら」
「はい」
「綺麗な彼岸花ですねえ」
「……そ、そうですね」
ない、と言い切るのは少し躊躇われた。
私の反応を変に思ったのか、管理人さんは小首を傾げてこちらを見る。とんでもない美貌の持ち主なのに、時折幼児のような表情を浮かべるのだ。男性陣ならば、このギャップにくらっといく――こともなく、即座に目が眩むのではなかろうか。どうも、内面と外面の同期が取れていない印象がある。
しかし、よく出来た仮面を被っている訳でもあるまいし。意味のない勘繰りはよそう。
失礼なことを考える自分に嫌気が差し、吐いた溜息に覆い被せるようにして、管理人さんの声が届く。
「あなた……もしかして、彼岸花はお嫌い?」
「……どうしてですか?」
「そりゃ、メリーが彼岸花に一度も目を合わせないからじゃない」
蓮子が横槍を入れてくる。睨むように彼女を見ても、何の気もなしに指で百円ライターを回しているだけだ。確かに、紫と赤の不燃化合物のような花弁を、ただの一度でさえ視界に入れようとはしなかったが。
まさか、それが露見するなんてことがあるとは、誰が思うだろう。蓮子の場合、私が彼岸花嫌いだと知っているのだから、余計な推測を交えて説明する必要はないというのに。
この様子だと、管理人さんのよく分からない冗談も、すぐ気付けたに違いない。
何だろう。
一体、どういう目線で生きているのだろう。宇佐見蓮子という人間は。
星を見て、時が分かるというのは――一体、どんな意味を持つのだろう。
無粋な思考は、すぐに打ち止めとなった。
「失礼かもしれないけれど、その理由を教えてくださらないかしら。後学のために」
「はぁ……。でも、大したことじゃありませんよ」
気乗りせぬまま、すぅと息を吸う。あ、止められないな、という自覚はあった。
「いいですか。彼岸花は、紅くて、縁起が悪くて、毒性もあるし、墓場にいっぱい生えてるし、葉っぱがないし、しかも『彼岸花』って名前が気に食わないです。だってここ、この世ですよ?」
「そうよね、この世なのよね」
茶化すでもなく、誤魔化すでもなく。地団駄を踏む子どもを諭すように、丁寧に言葉を繰り返す。
人間、好きなことと嫌いなことには、普段は回らない口も回るものだ。どうやら、私は本当に彼岸花が嫌いらしい。あまりに激しくまくし立てたものだから、蓮子が露骨に嫌な顔をしていた。申し訳ないと思いながら、その主張をとめることは出来なかった。
「偉い方の花か何か知りませんが、咲く場所は選んでもらわないと困ります。道路の路肩にだーっと咲き乱れてたら、行き着く先は天国か地獄かみたいな話になるじゃないですか。田んぼの畦道に植えるのだって、ネズミだのモグラなんかよりも人間の心証を良くするべきなんです。そう思いませんか? 思いますよね!?」
「そうかもしれませんねえ。いやはや、参考になりますわ」
ぱちぱちと、力のこもっていない拍手を受ける。それに続いて、隣の友人も適当に手を叩いていた。友達甲斐のない奴である。
「……あ、すみません……。一人で盛り上がってしまって……」
「構いませんよ。どう取り繕ったところで、あなたの気を変えることは出来ませんし。傷付くのは、私ではなくて彼岸花でしょうから」
形の良い赤紫の唇を袖で隠しながら、意地悪く笑う。
だが、不快ではない。むしろ、言いたいことが言えて晴れ晴れとしている。これで、全ての彼岸花が悲観のうちに没してくれたら最高なのだが、ここに生えている輩は揃いも揃って神経が図太い連中のようである。ちょうど墓石もあるというのに、何故死に急がないのか、この花々は。
少々の怒りを推進力に、管理人さんの後押しもあって、ずっと逸らしていた視線を正常なものに戻す。
そこで初めて、私は彼岸花と正面から向き合った。
『死ね』
「――」
呼吸が停止する。
意識があるのが信じられなかった。
思い込みだろうとも、私は確かに死んでいたのだ。
私にとっての死の象徴は、今もまだ、抜き身の刃をこの喉に突き付けている。
「――ッはぁ、ふ……ん」
「メリー。落ち着いた?」
「……うん。ごめん」
「あまり、ご無理はなさらない方がよろしいかとは思います」
「すみません、人様の前なのに……」
「誰にだって、向き合いたくないもののひとつは御座います」
そう励まして、彼女は墓石に刻まれた戒名を見る。
今ではもう、誰が眠っているのかさえ分からない。
いつか、私もそうなる時が来る。煙となって空を舞い、足元を見て大事な人々を想い、そして、紅く咲き誇る花弁を見て、ああ、私も足首を捻じ切られるのかと――。
「メリー」
ふと、背中に掛かる手を感じる。冷たい汗が、掌の体温に溶けていく。
しばらく、背中を擦ってもらった。嬉しかった。支えてくれる人がいるのは、素敵なことである。
ようやく、私が平静を取り戻した頃、管理人さんは近くの彼岸花に触れていた。また面倒なことになるとまずいから、管理人さんの腰に焦点を合わせる。そこからは、蓮子が解読しようとした文字が見えるはずだ。
「でも、出来るなら好きになってもらいたく思います。この花のことを」
「……出来るでしょうか」
「さあ、それはあなた次第ですね」
残酷な宣告をしておいて、すぐにまた慈悲深く微笑んでみせる。
この女性は、実によく笑う。意味もなく、理由もなく、私が笑えば全てが丸く収まるとでも言うように。そのせいで、彼女の本質が見え辛くなっているのも、意図的なものなのだろう。
管理人さんは、墓石の裏をそっと指でなぞる。
「私に出来るのは、ヒントを与えることくらいです」
「……ヒント?」
「そうね。こう考えると素敵なんじゃないかしら。
あの彼岸花、何となく手を振っているように見えない?」
ぐしゃぐしゃと、溢れる涙を拭っていた子どもはもういない。
改めて墓石の前に立っても、ああ、ここにあの人が眠っているんだな、というふうにしか感じられなくなった。
それを、恥ずかしいとも悲しいとも思わなくなった。
私は、彼岸花が嫌いなのではなくて。
ただ単に、死ぬのが嫌なだけだった。
管理人さんは、一頻り墓石を撫でた後、満足そうに霊園から立ち去って行った。
風のようだった。それも、嵐ではなく凪を彷彿とさせるような。同じ場所に留まっている風は、腐りも淀みもせず、ただ悠然と流れる。
凪がやんで、昼時も過ぎて。
体温調節による発汗も、嫌な時に出る冷や汗も一通り味わって、線香も途切れ、ライターの油も残り少なくなり、段ボールも折り畳める程度にまでまとまって。
「……ふう……」
「もう、終わりでいいと思うけどー」
空腹はそれほど厳しくない。その理由は、ビールやコーヒー、緑茶や紅茶、饅頭と団子、煎餅と水羊羹にあった。つくづく、死人は損だと思う。食べることが出来ないというのは、案外辛く厳しいものだ。
ゴミ箱代わりの段ボールを圧縮還元し、缶の類は余った袋の中に。移動中にアルコールが何らかの科学反応を仕出かしそうな気配も感じられるが、そこは大らかな心で見逃すことにする。
それよりも、蓮子の頬が無駄に紅潮していることの方が気になる。
「うーん、仕事も終わって幸せ幸せー。あははは」
酔っている。これはもう確定的に酔っ払っている。酔ってないと言おうが、酔っていると認めようが確実に酔っている。私も何だか酔っている気がするから、おそらくは間違いない。ちなみに私は一滴たりとも飲んではいない。アルコール類は苦手だし、酔った蓮子を介護せねばならないからだ。
いきなり鬱になった。
「蓮子……。もしかして、酔ってないわよね……?」
「当たり前じゃない」
不安だった。特に、お地蔵さんに話し掛けているところが不安極まりなかった。
と、蓮子はいきなりくるりと反転し、ポケットから携帯電話を取り出し、私の肩をぐいと引き寄せた。あまりに突然だったので、足がもつれた私はつい燈籠にしがみ付いてしまった。その途端、ごりっという、何かが外れるような音が聞こえた気もするが、元気の良い蝉の嬌声に掻き消されて何も聞こえなかった。故に、私は何も聞いていないのである。うん。
私は燈籠を元に戻して、肩にタックルを仕掛けてきた蓮子を睨む。彼女は、私の胸に顔を埋めながら、ふるふると震える手で携帯電話の画面を晒している。
「蓮子、あんたはどうしたいの……?」
「写真……。撮る」
「写真? ……ああ、このお墓を?」
こくこくと頷いているのはいいが、顔を伏せたままだと気分が悪くなりはしないか。ついでに言えば、蓮子の顔が私の胸元にあるという現実は、蓮子が酔っているという事実を差し引いても、主に私が不利益を被りやすい隊形ではなかろうか。
正直に言うなら、吐いたら殴る。
そうならないことを切に祈るばかりである。というか真昼間から酔うな馬鹿。
支えられた分は支えなくちゃならないとは思うが、それでも線は引かなきゃならない。善悪ではなく、やって許されることとそうでないことの境界線くらいは。
「でも、一度は明かした境界だし……。それに、紫の線も見えないわよ。あっち側の」
「じゃなくて、記念。記念」
「何の記念よ」
「凱旋帰国」
幽鬼のように起き上がり、片方の燈籠を背に私を誘導する。蓮子が指示するには、墓石の前に立て、ということらしい。私は、勿体ぶって腕を組んだり組み直したりしながら、
「お断りします」
「正直者めー!」
正直に、嫌なものは嫌だと言った。
結局、不貞腐れた蓮子は勝手に墓地の写真を取りまくっていた。何が楽しいかはよく分からないが、何か楽しいらしい。酔っ払いというか、そもそも蓮子の考えることはよく分からない。
そんなものだろう、と、今のところは思っておく。
太陽が頂点に達しているように見え、木漏れ日がいくつかの墓石をまだらに染め上げている。無粋なデジタルのシャッター音が鳴り響き、勘違いしたセミたちが、馬鹿みたいに大騒ぎしているようで。
何だかとても、やかましかった。
後日。
お盆の墓参りも、帰路で蓮子が段ボール芸に目覚めたこと以外は特に問題なく終わり、私は部屋の中でうんうん唸っていた。かといって、ご飯がどうこう女性的な一面がどうこう父親はどうこう言う問題ではなく、ただ単に論文が出来上がっていないから頭を痛めているだけに過ぎない。
だけに過ぎないのだが、その過ぎないのが問題なのであった。
一文字も進まないまま無情にも時は過ぎ去り、午前から午後へ華麗なる転身を見せるか否かというタイミングで、宇佐見蓮子の素敵な電話が掛かってきた。一も二もなく通話ボタンを押す。三度くらい押す。
「はいもしもし、わたしメリー」
『あなたの後ろにいるわ』
「あなたはメリーさんじゃなくて宇佐見蓮子でしょうが」
『うるさい金髪』
金髪扱いだった。事実だから何とも言えないけど。
他愛もない遣り取りで気が解れたので、私は真っ白な画面から目を離して仰向けに寝そべった。あまり拭いていない窓ガラスの向こうに、どこの建物とも知れないくすんだ壁が見える。
『それはそうと。メリーさぁ、今は大丈夫?』
「本音を言えば、あまり大丈夫ではありません」
『建前を言えば?』
「そもそも意味がありません」
『じゃあ、今からそっち行くわね』
聞いちゃなかった。
まあいいだろう、気分転換はいくらやっても気持ちが良い。問題は、気分転換が主軸になってしまいかねないということだが。
蓮子は、相変わらずの強引さで約束を取り交わし、続けざまに訪問の意図を語り出した。
『あのね、この前の墓参り覚えてる?』
「蓮子は後半覚えてなさそうだけどね」
『まあそれは一種の記憶障害だからおいといて、帰り際に写真を撮ったのよ。携帯で』
「撮ったわね」
『あわよくば、心霊写真でも撮れないかなぁという向上心のなせる業だったのですが』
「嫌な業ね」
『メリー、八月は季節で言うと何に値するかしら』
一瞬考えそうになって、すぐに馬鹿にしているのだと気付く。蓮子の声が真剣だと知りながら、そうとしか思えないと信じ込む。
今日も暑い。真夏日とはいかないまでも、家の中なら素っ裸になってしまいそうなくらいに。
季節は夏だ。
蝉の音が、まだ耳の中に残っている。……ああ、これは、壁に張り付いた蝉が鳴いているのか――。
「今は夏よ、蓮子。間違いないわ」
『そうよねえ。だったら、どうして。
彼岸花じゃなくて、桜が咲いているのかしら』
最後に、管理人さんは言った。
私が訊きたかったことに、ちゃんと答えてくれた。
「あぁ、あれはね。
頑張って、幽霊とお話をしていたのよ」
そう、にこやかに微笑んで、私たちの前から姿を消した。
あれ以来、管理人さんと連絡が取れたことは、一度もない。
そして終わりのほうでそれがひと段落ついたあと、
>彼岸花じゃなくて、桜が咲いているのかしら
で、ぞわっと来ました。もう本当に、総毛立ちましたよ。
今は冬ですが、それを忘れさせる空気でした。
冬だって怖いものは怖いですね。
夢と現と幻の境界の物語、堪能させて貰いました(礼
それこそ幽明の境にいつの間にか入り込んでいたような・・・
身体的な寒さに加えて、心のほうも寒気を感じました。お見事です。
ぞくっ、とくるようなお話。
しっかりと読んだのが8月と言うのは、お話の中の季節と合う事もあって、ある意味運が良かったかもしれません。